読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

万年筆

2018-09-15 21:04:50 | 日々雑感
私、文房具が好きです。
文房具店で、時間をつぶすの好きです。

サライ 2018年10月号です。



右上に「若冲万年筆」が特別付録となっています。
これダメです。すぐ買ってしまうのです。

『万年筆好き』で『付録好き」なので・・・



これらは、全て付録の万年筆です。
左から3本目が、今回の「若冲万年筆」

これらの万年筆で、何を書くか?
書くものがないんです。

一応、インクを入れ書いてみます。
こう言うのもなんなのですが「書き心地」という面では、とびぬけていいものではないのが多いです。
長い時間、長い文章、では「ちょっとなあ」という感じですかね。

そこそこ使っているのは「ゴッホのひまわり」のやつですかね。「若冲万年筆」の右の青いやつ。

私の若いころは、仕事で作成する書類は「手書き」でしたから、筆記用具は大切なものでした。
といっても、多くの人は職場のボールペンをつかってました。

でも、わたし、ボールペンはイヤでしたね。

5枚複写の会計伝票以外は、デスクペンを使用していました。
今でも売っています、デスクペン。かっこよかったですよね。

ペンで書くと、間違ったときは「砂消しゴム」で消さなければならないので、一字一字真剣に書いていました。
当時、カッターナイフというのも出てきて、最初にカッターナイフで削って、次に砂消しゴム、最後に普通の消しゴムで仕上げ。
という作業をしてましたので、修正液、が出てきたときは助かりました。でも、間違ってもまあ大丈夫というのは、真剣味が薄れます。

そのうち、コピー機が「湿式の青焼き」から「乾式の白焼き」が登場(導入)してきて、原稿は鉛筆(シャープペンシル)で、清書は複写機ということになり、デスクペンの出番も減ってきました。
でも複写機も、最初のうちは、使用制限があって、今では信じられないでしょうが、課長の許可(印)をもらって複写していたのですよ。
だから、何回も間違ってはいられない。
だから、ちゃんと文書の推敲、校正して、辞書は必需品でした。

続いて、ワープロが文書作成の主流になってきます。
当初はドットが荒くて、会議の前に「本日の資料はワープロで作成しました」みたいな「ことわり」が必要でした。
だからワープロの文書は「公文書」と認められるまでわりと時間を要したのです。
それに、ワープロは「感熱紙」でしたので複写して「消えない」ものとすることが必要でした。

で、いよいよ筆記具は不要になってきたのです。

でも、イイ万年筆、欲しかった!




こちらは、お金を出して購入したもの。

一番右が最も古いもの。細字だったので、カリカリという感じでした。
カリカリ感は、いい時と悪い時があって、どちらかといえば悪い時のほうが多かったスね。




で、20年くらい前ですから40代前半に、サラサラと書けるものが欲しくて、左のプラチナ・プレジデント(中字)を購入。
仕事では使いませんでしたが、今でも結構使っています。用途は、何か考える、案をつくる、時の下書き用ですかね。

その右は、プラチナ・センチュリー富士五湖シリーズの河口(中字)。
退職記念に後輩たちから頂いたもの。(万年筆にします、といわれたとき、ものすごく嬉しかったです)
ブルーブラックのインクで使用している。

ほとんどこの2本で用が足りているのに、昨年また2本購入してしまった。



パイロットのキャップレス(ノック式)です。
黒がキャップレスマッドブラック(FC-18SR-BM)中字。
仕事で打ち合わせの時にシステムノート用で使おうと・・・、カッコイイ・・・と思った。
でも、かっこよすぎて、恥ずかしい。のと、中字はメモ用ということにはならないし、吸い取り紙必要だし。

というわけで、ブルーのキャップレスデシモ(FCT-15SR-LB)細字、を購入。
カリカリ感がいいです。

この2本はお出かけの際に携行することにしています。

でも、なぜか、メモはフリクションの4色を使うことが多いです。(笑)

そして、スマホのメモ機能(ギャラクシーノートなのでSペン)を使ったりしているので、いよいよ、なんのために買ったのか?!ということになっています。(苦笑)

特に「💡!」(閃いた)ときは、スマホ(メモとか音声)という手が近頃は出てきたので、メモ帳持ち歩かないし・・・

脱線しますが、💡が頭にパッとついたモノは、そのままではあまりいいものにはなりませんね。
そのあとに何回も何回も頭の中で整理していけるものが、モノ、になります。
そんなものなんでしょうねえ。
でも💡は必要です・・・ついたと思ったらすぐ消えてしまうのがこの頃の私ですけど・・・(嘲笑)


でもしかし(否定の2重化は肯定なのか、否定の強調なのか)

やっぱり、万年筆はいいスよ。
持っただけで、何か書こう!という気持ちになりますね。

「思索にふける」ときは、万年筆、です。
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ツバキ文具店 小川糸 幻冬舎文庫 withツバキ文具店の鎌倉案内

2018-09-13 11:35:33 | 読んだ


テレビで観た。
主人公のポッポちゃんは多部未華子だ。
鎌倉が舞台であることが見ようと思ったきっかけだ。

鎌倉については昔から気になっていた。
19歳の正月、鶴岡八幡宮でおみくじを引いたら「大凶」だった。こんなのあるかぁ!って思った。
それ以降、訪ねることはなかった。

それが、59歳(つまり40年を経て)になって、一人で北鎌倉駅から鶴岡八幡宮まで歩いた。目当ては「紫陽花」だったが、少し遅かったようだった。でも、鎌倉良かった。
それから次の年も紫陽花を観るためでかけた。

最近の鎌倉を舞台にした物語では「海街diary」を観た、「DESTINY 鎌倉ものがたり」の映画を観た。そして、ツバキ文具店だ。私にとっての鎌倉三部作だ。
そしてこの鎌倉三部作は、映像を見た後、原作を読んでいる。(海街diaryと鎌倉ものがたりは漫画である)私にとっては珍しいことだ。

従って、今回この本を読んだのは、テレビで観たからなのである。本年8月に文庫化されたので、待ちに待った、というカンジである。
それでもって、読むのと並行してNHKオンデマンドで映像も見ている。
で、だいぶ原作と映像は違っている。
感想としては、どちらもOKだ。映像も許す!

さて、本書は4章からなっている。「夏」「秋」「冬」「春」である。
いずれも『鎌倉の・・・』である。

主人公のポッポちゃん(雨宮鳩子)は、母を知らない。祖母に厳しく育てられた。『おばあさん』と呼んだこともない。
高校生で、反抗しガングロになり、祖母離れをする。高校卒業後、家を出て暮らし、祖母が亡くなって帰ってきた。

そして成り行き上「ツバキ文具店」を継ぎ、祖母が行っていた「代書屋」も継ぐこととなった。

この物語の面白さは3つある。

一つは「代書」
全部で9つの代書が依頼されるが、一つは断る。
理由は、代書すべき案件でなかったからだ。

「私は確かに代書屋です。頼まれれば、なんだって書く仕事をしてますよ。でも、それは困っている人を助けるためです。その人が、幸せになってほしいからです。でもあなたは、ただ甘えているだけじゃないですか。ちゃんと正面から相手と向き合ったんですか?今どき代書屋なんて時代遅れな商売ですけれどね、なめてもらっちゃ困りますよ。そうやって、今までは生きてこられたかもしれませんけど、世の中はそんなに甘くないんです!そんなの、自分で書きなさいよねっ」(★p124)

ポッポちゃんの代書にかける「思い」である。

残りの8つの代書。初めての代書は「犬がなくなった飼い主へのお悔み状」それから「離婚のお知らせ」「昔の彼女へ単に無事を伝える手紙」「借金の断り状」「絶縁状」或いは「すでに死んだ夫から認知症の妻へのラブレター」などなど。
まあ、一風変わった、手紙である。

そしてポッポちゃんは、使う筆記具、紙、そして封筒、切手まで、こだわる。
この「こだわり」は、一般常識、作法、思いやりなどなど。
これだけでも読む価値あり。

次は、祖母(ポッポちゃんは先代と呼ぶ)との確執を思い出しながら、祖母に近づいていくところである。祖母に近づくことは自分を探す旅でもある。この内省的な旅も読みごたえがある。
代書でのこだわりは、つまり祖母のこだわりでもあり、代書するということは祖母を認めていくということでもある。

3つ目は「鎌倉」が良くかけていること。鎌倉を知らない私が「良くかけている」というのもナンなのだが、鎌倉が身近に感じる。
それはポッポちゃんの友だち、バーバラ婦人、男爵、パンティー、QPちゃん、QPちゃんの父のモリカゲさん、などの登場人物たちに負うことも大きい。

また、鎌倉に行ってみようと思う。もしかしたら、街角で、ポッポちゃんやバーバラ夫人、或いは海街diaryの4姉妹、更には物の怪に遭えるかもしれない。
そのときには『ツバキ文具店の鎌倉案内』が役に立つ。



「春」の章の最後で、ポッポちゃんは先代に手紙を書く。
これが涙なしでは読めない。

ちなみに、続編の「キラキラ共和国」が出版されている。
文庫まで待つか、悩んでいる。
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From T 吉田拓郎

2018-09-10 21:47:14 | 観た、聴いた


吉田拓郎の新しいアルバムである。

ウィキペディアによれば

拓郎が自ら厳選した、日常や就寝前に聴いているという自らのプレイリスト27曲からなる「思い入れのある作品」「もう一度聴いて欲しい歌」など、拓郎が愛した曲ばかりを収録

しているとのこと。


Disc01には14曲
Disc02には13曲



で、合計27曲。中には聴いたことのない曲もある。

そして、Disc03は特別付録で「Tからの贈り物」未発表のデモテープ全15曲が収められている。
ここにも聴いたことのない曲がある。



私は、中学3年生の時に吉田拓郎を聴いて以来のファンである。
今に至るまで、途中、聴かなくなった時期があるため、知らない曲もある。

言い訳させてもらえば、我々が若いころに聞いた歌が、というか、歌手やミュージシャンたちは消えていくものだと思っていたし、自分自身も若いころの歌など捨ててしまうだろう、と思っていたからである。

ところが、いつまでたっても、消えないではないか。
吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫(南こうせつ、伊勢正三)・・・・

そして自分自身も歌い続けている。

我々が20代、30代に見ていた「年寄り」の年代になったが、全然違う「年寄り」になっている。
近頃は、そんなことを思っている。

そして、吉田拓郎が、新しいアルバムを出した。

『ふりかえろうか』と言っているような気がする。

今回のアルバムには

拓郎自ら書き下ろした全曲の楽曲解説『必読!書き下ろしライナーノーツ』

が、入っている。
まだ、曲は全部聴いていないが、ライナーノーツは読んだ。

拓郎は、作詞もする、作曲もする、歌う、演奏する。

本当に「音楽」が好きなのだなあ、と改めて思った。
そして「音楽」によって、自らを表現している。

ライナーノーツをくくりながら、ゆっくりアルバムを聴いてみよう。

そして、私はどうやって自分を表現したらいいのか、還暦を超えてしまったが、考えてみたい。
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美貌のひと 中野京子 PHP新書

2018-09-06 14:59:09 | 読んだ


近頃は、中野京子さんの本を見ると購入意欲が非常に高まる。

「絵画」というものの見方について、中野さんの著書で大いに勉強させてもらった。
(その勉強が身についているかどうかは別として)


「絵」を読む。ということを知らなかった。
「絵」は鑑賞=見る、ものだと思っていたのだが・・・

絵の中には物語がある。
物語を絵にしている。

題材を作者が自分なりに解釈し表現しているものが「絵画」(大きく言えば芸術)なのだ、ということを教えていただいたのである。

目に見えるものを絵にするというのは、ド・ド・ド素人のすることらしい。

私は、想像するのは好きだが、想像を具現化するのは不得意であるからして、そういうことを一回も考えたことがなかったのである。

もともと意味や物語のある絵画作品は、その意味や物語を知った上で鑑賞するのが作品や画家に対するリスペクトではないか(オペラを観て、ストーリーなどどうでもいい、演奏のうまい下手だけが大事、などという観客がどこにいるだろう?)。絵は自分の感性でのみ見ればよい、知識は不要、という日本の美術教育は誤りではないのか・・・・(p55)


多くの主題を多くの人々が描いている。
その表現の方法は、その人、その時代を表している。
つまり「絵画」はその人の解釈でもある。

というようなことを、説明されると非常に面白い。

近頃、よく美術館に行くのは、本に掲載されているもの、或いはネットで検索したもの、だけではわからないものを感じに行くのである。
音楽も、あまりうまくないけれど「ライブ」が感動するように、やっぱり現物を見ないと感動しないところがある。

本書「美貌のひと」は『歴史に名を刻んだ顔』が紹介されている。

第1章 古典のなかの美しいひと
第2章 憧れの貴人たち
第3章 才能と容姿に恵まれた芸術家
第4章 創作意欲をかきたてたミューズ

となっており、23の顔40の作品が紹介されている。

表紙の絵は「忘れえぬ女(ひと)」イワン・クラムスコイで、『北方のモナリザ』ともいわれるものだそうである。
モデルとしてあげられているのは、トルストイの「アンナ・カレーニナ」ではないかといわれている。
しかし、アンナ・カレーニナは現実の女性ではなく、フィクションの人なのである。

こういった、いわば「謎解き」が本書或いは中野京子さんの著書にはあふれている。

それにしても、中野さんの著書には名言がいっぱいである。
本書から何篇か紹介しておこう。(美貌にフィーチャーした)

美貌は確かにチャンスを引き寄せるが、それを活かせるかどうかのその先には、意志と知力と官能が必要だ。それらすべてを備えた女性に、太刀打ちできる男などいない。(p15)


繰り返すが、名画は伝説を生む。(p39)


美貌だから愛されて当然というのは思い込みにすぎない。恵まれた容姿は誰に対しても眼福を与え、多くの視線を集めるが、それだけだ。愛や恋はその先にある。美貌はチャンスを増やしても成功を約束しない。(P75)


我々の心のどこかに、美貌それ自体が驚異であるからには、人生もまたそれに釣り合う非凡さであって欲しいとの、奇妙な期待がある。しかし必ずしも現実がそうとは限らない。


まだまだあるが、おしまい。
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