雑誌や新聞などの書評欄で取り上げられていたので、期待を持って読み始めたのである。
そうしたらこれ「週刊新潮」の連載ものなのである。それで今も継続中らしい。
週刊新潮はあまり読まないのでわからなかったし、もし読んでいても連載ものはあまり読む気がしないので・・・
というわけで、この幕末バトル・ロワイヤル、水野忠邦が主になっている。
で、まあ、週刊誌連載なのであっちこっちに話題が移っていくのは仕方ないとして、なんだか「芯」がないような気がしたのである。
バトル・ロワイヤル、というから、もっとすごいのかと期待していたが、なんだか「歴史のわき道こんなこともあった」というカンジなのである。
登場人物もなんだか小物っぽいし、それほどすごい陰謀があったというわけでもないし・・・
まあ、ちょっとした薀蓄を得たと思っているのである。
というわけで、とりあえずは全部読んだのである。
つまり題名が過激すぎただけで、内容としてはわりと真っ当なのである。
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そうしたらこれ「週刊新潮」の連載ものなのである。それで今も継続中らしい。
週刊新潮はあまり読まないのでわからなかったし、もし読んでいても連載ものはあまり読む気がしないので・・・
というわけで、この幕末バトル・ロワイヤル、水野忠邦が主になっている。
で、まあ、週刊誌連載なのであっちこっちに話題が移っていくのは仕方ないとして、なんだか「芯」がないような気がしたのである。
バトル・ロワイヤル、というから、もっとすごいのかと期待していたが、なんだか「歴史のわき道こんなこともあった」というカンジなのである。
登場人物もなんだか小物っぽいし、それほどすごい陰謀があったというわけでもないし・・・
まあ、ちょっとした薀蓄を得たと思っているのである。
というわけで、とりあえずは全部読んだのである。
つまり題名が過激すぎただけで、内容としてはわりと真っ当なのである。
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ようやく最終巻を読み終えた。
これで何回目だろうか?
何回読んでも新鮮である。
さて、第6巻は唐の末期(晩唐)から5代10国の時代を経て、宋の建国そして元によって宋が滅ぼされるところまでである。
そして、これが十八史略の終了なのである。
中国の歴史の中で、長い王朝を始めた人は本当に魅力的である。リーダーとしてふさわしいと思える「暖かさ」と「冷たさ」がうまい具合に同居している。
<漢>の劉邦
<唐>の李世民
<宋>の趙匡胤
また、中国史の代表的英傑としてはこの3人のほかに
<秦>始皇帝
<漢>武帝
<元>成吉思汗
が挙げられている。
これらの中から一人を選べといわれたら、著者はためらわず<宋>の趙匡胤を選ぶという。
それは、彼は軍人出身であったがその王朝は「文治主義」を貫くことを基本としたからである。
宋王朝には皇帝しか見ることのできない、遺訓、があった。
「石刻遺訓」と呼ばれるもので、石に刻んであるのだそうだ。
◎宋に国を譲った「後周」の王室柴(さい)氏を、子々孫々にわたって面倒を見ること
◎士大夫を言論を理由として殺してはならないこと
の二つである。
宋の代々の皇帝はこれを遵守した。
遵守したことで、宋王朝は長く続いた。
しかし「訓」あるいは「法」でもよいのだが、これらは環境に合わせて変化していくことが必要である。
変化しないと、その組織は滅ぶのである。
というか、どんなに立派な「法=取り決めごと」を決めたとしても、それは必ず陳腐化するのである。
たぶんそれは、立派ということがそのときの環境に対してであり、立派なことに慣れるとそれは立派にならないんだと思う。
では、その時々の環境に合わせて最も立派な「取り決めごと」を決めていけばいいのではないか?と思うのだが「立派な取り決めごと」を定め従わせる<人>がいつもいつの時代にもいないのである。
その辺の兼ね合いが非常に難しいと思うのである。
この本には、魅力的な人も多いが、実は反面教師となるような人物のほうが多く登場する。
それを見ていると「欲」が前面に出てくると人はダメになりそうである。
「欲」というのは満たされるとまた膨らむものらしい。
だから、反面教師となるような人物にも「欲」を満たしていこうとしているときは一時的な輝きがある。
その輝きに惑わされる人がいる。
社会あるいは世の中というものは、矛盾と理不尽にあふれているものである。
それゆえに、運命とか宿命として受けとめて納得しなければ前に進めないものである。
そんなことを考えさせられる「小説十八史略」である。
そしてその時々で面白いと思うところや感慨にふけるところが違う。
それは、こちらの環境が変化しているからなのだと思う。
だから、本というのは再読すべきものなのだと思うのである。
これで何回目だろうか?
何回読んでも新鮮である。
さて、第6巻は唐の末期(晩唐)から5代10国の時代を経て、宋の建国そして元によって宋が滅ぼされるところまでである。
そして、これが十八史略の終了なのである。
中国の歴史の中で、長い王朝を始めた人は本当に魅力的である。リーダーとしてふさわしいと思える「暖かさ」と「冷たさ」がうまい具合に同居している。
<漢>の劉邦
<唐>の李世民
<宋>の趙匡胤
また、中国史の代表的英傑としてはこの3人のほかに
<秦>始皇帝
<漢>武帝
<元>成吉思汗
が挙げられている。
これらの中から一人を選べといわれたら、著者はためらわず<宋>の趙匡胤を選ぶという。
それは、彼は軍人出身であったがその王朝は「文治主義」を貫くことを基本としたからである。
宋王朝には皇帝しか見ることのできない、遺訓、があった。
「石刻遺訓」と呼ばれるもので、石に刻んであるのだそうだ。
◎宋に国を譲った「後周」の王室柴(さい)氏を、子々孫々にわたって面倒を見ること
◎士大夫を言論を理由として殺してはならないこと
の二つである。
宋の代々の皇帝はこれを遵守した。
遵守したことで、宋王朝は長く続いた。
しかし「訓」あるいは「法」でもよいのだが、これらは環境に合わせて変化していくことが必要である。
変化しないと、その組織は滅ぶのである。
というか、どんなに立派な「法=取り決めごと」を決めたとしても、それは必ず陳腐化するのである。
たぶんそれは、立派ということがそのときの環境に対してであり、立派なことに慣れるとそれは立派にならないんだと思う。
では、その時々の環境に合わせて最も立派な「取り決めごと」を決めていけばいいのではないか?と思うのだが「立派な取り決めごと」を定め従わせる<人>がいつもいつの時代にもいないのである。
その辺の兼ね合いが非常に難しいと思うのである。
この本には、魅力的な人も多いが、実は反面教師となるような人物のほうが多く登場する。
それを見ていると「欲」が前面に出てくると人はダメになりそうである。
「欲」というのは満たされるとまた膨らむものらしい。
だから、反面教師となるような人物にも「欲」を満たしていこうとしているときは一時的な輝きがある。
その輝きに惑わされる人がいる。
社会あるいは世の中というものは、矛盾と理不尽にあふれているものである。
それゆえに、運命とか宿命として受けとめて納得しなければ前に進めないものである。
そんなことを考えさせられる「小説十八史略」である。
そしてその時々で面白いと思うところや感慨にふけるところが違う。
それは、こちらの環境が変化しているからなのだと思う。
だから、本というのは再読すべきものなのだと思うのである。
1.東へ西へ/井上陽水 1972年12月
井上陽水の歌の詩は、なんだかわからない、というものが多いが、この歌もなんだかよくわからない、よくわからないが、調子がいい。
出だし
♪昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういうわけだ♪
なんて、人生幸路が聴いたら怒られてしまうようである。(人生幸路なんてもうわかる人が少ないよなあ)
ともかく前奏から続く「Am-E7-Am Am-E7-Am G Am-E7-Am」というのが気持ちいい。
そしてこのコード進行とおなじラストの
♪ガンバレ みんな ガンバレ♪
というところがすごく印象的なのである。
2.わたしが望むのは/中山ラビ 1972年12月
久しぶりに、中山ラビの声を聞いた。
20代の前半、中山ラビを聞いていた時期があった。
好きな歌手とかは?なんて尋ねられ「中山ラビ」などと答えて「誰!それ?」というような反応を楽しんでいた、ヤラシイ時期があったことを思い出した。
私が聴いていたアルバムは「ラビ・女です」と「なかのあなた」の2枚であって、今回の「わたしが望むのは」ははじめて聞いた。
憂鬱というのか投げやりというのか、気力のなさそうな、アンニュイな、そんなところがなんとなく気に入っていたのかもしれない。
青春のうた第34巻にして、最も「青春」を思い出させてくれた歌声であった。
3.恋の歌/ラニアルズ 1973年5月
吉田拓郎の作詞・作曲で、拓郎のアルバムにもある。
最初に聞いたのが、ギターの弾き語りによるものだったので、このようなカンジ出聴くとなんとなく違和感がある。
どこかで読んだのだかラジオかなんかできたのか定かではないが「たどり着いたら雨降りや恋の歌のように、誰かに提供したときの拓郎の曲はポップ感のあるものになり、拓郎の内部にはポップ感も十分に多い」みたいなのがあった、ことを突如として思い出した。
♪熱い熱い涙が 君のほほをぬらして
僕のくちびるに ひとしずく落ちてきた♪
というような体験をしたいと思っていたなあ、と、また突如として思い出した。
4.ふたりだけの旅/はしだのりひことクライマックス 1971年5月発表
クライマックスは好きだった。
花嫁やこの曲、それから曲名が思い出せないのだがなかなかいいと思ったものがあった。
クライマックスでザンネンだなあと思うのははしだのりひこが歌わないで、ボーカルの藤沢エミにずっと歌わせればいいのに、というところである。
サ行の発音にちょっと特徴があって、しっかりしたというかどっしりしたというか、そういう歌声がしびれてもいたのである。
5.ご案内/ウイッシュ 1972年9月
そういえば、こんなグループがいたなあ、と思い出した。
この曲の出だし
♪今日、お葬式をします♪
というのが、この歌の唯一最大の特徴であった。
今回も、さて、この歌はどう続くんだろうか?と首をひねってしまった。
つまり「出だし」の部分しか良く覚えていなかったのである。
さわやかに「お葬式」といわれてもなあ、と当時思っていたのであった。
6.琵琶湖周航の歌/加藤登紀子 1971年5月
何故この歌を歌っているんだろう?
というのが、当時の大きな印象であった。
この歌で何を伝えたいのか、よくわからなかったのである。
大正時代の第三高等学校ボート部の歌、はいい歌だけれど、東北のアタシはどういう感慨を持ってうたえばいいのか、よくわからなかったのだが。
しかし、東北の一青年がそんなことを思っていたって、世間ではこの歌はよく流れ歌われていたのである。
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井上陽水の歌の詩は、なんだかわからない、というものが多いが、この歌もなんだかよくわからない、よくわからないが、調子がいい。
出だし
♪昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういうわけだ♪
なんて、人生幸路が聴いたら怒られてしまうようである。(人生幸路なんてもうわかる人が少ないよなあ)
ともかく前奏から続く「Am-E7-Am Am-E7-Am G Am-E7-Am」というのが気持ちいい。
そしてこのコード進行とおなじラストの
♪ガンバレ みんな ガンバレ♪
というところがすごく印象的なのである。
2.わたしが望むのは/中山ラビ 1972年12月
久しぶりに、中山ラビの声を聞いた。
20代の前半、中山ラビを聞いていた時期があった。
好きな歌手とかは?なんて尋ねられ「中山ラビ」などと答えて「誰!それ?」というような反応を楽しんでいた、ヤラシイ時期があったことを思い出した。
私が聴いていたアルバムは「ラビ・女です」と「なかのあなた」の2枚であって、今回の「わたしが望むのは」ははじめて聞いた。
憂鬱というのか投げやりというのか、気力のなさそうな、アンニュイな、そんなところがなんとなく気に入っていたのかもしれない。
青春のうた第34巻にして、最も「青春」を思い出させてくれた歌声であった。
3.恋の歌/ラニアルズ 1973年5月
吉田拓郎の作詞・作曲で、拓郎のアルバムにもある。
最初に聞いたのが、ギターの弾き語りによるものだったので、このようなカンジ出聴くとなんとなく違和感がある。
どこかで読んだのだかラジオかなんかできたのか定かではないが「たどり着いたら雨降りや恋の歌のように、誰かに提供したときの拓郎の曲はポップ感のあるものになり、拓郎の内部にはポップ感も十分に多い」みたいなのがあった、ことを突如として思い出した。
♪熱い熱い涙が 君のほほをぬらして
僕のくちびるに ひとしずく落ちてきた♪
というような体験をしたいと思っていたなあ、と、また突如として思い出した。
4.ふたりだけの旅/はしだのりひことクライマックス 1971年5月発表
クライマックスは好きだった。
花嫁やこの曲、それから曲名が思い出せないのだがなかなかいいと思ったものがあった。
クライマックスでザンネンだなあと思うのははしだのりひこが歌わないで、ボーカルの藤沢エミにずっと歌わせればいいのに、というところである。
サ行の発音にちょっと特徴があって、しっかりしたというかどっしりしたというか、そういう歌声がしびれてもいたのである。
5.ご案内/ウイッシュ 1972年9月
そういえば、こんなグループがいたなあ、と思い出した。
この曲の出だし
♪今日、お葬式をします♪
というのが、この歌の唯一最大の特徴であった。
今回も、さて、この歌はどう続くんだろうか?と首をひねってしまった。
つまり「出だし」の部分しか良く覚えていなかったのである。
さわやかに「お葬式」といわれてもなあ、と当時思っていたのであった。
6.琵琶湖周航の歌/加藤登紀子 1971年5月
何故この歌を歌っているんだろう?
というのが、当時の大きな印象であった。
この歌で何を伝えたいのか、よくわからなかったのである。
大正時代の第三高等学校ボート部の歌、はいい歌だけれど、東北のアタシはどういう感慨を持ってうたえばいいのか、よくわからなかったのだが。
しかし、東北の一青年がそんなことを思っていたって、世間ではこの歌はよく流れ歌われていたのである。
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著者は、少年サンデー(小学館)の編集者になったときから赤塚不二夫の担当となった。
本書を読むとわかるが、赤塚不二夫も相当変な人であるが、著者:武居も負けず劣らず変な人である。
赤塚不二夫はギャグ漫画とかいわれているけれど、ギャグというよりナンセンスあるいは不条理に近いのではないか、と私は思っているのだ。
さて、赤塚不二夫なのだが、藤子不二雄<A>の「まんが道」はじめ、いわゆる「ときわ荘」ものを読むと、石森章太郎のカゲに隠れているような、おとなしいイメージである。
本書でも「第3章 漫画家アパートのおちこぼれ」として描かれている。
そして、本書において当時の赤塚不二雄の有様がやっとわかった。
赤塚不二夫の自伝的エッセイ「笑わずに生きるなんて」でもあまり詳しく書いていなかった、いわゆる「不遇の時代」は、表面的にはどうあれ内面的には相当屈折していたことが本書でわかり、ある意味ほっとしたのである。
私にとっては「ときわ荘」の漫画家のなかで赤塚不二夫と寺田ヒロオが興味を持ってしまう人なのである。
その後、二人はまったく違った人生のようになってしまう。
赤塚は人気漫画家になり奇行の人となる。
寺田はペンを折り漫画の世界から身を引く。
私には二人とも繊細すぎたのではないのか、と思っている。
成功する人たち、特に芸術系の人は繊細な部分と変に鈍い部分が同居しているように思える。
しかし、この二人は鈍い部分が欠けていて、だから、赤塚は奇行に走って繊細さを隠そうとした、のではないだろうか。そして寺田はペンを折った。
本書の大部分は著者の見た赤塚不二夫である。
そして著者はすでに<おそ松くん>で「大家」となっていた赤塚と出会ったので、絶頂期へ向けて進む時期からひたすら奇行に走るときまでのことが詳しく書いてある。
それを読むと、赤塚に誘われたように編集者たちや友人も変な人が多く、ゆえに加速度的に「変」が進んでいるようである。
時代といえば時代で、今では到底そんなことはできない状況であるが、それにしてもスゴイことをしている。
それは、おそ松くん、天才バカボン、もうれつア太郎、などによって、社会をリードしているという自信とその著者は正常ではないんだというアピールだったのか、興味が尽きないところである。
それから赤塚の漫画というのは、赤塚一人で作るものではなく、アイデアの段階からチームでつくられていたということが本書を読んでわかった。
それゆえに、チームのメンバーが変わることによってパワーも変化していくこととなる。
チームが順調に動いているときはいいのだが、やはり人の動きというのはいつまでも右肩上がりで推移するわけでなく・・・
そのあたりに、漫画家・赤塚不二夫の悲哀があるような気がする。
本書はこれまで読んだ「このてのもの」のなかでは、スゴク正直に書いてあり、それゆえに凄みがあるようで、かるーい気持ちで読みはじめたのが、イロイロと考えさせられたのであった。
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本書を読むとわかるが、赤塚不二夫も相当変な人であるが、著者:武居も負けず劣らず変な人である。
赤塚不二夫はギャグ漫画とかいわれているけれど、ギャグというよりナンセンスあるいは不条理に近いのではないか、と私は思っているのだ。
さて、赤塚不二夫なのだが、藤子不二雄<A>の「まんが道」はじめ、いわゆる「ときわ荘」ものを読むと、石森章太郎のカゲに隠れているような、おとなしいイメージである。
本書でも「第3章 漫画家アパートのおちこぼれ」として描かれている。
そして、本書において当時の赤塚不二雄の有様がやっとわかった。
赤塚不二夫の自伝的エッセイ「笑わずに生きるなんて」でもあまり詳しく書いていなかった、いわゆる「不遇の時代」は、表面的にはどうあれ内面的には相当屈折していたことが本書でわかり、ある意味ほっとしたのである。
私にとっては「ときわ荘」の漫画家のなかで赤塚不二夫と寺田ヒロオが興味を持ってしまう人なのである。
その後、二人はまったく違った人生のようになってしまう。
赤塚は人気漫画家になり奇行の人となる。
寺田はペンを折り漫画の世界から身を引く。
私には二人とも繊細すぎたのではないのか、と思っている。
成功する人たち、特に芸術系の人は繊細な部分と変に鈍い部分が同居しているように思える。
しかし、この二人は鈍い部分が欠けていて、だから、赤塚は奇行に走って繊細さを隠そうとした、のではないだろうか。そして寺田はペンを折った。
本書の大部分は著者の見た赤塚不二夫である。
そして著者はすでに<おそ松くん>で「大家」となっていた赤塚と出会ったので、絶頂期へ向けて進む時期からひたすら奇行に走るときまでのことが詳しく書いてある。
それを読むと、赤塚に誘われたように編集者たちや友人も変な人が多く、ゆえに加速度的に「変」が進んでいるようである。
時代といえば時代で、今では到底そんなことはできない状況であるが、それにしてもスゴイことをしている。
それは、おそ松くん、天才バカボン、もうれつア太郎、などによって、社会をリードしているという自信とその著者は正常ではないんだというアピールだったのか、興味が尽きないところである。
それから赤塚の漫画というのは、赤塚一人で作るものではなく、アイデアの段階からチームでつくられていたということが本書を読んでわかった。
それゆえに、チームのメンバーが変わることによってパワーも変化していくこととなる。
チームが順調に動いているときはいいのだが、やはり人の動きというのはいつまでも右肩上がりで推移するわけでなく・・・
そのあたりに、漫画家・赤塚不二夫の悲哀があるような気がする。
本書はこれまで読んだ「このてのもの」のなかでは、スゴク正直に書いてあり、それゆえに凄みがあるようで、かるーい気持ちで読みはじめたのが、イロイロと考えさせられたのであった。
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本日は文庫3冊購入
赤塚不二夫のことを書いたのだ!!<武居俊樹>文春文庫
レンタル彼氏<酒井あゆみ>幻冬舎文庫
-おんな飛脚人-世直し大明神<出久根達郎>講談社文庫
なんて統一性のない買い方なんだろう、我ながら感心してします。
このほか、現在読んでいるのは
小説十八史略第6巻(陳舜臣)、ローマ人の物語26巻(塩野七生)、幕末バトルロワイヤル(野口武彦)
そして、手をつけずに残っているのが、書と日本人(石川九楊)
以上が文庫本と新書本。
それから、文藝春秋、オール読物、小説新潮にもまだ読まずにいる部分があり、そして、新潮社の雑誌「yom yom(ヨムヨム)」の第1巻と第2巻も手付かずで残っている。
うーん、改めてびっくりした。
読まなければならない本がいっぱいあるなあ。
赤塚不二夫のことを書いたのだ!!<武居俊樹>文春文庫
レンタル彼氏<酒井あゆみ>幻冬舎文庫
-おんな飛脚人-世直し大明神<出久根達郎>講談社文庫
なんて統一性のない買い方なんだろう、我ながら感心してします。
このほか、現在読んでいるのは
小説十八史略第6巻(陳舜臣)、ローマ人の物語26巻(塩野七生)、幕末バトルロワイヤル(野口武彦)
そして、手をつけずに残っているのが、書と日本人(石川九楊)
以上が文庫本と新書本。
それから、文藝春秋、オール読物、小説新潮にもまだ読まずにいる部分があり、そして、新潮社の雑誌「yom yom(ヨムヨム)」の第1巻と第2巻も手付かずで残っている。
うーん、改めてびっくりした。
読まなければならない本がいっぱいあるなあ。
1.ささやかなこの人生/風 1976年6月発表
風、といえば伊勢正三と大久保一久のコンビで「22才の別れ」が大ヒットした。
この「ささやかなこの人生」は3rdシングルである。
「22才の別れ」は必ずヒットすると思っていたが、次の曲以降が問題だなあと・・・
で、この曲あたりから、世間が「風」に求めているものと「風」が目指すものに違いが大きくなってきたような気がする。
そして私は・・・この歌でひいてしまった。
歌詞的には、世界が広すぎる、というかんじで、みんなそうだろう!という同意を求められている気がして、のれなかった。
今聞くと、それはそれでいいかな、とも思うのだが、若かりし時には「思い込み」が強いからねえ。
風、というと私は「星空」が結構好きだったりする。
2.葛飾にバッタを見た/なぎらけんいち 1973年8月
この歌は吉田拓郎がパーソナリティーをしていたラジオ番組ではじめて聴いた、と思う。(今でもそれがカセットテープに残っている)
そのときに聴いたのは「レコード盤」ではなくて、どっかのライブのものだったようで、原曲とは歌詞が違っている(アドリブが入っている)
そのとき以来、なぎらけんいち、気になる存在であったが、何しろ田舎町のこと情報なんかゼンゼン入ってこない。
ということで、どんな歌を歌うのか、過去はどうだったのか、もっと時間が経ってからしか知ることができなかった。
それがすごいザンネンである。
さて、なぎらけんいちは「悲惨な戦い」をうたうコミックシンガーというイメージが強い、また、その後テレビや映画でついた役柄が尋常なものでなかったので、世間の印象はちょいと斜めである。
でも私はこの「葛飾にバッタを見た」でなぎらけんいちをすごく評価していた。
歌詞もメロディーも歌唱力も、なかなか、なのである。
だから、世間への露出のしかたがなんだかなあと思ったりしているのである。
ゼッタイ、あの変なカンジは「照れ」の裏返しだと思っている。
何はともあれ「葛飾にバッタを見た」は、いわゆるフォークソングの中の名曲だと思っている。
まだ聴いたことのない人はゼヒ聴いてほしい。
♪昨日 江戸川を歩いていたら 空はうそみたいにきれいだったし そして地上にはほら バッタが遊んでいたし♪
という部分などは聞いても歌っても涙ぐんだりするのである。
3.あばよ/研ナオコ 1976年10月
研ナオコと中島みゆき、あるいは宇崎竜童・阿木耀子、そして小椋佳はよくあう。
これらの人の歌を歌うと研ナオコが生きるような気がしていた。
いわゆる2枚目の歌なので、低い声でジックリと歌われると良かった。
のだが、そのあとふざけるのがあまり好きでなかったなあ。
歌手とか役者とかは、演じていることに価値があるので、あまりパーソナリティーを前面に出してしまうのはなんだかなあ、と思っていたのだが、今はそのギャップをなんと思わないあるいは面白い、価値があるというようになってしまったようだ。
そういう意味では研ナオコは先駆者なのかもしれない。
4.スモーキン・ブギ/ダウン・タウン・ブウギ・バンド 1974年12月
この歌もはじめて聞いたのは吉田拓郎のラジオ番組だったような気がする。
そのときは「ショック」だったなあ。
へエーこういう歌もありか、という感じだった。
笠置シズコの東京ブギや買い物ブギとかを聴いて以来、ブギ、というのは自由なものという感じがしていたが、ここまでやるとはなあ、と思ったのであった。
さて、この歌を聴いた少年の私は「タバコ」を吸ってみたいと思ったのであった。
なにしろ
♪目覚めのいっぷく 食後のいっぷく
授業をサボって喫茶店でいっぷく
風呂はいっていっぷく クソしていっぷく
そいでまたベッドでいっぷく
朝から晩までスモーキン・ブギ♪
なのである。
吸いたくなるではないか。
そいで吸ってみたら
♪たちまちめまいでクラクラ♪
と歌のとおりだった。
それから「つなぎ」も手に入れて着たりなんかしたのであった。
5.春うらら/田山雅充 1976年2月
♪みぞれ混じりの 春の宵 二人コタツにくるまって♪
という出だしで
♪ふと思い出す ふるさとの 二つ違いの弟を♪
と続いてしまうアタシなのである。
6.酒と泪と男と女/河島英五 1976年6月
この歌もなんだか恥ずかしい。
河島英五のうた、全般にわたってなんだか恥ずかしい、のである。
なんとなくわかるんだけれど、そこまではなあ、という気持ちなんだと思う。
だから、できる限りのめり込まないようこの歌を聴くのである。
ひとつには酒をこんな風には飲んだことがないからだと思う。
つまり
♪忘れてしまいたい事や どうしようもない寂しさに包まれた♪
時に、酒を飲んだことがないし
♪飲んで 飲んで 飲まれて飲んで♪
という風に飲んだことがないからだろう。
ともかく河島英五の歌は「いい」とは思うのだが、なんだか恥ずかしいのである。
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風、といえば伊勢正三と大久保一久のコンビで「22才の別れ」が大ヒットした。
この「ささやかなこの人生」は3rdシングルである。
「22才の別れ」は必ずヒットすると思っていたが、次の曲以降が問題だなあと・・・
で、この曲あたりから、世間が「風」に求めているものと「風」が目指すものに違いが大きくなってきたような気がする。
そして私は・・・この歌でひいてしまった。
歌詞的には、世界が広すぎる、というかんじで、みんなそうだろう!という同意を求められている気がして、のれなかった。
今聞くと、それはそれでいいかな、とも思うのだが、若かりし時には「思い込み」が強いからねえ。
風、というと私は「星空」が結構好きだったりする。
2.葛飾にバッタを見た/なぎらけんいち 1973年8月
この歌は吉田拓郎がパーソナリティーをしていたラジオ番組ではじめて聴いた、と思う。(今でもそれがカセットテープに残っている)
そのときに聴いたのは「レコード盤」ではなくて、どっかのライブのものだったようで、原曲とは歌詞が違っている(アドリブが入っている)
そのとき以来、なぎらけんいち、気になる存在であったが、何しろ田舎町のこと情報なんかゼンゼン入ってこない。
ということで、どんな歌を歌うのか、過去はどうだったのか、もっと時間が経ってからしか知ることができなかった。
それがすごいザンネンである。
さて、なぎらけんいちは「悲惨な戦い」をうたうコミックシンガーというイメージが強い、また、その後テレビや映画でついた役柄が尋常なものでなかったので、世間の印象はちょいと斜めである。
でも私はこの「葛飾にバッタを見た」でなぎらけんいちをすごく評価していた。
歌詞もメロディーも歌唱力も、なかなか、なのである。
だから、世間への露出のしかたがなんだかなあと思ったりしているのである。
ゼッタイ、あの変なカンジは「照れ」の裏返しだと思っている。
何はともあれ「葛飾にバッタを見た」は、いわゆるフォークソングの中の名曲だと思っている。
まだ聴いたことのない人はゼヒ聴いてほしい。
♪昨日 江戸川を歩いていたら 空はうそみたいにきれいだったし そして地上にはほら バッタが遊んでいたし♪
という部分などは聞いても歌っても涙ぐんだりするのである。
3.あばよ/研ナオコ 1976年10月
研ナオコと中島みゆき、あるいは宇崎竜童・阿木耀子、そして小椋佳はよくあう。
これらの人の歌を歌うと研ナオコが生きるような気がしていた。
いわゆる2枚目の歌なので、低い声でジックリと歌われると良かった。
のだが、そのあとふざけるのがあまり好きでなかったなあ。
歌手とか役者とかは、演じていることに価値があるので、あまりパーソナリティーを前面に出してしまうのはなんだかなあ、と思っていたのだが、今はそのギャップをなんと思わないあるいは面白い、価値があるというようになってしまったようだ。
そういう意味では研ナオコは先駆者なのかもしれない。
4.スモーキン・ブギ/ダウン・タウン・ブウギ・バンド 1974年12月
この歌もはじめて聞いたのは吉田拓郎のラジオ番組だったような気がする。
そのときは「ショック」だったなあ。
へエーこういう歌もありか、という感じだった。
笠置シズコの東京ブギや買い物ブギとかを聴いて以来、ブギ、というのは自由なものという感じがしていたが、ここまでやるとはなあ、と思ったのであった。
さて、この歌を聴いた少年の私は「タバコ」を吸ってみたいと思ったのであった。
なにしろ
♪目覚めのいっぷく 食後のいっぷく
授業をサボって喫茶店でいっぷく
風呂はいっていっぷく クソしていっぷく
そいでまたベッドでいっぷく
朝から晩までスモーキン・ブギ♪
なのである。
吸いたくなるではないか。
そいで吸ってみたら
♪たちまちめまいでクラクラ♪
と歌のとおりだった。
それから「つなぎ」も手に入れて着たりなんかしたのであった。
5.春うらら/田山雅充 1976年2月
♪みぞれ混じりの 春の宵 二人コタツにくるまって♪
という出だしで
♪ふと思い出す ふるさとの 二つ違いの弟を♪
と続いてしまうアタシなのである。
6.酒と泪と男と女/河島英五 1976年6月
この歌もなんだか恥ずかしい。
河島英五のうた、全般にわたってなんだか恥ずかしい、のである。
なんとなくわかるんだけれど、そこまではなあ、という気持ちなんだと思う。
だから、できる限りのめり込まないようこの歌を聴くのである。
ひとつには酒をこんな風には飲んだことがないからだと思う。
つまり
♪忘れてしまいたい事や どうしようもない寂しさに包まれた♪
時に、酒を飲んだことがないし
♪飲んで 飲んで 飲まれて飲んで♪
という風に飲んだことがないからだろう。
ともかく河島英五の歌は「いい」とは思うのだが、なんだか恥ずかしいのである。
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週間新潮に連載されていた小説らしい。
当時から見ると近未来の経済小説だったらしい。
そんなことはこの本を選ぶときには気にしなかった。ただ「幸田真音」という著者によって選んだのである。
物語は日銀(日本銀行)の最高意思決定機関の政策委員である中井昭夫が亡妻・敬子が行きたがっていたアフリカを旅するところから始まる。
その旅で謎の女性と出会う。
そしてその女性は、日銀の副総裁として中井の前に現れる。
小説は「中井」の視点と、東日本短資という会社の三上資金営業部長と部下の坂井の視点から主に描かれている。
この視点というのは、日銀が行う政策の解説、にもなっている。
にもなっているが、金利にまつわる政策について大雑把にはわかるがなんだかよくわからない。
なんだかよくわからないのだが、それでも物語を読み進めることにはあまり問題はない。
アタシはあまりその部分についてはよく理解をしようと思わないから、そう思うんだろうが、経済や金利についてよく知りたいと思っている人はそのあたりは読み込んでいくんだろう。
ということで、アタシはどちらかといえば、中井と美貌の日銀副総裁・芦川笙子との関係のほうが気がかりであった。
美貌の女性から誘惑される、というのは「ありえない」話であると思っているので、中井は必ずや騙され利用されているんだ、と信じて疑わなかったのだ。
経済小説といいながら、このあたりもこの小説の面白さである。
そして、経済や金利に関する詳細な部分はわかったふりをして読んできたアタシ
だが、読み終わった途端に経済や金利について「イッパシ」になったように思えるから、幸田真音の小説はやめられない。
この小説は書かれた当時は「近未来」であるが、現在からみると概ねそのようになってきている。
そんな時差を感じるのも面白い。
「下巻」は一気に読んでしまった。
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当時から見ると近未来の経済小説だったらしい。
そんなことはこの本を選ぶときには気にしなかった。ただ「幸田真音」という著者によって選んだのである。
物語は日銀(日本銀行)の最高意思決定機関の政策委員である中井昭夫が亡妻・敬子が行きたがっていたアフリカを旅するところから始まる。
その旅で謎の女性と出会う。
そしてその女性は、日銀の副総裁として中井の前に現れる。
小説は「中井」の視点と、東日本短資という会社の三上資金営業部長と部下の坂井の視点から主に描かれている。
この視点というのは、日銀が行う政策の解説、にもなっている。
にもなっているが、金利にまつわる政策について大雑把にはわかるがなんだかよくわからない。
なんだかよくわからないのだが、それでも物語を読み進めることにはあまり問題はない。
アタシはあまりその部分についてはよく理解をしようと思わないから、そう思うんだろうが、経済や金利についてよく知りたいと思っている人はそのあたりは読み込んでいくんだろう。
ということで、アタシはどちらかといえば、中井と美貌の日銀副総裁・芦川笙子との関係のほうが気がかりであった。
美貌の女性から誘惑される、というのは「ありえない」話であると思っているので、中井は必ずや騙され利用されているんだ、と信じて疑わなかったのだ。
経済小説といいながら、このあたりもこの小説の面白さである。
そして、経済や金利に関する詳細な部分はわかったふりをして読んできたアタシ
だが、読み終わった途端に経済や金利について「イッパシ」になったように思えるから、幸田真音の小説はやめられない。
この小説は書かれた当時は「近未来」であるが、現在からみると概ねそのようになってきている。
そんな時差を感じるのも面白い。
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文藝春秋6月号の目玉である。
サブタイトルの「何故国家を破滅させたのか」は表紙に書いてあるもので、本文には「日本型組織の失敗」
とある。
半藤一利、保坂正康、福田和也、戸部良一、黒野耐の5人が座談会をして論じている、という形である。
大きく7つに分けてある。
1 派閥抗争が改革をつぶした 宇垣一成と荒木貞夫
2 エリート教育システムの欠陥 東条英機と永田鉄山
3 天才戦略家の光と影 石原莞爾と武藤章
4 良識派は出世できない 栗林忠道、今村均、本間雅晴
5 暴走する参謀コンビの無責任 服部卓四郎と辻政信
6 凡庸なリーダーと下克上の論理 杉山元と瀬島龍三
7 「空気」に支配された集団 阿南惟幾と梅津美治朗
となっている。
面白くて一気に読んでしまった。
そして思ったのである。
「陸軍の悪い部分について反省しそれを教訓にしてはいないではないか」
今もって、日本の多くの組織には、1から7の弊害がはびこっているではないか。
ということは、この7つのことは日本人の体質、DNAなのではないのか。
島国で長い間鎖国をしてきた弊害が表れているような気がするのである。
ひとつには、大きな評価ができないこと。
評価ができないということは、評価する側と評価を受ける側の双方に「平等」とか「公平」という観念がないからだと思う。
人と人とのつながりを大事にする、あるいは義理と人情に生きる、といえば聞こえはいいが、実は自分の考えというか根本とか幹がないので、大きなものにすがってしまうだけなのではないのか、なんて思ったりもするのである。
「組織」が良識と組織以外のことに目を向けて健全な活動を行い続ける、ということは難しいんだろう。
トップに良識がある者がいて、リーダーシップを限りなく発揮しても、次の世代には引き継がれないし、健全な組織を作り上げると組織内の権力争い(派閥抗争)がおきるし・・・
つまりは、健全な組織とか良識がある組織というのは、見果てぬ夢、なのかもしれないなあ、と思うのである。
ともかく、この文藝春秋6月号の特集は久々に読み応えがあったのである。
追伸
なぜか「ハンカチ王子両親手記」というのも、今月号の「ウリ」である。
せっかくの目玉記事が、ハンカチ王子と一緒なのである。
これは文藝春秋の懐の深さなのか、無節操なのか、悩むところである。
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とある。
半藤一利、保坂正康、福田和也、戸部良一、黒野耐の5人が座談会をして論じている、という形である。
大きく7つに分けてある。
1 派閥抗争が改革をつぶした 宇垣一成と荒木貞夫
2 エリート教育システムの欠陥 東条英機と永田鉄山
3 天才戦略家の光と影 石原莞爾と武藤章
4 良識派は出世できない 栗林忠道、今村均、本間雅晴
5 暴走する参謀コンビの無責任 服部卓四郎と辻政信
6 凡庸なリーダーと下克上の論理 杉山元と瀬島龍三
7 「空気」に支配された集団 阿南惟幾と梅津美治朗
となっている。
面白くて一気に読んでしまった。
そして思ったのである。
「陸軍の悪い部分について反省しそれを教訓にしてはいないではないか」
今もって、日本の多くの組織には、1から7の弊害がはびこっているではないか。
ということは、この7つのことは日本人の体質、DNAなのではないのか。
島国で長い間鎖国をしてきた弊害が表れているような気がするのである。
ひとつには、大きな評価ができないこと。
評価ができないということは、評価する側と評価を受ける側の双方に「平等」とか「公平」という観念がないからだと思う。
人と人とのつながりを大事にする、あるいは義理と人情に生きる、といえば聞こえはいいが、実は自分の考えというか根本とか幹がないので、大きなものにすがってしまうだけなのではないのか、なんて思ったりもするのである。
「組織」が良識と組織以外のことに目を向けて健全な活動を行い続ける、ということは難しいんだろう。
トップに良識がある者がいて、リーダーシップを限りなく発揮しても、次の世代には引き継がれないし、健全な組織を作り上げると組織内の権力争い(派閥抗争)がおきるし・・・
つまりは、健全な組織とか良識がある組織というのは、見果てぬ夢、なのかもしれないなあ、と思うのである。
ともかく、この文藝春秋6月号の特集は久々に読み応えがあったのである。
追伸
なぜか「ハンカチ王子両親手記」というのも、今月号の「ウリ」である。
せっかくの目玉記事が、ハンカチ王子と一緒なのである。
これは文藝春秋の懐の深さなのか、無節操なのか、悩むところである。
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著者は昭和3年生まれ、植物学の権威である。
著者は農家に生まれながらも体が弱く、農作業を見て育ち、そのとき「何故日本の農業は草取りに始まり草取りに終わるのか」と思った。
このことが、後に「雑草生態学」という研究を始まるもとになったという。
著者は、尋常小学校から農林学校、続いて農林専門学校に進み、農業高校の教師になる。そしてもっと勉強したいとうことから広島文理科大学に入る、続いて東京大学の大学院にはいり合わせて横浜国立大学の助手となる。
雑草生態学の論文を書くと、ドイツ国立植生図研究所長のチュクセン教授の目に留まり、ドイツへ留学することになる。そして教授から「まだ本を読むな。現場に出て、自分の身体を測定器にし、自然がやっている実験結果を目で見、手で触れ、匂いをかぎ、なめて、触って調べろ」といわれる。
以来、著者は現地植生調査にあけくれる。
そうして得た答えが「鎮守の森」なのである。
「鎮守の森」というのは、我々が最もひつようなもの。
つまりつくられた森ではなく、その土地に最も適した森、なのだそうである。
そのいったいは「鎮守様」をまつることで手をつけられないことにしたので、長く自然が残っている。
我々が自然というとき、実は人間の手によって作られた森林や田や畑までも含めているが、実はそのような単一の植物を植えるということは、ある意味自然破壊のようなのだ。
そういえば、農業も林業も第1次産業である。
産業であるから、一つのものを生かすために他のものを排除する仕事がある。肥料を与え農薬をまいたり、あるいは雑草を取ったりして、世話をしないと単一の植物は生きないのだそうである。
だから著者は、なるだけその地にあった多くの種類の植物を植え、鎮守の森をつくり、本当の自然を設けようとしている。
この考え方に賛同したのがイオングループなどである。
そういえばイオングループの店が開店するとき植樹を行い、それもなんだか雑多な植物を、いかにもザツに植えているが、これが鎮守の森作りの基本なのだそうである。
だから、その後手入れをするわけでなく、その土地にあった植物が自らの力で育つのを待つのである。
この考え方は、人を育てるときにも当てはまるなあと思っていると、著者こう言う。
「競争しながら共生し、そしてお互いにどの樹種もどの個体も我慢を強要されている。我慢のできない生き物は地球上では一時も生きていけないという真理を見る思いがする」
「目に見えるもの、金で換算できるもの、数字や図表で表現できるもの以外はすべて切り捨ててきた一見進歩的な対応が、自然と共生してきた鎮守の森を破壊するだけでなく、心の荒廃の原点となっているのではないか。」
著者は怒っている、そして我々を穏やかにゆっくりと諭すのである。
私は諭された。
そして目が覚めた。
我々が、これからしなければならないことの根本を考えた。
この本をいつも手の届くところにおいて、これからも考え続けようと思ったのである。
実に多くの人に読んでもらい、多くの賛同者を得たい本である。
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著者は農家に生まれながらも体が弱く、農作業を見て育ち、そのとき「何故日本の農業は草取りに始まり草取りに終わるのか」と思った。
このことが、後に「雑草生態学」という研究を始まるもとになったという。
著者は、尋常小学校から農林学校、続いて農林専門学校に進み、農業高校の教師になる。そしてもっと勉強したいとうことから広島文理科大学に入る、続いて東京大学の大学院にはいり合わせて横浜国立大学の助手となる。
雑草生態学の論文を書くと、ドイツ国立植生図研究所長のチュクセン教授の目に留まり、ドイツへ留学することになる。そして教授から「まだ本を読むな。現場に出て、自分の身体を測定器にし、自然がやっている実験結果を目で見、手で触れ、匂いをかぎ、なめて、触って調べろ」といわれる。
以来、著者は現地植生調査にあけくれる。
そうして得た答えが「鎮守の森」なのである。
「鎮守の森」というのは、我々が最もひつようなもの。
つまりつくられた森ではなく、その土地に最も適した森、なのだそうである。
そのいったいは「鎮守様」をまつることで手をつけられないことにしたので、長く自然が残っている。
我々が自然というとき、実は人間の手によって作られた森林や田や畑までも含めているが、実はそのような単一の植物を植えるということは、ある意味自然破壊のようなのだ。
そういえば、農業も林業も第1次産業である。
産業であるから、一つのものを生かすために他のものを排除する仕事がある。肥料を与え農薬をまいたり、あるいは雑草を取ったりして、世話をしないと単一の植物は生きないのだそうである。
だから著者は、なるだけその地にあった多くの種類の植物を植え、鎮守の森をつくり、本当の自然を設けようとしている。
この考え方に賛同したのがイオングループなどである。
そういえばイオングループの店が開店するとき植樹を行い、それもなんだか雑多な植物を、いかにもザツに植えているが、これが鎮守の森作りの基本なのだそうである。
だから、その後手入れをするわけでなく、その土地にあった植物が自らの力で育つのを待つのである。
この考え方は、人を育てるときにも当てはまるなあと思っていると、著者こう言う。
「競争しながら共生し、そしてお互いにどの樹種もどの個体も我慢を強要されている。我慢のできない生き物は地球上では一時も生きていけないという真理を見る思いがする」
「目に見えるもの、金で換算できるもの、数字や図表で表現できるもの以外はすべて切り捨ててきた一見進歩的な対応が、自然と共生してきた鎮守の森を破壊するだけでなく、心の荒廃の原点となっているのではないか。」
著者は怒っている、そして我々を穏やかにゆっくりと諭すのである。
私は諭された。
そして目が覚めた。
我々が、これからしなければならないことの根本を考えた。
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「間暮警部の事件簿」の第1巻であり、私は第2巻である「マグレと都市伝説」から読んでしまったので、逆走したことになる。
本書は、全8話。
全ていわゆる「歌謡曲」の見立て殺人事件となっている。
以下の通りである。()内は私が書いて歌手名である。
第1話「神田川」見立て殺人事件(かぐや姫)
第2話「手紙」見立て殺人事件(由紀さおり)
第3話「別れても好きな人」見立て殺人事件(ロスインディオス&シルビア)
第4話「四つのお願い」見立て殺人事件(ちあきなおみ)
第5話「空に太陽がある限り」見立て殺人事件(にしきのあきら)
第6話「勝手にしやがれ」見立て殺人事件(沢田研二)
第7話「懺悔の値打ちもない」見立て殺人事件(北原ミレイ)
第8話「UFO」見立て殺人事件(ピンクレディー)
第9話「さよならをするために」見立て殺人事件(ビリー・バンバン)
全部知っている。
ということは覆面作家・鯨統一郎は同じ年代だと思える。(ということを、やはり同じ年代である泉麻人があとがきで述べている)
で、物語はまずほとんど同じ展開なのであるが、見立て殺人事件、とあるわりには、なんだかよくわからない間暮警部の「こじつけ」が多い。
それでいてそのこじつけによる犯人の認定が正解になっているのであるから、おかしい。
間暮警部という名前からさっするに、その事件解決力はマグレなのであろうか、それとも少しのことも見逃さない名探偵なのであるのか、それを決めるのは我々読者なのか、それともやっぱり筆者なのか。
そんなこともこの物語の面白さになっている、と思うのである。
しかし、この選曲からして、読者ターゲットはやっぱり我々なんだろうなあ。
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本書は、全8話。
全ていわゆる「歌謡曲」の見立て殺人事件となっている。
以下の通りである。()内は私が書いて歌手名である。
第1話「神田川」見立て殺人事件(かぐや姫)
第2話「手紙」見立て殺人事件(由紀さおり)
第3話「別れても好きな人」見立て殺人事件(ロスインディオス&シルビア)
第4話「四つのお願い」見立て殺人事件(ちあきなおみ)
第5話「空に太陽がある限り」見立て殺人事件(にしきのあきら)
第6話「勝手にしやがれ」見立て殺人事件(沢田研二)
第7話「懺悔の値打ちもない」見立て殺人事件(北原ミレイ)
第8話「UFO」見立て殺人事件(ピンクレディー)
第9話「さよならをするために」見立て殺人事件(ビリー・バンバン)
全部知っている。
ということは覆面作家・鯨統一郎は同じ年代だと思える。(ということを、やはり同じ年代である泉麻人があとがきで述べている)
で、物語はまずほとんど同じ展開なのであるが、見立て殺人事件、とあるわりには、なんだかよくわからない間暮警部の「こじつけ」が多い。
それでいてそのこじつけによる犯人の認定が正解になっているのであるから、おかしい。
間暮警部という名前からさっするに、その事件解決力はマグレなのであろうか、それとも少しのことも見逃さない名探偵なのであるのか、それを決めるのは我々読者なのか、それともやっぱり筆者なのか。
そんなこともこの物語の面白さになっている、と思うのである。
しかし、この選曲からして、読者ターゲットはやっぱり我々なんだろうなあ。
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檀ふみ・阿川佐和子の往復グルメエッセイである。
両お姉さま方の往復エッセイは「ああ言えば こう食う」と「ああ言えば こう(嫁)行く」に続いて第3弾(私が読んだのは)である。
いずれも「大爆笑」ものの読物で、お互いの悪口のなかに、悪口を言い合える仲の良さが出ていて、そして、いわゆるインテリ系のお姉さま方の「天然」の部分が<ほほえましく>伝わってきて、お気に入りのシリーズ(?)である。
今回は雑誌「デリシャス」(もう休刊になって久しいらしい)に連載されていたもので、テーマは「食」のようである。
二人の境遇と現在の地位から、バイアスをかけて眺めれば「鼻持ちならない」ことが書いてあったりするのだが、そこはそれ「素直」に読んでしまえばいいことで、ともかくうらやましい限りの「食事」をされるわけである。
美食、しかも、どこかに出かけていただく、美食、ということは、なんだか凄いんだなあ、と思うのである。
こんな窮屈な思いをして食事をしなければならないのであれば、家でのんびり家族と話をしながら、あるいはテレビでも見ながら、食べていたほうがいいやなあ、と思ったりするのである。
と思うほどに、この二人は食べるのである。
そして食べることに異常に情熱的である。
互いの悪口とおいしい食事と贅沢、こんなテーマで書かれたエッセイは、この二人だからこそ許されるのであり、よいこの皆さんは決してまねをしてはならないことだと、しみじみ思うのである。
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いずれも「大爆笑」ものの読物で、お互いの悪口のなかに、悪口を言い合える仲の良さが出ていて、そして、いわゆるインテリ系のお姉さま方の「天然」の部分が<ほほえましく>伝わってきて、お気に入りのシリーズ(?)である。
今回は雑誌「デリシャス」(もう休刊になって久しいらしい)に連載されていたもので、テーマは「食」のようである。
二人の境遇と現在の地位から、バイアスをかけて眺めれば「鼻持ちならない」ことが書いてあったりするのだが、そこはそれ「素直」に読んでしまえばいいことで、ともかくうらやましい限りの「食事」をされるわけである。
美食、しかも、どこかに出かけていただく、美食、ということは、なんだか凄いんだなあ、と思うのである。
こんな窮屈な思いをして食事をしなければならないのであれば、家でのんびり家族と話をしながら、あるいはテレビでも見ながら、食べていたほうがいいやなあ、と思ったりするのである。
と思うほどに、この二人は食べるのである。
そして食べることに異常に情熱的である。
互いの悪口とおいしい食事と贅沢、こんなテーマで書かれたエッセイは、この二人だからこそ許されるのであり、よいこの皆さんは決してまねをしてはならないことだと、しみじみ思うのである。
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小説新潮に連載されていた「仮想儀礼」(篠田節子)が最終回を迎えた。
連載38回、3年2ヶ月であった。
物語は、人生に挫折した二人の男がひょんなことから宗教で身を立てようとするところから始まり、遊び半分でつくった宗教団体が、あれよあれよという間に大きくなり、大きくなったゆえに数々の問題が生じ、とうとう世間は「邪教」と認知し、一人の男は解散をしようとするが、狂信的信者たちに阻まれ、そして破滅する、というあらすじである。
宗教というものは、大きな教義にもとづき人を導くものである。
生きていくということは矛盾の連鎖であり、そして現代における一人ひとりの人生というものは多種多様に過ぎるのである。
それを、深く考えずにつくった宗教では、救えない。
「宗教というのは<教義=理論>を支えるものが<神秘>である」という矛盾を最初から内包しているのである。
何か大きな問題が生じたときには、理論ではなく<力づく>で押さえ込まなければならない。<力づく>という部分が<神秘>なのだろうと思うのである。そして神秘というのは<熱>なんだろうと思うのである。
それがこの物語の主人公・正彦は<理論>で押さえ込もうとし、演技としての<神秘>で納得させようとする。
彼の芯の部分は「醒めている」のである、そして彼は「常識の人」である。
それが、うまく回転したときには成功し、一端つまづくとバタバタとしてしまうのである。
最初、宗教が成功していく部分は単純に面白いと思っていたのである。
ところが、失敗していくところから、物語は深みを帯びていくのである。
ここからを描きたいがために、著者は大きな前段を用意したのではないのかと思ってしまうほどである。
今まで読んだことのない題材であり、楽しめた3年間であった。
今後、単行本化されるだろうが、文庫になったときに読み返してみようと思っているのである。
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連載38回、3年2ヶ月であった。
物語は、人生に挫折した二人の男がひょんなことから宗教で身を立てようとするところから始まり、遊び半分でつくった宗教団体が、あれよあれよという間に大きくなり、大きくなったゆえに数々の問題が生じ、とうとう世間は「邪教」と認知し、一人の男は解散をしようとするが、狂信的信者たちに阻まれ、そして破滅する、というあらすじである。
宗教というものは、大きな教義にもとづき人を導くものである。
生きていくということは矛盾の連鎖であり、そして現代における一人ひとりの人生というものは多種多様に過ぎるのである。
それを、深く考えずにつくった宗教では、救えない。
「宗教というのは<教義=理論>を支えるものが<神秘>である」という矛盾を最初から内包しているのである。
何か大きな問題が生じたときには、理論ではなく<力づく>で押さえ込まなければならない。<力づく>という部分が<神秘>なのだろうと思うのである。そして神秘というのは<熱>なんだろうと思うのである。
それがこの物語の主人公・正彦は<理論>で押さえ込もうとし、演技としての<神秘>で納得させようとする。
彼の芯の部分は「醒めている」のである、そして彼は「常識の人」である。
それが、うまく回転したときには成功し、一端つまづくとバタバタとしてしまうのである。
最初、宗教が成功していく部分は単純に面白いと思っていたのである。
ところが、失敗していくところから、物語は深みを帯びていくのである。
ここからを描きたいがために、著者は大きな前段を用意したのではないのかと思ってしまうほどである。
今まで読んだことのない題材であり、楽しめた3年間であった。
今後、単行本化されるだろうが、文庫になったときに読み返してみようと思っているのである。
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1.SACHIKO/ばんばひろふみ 1979年9月
なんとなく耳に残る歌である。
♪サーチコ、思い通りに サーチコ生きてごらん♪
という部分である。
ばんばひろふみは「バンバン」で「いちご白書をもう一度」だけで終わるのか、と思っていたときにこの「SACHIKO」がヒットしてよかったなあ、と思っていたのであるが、当時は、この歌あまり好みではなかった。
なんだか「クライ」と思ったのである。
当時はそういう気持ちをあまり受け入れたくなかったんだと思う。
2.9月の雨/太田裕美 1977年9月
太田裕美の歌の中でお気に入りの順番をつければ上位に入る歌である。
木綿のハンカチーフのイメージから大人へ脱皮しようとしていた頃ではないかと思う。
そこそこいい曲に恵まれていたのだが、なんだか「イマイチ」だったときに、この曲が出て、うまく変わったと思った。もっともこのあとはあまり大きなヒットはなかったと思うが・・・
ただ太田裕美が「大きく」なった曲だと思う。
太田裕美の特徴が良く出ていた歌で、
♪セプテンバー レイン レイン♪
というところが印象的で、それまで「まるい」という感じだったのが「尖った」カンジ、つまり大人の女になったかのように聞こえて、「おおッ!」と思ったのであった。
3.あの頃のまま/ブレッド&バター 1979年6月
この曲を当時ジックリ聴いたという思いではなく、近年になって、いわゆる「懐かしのフォークソング」みたいな番組で、ブレッド&バターが良く歌うのを聴いて、「ああいいなあ」と思っていたのである。
今回のこのCDで、この曲の作詞作曲が「呉田軽穂」つまり松任谷由実であったことがではじめてわかったのである。
このグループによくあった曲だなあとおもっていたので、まさかユーミンの歌だとはゼンゼン思っていなかったが、そう思って聴くと「やっぱりユーミンだ」などと思ったりするのであった。
4.迷い道/渡辺真知子 1977年11月
出だしの
♪現在、過去、未来♪
という部分がこの曲の全てではないか、なんて思ったりするのである。
失恋の歌なのに「前向き」に聞こえてくるのは、渡辺真知子の「元気」なのだと思う。
元気がメロディーと歌声にでていて、はじけているので、なんだか励まされているような気分になってしまう。
渡辺真知子の歌の中ではこの歌がシンプルで好きだ。
5.きみの朝/岸田智史 1979年3月
この歌も発表当時はあまり好みではなかった。
「きれいきれい」過ぎると思っていたのである。
岸田聡史の声も顔もきれいでさわやかで、そして歌もさわやかで、「過ぎる」と思ったのである。
でも近頃は、そのさわやか過ぎるところがいいのである。
若い頃に歌わなかったためか
♪ モーニング モーニング きみの朝だよ♪という部分しか歌えないので、覚えてみようかと思っている。
そして、ワタクシ、さわやかになろうと思うのである。
6.異邦人/久保田早紀 1979年10月
一世を風靡した、という歌である。
当時この曲を聴かなかった日はなかっただろう。
CMで流れていたからナオサラである。
「異邦人」というのがいい響きだった。
それまでは「異邦人」といえばカミュであって、難しい、というイメージであったが、この曲によって神秘的な人というイメージになり、異邦人(エトランゼ)になってみたい、なんてことも思ったりしたのであった。
で、久保田早紀がテレビで歌うところを見ていると、なんだか「ただ歌う」だけで、歌うことによって何かを伝えようとか、自分が楽しいとか、ということがないように見え、なんだか痛々しく見えていたのであった。
近頃、CMに登場して、その後こういう風になってしまったんだ、と思ったが、つまりは彼女自身が異邦人になってしまい、落ち着くところがなくて大変だったんだろう、と・・・そんなことを考えたりしたのだ。
なんとなく耳に残る歌である。
♪サーチコ、思い通りに サーチコ生きてごらん♪
という部分である。
ばんばひろふみは「バンバン」で「いちご白書をもう一度」だけで終わるのか、と思っていたときにこの「SACHIKO」がヒットしてよかったなあ、と思っていたのであるが、当時は、この歌あまり好みではなかった。
なんだか「クライ」と思ったのである。
当時はそういう気持ちをあまり受け入れたくなかったんだと思う。
2.9月の雨/太田裕美 1977年9月
太田裕美の歌の中でお気に入りの順番をつければ上位に入る歌である。
木綿のハンカチーフのイメージから大人へ脱皮しようとしていた頃ではないかと思う。
そこそこいい曲に恵まれていたのだが、なんだか「イマイチ」だったときに、この曲が出て、うまく変わったと思った。もっともこのあとはあまり大きなヒットはなかったと思うが・・・
ただ太田裕美が「大きく」なった曲だと思う。
太田裕美の特徴が良く出ていた歌で、
♪セプテンバー レイン レイン♪
というところが印象的で、それまで「まるい」という感じだったのが「尖った」カンジ、つまり大人の女になったかのように聞こえて、「おおッ!」と思ったのであった。
3.あの頃のまま/ブレッド&バター 1979年6月
この曲を当時ジックリ聴いたという思いではなく、近年になって、いわゆる「懐かしのフォークソング」みたいな番組で、ブレッド&バターが良く歌うのを聴いて、「ああいいなあ」と思っていたのである。
今回のこのCDで、この曲の作詞作曲が「呉田軽穂」つまり松任谷由実であったことがではじめてわかったのである。
このグループによくあった曲だなあとおもっていたので、まさかユーミンの歌だとはゼンゼン思っていなかったが、そう思って聴くと「やっぱりユーミンだ」などと思ったりするのであった。
4.迷い道/渡辺真知子 1977年11月
出だしの
♪現在、過去、未来♪
という部分がこの曲の全てではないか、なんて思ったりするのである。
失恋の歌なのに「前向き」に聞こえてくるのは、渡辺真知子の「元気」なのだと思う。
元気がメロディーと歌声にでていて、はじけているので、なんだか励まされているような気分になってしまう。
渡辺真知子の歌の中ではこの歌がシンプルで好きだ。
5.きみの朝/岸田智史 1979年3月
この歌も発表当時はあまり好みではなかった。
「きれいきれい」過ぎると思っていたのである。
岸田聡史の声も顔もきれいでさわやかで、そして歌もさわやかで、「過ぎる」と思ったのである。
でも近頃は、そのさわやか過ぎるところがいいのである。
若い頃に歌わなかったためか
♪ モーニング モーニング きみの朝だよ♪という部分しか歌えないので、覚えてみようかと思っている。
そして、ワタクシ、さわやかになろうと思うのである。
6.異邦人/久保田早紀 1979年10月
一世を風靡した、という歌である。
当時この曲を聴かなかった日はなかっただろう。
CMで流れていたからナオサラである。
「異邦人」というのがいい響きだった。
それまでは「異邦人」といえばカミュであって、難しい、というイメージであったが、この曲によって神秘的な人というイメージになり、異邦人(エトランゼ)になってみたい、なんてことも思ったりしたのであった。
で、久保田早紀がテレビで歌うところを見ていると、なんだか「ただ歌う」だけで、歌うことによって何かを伝えようとか、自分が楽しいとか、ということがないように見え、なんだか痛々しく見えていたのであった。
近頃、CMに登場して、その後こういう風になってしまったんだ、と思ったが、つまりは彼女自身が異邦人になってしまい、落ち着くところがなくて大変だったんだろう、と・・・そんなことを考えたりしたのだ。