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読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

青行燈<百鬼夜行 陽 第拾壱夜> 京極夏彦 オール読物1月号

2008-12-31 21:59:04 | 読んだ
初めての「京極夏彦」なのである。

本屋で見る「京極夏彦」は分厚い本である。
ミステリー・推理小説であるので読みたいと思うのと、長すぎるんではないか、という気持ちがあって、結局読まずじまいであった。

で、今回オール読物で連載が始まったので、読んでみることにしたのである。

調べてみると、このシリーズはずいぶん書かれているらしく、知らなかった私が珍しいらしい。

そんなことも知らずに読んだので、中禅寺秋彦が主人公だったなんて・・・
今回の物語は、元華族「由良家」の古書にまつわる話である。

難しい漢字がよく使われていて-多分それが特徴なんだと思うのだが-それはあまり邪魔でもなく読みづらいということはないのであるが、何もこんな風に使わなくてもなあ、という気持ちがなくもない。

というわけで、今回の物語は「なんだかよくわからない」結末であって、あまりにもよくわからなかったので、もう一度読み直してみたのである。
それでも「なんだったんだろう?」と思ってしまった。

もしかしたら、私にとっては新しい形の物語なのかもしれない。

連載、ということだそうで、もう少し続けて読んでみたいと思う。

追伸
 それでは皆さんよいお年をお迎えください。

 でもこれを読んでいるのはもう「新年」になっているころだろう。

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青春のうた 第73巻 1960年代後期11 

2008-12-29 18:23:25 | 読んだ
1.竹田の子守唄/赤い鳥 1969年10月

日本の子守唄というのは悲しい詩で悲しい曲調である。
子守唄は「子守」をしている子供たちをうたった歌だからだろう。

この歌を聴いたときは、やっぱりなんだか悲しい気分で、あまり好きではなかった。
子守唄というのは子守をしている人が子供に歌ってきかせるものではないのか、なんて思っていたころであった。

赤い鳥が歌っていた、ということから、なにか人間の平等みたいなものにかんしてメッセージがあるんだろう、と思っていたころもあった。

この歌をうたってみると、詩がどうの曲がどうのというより、この曲が持っている「力」みたいなものを感じることができる。

だから、多分「赤い鳥」の人たちも、メッセージがどうのというよりも曲全体の力を伝えたかったんだと思う。

この歌が一時「差別」に関係するとしてメディアから流れなかった、というのは「放送禁止歌」という本を読んで知ったのだが、そういうことを感じさせたり解釈させたりする力ももっていた歌だったんだと思った。
と、同時にそんな解釈をしたり放送をしないということを決めた人たちに対して怒りを感じたものだった。

素直にこの歌を聞けば、人間が持つどうしようもない悲しみや境遇を歌にしただけなんだということ、その「しただけ」が人に大きな感動を与えるものだということがわかるはずだと思うのだが。


2.鳥になった少年/田中のり子 1969年12月

この歌のように、素直に夢とか自由とかをうたうのは苦手なのである。
知っていはいたけれど、それほど思い入れもなくきいていた歌であった。


3.主婦のブルース/高石友也 1968年10月

高石友也の歌は、いろいろな意味ですごいなあと思う。
そして彼はいろいろなことを考えて歌い、行動しているなあ、と思う。

だけど、どこか私とは相容れないものがあるような気がする。
その「相容れない」という部分は高石友也にあるのではなく、まったく私にのみ存在しているのであるが・・・

この主婦のブルースはなんとなく面白いなあと思ったけれど、なんというか「なぜこのような歌を歌わなければならないのか?」ということが私の底にあって、素直になれないのである。

コミックソングであればそれでいいのだが、なんだか実は非常に強いメッセージを持っていてそれを読み取ることのできない自分がいやだったのかもしれない。


4.腰まで泥まみれ/中川五郎 1969年12月

初めてきいた歌である。
この「青春のうた」もとうとうここまでマニアックになったのか、と思うのである。


5.さすらいのヨッパライ/ザ・フォーク・クルセダーズ 1968年11月

関西フォークと呼ばれるものは「苦手」なのである。

それは「おしつけがましい」と感じるところだと思う。
フォークルの歌でもそのようなものは苦手である。

もう少し普遍性があるものは「いいなあ」と思ったのであるが、そうでないものはやっぱり敬遠気味である。

メッセージをコミック風にしてみたりあるいは難しくしみたりしたものは、どうしても敬遠している。

「コミックソング」なんだと割り切ったものや、メッセージをストレートにあらわしたものはついていけるのであるが・・・

そのあたりが多分世代間の違いだと思う。


6.坊や大きくならないで/マイケルズ 1969年2月

この歌は「反戦歌」である。
反戦歌も苦手なのである。
まして反戦歌がヒットするというのは、なんだか腑に落ちないのである。

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暴雪圏 佐々木譲 小説新潮連載<最終回>

2008-12-28 17:56:18 | 読んだ
小説新潮に連載されていた「暴雪圏」が最終回となった。

佐々木譲の作品であるからして「警察モノ」であるが、今回はひとつの事件がおきてその解決、というものではなく、群像劇であってそれぞれに犯罪が存在するという複雑なツクリである。

北海道では何年かに一度発達した低気圧によってものすごい暴風雪が起きる。
というのが物語の柱である。

この暴風雪は警察も消防も救急車も出動が不可能になるくらいで、つまりは家に閉じこもって過ごすしかない状況に陥るのだそうだ。
車で走ることは自殺行為であり、ともかく辛抱して家にいなければならない。

そんな気候の中、暴力団事務所に強盗が入り組長の妻を殺し金を奪って逃げる事件が発生する。
追う警察も逃げる二人の犯人も暴風雪に阻まれる。

また、ちょっとした心の隙間を埋めるために出会系サイトで知り合った男に付きまとわれている女は男を殺そうと決意する。
事務所の金を持って逃げようとする男。
家出を図る娘と手伝う男。

こういう人たちが暴風雪の中、停電のペンションで一夜を過ごす。

警察は身動きが取れない。

「川久保巡査長」という駐在所の警察官が警察側の主人公。
「制服捜査」という小説の主人公だったらしい。

登場人物たちの多さとそれぞれの物語があってよく把握しきれていないところがあり、最後がちょっとあっさりと終わってしまったという印象があるが、なかなか面白い物語であった。

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花世の立春-新・御宿かわせみ- 平岩弓枝 オール読物1月号

2008-12-25 22:41:57 | 読んだ
いよいよ、畝源太郎と麻生花世が結婚をすることになった。

これが花世ファンの私にはちょっと残念である。

この結婚、花世が持ちかけて花世が日程を決めたのである。
源太郎はなんだか狐につままれたようにしている。

結婚を決めてから花世は源太郎の世話に訪れるのである。今までの花世らしくない振る舞いなのである。
やろうとすることが花世らしくなく、やっていることは花世らしいのである。

ご飯を炊こうとして釜に入れた米をこぼす、障子にはたきをかけようとして障子を破り、かわせみの人たちまで繰り出して障子の張替えになる。

花嫁修業をしていなかった花世のために麻太郎の提案により、花世は「かわせみ」で花嫁修業を行うことになったりする。

源太郎と花世を取り巻く人々のやさしさと骨折りで二人はつつましやかな結婚式を挙げる。

とはいえ、二人の将来は「若い」ことと「愛」だけが頼りである。
源太郎は法律学者のもとで修行中であり、花世も親掛かりであったうえにわずかばかりではあるが稼ぐことができた英語学校が廃校となるので、生活の糧が心配である。

二人を取り囲む人たちは、二人を愛してくれる人たちばかりではなく、特に源太郎を頼りにする人もいる。
それは下町の人たちのつながりでもあるが、その人たちと西洋風に割り切った考え方をする花世がどうつきあっていくのか、心配でもあり楽しみでもある。

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狐狸の恋-お鳥見女房4- 諸田玲子 新潮文庫

2008-12-23 19:11:35 | 読んだ
だいぶ前に購入していたのだが、心が平穏なときにこそ読みたいと、ずっととっていたのであるが、心が平穏になるなんてなかなかないので、読んで平穏になろう!と読み始めたのであった。

小説新潮に連載(年4回程度)されているのであるが、この物語の面白さに気づいたのが近年であるので、小説新潮に掲載されたものを読みはじめたのがどのあたりだったか・・・(近頃は本当に記憶が定かではなく、覚えているのは遠い昔のことばかりだったりする)

だから物語を読んでいても「この話は読んだだろうか?」なんて頭の片隅で考えていたりする。

ちょっと余談でありますが、頭の片隅で考えていることが徐々に膨らんでしまって主流となり、初めに考えていたことはなんだっけ?なんてことや、頭の片隅においていたのがなくなることはありませんか?

というわけで、お鳥見女房「狐狸の恋」である。
本巻は8話の短編連作であり、主人公であるお鳥見女房<矢島珠世>の二人の息子<長男・久太郎と次男・久之助>の恋の物語が主となっている。

長男の恋の相手は父との因縁がある水野家の鷹匠の娘で鷹姫とあだ名されている・恵以である。

次男の恋の相手は祖父との因縁がある旗本・加納重五郎の姪・綾である。

いずれも相思相愛ではあるが、家格とか因縁とかが障害としてある。
しかし、障害が多ければ多いほどひたむきになるのが「恋」である。そして当事者たちのそのひたむきさに心打たれる人があらわれてなんとかしようとなるのも「恋」である。

それぞれの「ひたむきさ」と取り巻く人たちの「おもいやり」とちょっとした事件とが絡み合って、すがすがしい物語となっている。

いろいろな規制が厳しかった江戸時代、いわゆる封建主義の世の中であるからこそ、恋の成就ということが人の心を穏やかにさせる物語となる。

今の世の中「自由」であることが、かえって「人」としての素直な喜びが減ってきたのではないか、なんて頭の片隅で考えたりするが、物語り全体を貫いている落ち着いた雰囲気に癒されて、現代を責める気持ちが薄れていくのであった。

今小説新潮に掲載されるものは、すでに彼らの恋が結婚という形に結晶したものなので、なんというかこの二人は結ばれるのかなんてことをあまり心配もせずに、どうして二人は結ばれたのか、ということのほうに興味を絞れるので、私としては安心して読むことができたのであった。

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極北クレイマー 海堂尊 -週刊朝日連載・最終回-

2008-12-21 18:36:44 | 読んだ
週刊朝日に連載されていた、海堂尊の「極北クレイマー」が12月26日号で最終回を迎えた。

この物語は、著者得意の医療小説ではあるが今回は地域医療である。

北海道の極北市の市民病院に外科部長として極北大から赴任した今中が主人公である。
といっても今中は「非常勤医」で、ボーナスも出ない。

極北市は極度の財政難であり、なかでも市民病院はとんでもない状態である。
それは財政的なものであり、働く医者、看護士、検査スタッフ、薬局関係、そして事務スタッフのありようでもある。

まあ「貧すれば鈍する」のことわざ、あるいは「金の切れ目が縁の切れ目」というように、お金がなくなると、各種の循環は滞ることになっている。

極北市民病院のありさまは、いま全国ほとんどの公立病院の状態であろう。

そんな極北市民病院を何とか建て直そうとしていろいろな策を講じるのだが、お決まりのごとく、全て裏目にでる。

思うのだが、病院建て直しのコンサルタントに頼むというのは、もっとも愚かな話だと思う。
なぜなら、コンサルタントが立て直したという例を聞かないからである。
それでもコンサルタントに頼むのである、まるでだまされているかのように。

極北市民病院ではたったひとつ救いがあった。
それは産婦人科医の三枝である。
彼は医者の良心のような人である。
しかし、極北市の消防署勤務の男の妻の処置が医療事故とされたこと(これには陰謀のようなものがある)から、三枝も傷つく。

何もかもだめになっていく極北市民病院はとうとう・・・

日本の地域医療、公立病院を問題の核においているが、実はやっぱり医療全体の問題点を描いている物語である。

今の医療を囲む環境の中でもっとも厳しいのは「患者が医者に直してもらうのは当たり前」という考え方であろう。
これはどこの病院でもどんな医者にも求められている。
しかも病気の種類、質、深さなどは関係ない。
そしてメディアは「命の大切さ」だけを訴える。

「命には限りがある」ということ、それがいつどのような形で来るのかはわからないということ、つまり安心とか安全というのは絶対的なものではないことを、我々は知っておかなければならないし、覚悟と諦観を持っていなければ生きてはならないのではないだろうか。

そんなことを思いながらこの物語を読んでいて、いったい最後はどうなるのだろうか?とものすごく興味を持っていた。

それは皆が納得できるようなハッピーな終わり方ではないだろうとか、あるいはやっぱり解決しないで終わるんだろうかとか、いろいろ考えていたのだが、予測とは違う形で終わってしまった。

多分、今の地域医療には「落としどころ」なんてなくて「もがく」しかないんだろう。

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風邪?

2008-12-19 15:14:34 | 日々雑感
昨夜(18日)、突然の嘔吐と高熱でダウンしてしまった。

ムカムカ感はあったのだがゾクゾク感はなかったので「食中り?」かと思ってしまったが、どうも風邪らしい。

娘が前の日に同様の症状だったらしく(17日は家に居なかった)、娘が病院からもらってきた薬(解熱剤と胃の調整薬)を飲んで落ちついたが大変だった。

ちょっと具合が悪いと熱が上がるタイプ(幼児性をまだ引きずっている?)なので、いったん熱が上がりきると快方に向かうので大丈夫と思っていたが、朝になってもまだ熱がありふらつくので本日は休んでしまった。

昨夜「小児救命」と「風のガーデン」が最終回だったが、見られなくて残念である。ビデオを録ってもらっているので、あとでゆっくりみようと思っている。

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<風のガーデン>貞三先生の花言葉 365編 倉本聰

2008-12-16 23:17:31 | 読んだ
長い間「植物図鑑」がほしかったのである。

花の写真を好んで撮っている。
にもかかわらず、花の名前がよくわからない。
なので、図鑑がほしかった。
それも分厚いようなものではなくて、お手軽な、ものがよかった。

で、丁度いい具合にあった。

風のガーデンは木曜日10時からフジテレビ系で放送されているドラマである。

倉本聰の脚本のドラマは好きでよくみている。
特に近年は年に1本あるかどうかなので、ほとんど「絶対」のようにしてみている。

今回のドラマは「富良野モノ」である。
主人公は最後に死ぬということがあらかじめわかっている。
それに加えて、出演者の緒方拳がこのドラマを終えてなくなっている。
ということから、毎回ほんとうに真面目に見ている。

その中で、緒方拳演じる「貞三先生」が作った、まあデタラメな花言葉が紹介される。それもわりと重要な役割を果たしていたりするのだ。

花言葉を紹介しているのは、貞三先生の孫で知的障害のある「岳」が花の手入れをしながら、父である主人公に(岳は父であると思っていない)その花言葉を紹介するのである。

その花言葉と花の写真が一緒になっているのが本書である。

花の写真はプロが撮ったものではないように思える。
つまりぼやけていたり、なんでこのアングル?みたいなのもある。

しかし、花言葉に救われる。
花言葉はデタラメ、なんじゃこりゃ風なものが多いのであるが、プロがつくったものなので、刺激がある。

「やり手女は要注意!」
「秘書課の女は待っている。だけど近づけない」
「視聴率が高いからといって、いいドラマとは限らない」
といった「花言葉」をもつ花を見たいとは思いませんか?

というわけで、この本を思い出しては開いて、ニヤニヤしたり、フムフムとうなづいたり、ヒェーとうなったりしているのである。

この遊び面白いかもしれない。
と思い始めたので、そのうち自分でもやってみようかな。

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篤姫 -NHK- 最終回

2008-12-14 22:56:12 | 観た、聴いた
とうとう最後まで観てしまった。
習慣というのは恐ろしいものである。

今年の1月には
「これはマンガである」
「歴史をバカにしている」
と思っていたのであった。

しかし、なんとなく面白く
「ケッ」
とか思いながらも、やめられなかったのである。

主演の宮崎あおいでもなく和宮の堀北真希もなく、周囲のベテランたちがよかったように思える。

ひとつには、若い役者たちが精一杯演じているのに対して、軽くそして滑稽味を出していたところにあると思う。
ゆえに、宮崎あおい、堀北真希という若い女優、そして若い男優(瑛太、松田翔太、平岳大ら)の硬さが、生きてきたように思える。

今回は大奥が舞台とあって、女優陣のあでやかさが楽しみでもあった。
中でも稲森いずみはよかった。
時代劇が似合う女優である。(義経のときの常盤もよかった)

物語は幕末のおおきな移り変わりが全て篤姫がかかわっていたように描かれている。これは物語であるからかまわないのであるが、歴史的事実と誤認をする者がでてくるのがイヤというかコワイ。

現代的感覚からみた幕末、ということで観ていたのであるが、もしかしたら「この物語は幕末の人物たちを用いたフィクションです」という断り書きが必要なのかもしれない。

というわけで、今年は見てしまったが、年々大河ドラマの質というか歴史解釈が自由、斬新になってきていて、時代考証(セリフや考え方)や歴史認識についてガッカリすることが感じられるようになってきたので、来年は観るのをやめようかなんて思っているのである。

来年の主役:直江兼続の兜に「愛」という文字が用いられていて、それが大きく扱われていることに、もうなんだかアヤシイものが感じられるのである。
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SとM 鹿島茂 幻冬舎新書

2008-12-12 12:23:33 | 読んだ
著者の鹿島茂さんの書いたものは月刊誌で時々読む。
一言で形容するなら「エロティック」なものを対象に考察する人である。

さて「SとM」であるが、Sというのはサディスム、Mというのはマゾヒスムのことである。
このSとMにかかる歴史をさかのぼり、検証・考証したものが本書である。

Sがサディスムというのは例のサド侯爵(ドナティアン・アルフォンス・ド・サド)から、Mのマゾヒスムはオーストリアの作家ザッヘル・マゾッホが語源となって1886年に名づけられた。
だから、割と新しい用語なのである。

この本を読むと、我々がというか私が今まで思っていたSとMのイメージと、実際のSとMでは違うということが明らかになる。

本当のSとは本来のMとは何か。
SというのはMに奉仕する。
Mは究極のわがまま。

そんなことを宗教、特にキリスト教とのかかわりで検証している。

途中はキリスト教の講義のようである。
つまり、キリスト教によって抑圧されていたものを解放するためにSとMが生まれてきた、というのが語られたりするのである。

西洋のSMと日本のSMの違いは何なのか、何てことも検証している。

SとMとは、たとえば「叩いて喜び叩かれて喜ぶ」という肉体的・性的なものだけではなく、心理的・精神的なものがおおきな要因なのである、というのがこの本を読んでよくわかります。

人間の心理的・精神的・宗教的な歴史のなかでS・Mは成長発展してきたのである。

この本を読むとSMなんて軽々しく取り扱えない、なんて思うのであった。

ちなみに、この本から見ると私はSらしい。
しかし、Mが望むようなSにはなれないので、つまりは普通の人のようである。そちらの面では・・・。

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人間の証明 21st Century 森村誠一 角川文庫

2008-12-10 22:15:30 | 読んだ
森村誠一の「人間の証明」はシリーズだった、ということを初めて知った。
1976年に刊行され映画にもなったのが最初、続いて1982年「新・人間の証明」1997年「人間の証明PARTⅡ狙撃者の挽歌」そして今回の「人間の証明21stCentyury」である。

高校時代から森村誠一のファンであった私は、最初の('76年)「人間の証明」は本を読み、映画も見た。
「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね ええ、夏、碓氷峠から霧積へ行くみちで 渓谷へ落としたあの麦藁帽ですよ」
という西条八十の詩が効果的なおかつ印象的であった。

森村誠一の文章は「生硬」であると思う。作中人物の会話は何かの文章を読んでいるようである。
それから「青臭く形容が古臭い」のである。
また登場人物の性格はキッチリ決まっていて人間くさくない。
だからいかにも物語風なのである。

というようにアラを探せばいっぱい出てくるのである。
なのに、大好きなのである、森村誠一の作品。

今回の物語にも「詩」が登場する。
金子みすゞの詩である。
これがまた恥ずかしくなるよな詩なのである。

因果と因縁とが絡み合って、なおかつ国家の権力というのがちらついて、スケールの大きな話となっている。
しかし、やっぱり人間の話なのである。

この人間の話をするには、前に述べた「生硬」「青臭い」「登場人物のほとんどが人間くさくない」というのが、非常に有効なんだと思う。
「アラ」であった部分が実は計算された設定であって、その設定の上で描かれる人間模様がなんだかイキイキしてきたりする、のではないだろうか。

今回の物語は、物語の設定そして展開は「夢物語」まったくうそ臭いものである。
そのうそ臭いものが真実味があるように思えるのは、私が思った「アラ」の部分が重要な役割を果たしているのではないだろうか。

現代社会の不安定さが、更にこの物語に真実味を与えている。
何事も公開されているようで情報が氾濫しているが、実は隣の家で何が起きているのかわからない、そんな社会の状況である。

ところで、1976年の人間の証明のとき棟居刑事が20代だったとして、28歳と仮定してもすでに32年を経過している。60歳である。
ところが、棟居刑事はその父を進駐軍に殺されているので、戦中派といえる。

そんなことを考えていると、なんだかよくわからなくなるのである。
そして、そんなことを考えてはいけないのである。

棟居弘一良よ永遠なれ!
なのである。

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孤独のグルメ 原作:久住昌之 作画:谷口ジロー 扶桑社文庫

2008-12-07 20:47:10 | 読んだ
題名「孤独のグルメ」という割には、B級グルメにもならないような食べ物の話である。

画が谷口ジローとお気に入りであったので、本屋でチラチラっとみて、題名とあわせて「これ購入!」と決定したのであった。

物語は(物語というほどものではないのであるが・・・)主人公・俺の一人語りである。
名前のある人物は登場しない。
主人公の俺も名前がわかるのは第3話である。
それも「井之頭」というだけである。

あとがきで原作者は「井之頭五郎」と書いたり「井の頭五郎」と書いたりしているので、どうでもいいのかもしれない。

その井之頭五郎は、輸入雑貨の貿易商を個人でやっている。
店を持っていないので、いろいろな場所に商売に行くわけで、そこで出会った店または食べ物の話である。

この「話」というのも、たとえば「美味んぼ」や「酒のほそみち」などのように「ウンチク」のあるはなしではない。

なにしろ「うまい」という感覚が、「美味んぼ」や「酒のほそみち」などとは違うのである。

とりあえず腹が減っている。
なにか食べ物屋はないか。
で、ぐずぐず迷って店に入る。
店を決めた理由はそこの看板を食べたいからなので、メニューではあまり迷わない。
出てきたものを食べる。
腹のすき具合とおいしさと量によって食べる量がきまる。
食べながら思うのは、別のものにしておけばよかったかなあ、ということが多い。

井之頭五郎は酒が飲めないので「白い飯」がなくてはならない。

スッキリとして「こく」があってパンチの効いているような話ではなく、またこの漫画を見てそこに出てきたものを食べたくなるほどでもなく、なんとなくグズグズのオチもない話をきかされているようである。
でも、それがなんとなく心地よいのである。

その原因は原作者の「あとがき」を読んでわかった。
原作者の食べ物屋に対する思いとか態度とか私と似ているのである。

つまり食べ物屋に入って「食べてやる!」という思いではなく「いただく」という思いなのである。
ゆえに、まずかろうが店員の態度が悪かろうが、内心では腹が立ってもとりあえずそっと出てくる。
もちろん大層うまくたって店で褒めることもしない。

漫画は淡々と読んだが、あとがきは非常に面白く読んだ。

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こそ泥騒動 -我が家に泥棒が-

2008-12-05 21:56:26 | 日々雑感
今朝、先に起きた妻が
「家に泥棒が入ったらしい」
と起こしに来た。

「まさか」と思いながら階下に降りてみると、茶の間の引き出しが開けっ放しになって、確かに誰かが何かを探した痕跡がある。

又、玄関には施錠してあったが、玄関脇の通称「ピアノの部屋」のサッシが半開きになっている。
どうやら、そこは施錠を忘れたようだ。

玄関から外に出てみる。
道路からの入り口に黒いかばんが置き捨てられている。
娘の楽器(オーボエ)のケースである。
確かめてみると、中身は無事である。

家族を起こし確認をすると、やっぱり泥棒に入られたようである。
落ちついて、落ちついて、警察に電話をする。

3人の警察官がやってきた。
事情を聞かれるのと、あらされた部分の足跡や指紋を調べる。

盗まれたのは、楽器のケース(一見バックのよう)、引き出しからは黒いビニールの薄い袋と、これもビニールの小さなバックは確実である。
薄い袋には、母の保険証と病院の診察券5枚ほか病院に行くときに必要なものが入っている。
また、小さなバックには手紙やハガキそして写真が入っていた。
これらは一見金目のものが入っていそうである。

しかし、実は我が家には金目のものはないのである。勿論現金だってそれぞれの財布にそれぞれの当分の小遣いくらいしか入っていない。
(現金を家に置かない主義ではなくて、単純に現金がないのである)

というわけで、こそ泥はほとんど収穫はないことがわかった。
しかし、警察の現場検証と事情聴取は続く。
更には家族全員の指紋も採取である。

そうこうしているうちに、我が家からいちばん近い街灯のしたから診察券類が発見された。
ガッカリしたんだろうなあ、無造作に放ってあった。

それらを回収し、更に書類の作成を進める。
と、続いて保険証やハガキ・写真が次の街灯の下の排水溝で発見、ほとんど回収された。

まあ、盗まれたものはたいしたことはないと初めからわかってはいたが、ほっとしたことは確かである。

近くでもう一軒入られたらしく、最初大勢いた警察官も移動をはじめまた最初の3人で書類の作成を行う。

それにしても、こんな片田舎で物騒なことである。
実は昨日は職場の自動車も盗難にあっていて、昨日は被害届の写しを見せられたばかりで、まさか次の日自分が被害届に署名捺印するとは思わなかった。

まあ、その「こそ泥ちゃん」とお目にかからなかったことと「こそ泥ちゃん」が逆上して居直り強盗にならなかったので、身命になにもなかったことが救いであった。

年末でこういう経済状態だから・・・という理由があったとしても、私たちは同情してはならない。
社会の情勢はみんなに平等に押し寄せているのである。
その押し寄せた波をかわすのか、立ち向かうのかはそれぞれの人のそれぞれの力である。
なのに、自分にばかり強い波が来ると思ってはいけない。
ましてや、他人に危害を加えて生き延びようとするのは、もってのほかである。

そういう倫理観が欠けてきているから、全てを社会のせいにしてしまうのである。
誰が悪いのかといえば、私を含めて全ての社会人が悪いのである。そういう日本にしたのは私たち自身なのである。

幸いに今回は物的にも人的にも被害はなかったので「笑い話」になったが、我が家もこれで施錠の確認を必ず行うようになってしまった。

せちがらい、人を信じられない世の中になってきたなあ、という一日の始まりであった。

先ずは自分で自分を守ることからはじめなければならない。
私たちは何を築いてきたのだろう。

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俥宿の女房-新御宿かわせみ- 平岩弓枝 オール読物12月号

2008-12-01 23:58:47 | 読んだ
俥宿「大黒屋」が今回の物語の舞台である。

主人の大黒屋弥平は、房州の漁師のせがれで江戸に出てきて爪に火をともすようにして成り上がった男。その妻の津也子は御一新まで刀剣や甲冑を商う大店の娘で、御一新で没落し、身勝手で貪欲な大黒屋に嫁いだ。

<いかにもといわんばかりの設定であります>

更に大黒屋には妾がいてその間に息子もいる。
その息子を本宅につれてきたところ、折悪しく風邪で臥せっていた津也子から伝染されたかして、大層な風邪をひいてしまった。

津也子は、畝源太郎の母と知り合いという縁を頼って、神林麻太郎に妾の息子の診察を頼むが、一足遅く亡くなってしまう。
その息子の葬儀では妾から津也子は罵声を浴び暴力を受ける。

その後、大黒屋と妾の間で諍いが起こる。
妾の父親・弥平は「その人でなし、人の皮着た畜生と別れろ」「別れないのならお前たち二人を殺して俺も死ぬ」と娘に叫ぶ。

と、そのとき大黒屋が口から血を出し倒れる。
今度は神林麻太郎は間に合い、大黒屋を助ける。

妾宅で10日ほど病臥したあと周囲のとめるのをふりきり大黒屋は本宅に帰る。
が、そのあと、大黒屋は妾宅で、妾とその父親と3人で河豚の毒にあたり亡くなる。

残った大黒屋は津也子が主人となり大繁盛する。

ところが・・・・
大黒屋がなくなったのは本当に河豚の毒だったのか?
津也子と車夫とは何かの関係があったのではないか?

というような疑問が起こり、麻太郎と千春は推理する。

というのが物語の柱なのであるが、そんなことより今回は、畝源太郎と麻生花世との関係が進展したのである。
花世ファンの私としては、今後そちらの展開が非常に気になるのである。

兎も角ラストは見逃せない、怒涛のような展開である。

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