読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

楽天-広島 雨中の観戦

2008-05-31 23:18:18 | イーグルス
本日は雨の中、Kスタ宮城で行われた、プロ野球 楽天対広島戦を見てきたのである。

実は4月にも観戦を予定していたのであるが、そのときは雨で中止になったのである。
そのときの先発は岩隈、今日は予告先発ではないがローテーションから言えば岩隈である。

家を出るときから中止になるのではないかと心配をしていたのであるが、仙台についてみれば降っている量は少なく勢いも強くないので、これは「とりあえずやるな」というムードであった。

試合開始間近から雨は勢いが強くなったが、初回岩隈は四球のランナーを一塁に置き、3番アレックスに1・2塁間を破るヒット!、と思いきやランナーに打球が当たりアウト、ということでラッキーな立ち上がりで0点に抑える。
その裏、高須のヒットから山崎の四球を挟みリックのヒットで先制、そしてフェルナンデスのホームランで都合4点を奪った。
試合はこれで決定!
というカンジで、以後は雨も気にならず、勝利を確定するまで見届ける、という安心した展開。

雨の中、観た甲斐があったというもの。

帰りの雨は気にもならず、もっと降れ降れ、なんて思うくらい上機嫌であった。
明日も勝ってこの勢いとツキを持ち続けてほしい。
ガンバレ!東北楽天ゴールデンイーグルス!!

「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葛城ユキ コンサート

2008-05-30 23:32:06 | 観た、聴いた
正直言ってあまり期待をしていなかったのである。

通常からいわゆる「ロック魂」というものは好きではないので、ロックとかシャウトとかを前面に押し出しているものは、敬遠気味なのである。

会場は老若男女、どちらかといえば、老>若、というカンジである。
今回のコンサートは、あるライブハウスの1周年記念イベントであり、葛城ユキの前に前座3組が登場した。
かなりノリのいい曲を演奏したり歌ったりするのだが、会場の盛り上がりはイマイチである。

「ボヘミアン」から始まった。
どうするんだ?一曲目から、葛城ユキの最も有名な曲ではないか。

だいたい「今夜はどこに行くの?」という問いかけに「ボヘミアンを聴きに」と答えてたくらいだったのに、いいのか?という心配をしてしまった。

しかし、心配することはなかった。
葛城ユキの歌を聴けば聞くほど、盛り上がっていくのであった。
それは、私自身もそうなのだが会場全体が盛り上がっていくのである。

一言で申し上げれば「コクがある」のである。
もう少し言い足せば「全身で歌う」そして「彼女のこれまでの人生が全て投影されている」のである。

いやあこんなに感動したのは久々である。
『葛城ユキ、恐るべし!』である。
また機会があれば行ってみたい。

「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西洋宿館の亡霊(前・後)<新・御宿かわせみ> 平岩弓枝 オール読物5・6月号

2008-05-28 20:30:33 | 読んだ
5月号には「東吾の遺書が―――。驚愕の新展開!」と紹介されている。

東吾が亡くなる前に遺書を書いていたのか?
その内容は?

って、御宿かわせみならずとも、ましてやファンならばものすごい気になるではないか。
というわけで、5月号をすぐに読まず、6月号を買ってから一気に読んだのである。

物語は、千春が仏壇の掃除をしていることからはじまる。
そして、父・東吾の遺書を見つけ、これまで従兄妹だと思っていた神林麻太郎が母違いの兄だと知り、大きな衝撃を受けるのである。

そこから物語は「横浜」へ舞台を移していく。
千春は初めて「陸蒸気」に乗るのである。
横浜でも『東吾』の話が出てそして事件が起きるのである。

これまであまり表に出てこなかった「千春」が今回は主役級である。
かわせみの箱入り娘が、あやうく死にそうになったりする冒険をする。

麻太郎と兄妹であったことを知り、一つ大人になったのではあるまいか。
今後の展開が楽しみである。
(とはいうものの、花世、の活躍を読みたい、というのが一番の望みであはある)

「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤い虫 ちばてつや ビックコミック6.10号

2008-05-27 20:54:11 | 読んだ
「4年半の沈黙を破り、巨匠、登場!懇親の58ページ、一挙掲載!!」
とある。

「ちばてつや」は小さいときからの馴染みである。

お気に入りはなんといっても「おれは鉄兵」である。
それから「紫電改のタカ」もよかった。

絵が力強くて弾んでいてしっかりしている。こういう絵の漫画が好きである。
線の細い、少女マンガ風は苦手なのである。

というわけで、この「赤い虫」はちばてつやの自伝的・あるいはエッセイ風なものである。
47年前、本当にあったこと、ということである。

内容は実際に読んでもらうこととして、さすが巨匠、じっくり読ませます。
なんといってもやっぱり「絵」がいい。

漫画というカンジ、つまりデフォルメされていて簡素化されていて、それでいてリアルなところがナントモいえなくいいのである。

「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青春のうた 第60巻 1960年代後期10

2008-05-25 22:16:10 | 読んだ
1.バラが咲いた/マイク真木 1966年7月

初めて聴いたとき「なんて簡単な歌なんだろう」と思った。
そして、穢れのないきれいな歌、というイメージである。

作詞・作曲は浜口庫之助である。
この人の歌は「繰り返し」が多い。(吉幾三もであるが)

で、この曲も繰り返しが多いのであるが、その繰り返しがナントモ言えずいいのである。
つまり、しつこくなく心に響くのである。

2.小さなスナック/パープル・シャドウズ 1968年3月

ジャンルでいえばグループサウンズだった。

グループサウンズの末期は「汚い」(長髪)とか「絶叫」(シャウト)といったカンジで、当時田舎の小学生にはとても素直に受け入れがたいものであった。

そんな時、このパープル・シャドウズやヴィレッジ・シンガーズは、キレイで割りと素直に受け入れられたような気がする。
もう少し年数を経ると、社会一般的(特に親)には眉を顰めるものに傾倒していくのであるが、小学生ではまだまだそうではなかったのである。

とはいえ、この「小さなスナック」は大人の歌というイメージで、なんだか不思議な歌だった。
なんだかよくわからない理由で何もいわずに「彼氏」の前からいなくなるという世界はよく理解できないのである。(これは今でも同じである)

歌詞はそうであってもメロディーがきれいで頭の中に素直に入ってくるのであった。

3.さよならは云わないで/モダン・フォーク・フェローズ 1969年6月

初めて聴いた。
いわゆる「カレッジ・フォーク」である。
フォークソング初期の「キレイ」さが出ている歌である。

感想としては
「はあ、さようでございますか」
というカンジ。

4.大・ダイジェスト版 三億円強奪事件の唄/高田渡 1969年4月

この歌もはじめて聴いた。
当時の状況をよく知っている、そして事件の行方をみんなで追っているときには、「そうだよなあ」と思って聴くとは思うのであるが、事件が風化してしまうと、歌も風化してしまう。

それにしてもあの3億円事件は、当時の若い人たちには「カッコイイ」と移っていたのであろうか。義賊というイメージも片一方にはあったようだからねえ。

5.想い出の赤いヤッケ/高石友也 1967年3月

この歌はよくラジオから流れてきた。
心に響く歌詞とメロディーである。

最後の
「けど もう あえぬ」
という部分がなんともいえずさびしい気持ちにさせられるのであった。

今まで聞いたのはライブ版で、観客も一緒に歌っていたが、そうでないのははじめてである。ライブのほうが感情がこもってていいかもしれない。

6.友よ/岡林信康、高石友也、フォーク・キャンパーズ

岡林信康という名前を知り、歌を聴くようになったときには、すでに彼は「フォークソングの神様」であった。
だから、ラジオから彼の歌が流れてくると、なんとなく「畏まって聴く」というカンジであった。

別に居住まいを正して聴いたわけではないのであるが、心の中では「畏まって」板のである。

その気持ちは今でも続いている。
昨年10月、日比谷野外音楽堂のライブコンサートをNHKBSで放映されたとき、本人としては変わった自分を表現したかったのであろうが、やっぱり岡林信康は「畏れ多き」としか思えず「拝聴」している気分だったのである。

「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エカテリーナとシモネッタ 田丸公美子 オール読物6月号

2008-05-24 18:17:29 | 読んだ
新・御宿かわせみ「西洋宿館の亡霊」は5月号で前編、6月号で後編だったので、一気に読んでしまおうとしていたら、6月号の目次を見て「エカテリーナとシモネッタ」というのを見つけてしまった。

「没後二年―――。友・米原万里へ捧ぐ」とある。

米原万里著の「パンツの面目ふんどしの沽券」を読み終えたばかりで、この追悼文にであうというのは『縁』である。
私はこういうのを偶然の出会いとは思わない。『縁』なのである。そして『縁』は大切にする。

というわけで、威儀を正して、拝読したのである。

「その人の素顔」とか「あの人の素顔」というのがあるが、素顔というのはどういうことなんだろうか。
自分自身のことを思い出せば、すべての人に同じ態度同じ素顔を見せているわけではない。
だから、いろいろな人が描く「あの人の素顔」というのは、やっぱりあの人の一面なんだと思う。

というわけで、今回描かれた米原万里さんは田丸公美子さんから見た米原万里ということなんだろうが、隠すことなく自分をさらけ出している米原万里、が見える。

著者の田丸公美子さんは米原万里さんと出会ってすぐに「シモネッタ」というあだ名をいただく。米原さんと田丸さんの共通項は「シモネタ」にあったことによる。

田丸さんは米原に言う
「私はあたたの友達ではない!私は、あたなの従者、私たちは主従関係」「権力者におもねる太鼓もち」
そして、米原さんを「エカテリーナ(エ勝手リーナ)」と呼ぶ。

シモネタを競い、辛らつなことを言い合い、二人は親密さを深めていく。
そして、米原さんの発病・闘病・・・死。

田丸さんのやりきれない気持ちと、米原さんの鮮やかな姿がよくわかる、最高の追悼文であった。

「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パンツの面目ふんどしの沽券 米原万里 ちくま文庫

2008-05-22 22:59:37 | 読んだ
米原万里の書いたものは好きである。
なんとも潔いというか思い切った文である。

いささか「露悪的」でもある。
特に「シモネタ」が得意である。
「えー、女の人がこんなこと書いていいの?」と思うような文もある。
もっとも男がそんなことを書いてしまうと「品性」並びに今流行の「品格」を疑われるのだが、米原万里が書くと逆に「心の広さ」とか「人物の大きさ」みたいなものを感じさせられるのである。

さて、本書「パンツの面目ふんどしの沽券」は、なんといいましょうか、まあ「くだらないテーマ」といえるのであるが、これを掘り下げたりしていく、なんとなく学術的になっていくから不思議である。

くだらないけれど学術的、というのがナントモ妙であり、米原万里らしいのである。

人類史上において「パンツが先かふんどしが先か」ということに興味を抱いた著者が歴史をさかのぼり研究検討を重ねるうちに、どこからかその方面のケンイがやってきて助言をもらったりしている。その方面を真面目に研究されている方も多いのである。

ふんどしは日本固有のものであるのか?
といったもの
イエスキリストが磔にされたときの絵にある腰のものはふんどしかパンツか?
人はいつから股間を隠すようになったのか?そしてその理由は?
などと、我々もそういわれれば「どうしてでしょうね?」と疑問を持ってしまう事柄に、米原万里は挑むのである。

いつもいつも思うのであるが、米原万里と一回お話をしてみたかった。
返す返すも若くして亡くなったこと残念である。

「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自虐の詩 <映画:DVD>

2008-05-19 21:29:50 | 観た、聴いた
絶対に映画館に観にいこう!と思っていたのに行けなかった。
DVDが出たので借りてきて観たのであった。

原作の4コマ漫画は業田良家の作。
週間宝石に連載されていた当時から読んでいたもので、最初のころはイロイロな自虐があったように思うのであるが、徐々に幸江とイサオの物語になり、自虐の詩といえばこの幸江とイサオの物語をいうようになった。

最初のころはイサオの「でーぃ!」があまりにも理不尽で幸江がかわいそうで仕方がなかったが、幸江の過去が描かれていくうちにそこには「深い」ものがあることがわかり、毎週楽しみに待つようになったのである。

さて、映画「自虐の詩」は概ね原作どうりといえる。
幸江の出身地が宮城県気仙沼市ということもあり、中学時代の幸江と熊本さんのしゃべる言葉が我々と同じであって、親しみを感じた。

中谷美紀が美人すぎて幸江があまりかわいそうでないことが、なんだかよかったのか悪かったのか・・・

また原作の持っているもの、貧しさ、悲しさ、惨めさあふれる中で、傍から見ると「笑える」というところが、やっぱり実写では難しいのかなあと感じたのである。

一生懸命幸せになろうとする幸江が一生懸命になろうとすればするほど、さらに惨めな結果を生み出すことになる。そこにおかしさとか笑いがあるのだが、実写はそれが哀しくなってしまう。観る側に幸江への『おもいいれ』がどうしても大きくなってしまうからだと思うのだが。(それは中谷美紀が美人だからだと思う)

自虐の詩の一つの解釈として「アリ」だと思う。

映画館で見ればもっと感動したんだろうなあ。

追伸
 なんともうまく時期があったと思うのだが「自虐の詩」が私の身にも起きてしまった。
 昨日、自転車で走行中に転倒してしまい、なんと前歯2本骨折、肋骨の骨折(ひびが入った)と擦過傷多数という結果になってしまった。
 本日はマスクをして人前にでたのであるが、食べることもままならず、しばらくの間は「謹慎」生活をしなくてはならないのか、と思っている。
 恥ずかしさと情けなさに涙するのであるが、鏡に映る我が顔を見ると笑ってしまうのである。

「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

くうねるところすむところ 平安寿子 文春文庫

2008-05-15 22:14:26 | 読んだ
平安寿子の小説は「オモシロイ」
なかなか読む機会がなくてというか「文庫本」が見当たらなかったり、読みたいという気持ちがないときに出会ったりしていたのである。

この本は、新聞に文庫本の広告を見たときから「読みたい」と思っていたもので、早速買ってきて読んだら、これが「大正解」であった。
「オモシロイ」のである。

文庫本の帯には

それは人生そのものなのだ!
一目ぼれした男を追いかけて
土建屋の世界に飛び込んだ理央、30歳
でも知らなかった、
家を建てるのが
こんなにも興奮することだなんて!


この物語の主人公は二人いる。
一人は帯にも書いてある「山根理央」30歳。
そしてもう一人は「鍵山郷子」47歳。

物語は
その1からその5まで5話連作という形である。
で、1・3・5が理央が主人公、2と4が郷子が主人公である。

理央は小さな求人雑誌の副編集長、編集長の五郎は不倫相手でもある。
五郎との仲そして仕事にも行き詰った30歳の誕生日、一人で酒を飲み、気づいたら工事現場の足場を登り降りられなくなっていた。

というところから物語は始まる。

理央は工事現場で助けてくれた徹男に一目ぼれ。そして求人雑誌の仕事をしているのがイヤになりやめることにした。

郷子は、鍵山工務店の一人娘で、婿をとり社長夫人であった。
しかし、夫の浮気で離婚、工務店の社長をしなければならないことになった。

理央は家を建てることにこれからの生涯をかけたいと思っている。一方郷子は何とかこの仕事をやめたいと思っている。
この二人が出会い、仕事をしているうちにイロイロな出来事が起きて、そして最後には・・・

家を作る、ということについて施主側の思いと工務店(大工)側の思いの食い違い、それはどちらが悪いということではないだけに、難しい問題となる。
しかし出来上がったときの感動は、同じなのである。

テンポよく物語りは進み、それなのに細かな描写もしっかりしている。
一気に読んでしまった。

お勧めの小説である。

「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説新潮5月号特集 「これが警察小説だ!」

2008-05-13 22:38:21 | 読んだ
小説新潮5月号の特集が二つあって、その一つがこの「これが警察小説だ!」である。
5本の小説である。例によって評価は以下のとおりである。

評価の項目 ①オチの意外性 ②納得性 ③余韻 ④嗜好性
評価    Aいい Bまあまあ Cあっそう D問題外 E読まなければよかった

「冤罪」今野敏 ①=B ②=C ③=C ④=C

警視庁刑事部長の伊丹は放火事件で誤認逮捕・冤罪があったということ聞き、所轄署へ行く。
事件の犯人を捕まえたと思ったら、別の者が自首してきたのだ。

現場では自首してきた者を真犯人とする意見が強いのであるが、どうしても最初の犯人が真犯人だという刑事がいる。
伊丹は迷った末に、同期の大森警察署長・竜崎伸也に電話をかけて相談する。
竜崎は面倒くさがりながらも一つのアドバイスを送る。

そのアドバイスに従った結果は・・・

「バスストップ」誉田哲也 ①=B ②=B ③=C ④=C

練馬署・刑事組織犯罪対策課の魚住久江巡査部長のもとに「強制わいせつ事案」の調査がはいった。
被害者からの事情聴取がすんだころ、警視庁から佐久間警部補がやってきて、その事案との関連事件を調査しているから調書を見せろと威丈高に言う。その後も捜査の指揮をとり、事件の翌日に現場にいたというだけの理由で一人の男を確保する。
魚住は、その男の話を聞いてつい先日友人の万里子から聞いた話を思い出し・・・・

事件というか男が現場に行かなければならない怪しい行動の理由の意外性というのも話の筋として面白いが、なんといったって佐久間警部補の傍若無人な態度に腹が立ち、それが最後に大逆転するのも面白い。
警察の階級制度と年齢との関係などによる人間関係が警察小説を面白くするひとつの要因であることがわかる。

「孤独の帯」安東能明 ①=C ②=C ③=C ④=C

本庁管理部門の経験の長い柴崎は、部下の拳銃自殺の責めを一人で背負わされ、綾瀬署の刑務課長代理となった。
刑務課長は次長が兼務しているが、その次長・助川は、柴崎が警部に昇任したときの警察学校で行われた「警部任用教養」の4ヶ月の研修のときの「刑事警察」の講師であった。
研修の際に「現行犯逮捕をしたことのない者」ということで1時間の授業中ずっと立たされていた。

その綾瀬署管内で『自絞死』の事件が発生し、柴崎は助川に連れられて現場に赴く。以後その事件に取り組むのであったが・・・

「邯鄲の夢」永瀬隼介 ①=C ②=C ③=B ④=Cマイナス

三鷹署の交通係長の国光警部補は、娘に婚約者を紹介され驚く。
それは昔、国光が警視庁生活安全部に勤務していた頃取り扱った事件、そしてその事件をもとに人生が変わってしまったことに関連していたことと関わりがあるためであった。

そして国光は昔の事件とのかかわりと娘の結婚を成就させるために・・・

なんというかちょっと前の時代のお話かと思う設定であった。

「禁猟区」乃南アサ ①=C ②=B ③=C ④=B

若山直子巡査部長は夫と社会人の長女と大学3年の次女がいる。
その直子はあることからホストクラブに出入りし脅されている少女たちの家から事件の解決をしてあげるといってお金をもらっていた。
また、以前補導したことのある男がホストになっていてそのホストクラブにも入り浸っていた。
そしてまたホストクラブに絡んだ事件でホストクラブと少女たちの家からお金を巻き上げようとするが・・・

この物語は警察組織のドラマではなく警察官のお話であり、それはそれで面白かった。

総評

5本ともおもしろかった。前3本は警察組織の階級制度のなかで自分と組織をどう折り合っていくのか、ということが隠れたテーマであったような気がする。
今の世の中、こういう階級制度というのはあまりなくなってきたので、警察という組織がある意味「新鮮」なのかもしれない。

「階級」ということが徐々になし崩し的に社会から消えていっていることについて今後警察はどう対応していくのだろうか?

そういう意味で後の2編は、組織も階級もなく自分というものを強く意識したものであった。「邯鄲の夢」は昔風「禁猟区」は現代風であったが、自分を強く出したものであった。

警察という一般社会から見れば特殊な環境が警察小説をおもしろくさせている要因なのだなあ、と改めて思ったのであった。

「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青春のうた 第59巻 1970年代中期18

2008-05-11 19:08:38 | 読んだ
1.銀の指環/チューリップ 1974年1月

チューリップの曲は好きだが、そのなかでもこの銀の指環はベスト3に入る。
4行の詞にシンプルな曲、というのは私の好きなタイプ。
基本的にはこういうシンプルで元気のいいのが好きである。

失恋の歌だけどいいノリである。
大合唱したい歌である。

1974年、高校3年生の私は、こういう恋
「<二人でちかった愛のしるし>として<銀の指環>をかわす」
に憧れていたが、私の太くて短い指には、指環は似合わないということにその後気づくのであった。

2.沖縄ベイ・ブルース/ダウン・タウン・ブギウギ・バンド 1976年11月

ダウン・タウン・ブギウギ・バンド(DTBWB)は、シンプルな曲で売れしばらくはその傾向であったが徐々に複雑化していった。
そのことは、いわゆる音楽性が高まってきたということと「勢い」から「安定」への転換なのだろうから、別に駄目ということではないのだが、ついていけなくなったりすることがある。

これは例えばアイドルが大人への転換をはかることと似ている。

で、DTBWBは、宇崎竜童の歌い方と曲がマッチしてきて、徐々に自分の形のようなものが出来上がってきた。
その形が好きなのか嫌いなのか、ということであるが、私としてはついていけない方向であったような気がする。

3.尾崎家の祖母(おさざきんちのばばあ)/まりちゃんず 1975年3月

まりちゃんずというグループが、なんだか過激な歌をうたっているらしい、という情報は当時持っていたような気がする。

しかし、その歌をはっきりと聞いたことはなかった。
なにしろ「放送禁止」になるような歌だったし、あえてそのレコードを買おうとも思わなかったので、結局聞くことはなかった。

当時から常識人であった私には(?、苦笑)眉をひそめさせるような歌詞でもあったので、そのユーモア或いはシャレというのが理解できなかった。

この「尾崎家の祖母」はその後93年にリバイバルヒットしたが、その時には眉をひそめる人もいなかったんだろう。
なんとなく吹っ切れたように歌っていたのをテレビで見た。

リードギターがあのCharということは知っていたが、今回このCDで改めて確認して「オーッ」と思ったのであった。

4.おまえのサンダル/かぐや姫 1974年3月

かぐや姫のアルバム「三階建ての詩」に収められていた。

神田川、赤ちょうちんの系統の歌である。(と思っている)
悲しい、貧しい、当時は4畳半フォークという分類をされていた。

三階建ての詩には「なごり雪」や「22歳のわかれ」なども収められており、この歌は「ああ、あの系統ね」と聞き流していた。

それに当時、このような恋には憧れていないものねえ。
だって
♪きつい暮らしと 涙の他は 何も与えなかった♪
ですからねえ。

5.おやすみ/小泉まさみとこんがりトースト 1974年8月

初めて聴いた曲である。

この頃から、それまでのフォークソングがイロイロ分類されてきた。
ニューミュージックという分類も出てくる頃である。

つまり、それまでのキメゴトみたいなものが崩れてきて「それもあっていいんじゃない」という感覚になってきたんだと思う。
だから歌に対するアンテナも広げないとついていけない状況だったのだが、こちらとしてはアンテナを広げるような環境ではなくなってきたのであった。

6.踊り子/下田逸郎 1974年10月

当時の私の感覚とでは、この曲は限りなく演歌に近いと思っていた。
別に演歌が嫌いなわけではないのであるが、こういうテーマであればそっちでやってよ、という気持ちであった。

繰り返すようであるが、こういうテーマはそっちでとか、というのはもう古い考え方であって、演歌であろうがポップッスであろうが、それまでのいわゆる「フォークソング」と呼ばれていたものの影響を大きく受けてきていて、それらが融合するようなそんな時代であった。

そういう状況を感じてはいたのであるが、やっぱり、まだまだそれまでの感覚というのは捨てられないのであった。

「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相棒 -劇場版- 絶対絶命!42.195km 東京ビックシティマラソン

2008-05-10 23:15:24 | 観た、聴いた
5月5日に、観にいってきたのである。
前日に予約していたのであるが、ほぼ満員の状況であった。

テレビドラマは観たり観なかったりでいわゆる相棒の「ファン」ではないので、人物相関も明確ではないのである。

この「相棒」というのは、水谷豊演じる「杉下右京」と寺脇康文演じる「亀山薫
」のことだと思っていたのだが、この映画を観て「イヤイヤ違う」のではないかと思った。
このドラマにはイロイロな相棒が潜んでいるのではないだろうか。
それも感じ取りながら観るというのもいいかもしれない。

このドラマは推理ものであるから、あらすじや内容を語るべきではないので、割愛をするが、考えさせられるテーマで厳しい内容ではあった。

マスコミを経由して受け取る情報というのは、どうしても「真実」であると思いがちであるが、実はそうでもないということ。
そしてまた「真実」というのは、多くの事象が絡み合っているため存在しないかもしれないということ。
そんなことを考えさせられた。

私はテレビドラマの推理ものを観るときはいつも「配役」で犯人探しをしてしまうのであるが、今回もそんなことを思ってしまい、このあたりがテレビデあれ映画であれ作る側としては難しいところなんだなあと思ったのであった。

それからもう少し「派手」なものになっているのかと思っていたのであったが、「踊る大捜査線」を想像しているとちょっとガッカリする。

とはいえ、なかなかおもしろいしハラハラドキドキのドラマであった。

「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代語裏辞典 筒井康隆 オール読物5月号

2008-05-07 23:07:19 | 読んだ
もともとは月刊誌「遊歩人」に連載されていたのだが、出資者であるコニカミノルタ社の意向で連載が中断された、とのこと。

「なにかあった」のである。
調べてみると、資金提供がなくなったため、らしい。
なんだかつまらない。喧嘩でもしたのかと思った。

というわけで、辞典は「ね」から始まった。

以前「乱調文学大辞典」で笑わされた。
今回のこの辞典も笑わされる。
たとえば

「ねんぐ〔年貢〕百姓は毎年、悪党は最期に一回納める。」
「ノーコメント 最もよく使われるコメント。」


もっと過激なものもあるのだが、怖くて写せない。

パッパッと読み流してもおもしろい、じっくり読むとさらに発見するものがある。
バカバカしくてどっかで使ってやろうかと思う辞典である。
連載されるので、オール読物の楽しみが増えた。
今回は「は行のい」で終了した。

「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特集「宮脇俊三と旅する」 小説新潮5月号

2008-05-05 23:30:52 | 読んだ
小説新潮5月号の特集は「宮脇俊三」である。

私もかつて宮脇俊三の本を読みふけったことがあった。

「旅」というものにあこがれていたのであった。
どっかへ行ってしまいたい、という気持ちがあった。

しかし、宮脇俊三の旅は必ず帰ってくるのである。
ゆえに安心して読める旅の本ともいえる。

さて、特集は、
宮脇俊三の小説2本とよくわからない架空対談(はっきりいってあまり面白くない)、
追悼エッセイ「北杜夫」「村松友視」、
関川夏央の「汽車旅の楽しみとは何か」、
ブックガイド「宮脇俊三を読んで育った」(小牟田哲彦)、
車窓対談「鉄道の愉しみ方教えます」原武史×宮脇灯子(宮脇俊三の長女)、
トリビュート紀行「9to5の女<根室本線 宮脇俊三に捧げる寝ずの旅」酒井順子
そしてグラビア「宮脇俊三が撮った鉄道」選・櫻井寛
である。

宮脇俊三の書いたもので私が読んでいるのは、いわゆる紀行ものである。
この紀行ものがそれまで読んだものとぜんぜん違っていた。

つまり「汽車に乗る」ことが目的なのである。
通常は『どこかへ行く』つまり移動の手段として用いるのが「汽車」なのであるが、手段であるべきものが目的と化している、ということに新鮮さを覚えたのである。

私は汽車にのれば本を読むか眠るかなので、景色もあまり見ずにましてや汽車の形やスピードあるいはダイヤがどのようになっているか、なんてことはぜんぜん気にも留めないのであるが、そうではない人(人種)が存在することを、宮脇俊三の本を読んで知ったのであった。

そして何冊か読んだということは、宮脇俊三に共感したのである。
おもしろそうだなあ、と感動したのである。
1回はやってみようかと思ったのであるが、やはり鈍行(各駅停車)で遠方に行くのは性に合わず、試したこともないのである。

何はともあれ、宮脇俊三的な旅、というのも一つの旅の形であり、旅というのが、いや世間あるいは人というのはさまざまであるんだなあと思ったのであった。

それから、宮脇俊三の紀行はどこかに「恥ずかしい」という部分があったような気がする。つまり「何の役にも立たない」ということについて恥じていたように思えるのである。

もしかしたらその部分に惹かれたたのかもしれない。

「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タイムスリップ釈迦如来 鯨統一郎 講談社文庫

2008-05-04 17:58:50 | 読んだ
講談社文庫、鯨統一郎の「タイムスリップ」シリーズ第3弾である。

第1弾は「タイムスリップ森鴎外」森鴎外が現代にタイムスリップしてきた話。
第2弾は「タイムスリップ明治維新」現代から明治維新にタイムスリップしてきた話である。いずれも、嘉壽家堂本店「読書日記」に掲載している。(2007.3.24と2007.4.13である)

さて、第3弾は、なんと釈迦如来の時代にタイムスリップするのである。
タイムスリップしていくのは、このシリーズおなじみの「麓うらら」と「うらら」が不良生徒として更正させられるため入れられた全寮制施設「吉野ダイビングスクール」の代表者吉野公彦である。

例によって、ギャグ満載の物語である。
吉野公彦は、タイムスリップして釈迦に会うのだが、そのときに職業を訊かれ
「ダイバーだった」といったら、名前と勘違いされ「ダイバダッタ」になる、というイヤハヤナントモなことになってしまうのである。

基本的には歴史を外さないが部分的にはむちゃくちゃに外しまくりである。
で、そのはずしまくりが「たまらない」のである。

何しろ、マツケンサンバや世界に一つだけの花が重要な役割で登場するし、比喩が今の時代でなければわからないだろうというのが多数ある。

そして、登場する人物たちは「釈迦」「老子」「ソクラテス」なのであるが、たいした人物なのになんだか「イマドキ」でもある。

真面目に歴史を考え知りたい人にとっては「不真面目極まりない」ものであるだろうし「噴飯もの」でもあるだろうが『いやいやなかなか』なものであるのだ。

なんといったって、真に知る人はいないのだからねえ。
たとえ釈迦がオカマであろうとも・・・

兎も角「面白い」ということでは間違いなしの物語である。

「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする