慶次郎縁側日記、今更ながらはまっている。
この第2巻が文庫本になったのは平成13年である。
小説新潮に掲載されていたのはわかっていたが、なぜか読まずにいた。
で、最近、小説新潮に掲載されていたのを読んで
「これはなんだかおもしろい」
となり(2010年4月14日ブログ参照)、第1巻の「傷」を読んだ。(2010年9月2日のブログ参照)
で、第2巻を探していたのである。
絶対読みたいと思えばインターネットで注文したらいいのである、しかし、本屋で見つけるまで待ったのである。
なぜかといえば、第1巻の「傷」はとても悲惨なものであり、果たして慶次郎についていけるのだろうか?というかすかな逡巡があったこと。そして、出会わなければそれで縁がなかったんだという考え方を持っていること、である。
この物語の主人公:森口慶次郎は「仏」と呼ばれた同心である。
それが仏を鬼に変えるような事件に遭う。
結婚を間近にした娘が男に犯され自殺したのである。
今(つまり物語の舞台上)では、慶次郎はその職を義理の息子に譲り酒問屋の寮番をしている。
そして「鬼」にはなっていない。
何故鬼にならなかったのか、ということを、この物語では解き明かしていない。
解き明かしていないが、なんとなくわかる。
一つは「鬼」になりきれない強さが慶次郎にはあるということ。
もう一つは「鬼」にはさせない周囲の人間がいるということである。
というわけで第2巻は、心温まる物語の連続である。
文庫本1冊に12の物語が入っている。
で、どれもが「いい」のである。
この物語の特徴は、完全に解決していない形で終わることである。
そして、それぞれの物語の主人公がいるということである。
で、物語が終わったとき、読者はその後を想像し、ハッピーエンド、であることを確信するのである。
すがすがしい、ぬくもりのある、という読後感はあまりにも当たり前すぎるのだが・・・第3巻を読み終わる前にあらたな読後感の表現を考えておこう。
ちなみに、第3巻の「おひで」もなかなか本屋さんで見つけられないので第2巻と一緒に購入している。
「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
この第2巻が文庫本になったのは平成13年である。
小説新潮に掲載されていたのはわかっていたが、なぜか読まずにいた。
で、最近、小説新潮に掲載されていたのを読んで
「これはなんだかおもしろい」
となり(2010年4月14日ブログ参照)、第1巻の「傷」を読んだ。(2010年9月2日のブログ参照)
で、第2巻を探していたのである。
絶対読みたいと思えばインターネットで注文したらいいのである、しかし、本屋で見つけるまで待ったのである。
なぜかといえば、第1巻の「傷」はとても悲惨なものであり、果たして慶次郎についていけるのだろうか?というかすかな逡巡があったこと。そして、出会わなければそれで縁がなかったんだという考え方を持っていること、である。
この物語の主人公:森口慶次郎は「仏」と呼ばれた同心である。
それが仏を鬼に変えるような事件に遭う。
結婚を間近にした娘が男に犯され自殺したのである。
今(つまり物語の舞台上)では、慶次郎はその職を義理の息子に譲り酒問屋の寮番をしている。
そして「鬼」にはなっていない。
何故鬼にならなかったのか、ということを、この物語では解き明かしていない。
解き明かしていないが、なんとなくわかる。
一つは「鬼」になりきれない強さが慶次郎にはあるということ。
もう一つは「鬼」にはさせない周囲の人間がいるということである。
というわけで第2巻は、心温まる物語の連続である。
文庫本1冊に12の物語が入っている。
で、どれもが「いい」のである。
この物語の特徴は、完全に解決していない形で終わることである。
そして、それぞれの物語の主人公がいるということである。
で、物語が終わったとき、読者はその後を想像し、ハッピーエンド、であることを確信するのである。
すがすがしい、ぬくもりのある、という読後感はあまりにも当たり前すぎるのだが・・・第3巻を読み終わる前にあらたな読後感の表現を考えておこう。
ちなみに、第3巻の「おひで」もなかなか本屋さんで見つけられないので第2巻と一緒に購入している。
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