読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

紅白歌合戦

2014-12-31 23:58:14 | 観た、聴いた
外は雪。
昼間は曇り空で、それでも明日から晴れるとの予報、車を念入りに洗った。
で、夜は大きな雪が静かに降っている。

さて、今年の紅白歌合戦は、あっという間であった。
演出がスピーディだった。
次々と移り変わる画面に、あれよあれよ、としていた。
また、今年はスマホに紅白合戦のアプリを入れて、ツイートされているのを娘が読むので、その感想も述べなければならず(何も無理をして述べなくてもいいのだけれど・・・)、それに酒を飲んでもいたので・・・

というわけで、紅白歌合戦を観ながら思ったことがあったので、それを二つ三つ述べさせていただく。

その一
スピーディなことはいいことでもあるが、じっくり聞きたい歌もある。
しかもじっくり聞きたい歌は少ないので、そのあたりは検討してもらいたかった。
藤あや子、五代夏子、香西かおり、坂本冬美あたりは、演出過剰でかわいそうだった。

それから、近頃はグループの時代なんだとつくづく思わされた。
紅白ともに、ベテラン以外は一人で歌い上げるということはなく、踊り歌うというスタイルである。
それはそれで面白いのではあるが、一面「なんだかなあ」という気持ちもある。

森進一の「年上の人」はしばらくぶりできいたが『だめよ だめ だめ』というフレーズに、せっかくの歌なのにと思い、森進一も「だめよだめだめ」の元祖などといわれようなことは断れよな、と思ったのである。

それから紅白に関係のない歌、というのもなんだか変である。
もうひとつ、別の場所からというのも、なんだか変である。
歌い手に媚びているのか、聞く側に媚びているのかよく解らないが、原則は原則として貫くべきである。
どうも、いろいろなところに迎合しているような気がする。

これも、全体的な視聴率だけではなく瞬間的な視聴率という評価基準がなせることであるが、それだけでやるのもいかがなものかと思うのである。


さて、今回の紅白合戦の私からの敢闘賞は次の方々に送りたい。

HKT48、藤あやこ、細川たかし、和田アキコ、中島みゆき。

ところで、なんであんなに点差があるのだろうか?
紅組にスマホで投票した私としてはいささか疑問である。

というわけで、みなさんよい新年をお迎えください。

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居酒屋 -近頃の酒の飲み方-

2014-12-30 10:22:47 | 日々雑感
年末は忘年会、明ければ新年会、ということで、お酒を飲む日々が続いている。
近頃は、深酒をすると翌日が心配なので、できる限り「抑制」をしている。(つもりだ。)

で、ですね、近頃の居酒屋はメニューが豊富なので迷ってしまう。

以前は、ビールから始まって日本酒というパターンで決まっていた。
しかし、この頃は、ナントカサワ-、焼酎(芋、麦、その他)、ハイボール(これも割と種類がある)、カクテル、日本酒だって吟醸、大吟醸、純米、純米吟醸などといろいろある。

最初の頃は、例えば日本酒でも銘柄や紹介文を見て「ああでもない、こうでもない」と悩んで飲んでいた。
また、日本酒のウンチクが好きなので、なんとかついていこうと思っていた。

しかし、近頃は酒を飲むときにメニューで悩むのが面倒になった。悩むというか「選択をする」という行為が面倒くさい。

「次、何にします?」
という、問いかけが煩わしい。

それでいて、近頃は口が賤しく浅ましい。
量はいらないが、ありとあらゆるものを飲みたい、食べたい。
さらに、どうせ飲むなら、面白い話をしたい。

ということで、どうなるかというと、面白い話をしたいと思う人が少ない場合は「飲む」ほうに走る。
大体、私の住んでいる町は『田舎』なのに、居酒屋チェーン店があり、もともとの地元居酒屋もチェーン店的メニューになっていることがおかしいと思う。

そして『飲み放題プラン』という、私の心を浅ましくさせる宴会手法。

酒に関するメニューの豊富さと飲み放題が、私の「抑制感」を開放させるのである。決して私の心の弱さではないと思うのだ・・・

先日などは『今日はとことんサワー』というNHKFM的な主題のもとに、サワーのメニューを制覇するという、酒飲みならば一度は夢見る(?)企てに挑戦したのであった。

片手には「甘い系」片手には「甘くない系」をもって、ただひたすら飲み続けたのであった。
が、全部は飲めなかった。
原因は「酔い」ではなくて、おなかがいっぱいになってしまったことになる。
炭酸系は量的に限界があるようです。

そんなことしないで、ビールならビール、日本酒なら日本酒にしとけばいいじゃない!
と、おっしゃるあなた。そう、そこのあなた。

宴会を行う店の多くのビールと日本酒はあまりおいしくないのですよ。
宴会用のビールや酒があるのではないかと思うのです。
例えばビールをピッチャーでもらうのはいかがかと、日本酒だって宴会用のものはまずくはありませんが、飲み続けていると口の中がネバネバしてきて、お話がうまくいかない。(決して酔って呂律が回らないのではありません)。

私もそろそろ「還暦」が近いということで、落ち着いたお酒の飲み方をしたいと思うのでありますが、なかなかできません。
60才といえば、孔子先生は「耳順(じじゅん)」の年齢、すなわち他のものを素直に受け入れられる年齢である。
私は「口順(くじゅん)」とか「酒順(しゅじゅん)」の心境になりたいものだ。

さて、今年というか今回の年末年始の休暇は長いので、珍しく、本屋に行って本を買ってきた。(近頃は通販が多い)。

で、思わす買ってきたのが、宮城谷昌光の「三国志」である。
これは絶対に手を出してはならない、と自分を戒めていたのであるが、陳舜臣の「小説十八史略」を読んでいて、やっぱり中国史のなかでもっとも面白いのは三国の時代だよなあ、なんて思っていたのが、つい手を出すきっかけになったのだと思う。

なぜ戒めていたのかというと、夢中になりすぎるような気がしているからである。
今の私は何かに夢中になってはならない状況にいるにもかかわらず。

というわけで、第1巻をどのようなペースで読むのかが問題である。

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美味しんぼ 111巻 「福島の真実」編 下  作・雁屋哲 画・花咲アキラ

2014-12-27 22:45:25 | 読んだ
連載中に話題となった、美味しんぼの福島の真実の後編である。
連載時の表現を変えたということで、また話題を生んでいるようだ。

今回も福島を巡って「食」を探すというより、放射能汚染についての取材という面が強い。

放射能を巡って正面からとらえた漫画というか物語が少ない中、よくやった、とは思うが、美味しんぼというこれまでの流れでここまで行くのもなあ、という思いもある。

その中で、主人公の山岡とその父の雄山とが徐々にその中を取り戻していくのは、別の感動がある。
雄山夫婦の出会いと、愛と信頼によって支えられていた夫婦の生活が、雄山自身の口から語られ、それを割と素直に聞く山岡。

それはそれなりなのであるが、その中に驚くような「食」はなかった。

「美味しんぼ」という漫画の本質は「おいしいものとは何か?」ということの紹介だったような気がする。だから読んでいて一番に思うことが食べたいということである。

何故食べたくなるのか?
そこに、この漫画の訴えたいことが込められていたように思える。

その延長線上に、放射能問題があるのだ!
と言われれば、『はあそうですか』と頭を下げるしかないのだが・・・

近頃の美味しんぼは社会的問題をメインとしているが、「さあ、おいしいものを食べよう!」というものが無くなったのでは、悲しい。

世間でいろいろと騒がれたが、こういう物語にはつきものだと思う。
つまり、これまで紹介されてきたものを食べたらそれほどでもなかった、ということもあるわけで・・・。

というようなわけで、割と期待を持って読んだのであったが、それ程でもなかったというのが正直な感想である。

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夜の谷を行く 桐野夏生 文芸春秋連載

2014-12-25 22:15:27 | 読んだ
文芸春秋の2014年11月号から連載されていて、今回は連載第3回である。

物語は、元連合赤軍のメンバーであった「西田啓子」が主人公である。

啓子は連合赤軍事件に関与して服役した後、一人で細々と生きてきた。
彼女に周囲の人、特に親戚は大打撃を蒙ったことから、彼女とは付き合いをしていない。唯一、実の妹だけとなんとかつながりを持っている。

その妹に幹部であった「永田洋子」の死を知らされ、啓子の周囲がざわめき始める。

連合赤軍の事件は、昭和46年。あさま山荘事件と山岳ベース事件の二つの事件を起こした。
私は、当時、中学3年生であった。

田舎ゆえに、左翼の思想についてはそんなにのめりこんではいなかったが、多くの同級生たちは心情的に左翼支持ではなかったか。
それは、多くの因襲がまだ我々を包み込んでいたからである。

学校で何かあればビンタは当たり前、もしそのことが家庭知られたなら家庭でも罰を食らうので、家に帰ったって先生に殴られたなんて言えなかった。

また、男子生徒は全員が坊主頭であった。
でもテレビ見る芸能人たちは長髪であった。
グループサウンズからロックやフォークソングが我々を取り囲んでいるとき、我々は坊主頭。

どうしたら、長髪にしていいのか?
そんなことを可能にするのは左翼思想ではないんだろうか?
なんて思っていた。

そういう中学生に連合赤軍の事件は衝撃的であった。
テレビで見るあさま山荘の事件は、どうしてそんなことをするんだろうか?という疑問、そして何より、山荘にこもる学生たちへ呼びかける親たちが「○○ちゃん」と子供を呼んでいることに大きな衝撃を受けた。

なんだいいとこの人たちの遊びなのか。
と思ったものである。

そしてさらに明かされる「リンチ殺人」

我々は覚めてしまった。


今回、この物語によって、当時の関係者たちがどのように考えていたのか?
あるいは、彼らの思想とは何だったのか?
小難しい理屈とは?

そんなことをこの物語で読んでいきたい。
期待「大」である。

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ミレー展 -愛しきものたちへのまなざし- 宮城県美術館

2014-12-06 23:11:42 | 観た、聴いた
2014年11月1日から、仙台の宮城県美術館で「ミレー展」が開催されている。(ちなみに12月14日までである)

ちょっと気になっていた、というか、機会があったらぜひ観に行きたいものだと思っていた。
それで、本日、都合がついたので行ってきたのである。

お前が「絵画」なんてわかるのか!?
という声が聞こえてきそうであるが、実は、わからない。
しかし「真物(ホンモノ)」は観てみたい、聞いてみたい、読んでみたい、という思いはある。

というようなことから「ミレー」を鑑賞できるチャンスがあるのなら逃したくないと思ったである。

ミレーというと、私は「落ち穂拾い」を思い出す。
で、今回初めて知ったのであるが「落ち穂拾い」って5枚あるらしい。
それで、今回のミレー展には「落ち穂拾い。夏」とエッチングの「落ち穂拾い」であった。
我々(もしかして私だけ?)が知っているものではなかった。
そこが少し残念ではあったのだが。

さて、今回は全部で84点の作品が展示されているのだが、章立て時系列で順路が設定されている。

第1章プロローグ形成期

第2章自画像・肖像画

第3章家庭・生活

第4章大地・自然
の4章である。

解説を読みながら見ていったのであるが、ミレーの考え方、生き方と絵画のつながりがわかって、なんとなく今までとは違う観方ができたのではないか、と思っている。

今回思ったのは、絵画でも小説でも芸術的な表現の手法として、焦点や主題をきっちりとすることは当然だが、その周りの部分をどう取り扱うのか?ということである。

焦点部分以外をぼんやりと描く、それともその部分まできっちりと書き込むという二つの手法で、焦点・主題の印象が大きく変わる。

ミレーの場合、焦点以外の部分は、ぼんやりとして見える。それは多分心象風景というか主題を取り巻くイメージなんだろうと思うのだが・・・
そしてその周りの部分によって主題がより一層強調される・・・みたいな・・・

まあそれにしても手法もあるのだろうが、全体から受け取るものが力強くなければ人の心を動かせない。

今回作品を見ていて、グッとくるものがあり、ああ何か感じるなあ、というものがあった。

やっぱり一流といわれるものはスゴイのだ。

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小説十八史略(二) 陳舜臣 講談社文庫

2014-12-03 22:48:35 | 読んだ
実は、今はもう第四巻の途中まで読んでいる。

第四巻は、いわゆる「三国志」の時代なので面白い。
何度読んでもわくわくする。

さて、第一巻で、中国は始皇帝によって統一された。
第二巻は、統一によって滅ぼされた国の人たちの復権と、始皇帝の大事業に繰り出されてあえぐ人たちが、「秦」に反抗し、更には秦を滅ぼそうとする争いが主に描かれている。
そして、つまりは「項羽と劉邦」に集約され、ついには漢の建国となるのである。

この間、多くの人たちが登場し滅びていく。

第二巻は、始皇帝の死から始まるといってもよい。
秦は、というか秦も、跡目争いが亡国の始まりである。

秦という国は「法」で成り立っているが、法をむやみやたらにきつく使うと暮らしは大変になる。まして自分の快楽のために法を用いると大衆は貧乏になる。(現代でも某国ではこのありさまではないか)

で、秦に初めて
叛旗を翻したのは農民出身の陳勝と呉広である。
この陳勝に史上有名な言葉がある。
「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」
である。
更に
「王候将相、なんぞ種あらんや」

この言葉が秦を滅ぼす者たちの合言葉になったというか合図になった、ようである。

楚の王族である「項羽」と、出自も定かでない「劉邦」の争いは、劉邦の勝利となり「漢」が建国される。

劉邦が最終的に勝利したのは、「徹底敵な楽観主義」と著者はいう。更に、すべてのことを一人で行う項羽と人材を集め任せる劉邦。
特に劉邦のもとには最高の軍師である張良がいた。
これが大きかったような気がする。

劉邦は天下取りの際、秦の煩雑な法体系から「法三章」という簡易な法体系に改めたのも大きい。

天下を取るものにとって、最も必要なものは、多くの人から支持されることである。

「四面楚歌」
とは、楚の王族である項羽が敵に囲まれ、その囲んだ敵が楚の歌を歌っている。つまり自身の出身地の人々が敵に回ったということである。

項羽と劉邦の争いの中で有名なことや場面が多くある。
「鴻門の会」「虞美人草」などは、名場面であるといえる。

そして漢帝国が誕生すると
「狡兎死して、走狗煮られ、高鳥尽きて、良弓蔵さる。敵国破れて謀臣死す」
で、粛清が行われた。

これはいつでもどの組織にもあることだ。
徳川幕府が出来上がって有力大名が取り潰され、明治維新が成って元勲たちが争う。
もっと言えば、仁義なき戦いでも、組織が出来上がるたびに内輪揉めが起きる。
対外的に争うときはまとまるが、争いに勝つと分裂する。
そんな傾向を人間は持っているのかもしれない。

さて、第三巻は、漢帝国の初代劉邦が亡くなると、妻である呂太后が実権を握り、内部の争いが起きる。

そして、その後は、文帝、景帝と名君が続き、漢の黄金時代を築いた武帝の登場となる。

とここまでが第二巻である。

争いが続く世の中では、出自の貴賤や貧富の差はあまり関係ない。つまりこれらのことは秩序のなかでこそ生まれる「差」なのである。

もちろん、平和な世の中は素晴らしいものであるが、行き詰った世の中は平和が時に毒になる。
その毒を消し去ろうとして、人間は自家中毒のように戦争を繰り返してきたのである。

人間の歴史とは争いの歴史なのかもしれない。
だとしたら、今後も争いはいろいろな形で今後も続くのであろう。その際には、争いが悲惨な結果を生まないような工夫をすることが、これからの人間が考えなければならないものだろう。
そんなことを、歴史の本を読むと思うのである。

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風邪気味

2014-12-02 22:09:34 | 日々雑感
風邪気味である。

28日の金曜日にマイクロバスで出張したのであるが、どうもバスの温度管理が暑かったり寒かったりで調子を崩したのではないか、と思っている。

その後、割と(?)静養に努め市販の薬を用いていたのであるが、鼻水、せき、たんの症状が改善しない。
というわけで、本日夕方かかりつけ医に行き、症状に聞く薬を調合してもらったのである。

なんというか、リスク管理として「・・・気味」のときの処置が適正であれば、その後の展開が楽になると思うのである。

例えば「太り気味」のときこそダイエットに励む。太ってからでは手遅れなのである。

或は「金欠気味」のときにこそ、節約に努めるか収入増の処置をすべきである。

ちなみに「気味」を辞書でひくと、さまざまな意味があるが、今回の「気味」は
『いくらかその傾向にあること。』
があっている。

さらに、用語例として

社会不安の気味
慢心の気味
焦り気味


などが挙げられている。

やっぱり「気味」の時にしかるべき処置が必要なのである。

というわけで、風邪薬を飲み、我が家の10年物の梅酒を飲んで、早めに寝ることにしよう。

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