読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

青春のうた 第70巻 1970年代前期16

2008-10-31 23:07:27 | 読んだ
1.だれかが風の中で/上條恒彦 1972年1月

「木枯し紋次郎」の主題歌である。
が、私はこのテレビドラマを当時見てはいない。
ラジオから流れてくるこの歌を聞いていただけである。

だから、木枯し紋次郎というのはすごく爽やかな奴だと思っていたのである。
この歌からのそして上條恒彦からのイメージではそうではないか。

後年、このドラマを見る機会があったが、抱いていたイメージとは違っていて、なんだかがっかりした思い出がある。

小室等の作曲のわりには、流れるようなというかリズミカルというか、先へ先へ急ぐカンジが、この歌の最大の魅力である。


2.面影橋から/及川恒平+六文銭 1972年11月

及川恒平は好きなミュージシャンである。
特に「詩」がスキである。

なんだかよくわからないが雰囲気がスキなのである。

この「面影橋から」もなんだかよくわからないカンジがあふれている。
でもなんとなく、感じ取れるものがある。

ところで、この「面影橋から」は吉田拓郎のLP「ともだち」にも収められていて、そちらの歌詞はちょっと違う。
で、長い間そちらのほうで覚えていたのでちょっと違和感がある。

そちらの歌詞は2番である()内が吉田拓郎版である。

♪春はどこから来るかしら
 風に吹かれてくるかしら (春はあれきり来ないもの)
 めぐりめぐる想い出に  (歌を忘れたカナリヤが) 
歌を忘れた影法師  (歌うすべない影法師)♪



3.永遠のマドンナK/あがた森魚 1973年10月

あがた森魚については、追っかけることをしなかったし、気に留めることもなかった。
相性が良くなかった、というしかない。

「大正ロマン」というのもあわないのかもしれない。


4.放送禁止歌/山平和彦 1972年2月

このような歌があるというのは知っていた。
歌詞も、何かに載っていたので、なんとなく知っていた。

放送禁止だったので、この歌を聞いたことはなかった。

今聞くとなんだかあまりたいしたことないじゃないかと思う。

メロディーも歌声も甘いので、歌詞とか思想とかあっていないようなきがする。


5.比叡おろし/小林啓子 1970年5月

比叡おろしは、六文銭或いは小室等の歌だと思っていたのである。

また、小林啓子はステージ101でお姉さん的存在であったような気がする。

恋人中心世界は小林啓子というのは知っていたのであるが、まさか「比叡おろし」とA面B面の関係にあったとは知らなかった。

さて、比叡おろしは好きな曲である。

♪うちは比叡おろしですねん
 あんさんの胸を雪にしてしまいますえ♪


というところはゾクっとする。

こういう京女に愛されたいと思ったり、こういう京女は怖いと思ったりしたのである。


6.生活の柄/高田渡 1971年6月

高田渡の歌を聞き始めたのは、彼がいわゆる「晩年」になってからである。
そのなかでこの「生活の柄」は高田わたるそのものだと思った。

ところが作詩は山之口貘というひとだったので驚いたのである。

でだしの

♪歩き疲れては
 夜空と陸との
 隙間にもぐり込んで
 草に埋もれて寝たのです
 ところかまわず寝たのです♪


というところから心惹かれるのである。

時々歌ってみるのであるが私ではないと思うのである。
こういうふらふらするというか流浪というか漂浪というような人生に憧れるのは、私が土着だからなんだろうと思う。

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救援力<リリーフ投手の極意> 鹿取義隆 ベースボール・マガジン社

2008-10-29 21:49:29 | 読んだ
著者は私と同い年である。

この年代は、古きよき時代の「精神力による解決」と新しい時代の「科学的解決力」を理解しているといえる。

著者は、高校は高知商業で大学は明治である。
それだけで理不尽で精神力主体の練習をさせられてきたということがわかる。

精神力で何事も成る、と教えられてきたのである。

それは今から見れば論外の練習であったが、身についてしまうものがあったのである。
精神力もあなどれないのである。

又、巨人に入団して、自分の使われ方に疑問を感じたりする。
それは、理屈に合わない「俺の言うことを聞け」という上層部の考え方に反発していることであり、非科学的だったり封建的であったりすることが許せない世代でもある。

だから感情と理屈がちゃんとかみわないとイヤなのである。
ところがイヤであっても、ヤレといわれれば何とかしてみせよう、という気持ちもあるから難しい。

そんなことを著者は書いている。

現役時代の活躍はよく知っている。
明治大学時代、鹿取と高橋三千丈(みちたけ)の二人が大車輪で活躍したこと、1年先輩の江川らスター選手がいっぱいいた法政大学に一回り小さな明治大学の選手が一生懸命挑んだ姿。
プロ選手になって、こちら側から見ていても理不尽な使われ方をしているのに、飄々としてマウンドに上がる鹿取義隆。
そんな姿になんだか共感するものがあった。

そしてこれは全然知らなかったことなのであるが、コーチになってからの科学的な取り組みである。
著者の書いているような取り組みが、小学校からプロまで行えれば、日本の野球はもっと面白く強くなるのではないかと思うのである。

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真田太平記 NHKテレビドラマ DVD

2008-10-27 21:30:20 | 観た、聴いた
昭和60年4月から61年3月までNHKで放映された「真田太平記」全45回をDVDで一気に観たのである。

45回×45分なので、全部で2025分、約34時間である。
10月18日から26日まで9日間、一日平均4時間弱である。

池波正太郎の「真田太平記」を読んだのは、このテレビ放映のあとだった。
だからいつか見たいなあと思っていたのである。
何年か前だったがNHKの昼間に再放送されていることに気づいたのは相当経ってからであり半ばあきらめていたのであった。
それが、今回レンタルのDVDが出たということで早速借りてみたのである。

真田太平記は、有名な真田幸村の兄・信之が主人公のようなものである。
というのは、彼ら兄弟の父・昌幸が前半では大活躍だし、全編を通して女忍者・お江が真田の草の者として縦横無尽の働きだし、勿論・幸村もやってくれる。
まあ、真田から観た戦国時代から江戸時代という歴史ものにもなっている。
文庫本では12巻の大長編である。

これをテレビドラマ化したのであるので、ある意味「ダイジェスト版」というものなのだが、完成度は高い。

偶然と不条理が概ねを支配するこの世の中にあって「自分」というものを通していくにはどうしたらいいのか、ということが描かれている。
そして、それは非常に困難なのである。

自分の意地や欲を通すため、いろいろな細工をしてみたり、我慢をしたり覚悟をしたりして、なんとか踏ん張ってみるのだが、意地を通したり欲をかなえても、結局人は嬉しさと哀しさが半々なのではないだろうか。

人の心には一時的には100%の満足感があるものの、トータルすると50対50であれば相当の幸せなのではないか。
つまり、自分を知り自分の力の限りを真正直に発揮して生きたとしても、幸せだけではなく、喜怒哀楽があり、それゆえにこそ人生なのである。
なんてことを池波正太郎の小説を読むと感じるのである。

幸せと同じくらいに哀しみを抱えているのが人間なのである。
それを感じられないのは人間ではない、と言い切ってみたくなるのである。

真田太平記に登場する人物たちの中で魅力的なのは、深い哀しみを抱えながら日々を一生懸命生きている人たちである。
それは、真田昌幸・信之・幸村だけではなく、お江や壺谷又五郎をはじめとした真田の草の者たち、敵対する甲賀忍者の猫田与助だってそうなのである。

この物語、大阪夏の陣で真田幸村をはじめとして真田の草の者たちの多くが亡くなった時点で終えてもいいのではないか、なんてはじめは思っていたのである。
しかし、実は、その後つまり江戸幕府が最後の完成を図ろうとする時期のほうが、面白かったのである。

それは、真田で生き残った信之と草の者で生き残ったお江が組むときなのである。
信之は昌幸や幸村のように忍者を使った謀略や戦をしなかった人であり、お江は昌幸や幸村の人柄に魅かれて働いていたのである。

その二人が徳川と豊臣の戦いが済んだ後、ある種の「生きがい」を見失ってしまいそして出会うのである。

この世でわが身を縛っているのは義理と人情そして欲である。
その義理と人情と欲を振り払うでなく、義理と人情と欲を踏まえて物事を解決していくさまは痛快である。

人は同じ時間同じ場所で、同じ方向を見ていても見えるものは違う。
何をどう見るのか、そしてそれをどう解釈するのかで、人生とは違うものになるのである。

この1週間真田太平記のDVDを見ながら、もう一度読み直してみよう、と思ったのである。

追伸
 真田太平記の舞台である、沼田、岩櫃、上田、松代を旅した記録が、嘉壽家堂本店のSpeak Visualの「真田一族を訪ねて」にありますので、興味のある方はどうぞご覧ください。

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bjリーグ 仙台89ERS vs 富山グラウジーズ

2008-10-25 23:12:52 | 観た、聴いた
本日、バスケットボールのbjリーグを観戦してきた。

仙台89ERSのホームゲーム開幕戦である。
開幕戦であるが仙台での開催ではなく、私の地元で行われた。
昨年はチケットの売り上げに協力ということで、まあ「義理」で観にいったのであるが、試合を観たら面白かったので今年は積極的に観戦に行ってきたのである。

楽天の野球もそうなのであるが、試合前、試合中、試合後それぞれにさまざまな工夫がされてあり、今のスポーツ観戦は退屈することなく時間を過ごせるようになっている。

まだ、サッカーのベガルタ戦は観たことがないのだが、多分サッカーもそうなのであろう。

というわけで、本日も楽しく退屈することなく時間を過ごせたのであった。

それに試合に勝った(82-70)ので「なおさら」であった。

第1クオーターの中盤あたりから点差を広げ、前半終了時点で11点差であったし、昨年は1度も負けていない相手だったので、これは楽勝だなあ、と気持ちもゆったりとしていた。

そうしたら最終クオーターで同点70-70になってしまい、そこからは会場が一つとなって応援をするという、じつにどうも「演出」ではないかと思うような試合展開であった。

仙台には宮城県出身者が多く(富山にも一人いた)応援のし甲斐があるというものである。
また機会があったら観にいこう。
こんどは「ジンギスカン」にあわせて踊れるよう「タオル」も買うことにしよう。

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明石橋の殺人-新・御宿かわせみ- 平岩弓枝 オール読物10月号

2008-10-24 20:59:19 | 読んだ
「新・御宿かわせみ」(明治編)の再開である。

この再開は華々しく大仰な物語ではない。

先日、テレビドラマ「相棒」が再会されたが、通常1時間ドラマが2時間になって更に翌週に続くという、すごい扱いになっている。
でも、私が見たかったのは日本全体を包むような事件ではなく、1話完結の人というものの不思議さを感じることができる物語なのである。
そういう意味では、あの相棒にはちょいと失望なのである。

ところが、この「明石橋の殺人」は新・御宿かわせみシリーズの原点或いは様式に従っているのである。
つまり、一話完結でありながら「かわせみ」を取り巻く人たちの成長劇であり人情話である。
この姿勢が良い。

さて物語は「かわせみ」に宿泊した男女と神林麻太郎や麻生花世の幼なじみの姉妹との偶然的な関わりであり、人の心に潜む気持ちの恐ろしさが描かれている。

人の心の奥底うごめくものは、今も昔もかわらなずそれぞれが備えていると思うのであるが、それを大人しくさせる力が徐々に薄れてきているのではないだろうか。

かわせみに登場するいわゆるレギュラーの人たちは「うごめくもの」があることは否定しないが、それを抑えることができるものが「人」だと思っている。
だから、それを抑えきれずに何事かを起こした人たちに対して、時には憎み時には同情するのである。

そしてそのことが本来の人間関係ではないかと思うのである。

更に、こういう物語を読むことができるということに幸せを感じるのである。
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いろは歌に暗号(かくしごと) 鯨統一郎 祥伝社文庫

2008-10-22 21:53:40 | 読んだ
筆者得意の歴史ミステリーである。

とはいっても、例によって難しい問題を愉快にというか軽快にというかさばいている。

筆者の歴史ものは、そこに確かな証拠があるわけではなく、鋭い感覚で突き詰めたことを他の要素と組みあわせているものである。

今回は「薬子の変」が主題である。
何故、この変が起きたのか、ということを「空海」が作った「いろは歌」を通して解釈するものである。

奇想天外なトリックと眉唾ものの解釈という感想もないわけでもないのだが、なにしろ「面白い」のである。
この面白さには「無理」があって当然なのである。

「んな、バカな!」とか思いながら
「いや、そういうこともあるかも」なんて思いなおすのも、鯨統一郎を読む場合必要なものなのである。

今回の主題である「薬子の変」については良くわからなかったが、概ねの解釈では「平城上皇」と「嵯峨天皇」の争いであって、平城上皇の愛妾・藤原薬子がそこに絡んでいたため「薬子の変」と名づけられている。近頃では「平城太上天皇の変」という呼び方もされているらしい。

これは近頃ならそういう呼び方をしてもあまり世間は騒がないが、万世一系の天皇家にあって争いごとがあったなどとはいえないし、この際愛妾がそそのかしたことにしたほうが深刻な争いごともぼやけてしまうのではないか、なんてことで「薬子の変」という呼び方にしたのではないだろうか。

ともあれ、この物語は結論もいいが、途中のさまざまな事柄が面白いしワクワクさせてくれる。
ぜひ一読あれ。

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東京タワー オカンとボクと、時々、オトン -映画(DVD)-

2008-10-20 20:38:05 | 観た、聴いた
この物語は、タイプとして好きなものではなかったので、映画もテレビドラマも見ていなかったのである。

では、何故今頃になって観たのであろうか。
それは、先日この物語のロケ地に行ってきたからなのである。

筑豊の炭鉱町として撮影された場所が、割と近いところにあるのは知っていたのである。
しかし、物語の概要が好きなタイプではない、ということから積極的に行ってみようとはしなかった。

ところが先日、岩手宮城内陸地震のあとの山の様子を見るのと「きのこ」を食べたいため買いに歩いたのである。
ところがなかなかお目当ての「きのこ」が見つからず、ドライブを続けるうちに偶然のようにこのロケ地にたどり着いたのである。

というようなわけで、ロケ地を観た。ロケ地を見たからには物語りも観ようと思いDVDを借りてみたのである。

物語は私の思ったとおり「ウェット」なものであった。
このウェットというのが私は苦手なのである。

母は若いころ父と別れ自分を苦労して育ててくれた。
やっと母に親孝行ができるようになったころ、母はガンになる。

原作者は私より6~7歳下である。
画面に登場する昔の風景は丁度私が育ったころのものであり郷愁を誘うものであった。

いまこのロケ地を残すよう地元の人たちが運動をしている。

 


 

写真は映画を見る前であったので、何がなにやらよくわからずに撮ったため、物語とうまく連動しなかった。

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女子大生会計士の事件簿5<とびっきり推理なバースデー> 山田真哉 角川文庫

2008-10-18 22:43:01 | 読んだ
このシリーズも5巻目である。
番外編として「女子大生会計士はじめました」というのもあるので、実質は6冊目である。

主人公藤原萌実は女子大生で公認会計士、という設定。
そして相棒の会計士はカッキーこと「柿本一麻」である。
この物語の登場人物のほとんどが平安朝時代というか百人一首の作者たちの苗字が使われている、というのが一つの趣向となっている。

またこの物語はドラマ化されるそうである。
そしてすでにマンガ化されているとのこと。(読んだことがないゆえ詳しくはしりませぬ)

というわけで大きくブレイクする可能性がある。

さて、この物語は監査法人に勤務する公認会計士が監査を通じて各会社の会計取引上の矛盾・意識的な錯誤を発見し不正を糺すというものであり、その矛盾や錯誤が会計学的に面白いというか勉強になるのである。

今回のvol5では、村咲紫(むらさき ゆかり)という会計士が登場する。
vol5は「村咲紫編」というものである、と著者があとがきで述べているとおり、今回は全編をとおしてこの村咲が重要な役割を果たす。

監査を通じて各種の問題点を現してゆくことは、これまでの事件簿と同じで、納められている4つの事件にあるのだが、4つの事件を通して語られているものがある。

会計取引には経営者の意向を反映して行われるものがあり、それが一概に違法とか反則とは言えないのであるが、その経営者の意向が「悪意」に基づいていると問題がある。

そのあたりが、今回のシリーズの核になっている。

会計に興味のない人でも、割とわかりやすく解説もされているので、おもしろく読めると思う。
特に今回は「ライブドア」を思わせるような事件が柱となっているので企業買収におけるカラクリを知ることができる。

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ナイチンゲールの沈黙 海堂尊 宝島社文庫

2008-10-15 20:02:44 | 読んだ
「チーム・バチスタの栄光」の第2弾である。
つまり医療を巡る小説である。

前作に続き舞台は東城大学医学部付属病院である。
そして頼りない主人公も前作に続いて、神経内科の不定愁訴外来の医師・田口公平である。
(映画では女性になっていて竹内結子が演じていた)

今回は小児科病棟に入院している患者の牧村瑞人、佐々木アツシと、小児科病棟の看護師・浜田小夜そして神経内科病棟に入院して余命いくばくもない歌手・水落冴子が重要な役割を担っている。

勿論、厚生労働省の役人(官僚ではない)白鳥圭輔も2巻から登場する。

このほか、魅力的なメンバーが脇を固めているが「光の剣」に登場した医学部の学生たちが登場しているのには驚いた。
というか、バチスタとこの物語に登場した人物たちの学生時代の話があの「光の剣」であったことに気づいたのである。

さてこの物語は、水落冴子という歌手と看護師・浜田小夜の歌、小児科の患者たちの病気に対する不安、そしてある殺人事件というのが、軸となっている。

歌が病人に及ぼす「良い」影響とは・・・・
子供たちを囲む社会の環境とは・・・・

病院は今多くの問題を抱えている。
医師不足と質の問題、患者の病気に対する或いは「生」に対する意識など、全ては現代人が抱えている「生きる」ということに対する姿勢の不確かさによるものである。

生きることにかかる不確かさとは、科学の問題である病院にとっては厄介な問題である。
それは哲学的であり宗教の分野でもある。
であるのに、人は科学(医学)に頼り、医学こそ万能不死と思っている。

そういうところに「悪」のつけいる隙がある。

人が人を殺すのにはそれなりの理由があった。
しかし今は推理小説やサスペンスドラマにしか「動機」はないように思える時代である。

この物語では「殺人事件」はサイドストーリーである。
ではメインストーリーはなにか?

ぜひ読んでいただきたい、と思うのである。

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探偵ガリレオ・予知夢 東野圭吾 文春文庫

2008-10-14 21:40:06 | 読んだ
ちょっと『探偵ガリレオ』について知りたくなった。

探偵ガリレオに出会ったのはオール読物に連載された「聖女の救済」だったので、どんな奴なのかよくわからないままに読んでいて「どこが名探偵かねえ」なんて思っていて、これほど天才で有名だったとは知らなかったのである。

また、テレビドラマ化されて、その主役が「福山雅治」だったことも、ガリレオをちょっと敬遠してしまった理由でもある。
福山はいいと思うし好きな俳優に分類されるが、若干のライバル心或いは嫉妬心がある。
その理由はよくわからないのである。
彼がラジオで話しているときにはあまり感じないのだが、画面で見ると妙に胸が騒ぐのである。

とまあ、そういうようなわけなのであったが、本屋さんに並んでいるガリレオシリーズをみて、やっぱり読んでみようと思ったのである。

今回は「探偵ガリレオ」「予知夢」と短篇集2冊を読んだのである。
これらの短篇でガリレオこと天才物理学者・湯川学のことがよくわかるようになっている。

丁度ノーベル賞で日本人が3人物理学賞をもらったので、あのインタビューを見たり聞いたりすると、物理学者ってやっぱり通常とは違うことがよくわかるが、湯川学も相当変わっている。

通常の人から見ると「変わった思考法」に加えて物理学の知識でもって「犯罪」に隠された「謎」を解くのである。
それも簡単に・・・。

今、例えば「警察小説」などではこういう『天才』は現れない。
でも我々読者は「天才」とか「奇人」とかを求めているのである。
凡人では時間がかかる謎、或いは必ず「証拠」を求められる解決法ではなくて、天才が天才たるゆえんをもって解く物語を求めているのである。

湯川は理論物理学なのかどうかはよくわからないのだが、謎を解くのは理論だけである。動機もアリバイも関係ない、というのがいい。

というわけで、ちょいとのめりこみすぎたかなあ、と思っている今日この頃なのである。

それにしても「探偵ガリレオ」シリーズはオール読物に掲載されていたというが、これまで目にもとめずにいたのは「縁」だと思うのである。

本とか物語にであうというのは「縁」があるんだとあらためて思わされたのであった。

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せんくら2008 ~仙台クラシックフェスティバル2008~

2008-10-13 19:10:17 | 観た、聴いた
10月11日から13日までの3日間「せんくら2008」(仙台クラシックフェスティバル2008)が仙台で開催された。

3日間いろいろな音楽を聴きたかったのだが、他の用事と財布の都合で12日だけ行ってきた。

開催している場所が地下鉄の駅ぞいに4つあるのだが、今回は1つの場所(仙台市青年文化センター)に限定して、いわゆる「はしご」はしなかったが、そのためにゆったりとした気分で聴くことができた。
青年文化センター内でも4つの会場があるので、その中では「はしご」をしてはいたのであるが・・・

先ず最初に聞いたのは<長谷川陽子>のチェロである。
昨年は藤原真理さんのチェロと聞いたのであるが、チェロの音って、「なんかチョーいいカンジ」なんだよねえ。
ゆったりとした気分になるというか、落ちつくというか。
こういう機会がないと、なかなかチェロの独奏というのはなかなか聴くことができないので、このプログラムを選んだのである。

次は「山下洋輔」である。
今年は2つ続けて聴いたのである。
昨年は1つだけだったし、山下洋輔を45分1000円で聴くことができるなんてあるわけがないし、なんてたって期待を裏切らないだろうと思ったわけで・・・・

プログラムは同じだけれど、ジャズは一期一会という言葉もあったので、何が何でも二つ聴こうと思ったのであった。

いやあよかったですよ。
1回目も2回目も同じ曲でありましたが、同じ弾き方ではありませんでした。
一期一会でありました。
但し、トークの内容とギャグは同じでありましたが・・・

続けざまに聴いているようであるが、それぞれの合間にはそれなりの時間的余裕があるわけで、長谷川陽子さんは11:45-12:30 山下洋輔さんの第1部は13:00-13:45、第2部は15:15-16:00であります。

そして17:30からは鮫島有美子さんのソプラノ歌曲であります。
いい気持ちで聴きました。
ドイツ歌曲と日本歌曲という構成でしたが、どうしたらあのような優しい声で人を包むことができるのだろうか?ということを思ってしまった。
「声」というものの魅力というか魔力というのがあるんだと思う。

これで一応前売りについては終了したのであったが、最後に当日券を購入して「俵万智と明川哲也(元ドリアン助川)の短歌と歌のコラボレーションのようなものを聴いてきた。
このようななんだかよくわからないものをやるのが「せんくら」のいいところで、昨年は落語家の立川志らくのお話と落語というのもあった。
というわけで、なんだかよくわからないこのコラボも聴いてきたのであった。

せんくらのいいところは、自分でプログラムを組み立て、自分の好みの音楽を聴くことができることと、意外な音楽に出会えることである。

今年は「無料」というのが減ったために、意外な音楽に出会える(空き時間にふらっと入る)ということが少なかったが、クラシックというとどうしても構えてしまうことがあることを払拭するような、そんな試みだと思う。

今年で3回目。毎年訪れているがぜひ来年も開催されることを望むのである。
望むばっかりで何にも力になれないのだが、なんとかそのあたり「よしなに」と思う。

追伸
 昼食を摂りにちょっと外へ出て、ラーメンを食べた。「麺屋三昧」というところである。
 今回は「ゆず塩ラーメン」を食べた。健康上の理由などからスープは全部飲まないことにしているのであるが、今回は全部いただいてしまったのである。
 もしお近くにいったならばぜひお試しあれ。

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青春のうた 第69巻 1970年代中期21

2008-10-10 22:24:01 | 読んだ
1.俺たちの旅/中村雅俊 1975年10月

テレビドラマ「俺たちの旅」の主題歌である。
このテレビドラマは見ていない。
この頃は一人暮らしをしていたころでテレビも冷蔵庫もない時代であった。
評判のドラマであることはなんとなく知っていたのだが・・・
にもかかわらず、この歌はリアルタイムで聞いていた。

小椋佳の作詞・作曲で、この年「シクラメンのかほり」もヒットしレコード大賞を受賞しているが、そちらよりこの歌のほうが好きだった。

シクラメンのかほりは純度が高いように感じられたが、俺たちの旅はいい意味での雑味というかなんともいえない青春のもやもやしたものが込められているように感じられるのが、純度の低い私にとっては心地よかったのかもしれない。

雑味というのは、歌手・中村雅俊と布施明のせいかもしれないが、中村雅俊のぶっきらぼうな歌い方というのも、この歌の魅力の一つではないだろうか。

気取らず、ただ語るような歌い方は、小椋佳の作品に似合いである。


2.揺れるまなざし/小椋佳 1976年7月

この歌は化粧品のコマーシャルソングだったと思う。

♪不思議な揺れるまなざし♪

というフレーズはすごく印象的であった。

小椋佳の歌は「語る」部分と「歌う」部分とが明確になっている、というのが印象である。
歌うために語るというのがはっきりしているので、伝えたいことはよくわかるのである。

そうなんだ、この頃の「歌」はコトバをメロディーにのせて何かを伝えようとしていた。

今の歌は詩から情景をうかべることが難しいが、揺れるまなざしといい俺たちの旅といい情景とか風景とかが目に浮かぶのである。


3.君は悲しみの/イルカ 1976年4月

イルカの歌は断片的に知っている、のである。
で、どちらかといえば伊勢正三の作った歌のほうを知っているのである。

この「君は悲しみの」はなんとなく知っているのであるが、じっくり聴いたことがない。

で、今回聴いてみてわかったのであるが、イルカの歌って「イルカワールド」にあって、誰が作っても「ああイルカだ」と思わされるのであった。


4.かけおち/三上寛 1973年8月

三上寛のコンサートに行って、つばが飛んでくる一番前に座り、聴いたことがある。

そうやって聴く歌ではないだろうか三上寛って、と思ったのである。

普段、CDとかで聴いてもなんとなくインパクトに欠けるような気がする。

三上寛の歌は「生」に限るのである。
この「かけおち」もじっくり聴けば重い感じだし、軽く流すようなものでもないし、どう聴いたらいいのか良くわからないのである。

しかし、生で聴くと三上寛の思いが伝わってくる。


5.リリー・マルレーン/加藤登紀子 1975年6月

物悲しい曲である。
そして、この歌にかかる物語、つまり第2次世界大戦の話、女優マレーネ・ディートリッヒの話が、この曲が紹介されるたびに語られるのがつらかった。

そういう悲しい話や感動的な話は、当時の私にとっては「興味の外」だった。
できる限りそういう話を避けていた時期であった。

というわけで、知ってはいるけれど避けていた曲なのである。


6.妹/かぐや姫 1974年5月

まだ高校生だったときの歌である。

「神田川」「赤ちょうちん」「妹」というのがかぐや姫の三部作である。

神田川・赤ちょうちんまではなんとなく許せたのが、続いて「妹」というのは『なんだかなあ』という気がしたものである。
ところがこの曲もヒットし「勢い」というのはすごいものだなあとおもったし、「鉱脈」を掘り当てたんだなあと思ったのである。

とはいいながら、なんだか森昌子の「せんせい」「同級生」「中学三年生」という並びに似ていて、かぐや姫も「売れる」という方向に身を売ったのか、という感慨を持ったのである。

当時は「売れるために何でもする」という考え方、或いは「売れたが勝ち」というのはなんだか体制派のような気がしてあまり好まれなかったような気がする。

で「体制に身を売った」という疑惑が持ち上がった途端、かぐや姫は解散してしまうのである。
このあたりが今でも人気になっているところではないだろうか。
つまり、かぐや姫の考え方のなかに「売れてヨシ」というのがなかった或いは少なかったのではないだろうか。

そういう背景があった「妹」であるが、この曲はなんといっても「間奏」が好きである。
詩はなんだか気恥ずかしいので、この間奏が救いである、という感想なのだ。

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隠蔽捜査 今野敏 新潮文庫

2008-10-09 21:54:41 | 読んだ
将棋に「手順前後」という言葉がある。
順番を間違えている、ということであるが、近頃の私の読書傾向は手順前後だらけである。

この隠蔽捜査についても、オール読物連載の「3」から読み始めている。
で、最初の事件の1にもどってきている。
ついでに言えば、2の果断についてはテレビでみている。

というわけで「隠蔽捜査シリーズ」或いは「竜崎シリーズ」という言い方もあるようだが、最初から読み始めたのである。

だから先ずもって感じたのは、知っている人の昔話、というようなものである。
つまり、
「竜崎さんって前からそうだったのねえ」
というのものである。

この第1回目の事件において、竜崎は公私にわたって「筋を通した」のである。
但し、その決断にいたるまでは相当の心の揺れがあった。
そんなところがイイのである。

また、文庫の解説で北上次郎が
「実に新鮮な警察小説でありながら、同時に感動的な家族小説でもあるのだ」
と看破しているように、この物語では竜崎の家庭が相当量描かれている。

これが警察を舞台にした物語であれば竜崎の魅力は半減もしくは全滅してしまうのではないだろうか。
キャリアということを前面に押し出し手人に接する、或いはキャリアの行動規範を
自ら定め(それはノブレス・オブリージュともいうべきものである)課している、なんてのは、非人間的・高慢・冷血漢ともいうべきものである。

そういう人間が家庭に帰るとちょっと甘く見られていたりするのである。
或いはオタオタしたりするのである。

その部分があるから竜崎に親しみを持つのではないかと思うのである。

竜崎のように「筋を通す」ことは難しいが、せめて心の中では筋を通していたいと思ったのである。

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バカでエースがつとまるか! 堀内恒夫 ベースボールマガジン社新書

2008-10-08 23:26:27 | 読んだ
アンチ・ジャイアンツなのに、堀内と長嶋は好きだった。
この二人はジャイアンツの選手らしくなかったから。

海老沢泰久の「ただ栄光のために-堀内恒夫物語-」を読んでなおいっそう堀内のファンになった。
投手として或いは野球選手としての堀内は好きだったが、監督としては?である。

堀内の引退試合でのコメントがすごかった。
「ただ才能だけでここまでやってきた」
引退試合でホームランを打つ投手の言葉である。
堀内らしいなあ、とすごく感動したものである。

さて、本書はそんな堀内が書いた野球論である。
書いたというよりは語ったことを書き留めた、という印象であるが・・・

本書を読むと、というより題名を見ただけでわかるのであるが、堀内はただ才能だけで野球をやっていたのではなかった。
ただ、普通の選手が努力してたどり着けるところは才能として確保できていたのである。
その才能を維持向上させるための努力はちゃんとしているのである。

スポーツであれなんであれ「才能」のある人には最初かなわないが、正当な努力を続ける限りあれ程度は通用できるようになる、と思うのである。

才能のある人が一歩で到達できるところを五歩も六歩もかける努力の才能があれば何とかなるんだと思っていた。

しかし、才能のある人に努力をされるとやっぱりかなわないのである。

本書において残念なのは、監督を務めて失敗したことについて一行も書かれていないことである。
まだ書けないのだろうか?

堀内の語る「監督論」というのも読んでみたいのである。

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枝豆

2008-10-06 18:00:45 | 日々雑感
枝豆が好きである。

別段ビールのつまみでなくても構わない。

「熱い」のがイイ。
塩がまだザラザラと口に残ってもいい。
この場合は、皮に包まれている。
で、豆の部分をヒョイと押し口に入れてやるのである。

目の前に皮が積みあがる。
これがなんとなく「征服感」となる。
もっと征服してやろうじゃないか、という意欲の増進になる。

ところが時々違う食べ方をしたくなる。
それは、あらかじめ豆だけを剥いておく方法である。

これは豆を口に放り込むだけでいい。
本を読みながら、などというときにはすこぶる便利である。
読書の最中には「枝豆の征服感」は不要であるからなのである。

正月になると『枝豆と数の子』なんてものが出てくる。
これはこれでうまいのであるが『数の子』が一緒なのであまり多く食べられない。
それに季節的な問題もある。
枝豆だけを選って食べるという方法もあるが、この場合は『箸』を使用するためやっぱり征服感は生じない。
しかも時には豆をつまめなくてイライラしたりする。

ウィキペディアによれば
枝豆とは『枝豆という豆ではなく、未成熟な大豆を収穫したもの。』なのだそうである。
未成熟というところが「征服感」を増す部分ではないかと思ったりしたのである。

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