読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

穐吉敏子-邪頭梵音-チャリティコンサート

2007-02-28 22:29:11 | 日々雑感
秋吉敏子さんのことである。穐は旧正字である。
2月27日に仙台の東北福祉大学音楽堂<けやきホール>でソロピアノコンサートがあったので、行ってきたのである。

なんといっても驚いたのは、入場したとき坊主頭の男の人たちがいっぱいいたことである。「その筋」の人たちかと勘違いしそうになって思い出した。このコンサートの主催は「駒沢大学宮城県同窓会」と「東北福祉大学同窓会」で<曹洞宗>つながりなのである。

さて、秋吉敏子さんは1929年生まれ・・・ということは昭和4年である。
とても77歳とは思えぬ演奏であった。
休憩を挟んで約2時間、迫力ある演奏に魅了されっぱなしである。

私は、秋吉さんのアルバムを聞いたことがないので申し訳ないのだが、曲の合間に解説をしてくださるので、その曲の背景などあらためて知ったのだ。

ちょいとザンネンだったのは、聴く側がかしこまってしまって、いわば直立不動の体制で聴いていたことである。本当はもうすこしくだけたカンジで聴きたかったなあ、と思ったのである。

今回、秋吉さんの演奏を聞くのは2回目である。
前回は、ピアノトリオで、一番前、しかも秋吉さんと2メートルも離れていない場所で聴き、アドリブのとき歌いながら弾くことに強烈な印象を受けたのであった。

今回は遠くからなのだが、足を上げたり、足で床を叩いたり、掛け声をかけたりして、全身で音楽を表現する姿、そして時にはおどけたフリをつけたりして、ざっくばらんな演奏でもあったのだ。それだけに、こちら側がかしこまっていたのがザンネンなのである。

終わってでてきたら外は雨。
しかし、つらくない雨、であった。
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雪 吉田拓郎

2007-02-26 22:24:36 | 観た、聴いた
今年の冬は本当に異常である。
なにしろマダ1回も「雪かき」をしていない。

朝、雪が積もっていると「どうせ晴れてとける」と思われても、せっせと雪かきをする。でないと、きれいにとけてくれないのである。
しんしんと降り積もるときは、雪かきをしないと駐車場から車が出られない。あるいは雪が残っていつまでも凍った道になってしまう。
だから、雪はそれがいかにきれいに積もっていても生活に必要な部分はどけなければならない。

で、雪が降ると雪かきをするのである。
だから、あまり雪が降るのは好まない。どこかに出かけるのも億劫になるし・・・

とはいいながら、雪が降ると、なんだか心が騒ぐのである。
なんだかうきうきした気分になるのも否めないのである。

そしてそんなとき、拓郎の「雪」なんか聞こえたり歌ったりする。
「雪」はシングルとしては猫が歌っていて、そちらのほうが有名だったりするのであるが、さいしょは拓郎のアルバム「青春の詩」にあったのである。
ちょいと<歌謡曲>ぽかったりするのであるが。

この青春の詩に入ってる「雪」と<猫>が歌った「雪」では、どちらかといえばというより「断然」<猫>の田口さんの歌のほうが好きだ。

ところが、ラジオで拓郎が「雪」のギター1本で弾き語りをしているの聞いて以来「雪」といえばそのイメージなのである。
あれは高校生の時分だったから、相当昔の話であるが・・・

この歌は拓郎が盛岡に来たときであったラジオのアナウンサーをイメージしたものだと聞いたことがある。
以来、盛岡は「雪」の街で、そのどこかに
♪早く御帰り坊や♪
って言う女の人がいるんだなあと思っていたのである。

そういえばアルバム「今はまだ人生を語らず」のなかの「贈り物」という歌に
♪それから君の好きだった「雪」は 誰かに歌ってもらえばいいさ♪
という部分がある。

でも僕はやっぱり吉田拓郎に歌ってもらいたい。

追伸
 明日は秋吉敏子のコンサートに仙台へ行く。そして次の日は東京に日帰り出張である。ということはブログを更新できるか微妙なのである。

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神戸・異人館 殺人情景 高梨耕一郎 光文社文庫

2007-02-25 21:30:52 | 読んだ
推理小説を読みたくなった。
というわけで久々の「神尾一馬の事件簿」である。

神尾一馬の事件簿といいながら、実は例のというかレギュラーの亜細亜日報の新聞記者・勝田利明がメインである。

勝田の大学時代の友人水城康平が失踪、その捜索を依頼されるが、非常に複雑な事情が絡んでいるよう、それも国家的な陰謀が・・・

康平の妻は、かつて勝田が結婚を意識した恋人・美緒である。美緒はある日突然失踪、そして18年ぶりに再会したが、事件、である。

一方神尾一馬は仕事で神戸に来ている。
そこで、東京で発生した殺人事件と神戸でおきた殺人事件の関連について捜査にきていた警視庁捜査1課の武藤と津田に出会う。

国家的陰謀と小児糖尿病というキーワードで、事件は進んでいく。
まあ、ハラハラドキドキの展開である。

フィクサーとか国家的陰謀とかちょっと現実離れというかゴルゴ13っぽいカンジの事件である。

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風は山河よりー菅沼三代- 宮城谷昌光 小説新潮3月号

2007-02-24 15:45:35 | 読んだ
3月号で最終回、全部で59回の連載であった、5年間である。
そんな長い連載だったのかと、改めて思うのである。

舞台は著者の故郷、奥三河である。
奥三河の豪族「菅沼氏」が三代に渡って戦国時代の混乱期をどう過ごしたのか。
徳川期には大名となれたのは何故なのか。
そんなことが主題である。

そして私は、徳川の家臣団がどのように形成されたのか、そして徳川の家臣団の中でもわりと有名なのによく知られていない人たちを知りたい、ということがあったわけで、読み続けてきたのである。

「決して一代の天才が
 時代を変えるわけではない―
 安寧の世を信じ、戦国の闇に散っていった
 男たちを描く」

という惹句が単行本の広告欄に載っていたが、まさにそのとおり。

奥三河の豪族菅沼氏が、今川家、徳川家、そして武田家によって翻弄されていく中で、生き残れたのは権謀術数ではなく「清々しさ」と「一途さ」であった。
この世の「得」を求めるのではなく、終生変わらぬそして次代にも続く「徳」を第一としたことが、菅沼氏が戦国を生き残れた要因である。

このような豪族たちは日本全国に数多くいたのであろうが、結局は徳川期になって淘汰された。
そして生き残ったのは徳川になんらかの力を添えた人々であった。

わが地方などは、古来より滅ぼされ続けてきた。
何故滅びてきたのか?
そんなことを考えていると、今まさに、市町村合併という生き残りの中で、またもや沈んでいくのではないか、なんて考えたりもしたのである。

ということであれば、将来を見据えた「徳」を備え、覚悟と諦念を心に「しゃん」としなければならない、なんて思い、それはなんだかとっても難しいなあ、と少し暗くなったりしたのである。

連載が終了し、単行本が3月に完了とのこと。
文庫化されたとき、あらためて読みかえしてみようと思うのである。
そのとき、私の心はどう変わっているのか、それも楽しみなのである。

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青春のうた 第28巻 1970年台後期④

2007-02-23 22:23:32 | 読んだ
1.案山子/さだまさし 1977年11月

さだまさしの歌の中ではベスト3に入る曲である。
聞いていても歌っていても、なんだか花の奥がツーンとなってくる。

解説にもかいてあるが「弟」への想いを歌ったものだ。(本人がそう言っているのを聞いたことがある)

そういうことだからなのか「ベタベタ」しない暖かさというかいいカンジの間柄みたいなのが感じられる。

♪元気でいるか 街には慣れたか
 友達できたか
 寂しかないか お金はあるか
 今度いつ帰る♪

という部分が、兄貴らしい尋ねかけであるが、その問いは弟であれ、子どもであれ、あるいは恋人にも通用しそうな、普遍的な愛を感じさせる。

2.夢一夜/南こうせつ 1978年10月

かぐや姫を解散して、南こうせつはそれなりにやっていたんだとおもうが、なんだかパッとしない感じであった。
それは、伊勢しょうぞうが風というグループで「22歳の別れ」をヒットさせたことと比較されているようにも思えた。

そんなとき、この「夢一夜」がでて、ああ南こうせつは明るさもいいが、もしかしたら本質的にマイナーな歌が似合うんではないか、なんて思ったりしたのである。

詩が阿木耀子で、どろどろしたというか思い入れが激しい、そんな言葉を、マイナー(短調)ながらもあっさりふうに仕上げた歌で、いいバランスになっている。

化粧品のCMで小林麻美とよく似合っていた歌でありました。

私はこの歌で南こうせつをソロとして認めたような気がします。
(私が認めたってしょうがないのですがネ)

3.たそがれマイ・ラブ/大橋純子 1978年8月

大橋純子が歌い上げるというのはあまり好みじゃなかった。
どちらかといえば、この歌のように「しっとりと」というのが似合っていると思っていた。

この歌を何気にスッと歌っているところがよかった。
といっても時々テレビでは後半部を力を入れて歌ったりして、そんなときは「違うだろう!」なんて思ったりしていた。
どちらかといえば「抑え気味」で歌ってほしい。

4.思えば遠くへ来たもんだ/武田鉄矢(海援隊) 1978年9月

武田鉄矢というか海援隊の歌の中では文句なく一番の歌である。

♪二十歳になったばかりの僕は 別れた女を責めながら
 いっそ死のうと泣いていた 恋は一度と信じてた♪

の部分が、たまらなくいい。
同感、共感、納得。なのである。
オレもそうだった、と言いたいのである。

この歌も近頃は思い入れたっぷり歌っているが、あっさりと歌ったほうがいい。
だから、コンサートなんかで海援隊の3人がかわるがわる歌うと、中牟田さんの歌い方のほうが沁みるのである。

ふるさとを離れて生きていないので「思えば遠くへ来たもんだ」ということはないが、近頃は「土地」として遠くへ来たのではなく、時間的な感覚で「思えば遠くへ来たもんだ」と思うのである。
それゆえに、この歌はなおさら心に響くのである。

蛇足ながら付け加えるが、武田鉄矢主演の映画「思えば遠くへ来たもんだ」は、角館が舞台である、あべ静江が清楚できれいだった、村田雄浩のデビュー作であった、この3点を除くと「つまらない」映画であった。
でも、しかし、だからこそ、テーマ曲としてのこの歌がよく聞こえるのである。

5.マイ・ピュア・レディ/尾崎亜美 1977年2月

そうではないかと思っていたのであるが、尾崎亜美は私と同級(同学年)であった。

尾崎亜美を聞くたびに「何故こんなポップな感覚になれるんだろう」って思っていた。
早い話、尾崎亜美の歌は「歌えない」のである。
微妙なメロディーライン、そっちのほうに行くのか?というカンジがするのである。

で、こういっちゃ何だが、そのわりにはポップでない容姿で・・・このアンバランスさ、というのが魅力なんだろうなあ、って思っていたのである。

聴く分にはいいのだが、若干「苦手」という意識もある、尾崎亜美なのである。

6.季節の中で/松山千春 1978年8月

松山千春は歌に接するだけで、その言動についてはゼンゼン知らなかったので「ああいう人」だとは思わなかった。

きれいな歌をきれいな声で歌うきれいな人。
というのが印象である。

この「季節の中で」はグリコのチョコレートのCMに使われていたと記憶している。

ドーンとでてくる
♪めぐるめぐる季節の中で♪
がすごく印象的であった。

あとがき
 28号は「しみじみ」とさせられる歌ばかりであった。

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あしたのジョー <作>高森朝雄<画>ちばてつや

2007-02-22 21:27:09 | 読んだ
やっと、全巻を読み終えた。
やり残していたことを終えた気分である。

少年マガジン連載中から興味はあったが積極的に読んでみたいとは思わなかったものだ。

大人になって一気にかって読むという「手」もあったが、あまり気が乗らずにいたのである。

今回、コンビニで定期的に売り出されたので、これが機会ということで読み始めた。ところが、途中2巻ほどとばしてしまい、今回最終巻がでたところで通販でその2巻を補充し、完読したのである。

さて、読み終えて思ったのは「スゲエー」ということ。
なんというか「なにもここまでしなくてもなあ」ということ。
これも時代を経てから読んだからなのだろう。

連載当時は、これくらいのテンションが日本にはあったんだろう。というか、これからテンションが下がっていくことをなんとなく予感していたんではなかろうか。
だから夢中になったんだろう。

それにしてもジョーのライバルたちはすごい。
力石徹、カーロス・リベラ、ホセ・メンドーサが目立つが、そのほかのメンバーも個性がある。もっともあまり個性がたちすぎて「なんだかなあ」という気分にさせられるけれど。
そういう意味で前者3人はオーソドックスだっただけに心に残るんだろう。

ジョーに腹を立てながら、ジョーが求めるものと世間とのギャップにはらはらしながら最終ページ(そして最終巻の表紙)の白いジョーたどりついたとき、ほっとしたのであった。

この最後のページのジョーが死んでいるとは私には思えなかったのだがどうだろう。
どっかの週刊誌で「あの人は今?!」の特集でジョーや星飛雄馬を扱ってくれないだろうか。そのときには「西」と「紀ちゃん」がどうしているのかも取材してほしい。

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世界悪女大全 桐生操 文春文庫

2007-02-21 22:50:55 | 読んだ
副題が<淫乱で残虐で強欲な美人たち>である。

桐生操の本は「美しき拷問の本」というのを読んでいる。
で、知っているのだが、題名ほど内容は「スゴク」ないのである。
この「スゴイ」の意味がアレだけれど、つまりはそれほど興奮するようなことはないのである。
どちらかといえば「論文」風で、世の中には色々な人がいるのだなあということを知ることができる、ほうが大きい。
だから、題名をもうすこし「穏やかな」ものに変えてもらいたいのである。
なにしろ、新刊は「性生活大全」である。

さて、著者の桐生操は上田加代子と堤幸子の二人のペンネームである。いわゆる「共著」なのであるが、本書のあとがきによれば、この世界悪女大全が最後の共著であり、堤幸子は亡くなったのである。(合掌)

さて、なんというかそっちのほうを期待すると「スゴイ」ことはないのであるが、登場する悪女たちの所業は「凄い」のである。

主に西洋の悪女たち(中国の悪女も登場するが、日本からは登場しない)の話であるが、この本を読むとなにがインモラル、アブノーマルなのかよく分からなくなる。

まあ、登場する悪女たちは有名で歴史上に残る人なので、それなりに「権力」や「金」を持っているし、概ね「美人」であるので、やることが「凄い」のである。

なんというか、人間は「美」とか「金」とか「権力」を持つと、何がいいことで何が悪いことなのか判別できないようになるのではないだろうか?
なんて思うほど「悪女」だらけなのである。
実際にはそれほど悪女がいたわけではないんだろうけど・・・

というか歴史に残らない「悪女」のほうがコワイ。と思う。

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ローマ人の物語25・26<賢帝の世紀 中・下> 塩野七生 新潮文庫

2007-02-20 23:21:43 | 読んだ
賢帝の世紀と題されたこの時代の皇帝は、トライアヌス-ハドリアヌス-アントニヌス、の3人である。

中巻と下巻のほとんどは「ハドリアヌス」についてである。
この3人は生まれながらの「皇帝」ではない。

そして
「ローマでは、公式の主権者は市民であって皇帝ではない。皇帝は、市民から権力を委託された身分にすぎない」
とされているので、皇帝になっても大きな努力が必要である。
その努力が大きかったのがこの3人なのであろう。

努力する皇帝、というのは驚きである。
これが民主主義なのか、と思う。

ローマの民主主義が至上のもの、とはいわないがある種の理想ではないかとさえ、今の日本を見ていると思わざるを得ないのである。

「ローマ市民」というのが選ばれた人たちであって「市民権」を持たない人たちもいたのである。そのローマ市民の中に元老院議員がいて、元老院が皇帝を認定する、というような形である。

市民は市民の権利と義務を果たす。
ということがローマの根本である。これが皇帝にも当てはまるのである。

著者は言う
「しつこく思われようとも、私は何度でもくり返す。人間にとっての最重要事は安全と食の保証だが、「食」の保証は「安全」が保証されてこそ実現するものであるということを。ゆえに「平和(パクス)」が最上の価値であることを」

いかに国民の安全を守るかが、皇帝に課されたものである。
そのウラには国民(ローマ市民)が自らの権利と義務を果たすことがなければならない。

主権者である市民も、市民から権力を委託された皇帝も同じ責任あるということではないだろうか。

今の日本、自分の周りを見回しても、このような考えがないことにがっかりしてしまうのである。
ローマ人の物語を読むと、いつも唸ってしまうのである。

次は27・28巻「すべての道はローマに通ず」である。

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のだめ カンタービレ #17 二ノ宮知子 講談社

2007-02-19 21:55:42 | 読んだ
テレビも終了し、なんだかひと時のざわめきが収まったようなカンジの「のだめ」である。

このマンガを読むとなんだかクラシックが聞きたくなるのであるが、今回登場した曲については残念ながら持っていなかった。ていうか、ちょいとマニアックな選曲じゃあないのか?

今回は、ちょいとシリアスというか、のだめのギャグが浮いているようであった。
もう少しハチャメチャであってもいいのではないか、なんて思ったりしたのである。

それから、裏表紙にあった「音楽に没頭するあまり、すれ違うのだめと千秋は!?」ということなのだが、アタシはのだめと千秋の恋愛については、この物語では「付随するもの」「おまけ」みたいなものだと思っているので、あまりそっち方面には行かなくてもいいんじゃないか、と・・・
どっちみちこの二人は離れられないと思うのである。

それより、千秋やのだめが音楽でどのように成長していくのか、それからどんなすごい奴が現れるのか、音楽には秀でているが実生活ではまともでないのがどんなことをするのか、そっちのほうが興味ある。

これからどうなっていくのか?
興味津々であるが、作者もちょいと戸惑っているのではないか、なんて勝手に心配なんかしているのである。

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第3回全国はっとフェスティバル

2007-02-18 16:17:11 | 観た、聴いた
全国はっとフェスティバル、と名乗ってはいるが、そもそも「はっと」って何?
というフェスティバルである。
宮城県登米市で開催された。


この「はっと」という言い方は私が住んでいる宮城県北部から岩手県南部の言い方だろうと思う。

標準語であれば「すいとん」盛岡方面では「ひっつみ」という料理である。
小麦粉を練って、それを一口大に「摘む」

色々な味つけがあって、普通はしょうゆ味で野菜との汁となっている。
このほか、あずきと和えると「あずきばっと」かぼちゃと和えると「かぼちゃばっと」、あるいは<ずんだ>(枝豆をすりつぶした餡)と和えると「ずんだばっと」とかになる。このように上に何かつくと「はっと」は「ばっと」と発音するのである。
したがって煙草とあえると「ゴールデンバット」となる。(勿論これは嘘である。)

第3回目にして始めて行ってきたのである。
というのは「はっと」というのは私のイメージではご馳走ではないのである。
たぶん我々世代ころまでは、何もわざわざ出かけて食べるものでもない、というものではないだろうか。

夏休みなど、今日は何もないので「はっと」が昼食であったりして、なんというかウンザリだったりしたのである。

それが、このごろ、見直されて郷土の料理としていろいろな種類が出てきて、これを売り出そうということで、このフェスティバルがはじまった。

で、今回はなんといっても以前から食べたかった「かにばっと」が目当てなのである。


かにばっとというのは、岩手県一関市の旧川崎村あたりが本場らしい。というか北上川沿岸でモクズガニが獲れるところで食べることができるようなのだが、なかなか口にすることができない。
モクズガニのダシのはっとなのである。
汁が若干赤いのは蟹のみその色が出ているのである。

本日は山梨県の「ほうとう」と並んで一番人気ではなかっただろうか。なかなか地元でも食べられないのである。
かにのダシがよく効いていて、お椀に顔を近づけるだけでかにのにおいがする。
これ30分以上並んで食べました。

全部で30のはっとが出店されていたなかから、山梨の「ほうとう」山形県天童の「天童地鴨すいとん鍋」気仙沼市唐桑の「唐桑おさかなはっと」地元登米市の「牛もつはっと」「海鮮はっと」「鴨ばっと」など味見をしました。
ほとんど1杯200円です。
私は7人で行きましたので、少しづつ味見ができたのでありました。

最後にデザートで「あずきばっと」を食し終了。

追伸
 本日久々に本店とヴィラを更新しました。

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名人 -志ん生、そして志ん朝- 小林信彦 文春文庫

2007-02-17 20:37:19 | 読んだ
古今亭志ん生と古今亭志ん朝にかかわるオマージュとレクイエムである。

古今亭志ん生と古今亭志ん朝ってダレ?
という人が多いだろうと思う。
この二人が親子で、いずれも「名人」と呼ばれたことも、志ん生はその生き様=貧乏=がよく語られることも、志ん朝は若い時分落語だけでなく役者などで活躍もし赤いアルファロメオに乗っていたりしたということも、二人の顔を思い浮かべることも、よく知っているという人は少ないと思う。

私は、落語が好きで、中学生の頃から意識して見たり聴いたり、そして読んだりしていた。
志ん生は昭和48年になくなっており、意識をして聴くことなかったと思うが、いろいろな本を読むと、名人として「桂文楽」「古今亭志ん生」が必ず出てくるので気にはなっていたので、後にテレビやテープで聞いた。

当時は、立川談志・三遊亭円楽・月の家円鏡(橘家円蔵)・古今亭志ん朝、という四天王と呼ばれた人たちや、春風亭柳昇、柳家小さん、柳家小三治など、テレビ・ラジオによく出演する人たちの落語を聞いていたわけで・・・

その後、東京に出張するとよく寄席にいき、やっとじかに接することができた。
近頃は田舎にも落語家がやってくるので、できる限り聴きに行こうとしている。

できる限り聴きに行こうとしている、というのは、聴衆に問題があるからなのだ。
定席の寄席に行けばそれなりに聞き手側のレベルがあるのだが、地方では極端にレベルが落ちるのである。
「面白い」というところが違うのである。
つまり、落語を聴くにはそれなりのレベルがないと、話に説明を加えないと「わからない」というところが出てきているのである。
したがって、落語家たちも「わかりやすい」話やギャグを主とするわけで・・・

古典落語に出てくる単語はいまや死語になっているものもおおく、いかに落語家がうまく面白く演じても、そもそも、という部分で理解できないところがあると思われる。

若い私がこう思うのであるから。戦前から落語を聴いていて、しかも江戸文化や下町言葉のなかで育った筆者にとっては、現状の落語界に対してある種の違和感を抱くのは仕方のないことである。

従って、古今亭志ん朝が亡くなった(2001年1月)ことで「東京(江戸)の落語はほぼ終わったと見るべきだろう」ということになる。なぜ、そういう考えになるのかということは、本書を読んでもらえばいいのだが・・・

「芸」(術であれ能であれ)は、時代とともにその認められるところが変わってくる。
そして認める人たちの質が低下してくるとともに、芸そのものも以前から比べれば低下してくるということだろう。

著者のいろいろなものに対する姿勢は、頑固なまでに一定していてぶれることがない。そしてどうしても頑固なスタイルを崩さなければならない場合の「忸怩たる思い」というのも正直にあらわされているので「思い」とか「スタイル」に対して共感ができる。

そういう人がつづる文章というのは参考になるし、大好き、ということになる。

著者は「ユーモア」というか「笑い」ということに対して真摯に接していることが、この本を読むとよくわかる。
志ん生と志ん朝のことだけでなく「夏目漱石と落語」という章もついていて、面白くあっという間に読むことができた。

落語のことをよくわからないとついていけない、という部分もあると思うが、それほど落語にこだわらなくても面白いと思うのであるが・・・お勧めの一冊である。

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仙台 本屋めぐりの結果

2007-02-16 22:41:43 | 日々雑感
本日は仙台出張。打合せ3件。

昨日こちらは吹雪で大荒れの天気。したがって車を運転していくのではなく高速バスで行く。概ね1時間30分。うち1時間は眠っている。(ラクチンである)

3件の打合せの合間に本屋へ行く。
のべ3軒をめぐる。

久々に本屋に行ったので、あれもこれもと目移りがした。
1軒目は「政府刊行物サービスセンター」という行政などの専門書を扱う店。
どうしようかなあ、と思った本があったが、なにしろ、ショルダーバックとトートバック(打合せ資料が入ってるんです)を持っての出張、重くなるのでヤメタ。

次は30分間の合間を埋めるために訪れた店。
バスを待つ間にお目当ての店に行くので、その予習として、というつもりだった。
ところが、ここでもイロイロと目に付くではありませんか。
でも、まだ打合せが残っている、ガマンガマン。

最後は1時間の余裕があるはずだった。
しかし、20分しかなかった。
というわけで、当初から予定していた「名人」(小林信彦)文春文庫のみを買って帰ってきたのでした。

今度は余裕を持ってそして手には何も持たずに行ってこよう!

(出張の目的は充分果たしたことを申し添えておきます<笑>)

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会社は社員を守ってくれるか 岩井克人 文藝春秋3月号

2007-02-15 21:40:54 | 読んだ
「終身雇用の崩壊、上がらぬ給与、残業代ゼロ」という副題がある。

産業資本主義の時代には資本投下して機械制工場を建て農村に過剰に存在した安価な労働者を雇って大量生産をすれば利潤を上げることができたが、現在はポスト産業資本主義の時代で利益の源泉となるのは、差異性、他社との違いをいかに生み出すか、ということ。
つまりは「人」が大切。

格差といわれているが、数字上で見ればアメリカは格差が第2次世界大戦前の状況にもどり格差があるが、マダマダ日本では平等であるということ。

「株主主権論」の異常さ。
「日本的経営」の新しい形での復活。
組織作りが会社の命運を握る。

などなど、フーム、と唸ってしまった。
なるほどこういう見方もあるのか、と思った。

近頃の日本では、ヒステリー気味にひとつの事柄をひとつの方向から騒ぎ立てるフシがある。もっと柔軟な見方があってもいいのではないだろうか、と思っていたところに、この文章を読み腑に落ちるところがあった。

平等とは何か?
何かをした人間としない人間、工夫した人としない人、これらに「差」があって当然である。
ただ一生懸命したといっても、無駄な一生懸命もある。

格差、というのは評価でもあると思う。
ただ、その評価の基準が一時代前と違うということなのである、と思ったのだ。

今月はわりと真面目に文藝春秋に取り組んでいる。


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小説十八史略(三) 陳舜臣 講談社文庫

2007-02-14 22:19:07 | 読んだ
第3巻は、漢の武帝時代から始まり、王莽によって「新」に乗っ取られ、光武帝によって漢が復活(後漢)になり、そしていよいよ三国志の時代に入る、ところまでである。

前漢の黄金時代の皇帝であった武帝もその末期は次代に不安を残すような、いわば「ワンマン体制」の悪い部分がでてくるようになった。
つまりは「偉い人」というのは「晩節を汚さない人」ではないだろうか?と思わされるのである。

権力がひとりに集中したとき、周囲の人物が必ずしも善人ではないことを、権力者がどれだけ把握できているか、が問題である。
自分にとって気持ちのいい人や気楽な人だけでなく、批判的な人をどこまで受け入れることができるか、それが大きな課題である。

中国史を読んでいると、このあたりで失敗している人が多い。こういうことを権力につく人は学ばない。もっとも学ばないゆえに権力者になることができた、ということもあるのだろうが・・・

李陵や彼をかばった司馬遷の不幸などは、いろいろな要素が絡んでいるとはいえ武帝の責任は大である。

さて、前漢は皇帝の外戚が権力を持つことによって衰える。
王莽は皇帝の外戚である。
王蒙が「新」を建国するまで、というか下層からのし上がってくるまでの善人ぶりは見事である。
この例を見ると「善人」すぎるというのもなんだかアヤシイのである。

大望を持つ人はガマンができる。「据え膳」なんて食べない。
だから大望をかなえたときに狂ってしまう。

後漢は光武帝が興した。
前漢の二の舞とならないように「外戚」には気をつけた。
そのかわり皇帝の側に仕える「宦官」(濁流)と政府員(清流)との争いによって終末を迎える。

清流と濁流であれば清流が正しいのではないか?
と思うが、清流と名乗っていてもヒドイ奴はいるし濁流にも清廉な人物がいる。

東洋では「皇帝」が<血>によって引き継がれる。
真の実力者が権力のトップにいるわけではない。
このあたりがローマ帝国と違うところである。
どちらがいいのか、ということになるとそれぞれあるが、ともかく中国では一旦<王朝>が始まると<血>が重要な意味を持ってくる。

革命というのは<血>の交代である。
したがって革命には「流血」が必要らしい。

三国志の時代は、登場人物が多彩で面白い。
その前までもたぶん登場人物が多く面白い物語があったはずなんだろうけれど、三国志は三つ巴というのが、設定、としていいのだと思う。

三つ巴なるがゆえに「謀略」が凄まじく、そこが三国志時代の人気の高さに結びつくのではないかと思われる。

いよいよ第4巻は三国志時代から始まる。ローマ人の物語と併読しながらゆっくり読み進もうと考えている。


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ひとり日和 青山七恵 <第136回芥川賞受賞作> 文芸春秋3月特別号

2007-02-12 16:43:34 | 読んだ
週刊朝日の書評欄で斉藤美奈子が、石原慎太郎と村上龍にほめられてもなあ、見たいな事を書いていたので、読むのに積極的でなかったというか<わけの分からない><読みづらい>小説なんだろうなあ、という先入観があった。

わけが分からない、ということは置いておいて、読みづらい、ことはなかった。
なかなか面白いといえば面白い小説であった・・・ただ感想としては「ふーん」とか「そういうものなのかあ」というのが先にたってしまうけど・・・

物語は主人公の私・三田知寿が、母と別れて東京の遠縁のおばあさん・萩野吟子の家に居候していた1年間の出来事を、淡々と綴る、というものである。
勿論、芥川賞候補になるくらいであるので彼女の心境、それも重い心境なども描かれている。

選評から印象的部分を書き出してみる。

石原慎太郎
・都会で過ごす若い女性の一種の虚無感に裏打ちされたソリテュードを決して深刻ではなしに、あくまで都会的な軽味で描いている。
・優れて絵画的な描写

村上龍
・主人公に感情移入してしまったのだ。
・作者の観察力というか視線の正確さに心地よい驚きを覚えるようになった。

池澤夏樹
・とても上手に書けた小説である。読者はこの主人公にやすやすと感情移入できるだろうし、彼女に寄り添って季節の一巡を歩めるだろう。
・しかし何かが足りない。
・無謀な意図がない。

高樹のぶこ
・若い女性のもったりとした孤独感が描かれていて、切ない。
・要点が押さえられているのに作意は隠されている。

黒井千次 ()内は嘉壽家堂補足
・むしろそれ(本当の生活)への予感が作品を強く支えているいる。予感の陰影が鮮やかに浮かび上がるところに力が感じられる。

山田詠美
・日常に疲れた殿方にお勧め。私には、いささか退屈。

宮本輝
・抑えた感情が終始一貫していて、それがこの小説に静かな哀しみの調べを奏でさせている。
・小説が長すぎるのが欠点だが、読み終えると、それさえも、青春のけだるい生命力を表現するリズムと化していた。

河野多恵子
・この作者は見るべきところをしっかりと見ている。無駄がない。

とまあ、概ね好意的である。
私も、好意的である。たぶん「日常に疲れた殿方」だからではないかと思うのだが・・・

私が掲げた選評は概ね私もそうだと思う。
ここにかかれていないことで私が感じたことといえば・・・

20歳の主人公があるときは大人であったりあるときはマダ子どものようであったりして、大人と子どもの境をうろうろしているさま、が描かれているようだ。(黒井千次の予感の陰影というのはそのことをいうのかとも思う)

小説には、主人公とその母と吟子さんという三世代の女性が登場するが、この女性たちの考え方や生き方というのは、もう特殊ではなくて普通なのかなあ、と思わされた。つまり「恋」というものは若い頃だけのものといった今までの考え方はもう古いということをあらためて知らされたような気がするのである。

ただし、この小説を読んで何かを深く感がさせられるということはなく、冒頭にのべたように「ふーん」という思いのほうが強いのである。
まあ、読んでガッカリするということことはないので、迷っている方には背中を押したい。

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