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大(おお)いなる哉(かな)、心(しん)や。
天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出づ。
地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出づ。
日月の光はこゆべからず、しかるに心は、日月光明の表に出づ。
大千沙界(だいせんしゃかい)は窮むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出づ。
それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕(はら)むものなり。
天地は我れを待って覆載(ふうさい)し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生(ほっしょう)す。
大なる哉、心や。
『興禅護国論』の序、栄西禅師
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太虚(たいきょ)/宇宙のこと。そこに満ちる気によって万物が生成消滅する。
元気/宇宙の元の気ということ。生命が満ちあふれた状態を元気という。すべての存在の源。
覆載/天が万物をおおい、地が万物をのせること。
大千沙界/沙界とは、ガンジス河の砂ほどもある無数の世界。大千は、それが千もあるという意味。
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自分のなかの奥深くに宇宙と同等のものがある。我々人間も宇宙の分身のようなもの。
「自分の内的宇宙」が「外の宇宙」と「即」つまりまったく同等で差別がないと心が認識する時、
臨済禅師の言うところの「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位(いちむい)の真人有り、常に汝等諸人の面前より出入す、未だ証拠せざるものは、看よ、看よ」の「一無位の真人」が顕れる。簡単にいったら「真我」ということかな。
それを栄西さんは、言いたかったのかな。
間違っていたらすんません。私はそう感じたのです。
私が四文字を書くとしたら「大哉真乎」となるかも。
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赤肉団上とは肉体ということ。その肉体に心があり、さらにその奥に本当の自分が存在する。
そのためには、心というものを理解し、コントロールする必要がある。
心は「ココロ、コロコロ」というように放っておくとドンドン動いて真理から振れて離れていくものなんです。でもその心があるからこそ、この世に生きる素晴らしさ、存在することが尊いと感じられる。
それを実際に肉体をもって体験するために、この世に人は生まれてくるのかも。
その真理を自覚するためには、本当の自分(真我)にアクセスして、なおかつ現世で楽々生きることが大切なんだろうな。「あるがままに生きる」というのはそういうことだろうな。
そのことが誤解をおそれずにいうと「悟り」ということかもしれませんね。
現世で生きていながらにして、佛になること。「即身成仏」ってのはそのことかな。
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建仁寺の玄関の衝立で「大哉心乎」の文字をみて庭で寝ころびながら考えたメモしたことです。
まあ、素人の白昼夢です。
こんなのも、たまにはいいか・・・。
午前中に国民の権利を果たしに行ってきます。
それにしても素晴らしい、こう言う知識って学校では教えてもらえませんよね。
若者たちにも考えてもらいたいこと、そうすれば覚せい剤などに逃げることが無くなるかもしれませんね。
また色々考えに行こうっと。