先月30日の記事「夢応の鯉魚」で『雨月物語』に触れました。
『雨月物語』に出てくる「仏法僧(ぶつぽうそう)」のエピソードに「瑞泉寺にある秀次の悪逆塚」というのが出てくる。
調べると京都市内、それも三条大橋の側、みんみんの裏ではないですか!
そうか!あの塀か!思わず「ヘェ~~!」と独り言を言って受けてしまった。
↑鴨川に面している道に塀があります。この塀の向こうが瑞泉寺。南隣が「みんみん」
↑瑞泉寺の入り口は、木屋町に面してあります。松屋の隣です。
秀次というのは、豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)のことです。
秀次は、秀吉のお姉さんの子供、つまり甥ということになる。
この甥の秀次を後継者にするため、秀吉は養子とした。
秀吉の子供鶴松が無くなったからです。
ところが淀君が秀頼を出産(1593年)。
ここから跡継ぎ争いが起こった。
この秀頼のお父さんは誰なのかな・・・。秀吉なんだろうか?
石田三成と考えたらすっしきするんだけどな。
だから淀君と石田三成がこの反逆騒動を画策したのかも。
これは、単なる推測ですけど。
↑本堂
陰謀の真偽はわかりませんが、秀次は反逆の疑いをかけ、突然切腹を命じられた、その首を三条河原で晒し、その前で側室、子供達、侍女計39人※を処刑。
塚がつくられていた。
この塚は、秀次の悪称とされた「殺生関白」から「畜生塚」ともいわれていた。
※妻子/正室1、側室21、子供10、侍女7。ちょっと秀次さん・・・奥さん多すぎ。三途の川の渡し船貸し切りかもね。
↑「悪逆塚」はこれらしい。このブースに入るのがいややったのでパス。
桃山時代、このあたりは三条河原の中洲だったそうです。
高瀬川の工事中に偶然発見された石に「秀次悪逆塚」と刻まれていた。
開削責任者だった京都の豪商、角倉了以の実弟・吉田宗恂は、秀次に仕えていた。秀次事件への連座は免れたが、慶長15年(1610年)に亡くなっていた。宗恂の一周忌の慶長16年(1611年)に、了以は秀次の菩提を弔うために、秀次の戒名「瑞泉寺殿」から名を取り、瑞泉寺を建立した。
↑秀次公と一族のために建てられたとされる宝筺印塔
この秀次反逆事件の処理が早く、しかも妻子や関係各位の切腹・・・なかには、東福寺に出家していた僧・玄隆西堂まで切腹させている。出家した僧をおいかけ切腹するというのは、極めて異例なことだった。
それが豊臣政権に大きなシコリを残した。
結果的に関ヶ原の合戦の時、東西に別れる武将の数に反映したそうです。
↑一族の処刑の時、四条寺町・大雲院の貞安上人が刑場の片隅にこの地蔵堂に祀られたいる地蔵尊を持ち込み、処刑された子女が極楽浄土へ行けるように祈ったという 。以来、この地蔵を「引導地蔵」という
あんまり露骨なやり方でリストラするのは良く無い。
リストラをしている無能なリーダー、幹部こそリストラ対象(人罪)なのに。
現代社会でも血の匂いこそしないけど、同じような事件があるのかも。
エグイことをしたら、結局そういう指令をした人や組織、商品なんかに還ってくるものです。
結果的に国でも大企業でも滅ぶのです。
歴史に学べばわかることなんだけどな・・・。
学んでいませんね。
我が国や、我が社は大丈夫と想っているのかな。
その自信、どこから湧いてくるのだろう?
耳元で「ワッ!」と言ったら、日の出の朝露みたいに雲散霧消するのだろう。
問題は、それからどう建て直して行くか。
「瑞泉寺」地図
Twitter→@kyo_otoko
『雨月物語』に出てくる「仏法僧(ぶつぽうそう)」のエピソードに「瑞泉寺にある秀次の悪逆塚」というのが出てくる。
調べると京都市内、それも三条大橋の側、みんみんの裏ではないですか!
そうか!あの塀か!思わず「ヘェ~~!」と独り言を言って受けてしまった。
↑鴨川に面している道に塀があります。この塀の向こうが瑞泉寺。南隣が「みんみん」
↑瑞泉寺の入り口は、木屋町に面してあります。松屋の隣です。
秀次というのは、豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)のことです。
秀次は、秀吉のお姉さんの子供、つまり甥ということになる。
この甥の秀次を後継者にするため、秀吉は養子とした。
秀吉の子供鶴松が無くなったからです。
ところが淀君が秀頼を出産(1593年)。
ここから跡継ぎ争いが起こった。
この秀頼のお父さんは誰なのかな・・・。秀吉なんだろうか?
石田三成と考えたらすっしきするんだけどな。
だから淀君と石田三成がこの反逆騒動を画策したのかも。
これは、単なる推測ですけど。
↑本堂
陰謀の真偽はわかりませんが、秀次は反逆の疑いをかけ、突然切腹を命じられた、その首を三条河原で晒し、その前で側室、子供達、侍女計39人※を処刑。
塚がつくられていた。
この塚は、秀次の悪称とされた「殺生関白」から「畜生塚」ともいわれていた。
※妻子/正室1、側室21、子供10、侍女7。ちょっと秀次さん・・・奥さん多すぎ。三途の川の渡し船貸し切りかもね。
↑「悪逆塚」はこれらしい。このブースに入るのがいややったのでパス。
桃山時代、このあたりは三条河原の中洲だったそうです。
高瀬川の工事中に偶然発見された石に「秀次悪逆塚」と刻まれていた。
開削責任者だった京都の豪商、角倉了以の実弟・吉田宗恂は、秀次に仕えていた。秀次事件への連座は免れたが、慶長15年(1610年)に亡くなっていた。宗恂の一周忌の慶長16年(1611年)に、了以は秀次の菩提を弔うために、秀次の戒名「瑞泉寺殿」から名を取り、瑞泉寺を建立した。
↑秀次公と一族のために建てられたとされる宝筺印塔
この秀次反逆事件の処理が早く、しかも妻子や関係各位の切腹・・・なかには、東福寺に出家していた僧・玄隆西堂まで切腹させている。出家した僧をおいかけ切腹するというのは、極めて異例なことだった。
それが豊臣政権に大きなシコリを残した。
結果的に関ヶ原の合戦の時、東西に別れる武将の数に反映したそうです。
↑一族の処刑の時、四条寺町・大雲院の貞安上人が刑場の片隅にこの地蔵堂に祀られたいる地蔵尊を持ち込み、処刑された子女が極楽浄土へ行けるように祈ったという 。以来、この地蔵を「引導地蔵」という
あんまり露骨なやり方でリストラするのは良く無い。
リストラをしている無能なリーダー、幹部こそリストラ対象(人罪)なのに。
現代社会でも血の匂いこそしないけど、同じような事件があるのかも。
エグイことをしたら、結局そういう指令をした人や組織、商品なんかに還ってくるものです。
結果的に国でも大企業でも滅ぶのです。
歴史に学べばわかることなんだけどな・・・。
学んでいませんね。
我が国や、我が社は大丈夫と想っているのかな。
その自信、どこから湧いてくるのだろう?
耳元で「ワッ!」と言ったら、日の出の朝露みたいに雲散霧消するのだろう。
問題は、それからどう建て直して行くか。
「瑞泉寺」地図
Twitter→@kyo_otoko
叔父さんが秀吉でなければ畑を耕している一生で終っただろうに・・・
ちなみに秀頼は秀吉とは似ても似つかぬ風貌、体格だったそうです。
歴史って面白いですね。すごいドラマがいっぱい。
秀頼・・・やっぱりそうですか。
誰がお父さんでしょうね。