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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

精神医療改革から刑務所改革へ

2017年11月29日 22時55分05秒 | 社会(世の中の出来事)
 東京新聞2017年11月25日(土)に掲載された「考える広場 論説委員が聞く」の「刑務所から見るニッポンー増える高齢者や障害者ー」という記事は最近になく重要な指摘だと思う。佐藤直子記者が浜井浩一氏(龍谷大学教授 刑事政策、犯罪学、統計学)にインタビューしている。

 リンク先を読んでもらいたいと思うが、その最初のところだけ引用しておく。「刑務所の内側を想像したことがありますか。映画や小説に出てくるような残忍な受刑者はむしろ少なく、そこで刑に服しているのは、貧困のために無銭飲食や万引などの軽微な犯罪を繰り返す私たちの「隣人」が大半です。高齢の受刑者が急増し、心身の障害で働けない者も多い。出所しても家も仕事もないような人たちの再犯をどのように防ぐのか。元法務省官僚の法学者、浜井浩一さん(57)と一緒に考えます。」

 浜井さんの本は読んだような気がしたので、調べてみると「2円で刑務所、5億で執行猶予」(光文社新書、2009)。同じような問題意識で書かれた河合幹雄「安全神話崩壊のパラドックス」(岩波書店)などとともに、世間に流布する「凶悪犯罪が増えている」などという印象に統計的に反証している。じゃあ、なんで治安が悪化していると思うかというと、数が少ないからこそ全国のどこかで起こった殺人事件を集中的に各テレビが追いかけることが可能だからである。
 (浜井浩一氏) 
 「世界の殺人発生率 国別ランキング・推移」というサイトを見ると、日本の殺人事件発生率がいかに低いかが判る。(2017年5月30日データ更新と書いてあり、直近データは2015年。だから、相模原や座間で起こった異様な事件は反映されていないけど、統計的には大きな変化はないと思う。)全201か国中、日本は197位で、10万人当たりの殺人事件発生率は「0.31」になっている。

 日本より下位にあるのは、香港、シンガポール、マカオ、ナウル、リヒテンシュタイン、アンドラ、ニウエ、サンマリノである。ナウル以下の五か国は発生率「0.00」になっているけど、どこも非常に小さな国だ。日本だって小さな離島の殺人発生率は、大体の島でゼロだろう。なお、ニウエってのが判らなかったので調べてみると、ニュージーランドの北東にある人口1229人(!)の島国で、ニュージーランドと自由連合を組んで、外交・防衛は委任しているという。世界で20か国しか国家承認していないけど、中国やインドに続き、日本も2015年に承認したということだった。

 世界で一番殺人発生率が高いのは、中米のエルサルバドルで「108.63」、次がやはり中米のホンジュラスで「63.75」になっている。主要国ではロシアが「11.31」、アメリカ合衆国が「4.88」、イギリスが「0.92」、イタリアが「0.78」、中国が「0.74」などとなっている。もっとも警察の統計がどのくらい正確か、また「殺人発生率」とは何かという問題もある。傷害致死や正当防衛などをどこまで含めるか、多少の違いはあるだろう。年による違いもあると思うが、おおよその傾向は変わらない。

 日本は21世紀初頭には「0.5」前後だったのが、次第に下がって行って2010年代には大体「0.3」前後になっていて、人口が多い国としては、世界で一番低いグループに入っている。そのような実態にもかかわらず、20世紀の終わりごろから「厳罰化」が進行した。1995年のオウム真理教事件が最大のきっかけだろう。アメリカや欧州諸国に先がけて、日本は大規模テロ事件を経験した。そのこともあって、社会全体に寛容性が失われ、歴史修正主義が勢力を伸ばすようになった。

 そのような「厳罰化」によって、刑務所に障害者や高齢者が多くなっていったと言われる。そういう話を聞くようになって、もうずいぶん経つように思う。なんでそうなるかというと、「累犯」(るいはん=前刑終了後、5年以内に新たな罪を犯したもの、あるいはそういう犯罪が3回以上続くもの)を重く罰する規定があるからである。一般的に考えると、もう二度と刑務所には戻りたくないと思って犯罪を思いとどまることを期待して、累犯重罰規定がある。懲りずにまたやった者ほど重く罰するのである。

 日本では一度刑務所に行った人を正社員に雇う企業は少ないだろう。もともと社会的に恵まれない環境にある者ほど罪を犯しやすい。精神的、あるいは知的な障害があるものにとっては、ただでさえ生きがたい社会である。そんな社会で他者といさかいを起こしたり、万引きを繰り返したり、無銭飲食をしたりする人もいる。刑務所に行っても、それらの原因が解消されるわけではないから、刑期が終わるとまた同じような罪を犯す。次第に刑務所でしか生きられないような人間になってしまう。

 もともと「言われた通りにルールを守っていればよい」刑務所は、発達障害や知的障害を抱える受刑者にとって、一般社会よりもずっと生きやすいのだと思う。だから、出所後にまた軽微な無銭飲食をわざと起こして、刑務所に舞い戻ったりする。三食保証付きだから、支える家族がない人だったら、そっちの方がいいと思う人がいて当然だろう。ある時期までは親が面倒を見てくれるが、親が先に死ぬと無情な社会に放り出される。福祉のセーフティネットがあるだろうと思うかもしれないけど、人とうまくかかわれず、ぼう大な提出書類を書く能力がない人には難しい。

 ところで浜井氏の紹介するイタリアの事例は、受刑者が市民と交流する新しいタイプの刑務所と作り再犯率が激減したという。(平均の半分以下の18%になったという。)ミラノのボッラーテ刑務所では、百人以上の民間ボランティアが受刑者と一緒に社会的企業を作り、は委嘱サービス、コールセンターなどを運営している。そんな例が紹介されている。イタリアでそのような改革ができたのは、1978年成立の「精神保健法」(バザーリア法)が大きい。

 バザーリア法は精神保健に関心が深い人にはかなり有名だけど、精神病院を廃止して地域で病気を回復するシステムを作ったのである。いくつかの映画でも描かれている。そのような「成功体験」が、刑務所改革を可能にさせたというのである。これはとても大切な指摘だと思う。日本でもまず、もっと精神保健改革が必要なのかもしれない。そして、すべての人を地域から排除しないシステム作りを考えていく必要がある。日暮れて途遠しの感が強いが、やがて日本でも必ずそうなるだろう。

 なお、日本でどうして殺人事件発生率が低いのか、いろいろな仮説が考えられる。大災害などが起きると、家族の力が発揮される。日本では家族に包摂されて犯罪が起きにくいと思える。逆に、犯罪が起きるときは家族内が多く、虐待等で家族が機能しない場合に犯罪が多くなるとも言えるだろう。しかし、最大の原因は少子化だと思う。犯罪を起こすのは、汚職事件なんかだと権力者にならないとダメだから高齢者が多い。でも殺人事件などは、失うものが少なく、体力と時間的余裕があり、社会体験が少ない人ほど起こしやすい。つまり10代、20代の男が多くなる。これは当然のことだ。その世代が少ないから、母数が減る。これが最大の理由だと思うのだが、どうなんだろうか。
 (高齢化が高まる刑務所を示すグラフ=東京新聞所載)
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「明暗」-漱石を読む⑨

2017年11月28日 21時24分43秒 | 本 (日本文学)
 夏目漱石全集を読んできて、やっと最後の長編小説である。188回連載されて、ついに未完に終わった「明暗」。未完ながら最長の小説で、600頁を超える。読み終わるのに6日掛かったので、だんだん最初の方を忘れてしまう。中身の方も「大菩薩峠」か、カズオ・イシグロ「充たされざる者」かと思うぐらい、自己増殖的にひたすら長くなっていく。だけど読みにくいわけではなくて、スラスラ読める。

 朝日新聞に1916年(大正5年)5月26日から12月14日にかけて連載された。漱石は1916年12月9日に亡くなっている。49歳10か月。1917年に刊行された、まさに100年前の物語である。漱石はずいぶん昔の作家のように思うけど、同じ1867年生まれの幸田露伴は1947年まで生きて80歳で亡くなった。今より寿命が短い時代とはいえ、第二次大戦後まで生きていたっておかしくなかった。

 この小説を読む限り、仮に完成していても「失敗作」なんじゃないかと思う。人生にとって大事なものは何か。「お金」と「結婚」と言ってしまえば、今もおおよそ同じだろう。今では「結婚しない」という人生も昔より広がっている。でも広い意味での「」は人生を根本的に成立させているものだろう。「お金」は普通は仕事をして得るが、裕福な家に生まれれば不自由しない。でも結婚してしまうと、一時的に実家にいるよりビンボーになったりすることもある。そういう夫婦の話。

 津田延子と結婚して半年ほど。周りは津田は妻を大事にし過ぎている、結婚して変わったと言われている。それで幸せなら、はたがとやかくいうことじゃないと思って読んでいくと、必ずしも夫婦がうまく行っているわけじゃないことも判ってくる。そんなときに津田が病気をして手術が必要になる。以前の病気が残っていたもので、大きな手術ではないとはいえ、仕事やお金の苦労がある。

 津田は京都にいる父から毎月の仕送りを受けていた。賞与で返すという約束だったが、それを果たさなかったので父は金を送れないと言ってきた。手術の費用もあるし、どうしようか。延子も両親が京都に住み、東京のおじ岡本家で育った。両家の父は京都で知人で、たまたま京都へ行ったいた時に延子は津田を知った。というようなことがだんだん判ってくるけど、それでもなんだか判らない。小林という津田の学友が現れ、貧しい育ちの彼は朝鮮へ勤めると決心して彼の外套を貰いに来る。

 このように小説を半分読んだところでは、「お金」をめぐる物語なのかなあと思う。ところが実は違っていて、途中から再び三度、漱石お得意の「三角関係」が前面に出てくる。津田には、延子との結婚前に結婚を考えていた女性があった。(もっとも大正時代だから、自由に会えるわけじゃない。もちろん肉体的な関係などない。)しかし、その清子は突如彼のもとを去り、津田の学友でもある関と結婚してしまった。その不審に悩んでいた時に延子が現れたということらしい。

 この間、彼の病室には、彼の妹の秀子が現れ大げんかになる。また夫婦の仲人でもあり、津田の会社の上司でもある吉川の夫人も現れ、津田を病後の療養との名目で温泉行きを進めお金もだしてくれる。そして同じ温泉にいま清子が逗留していると告げる。吉川夫人は彼のいない間に、延子を彼にふさわしい妻にすると請け合う。どうもおかしな話なんだけど、この一種の陰謀家、吉川夫人は生きている。作者の思惑を超えて、その度はずれたお節介によって物語を動かしていく。

 でも他の人物、特に小林や妹お秀は、いくらなんでもこんな人はいないだろう。日本人は大人同士で大議論することなど少ないのに、「明暗」では他の漱石の小説にもまして、皆が大論戦を繰り広げている。しかも、漱石の小説では珍しく、立場の違う様々な人々の内面が描写されている。今じゃ、神様でもないのに作者はどうして何でも知ってるのかと思われてしまうが。一般には日本の近代小説は「私小説」で作者自身と同一化した主人公が苦労する話が延々と続くことが多い。

 もっと総合的に社会を描き出す小説、まあフランスやロシアで書かれたような大長編小説が作家にとって目標だった。だが、いくつか書かれた本格小説もあまり成功していない。そもそも「社会」がちゃんと成立していないと、つまり「個性」を持った人間が社会にいっぱいいないと、長い小説は面白くならない。そしてそういう小説を楽しんで読む読者層が存在しないと、小説家が生きていけない。、朝日新聞の読者に男性の知識人層が多かった事もあると思うが、なにしろ「明暗」は理屈っぽい。漱石自身も多分そうなんだろう。それがこの小説にとっては致命傷だと思う。

 どうでもいいんだけど、100年前と今では様々な違いがたくさんある。昔の小説を読むと、「携帯電話がなんでないんだ」と言いたくなることがある。ケータイさえあれば解決しそうな悩みで苦しんでいることが多い。もっともインターネットが発達したことでまた違った悩みが現れ、それが物語にもなっている。それと津田が入院しても「健康保険」がないから、金策を心配しないといけない。やっぱり皆保険制度は大切なものだなあと思った。保険があれば、この物語もかなり変わってくる。

 漱石が死んだ後も何回か連載されているから、少し書き溜めてあったんだろう。でも、今後の展開を書き残したノートなどはなかった。どうなるのかは判らない。70年以上経って、水村美苗が「続明暗」を書いた。文庫本を買ってあったけど、「明暗」を読んでないのに続編を読んでも仕方ないからずっと放っておいた。続きが気になるから、続いて読み始めたので、それはこの次に書きたい。津田が向かうのは、湯河原温泉である。湯河原に津田と清子がそろうところから、「続明暗」が開始される。
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佐倉歴史散歩

2017年11月27日 21時21分11秒 | 東京関東散歩
 千葉県佐倉市堀田氏11万石の城下町である。天守閣などは残されてないけど、広大な城跡は「佐倉城址公園」として整備され、千葉県で唯一「日本100名城」に選ばれている。関東で一番武家屋敷も残っていて、一度は歴史散歩に行きたいと思っていた。京成佐倉駅に着いたのはお昼近く、駅前の観光協会でレンタサイクルもあるけど、どうしようかなと思った。史跡は点在しているが、写真を撮りながらブラブラ歩くのも良い。結局は「順天堂記念館」を省いて歩いて回った。

 まずは駅前からずっと歩いて「旧堀田邸」を目指す。国指定の重要文化財で、庭園は国指定の名勝である。と言っても江戸時代から残されたものではなく、佐倉藩最後の殿様である堀田正倫(ほった・まさとも)が1890年(明治23年)に建てたものである。けっこう駅から遠くて、ちょっとウンザリしたころに「ゆうゆうの里」という福祉施設が見えてくる。「旧堀田邸」こっちと出ているから、施設の中へ入って行くけどいいのかな。と思うと、確かにそこからしか行けないのだった。
   
 写真で判るようにお庭が素晴らしい。今は紅葉も見られたけど、「さくら庭園」と呼ばれて春の桜も見事なんだという。広々とした芝生が広がり、灯篭なども置かれている。下を通るバイパスが眼下に見えるが、こんなに高台にあったのかと思う。庭園の設計は東京巣鴨の植木職、伊藤彦右衛門という人によるものだと書いてある。元は堀田家農事試験場が広がり、3倍もの広さがあった。
   
 堀田邸の方は玄関棟、座敷棟、居間棟、書斎棟、湯殿が残され、門番所、土蔵とともに重文に指定されている。元は台所棟もあったというが大部分が解体されている。庭の奥に門番所と土蔵があったみたいだが、見損なった。いろいろ細かな見どころがあるんだろうが、違いはよく判らない。

 堀田邸から武家屋敷までもけっこうある。印旛総合庁舎を通り過ぎ、坂を上ると近づいてくる。急坂が多く、これは自転車じゃ大変だったかもしれない。武家屋敷は10軒ほど残っているというけど、広壮な高級武士の館ではない。どう見ても下級武士の、映画「たそがれ清兵衛」が住んでいたような家ばかり。表から見るとそれなりだけど、裏には畑なんかが広がっている。
     
 武家屋敷は3軒が公開されていて、上の写真は旧河原家住宅(千葉県指定有形文化財)。ここで3軒分の料金を払う。この住宅が一番大きい。ここだけ中へ上れない。いったん道に出て、隣の旧田島家住宅(佐倉市指定有形文化財)へ。(写真の前2枚)ここは復元整備されたもの。どの屋敷も18世紀前半ころのものらしい。そこから旧武居家住宅(国登録有形文化財)へは裏を周って行く。この住宅は百石未満の藩士が住む規定と規模が一致しているという。
   
 佐倉の武家屋敷はこのように小さな屋敷が立ち並ぶところに面白さがある。公開されていないところも含めて、通り一帯に風情がある。後の2軒は上に上がれるということだたが、寒くなってきたし堀田邸を見たからもういいやと思ってしまった。また別に季節に行ってみたい。道の端っこに「ひよどり坂」という急坂がある。これまた昔そのままのような道。そこから市民体育館、佐倉中を経て、もう佐倉城の一部になってくる。歴博の「くらしの植物苑」という施設もあった。ここもいずれ行ってみたい。
  
 空堀が大きく、非常に広い。多くの人が散策している。紅葉も素晴らしい。本丸跡にも何も残っていないけど、歩きがいがある。二の丸跡には堀田正睦とハリスの銅像があった。下の最初の写真だけど、小さいから判りづらいかもしれない。堀田正睦は幕末に開国を進めながら、孝明天皇の勅許が得られず挫折した。後任の大老井伊直弼が日米修好通商条約を締結した。ハリスと堀田正睦というのはちょっと強引な組み合わせにも思うけど…。
   
 佐倉城は1611年から17年の間に、土井利勝によって築城された。江戸周辺の関東地方には譜代大名の重要人物、幕閣に列し老中などを務める人物が配置された。その後、諸氏が入城しているが堀田氏の時代が長い。家光時代の老中、堀田正盛とその子の綱吉時代の老中、堀田正俊、そして幕末の老中、堀田正睦(ほった・まさよし)が知られている。正盛と正睦が佐倉藩だから、ずっと続いていたのかと思ったら、正盛の子正信の時代に改易され、正俊の子孫が1746年に移って来たという。その後は幕末までずっと堀田氏が続いた。江戸時代の城下町の様子がかなり残される貴重な町だ。
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歴博で「1968年」展を見る

2017年11月26日 22時44分24秒 |  〃 (歴史・地理)
 千葉県佐倉市の歴史民俗学博物館(歴博)で、「1968年」という企画展を行っている。「無数の問いの噴出の時代」と名付けられている。あの「反乱の季節」も来年で50年、国立博物館で「歴史」となるに至ったわけである。良し悪しはあるだろうが、これは一応見ておきたいな。合わせて懸案の佐倉の町並み散歩をしながら、歴博を訪れた。

 散歩はまた別にまとめることにして、まずは「1968年ー無数の問いの噴出の時代ー」について。この企画展示に関しては、かなりマスコミ報道もされていて、東京新聞には「個人の主体性前面に 企画展で振り返る全共闘時代」が掲載された。この記事の中で企画の責任者の荒川章二氏(歴博研究部歴史研究系教授)の写真が目を引いた。荒川さん、歴博にいたんだ。荒川さんは立教の大学院の先輩である。軍事史の研究が長かったから、旧軍の連隊があった佐倉はふさわしいかもしれないが、1968年の展示とは意外感もある。

 半世紀も経ったのだから、この時代を直接は覚えていない人が多くなった。当時の僕は中学生で、時事問題や文学、映画などに関心を持ち始めたころだ。マーチン・ルーサー・キングやロバート・ケネディの暗殺、ヴェトナム戦争のテト攻勢やパリ和平会談、フランス五月革命、「人間の顔をした社会主義」を進めたチェコスロヴァキアにソ連などワルシャワ条約軍が侵攻した事件。メキシコ五輪でチェコ事件直後のチャスラフスカが女子体操個人総合で連覇し、また米国黒人選手が拳を突き上げて人種差別に抗議した。今も忘れられない、心に刻まれた出来事ばかりだ。

 日本も大きく揺れていた。「大学闘争、三里塚、べ平連・・・1960年代を語る資料を約500点展示 約50年後の今、「1968年」の多様な社会運動の意味を改めて問う」歴博のホームページにはこのように書かれている。続いて引用すると、「本展は、1960年代後半に日本で起こった、ベトナム反戦運動や三里塚闘争・水俣病闘争などの市民運動・住民運動、全国的な大学闘争などの多様な社会運動に総合的に光を当てたものです。これらの運動は、戦後の平和と民主主義、そして高度経済成長や公共性を押し立てた開発計画のあり方、広くは戦後日本の政治的・経済的枠組みを「問う」ものでした。この時代に噴出した「問い」はいまなお「現役」としての意味を持ち続けています。」

 展示は地下の企画展示室の2室で行われている。第1部は『「平和と民主主義」・経済成長への問い』と題され、それが5章に分かれる。ベトナム反戦、神戸に焦点を当てた地方都市から戦後社会を問う三里塚闘争(成田空港建設反対運動)、水俣病闘争横浜新貨物線反対運動が扱われている。神戸や横浜の問題は知らないが、べ兵連から三里塚、水俣という流れは、今では社会運動史で広く認められているのか。それまでの党派や大組織(労働組合など)中心の社会運動から、「個」が結びあう新しい「連帯」へという理解である。

 第2部は『大学という「場」からの問いー全共闘運動の展開』である。三派系全学連も扱われているが、多くは全共闘、それも東大と日大の闘争に割かれている。まあ、実際に一番大きなインパクトを与えたから当然だろう。こういう展示を企画するときには、それしかないわけだが、逆に言えば知ってる人には知ってることが多くなる。だから、この展示は昔懐かしで訪れるオールド世代ばかりではなく、まったく知らない世代、ベトナム戦争って何? 全学連と全共闘って違うの? という人にこそ見て欲しいものだと思った。

 それと同時に「無数の問い」が噴出した時代にもかかわらず、「声を挙げられなかった人」がいるという「もう一つの現実」もよく考えないといけない。大学進学率がまだ低かった時代で、学生の地位は反比例して高かった。女子の大学進学率はさらに低かった。(1968年の4年制大学進学率は、男子22.0%、女子5.2%、計13.8%)女子の4年制大学進学率が2割を超えたのは、なんと1994年である。その時代の「大学闘争」が「女性の視点」を持ちえなかったのは当然だろう。女性解放運動は70年代に入ってから世界的に広まっていく。「まだフェミニズムがなかったころ」(by加納美紀代)なのだ。

 大学には当然「障がい者」もいなかった。障がい者の声も70年代以後に噴出していく。日本の近隣諸国、韓国・朝鮮、中国・台湾、東南アジア諸国のことも全然知らなかった。ヴェトナム戦争終了後に、中国系住民がボートピープルとして脱出した時も、何が起こっているのかすぐには理解できなかった。また、解放運動がその頃、解放同盟と共産党が路線問題で争っていた影響もあると思うけど、概して「差別問題」に関する感性のアンテナも弱かった。平和運動や労働運動とともに、差別解放運動が戦後の社会に与えた意味は大きい。

 一方で、負の遺産も大きい。僕は60年代の運動高揚時代は直接には全く知らない。70年代半ば以後には、大学では「内ゲバ」の党派抗争だけが続いていた。新左翼諸党派による各大学の割拠も残されていた。世界各国で60年代の「問い」がいくつも現実化されたのに、日本では「凍結」されてしまった問題が多い。東大闘争のきっかけになった医学部の問題も、なかなか改革が進まなかった。精神医療の改革も遅れている。教育現場はむしろ悪化しているかもしれない。

 またここで取り上げなくていいとは思うが、60年代末は「カルチャー革命」の影響が大きかった。演劇、映画、音楽、美術、マンガ、舞踏などで、ここで名前を挙げる必要もないと思うが、何人もの「文化英雄」がいた。集会などに参加する人もいたし、テレビで見る人もいた。「文化人」が存在価値があったのである。今回の展示でも、ところどころで触れられているが、僕にはそのような文化革命こそ1968年の神髄のように思える。ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したように。

 歴博にはもちろん何度も来ている。当初は近現代の展示がなかった。できるたびに見に来たから、全部まとめてちゃんと見たことがない気がする。佐倉市という場所は、やっぱりそう簡単には行けない。ショップも充実しているから、教材に使えるものをずいぶん買った。(「卑弥呼人形」は多分ここ。そんなものがあったのである。)歴博がある佐倉城址はちゃんと見たことがなかった。今回は武家屋敷の方から歩いて城跡を少し歩いた。そのことは別記事で。今回は「1968年展」だけ見てすぐ帰った。帰りに建物のそばで猫が落ち葉の上で寝ていた。上にもう一匹いるけど、色が保護色。落ち葉の上は温かいのかな。
   
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水木洋子邸から、荷風展へ-市川文学散歩

2017年11月25日 22時12分46秒 | 東京関東散歩
 久方ぶりに晴れていて気持ちのいい週末。市川市文学ミュージアムで永井荷風に関する展示をやっていて、荷風が生涯の最後に見た映画「パリの恋人」の上映もある。それに合わせて行きたかった水木洋子邸に行こうかなと思った。水木洋子(1910~2003)は50年代、60年代の素晴らしい日本映画の脚本家だった人である。長命をまっとうした後、邸宅や遺品は千葉県市川市に寄贈され、第2、第4の土曜と続く日曜に公開されている。公開日が少ないからなかなか行けなかった。
   
 水木洋子とは、いくつかの縁がある。僕は80年代に6年ほど市川の真間に住んでいた。水木邸のある京成八幡の隣駅である。また、水木洋子は東京府立第一高女の卒業で、僕はその後身の都立白鴎高校だから半世紀近い後輩ということにもなる。もっともそういうことは割と最近知ったことで、水木さんの生前は全然知らなかった。水木邸には、京成八幡駅が一番近い。駅を出て線路を渡って、北側の葛飾八幡宮を見ながら線路沿いの道を少し行くと、左へ進めという案内が出てくる。僕は今回と逆の行き方を数年前にたどって、道に迷って大変な目にあってしまった。
   
 初めの2枚の写真は、行くまでの道々。市川市は江戸川を隔てて東京の隣で、昔は真間、八幡あたりはけっこうな高級住宅地になっていた。今は代替わりでマンションやアパートが多くなっているが、今も道が細くて行き止まりが多い。ところどころにある案内に沿って徒歩10分ぐらい経つと、水木邸の看板が出てくる。昔よくあった一階建ての建物で、「水木邸」というより「水木宅」という感じ。50年代の暮らしがそのまま残されたような家である。入場無料。
   
 中へ入ると昔のまま保存されている。奥に執筆の場だった書斎がある。(上の一番最初の写真)和服をまとったマネキンは水木さんのものだから小さい。聞いてみると、身長150センチぐらいだったけど、威厳があったという。家には数多くの映画賞のトロフィーなども残されている。4枚目の写真は右側の一見タンスのようなものが、実は戦後すぐに特注されたレコードプレーヤーとラジオ。扉を開けると現れて、下がスピーカー。そういうものに囲まれ、ここでずっと母と住んでいた。

 面白いのが酒豪番付。ここで載せたのは映画人番付で、文壇番付もあった。横綱が内田吐夢と今井正。大関が三船敏郎と城戸四郎。この番付の東前頭9枚目に水木洋子がある。ちなみに、西の前頭9枚目が田中澄江になっている。女性のトップは小結に嵯峨美智子、久慈あさみがいて、他に女性としては高峰三枝子、越路吹雪、三宅邦子、水戸光子などが載っている。勝新太郎や石原裕次郎が低いのは、まだスターとして若かった時代の番付だからだろう。そうそうたる監督や俳優に交じって、脚本家が載っていることがすごい。そのぐらい知名度もあったということだ。

 水木洋子は文化学院を出たあと、左翼系の演劇活動をして舞台にもたっていた。しかし、24歳の時に父が亡くなり、それを機に舞台劇やラジオドラマの脚本を書くようになった。戦後に映画も手掛けるようになり、巨匠の脚本をたくさん書いた。特に今井正の「また逢う日まで」「ひめゆりの塔」「ここに泉あり」「純愛物語」「キクとイサム」など、成瀬巳喜男の「おかあさん」「兄いもうと」「山の音」「浮雲」など、この二人の監督の50年代の傑作はほとんど担当している。山下清を描く「裸の大将」(堀川弘通監督)も書いているが、山下清がいた八幡学園は水木邸からも近いところにあった(今は移転)。
  
 庭に出ると、外から見ていた時より広い感じ。芝生が広がり、そんな大きな家ではないけれど、気持ちがいい。そこから南の方にひたすら歩き、京成線、京葉道路、JRと越えていくと、日本毛織の工場跡に作られたショッピングモール「ニッケコルトンプラザ」が見えてくる。そのすぐそばに市川市文学ミュージアムがある生涯学習センターに着く。ここで「永井荷風展―荷風の見つめた女性たち―」をやっている。(2018年2月18日まで。)「パリの恋人」は案外空いていて、上映素材はよくないけど、まあヘップバーンを楽しめた。これはパリと付くけど、ハリウッドのミュージカル。
  
 荷風の愛した女たちと言われても、そのほとんどはいわゆる「くろうと」女性である。だから嫌いだという人もいると思うけど、荷風は家制度に収まる人ではなく、二度結婚したけど生涯はほぼ独身だった。自由に恋愛ができる時代ではなく、家制度に縛られたくない場合、男にはそういう場があったわけだ。ロマンティックな資質と、冷徹なまなざしを両方ともに満足させる道は荷風にとってそれしかなかったんだろう。二度目の妻、芸者の八重次は結局荷風の浮気に怒って離婚するが、後に藤陰静樹を名乗って日本舞踊の藤陰流の創始者となり、文化功労者に選ばれた。ところで今回ビックリしたのが、京成八幡駅前にあった「大黒屋」が廃業していたこと。晩年の荷風が毎日通い、同じものを食べた。そのカツどん、お新香、お銚子一本が「荷風セット」として有名だった。7月に廃業した由。
   
 文学ミュージアムから京成八幡駅まで結構あるが、のんびり歩いていくと、京葉道路沿いに「不知森神社」(しらずもりじんじゃ)がある。古来よりこの森が入ってはならない場所とされ、「八幡の藪知らず」という今も時々使われる慣用句(入ったら出られない藪や迷路)の語源となった。でも今はほんのちょっとしかない竹林で、迷いようもないぐらい。それでも近くの歩道橋の上から撮ると、こんもりとした様子がうかがえる。最後の写真は、その近くにある文房具屋「ウエダビジネス」。水木洋子や写真家の星野道夫の文房具を扱っていた店なんだと散歩マップに出ていた。
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映画の映画「人生はシネマティック!」

2017年11月24日 23時31分59秒 |  〃  (新作外国映画)
 イギリス映画「人生はシネマティック!」が案外の拾い物で面白かった。これは第二次大戦中のイギリスを舞台にしたロマンティック映画だけど、「映画を作る映画」という構造になっている。最近日本でも公開された映画「ダンケルク」の撤退作戦を国策映画にせよという命令のもと、空襲相次ぐ非常時のロンドンで、映画関係者が動き出す。そういう中で、クレジットされなかったけれど実は女性が裏で活躍していたという、これも最近よく作られる設定で進んでいく。

 ここで面白いのは、一つは「国策映画の作り方」。カトリンは画家の夫が空襲警備員をしているが稼ぎが少なく、情報省でアルバイトを始める。そんなタイピストのカトリンが、映画に女性の視点を取り入れるため映画作りに参加を命じられる。新聞で双子の女性が船を出して助けに行ったエピソードを読み、現地調査に派遣されるが、実際の彼女たちは内気なうえ、船は途中で故障していた。

 しかし、それを何とか、若くて美人の双子にして、恋物語をまぶし、犬を助けたエピソードを拾い上げて英雄物語を作っていく。本当は横暴な父が酔っぱらって寝てる間に船を出したのだが、父親役の有名俳優は情けない役柄を嫌って書き換えを要求する。船が故障した事実は、上から「イギリスの威信を傷つける」と書き換え命令。さらに極め付けは、その時点で中立のアメリカ世論に訴えるため、アメリカ人のパイロットを特別出演させろと陸軍大臣から直々の命令が…。やむを得ず、何とかジャーナリスト役を作るも、これがど素人の大根で撮影ストップ。カトリンの機転で乗り切るが…。

 というように映画作りにはつきもののトラブルだけど、国策映画ならではの苦労が尽きない。それが現代のプロパガンダにあり方として、見ていて面白い。ドイツ軍支配下のダンケルクでロケ出来るわけもないから、イギリスの海岸で撮るけれど、ドイツ軍をどう見せるか。この場合、ナチスドイツが「悪」だというのは、現代世界の共通理解だから、国策映画作りと言っても安心して見ていられる。

 一方、こういう映画では映画とは別にバックステージものの人間ドラマがあるわけだ。この映画でも、カトリンが大活躍するにつれ、ロケ現場など家を空ける機会が多くなり、それがどうなるか。しかも連日続くドイツ軍の空襲で、誰がいつ亡くなるか判らないという時代だった。そんな時期を背景にした出会いと別れが描かれる。定番的な進行かと思うと、ビックリする展開もある。

 「映画を作る映画」は結構あるが、トリュフォーの「アメリカの夜」、深作欣二の「鎌田行進曲」、山田洋次の「キネマの天地」、沖田修一の「キツツキと雨」などが思い浮かぶ。素人が映画を作る設定の映画もあるが、これらはプロの映画作りを映画にしている。そういう映画は「映画人の心意気」をうたい上げる映画が多い。「人生はシネマティック!」もまあそうなんだけど、時代背景が大きな意味を持っている点では一番かもしれない。ロンドン空襲、いわゆる「バトル・オブ・ブリテン」の様子を描いた意味でも見る価値がある。イギリスがいかに屈しなかったかの記録。

 監督はロネ・シェルフィグ(1959~)という女性監督。誰だと思うと、デンマークで「幸せになるためのイタリア語講座」というシャレた映画を作った人である。その後イギリスにわたって「17歳の肖像」など何本か撮っているが見てないので判らなかった。主人公カトリンはジェマ・アータートン。他の人も含めて達者の配役だけど、よく知らない。原作があるようだ。いわゆる「ウェルメイド」な出来だけど、戦争と女性、戦争と映画というテーマが面白い映画にもなるという企画のうまさが光る。
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ホドロフスキーの新作映画「エンドレス・ポエトリー」

2017年11月23日 21時24分29秒 |  〃  (新作外国映画)
 アレハンドロ・ホドロフスキー(ALEJANDRO JODOROWSKY 1929.2.17~)の驚くべき新作「エンドレス・ポエトリー」が公開された。監督87歳時の作品で、26年ぶりの前作「リアリティのダンス」(2014)には心底ビックリ、感激して「ホドロフスキーの『リアリティのダンス』」の記事を書いた。今回はさらにその続編というから、大いに期待して見たが、期待は全く裏切られない。

 ホドロフスキーという人は、70年代に作った「エル・トポ」や「ホーリー・マウンテン」など「精神世界」を描くような映画で爆発的人気を得た。今やそれらの映画は代表的な「カルト映画」になっている。それらはメキシコで撮られていたから、メキシコの監督かと思っていたら、前作「リアリティのダンス」でチリ北部のトコピージャという港町の生まれだと知った。今回は一家で首都のサンチャゴに出てきたところから始まる。父母は前作と同じ配役で、母はオペラ歌手に憧れセリフをいつも歌で語る。
 (ホドロフスキー監督)
 そういうところは前作と同じで、リアリズム映画ではないことを最初から明確にしている。全編にわたって、幻想的な誇張見世物的な祝祭性詩と性と自由への憧れなどがうたい上げられている。40年代から50年代前半、ホドロフスキーがチリを去ってパリに赴くまでの青春時代、その詩的なドンチャン騒ぎ、疾風怒濤の輝きが描かれるが、時々本人が出てきて、実はこうだったとか、こうであるべきだと語っている。もう好き勝手というか、自由奔放な作りである。

 青春時代を描くから、親との葛藤、性のめざめ、友情、女性たちとの出会いと別れなどが、やっぱり重要なファクターとなる。医者になれと強制する父に反抗して、詩人を目指すアレハンドロ。詩人ニカノール・パラの詩に出てくる「毒蛇女」を求めて、詩人の集まる「カフェ・イリス」に出かけ、真っ赤な髪の女性詩人ステラに出会う。このステラを母親役と同じパメラ・フローレスが演じているが、見ている間は気づかなかった。暗示的な配役であるとともに、その巨体に圧倒される。フェリーニ的な世界。
 
 このステラも実在の人物だそうだが、その後同世代の詩人エンリケ・リンと出会って友人となる。詩人は何物にも左右されず、真っすぐ生きると宣言し、二人で街をひたすら直進する。途中で家があるが、家主の理解を得て中を進ませてもらう。車があっても上を乗り越えていく。こういうのは若い時にありがちの発想で、他の映画でも見たような気がするけど、青春という感じ。「国民詩人」と言われていたパブロ・ネルーダの銅像を塗りつぶしてしまうシーンも印象に残る。

 その後実家が焼けてしまい、バカ騒ぎの時間も終わって、アレハンドロはパリへ旅立つことを決める。旅立ちの埠頭に父が現れ、旅立ちを止めるようと争いとなる。そして和解をして、彼の人生は新しい段階に入っていくところで終わる。この後、パリでブルトンやマルソーに会って、それからメキシコへ行くという続編が企画されているという。その後も作れば自伝的5部作になるらしいが、とりあえずはパリ編は是非是非見てみたいものだ。新藤兼人やマノエル・ド・オリヴェイラを思えば、まだ若い。

 今回は撮影がクリストファー・ドイルが担当している。ウォン・カーウァイの「恋する惑星」や「ブエノスアイレス」を担当し、その後世界的に活躍している。非常に素晴らしい映像だと思う。アレハンドロの青年時代はアダン・ホドロフスキー(1979~)、父役はフロンティス・ホドロフスキー(1962~)で、どちらも監督の実の子どもたち。親子を演じているけど、15歳差だったのか。衣装デザインは監督夫人の「パスカル・モンタンドン=ホドロフスキーで、1972年生まれだから43歳差だからムガベ夫妻よりすごいではないか。こういう一家勢ぞろいの映画作りも前作と同様。「リアリティのダンス」の方が復活の驚きと映像美で感動は大きかったと思うけど、今回は今回で前衛的な青春映画の素晴らしさがある。
 (主演のアダン・ホドロフスキー)
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ジンバブエの「名誉革命」-ムガベ辞任をどう見るか

2017年11月22日 23時06分19秒 |  〃  (国際問題)
 世界最高齢の独裁者として知られていたジンバブエロバート・ムガベ大統領(1924.2.21~)がついに辞任を表明した。93歳だった。白人支配に対し独立運動を起こし、1980年に首相(当時は議院内閣制)、1987年からは大統領として独立後の37年間ずっと政治の実権を握っていた。ハイパーインフレで知られ、国内経済はとっくに破綻状態にあった。世界でも名高い圧政の独裁者だったが、まあ遠くない将来に自然的に終わりが来るだろうから放っておかれた感じだった。
 (ロバート・ムガベ)
 今回は国軍がクーデターを起こし、大統領と夫人を軟禁した。与党はムガベを党首から解任し辞任を迫っていた。ムガベはこの間大学の卒業式に出席するなど、一定の自由を得ていたけれど、事実上は軍に見放され辞任を避けられない状況だった。ジンバブエに大きな影響力を持つ南の大国、南アフリカも辞任に向け調停を進めていた。軍が弾圧に乗り出すことはないと確信した民衆は、反ムガベデモを行い、軍には感謝の意思を示した。この間、流血の事態は全く伝えられていない。一滴の血も流すことなく独裁者を辞任させたのだから、「ジンバブエの名誉革命」と言えるかもしれない。

 こうなった直接のきっかけは、11月6日にムナンガグワ第1副大統領を解任したこと。ムナンガクワも75歳だというが、長年のナンバー2として後継の最有力候補とされていた。しかし、近年41歳年下のグレース夫人が勢力を伸ばしてきた。もとは大統領府のタイピスト、秘書だったが、前妻の死亡後に結婚した。国会財政が破たんしているのにぜいたく好きで有名で、コンゴのダイヤモンド鉱山を私有したり、マレーシアに別荘を持っている。2009年には、カメラマンに対してダイヤの指輪をした手で暴行する事件を香港で起こした。世界的にひんしゅくの夫婦だったのである。

 欧米の主要国はムガベ大統領夫妻を入国禁止にしている国が多い。野党に対する弾圧、大統領選挙をめぐる不正疑惑などが問題視されてきた。安保理に制裁決議が出されたが、ロシアと中国の拒否権で実施されなかった。そんなムガベ夫妻を厚遇していたのが、なんと安倍政権。第2次安倍政権発足後、ムガベ大統領は3回来日し、特に2013年と2016年には夫妻で来日している。写真を検索すると、以下のようなものがすぐに見つかる。
 
 ジンバブエは、昔は「南ローデシア」と呼ばれていた。イギリスの植民地指導者、セシル・ローズにちなんだ名前から、独立後に改名した。昔の大王国の遺跡から「ジンバブエ」(石の家)と名付けられた。イギリスの植民地だったが、1965年に植民地政府のスミス首相が白人中心の国家「ローデシア共和国」の独立宣言を強行した。独立運動の経過は複雑なので今は省略するが、ムガベは中国の毛沢東思想の影響を受けていたとされる。選挙に勝って首相になったが、当初は穏健な経済運営を行い、識字率や乳幼児死亡率を改善して世界的に評価されていた。

 しかし、21世紀になってから白人農場主の土地を強制収容して黒人農民に配布する政策を進め、白人が大量に出国した。農業生産力は激減し、そこから経済悪化が進行した。通貨のジンバブエ・ドルは暴落に次ぐ暴落を記録し、2008年に1億ジンバブエ・ドル札が発行された後も、50億、500億、1000億ジンバブエ・ドル札と続き、ついに100兆ドル札まで発行される。インフレ率はほとんど計算不能で、物価が毎日2倍になるような状態だった。ほとんどジョークのような世界だが、結局どうなったか。

 2015年についにジンバブエ・ドルそのものが廃止になった。米ドルや南アフリカ・ランドをそのまま使うのである。それで独立国と言えるのかというありさまなのである。ちなみに、日本円も使えることになっている。法定通貨は、米ドル、南アフリカランド、ユーロ、英国ポンド、ボツワナ・プラ、人民元、インドルピー、豪ドル、日本円の9種類が指定されている。いや、ありえないでしょう。これは。

 そんな国家がどうして存立できていたか。国民の相当数が南アフリカやボツワナに出稼ぎに行く。そして、欧米諸国が経済制裁している間に進出してきた中国の援助。近年はさすがに中国もあまり援助してなかったという話もあるが、安保理で拒否権を使ってくれる中国(とロシア)は貴重である。中国も2015年の孔子平和賞をムガベに贈っている。これは劉暁波のノーベル平和賞に対抗して中国が作った賞で、今まで台湾の連戦、プーチン、カストロなんかに贈っていて、今年はカンボジアのフン・セン首相に決まったという。もらっても、どうも平和っていう名誉な感じがしない賞ではある。

 今回も解任されたムナンガグワは中国へ行ったという話もあるし、事前に軍首脳が中国を訪れていた。アメリカも事前に承知していたというし、南アフリカも知っていただろう。ある意味、米中でムガベ排除クーデタを仕組んだということなのかもしれない。そうなると、これは「北朝鮮問題」にも応用可能なのかという、非常に重大な問題につながるのだろうか。僕はそのことがすごく気にかかる。その意味でもアフリカ南部で起こった今回の事件は注目せざるを得ない。
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ノミはすごい、ヒトデもすごいー「ウニはすごい バッタもすごい」を読む

2017年11月20日 22時47分50秒 | 〃 (さまざまな本)
 中公新書「ウニはすごい バッタもすごい」を読んだ。著者の本川達雄さん(東工大名誉教授)と言えば、あの忘れがたい名著「ゾウの時間 ネズミの時間」を書いた人である。著者紹介を見たら、今まで他にもずいぶん新書を書いてるみたいだけど、気が付かなかった。今回は本の名前のインパクトで気が付いて読みたくなった。でも結構手ごわそうで、2月に出た本を4月に買って、そのまま放っていた。「サラバ!」で小説に満腹したので、こっちを読み始めたがやはり手ごわい。

 でも、この本は「目からウロコ」の続出で、今まで一度も考えてもみなかった視点で書かれている。ウニやバッタの本ではない。あらゆる動物、いや植物も出てくる。そして、それを「デザインの生物学」という観点で考察している。そりゃあ、何だろうという感じだけど、僕らは「犬」と言われれば、品種はいっぱいあるけど、「犬」と認識して思い浮かべることができる。「猫」とは違うけど、「犬」も「猫」も、あるいは「馬」も「牛」も似たような格好をしている。頭と目が先端にあって、しっぽが最後にある細長い立方体をしている。それは何故かという問題。もう当たり前すぎて考えたこともない。

 どんな太った人でも、普通は身長より横幅が長い人はいないだろう。生物は基本的に細長い。魚を見れば判る。魚が横幅の方が広ければ、水圧で動けない。新幹線の先っぽがどんどん細長くなっていったように、水圧や気圧を受け流すためには細長くなければ生きていけない。動物は「動くもの」だから、目で食物を探したり、危険を察知できるように、目の方向に進めるようになるのが有利である。脳と感覚器官が近くなければ、せっかく感知した情報もうまくいかせないから、感覚器官(目、耳、鼻、口など)は脳の近くにある。(口が一番下があるけど、そうじゃないと食べ物をこぼしたときに困る。)

 なるほどうまくできているなあと思う。でも、この本では哺乳類に関してはほとんど書かれていない。50頁は昆虫の話。そして200頁ほどが海の生物たちである。昆虫は地球上で一番栄えている種類だけど、陸上生活は大変なんだという。人間はずっと陸上で暮らすのに慣れてしまったから、水の中にいる方が大変そうに思うけど、言われてみれば水中生活の方が楽なのである。

 水流があるから、それほど苦労しなくてもエサが見つかる。口を開けていれば、向こうから入ってくる。紫外線にさらされる苦労も少ない。酸素を得ることだけが陸上より大変だけど。そして、どんな生物も体の大部分は水なわけだけど、水中にいる限り水の獲得に困ることはない。陸上の生物は、みな水分の確保には非常に苦労しているのである。

 陸上に進出して大成功した昆虫類は、体をクチカラというもので覆っている。クチカラは皮膚のラテン語から来た言葉で、英語ではキューティクル。カブトムシとかクワガタとか、あるいはアリとか、あまり思い出したくないけどゴキブリとか、皆固い。このようなバリアーを張り巡らしたから、水分の蒸発を防ぎ、紫外線の害にも耐えられる。だけど、そんなよろいをまとってしまったら、動けないはずでは? 

 それなのに昆虫は素早く動けるし、ハチのように素早く飛び回る虫もいる。その体の工夫は読んでビックリ、神技としか思えない。昆虫は体に比べて、非常に大きな跳躍力がある。バッタもそうだけど、僕が一番驚いたのはノミ。体長2.5ミリのケオプスネズミノミがチャンピオンらしい。50センチも跳ねて、体長の200倍。脚の関節部のクチカラには、レジリンという特別なタンパク質がある。レジリンは弾性エネルギーの97%が位置エネルギーに変換されるという。(つまり、1mの高さから落とすと97センチ跳ねる。)これほどすごいゴムは工業界に存在せず、遺伝子操作で作る研究がされている。

 今度は海の生物の話。そもそも貝はなぜラセンなのかヒトデはなぜ星型か。そういうもんだと思って、考えたこともない問題だろう。そして、ナマコは、ホヤは? その驚くべき暮らしぶりが紹介されていく。貝がなぜラセンなのかは、非常に面白くて納得できるので、是非自分で確認を。ここではヒトデの話を。ヒトデは海のギャングと言われ、貝やサンゴの天敵だから、どうも好きになれない。貝に食らいついて何日も待って、油断したところをこじ開けて溶かして食べてしまう。

 どうもやな奴だなと思うが、それはそれとして、そういう風に生きているヒトデも面白い生物だと思った。最初に書いたように、ほ乳類には「前後」があり、前に進む。だから「前向きに頑張ろう」という表現が可能になる。でも、ヒトデは五角形で前後はないのである。どの方向ににも進める。海の中だから、エサがどっちからでも流れてくるから、その方が都合がいいのである。「滑走路仮説」や「サッカーボール仮説」が紹介されている。それは何だ? 

 それは僕の手に余る感じなので、直接読んでほしいと思う。ただ、偶数形だと、水流に載って来たエサを感知するときに、半分が役に立たないケースが出てくる。でも、五角形ならどこから来たエサも見つけやすい。それは図で解説されているが、要するに五稜郭と同じなのである。なるほど、そう見るとヒトデが星型なのも納得できる。もう他の問題は省略するが、一番最初のサンゴのところだけでも読む価値がある。大体、サンゴ礁は知ってても、サンゴがどういう動物かちゃんと知ってる人は少ないだろう。地球温暖化の影響を一番受けるらしい、このサンゴをちゃんと知ってないと。それにしても、叙述はなかなか難しく、そう簡単に読み進めない。でも、頑張って少しづつでも読んでみる価値はある。そういう見方ができるのかと知るだけでも。
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非拘束名簿式比例代表制なら-選挙制度を考える③

2017年11月19日 21時24分03秒 |  〃  (選挙)
 まあこれならいいかと思う選挙制度を書いて、この問題を終わりにしたい。選挙制度の問題は関心がない人も多いと思うが、「政治を考える材料」という意味では相当面白いテーマだと思う。世界には様々な選挙制度があり、それぞれに長所短所がある。それを調べて考える問題は、高校や大学での調査学習やディベートのテーマに向いているのではないか。

 ところで、そういう風に議論を進めるときに、前提として考えておくべきことがいくつかある。まず絶対条件として、「一票の価値」の平等がある。これは最高裁の判例が確立している。具体的に何倍を超えると違憲か、国会にどの程度の「努力」を求めるかなどでは異論があっても、選挙をするときに「一票の価値」が重要なファクターであることは議論の余地がない。都道府県を基礎にして小選挙区制度を実施すると、一票の価値が実現しにくい。全国規模で比例代表にすれば、(原則的には)「一票の価値」問題は生じない。これは「比例代表」を重視していくべき大きな理由になる。

 もう一つは「衆議院と参議院」の問題である。まあ「一院制」にしてもいいわけだが、現実的には改憲案を参議院で通すのは難しいだろう。だから、両方あるとして、同じ選挙制度にするか、違う選挙制度にするか。首相指名は衆院が優先するわけだから、例えば衆議院は完全な小選挙区参議院は衆院のチェックを目的として完全な比例代表制にするということも考えられる。しかし、そうなると衆議院で圧倒的な得票で指名された首相が、参議院ではいつも少数派になりかねない。

 もっとも、そのようなチェック機能が大事だとも言えるが、日本では数年前まで「決められない国会」問題で困っていた。どっちがいいのだろうか? いまのように衆参両院で与党が安定多数を持っていると、「決めすぎる国会」になってしまうかもしれない。国民が与えた議席なんだから、それでいいとも言えるけど、選挙では全ての問題を議論しているわけではない。選挙後に与党が提起して、世論調査では反対が多いような法案でも、国会であまり議論されずに成立するのでは困る。

 さらに「当選者の決め方」、あるいは「投票方法」の問題もある。世界には国民の識字率が低いために、政党のシンボルカラーを選ぶといった投票方法もある。でも、日本では明治以来ずっと有権者が候補者名を自書する投票が行われてきた。100年以上ずっと続いていて、国民はそのやり方になじんでいる。学校で学級委員を選ぶなんてときにもクラスメートの名前を書くことが多い。だから、政党が全部順位を決めておいて、有権者は政党だけ選べばいいという方法には違和感がある。

 参議院ではかつて「全国区」という制度があり、全国から50人を選ぶという超大選挙区になっていた。でも「残酷区」とか「銭酷区」などと言われて、問題が多かった。全国的にに知名度があるから、石原慎太郎や青島幸男が最初に立候補したのも全国区。「タレント候補」と言われた。1983年から、比例代表区に変更されたが、その時は政党が立候補の時点で順位を全部決めておく制度(拘束名簿式)だった。しかし、そうなると候補者が有権者以上に党本部を気にする。自民党の名簿で1位や2位になれば、落選する心配は皆無でずいぶん気持ちが楽な選挙になるのだから。

 そこで2001年から、「非拘束名簿式」に変更された。有権者は個人名または党名に投票でき、合算して党ごとの議席を比例で決める。候補者の順位は、個人名投票の多い順にするというやり方である。そうなると、大政党は党名投票が多く、個人名の得票が少なくても当選できることがある。大量得票できる有名候補がいれば、その恩恵を他候補が受けることにもなる。だけど比例で決めるから「一票の価値」は平等だし、個人名でも投票できる。他の制度よりも良い点が多い

 前に書いたように、現在の日本で比例代表のみの選挙制度にすると、過半数を一党で獲得する政党は永遠に出てこないと思う。自民党は多少の増減があるだろうが、人気が落ちても比較第一党になるだろうから、他党を連立に加えて保守政権がずっと続く可能性が高いと思う。それでも、小選挙区だと初めから勝敗が見えている選挙区が多くて、有権者の投票意欲をそぐのに対し、比例なら投票するだけの意味が必ずある(「死票」がない)という利点がある。有権者が投票した通りの結果になるんだから、一番納得できるのは間違いない。 

 ただ、比例代表だと基本的には無所属で立候補ができない。その問題をどうするか。僕は衆院選の制度を都道府県単位の非拘束式比例代表制に変え、無所属候補を「一人一党」として認めるというのではどうだろうかと思う。参議院は地域ブロック別で同じ制度で行う。これなら、衆参で大きく違う選挙結果になることが少なくなると思う。ベストじゃないけど、ベター。

 先に書いたように、選挙制度はベストの方法はなくて、どの制度にもいい点も悪い点もある。それを認めたうえで、日本では「一票の価値の平等」の観点から、比例代表制の方がいいと思う。(小選挙区にも、制度としての利点はあるけれど、一票の価値の観点から、どうやっても毎回裁判になるのを避けられない。)また、小選挙区の大きな問題として、「小選挙区を一家で独占する」という問題がある。まるで封建制度のように、親から子へ選挙区を「世襲」してしまう。安倍、麻生などは後10年ぐらいかもしれないけど、小泉進次郎なんか30代なんだから、あと数十年も当選し続けるかもしれない。横須賀近辺の若者が政治を目指すのは難しい。そういう意味でも「比例代表」の方がいいのかなと思う。
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並立制と併用制-選挙制度を考える②

2017年11月18日 23時00分13秒 |  〃  (選挙)
 選挙をおこなう意味は何だろうか? 一つはもちろん「国民の代表」を選ぶことである。その選ばれた代表が集まって、議会で法律を作る。そういう「立法」が国会議員の役割だけど、日本のような議院内閣制では「内閣総理大臣の指名」も大きな役割となる。「行政権の肥大化」は先進国共通で進行しているからから、行政トップを選ぶというのは、むしろ一番重要とも言える。

 国会議員をどう選ぶかというときに、「国民の代表」選びを最大の仕事と考えるなら、できるだけ国民の多様な声をそのまま反映する議会構成がふさわしいことになる。だから、完全な比例代表が望ましいわけだ。しかし、「行政トップを選ぶ」方を優先するなら、小選挙区で政権の選択を国民ができる方が望ましい。比例代表だと過半数を取る政党がなかなか出ない。だから、イタリアでは全630議席中、最大党派が340議席に達しなかった場合、最大党派に340議席を自動的に与えるという規定がある。比例代表選挙に政権選択機能を持たせるためだけど、「民意」通りの議会にはならない。

 そのように、「小選挙区」と「比例代表」はどちらも利点と欠点があり、それを相補うために「並立制」や「併用制」がある。日本は並立制を取っているが、導入の際に「穏健な多党制」が望ましいとされた。公明党や共産党も重要な政党として残っているから、ある意味で導入の目的は果たされているが、僕には問題点の方が大きいと思う。ここ4回ほど「与党が3分の2」を取るほど過大議席になっている。また、比例区で議席数が足りなくなって他党に議席が移ることも多い。

 日本の制度では、小選挙区と比例代表区に「重複立候補」が認められている。比例区は同一順位にしておいて、小選挙区で敗退した時に「惜敗率」(落選候補者の得票÷当選者の得票)で順位をつける。この制度では、自分の選挙区で支持候補を当選させるためには、有権者は小選挙区で投票したうえで、もしそっちで負けても比例で復活できるように比例区でも支持候補の党に入れないといけない。だから、党に勢いがあると小選挙区でどんどん当選し、比例区でも同じようにどんどん当選する。名前を貸した程度の意識の党職員が比例名簿の最下位なのに当選したりする。

 現在のように「憲法改正」が政治課題とされている時には、このような「過大議席」をもたらしやすい選挙制度は望ましくない。では、他にどんな制度があり得るかと考えてみると、ドイツで行われている「小選挙区比例代表併用制」というのがある。これは「併用」というけど、ベースは比例代表である。だが比例代表では当選者をどう決めるかに難問がある。党が作った比例名簿だけだと、有権者の側が議員個人を選べない。そこで、議席数は比例で決めて、当選者の決定に小選挙区を使うということで「併用制」というわけである。もっとも、これにも大きな欠点がある。

 それを具体的にドイツの事例で見てみたい。ドイツでは2017年9月24日に連邦議会選挙が行われた。法定の議席数は598で、その半数の299の小選挙区がある。有権者は2票を持ち、基本的には比例代表で議席数が決まる。その結果、メルケル首相の与党であるCDU・CSU(ドイツキリスト教民主同盟、キリスト教社会同盟=バイエルン州だけ社会同盟)が33.0%を獲得して第一党になった。連立を組んでいた社会民主党(SDP)は20.5%となった。それぞれ64議席、40議席を減らした。

 実際の議席数は、CDU・CDSが246、社民党が153である。全部で約600議席なんだから、おおよそ3割を取ったCDU・CDSは200ぐらい、社民党は2割程度だから、120程度のはずである。そこが「併用制」の面白いところで、まず比例で当選数を決める。そのうえで小選挙区の当選者で、その党の当選者数を埋めていく。そうすると、比例で決まった数を超えて小選挙区で当選していることがある。その場合、小選挙区当選者は自動的に当選とするので、議席数の方が変わるのである。これが「超過議席」で、今回はなんと111議席の超過当選者が出て全議席数は709になった。

 どうしてこうなったのか。長年の保守、革新の二大政党の人気が落ちてきて、新興右翼政党などが勢力を伸ばしたわけだが、やはり小選挙区では左右両翼の党、あるいは緑の党などは当選が難しい。だから、キ民同盟や社民党などしにせ政党に大量の「超過議席」が生じたのである。ドイツでは(ナチス台頭の過去を警戒して)小党排除のための「5%条項」がある。しかし、今回は初めて7党(キリスト教民主同盟と社会同盟を別の党として数えた場合)が当選者を出している。

 議席数の内訳は、右派の「ドイツのための選択肢」が前回ゼロから一挙に94議席で第3党。中道自由主義の「自由民主党」(FDP)が80議席。旧東ドイツ与党と社民党左派が合同した「左翼党」が69議席。環境派と東ドイツの民主化運動勢力が合同した「同盟90/緑の党」が67議席。メルケル首相が4期目を確実にしたと日本では報じられたが、実はまだ連立の組み合わせが決定していない。年内の合意は難しいと言われている。

 社民党はメルケル内閣と連立しても難民政策などで独自性を打ち出せず、党勢が伸び悩むので今回は連立しないと決めてしまった。極右の「ドイツのための選択肢」と左派の「左翼党」は、どこの党も連立の対象にはしないので、そうなると「自由民主党」と「緑の党」に連立に加わってもらうしかないけど、これは相当に難しい。比例代表を中心にすると、政権のあり方が決まらないことがあり得るという好例である。しかし、そもそも100以上の超過議席が生じ、選挙の前には選挙後の議席数が判らないというのは、やはりおかしいのではないか。こうしてみると、比例代表と小選挙区をうまく組み合わせたはずの「並立制」も「併用制」もどっちもかなり問題があるということになる。
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小選挙区制と比例代表制-選挙制度を考える①

2017年11月17日 22時47分33秒 |  〃  (選挙)
 今さらめいているけど、選挙制度に関して考えておきたいと思う。選挙が終わると、選挙制度への関心も薄れてしまう。そして負けた側は「選挙制度が悪い」と言ったりする。今回の選挙でも、負けた野党支持者の中には「小選挙区制度が悪い」というような意見が見られる。今回の選挙で、自由民主党は(追加公認を含めて)284議席を獲得した。これは全体の465議席のほぼ57%にあたる。しかし、比例代表区での自民党の得票は33.3%ほどだった。全体の3分の1しか得票していない政党が6割近い議席を占めている。おかしいじゃないかというわけである。

 何となく納得したくなるかもしれないが、よく考えてみるとちょっとおかしい。自民党の284議席の中で、大部分を占めるのは小選挙区で獲得した218議席である。そして、すべての小選挙区で自民党と公明党は協力をした。だから、自民党の得票率だけ見て、自民党の議席を論じるとおかしくなる。比例区の公明党は、12.51%を得票している。(「日本のこころ」を含めた)与党合計では、45.93%。では、自民党と公明党は小選挙区ではどのぐらい得票を得ているのだろうか。

 今回の小選挙区での自民党の得票率は、47.82%に達している。(追加公認を含まない。)一方、全国で9選挙区に候補を擁立した公明党は、1.5%を獲得した。合わせると、49.32%。しかし、埼玉11区、山梨2区、岡山3区では公認調整がつかず、二人の候補が無所属で立候補して当選した方を追加公認すると事前に決まっていた。だから、その3選挙区の無所属で立候補した2候補は両方とも自民票に加えてよい。ちょっと手作業をしてみると、2689万2457票となり、全体に対しては48.52%公明票を加えると、50.0%になる。小選挙区で、投票した有権者の半分は自公の与党に票を投じた。

 一方、野党側を見てみると、比例代表では19.88%とほぼ2割の支持を受けた立憲民主党だけど、小選挙区では擁立が少なかったこともあって、8.53%になる。小選挙区の野党第一党は、擁立数が多かった希望の党の20.64%。(比例の希望票は、17.36%)。共産党は比例で7.9%、小選挙区で9.0%。このような選挙結果をみると、自民党の議席数は確かに過大ではあるけれど、「自民+公明」の協力を前提にする限り、やはり「与党が国民に支持された」から勝利したのである。

 「小選挙区は民意を反映しない」という人が時々いるけれど、これはおかしい。「民意」をどう考えるかの定義にもよるけれど、その選挙区で一番の人を当選とするんだから、これを「民意」と言わずして何と言うのか。アメリカ、イギリス、フランス、カナダなどは小選挙区制度である。それらの国の議会もみな、民意を反映していないと言うのだろうか。比例代表以外の政治制度は一切認めないというなら、それも一つの考え方だと思う。だけど、それで本当にいいのか。

 いや、僕は何も絶対に小選挙区を支持しようと思っているわけではない。特に「比較多数」で当選するのはおかしいと何度も書いてきた。もし、小選挙区を続けるなら、フランスのように「決選投票」やオーストラリアのように「順位付け投票」のような制度にした方がいい。僕の考え方は、小選挙区にも比例代表にも問題点があり、最善の選挙制度などはないというものだ。そして、両方をミックスすればいいということで作られた、現行の「小選挙区比例代表並立制」はやはり問題が多い

 まず、比例代表制の問題点だけど、もし今回比例代表だけだったら、どのような結果になっただろうか。その前に言っておくと、今の比例代表は「ブロック制」を取っている。だから、四国ブロックなど議席が少ないところでは、小党が当選しにくい。そのため、自民党の得票率33.3%に対し、比例区の議席66というのは、比例区全議席の37.5%に達している。そういう問題があるわけだが、一応現行の仕組みを前提にして、ただ今回の比例区の当選者数だけで考えてみる。

 そうすると、自民66、公明21、立憲民主37、希望32、共産11、維新8、社民1
 合計176だから、過半数は89。自公では届かない。しかし、圧倒的に自民が1位だから、自民中心の政権ができるのが自然だろう。維新を加えると、95議席になる。それで過半数にはなるけれど、議長や各委員会の委員長を出すと必ずしも万全の数ではない。そこを考えると、希望の党を連立に誘い込む方が安全だということになるだろう。もちろん、立憲民主党と希望の党を足すと自民党を上回るわけだが、選挙の経緯を考えると、この両党中心の連立は難しいと考えるべきだろう。

 現在の日本のような発展した経済大国では、価値観の多様化や投票率の低下が起こってくる。だから、比例代表制の選挙をしている国では、過半数を単独で獲得する党は出てきにくい。日本でも比例区で過半数を取る党は今後も出てこないだろう。世界で見てみると、宗教的立場が重要視されるイスラエルでは、完全な比例代表制を取る国会(クセネト)120議席の中で、与党連合は61議席になっている。第一党のリクードは、政権党ではあるけれど、たった30議席しか持っていない。様々な右派政党、ユダヤ教正統派などが連立に加わるため、政策の融通性が欠けてくる。どこか一党が連立離脱を宣言すれば、政権が崩壊するわけで政治の安定性にも欠ける。

 日本は事情が違うので、比例代表制度を取ると、「保守大連合」が恒常化する可能性が高いのではないだろうか。そして、過半数を獲得するために小党を連立に加わってもらう必要があるから、例えば「維新」がこだわっているような政策、カジノ解禁などが連立合意に入ってくる可能性がある。つまり、比例代表だと議席数だけは「民意」の通りになるわけだが、実際の政権を作る段階になって「民意」とかけ離れた結果になることも多いわけである。比例代表を中心としている国では、例えばドイツのように政党が分立して過半数を形成しにくいことが多い。じゃあ、どうすればいいのだろうか。特に先に「小選挙区比例代表並立制」は良くないと書いたが、それは何故か。それは次回に。
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大傑作映画、ラヴ・ディアス「立ち去った女」

2017年11月16日 22時53分35秒 |  〃  (新作外国映画)
 近年世界の映画祭を席巻しているフィリピン映画だけど、真打登場という感じで昨年のヴェネツィア映画祭金獅子賞、ラヴ・ディアス監督の「立ち去った女」が公開された。この監督の映画はやたらに長いことで知られ、この映画も3時間48分ある。これでも短い方だけど、それでも4時間近いとなかなか見れない。もう明日で東京のロードショーが終わるので見に行ったわけ。でもこれは驚くべき大傑作だった。方法においても、テーマ性においても、映像においても、真に驚くべき達成である。

 画面はモノクロで、たださえ夜のシーンが多いからほとんどが暗い。でも、だからこそ「光」と「影」が強調される。ほとんど(全部?)ワンシーン=ワンカットで、カメラは全然動かないで「世界」を見つめている。超ロング・ショットが延々と続くけど、全然飽きない。緊張に包まれて画面に見入られてしまう。娯楽的要素はないけれど、主人公の行く末に心奪われて、時間はあまり気にならない。(しかし、4時間近いともなれば、やっぱりトイレ休憩が欲しいけど。)

 ナレーションも字幕も一切ないから、何が起こっているのか最初はよく判らない。農園のような場所で、女性たちが働いている。元小学校教員の「ホラシア」はヒマなときに皆に勉強を教えて感謝されている。一体ここは何なんだと思うと、実は刑務所だった。子どももいるから、一種の隔離施設のような運用かなと思う。場所は明示されないけど、ミンダナオ島北部らしい。ある日、ホラシアは所長に呼ばれ、釈放が告げられる。無実が明らかになったのだ。真犯人は所内で友人だったペトラで、仕組んだのは以前の恋人だったロドリゴだという真相を明かす手紙を残していた。

 30年に及ぶ拘束が解かれて家に戻ったが、ホラシアの夫はすでに死亡し、長男は行方不明になっていた。長女が訪ねてきて一緒に住もうというが、ホラシアはいずれと言って去っていく。ある島に渡って「レナータ」「レティシア」と名乗って、ロドリゴを探ろうとする。しかし、有力者になっているロドリゴは常にボディガードを連れていて近づけない。そんな彼女の周りには、夜中までバロットを売っている男、少し気が触れている物乞いの女、トランスジェンダーの男(女)など、社会の底辺にいる人々が集ってくる。バロットって何だと思ったら、プログラムに「アヒルの卵」とあった。

 プログラムに石坂健治氏の解説があって、ラヴ・ディアスの映画を「スロー・シネマ」の系譜で捉えている。スロー・シネマとは、タルコフスキーやアンゲロプロスに起源を持つ、極端な長回しで世界を観察するようなアート・シネマのこと。劇的に物語を語るのではなく、観客もともに世界を追体験するような映画で、現代ではアピチャッポン・ウィーラセータクンやツァイ・ミンリャンなどが挙げられるという。そして、ディアスの映画は「スロー・シネマの美学を魔術的な境地にまで極めたもの」と書いている。

 非常に納得できる視点で、そのうえで彼は「魂の救済」と「歴史の再構築」をテーマとしているという。今までの映画には、もっと直接にフィリピンの歴史を再検証するようなものがあったというが、「立ち去った女」はあまり歴史に関わらない。それでも冒頭のラジオ音声で、1997年6月30日の香港返還の日だと告げている。フィリピンでは誘拐が多発し、社会的混乱が続いているとも。映画の中では「光」のあたる人物の周囲に「影」の存在があることがまさに映像で語られている。

 だけど、この映画の主たるテーマは「魂の救済」である。大体がトルストイの原作に基づくという。以前にはドストエフスキーの「罪と罰」を翻案している。ロドリゴは彼なりに苦しみ、神父に告解したいと述べる。神はいるのかとも聞く。彼女の方はバロット売りに頼んで密売銃を入手し、教会でロドリゴに近づくチャンスをうかがう。復讐を考えているわけだが、ある時はロドリゴの周りに子どもたちが集まったのを見て断念する。一方、トランスジェンダーの「ホランダ」は襲撃されて重傷を負い彼女が介抱することになる。生きている価値がないと思い、家族に迷惑を掛けずに死ぬためにこの島に来た。二人は次第に心を通わせるようになるが、そのことが思わぬ結末につながっていく。

 「立ち去った女」のすごさは、このようなストーリーやテーマを書いても伝わらない。ひたすら見続ける映像美、人間ドラマの奥に、何か壮大な「人類の救済」のような思いが立ち上がってくる。イラン映画の「セールスマン」やケン・ローチ監督の「わたしは、ダニエル・ブレイク」などの傑作のように、劇映画としての面白さは少ない。「ラ・ラ・ランド」のような弾むような映像でもない。だが、まぎれもなく「世界」に触れたという思いは圧倒的だ。たぶん、自分の今年のベストワン映画になると思う。

 ラヴ・ディアス(Lav Diaz 1958.12.30~)はミンダナオ島に生まれた。本名は「ラヴレンテ・インディコ・ディアス」。もう10本以上の監督作品があるが、当初は2時間程度の「普通」の劇映画を作っていたらしい。21世紀に入って長時間映画を発表し始める。最初が2001年の「あるフィリピン人家族の誕生」という5時間超の映画だという。日本では「蝶は記憶を持たない」(2009)が東京国際映画祭で上映されたのが初紹介。2013年の「北ー歴史の終わり」、2014年の「昔のはじまり」に続き、2016年には「痛ましき謎への子守唄」でベルリン映画祭銀熊賞を受けている。監督だけでなく、脚本、制作、撮影、編集、作曲などを一人でこなしてしまうという。すごい監督が出現したものだ。
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慶応大学三田キャンパス散歩

2017年11月15日 23時49分23秒 | 東京関東散歩
 東大や早稲田、立教といくつかの大学を散歩して写真を載せてきた。となると、やっぱり慶応義塾大学も行かなくちゃいけない。それは判っていたんだけど、一番大事なところを外見だけ見るのでは心残りである。重要文化財である旧慶應義塾大学図書館は改修工事中だから近づけないけど、三田キャンパスにあるもう一つの重要文化財、三田演説館は時々公開されるのである。春秋に行われる三田演説会もあるけれど、今回は「建築プロムナード」と題して特別公開が行われている。今回は11月15日と18日に公開されるので、出かけてみた。
   
 三田キャンパスを正門から入って、左側の一段高くなったところに、それは立っている。日本で初めて、福沢諭吉によって作られた「演説会場」である。そもそも「Speech」を「演説」と訳したのが福沢諭吉である。そして1875年に演説館が作られた。公開で多くの公衆に語りかけるということ自体が、それまではなかった。日本初の公会堂という大事な存在である。中は洋風だけど、外見はなまこ壁というちょっと不思議な建物。中はホントは写してはいけないのかもしれない。
   
 昔は図書館前にあった福沢諭吉像が演説館前にある。演説館の周りは樹木に囲まれていて、どうも全容が撮りにくい。でもまあ、入り口あたりだけでも風情がある。中に入ると、木製の椅子が並んでいる。これはもちろん今のものだが。2階にギャラリーがあるが、今は上れない。この演説館の重要なところは、今も現役で使われるところで、中へ入ると明治をちょっと感じるような…。でも普段は外見だけしか見られないから、気を付けて公開を逃さないようにしないと見られない。
  
 もう一つの重要文化財である「旧図書館」は上のような感じ。今は周りがフェンスで覆われているけど、あまりにも壮大なゴチック様式に遠くからでも厳粛な気持ちが湧いてくる。1912年曽禰中條建築事務所によって設計された。コンドルに学んだ一期生の曽禰達蔵が1908年に後輩の中條精一郎(中條百合子=宮本百合子の父)と作った建築事務所で、多くのオフィス建築などを残した。第一校舎塾監局の建物も曽禰中條事務所である。(地図が各所で配布されている。)
   (第一校舎)
 今回特別に公開されているのが、「旧ノグチルーム」。どこにあるんだろうという感じで探してしまったが、演説館を出てすぐの「南館」4階を外に出たところにある。一番高いところで見晴らしがいい。もともとは違う場所にあった、1951年にイサム・ノグチが設計したもの。2005年に移築されたけれど、普段は公開されていない。南館1階とノグチルームの外には彼の彫刻も置かれている。中は布のスクリーンがいくつもかけられていて不思議なムードになっていた。写真禁止。
  
 三田キャンパスにはかなり彫刻が置かれている。歩いていてもそんなに意識しないんだけど、マップに書いてあるので多いなと思う。下の最初は朝倉文夫が1952年に作った「平和来」という彫刻。旧図書館の裏の方の「福澤公園」にある。そこには戦没者学生の碑もあった。
 
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宮沢賢治の願いーてがみ座「風紋~青のはて2017~」

2017年11月15日 21時18分35秒 | 演劇
 長田育恵作、田中啓介演出、てがみ座公演「風紋~青のはて2017~」を見た。19日まで。赤坂レッドシアター。長田育恵(おさだ・いくえ)さんの作品は最近一番見ている気がする。今度、劇団民藝に書いた『「仕事クラブ」の女優たち』も12月に控えていて楽しみだ。井上ひさしと違って歌はないけど、日本の近代文化史を題材にした評伝劇というところに共感するのかもしれない。
 
 今回の「風紋~青のはて2017~」は宮沢賢治を扱っている。以前に「青のはて~銀河鉄道前奏曲~」(2012)という作品があったというけど、その時は知らなかった。今回の劇では、1933年7月時点が描かれている。宮沢賢治は1896年8月27日に生まれて、1933年9月21日に死んだ。37歳。つまり劇は死の2カ月前。そして、賢治が生まれた1896年(明治29年)には6月15日に「明治三陸地震」が起き、賢治が死んだ1933年(昭和8年)には3月3日に「昭和三陸地震」が起きた。

 もちろんたまたまなんだけど、鉱物と天文を愛した賢治の生涯は、郷土を襲った巨大地震に囲まれていた。劇の中でも津波で夫を亡くした女性が重要な役で出てくる。劇は遠野と釜石を結ぶ仙人峠の駅舎兼はたごで展開される。現在のJR釜石線は、当時仙人峠で寸断されていた。仙人峠までは「岩手軽便鉄道」(銀河鉄道のモデルとも言われる)、峠を越した大橋から釜石は「釜石鉱山鉄道」。仙人峠駅は標高560mで、887mの峠は客が歩いて登らなければならなかった。

 大雨が降ると客は足止めで、だから駅舎にはたごが付いている。そこにある大雨の日、訳あり気味のカップル、貧乏な若い女の子などに交じって、熱で倒れた客が運び込まれる。重たそうなトランクを開けてみると、「宮沢」の名前が。鉄道運転手だった夫を津波で失って、義父とはたごを切り回している「夏井アヤ」(石村みか)は、宮沢賢治(山田百次)を一生懸命看病する。賢治は熱にうなされながら、妹や友人など大事な人々と対話する。この賢治役の山田百次は、ほとんどが病気で苦しんでいながら、一方では若き日の理想を高らかにうたい上げる難役を見事にこなしている。

 10人ほどの人物が一つの場所でドラマを展開する。よく出来た劇をうまくこなしている。でも、やっぱり「宮沢賢治への思い入れ」の有無で、この劇の評価は変わってくると思う。賢治の「農民芸術概論要綱」にあるような「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい」とか「われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である」、さらに「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」なんていう言葉は、歴史上のほかのどんなマニフェストよりも僕の心を揺さぶった。

 今回のドラマにもこれらの言葉がいくつか出てくるけど、でも実際の賢治の生涯は何も実らずに終わりを迎えようとしていた。それでも賢治は病身を押して、津波で海水に浸かった畑にどのような肥料をほどこすか、釜石に住むかつての教え子のもとに向かおうとしていた。そんな賢治の姿は、まさに「グスコーブドリの伝記」を生きているかのようだ。宮沢賢治が求め続けた「まことの道」とは何だろうか。「3・11」の後に、宮沢賢治の「まことの道」は有効なのか。

 それでも、実生活では何も成し遂げられなかった彼の姿が今も心を打つ。多分永遠にそうだろうと思う。生きている間に「成功」を見なかったことが、むしろ賢治の生き方を輝かせている。僕らにとって大切なものとなっている。そういう生き方、「デクノボー」と言われても、大切なものを求め続けたことが。死を目前にした賢治は、もはや死者とも一緒に生きている。特に妹のトシが彼に語りかける。宮沢賢治が好きな人には見逃せない舞台じゃないかと思う。
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