尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「非言語的表現」のリテラシー-広島県の中学生自殺事件④

2016年03月17日 00時27分08秒 |  〃 (教師論)
 広島県府中町のケースを通して、「ではどうすればいいのか」ということを幾つか。もちろん、即効性がある対策があるわけもないのだが、いくつか論点を提示しておきたいと思う。まず大事なことから。僕は今までに書いた中で、「内規変更問題」や「生活記録引き継ぎ」という論点を指摘した。そういうことは学校運営上の問題だけど、それらの問題があったとしても、担任教師が生徒から間違いだと聞きだしていれば、そこで問題は解決したわけである。本人は万引きに関わっていないのだから、本人が認めたはずがない。では、どうして認めたと誤認してしまったのか。

 生徒が何と答えたのか判らないが、「言語による明示的な表現」としては否定しなかったのだろうと思う。「僕は関係ない」と明確に答えたのなら、以後の展開は変わっているのだから、そこは間違いないだろう。しかし、万引きには関わっていなかったのだから、「非言語的表現」として「何を言われているのか判らない」「僕は何も悪いことは関係ない」と身体で表現していたはずだと思う。教師がその「非言語的表現」の真の意味を読み解くことが出来なかったのである

 「非言語コミュニケーション」(non-verbal communication)は、どの文化においても言語以上に重要なコミュニケーション方法だと思う。上司や親が何か言ってきて、「はい」と答えているのに、「その言い方は何だ」「その目つきは何だ」となっていくのは、実人生でもドラマなんかでもよくあることだ。言語では認めているのに、身体表現(身振り、顔つき、目つき等々)では「ホンネでは嫌だが、渋々従わざるを得ない」ということが読み取れるわけである。今回の問題でも、生徒が言語ではなく「身体表現」としては何を表わしているのかを読み取ろうとすれば、少なくとも「何かおかしい」と察知できたろう。

 ところが学校というのは、「きちんと発言する」「論理的に表現する」といったトレーニングをする場だから、教師の側は「生徒はきちんと発言するはず」だと思い込みやすい。確かに生徒会の選挙に出るとか、部活の部長を決めるとかの場では、「嫌とは言わない」ことが「事実上の受け入れ」であることも多い。だから、教師は「嫌とは言わせない」テクニックを身に付けてしまう。今回は逆に「はっきり違うと言わなかった」から、「認めた」と思い込んでしまったのである。本当は「はっきり認めてはいない」のだから、「もっときちんと調べる必要」を感じ取るべきだった。

 どうしてそうなったのかは、今書いたような「教師的言語」という問題もあるが、他にもいろいろあるだろう。一つは「廊下で立ち話で聞いた」という点である。中学はものすごく多忙なうえ、空いているスペースがほとんどないから、小学校や高校、あるいは一般のお役所や企業のような感覚で、「どうして個室を使わなかったのか」などと難じるのは不当だと思う。だけど、「面談」と表現するのなら、机と椅子を廊下に設置して座って資料を基に話をするべきだったと思う。

 しかし、それも「多忙」という事情が背景にあるに違いない。もっとも、この「1年時から問題にする」というのは、この学年が突然変更したものだから、「自分で自分の仕事を忙しくしている」のである。学校に限らないが、「多忙」といっても自分で自分の首を絞めていることが多いのだと思う。ここで「ホンネが言える関係」が成立しているかどうかが問われる。教師の中にだって、「面倒だから今まで通りでいいんじゃないですか」と思っていた人がいるはずである。でも、そういうことを言えたかどうか。誰かが「3年間きちんとやった生徒を推薦するべきだ」などとタテマエを言い出すと、それを否定できなくなってしまったのではないか。そういう硬直的発想が出てくるのは、もしかしたら生活指導で問題が多く、「セロ・トレランス」的な対応で学校運営を行っていたからかもしれない。教師がホンネを言えない環境で、教師と生徒の意思疎通がうまくいくはずがない。

 また、「教育のデジタル化」が進められていること、教師の「成績主義」が定着してしまったことなども「教師の非言語コミュニケーションのリテラシー(読み取り能力)」の低下をもたらす大きな要因だと思う。また「自主研修」がほとんど認められなくなり、「官制研修」や「教員免許更新制度」ばかりが押し付けられていることも、同様である。だがまあ、それらは今までも書いて来たから、論点を挙げるだけにする。今後、教師はますます「パソコン画面を見て生徒を見ない」というイマドキの医者のようになっていく。教師を競わせて給与やボーナス、昇格等を決めるというんだから、校内一致して生徒対応に当たるという気風も衰えていく。教育行政がそういう方向を推し進めているのだから、今後もこういう問題は折々に起きるのである。(それも今までに書いてきたとおり。)

 じゃあ、親は、あるいは教師個人はどうすればいいのか。一つは親が「積極的に学校作りに関わっていく」しかないということである。学校や教師個々を非難したり要求するだけでは、何も変わらない。学校を変えていくためには、親(あるいは地域住民)がもっと関わるしかないんだろうと思う。教師としては、とにかくヒマを作るように、自分で自分を多忙にしないことだろう。そして、生徒の非言語的な表現を読み解く能力を高める工夫をする。演劇や映画を見る、スポーツに取り組む、ボランティアなどで多くのさまざまな人に出会う等々…。だけど、それらはなかなか多忙で果たせない。でも…、新聞と本を読み続けるのは教師の義務だと思う。そして、それだけでもかなり「視野を広げる」役割を果たすはず。自分の身を守るためには、ある程度の勉強、努力も大切
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生活指導記録の問題-広島県の中学生自殺問題③

2016年03月14日 23時09分09秒 |  〃 (教師論)
 「モジュラー型ミステリー」というジャンルがある。主に警察小説で「同時多発型」に事件が起きるタイプのミステリーである。(僕が好きなのは、英国のR.D.ウィングフィールドによるフロスト警部シリーズ。)「モジュラー」(modular)とは、電話やケーブルなどの端子のことで、「モジュラー型」はもともとは工業用語らしい。規格化された製品を組み合わせて使える「組み合わせ型」のことで、英語を見ると「モデュラー」と表記するべきかも。さて、学校は典型的な「モジュラー型」職場で、多くの生徒(だけではないが)が同時多発的に多くの「事件」を発生させている。

 学校をめぐる「何でこんなことが起きたのか」というようなケースを見て、僕は「同時にもっと大きな事件が別に起きていたのかもしれない」などと書いたことがある。今回のケースでは、もう報告書が出来ていて、そのことが証明された。1年時の万引きが起こった翌日に、「対教師暴力事件」が起き、万引き指導の方はおざなりになったのである。万引き事件に関しては、他の指導の場合には残っている反省文等が残されていないということだが、「残っていない」のではなく指導を行えなかったのである。

 この問題では、当初「1年時の非行歴を進路指導に用いた」「その際、当時の資料の誤記が訂正されていなかった」と報じられた。ニュースでは、「誤記を訂正する担当も決められなかった」などと報道されていた。「非行歴」という表現に関しては、「非行」には当たらないので、学校としてはあくまでも「生徒指導歴」であると一回目に書いた。ところで、問題はもっと深いものがあり、今書いたことを見れば、「生徒指導歴」にカウントしても良いのかどうかに疑問がある。生徒を指導するというのは、単に万引きを確認するだけでは終わらず、事情聴取や家庭との連携を通じて、反省を促し今後につなげていく筋道を立てないといけない。もし、そこまでやる時間的余裕がなかったとしたら、「指導した」とは言えず、単に外部情報が寄せられたというに止まるのではないか。そういうケースの場合、そもそも「生活指導1件」とカウントするのが許されるのだろうか。

 もっとも、教育委員会への報告では正しい名前で書いてあったということだから、生徒への事実確認はなされていたのだろう。というか、万引きの連絡は学校にあって学校から引き取りに行ったのかもしれない。本来、放課後に生徒が私服で起こした問題は、「学校の指導範囲ではないから警察に連絡してください」と言ってもいいはずである。だけど、実際にそんなことを言い放つことは不可能である。学校に連絡があるのも、一定の信頼がある証でもあるから、地域からの連絡をむげにはできない。だけど、憂さ晴らしのような電話も結構あるし、万引き事件の場合、(特に今回のコンビニなど)被害額そのものが小さい事が多く、警察に通報して被害届を出して調書を作るのは店の方でも面倒である。要するに二度とないように叱りつけて欲しいわけで、学校に連絡するわけである。

 そういうことだとすると、引取り時に名前と事実経過を把握できたわけで、「背景のない事件」と判断されたのだろう。万引きという「窃盗事件」は、大体は遊び半分の愉快犯のようなものだと思う。ただ、表面上は万引きとして発覚したが、実際は「クラス内のいじめ事件」(弱いものに無理やりやらせる)だったり、万引き商品を校内で売買している「盗品売買グループ事件」だったりすることも時々ある。今回のケースではそうではなかったと確認できていたから、対教師暴力事件のさなかに忘れられたのだろう。だけど、対教師暴力が起きるような学校では、教師の注意がそこに集中した裏で、問題を起こすとは思ってなかった生徒が事件を起こしたりするものである。

 次は「誤記が訂正されなかった問題」だけど、これも本質は誤記が訂正されなかったことではないように思う。会議後に作られた正式報告書類では正しい名前になっているとのことだから、むしろ「訂正された」というべきではないか。だけど、その「正式報告」はどこかに綴じこまれていて、共有サーバーにあった古い資料が発掘されてしまった。それは本来、生活指導部会か学年会のための内部資料と思われる。普通は会議終了後に(主任などは除き)回収されるもので、「会議のたたき台」的なものだと思う。もともとが「正式な資料」ではないもので、会議を経て正式資料が作られる。そういった性格のものではないだろうか。しかし、その正式な書類の方が受け継がれなかった。

 担任や学年主任が1年時からその学年を担当していれば、当然ことの経緯が覚えていただろう。恐らく途中で異動があり、1年時を知らない人が担任だったのだろうけど、学年の生活指導担当がきちんと資料を受け継いでいれば、本来起きるはずがないケースである。仮に「1年時からの指導歴を進路に使う」という方針が決まったとすれば、生活指導担当が正式に残された指導資料をあたるはずだが、一体どうしてしまったのだろう。問題多発と多忙の中で、指導資料の引継ぎがうまくいってなかったのだろう。こうなると、何でもかんでも正式書類を作って管理職の押印を経ないといけない東京の方式も、やはり必要なのかという気もしてしまう。とにかく、問題は「会議資料の間違いを訂正しなかった」ことではなく、「生活指導資料の引き継ぎの不徹底」にある。最後にもう一回、ではどうすればいいのか、教師のあり方について考えておきたい。
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推薦制度と冤罪の悲しみ-広島県の中学生自殺問題②

2016年03月13日 21時11分11秒 |  〃 (教師論)
 昨日2回目を書こうとして、いろいろ検索していたら、いまどき珍しくパソコンが何度もフリーズしてしまった。あるサイトを見ようとすると、パソコンが動かなくなってしまうのである。こういうことが今でもあるのか。処理に時間がかかってしまい、書く気が失せてしまった。それはともかく、調べたかったのは、私立高校への推薦制度のあり方である。高校受験に関しては地域差が大きく、都道府県ごとにかなり違いがある。東京の感覚では、高校入試が終わり(定時制の2次や通信制は別だが)、その後に卒業式がある。それが当然だと思って育ったのだが、他県では順番が逆のところもあるようである。

 今回の問題では、広島県の「専願推薦」という言葉を知ったが、これは首都圏では使わない。ニュースを聞く限り、東京で「併願推薦」とか「併願確約」と呼ぶものとほぼ同様のものかと思う。公立高が第一希望の生徒が、私立を一校に絞って受験し、学校側は事前に(事実上の)合格を保障し、生徒側は公立高に落ちた時に入学する。この「滑り止め」保障があれば、生徒側は公立高のランクを上げられる。高校側も一定ランクの入学生を確保でき、うまくいけば双方に利益がある。だけど、経済的に私立へ行けない生徒は利用できないし、高校側も「不本意入学者」が多くなってしまう。また、事実上、一般入試が機能しなくなる。広島ではこの制度を利用しない場合、ほぼ不合格になるという。

 この制度は「推薦」には違いないけれど、生徒からすれば落ちた時の保障だから「学校推薦」という意識は薄いだろう。勘違いしないように書いておきたいが、私立高の推薦というのは、公立高の推薦や大学の推薦入試とは大きく違うのである。私立大学に「指定校推薦」という制度があるが、その場合は「一般入試なしで進学できる」という意味になる。一定ランクの高校に(おおよそ)一人の生徒の推薦を依頼し、高校側が一人に絞り込む。大学入試をパスできるのだから、生徒側の利益は非常に大きい。大学側の求める基準を上回る生徒が複数希望する時は、高校側の選考もシビアになる。そういう時には「生活指導歴の有無」が決め手になっても、まあ不思議ではないだろう。

 一方、私立高校の場合、事前に合格保証があるわけだが、私立高の一般入試を受験するのである。それは公立高を併願する生徒だけではなく、その私立を第一希望する生徒(「単願推薦」)も同様である。成績基準は事前にパスしているわけだから、当日の試験が悪くても合格になる。そのはずだが、さすがに零点ではダメかもしれないし、面接もある。だから、学校は私立の保障がある生徒にも、最後までちゃんと勉強や生活面をしっかりやらないとダメだぞと言えるのである。

 「単願」の生徒の場合、必ずその学校に行くんだから、進学後に問題を起こされると困る。中学と高校の信頼関係に関わる場合もありうる。次年度以後に、その私立を希望する生徒に影響が出かねない。だから、中学側も「生活面の基準」を設けて選考するのではないかと思う。だが、「併願」の場合、公立に受かれば行かないわけだから、高校の求める成績基準をクリアしていれば、他の条件はあまり考えないのが普通ではないか。どうなんだろう。地域的な問題も大きいかもしれない。東京では、近隣県も含めれば、いくつもの私立を受験できる。地方では公立以外に行ける私立高は限られるという事情もあるだろう。しかし、以上のように、「併願」(広島では「専願」)というケースは、「学校推薦」などと大仰に言うほどのものではないと思う。学年が中心に進めて、「校長印」が必要な「学校推薦」という形式を取らないことが、東京では多いのではないか。

 そういう風に考えてくると、逆にこの生徒がなぜ死ななければいけなかったのかも疑問が起こる。第一希望ではない学校のことなど、どうでもいいではないか。そこで、僕にはまだよく判らないのだが、この学校の「保護者対応」の不適切さ、そして「冤罪におちいった少年の悲しみ」が大きいように思うのである。このケースの場合、三者面談で「万引き歴で推薦不可」と告げられる日に死を選んだ。しかし、そもそも「万引き」が一年時にあれば、親は必ず知っているはずである。場合によって、学校に呼ばれない場合もあるかもしれないが、電話もないということは考えられない。親に連絡しない「生活指導」は、進路に影響するような指導歴にはならない。だから、万引きがあれば親はすでに知っている。逆に、そういった事件がなければ、親がその場で知らないと言うはずである。

 また、「内規変更」も11月では遅いだろう。変える必要ないと一回目に書いたが、それでももし変えるというなら、もっと早く変えて保護者会で周知いないといけない。保護者会をいつ行うかは学校ごとに違うだろうが、中学3年の秋には、「進路説明会」が必ず行われるだろう。その時には、なかなか保護者会に来ない親も(働いている母親が休暇を取って)参加するはずである。入学式の後で初めて学校に来る親もいるかもしれない。高校受験が初めての親も多いのだから、そういう場を設定して制度全般を一から説明する。そういう場があるはずだし、なければおかしい。その場で「一年時からの問題行動を推薦基準にする」と言えば、質問もあるかもしれないが、そこで親には自分の子どもが推薦が可能かどうか判る。こういった(恐らく多くの中学で行われているはずの)手順が踏まれていたのかどうか。

 すでに作られている「報告書」を読んでいるわけではないので、詳しいことは判らないのだが、多分そういった手順が踏まれずに、生徒からすれば「突然、万引きをしている」と決めつけられたということなのではないか。違うなら違うと言えばいいし、そもそも第一希望でもないわけだが、そういう問題ではなく、「自分が何を問われているか」をすぐには理解できなかったのではないだろうか。それを後になって冷静に考えていれば、なんでちゃんと反論しなかったのか、そんなことはないと言えばいいだけではないかとなるが、当の本人からすれば、パニックになってしまい、どうすればいいかが判らない。そういうことがあるのは、警察に誤認逮捕された「本当の冤罪事件」の記録を見れば判る。多くの人は、何を言っても聞いてくれないことに絶望し、調書にサインしてしまい、その後で自殺を図る。(今、裁判中の「今市女児殺害事件」も、報道で読む限り概ねそんな感じである。)そのように、このケースを通して僕は「冤罪の悲しみ」を深く感じたのだが、もっと違う問題も潜んでいるのかもしれない。今回はここで終わり、次回は今回の「一年時の生活指導」を取り上げる。
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広島県の中学生自殺問題①

2016年03月12日 00時12分27秒 |  〃 (教師論)
 緊急に「広島県の中学生自殺問題」を何回か書きたいと思う。「自殺」という言葉は本来不適当だと僕は思っているのだが、各マスコミが使っているのでここではそう表記する。2015年12月、広島県府中町の中学で、3年生の男子生徒が自殺した。その問題が今になって明るみに出たのは、遺族が他の生徒の高校受験に配慮していたのだと判断できる。

 ニュースなどでは「進路指導のミス」と報じられているが、その報じ方には以下に書くように僕には異論がある。確かに「ミス」はあった。人間にはミスがつきものなので、「ミスを防ぐ施策」がなくてはならない。それが今回はうまく機能していなかった。(というか、「なかった」とも言える。)だけど、この学校の指導には「ミス」以上の「本質的な大間違い」があったと思うのである。 

 今回の問題は、簡単に書くと以下のようなことになると理解している。
中学生が私立高校への「専願推薦」を希望していた。(この制度の問題は次回に書く。公立高校が第一希望の生徒が、私立高校を一つにしぼって志願し、公立に落ちた時に進学する。この制度を利用せず「一般受験」しても、ほとんど合格できない。「学校推薦」が必要である。)
学校側は、推薦に関する内規を昨年11月に変更した。それまでは、3年時の問題行動だけを見たのに対し、「1年時からの触法行為」を見ることにした。
学校の共有サーバーに残された1年時の指導記録に、その生徒の万引きが書かれていた。しかし、それは本来は別人の行為で、「誤記」だった。それは当時の会議で指摘され、紙の上では訂正されたが、元のパソコン上の記録は訂正されなかった。(誤記の原因は単純な打ち間違いらしい。)
その記録をもとに、学年主任は担任教諭に対して、この生徒に万引き歴があることを本人に確認するように求めた。担任は5回にわたって「面談」したが、生徒がはっきりとした反論をしなかったため、確認されたと誤認した。(この「面談」は廊下でなされたものらしく、僕には「面談」とは言えないように思われる。また、この記録は学校側の情報なので、遺族側に疑問もあるようである。)
担任は、12月の三者面談を前に、そのこと(1年時に万引きがあったため、専願推薦はできないこと)を保護者に伝えると言った。生徒は三者面談に日に、面談に現れず自殺した。

 以上の中で、③(誤記問題)④(本人への確認)は、明らかなミスである。しかも、かなり大きな問題をはらんでいるミスである。だから、ニュースでもそこが焦点になっている感じがする。その結果、なぜ担任は確認したと思ったのか、あるいはなぜ誤記が訂正されなかったかなどと、言ってみれば「現場の責任追及」がなされている。だけど、この問題の一番重大なポイントは、②の「内規変更」ではないか。これさえなければ、「誤記」は問題にならないまま眠っていただろうし、担任が確認する必要もないからミスがおきるわけもない。だが、多くのマスコミも「1年時からの問題行動」を対象にした内規変更の是非を取り上げていないように思う。

 一体、学年途中で推薦の内規を変えていいのだろうか。本来、1年時からの問題行動を進路指導にも使うんだったら、入学式後の保護者会で親に周知しておかないといけないのではないだろうか。「誤記」ばかり問題になるが、誤記ではなく本当に万引きがあったとしても、本来は1年時の指導で終わったはずの出来事が突然よみがえって来ていいのか。これでは「教育」ではなく、「懲罰」ではないか。成人の裁判であっても、一度決着した刑罰を本人に不利に変更することは許されない。(本人に有利な「再審」は新証拠があれば認められる。)ましてや、未成年の場合は、「刑罰」ではなく「教育」が目的である。犯罪に関与してもマスコミ等に実名は出ない。教師は立場上、生徒の名前と行為を知ることになるが、それは「教育的指導」を行うためであって、その指導が終了した後で、他の目的に使うことはおかしいのではないだろうか。

 そう言うと、「では、万引きした過去のある生徒を学校が推薦していいのか」などと言われるかもしれない。その答えは「いい」ということになる。生活上の問題があっても、学校が指導してその後問題が起きていない。それなら、学校の指導が有効だったということで、今さら何の問題もないではないか。もちろん、生徒がみな進路に向って頑張る3年生後半にもなって、問題行動を繰り返しているような場合は、当然推薦はできないという結論になるだろう。しかし、それは考える順番が逆で、機械的に判断するのではなく、推薦を希望する生徒をいったん「できるだけ皆を推薦する」という方向で考えて、「例外的に推薦できない生徒はいるか」と判断していくべき問題だろう。(3年になっても落ち着かない生徒は、そもそも推薦を申し出てこないだろうが。)

 以上に書いたことは、「机上の空論」ではない。僕が中学で進路指導を行ったのはもうだいぶ前(80年代)になるが、中学教員として、またその後の高校教員としても、「生活指導歴がある生徒」を上級学校や会社に推薦している。もちろん、どんな進路希望であれ、本人、親とともに面談して決めていくわけで、その中で学校の方針、進路指導、生活指導に従っていることが前提となる。そんな中で、1年の時に万引きがありますねなどと言うのだろうか。この学年は多分1年時を知らない主任や担任で構成されていたのだろうけど、3年時に頑張っていれば、それ以前のことなど持ち出さないものではないのだろうか。学校側の規定がどうであれ、「この生徒は推薦していいのではないか」と頑張るのが、担任や学年主任の仕事ではないかと思う。

 それとともに、学校で一番多くある問題行動は何だろう思う。小さないじめ、万引き、喫煙ではないかと思う。ところが、これらはいずれも「暗数」が多い行動である。つまり、学校側が認知できる数より、はるかに多くの万引きや喫煙が起こっているはずだということである。今回の万引きはコンビニだというが、個人商店などでは学校には通報しない事も多いに違いない。それに「万引きに成功したケース」は問題にならない。万引きに失敗して捕まったとしても、警察、家庭、学校のどこに連絡するかはさまざまだろう。全部学校に通報されるわけでもないのに、推薦不可などと言いだしたら、たまたま学校に通報された生徒だけが不利である。喫煙やいじめなども同様で、学校がたまたまうまく知ることができたケースのみ、生徒を不利に扱うことになってしまう。

 中学1年生と言えば、12歳か13歳。刑事責任は問われない年齢である。いくつかの小学校から集まって、中学生となる。初めはいろんなことがある。適応できなかったり、強弱の関係が作られたりする。そんな中で、遊戯的に、あるいは「パシリ」(親分子分関係で命令されて弱いものが万引きして貢ぐ)だったり、「障害」や「病気」が背景にあったり、家庭の貧困や虐待があったり…。万引きの原因もさまざまである。一律に「推薦不可」ということ自体が教育的配慮に欠けるように思うのである。

 ニュースでは「非行歴」と呼んでいる。だが、警察沙汰にもならず、ましてや家庭裁判所や児童相談所にも関わらないようなけケースではないか。これは「問題行動」でいいし、学校からすれば「生徒指導」の問題である。「指導」なんだから、今後は一緒にがんばろうということで終わる。反省文をたくさん書かされたりするのは、本人は「一種の懲罰」と受け取るかもしれないが、学校としてはあくまでも「指導」なのである。そういう時に、「これで君は高校への推薦はダメになったよ」と突き放すのか。それとも「今後、勉強や部活をみんなと一緒に頑張って、希望の進路を実現しよう。学校も応援するよ」と言うのか。前者のような対応をすれば「再犯」を後押しするようなものではないか。

 もちろん、学校推薦を行っても、成功する場合ばかりではない。高校も、大学も、会社も、うまくいかずに辞めてしまうことはたくさんある。だけど、「生活指導歴」があっても推薦をした生徒が、次の学校で問題行動を起こしてしまったということがあるだろうか。それほどないのではないか。(むしろ、在学中はおとなしかった子が…というケースを見聞きすることが多い。)人間はそれほど信頼を裏切れないものだ。たまに裏切られることもあるけれど、人間を相手にした仕事では「裏切られるのも仕事のうち」なんではないかと思う。
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教員養成に「発声練習」を-私の教師論④

2015年06月03日 23時17分48秒 |  〃 (教師論)
 教師という仕事は、どういう仕事なんだろうか。「勉強を教える」というのが、普通最初に思い浮かべることだろう。実際、教師の毎日はほとんど授業をすることで費やされている。だけど、実際の感覚としては、「人間関係の調整」とか「人間観察」に追われている感じがする。よほどの進学校は別なのかもしれないが、大体の人は授業中も「学習内容」と同じぐらい「生徒の観察」に気持ちが向かっていると思う。ところで、実はもう一つ、案外教師が気付いていない仕事の特徴がある。それは「朝から夕方までしゃべり続け」ということである。授業であれ、その他の指導であれ、他の仕事以上に「言語的伝達」の重要性が高い。タテマエとして、言葉による説得が一番大事とされているからである。

 人間は言語だけでなく、相当の割合で「非言語的コミュニケーション」によって情報を伝達している。もちろん教師も同じだけど、目や手振りだけでは授業できないし、「あれ」「それ」「おい」とかだけでクラス経営はできない。生徒に明示的に指示しないと伝わりにくいから、他の仕事以上に「言葉による説明」を行っているのではないか。こうして、朝からしゃべり通しということになる。これはあまり言われていないが、「一種の特殊技能」だと思う。教師以外の人が急に同じことをやっても、のどが枯れたり、自分で何を言ってるのか訳が分からなくなってくるらしい。ずっと生徒から見られているという環境も特殊だし。外部講師を頼むと、「授業慣れ」していない人からは大変だったと言われるのである。

 「困った先生」にはさまざまなタイプがあるが、生徒全員に慕われる人もいないだろうと同じく、生徒全員に不評な場合も少ない。だけど、学級担任に持ち込まれて困ってしまうのは、「何を言っているのか判らない先生」や「声が気こえにくい先生」に対する苦情である。「厳しすぎる(怖くてみんな萎縮している)」とか「おとなしすぎる(うるさい生徒を注意できない)」というのもあるが、こういう不満の方が対処しやすい。(理由は自分で考えれば判るだろう。)しかし、「何を言ってるのか判らない」というのは確かに困る。言語不明瞭もあれば、あちこち話が飛び過ぎる人もある。講演なんかなら面白い話で脱線するのも技だろうが、マジメすぎるような(ジョークもノートするような)生徒もいるので、脱線もほどほどにしないと「判らない」と言われたりする。空き時間に廊下から様子うかがいに行くと、確かに判んないなあという時もあって、そういう時は苦労する。

 今は採用試験のときに「模擬授業」をしたりするところが多いから、さすがに若手の中には「声が後ろまで聞こえない」という教師は少ないのではないか。だけど、昔は結構いた。大量採用時代もあったし、元気な志望者は学生運動でもやってたかと見なされ、おとなしそうな人を高評価した時代があるのかもしれない。生徒が静かに聞けば聞こえるだろうと、「静かに聞いてないオマエラが悪いんじゃ」というのは自分でもヘリクツだと思うが、そういうしかない場合もあったように思う。そういう先生も含めて、教師は言語を駆使するものに必要なレッスンを受けてない場合が多い。朝から晩までしゃべってるアナウンサーや俳優は、当然話し方や発声に関する研修、講習を受けているだろう。教師だけが、話の中身の問題は研修するけれど、発声の方法より生徒に通じるような言語コミュニケーションのあり方などを研鑽する機会がほとんどないのである。

 70年代から80年代にかけて、自己の「身体性」に対する関心が非常に高まった時期がある。学生運動が表面的には「言語的反乱」から始まりつつも、運動の担い手そのものが「肉体的な解放」から遠かった。また、60年代末には音楽、演劇などを中心に「肉体の解放」を追求するような新しい表現革命が起こっていた。だから、運動退潮後に「自己の生活」「自己の身体」を徹底して見つめ直す試みがあちこちにあった。そういう中で自己形成してきたから、「学校」という場は「肉体のこわばりをもたらす場」だという感じは抜けない。教師自体が役割意識を身にまとって、「自由な身体」を生きていない。しかし、それではごく当たり前の生活指導も生徒に受け入れられない。いじめに対処するにも、生徒が「先生は注意しているが、それは役割としてタテマエを言ってるだけだ」というメタ・メッセージを教師の身体から読み取ってしまうのである。

 自分自身は声を出すことに苦労したことはない。大きな声を出すのも苦にならない。年とともにだんだん滑舌が悪くなってきたような気はするが、まあ声を出すことそのものはあまり考えたことがなかった。だから学生時代に竹内敏晴「ことばが劈(ひら)かれるとき」(思想の科学社、のちちくま文庫)には衝撃を受けた。その後、林竹二と組んだ定時制高校での授業なども注目してきた。「竹内レッスン」そのものに通ったことはないんだけれど、野口三千三さんの野口体操には直接通ったことがある。やはり教員が自己の身体が抑圧されているときには、生徒に正しいことを言っても、「タテマエ言ってるぞ」というメタ・メッセージとして伝わると思う。だから、教師の長時間労働などは本当に解消しないといけない。

 それと同時に、大学でもそうだし、教師になってからも「発声練習」などを含めた「演劇レッスン」をやった方がいいと思う。宿泊行事などで使える「ゲームの練習」なんかはあるけれど、ちゃんと自分の身体に向き合う訓練はしてない場合が多いと思う。では、どうすればいいかというと、自分で探して参加する道もあるが、まあ、せめて本を読むだけでも。先に挙げた竹内敏晴さんには、「教師のためのからだとことば考」(ちくま学芸文庫)という本もある。簡単に手に入るのは、平田オリザの新書、講談社現代新書から3冊出ているが、毎日の教員ライフに役立つヒントがいっぱいある(という読んだときの記憶があるけど。)また、鴻上尚史の「発声と身体のレッスン」(ちくま文庫)、「あなたの思いを伝える表現力のレッスン」(講談社文庫)も役立つだろう。今、身近にすぐ見つかったのは鴻上さんの2冊なので、画像を載せておきたい。とにかく、教師というのは「発声」と「身体」によって情報を伝達する仕事、一種の役者なんだということを意識しておくだけで、ずいぶん救われる時もあると思う。それにこういう本は「ワザ」として知っておくということがあるだろう。
 
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「教師の事務的ミス」という大問題-私の教師論③

2015年06月02日 23時17分17秒 |  〃 (教師論)
 「教師の失敗」とはどんなものだろうか。懲戒免職になるような教員は、いつの時代にも一定数いるだろうが、ほとんどの場合は「教育上の失敗」ではない。でも、学校では校長による研修が行われ、「個人情報の流出」「体罰」「わいせつ」「飲酒運転」などは、絶対に起こしてはならないなどと、何度も何度も何度も…言われる。一年間に10回以上になるんじゃないか。もちろん、「いやあ、初めて知った。大問題だ。これから絶対に気を付けよう」などと思う人はいない。はい、はい、はい…、同じことを何度も言わなくちゃいけない職業は大変ですねえ、まあ時間のムダだけど、内職しながら聞いてるふりはしてあげましょうと言うことになる。大体、「生徒の個人情報を管理職の承認なしに校外に持ち出してはいけないことを知っていましたか」とか聞いてるアンケートになんと答えたらいいんだろうね。

 しかし、まあ「知らなかった」に○をして提出してどうなるというもんでもない。入れ墨アンケートじゃないんだから、「こんなものには答えられない」「教育行政に抵抗するぞ」などと力んでみても仕方ない。面倒には違いないが、5分か10分あれば書けるんだから、すぐ書いて提出すればいいじゃないか。ところが、毎日の多忙に紛れて、抵抗してるわけでもないのに、提出しない人がいる。忘れてしまうのである。そして、毎日毎日、違った問題が起き、書類も机上に積み上げられていく。そして、提出を忘れている人は今日中に提出をなどと言われて、あわてて机上整理から始めて、違う報告書類も発掘され、かくして30分も1時間も時間が取られてしまう。ただでさえ多忙な仕事を自ら「より多忙」にしている。

 教師に限らず、「説明責任」が問われるようになり、インターネットの発達に伴い、「情報公開」のための書類作成に追われるようになった。また、業績評価が「成績主義」になり、自分の仕事のまとめ、アピール等の書類作成にも追われる。だから、「仕事における事務処理能力」の重要性は昔の比ではない。だけど、多分教員養成の中で「事務処理能力の養成」なんて、ほとんど行われていないのではないかと思う。授業のやり方、授業の中身は誰でも考える。でも、ワードによるテスト問題作成採点エクセルによる採点処理(例えば、200人分の中間、期末の点数、課題の点数等を仮に打ち込んで、総計点をソートして上位から並べるといった程度でいい)を教員養成でもやったほうがいい。そして、40人を担任しているとして、通知表の所見を書いてみる。それを行ったうえで、自己評価シートをワードで完成させる。部活や保護者対応がないから、これは現実の教員生活よりずっと楽。こういう現実の教員生活で行われる「事務処理」こそ、「教師の日常」の中核をなすものだ。

 「教師としてのミス」の大部分も、単なる「事務処理ミス」から起きていると思う。非常に重大ないじめ事件、体罰問題などは現実には非常に少ない。でも、「ミスするつもりは全くない」にもかかわらず、「つい、うっかり」生徒や保護者対応を誤ることは現実に相当ある。もちろん、自分もやった。そんなに多くないかもしれないが、何回かはある。生徒にプリントを渡し忘れる、配り忘れる。欠席生徒もいるし、いつ配布してもいいような行政から来たお知らせもいっぱいある。「保護者会の出欠、出してないぞ」「えっ、貰ってません」とか、「え、出したと思うけど…」と言うから探したら、確かに他の書類に紛れてたとか。「探したけど、確かに出してないよ」「いや、昨日出したはずだけど…」「もしかして、それ、進路希望調査と間違えてない?」と言うことで、生徒の方が勘違いしてることもある。(実際のやり取りは、こんな丁寧なものではないが。)そういうことが日常茶飯事なのが学校である。

 学校に提出する書類は、しょせん「校内処理」だからどうとでもなるけど、一番大変な問題は「進路に関わる事務的ミス」である。大学や私立高校に出す書類、会社に出す就職用書類。それらは「学校が作成する」「学校から郵送する」と言うものがけっこうある。その日付を間違うと、そもそも相手側に「門前払い」になることもある。期限が決まってるのに、教師の方がミスして、生徒が希望の進路へ進めないという深刻なケースもある。そんなにないと思うけど、ないとはいえない。その反対に、一度決まった進路を生徒や保護者の側でホゴにして、違う進路にしたいと言ってくるケースもある。まあ、それなりに理由があるから、むげに退けられない場合もある。そういうケースを見聞きしたこともあるが、自分もやりかけたことがもあるし、書類間違いをしたこともあるから、あまり他人のことを言えない。だけど、と思うんだけど、生徒の側ももっと教師に確認しておくべきではなかったか。僕の場合は、センセー、わたしの書類、そろそろ出来てる?と聞いてきたから、間違えずに済んだわけで。

 事務室に提出する書類も多い。でも、よく見ていると、年末調整の書類、出てませんよと言われるような教員は大体いつも同じではないのか。細かく調べないと出せない書類はともかく、すぐ書ける書類は「すぐに出す」。これは個人的なものも同じで、とにかく「どうでもいいこと」ほどさっさとやらないといけない。それだけは僕は自信がある。どの学校の事務担当者にも、何の迷惑もかけていないはずである。それは僕が几帳面だからではなく、まさに正反対で「自分がいい加減だと知っているからできること」なのである。実際、どんどん忘れていく。見つからない書類を探して机を書きまわすのはよくある。だから、すぐ出さないとなくしてしまうと自分で判っているのである。生徒関連だと、いろいろあるからすぐやりたくてもできないこともある。だから、どうするか。きわめて丹念なノートを書き続けているような教師もいるし、パソコンで処理している人もいるが、僕にはできない。やっても続かないし、どうせ読み返さない。「当面やるべきこと」を紙に書いて、机にペタペタ貼っておくなんていう方が簡単で忘れないような気がする。結局、好きでやることではなし、本末転倒になってはいけない。
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スーパーティーチャー志向を排すー私の教師論②

2015年05月31日 22時48分03秒 |  〃 (教師論)
 生徒をめぐる事件が起き、そのクラスの担任教師がいろいろと非難されるということが時たま起きる。担任の対応が不十分ではなかったのか、問題があったのではないかというわけである。そういう大変な事例に教師が遭遇する可能性はどのくらいあるだろうか。100人に1人が1%なんだから、0.00001%もないだろう。小中高全員で100万人近く教師がいて、数年に一人と言った具合だから、そんなものではないか。つまり、通常はそういう目には合わずに教師人生が終わる。だから、「普通の教師」は自分がそういう目に合わないように祈りながら、身をすくめて「世間の目」を生き延びようとする。ホントは言いたいこともいろいろあるんだけど。それが多くのケースで起きることである。

 学校をめぐる、あるいは教師をめぐる言説は相当にあるわけだが、学校現場から見てリアルで生き生きとした論議はほとんどない。特に大きな問題が起きた場合は、「自分が担任をしていたら防げていた」などと思えるケースはまずないから、自分のところで起きなくて良かったと安堵するのが通常である。そして、「あんなこと言われても自分ではやりきれない」と思いつつ、批判を恐れて口を閉ざしている。こうして、「失敗ケースをめぐって現場で議論する」機会は失われる。行政が中心になって「防止策」などを打ち出してくるが、調査と報告が多くなり、タテマエ上のマニュアルが整備されたことになり、当初は忙しくても実施されているが、やがて無理なことは続かないから忘れられていく。

 そういう時に思うことは、「世の中はスーパーティーチャーを求めているのだろうか」という思いである。時には「結果的に防げなかったのから、担任として失敗」などと決めつける人がいる。かつて教師をしていて、今は「教育評論家」などと名乗ってテレビや新聞でそんなコメントをする人もいる。他人の事をそれほど言えるんだから、「自分だったら防げていたと信じているんだろうか」と僕には非常に不思議である。多分、忘れているのかもしれない。自分もいっぱい失敗していたということを。具体的なケース抜きに議論していくのだが、僕には問題が起きた時のケースを(マスコミを通して)見聞きして、自分だったらどうしていただろうと思って、ほとんどの時は自分も同じようなことしかできなかっただろうと思うのである。それを非難できるんだから、僕には世の中は「スーパーティーチャーを求めているんだろうか」と思うわけである。でも、それでは今後に生きてこないし、有益な教訓にはならない。

 教師の大部分は、「学校と生徒を良くしようと思っている」だろうけど、同時に自分や家族の生活や健康、つみあがった事務処理書類、長い通勤時間などを抱えて、実際にやれることには限界がある。それに日常のさまざまな行事指導などが立て続けにあって、生活指導上の問題でじっくり生徒に向かい合う時間も取りにくい。そういう実際の学校を支えている「フツーの教師」でもできる対策を出して行かないと今後には生きないのである。でも、そういう風に発想すると、「反省が足りない」とまた非難されるかもしれない。どんなに大変な時でも、生徒が大変な状況の時には、何を置いても優先するべきだったと。確かに、後で振り返ると、あの時に違った対応をしていればと思うようなケースは、教師ならいくつも抱えているだろう。でもそれができない「現場の構造的理由」を問わずに、後から非難されても「スーパーティーチャ―」でもないと無理だよなあと思う。

 世の中には、一人の教師が何でも出来ちゃう、生徒を救っちゃうという学園ドラマがたくさんある。(その逆にひとりの教員が学校全体を狂わせてしまうという「アンチ・スーパーティーチャーもの」もかなりある。)ドラマのような学園ライフに憧れたかのような新採教員もたまにいて、自分の担当以外にも口を出してくるから迷惑するといったこともけっこうあるんじゃないか。でも、実際の学校には「スーパーティーチャー」はいないし、いたら迷惑するだけである。学校だって地方行政機構の一つで、法と条例によって設置されている。現実の日本にたくさんある「組織運営体の一つ」に過ぎない。教師一人でできることは限られているし、その程度の厚み、深さは持っている。そして、生徒や保護者もさまざまだから、ある教員が一生懸命やっても空回りするというのが、若い時の思い出だろう。

 今「スーパーティーチャー」の定義もちゃんとせずに議論しているのだが、今まで接してきた限りでは、ホントに凄いという人もまずいない代わりに、多くの教員は「部分的にはスーパー」というところもある。だから、そういう部分の技術は盗めるんだったら盗んでしまおうと思って見ていくと、その「スーパー性」がすべての生徒に受けているわけでもないことに気づくことが多い。ドラマではクラス全員、部活全員が心服しているように描かれているが、実際のクラスや部活には「不満派」がそこそこいる。大きな声で言えないから黙っているだけ。多分、これは学校だけでなく、会社やお店なんかでも「やり手」と言われる上司にはつきまとう問題なんだろうと思う。そして、不思議なことに、そういう「不満派」の生徒が相談できる教員がいることが多い。そして、それはスーパーどころか、何だか問題を抱えていそうな教師だったりすることがけっこうある。人間の世界は不思議なものだなあと、僕はそういうケースを見聞きするたびに思ってしまうのである。

 若い教員は決して、学校のスーパーヒーローみたいな教員を目指さないようにすべきだ。若いうえに、スポーツ抜群、歌もうまくて、教科の教え方も面白い、おまけにルックスもいいなんて、そんな人がいるわけないだろうと思うと、今は時々いるんじゃないかと思う。でも、そういう教員には「敬して、心は開かない」という生徒もいる。批判的に見る生徒がいることを忘れずに仕事しないといけない。学校が組織的に動く場面で、一生懸命下支えするつもりで仕事しないといけないと思う。教師は学校の一部分を担うことしかできない。学校や学年の方針、雰囲気などを抜きにして、個々の教員、担任一人が出来ることは限られる。学校に関する事件が起きた時も、そういう風に「スーパーティチャ―にしかできない」ことを求めない方がいい。「生徒の立場」などという人もいるけど、「生徒の立場」「親の立場」「教師の立場」などが対立する場面も、確かにないわけではない。でも、判断基準は「常識の立場」というものもあるはずだと思う。次は「事務的なミス」という問題を。
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「生徒と言う異文化」を前に-私の教師論①

2015年05月31日 00時12分02秒 |  〃 (教師論)
 「安保法制」について、あるいは「選挙制度改革」についてなど書きたいテーマは多いんだけど、それを始めると長くなるに決まってる。自分としては、6月は「教育」に関して書いてしまいたいと思う。それもまた、「教員免許」「アクティブ・ラーニング」「小学校の英語教育」(これは去年からの書き残し)など、いろいろ書きたいテーマは多い。都教委のさまざまの問題もあるし、そのうちまとめて書きたいと思う「中学の社会科教科書問題」もある。だけど、前から予告している「教師論」、特に自分の経験からくる「教師という存在」についての話を先に書いておきたい。そうしないと、書くときがないまま時間が経って、自分でも忘れてしまいそうだ。(なお、ここで言う「教師」とは、ほぼ地方公務員として小中高等に勤務する教員を指して言っている。)

 「教師論」というか、「教師のあり方」、それを大上段から論じる本や新人教員向けのマニュアル的な本はかなり存在する。でも、僕はそういう本を(ある程度は役立つ時もあるとは思うけど)、あんまり納得できたことがないし、役に立たないと思ってる。また、もちろん教育行政が繰り返し行う「初任者研修」など、ほとんど役に立たない。当たり前だろう。「目の前の生徒」は一人ひとり違い、学校ごと、学年ごと、クラスごとに課題は違う。それらの違いを理解して、少しづつ「自分なり」のやり方を見つけるには、自分で考えて、自分で工夫して、自分で「失敗」することを繰り返すしかない。だけど、「自分では考えない」教員作りを行政は進めるし、「失敗」こそ「成功の母」だからと言って、目の前にいる生徒を教えるのは「一回きり」なんだから、失敗しては申し訳ない。苦情も来るかもしれない。そう考えると、「うまく失敗する」ことができない。これが若い時の非常に大きい苦労だと僕は思う。

 教師といっても、もちろん「ベースとしてはただの人」である。だけど、世の中全体からすると、けっこう「不思議な集団」である。例えば、教師は全員大学卒である。だから、学校というところは、多少の例外はあるにせよ、ほぼ大卒者が占めている。これは当たり前だが、世の中にあまりない職場だと思う。では、職員室には「知的ムード」があふれているかというと、普通そういう学校はまずないだろう。忙し過ぎて、ニュースについて語り合う時間もない。大学を出てるからと言って「研究者」じゃないんだし、「ただの人」なんだから。でも、はっきりしているのは、ほとんどすべての教師は「勉強のできる生徒」だっただろうということである。もちろん「ものすごく勉強ができる生徒」だったら、医者や弁護士や中央官僚になっているのかもしれない。あるいは、母校に残って大学の教員になるとか。だけども、勉強が好きでないなら、基本的に毎日授業すると判ってる職業に就くわけがない。採用試験に受かるわけもない。

 何が言いたいかというと、教師は「勉強ができない生徒」が判らないということである。頑張れとか、自分で考えろとか、やればできるとか、教師はよく言う。言われると言われた方も何となくそんな気になってしまう。でも、ホントにできなくて苦労している生徒の事が理解できているんだろうか。目標が持てなくて頑張れないのか、学習障害などが潜んでいるのか、家庭環境が大変なのか。もちろんそういうことはある程度判ってくるもんだけど、最後の最後のところでよく判らない部分が残る。少なくとも僕にはそういうことが多かったと思う。もちろん、教師が生徒一人ひとりの事を完全に理解できるなんて思っているわけではない。「ただの人」がやってる「ただの仕事」であるわけで、教師は「千手観音」ではない。全ての生徒を自分が救えるなどと思うのは「思い上がり」である。でも、ここで言いたいのはそういうことではなく、自分が担当する「生徒という異文化」に立ちすくむ時があるということである。

 家庭環境も違うし、文化的背景も違う。生徒と教師は初めから、かなり大きな違いがある場合が多い。年齢も違うわけだが、これはどんどん違っていく。最初は親や管理職より、生徒との年齢差の方が近い。それだけで、生徒から評価される時期がある。だんだん親の年齢の方が近くなり、やがて何十年もすれば親の年齢も追い越してしまう。そういう「生徒」をどう理解するか、できるか。それが教師のベースだと僕は思う。そして、「要するに人間どうし」であって、「問題生徒」であれ「外国人生徒」(日本語で意思疎通ができにくい「ニューカマー」の事を指している)であれ、通じるものは通じる。卒業して何年、何十年と連絡がある生徒も出来てくる。そういう生徒だけピックアップすれば、「素晴らしい教師人生」のように語れることも多いだろう。でも、僕にとっては、最後までよく判らない部分が残って卒業させた(あるいは高校では中途退学していった)何人もの生徒像こそ、僕にとって「教師という仕事」を語る時に最初に思い浮かべるものなのである。
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「共苦の共同体」を超えて-教員多忙問題③

2014年08月28日 23時50分51秒 |  〃 (教師論)
 教育に関するニュースがあると、大体新聞を切り抜いておくことにしている。(歴史ニュースや書評、映画評、訃報などの切り抜きも何十年分かあると思う。)最近書いている文科省の教員調査やOECDの中学教員調査も、そういう新聞切り抜きをもとにしている。別に目新しい結果でもなかったから、特に急いで書く必要もないなと思った。本当は佐世保の事件に関して、「いのちの教育」について書きたいと思ったのである。それがどうして「教員多忙問題」を先に書いているかというと、「教育現場にはこういう問題がある」ということを判っていないで、「いのちの教育は生かされたのか」などと議論するのはおかしいと思うからである。今、教育論議にまず必要なのは「教室の現象学」ではないかと思う。

 さて、「長時間のボランティア労働」を強いられている教師は、学校や生徒についてどのように思うようになるだろうか。当然のこととして、「自分はこれだけ(無償で)頑張っているのだから、生徒も教師の頑張りにこたえて欲しい。頑張ってついてきて欲しい」と思うだろう。たとえば、学校施設を使って朝早くから部活動を行う時には、もちろん責任者の顧問がいなければならない。だから顧問は早起きして学校に来たのに、部員がサボっていたらどう思うだろうか。しかし、そんなことは生徒の側ももちろん判っているから、生徒だって頑張って朝早くから来るのが普通である。こうしてお互いにホンネとしては辛いと思いつつ、「お互いに大変なことを自分たちに課して、それを一緒に乗り越える」ことが目標となってしまう。自らの「無償労働」の対価として、生徒の「無償の評価」を求めるのである。

 僕はこのような、日本の教育の本質的なありかたを「共苦の共同体」と名付けている。「一緒に苦しむ」の内容が「体罰」に至ってしまう教師もいる。そのような学校空間に居場所を見つけられず、「不登校」として「学校社会を下りる」ことで苦しむ生徒もいる。「体罰教師」と「不登校」は、普通は全く別の問題と見なされがちだが、本来は「共苦の共同体」としての学校というメダルの裏表ではないか。それどころか、日本の教育というのは、「小学校のお受験」から「大学生の就活」まで、苦しむ内容と相手は少しづつ変わりながらも、ずっと「何かよく判らないものに、誰かと一緒に耐えていく」という体験なのではないか。そして、それを「大人になるために必要なイニシエーション」と考えているのが日本社会の「世間知」ではないかと思う。

 この「生徒に無償の評価を求めてしまう」という罠を逃れている教師はほとんどいないと思う。もしいるとすれば、生徒に影響を持っていない教師だけである。部活動は複雑な問題をはらんでいるので、ちょっと別に考えたいが、近年になって非常に「苦しい共同体験」になっているのが「進路指導」だろう。「就職氷河期」と言われてきた労働市場はいくらか明るさが見えてきたと思うが、20世紀末からつい近年まで、とにかく毎年毎年大変なこと続きだった。受けても受けても落ちる生徒もいるわけで、「一緒に苦しむ教員」の心労も大きかった。また大学の推薦入学制度が非常に複雑になったので、学校見学から小論文指導、面接練習など教師の方も生徒に無理とも思える要求を繰り返し、一緒に苦難を乗り越えていくという感じになっている。結果が出る日は、教師もドキドキして報告を待つわけである。

 でも進路指導は、まあ相手の要求に応えるしかないので、ある意味ではまだ楽とも言える。大変なのは、必ずしもうまく行っていないクラスの担任として学校行事を迎えるような時である。うまく行くのか行かないのか、当日までハラハラしながら、協力してくれる生徒たちとともに最後までジタバタする。うまく行っている他クラスもあるというのに、「うち」はちゃんとできるんだろうか。こういう時の担任のプレッシャーはとても大きく、だからこそそういう時に一緒に頑張ってくれる生徒(は必ず何人かはいる)の存在はとても大きい。「無償の労働」には無償でこたえてくれる生徒もいるわけで、それが教師が「自分の労働の無償性」に無自覚になる原因にもなっている。とにかく、よほど恵まれている学校に勤務している少数の教師を別にすれば、問題生徒や保護者対応には細心の注意がいるわけで、教員生活が苦しい日々の連続になっている場合がかなり多いのではないか。

 学校行事や部活動、進路指導などで培われる「共苦の共同体としての学校」は、「日本社会の中で生きていく時に役立つ力」を育てる面は否定できないと思う。だから、全面的に否定することはできないし、しても意味はない。でも、「それでいいんだろうか」「もっと違う学びのあり方はないのだろうか」と問うことは大切なのではないだろうか。今は学校にいる間はずっと苦しいこと続きで、「頑張っているいい子」もどこかで切れてしまいやすい。切れずに就活まで頑張っても、そこで「学び」が終わってしまう。あるいは大学入学時に終わってしまう人もいる。つまり、「オトナが学ばない社会」になってしまっている。都議会のヤジ問題や「アイヌ民族はもういない」とツイートした札幌市議など、その問題をきちんと学ばずに発言しているのである。むしろ、深く学ばずに俗論を言えるのが「オトナの証」だとでも考えているのではないか。そういう社会を作ってしまったことを、教育関係者は深く反省する必要があるだろう。小中高と学びを深め、大学で専門領域を学んで、そこで身に付けた「学ぶことの方法」を駆使して大人になっても自分なりに学び続けて行く。そういうリーダーが育っていないのは、日本の教育の現状のあり方に原因があるのではないか。単に「教師の長時間労働は良くない」というレベルより、もっと深い問題性があるのだと考えている。

 では長時間労働はどうすればいいのか、さらに学校のあり方はどうあるべきか、部活動のあり方は…などどんどん話は広がって行くが、ちょっと間をはさんで来月に続けていきたい。そして、若い教員に期待するもの、人権教育のあり方、学校行事の話など、映画や本の話をはさみながら、日本の学校論として考えてみたいと思う。
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人権被害者としての教師-教員多忙問題②

2014年08月27日 21時27分53秒 |  〃 (教師論)
 「教員多忙問題」にはどのような弊害があるのだろうか
 教材研究がおろそかになる。雑務に追われて生徒との関わりが薄くなる。生徒の問題対応に時間を取られて、それ以外の生徒へ目が向かなくなる。朝から夜まで部活動に時間を取られて、教師の生活が成り立たなくなり新聞も読まないようになる。まあ、そういうようなことを次々と挙げられる。

 いちいちもっともで、確かにそういうケースは存在する。昔はきっと持ってたはずの知的な好奇心が摩耗してしまった教員も何人かは存在するし、そういう教師に教わる生徒は大変だろうなと同情する。(しかし、何事も「反面教師」なのであって、そういう教師の存在によってこそ自分が大きく成長できてきたとも思う。「生徒が大変」だというのは、生徒が教師のレベルに合わせて知的な好奇心を見せないようにするのが大変だと思うのである。)大きな教育問題がニュースになるような時に、外部の人から「学校現場では先生方はどう思っていますか」などと聞かれたことがあるが、「学校現場」でニュースをめぐって喧々諤々と議論をするゆとりと知的関心が今の学校にあると思っているのか、むしろそっちの方にビックリせざるを得なかった。そんなものはもうずいぶん昔の話だろう。

 いくら4%の教職加算があるとはいえ、それに当たる時間の何倍もの長時間労働をこなして、それに対する金銭的(あるいは時間的)補償がないというのは、「サービス残業」とか「ボランティア」などと言って済ませていい問題ではないだろう。はっきり言えば、教育現場の「ブラック企業化」であり、教師は被害者なのである。労働者としての権利を侵害されている当事者なのである。しかし、そう認識している教員はごく少数だろう。それはどうしてだろうか。

 ところで、「いじめ」問題は、ここ何十年かずっと教育現場で大きな問題となってきているが、「教師は学校内のいじめを解決できるのか」と問われることが多い。教師はプロの教育者として、「いじめの兆候を見つける」とか「いじめの当事者に介入して、いじめ行動を止める」という能力があるべきだと思われているらしい。しかし、教師ははたしてそんな能力を持っているのだろうか。あるいは、教育行政は教師の「いじめ解決力」を育てようと考えているのだろうか。

 なぜなら、「いじめ問題」を感知する能力というのは、要するに「人権センサーの感知度をアップする」ということだと思うが、教師の長時間労働はそのセンサーを鈍くする方向に働くからである。それどころか、教師の「人権センサー」能力がアップすれば、生徒のいじめの前に、まず「自分たちが人権侵害の当事者ではないか」ということに気づくはずである。今の学校現場は、教師は自分が「教育行政の使い走り」をさせられながら、いやそれは自分の考えでやっているんですと言ってる状況である。自分がいじめられている当事者という認識がない。生徒のいじめ事件でも似たような構図はよく見ることができる。強いものの意向に自ら寄り添っていて、弱い生徒の話を聞いてもいじめではないと否定するのである。今の教員の多くも、似たような状態にある。こういう教師に「いじめを感知する能力」を求めるのは、間違いであり酷でもある。社会の側で「ないものねだり」をしているのである。

 日本の教師は、労働者としても、また教育専門職としても、多くの権利を否定されている。日本が国際人権規約を批准するにあたって、日本政府はいくつかの項目で「留保」を付けている。その代表が「公務員のストライキ権」である。先進諸外国なら認められているスト権がないということは、国際的な人権問題なのである。(長く留保とされていた「中等教育の無償化」に関しては、民主党政権下で留保の撤回が通告された。(「経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)第13条2(b)及び(c)の規定に係る留保の撤回(国連への通告)について」)

 またユネスコ(国連教育科学文化機関)による「教員の地位に関する勧告」をみると、日本の教員がいかに教育専門職としての尊厳を奪われて来ているかがよくわかる。たとえば、「教員免許更新制」もユネスコ勧告違反であると思われるし、授業で使う教科書を教師が選べない(あるいは選びにくい)現状もユネスコ勧告違反である。しかし、今は長時間労働を問題にしているので、労働時間に関するところを見てみたい。
労働時間
89 教員が一日あたり、および一週あたり労働することを要求される時間は、教員団体と協議して定められなければならない。
90 授業時間を決定するにあたっては、教員の労働負担に関係するつぎのようなすべての要因を考慮に入れなければならない。
(a) 教員が一日あたり、一週あたりに教えることを要求される生徒数
(b) 授業の十分な立案と準備ならびに評価のために要する時間
(c) 各日に教えるようにわりあてられる異なる科目の数
(d) 研究、正課活動、課外活動、監督任務および生徒のカウンセリングなどへ参加するために要する時間
(e) 教員が生徒の進歩について父母に報告し、相談することのできる時間をとることが望ましいということ
91 教員は現職教育の課程に参加するために必要な時間を与えられなければならない。
92 課外活動への参加が教員の過重負担となってはならず、また教員の本務の達成を妨げるものであってはならない
93 学級での授業に追加される特別な教育的責任を課せられる教員は、それに応じて通常の授業時間を短縮されなければならない

 これを読めば、日本の教員の長時間労働というのは、国際的な人権問題だということがよく判るのではないか。本来、授業準備も親への連絡も生徒のカウンセリングも課外活動への参加も、皆労働時間に中に入っていなければおかしいのである。これだけ自分たちの教育者としての権利を侵害されて来ていれば、教員としての誇りが失われ、「自信」が世界最低になるというのも当然だろう。

 これらの事態は、おそらく「教育政策の結果」である部分が大きいと思う。むろん、教育に関わる様々の利害関係者の要望が複雑に絡まり、いつの間にか誰にも止められない状況になっているというものもあると思う。部活動に関する問題などはそうかもしれない。しかし、教科書選定を現場教員から遠ざけるなどというのは、紛れもなく教育政策の目指してきたものである。つまり、日本の教育行政は、教師の尊厳を剥奪し、教師の「人権センサー」をなまらせる政策を続けてきた。教師の長時間労働という実態は、今までの教育行政の行き着いたものだと考えられる。となると、教師の側も事態をよく認識し、自己防衛策を取らないと、自分の生活を破壊されるだけでなく、自分の人権感覚が知らず知らずのうちにマヒしてしまうという恐るべき状態になる。防衛策の前に、この「長時間労働ボランティア」が日本の教育や社会全般に何をもたらしているかを考えてみたい。
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教員多忙問題①

2014年08月25日 23時58分24秒 |  〃 (教師論)
 ちょっと前になるが、6月25日にOECD(経済協力開発機構)が中学教員の勤務環境に関する国際調査結果を発表したというニュースがあった。その結果によると、日本の教員は指導への自信が参加国中で一番低いにもかかわらず、勤務時間は最も長かった。この勤務時間の長さは予想されたことだけど、数字で見ると週当たり53.9時間となり、異常ぶりが際立っている。2位のカナダ・アルバータ州が48.2時間、3位のシンガポールが47.6時間、4位のイングランドが45.9時間…といった具合である。平均は38.3時間となるというから、日本の異常さはダントツとしか言いようがない。この深刻な実態をどう考えるか、数回にわたって考えておきたい。これが実は一番重要な教育問題であって、他の様々な問題はすべてここから派生しているとさえ言えるのではないか。

 まず、タテマエを書いておかないといけないが、これは実は「超過勤務」ではない。「超過勤務」というのは、雇われて契約関係のもとで働く労働者が勤務時間内で終わらない仕事を、上司に命じられて時間後に労働する(その代り超過勤務手当をもらう)というものだろう。だけど、教員の場合、「校長の命令」もない」し、「超勤手当(残業手当)」もない。生徒の中には、遅くまで働いて残業手当がすごいでしょなどと知ったかぶりでからかう者が時々いる。しかし、いくら遅くまで残業していても、受給金額は(通常は)変わらない。

 今カッコ内に(通常)と書いたけど、これは意味がある。あの2011年3月11日、電車はすべて停まり生徒ともに朝まで学校内で待機せざるを得なかったが、その間も交代で見回りや警備、保護者対応、外部からの来訪者対応などを行っている。この時は、その時の手当が後ほど支給された。その他、生徒指導で遅くなった場合や休日の部活指導などでは手当が出る場合もある。しかし、原則として、教師には「時間外勤務手当」はない。その代り、全員に「教職調整額」が4%加算されているのである。

 文科省内のサイトに「教職調整額の経緯等について」があるので、その問題の経緯はそれで判る。1971年に「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」(給特法)が成立して、この4%加算が決まった。何で4%かというと、当時の小中の勤務実態を調べたところ、小学校は1時間20分、中学校は2時間30分、平均1時間48分だったという。これを夏休み4週、年末年始2週、学年末始2週の長期休業時8週分を除く年間44週ずっと上記の時間に超勤したとして、超勤手当を払うとすれば4%になるというのである。

 一方、特に校長が超過勤務を命じることができる場合もあって、それを「超勤4項目」という。
イ 校外実習その他生徒の実習に関する業務
ロ 修学旅行その他学校の行事に関する業務
ハ 職員会議(設置者の定めるところにより学校に置かれるものをいう。)に関する業務
ニ 非常災害の場合、児童又は生徒の指導に関し緊急の措置を必要とする場合その他やむを得ない場合に必要な業務

 あれ、「部活動指導」はないのか。そう、ないのである。「教材研究」もない「生活指導」さえない。しかし、部活や行事ならまだしも、クラスの生徒が問題行動を起こした時に担任が帰るということは事実上できないだろう。(また部活も終わり、雑務も処理して帰ろうかという時に限って、生徒がタバコを吸っているとか万引きした生徒を捕まえているなどの電話がかかってくるのである。)

 そうすると、部活で遅くなるというのはどういうことか。生徒の提出物を見たり、明日の教材を作っていたりして遅くなるというのはどういうことか。校長は残業を命じていない(命じられるケースではない)ので、「教師が勝手に残っている」のである。(まあ、ボランティアというか、サービス残業というか。)何でそんなことをするのだろうか。生徒や親との関係、勤務成績をよくするなどの目的もあるかもしれないけど、一番大きいのは「職人的感性」ではないかと思う。労働者というより、「自分で納得できるような教材を作るためなら時間は二の次」といった感性である。もちろん、自分にもそういう部分はあったから、納得できるものを仕上げるまで大分残ったこともある。(一番遅くまでいたのは、中学の学年主任として進路説明会資料を作っていた時で、夜の10時半になってしまったので警備員(がいた時代)に呆れられた。)

 朝日新聞6月26日付の紙面には「朝練、授業、生徒会…学校に15時間半」という記事が掲載されている。私立を経て、千葉県の公立中に勤務する7年目の女性40歳。国語、2年担任、ソフトテニス部顧問。朝はほぼ6時40分に出勤、7時20分から朝練、授業、給食指導、生徒会指導、放課後の部活指導、7時に長欠の親と生徒が来た、その後提出物の点検等を続けて10時過ぎまで残っていた。このケースなど、外部から見れば想像を接した勤務実態というしかないと思う。この学校の管理職は何をしているんだと思う。職員の健康管理も管理職の重大な任務だろう。本人も善意と頑張りの人なんだと思う。朝練と午後錬と両方きちんと出ているのは立派だけど、無理なことは無理という方がいい。提出物に全員返信するというのも無理である。というか、「毎日提出させる生活ノート」そのものがいらない。むしろ中二ともなれば止めた方がいい。教師に毎日生活を報告するようでは成長できない。担任にたいして「秘密」が出てくる年代で、僕の時代にもあったけど中学2年になったらどんなに怒られても提出しなくなった。このような「過剰な学校囲い込み」がますます仕事量を増やしていくのである。

 以上の事例を見ても、教育現場の実情は、今までのタテマエではもはや処理が不可能というべきだろう。20世紀のころは、「夏休みさえあれば」「職場のまとまりさえあれば」、皆で何とか頑張ろうということも不可能ではなかった。どっちもなくなり、ただ多忙の中にいるなら、「いつか切れてしまう」という「バーンアウト」(燃え尽き)が起きるに違いない。前回書いた「教員の大量退職」は、教師のバーンアウトがついに大量に起こり始めたことを示すのではないか
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教員の大量退職時代

2014年08月24日 23時15分22秒 |  〃 (教師論)
 8月4日付で、文部科学省から「学校教員統計調査-平成25年度(中間報告)の結果の概要」が発表された。翌日の各紙は「概要」にそって、「小中高の先生、若返り」などと報じた。「大量採用世代が退職」というのが、その理由の説明。間違いでもないけれど、この統計の一番重大な問題を報道していないマスコミが多い。僕の見るところ、この統計で分かることは「ついに、教員の大量退職が始まった」ということで、10年ほど前から現場で懸念されていた「いずれ、みんな辞めちゃうんじゃないか」という恐れが現実化し始めているということなのである。

 この調査は、毎年行う「学校基本調査」と異なり、3年に一度行う「学校教員統計調査」というもの。進路調査などがないので、管理職と事務担当だけで処理できるから現場教員には関係ない。今回は教員数は2013年10月1日付のもので、異動状況は2012年度から2013年度の変化を調査対象としている。悉皆(しっかい)調査で、全国のすべての学校が調査対象である。私立や専門学校なども調べている。(なお、今回の発表は概要で、確定値発表は来年の3月の予定。)

 これを見ると、公立小の教員は44.4歳から44.0歳へ、公立中の教員は44.2歳から44.1歳へ、確かにほんのちょっと平均年齢は若くなっている。(公立高の教員は45.8歳と変わっていない。)しかし、同時に年齢構成を見ると、公立中と公立高では50歳以上の教員が増加している。(中学は、34.0%→37.3%、高校は37.4→41.5%)と同時に、小中高すべてで30歳未満の比率が2~3%上昇している。だから、「若返っている」というよりも、「年齢の両極化」が進行しているというべきだ。

 もっと驚くのは、退職者の数である。小中高だけみることにするが、小学校は18,353名(定年12,040名)、中学校は9,568名(定年5,119名)、高校は10,529名(定年5,493名)となっている。カッコ内に定年退職者を示したが、この定年には「勧奨退職」も含まれている。(「勧奨退職」というのは、一定の期間勤続している教員を対象に、定年前に退職すると退職金を割り増しにする制度のことである。大体、勤続25年、50何歳か以上という条件だろう。早い退職ほど割増し率が大きくなるのが普通。)とすると、定年(勧奨)退職以外の退職が異常に多いのではないか定年退職者の割合は、小学校が65.6%、中学校が53.5%、高校が52.1%となる。中高では、定年退職者は半分程度しかいないではないか。

 そもそも教員数はどのくらいなのかを見ると、小学校は385,065人、中学校は234,064人、高校は226,814人である。(校長なども入り、私立も入る。なお、この数は2013年10月1日付だから、前年度の退職者の割合を見るには不完全な数字だが、一応大まかな傾向を見る意味はあるだろう。))そうすると、退職者の割合は、小学校では4.76%、中学が4.09%、高校が4.64%となる。4~5%の教員が一年で辞めているのである。前回調査より小中高とも千人程度退職が増加しているので、この傾向が今後も続くとあっという間に「若返り」である。5%の教員が毎年辞めれば、10年すれば今の教師は半分になってしまう。

 退職後に嘱託員として再雇用される割合は調査されていないが、「退職の理由」という項目はある。病気、特に精神疾患が多いのかと思うかもしれないが、小学校で356人、中学で227人、高校で124人で、前回とほぼ同じ。「転職」「家庭の事情のため」「その他」が小中高とも千人を超えている。理由の項目は「定年」「病気」「死亡」「転職」「大学等入学」「家庭事情」「職務上の問題」「その他」しかないから、「その他」が定年以外では一番多く2千人を超えている。「転職」は「いい転職」(他校種に変る。特に大学等に変る)もあるかもしれないが、「その他」の中身はなんだろう。もう大変すぎるから、共働き家庭などではどんどん退職しているのだろうか。締め付けが厳しくなる一方で、もう現場で働く意欲が失われているのか。とにかく、こんなに定年以外で退職している状況になっているとはビックリである。

 このような状況に対して、「教員の経験が引き継がれるだろうか」という心配の声もマスコミ報道には聞かれる。しかし、教育行政側では「引き継がれなくて結構」と思っていることだろう。今までの「職場自治」のような経験を知らない若い世代に、採用時から研修漬けで「思い通りの教員」を作って行こうということだ。学校の教員も競争させるべきだという政策が進んでいるのだから、校内で教え合うなどという気風も失われていくしかない。これまでの「チョーク一本でも勝負できる」教員ではなく、タブレット端末を駆使してICT教育を推進する「新しい教育」を推進するつもりなんだから、それでいいのである。だけど、そうやって「机間巡視」を行いながら生徒の顔を見ていた教員が、生徒ではなくコンピュータばかり見ている今の医者のような存在になっていくわけである。
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「入学式と担任」問題③

2014年04月30日 23時20分49秒 |  〃 (教師論)
 入学式に担任が出席できないんだったら、初めから違う人が担任をしてればよかったのではないかという意見が結構見られたように思う。担任を決めたのは前年度の校長(異動してなければ今年度も同じ)だが、そう言われても困るなあという学校現場も多いのではないか。大体、4月に異動したばかりの新任校長かもしれず、事情を聞かれても困る場合もあるだろう。(高校の校長は3年ぐらいで異動することが多いので、今回も一人ぐらいは新任校長がいるのではないだろうか。)

 小中では(入学式に)休暇が取りにくいという意見も見られたが、そういう違いはあると思う。小中と高校の違いで一番大きいのは、やはり「学校規模の違い」だろう。数だけ見ても、小学校が一番多くて、中学、高校と少なくなる。東京都の場合だが、昨年度の統計で、小学校が1299校、中学校が623校、高校が188校となっている。(他に中等教育学校6校、特別支援学校61校などがある。)小学校は6学年、中学校は3学年だから、小学校の数が倍になるのは当然。東京の場合、伊豆・小笠原諸島があったり、私立学校が多いなど、全国的には特殊な地域なのだが、この数を見るだけで「(一学校あたりの)高校の教員数が断然多い」のは想像できる。

 東京の中学では今も1学年8クラス以上もある大規模校もあるが、大体は2クラスか3クラス程度ではないだろうか。高校の場合、学校数は少ないが、1学年のクラス数は多いのである。小中は義務教育だから歩いていけるところに作る必要があるが、高校生は電車やバスである程度遠くまで通学することが前提になっている。夜間定時制などの特別なケースを除き、今でも進学校は8クラス、そうでなくても6クラス程度はある。大規模学級時代に合わせて教室数が作られていて、規模にあった募集数にする。(それでも中堅校以下だと、クラス数はかなり減らしている。)だから各学校あたりの生徒数はそれほど減らず、教員数は多いわけである。もっとも教員が多くても、クラスが多いので必要な担任の数も多い。でも、「3学級のうちの一人」と「8学級のうちの一人」では「(入学式における)休暇の取りやすさ」には大きな違いがあるだろう。

 また、高校と中学では授業の持ち時数の基準が違う。授業内容が専門性が高くなるし、また「専門学科」の高校は専門教科の教員が加配されていることが多い。だから教員数は高校にゆとりが多くなるわけである。以上は高校の方が教員数に余裕があるだろうから、入学式当日も代わりを頼みやすいという話である。では、その代わりの人がいっそのこと、一年を通じて担任をすればいいのではないかという点を検討する。まあその通りで、変更しても特に大きな問題もない場合も実際にはあるだろうと思う。でも、「担任を持ってない教員」にも理由があるわけで、そう簡単には変えられないことが多いだろう。「教科的な要因」「学校運営上の要因」「個人的な要因」に分けて考えてみる。

 学級担任は教師の基本的な仕事であり、基本的には交代交代で誰もが担当するものである。正課外の部活顧問などと違う。原則的には全員が順番で担当する。ところで、新入生の担任を決める前に、すでに上級生の担任がいるわけだが、基本的には「持ち上がり」だろう。特に2年から3年にかけては、生徒のクラス替えはあっても、進路を控えて学年担任団は変えない。(それなのに、最近は異動年限で自動的に異動対象にしてしまったり、2年終了時に管理職に「昇進」して生徒を置いて去ってしまう人もいないわけではない。病気や介護などもあるので異動を一概にダメとは言えないが。)上級生の担任が異動した場合は、後がまは「教科的な要因」が大きくなる。

 高校の場合、日本史は日本史、物理は物理しか教えないから学年に関係ないというケースも多い。でも(普通科高校の場合)国語、数学、英語などの基本教科、あるいは保健体育などは教員数も多いし、進路指導、生活指導の観点からも、各学年に必ず一人はいるものだ。8クラス規模だと同じ教科の教員が二人いることもあるが、まあ6クラス程度なら、同じ学年の担任に例えば理科が二人ということはない。誰かが途中で異動したとしても、教科バランスを考えて後がまが決まる。転任した人の代わりに新任できた教員が、年齢や経験が同じ程度なら、その人が学年に途中から入ることも多いだろう。

 一方「学校運営上の要因」というのは、高校の場合、担任以外の教員人事の方が重要だったり、もめることもあるということである。小規模の中学なら、教務主任、生活指導主任が学級担任を兼務せざるを得ない場合もあると思う。しかし、高校の場合、規模が大きいので、原則的には主任専任となるだろう。(授業時数の軽減も認められる。)また進路指導が重要なので、長い経験から進路先と深いつながりを持っている教員が、担任団に入れず「進路部専属」みたいに「塩漬け」になる場合がある。それは「教務」「生活指導」(生徒指導だけでなく、大規模な文化祭担当もある)にも似たような面があある。伝統ある大規模校になればなるほど、「余人をもって代えがたし」と「毎年希望してるのに担任にしてもらえない」人が出てきたりする。実力十分で「入学式の代役」など「やる気満々」だけど、学校としては他の仕事を割り当てる(と校長が判断した)ということである。

 最後に「個人的な要因」だけど、これは「担任をしたくない理由」と「担任をさせられない理由」に分けられる。そしてこの要因が最近は増大しているのではないだろう。「担任をさせられない」というのは、病気で休暇を取ることが多い、精神的に不安定といった教員である。「休職明け」で時間軽減を取ってる教員も担任には入れない。近年、教員の病気休職、特にメンタル面の休職が増大していると言われる。統計でみると、むしろ数年前よりは少し減っているようだけど、病休と精神疾患を合わせると1パーセントを超えている。だから大規模校なら1人ぐらいはいることが多い。年度当初から決まっていれば「代替教員」が配置されるが、臨時教員は勤務時間などは同じだが、来年以後いない可能性が高いので、普通は担任に入らない。

 「新規採用教員」も、今ではすぐに担任を持つことはないだろう。昔はすぐ担任に入る新採が結構多かったものである。現場も管理職も、そして本人も、周りに教えられながら担任を務めるのが「一番の研修」と思っていた。今は初任者研修が大変過ぎて、とても担任はできない。他県や私立で教員経験済の「30過ぎの新採」といった場合は別だが。(大体「期限付き採用」なので、来年必ずいるとも限らない。東京では、昨年の新採2740人中、正式採用となったのは2661人。2.9%、79人が採用とならなかった。)最近は新採教員がかなり増えているので、担任を任せられないのは、人員上かなり困るケースも多いだろう。

 そのうえ、まだ残る「10年研修」、あるいは導入されてしまった「教員免許更新制」なども、それに当たる年には担任をしたくない要因になっているのではないか。それを理由に担任を外れるのは難しいかもしれないが、逆に「3年担任時に当たらないように計算して、担任に入る」という要因としては大きいだろう。実際、3年担任時の「10年研修」は無理だと思うし、夏休みに行われることが多い「更新講習」も3年担任だと厳しいのではないだろうか。このような現場にしわ寄せする政策が多いので、担任決定は校長にとっても大変な仕事だろう。

 そういった事情を考えると、「自校の入学式が子どもの入学式と重なる教員」と言えど、その事情は「担任を外れる理由としては低い」と校長は判断するのではないか。子どもが高校生というのだから、新採でも「10年研修」にも関係ない。40代後半ぐらいで、担任としてはベテラン。今までに何回か卒業生を出した経験もあるはず。人事をいじりはじめると玉突きになってしまうし、教科の要因も大きいだろう。学校現場からすれば、余計なものがいろいろ入って担任の選び方が難しくなる一方。人事は校長の専権事項だとして意見も聞かず発令してしまう校長も多くなっている。どうしてそういう担任団になったのか、どうもよく判らないという場合も多いと思うけど、まあ、大体はそういう事情を勘案して、なんとか担任が決まっていくのである。
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「入学式と担任」問題②

2014年04月30日 00時49分53秒 |  〃 (教師論)
 学級担任が入学式にいなかったと批判されているが、「担任はどれほど大事な存在なのだろうか?」それは大事に決まってると言われるかもしれないが、では時々変わるのは何故だろう。いや病気や産休なら仕方ないだろうと言うかもしれない。そうではなくて、行政の都合で途中で変わることもあるのである。しかもよりによって、中学3年の担任が3学期から変わったという事例もあるのだ。担任をしていた主幹教諭が別の学校の副校長に発令されたのである。同学年に主幹が二人いたとも思えないので、担任だけでなく学年主任も3学期から変わったのではないだろうか。

 「週刊金曜日」の2014年1月24日号の「金曜日から」(いわゆる「編集後記」)に次のような記事が載っている。「学校も役所なんだなあ、と感ずることが最近あった。2月の受験を控えた中学3年の息子の担任が、1月1日付で副校長に昇進して別の学校に移られたのだ。どこかの校長のポストが欠員になり、結局玉突き人事になったらしい。集会で報告がされると、クラスはどよめきが起こり、涙を流す生徒もいたとのこと。異動された担任も後ろ髪を引かれる思いだったろう。(以下省略。)」

 東京の出来事とは明記されていないけど、副校長と書かれているから東京の学校だろう。それにあたる発令人事も、都教委のホームページに見つかる。2013年12月27日付の「東京都公立学校長及び副校長の任命について」という文書で、それによれば板橋の中学で新校長が発令されているが、副校長は一挙に4人も発令されている。だから単なる「玉突き」だけではなく、副校長の休職、退職、死亡などもあったのではないかと思う。そういうことも当然あるだろうが、でも「副校長昇任試験」に合格している主幹教諭は他にはいなかったのか。校名や人名を挙げる必要はないだろうけど、地名だけ書いておくと、大田区、文京区、東村山市、稲城市の中学に勤務していた人が副校長になっている。だから前記「金曜日」に出ている事例は、このどこかの学校ではないだろうかと推測できる。 

 どの学校の担任が大事と言って、比較は難しいが、やはり進路を抱えた「中学3年の担任」が一番重要ではないか。高校なら進学や就職に経験を積んだ進路指導部が存在するだろう。でも中学は人数が少ないため担任が進路指導に関わる部分が圧倒的に大きい。東京では1月末に都立高校の推薦入試があるので、新年早々から推薦書を作成する大事な仕事がある。そういう時期に、担任を代えるとは、どういうことか。入学式にいなくても、翌日以後に取り戻すことはいくらでもできるだろう。でも、受験と卒業を前に異動してしまうのは、いくら何でも「トンデモ人事」ではないか。入学式にいなくて批判されるのだったら、このような人事を行った東京都教育委員会は最大級の非難に値すると思うのだが、どうだろうか。(ところで、僕はこのことを1月に「金曜日」を読んで知っていたが、もう発令は元に戻らないし、受験前に外部で余計なことを言ってもまずいだろうと思って書かなかった。このブログに大した影響力はないけれども。もう新年度になったから書いているのである。)

 さて元の問題に戻り、入学式の日に担任が行うべきことは何だろうか。尾木直樹さんは「第一志望でなかった生徒はうつむき、表情が晴れない場合が多い。そんな生徒の表情を見逃さず、『これから頑張ろう』と声を掛ける。こうした心のケアは担任に限らず、この日で最も重大な教師の務めです」と語っている。もっとも今の言葉は朝日新聞4月23日付の引用なので、多少本人の言葉とは違っているのかもしれない。この尾木さんの言葉は本当だろうか。これが「観念的に書かれたタテマエ的な言葉」ではないとしたら、「尾木先生はやはりすごい」と僕は驚くしかない。やはりスーパー・ティーチャーなのかもしれないが、現場で実践できる教師はほとんどいないのではないだろうか

 と言うのも、全日制高校の場合、ほとんどの生徒が「表情が晴れない」のではないかと思うのである。それが第一希望ではなかったからか、初めての電車通学に疲れているからか、知らない人間ばかりの中で緊張しているからか、それとも親が教師で入学式に来てくれないのが淋しいからなのか…それらは今の段階では判らない。何か身体的、家庭的な問題があれば、後で入学式に来ている親から話があるだろう。明日以後に面談週間などがあるから、その時にじっくり話を聞きだして、今日のところは安易に頑張ろうなどとは声を掛けないでおこうという方が、むしろ普通の対応ではないか。

 中学までは、地元で知り合いの仲間の中で暮らしているものである。時には幼稚園から小中とずっと一緒だった親友もいたりする。いくら学校選択制であっても、また途中で私立に行ったり転校する生徒がいたりしても、やはり基本は「義務教育段階は地元の友人」であり、野球やサッカー、または塾なんかも知り合いの範囲でやってることが多い。高校になって、初めて「自分一人の人間関係」の中に放り込まれることが多い。その最初の日には、後で散々問題を起こすことになる生徒であっても、さすがに「猫をかぶっている」というか「本性を隠している」ものである。入学式が終わって下校の頃になれば、もうメールアドレスやLINEのIDを交換し始める生徒もいるかもしれないけど、担任が見てる範囲内ではまだ神妙にしている生徒がほとんどだと思う。だから、問題を抱えていそうだから今日すぐにでも声を掛けなければなどとという「心のケア」は僕にはとてもできなかった。
 
 一方、その逆はないことはない。つまり入学式の最初の日から、生活指導上問題だなという服装、頭髪、態度をしている生徒である。多くの教員にとって、入学式にチェックしないといけないのは、残念ながらこっちの方だろう。入試の日には真っ黒だった髪の毛が入学式にはもう茶髪っぽい生徒、明らかに勉強の意欲に欠けるムードの生徒、ひどい場合には入学式の日に喫煙で捕まる生徒。そんな場合もないことはないのである。そして、そういう生徒の指導は担任がまずするというより、最初は生活指導部で一括して対応すると思うから、担任が欠席していても指導はできるはずである。大変残念なことだけど、僕には入学式の日にあるとすれば、「心のケア」以前に「生活指導」である場合の方が想像しやすいのである。

 朝、生徒が決められた教室に集まる。10時開式なら、9時ころだろうか。最近の中学には、始業式の日の午後に、さっそく入学式を行う学校もあるやに聞くけど、高校では始業式の翌日がほとんどだろう。在校生は「自宅学習」にして、入学式には登校させない。初めてバスや電車で来るわけだから、遅れてしまう生徒も少しはいる。(それを心配して、教員より前に来ている生徒もいるものだが。)まず担任が行うのは、入学式の式次第の説明と「呼名」の確認。最近は難読人名が多い。願書に振り仮名があって、それをもとに資料を作ってあるけど、必ず最初に確認がいる。「跳」と書いて「リズム」と読ませるとか、「走」と書いて「らん」と言う名前だったとか。いや、これは実例を挙げられないので今僕が作ったもので、さすがにここまではいないだろうけど、とにかくそういう名前もある。「石田優奈(ゆうな)」の次が「伊藤優実(ゆうみ)」、次が「岩崎裕美(ゆみ)」だったりするので、とにかく要注意である。「大島優香(ゆうか)」なんて生徒がいると、読む方もあがっていると「大島優子」なんて呼んでしまうので、クラスで一度予行練習をして読み方も再確認するだろう。そうしているうちに、トイレに行かせれば、もう廊下に並ぶ時間。並び方、式場での座り方は説明してある。

 式が始まると、開式の辞、国歌斉唱のあとは、すぐに「新入生入学許可」で生徒の呼名である。それが終われば、後は校長や来賓の式辞を聞き流す。(まあ、式後のことを考えてしまうので、担任は聞き流しているでしょうね。)11時頃に式が終われば、親は会場に残して、生徒は教室へ。または写真を撮る学校は、写真撮影会場へ。その前後に「ロッカーの説明」をしないといけない。場所を教え、上履きや体操着を今日から入れていいけど、必ず鍵をするようにという話である。鍵を入学式の日に持ってくるように伝えてあるわけだが、やはり持って来ない生徒が多い。その間に鍵なしで使って無くなっても困るので、「鍵は学校でまとめて用意する」という学年も今まであったけど、そこまではしない時が多いのではなだろうか。ロッカーにも個人名を書かないなど、今は慎重な配慮が必要である。

 教室へ戻れば配布する印刷物が山のようにある。明日以後の予定。教科書購入の予定。(高校は教科書を自費で買うわけだから、業者が来る日に購入費を持って来させるのが大変である。)健康診断がすぐだと、問診票とか検便の用具とか。その間に、配布物を生徒は後ろに配るので、お互いに多少の会話を交わす。担任も自己紹介をしたり、多少クラス経営らしくなる頃に、親がやってくる。親はその間に、今年は「授業料に関する詳細な資料」、これは前に書いたけれど非常に複雑な制度に変えられてしまったので、その説明が事務室長(東京では「経営企画室長」という不思議な名前である)からあったはずである。また高校で親がほとんど来るのは、その後は卒業式までないことが多いので、PTAの役員決め、というか今はPTAと言われてきた組織に入るかどうかも保護者の選択という時代なので、是非入って欲しいというお願いなどが行われているのである。

 こうして、気が付けばもう12時過ぎ。時には12時半を過ぎている。長いなあ、お腹も空いたなあというムードが生徒はもとより親からも伝わってくる。だから、ここで長々と親子に向け「所信表明演説」をしたり、自分の教育論を語る時間はない。とにかく生徒には明日以後の面接でいろいろ話そうねということで、生活指導上特に問題な生徒がいなければ、「頑張ろう」などと声を掛ける暇もなくホームルームも終わっていくのである。それでも、「うちの子はこれこれで」という話を伝えたい親が必ず数組残るわけで、職員室に戻れたのは1時を過ぎているということになる。昼食をはさんで当初は1時頃より次の会議が予定されていたが、1年生が長くかかったので、では2時から「分掌部会」、3時から「教科会」などと時間を遅らせるというお知らせが職員室のホワイトボードに書いてある。前日までは「1年生の学年会」の時間が大量に必要だったわけで、その分、分掌部会や教科会が入学式以後に繰り越されたりする。昔は式後に学校内で「お祝いの会」などをやった時代もあったように思うけど、今は昔、そんな余裕もないし、そんなことは今では許されない。こうして入学式の日が過ぎていくのである。
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「入学式と担任」問題①

2014年04月29日 00時07分03秒 |  〃 (教師論)
 埼玉県の県立高校で、新入生の担任が自分の子の入学式に出席するために、休暇を取って入学式にいなかったという事例があった。該当者は4人いたという。多分、他県でもいたかと思うし、また休暇を取らずに我が子に淋しい思いをさせた教員もいたのだと思う。なぜ問題化したのかと言えば、出席していた県議がフェイスブックに書き込んだかららしい。それに対して、尾木直樹氏が「プロ意識に欠ける」と教師側を批判、大きな話題となってしまったわけである。この問題に関しては、あまり書きたくないと思っていたのだが、自分はちょっと違った観点で見ているので、やはり書いておこうかなと思った。まず「あまり書きたくない」と思う理由を書き、続いてこの問題に関する自分なりの見方を書きたい。その後、入学式における担任の仕事学級担任の決め方なども書ければと思っている。

 書きたくないというのは、「正解がない」「他人のプライバシーに踏み込まないと判断ができない」、「書くといろいろと傷つける人が出る」、そういう問題には触れないでスルーするのも「大人の知恵」ではないかと思うからである。でも書いてしまった人がいて、全国紙各紙に取りあげられてしまった。僕が書いても、まあいいのだろう。僕はその県議が誰だか知らないし、どの高校かも知らない。そのくらいなら調べていけばネットで判るかもしれないが、埼玉の事情を知らないから、知ってもあまり意味がない。さらに、その教師の子どもが進学した学校がどういう学校か、またどのような子どもなのかなどは、知りようがないし、知る気もない。だけど、判断するにはそういう点が一番大事な問題ではないかと思う。

 僕が書きたくないと思う理由がもう一つあり、それは「自分には全く起こりえない出来事」だったという事情がある。僕は子どもがいないから、子どもの入学式と勤務先の入学式が重なる事態は起こらない。様々な事情により、世の中には、結婚してるけど子どもがいない、結婚もしていない、あるいは離婚して子どもと疎遠になっているなどという人がたくさんいるだろう。そういう人から見れば、この議論自体が何か遠いというか、議論したくない、もっと言えばうらやましい問題ではないか。僕だって、だから入学式は(入学式そのものがなかった時は別にして)すべて勤務しているが、自分の子を理由に入学式に休暇を取ってみたかったとも思う。

 入学式などに参加している保護者はどういう人なんだろうか、皆が皆、専業主婦か自営業者なのだろうか。そんなことはないだろう。両親そろって出席している家庭も今は結構あるし、休暇を取って参加している人が多いだろう。そういう親も「プロ意識に欠ける」のだろうか。それとも、特に教師だけ、それも新入生の担任にだけ「プロ意識」が求められるのだろうか。でも、親は他にいないのだから、全員が「わが子の教育に関してはプロの親」なんではないのか。もし、入学式で保護者席がガラガラだったら、「出席する親がこんなに少なくていいのだろうか。もっと家庭の協力がないと、学校は良くならないのではないか。親なら何を置いても子どもの入学式に参列するべきではないのか。」などと書き込む来賓がきっといるに違いないと僕は思うのだが。

 ところで、僕がこの問題を聞いて最初に思ったことは、そんなことを言ったら「教師の子どもは、親が入学式に来てくれなくてもガマンせよ」ということになるが、そこまで言っていいのだろうかということである。親が自分の入学式に来てくれたというだけで非難されてしまった。来てもらってはいけなかったのだろうかと悩んではいまいか。一方、休暇を取らなかった教師の子ども(も多分全国にいることだろう)も複雑な思いを持っているだろう。批判を恐れず休暇を取った親もいると判ってしまった。どうして自分の時は来てくれなかったか、自分はそれほど大事にされていないということかなどと悩んではいまいか。そういう風に、子どもの心を想像すれば、この問題は触れない方が良かったんだろうと思うわけである。

 「担任が入学式を欠席してはいけない」と言っても、さすがの県議と言えども、「親の葬式」による忌引きなら問題視しなかったのではないか。(それとも最近は、親が死んでも学校に来いという人もいるのかもしれないが。)「権利ばかり言う」と批判しているようだけど、「年休」を申請して認められているので、「権利ばかり言う」というのは違うのではないか。確かに、年次有給休暇は理由を問わずに認められている。でも、自分の子どもの入学式と判っているのだから、事前に相談しているのである。そして、校長はその年休を承認した。さすがに「子どもとディズニーランドに行くので」といった理由なら、校長も「時季変更権」を行使したのではないだろうか。それでも子どもと遊びに行ったというのなら、確かにそれは「権利の濫用」ではないかと僕も思う。

 校長が年休を承認したのはどうしてだろうか。学校ごとの事情もあると思うが、学校の状態がうまく行っているのなら、「わが校なら入学式に担任が欠けても応援で乗り切れる」という判断もあったのかと思う。小中の場合、学校によっては教員数が少なく応援態勢が組めない場合もあると思うが、高校なら学級規模が大きい場合が多く、何とかやりくりできるのではないだろうか。もう一つは、自分の学校でも「保護者は全生徒分来る」を前提にしていただろうということである。体育館に設置する保護者席の椅子の並べ方、当日配布する書類の枚数…そういうものを「保護者は各生徒分は来る」ものとして用意しただろうと思う。こっちも親はみな来ると思っている以上、他校もそう思っているだろうから、行くなとは言えないのではないだろうか。もちろん、そういう事情がある教員を新入生の担任にすべきではないという意見も見受けられた。でも、それは次回以後に検討するように、難しい問題もあったのだろう。そうすると、子どもの入学式というのは、校長としても仕事を優先して欲しいとは言いにくいだろう

 要するに、「教師の代わりはある」けれど、「親の代わりはない」のだから、「まあ、あまり望ましいことではないだろうけど、やむを得ないのではないか」というあたりが僕の考えである。つまり、僕ももちろん、「学級担任はいたほうがいい」と思う。でも、この問題は「権利を優先する」という非難は当たらない事例ではないか。最初に問題化した県議は「権利ばかり言う教員」という言い方をしている。こういうのは、昔から保守系の政治家が教師などを批判するときの「定番的表現」である。だから、多分、これを言い出した県議は保守系で、昔の「教師聖職論」的な流れで言っているのではないかと思われる。それに対して、尾木氏の議論は「プロの職業人」という方向での批判になっている。これは「教師聖職論」というよりも、むしろ「教師労働者論」の流れの中で出てきているとも考えられる。古いタイプの組合闘士の教員だったら、入学式当日から「団結を乱す」「私生活優先」の教師に眉をひそめるのではないか。

 しかし、親にも事情がある。親が入学式に出る目的の一つは「担任の顔を見る」ことだから、確かにいないと困るのである。でも、事情は相互に同じだから、なかなか非難はできないだろう。入学式に親が来ないうちは限られている。何か事情がある家庭と思われてしまいかねない。これから以後は、保護者会の日時が重ならなければ出られるが、大体同じころに設定されるので重なることもあるだろう。そっちは担任が必須なので、抜けることはできない。要するに、入学式ぐらいしか子どもの学校に行けないのである。教師の子どもだから成績がいいとか、いじめに関係ないとか、そういうことはない。教師の子どもでも、成績が下位だったり、不登校気味だったり、いろいろと配慮を要するケースは多いだろう。スイミングクラブに通わせているから、髪がちょっと塩素で脱色気味になっているという子どもの場合、親が高校の生活指導の方針を理解していないといらざるトラブルが起こる。場合によっては黒く染める必要があるかもしれない。学校ごとによって違うので、最初に親が確認しておかないと、子どもがいじめられたりする恐れがある。

 親が入学式に出て、学校の方針を知る必要が昔に比べて格段に大きいのである。昔のように「学校にお任せ」ではやっていられない時代なのである。そのことは自分も教員だから、よく判っているだろう。だからこそ、自分の学校を欠席しても、わが子の入学式に出ざるを得ない。単に「子どもの入学を祝う」と言うだけの問題ではない。どうしてそうなったかと言えば、「親は教育サービスの消費者である」という教育政策を進めてきたからである。中学校やところによっては小学校まで、「学校選択制」を実施している地域がある。ましてや、高校は義務教育ではないので、留年もあれば退学もある。たくさんある高校の中から、自分で調べて選んだ高校を受験して合格した。でも具体的な生活指導方針や進路指導の状況は、入学してから初めて説明されるだろう。それを親に知ってもらい了承しておいてもらわないと、学校としては非常に困るのである。だから、もう何十年も入学式には親が来るということを前提にして、高校の指導が進められているのではないか。もちろん全員の親はそろわない。でも、よほど病弱や多忙か、何かないと入学式に来ない親はほとんどない。そういう状況になっているからこそ、休暇を取って子どもの入学式に参加するというのもやむを得ないのではないか…と思うのだが。

 この問題は、「権利か、仕事か」の対立ではなく、「親どうしの葛藤」の問題だろうと思う。そして、教育の本質は「贈与」だと思うので、担任がいなくて失望した親も多いだろうけど、「でも先生のお子さんからすれば、やっぱり来てほしいだろうなあ」と思って、事を荒立てないでいいかなと思う。そんなあたりがいいのではないか。なお、僕が唯一なりそうな立場としては「学年主任として、どうしようと相談される」というケースがある。その場合、まあ困ったなあとは思いつつも、何とかなるから大丈夫、みんなでフォローするからと言うだろうと思う。そう言いたいと思うけどなあ。
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