尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「常識研修」のススメーより良い教員研修をデザインする②

2021年06月02日 23時09分21秒 |  〃 (教師論)
 「教員免許更新講習」は「教育の最新事情」(必修)と「教科指導、生徒指導その他教育内容の充実に関する事項」(選択)になっている。前者が12時間、後者が18時間という設定である。どちらも大学等が開講する講座を自費で受講することになっている。しかし、前者は校内研修や教育委員会の研修と同じだと評判が悪い。だから、その部分は校内研修などをポイント化して10年間で貯めていけばいいというのが前回の趣旨。

 問題は後者なんだけど、これはなかなか良かった、役だったという声も多い。先に紹介した「教員という人生」(朝比奈なを)でもそういう感想が出ていた。また開設する大学にとっても貴重な収入源になってしまって、いまさら止められては困るというのが実態だろう。僕はこの部分は継続しても良いのでは無いかと思う。ただし、「ポイント化」とともに「内容の拡充」が必要だ。

 教員はの中には多忙の中で学びを放棄したような教師もいると思うが、それでも自費で様々な学会に出席したり、教育研究団体に参加する人は多い。学会に参加するのは「教科指導の充実」に間違いなく寄与する。10年間に何度か参加してポイントを貯めれば、研修をクリア出来る。ただの聴講者ではなく、報告者だったりすれば、ポイントはさらに高く出来る。教育委員会の関連研修、研究授業などもポイントに出来る。そうなれば、ある年に集中的に大変になることなく、教科や生徒指導などの専門的研修を自ら受ける動機付けになるのではないだろうか。

 しかし、ここで本当に書きたいのはそういうことではない。今行われている更新講習は、要するに「研究」である。研修のうち「修養」の部分はどうするのか。「修養」という言葉は、古いイメージがある。「修養団」という名の団体もあって、戦前から続く「日本精神」の右派団体である。伊勢神宮前の五十鈴川で「みそぎ」の企業研修をやったりしている。それは別にしても、「修養」と言われると、山寺に籠もって座禅するようなイメージがある。もちろん、僕はそういうことを勧めているのではない。教師は人と接する仕事だから、自分だけ「悟り」を開いても仕方ない。
(教員の「非常識」) 
 多くの生徒や保護者が教員に望むことは何だろうか。授業や部活の優れた指導者であることは、確かに望ましいことだろう。でも、中学・高校は教科担任制なんだから、教えている10人ほどもの教師が、みんなリーダー教師であるはずもない。授業も大事だけれど、何といっても教師に望むのは「学級担任が相談しやすい」ことだろう。特に進路決定を抱える中学3年、高校3年の時の担任が、話しづらい教師だったら困る。怖すぎる人、いい加減な人も生徒は大変だけど、それ以上に「相談できない」タイプだったら本当に困る。

 そういうタイプの教員、一言で言えば「同僚として付き合いづらい教師」はかなりいるのではないか。どんな学校にも少しはいると思う。まあ事務的にメチャクチャじゃなければ、生徒も学年の同僚教師も何とか我慢してやり過ごしている。精神的に危うい場合も多く、ウツ的な症状が感じ取れる場合は「病気」なんだから、これは仕方ない。学期中に休職になるケースもほとんどの教員が一度は見聞きしているだろう。しかし、そういうことではなく、「マジメすぎる」「硬すぎる」とか、「防御的反応が強い」「生徒を追い詰める」などの教員である。

 教師は成績のいい人ほど、大学卒業後すぐに採用されるから、学校以外の場を知らない。(だから管理職試験合格後に「異業種体験」などのプログラムが組まれたりする。)世の中は大きく変わっているけど、教師だけは学校で勉強すればいいんだと思ってたりする。昔は大学も成績順で試験を受けて合格すれば良かった。今はAO入試、自己推薦など大学入試も多様化した。高卒での就職も、昔は学校でマジメにしてれば一生の仕事をあっせんされた。もうそういう時代は遙か昔である。教師が「人間通」で「相談力」が高くないと、生徒が困る。教師が推薦書を書く機会も非常に多くなっているから、教師の文章力も試される。

 だけど、「付き合いづらい教師」にふさわしい研修はあるのか。それはないだろう。ただし、様々な体験を通して見聞を広げるということは人間の幅を広げる役に立つと思う。多くの教師は自ら「趣味」という形で、自分の世界を広げている。しかし、旅行をしてもそのままになっていることが多い。海外旅行の経験をまとめて(文章じゃなく、映像でまとめてもいい)、授業やホームルームで生かす。それを「広い意味での研修」ととらえてポイント化する。そういう「研修」をある程度義務づける方がいいのではないかと思うのである。(そうすれば「夏休みの自主研修」も昔のように可能になる。)

 どんなケースがあるかというと、災害ボランティア、サマーキャンプ等の引率、演劇や映画のワークショップ参加、地域のボランティア団体への参加、福祉施設や様々な団体への体験参加などなどである。そして大学ばかりでなく、専門学校も「教員向け体験講座」を開いて欲しいと思う。進学校以外では、専門学校への進学が多い。保育士、美容師、調理師などは昔からあるが、今は動物、鍼灸・マッサージ、スポーツや音楽の裏方、声優やミュージカル俳優、ネイルアートなどホントに多くの学校を希望する。教師はあまり知らないと思う。大学での専門研究もいいが、そういう専門学校を体験するのも面白そうだと思う。そういう体験を10年間に2回ぐらいしても良いんじゃないかと思うのである。
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より良い教員研修をデザインする①ー「ポイント制」

2021年06月01日 23時02分17秒 |  〃 (教師論)
 「教員免許更新制」は廃止すべきだと書いた。ではそれに代わる、教員の研修はどのようなものが良いのか。長い教員生活の中で、「キャリアデザイン」をどう考えるか、教員自身にとっても、社会にとっても考えるべき問題だ。まあ僕にはもう関係ないし、何の影響力もないから「余計なお節介」に過ぎない。しかし、アイディアだけはあるので、一応書いてみたい。

 世の中は大きく変わって行く。いつの時代もそうである。もちろん教育のあり方も、子どもたちの世界もどんどん変わって行く。自動車も変われば、銀行も変わる。新聞も変わるし、音楽も変わる。当然教師も新しい世界に適応すべく学び続けなければならない。教師だけでなく、現代ではすべての人に「生涯教育」が求められている。

 教師は「教育公務員特例法」で「教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない」とされている。この「研究と修養」を指して「研修」と呼ぶのである。ここで大切なのは、「研究」だけでなく「修養」が求められていることだ。研究は判るけど、修養とは何だろうか。辞書を調べると「知識を高め、品性を磨き、自己の人格形成につとめること」と出ている。教師なんだから、生徒より「知識」はあるだろう。でも「品性」とか「人格」と言われると、困ってしまう。しかし「修養」の意味を広く考えることで、今後に望まれる研修のヒントになる。

 まず今までの「教員免許更新制」や「10年研修」には負担感が大きかった。当たり前である。何故なら「ある年に集中的に学ぶ」という仕組みだから。しかし、その年にも普通の仕事がある。授業もあれば、部活もある。また、その年が産休、育休、病休、介護休暇などに当たることもある。本人の体調が優れないこともある。だから、その年が大変にならないように、中三、高三の担任を外れるように担任になる時期を調整したりする。妊娠・出産の時期も外すようにする。人生設計という観点から本末転倒というしかない。

 じゃあ、どうすればいいのだろうか。僕が今回思いついたのは「ポイント制」である。研修を受けて報告を提出することで、決められたポイントを付与する。そして、「10年間で○○ポイント」必要と決めるのである。更新にはいくつかの領域に渡る講習が必要だが、その中に「教育の最新事情」が必修項目として入っている。しかし、それが一番評判が悪い。大体「最新事情」を10年に一度学ぶという発想がおかしい。最新事情に関しては、校内や教育委員会でも研修が行われる。内容が重複するという声が高い。だから、校内研修をポイント化すれば良いのである。
(校内研修のようす)
 つまり、「最新事情」を10年に一度まとめて学ぶのではなく、毎年やってる校内研修や教育委員会の研修を10年分積み立てることで良しとするのである。その場合、ただ出席してればいいということにはならないだろう。簡単でもいいから「研修報告」がいる。長期休業中にまとめることで「ポイント化」するわけである。こうすれば、毎年きちんと研修していけば、「最新事情」分野は終わる。そして、最新事情なんだから、その方がいいだろう。最近だったら、「オンライン授業の工夫」は多くの教員が悩んでいるだろう。それをウェブ上で講習して、授業に生かしたことを報告書にまとめる。そういう報告書を10年間で20ポイントぐらい貯める。

 この研修は当然「指導的教員」も受けなければならない。今の更新講習は管理職や主幹教諭は免除される。それは本来おかしいだろう。指導的教員ほど最新事情や専門的知識が必要なはずである。だから、新しい制度では、むしろ指導的教員ほど高い研修ポイントが必要にしなければおかしい。それじゃ、誰も管理職にならないと思うかもしれない。しかし、指導的教員はもともと「教務」「生活指導」「進路指導」などの主任をしていて、そのための研修や連絡会が多い。校長や副校長も同じである。その内容をまとめて職員会議で報告する機会もあるだろう。それをもって研修ポイントに出来るようにすれば問題ない。

 いくつかの分野を決めて、10年間に必要なポイントを獲得するようにする。多少はヒマな年に、負担が大きな(ポイントが高い)研修を受講する。10年程度(産育休や病休期間等を除き)で獲得ポイントが少なければ、2年程度の猶予が与えられる。だけど、その猶予期間にも次の10年分の研修をしなければならないから、「積み残し」は避けたい。そのことが研修を受ける動機になる。また「余った研修ポイント」が出た場合、直近2年間のポイントは繰り越せる。まあ有給休暇と同じ発想である。そんな感じのことを考えて、本当は「研修内容をどうするか」を書きたかったんだけど、長くなってしまったから2回に分ける。2回書くような問題でもないんだが。
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朝比奈なを「ルポ教育困難校」を読む

2021年04月26日 22時12分24秒 |  〃 (教師論)
 「教員という仕事」に続いて、朝比奈なをルポ教育困難校」の紹介。朝日新書から2019年7月に刊行された本だが、その時は買わなかった。忘れていたんだけど、当時本屋で見てちょっと気がひかれた記憶がある。でも買わなかった理由は、読んでみて思い当たった。

 教員経験者の中には同じように思う人も多いだろうが、読んでいて辛いのである。自分も似たような経験をし、もっと上手く出来たのではないかと後悔も浮かんでくる。もっと率直に書けば「あの頃の恐怖」「あの時のふがいなさ」が思い出されてトラウマがよみがえる。きっとそういう本だと思って避けたのである。そして実際にそういう本だった。

 朝比奈氏が最初に赴任した高校が「教育困難校」だった。その後「進学高校」も経験したようだが、最初の驚きを問題意識として持ち続けた。「教育困難校」とは著者の言葉で、一般によく「底辺校」と言われる高校のことだ。ここで取り上げられるのは「全日制普通科高校で入学に必要な学力が地域最低クラス」で「不本意入学生徒」の多い学校を指している。

 「職業高校」(商業、工業、農業、水産、家庭等)も「偏差値」的には高くない学校が多いが、中には目的意識の高い生徒もいる。資格取得や検定試験等にマジメに取り組むと、良い就職先が見つかることが(少なくとも20世紀には)多かった。「夜間定時制高校」は倍率が1倍にならないことが多く、公立高校では全員合格になる。従って「合格偏差値」を出すことが無意味。「底辺校」にも入らない「ランク外」である。また東京に多い「多部制定時制高校」も同様。

 目次を紹介するのが手っ取り早い。章と節だけ。
第1章 「教育困難校」とはどのような高校か
  1 高校入試は、多くの人にとって人生最初の試練である 2 「教育困難校」とは何か
第2章 「教育困難校」に通う生徒たち
  1 「教育困難校」の日常 2 「教育困難校」の典型的な授業風景 3 生徒の学力や意欲はどのようなものか 4 定期試験にも独特の慣習が存在する 5 「教育困難校」の生徒たちの類型を考える 6 「教育困難校」の生徒たちの家庭環境
第3章 「教育困難校」の教員たち
  1 「教育困難校」特有の忙しさの原因 2 「教育困難校」教員が陥る心性
第4章 「教育困難校」の進路指導
  1 高校は学力により進路指導も全く異なる 2 教育情報産業から見た「教育困難校」の進路指導の変遷 3 「教育困難校」で実際に行われている進路指導
第5章 脱「教育困難校」を目指して
   先駆的な脱「教育困難校」改革の動き
第6章 それでも「教育困難校」は必要である
  1 「教育困難校」の存在意義 2 「教育困難校」の将来のために、今、必要なもの 
  
 いやいや、「オールアバウト教育困難校」という感じの本である。必要な情報は大体書かれている。例えば生徒の類型を挙げておく。①荒れた行動を取る「ヤンキー」タイプ、②コミュニケーション能力や学習能力に困難さがあるタイプ、③不登校を経験したタイプ、④急増する外国にルーツを持つタイプ、⑤不本意入学をしてきたタイプ 以上5つである。

 それぞれ詳しく分析されるが、それは本書を読んで欲しい。自分はここで取り上げられた「教育困難校」は経験していない。しかし、80年代に「荒れた中学」と「再建」を経験した。90年代以後は商業高校夜間定時制高校三部制総合学科定時制(チャレンジスクール)で勤務した。だから「荒れたタイプ」や「発達障害」「不登校」生徒は数多く経験した。また「外国ルーツ」の生徒も何人もいた。だから書かれていることが生々しく眼前に浮かび上がって来て困った。

 最初に出てくるが、朝比奈先生には「後悔を伴って忘れられない言葉が2つある」。1つ目は「先生はなんで私のことにそんなに一生懸命になるの?」である。著者は「生徒の面倒を見るのは当たり前じゃない」と冗談めかして答えてしまった。今なら「あなたが大切だから。あなたは素晴らしい存在だから」と言えば良かったと書いているが、それはちょっと出て来ないだろう。

 もう1つは「先生、いくら勉強してもわかんない人っているんだよ。先生にはわかんないと思うけどさ」である。これを言われたら多くの教員は口ごもるしかないだろう。家庭の経済的困難発達障害親の病気(ヤング・ケアラー)など、「出来ない子」は多くの困難を背負っている。教員は大体が進学高校出身だし、勉強が嫌いな人が教える立場になるわけがない。超有名大学希望生徒を教えるのも大変だろうが、多くの教員は「教育困難校」に配置されてカルチャーショックを受ける。そして中には心身を病んだりする人もいるのである。

 ただし、僕はそういう言葉に当意即妙の返答をしなくてもいいんじゃないかと思う。そんなことはなかなか出来ない。でも人間は「言語コミュニケーション」だけでわかり合うのではない。むしろ「非言語的コミュニケーション」の役割の方が大きい時もある。教員が逃げているのか、それとも「よく言えないけど、なんだか誠実に対応しているか」は非言語的に伝わるのではないか。だから教員は「楽しそうに授業する」のが大事だと思う。

 全部書いても仕方ないので、是非読んで考えて欲しいと思う。高校や中学の教員もだが、教育官僚や各界のリーダー層に考えて欲しい本だ。何しろ高校生でアルファベットも書けない生徒に、アクティブラーニングと言われているのである。小学生から英語をやるということは、今まで以上に英語の学力格差が生じるということだ。判っているのかな。

 しかし、「教育困難校」は必要であるという終章の指摘は重い。そんな高校は要らないというなら、その生徒たちをどうすればいいのか。今さら中卒生徒を日本の企業が雇ってくれるのか。不本意だけど高校へ入る生徒と誰かが格闘しなくてはならない。日本社会の「後衛」として闘っている教員たちがいるのだ。それにしても、その教員集団の「分断」に心痛む。飲み会に出ないと何を言われるか怖いから、毎回飲み会に出るという話があった。大変な職場になればなるほど、あの人の授業、あの人の生徒指導がいつも…と言い出す人がいるものだ。それを克服する職場の連帯をどうやって作っていったらいいのだろうか。

 著者朝比奈なをさんの名を冠したタイトルを2回書いたけど、名前で読む人はほとんどいないと思う。僕もそうだったが、大事な視点で書かれた教育書だから著者の名前を覚えておきたいと思うのである。今後も注目して読んでみるために。
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朝比奈なを「教員という仕事」を読む

2021年04月25日 23時02分01秒 |  〃 (教師論)
 朝日新書から朝比奈なを教員という仕事」が出ている。2020年11月30日付で、年末に買っておいた本をちょっと前に読んだ。著者を知らなかったのだが、公立高校教員を約20年間勤めた後で、幅広く教育問題に関する文筆、講演活動を行っている。同じ朝日新書に「ルポ教育困難校」という本もある。読んでなかったので、この機会に読んでみたので続けて紹介したい。

 著者は他にも「見捨てられた高校生たち」「高大接続の現実」「置き去りにされた高校生たち」(いずれも学事出版)という本も書いている。教育に関する本はいくらもあるが、「教員のリアル」に迫る本は少ない。書名を見て感じるのは、朝比奈氏の実体験も反映させながら、様々な取材を重ねて学校現場で現実に起こっていることを伝えているということだ。

 コロナ禍でますます多忙が増す学校現場の中で、著者は「教員が直面している最大の問題は、長時間労働を余儀なくさせるほどの仕事量にある」と書いている。そして「『教育改革』という名の下、ここ20年間で矢継ぎ早に学校現場へと強制された変化に対応するための仕事が大半を占める。」「そして、あまり知られていないが、この間には『教員改革』も推し進められている。『教育改革』と『教員改革』の相乗作用で業務が増え、教員は疲弊し、教員集団の変質・変容も生じているのだ。」と「はじめに」の中で書かれている。

 この本は主に「教員改革」を取り上げている。著者は「『教員改革』によって教員の同質化が起こり、ある種の『ムラ社会』化が進んだと見ている。もちろん、日本人や日本社会の変質も影響しているが、それ以上に、ある一定のタイプの人間を教員にしたい既に教員になった人を一定のタイプにたわめたいという意図を持つ改革を進めたことが大きな原因だと考える」と書く。

 この指摘はある程度長く教員をしていた人にはよく判ることだ。しかし、一般的にはほとんど指摘されない。「教員の多忙」というと「学習指導要領」の変更なども少しは書かれるが、大体は「役所へ出す調査が多い」とか「部活動が大変」とか、そういう話が多い。それも事実だが、昔からそうだった。渦中にいる教員にとって、本当に大変なのは「既に教員になった人を一定のタイプにたわめたいという意図を持つ改革」が進められてきたことだ。

 そこが類書と違う点で、僕も大変納得できた点だ。本書の節の名を少し挙げると「非正規の教員がいなければ学校はまわらない」「正規・非正規が教員の分断を生む」「教員の上下関係が作られている」「評価が上限関係をさらに強める」「精神的ストレスが引き起こす大量の休職」などと続いている。特に「教員の上下関係」、つまり管理職以外はフラットな「教諭」だったものが、同じく生徒に教科を教える仕事ながら、主幹主任などと「身分差」が作られていったことが教員集団の分断にとって決定的だったと思う。

 しかし、「教員集団の分断」は結果において起こったことではなく、自民党政府の目的そのものだったと思われる。学校現場は日々の多忙に取り紛れて、ほとんど何の抵抗もできずに「分断」されてしまった。この本には第5章で5人の教員、元教員のインタビューが収められている。それが非常に面白いのだが、その中では若い教員が同じ学校の主任などを「上司」と呼ぶようになっている。校長はともかくとしても、学年主任などは「先輩教員」であるとしても、「上司と部下」なんて思ったことは僕はなかった。生徒を教える立場として同等だと教わったものだ。

 全部書いていると終わらないから止めるが、学校現場の変容を知るためには是非読んで見ておくべき本。最後に「教員・学校の将来のために」と題された章がある。「チーム学校」「校務分掌の見直し」「改革の最大のキーマンは管理職」などとあるが、僕は必ずしも同意しないものもある。しかし、とにかく教員のリアルを考えるヒントとして役に立つ。
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「非言語的表現」のリテラシー-広島県の中学生自殺事件④

2016年03月17日 00時27分08秒 |  〃 (教師論)
 広島県府中町のケースを通して、「ではどうすればいいのか」ということを幾つか。もちろん、即効性がある対策があるわけもないのだが、いくつか論点を提示しておきたいと思う。まず大事なことから。僕は今までに書いた中で、「内規変更問題」や「生活記録引き継ぎ」という論点を指摘した。そういうことは学校運営上の問題だけど、それらの問題があったとしても、担任教師が生徒から間違いだと聞きだしていれば、そこで問題は解決したわけである。本人は万引きに関わっていないのだから、本人が認めたはずがない。では、どうして認めたと誤認してしまったのか。

 生徒が何と答えたのか判らないが、「言語による明示的な表現」としては否定しなかったのだろうと思う。「僕は関係ない」と明確に答えたのなら、以後の展開は変わっているのだから、そこは間違いないだろう。しかし、万引きには関わっていなかったのだから、「非言語的表現」として「何を言われているのか判らない」「僕は何も悪いことは関係ない」と身体で表現していたはずだと思う。教師がその「非言語的表現」の真の意味を読み解くことが出来なかったのである

 「非言語コミュニケーション」(non-verbal communication)は、どの文化においても言語以上に重要なコミュニケーション方法だと思う。上司や親が何か言ってきて、「はい」と答えているのに、「その言い方は何だ」「その目つきは何だ」となっていくのは、実人生でもドラマなんかでもよくあることだ。言語では認めているのに、身体表現(身振り、顔つき、目つき等々)では「ホンネでは嫌だが、渋々従わざるを得ない」ということが読み取れるわけである。今回の問題でも、生徒が言語ではなく「身体表現」としては何を表わしているのかを読み取ろうとすれば、少なくとも「何かおかしい」と察知できたろう。

 ところが学校というのは、「きちんと発言する」「論理的に表現する」といったトレーニングをする場だから、教師の側は「生徒はきちんと発言するはず」だと思い込みやすい。確かに生徒会の選挙に出るとか、部活の部長を決めるとかの場では、「嫌とは言わない」ことが「事実上の受け入れ」であることも多い。だから、教師は「嫌とは言わせない」テクニックを身に付けてしまう。今回は逆に「はっきり違うと言わなかった」から、「認めた」と思い込んでしまったのである。本当は「はっきり認めてはいない」のだから、「もっときちんと調べる必要」を感じ取るべきだった。

 どうしてそうなったのかは、今書いたような「教師的言語」という問題もあるが、他にもいろいろあるだろう。一つは「廊下で立ち話で聞いた」という点である。中学はものすごく多忙なうえ、空いているスペースがほとんどないから、小学校や高校、あるいは一般のお役所や企業のような感覚で、「どうして個室を使わなかったのか」などと難じるのは不当だと思う。だけど、「面談」と表現するのなら、机と椅子を廊下に設置して座って資料を基に話をするべきだったと思う。

 しかし、それも「多忙」という事情が背景にあるに違いない。もっとも、この「1年時から問題にする」というのは、この学年が突然変更したものだから、「自分で自分の仕事を忙しくしている」のである。学校に限らないが、「多忙」といっても自分で自分の首を絞めていることが多いのだと思う。ここで「ホンネが言える関係」が成立しているかどうかが問われる。教師の中にだって、「面倒だから今まで通りでいいんじゃないですか」と思っていた人がいるはずである。でも、そういうことを言えたかどうか。誰かが「3年間きちんとやった生徒を推薦するべきだ」などとタテマエを言い出すと、それを否定できなくなってしまったのではないか。そういう硬直的発想が出てくるのは、もしかしたら生活指導で問題が多く、「セロ・トレランス」的な対応で学校運営を行っていたからかもしれない。教師がホンネを言えない環境で、教師と生徒の意思疎通がうまくいくはずがない。

 また、「教育のデジタル化」が進められていること、教師の「成績主義」が定着してしまったことなども「教師の非言語コミュニケーションのリテラシー(読み取り能力)」の低下をもたらす大きな要因だと思う。また「自主研修」がほとんど認められなくなり、「官制研修」や「教員免許更新制度」ばかりが押し付けられていることも、同様である。だがまあ、それらは今までも書いて来たから、論点を挙げるだけにする。今後、教師はますます「パソコン画面を見て生徒を見ない」というイマドキの医者のようになっていく。教師を競わせて給与やボーナス、昇格等を決めるというんだから、校内一致して生徒対応に当たるという気風も衰えていく。教育行政がそういう方向を推し進めているのだから、今後もこういう問題は折々に起きるのである。(それも今までに書いてきたとおり。)

 じゃあ、親は、あるいは教師個人はどうすればいいのか。一つは親が「積極的に学校作りに関わっていく」しかないということである。学校や教師個々を非難したり要求するだけでは、何も変わらない。学校を変えていくためには、親(あるいは地域住民)がもっと関わるしかないんだろうと思う。教師としては、とにかくヒマを作るように、自分で自分を多忙にしないことだろう。そして、生徒の非言語的な表現を読み解く能力を高める工夫をする。演劇や映画を見る、スポーツに取り組む、ボランティアなどで多くのさまざまな人に出会う等々…。だけど、それらはなかなか多忙で果たせない。でも…、新聞と本を読み続けるのは教師の義務だと思う。そして、それだけでもかなり「視野を広げる」役割を果たすはず。自分の身を守るためには、ある程度の勉強、努力も大切
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生活指導記録の問題-広島県の中学生自殺問題③

2016年03月14日 23時09分09秒 |  〃 (教師論)
 「モジュラー型ミステリー」というジャンルがある。主に警察小説で「同時多発型」に事件が起きるタイプのミステリーである。(僕が好きなのは、英国のR.D.ウィングフィールドによるフロスト警部シリーズ。)「モジュラー」(modular)とは、電話やケーブルなどの端子のことで、「モジュラー型」はもともとは工業用語らしい。規格化された製品を組み合わせて使える「組み合わせ型」のことで、英語を見ると「モデュラー」と表記するべきかも。さて、学校は典型的な「モジュラー型」職場で、多くの生徒(だけではないが)が同時多発的に多くの「事件」を発生させている。

 学校をめぐる「何でこんなことが起きたのか」というようなケースを見て、僕は「同時にもっと大きな事件が別に起きていたのかもしれない」などと書いたことがある。今回のケースでは、もう報告書が出来ていて、そのことが証明された。1年時の万引きが起こった翌日に、「対教師暴力事件」が起き、万引き指導の方はおざなりになったのである。万引き事件に関しては、他の指導の場合には残っている反省文等が残されていないということだが、「残っていない」のではなく指導を行えなかったのである。

 この問題では、当初「1年時の非行歴を進路指導に用いた」「その際、当時の資料の誤記が訂正されていなかった」と報じられた。ニュースでは、「誤記を訂正する担当も決められなかった」などと報道されていた。「非行歴」という表現に関しては、「非行」には当たらないので、学校としてはあくまでも「生徒指導歴」であると一回目に書いた。ところで、問題はもっと深いものがあり、今書いたことを見れば、「生徒指導歴」にカウントしても良いのかどうかに疑問がある。生徒を指導するというのは、単に万引きを確認するだけでは終わらず、事情聴取や家庭との連携を通じて、反省を促し今後につなげていく筋道を立てないといけない。もし、そこまでやる時間的余裕がなかったとしたら、「指導した」とは言えず、単に外部情報が寄せられたというに止まるのではないか。そういうケースの場合、そもそも「生活指導1件」とカウントするのが許されるのだろうか。

 もっとも、教育委員会への報告では正しい名前で書いてあったということだから、生徒への事実確認はなされていたのだろう。というか、万引きの連絡は学校にあって学校から引き取りに行ったのかもしれない。本来、放課後に生徒が私服で起こした問題は、「学校の指導範囲ではないから警察に連絡してください」と言ってもいいはずである。だけど、実際にそんなことを言い放つことは不可能である。学校に連絡があるのも、一定の信頼がある証でもあるから、地域からの連絡をむげにはできない。だけど、憂さ晴らしのような電話も結構あるし、万引き事件の場合、(特に今回のコンビニなど)被害額そのものが小さい事が多く、警察に通報して被害届を出して調書を作るのは店の方でも面倒である。要するに二度とないように叱りつけて欲しいわけで、学校に連絡するわけである。

 そういうことだとすると、引取り時に名前と事実経過を把握できたわけで、「背景のない事件」と判断されたのだろう。万引きという「窃盗事件」は、大体は遊び半分の愉快犯のようなものだと思う。ただ、表面上は万引きとして発覚したが、実際は「クラス内のいじめ事件」(弱いものに無理やりやらせる)だったり、万引き商品を校内で売買している「盗品売買グループ事件」だったりすることも時々ある。今回のケースではそうではなかったと確認できていたから、対教師暴力事件のさなかに忘れられたのだろう。だけど、対教師暴力が起きるような学校では、教師の注意がそこに集中した裏で、問題を起こすとは思ってなかった生徒が事件を起こしたりするものである。

 次は「誤記が訂正されなかった問題」だけど、これも本質は誤記が訂正されなかったことではないように思う。会議後に作られた正式報告書類では正しい名前になっているとのことだから、むしろ「訂正された」というべきではないか。だけど、その「正式報告」はどこかに綴じこまれていて、共有サーバーにあった古い資料が発掘されてしまった。それは本来、生活指導部会か学年会のための内部資料と思われる。普通は会議終了後に(主任などは除き)回収されるもので、「会議のたたき台」的なものだと思う。もともとが「正式な資料」ではないもので、会議を経て正式資料が作られる。そういった性格のものではないだろうか。しかし、その正式な書類の方が受け継がれなかった。

 担任や学年主任が1年時からその学年を担当していれば、当然ことの経緯が覚えていただろう。恐らく途中で異動があり、1年時を知らない人が担任だったのだろうけど、学年の生活指導担当がきちんと資料を受け継いでいれば、本来起きるはずがないケースである。仮に「1年時からの指導歴を進路に使う」という方針が決まったとすれば、生活指導担当が正式に残された指導資料をあたるはずだが、一体どうしてしまったのだろう。問題多発と多忙の中で、指導資料の引継ぎがうまくいってなかったのだろう。こうなると、何でもかんでも正式書類を作って管理職の押印を経ないといけない東京の方式も、やはり必要なのかという気もしてしまう。とにかく、問題は「会議資料の間違いを訂正しなかった」ことではなく、「生活指導資料の引き継ぎの不徹底」にある。最後にもう一回、ではどうすればいいのか、教師のあり方について考えておきたい。
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推薦制度と冤罪の悲しみ-広島県の中学生自殺問題②

2016年03月13日 21時11分11秒 |  〃 (教師論)
 昨日2回目を書こうとして、いろいろ検索していたら、いまどき珍しくパソコンが何度もフリーズしてしまった。あるサイトを見ようとすると、パソコンが動かなくなってしまうのである。こういうことが今でもあるのか。処理に時間がかかってしまい、書く気が失せてしまった。それはともかく、調べたかったのは、私立高校への推薦制度のあり方である。高校受験に関しては地域差が大きく、都道府県ごとにかなり違いがある。東京の感覚では、高校入試が終わり(定時制の2次や通信制は別だが)、その後に卒業式がある。それが当然だと思って育ったのだが、他県では順番が逆のところもあるようである。

 今回の問題では、広島県の「専願推薦」という言葉を知ったが、これは首都圏では使わない。ニュースを聞く限り、東京で「併願推薦」とか「併願確約」と呼ぶものとほぼ同様のものかと思う。公立高が第一希望の生徒が、私立を一校に絞って受験し、学校側は事前に(事実上の)合格を保障し、生徒側は公立高に落ちた時に入学する。この「滑り止め」保障があれば、生徒側は公立高のランクを上げられる。高校側も一定ランクの入学生を確保でき、うまくいけば双方に利益がある。だけど、経済的に私立へ行けない生徒は利用できないし、高校側も「不本意入学者」が多くなってしまう。また、事実上、一般入試が機能しなくなる。広島ではこの制度を利用しない場合、ほぼ不合格になるという。

 この制度は「推薦」には違いないけれど、生徒からすれば落ちた時の保障だから「学校推薦」という意識は薄いだろう。勘違いしないように書いておきたいが、私立高の推薦というのは、公立高の推薦や大学の推薦入試とは大きく違うのである。私立大学に「指定校推薦」という制度があるが、その場合は「一般入試なしで進学できる」という意味になる。一定ランクの高校に(おおよそ)一人の生徒の推薦を依頼し、高校側が一人に絞り込む。大学入試をパスできるのだから、生徒側の利益は非常に大きい。大学側の求める基準を上回る生徒が複数希望する時は、高校側の選考もシビアになる。そういう時には「生活指導歴の有無」が決め手になっても、まあ不思議ではないだろう。

 一方、私立高校の場合、事前に合格保証があるわけだが、私立高の一般入試を受験するのである。それは公立高を併願する生徒だけではなく、その私立を第一希望する生徒(「単願推薦」)も同様である。成績基準は事前にパスしているわけだから、当日の試験が悪くても合格になる。そのはずだが、さすがに零点ではダメかもしれないし、面接もある。だから、学校は私立の保障がある生徒にも、最後までちゃんと勉強や生活面をしっかりやらないとダメだぞと言えるのである。

 「単願」の生徒の場合、必ずその学校に行くんだから、進学後に問題を起こされると困る。中学と高校の信頼関係に関わる場合もありうる。次年度以後に、その私立を希望する生徒に影響が出かねない。だから、中学側も「生活面の基準」を設けて選考するのではないかと思う。だが、「併願」の場合、公立に受かれば行かないわけだから、高校の求める成績基準をクリアしていれば、他の条件はあまり考えないのが普通ではないか。どうなんだろう。地域的な問題も大きいかもしれない。東京では、近隣県も含めれば、いくつもの私立を受験できる。地方では公立以外に行ける私立高は限られるという事情もあるだろう。しかし、以上のように、「併願」(広島では「専願」)というケースは、「学校推薦」などと大仰に言うほどのものではないと思う。学年が中心に進めて、「校長印」が必要な「学校推薦」という形式を取らないことが、東京では多いのではないか。

 そういう風に考えてくると、逆にこの生徒がなぜ死ななければいけなかったのかも疑問が起こる。第一希望ではない学校のことなど、どうでもいいではないか。そこで、僕にはまだよく判らないのだが、この学校の「保護者対応」の不適切さ、そして「冤罪におちいった少年の悲しみ」が大きいように思うのである。このケースの場合、三者面談で「万引き歴で推薦不可」と告げられる日に死を選んだ。しかし、そもそも「万引き」が一年時にあれば、親は必ず知っているはずである。場合によって、学校に呼ばれない場合もあるかもしれないが、電話もないということは考えられない。親に連絡しない「生活指導」は、進路に影響するような指導歴にはならない。だから、万引きがあれば親はすでに知っている。逆に、そういった事件がなければ、親がその場で知らないと言うはずである。

 また、「内規変更」も11月では遅いだろう。変える必要ないと一回目に書いたが、それでももし変えるというなら、もっと早く変えて保護者会で周知いないといけない。保護者会をいつ行うかは学校ごとに違うだろうが、中学3年の秋には、「進路説明会」が必ず行われるだろう。その時には、なかなか保護者会に来ない親も(働いている母親が休暇を取って)参加するはずである。入学式の後で初めて学校に来る親もいるかもしれない。高校受験が初めての親も多いのだから、そういう場を設定して制度全般を一から説明する。そういう場があるはずだし、なければおかしい。その場で「一年時からの問題行動を推薦基準にする」と言えば、質問もあるかもしれないが、そこで親には自分の子どもが推薦が可能かどうか判る。こういった(恐らく多くの中学で行われているはずの)手順が踏まれていたのかどうか。

 すでに作られている「報告書」を読んでいるわけではないので、詳しいことは判らないのだが、多分そういった手順が踏まれずに、生徒からすれば「突然、万引きをしている」と決めつけられたということなのではないか。違うなら違うと言えばいいし、そもそも第一希望でもないわけだが、そういう問題ではなく、「自分が何を問われているか」をすぐには理解できなかったのではないだろうか。それを後になって冷静に考えていれば、なんでちゃんと反論しなかったのか、そんなことはないと言えばいいだけではないかとなるが、当の本人からすれば、パニックになってしまい、どうすればいいかが判らない。そういうことがあるのは、警察に誤認逮捕された「本当の冤罪事件」の記録を見れば判る。多くの人は、何を言っても聞いてくれないことに絶望し、調書にサインしてしまい、その後で自殺を図る。(今、裁判中の「今市女児殺害事件」も、報道で読む限り概ねそんな感じである。)そのように、このケースを通して僕は「冤罪の悲しみ」を深く感じたのだが、もっと違う問題も潜んでいるのかもしれない。今回はここで終わり、次回は今回の「一年時の生活指導」を取り上げる。
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広島県の中学生自殺問題①

2016年03月12日 00時12分27秒 |  〃 (教師論)
 緊急に「広島県の中学生自殺問題」を何回か書きたいと思う。「自殺」という言葉は本来不適当だと僕は思っているのだが、各マスコミが使っているのでここではそう表記する。2015年12月、広島県府中町の中学で、3年生の男子生徒が自殺した。その問題が今になって明るみに出たのは、遺族が他の生徒の高校受験に配慮していたのだと判断できる。

 ニュースなどでは「進路指導のミス」と報じられているが、その報じ方には以下に書くように僕には異論がある。確かに「ミス」はあった。人間にはミスがつきものなので、「ミスを防ぐ施策」がなくてはならない。それが今回はうまく機能していなかった。(というか、「なかった」とも言える。)だけど、この学校の指導には「ミス」以上の「本質的な大間違い」があったと思うのである。 

 今回の問題は、簡単に書くと以下のようなことになると理解している。
中学生が私立高校への「専願推薦」を希望していた。(この制度の問題は次回に書く。公立高校が第一希望の生徒が、私立高校を一つにしぼって志願し、公立に落ちた時に進学する。この制度を利用せず「一般受験」しても、ほとんど合格できない。「学校推薦」が必要である。)
学校側は、推薦に関する内規を昨年11月に変更した。それまでは、3年時の問題行動だけを見たのに対し、「1年時からの触法行為」を見ることにした。
学校の共有サーバーに残された1年時の指導記録に、その生徒の万引きが書かれていた。しかし、それは本来は別人の行為で、「誤記」だった。それは当時の会議で指摘され、紙の上では訂正されたが、元のパソコン上の記録は訂正されなかった。(誤記の原因は単純な打ち間違いらしい。)
その記録をもとに、学年主任は担任教諭に対して、この生徒に万引き歴があることを本人に確認するように求めた。担任は5回にわたって「面談」したが、生徒がはっきりとした反論をしなかったため、確認されたと誤認した。(この「面談」は廊下でなされたものらしく、僕には「面談」とは言えないように思われる。また、この記録は学校側の情報なので、遺族側に疑問もあるようである。)
担任は、12月の三者面談を前に、そのこと(1年時に万引きがあったため、専願推薦はできないこと)を保護者に伝えると言った。生徒は三者面談に日に、面談に現れず自殺した。

 以上の中で、③(誤記問題)④(本人への確認)は、明らかなミスである。しかも、かなり大きな問題をはらんでいるミスである。だから、ニュースでもそこが焦点になっている感じがする。その結果、なぜ担任は確認したと思ったのか、あるいはなぜ誤記が訂正されなかったかなどと、言ってみれば「現場の責任追及」がなされている。だけど、この問題の一番重大なポイントは、②の「内規変更」ではないか。これさえなければ、「誤記」は問題にならないまま眠っていただろうし、担任が確認する必要もないからミスがおきるわけもない。だが、多くのマスコミも「1年時からの問題行動」を対象にした内規変更の是非を取り上げていないように思う。

 一体、学年途中で推薦の内規を変えていいのだろうか。本来、1年時からの問題行動を進路指導にも使うんだったら、入学式後の保護者会で親に周知しておかないといけないのではないだろうか。「誤記」ばかり問題になるが、誤記ではなく本当に万引きがあったとしても、本来は1年時の指導で終わったはずの出来事が突然よみがえって来ていいのか。これでは「教育」ではなく、「懲罰」ではないか。成人の裁判であっても、一度決着した刑罰を本人に不利に変更することは許されない。(本人に有利な「再審」は新証拠があれば認められる。)ましてや、未成年の場合は、「刑罰」ではなく「教育」が目的である。犯罪に関与してもマスコミ等に実名は出ない。教師は立場上、生徒の名前と行為を知ることになるが、それは「教育的指導」を行うためであって、その指導が終了した後で、他の目的に使うことはおかしいのではないだろうか。

 そう言うと、「では、万引きした過去のある生徒を学校が推薦していいのか」などと言われるかもしれない。その答えは「いい」ということになる。生活上の問題があっても、学校が指導してその後問題が起きていない。それなら、学校の指導が有効だったということで、今さら何の問題もないではないか。もちろん、生徒がみな進路に向って頑張る3年生後半にもなって、問題行動を繰り返しているような場合は、当然推薦はできないという結論になるだろう。しかし、それは考える順番が逆で、機械的に判断するのではなく、推薦を希望する生徒をいったん「できるだけ皆を推薦する」という方向で考えて、「例外的に推薦できない生徒はいるか」と判断していくべき問題だろう。(3年になっても落ち着かない生徒は、そもそも推薦を申し出てこないだろうが。)

 以上に書いたことは、「机上の空論」ではない。僕が中学で進路指導を行ったのはもうだいぶ前(80年代)になるが、中学教員として、またその後の高校教員としても、「生活指導歴がある生徒」を上級学校や会社に推薦している。もちろん、どんな進路希望であれ、本人、親とともに面談して決めていくわけで、その中で学校の方針、進路指導、生活指導に従っていることが前提となる。そんな中で、1年の時に万引きがありますねなどと言うのだろうか。この学年は多分1年時を知らない主任や担任で構成されていたのだろうけど、3年時に頑張っていれば、それ以前のことなど持ち出さないものではないのだろうか。学校側の規定がどうであれ、「この生徒は推薦していいのではないか」と頑張るのが、担任や学年主任の仕事ではないかと思う。

 それとともに、学校で一番多くある問題行動は何だろう思う。小さないじめ、万引き、喫煙ではないかと思う。ところが、これらはいずれも「暗数」が多い行動である。つまり、学校側が認知できる数より、はるかに多くの万引きや喫煙が起こっているはずだということである。今回の万引きはコンビニだというが、個人商店などでは学校には通報しない事も多いに違いない。それに「万引きに成功したケース」は問題にならない。万引きに失敗して捕まったとしても、警察、家庭、学校のどこに連絡するかはさまざまだろう。全部学校に通報されるわけでもないのに、推薦不可などと言いだしたら、たまたま学校に通報された生徒だけが不利である。喫煙やいじめなども同様で、学校がたまたまうまく知ることができたケースのみ、生徒を不利に扱うことになってしまう。

 中学1年生と言えば、12歳か13歳。刑事責任は問われない年齢である。いくつかの小学校から集まって、中学生となる。初めはいろんなことがある。適応できなかったり、強弱の関係が作られたりする。そんな中で、遊戯的に、あるいは「パシリ」(親分子分関係で命令されて弱いものが万引きして貢ぐ)だったり、「障害」や「病気」が背景にあったり、家庭の貧困や虐待があったり…。万引きの原因もさまざまである。一律に「推薦不可」ということ自体が教育的配慮に欠けるように思うのである。

 ニュースでは「非行歴」と呼んでいる。だが、警察沙汰にもならず、ましてや家庭裁判所や児童相談所にも関わらないようなけケースではないか。これは「問題行動」でいいし、学校からすれば「生徒指導」の問題である。「指導」なんだから、今後は一緒にがんばろうということで終わる。反省文をたくさん書かされたりするのは、本人は「一種の懲罰」と受け取るかもしれないが、学校としてはあくまでも「指導」なのである。そういう時に、「これで君は高校への推薦はダメになったよ」と突き放すのか。それとも「今後、勉強や部活をみんなと一緒に頑張って、希望の進路を実現しよう。学校も応援するよ」と言うのか。前者のような対応をすれば「再犯」を後押しするようなものではないか。

 もちろん、学校推薦を行っても、成功する場合ばかりではない。高校も、大学も、会社も、うまくいかずに辞めてしまうことはたくさんある。だけど、「生活指導歴」があっても推薦をした生徒が、次の学校で問題行動を起こしてしまったということがあるだろうか。それほどないのではないか。(むしろ、在学中はおとなしかった子が…というケースを見聞きすることが多い。)人間はそれほど信頼を裏切れないものだ。たまに裏切られることもあるけれど、人間を相手にした仕事では「裏切られるのも仕事のうち」なんではないかと思う。
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教員養成に「発声練習」を-私の教師論④

2015年06月03日 23時17分48秒 |  〃 (教師論)
 教師という仕事は、どういう仕事なんだろうか。「勉強を教える」というのが、普通最初に思い浮かべることだろう。実際、教師の毎日はほとんど授業をすることで費やされている。だけど、実際の感覚としては、「人間関係の調整」とか「人間観察」に追われている感じがする。よほどの進学校は別なのかもしれないが、大体の人は授業中も「学習内容」と同じぐらい「生徒の観察」に気持ちが向かっていると思う。ところで、実はもう一つ、案外教師が気付いていない仕事の特徴がある。それは「朝から夕方までしゃべり続け」ということである。授業であれ、その他の指導であれ、他の仕事以上に「言語的伝達」の重要性が高い。タテマエとして、言葉による説得が一番大事とされているからである。

 人間は言語だけでなく、相当の割合で「非言語的コミュニケーション」によって情報を伝達している。もちろん教師も同じだけど、目や手振りだけでは授業できないし、「あれ」「それ」「おい」とかだけでクラス経営はできない。生徒に明示的に指示しないと伝わりにくいから、他の仕事以上に「言葉による説明」を行っているのではないか。こうして、朝からしゃべり通しということになる。これはあまり言われていないが、「一種の特殊技能」だと思う。教師以外の人が急に同じことをやっても、のどが枯れたり、自分で何を言ってるのか訳が分からなくなってくるらしい。ずっと生徒から見られているという環境も特殊だし。外部講師を頼むと、「授業慣れ」していない人からは大変だったと言われるのである。

 「困った先生」にはさまざまなタイプがあるが、生徒全員に慕われる人もいないだろうと同じく、生徒全員に不評な場合も少ない。だけど、学級担任に持ち込まれて困ってしまうのは、「何を言っているのか判らない先生」や「声が聞こえにくい先生」に対する苦情である。「厳しすぎる(怖くてみんな萎縮している)」とか「おとなしすぎる(うるさい生徒を注意できない)」というのもあるが、こういう不満の方が対処しやすい。(理由は自分で考えれば判るだろう。)しかし、「何を言ってるのか判らない」というのは確かに困る。言語不明瞭もあれば、あちこち話が飛び過ぎる人もある。講演なんかなら面白い話で脱線するのも技だろうが、マジメすぎるような(ジョークもノートするような)生徒もいるので、脱線もほどほどにしないと「判らない」と言われたりする。空き時間に廊下から様子うかがいに行くと、確かに判んないなあという時もあって、そういう時は苦労する。

 今は採用試験のときに「模擬授業」をしたりするところが多いから、さすがに若手の中には「声が後ろまで聞こえない」という教師は少ないのではないか。だけど、昔は結構いた。大量採用時代もあったし、元気な志望者は学生運動でもやってたかと見なされ、おとなしそうな人を高評価した時代があるのかもしれない。生徒が静かに聞けば聞こえるだろうと、「静かに聞いてないオマエラが悪いんじゃ」というのは自分でもヘリクツだと思うが、そういうしかない場合もあったように思う。そういう先生も含めて、教師は言語を駆使するものに必要なレッスンを受けてない場合が多い。朝から晩までしゃべってるアナウンサーや俳優は、当然話し方や発声に関する研修、講習を受けているだろう。教師だけが、話の中身の問題は研修するけれど、発声の方法より生徒に通じるような言語コミュニケーションのあり方などを研鑽する機会がほとんどないのである。

 70年代から80年代にかけて、自己の「身体性」に対する関心が非常に高まった時期がある。学生運動が表面的には「言語的反乱」から始まりつつも、運動の担い手そのものが「肉体的な解放」から遠かった。また、60年代末には音楽、演劇などを中心に「肉体の解放」を追求するような新しい表現革命が起こっていた。だから、運動退潮後に「自己の生活」「自己の身体」を徹底して見つめ直す試みがあちこちにあった。そういう中で自己形成してきたから、「学校」という場は「肉体のこわばりをもたらす場」だという感じは抜けない。教師自体が役割意識を身にまとって、「自由な身体」を生きていない。しかし、それではごく当たり前の生活指導も生徒に受け入れられない。いじめに対処するにも、生徒が「先生は注意しているが、それは役割としてタテマエを言ってるだけだ」というメタ・メッセージを教師の身体から読み取ってしまうのである。

 自分自身は声を出すことに苦労したことはない。大きな声を出すのも苦にならない。年とともにだんだん滑舌が悪くなってきたような気はするが、まあ声を出すことそのものはあまり考えたことがなかった。だから学生時代に竹内敏晴「ことばが劈(ひら)かれるとき」(思想の科学社、のちちくま文庫)には衝撃を受けた。その後、林竹二と組んだ定時制高校での授業なども注目してきた。「竹内レッスン」そのものに通ったことはないんだけれど、野口三千三さんの野口体操には直接通ったことがある。やはり教員が自己の身体が抑圧されているときには、生徒に正しいことを言っても、「タテマエ言ってるぞ」というメタ・メッセージとして伝わると思う。だから、教師の長時間労働などは本当に解消しないといけない。

 それと同時に、大学でもそうだし、教師になってからも「発声練習」などを含めた「演劇レッスン」をやった方がいいと思う。宿泊行事などで使える「ゲームの練習」なんかはあるけれど、ちゃんと自分の身体に向き合う訓練はしてない場合が多いと思う。では、どうすればいいかというと、自分で探して参加する道もあるが、まあ、せめて本を読むだけでも。先に挙げた竹内敏晴さんには、「教師のためのからだとことば考」(ちくま学芸文庫)という本もある。簡単に手に入るのは、平田オリザの新書、講談社現代新書から3冊出ているが、毎日の教員ライフに役立つヒントがいっぱいある(という読んだときの記憶があるけど。)また、鴻上尚史の「発声と身体のレッスン」(ちくま文庫)、「あなたの思いを伝える表現力のレッスン」(講談社文庫)も役立つだろう。今、身近にすぐ見つかったのは鴻上さんの2冊なので、画像を載せておきたい。とにかく、教師というのは「発声」と「身体」によって情報を伝達する仕事、一種の役者なんだということを意識しておくだけで、ずいぶん救われる時もあると思う。それにこういう本は「ワザ」として知っておくということがあるだろう。
 
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「教師の事務的ミス」という大問題-私の教師論③

2015年06月02日 23時17分17秒 |  〃 (教師論)
 「教師の失敗」とはどんなものだろうか。懲戒免職になるような教員は、いつの時代にも一定数いるだろうが、ほとんどの場合は「教育上の失敗」ではない。でも、学校では校長による研修が行われ、「個人情報の流出」「体罰」「わいせつ」「飲酒運転」などは、絶対に起こしてはならないなどと、何度も何度も何度も…言われる。一年間に10回以上になるんじゃないか。もちろん、「いやあ、初めて知った。大問題だ。これから絶対に気を付けよう」などと思う人はいない。はい、はい、はい…、同じことを何度も言わなくちゃいけない職業は大変ですねえ、まあ時間のムダだけど、内職しながら聞いてるふりはしてあげましょうと言うことになる。大体、「生徒の個人情報を管理職の承認なしに校外に持ち出してはいけないことを知っていましたか」とか聞いてるアンケートになんと答えたらいいんだろうね。

 しかし、まあ「知らなかった」に○をして提出してどうなるというもんでもない。入れ墨アンケートじゃないんだから、「こんなものには答えられない」「教育行政に抵抗するぞ」などと力んでみても仕方ない。面倒には違いないが、5分か10分あれば書けるんだから、すぐ書いて提出すればいいじゃないか。ところが、毎日の多忙に紛れて、抵抗してるわけでもないのに、提出しない人がいる。忘れてしまうのである。そして、毎日毎日、違った問題が起き、書類も机上に積み上げられていく。そして、提出を忘れている人は今日中に提出をなどと言われて、あわてて机上整理から始めて、違う報告書類も発掘され、かくして30分も1時間も時間が取られてしまう。ただでさえ多忙な仕事を自ら「より多忙」にしている。

 教師に限らず、「説明責任」が問われるようになり、インターネットの発達に伴い、「情報公開」のための書類作成に追われるようになった。また、業績評価が「成績主義」になり、自分の仕事のまとめ、アピール等の書類作成にも追われる。だから、「仕事における事務処理能力」の重要性は昔の比ではない。だけど、多分教員養成の中で「事務処理能力の養成」なんて、ほとんど行われていないのではないかと思う。授業のやり方、授業の中身は誰でも考える。でも、ワードによるテスト問題作成採点エクセルによる採点処理(例えば、200人分の中間、期末の点数、課題の点数等を仮に打ち込んで、総計点をソートして上位から並べるといった程度でいい)を教員養成でもやったほうがいい。そして、40人を担任しているとして、通知表の所見を書いてみる。それを行ったうえで、自己評価シートをワードで完成させる。部活や保護者対応がないから、これは現実の教員生活よりずっと楽。こういう現実の教員生活で行われる「事務処理」こそ、「教師の日常」の中核をなすものだ。

 「教師としてのミス」の大部分も、単なる「事務処理ミス」から起きていると思う。非常に重大ないじめ事件、体罰問題などは現実には非常に少ない。でも、「ミスするつもりは全くない」にもかかわらず、「つい、うっかり」生徒や保護者対応を誤ることは現実に相当ある。もちろん、自分もやった。そんなに多くないかもしれないが、何回かはある。生徒にプリントを渡し忘れる、配り忘れる。欠席生徒もいるし、いつ配布してもいいような行政から来たお知らせもいっぱいある。「保護者会の出欠、出してないぞ」「えっ、貰ってません」とか、「え、出したと思うけど…」と言うから探したら、確かに他の書類に紛れてたとか。「探したけど、確かに出してないよ」「いや、昨日出したはずだけど…」「もしかして、それ、進路希望調査と間違えてない?」と言うことで、生徒の方が勘違いしてることもある。(実際のやり取りは、こんな丁寧なものではないが。)そういうことが日常茶飯事なのが学校である。

 学校に提出する書類は、しょせん「校内処理」だからどうとでもなるけど、一番大変な問題は「進路に関わる事務的ミス」である。大学や私立高校に出す書類、会社に出す就職用書類。それらは「学校が作成する」「学校から郵送する」と言うものがけっこうある。その日付を間違うと、そもそも相手側に「門前払い」になることもある。期限が決まってるのに、教師の方がミスして、生徒が希望の進路へ進めないという深刻なケースもある。そんなにないと思うけど、ないとはいえない。その反対に、一度決まった進路を生徒や保護者の側でホゴにして、違う進路にしたいと言ってくるケースもある。まあ、それなりに理由があるから、むげに退けられない場合もある。そういうケースを見聞きしたこともあるが、自分もやりかけたことがもあるし、書類間違いをしたこともあるから、あまり他人のことを言えない。だけど、と思うんだけど、生徒の側ももっと教師に確認しておくべきではなかったか。僕の場合は、センセー、わたしの書類、そろそろ出来てる?と聞いてきたから、間違えずに済んだわけで。

 事務室に提出する書類も多い。でも、よく見ていると、年末調整の書類、出てませんよと言われるような教員は大体いつも同じではないのか。細かく調べないと出せない書類はともかく、すぐ書ける書類は「すぐに出す」。これは個人的なものも同じで、とにかく「どうでもいいこと」ほどさっさとやらないといけない。それだけは僕は自信がある。どの学校の事務担当者にも、何の迷惑もかけていないはずである。それは僕が几帳面だからではなく、まさに正反対で「自分がいい加減だと知っているからできること」なのである。実際、どんどん忘れていく。見つからない書類を探して机を書きまわすのはよくある。だから、すぐ出さないとなくしてしまうと自分で判っているのである。生徒関連だと、いろいろあるからすぐやりたくてもできないこともある。だから、どうするか。きわめて丹念なノートを書き続けているような教師もいるし、パソコンで処理している人もいるが、僕にはできない。やっても続かないし、どうせ読み返さない。「当面やるべきこと」を紙に書いて、机にペタペタ貼っておくなんていう方が簡単で忘れないような気がする。結局、好きでやることではなし、本末転倒になってはいけない。
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スーパーティーチャー志向を排すー私の教師論②

2015年05月31日 22時48分03秒 |  〃 (教師論)
 生徒をめぐる事件が起き、そのクラスの担任教師がいろいろと非難されるということが時たま起きる。担任の対応が不十分ではなかったのか、問題があったのではないかというわけである。そういう大変な事例に教師が遭遇する可能性はどのくらいあるだろうか。100人に1人が1%なんだから、0.00001%もないだろう。小中高全員で100万人近く教師がいて、数年に一人と言った具合だから、そんなものではないか。つまり、通常はそういう目には合わずに教師人生が終わる。だから、「普通の教師」は自分がそういう目に合わないように祈りながら、身をすくめて「世間の目」を生き延びようとする。ホントは言いたいこともいろいろあるんだけど。それが多くのケースで起きることである。

 学校をめぐる、あるいは教師をめぐる言説は相当にあるわけだが、学校現場から見てリアルで生き生きとした論議はほとんどない。特に大きな問題が起きた場合は、「自分が担任をしていたら防げていた」などと思えるケースはまずないから、自分のところで起きなくて良かったと安堵するのが通常である。そして、「あんなこと言われても自分ではやりきれない」と思いつつ、批判を恐れて口を閉ざしている。こうして、「失敗ケースをめぐって現場で議論する」機会は失われる。行政が中心になって「防止策」などを打ち出してくるが、調査と報告が多くなり、タテマエ上のマニュアルが整備されたことになり、当初は忙しくても実施されているが、やがて無理なことは続かないから忘れられていく。

 そういう時に思うことは、「世の中はスーパーティーチャーを求めているのだろうか」という思いである。時には「結果的に防げなかったのから、担任として失敗」などと決めつける人がいる。かつて教師をしていて、今は「教育評論家」などと名乗ってテレビや新聞でそんなコメントをする人もいる。他人の事をそれほど言えるんだから、「自分だったら防げていたと信じているんだろうか」と僕には非常に不思議である。多分、忘れているのかもしれない。自分もいっぱい失敗していたということを。具体的なケース抜きに議論していくのだが、僕には問題が起きた時のケースを(マスコミを通して)見聞きして、自分だったらどうしていただろうと思って、ほとんどの時は自分も同じようなことしかできなかっただろうと思うのである。それを非難できるんだから、僕には世の中は「スーパーティーチャーを求めているんだろうか」と思うわけである。でも、それでは今後に生きてこないし、有益な教訓にはならない。

 教師の大部分は、「学校と生徒を良くしようと思っている」だろうけど、同時に自分や家族の生活や健康、つみあがった事務処理書類、長い通勤時間などを抱えて、実際にやれることには限界がある。それに日常のさまざまな行事指導などが立て続けにあって、生活指導上の問題でじっくり生徒に向かい合う時間も取りにくい。そういう実際の学校を支えている「フツーの教師」でもできる対策を出して行かないと今後には生きないのである。でも、そういう風に発想すると、「反省が足りない」とまた非難されるかもしれない。どんなに大変な時でも、生徒が大変な状況の時には、何を置いても優先するべきだったと。確かに、後で振り返ると、あの時に違った対応をしていればと思うようなケースは、教師ならいくつも抱えているだろう。でもそれができない「現場の構造的理由」を問わずに、後から非難されても「スーパーティーチャ―」でもないと無理だよなあと思う。

 世の中には、一人の教師が何でも出来ちゃう、生徒を救っちゃうという学園ドラマがたくさんある。(その逆にひとりの教員が学校全体を狂わせてしまうという「アンチ・スーパーティーチャーもの」もかなりある。)ドラマのような学園ライフに憧れたかのような新採教員もたまにいて、自分の担当以外にも口を出してくるから迷惑するといったこともけっこうあるんじゃないか。でも、実際の学校には「スーパーティーチャー」はいないし、いたら迷惑するだけである。学校だって地方行政機構の一つで、法と条例によって設置されている。現実の日本にたくさんある「組織運営体の一つ」に過ぎない。教師一人でできることは限られているし、その程度の厚み、深さは持っている。そして、生徒や保護者もさまざまだから、ある教員が一生懸命やっても空回りするというのが、若い時の思い出だろう。

 今「スーパーティーチャー」の定義もちゃんとせずに議論しているのだが、今まで接してきた限りでは、ホントに凄いという人もまずいない代わりに、多くの教員は「部分的にはスーパー」というところもある。だから、そういう部分の技術は盗めるんだったら盗んでしまおうと思って見ていくと、その「スーパー性」がすべての生徒に受けているわけでもないことに気づくことが多い。ドラマではクラス全員、部活全員が心服しているように描かれているが、実際のクラスや部活には「不満派」がそこそこいる。大きな声で言えないから黙っているだけ。多分、これは学校だけでなく、会社やお店なんかでも「やり手」と言われる上司にはつきまとう問題なんだろうと思う。そして、不思議なことに、そういう「不満派」の生徒が相談できる教員がいることが多い。そして、それはスーパーどころか、何だか問題を抱えていそうな教師だったりすることがけっこうある。人間の世界は不思議なものだなあと、僕はそういうケースを見聞きするたびに思ってしまうのである。

 若い教員は決して、学校のスーパーヒーローみたいな教員を目指さないようにすべきだ。若いうえに、スポーツ抜群、歌もうまくて、教科の教え方も面白い、おまけにルックスもいいなんて、そんな人がいるわけないだろうと思うと、今は時々いるんじゃないかと思う。でも、そういう教員には「敬して、心は開かない」という生徒もいる。批判的に見る生徒がいることを忘れずに仕事しないといけない。学校が組織的に動く場面で、一生懸命下支えするつもりで仕事しないといけないと思う。教師は学校の一部分を担うことしかできない。学校や学年の方針、雰囲気などを抜きにして、個々の教員、担任一人が出来ることは限られる。学校に関する事件が起きた時も、そういう風に「スーパーティチャ―にしかできない」ことを求めない方がいい。「生徒の立場」などという人もいるけど、「生徒の立場」「親の立場」「教師の立場」などが対立する場面も、確かにないわけではない。でも、判断基準は「常識の立場」というものもあるはずだと思う。次は「事務的なミス」という問題を。
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「生徒と言う異文化」を前に-私の教師論①

2015年05月31日 00時12分02秒 |  〃 (教師論)
 「安保法制」について、あるいは「選挙制度改革」についてなど書きたいテーマは多いんだけど、それを始めると長くなるに決まってる。自分としては、6月は「教育」に関して書いてしまいたいと思う。それもまた、「教員免許」「アクティブ・ラーニング」「小学校の英語教育」(これは去年からの書き残し)など、いろいろ書きたいテーマは多い。都教委のさまざまの問題もあるし、そのうちまとめて書きたいと思う「中学の社会科教科書問題」もある。だけど、前から予告している「教師論」、特に自分の経験からくる「教師という存在」についての話を先に書いておきたい。そうしないと、書くときがないまま時間が経って、自分でも忘れてしまいそうだ。(なお、ここで言う「教師」とは、ほぼ地方公務員として小中高等に勤務する教員を指して言っている。)

 「教師論」というか、「教師のあり方」、それを大上段から論じる本や新人教員向けのマニュアル的な本はかなり存在する。でも、僕はそういう本を(ある程度は役立つ時もあるとは思うけど)、あんまり納得できたことがないし、役に立たないと思ってる。また、もちろん教育行政が繰り返し行う「初任者研修」など、ほとんど役に立たない。当たり前だろう。「目の前の生徒」は一人ひとり違い、学校ごと、学年ごと、クラスごとに課題は違う。それらの違いを理解して、少しづつ「自分なり」のやり方を見つけるには、自分で考えて、自分で工夫して、自分で「失敗」することを繰り返すしかない。だけど、「自分では考えない」教員作りを行政は進めるし、「失敗」こそ「成功の母」だからと言って、目の前にいる生徒を教えるのは「一回きり」なんだから、失敗しては申し訳ない。苦情も来るかもしれない。そう考えると、「うまく失敗する」ことができない。これが若い時の非常に大きい苦労だと僕は思う。

 教師といっても、もちろん「ベースとしてはただの人」である。だけど、世の中全体からすると、けっこう「不思議な集団」である。例えば、教師は全員大学卒である。だから、学校というところは、多少の例外はあるにせよ、ほぼ大卒者が占めている。これは当たり前だが、世の中にあまりない職場だと思う。では、職員室には「知的ムード」があふれているかというと、普通そういう学校はまずないだろう。忙し過ぎて、ニュースについて語り合う時間もない。大学を出てるからと言って「研究者」じゃないんだし、「ただの人」なんだから。でも、はっきりしているのは、ほとんどすべての教師は「勉強のできる生徒」だっただろうということである。もちろん「ものすごく勉強ができる生徒」だったら、医者や弁護士や中央官僚になっているのかもしれない。あるいは、母校に残って大学の教員になるとか。だけども、勉強が好きでないなら、基本的に毎日授業すると判ってる職業に就くわけがない。採用試験に受かるわけもない。

 何が言いたいかというと、教師は「勉強ができない生徒」が判らないということである。頑張れとか、自分で考えろとか、やればできるとか、教師はよく言う。言われると言われた方も何となくそんな気になってしまう。でも、ホントにできなくて苦労している生徒の事が理解できているんだろうか。目標が持てなくて頑張れないのか、学習障害などが潜んでいるのか、家庭環境が大変なのか。もちろんそういうことはある程度判ってくるもんだけど、最後の最後のところでよく判らない部分が残る。少なくとも僕にはそういうことが多かったと思う。もちろん、教師が生徒一人ひとりの事を完全に理解できるなんて思っているわけではない。「ただの人」がやってる「ただの仕事」であるわけで、教師は「千手観音」ではない。全ての生徒を自分が救えるなどと思うのは「思い上がり」である。でも、ここで言いたいのはそういうことではなく、自分が担当する「生徒という異文化」に立ちすくむ時があるということである。

 家庭環境も違うし、文化的背景も違う。生徒と教師は初めから、かなり大きな違いがある場合が多い。年齢も違うわけだが、これはどんどん違っていく。最初は親や管理職より、生徒との年齢差の方が近い。それだけで、生徒から評価される時期がある。だんだん親の年齢の方が近くなり、やがて何十年もすれば親の年齢も追い越してしまう。そういう「生徒」をどう理解するか、できるか。それが教師のベースだと僕は思う。そして、「要するに人間どうし」であって、「問題生徒」であれ「外国人生徒」(日本語で意思疎通ができにくい「ニューカマー」の事を指している)であれ、通じるものは通じる。卒業して何年、何十年と連絡がある生徒も出来てくる。そういう生徒だけピックアップすれば、「素晴らしい教師人生」のように語れることも多いだろう。でも、僕にとっては、最後までよく判らない部分が残って卒業させた(あるいは高校では中途退学していった)何人もの生徒像こそ、僕にとって「教師という仕事」を語る時に最初に思い浮かべるものなのである。
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「共苦の共同体」を超えて-教員多忙問題③

2014年08月28日 23時50分51秒 |  〃 (教師論)
 教育に関するニュースがあると、大体新聞を切り抜いておくことにしている。(歴史ニュースや書評、映画評、訃報などの切り抜きも何十年分かあると思う。)最近書いている文科省の教員調査やOECDの中学教員調査も、そういう新聞切り抜きをもとにしている。別に目新しい結果でもなかったから、特に急いで書く必要もないなと思った。本当は佐世保の事件に関して、「いのちの教育」について書きたいと思ったのである。それがどうして「教員多忙問題」を先に書いているかというと、「教育現場にはこういう問題がある」ということを判っていないで、「いのちの教育は生かされたのか」などと議論するのはおかしいと思うからである。今、教育論議にまず必要なのは「教室の現象学」ではないかと思う。

 さて、「長時間のボランティア労働」を強いられている教師は、学校や生徒についてどのように思うようになるだろうか。当然のこととして、「自分はこれだけ(無償で)頑張っているのだから、生徒も教師の頑張りにこたえて欲しい。頑張ってついてきて欲しい」と思うだろう。たとえば、学校施設を使って朝早くから部活動を行う時には、もちろん責任者の顧問がいなければならない。だから顧問は早起きして学校に来たのに、部員がサボっていたらどう思うだろうか。しかし、そんなことは生徒の側ももちろん判っているから、生徒だって頑張って朝早くから来るのが普通である。こうしてお互いにホンネとしては辛いと思いつつ、「お互いに大変なことを自分たちに課して、それを一緒に乗り越える」ことが目標となってしまう。自らの「無償労働」の対価として、生徒の「無償の評価」を求めるのである。

 僕はこのような、日本の教育の本質的なありかたを「共苦の共同体」と名付けている。「一緒に苦しむ」の内容が「体罰」に至ってしまう教師もいる。そのような学校空間に居場所を見つけられず、「不登校」として「学校社会を下りる」ことで苦しむ生徒もいる。「体罰教師」と「不登校」は、普通は全く別の問題と見なされがちだが、本来は「共苦の共同体」としての学校というメダルの裏表ではないか。それどころか、日本の教育というのは、「小学校のお受験」から「大学生の就活」まで、苦しむ内容と相手は少しづつ変わりながらも、ずっと「何かよく判らないものに、誰かと一緒に耐えていく」という体験なのではないか。そして、それを「大人になるために必要なイニシエーション」と考えているのが日本社会の「世間知」ではないかと思う。

 この「生徒に無償の評価を求めてしまう」という罠を逃れている教師はほとんどいないと思う。もしいるとすれば、生徒に影響を持っていない教師だけである。部活動は複雑な問題をはらんでいるので、ちょっと別に考えたいが、近年になって非常に「苦しい共同体験」になっているのが「進路指導」だろう。「就職氷河期」と言われてきた労働市場はいくらか明るさが見えてきたと思うが、20世紀末からつい近年まで、とにかく毎年毎年大変なこと続きだった。受けても受けても落ちる生徒もいるわけで、「一緒に苦しむ教員」の心労も大きかった。また大学の推薦入学制度が非常に複雑になったので、学校見学から小論文指導、面接練習など教師の方も生徒に無理とも思える要求を繰り返し、一緒に苦難を乗り越えていくという感じになっている。結果が出る日は、教師もドキドキして報告を待つわけである。

 でも進路指導は、まあ相手の要求に応えるしかないので、ある意味ではまだ楽とも言える。大変なのは、必ずしもうまく行っていないクラスの担任として学校行事を迎えるような時である。うまく行くのか行かないのか、当日までハラハラしながら、協力してくれる生徒たちとともに最後までジタバタする。うまく行っている他クラスもあるというのに、「うち」はちゃんとできるんだろうか。こういう時の担任のプレッシャーはとても大きく、だからこそそういう時に一緒に頑張ってくれる生徒(は必ず何人かはいる)の存在はとても大きい。「無償の労働」には無償でこたえてくれる生徒もいるわけで、それが教師が「自分の労働の無償性」に無自覚になる原因にもなっている。とにかく、よほど恵まれている学校に勤務している少数の教師を別にすれば、問題生徒や保護者対応には細心の注意がいるわけで、教員生活が苦しい日々の連続になっている場合がかなり多いのではないか。

 学校行事や部活動、進路指導などで培われる「共苦の共同体としての学校」は、「日本社会の中で生きていく時に役立つ力」を育てる面は否定できないと思う。だから、全面的に否定することはできないし、しても意味はない。でも、「それでいいんだろうか」「もっと違う学びのあり方はないのだろうか」と問うことは大切なのではないだろうか。今は学校にいる間はずっと苦しいこと続きで、「頑張っているいい子」もどこかで切れてしまいやすい。切れずに就活まで頑張っても、そこで「学び」が終わってしまう。あるいは大学入学時に終わってしまう人もいる。つまり、「オトナが学ばない社会」になってしまっている。都議会のヤジ問題や「アイヌ民族はもういない」とツイートした札幌市議など、その問題をきちんと学ばずに発言しているのである。むしろ、深く学ばずに俗論を言えるのが「オトナの証」だとでも考えているのではないか。そういう社会を作ってしまったことを、教育関係者は深く反省する必要があるだろう。小中高と学びを深め、大学で専門領域を学んで、そこで身に付けた「学ぶことの方法」を駆使して大人になっても自分なりに学び続けて行く。そういうリーダーが育っていないのは、日本の教育の現状のあり方に原因があるのではないか。単に「教師の長時間労働は良くない」というレベルより、もっと深い問題性があるのだと考えている。

 では長時間労働はどうすればいいのか、さらに学校のあり方はどうあるべきか、部活動のあり方は…などどんどん話は広がって行くが、ちょっと間をはさんで来月に続けていきたい。そして、若い教員に期待するもの、人権教育のあり方、学校行事の話など、映画や本の話をはさみながら、日本の学校論として考えてみたいと思う。
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人権被害者としての教師-教員多忙問題②

2014年08月27日 21時27分53秒 |  〃 (教師論)
 「教員多忙問題」にはどのような弊害があるのだろうか
 教材研究がおろそかになる。雑務に追われて生徒との関わりが薄くなる。生徒の問題対応に時間を取られて、それ以外の生徒へ目が向かなくなる。朝から夜まで部活動に時間を取られて、教師の生活が成り立たなくなり新聞も読まないようになる。まあ、そういうようなことを次々と挙げられる。

 いちいちもっともで、確かにそういうケースは存在する。昔はきっと持ってたはずの知的な好奇心が摩耗してしまった教員も何人かは存在するし、そういう教師に教わる生徒は大変だろうなと同情する。(しかし、何事も「反面教師」なのであって、そういう教師の存在によってこそ自分が大きく成長できてきたとも思う。「生徒が大変」だというのは、生徒が教師のレベルに合わせて知的な好奇心を見せないようにするのが大変だと思うのである。)大きな教育問題がニュースになるような時に、外部の人から「学校現場では先生方はどう思っていますか」などと聞かれたことがあるが、「学校現場」でニュースをめぐって喧々諤々と議論をするゆとりと知的関心が今の学校にあると思っているのか、むしろそっちの方にビックリせざるを得なかった。そんなものはもうずいぶん昔の話だろう。

 いくら4%の教職加算があるとはいえ、それに当たる時間の何倍もの長時間労働をこなして、それに対する金銭的(あるいは時間的)補償がないというのは、「サービス残業」とか「ボランティア」などと言って済ませていい問題ではないだろう。はっきり言えば、教育現場の「ブラック企業化」であり、教師は被害者なのである。労働者としての権利を侵害されている当事者なのである。しかし、そう認識している教員はごく少数だろう。それはどうしてだろうか。

 ところで、「いじめ」問題は、ここ何十年かずっと教育現場で大きな問題となってきているが、「教師は学校内のいじめを解決できるのか」と問われることが多い。教師はプロの教育者として、「いじめの兆候を見つける」とか「いじめの当事者に介入して、いじめ行動を止める」という能力があるべきだと思われているらしい。しかし、教師ははたしてそんな能力を持っているのだろうか。あるいは、教育行政は教師の「いじめ解決力」を育てようと考えているのだろうか。

 なぜなら、「いじめ問題」を感知する能力というのは、要するに「人権センサーの感知度をアップする」ということだと思うが、教師の長時間労働はそのセンサーを鈍くする方向に働くからである。それどころか、教師の「人権センサー」能力がアップすれば、生徒のいじめの前に、まず「自分たちが人権侵害の当事者ではないか」ということに気づくはずである。今の学校現場は、教師は自分が「教育行政の使い走り」をさせられながら、いやそれは自分の考えでやっているんですと言ってる状況である。自分がいじめられている当事者という認識がない。生徒のいじめ事件でも似たような構図はよく見ることができる。強いものの意向に自ら寄り添っていて、弱い生徒の話を聞いてもいじめではないと否定するのである。今の教員の多くも、似たような状態にある。こういう教師に「いじめを感知する能力」を求めるのは、間違いであり酷でもある。社会の側で「ないものねだり」をしているのである。

 日本の教師は、労働者としても、また教育専門職としても、多くの権利を否定されている。日本が国際人権規約を批准するにあたって、日本政府はいくつかの項目で「留保」を付けている。その代表が「公務員のストライキ権」である。先進諸外国なら認められているスト権がないということは、国際的な人権問題なのである。(長く留保とされていた「中等教育の無償化」に関しては、民主党政権下で留保の撤回が通告された。(「経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)第13条2(b)及び(c)の規定に係る留保の撤回(国連への通告)について」)

 またユネスコ(国連教育科学文化機関)による「教員の地位に関する勧告」をみると、日本の教員がいかに教育専門職としての尊厳を奪われて来ているかがよくわかる。たとえば、「教員免許更新制」もユネスコ勧告違反であると思われるし、授業で使う教科書を教師が選べない(あるいは選びにくい)現状もユネスコ勧告違反である。しかし、今は長時間労働を問題にしているので、労働時間に関するところを見てみたい。
労働時間
89 教員が一日あたり、および一週あたり労働することを要求される時間は、教員団体と協議して定められなければならない。
90 授業時間を決定するにあたっては、教員の労働負担に関係するつぎのようなすべての要因を考慮に入れなければならない。
(a) 教員が一日あたり、一週あたりに教えることを要求される生徒数
(b) 授業の十分な立案と準備ならびに評価のために要する時間
(c) 各日に教えるようにわりあてられる異なる科目の数
(d) 研究、正課活動、課外活動、監督任務および生徒のカウンセリングなどへ参加するために要する時間
(e) 教員が生徒の進歩について父母に報告し、相談することのできる時間をとることが望ましいということ
91 教員は現職教育の課程に参加するために必要な時間を与えられなければならない。
92 課外活動への参加が教員の過重負担となってはならず、また教員の本務の達成を妨げるものであってはならない
93 学級での授業に追加される特別な教育的責任を課せられる教員は、それに応じて通常の授業時間を短縮されなければならない

 これを読めば、日本の教員の長時間労働というのは、国際的な人権問題だということがよく判るのではないか。本来、授業準備も親への連絡も生徒のカウンセリングも課外活動への参加も、皆労働時間に中に入っていなければおかしいのである。これだけ自分たちの教育者としての権利を侵害されて来ていれば、教員としての誇りが失われ、「自信」が世界最低になるというのも当然だろう。

 これらの事態は、おそらく「教育政策の結果」である部分が大きいと思う。むろん、教育に関わる様々の利害関係者の要望が複雑に絡まり、いつの間にか誰にも止められない状況になっているというものもあると思う。部活動に関する問題などはそうかもしれない。しかし、教科書選定を現場教員から遠ざけるなどというのは、紛れもなく教育政策の目指してきたものである。つまり、日本の教育行政は、教師の尊厳を剥奪し、教師の「人権センサー」をなまらせる政策を続けてきた。教師の長時間労働という実態は、今までの教育行政の行き着いたものだと考えられる。となると、教師の側も事態をよく認識し、自己防衛策を取らないと、自分の生活を破壊されるだけでなく、自分の人権感覚が知らず知らずのうちにマヒしてしまうという恐るべき状態になる。防衛策の前に、この「長時間労働ボランティア」が日本の教育や社会全般に何をもたらしているかを考えてみたい。
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教員多忙問題①

2014年08月25日 23時58分24秒 |  〃 (教師論)
 ちょっと前になるが、6月25日にOECD(経済協力開発機構)が中学教員の勤務環境に関する国際調査結果を発表したというニュースがあった。その結果によると、日本の教員は指導への自信が参加国中で一番低いにもかかわらず、勤務時間は最も長かった。この勤務時間の長さは予想されたことだけど、数字で見ると週当たり53.9時間となり、異常ぶりが際立っている。2位のカナダ・アルバータ州が48.2時間、3位のシンガポールが47.6時間、4位のイングランドが45.9時間…といった具合である。平均は38.3時間となるというから、日本の異常さはダントツとしか言いようがない。この深刻な実態をどう考えるか、数回にわたって考えておきたい。これが実は一番重要な教育問題であって、他の様々な問題はすべてここから派生しているとさえ言えるのではないか。

 まず、タテマエを書いておかないといけないが、これは実は「超過勤務」ではない。「超過勤務」というのは、雇われて契約関係のもとで働く労働者が勤務時間内で終わらない仕事を、上司に命じられて時間後に労働する(その代り超過勤務手当をもらう)というものだろう。だけど、教員の場合、「校長の命令」もない」し、「超勤手当(残業手当)」もない。生徒の中には、遅くまで働いて残業手当がすごいでしょなどと知ったかぶりでからかう者が時々いる。しかし、いくら遅くまで残業していても、受給金額は(通常は)変わらない。

 今カッコ内に(通常)と書いたけど、これは意味がある。あの2011年3月11日、電車はすべて停まり生徒ともに朝まで学校内で待機せざるを得なかったが、その間も交代で見回りや警備、保護者対応、外部からの来訪者対応などを行っている。この時は、その時の手当が後ほど支給された。その他、生徒指導で遅くなった場合や休日の部活指導などでは手当が出る場合もある。しかし、原則として、教師には「時間外勤務手当」はない。その代り、全員に「教職調整額」が4%加算されているのである。

 文科省内のサイトに「教職調整額の経緯等について」があるので、その問題の経緯はそれで判る。1971年に「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」(給特法)が成立して、この4%加算が決まった。何で4%かというと、当時の小中の勤務実態を調べたところ、小学校は1時間20分、中学校は2時間30分、平均1時間48分だったという。これを夏休み4週、年末年始2週、学年末始2週の長期休業時8週分を除く年間44週ずっと上記の時間に超勤したとして、超勤手当を払うとすれば4%になるというのである。

 一方、特に校長が超過勤務を命じることができる場合もあって、それを「超勤4項目」という。
イ 校外実習その他生徒の実習に関する業務
ロ 修学旅行その他学校の行事に関する業務
ハ 職員会議(設置者の定めるところにより学校に置かれるものをいう。)に関する業務
ニ 非常災害の場合、児童又は生徒の指導に関し緊急の措置を必要とする場合その他やむを得ない場合に必要な業務

 あれ、「部活動指導」はないのか。そう、ないのである。「教材研究」もない「生活指導」さえない。しかし、部活や行事ならまだしも、クラスの生徒が問題行動を起こした時に担任が帰るということは事実上できないだろう。(また部活も終わり、雑務も処理して帰ろうかという時に限って、生徒がタバコを吸っているとか万引きした生徒を捕まえているなどの電話がかかってくるのである。)

 そうすると、部活で遅くなるというのはどういうことか。生徒の提出物を見たり、明日の教材を作っていたりして遅くなるというのはどういうことか。校長は残業を命じていない(命じられるケースではない)ので、「教師が勝手に残っている」のである。(まあ、ボランティアというか、サービス残業というか。)何でそんなことをするのだろうか。生徒や親との関係、勤務成績をよくするなどの目的もあるかもしれないけど、一番大きいのは「職人的感性」ではないかと思う。労働者というより、「自分で納得できるような教材を作るためなら時間は二の次」といった感性である。もちろん、自分にもそういう部分はあったから、納得できるものを仕上げるまで大分残ったこともある。(一番遅くまでいたのは、中学の学年主任として進路説明会資料を作っていた時で、夜の10時半になってしまったので警備員(がいた時代)に呆れられた。)

 朝日新聞6月26日付の紙面には「朝練、授業、生徒会…学校に15時間半」という記事が掲載されている。私立を経て、千葉県の公立中に勤務する7年目の女性40歳。国語、2年担任、ソフトテニス部顧問。朝はほぼ6時40分に出勤、7時20分から朝練、授業、給食指導、生徒会指導、放課後の部活指導、7時に長欠の親と生徒が来た、その後提出物の点検等を続けて10時過ぎまで残っていた。このケースなど、外部から見れば想像を接した勤務実態というしかないと思う。この学校の管理職は何をしているんだと思う。職員の健康管理も管理職の重大な任務だろう。本人も善意と頑張りの人なんだと思う。朝練と午後錬と両方きちんと出ているのは立派だけど、無理なことは無理という方がいい。提出物に全員返信するというのも無理である。というか、「毎日提出させる生活ノート」そのものがいらない。むしろ中二ともなれば止めた方がいい。教師に毎日生活を報告するようでは成長できない。担任にたいして「秘密」が出てくる年代で、僕の時代にもあったけど中学2年になったらどんなに怒られても提出しなくなった。このような「過剰な学校囲い込み」がますます仕事量を増やしていくのである。

 以上の事例を見ても、教育現場の実情は、今までのタテマエではもはや処理が不可能というべきだろう。20世紀のころは、「夏休みさえあれば」「職場のまとまりさえあれば」、皆で何とか頑張ろうということも不可能ではなかった。どっちもなくなり、ただ多忙の中にいるなら、「いつか切れてしまう」という「バーンアウト」(燃え尽き)が起きるに違いない。前回書いた「教員の大量退職」は、教師のバーンアウトがついに大量に起こり始めたことを示すのではないか
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