goo blog サービス終了のお知らせ 

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

朝比奈なを「ルポ教育困難校」を読む

2021年04月26日 22時12分24秒 |  〃 (教師論)
 「教員という仕事」に続いて、朝比奈なをルポ教育困難校」の紹介。朝日新書から2019年7月に刊行された本だが、その時は買わなかった。忘れていたんだけど、当時本屋で見てちょっと気がひかれた記憶がある。でも買わなかった理由は、読んでみて思い当たった。

 教員経験者の中には同じように思う人も多いだろうが、読んでいて辛いのである。自分も似たような経験をし、もっと上手く出来たのではないかと後悔も浮かんでくる。もっと率直に書けば「あの頃の恐怖」「あの時のふがいなさ」が思い出されてトラウマがよみがえる。きっとそういう本だと思って避けたのである。そして実際にそういう本だった。

 朝比奈氏が最初に赴任した高校が「教育困難校」だった。その後「進学高校」も経験したようだが、最初の驚きを問題意識として持ち続けた。「教育困難校」とは著者の言葉で、一般によく「底辺校」と言われる高校のことだ。ここで取り上げられるのは「全日制普通科高校で入学に必要な学力が地域最低クラス」で「不本意入学生徒」の多い学校を指している。

 「職業高校」(商業、工業、農業、水産、家庭等)も「偏差値」的には高くない学校が多いが、中には目的意識の高い生徒もいる。資格取得や検定試験等にマジメに取り組むと、良い就職先が見つかることが(少なくとも20世紀には)多かった。「夜間定時制高校」は倍率が1倍にならないことが多く、公立高校では全員合格になる。従って「合格偏差値」を出すことが無意味。「底辺校」にも入らない「ランク外」である。また東京に多い「多部制定時制高校」も同様。

 目次を紹介するのが手っ取り早い。章と節だけ。
第1章 「教育困難校」とはどのような高校か
  1 高校入試は、多くの人にとって人生最初の試練である 2 「教育困難校」とは何か
第2章 「教育困難校」に通う生徒たち
  1 「教育困難校」の日常 2 「教育困難校」の典型的な授業風景 3 生徒の学力や意欲はどのようなものか 4 定期試験にも独特の慣習が存在する 5 「教育困難校」の生徒たちの類型を考える 6 「教育困難校」の生徒たちの家庭環境
第3章 「教育困難校」の教員たち
  1 「教育困難校」特有の忙しさの原因 2 「教育困難校」教員が陥る心性
第4章 「教育困難校」の進路指導
  1 高校は学力により進路指導も全く異なる 2 教育情報産業から見た「教育困難校」の進路指導の変遷 3 「教育困難校」で実際に行われている進路指導
第5章 脱「教育困難校」を目指して
   先駆的な脱「教育困難校」改革の動き
第6章 それでも「教育困難校」は必要である
  1 「教育困難校」の存在意義 2 「教育困難校」の将来のために、今、必要なもの 
  
 いやいや、「オールアバウト教育困難校」という感じの本である。必要な情報は大体書かれている。例えば生徒の類型を挙げておく。①荒れた行動を取る「ヤンキー」タイプ、②コミュニケーション能力や学習能力に困難さがあるタイプ、③不登校を経験したタイプ、④急増する外国にルーツを持つタイプ、⑤不本意入学をしてきたタイプ 以上5つである。

 それぞれ詳しく分析されるが、それは本書を読んで欲しい。自分はここで取り上げられた「教育困難校」は経験していない。しかし、80年代に「荒れた中学」と「再建」を経験した。90年代以後は商業高校夜間定時制高校三部制総合学科定時制(チャレンジスクール)で勤務した。だから「荒れたタイプ」や「発達障害」「不登校」生徒は数多く経験した。また「外国ルーツ」の生徒も何人もいた。だから書かれていることが生々しく眼前に浮かび上がって来て困った。

 最初に出てくるが、朝比奈先生には「後悔を伴って忘れられない言葉が2つある」。1つ目は「先生はなんで私のことにそんなに一生懸命になるの?」である。著者は「生徒の面倒を見るのは当たり前じゃない」と冗談めかして答えてしまった。今なら「あなたが大切だから。あなたは素晴らしい存在だから」と言えば良かったと書いているが、それはちょっと出て来ないだろう。

 もう1つは「先生、いくら勉強してもわかんない人っているんだよ。先生にはわかんないと思うけどさ」である。これを言われたら多くの教員は口ごもるしかないだろう。家庭の経済的困難発達障害親の病気(ヤング・ケアラー)など、「出来ない子」は多くの困難を背負っている。教員は大体が進学高校出身だし、勉強が嫌いな人が教える立場になるわけがない。超有名大学希望生徒を教えるのも大変だろうが、多くの教員は「教育困難校」に配置されてカルチャーショックを受ける。そして中には心身を病んだりする人もいるのである。

 ただし、僕はそういう言葉に当意即妙の返答をしなくてもいいんじゃないかと思う。そんなことはなかなか出来ない。でも人間は「言語コミュニケーション」だけでわかり合うのではない。むしろ「非言語的コミュニケーション」の役割の方が大きい時もある。教員が逃げているのか、それとも「よく言えないけど、なんだか誠実に対応しているか」は非言語的に伝わるのではないか。だから教員は「楽しそうに授業する」のが大事だと思う。

 全部書いても仕方ないので、是非読んで考えて欲しいと思う。高校や中学の教員もだが、教育官僚や各界のリーダー層に考えて欲しい本だ。何しろ高校生でアルファベットも書けない生徒に、アクティブラーニングと言われているのである。小学生から英語をやるということは、今まで以上に英語の学力格差が生じるということだ。判っているのかな。

 しかし、「教育困難校」は必要であるという終章の指摘は重い。そんな高校は要らないというなら、その生徒たちをどうすればいいのか。今さら中卒生徒を日本の企業が雇ってくれるのか。不本意だけど高校へ入る生徒と誰かが格闘しなくてはならない。日本社会の「後衛」として闘っている教員たちがいるのだ。それにしても、その教員集団の「分断」に心痛む。飲み会に出ないと何を言われるか怖いから、毎回飲み会に出るという話があった。大変な職場になればなるほど、あの人の授業、あの人の生徒指導がいつも…と言い出す人がいるものだ。それを克服する職場の連帯をどうやって作っていったらいいのだろうか。

 著者朝比奈なをさんの名を冠したタイトルを2回書いたけど、名前で読む人はほとんどいないと思う。僕もそうだったが、大事な視点で書かれた教育書だから著者の名前を覚えておきたいと思うのである。今後も注目して読んでみるために。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝比奈なを「教員という仕事」を読む

2021年04月25日 23時02分01秒 |  〃 (教師論)
 朝日新書から朝比奈なを教員という仕事」が出ている。2020年11月30日付で、年末に買っておいた本をちょっと前に読んだ。著者を知らなかったのだが、公立高校教員を約20年間勤めた後で、幅広く教育問題に関する文筆、講演活動を行っている。同じ朝日新書に「ルポ教育困難校」という本もある。読んでなかったので、この機会に読んでみたので続けて紹介したい。

 著者は他にも「見捨てられた高校生たち」「高大接続の現実」「置き去りにされた高校生たち」(いずれも学事出版)という本も書いている。教育に関する本はいくらもあるが、「教員のリアル」に迫る本は少ない。書名を見て感じるのは、朝比奈氏の実体験も反映させながら、様々な取材を重ねて学校現場で現実に起こっていることを伝えているということだ。

 コロナ禍でますます多忙が増す学校現場の中で、著者は「教員が直面している最大の問題は、長時間労働を余儀なくさせるほどの仕事量にある」と書いている。そして「『教育改革』という名の下、ここ20年間で矢継ぎ早に学校現場へと強制された変化に対応するための仕事が大半を占める。」「そして、あまり知られていないが、この間には『教員改革』も推し進められている。『教育改革』と『教員改革』の相乗作用で業務が増え、教員は疲弊し、教員集団の変質・変容も生じているのだ。」と「はじめに」の中で書かれている。

 この本は主に「教員改革」を取り上げている。著者は「『教員改革』によって教員の同質化が起こり、ある種の『ムラ社会』化が進んだと見ている。もちろん、日本人や日本社会の変質も影響しているが、それ以上に、ある一定のタイプの人間を教員にしたい既に教員になった人を一定のタイプにたわめたいという意図を持つ改革を進めたことが大きな原因だと考える」と書く。

 この指摘はある程度長く教員をしていた人にはよく判ることだ。しかし、一般的にはほとんど指摘されない。「教員の多忙」というと「学習指導要領」の変更なども少しは書かれるが、大体は「役所へ出す調査が多い」とか「部活動が大変」とか、そういう話が多い。それも事実だが、昔からそうだった。渦中にいる教員にとって、本当に大変なのは「既に教員になった人を一定のタイプにたわめたいという意図を持つ改革」が進められてきたことだ。

 そこが類書と違う点で、僕も大変納得できた点だ。本書の節の名を少し挙げると「非正規の教員がいなければ学校はまわらない」「正規・非正規が教員の分断を生む」「教員の上下関係が作られている」「評価が上限関係をさらに強める」「精神的ストレスが引き起こす大量の休職」などと続いている。特に「教員の上下関係」、つまり管理職以外はフラットな「教諭」だったものが、同じく生徒に教科を教える仕事ながら、主幹主任などと「身分差」が作られていったことが教員集団の分断にとって決定的だったと思う。

 しかし、「教員集団の分断」は結果において起こったことではなく、自民党政府の目的そのものだったと思われる。学校現場は日々の多忙に取り紛れて、ほとんど何の抵抗もできずに「分断」されてしまった。この本には第5章で5人の教員、元教員のインタビューが収められている。それが非常に面白いのだが、その中では若い教員が同じ学校の主任などを「上司」と呼ぶようになっている。校長はともかくとしても、学年主任などは「先輩教員」であるとしても、「上司と部下」なんて思ったことは僕はなかった。生徒を教える立場として同等だと教わったものだ。

 全部書いていると終わらないから止めるが、学校現場の変容を知るためには是非読んで見ておくべき本。最後に「教員・学校の将来のために」と題された章がある。「チーム学校」「校務分掌の見直し」「改革の最大のキーマンは管理職」などとあるが、僕は必ずしも同意しないものもある。しかし、とにかく教員のリアルを考えるヒントとして役に立つ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教員養成に「発声練習」を-私の教師論④

2015年06月03日 23時17分48秒 |  〃 (教師論)
 教師という仕事は、どういう仕事なんだろうか。「勉強を教える」というのが、普通最初に思い浮かべることだろう。実際、教師の毎日はほとんど授業をすることで費やされている。だけど、実際の感覚としては、「人間関係の調整」とか「人間観察」に追われている感じがする。よほどの進学校は別なのかもしれないが、大体の人は授業中も「学習内容」と同じぐらい「生徒の観察」に気持ちが向かっていると思う。ところで、実はもう一つ、案外教師が気付いていない仕事の特徴がある。それは「朝から夕方までしゃべり続け」ということである。授業であれ、その他の指導であれ、他の仕事以上に「言語的伝達」の重要性が高い。タテマエとして、言葉による説得が一番大事とされているからである。

 人間は言語だけでなく、相当の割合で「非言語的コミュニケーション」によって情報を伝達している。もちろん教師も同じだけど、目や手振りだけでは授業できないし、「あれ」「それ」「おい」とかだけでクラス経営はできない。生徒に明示的に指示しないと伝わりにくいから、他の仕事以上に「言葉による説明」を行っているのではないか。こうして、朝からしゃべり通しということになる。これはあまり言われていないが、「一種の特殊技能」だと思う。教師以外の人が急に同じことをやっても、のどが枯れたり、自分で何を言ってるのか訳が分からなくなってくるらしい。ずっと生徒から見られているという環境も特殊だし。外部講師を頼むと、「授業慣れ」していない人からは大変だったと言われるのである。

 「困った先生」にはさまざまなタイプがあるが、生徒全員に慕われる人もいないだろうと同じく、生徒全員に不評な場合も少ない。だけど、学級担任に持ち込まれて困ってしまうのは、「何を言っているのか判らない先生」や「声が聞こえにくい先生」に対する苦情である。「厳しすぎる(怖くてみんな萎縮している)」とか「おとなしすぎる(うるさい生徒を注意できない)」というのもあるが、こういう不満の方が対処しやすい。(理由は自分で考えれば判るだろう。)しかし、「何を言ってるのか判らない」というのは確かに困る。言語不明瞭もあれば、あちこち話が飛び過ぎる人もある。講演なんかなら面白い話で脱線するのも技だろうが、マジメすぎるような(ジョークもノートするような)生徒もいるので、脱線もほどほどにしないと「判らない」と言われたりする。空き時間に廊下から様子うかがいに行くと、確かに判んないなあという時もあって、そういう時は苦労する。

 今は採用試験のときに「模擬授業」をしたりするところが多いから、さすがに若手の中には「声が後ろまで聞こえない」という教師は少ないのではないか。だけど、昔は結構いた。大量採用時代もあったし、元気な志望者は学生運動でもやってたかと見なされ、おとなしそうな人を高評価した時代があるのかもしれない。生徒が静かに聞けば聞こえるだろうと、「静かに聞いてないオマエラが悪いんじゃ」というのは自分でもヘリクツだと思うが、そういうしかない場合もあったように思う。そういう先生も含めて、教師は言語を駆使するものに必要なレッスンを受けてない場合が多い。朝から晩までしゃべってるアナウンサーや俳優は、当然話し方や発声に関する研修、講習を受けているだろう。教師だけが、話の中身の問題は研修するけれど、発声の方法より生徒に通じるような言語コミュニケーションのあり方などを研鑽する機会がほとんどないのである。

 70年代から80年代にかけて、自己の「身体性」に対する関心が非常に高まった時期がある。学生運動が表面的には「言語的反乱」から始まりつつも、運動の担い手そのものが「肉体的な解放」から遠かった。また、60年代末には音楽、演劇などを中心に「肉体の解放」を追求するような新しい表現革命が起こっていた。だから、運動退潮後に「自己の生活」「自己の身体」を徹底して見つめ直す試みがあちこちにあった。そういう中で自己形成してきたから、「学校」という場は「肉体のこわばりをもたらす場」だという感じは抜けない。教師自体が役割意識を身にまとって、「自由な身体」を生きていない。しかし、それではごく当たり前の生活指導も生徒に受け入れられない。いじめに対処するにも、生徒が「先生は注意しているが、それは役割としてタテマエを言ってるだけだ」というメタ・メッセージを教師の身体から読み取ってしまうのである。

 自分自身は声を出すことに苦労したことはない。大きな声を出すのも苦にならない。年とともにだんだん滑舌が悪くなってきたような気はするが、まあ声を出すことそのものはあまり考えたことがなかった。だから学生時代に竹内敏晴「ことばが劈(ひら)かれるとき」(思想の科学社、のちちくま文庫)には衝撃を受けた。その後、林竹二と組んだ定時制高校での授業なども注目してきた。「竹内レッスン」そのものに通ったことはないんだけれど、野口三千三さんの野口体操には直接通ったことがある。やはり教員が自己の身体が抑圧されているときには、生徒に正しいことを言っても、「タテマエ言ってるぞ」というメタ・メッセージとして伝わると思う。だから、教師の長時間労働などは本当に解消しないといけない。

 それと同時に、大学でもそうだし、教師になってからも「発声練習」などを含めた「演劇レッスン」をやった方がいいと思う。宿泊行事などで使える「ゲームの練習」なんかはあるけれど、ちゃんと自分の身体に向き合う訓練はしてない場合が多いと思う。では、どうすればいいかというと、自分で探して参加する道もあるが、まあ、せめて本を読むだけでも。先に挙げた竹内敏晴さんには、「教師のためのからだとことば考」(ちくま学芸文庫)という本もある。簡単に手に入るのは、平田オリザの新書、講談社現代新書から3冊出ているが、毎日の教員ライフに役立つヒントがいっぱいある(という読んだときの記憶があるけど。)また、鴻上尚史の「発声と身体のレッスン」(ちくま文庫)、「あなたの思いを伝える表現力のレッスン」(講談社文庫)も役立つだろう。今、身近にすぐ見つかったのは鴻上さんの2冊なので、画像を載せておきたい。とにかく、教師というのは「発声」と「身体」によって情報を伝達する仕事、一種の役者なんだということを意識しておくだけで、ずいぶん救われる時もあると思う。それにこういう本は「ワザ」として知っておくということがあるだろう。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「教師の事務的ミス」という大問題-私の教師論③

2015年06月02日 23時17分17秒 |  〃 (教師論)
 「教師の失敗」とはどんなものだろうか。懲戒免職になるような教員は、いつの時代にも一定数いるだろうが、ほとんどの場合は「教育上の失敗」ではない。でも、学校では校長による研修が行われ、「個人情報の流出」「体罰」「わいせつ」「飲酒運転」などは、絶対に起こしてはならないなどと、何度も何度も何度も…言われる。一年間に10回以上になるんじゃないか。もちろん、「いやあ、初めて知った。大問題だ。これから絶対に気を付けよう」などと思う人はいない。はい、はい、はい…、同じことを何度も言わなくちゃいけない職業は大変ですねえ、まあ時間のムダだけど、内職しながら聞いてるふりはしてあげましょうと言うことになる。大体、「生徒の個人情報を管理職の承認なしに校外に持ち出してはいけないことを知っていましたか」とか聞いてるアンケートになんと答えたらいいんだろうね。

 しかし、まあ「知らなかった」に○をして提出してどうなるというもんでもない。入れ墨アンケートじゃないんだから、「こんなものには答えられない」「教育行政に抵抗するぞ」などと力んでみても仕方ない。面倒には違いないが、5分か10分あれば書けるんだから、すぐ書いて提出すればいいじゃないか。ところが、毎日の多忙に紛れて、抵抗してるわけでもないのに、提出しない人がいる。忘れてしまうのである。そして、毎日毎日、違った問題が起き、書類も机上に積み上げられていく。そして、提出を忘れている人は今日中に提出をなどと言われて、あわてて机上整理から始めて、違う報告書類も発掘され、かくして30分も1時間も時間が取られてしまう。ただでさえ多忙な仕事を自ら「より多忙」にしている。

 教師に限らず、「説明責任」が問われるようになり、インターネットの発達に伴い、「情報公開」のための書類作成に追われるようになった。また、業績評価が「成績主義」になり、自分の仕事のまとめ、アピール等の書類作成にも追われる。だから、「仕事における事務処理能力」の重要性は昔の比ではない。だけど、多分教員養成の中で「事務処理能力の養成」なんて、ほとんど行われていないのではないかと思う。授業のやり方、授業の中身は誰でも考える。でも、ワードによるテスト問題作成採点エクセルによる採点処理(例えば、200人分の中間、期末の点数、課題の点数等を仮に打ち込んで、総計点をソートして上位から並べるといった程度でいい)を教員養成でもやったほうがいい。そして、40人を担任しているとして、通知表の所見を書いてみる。それを行ったうえで、自己評価シートをワードで完成させる。部活や保護者対応がないから、これは現実の教員生活よりずっと楽。こういう現実の教員生活で行われる「事務処理」こそ、「教師の日常」の中核をなすものだ。

 「教師としてのミス」の大部分も、単なる「事務処理ミス」から起きていると思う。非常に重大ないじめ事件、体罰問題などは現実には非常に少ない。でも、「ミスするつもりは全くない」にもかかわらず、「つい、うっかり」生徒や保護者対応を誤ることは現実に相当ある。もちろん、自分もやった。そんなに多くないかもしれないが、何回かはある。生徒にプリントを渡し忘れる、配り忘れる。欠席生徒もいるし、いつ配布してもいいような行政から来たお知らせもいっぱいある。「保護者会の出欠、出してないぞ」「えっ、貰ってません」とか、「え、出したと思うけど…」と言うから探したら、確かに他の書類に紛れてたとか。「探したけど、確かに出してないよ」「いや、昨日出したはずだけど…」「もしかして、それ、進路希望調査と間違えてない?」と言うことで、生徒の方が勘違いしてることもある。(実際のやり取りは、こんな丁寧なものではないが。)そういうことが日常茶飯事なのが学校である。

 学校に提出する書類は、しょせん「校内処理」だからどうとでもなるけど、一番大変な問題は「進路に関わる事務的ミス」である。大学や私立高校に出す書類、会社に出す就職用書類。それらは「学校が作成する」「学校から郵送する」と言うものがけっこうある。その日付を間違うと、そもそも相手側に「門前払い」になることもある。期限が決まってるのに、教師の方がミスして、生徒が希望の進路へ進めないという深刻なケースもある。そんなにないと思うけど、ないとはいえない。その反対に、一度決まった進路を生徒や保護者の側でホゴにして、違う進路にしたいと言ってくるケースもある。まあ、それなりに理由があるから、むげに退けられない場合もある。そういうケースを見聞きしたこともあるが、自分もやりかけたことがもあるし、書類間違いをしたこともあるから、あまり他人のことを言えない。だけど、と思うんだけど、生徒の側ももっと教師に確認しておくべきではなかったか。僕の場合は、センセー、わたしの書類、そろそろ出来てる?と聞いてきたから、間違えずに済んだわけで。

 事務室に提出する書類も多い。でも、よく見ていると、年末調整の書類、出てませんよと言われるような教員は大体いつも同じではないのか。細かく調べないと出せない書類はともかく、すぐ書ける書類は「すぐに出す」。これは個人的なものも同じで、とにかく「どうでもいいこと」ほどさっさとやらないといけない。それだけは僕は自信がある。どの学校の事務担当者にも、何の迷惑もかけていないはずである。それは僕が几帳面だからではなく、まさに正反対で「自分がいい加減だと知っているからできること」なのである。実際、どんどん忘れていく。見つからない書類を探して机を書きまわすのはよくある。だから、すぐ出さないとなくしてしまうと自分で判っているのである。生徒関連だと、いろいろあるからすぐやりたくてもできないこともある。だから、どうするか。きわめて丹念なノートを書き続けているような教師もいるし、パソコンで処理している人もいるが、僕にはできない。やっても続かないし、どうせ読み返さない。「当面やるべきこと」を紙に書いて、机にペタペタ貼っておくなんていう方が簡単で忘れないような気がする。結局、好きでやることではなし、本末転倒になってはいけない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スーパーティーチャー志向を排すー私の教師論②

2015年05月31日 22時48分03秒 |  〃 (教師論)
 生徒をめぐる事件が起き、そのクラスの担任教師がいろいろと非難されるということが時たま起きる。担任の対応が不十分ではなかったのか、問題があったのではないかというわけである。そういう大変な事例に教師が遭遇する可能性はどのくらいあるだろうか。100人に1人が1%なんだから、0.00001%もないだろう。小中高全員で100万人近く教師がいて、数年に一人と言った具合だから、そんなものではないか。つまり、通常はそういう目には合わずに教師人生が終わる。だから、「普通の教師」は自分がそういう目に合わないように祈りながら、身をすくめて「世間の目」を生き延びようとする。ホントは言いたいこともいろいろあるんだけど。それが多くのケースで起きることである。

 学校をめぐる、あるいは教師をめぐる言説は相当にあるわけだが、学校現場から見てリアルで生き生きとした論議はほとんどない。特に大きな問題が起きた場合は、「自分が担任をしていたら防げていた」などと思えるケースはまずないから、自分のところで起きなくて良かったと安堵するのが通常である。そして、「あんなこと言われても自分ではやりきれない」と思いつつ、批判を恐れて口を閉ざしている。こうして、「失敗ケースをめぐって現場で議論する」機会は失われる。行政が中心になって「防止策」などを打ち出してくるが、調査と報告が多くなり、タテマエ上のマニュアルが整備されたことになり、当初は忙しくても実施されているが、やがて無理なことは続かないから忘れられていく。

 そういう時に思うことは、「世の中はスーパーティーチャーを求めているのだろうか」という思いである。時には「結果的に防げなかったのから、担任として失敗」などと決めつける人がいる。かつて教師をしていて、今は「教育評論家」などと名乗ってテレビや新聞でそんなコメントをする人もいる。他人の事をそれほど言えるんだから、「自分だったら防げていたと信じているんだろうか」と僕には非常に不思議である。多分、忘れているのかもしれない。自分もいっぱい失敗していたということを。具体的なケース抜きに議論していくのだが、僕には問題が起きた時のケースを(マスコミを通して)見聞きして、自分だったらどうしていただろうと思って、ほとんどの時は自分も同じようなことしかできなかっただろうと思うのである。それを非難できるんだから、僕には世の中は「スーパーティーチャーを求めているんだろうか」と思うわけである。でも、それでは今後に生きてこないし、有益な教訓にはならない。

 教師の大部分は、「学校と生徒を良くしようと思っている」だろうけど、同時に自分や家族の生活や健康、つみあがった事務処理書類、長い通勤時間などを抱えて、実際にやれることには限界がある。それに日常のさまざまな行事指導などが立て続けにあって、生活指導上の問題でじっくり生徒に向かい合う時間も取りにくい。そういう実際の学校を支えている「フツーの教師」でもできる対策を出して行かないと今後には生きないのである。でも、そういう風に発想すると、「反省が足りない」とまた非難されるかもしれない。どんなに大変な時でも、生徒が大変な状況の時には、何を置いても優先するべきだったと。確かに、後で振り返ると、あの時に違った対応をしていればと思うようなケースは、教師ならいくつも抱えているだろう。でもそれができない「現場の構造的理由」を問わずに、後から非難されても「スーパーティーチャ―」でもないと無理だよなあと思う。

 世の中には、一人の教師が何でも出来ちゃう、生徒を救っちゃうという学園ドラマがたくさんある。(その逆にひとりの教員が学校全体を狂わせてしまうという「アンチ・スーパーティーチャーもの」もかなりある。)ドラマのような学園ライフに憧れたかのような新採教員もたまにいて、自分の担当以外にも口を出してくるから迷惑するといったこともけっこうあるんじゃないか。でも、実際の学校には「スーパーティーチャー」はいないし、いたら迷惑するだけである。学校だって地方行政機構の一つで、法と条例によって設置されている。現実の日本にたくさんある「組織運営体の一つ」に過ぎない。教師一人でできることは限られているし、その程度の厚み、深さは持っている。そして、生徒や保護者もさまざまだから、ある教員が一生懸命やっても空回りするというのが、若い時の思い出だろう。

 今「スーパーティーチャー」の定義もちゃんとせずに議論しているのだが、今まで接してきた限りでは、ホントに凄いという人もまずいない代わりに、多くの教員は「部分的にはスーパー」というところもある。だから、そういう部分の技術は盗めるんだったら盗んでしまおうと思って見ていくと、その「スーパー性」がすべての生徒に受けているわけでもないことに気づくことが多い。ドラマではクラス全員、部活全員が心服しているように描かれているが、実際のクラスや部活には「不満派」がそこそこいる。大きな声で言えないから黙っているだけ。多分、これは学校だけでなく、会社やお店なんかでも「やり手」と言われる上司にはつきまとう問題なんだろうと思う。そして、不思議なことに、そういう「不満派」の生徒が相談できる教員がいることが多い。そして、それはスーパーどころか、何だか問題を抱えていそうな教師だったりすることがけっこうある。人間の世界は不思議なものだなあと、僕はそういうケースを見聞きするたびに思ってしまうのである。

 若い教員は決して、学校のスーパーヒーローみたいな教員を目指さないようにすべきだ。若いうえに、スポーツ抜群、歌もうまくて、教科の教え方も面白い、おまけにルックスもいいなんて、そんな人がいるわけないだろうと思うと、今は時々いるんじゃないかと思う。でも、そういう教員には「敬して、心は開かない」という生徒もいる。批判的に見る生徒がいることを忘れずに仕事しないといけない。学校が組織的に動く場面で、一生懸命下支えするつもりで仕事しないといけないと思う。教師は学校の一部分を担うことしかできない。学校や学年の方針、雰囲気などを抜きにして、個々の教員、担任一人が出来ることは限られる。学校に関する事件が起きた時も、そういう風に「スーパーティチャ―にしかできない」ことを求めない方がいい。「生徒の立場」などという人もいるけど、「生徒の立場」「親の立場」「教師の立場」などが対立する場面も、確かにないわけではない。でも、判断基準は「常識の立場」というものもあるはずだと思う。次は「事務的なミス」という問題を。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「生徒という異文化」を前に-私の教師論①

2015年05月31日 00時12分02秒 |  〃 (教師論)

 「安保法制」について、あるいは「選挙制度改革」についてなど書きたいテーマは多いんだけど、それを始めると長くなるに決まってる。自分としては、6月は「教育」に関して書いてしまいたいと思う。それもまた、「教員免許」「アクティブ・ラーニング」「小学校の英語教育」(これは去年からの書き残し)など、いろいろ書きたいテーマは多い。都教委のさまざまの問題もあるし、そのうちまとめて書きたいと思う「中学の社会科教科書問題」もある。だけど、前から予告している「教師論」、特に自分の経験からくる「教師という存在」についての話を先に書いておきたい。そうしないと、書くときがないまま時間が経って、自分でも忘れてしまいそうだ。(なお、ここで言う「教師」とは、ほぼ地方公務員として小中高等に勤務する教員を指して言っている。)

 「教師論」というか、「教師のあり方」、それを大上段から論じる本や新人教員向けのマニュアル的な本はかなり存在する。でも、僕はそういう本を(ある程度は役立つ時もあるとは思うけど)、あんまり納得できたことがないし、役に立たないと思ってる。また、もちろん教育行政が繰り返し行う「初任者研修」など、ほとんど役に立たない。当たり前だろう。「目の前の生徒」は一人ひとり違い、学校ごと、学年ごと、クラスごとに課題は違う。それらの違いを理解して、少しづつ「自分なり」のやり方を見つけるには、自分で考えて、自分で工夫して、自分で「失敗」することを繰り返すしかない。だけど、「自分では考えない」教員作りを行政は進めるし、「失敗」こそ「成功の母」だからと言って、目の前にいる生徒を教えるのは「一回きり」なんだから、失敗しては申し訳ない。苦情も来るかもしれない。そう考えると、「うまく失敗する」ことができない。これが若い時の非常に大きい苦労だと僕は思う。

 教師といっても、もちろん「ベースとしてはただの人」である。だけど、世の中全体からすると、けっこう「不思議な集団」である。例えば、教師は全員大学卒である。だから、学校というところは、多少の例外はあるにせよ、ほぼ大卒者が占めている。これは当たり前だが、世の中にあまりない職場だと思う。では、職員室には「知的ムード」があふれているかというと、普通そういう学校はまずないだろう。忙し過ぎて、ニュースについて語り合う時間もない。大学を出てるからと言って「研究者」じゃないんだし、「ただの人」なんだから。でも、はっきりしているのは、ほとんどすべての教師は「勉強のできる生徒」だっただろうということである。もちろん「ものすごく勉強ができる生徒」だったら、医者や弁護士や中央官僚になっているのかもしれない。あるいは、母校に残って大学の教員になるとか。だけども、勉強が好きでないなら、基本的に毎日授業すると判ってる職業に就くわけがない。採用試験に受かるわけもない。

 何が言いたいかというと、教師は「勉強ができない生徒」が判らないということである。頑張れとか、自分で考えろとか、やればできるとか、教師はよく言う。言われると言われた方も何となくそんな気になってしまう。でも、ホントにできなくて苦労している生徒の事が理解できているんだろうか。目標が持てなくて頑張れないのか、学習障害などが潜んでいるのか、家庭環境が大変なのか。もちろんそういうことはある程度判ってくるもんだけど、最後の最後のところでよく判らない部分が残る。少なくとも僕にはそういうことが多かったと思う。もちろん、教師が生徒一人ひとりの事を完全に理解できるなんて思っているわけではない。「ただの人」がやってる「ただの仕事」であるわけで、教師は「千手観音」ではない。全ての生徒を自分が救えるなどと思うのは「思い上がり」である。でも、ここで言いたいのはそういうことではなく、自分が担当する「生徒という異文化」に立ちすくむ時があるということである。

 家庭環境も違うし、文化的背景も違う。生徒と教師は初めから、かなり大きな違いがある場合が多い。年齢も違うわけだが、これはどんどん違っていく。最初は親や管理職より、生徒との年齢差の方が近い。それだけで、生徒から評価される時期がある。だんだん親の年齢の方が近くなり、やがて何十年もすれば親の年齢も追い越してしまう。そういう「生徒」をどう理解するか、できるか。それが教師のベースだと僕は思う。そして、「要するに人間どうし」であって、「問題生徒」であれ「外国人生徒」(日本語で意思疎通ができにくい「ニューカマー」の事を指している)であれ、通じるものは通じる。卒業して何年、何十年と連絡がある生徒も出来てくる。そういう生徒だけピックアップすれば、「素晴らしい教師人生」のように語れることも多いだろう。でも、僕にとっては、最後までよく判らない部分が残って卒業させた(あるいは高校では中途退学していった)何人もの生徒像こそ、僕にとって「教師という仕事」を語る時に最初に思い浮かべるものなのである。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「共苦の共同体」を超えて-教員多忙問題③

2014年08月28日 23時50分51秒 |  〃 (教師論)
 教育に関するニュースがあると、大体新聞を切り抜いておくことにしている。(歴史ニュースや書評、映画評、訃報などの切り抜きも何十年分かあると思う。)最近書いている文科省の教員調査やOECDの中学教員調査も、そういう新聞切り抜きをもとにしている。別に目新しい結果でもなかったから、特に急いで書く必要もないなと思った。本当は佐世保の事件に関して、「いのちの教育」について書きたいと思ったのである。それがどうして「教員多忙問題」を先に書いているかというと、「教育現場にはこういう問題がある」ということを判っていないで、「いのちの教育は生かされたのか」などと議論するのはおかしいと思うからである。今、教育論議にまず必要なのは「教室の現象学」ではないかと思う。

 さて、「長時間のボランティア労働」を強いられている教師は、学校や生徒についてどのように思うようになるだろうか。当然のこととして、「自分はこれだけ(無償で)頑張っているのだから、生徒も教師の頑張りにこたえて欲しい。頑張ってついてきて欲しい」と思うだろう。たとえば、学校施設を使って朝早くから部活動を行う時には、もちろん責任者の顧問がいなければならない。だから顧問は早起きして学校に来たのに、部員がサボっていたらどう思うだろうか。しかし、そんなことは生徒の側ももちろん判っているから、生徒だって頑張って朝早くから来るのが普通である。こうしてお互いにホンネとしては辛いと思いつつ、「お互いに大変なことを自分たちに課して、それを一緒に乗り越える」ことが目標となってしまう。自らの「無償労働」の対価として、生徒の「無償の評価」を求めるのである。

 僕はこのような、日本の教育の本質的なありかたを「共苦の共同体」と名付けている。「一緒に苦しむ」の内容が「体罰」に至ってしまう教師もいる。そのような学校空間に居場所を見つけられず、「不登校」として「学校社会を下りる」ことで苦しむ生徒もいる。「体罰教師」と「不登校」は、普通は全く別の問題と見なされがちだが、本来は「共苦の共同体」としての学校というメダルの裏表ではないか。それどころか、日本の教育というのは、「小学校のお受験」から「大学生の就活」まで、苦しむ内容と相手は少しづつ変わりながらも、ずっと「何かよく判らないものに、誰かと一緒に耐えていく」という体験なのではないか。そして、それを「大人になるために必要なイニシエーション」と考えているのが日本社会の「世間知」ではないかと思う。

 この「生徒に無償の評価を求めてしまう」という罠を逃れている教師はほとんどいないと思う。もしいるとすれば、生徒に影響を持っていない教師だけである。部活動は複雑な問題をはらんでいるので、ちょっと別に考えたいが、近年になって非常に「苦しい共同体験」になっているのが「進路指導」だろう。「就職氷河期」と言われてきた労働市場はいくらか明るさが見えてきたと思うが、20世紀末からつい近年まで、とにかく毎年毎年大変なこと続きだった。受けても受けても落ちる生徒もいるわけで、「一緒に苦しむ教員」の心労も大きかった。また大学の推薦入学制度が非常に複雑になったので、学校見学から小論文指導、面接練習など教師の方も生徒に無理とも思える要求を繰り返し、一緒に苦難を乗り越えていくという感じになっている。結果が出る日は、教師もドキドキして報告を待つわけである。

 でも進路指導は、まあ相手の要求に応えるしかないので、ある意味ではまだ楽とも言える。大変なのは、必ずしもうまく行っていないクラスの担任として学校行事を迎えるような時である。うまく行くのか行かないのか、当日までハラハラしながら、協力してくれる生徒たちとともに最後までジタバタする。うまく行っている他クラスもあるというのに、「うち」はちゃんとできるんだろうか。こういう時の担任のプレッシャーはとても大きく、だからこそそういう時に一緒に頑張ってくれる生徒(は必ず何人かはいる)の存在はとても大きい。「無償の労働」には無償でこたえてくれる生徒もいるわけで、それが教師が「自分の労働の無償性」に無自覚になる原因にもなっている。とにかく、よほど恵まれている学校に勤務している少数の教師を別にすれば、問題生徒や保護者対応には細心の注意がいるわけで、教員生活が苦しい日々の連続になっている場合がかなり多いのではないか。

 学校行事や部活動、進路指導などで培われる「共苦の共同体としての学校」は、「日本社会の中で生きていく時に役立つ力」を育てる面は否定できないと思う。だから、全面的に否定することはできないし、しても意味はない。でも、「それでいいんだろうか」「もっと違う学びのあり方はないのだろうか」と問うことは大切なのではないだろうか。今は学校にいる間はずっと苦しいこと続きで、「頑張っているいい子」もどこかで切れてしまいやすい。切れずに就活まで頑張っても、そこで「学び」が終わってしまう。あるいは大学入学時に終わってしまう人もいる。つまり、「オトナが学ばない社会」になってしまっている。都議会のヤジ問題や「アイヌ民族はもういない」とツイートした札幌市議など、その問題をきちんと学ばずに発言しているのである。むしろ、深く学ばずに俗論を言えるのが「オトナの証」だとでも考えているのではないか。そういう社会を作ってしまったことを、教育関係者は深く反省する必要があるだろう。小中高と学びを深め、大学で専門領域を学んで、そこで身に付けた「学ぶことの方法」を駆使して大人になっても自分なりに学び続けて行く。そういうリーダーが育っていないのは、日本の教育の現状のあり方に原因があるのではないか。単に「教師の長時間労働は良くない」というレベルより、もっと深い問題性があるのだと考えている。

 では長時間労働はどうすればいいのか、さらに学校のあり方はどうあるべきか、部活動のあり方は…などどんどん話は広がって行くが、ちょっと間をはさんで来月に続けていきたい。そして、若い教員に期待するもの、人権教育のあり方、学校行事の話など、映画や本の話をはさみながら、日本の学校論として考えてみたいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人権被害者としての教師-教員多忙問題②

2014年08月27日 21時27分53秒 |  〃 (教師論)
 「教員多忙問題」にはどのような弊害があるのだろうか
 教材研究がおろそかになる。雑務に追われて生徒との関わりが薄くなる。生徒の問題対応に時間を取られて、それ以外の生徒へ目が向かなくなる。朝から夜まで部活動に時間を取られて、教師の生活が成り立たなくなり新聞も読まないようになる。まあ、そういうようなことを次々と挙げられる。

 いちいちもっともで、確かにそういうケースは存在する。昔はきっと持ってたはずの知的な好奇心が摩耗してしまった教員も何人かは存在するし、そういう教師に教わる生徒は大変だろうなと同情する。(しかし、何事も「反面教師」なのであって、そういう教師の存在によってこそ自分が大きく成長できてきたとも思う。「生徒が大変」だというのは、生徒が教師のレベルに合わせて知的な好奇心を見せないようにするのが大変だと思うのである。)大きな教育問題がニュースになるような時に、外部の人から「学校現場では先生方はどう思っていますか」などと聞かれたことがあるが、「学校現場」でニュースをめぐって喧々諤々と議論をするゆとりと知的関心が今の学校にあると思っているのか、むしろそっちの方にビックリせざるを得なかった。そんなものはもうずいぶん昔の話だろう。

 いくら4%の教職加算があるとはいえ、それに当たる時間の何倍もの長時間労働をこなして、それに対する金銭的(あるいは時間的)補償がないというのは、「サービス残業」とか「ボランティア」などと言って済ませていい問題ではないだろう。はっきり言えば、教育現場の「ブラック企業化」であり、教師は被害者なのである。労働者としての権利を侵害されている当事者なのである。しかし、そう認識している教員はごく少数だろう。それはどうしてだろうか。

 ところで、「いじめ」問題は、ここ何十年かずっと教育現場で大きな問題となってきているが、「教師は学校内のいじめを解決できるのか」と問われることが多い。教師はプロの教育者として、「いじめの兆候を見つける」とか「いじめの当事者に介入して、いじめ行動を止める」という能力があるべきだと思われているらしい。しかし、教師ははたしてそんな能力を持っているのだろうか。あるいは、教育行政は教師の「いじめ解決力」を育てようと考えているのだろうか。

 なぜなら、「いじめ問題」を感知する能力というのは、要するに「人権センサーの感知度をアップする」ということだと思うが、教師の長時間労働はそのセンサーを鈍くする方向に働くからである。それどころか、教師の「人権センサー」能力がアップすれば、生徒のいじめの前に、まず「自分たちが人権侵害の当事者ではないか」ということに気づくはずである。今の学校現場は、教師は自分が「教育行政の使い走り」をさせられながら、いやそれは自分の考えでやっているんですと言ってる状況である。自分がいじめられている当事者という認識がない。生徒のいじめ事件でも似たような構図はよく見ることができる。強いものの意向に自ら寄り添っていて、弱い生徒の話を聞いてもいじめではないと否定するのである。今の教員の多くも、似たような状態にある。こういう教師に「いじめを感知する能力」を求めるのは、間違いであり酷でもある。社会の側で「ないものねだり」をしているのである。

 日本の教師は、労働者としても、また教育専門職としても、多くの権利を否定されている。日本が国際人権規約を批准するにあたって、日本政府はいくつかの項目で「留保」を付けている。その代表が「公務員のストライキ権」である。先進諸外国なら認められているスト権がないということは、国際的な人権問題なのである。(長く留保とされていた「中等教育の無償化」に関しては、民主党政権下で留保の撤回が通告された。(「経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)第13条2(b)及び(c)の規定に係る留保の撤回(国連への通告)について」)

 またユネスコ(国連教育科学文化機関)による「教員の地位に関する勧告」をみると、日本の教員がいかに教育専門職としての尊厳を奪われて来ているかがよくわかる。たとえば、「教員免許更新制」もユネスコ勧告違反であると思われるし、授業で使う教科書を教師が選べない(あるいは選びにくい)現状もユネスコ勧告違反である。しかし、今は長時間労働を問題にしているので、労働時間に関するところを見てみたい。
労働時間
89 教員が一日あたり、および一週あたり労働することを要求される時間は、教員団体と協議して定められなければならない。
90 授業時間を決定するにあたっては、教員の労働負担に関係するつぎのようなすべての要因を考慮に入れなければならない。
(a) 教員が一日あたり、一週あたりに教えることを要求される生徒数
(b) 授業の十分な立案と準備ならびに評価のために要する時間
(c) 各日に教えるようにわりあてられる異なる科目の数
(d) 研究、正課活動、課外活動、監督任務および生徒のカウンセリングなどへ参加するために要する時間
(e) 教員が生徒の進歩について父母に報告し、相談することのできる時間をとることが望ましいということ
91 教員は現職教育の課程に参加するために必要な時間を与えられなければならない。
92 課外活動への参加が教員の過重負担となってはならず、また教員の本務の達成を妨げるものであってはならない
93 学級での授業に追加される特別な教育的責任を課せられる教員は、それに応じて通常の授業時間を短縮されなければならない

 これを読めば、日本の教員の長時間労働というのは、国際的な人権問題だということがよく判るのではないか。本来、授業準備も親への連絡も生徒のカウンセリングも課外活動への参加も、皆労働時間に中に入っていなければおかしいのである。これだけ自分たちの教育者としての権利を侵害されて来ていれば、教員としての誇りが失われ、「自信」が世界最低になるというのも当然だろう。

 これらの事態は、おそらく「教育政策の結果」である部分が大きいと思う。むろん、教育に関わる様々の利害関係者の要望が複雑に絡まり、いつの間にか誰にも止められない状況になっているというものもあると思う。部活動に関する問題などはそうかもしれない。しかし、教科書選定を現場教員から遠ざけるなどというのは、紛れもなく教育政策の目指してきたものである。つまり、日本の教育行政は、教師の尊厳を剥奪し、教師の「人権センサー」をなまらせる政策を続けてきた。教師の長時間労働という実態は、今までの教育行政の行き着いたものだと考えられる。となると、教師の側も事態をよく認識し、自己防衛策を取らないと、自分の生活を破壊されるだけでなく、自分の人権感覚が知らず知らずのうちにマヒしてしまうという恐るべき状態になる。防衛策の前に、この「長時間労働ボランティア」が日本の教育や社会全般に何をもたらしているかを考えてみたい。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教員多忙問題①

2014年08月25日 23時58分24秒 |  〃 (教師論)
 ちょっと前になるが、6月25日にOECD(経済協力開発機構)が中学教員の勤務環境に関する国際調査結果を発表したというニュースがあった。その結果によると、日本の教員は指導への自信が参加国中で一番低いにもかかわらず、勤務時間は最も長かった。この勤務時間の長さは予想されたことだけど、数字で見ると週当たり53.9時間となり、異常ぶりが際立っている。2位のカナダ・アルバータ州が48.2時間、3位のシンガポールが47.6時間、4位のイングランドが45.9時間…といった具合である。平均は38.3時間となるというから、日本の異常さはダントツとしか言いようがない。この深刻な実態をどう考えるか、数回にわたって考えておきたい。これが実は一番重要な教育問題であって、他の様々な問題はすべてここから派生しているとさえ言えるのではないか。

 まず、タテマエを書いておかないといけないが、これは実は「超過勤務」ではない。「超過勤務」というのは、雇われて契約関係のもとで働く労働者が勤務時間内で終わらない仕事を、上司に命じられて時間後に労働する(その代り超過勤務手当をもらう)というものだろう。だけど、教員の場合、「校長の命令」もない」し、「超勤手当(残業手当)」もない。生徒の中には、遅くまで働いて残業手当がすごいでしょなどと知ったかぶりでからかう者が時々いる。しかし、いくら遅くまで残業していても、受給金額は(通常は)変わらない。

 今カッコ内に(通常)と書いたけど、これは意味がある。あの2011年3月11日、電車はすべて停まり生徒ともに朝まで学校内で待機せざるを得なかったが、その間も交代で見回りや警備、保護者対応、外部からの来訪者対応などを行っている。この時は、その時の手当が後ほど支給された。その他、生徒指導で遅くなった場合や休日の部活指導などでは手当が出る場合もある。しかし、原則として、教師には「時間外勤務手当」はない。その代り、全員に「教職調整額」が4%加算されているのである。

 文科省内のサイトに「教職調整額の経緯等について」があるので、その問題の経緯はそれで判る。1971年に「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」(給特法)が成立して、この4%加算が決まった。何で4%かというと、当時の小中の勤務実態を調べたところ、小学校は1時間20分、中学校は2時間30分、平均1時間48分だったという。これを夏休み4週、年末年始2週、学年末始2週の長期休業時8週分を除く年間44週ずっと上記の時間に超勤したとして、超勤手当を払うとすれば4%になるというのである。

 一方、特に校長が超過勤務を命じることができる場合もあって、それを「超勤4項目」という。
イ 校外実習その他生徒の実習に関する業務
ロ 修学旅行その他学校の行事に関する業務
ハ 職員会議(設置者の定めるところにより学校に置かれるものをいう。)に関する業務
ニ 非常災害の場合、児童又は生徒の指導に関し緊急の措置を必要とする場合その他やむを得ない場合に必要な業務

 あれ、「部活動指導」はないのか。そう、ないのである。「教材研究」もない「生活指導」さえない。しかし、部活や行事ならまだしも、クラスの生徒が問題行動を起こした時に担任が帰るということは事実上できないだろう。(また部活も終わり、雑務も処理して帰ろうかという時に限って、生徒がタバコを吸っているとか万引きした生徒を捕まえているなどの電話がかかってくるのである。)

 そうすると、部活で遅くなるというのはどういうことか。生徒の提出物を見たり、明日の教材を作っていたりして遅くなるというのはどういうことか。校長は残業を命じていない(命じられるケースではない)ので、「教師が勝手に残っている」のである。(まあ、ボランティアというか、サービス残業というか。)何でそんなことをするのだろうか。生徒や親との関係、勤務成績をよくするなどの目的もあるかもしれないけど、一番大きいのは「職人的感性」ではないかと思う。労働者というより、「自分で納得できるような教材を作るためなら時間は二の次」といった感性である。もちろん、自分にもそういう部分はあったから、納得できるものを仕上げるまで大分残ったこともある。(一番遅くまでいたのは、中学の学年主任として進路説明会資料を作っていた時で、夜の10時半になってしまったので警備員(がいた時代)に呆れられた。)

 朝日新聞6月26日付の紙面には「朝練、授業、生徒会…学校に15時間半」という記事が掲載されている。私立を経て、千葉県の公立中に勤務する7年目の女性40歳。国語、2年担任、ソフトテニス部顧問。朝はほぼ6時40分に出勤、7時20分から朝練、授業、給食指導、生徒会指導、放課後の部活指導、7時に長欠の親と生徒が来た、その後提出物の点検等を続けて10時過ぎまで残っていた。このケースなど、外部から見れば想像を接した勤務実態というしかないと思う。この学校の管理職は何をしているんだと思う。職員の健康管理も管理職の重大な任務だろう。本人も善意と頑張りの人なんだと思う。朝練と午後錬と両方きちんと出ているのは立派だけど、無理なことは無理という方がいい。提出物に全員返信するというのも無理である。というか、「毎日提出させる生活ノート」そのものがいらない。むしろ中二ともなれば止めた方がいい。教師に毎日生活を報告するようでは成長できない。担任にたいして「秘密」が出てくる年代で、僕の時代にもあったけど中学2年になったらどんなに怒られても提出しなくなった。このような「過剰な学校囲い込み」がますます仕事量を増やしていくのである。

 以上の事例を見ても、教育現場の実情は、今までのタテマエではもはや処理が不可能というべきだろう。20世紀のころは、「夏休みさえあれば」「職場のまとまりさえあれば」、皆で何とか頑張ろうということも不可能ではなかった。どっちもなくなり、ただ多忙の中にいるなら、「いつか切れてしまう」という「バーンアウト」(燃え尽き)が起きるに違いない。前回書いた「教員の大量退職」は、教師のバーンアウトがついに大量に起こり始めたことを示すのではないか
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「入学式と担任」問題③

2014年04月30日 23時20分49秒 |  〃 (教師論)
 入学式に担任が出席できないんだったら、初めから違う人が担任をしてればよかったのではないかという意見が結構見られたように思う。担任を決めたのは前年度の校長(異動してなければ今年度も同じ)だが、そう言われても困るなあという学校現場も多いのではないか。大体、4月に異動したばかりの新任校長かもしれず、事情を聞かれても困る場合もあるだろう。(高校の校長は3年ぐらいで異動することが多いので、今回も一人ぐらいは新任校長がいるのではないだろうか。)

 小中では(入学式に)休暇が取りにくいという意見も見られたが、そういう違いはあると思う。小中と高校の違いで一番大きいのは、やはり「学校規模の違い」だろう。数だけ見ても、小学校が一番多くて、中学、高校と少なくなる。東京都の場合だが、昨年度の統計で、小学校が1299校、中学校が623校、高校が188校となっている。(他に中等教育学校6校、特別支援学校61校などがある。)小学校は6学年、中学校は3学年だから、小学校の数が倍になるのは当然。東京の場合、伊豆・小笠原諸島があったり、私立学校が多いなど、全国的には特殊な地域なのだが、この数を見るだけで「(一学校あたりの)高校の教員数が断然多い」のは想像できる。

 東京の中学では今も1学年8クラス以上もある大規模校もあるが、大体は2クラスか3クラス程度ではないだろうか。高校の場合、学校数は少ないが、1学年のクラス数は多いのである。小中は義務教育だから歩いていけるところに作る必要があるが、高校生は電車やバスである程度遠くまで通学することが前提になっている。夜間定時制などの特別なケースを除き、今でも進学校は8クラス、そうでなくても6クラス程度はある。大規模学級時代に合わせて教室数が作られていて、規模にあった募集数にする。(それでも中堅校以下だと、クラス数はかなり減らしている。)だから各学校あたりの生徒数はそれほど減らず、教員数は多いわけである。もっとも教員が多くても、クラスが多いので必要な担任の数も多い。でも、「3学級のうちの一人」と「8学級のうちの一人」では「(入学式における)休暇の取りやすさ」には大きな違いがあるだろう。

 また、高校と中学では授業の持ち時数の基準が違う。授業内容が専門性が高くなるし、また「専門学科」の高校は専門教科の教員が加配されていることが多い。だから教員数は高校にゆとりが多くなるわけである。以上は高校の方が教員数に余裕があるだろうから、入学式当日も代わりを頼みやすいという話である。では、その代わりの人がいっそのこと、一年を通じて担任をすればいいのではないかという点を検討する。まあその通りで、変更しても特に大きな問題もない場合も実際にはあるだろうと思う。でも、「担任を持ってない教員」にも理由があるわけで、そう簡単には変えられないことが多いだろう。「教科的な要因」「学校運営上の要因」「個人的な要因」に分けて考えてみる。

 学級担任は教師の基本的な仕事であり、基本的には交代交代で誰もが担当するものである。正課外の部活顧問などと違う。原則的には全員が順番で担当する。ところで、新入生の担任を決める前に、すでに上級生の担任がいるわけだが、基本的には「持ち上がり」だろう。特に2年から3年にかけては、生徒のクラス替えはあっても、進路を控えて学年担任団は変えない。(それなのに、最近は異動年限で自動的に異動対象にしてしまったり、2年終了時に管理職に「昇進」して生徒を置いて去ってしまう人もいないわけではない。病気や介護などもあるので異動を一概にダメとは言えないが。)上級生の担任が異動した場合は、後がまは「教科的な要因」が大きくなる。

 高校の場合、日本史は日本史、物理は物理しか教えないから学年に関係ないというケースも多い。でも(普通科高校の場合)国語、数学、英語などの基本教科、あるいは保健体育などは教員数も多いし、進路指導、生活指導の観点からも、各学年に必ず一人はいるものだ。8クラス規模だと同じ教科の教員が二人いることもあるが、まあ6クラス程度なら、同じ学年の担任に例えば理科が二人ということはない。誰かが途中で異動したとしても、教科バランスを考えて後がまが決まる。転任した人の代わりに新任できた教員が、年齢や経験が同じ程度なら、その人が学年に途中から入ることも多いだろう。

 一方「学校運営上の要因」というのは、高校の場合、担任以外の教員人事の方が重要だったり、もめることもあるということである。小規模の中学なら、教務主任、生活指導主任が学級担任を兼務せざるを得ない場合もあると思う。しかし、高校の場合、規模が大きいので、原則的には主任専任となるだろう。(授業時数の軽減も認められる。)また進路指導が重要なので、長い経験から進路先と深いつながりを持っている教員が、担任団に入れず「進路部専属」みたいに「塩漬け」になる場合がある。それは「教務」「生活指導」(生徒指導だけでなく、大規模な文化祭担当もある)にも似たような面があある。伝統ある大規模校になればなるほど、「余人をもって代えがたし」と「毎年希望してるのに担任にしてもらえない」人が出てきたりする。実力十分で「入学式の代役」など「やる気満々」だけど、学校としては他の仕事を割り当てる(と校長が判断した)ということである。

 最後に「個人的な要因」だけど、これは「担任をしたくない理由」と「担任をさせられない理由」に分けられる。そしてこの要因が最近は増大しているのではないだろう。「担任をさせられない」というのは、病気で休暇を取ることが多い、精神的に不安定といった教員である。「休職明け」で時間軽減を取ってる教員も担任には入れない。近年、教員の病気休職、特にメンタル面の休職が増大していると言われる。統計でみると、むしろ数年前よりは少し減っているようだけど、病休と精神疾患を合わせると1パーセントを超えている。だから大規模校なら1人ぐらいはいることが多い。年度当初から決まっていれば「代替教員」が配置されるが、臨時教員は勤務時間などは同じだが、来年以後いない可能性が高いので、普通は担任に入らない。

 「新規採用教員」も、今ではすぐに担任を持つことはないだろう。昔はすぐ担任に入る新採が結構多かったものである。現場も管理職も、そして本人も、周りに教えられながら担任を務めるのが「一番の研修」と思っていた。今は初任者研修が大変過ぎて、とても担任はできない。他県や私立で教員経験済の「30過ぎの新採」といった場合は別だが。(大体「期限付き採用」なので、来年必ずいるとも限らない。東京では、昨年の新採2740人中、正式採用となったのは2661人。2.9%、79人が採用とならなかった。)最近は新採教員がかなり増えているので、担任を任せられないのは、人員上かなり困るケースも多いだろう。

 そのうえ、まだ残る「10年研修」、あるいは導入されてしまった「教員免許更新制」なども、それに当たる年には担任をしたくない要因になっているのではないか。それを理由に担任を外れるのは難しいかもしれないが、逆に「3年担任時に当たらないように計算して、担任に入る」という要因としては大きいだろう。実際、3年担任時の「10年研修」は無理だと思うし、夏休みに行われることが多い「更新講習」も3年担任だと厳しいのではないだろうか。このような現場にしわ寄せする政策が多いので、担任決定は校長にとっても大変な仕事だろう。

 そういった事情を考えると、「自校の入学式が子どもの入学式と重なる教員」と言えど、その事情は「担任を外れる理由としては低い」と校長は判断するのではないか。子どもが高校生というのだから、新採でも「10年研修」にも関係ない。40代後半ぐらいで、担任としてはベテラン。今までに何回か卒業生を出した経験もあるはず。人事をいじりはじめると玉突きになってしまうし、教科の要因も大きいだろう。学校現場からすれば、余計なものがいろいろ入って担任の選び方が難しくなる一方。人事は校長の専権事項だとして意見も聞かず発令してしまう校長も多くなっている。どうしてそういう担任団になったのか、どうもよく判らないという場合も多いと思うけど、まあ、大体はそういう事情を勘案して、なんとか担任が決まっていくのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「入学式と担任」問題②

2014年04月30日 00時49分53秒 |  〃 (教師論)
 学級担任が入学式にいなかったと批判されているが、「担任はどれほど大事な存在なのだろうか?」それは大事に決まってると言われるかもしれないが、では時々変わるのは何故だろう。いや病気や産休なら仕方ないだろうと言うかもしれない。そうではなくて、行政の都合で途中で変わることもあるのである。しかもよりによって、中学3年の担任が3学期から変わったという事例もあるのだ。担任をしていた主幹教諭が別の学校の副校長に発令されたのである。同学年に主幹が二人いたとも思えないので、担任だけでなく学年主任も3学期から変わったのではないだろうか。

 「週刊金曜日」の2014年1月24日号の「金曜日から」(いわゆる「編集後記」)に次のような記事が載っている。「学校も役所なんだなあ、と感ずることが最近あった。2月の受験を控えた中学3年の息子の担任が、1月1日付で副校長に昇進して別の学校に移られたのだ。どこかの校長のポストが欠員になり、結局玉突き人事になったらしい。集会で報告がされると、クラスはどよめきが起こり、涙を流す生徒もいたとのこと。異動された担任も後ろ髪を引かれる思いだったろう。(以下省略。)」

 東京の出来事とは明記されていないけど、副校長と書かれているから東京の学校だろう。それにあたる発令人事も、都教委のホームページに見つかる。2013年12月27日付の「東京都公立学校長及び副校長の任命について」という文書で、それによれば板橋の中学で新校長が発令されているが、副校長は一挙に4人も発令されている。だから単なる「玉突き」だけではなく、副校長の休職、退職、死亡などもあったのではないかと思う。そういうことも当然あるだろうが、でも「副校長昇任試験」に合格している主幹教諭は他にはいなかったのか。校名や人名を挙げる必要はないだろうけど、地名だけ書いておくと、大田区、文京区、東村山市、稲城市の中学に勤務していた人が副校長になっている。だから前記「金曜日」に出ている事例は、このどこかの学校ではないだろうかと推測できる。 

 どの学校の担任が大事と言って、比較は難しいが、やはり進路を抱えた「中学3年の担任」が一番重要ではないか。高校なら進学や就職に経験を積んだ進路指導部が存在するだろう。でも中学は人数が少ないため担任が進路指導に関わる部分が圧倒的に大きい。東京では1月末に都立高校の推薦入試があるので、新年早々から推薦書を作成する大事な仕事がある。そういう時期に、担任を代えるとは、どういうことか。入学式にいなくても、翌日以後に取り戻すことはいくらでもできるだろう。でも、受験と卒業を前に異動してしまうのは、いくら何でも「トンデモ人事」ではないか。入学式にいなくて批判されるのだったら、このような人事を行った東京都教育委員会は最大級の非難に値すると思うのだが、どうだろうか。(ところで、僕はこのことを1月に「金曜日」を読んで知っていたが、もう発令は元に戻らないし、受験前に外部で余計なことを言ってもまずいだろうと思って書かなかった。このブログに大した影響力はないけれども。もう新年度になったから書いているのである。)

 さて元の問題に戻り、入学式の日に担任が行うべきことは何だろうか。尾木直樹さんは「第一志望でなかった生徒はうつむき、表情が晴れない場合が多い。そんな生徒の表情を見逃さず、『これから頑張ろう』と声を掛ける。こうした心のケアは担任に限らず、この日で最も重大な教師の務めです」と語っている。もっとも今の言葉は朝日新聞4月23日付の引用なので、多少本人の言葉とは違っているのかもしれない。この尾木さんの言葉は本当だろうか。これが「観念的に書かれたタテマエ的な言葉」ではないとしたら、「尾木先生はやはりすごい」と僕は驚くしかない。やはりスーパー・ティーチャーなのかもしれないが、現場で実践できる教師はほとんどいないのではないだろうか

 と言うのも、全日制高校の場合、ほとんどの生徒が「表情が晴れない」のではないかと思うのである。それが第一希望ではなかったからか、初めての電車通学に疲れているからか、知らない人間ばかりの中で緊張しているからか、それとも親が教師で入学式に来てくれないのが淋しいからなのか…それらは今の段階では判らない。何か身体的、家庭的な問題があれば、後で入学式に来ている親から話があるだろう。明日以後に面談週間などがあるから、その時にじっくり話を聞きだして、今日のところは安易に頑張ろうなどとは声を掛けないでおこうという方が、むしろ普通の対応ではないか。

 中学までは、地元で知り合いの仲間の中で暮らしているものである。時には幼稚園から小中とずっと一緒だった親友もいたりする。いくら学校選択制であっても、また途中で私立に行ったり転校する生徒がいたりしても、やはり基本は「義務教育段階は地元の友人」であり、野球やサッカー、または塾なんかも知り合いの範囲でやってることが多い。高校になって、初めて「自分一人の人間関係」の中に放り込まれることが多い。その最初の日には、後で散々問題を起こすことになる生徒であっても、さすがに「猫をかぶっている」というか「本性を隠している」ものである。入学式が終わって下校の頃になれば、もうメールアドレスやLINEのIDを交換し始める生徒もいるかもしれないけど、担任が見てる範囲内ではまだ神妙にしている生徒がほとんどだと思う。だから、問題を抱えていそうだから今日すぐにでも声を掛けなければなどとという「心のケア」は僕にはとてもできなかった。
 
 一方、その逆はないことはない。つまり入学式の最初の日から、生活指導上問題だなという服装、頭髪、態度をしている生徒である。多くの教員にとって、入学式にチェックしないといけないのは、残念ながらこっちの方だろう。入試の日には真っ黒だった髪の毛が入学式にはもう茶髪っぽい生徒、明らかに勉強の意欲に欠けるムードの生徒、ひどい場合には入学式の日に喫煙で捕まる生徒。そんな場合もないことはないのである。そして、そういう生徒の指導は担任がまずするというより、最初は生活指導部で一括して対応すると思うから、担任が欠席していても指導はできるはずである。大変残念なことだけど、僕には入学式の日にあるとすれば、「心のケア」以前に「生活指導」である場合の方が想像しやすいのである。

 朝、生徒が決められた教室に集まる。10時開式なら、9時ころだろうか。最近の中学には、始業式の日の午後に、さっそく入学式を行う学校もあるやに聞くけど、高校では始業式の翌日がほとんどだろう。在校生は「自宅学習」にして、入学式には登校させない。初めてバスや電車で来るわけだから、遅れてしまう生徒も少しはいる。(それを心配して、教員より前に来ている生徒もいるものだが。)まず担任が行うのは、入学式の式次第の説明と「呼名」の確認。最近は難読人名が多い。願書に振り仮名があって、それをもとに資料を作ってあるけど、必ず最初に確認がいる。「跳」と書いて「リズム」と読ませるとか、「走」と書いて「らん」と言う名前だったとか。いや、これは実例を挙げられないので今僕が作ったもので、さすがにここまではいないだろうけど、とにかくそういう名前もある。「石田優奈(ゆうな)」の次が「伊藤優実(ゆうみ)」、次が「岩崎裕美(ゆみ)」だったりするので、とにかく要注意である。「大島優香(ゆうか)」なんて生徒がいると、読む方もあがっていると「大島優子」なんて呼んでしまうので、クラスで一度予行練習をして読み方も再確認するだろう。そうしているうちに、トイレに行かせれば、もう廊下に並ぶ時間。並び方、式場での座り方は説明してある。

 式が始まると、開式の辞、国歌斉唱のあとは、すぐに「新入生入学許可」で生徒の呼名である。それが終われば、後は校長や来賓の式辞を聞き流す。(まあ、式後のことを考えてしまうので、担任は聞き流しているでしょうね。)11時頃に式が終われば、親は会場に残して、生徒は教室へ。または写真を撮る学校は、写真撮影会場へ。その前後に「ロッカーの説明」をしないといけない。場所を教え、上履きや体操着を今日から入れていいけど、必ず鍵をするようにという話である。鍵を入学式の日に持ってくるように伝えてあるわけだが、やはり持って来ない生徒が多い。その間に鍵なしで使って無くなっても困るので、「鍵は学校でまとめて用意する」という学年も今まであったけど、そこまではしない時が多いのではなだろうか。ロッカーにも個人名を書かないなど、今は慎重な配慮が必要である。

 教室へ戻れば配布する印刷物が山のようにある。明日以後の予定。教科書購入の予定。(高校は教科書を自費で買うわけだから、業者が来る日に購入費を持って来させるのが大変である。)健康診断がすぐだと、問診票とか検便の用具とか。その間に、配布物を生徒は後ろに配るので、お互いに多少の会話を交わす。担任も自己紹介をしたり、多少クラス経営らしくなる頃に、親がやってくる。親はその間に、今年は「授業料に関する詳細な資料」、これは前に書いたけれど非常に複雑な制度に変えられてしまったので、その説明が事務室長(東京では「経営企画室長」という不思議な名前である)からあったはずである。また高校で親がほとんど来るのは、その後は卒業式までないことが多いので、PTAの役員決め、というか今はPTAと言われてきた組織に入るかどうかも保護者の選択という時代なので、是非入って欲しいというお願いなどが行われているのである。

 こうして、気が付けばもう12時過ぎ。時には12時半を過ぎている。長いなあ、お腹も空いたなあというムードが生徒はもとより親からも伝わってくる。だから、ここで長々と親子に向け「所信表明演説」をしたり、自分の教育論を語る時間はない。とにかく生徒には明日以後の面接でいろいろ話そうねということで、生活指導上特に問題な生徒がいなければ、「頑張ろう」などと声を掛ける暇もなくホームルームも終わっていくのである。それでも、「うちの子はこれこれで」という話を伝えたい親が必ず数組残るわけで、職員室に戻れたのは1時を過ぎているということになる。昼食をはさんで当初は1時頃より次の会議が予定されていたが、1年生が長くかかったので、では2時から「分掌部会」、3時から「教科会」などと時間を遅らせるというお知らせが職員室のホワイトボードに書いてある。前日までは「1年生の学年会」の時間が大量に必要だったわけで、その分、分掌部会や教科会が入学式以後に繰り越されたりする。昔は式後に学校内で「お祝いの会」などをやった時代もあったように思うけど、今は昔、そんな余裕もないし、そんなことは今では許されない。こうして入学式の日が過ぎていくのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「入学式と担任」問題①

2014年04月29日 00時07分03秒 |  〃 (教師論)
 埼玉県の県立高校で、新入生の担任が自分の子の入学式に出席するために、休暇を取って入学式にいなかったという事例があった。該当者は4人いたという。多分、他県でもいたかと思うし、また休暇を取らずに我が子に淋しい思いをさせた教員もいたのだと思う。なぜ問題化したのかと言えば、出席していた県議がフェイスブックに書き込んだかららしい。それに対して、尾木直樹氏が「プロ意識に欠ける」と教師側を批判、大きな話題となってしまったわけである。この問題に関しては、あまり書きたくないと思っていたのだが、自分はちょっと違った観点で見ているので、やはり書いておこうかなと思った。まず「あまり書きたくない」と思う理由を書き、続いてこの問題に関する自分なりの見方を書きたい。その後、入学式における担任の仕事学級担任の決め方なども書ければと思っている。

 書きたくないというのは、「正解がない」「他人のプライバシーに踏み込まないと判断ができない」、「書くといろいろと傷つける人が出る」、そういう問題には触れないでスルーするのも「大人の知恵」ではないかと思うからである。でも書いてしまった人がいて、全国紙各紙に取りあげられてしまった。僕が書いても、まあいいのだろう。僕はその県議が誰だか知らないし、どの高校かも知らない。そのくらいなら調べていけばネットで判るかもしれないが、埼玉の事情を知らないから、知ってもあまり意味がない。さらに、その教師の子どもが進学した学校がどういう学校か、またどのような子どもなのかなどは、知りようがないし、知る気もない。だけど、判断するにはそういう点が一番大事な問題ではないかと思う。

 僕が書きたくないと思う理由がもう一つあり、それは「自分には全く起こりえない出来事」だったという事情がある。僕は子どもがいないから、子どもの入学式と勤務先の入学式が重なる事態は起こらない。様々な事情により、世の中には、結婚してるけど子どもがいない、結婚もしていない、あるいは離婚して子どもと疎遠になっているなどという人がたくさんいるだろう。そういう人から見れば、この議論自体が何か遠いというか、議論したくない、もっと言えばうらやましい問題ではないか。僕だって、だから入学式は(入学式そのものがなかった時は別にして)すべて勤務しているが、自分の子を理由に入学式に休暇を取ってみたかったとも思う。

 入学式などに参加している保護者はどういう人なんだろうか、皆が皆、専業主婦か自営業者なのだろうか。そんなことはないだろう。両親そろって出席している家庭も今は結構あるし、休暇を取って参加している人が多いだろう。そういう親も「プロ意識に欠ける」のだろうか。それとも、特に教師だけ、それも新入生の担任にだけ「プロ意識」が求められるのだろうか。でも、親は他にいないのだから、全員が「わが子の教育に関してはプロの親」なんではないのか。もし、入学式で保護者席がガラガラだったら、「出席する親がこんなに少なくていいのだろうか。もっと家庭の協力がないと、学校は良くならないのではないか。親なら何を置いても子どもの入学式に参列するべきではないのか。」などと書き込む来賓がきっといるに違いないと僕は思うのだが。

 ところで、僕がこの問題を聞いて最初に思ったことは、そんなことを言ったら「教師の子どもは、親が入学式に来てくれなくてもガマンせよ」ということになるが、そこまで言っていいのだろうかということである。親が自分の入学式に来てくれたというだけで非難されてしまった。来てもらってはいけなかったのだろうかと悩んではいまいか。一方、休暇を取らなかった教師の子ども(も多分全国にいることだろう)も複雑な思いを持っているだろう。批判を恐れず休暇を取った親もいると判ってしまった。どうして自分の時は来てくれなかったか、自分はそれほど大事にされていないということかなどと悩んではいまいか。そういう風に、子どもの心を想像すれば、この問題は触れない方が良かったんだろうと思うわけである。

 「担任が入学式を欠席してはいけない」と言っても、さすがの県議と言えども、「親の葬式」による忌引きなら問題視しなかったのではないか。(それとも最近は、親が死んでも学校に来いという人もいるのかもしれないが。)「権利ばかり言う」と批判しているようだけど、「年休」を申請して認められているので、「権利ばかり言う」というのは違うのではないか。確かに、年次有給休暇は理由を問わずに認められている。でも、自分の子どもの入学式と判っているのだから、事前に相談しているのである。そして、校長はその年休を承認した。さすがに「子どもとディズニーランドに行くので」といった理由なら、校長も「時季変更権」を行使したのではないだろうか。それでも子どもと遊びに行ったというのなら、確かにそれは「権利の濫用」ではないかと僕も思う。

 校長が年休を承認したのはどうしてだろうか。学校ごとの事情もあると思うが、学校の状態がうまく行っているのなら、「わが校なら入学式に担任が欠けても応援で乗り切れる」という判断もあったのかと思う。小中の場合、学校によっては教員数が少なく応援態勢が組めない場合もあると思うが、高校なら学級規模が大きい場合が多く、何とかやりくりできるのではないだろうか。もう一つは、自分の学校でも「保護者は全生徒分来る」を前提にしていただろうということである。体育館に設置する保護者席の椅子の並べ方、当日配布する書類の枚数…そういうものを「保護者は各生徒分は来る」ものとして用意しただろうと思う。こっちも親はみな来ると思っている以上、他校もそう思っているだろうから、行くなとは言えないのではないだろうか。もちろん、そういう事情がある教員を新入生の担任にすべきではないという意見も見受けられた。でも、それは次回以後に検討するように、難しい問題もあったのだろう。そうすると、子どもの入学式というのは、校長としても仕事を優先して欲しいとは言いにくいだろう

 要するに、「教師の代わりはある」けれど、「親の代わりはない」のだから、「まあ、あまり望ましいことではないだろうけど、やむを得ないのではないか」というあたりが僕の考えである。つまり、僕ももちろん、「学級担任はいたほうがいい」と思う。でも、この問題は「権利を優先する」という非難は当たらない事例ではないか。最初に問題化した県議は「権利ばかり言う教員」という言い方をしている。こういうのは、昔から保守系の政治家が教師などを批判するときの「定番的表現」である。だから、多分、これを言い出した県議は保守系で、昔の「教師聖職論」的な流れで言っているのではないかと思われる。それに対して、尾木氏の議論は「プロの職業人」という方向での批判になっている。これは「教師聖職論」というよりも、むしろ「教師労働者論」の流れの中で出てきているとも考えられる。古いタイプの組合闘士の教員だったら、入学式当日から「団結を乱す」「私生活優先」の教師に眉をひそめるのではないか。

 しかし、親にも事情がある。親が入学式に出る目的の一つは「担任の顔を見る」ことだから、確かにいないと困るのである。でも、事情は相互に同じだから、なかなか非難はできないだろう。入学式に親が来ないうちは限られている。何か事情がある家庭と思われてしまいかねない。これから以後は、保護者会の日時が重ならなければ出られるが、大体同じころに設定されるので重なることもあるだろう。そっちは担任が必須なので、抜けることはできない。要するに、入学式ぐらいしか子どもの学校に行けないのである。教師の子どもだから成績がいいとか、いじめに関係ないとか、そういうことはない。教師の子どもでも、成績が下位だったり、不登校気味だったり、いろいろと配慮を要するケースは多いだろう。スイミングクラブに通わせているから、髪がちょっと塩素で脱色気味になっているという子どもの場合、親が高校の生活指導の方針を理解していないといらざるトラブルが起こる。場合によっては黒く染める必要があるかもしれない。学校ごとによって違うので、最初に親が確認しておかないと、子どもがいじめられたりする恐れがある。

 親が入学式に出て、学校の方針を知る必要が昔に比べて格段に大きいのである。昔のように「学校にお任せ」ではやっていられない時代なのである。そのことは自分も教員だから、よく判っているだろう。だからこそ、自分の学校を欠席しても、わが子の入学式に出ざるを得ない。単に「子どもの入学を祝う」と言うだけの問題ではない。どうしてそうなったかと言えば、「親は教育サービスの消費者である」という教育政策を進めてきたからである。中学校やところによっては小学校まで、「学校選択制」を実施している地域がある。ましてや、高校は義務教育ではないので、留年もあれば退学もある。たくさんある高校の中から、自分で調べて選んだ高校を受験して合格した。でも具体的な生活指導方針や進路指導の状況は、入学してから初めて説明されるだろう。それを親に知ってもらい了承しておいてもらわないと、学校としては非常に困るのである。だから、もう何十年も入学式には親が来るということを前提にして、高校の指導が進められているのではないか。もちろん全員の親はそろわない。でも、よほど病弱や多忙か、何かないと入学式に来ない親はほとんどない。そういう状況になっているからこそ、休暇を取って子どもの入学式に参加するというのもやむを得ないのではないか…と思うのだが。

 この問題は、「権利か、仕事か」の対立ではなく、「親どうしの葛藤」の問題だろうと思う。そして、教育の本質は「贈与」だと思うので、担任がいなくて失望した親も多いだろうけど、「でも先生のお子さんからすれば、やっぱり来てほしいだろうなあ」と思って、事を荒立てないでいいかなと思う。そんなあたりがいいのではないか。なお、僕が唯一なりそうな立場としては「学年主任として、どうしようと相談される」というケースがある。その場合、まあ困ったなあとは思いつつも、何とかなるから大丈夫、みんなでフォローするからと言うだろうと思う。そう言いたいと思うけどなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育の中の「強制」という問題

2013年02月26日 00時54分42秒 |  〃 (教師論)

 「体罰」から派生して考えてきたことも長くなったので、今回で一応終わりとしたい。今回ニュースを見ていて、なんだか違和感を持った言葉がある。スポーツ評論家が「このような指導をしていては、自分で考える選手が育たないので、国際的選手を育成できない」みたいなことを言っていた。いつ、単なる学校の教員が「国際的選手の育成」を担うことになったのか? まあ、今回は体育科で起こった問題だから、「単なる学校の教員」というのは間違いかもしれないが、その後の処分なんかを見ていても、やはり「単なる一公務員」である。「校長の学校経営方針に従って業績をあげる」というのが最大の仕事とされていたはずである。

 暴力が過ぎたけれども、指導方針そのものは学校の方針を受けたものだったはずだ。しかし、この教員は異動方針の年限を超えて、その高校に在籍していたという。これでは特別扱いであって、こういうことがあれば「自分は特に期待されている」「特に部活の成績を上げる必要がある」と思うのは当然だ。全国でいろいろ体罰問題が明るみに出たが、私立はもちろん、公立でも同じ学校で長く指導を続けていた教員が多いように思う。他の教員は6年くらいで替わってしまうのに、ある人だけ「君はこの学校に不可欠だ」となれば、そこには必ず「おごり」が生じるに決まってる。10年以上もいて、その間何回も全国大会に出場した実績があったりすれば、数年で替わる校長などでは何も言えなくなってしまうのではないか。

 僕がずっと気になっているのが、「教師の権力者性」と言う問題である。まさに「暴君」のごとく全部自分で仕切らないと気に入らないような教師もいる。一方、教師は「生徒の支援者」であるからして、「自分は全く権力者などではないし、教師が権力者であってはならない」というような発想をする教師もいるだろう。これは正反対のように見えて、「自分の権力行使に鈍感である」という点で全く同じなのではないかと昔から思ってきた。成績を決めたり、生徒指導を行うのは、「権力行為」に違いない。ルールに従って、テストの点数でほぼ自動的に成績を付けている場合も多いだろうが、それでもその結果が校長印を押されて上級学校への入学検査に使われるのだから、その成績評価は「権力」として生徒に作用する

 教師は授業を通して成績評価権を持っている。それが学校を成立させている基盤である。生徒は学校に来ている以上、勝手に授業を抜け出したり、授業中に携帯電話で通話したりしてはいけない。だから生徒の自由は学校で制限されている。授業を受けないで家で寝ているという「選択可能性」は与えられていない。いや、そういう行動を取りたければ取ってもいいが、その間も学校は授業を続けているし、休むだけ自分の評価が低くなる。上の学校や会社は、休まず元気に通学し成績もよい生徒が好きである。部活動もやっていた方がいい。だから直接的な「暴力性」はないけれども、間接的に社会の影響を受けることで、学校という場所の「強制性」が生まれる。(もっとも僕は「いじめ」「体罰」「パワハラ」などにあったら学校に行く必要はないと思っている。)

 このような「学校という場所の強制性」を考えて、だから「教育は強制だ」と言ってしまう人もいる。学校は近代国家が作った近代の制度であって、生徒は学校教育を通して、近代人としての身体と知識を身に付ける。江戸時代の武士たちは、そのままでは近代装備の軍隊で使えなかった。一定の時間に登校し、列を作って責任者の話を聞き、一定の団体行動が取れ、教室では一定の時間きちんと座って話を聞いていられるという「近代人の身体」は学校教育で得たものである。これは全員が身に付けておかないとまずいので、当然教員や生徒が意識するかどうかは別にして、長い時間をかけて「強制」されてきたものである。

 しかし、だからといって「教育の本質は強制だ」という言い方はどんなものだろうか。僕たちはすべてのものごとを全部自分で判断することはできない。「それは常識だ」「それは前提だ」という部分は疑わないで、カッコに入れて行動するしかない。「近代の教育制度」というものも、僕たちには「前提」であって、一々そこにさかのぼって「なぜ学校教育そのものが必要なのか」などと考えて働いている教師はいない。「学校制度の強制性」は問うまでもない前提であって、その中でどのような人間形成を促していくかということを考えないと生産性がないと思う。

 学校では教科書を使うが、だからどの教科書を使っても、「何らかの強制」になると言われたことがある。中学歴史教科書の問題で、扶桑社(当時)の教科書の採択を批判する運動をしていた時に言われた言葉である。僕には全く理解できない意見だった。そういうことを言い出したら、すべての教科書を使えない。ダーウィンの進化論を教えてはいけないというキリスト教原理主義者がアメリカには今もいるそうだけど、「様々な意見がある」などという言い方では、進化論を教えられなくなる。僕が考えるには、すべてを疑っては生活できないので、初中等教育ではその世界の「通説」を中心に教えるしかないだろうと思う。

 近代教育そのものに「強制性」があるし、近代以前の教育(とはつまり「家業」をたたきこむことだが)は完全に「強制」である。前近代は職業の自由がない身分社会だから、今僕たちが普通思っている教養教育とか職業教育の必要性そのものがない。教育に「強制性」が存在する以上、教育を担当する教師には「権力者性」が当然ある。だけど、その「権力者性」というのは、どのように発動されるべきものなのだろうか。その場を収めるだけだったら大声で威圧する方が早いという時は当然あるわけだけど、「暴力で支配する」という方法が良くないのは、「生徒の選択可能性」を育てないからだ

 前回書いたように、「暴力」は人間の選択可能性を奪っていってしまう。だから、学校で暴力を使うと、その場は収まっても、生徒の育成ができないということになる。では、「教師の権力者性」はどういうものだろうか。それは「サッカーの監督」あるいは「映画や演劇の演出」のようなものではないか。選手の選抜、交代に責任は持つけど、自分はプレーしない。自分では舞台に上がらず、あるいは画面に映らず、他の演技者に裏で演技指導をする。中には自分が全面に出てしまう部活顧問や学級担任がいるもんだが、教師は裏方で生徒を演出することが楽しみであるべきだ。その演出のさじ加減に「強制性」を生かすということだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「歴史認識」としての「体罰問題」

2013年02月22日 00時23分58秒 |  〃 (教師論)

 「体罰」と教育の歴史という視点は、数日前の朝日新聞で論じられていた。僕もそれは非常に重要な問題なので、一度書いておきたい。今井正監督が1972年に作った「海軍特別年少兵」という映画を見たことがあるだろうか。海軍で特別にまだ14歳の少年兵を受け入れる制度を作った時の「年少兵」の物語である。これがほぼ「体罰か、愛の教育か」という展開の話になっている。地井武男が毎日映画コンクール男優賞受賞の名演で、体罰を信条とする工藤上等兵曹と言う役を熱演している。彼は下士官として、兵の教育は「連帯責任」と「体罰」と確信している。そして、その確信をもとに少年を鍛え続ける。

 その結果、確かに少年との絆も深まるのだが、どうしてもついていけない少年もいる。一方、それを見ている教官の中には、兵と言っても年齢を考えると「愛の教育」がベースになければならないのではないかと工藤の方針に疑問を抱く者もいる。こういう対立の中で、様々なエピソードが起こる。この映画を昨年何十年ぶりかで見直し、こういう「教育の映画」だったかと驚いた。映画の中では「海軍の兵を育成する」という大方針は前提で、対象の少年兵の年齢がかつてなく若いため「従来の軍隊教育と同じでいいのか」という問題が提起される。工藤は悪役としては描かれていないので、「軍隊内の体罰」を問題視しているわけではない。

 しかし、この映画だけでなく、様々な映画で判ることは、帝国陸海軍は恐るべき「体罰」が日常化した社会であったということだ。そのことは「真空地帯」などの純文学作品を左翼独立プロで映画化した作品だけでなく、大映の「兵隊やくざ」シリーズなど大衆的な映画シリーズでも印象的である。特に陸軍の内務班が暴力の巣であったことは、誰でも知ってる常識というべきだろう。戦前は中高等教育に「軍事教練」が必修化されていた。これは1925年以来のことで、ほぼ昭和の教育の問題と言える。「総力戦」時代となり、やがて兵となる男子には学校時代から訓練を施しておく必要が増したが、それより軍縮条約による師団削減からくる将校のリストラ対策だったのは周知のことだ。当時の宇垣一成陸相はいわゆる「宇垣軍縮」を進めたが、人員を減らす代わりに、装備の近代化と教練の必修化を勝ち取った。この結果、軍隊流の訓練が教育現場にはびこるようになるんだと思う。

 さらに戦争の激化とともに教師もどんどん兵隊に送られ、軍隊の暴力的指導を経験した。戦後、兵隊帰りの教員が大量に教壇に復帰したが、そのころは公務員の給料は非常に低かったから、中にはモチベーションの低い人もいた。一方、生徒は戦後の自由な価値観を持って育っているから、教師と生徒の価値観が違う場面が多かった。そういう時に、すぐに「体罰」を行う教師がいたわけである。1950年代、60年代には、そういう軍隊経験者ですぐ体罰に走る教師、というタイプがいたのである。

 僕は学校教育法に「体罰禁止」が明記されているのは、このような軍隊教育との断絶宣言戦前教育の負の遺産を引き継がないという宣言だろうと思っている。そこには「過度の精神主義の否定」も含まれる。運動部の指導に限らず、受験勉強だって「気合い」というハチマキを締めさせたりする人(塾や予備校など)もいるし、学校の行事をすべて「精神鍛錬目的」にしてしまう教師もいる。そういうことも全部含めて、精神主義的指導がどこから来ているのかという「歴史認識」が教師にないと、熱心さのあまり「軍隊流指導」にすぐなってしまう風土があるのだ。教師には、教育技術だけでなく、教育史への深い知識も必要なのだと思う。

 また「連帯責任」という発想を問い直すことも大事ではないか。部活で試合に負けて主将が殴られるのは、チームの責任を責任者が一身に負うという発想である。そのやり方で、一致団結したチームが頑張るということもありうる。そうやって生徒同士の責任制度、江戸時代の年貢の村請制度のように、生徒同士で助け合う、(または生徒同士でお互いに責任をなすり付け合う)というシステムを作ってしまえば、教師の指導は非常に楽になる。そのような「班活動による生徒の連帯感の育成」という戦後の教育運動の中で培われてきた方法も、再検討がいると思う。歴史の再認識をしていかなければ、現代教育のアポリア(難問)は解けない。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「心罰」という大問題

2013年02月21日 00時35分35秒 |  〃 (教師論)

 体罰問題を先に書いてしまいたい。何回か断続的に書いているけど、「『体罰』と『私的制裁』の間」の中で、「体罰」の「体」の方の問題を書くと言ってる。その問題を。「いじめ」でも警察に訴えるということが最近は多いが、警察としても「暴行罪」に認定できる材料がないと、なかなか今のところ難しいようだ。「体罰」は、実は「私的制裁」だと書いたように、行き過ぎた暴力は刑事責任も問われる場合がある。それは当然のことだが、そうすると「暴力がなければいいのか」「暴力なきいじめはまだましなのか」などと言われてる気がしてきて、それは違うだろうと思うわけである。

 「体罰」問題を書く中で、「量刑の平等性」という問題提起をしてきた。それが「体罰」であれ、「罰則」である以上は「罪刑法定主義」がいる。体罰であれ、そうでない指導であれ、あの子は軽い、あの子は重いとなれば、誰も学校を信用しなくなる。実際、ほとんどすべての高校でそうだと思うが、「喫煙が見つかれば、原則○日の自宅謹慎」などとあらかじめ決まっているはずである。大体一回目だと3日くらいが多いのではないかと思うが、要するに事前に平等性が確保されている。

 ところが、大津市のいじめ問題でも、大阪の「体罰」問題でも、新聞等で見ている程度しか知らないが、「なんで自分が」という問題もあるけれど、もう一つ「この苦しみがいつまで続くのか」というその精神的苦悩が非常に大きいように思うのである。どんなにひどいいじめや暴力であれ、あるいは家庭内のDVやストーカー被害などにせよ、もし今日が確実に最後で以後は絶対ないと確信できるなら、その日に自殺する人はいないのではないか。もし絶対その日が最後になるのなら。でもDVなんかの場合、一度は反省しもう二度としない、許して欲しいと言いながら、また際限のない暴力が繰り返されるということが多いらしい。こうなると、その暴力そのもの以上に、「いつまで繰り返されるのか」という精神的苦悩がその人を追いつめるだろう。

 つまり「量刑」の問題で、事前に量刑が示されないので、事実上「終身刑」のように思えてしまう。このような苦しい日々を毎日送るくらいなら、死んでしまいたいという位の苦しみ。もちろん学校なんだから、実際には「終身刑」と言うことはありえない。卒業までで終わりである。だから多くの生徒は、学校でいろいろ嫌なことがあっても、卒業までだからガマンしようという風に思って暮らしている。でも、そこまでがあまりに遠くに思えるほどの苦悩があったのだろう。「体罰」や「いじめ」と言っても、実際は「心の苦しみ」の方が重いのではないかと思う。だから、「体罰」というより「心罰」を問題にする視点が大事なんだと思う。

 「いじめ」「体罰」などと細分化するのではなく、卒業後の企業での労働条件の問題も含め、行き過ぎた「パワー・ハラスメント」の問題と捉えた方がいいと思う。会社の中で暴力はなくても、お前は仕事ができない、お前は会社にいらない、お前は早く辞めてしまえなどと精神的に追い詰められてしまうことがある。よく「いじめ」「体罰」で「学校という閉鎖的な社会で起きる」などと言う人がいるけど、それはおかしいと思う。「保護者」という存在があるだけ、まだ学校は開かれている度合いが広く、実際は「ブラック企業」などと言われる会社の内情の方がずっと不可思議で閉鎖的なのではないか。

 そういう「リクツが通らない」社会に生徒は出ていかざるを得ない。だから親は「学校では厳しくしつけて欲しい。社会はもっと厳しいんだから」という。これが「体罰」などが容認されてしまう背景にある。だから、学校だけでなく、社会の方も変えていくという視点がないと、学校だけ良くなるということなどありえない。学校では「いじめ」や「体罰」も確かにあるので、それを問題にしていく必要があるのは言うまでもない。しかし、「暴力はいけない」というだけだと、「言葉ならいいのか」という勘違いが出てくると思う。現実は、子ども同士の間であれ、教師と生徒の間であれ、言葉で傷ついたという経験の方が圧倒的に多いはずだ。教師の場合でも、冗談半分に言い過ぎてしまうことは防ぎようがない部分もあるけど、何もあそこまで言葉で追いつめて行かなくてもいいのではないかという場面に出会うことがある。これは「体罰」より多いし、その後の「被害」は体罰より大きいことが多い

 学校の校則は正しいし、校則を破った生徒は間違った行動をしたことになるが、その正邪がはっきりしていて、生徒の側で言い返せないだけ、その気になれば教師は生徒をどこまでも追いつめられる。特に高校は義務教育ではないので、なんで好き好んでこの高校に来たのか、そんなに嫌なら退学すればいいだろうと、どこまでも追及できるのである。特に、スポーツ推薦で部活目的で入学した生徒が、やる気を失ったり、怪我したり、レギュラーになれなかったりする時に起こりやすい。部活は課外活動だから、部活を辞めても退学する必要はないわけだが、事実上学校内の居場所を失ってしまうこともあるだろう。

 このように「体罰」あるいは「暴力」とだけ捉えるのではなく、「教員による生徒に対する精神的な圧迫」として問題化していかないと、また別の問題が起こるのではないか

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする