goo blog サービス終了のお知らせ 

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

日本の街にはなぜゴミ箱がないのかー「不便社会」になりつつある日本

2025年05月21日 21時39分37秒 | 社会(世の中の出来事)

 外国人観光客に日本の印象を聞くと「街にゴミ箱が無くて困った」という感想が多いようだ。さらに言うと「日本はゴミ箱がないのに街がキレイ」という感想になる。そこで日本人は清潔好きでゴミを捨てないから、ゴミ箱を置かなくて良いのだなどと解釈する人が出て来る。これは大きな間違いで、数年前まで駅にはちゃんとゴミ箱が置かれていた。僕も駅のゴミ箱がなくなって困っている。だけどゴミ箱があると家庭ゴミを持ち込む人もいるから「家庭ゴミは捨てないで」などと注意書きがあったものだ。

(「感動」する外国人観光客)

 駅のゴミ箱がなくなったのは、「コロナ」が直接のきっかけだろう。コロナ前も何か大きな会議、サミットなんかが日本であると、「テロ対策」とかゴミ箱が使えないようにされたりした。コロナ緊急事態宣言で街から人が消えた時も、確かゴミ箱が使えなかったと思う。電車自体は間引きされても動いていたが、「感染防止」の観点から(つまりマスクなどが不用意に捨てられると、処理する駅員に感染の恐怖がある)使えなくなったように思う。そして、いつの間にか自販機の缶やペットボトルの回収を除き、駅からゴミ箱がなくなった。(いつだか覚えてないけど、そういうお知らせはあったような記憶がある。)

 最近では映画館や劇場などでもゴミ箱が少なくなってきた気がする。最近浅草演芸ホールで「入場料金改定のお知らせ」という告知がホームページに掲載されたが、そこには「処理費用削減の為、御持参した品物についてはゴミをお持ち帰り頂き、こちらで御購入頂いた物のみ回収致します。」と書かれている。ホール内に売店はあるので、そこで売ったもののみ回収するわけである。これは山小屋と同じ方式で、要するに街へ出かけるのも登山と同じようになってきたわけである。だから「SGDs」的観点から望ましいと考える人も出て来るが、ホントの理由は事業所の「処理費用削減」なのである。

 事業系ゴミは有料だが、家庭ゴミは無料だから、自分のゴミは家で出してくれというのが今のゴミ事情である。観光客は家がないから、家にあたるホテルのゴミ箱に捨てるわけで、さすがに今のところホテルのゴミ箱は残っている。駅にはキオスクも無くなってしまい、新聞・週刊誌を駅で買うことも無くなった。人手不足ということが大きいんだろうが、ちょっと小腹が空いたなというときは、コンビニで何か買おうと思うと今度はコンビニのゴミ袋が有料である。駅の前に街角からゴミ箱が消えていったが、昔の映像を見るとかつては街中にもちゃんとゴミ箱があった。何事も経費節減でゴミ箱が無くされていったのである。

(嵐山ではゴミが散乱)

 京都・嵐山が桜や紅葉のシーズンには完全にオーバー・ツーリズム状態になっているらしい。ゴミ箱に入りきらず、ゴミが散乱しているから、京都市はゴミ箱を撤去すると出ていた。これは本末転倒で、ゴミが多すぎるからゴミ箱を無くすのではなく、普通ならゴミ箱を増やして回収も増やすのが当然の道筋だろう。だけど、観光客が多すぎて迷惑だという文脈で語られると、じゃあゴミ箱を無くせばという発想になる。だけど食べ物を売ってる店がある以上、どこかでゴミを処理する必要がある。観光客を受け入れている以上、行政当局もゴミ回収をするべきだし、その費用のために「宿泊税」があるんじゃないだろうか。

 ところで街から消えつつあるのはゴミ箱だけではない。例えば時計もすっかり見なくなりつつある。特に駅にあったはずの掛時計が最近は無いのである。東京の私鉄・JRでは数年前に回数券が無くなってしまい、とても困った。確かにICカードがあるときに回数券を残しておくのは面倒だろう。(そしてICカードも負担が大きいとして無くなっていくらしい。)こういう道筋は理解できると言えばその通りなんだけど、会社や自治体が経費節減を優先し過ぎて日本は「不便社会」になりつつあるんじゃないだろうか。それを「不便」と思わずに、「日本の素晴らしさ」などと宣伝するのは欺瞞というしかない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「電話が怖い」考、固定電話の加入率はどのぐらい?

2025年05月20日 21時56分26秒 | 社会(世の中の出来事)

 「電話が怖い」という理由で仕事を辞める若者が増えているとニュースになっていた。こういうニュースだと、どうしても「最近の若者は使えない」という文脈で報道されがちだ。特に「固定電話」というものを使い慣れていない世代というスタンスで語られることが多い。仕事で使う電話というものは、誰であれ「会社を代表して電話に出る」ことが求められる。家族や友人との通話と違い、自分の方から「○○会社○○部○○でございます」「いつも大変お世話になっております」などきちんとした言葉遣いが求められる。慣れていないと、確かになかなか難しいだろう。でもまあビジネス常識だから、そのうち慣れるはずだ。

(「電話が怖い」)

 僕が思うに、それ以上に「電話の役割が変わった」ことが大きいのではないかと思う。多くの人がスマートフォンを持っていて、今も「ケータイ」と表現することも多い。出てきた当時は確かに通話に使用する「携帯電話」だったのだが、最近は町でもほとんど通話している人を見ない。(もっとも僕はビジネス街など歩かないので、実際はもっといるんだろう。)でも電車で見る限りでは、スマホはほとんど「ゲーム機」「音楽プレーヤー」「本(漫画雑誌)」「新聞(ネットニュースを見る)」などとして使われている。自分もスマホで電話するのは、一年に一回あるかないかだ。(でも大事な時のため必要なんだけれど。)

 今は家族や友人との連絡は主に「SNS」(または「電子メール」「ショート・メッセージ」)などで行う。親しい間柄では特に緊急性がある場合を除き、相手の時間を奪わないためにも文字通信を送信することが多い。若い世代だとすぐに返信しないといけないとか、いろいろ大変な謎ルールもあるらしいけど、基本的にはその日の内に連絡すれば大丈夫な内容だろう。そういう時代に「電話」が来るというのは、単にたまに声を聞きたいのかもしれないけど、もっと緊急性のある知らせだと予感させてしまう。

 思えば教員時代も、けっこう電話は鬱陶しいものだった記憶がある。「保護者への電話」「保護者からの電話」である。今は生徒や保護者とメールしてはいけない(だからメールアドレスを知らない)という学校が多いだろう。(もちろんSNSでの連絡も不可だろう。)そうなると、何か連絡すべきことがあれば電話するしかない。誉める内容で保護者に電話することはほとんどないだろうから、要するに問題があった時だけ電話するのである。保護者からの電話も同様で、いつもお世話になってます程度でわざわざ電話があるわけないので、やはり苦情(まではいかなくても質問)が多いだろう。どうも僕もあまり受けたくはなかったと思う。

 同じようなことは会社でも言えるだろう。ホントのクレームは今は会社に掛からないことが多い。「お客様センター」みたいなところに行くことになっていて、それは社員じゃない人が受けているのかもしれない。会社に掛かってくるのは、消費者そのものというより、取引先などだろう。その場合も単なる事務連絡ならメールで済ませるんじゃないかと思うから、わざわざ電話してくるのは何かクレーム的なものが多いんじゃないか。要するに「電話が怖い」というより「クレームが怖い」という方が多いんじゃないだろうか。教員でも「保護者からの電話が怖い」と辞めてしまいたい人は結構多いだろうと思う。

(固定電話加入率)(固定電話加入者数)

 ところで、ここで「固定電話の加入率」を見ておきたい。これをちゃんと判っているかどうかは、「日本社会の理解」のために欠かせないと思う。人によっては引っ越しをきっかけに固定電話を解約してスマホだけにしている人も多いらしい。大学進学などで都市部に出て来た学生なども、ほぼスマホだけだろう。(パソコンやテレビもないかもしれない。)だから、そういう人が多い中で暮らしていると、エッ、今どき固定電話がある人なんてほとんどいないと思っている人がいる。まあ3割ぐらい? 5割ぐらい?

 2022年の調査だが、全体では65,5%が固定電話に加入しているデータがある。国民の3分の2である。固定電話というのは「家」にあるものだから、全世帯数のうちどのぐらいに固定電話があるかというデータである。そうすると、下宿学生などは住民票を移してないことが多いだろうから、それを考えればもっと多いとも言える。だけど、そういう学生でも実家には固定電話があることが多いのである。なんで今でも固定電話を使っているかというと、要するに知り合いや銀行などに通知している連絡先が何十年も前から同じ電話番号になっていて、今さら変えるのが面倒なことが多いんだと思う。(スマホの番号は覚えられなくて本人確認に使えない。)

 また一家に誰かいれば電話に出るわけだから、病気などのことを考えると固定電話の方が良いのである。スマホは外出には持ち歩くが、家にいる時は高齢者はどこかに置いている。あちこちに子機がある固定電話の方が使いやすい。僕の場合、映画館で鳴り響くと困るので、電話もメールなども全部サイレントにしているから、スマホに電話されても判らないことが多い。まあどうせ怪しい電話がほとんどなので、出なくてちょうど良いとも言える。

(固定電話の世帯主年齢別データ)

 ところで固定電話の年齢別加入データが上記画像。20代、30代はほとんど加入していない。40代以上から増え始め、60代以上は80%以上になっている。高齢者の非加入者は、スマホのみという場合もあるだろうが、そもそも固定電話もスマホもないという人も出て来るんじゃないか。ところで、この高齢者の世代だと、何年も前の自治会名簿などに出ているのと同じ電話番号という場合が多い。20世紀までは、学校でも生徒や教員全員の住所、電話番号の名簿を作成して配布していた。公開情報だったのである。その名簿情報を悪用する人がいるわけだが、そういうことに使われるとは予測出来なかったのである。

 40代ぐらいから固定電話加入率が増えるのは、単に世代的なものなのか、それとも「家庭」があるようになると固定電話がいるのか、まだ僕には判らない。今後は確かに固定電話は減っていくとは思うが、それは単身者の増加によるものであり、高齢世帯の固定電話はなかなか減らないと予想できるんじゃないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「情報化社会」の成立、その光と影ー「現在史」の起点1995年⑥

2025年01月07日 21時55分25秒 | 社会(世の中の出来事)

 1995年の「ヒット商品番付」(日経流通新聞)東の横綱は「ウィンドウズ95日本語版」が選ばれた。新語・流行語大賞トップテンには「インターネット」が入っている。ヒット商品番付を見ると、1996年に「激安携帯電話・PHS」、1999年に「低価格パソコン」が選ばれている。2000年の新語・流行語大賞年間大賞は「IT革命」だった。つまり、1995年に始まる数年が情報通信革命の真っ只中にあったことがよく判るだろう。このため世界がすっかりかわってしまったのである。(ちなみにヒット商品番付2010年に「スマートフォン」があり、新語・流行語大賞トップテン2011年に「スマホ」が入っている。)

 1995年を起点にこの30年間を考えると、一番大きく変わったのは「いま自分がこのブログを書いていること」だ。こういう「インターネットで誰もが発信出来る世の中」が来るとは想定できなかった。この人類史的大変化を一応「情報化社会の成立」と呼んでおきたい。検索してみると、「情報化社会」とは「インターネットをはじめとした通信インフラの整備やデジタル技術の進化によって情報の生産や処理、消費などが中心となった社会」だそうである。ま、そういう世の中になって、良かったこともあるし良くなかったこともある。「光と影」である。「夢のアイテム」が実現したら、「悪貨が良貨を駆逐した」のだろうか。

(携帯電話普及率1993~2024)

 データの確認をしておきたい。総務省による上記グラフを見ると、95年3月段階ではまだ携帯電話の普及率10%だった。それが96年3月には約25%97年3月には46%に急上昇している。10人に一人とは「知ってはいるが、まだほとんど持ってない」状態だが、95年だけで2.5倍に増え、翌年にはほぼ半数の人が持つようになった。これはその時代の記憶に大体合っている。ただこの段階の「携帯電話」はまさに「携帯電話そのもの」でしかなかった。つまり通話機能しかなかった。携帯電話と言う製品なんだから当たり前である。それだけで皆がすごいもんが実用化されたとビックリしていたのである。

 携帯電話普及以前の「最新通信機器」はポケベル(ポケットベル)だった。90年代半ばに高校生を担任したときには、まだ携帯電話ではなく「ポケベル」で生徒に連絡したことを覚えている。ポケベルはそれまでは新聞記者や医者などを緊急に呼び出す以外の利用はなかったけれど、その頃に「女子高生の必須アイテム」になった。この頃も携帯電話そのものはあった。ただあまりにも重くて、また高価なため、一般人が持つものじゃなかった。旅行会社が遠足用に貸してくれたりした。生徒も携帯電話を持っているわけじゃないので、近くの公衆電話から連絡するしかなかったのである。

 下記のグラフは主要な情報通信機器の保有率だが、1999年段階で携帯電話は6割を超える人が持っていたが、パソコンは3割ほどしか持っていなかった。自分の場合、携帯電話は1997年に初めて持ったが、まだパソコン(インターネット)は使ってなかった。初期の段階では、どっちも「仕事で必要」という理由で買うものだった。携帯電話は営業職などであり、パソコンもネット上のコンテンツがまだ少なかったので、会社や学校など「組織」がホームページを作り始めたというレベルだった。

(情報通信機器の保有率1999~2016)

 コンピュータというものは、もちろんその前からあった。学校にもあって、得意な先生が成績処理などに使っていた。それが安価な「パソコン」の発売で、少しずつ使う人が増えていき、閉じられたネットワークで会員どうしがつながる「パソコン通信」というサービスも出来た。1996年に公開された森田芳光監督『(ハル)』はその当時を伝える貴重な映画だ。(深津絵里、内野聖陽の初主演映画。)ゲーム機「ファミコン」もコンピュータだし、文書処理機能だけに特化した「ワードプロセッサー(ワープロ)」もあった。およそ半数ぐらいの教員が使っていたと思う。僕は「親指シフト」の富士通OASYSで定期テストを作っていた。

(インターネット個人利用率1997~2021)

 インターネットは上記グラフのように、1999年から2002年頃に2割ぐらいの利用率から5割を超えるほどに急激に利用者が増えた。こうなると「量が質に転化する」段階を迎え、仕事でも使わざるを得なくなっていった。(入学者選抜に利用するとか。)ネット利用者が激増すると、会社だけでなくほとんどの旅館・ホテルなどがホームページを作るようになった。僕は2000年にインターネットを利用し始めたが、旅行に行く前に旅館などの情報を確認するようになった。しかし、この段階ではネット予約はまだ出来なくて、調べた情報を基に電話や旅行会社で宿を取っていたのである。

 そういうネット勃興期には、僕もある種の「知の共和国」「民衆の広場」になる可能性があるかもと幻想を抱いていた。今はもうそういう思いは消え去ったと思う。誰かが変なこと、間違ったことを書き込んでいても、僕はもう(ほぼ)放置している。自分の時間を削って誰かに間違いを指摘しても、「難癖付けてきた」みたいにとらえる人の方が多いらしい。まあ、自分は出来るだけ確認可能なことを書きたいと思うが、そうも行かないこともある。「間違いや思い込みを書き込む」という以前に、どうでも良いことに関心を持つ人が多いのである。「悪貨は良貨を駆逐する」ことを証明した30年なのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄の異議申立て「封殺」の30年ー「現在史」の起点1995年⑤

2025年01月06日 22時18分34秒 | 社会(世の中の出来事)

 阪神・淡路大震災が発生し、地下鉄サリン事件が起きた1995年。青島幸男が都知事に当選し、アメリカ大リーグで野茂英雄が活躍した。すべて前年暮れに「来年こんなことが起きる」などと言っても誰も信じなかっただろう。というか、そもそも誰にも予想さえ出来ないことだった。そんな1995年に、もう一つ重大な出来事が起こったのだが、これは「そういうことが起きてもおかしくない」と思われたか、当初は中央のマスコミでは大きな報道ではなかったと思う。それが1995年9月4日に起きた「沖縄米兵少女暴行事件」である。この事件名はWikipediaにあるもので、一応そう書くことにする。

(米兵少女暴行事件抗議デモ))

 もちろん似たような事件はそれまでも起こり、その後も起きてきた。沖縄の歴史は長い苦難の連続で、何もこの30年に限ったことではないとも言える。薩摩藩の琉球侵攻(1609年)以来約400年、明治政府による「琉球処分」(1879年)以来約150年。米軍による「沖縄戦」(1945年)以来、80年。沖縄民衆の「異議」はすべて「ヤマト」によって「封殺」されてきた歴史だろう。沖縄民衆の抵抗運動も「島ぐるみ闘争」(1956年)など長く続いてきた。しかし、「現在史」として今に続く「沖縄問題」は、1995年に始まったと言って良いのではないかと思う。

 事件はあまりにも残忍なものだった。買い物をしていた12歳の少女(小学生)が米兵3人に粘着テープで顔を覆われ拉致され、基地内で借りたレンタカーで海辺に連行され暴行されたのである。沖縄県警は強姦致傷、逮捕監禁罪で逮捕状を請求したが、日米地位協定の取り決めによって、日本の捜査当局は被疑者米兵の身柄を確保して取り調べを行うことが出来なかった。県民の怒りは沸騰し、県議会初め各自治体で抗議決議が採択された。10月21日には宜野湾市で県民総決起大会が開会され、大田昌秀知事初め8万5千人が結集した。これは「本土復帰」(1972年)後の最大規模の抗議集会だったのである。

(1995年の県民大会)

 さすがにこの頃には本土マスコミも大きく報道し、地位協定改定を求める声が高まった。当時の大田昌秀知事は、沖縄戦研究で知られた学者で、「革新統一候補」として1990年に知事に当選した。沖縄の米軍基地は土地提供に応じない「反戦地主」が多くいて、その場合は「駐留軍用地特別措置法」によって市町村長が代理で署名し、市町村長が拒否した場合は県知事が代理署名することになっていた。しかし、大田知事は県民の激しい反基地感情を背景に、11月27日に「代理署名拒否」を明らかにした。国の職務執行命令も拒否したため、国は行政訴訟に訴え福岡高裁那覇支部は国の訴えを認めた。そして1996年8月に最高裁大法廷は全員一致で、国側勝訴の判決を言い渡した。「国の条約履行義務を果たせなくなり公益性を著しく害する」という理由である。

(代理署名をめぐる動き)

 この時は社会党委員長の村山富市が首相を務めていた。沖縄県を訴えたのも村山首相である。社会党左派だった村山が首相になった結果、当時の社会党は党内議論をほとんど行わずにそれまでの「日米安保」「自衛隊」を認めない政策をあっという間に変えてしまった。当時の社会党支持者は、(新進党を結成した)小沢一郎より自民党総裁の河野洋平の方が「まだマシ」という理屈で自社連立を納得させていたと思う。しかし、その結果として村山首相も「国家の論理」に囚われたのである。そして社会党首相を出していた本土の政治状況では、沖縄に連帯する抗議運動はあまり大きくならなかったと記憶する。

 その後、沖縄県の基地負担軽減が大きな課題となり、1997年に橋本龍太郎首相とクリントン大統領の間で「普天間基地移転を含む基地移転案」がまとめられた。普天間基地は沖縄内でも最も危険と言われる基地だが、この時の案ではただの返還ではなく「移転」とされ、移転先は名護市辺野古に決められた。しかし、この問題は沖縄県民の反対を招き、27年経っても解決していない。沖縄県と国に間では何度も裁判となったが、すべて沖縄県が敗訴している。詳しい経過を書くと長くなるのでここでは省略するが、地元名護市長選では直近2回とも自民党支持の市長が当選している。

(辺野古)(沖縄の世論調査=2024年)

 その後も2004年の沖縄国際大学キャンパスへの米軍ヘリ墜落事故など、大問題が起き続けた。8月13日と夏休み中だったので、奇跡的に人的被害が起こらなかったが、普天間基地の危険性をまざまざと実感させる出来事だった。少女暴行事件の経過を見ておくと、起訴後に日本側に身柄が引き渡され懲役6年6ヶ月から7年の実刑判決が確定した。アメリカの記録映画監督ジャン・ユンカーマンによる『うりずんの雨』は刑期終了後の3人を追っている。一人は再び暴行・殺害事件を起こし自殺していた。一人は取材を拒否したが、一人の元被告が取材に応じた。全員黒人兵で、来日した家族は人種差別を訴えた。当時の太平洋軍司令官は「レンタカーを借りる金で女が買えた」と発言したことも記録しておかなくてはならない。

(沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事故=2004年)

 その後、「台湾危機」が取り沙汰され、米軍だけでなく自衛隊の「南西諸島シフト」が進んでいる。それらの情勢から、沖縄県の米軍基地は「地政学的必要性」があると思っている人も多いかも知れない。しかし、そういう理解は間違っていると考える。米軍は戦争の結果として沖縄を占領し、多大な基地を確保した。その戦争は大日本帝国が国策として始めたもので、その敗北による結果は法的に継続している日本国が引き継いでいる。アメリカは「血であがなった軍事基地」と考えているのだ。米軍基地が沖縄県に集中しているのは、日本が始めた戦争の結末であって日本国に責任がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オウム真理教事件、世界初の都市型宗教テロー「現在史」の起点1995年④

2025年01月05日 22時39分58秒 | 社会(世の中の出来事)

 1995年を考えるシリーズは切りがないが、今のところ6回書こうかと思っている。4回目にやはり「オウム真理教事件」を書いておきたい。東京在住者としては、1995年は阪神・淡路大震災以上に、まず地下鉄サリン事件の年だった。1995年3月20日に東京の営団地下鉄(現東京メトロ)の丸ノ内線(2)、日比谷線(2)、千代田線の5本の列車内で毒ガスサリンが散布され、死者12人、負傷者約6300人を出す大惨事となった。その実行犯はその後の捜査で解明されている。それがオウム真理教教団だったわけだが、この事件を知らない世代が出て来ているらしい。検索すると警察が作った「知っていますか?」というチラシが複数出てくるから驚き。大地震は時々起こっているが、これほどのテロ事件はその後日本では起きていないからだろうか?

 (地下鉄サリン事件)

 「坂本弁護士事件」「松本サリン事件」「地下鉄サリン事件」を「オウム三大事件」と呼ぶが、いま詳しいことは書かない。調べればすぐに概要はつかめる。オウム真理教については、教団死刑囚の刑が執行された2018年を中心に何度も書いている。95年以前から怪しい気配を漂わせていて、それは1990年の『オウム真理教が選挙に出たころ』や『オカルトと神秘体験』で詳しく書いた。1994年に松本サリン事件(死者7人、負傷者約600人)が起き、当初は近所に住んでいたK氏が犯人視され報道被害を受けた。しかし、1995年元旦の読売新聞が山梨県上九一色(かみくいっしき)村(現甲府市、河口湖町)にあったオウム真理教の本拠地付近からサリンが検出されたと報道した。これを受けて、新年から何かただならぬ雰囲気に包まれることになった。

(松本サリン事件30年)

 2月28日に目黒公証役場事務長が白昼に拉致・誘拐される(その後死亡)事件が起き、妹がオウム教団にいて揉めていたためオウム真理教の犯行ではないかと疑われた。警察は確証をつかみオウム真理教への捜索を計画し、自衛隊で化学戦訓練を受けていた。だから、地下鉄サリン事件が起きた時、大部分の人は「オウムだ」と直感したはずだ。そして3月22日に、目黒事件に関してオウム関連施設への捜索が開始されたのである。それまで阪神・淡路大震災一色だった東京のテレビは、以後教祖麻原彰晃(あさはら・しょうこう、本名松本智津夫)が逮捕された5月18日を頂点に、ほぼオウム関連報道ばかりになった。

 サリンはまだ残っているという噂が根強く流れ、都庁がある新宿でテロがあるという流言で新宿の駅ビルが閉鎖された日もあった。東京の繁華街では人出がグッと減ってしまったが、そういう「恐怖の日々」はその後2回経験することになった。2011年の東日本大震災福島第一原発事故後に「計画停電」が行われ、放射能被害を恐れて人々は家に留まった。そして2020年の新型コロナウィルスパンデミックにより「緊急事態宣言」が出された日々である。もう4回目は懲り懲りだ。

 過激な宗教教団がテロ事件を起こすこと自体は今までもあった。特にアメリカの「人民寺院」事件(1978年に南米ガイアナのコミューンで918人の信者が集団自殺または大量殺人した)は有名だ。「世界滅亡」などの教義で集団自殺したり、教団脱退をめぐって信者が殺害される事件はそれまでもあった。しかし、このような「都市型無差別テロ」が起きるとは誰も思ってなかっただろう。その意味で世界に大きな衝撃を与え、社会のあり方を大きく変えてしまった。街からごみ箱が撤去され、防犯カメラが設置された。電車の網棚に新聞雑誌を置き去りにする人はいなくなった。

 それ以上に大きかったのは、オウム信者なら何でも逮捕(微罪逮捕)するのが当然という風潮が定着し、社会を「過罰感情」が覆ったことである。それがこの年ぐらいから普及する「ネット社会」で加速した。人々はクレームを恐れて口をつぐみ、言うべきことを言わず闘うべき時に闘わなくなった。(まあ、それ以前からだけど。)当初は確かにオウム教団の内情が不明だったため、「オウムにはやむを得ない」と思った人が多いのである。そして、裁判では地下鉄サリン事件だったら、実行役は死刑運転役は無期懲役と同じ判決が出された。死者が出なかった車両もあったが、「共謀共同正犯」ととらえて実行者は全員死刑判決だった。

(麻原彰晃ら死刑執行)

 麻原ら主要幹部クラス7人の死刑は2018年7月6日に執行された。その後、残された死刑囚6人が7月26日に執行された。麻原は法律で死刑が執行できない「心神喪失」だった可能性がある。13人中10人が再審請求中だった。当時『オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由①』『オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由②』を事前に書いたが、もちろん僕が書いたからと言って変わるわけもない。執行後は『オウム死刑囚、刑執行の問題点を考える』『オウム「B級戦犯」の死刑執行』を書いた。

 記録に留めるためだが、今さら読む必要もないだろう。僕が死刑執行に反対した理由は上記記事に書いた通りだが、別にオウム幹部が冤罪だとか同情すべき点がある(一部死刑囚に関しては重すぎたと思うが)というわけではない。社会から「排除」することで、人々は事件を忘れてしまう。やはりそうなりつつあるので、麻原教祖の処遇はどうあるべきだったか、皆が考え続けるような刑罰が望ましいと思うのである。「排除して終わったことにして刑罰感情を満足させる」という死刑制度そのものに反対だということである。それはオウム真理教事件でも変わらない。(変えてはならないと思っているということだ。)

(周辺住民が法相に申し入れ=2024年12月13日)

 僕は事件が起きた日比谷線は、自宅から都心に出る手段なので、毎日ではないけれどいつも使っている。六本木に勤務していたときは大きな被害を出した築地駅、霞ヶ関駅を通って通勤していた。しかし、事件当時に関しては人生でただ一回「同じ区内に勤務する」時期だったので、自分が事件にあう恐れはなかった。しかし、オウム後継団体の「アレフ」「ひかりの輪」の施設がある地区なので、今も住民協議会があって「組織解散」などを求めている。12月13日には足立区長を中心に鈴木法務大臣に要望書を提出したというニュースがあった。(足立区の会長は中学の同級生。)オウム真理教事件の風化を防ぐ運動は今も続いている。

 なお、『オウム事件の「真相究明」とは』に書いたが、両サリン事件は神奈川県警が1989年の坂本弁護士一家殺害事件に適切に対処していれば防げた可能性がある。坂本事件現場にオウムのバッジが落ちていたとされるが、何故かオウムへの捜査が行われなかった。宗教団体の殺人事件を想定できなかったと言えばそれまでだが、坂本弁護士は「横浜法律事務所」に所属していた。ここは神奈川県警による日本共産党緒方靖夫国際部長(当時)への違法盗聴事件を追及していた。

 神奈川県警は後に様々な不祥事が頻発し、警察官による覚醒剤使用事件が起きた時には、「不祥事隠ぺいマニュアル」があったことが発覚した。県警本部長が逮捕、起訴、有罪となった前代未聞の事件である。神奈川県警の坂本弁護士事件対応を国家的に検証する必要があったと思うが、それはなされなかった。明らかに問題を抱えた組織だったのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第3次ベビーブームは起きなかったー「現在史」の起点1995年③

2025年01月03日 22時14分18秒 | 社会(世の中の出来事)

 「1995年」を「現在史」の起点と考えて、今の日本を理解しようというシリーズ。基本的には「1995年に起こったこと」を基にするわけだが、ここで一回「1995年前後に起こらなかったこと」を取り上げたい。それは「ベビーブーム」「第二次ベビーブーム」に続く「第三次ベビーブームは起きなかった」という厳然たる事実である。それは以下に示す1960年から2023年までの出生数推移グラフを見れば一目瞭然である。それはなぜだったのだろうか。

(出生数)

 戦争が終わって兵士たちが長い戦争から帰還してきて、1947年から空前のベビーブームが始まった。その年が267万9千、翌48年が268万2千、49年が269万7千と最高を記録し、以後233万8千、218万8千、200万5千と1952年まで年間200万を超えていた。これは第二次大戦を経験した諸国に共通した現象だったが、日本では後になって「団塊の世代」と呼ばれるようになった。その後、漸減するけれど150万~170万程度で推移し、有名な1966年の「ひのえうま」の136万1千を例外として、翌年から再び増えていく。そして、1971年から74年まで4年連続で200万を超える出生数があり「第二次ベビーブーム」と呼ばれた。

(平均初婚年齢の推移)

 当時の平均初婚年齢を調べてみると、女性の場合は23、4歳だった。1947年生まれの女性は、1971年に24歳となる。平均だからもっと早い人も遅い人もいるわけだが、第一次ベビーブーム世代が結婚する時期を迎えて、出生数も増えたわけである。(なお、この頃に生まれた子どもたちは、1980年代半ば以後中学、高校に進学する時期を迎える。その時期に教師をしていたので、進路決定や学級増などの対応が大変だったことをよく覚えている。)1971年生まれの女性は1995年に24歳となる。当時の平均初婚年齢は26歳ほどだが、早く結婚する人もいるわけだから1995年ぐらいから出生数が増加に転じてもおかしくない

(婚姻数)

 そして実際に1994年は前年よりも出生数が多かった。しかし、上記グラフを見れば判るように、その後減る一方だったのである。婚姻数を調べてみれば、90年代前半にやはり増えているのである。出生数と婚姻数のグラフを見比べて見れば、よく判るだろう。出生数はほぼなだらかに減り続けているのに対し、婚姻数は一端増加する時期があった後で減少に転じている。それは何故だったのだろうか。よく言われたのは「女性の高学歴化」「女性の結婚年齢の上昇」ということで、高卒で就職していた女性も4年制大学や専門学校に進学する人が増えた。社会に出る年齢が高くなるに連れ、結婚・出産も遅れ気味になったので、「第三次ベビーブーム」は少し遅れてやってくるという観測も多かった。だけど結局それは起こらなかったのである。

 そこで「バブル崩壊」「就職氷河期」に直面下世代だったということが指摘された。1986年に「労働者派遣法」が成立して、派遣労働者が増えた。当時の家族意識は、子どもは2人(あるいは1人か3人)、出来れば大学に進学させたい、家の祭祀継続のため男子をどうしても望むという人は少なくなっていた。だから、それなりの安定した収入がなければ子どもを持つことをためらう意識が強くなっていただろう。それでも、ベビーブーム世代は安定した職に就いていたから結婚したわけではない。むしろ安定した職にない人でも、かえって周囲が面倒を見て結婚したケースが多いのではないか。

(コンビニ店数の推移1983~2008)

 その頃高度成長が一段落して、「日本的」な生活様式が整備されていく。「一人でも生きていける社会インフラ」が成立したことが大きいのかも知れない。「コンビニ」はその象徴である。60年代から70年代に「電化社会」が完成して冷蔵庫洗濯機がどの家庭にもあるようになった。もし冷蔵、冷凍製品を家で保管出来なければ、「一人暮らし」はとても大変だったはずだ。そして80年代以後にコンビニが増加する。一人でも十分暮らしていけるのだから、結婚や出産は「もっと理想的な出会い」のために待てるようになった。シングルの人生というのは決して珍しいものではなくなったし、不幸せを意味するものではなくなった。

(今後の人口予測)

 「一人でも生きていける社会」の成立は、社会の進歩であって元に戻せるものではない。社会を維持する人口確保という意味での「少子化対策」の時期はもう通り過ぎたと思う。もはや人口増加社会はやって来ないので、何らかの対策を取れば人口が増加するというような幻想は持つべきではない。むしろ「いまを生きる人々がもっと幸せになれる社会システムの構築」という意味で、「結婚の多様化」を進めていくべきだと思う。「夫婦別姓」や「同性婚」は当然だが、相続などに関わらない「相互扶助システム」を作っていく必要がある。厚労省による人口予測(上記グラフ)を越えて出生数減少が進んでいるのだから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大地動乱の時代」始まるー「現在史」の起点1995年②

2025年01月02日 22時22分25秒 | 社会(世の中の出来事)

 「1995年」はどういう年だったか。最も重大なものは「大地動乱の時代」が始まったことだと思う。1995年1月17日午前5時46分、淡路島北方の明石海峡を震源とする大地震が起きた。気象庁は「兵庫県南部地震」と命名したが、一般的には阪神・淡路大震災として知られている。犠牲者は6434人にのぼり戦後最悪(当時)の大被害を出した。2025年に地震発生30年を迎えるので、様々な振り返りが行われると思う。だから、ここで震災被害のことは細かく書かないことにする。

(倒壊したマンション)

 震災当時、東京ではなかなか情報がつかめなかった。これほど大きな被害になっているとは想像出来なかったのである。1948年の福井地震をきっかけにして1949年に「震度7」という揺れの基準が作られた。しかし、以後50年近く一度も震度7が適用された地震はなかった。ところが、その後2004年の新潟県中越地震、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震(2度)、2018年の北海道胆振東部地震、2024年の能登半島地震と、この30年間に7度も震度7を記録しているのである。

 これはまさに「異常」というべき事態ではないのか。人間世界の感覚からすれば非常に長い時間をかけて動いていくのが地球の地質年代だろう。それなのに一人の人間が生きている間にこれほど大地震が起こるものなのか。ところが、このような大地震発生を警告した本がある。それが地震学者石橋克彦氏(1944~、当時建設省建築研究所)による『大地動乱の時代ー地震学者の警告』(岩波新書、1994)である。当時読んで、そんなことがあるのかと思ったけど、まさに翌年大震災が起きた。

(『大地動乱の時代』)

 僕は当時神戸に行って震災を見た思い出がある。2月初めの連休(建国記念の日が土曜日だった。当時土曜はまだ学校の授業があった)を利用して行ったのである。少しボランティアをしても良かったんだけど、行った段階ではもう人手も足りていたので日帰りで帰ってきた。前から関わってきたFIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会が灘区の避難所でボランティアを始めていて、そこに卒業生も行ってたので顔を出しに行ったわけである。当時生徒文集に書いた記録があるので読み返してみた。

 新大阪止まりの新幹線、普通電車で住吉まで。そこから代替バスに乗り換え。そういう風に行ったと出ている。尼崎あたりはまだ屋根のビニールシートが目立つ程度だが、次第に倒壊した建物が多くなる。それも全部じゃなくて、古い家などが倒壊しているのに、隣の新築マンションはちゃんと建っている。町のあちこちにピサの斜塔みたいなビルがある。実に不思議というか、異世界に紛れ込んだような感覚。避難所は養護学校だったので、キレイな教室が並んでいて、駅にも近く「もう物は持ってこないで」と告知していた。ボランティアも子どもやお年寄りの相手が中心だった感じ。時期的に一番大変な時期は過ぎていたと思った。

(水道蛇口のレバーも変わった?)

 阪神淡路大震災は当時非常に大きな衝撃を与えた。今になると東日本大震災という大災害に記憶が「上書き」された感もあるが、当時は経験のない大災害だったのである。よく「水道蛇口のレバー」が上に上げると水が出る方式になったのは阪神淡路大震災がきっかけと言われている。テレビ番組で池上彰氏もそう解説していたが、調べてみるとそう簡単なものではないようだ。それ以前から議論されていて、欧米の方式に統一したというのが正しいらしい。ただ当時の議論の中で、震災時に物が落ちて蛇口が出っぱなしになった事例もあったとも言われている。わが家など未だに混在していて、うっかり間違ってしまう。

 ところで、石橋克彦氏は1997年10月号の雑誌「科学」に「原発震災―破滅を避けるために」という論文を発表した。大地震によって原発メルトダウンが起き、震災被害と放射能汚染が複合的に絡み合う災害を「原発震災」と名付けて警告したのである。そして何と14年後に石橋氏の警告はまたしても的中したのである。学問的予知能力に驚くしかない。2024年1月1日に発生した能登半島地震では、実は動いた断層のほぼ直下に「珠洲原発」を建設する計画があったのである。長い反対運動があり最終的に2003年に計画は凍結されたが、下の地図を見れば判るようにまさに恐るべき事態になっていた可能性がある。

(珠洲原発予定地)

 このような「大地動乱の時代」に原発の新増設を主張し、首相官邸に石破首相を訪ねて(2024年11月27日)「原発新増設」を求める要望書を提出したのが国民民主党である。僕はこの政策はまったく支持できないが、最近国民民主党の支持率が上昇しているのは国民の多くもまた原発新増設に賛成なんだろうか。それともあまり知らずに「手取りを増やす」ことに賛同しているのか。ところで、石橋氏は次に『リニア中央新幹線と南海トラフ巨大地震 「超広域大震災」にどう備えるか』(2021,集英社新書)を書き、リニア新幹線に警鐘を鳴らしている。(リニア新幹線建設は中止すべきである参照)「二度あることは…」にならないか。

(石破首相に原発新増設を要望する国民民主党)

 最後に紹介だけしておくが、Wikipediaの阪神・淡路大震災に関する文学の項を見ても、神戸在住だった詩人安水稔和(やすみず・としかず)氏が出ていない。もし図書館に入っていれば、今年の機会に是非探して読んでみて欲しい。またどこかの文庫に是非収録して欲しいと思っている。(神戸の詩人、安水稔和の逝去を悼む

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「男はつらいよ」が終わり、野茂はメジャーで活躍したー「現在史」の起点1995年①

2025年01月01日 22時34分24秒 | 社会(世の中の出来事)

 2025年という年は、1995年から30年であり「昭和100年」に当たる。1995年は当時を生きていた人にとって、驚天動地の出来事が相次いだ「災厄の年」だった。日本で生きていた人には、1995年(とその周囲の数年)が時代の変わり目だったことが実感出来るはずだ。「1995年」を我々が今生きている「現在」の起点として考え、その意味を数回にわたって考えてみたい。

 かつて社会学者の見田宗介氏は「戦後日本」を3期に分けて、「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」と呼んだ。(生と死と愛と孤独の社会学参照。)第1期と第2期の境目は1960年頃で、高度成長時代が始まった。第2期と第三期の境目が1970年代前半で、高度成長時代が終わった。それ以後が「虚構の時代」だが、それも1995年頃に終わったと思う。「犯罪」を指標にすれば、「連合赤軍事件」と「オウム真理教事件」があり、多くの人の実感に合うだろう。

 「時代区分」というものは、今まさに歴史の現場で生きている我々にはなかなかつかめない。政治経済の場合は、一応はっきりとした指標がつかみやすいが、社会全般や文化などはゆっくりと変わっていく。それでも1990年代後半から21世紀に掛けて、携帯電話インターネットが一般的になった。「Windows95」が発売された1995年が指標の年となるだろう。

 政治では1993年細川護熙内閣が誕生したときから、政党の組み合わせは変わったとしても「連立内閣」が常態となった。現在も自民党と公明党の連立である。1995年は前年の1994年に成立した村山富市内閣だった。社会党、新党さきがけが擁立した村山社会党委員長に、当時野党だった自民党が相乗りした変則的な連立である。1995年は「戦後50年」に当たり、「村山談話」が出されたのは非常に象徴的だった。しかし、この社会党首相の誕生は「社会党(的なもの)の消滅」をもたらした。

 自社さ連立政権は、1995年の統一地方選で思わぬ結果をもたらす。国政主要政党が相乗りした候補を擁立したため、それに反発した「タレント候補」が出馬したのである。1968年の参院選全国区で当選して元祖タレント候補と呼ばれていた青島幸男が東京都知事、横山ノックが大阪府知事に当選した。これは誰も想定しなかった「無党派の反乱」と受け取られ、大きな衝撃を与えた。結果的に青島は一期で引退、横山は二期目に当選したが選挙運動期間中にわいせつ事件を起こし有罪となった。

(都知事に青島幸男氏が当選)

 1995年は結果的に『男はつらいよ』シリーズの最終作が公開された年になった。1995年12月23日に公開された第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』は、毎年1~2作作られてきたシリーズの実質的な最終作となった。それは主演俳優の渥美清の体調悪化という個人的な要因によるものだけど、95年が寅さんシリーズの終わりだったということは「時代の変わり目」を象徴する感じがする。1969年から続いてきた映画シリーズは、2年後に特別編が作られたが、それはもはや渥美清の新作ではなかった。

(男はつらいよ 寅次郎紅の花)

 この映画を撮るとき、すでに渥美清は肝臓ガンが肺に転移して主治医は出演不可能と言ったという。山田監督も渥美の体調を案じて最終作になるかもと考え、マドンナに最多となる4度目の浅丘ルリ子リリーを登場させた。浅丘もこれが最後と覚悟し、監督に「寅さんとリリーを結婚させて欲しい」と直訴したという。山田監督は50作まで作ることを予定し、すでに次作を書き出していた。だから結婚まではしないのだが、リリーと寅さんは奄美諸島の加計呂麻(かけろま)島で一緒に住んでいた。

 そして寅さんは映画の最後に、震災に見舞われた神戸に現れる。1995年は阪神淡路大震災が起こり、全く想定されていなかった大被害をもたらした。史上初めて「震度7」が記録されたのである。そして被災地の熱い要望に応えて、病身の渥美清はその長い芸歴の最後に「震災ボランティア」を演じた。たまたまふらっと神戸に現れたという設定の寅さんは、「本当に皆さんご苦労様でした」が最後のセリフとなった。その後多くの災害を体験した日本人に遺した予言のような言葉じゃないだろうか。

 1995年にはもう一つ全く予期されていなかったことが起きた。それは野茂英雄がアメリカの大リーグで活躍したことだ。近鉄バファローズにいた野茂投手は望まれて温かいムードで大リーグに渡ったのではない。1990年に入団し、その年から4年連続最多投手となった野茂は、94年シーズンは8勝7敗と低迷した。鈴木監督との折り合いも悪く、契約更改でもめて自由契約となり、ドジャーズとマイナー契約を結んだのである。これは村上雅則以来32年ぶりのことだった。

(アメリカで活躍した野茂英雄投手)

 誰も日本人野球選手がアメリカで通用するなどと考えてはいなかった。だから移籍に関するルールもはっきりとしていなかった。結果的には6月2日に初勝利を挙げ、13勝6敗で新人王となった。「トルネード投法」が流行語となり、その後2度のノーヒットノーランを記録した。アメリカで2008年まで活躍し、123勝109敗。日本時代の78勝と併せて、日米通算201勝となっている。今テレビを付ければ、シーズン中は毎日大谷翔平のニュースを大きく報じている。野茂に続きイチローや松井秀喜のように野手もメジャーに渡った。サッカー、バスケ、バレーなど他競技でも多くの日本人選手が外国で活躍している。野茂が切り開いた道だ。

 1995年の「新語・流行語大賞」の年間大賞は「無党派」「NOMO」「がんばろうKOBE」の3つだった。トップテンには「ライフライン」「安全神話」「官官接待」「インターネット」などが選ばれている。無党派やインターネットも「新語・流行語」だったのである。そこから30年経った。この30年は一体どんな変化を日本に及ぼしたのか、数回考えてみたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

低投票率はなぜ生じたか、「中間組織」の衰退の問題

2024年12月31日 22時12分24秒 | 社会(世の中の出来事)

 年末の何かとせわしない時期に何だか書くのが面倒になる時がある。2024年はあんなに暑かったのに、今度は突然冬が来て日本海側は豪雪である。関東地方はまだ晴れているから良いというものではなく、ホントにカラカラで火事も多いしノドが痛い。あまり寒いと心も冷えてくるかも。ということで次第に毎日書くのも大変になってきたのかもしれない。

 さて、前回記事で犯罪の「トクリュウ」化を通して「孤立社会化」ということを指摘した。続いて選挙の投票率に注目して、実際どのくらい減っているのか、世代ごとに見るとどうなのかを見てみたい。自治体は投票者を把握出来るので、その気になれば全年代の投票率を確定出来るはずである。しかし、さすがにそれは面倒すぎるので、幾つか抽出して調査しているらしい。2024年の衆院選に関しては、青森県の世代別投票率という画像が見つかった。左から右へ年齢が上がっていく。一番右の80代以上がグッと低くなっているが、それを別にすればおおむね年齢が高いほど投票率が高くなる。(10代は少し高いが。)

(青森県の2024年衆院選世代別投票率=日テレ)

 これを「若い人ほど政治的意識が低い」などと言うことが多いが、果たしてそういう理解で正しいのだろうか。戦後の衆議院選挙投票率の推移を示したのが下のグラフである。それを見ると、大きな傾向として「年代に関係なく段々下がっている」というのが判る。70%は行っていた投票率が70年頃から時に7割を割っている。やがて6割程度が普通になり、郵政解散(05年)、政権交代(09年)が例外的に高かったがそれでも7割には行かない。その後、直近4回ほどは5割台前半から半ば。グラフは2021年までだが、2024年は53.85%とまた低くなった。これは裏金問題に怒った自民党支持層がいたと思われると当時分析した。

(2021年までの衆院選投票率推移)

 このように全世代で下がって来ているのである。それでも高齢になるほど投票に行くのは何故だろうか。年齢が高くなるほど、「今までずっと投票してきた(党や候補者)」がいる場合が多い。選挙に関する「体験格差」が若年層との間にある。そういうこともあるだろうが、それ以上に「投票を働きかけられる社会的関係の差」が大きいのではないか。どの世代だって、特に国内政治や国際情勢に詳しい人は限られるだろう。昔の若者だって、「活動家」そのものはそんなにいなかったと思う。

 だけど、「親から地域代表の自民党候補の投票を頼まれる」とか「同級生に民青(共産党の青年組織)活動家がいて電話があった」あるいは「同級生に創価学会員がいて(公明党への)投票を頼まれた」とか、ごく普通に体験していたと思う。地域の中でも「町内会」(事実上保守系の有力者がいる)、農協医師会などの存在感が大きかった。会社で働くようになれば、労働組合に所属して推薦候補の応援をする。次第にエラくなれば自民党の党員になって会社に協力する。特にはっきりとした政治意識を持っている3分の1程度の人を除けば、4割程度の人は「立場上」とか「周囲の働きかけ」で選挙に行ってたんじゃないかと思う。

(労働組合組織率)(労働組合加盟者数)

 そういう投票を呼びかけてきた組織の弱体化が低投票率の原因だと思う。今は労働組合の組織率しかグラフが見つからないけど、上記画像のように、投票率と連動するかのように下がってきた。労働組合加盟者数を見ると、特に激減したわけではないが、それは近年パート従業員などの組織化に取り組んできたからだろう。そのため、加盟者数自体は少し持ち直しているが、組織率は下がっている。労働組合のない会社(福祉法人なども)が多い上、非正規労働者が多くなっているんだから当然だろう。それとともに労組に参加しない人も増えている。自民党が賃上げを求める時代に、労組の価値を感じないということか。

 それでも立憲民主党国民民主党の参院選当選者を見ると、労働組合代表がズラッと並んでいる。自民党も郵政、建設、医師会など業界代表者がズラッと上位を占める。公明党(創価学会)や共産党も個人票ではなく、組織の力で票獲得を行っているので「組織選挙」ということは同じである。25年参院選はどうなるか注目だが、少なくとも組織内候補は未だ有力なのである。組織が弱体化したと書いたばかりだが、弱体化したといっても国民の半数しか行かない選挙ではまだまだ「組織の力」は有効なんだろう。つまり、残り半数の「誰からも働きかけがない孤立層」が問題なのである。

 こう考えてみると、若年層ほど投票率が低い理由が見えてくる。同級生に政治活動家がいて呼びかけられるということは今では少ないだろう。せいぜいバイトなど流動的な職に就いている程度では、選挙に関する「関係の網の目」に引っ掛からない。年齢を重ねるほど、職場や地域で何らかの社会関係が出来てきて、「あの政治家にはお世話になった」とか「あの党には頑張って欲しい」などの自分なりの「投票価値観」が作られてくる。そういうことなんじゃないかと思う。

 「学校」や「職場」というのは、誰しもが一度は所属する場所だが、そういう組織と政治・行政は直結しているわけではない。その間に「業界団体」「労働組合」「協同組合」「町内会」「ボランティア団体」など「中間団体」が存在する。それらの中には近年活発に活動しているところもあるけど、少子高齢化にともなって次第に弱体化しているんじゃないだろうか。特にコロナ禍で活動を停止した後、なかなか元に戻れない地域の合唱団とか俳句結社、草野球チームなんかも多いんじゃないだろうか。メンバーはどんどん年齢が上がっていくので、次のリーダー、新人加盟者が出て来ないと、組織力が低下して行ってしまう。

 やがて地域の公民館図書館スポーツセンターなども耐用年数が来て、施設の物的限界が来る。建て直さないといけないが、行政的には福祉予算や上下水道の維持が優先するから、あと10数年すれば地域からどんどん社会教育施設もなくなっていくんじゃないか。そうなったときにますます住民の自治力が低下してしまう。日本でも市長選などは投票率が3割程度のことがあるし、地方議会の議員確保も大変になっている。何か抜本的な対策を講じない限り、日本社会の底が抜けてしまうのではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「トクリュウ」と「投資詐欺」ー2024年という時代

2024年12月29日 22時18分42秒 | 社会(世の中の出来事)

 2024年もあと少し。来年2025年という年は、「1995年から30年」という一世代分の時間が経った年になる。1995年は本当にいろいろとあって、忘れられない年になった。現代日本を考える時に起点となるだろう年である。そのことを考えようかと思ったんだけど、まあそれは2025年になって書けばよいだろう。その前に「2024年とはどういう年だったのか」。

 毎年毎年自分にはよく判らない出来事が相次ぐ。その中でも「都知事選で石丸伸二氏が2位となった」とか「兵庫県知事選」とか、投票行動そのものは有権者が自由に決めればよいことだが、その時に今までの選挙ではそれなりの力を発揮していた「組織」というものはどうなったんだろうという気がする。もっとも今まで「組織の指令通りに投票する」ということには否定的だったわけである。だけど、選挙情報が「Web情報」(主にYouTube)になるとは、自分にとって理解が難しいのである。

 選挙だけでなく、犯罪の世界でも「トクリュウ」(匿名・流動型犯罪グループ)という言葉が聞かれるようになった。12月24日には、全国の警察幹部を集めた会議が開かれ、露木康浩警察庁長官が『組織犯罪対策の軸足を、暴力団からトクリュウにシフトすべき転換期にある』として、警察の総力を挙げた対策を指示したという。犯罪という、ある意味で「組織」が一番有効で役立ちそうな世界でも、旧来の暴力団よりも「トクリュウ」が重大な存在になっているらしい。もっとも「トクリュウ」を仕切っているのも、旧来の犯罪組織なのかもしれないが、いずれにせよ見える形の犯罪組織は弱体化しているんだろう。

(暴力団とトクリュウの違い)

 他にも犯罪と言えば相変わらず「特殊詐欺」のニュースが多かった。2024年には特に「著名人の名を騙る投資詐欺」というのものが大問題になった。僕もこれは見たことがあるが、Facebookに堂々と載っていた。一見広告のように(というか「広告」として載せたグループがあるわけだが)出ているから、信じてしまった人がいるらしい。池上彰氏や森永卓郎氏、堀江貴文氏や前沢友作氏などを見たことがあるが、池上氏は国際問題には詳しいだろうが経済ジャーナリストではない。森永氏は闘病中だし、堀江氏や前沢氏が言ってることを信じる人がいるのか思うけど、現にいたらしいから恐ろしい。

(池上彰氏を騙る投資詐欺)

 これは「だから投資は恐ろしい」という話じゃないだろう。「投資」に関する最低限の知識もない人がいるという話である。ただ日本は諸外国に比べて金利が低く、株式市場の水準も高くない。「世界をよく知る人」は何か「うまいこと」をしているんじゃないか。自分も「うまい話」に乗りたいもんだ的な感情が底流にあるんだと思う。だけど、そんな「うまい話」はない。あったとしても、そんな簡単に接触できるはずがない。(株や債権は金融機関しか売買できず、証券会社や銀行に口座を開くのが最初にやることになる。単にどこかの会社の株を買うのはすぐ出来るが、「投資信託」なら目論見書が送られてくる。)

 そういう投資詐欺と「ロマンス詐欺」だけで、660億円もの被害があるというからすごい。まだ明るみに出ない被害もあるだろうから、本当はもっと多いだろう。「ロマンス詐欺」というのもヒドイ話だけど、「お金がある高齢者」と「孤独な高齢者」がいるということだ。これも今までの「町内会」などの地域組織が弱体化し、一方で「SNS」が高齢者にも身近になった。「」「」を利用しようという悪い側も今や「組織」ではない。詐欺の金を取りに来たり、ATMで引き出そうという人間も「闇バイト」で集められた人である。欺す側も欺される側も、助けてくれる人もなく「広い荒野にポツンといるような」社会にいる。

 2024年の出生数は70万を割り込むらしいが、この「少子化」ということも「孤独社会」のもたらすものだと思う。政治の世界では、今までは「自民党と共産党の間」で投票先を決めるものだった。もちろん右にも左にも、もっといろんな勢力があるのは皆知っているが、選挙には出て来ない少数勢力だった。今は自民、公明だけでなく、野党には立憲民主、日本維新の会、国民民主、れいわ新選組、共産、参政党、日本保守党、社民と10党も衆議院選挙で当選している。(参議院には「NHK党」もある。)こんなことも今まで経験したことがない。大きな「組織」が緩んでいることの結果だろう。

 問題は「大組織の時代」が終わることではない。それが「自由に各人が自ら考えて選ぶ」社会になるというよりも、「デマや陰謀論」の影響力に支配された社会になっていることだ。それは日本に限らず全世界共通のことである。そんな中で、出来うる限り「自分の目」「自分の頭」で感じ考えたことを貫いていきたいと思うけど…。それも独りよがりなのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本被団協にノーベル平和賞ー「1人ひとりの力は微力だが、無力ではない」

2024年10月12日 22時31分14秒 | 社会(世の中の出来事)

 2024年のノーベル平和賞が「日本被団協」に贈られると発表された。これは世界的に「意外な授賞」と受け取られている。僕も被団協への授賞は「もうないもの」と思っていたので、テレビニュースの速報を見て驚いた。今年は中東情勢に関連して選ばれるのではないかと予測されていた。個人的には「国際刑事裁判所」(ICC)が受賞するのではないかと予想していた。ICCは現在プーチンにもネタニヤフにも逮捕状を発している。世界はいまICCを強力にサポートする必要があるからだ。
(記者会見する箕牧智之被団協代表委委員)
 「日本被団協」(日本原水爆被害者団体協議会)に関しては、2017年にICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が受賞したときに、こう書いている。「僕はできれば「日本被団協」との共同授賞が良かったと思う。今年は事前にはイラン核合意関係の授賞が有力とされていた。いずれにせよ、北朝鮮の核開発やトランプ政権発足があり、核兵器をめぐる授賞になるだろうと僕も予想していた。日本の「ヒバクシャ運動」に授賞することは、「戦争認識」問題を呼び起こす可能性があり単独授賞は難しいかもしれないが、もう残された時間が少ないのでぜひ授賞して欲しかった。」(『ノーベル平和賞、サーロー節子さんの演説』)

 この間毎年のように被爆者運動を支えてきた人々が亡くなっている。例えば2000年から被団協代表委員を務めていた坪井直氏は、2021年に96歳で亡くなった。今回の決定を受けて記者会見を行った箕牧智之(みまき・としゆき)氏は、坪井氏の後を受けて広島県被団協理事長、日本被団協代表委員となったのである。「日本被団協」はもちろんノーベル平和賞を取る目的で活動している団体ではない。しかし、ノーベル平和賞受賞は自分たちのやって来たことに意義があったと認定されたことになる。もっと早く受賞したならば、さらに多くの「ヒバクシャ」の苦難が報われただろうと残念なのである。
(ノーベル平和賞を発表する委員長)
 日本の「ヒバクシャ運動」はどのような意味があるのだろうか。日本の原水禁運動は1954年の「第五福竜丸事件」(アメリカがビキニ環礁・エニウェトク環礁で行った水爆実験によって、静岡県焼津市のマグロ漁船第五福竜丸が被爆した事件)を受けて、国民的な平和運動として発足した。しかし、60年代初頭に「ソ連の核兵器をどう評価するか」をめぐって分裂する。その後は原水協(共産党系)、原水禁(社会党系)、核禁会議(自民党、民社党系)の3つに分かれて活動していた。被団協は1965年に「いかなる原水禁団体にも加盟しない」と決め原水協を脱退した。(広島県では被団協も分裂して2つあるとのことである。)

 それ以後は政党の立場を離れて、日本政府や国連などに核兵器廃絶や原爆被害への国家補償などを求めてきた。被団協はあらゆる国の核兵器に反対し、「被爆者」の声を世界に届けることで、国際世論に大きな影響を与えてきた。アメリカや中国などでは、「原爆が戦争を終わらせた」「日本の侵略戦争の結果」という歴史観が根強い。そのことが先の引用で「戦争認識問題を呼び起こす可能性」と書いた理由である。だが、現時点ではそういう問題は後景に退いたのではないか。

 それはウクライナ戦争ガザ戦争が世界に衝撃を与えたからである。第二次世界大戦で最も大きな被害を受けた「ソ連」と「ユダヤ人」は、かつての悲劇を逆の立場で繰り返している。ドイツ軍が破壊し尽くしたウクライナに、今度は東からロシアが侵略している。ナチスによってジェノサイドの悲劇を受けたユダヤ人が戦後に建国したイスラエルは、今ではパレスチナ人に無慈悲な攻撃を繰り返している。どこに「歴史の教訓」があるんだろうか。そのような時に、「自分たちを最後のヒバクシャに」と訴えてきた戦後日本の被爆者運動の倫理性を振り返ることは大きな意義がある。

 「原爆を落としたアメリカに報復しよう」とか、「二度と核兵器の被害を受けないため日本も核武装しよう」などとは、被爆者は考えなかったのである。恐らくロシア人やユダヤ人にも、自国の現状を深く恥じている人が多くいるだろう。同じように日本でも、「核兵器の抑止力」を声高に語りながら「唯一の被爆国」と称して広島で首脳会議を行うような自国のあり方に深く恥じている人がいる。もっとも世界どこの国でも、そういう人が大きな勢力にはなっていない。
(記者会見に同席した高校生平和大使)
 そんな時に思い出すのは、記者会見でも同席していた「高校生平和大使」の活動だ。東京ではほとんど取り組まれていないが、1998年に長崎県に始まったという。署名活動を行い国連に提出するなどの活動を若い世代が行ってきた。この取り組みをノーベル平和賞に推薦する動きもあるらしい。「ヒバクシャ」はやがて一人もいなくなる。世界から核兵器をなくすために、どうやって引き継いで行くべきか。日本人の大きな課題だ。そのヒントになるのが、この高校生平和大使じゃないだろうか。その運動のスローガンが「1人ひとりの力は微力だが、無力ではない」だという。衆議院選挙が直近に控える今、すべての人が噛みしめるべき言葉だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喜んでるのに、なぜ「悲願」と表現するのか?

2024年07月23日 21時56分08秒 | 社会(世の中の出来事)
 パリ五輪の開会が近づいて来た。開会式は26日(金曜日)で、それに先立ちサッカーや7人制ラグビーの予選が明日(23日)から始まる。東京はものすごい猛暑が連日続いているが、パリの最高気温はなんと20度台半ばほど、最低気温は10度台になっているらしい。快適というより、むしろ観客には冷涼と言うべきか。一方、アメリカ大リーグのオールスター戦も16日に行われ、大谷翔平選手がスリーランホームランを打った。日本のプロ野球でも、ただいま現在オールスター戦第1日をやってる。2回にセリーグが3本のホームランで9点も取って試合的には面白くなくなった。

 他にも多くのスポーツが行われているが、高校野球の地方予選もその一つ。少しずつ代表校が決まりつつある。青森では冬の高校サッカーを制した青森山田が野球でも7年ぶり12回目の出場、秋田では6年前に準優勝した金足農が7回目の出場を決めている。一方、南北海道代表は初出場の札幌日大。ここは北海高校という40回出ている強豪校があり、札幌日大は今まで3回決勝に進出したものの準優勝に終わった。また宮城県代表も初出場の聖和学園。ここも30回出場で2022年に東北勢初優勝を飾った仙台育英、また22回出場の東北(ダルビッシュ有を擁して2002年に準優勝)という強豪校がある地区である。

 というようなスポーツの話を書きたいわけではない。これらのデータは特に知ってたわけじゃなく、今調べて知ったのである。僕はこの札幌日大や聖和学園が「悲願の初優勝」と報道されていることに、突然「なんで?」と気付いたのである。大相撲も今名古屋場所をやってるが、横綱照ノ富士が10連勝している。それに続くのが大関3場所目の琴櫻で2敗と2差が付いている。テレビや新聞では「悲願の初優勝」に向けて「これ以上は落とせません」なんて言っている。
(聖和学園が「悲願」の初優勝)
 僕が思ったのは、優勝して喜んでるのに何で「悲しい願い」なんだという疑問である。悲劇、喜劇というわけだから、悲願じゃなくて「喜願」と言う方が良くないか。大体「願い」というのは、悲しいことにならないようにと願うわけだから、これって反対の言葉がくっついている。言葉に慣れちゃって、今まで何の疑問も持たなかったけど、一体なんで「悲願」と言うんだろう。
(札幌日大も「悲願」の初優勝)
 そこで調べてみたが、結局「仏教用語」だった。仏教から来た言葉が意識せずに日常語になっていることは多い。(安心、挨拶、差別、自由、退屈、利益などなど。)問題の「悲願」は、「仏・菩薩(ぼさつ)がその大慈悲心から発する誓願。阿弥陀仏の四十八願。薬師如来の十二願などの類」ということなのである。ここで「慈悲」という言葉が出て来る。そこで慈悲を調べると、「慈・悲・喜・捨」(じ・ひ・き・しゃ)の内、最初の2つをひとまとめにした用語・概念であり、本来は慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)と、別々の用語・概念であると出ている。

 「悲」は願望が実らず残念な状況ではなく、「あわれみ」という意味だった。そして特に浄土系の教えでは「阿弥陀様がすべての人間を救おうと立てた誓い」を意味している。そのように御仏の計らいで願いが叶ったと考えるとき、それは「悲願が成就した」ということになるんだろう。「かなしい」という言葉を「愛しい」とも書けるように、単に「sadness」だけを意味するのではなく、愛しい(いとしい)というようなニュアンスを含んでいる。そういう意味合いで「悲願」というわけである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

MV「コロンブス」炎上問題、「教養欠落」が問題なんだろうか?

2024年06月23日 22時19分37秒 | 社会(世の中の出来事)
 人気バンド「Mrs. GREEN APPLE」(ミセス・グリーン・アップル)の新曲「コロンブス」のミュージック・ビデオが公開停止になった問題。僕はそのバンドは名前ぐらいしか知らないから、特に関心がなかった。(ちなみに音楽ではどんどん新しいものが登場する。高齢になるといちいち追いかけるのが面倒になって、自分の若い頃の音楽以外関心が薄くなる。今の若者もそうなるに違いない。)ただ、その批判の方向性に違和感を持ったので指摘しておきたいと思った。

 そのビデオは「コロンブスらを模したメンバーが、訪れた島で類人猿に車をひかせたり、西洋音楽を教えたりする」(朝日新聞、6.19)という。「人種差別的で、植民地支配を容認する表現と批判されても仕方がない」と一橋大学の貴堂嘉之(きどう・よしゆき)教授は記事の中で指摘している。僕はビデオを見てないけど、その内容なら批判されるのは当然だと思う。記事の見出しは「コロンブス 変わる評価」「専門家 歴史学ぶ必要」である。東京新聞の記事でも、見出しは「教養欠落 日本の現在地」とある。その記事によれば、英BBC放送(電子版)は「関わった人に世界史を学んだ人はいなかったのか?」と書いたという。
(MV「コロンブス」)
 確かに「教養不足」や「歴史学ぶ必要」はあるだろう。だけど、関係者の誰かが「今どきコロンブスを取り上げたら、炎上するかもしれませんよ」と知ってれば良かったのだろうか。もちろん事前に止められなかったことは問題だけど、コロンブスが炎上案件だと知って取り上げなければそれで良いのか。「炎上しそうなものは敬遠すべきだ」が正解なんだろうか。それでは「炎上する」「批判される」ことを避けることこそ、一番の「営業方針」だということになってしまう。
(Mrs. GREEN APPLE)
 今回の問題は「炎上」したことではなく、「植民地支配を正当化している(と解されてもやむを得ない)」ものだったことにある。「Mrs. GREEN APPLE 「コロンブス」ミュージックビデオについて」(2024.6.13)によると、「類人猿が登場することに関しては、差別的な表現に見えてしまう恐れがあるという懸念を当初から感じておりました」が、「類人猿を人に見立てたなどの意図は全く無く、ただただ年代の異なる生命がホームパーティーをするというイメージをしておりました。」「決して差別的な内容にしたい、悲惨な歴史を肯定するものにしたいという意図はありませんでしたが、上記のキーワードが意図と異なる形で線で繋がった時に何を連想させるのか、あらゆる可能性を指摘して別軸の案まで至らなかった我々の配慮不足が何よりの原因です。」

 しかし、「コロンブス」「ナポレオン」「ベートーベン」がホーム・パーティをするという趣向自体、「西欧の偉人」しか出て来ない。日本の音楽バンドがなぜそういう発想になるのかという問題がある。そこに「類人猿」まで出て来るというのだから、この紋切型の発想を見ると、誰か関係者の中に「秘められた差別的意図」があったのかとさえ思う。そう思われてもやむを得ないのではないか。そうとでも考えないと、これほどの「連想アイテム」満載になるとは思えない。

 ところで、ちょっとだけ書いておくが、今「コロンブス」と書いてきたけど、本当はこの表記自体に問題がある。クリストファー・コロンブス(1451~1506)は、もうその表記で定着しているから、日本の教科書にも一応そう出ていると思う。しかし、ジェノヴァ共和国(今のイタリア)生まれだから要するにイタリア人で、本来は「コロンボ」である。しかし、そのままでは大航海に乗り出せない。結局スペイン王室の援助で航海に行ったわけである。スペインでの名前は「クリストバル・コロン」だった。今は「コロン」という表記を採用するべきだと思う。

 それとともに、よく「アメリカ大陸の発見」とか「新大陸到達」というが、コロンは生涯を通してアメリカ大陸には一度も行ってない。彼が着いたのはいくつかの島で、至る所で略奪を繰り広げながら最終的に砦を築いたのはイスパニョーラ島である。(自らそう命名した。)現在東にドミニカ、西にハイチがある島である。(世界で23番目に大きな島。)25万人の先住民がいたとされるが、スペイン支配のもとで「絶滅」するに至る。コロンは「インド」に着いたと信じたが、「アメリカ大陸」でさえなかった。

 それはともかく、「コロンブス」を取り上げるならば、今だからという問題ではなく、「征服された側」から描く必要がある。もちろん『関心領域』のように、あえてナチ官僚の目から徹底して見ていくという方法はある。「批評意識」があれば、それでも良いのである。つまり、「コロンブスを避ける」のではなく、「コロンを批評する」のである。そういう内容なら、「炎上」したとしても、それは正しい方向の炎上である。誰にも批判されないものを作るならアーティストではない

 世界各地で多くの「影響力を持つ人々」(インフルエンサー)がガザ地球環境性的マイノリティ問題などに自分の考えを公表している。アメリカやフランスでは、大統領選挙や国会議員選挙に対して、自分の考えを明らかにしている。日本ではそういう人がほとんどいない。これほど日本社会が行き詰まった原因の一つは、「言うべきことを言わない」人が多すぎたことにあるんじゃないか。「教養」や「世界史の知識」はそれだけあっても意味がない。ちゃんと行動が伴ってこそ、真の「教養」だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「コロナ時代」とは何だったのかー新年度から一般医療に移行

2024年03月30日 22時08分11秒 | 社会(世の中の出来事)
 「新型コロナウイルス」に全世界が翻弄されていたのは、たった4年前のことである。2020年の今頃は突然の学校休校で大騒ぎになっていた。2023年5月の連休明けから感染症法上の位置づけが「5類」に移行し、感染者の全数把握が行われなくなった。その前までは毎日毎日の新規感染者数が日々の大きなニュースになっていた。5類に移行した後でも、特に大きな問題は起きなかった。今では何となく「もう終わった問題」に感じている人が多いだろう。

 そして、2024年4月からは、感染者の医療は(普通の病気と同様に)自己負担が発生するようになる。(今までは全額国庫負担。)ワクチン接種もインフルエンザ等のワクチンと同様に自己負担となる。(高齢者等への配慮はあると思うが。)最後の週末に「駆け込み接種」に訪れている人も多いとか。2020年の「流行語」だった「三密」も、今ではすぐに全部言える人は少ないんじゃないだろうか。自分もそうなので、検索してみたら「密閉・密集・密接」だった。忘れるのは早い。

 もちろん、コロナウイルスそのものは今も当然存在し、新たに感染する人は多い。3月29日に厚労省は定点医療機関からの新規感染者数は計2万5727人だったと発表した。(東京新聞3月30日付。)これは前週比0.85倍だという。1医療機関あたりの感染者数は、東京や大阪が3人台なのに対し、秋田が10人を越えるなど比較的東北地方に多いらしい。今でも毎週2万5千人が新たに感染しているのである。だけど、社会が不安感に満ちることはない。この間感染した人も増えてきたが、まあ「風邪」のような感じで軽快した人が多い。今では過剰に心配する人はいないだろう。

 コロナウイルスの専門家会合も解散したという。2024年4月をもって、「新型コロナウイルスの時代」は完全に終了すると言っても良いだろう。4年前の夏は中止せざるを得なかった高校野球も、春の選抜大会では声出し応援も可能になって開催されている。こうなると、世の中の人々は「あの頃の恐怖」を全く忘れたのかと逆にちょっと心配だ。あの時代は一体何だったのか。そして、そこから学ぶべきこと、考えるべきことは何か。例えば内閣や国会で、総括する動きはあるのだろうか。あるいはマスコミや医療関係者もきちんと検証しているのか。もう忘れてしまっても良いという問題じゃないだろう。
(平均寿命の推移)
 日本では2023年5月までに、約6万人の死者があったという。当初は「自粛」で他の感染症も減り死者が減少したが、翌年以降は高齢者の「フレイル」(衰弱)が進行し、死者が増大した。結果的にずっと伸びてきた(東日本大震災以後)の平均寿命が下がる現象が起きた。「コロナ期」に予想以上に少子化が進行したのも、自粛やテレワークの影響が大きいと思われる。その影響は今後もずっと続くわけで、日本社会に大きな影響を与えた大事件だった。忘れてよい問題ではなく、多くの組織で記録を保存する必要がある。公立学校など職員が異動する職場では、この間の取り組み状況が廃棄されてしまう可能性がある。

 僕の見るところでは、コロナの影響は職業や生活環境によって大きく違ったと思う。医療関係者新規開業したばかりの飲食店などが一番大変だったのではないか。自分の住んでいるところでも、ずいぶん店がなくなった。もともと回転が早い店が多いのだが、出来たばかりの店がコロナで閉店してしまったのは借金が返せないのではないかと心配になる。学校や福祉施設なども大変だっただろうが、基本的には「言われたとおりにやって、感染を防ぐ」以外に方法がない。普通の会社はテレワークが多かったようだが、結局一段落すると元に戻ったのだろうか。いや、労働力は結局完全には戻っていないのではないか。

 国全体で言えば、「緊急事態」に対応する専門部署が必要だと、大災害などが起きるたびに言われるが結局何も変わらないようである。何事も「その場しのぎ」という政治文化が根づいているのである。これほどの規模のパンデミックは、100年間起きないかも知れない。だが、SARSなどを考えると「10年に一度は中程度の新感染症の流行がある」と考えるべきだろう。その間に大地震も1~2回程度はある。集中豪雨などはほぼ毎年起きる。またテロ事件なども起きないとは言えない。やはり「常設機関」が必要だと僕は思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「道の駅」を防災拠点にー能登半島地震から10日

2024年01月11日 22時45分23秒 | 社会(世の中の出来事)
 能登半島地震では石川県を中心に多くの観光、文化施設も大きな被害を受けた。兼六園は1月5日から再開したと出ていたが、隣接する金沢城公園は閉鎖しているとある。近年高い人気を誇ってきた金沢21世紀美術館も臨時閉館している。能登半島地域でも、もちろん文化施設は壊滅的な状況になっている。仲代達矢主宰の無名塾が作った能登演劇堂も閉鎖しているし、金沢城と並んで日本百名城に選ばれている七尾城も立ち入らないようにと告知されている。「輪島の朝市」の場所は周知のように火事で焼失したし、有名な「千枚田」も地割れが生じていて、今後も続いていけるかどうか非常に心配だ。
(千枚田の被害)
 さて、このような観光地(能登国定公園に指定されている)の場合、自分もいつ観光客として被災するかもしれない。能登半島ではかつては輪島や珠洲まで鉄道が通じていたが、とっくに廃線になっている。かろうじて七尾市の和倉温泉まで七尾線が残っている。となると自家用車、レンタカー、バス(観光バスも含め)などで観光することになる。その時に休むところとして「道の駅」がある。全国で1209箇所も整備されている。この「道の駅」を防災拠点として整備するべきだ寺島実郎氏が書いていて、なるほどなと思った。もっとも調べてみると、それは政府もすでに考えていて、今回も「道の駅」が避難所になっているところもある。
(「道の駅千枚田ポケットパーク」から見た千枚田)
 石川県には29も「道の駅」があり、能登半島にも多い。ちょっと書き出してみると、輪島市4(千枚田ポケットパーク、赤神、輪島、のと里山空港)、珠洲市3(すず塩田村、狼煙、すずなり)、七尾市4(いおり、なかじまロマン峠、のとじま、能登食祭市場)、能登町1(桜峠)、志賀町2(とぎ海街道、ころ柿の里しか)、穴水町1(あなみず)、中能登町1(織姫の里なかのと)と能登半島には「道の駅」がずいぶん作られている。
(「道の駅すず塩田村」)
 もっとも「道の駅」にも大小があり、あまり大きくないところもある。だがその地域の中では一番トイレが充実していることが多いと思う。日本各地にたくさんの郷土博物館とか美術館などがあるが、入っても他に見物客はいず、トイレに行っても男子用小が2つ程度というところが多い。公民館なんかは入らないから知らないけど、地元の東京だってそれほどトイレが多くはない。それに比べて「道の駅」はきれいなトイレが整備されていることが多く、安心して利用出来るのである。
(「道の駅能登食祭市場」)
 「道の駅」は1991年に実験的に3箇所が作られ、正式には1993年から全国に整備されてきた。従って2023年で30周年になった。今では有名な「道の駅」そのものを目的に旅行する人もいるし、海外にも広がっている。Wikipediaを見ると、「道の駅」に登録出来る条件として「無料で利用できる十分な容量の駐車場と清潔な便所(トイレ)があり、それらの施設がバリアフリーの経路で結ばれていること」「「子育て応援施設」としてオムツ替え台や授乳スペースなどのベビーコーナーを備えていること」等が定められている。そして、東日本大震災後には防災機能の充実が定められ、「広域防災拠点として、建物の耐震化や無停電化のための非常用電源の設置、衛星電話設備の整備を行う防災道の駅」として39箇所が指定されたという。

 今回の災害を見ていて、当然当初の揺れによる家屋倒壊、大きな津波、火災などから逃げないと行けないわけだが、どんな大地震、あるいは集中豪雨、火山噴火などでも全住民が亡くなるわけではない。生き残って避難所に行くわけだが、まあ「」と「食料」と「電気」が大切である。それは誰でも知っているわけだが、その後「トイレ」という大問題が起きるのである。今はトイレも水道、下水道、電気がないと使えないわけだ。大昔の汲み取り便所なんて日本中どこにもないんだろう。それを考えると、地方でもっともトイレが整備されている「道の駅」の役割は大きいと思う。

 しかし、電気は自家発電や大規模な蓄電施設などで当面の間は賄えるかもしれないが、水道の供給が止まるとなかなか難しい。そこまで整備するのはなかなか難しいかもしれないが、仮設トイレを作るとしても「道の駅」は広いから役立つだろう。公民館、学校なども大切だが、「道の駅」を防災拠点として整備することは今後もっともっと重要になってくるのは間違いない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする