最高裁の判断が注目されるもう一つの裁判は、日本で法律上「同性婚」ができないことを憲法違反と訴える裁判である。「結婚の自由をすべての人に」訴訟と呼ばれている。日本の法律制度では「同性婚を認めないのは憲法違反だと認めよ」というだけの裁判はできない。そのため、同性どうしで婚姻届を提出し、それが各自治体で受け付けられないという事実を作って、それは憲法違反なので国家賠償を求めるという「国賠訴訟」をすることになる。高裁段階で「同性婚ができないのは違憲」という判断が相次いでいるが、今のところ賠償を認めるという判決はない。従って、形式上は「原告敗訴」であり、そのため原告側から最高裁に上告している。
2025年の憲法記念日を前にした今崎最高裁長官の記者会見では、同性婚訴訟について「一般論」と断った後で「そうした事件は新たな視点や論点をはらむことも多く、裁判官には相当な力量が求められます。法的観点からの分析、検討はもちろんのこと、背景となる社会的な実体への理解は欠かせませんし、多角的な視点からバランスの取れた判断力も必要でしょう。要は裁判官としての総合力が試されるわけであり、そうした事件にも適切に対応するため、裁判官には、日々の仕事・生活を通じて、主体的かつ自律的に識見を高めることが求められます。」と答えている。大法廷に回付して、15人の最高裁判事による本格的憲法判断を行う決意を感じる。
この訴訟は、2019年に東京、大阪、札幌、名古屋、福岡の各地裁に一斉に提訴された集団訴訟である。前回書いた生活保護をめぐる「いのちのとりで裁判」と同じく、直接的には自分と関係ないと思う人が多いかもしれないけど、今後の日本の人権状況を左右する重大な裁判だと思う。今まで地裁段階では3件の「違憲状態」、2件の「違憲」、1件の「合憲」判断が出て、高裁段階では5つの高裁がすべて「違憲」と判断している。同性婚の実現にはまだ時間が掛かるかと思っていたが、高裁でこれほど違憲判断が出てくるのは、社会意識の変化が大きいと考えられる。高裁の状況を見れば、同性婚の実現は遠くないと考えてもおかしくはないだろう。
論点を簡単に書いておくと、まず憲法14条「法の下の平等」、憲法24条1項(婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。)、憲法24条2項(配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。)、そして憲法13条(すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。)の4つになる。
憲法13条に関してはなかなか認められていないが、福岡高裁2024年12月13日の判決でついに認められた。「幸福追求権」に基づく違憲判決は同性婚に止まらない大きな影響を与えるだろう。同性婚をめぐる論点に関しては、細かく書かなくても良いだろう。知りたい人は自分で調べて欲しい。(ただ賛成、反対というだけでなく、出来れば憲法上の論点を調べて欲しい。)同性婚や「選択的夫婦別姓制度」をめぐる議論を見ると、僕は若竹七海のミステリー『まぐさ桶の犬』という言葉を思い出してしまう。
犬はまぐさを食べないのに、まぐさ桶で鳴くと牛や馬は怖がって近づけない。自分の得になるわけでもないのに、他の人が幸福になる(まぐさを食べられる)のをジャマするという意味だという。同性婚が認められなくても、自分にとっては特に困ったことはない。同時に同性婚が認められても、自分にとって損になることも全くない。世の中には同性愛の人がいて、法律婚が出来なくて困ったことも起こっているわけだから、同性婚が認められれば、世の中全体に「ハッピー」の総量が増えるだろう。だから、自分に切実な利害関係はないけれど歓迎するというのが僕の社会問題に関する考え方である。(選択的夫婦別姓も同様。)
ただし、最高裁による判断が「違憲」となるかは判らない。今までの憲法9条訴訟などと同様に、「判断は国会に委ねる」という判断になる可能性もあると思う。何故なら、三権分立と言っても、憲法上は「国権の最高機関は国会」と定めているからだ。国会で法律を制定しない限り、同性婚は法律婚としては実現しない。その意味でも、裁判によって違憲判断を求めるとともに、国会での立法を求める運動とも「車の両輪」で進むべきだろう。しかし、日本社会は非常に速いスピードで変わりつつある。そのことを実感するのが、高裁段階で続く同性婚禁止規定違憲判決だ。