尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

私立高校の「授業料無償化」問題②ー東京都の場合

2024年02月22日 22時26分47秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 私立高校の授業料無償化問題。大阪府に続いて、東京都のケースを検討したい。小池百合子都知事は2023年12月5日の都議会で、私立学校の授業料上乗せに設定していた所得制限を2024年度から撤廃すると表明した。つまり、今までも授業料を補助していたのだが、その制度には910万円という所得制限があった。その制限額は国の就学支援金と同額である。つまり、910万円の所得を境にして全く支援がなくなるのだが、それは大阪府も含めてすべての都道府県で同じだった。
(東京都の制度)
 東京の場合、大阪にある「キャップ制」なる不思議な仕組みは存在しない。今までは所得制限を設けた上で、授業料47万5千円まで補助するという仕組みだった。東京都の私立高校の平均授業料は47万3002円だという。従ってもっと高い授業料の学校もあるわけだが、そこは家庭負担になるということだろう。授業料平均額までは補助するという考え方である。それは今後も同じらしいが、今までは存在した所得制限を廃止するのである。

 都立高校は東京都に住んでいる生徒しか受けられないが、当然ながら私立高校には居住制限がない。だから、東京の私立学校にはいっぱい近県から進学しているし、東京の中学生もいっぱい近県の私立高校に進学する。東京都によると、都内の私立高校(244校)の生徒数は約18万人で、そのうち3割が都外在住だという。近隣各県でも国の支援金に上乗せする独自の補助制度があるが、いずれも所得制限があるうえ、県内私立高校へ通う生徒しか対象にならないという。(東京新聞12月25日付) 

 それなら全国どこの都道府県も同じような制度を作れば良いようなものだが、やはり東京や大阪は税収が多いのだろう。そのような政策を通して、子どもを私立学校に行かせたいと考える保護者を集めたいのだろう。一回目に見たように、私立高校には授業料以外にも様々な納付金がある。だから、授業料が実質的に無償化されても、進学実績のある私立校はやはり富裕層が多いはずだ。そういう住民を都内に引き寄せる効果も狙っているのかもしれない。

 それにしても、都内私立校では生徒の3分の1の家庭が何の支援も受けられない。一方で残りの7割弱の生徒には授業料が事実上なくなる。それではあまりにも不公平だという声があがるのも当然だ。東京新聞は「都民だけ高校無償化 波紋」と一面トップで報じている。都外から通う場合は、通学の交通費も高いわけだし、都内私立受験を考える保護者は都内移住を考えるのではないか。この問題は本来国が統一的な制度を作るべきなのだろう。
(都民と他県住民の相違)
 ところで、このような制度を作ると、中学生の進路事情は変わるのだろうか。進路志望を決める2学期が終わる頃に打ち出された政策だから、今年度の影響は限定的だろう。だが、多くの生徒は(推薦入試で合格した場合は別だが)、一般入試では一応公立、私立双方に出願しておくものである。何があるか判らないので(入試当日にインフルエンザに罹るなど)、安全策を取るわけである。今回は「私立高校授業料無償化」の報を受けて、私立志望校のレベルを上げて「冒険」する生徒が増えたかもしれない。

 2月21日に行われた都立高校の入学者選抜受検状況を見ると、若干私立高校志望が増えているかなという気がする。今年から都立高校の男女別定員制が無くなったので、その影響も見極める必要がある。私立入試の方が早いので、先に私立高に合格した生徒は都立高の受検を欠席することになる。前年度と比べてみると、去年は全日制高校で1951人の欠席があったが、今年は2166人に増えている。日比谷高校では、昨年は男女計581人の応募者があり、当日は107人が欠席した。今年は性別問わず459人の応募に対して、105人が欠席した。欠席者自体は減っているが、出願者が大幅に減っている。有意な変化だから理由があるはずだ。成績上位者が私立志向になったか、女子の応募者が減ったのかもしれない。
(制度を発表する小池知事)
 ところで私立高校授業料無償化というのは、一体どういう意味を持つのだろうか。公立高校で全中学生を受け入れることは出来ない。少子化にともない公立学校の空き教室が増えているから、キャパシティとしては可能かも知れない。だが教員がいないし、公立高が受け入れすぎると、私立高校の経営が破綻してしまう。だから、事前に卒業予定者数を見て公私間で受け入れ数を調整している。必ず私立高校に行かざるを得ない中学生が存在するのに、全く経済的支援がないのは不公平になるだろう。

 しかし、私立学校には「独自の教育理念」があり、本来はそれに魅力を感じる保護者があえて高額の授業料を支払っても、子どもを私立に行かせるものだろう。それに私立高校には大学附属も多く、入試を経ずに大学に進学出来る高校も多い。都立高校にも「指定校推薦」みたいな制度があるところも多いが、一般的には受験しないと大学へ行けない。私立高校は高いけれど、大学受験の苦労がないという場合、私立の授業料を無償化するのはかえって不公平ではないのか

 公立高校の授業料が安いのは、教職員が公務員であり人件費を都道府県が全額負担しているからだ。私立の場合は、授業料や入学金などから教職員の人件費を出すんだから、高くなるのも当然だろう。それを考えると、これだけ無償化を進める以上、公私立で教職員の人件費が違ってはおかしいだろう。(違うかどうか僕は詳細を知らないけど、多分私立の方が実質的に有利な場合が多いと思う。)授業料に差がある分、私立の方が高い教育を受けられるという場合、授業料を公費で負担するのは不公平なんじゃないか。「平等とは何か」という難問をこの問題は提起しているように思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私立高校の「授業料無償化」問題①ー大阪府の場合

2024年02月21日 22時53分00秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 入試の季節真っ只中である。もっとも地方や時代により、ずいぶん入試の仕組みも違っている。自分の感覚では「2月は入試」「3月は卒業式」になるが、順番が違う地方もあるらしい。それはともかく、最近は「教育無償化を実現する会」なんていう小政党まであるぐらいで、「教育無償化」というテーマは政界でもキーワードになっている。

 もともと公立の小学校、中学校は授業料がないが、それは義務教育課程の公立学校だから当然だろう。余りにも当たり前すぎて授業料がないことを誰も意識していないだろう。だが「私立の小中学校」は授業料があるし、公立の小中学校でも教材費、制服・体育着代、給食費、修学旅行費などは保護者の負担である。これも当たり前すぎて誰も疑問に思わなかっただろう。

 もっとも低所得世帯の児童・生徒の給食費や修学旅行費には多くの自治体で補助制度があった。そして最近は所得に関わらず「給食費の無償化」を進める自治体が増えてきている。また大学進学に対する奨学金制度を進める自治体もある。それらに関しては、ここでは取り上げない。ここで考えたいのは「私立高校の授業料無償化」という問題である。

 世界的には「後期中等教育(高校)の無償化」は、「人権」と考えられ諸外国では20世紀中に実現されていた。高等教育(大学)の無償化をどう進めるかが世界の問題だった。しかし、自民党内閣では長いこと高校無償化が実現しなかった。多くの人は覚えていると思うが、2009年に成立した民主党政権で、初めて高校教育の無償化が実現したのである。

 その仕組みはなかなか複雑で、僕には問題もあるように思われた。自民党内閣が復活して所得制限が行われたが、その時にはこのブログでも批判・検討した。国の制度の所得制限や様々な問題点(「朝鮮学校の除外」や「留年生徒の除外」など)も今は検討から外したい。民主党政権では当初、公立高校だけでなく、私立高校や専門学校等に通う生徒にも支援が行われたが、それは公立高校と同額の補助を行うというものだったと記憶する。

 今も国の負担において、公立高校と同様の補助が支出されている。私立高校の授業料は公立より高いから、差額は保護者の負担になる。それに対し、多くの都道府県が「上乗せ」支援を行っている。(22年度時点で34都道府県だという。)大阪府では2020年度から所得制限(910万円)を設けた上で、(国庫負担と合わせ)「60万」を上限とする補助を行ってきた。それに対して、2022年になって「完全無償化」と称して、所得制限の撤廃を打ち出したのである。(ただし、初年度は高校3年生のみで、段階的に無償化を実施するとしている。)
(新旧制度)(段階的無償化のイメージ図)
 今までの説明で長くなったが、この制度案は大きな議論を引き起こした。というのも、多くの私立高校では授業料は60万円より高く、その分は私立高校側の負担となるという制度だったのである。これを「キャップ制」というらしいが、ちょっと理解に苦しむ制度である。私立高校は、公立じゃないんだから授業料は独自に設定できるはずだ。特色ある教育を実施するために多額の授業料を設定するのは、当然許容されるはずだし、それを承知で保護者も私立高校へ行かせているはずだ。
 
 それなのに、授業料の上限を地方自治体が設定してしまって良いのか。そもそも授業料は授業の対価なんだから、そこに公権力が介入するのは問題ではないのか。実際に多くの私立高校から反発が噴出し、結局成案では「63万円」とちょっと増額されることになった。確かに「910万円」の所得制限というのは不可解ではある。それは国の所得制限額と同じだから、所得がオーバーすると補助はゼロとなる。ちょっとの差額で受けられない人は不公平に感じるだろう。
(旧制度の説明パンフ)
 今回検索して、上記のパンフが見つかった。それによれば「令和2年4月からから私立高校授業料実質無償化スタート!」と大きくうたっている。4年前にすでに「実質無償化」が実現していたはずなのに、たった4年で制度を根本的に変更するのは何故か。それは私立高校への補助が他県にも波及してきて、大阪府の独自性が薄れたからだろう。「大阪維新の会」としては、問題が大きくなってきた大阪万博に代わる「目玉」が欲しいんだろうと思う。

 ところで、そもそも「私立高校授業料無償化」とは何なんだろうか。私立高校の授業料が高いのは誰でも知っている。それでは貧困層の子どもは公立高校しか行けない。だから私立高校授業料も補助するというのなら、それはタテマエ上「平等化政策」である。その場合は所得制限がある方が正しいのではないか。高所得層でも無償化するというなら、その余裕分を塾や予備校、あるいは海外旅行などの体験学習などに回せる。教育の階層格差を広げることになるだろう。そして恐らくそれが政治的目的なんだろう。大阪維新の支持層向けの政策なのである。
(大阪桐蔭高校)
 もう一つ大きな問題がある。僕は大阪の私立高校は三つしか知らない。それは「大阪桐蔭」「履正社」「PL学園」で、要するに高校野球に出てきた学校である。多くの人はそんなものだろう。大阪周辺の進学校としては、神戸市にある灘中学・高校がある。そこは結局この制度には参加しないということだ。(大阪府では近県の学校にも参加を呼びかけていた。)つまり、近県私立へ進学する府民生徒は無償化の恩恵があるが、その他の県出身者には恩恵がない。また大阪の私立に進学する他県の生徒も恩恵がない。
(灘中学・高校)
 同じ学校の生徒間に大きな格差が生まれるのは問題ではないか。またそれは別としても、このような有名私立のホームページを調べてみると、例えば灘中の場合、入学金25万、施設費25万などと明記されている。授業料そのものは中学が46万8千、高校が48万とあるが、授業料と同額以上の諸費用が必要なのである。「私立高校授業料無償化」と言うけど、やはり貧困層の生徒は入学が難しいのである。では諸費用も含めて無償化するべきか。そうなると今度は公立高へ行かせる保護者、あるいは子どもがいない府民とのバランス上不公平が過ぎるという意見が出るだろう。この問題をどう考えるべきか、東京のケースも合わせてもう少し考えてみたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっぱり!「性教育弾圧」の背後に「統一協会」

2024年01月24日 22時42分02秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 非常に重大な証言だと思うから、ここで紹介しておきたい。21世紀初頭に東京都教育委員会(以下、都教委)を中心に荒れ狂った「性教育弾圧」の中心として運動を行っていたのは、旧統一協会系の人々だったというのである。朝日新聞が毎週火曜日に「性教育を問う」というシリーズ記事を掲載していて、1月16日に「学校の指導 萎縮生んだ批判の波 「七生養護学校事件」が残した禍根」という大きな記事を掲載した。そして、1月23日掲載の「停滞招いた反対運動 背景は 実態は 中心で活動した元中学教諭に聞く」という記事で、反対運動の中心にいた野牧雅子氏にインタビューしているのである。
(七生養護学校事件)
 野牧雅子氏は少なくとも当時はなかなか知られた人物で、「のまりん」と名乗ってホームページで性教育反対運動を展開していた。インターネット勃興時代で、結構大きな影響力があったのではないか。僕も時々「敵情視察」的に読んでいた。今はもうないようで、僕も大分前にお気に入りから削除してしまった。いま思うと、現職教員が実名でやるには色が付きすぎていたかもしれない。確か神奈川県の中学教員で音楽担当だと思う。新聞には肖像写真も載っているが、まあ紹介することもないだろう。

 その記事では2002年11月(「七生養護学校事件」の前年)から「過激な性教育」反対の動きを始めていて、東京都港区の中学校にファクスや手紙(中には爆破するという脅迫もあった)が送られていた。野牧氏は「(私が学校に)授業を見せるように求めたのは事実だが、脅迫ファクスは送っていない。当時、情報交換する人が約100人いた。」という。その100人はどんな人だったのかという質問には「宗教関係者や保守系の団体の人もいた。その中で一番頑張ってくれたのは、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)のお母さんたちだったと認識している。私は信者ではないが、法律婚をしている男女の家庭を(性教育によってもたらされると考える「性の乱れ」から)守るという方向性は同じだった」という。

 数々の動きの中で最大の事件となった「七生(ななお)養護学校」(現・特別支援学校)事件については、ここでは詳細を省略する。(Wikipedia等で調べられる。)都教委により大量の処分がなされ、当時の校長が降格処分になるという信じられないことが起きた。「国旗国歌問題」の「10・23通達」(2003年)も同じ年。翌年には新設される白鴎高校附属中の社会科教科書(歴史的分野)に扶桑社を採択した。都教委「暴虐」の絶頂期で、正直あまり思い出したくない。多くの人が今も癒えない傷を負っているだろう。七生養護学校事件は裁判となり、都教委と中心的に騒ぎ立てた3人の都議に賠償を認める判決が最高裁で確定している。
(七生養護学校事件に関する本)
 ところで、ではなぜ性教育が問題なのだろうか。そのような新聞記者の問いに対して、野牧氏は「性教育をすると性に興味がわく。子どもの年齢にもよるが、性からは遠ざけなければならない。」と言う。さらに「誤った情報を信じたり望まない妊娠をしたりする実態があるのでは。」と問われると、「性教育では、性の自己決定権が強調されるが、誰とでも性交をするようになると、性被害が起きると思う。結婚していない男女関係の乱れを認めることになり、家庭崩壊につながる。」と答えている。

 正直僕には何を言っているのか、全く判らない。よく右の人が左の人に対して「頭の中がお花畑」と批判することがあるが、こういう例を見るとむしろ右の方がお花畑に住んでいるのではないか。「性から遠ざけるために、性教育をしない」のが有効な対策だというのである。しかし、中学校を出れば待っているのは「JKビジネス」である。「性の商品化」の世の中に出ていく前に、妊娠も避妊も教えない方が良いと言うわけである。日本の現実の中から出て来た発想じゃないとしか言えない。

 それはともかく、このような「性教育弾圧」を中央で支えたのが、「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」を立ち上げ座長を務めた安倍晋三衆議院議員だった。そのような安倍氏が政権を担うとどんなことになるのかと当時危惧したが、今のようになったわけである。(ついでに言っておくと「過激な性教育」というのは、義務教育最後の中学生に対して、妊娠や避妊の仕組みを教えるという程度のことである。これは欧米諸国に比べて「穏健すぎる」ものだろう。)

 性教育攻撃、統一協会、安倍政権というものが分かちがたく結びついていたことを改めて教えてくれる「野牧証言」である。なお、安倍派(当時は森派)はその頃から「裏金」作りをしていたとされている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続報・東京都のスピーキングテスト問題ー反対の声止まず

2022年10月20日 22時55分30秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 東京都教育委員会が11月27日に実施を予定している英語のスピーキングテスト。直近では8月3日に「東京の「スピーキングテスト」実施と多くの疑問」を書いた。その後も反対の声は止まず、都議会でも取り上げられた。自分でも新しく考えたことがあり、改めて現時点で続報を書いておきたい。

 まず、「19日にはテスト理論や英語に詳しい研究者らが都立高校入試への活用反対を表明した。」(朝日新聞)「言語学が専門の大津由紀雄・慶応大名誉教授や、英語教育に詳しい鳥飼玖美子・立教大名誉教授ら5人が都教委に要望書を提出し、19日に記者会見した。テスト結果の入試への活用見送りを求めた。」という。もちろん都教委という組織は、このような動き(要望書の提出など)があっても、協議に応じるなどということはない。このまま「粛々と実施される」のだと思う。だが、大津氏や鳥飼氏は大学入学共通試験における民間テスト導入問題でも反対を表明していた人たちである。国は止めたが、都は止めない。
(記者会見する大津氏や鳥飼氏)
 10月の都議会でも、この問題が取り上げられた。立憲民主党と東京維新の会が「スピーキングテストの結果を合否判定に使わない」とする条例案を提出した。これに対し、自民党と都民ファーストの会は「都立高入試の受験科目選定への介入は教育行政の中立性を脅かす」と反対。共産党も「都議会の多数派が条例などで教育目的や内容を決定することに慎重であるべきだとして反対」した。しかし、共産党は「都教委によるテストの事実上の強制も教育基本法が禁じる不当な支配だ」と主張し、都教委による自主的なテスト中止を求めたという。都議会の議員数は自民、都民ファースト、公明、共産、立民の順で、第5会派の提出した条例はもちろん否決されたが、都民ファーストから3人の賛成議員があった。

 そして、立民、共産らの反対派議員は、10月7日に「スピーキングテスト活用反対」の都議会超党派議連を発足させた。都民ファーストの会から条例案に賛成した3議員の他、欠席した2議員も議連に参加した、3議員はその後会派から除名処分を受け、それに対し「除名処分は無効」とする弁明書を会紀委員会に提出したということである。議連には42議員が参加しているが、都議会議員は全部で123人(定数は127、現在の欠員4)だから、3分の1に過ぎない。しかし、このような超党派議連が地方議会に出来たというのは、かつて聞いたことがない。それだけ都民、保護者の批判、疑問も大きいのだろう。
(スピーキングテスト反対議連が発足)
 僕が考えたのは、このテストの「自己採点」は可能なのかという点である。都立高校の入選では、解答用紙のみ提出し、問題用紙は持ち帰る。そのため中学では翌日に「自己採点」を行うことが出来る。解答用紙は返却されないが、個人の得点は中学当てに開示されている。学校で普通に行われている定期考査の場合、もちろんテスト返却が行われ、自分でどこを間違えたか振り返ることが出来る。学校で行われるテストというのものは、本来「結果だけ」ではダメである。今回は得点結果はもちろん教えられるだろうが、もともとの解答(スピーキングの録音)と採点過程は生徒に開示されるのだろうか。この発音ではこのぐらいの点数だろうと本人が納得出来るということが、テストには必要ではないか。

 またスピーキングテストの扱いが過大に過ぎるという批判がある。僕も言われて初めて気付いたが、「1000点満点の20点」だから、このぐらいは影響が少ないと思い込んでいた。都立高校の選抜は、「学力検査」と「調査書」で行われる。学力検査は普通科の場合、5教科で実施され、各100点、500点満点を700点満点に換算する。一方、調査書は中学の評定を5教科(テストを行う教科)はそのまま、テストを行わない4教科は倍にする。つまり、「オール5」の生徒の場合、5×5=25、4×5×2=40、合計65となる。その65点満点を300点満点に換算するのである。合計すると、「当日のテストが500点満点でオール5の生徒」は、700+300で1000点になる。それにスピーキングテストの点数20点満点を加えて、1020点満点にするというのである。

 ちょっと複雑だけど、わざわざ換算するのが面倒くさいだけで、よく読めば判るだろう。換算は教員が手作業で行うなんてわけはなく、都教委からエクセル形式の様式が送られてくる。昔はフロッピーディスクが来たけど、今はさすがに違うんだろう。ところで、調査書点だが65点満点を300点にするというのは、およそ4.615倍にすることになる。小数点は割り切れなく、延々と続く。そうすると、英語が「5」だったら、およそ23.075になる。「4」だったら、18.46である。

 2学期に英語を頑張って、4から5になったとしても、5点しか増えない。スピーキングテストは別個に20点になるから、中学3年生2学期の英語はスピーキングの練習にのみ使う方が有利である。「4技能を重視」ではなく、事実上「3技能(読む・書く・聞く)の軽視」ではないのか。あるいは、中学の教科が事実上10教科になったと言っても良い。明らかに過大だろう。

 さて、条例の問題に戻って。自民、都民ファースト、共産などは、「教育行政の中立性を脅かす」として反対した。かつて都議会では一部議員が都立養護学校(当時)の性教育をめぐって、教育に不当に介入したことがあった。その「不当性」は裁判の結果、最高裁でも認定された。だから、都議会が教育を論じる場合は慎重に考える必要がある。だけど、都議会議員には質問権がある。都教委が一部保守系委員に引きずられ、介入の「共犯」となったけど、都教委が「介入はおかしい」と言えば済んだ問題だ。

 では、教育委員会の方がおかしい場合はどうなるのか。議会には条例制定権があり、教育委員会にすべてお任せではなく、教育に関する条例を提起しても許されるのではないか。問題はその内容の当不当であって、今回の場合「スピーキングテストを行うこと」は教育委員会の裁量範囲としても、それを「合否判定には使わないようにする」という条例制定を「教育に対する不当な介入」と考えるのは疑問がある。都教委は何を言っても変えないんだから、都民がおかしいと思う問題があれば、条例制定を目指すしかないのではないか。普通の組織なら、このように反対の声が上がれば、話合いに応じたりするもんだと思うけど、そういうことを一切しないクローズドな組織が都教委である。全国の教育委員会一般とは違う議論をしなければいけない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京の「スピーキングテスト」実施と多くの疑問

2022年08月03日 22時15分59秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 教育に関する問題をしばらく書いてなかったので、幾つか書いておきたい。東京都教育委員会英語のスピーキングテスト(ESTAT-J)を実施して、都立高校の受験成績に加点される。この問題は方針が打ち出されたときに、「スピーキングテストに見る都教委の「原理主義」」(2017.12.18)を書いた。このテストに関しては、反対や疑問を訴える動きがあるものの、もちろんいつも批判に答えない都教委は、そのまま実施に向かって進んでいる。すでに申し込みが始まっていて、11月27日に実施される予定
(2021年に行われたプレテスト)
 今、「申し込み」と書いたが、これは東京都の公立学校に通う全中学生を対象にしているのに、別途申し込みが必要になる。11月27日は日曜日で、学校の授業の一環ではないのである。受験に加点されるから、逆に私立中学から都立高校を希望する生徒も受けられるんだろうか。一方で私立高校進学を希望する生徒も受ける必要がある。このテストは「受験」ではなく、「授業改善」が目的だからである。「授業で学ぶ」→「試す(ESTAT-J受験)」→「知る(ESTAT-J結果)」→「目標を立てる」→「学び続ける」というサイクルだそうである。「PDCA」みたいな発想がつくづく好きだよね。
(テストの概要)
 疑問点は幾つもあるが、まずは欠席者の問題。あるいは「障害」を持つ生徒の場合。ウェブ申し込みに当たっては、「特別措置」の申請が出来る。視覚、聴覚、きつ音、上肢不自由、下肢不自由、日本語の補助とかいろいろとある。全生徒対象だから、様々な事情のある生徒向けに特別措置が必要になる。それは大事なことだけど、いくらそんな措置を取ったとしても、当日コロナに感染したらどうする。一応、予備日があって、12月18日にもう一回ある。でも、不登校の生徒はどうなってしまうのか。

 もちろん、どんな対策を取ったとしても、中学3年生全員が受けるなんて不可能である。東京の公立高校には約8万人もの中学3年生がいる。受験にも使うというなら、不受験だった生徒は大きな不利益を被るのだろうか。ケガや病気で受験出来なかった場合の対応が5月末に発表されている。それが実に驚きなのだが、「来年2月に行われる英語の筆記試験で、同じ点数を取った同じ高校を受ける生徒たちのスピーキングテストの平均点を算出して、加点する」というのである。筆記試験の点数から、スピーキングテストの点数を導けるんだったら、わざわざ別にスピーキング能力を測定する意味がどこにあるんだろうか。
(入選における活用)
 では実際の入選では、どのように扱うのか。東京都の入学者選抜では、当日の筆記テストと中学の各教科の成績を総合評価する。現在のところ、筆記テストを700点に換算し、調査書点を300点に換算し、合計1000点満点にして上位から合格とする。スピーキングテストの点数は、これと別にして20点を上限にして加点するのである。つまり、1020点満点になる。

 これは各教科の中で英語だけ120点になるようなものである。スピーキングテストの点数はAからFの6段階に区分けされる。80点から100点の人がA段階で、20点加点。65点から79点が16点加算。50点から64点が12点加算。35点から49点が8点加算。1点から34点が4点加算。最後のFは0点の場合である。何で80点以上と最上位は20点で区切るのに、35点以上の場合は、15点ずつ区切るのか全く意味が判らない。スピーキングテストの採点は、どうしても公平性が問題となるが、64点と65点に1点の差しかないわけなのに、それが3点の差になってしまう。何でこんなことをするのか、よく判らない。
(問題例の絵)
 以上のことは、テストを行い、入選でそれを利用することに対する疑問である。しかし、そもそもスピーキングテストを行うことに、どのような意味があるのだろうか。もちろん、英語では「4技能」を学習するというタテマエで言えば、スピーキング能力だけ測定しないのはおかしいという考え方は出来る。しかし、限りあるテスト時間の中で、どのようなテストを行うのだろうか。テストには専用のタブレット端末・イヤホンマイク・防音用イヤーマフの3点を使用する。そして、例文の読み上げ質問を聞いて答える絵を見てストーリーを英語で話す自分の考えを述べるの4問について、答えるようになっている。

 まあ、最初にある「英文朗読」は理解出来る。英単語の読み方を知らなければ、上手に読めないだろう。でも、それは筆記テストでも判定はある程度可能だ。もし、英語独自の発音を厳しく採点するならば、確かに意味はあるだろうが、それが全中学生に可能だろうか。僕がよく判らないのは、「絵を見て答える問題」である。絵そのものの判断が(絵が小さくて)難しい。それに何が問題になっているのか、もうこういうテストをやるわけじゃないから難しい。でも自分が中学生なら判ったと思う。何故なら、問題にはパターンがあって、準備して臨めば出来るからである。つまり、スピーキングテストとは究極の暗記問題なんだろうなと思う。日常生活では使わない英語の発音を「過去問を繰り返してパターンを理解して覚えこむ」という能力を測るテストになるのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都立高校の「男女別定員」再考、「男女別学」こそ問うべきである

2021年09月10日 22時49分32秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 先に「都立高校(普通科学年制)の男女別定員制をどう考えるか」(2021.6.23)という記事を書いた。都立高校に「男女別定員」があることに反対運動がある。それに対して、東京の場合「私立女子高校」が多いためやむを得ないのではないかという自分の考えを書いた。その後、ジェンダー平等を求める弁護士らが「性差別」とする意見書を6月28日に公表した。また朝日新聞7月25日付「フォーラム」欄で「男女別定員は必要か」という大きな特集記事が掲載された。それらを読んで、もう一回書きたいと思ったのである。

 それらの記事では「公立高では都立入試だけ」と大きく報じられている。まるで東京の高校入試制度にだけ全国唯一の「性差別」が存在してるような感じである。しかし、東京に「男女別定員」があるということは、すべての都立高校が共学だということである。近隣県では「男女別学」のところがある。「別学」なら当然のことに「男女別定員」は存在せず、性別に関係なく成績順に合皮が決まるのみである。男女の合格ラインの差は生じない。
(全国の中高の共学、別学の割合)
 東京の「男女別定員」を問題にする人は、何故か全国の公私立高校に「別学」が沢山あることは問題にしない。どうしてだろうか。性別によって進学できる学校が制限されているということは、男女別定員制よりも遙かに重大な性差別だと僕は思うのだが。そもそも「男女別学」は憲法に反しないのだろうか。「お茶の水女子大学」「奈良女子大学」のように国立の女子大が存在してるんだから、違憲ということはないのだろう。まして私立学校の場合は、私立学校法で「私立学校の特性」「自主性」を認められている。

 しかし、公立高校の場合はどうなんだろう。戦前はもちろん別学というか、そもそも性別により制度そのものが違った。戦後改革で新制高校が発足したとき、西日本は共学になったところが多いが東日本では別学が続いたと言われる。それはGHQの教育に関する「指導」が東西で異なっていたからと言われたりするが、詳しい理由は知らない。東日本でも近年共学化が進んだところが多いが、それでも北関東には別学が残っている。

 埼玉県では浦和、熊谷、川越、松山、春日部高校が男子校である。一方で女子校として、浦和第一女子、川越女子、春日部女子、熊谷女子、鴻巣女子、松山女子などがある。群馬県でも前橋、高崎、大田、渋川、館林が男子校で、それぞれの地域に同名の女子校がある。栃木県でも宇都宮、足利、栃木、真岡、大田原などで別学になっている。(足利は共学化の予定。)不思議なのは茨城県で、水戸第二高校、日立第二高校では「制度上は共学」なのに男子は一人もいなくて「実質女子校」なのである。

 他にも公立の別学高校はあるし、前記高校でも定時制課程では共学というところが多い。校名を見ると、女子校(実質女子校)は「○○女子」とか「第二」を名乗っている。男子校が「○○男子高校」と名乗ることはないのである。埼玉県立浦和高校は東大合格者数で公立トップになることもある難関校として知られている。しかし、その高校を女子が受験することは出来ない。僕にはこっちの方がずっと重大な性差別だと思うがどうなんだろうか。

 大阪では近年になって「男女別定員」を止めたという。その結果男女比のアンバランスが生じているという。もし東京で「男女別定員」を取っていなかったら、旧制中学につながる高校(日比谷、立川、両国、戸山、小石川、新宿等)は「実質男子校」、旧制高等女学校につながる高校(白鴎、竹早、駒場、富士、三田、小松川等)は「実質女子校」になっていた可能性があるのではないだろうか。それが戦後になって「ほぼ半々」の男女別定員を設けたことで、「都立高校は共学」という考えが定着した。70年代に白鴎高校に入学した自分は、府立第一高女だった過去は歴史が古いという証と思っていただけである。
(東大合格者トップ校は別学が多い)
 上記にあるように、東大合格者が多い高校には別学私立高校がズラッと並んでいる。単に成績優秀者がもともと集まっているのかもしれないが、成績上昇のためには「別学」の方がいいのかもしれない。しかし、公立高校の場合は「男女がほぼ半々」であることが望ましいのではないか。もちろん高校には様々なタイプがある。専門高校では男女比が異なることが多い。工業高校は男子が多く、商業高校は女子が多い。それは日本の現実社会の反映だろう。そのこと自体も問い直す必要があるが、受験希望者が選んでいるのだから仕方ない。一方「普通科」高校の場合は男女半々ずつが自然だと思う。

 もちろん体育の授業や運動部の活動は男女別になる。しかし、学校行事や生徒会活動に男女共同で取り組むことは「男女共同参画社会」へ向けた若い世代のトレーニングとして欠かせないと思う。もっとも今の都立高校の募集要項では、男子の方が定員が多くなっている。それは前回記事で書いたように、東京に私立女子高校が多いためである。公私で協議して取り決めるので、なかなか変えるのも大変だと思う。しかし、僕はそこはおかしいと思う。「男女定員は同数」に向けて努力するべきだ。そのために経営上の問題が起きる私立高校の方で共学化を目指すべきだろう。しかし、「男女別定員」そのものは「男女共学」を担保する制度だったのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京都のパラリンピック学校観戦問題ー教育委員の反対を無視

2021年08月20日 22時16分15秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 東京都でパラリンピックの学校観戦を進めようとしている。「新型コロナウイルス問題」として書くつもりだったが、中身的には「東京の教育」の方が近いと思うので、そっちのカテゴリーにしたい。「パラリンピック学校観戦」そのものではなく、少し違ったことを書きたいからだ。パラリンピックを観戦することの教育的意義はないわけじゃないだろう。でも行政というのは前例踏襲が多い。オリンピックの学校観戦は取りやめになったんだから、その後の感染拡大を合せ考えてみると、パラリンピックの観戦も取りやめる方がむしろ自然ではないか。

 さらに東京都教育委員会で(6人の委員の中で)出席した4人の委員が反対するという異例の展開になっている。それでどうして実施が可能なのか。「教育委員とは何なのか」という問題である。教育委員会の意思決定は、当然のことながら教育委員の多数の意思である。教育委員の過半数が反対することを実施出来るのか。もちろん法的に可能だから実施するわけだが、それで果たしていいのだろうか。
 (教育委員会で教育委員が反対)
 東京都教育委員会毎月第2、第4木曜日に定例会が開かれる。その2日前(普通は第2、第4火曜日だが、祝日がある場合はそれを除いた2日前)に開催の告示がホームページに掲載される。しかし、時々「臨時会」が開かれている。緊急事態宣言時の対応に関しては大体臨時会が開かれている。今回は18日になって、突如「18日午後8時」という開催告示が掲載された。内容は「報告事項」が2つである。「(1)夏季休業明けの都立学校の対応について(2)パラリンピック競技大会における学校連携観戦について」である。

 教育委員が意思決定を行う場合は、「議案」と告示に明記されている。例えば「東京都公立学校教員の懲戒処分等について」といったように。今回は「報告事項」だから、教育庁(教育委員会の事務局)の原案を審議しない。4人の委員が反対意見を述べたというのも、原案に反対したというのではない。いわば「憂慮を示した」とでもいうか、「報告に対して意見を述べた」だけである。4人いたんだから、報告事項を審議事項に変更する動議を出して、「学校観戦は行わない」と議決することも出来なくはない。でもそこまで事を荒立てたくもなかったんだろう。皆さんの心配を受けとめて感染防止に努めて実施するといったあたりで終わったんだと思う。

 現時点で学校観戦は最大13万2千人を予定しているという。僕は「夏休みを延長した方がいい」と書いたわけで、この人数に不安を抱く人が多いのは当然だと思う。やりようによっては危険性は少ないかもしれないが、引率する教員の負担が多すぎるのと予想される。児童・生徒が皆おとなしく見ていればいいけれど、やはり校外行事、それもスポーツ観戦となれば、はしゃぐ子どもも出て来るだろう。時間にもよるが、食事はしないでも水分補給は必要なんだから、感染拡大を心配する保護者が多いと思う。まだまだ残暑厳しき時節、家でテレビで観戦しようじゃ何故いけないのか。オリンピックはそう言ってたわけだから。
(各区の対応)
 都教委はこれまで各学校に「オリ・パラ教育」を強制してきた。いまさら何もなしというのも具合が悪いのか。学校にパラリンピアンを招き、ゴールボールとかボッチャとか一緒にやってみるなどの試みも多かった。だから、ぜひ見てみたいという子どももいるだろう。しかし、それを言うならオリンピックだって見せるべきだろう。何でパラリンピックは見せたいのか。そこに何やら嫌な感じを持ってしまう。つまり「パラリンピック観戦」は「道徳教育」なんだろうなと思ってしまう。

 「スポーツの力」を感じてもらうというより、「頑張っている障害者」を子どもたちに見せたいということではないか。全校で見に行ったら、必ず「感想文」を書かせる。「障害を負った皆さん」「でも」「一生懸命頑張っている姿」を見て、自分ももっと頑張らなくてはと「反省」しました、みたいな。そういう作文をスラスラ書ける能力を育成すること大人が求める価値観を内面化することに目標があるような気がして、嫌な感じがするのである。そんなことはないと言うかもしれないが、やっぱりそうなると思う。

 本当は「教育委員会」とは何なのか、その問題も書きたいと思ったが、今回は止めることにする。最後に常識的な疑問。コロナも心配だが、熱中症で倒れる児童・生徒の方が多いはず。間違いなく100人以上出る。夏には子どもに見せたい展覧会などが幾つもある。学校に割引券を送ってきたりする。それは学校単位でまとまって見ようということではない。家庭で(あるいは個人で)行って欲しいということである。涼しいところへ行く林間学校はあっても、真夏に遠足や社会科見学などを企画する学校はない。常識的に考えれば判るが、全校でどこかに日帰りしようという季節じゃない。オリンピックとかパラリンピックの問題以前の話。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都立高校(普通科学年制)の男女別定員制をどう考えるか

2021年06月13日 22時55分54秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 東京の都立高校で実施されている「男女別定員」を廃止すべきだという書名運動が行われている。6月9日に記者会見が行われて報道された。この問題をどう考えるべきだろうか。僕はいつもなら大体都教委を批判する記事を書くことが多いが、実はこの問題に関しては都立高校(普通科学年制)の男女別定員制はやむを得ないのではないかと思う。以下でその事を説明するが、まず東京の高校入試制制度から始めることになる。
(記者会見のようす)
 新聞では「都立高校の男女別定員廃止を」と見出しを付けるが、実はもともと商業、工業などの専門学科の定員は性別に関係ない。普通科でも単位制高校は男女別ではない。だから「普通科高校単位制やコース制以外の学年制高校)」だけが男女別定員なのである。どこかの高校では「男女別の合格最低点の違い」が270点以上もあったと報道された。1000点満点での話だが、100点満点の5教科のテストと中学の調査書を換算して1000点満点にしているのである。

 過去には様々な方法があったが、現在は基本的には「テスト700点」+「調査書300点」になっている。つまり、500点のテストを700点に換算する(1.4倍する)のである。一方、調査書は、テストをしない教科の評定を2倍して合計する。つまり、「オール5」の生徒は、5教科×5+4教科×5×2=65になり、それを300点満点に換算する。その合計点を上から順位付けする。だから、実際のテスト点で200点も離れているわけではない。テストのケアレスミスや実技教科の成績が換算の結果、大きな違いになるのである。
(書名サイト)
 東京の高校入試には全国のどことも違う特殊な要因がある。私立高校が多いのである。だから、都立高校は自分の都合だけで定員を決められない。毎年東京都と「一般財団法人東京私立中学高等学校協会」との間で、「公私連絡協議会」を開いている。今年度に関しては「令和3年度高等学校就学計画について」という文書が発表されている。それによると、都内公立中卒業予定者7万3062人、高校進学率を95%、国立・他県私立・高専等進学者を3600人とする。残りの6万5900人の内、2万6700人を私立が、3万9200人が都立が受け入れるとしている。

 何でそこまでするのか。高等教育である大学なら浪人するのは珍しくないし、地方から来て下宿して大学に通ったりする。しかし、高校の場合(離島などの特別な場合を除き)、大部分の中学生は自宅から通えるどこかの高校に進学したいと考えている。浪人して過年度で高校へ進学する人は非常に少ないだろう。だから、「どこの高校にも入れない」という生徒を出さないようにする必要がある。少子化で都立高校には空き教室があるだろうから、都立でもっと受け入れることも可能だろう。だがその場合、私立高校の経営に大きな影響を与えるので、公私間で細かく受け入れ生徒数を決めるわけである。

 私立高校は21世紀になって、中高一貫化共学化して名前も変えた学校が多い。(例えば、日本橋女学館は2018年度より開智日本橋学園という共学の中高一貫校になった。)それでも男子校、女子校は数多い。進学実績が高い難関校として知られる「御三家」(開成、麻布、武蔵)、「女子御三家」(桜蔭学園・女子学院・雙葉学園)はどれも別学校である。名前に「女」が入っている神田女学園、江戸川女子、滝野川女子学園、藤村女子、潤徳女子、蒲田女子などは当然女子校。私立高校の男女別定員は出ていないが、全体として女子校の方が多いのは間違いない。

 都立高校には「男女別定員制の緩和」という不思議な仕組みがある。「男女別の募集人員の各9割に相当する人員までを男女別の総合成績の順により決定した後、募集人員の1割に相当する人員を、男女合同の総合成績の順により決定」するというのである。男女別定員といいながら、合格線上の生徒は性別に関係なく決めるというのである。区部32校、多摩地区10校が採用している。都立高だって、出来れば成績の良い生徒を合格させたいのである。「男女別定員」とは大乗的見地に立って私学のために枠を空けているのである。
(男女別合格点には差がある)
 これはつまり「女子の成績の方が良い」ということだろう。戦後直後はまだ女子の高校進学率が高くなかった。その時代には「女子枠」を確保する意味もあったらしいが、70年頃にはもう男女とも概ね高校までは行く時代になった。現在は「絶対評価」や「観点別評価」を行っているから、中学の評定も提出物をちゃんと出したりする女子が良くなりがち。発達段階的に第二次性徴は女子の方が早いのは常識で、中学段階までは国語や英語などの成績も良いことが多いと思う。だから、男女別で合格判定を行うと、割を食うのは女子のことが多いと思われる。
 
 そこだけを見れば「女性差別」にも見えるが、一部の医学部入試問題と違って秘かに減点しているわけではない。合格判定方式はすべてインターネットで公開されている。子どもが生まれる時には性別を選べないから、「男子の親」と「女子の親」は同数である。女子の親からすれば「男女別定員」で割を食うのは納得できないかもしれないが、男子の親からすれば「必ず多数の男子生徒が都立高校に落ちる」のはもっと納得できないだろう。中学段階では「出来るだけ行き場のない生徒を出さない」が優先してもやむを得ないと思う。

 ただ、僕はこのままの制度で何の問題もないとは思っていない。まずは「男女別定員」とはいいながら、日比谷、西、立川等の進学指導重点校は大体「男子が10人多い」定員となっている。これは「合理的範囲」を越えるのではないか。多くても「各クラス1名の差」ぐらいだと思うが、特に進学指導重点校で女子合格者が少ないと大学進学でも差が出てしまうわけで、「男女別定員」は許されないと考える余地はある。

 また「推薦」でも男女別定員がある。推薦合格者は「定員の20%以内」なので、男女別定員数が自動的に波及するんだろう。しかし、これは本来おかしいと思う。もっとも普通科高校に推薦入学制度があること自体がおかしいが。「推薦入学」は「どうしてもその高校で学びたい」という強い意欲を持つ生徒を取りたいわけである。そういうタテマエからすれば、定員に性別が入ってくるのは間違っている。推薦選抜では性別に関係ないように変更する必要がある。

 ところで、実際には都立を落ちた女子は、もともと冒険と言われていて「私立の押さえ」を用意していただろう。「都立を落ちたら入ります」と内約を得ているわけである。そうやって都立、私立で相互依存しながら、高校受験が成立している。性別ではなく、すべてを成績で判断すべきという考えも判らないではないが、今度はそれは「成績第一主義」になる。成績が悪くて都立も私立も落ちてしまう中学生(特に男子)を「差別」してしまわないか。両者の兼ね合いの問題だと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都教委、育鵬社を採択せずー中学教科書問題

2020年07月31日 22時34分58秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 東京都教育委員会の定例会が2020年7月27日に開かれ、来年度からの都立中学校特別支援学校の教科書を採択した。その結果をホームページで確認すると、今回は育鵬社の歴史、公民教科書が採択されなかった。1990年代に「新しい歴史教科書をつくる会」が登場して以来、中学の歴史教科書が大きな問題になってきた。都教委は今までずっと扶桑社か、その後身の育鵬社を採択してきたが、19年ぶりに右派系教科書を選ばなかったのである。
(都教委定例会=都教委ホームページから)
 まず採択結果を見てみると、歴史では都立中高一貫校10校すべてが山川出版になっている。特別支援では視覚障害が教育出版、聴覚障害、肢体不自由・病弱では日本文教出版(日文)である。公民では、白鴎を除く中高一貫校と視覚障害で教育出版、白鴎附属中と聴覚障害、肢体不自由・病弱で日本文教出版(日文)になっている。採択のための調査研究資料も公表されているが、いつものように採択された理由が全然判らない。

 中学教科書は原則として4年間同じ教科書を使用することになっている。4年ごとに新しい教科書が検定を受け新たな採択が行われる。前回は2015年なので、本来は去年が新規採択の年だけど、学習指導要領の改定に伴って新しい教科書が出なかった。そこで2020年が新規採択の年になったわけだけど、例年なら集会などが行われてマスコミでも取り上げられる。僕も今まで前回、前々回には教科書展示会に出掛けて記事を書いた。しかし、今年は新型コロナウイルス問題でどっち側の集会も開きにくい。僕も教科書を見に行ってないのである。

 今回は清水書院が撤退し、代わりに高校で圧倒的なシェアを持つ山川出版社が新たに参入した。高校教科書との連続性をウリにしているので、まあ中高一貫校で採択されるのは納得できる感じか。歴史では育鵬社と並ぶ右派系教科書の自由社が、今回は検定で不合格となった。そういう検定のあり方をどう考えるかという問題はあるが、問題が多すぎたのだろう。育鵬社も執筆者を見ると故人(渡部昇一、岡崎久彦氏など)が多く、インパクトに欠けたのか。山川参入で全国の中高一貫校はほぼ同じ傾向になると思う。
(山川の中学歴史教科書)
 90年代の歴史修正主義運動は、「新しい歴史教科書をつくる会」が執筆した教科書を生み出した。「扶桑社」(産経新聞の子会社)から出版されたが、最初は東京と愛媛の養護学校しか採択しなかった。あまりにも右派的な記述が多く、全国的な広がりが難しかったのである。扶桑社で2回出した後で、もっとマイルドにするべきだという八木秀次らが分かれて、育鵬社(扶桑社の子会社)に代わった。藤岡信勝らは自由社から出版を続けたが少数派となった。
(教育出版の公民教科書)
 育鵬社の教科書は「大東亜戦争」と書く。「当時の公式的呼称」だけど、今の時点でそう教えるべきなのか。僕は社会科の教員として、「歴史修正主義」には抵抗しなければと思ってきた。中学教科書は無償だから、税金を使って特定の歴史観を奨励するのと同じである。一般書を書くのは自由だが、教科書を作って右派系政治家の力を使って採択するやり方はおかしい。都教委が中高一貫校を設置し、附属中の教科書を都教委が決めるとなったとき、その最初のターゲットとなった白鴎高校は僕の出身校だ。そこで同窓生としての反対運動を始めたのである。

 前回(2015年)のときとは教育委員も代わっていることが大きいのだろう。はっきり言って、もう都教委はずっと育鵬社かと半分諦めていた。右派系の人は、右派的な首長が選んだ右派的な教育委員に期待を掛けてきた。「左翼的労働組合」などが圧力を掛けるから、一番ふさわしい教科書が選ばれないなどと「妄想」を抱いていたのである。だから、「圧力」のない「静かな環境」で採択するべきだとか言っていた。今回はコロナ禍のため、市民運動もマスコミ報道もなかった。「静かな環境」のもとで選んだら、育鵬社が選ばれない皮肉な結果になったわけだ。

 この問題はもっと早く書くべきだった。弁護士の澤藤統一郎氏のブログ「憲法日誌」を読むまで気がつかなかった。都教委のホームページも新しい情報がすぐに画面から見えなくなってしまう。いつもだと第4木曜が都教委の定例会だが、今年は4連休のため月曜日に延期されていた。その告知は見ていたんだけど、つい確認を忘れてしまった。寄席に出てる人なんかはチェックしてるのに、我ながら問題意識の薄れ方に驚き、反省した。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校再開延期と教員「テレワーク」の必要性

2020年04月01日 23時36分35秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 4月1日は東京の教員異動が発表になる日である。最近は都教委のホームページにも公表されているが、長らく校長以外の人事異動は東京新聞の別刷り特集を見るしかなかった。わざわざ新聞販売店にもらいに行った時もあるが、その後東京新聞を取ることにした。定時制に勤務していた時は、東京新聞販売店でアルバイトしている生徒がいて、余った分を持ってきて貰ったのも懐かしい思い出だ。一応入ってくるから異動特集を毎年チェックはするが、年々知人が少なくなる。それは当たり前で、自分より年長の教員は誰も載っていないのである。自分が勤務した時にリーダーシップを取っていた年長の教員たちは、とっくに定年になっている。当たり前なんだけど、時々驚いてしまう。

 それはさておき、東京都教委は4月からの学校再開を諦めて、5月の連休明けに延期することにした。正直言って「だから言ったじゃないか」である。多くの人はこうなると思っていただろう。

 3月25日に僕はこう書いた。「安倍政権が「無意味に全校休校」としたものが、先週になって「4月からの学校再開」を言い出したことは、国民をミスリードするものだったと僕は思っている。「地域によっては、入学式だけやって、授業再開は5月から」と言うべきだったのではないか。」 
 3月29日には「本当に学校は再開できるのだろうか。都教委は「都立学校版 感染症予防ガイドライン(新型コロナウイルス感染症)」を発表し、とても実行できるとは思えないような対応を学校に求めている。」と書いた。

 都教委がガイドラインを決定したのは、3月26日の定例会である。ところが4月1日当日になって、突然午後5時45分から「臨時会」を開くという告示がホームページに載った。そして、そこで教育委員が急きょ集まって事務局案を追認したんだろう。しかしながら、ここまでの増加は予想しなかったとしても、26日時点でも感染者が途切れく増えていることは心配されていた。今後のことを「最悪の場合」も予想し、第二案を示しておくのは、当然の責務だ。

 都教委の場当たり的対応は、児童生徒、保護者、教員など現場関係者を混乱させただけだろう。そして、その混乱を都教委が謝罪することはない。今まで何度も「おバカ事態」が起こっているが、一度も謝罪なんかしなかった。都教委が下した処分が裁判所で否定されても、蛙の面になんとかだ。教員じゃなくなっても、都民の一人として、この無責任ぶりに呆れてしまう。今回は非常に多くの人に示した方針が一週間も経たずに根本的に否定された。学校が再開されると期待させた子どもたちに「ごめんなさい」と謝らないのか
(1日の都教委臨時会)
 ところで、今までの「学校休校」は、学年末だったこともあり、教員は勤務を継続して成績処理や卒業式準備などに当たることを前提にしていたと思う。しかし、それは本来の「一斉休校」とは言えない。本来は教職員も含めて学校全体を閉鎖しないといけない。それが「一斉休校」が社会で意味を持つ前提だと思う。このままでは、教職員が感染した場合、5月に再開することも難しくなる。そして教職員の感染リスクも非常に高くなっていると考えられる。

 理由は幾つもあるが、最大のものは「異動・退職の時期」だったということだ。職場の歓送迎会は今年はほとんど見送られただろう。しかし、個人的にお世話になった関係、一緒に飲食に行った関係にある教員が退職、異動するとなると、仲間内の送別会をした例がないとは思えない。多くの教員でなくても、東京や大阪では飲みに行ったりした教員がゼロとは僕には想定できない。

 また学校には外国人の生徒も多くなっているし、主に米国から来る英語の指導助手など外国人職員もいる。3学期は一年の終わりで、卒業式、修了式で「気が抜ける」こともある。強いストレスにさらされていた期間が、「春休み」に緩んで風邪をひくことはよくある。教員もブラック職場と言われつつ、けっこうアクティブな人が多くいる。地域でスポーツ、文化活動をしている人も多い。春に海外旅行を計画することはほとんどないが、海外帰りの友人と会うことは多い。海外の外国人学校に赴任していて帰ってくる教員もいる。そんなこんなをまとめれば、教員の感染リスクは高くなっている。

 今は「教員の感染」があることを前提にして、それを見越した態勢を作っておくことだと思う。そのためには「教員のテレワーク」が必要だ。40代以下の教員はほとんど経験してないかもしれないが、昔の夏休みの「自宅研修」でいいんじゃないか。毎日出ないということじゃない。管理職は交替で、教員は学年内で輪番を決め、事務職員も交替勤務とする。家で教材プリントなどを作成し、学校のホームページに掲載するなど、いろいろ出来るはずだと思う。「通信教育」の学校は現実にあるんだから、この際全国の中高はしばらく「通信教育」でもいいんじゃないかと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪市「校長評価に学力テスト反映」問題

2019年02月20日 22時22分15秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 大阪市吉村洋文市長が、学力テストの結果を教員の人事評価に反映させると2018年に言い出した。いろいろ検討を重ねた結果がまとまり、1月末に市教委が市総合教育会議に提示した。2019年度に試行し、2020年度から本格的に導入するという。全国の学力テストではなく、大阪独自テストを使用し、教員ではなく校長のみとする。大阪では小学3~6年生対象の「学力経年調査」と中学生対象の「チャレンジテスト」をやってるらしい。大阪の子どもたちはテスト漬けなんだ。
 (大阪市吉村市長)
 校長の人事評価学校予算の配分に反映させるが、その方法は複雑で面倒だから省略する。すべてを学力テストだけで決めるというほど単純ではないけれど、大きな方向として「学校間の競争を促す」制度として設計しているつもりなんだろう。この制度はもちろん機能しないし、むしろ逆効果になるだろう。いろいろな批判もあがっているし、トンデモナイ制度だと思う。

 「民間企業」が競争するのはいい。しかし「民間企業」はリストラ選別ができる。日産のゴーン前社長は大胆な工場閉鎖を断行した。ホンダもイギリスの工場を閉鎖するという。デパートやスーパーマーケットも地方に多い不採算店をどんどん閉鎖している。それらの方針は地方社会や従業員に大きな負担を強いるものだけど、経営方針上あるいは倫理上の問題はあるとしても企業には事業を選別する自由がある。そのうえで各企業間の自由競争がある。

 教育においても、「私立学校」は小中でも受験生を選抜できる。だから進学やスポーツなどで、優れた生徒を集めて競争して実績を挙げることもできる。一方、公立の小中学校は(東京のように一部で「学校選択制度」を義務教育段階で取り入れたとしても)、地域の生徒はすべて受け入れなければならない。「選別」が自由にできないのに、競争だけ強いられる。それでは必ず不満がたまって、学校の雰囲気が悪くなるのは目に見えている。

 今時「お前のような生徒は来なくてもいい」「テストの日だけでも休め」とか言ったら、いつ録画録音されているか判らない。表立ってはそういうことは言わないかもしれないが、テストによる競争政策が行われたら成績が悪い子どもは居心地が悪くなる。障害のボーダーにあるような子どもは、できるだけ特別支援学校に行って欲しいというムードが出てくる。そうなるに決まっていると思う。普通の感覚で見て、テストの成績で校長先生を評価するって「いじめ」じゃん

 それ以上に深刻だなあと思うのは、「トップを育てる」ことと「平均を上げる」ことの違いに鈍感なことだ。「走力」で考えてみる。例えば大阪の中学生が都道府県駅伝で活躍して欲しいと思う。その場合は、各学校のトップレベルの生徒を集めて、いろいろな方法で競わせることでタイムが向上するだろう。でも、「全国走力テスト」なんてものをやって、各学校の全生徒のタイムを平均して競うとしたら、どうだろう。走るのが速い生徒が頑張るだけじゃだめで、走力が中レベルの生徒の対策が必要だろう。また遅い生徒は家庭の生活環境などの問題も解決しないといけない。

 「全国学力テスト」の結果というのも、もともとは生徒一人ひとりの成績の平均である。それを上げるためには、「下を排除する」か、「真ん中から下の生徒を伸ばす」のが有効だ。もちろん成績上位の生徒が頑張るのもいい。それも大事だけど、100点が上限なんだから、90点の生徒は10点しか伸びしろがない。「できる子」に「100点めざそう」というのもいいけれど、平均点を伸ばすという目標からすれば、真ん中以下の生徒に注力しないといけない。60点の生徒には40点の伸びしろ、30点の生徒には70点伸びしろがあるじゃないか。

 だからテストの成績のいい学校に予算を配分するというのは、正しい政策ではなく逆効果になる可能性が高い。成績がいい学校はもっと良くなるかもしれないが、学校間格差が広がるだけである。むしろ平均点の低い学校にこそ予算を配分しないといけない。そこに集中して教員を加配するとか、教員以外の人材を活用して夜間・休日の補習教室を開くとか。さらに地域に課題がある場合も多いだろう。地域に開かれた学校を作り、「子ども食堂」や図書室、体育館などの開放地域ぐるみの教育力アップを図るなど。

 学力テストの成績にこだわること自体がおかしい。しかし、その結果に地域の課題が現れることもあるだろう。地域の課題を見つめることではなく、「校長の競争」で学力が上がるわけでもないし、むしろ校内で低学力生徒を排除するムードが出てくるなどの弊害が心配される。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これからの性教育ー都教委と性教育問題③

2018年04月29日 23時11分47秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 性教育問題を2回書いた。まだ論点は残っているけれど、それは指摘するだけにしておきたい。最大の問題は「なぜ性教育を攻撃するのか」である。都議会で質問されたというけど、君が代処分問題とか夜間定時制廃止問題などは、いくら都議会の質問があっても何も変化がない。都教委で議論もしない。なんで「古賀都議」だとおそれいったかのように対策を打ち出すのか。

 僕が思うに、中学歴史教科書問題などを見ても、都教委と「右翼的都議一派」は「同志的関係」にあるんだろう。お互いに相通じているというか、特別の関係があるから、むげにはできない。質問があった以上、何か「お土産」を差し上げないといけない。そこが野党系都議の質問と違うところなんだとと思う。そして「性教育」と「歴史修正主義」には共通点がある。生徒たちに「出来るだけ真実を教えたくない」という点で共通しているわけだ。

 それにしても、今回のように「保護者の理解」を持ち出していいのだろうか。授業はもともと保護者に公開され、授業内容は報知されていた。それでいいのではないか。もちろん性教育に限らず、保護者の協力と理解は学校運営に欠かせない。だけど、「授業内容」は学校が責任を持って進めていくべきものだ。保護者全員に指導案を事前に見せるなど、「授業の検閲」になってしまわないか。事務的な負担も考えると、都教委はできないことを要求しているとしか思えない。

 そういった問題があると思うけど、それはもうやめて、「これからの性教育」について考えてみたい。僕が思うには、「思いがけない妊娠をしないためには、産み育てられる状況になるまで性交を避けること」という指導の方向性でいいのだろうか。20世紀の段階なら、マジメに中学、高校で学校生活を送っていれば、それなりの就職先や進学先に通じていた。高卒でも大卒でも、一生勤められる正社員になれるんだったら、それまでセックスは我慢せよも通じたかもしれない。

 でも今じゃ、高卒はもちろん、大学まで行っても、なかなか安定した正社員になれないことが多い。またなれたとしても、長時間労働や不安定な労働条件が付いて回る。「産み育てられる状況になれるまで」と言っても、低賃金で不安定な派遣社員だったりすれば、いくつになってもセックスは我慢しないといけないのか。それとも成人にさえなっていれば、以後は自己責任で「性交可」なんだろうか。その場合、「思いがけない妊娠」が怖いというなら、男の場合「フーゾク」に行くのはありなのか。何しろ健康な男子なら性欲があるのが自然なんだから、この問題は大問題だ。

 「思いがけない妊娠」は避けるべきだというのは誰しも反対できない。でも、この言い方でいいのかなと思うのには、二つの理由がある。一つは「妊娠しなきゃいいんでしょ」とイマドキの中学生ならすぐ反論してくるだろう。男女のカップルには妊娠があるけど、同性愛なら中高生がセックスしてもいいの?って言い返す生徒になんて答えるか? あるいは、手や口ならいいんじゃない、ぐらいは言ってくるんじゃないか。そして実際、セックスを強く迫る男子に対して、これでガマンしてと言ってる現状があるんじゃないかと思う。

 また、今じゃ「できちゃった婚」が多いのが現実だ。生徒の親にも、若いシングルマザーがかなりいる。「思いがけない妊娠」を学校が否定すると、生徒の自己否定になってしまう可能性もある。そして、僕が見てきた感じでは、10代で出産する場合も「思いがけない妊娠」ばかりではないと思う。むしろ「できちゃった婚」で、居場所がない家庭と学校からの脱出を目指す場合も多いんじゃないだろうか。確かに若いカップルの場合、離婚してシングルマザーになるケースもかなりあると思う。(あの二人別れたらしいよ、っていうニュースの方が伝わりやすいので、幸せにやってるカップルもいるんだは思うけど。)

 中学3年生はもうすぐ高校生になると、半数以上は電車通学をする。中学でも「学校選択制」があるから電車通学もあるし、高校でも近くの高校へ自転車で通う場合も多い。でもやっぱり区部の周辺部からだと、電車で都心の学校へ通学することが多い。そうなるとどうなるか? 女子高生はすぐに「痴漢問題」が起きるのである。その一方で、進学校はともかく、それ以外だと夏休み頃には多くの生徒がアルバイトを始める。バイト先で先輩には言い寄られたりするが、それがなくてもお金が出来たことでオシャレ度が違ってくる。そういう段階がもうすぐ来るのである。

 そんな時に、どのような性教育が必要なのか。「性の商品化」「性暴力」「セクシャルマイノリティ」などの観点が必須だろう。その中で、「人間の尊厳」という意味で、いじめや自殺防止なども含めたプログラムが必要だろう。もちろん性的に進んだ生徒ばかりではない。男女とも、容姿や体形、運動神経などにコンプレックスを持ち、異性に関心を持ちながらも声もかけられない生徒も多い。しかし、そういう場合こそ、風俗産業に引き寄せられやすい。授業で取り上げるにはハードルが高いけど、タテマエ論だけで性を論じられるじだいではない。もうすぐ生徒たちは「性産業」のターゲットになるんだという視点を抜きにして、これからの性教育は成り立たない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

総合学習と指導要領-都教委と性教育問題②

2018年04月28日 22時24分12秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 ①で書いたように、都教委は足立区立の中学で行われた性教育の授業を非難している。その理由に「避妊、人工妊娠中絶等といった、学習指導要領上、中学校ではなく高等学校で指導する内容を取り上げた」と指摘しているわけである。そう言われると(評価は別にして)、そういうもんかと思ってしまうかもしれない。でも、僕の考えでは、その大前提を疑ってみる必要がある。

 当該の授業は「総合的な学習の時間」(以下「総合学習」)で行われたものである。しかし、都教委が指摘するのは「中学校学習指導要領 保健体育(平成20年3月 文部科学省)」である。えっ、「総合学習」は関連教科の学習指導要領に縛られているのか? そんな話は文科省もしてないんじゃないか。これじゃ「総合学習」は成り立たない。全国の「総合学習」のほぼすべては、学習指導要領違反になってしまうんじゃなかろうか。

 総合学習の指導要領の方を見てみると、「各学校においては,第1の目標を踏まえ,各学校の総合的な学習の時間の内容を定める。」と明記されている。ちょっと長くなるが、「目標」の方を引用しておくと「横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに,学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的,協同的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにする。」というものである。

 学習指導要領も「官製文書」だから読みにくい。だけど要するに、「自ら考え、主体的に判断する能力を育成し、自己の生き方を考える」といった目標のために、「各学校が総合学習の内容を定める」というのである。じゃあ、中学の総合学習で「避妊」に触れたって何の問題もないじゃないか。その通りである。授業内容に関する批判はもちろんあっていい。だけど、学習指導要領に反しているというのは明らかに間違っている。文科省は都教委を指導した方がいいんじゃないか。

 各教科と総合学習は何が違うか。教科で扱うことは、生徒に理解させないといけない。筆記や実技で教師が生徒の理解度を確認し、結果を5段階評価で示す。だから発達段階に応じて適切な内容じゃないと確かにまずいだろう。でも「総合学習」は数値による評価はしない。生徒が「自己の生き方を考える」ための学習なんだから、一生懸命に取り組んだかどうかを文章で評価する。大人が「学習指導要領に出てない」などと「自粛」してしまえば、本気で取り組んでないというメッセージになって逆効果でしかない。指導要領なんかの縛りを超えて、きちんと教えようという「本気度」を見せないと、生徒の意欲を呼び起こせない。

 今回の都教委の文書は、総合学習に関する悪い「判例」である。これじゃ何もできない。例えば、パラリンピックを通して障害者スポーツに関する学習を「総合学習」で行うとする。生徒が各グループに分かれていくつかの競技を調べて発表する。発表の場に各競技の選手も呼び、保護者や地域にも公開する。そういう学習に何か問題があるだろうか。しかし、中学校の保健体育の学習指導要領には、障害者スポーツへの記述はない。「車いすバスケットボール」も「シッティングバレーボール」も、もちろん「ボッチャ」も出てこない。よって、これは学習指導要領を超えるものだから、保護者の了解がなければできない…そういうことになるんじゃないかと思うけど、それでいいのか。それとも性教育だけ「ねらい撃ち」するのが目的なんだから、他はいいという言うんだろうか。

 何にせよ、都教委が「自ら考える」ことなど全然求めてないことははっきり判る。「アクティブラーニング」なんか、マトモに出来るはずがないということも。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「都教委につける薬はない」-都教委と性教育問題①

2018年04月27日 23時21分26秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 2018年4月26日に東京都教育委員会は、「中学校等における性教育への対応について」という文書を発表した。教育委員会の定例会では、中井教育長を除く5人の委員全員が見解を表明したが(内容は後述)、結局このような方針が現場に下ろされれば、「事実上の性教育禁止令」になるのは間違いない。さらに性教育に止まらない大きな問題があるので指摘しておきたいと思う。とにかく、ホントに「都教委につける薬はない」と改めて思い知らされた。

 まず問題の内容を紹介して、それから都教委の方針を説明したい。この問題を初めて報道したのは、僕の知る限り、3月24日付の朝日新聞(前日夜に朝日のサイトに掲載)だと思う。「中学の性教育に『不適切』」「都教委 自民都議指摘受け指導へ」と見出しが付いている。自民党の古賀俊昭都議が3月16日の都議会で「問題ではないのか」と質問したというのである。古賀都議といえば、2003年の七生養護学校事件を引き起こした当事者である。詳しくは書かないが、教育への不当な介入として最高裁で古賀氏ら3都議と都教委に対する損害賠償が確定した。

 問題の授業は、足立区の区立中学校で3月5日に行われた。「総合学習」の時間に3年生を対象にして「高校生になると中絶件数が急増する現実」や「コンドームは性感染症を防ぐには有効だが避妊率が9割を切ること」などを伝えた。そのうえで「思いがけない妊娠をしないためには、産み育てられる状況になるまで性交を避けること」と話した。(以上、前期朝日新聞による。ゴチックは引用者。)何が問題なのか、普通の人には判らないだろう。むしろ「微温的すぎる」という観点から、これで子どもたちの現実に切り込めるのかという方向の批判をするならわかるけど。

 都教委や古賀都議からすると、何が問題なのだろうか。それは今の引用中のゴチックの部分、「中絶」「避妊」「性交」などがいけないというのである。なぜなら、それは学習指導要領では高校で扱う領域だから。都議会での答弁では「避妊、人工妊娠中絶等といった、学習指導要領上、中学校ではなく高等学校で指導する内容を取り上げたり、保護者の理解を必ずしも十分に得ないまま授業が実施されたりしていた旨を答弁した」と書かれている。

 しかし、学習指導要領だけを問題にするわけにはいかない。なぜなら、かつて「ゆとり教育批判」「学力低下論議」があった時、文部科学省は「学習指導要領は最低基準」ということに変えたからである。昔はそうじゃなかった。学習指導要領は「縛り」だった。しかし、21世紀においては「最低基準」なんだから、それ以上をやってもいい。中学3年生の3月と言えば、都立高校の合格発表も終わり、大部分の生徒は進学先も決まっている。もうほとんど高校生である。都教委が率先して中高一貫校をたくさん作ってきたのに、いまさら中学だ、高校だというリクツだけじゃ責任を問えない。

 そこで都教委は14年も前に出した「性教育の手引きー中学校編」なる文書を持ち出し、「指導内容や方法を十分説明し、保護者の理解・協力を得て指導計画を立案する」という文言を持ち出す。「保護者の理解を必ずしも十分に得ないまま」と言うのである。さすが、都教委官僚の悪知恵は大したもんだ。「保護者の理解」って何だ。タテマエ上は誰も否定できないけど、学校が責任を持つ授業内容に「保護者の理解」が必須なのか。そんなことをしていたら、学校教育が成り立たないんじゃないか。一体どうすりゃいいんだろう。

 保護者会を開いて了解を得るんだろうか。しかし、保護者会には全員は出てこない。出席者の過半数の支持があればいいのか。あるいは絶対過半数が必要なのか。いやいや、都教委が言ってるのは、そんなレベルじゃない。「学習指導要領を超える内容を指導する場合には、例えば、事前に学習指導案を保護者全員に説明し、保護者の理解・了解を得た生徒を対象に個別指導(複数同時指導も可)を実施することなどが考えられる」と言うのである。おいおい、マジか?

 事前に指導案を全家庭に配らないといけないのか? そして、生徒個々の家庭ごとに了解あり、了解なしの区分けをして、二本立ての授業をおこなえと言うのである。いやはや、卒業目前の多忙期に、そんなことをしている余裕はない。というか、時期や忙しさの問題以前に、こんな「家庭の了解の有無で、差をつけた授業をする」ことが許されるのか。都教委は現場の状況を知らないわけもないから、これは「事実上の性教育禁止令」以外の何物でもない。こんなことを言われたら、誰も本格的な性教育を行おうと努力するものはいないだろう。

 東京新聞(4月27日付)には各教育委員の発言が載っている。例えば「足立区の中学校を否定すべきでない。」(山口香委員)、「性について正確な情報を与えることが子どもを守ることになる。」(宮崎緑委員)、「現場の先生は委縮せず、積極的にやってほしい」(北村友人委員)等々。現場の教員は委縮するなと言われても…。久しぶりに僕は思い出してしまった。田中真紀子が外務大臣を罷免されたときの言葉を。「スカートを踏んづけられていたので、後ろを振り返ってみると、言っている本人(小泉首相)だった」というあの名言を。その当時の田中外相の評価は別にして、このスカート発言は使える。委縮するなと言っておいて、「スカートを踏んでいる」のは都教委自身である。そして、後から委縮したのは現場が悪いと責めるのである。

 ところで今回は足立区教育委員会は、「授業は人権教育の一環で、問題はなかった」(東京新聞)と言い続けている。また「10代の望まぬ妊娠や出産を防ぎ、貧困の連鎖を断ち切るためにも、授業は地域の実態に即して行われ、生徒と保護者のニーズに合ったものだ」(朝日新聞)とも言う。どこの中学の授業か知らないけど、僕は足立区に半世紀以上住んでいて、東京東部の中学高校で20年以上勤務してきた。東京の中でも、就学援助家庭が多く、学力も相対的には低い地域なのは間違いない。上野や秋葉原などが近いから高校生になれば「JKビジネス」が待っている。また、高校を中退したり、学校に通えない生徒も多い。「避妊」や「中絶」に触れるなとか言ってる場合なのか。「地域の実態」「貧困の連鎖を防ぐ」。この意味が教育委員には判っているのか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スピーキングテストに見る都教委の「原理主義」

2017年12月18日 23時24分37秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 東京都教育委員会が都立高校の入学者選抜で、英語のスピーキング能力を測るテストを導入する方針を決めた。各新聞に出ていると思うが、都教委のHPでは14日付で「『東京都立高等学校入学者選抜英語検査改善検討委員会報告書』について」という文書が掲載されている。この問題をどう考えるべきだろうか。僕は都教委の「原理主義的体質」を見事に表していると思うのである。

 まず「原理主義」(fundamentalism)という表現を説明しておきたい。もともとはキリスト教の一派で「聖書に戻れ」と主張するような人々を「キリスト教原理主義」と呼んだ。それがイスラム教にも援用されて、「イスラム教原理主義」と欧米で使われることが多くなった。しかし、イスラム社会では使わない言葉だという。イスラム教では、もともと「コーラン」(クルアーン)に従うのが当たり前で、「イスラム教原理主義」と表現するのはおかしいからである。

 このように「原理主義」とは、宗教や思想に関して使われることが多い。だけど、「市場経済原理主義」のように、「原理原則」に固執してものごとを考える人々に対しても使われることがある。そのような目で見れば、世の中にはけっこう「原理主義者」がいっぱいいる。右とか左とか、性別や年齢などに関わらず、「現場の現実」に目を閉ざし、自分の信じるタテマエを主張し続ける人々である。

 ところで、そういう人々の「原理原則」とは、実は「一番大きな原理」ではなく、「自分たちが思い込んだ小さな問題」であることが多い。キリスト教の中には、輸血を否定する人もいる。イスラム教の中には、女性はスカーフを被らなければいけないと主張する人もいる。そういうことが経典に明示されているんだったら、全員がそう理解するはずだ。でも、実際は「自分たちがそのように解釈した」というだけのことに固執していることが多い。イエスやムハンマドはそんなことを望んだのか。

 都教委の場合は、「学習指導要領原理主義」だと思う。学習指導要領は文部科学大臣の告示に過ぎないけど、これを金科玉条にして奉る。「10・23通達」で「国旗国歌の(教員への)強制」を打ち出したときも、学習指導要領に則って儀式を運営することが重要とされた。学習指導要領よりも、何よりも一番上位の縛りであるはずの日本国憲法に照らして、「思想・信条の自由」や「表現の自由」に抵触するんじゃないかなどとは問わない。だから、原理主義なのである。

 やっと今回の問題の英語スピーキングテストの問題に入る。都教委の文書を読んでわかるのは、「学習指導要領原理主義」以外の何物でもない。入選では「学習指導要領で定められた範囲で学力を測る」としている。学習指導要領では、英語は「4つの能力」(読む、書く、聞く、話す)を育てるとしている。しかし、今までは「3つの能力」しか測っていなかった。で、いろんな問題はあるけれど、今後「話す力」を測るテストを導入する検討を始めるというのである。

 これを聞いて、僕はなんでそんなことをするんだろと疑問に思った。いいんだよ、3つの力を測るだけで。いや、もちろんできるんならスピーキングテストをやってもいい。でも、入選で一番大事なことは何だろうか。それは「公平性」(受ける生徒にとって、平等に力を測定してもらえる)である。そして、次に「迅速性」だろう。これは採点する側の事情だが、ベストなテストを作っても永遠に採点しているわけにはいかない。一週間で合格発表までのすべての作業を完了しないといけない。

 常識で考えれば、この一番大切な「公平性」をスピーキングテストでできるとは思えない。どうするんだろうか。それは「英語検定」なんかでも同様である。だから、都教委もそのような民間の外部テストと連携するようなことを言っている。でも、高校の入選を高校の英語教員以外が担当してもいいのだろうか。あれほど「個人情報」をうるさく言う都教委である。都立高の入試に使うテストを民間で事前にやってしまうなんてありうるのか。じゃあ、都立高校の英語教員だけでできるとも思えない。

 そもそも「学習指導要領」にそんなにこだわるのが判らない。学習指導要領で中学生が学ぶべきとされているのは、何も英語のスピーキングだけではない。国語だって「話すこと・聞くこと」を育成すると書いてある。何で国語ではスピーキングどころか、ヒヤリングテストも行わないのだろうか。理科では「観察・実験」と何回も書いてある。どうして理科のテストで実験をさせないのだろうか。

 それに大体、音楽、美術、保健体育、技術・家庭だってあるわけだが、テストしなくていいのだろうか。そんなのできるわけがないというかもしれない。確かに体育や美術の実技を全面的にやることはできないだろう。でもそれらの教科だって知識も必要なんだし、ペーパーテストなら実施できる。実際、何十年も前になるけど、これらのテストをやってた時期もあるのである。

 という風に考えていくと、そもそもそれほど学習指導要領に書かれている学力をきちんと測定しなくちゃいけないんだったら、なんで推薦入試があるんだということになる。学力テストは全然やらないで、作文と面接で選んじゃうのである。そういうのも少しはあってもいいじゃないかと思うかもしれないが、そんなレベルではない人数を推薦で選んでいる。2017年で見てみると、推薦で9,007人一次試験で32,030人(全日制のみ)が合格している。ちなみに、一次試験の受検生はおよそ4万5千人。(なお、2次試験、分割後期では886人が合格した。)

 つまり、4人に1人ぐらいは学力試験なしで都立高校に入っている。それをなくして全員学力試験で取るというんなら、スピーキングテストも意味があるかもしれない。でも、実際は難関大学進学を目指す進学指導重点校の日比谷高や西高だって、64人も推薦で取っているのである。(普通科、特に進学重点校は推薦入試はいらないでしょ。)

 僕が思うに、中学3年生なんだから、読む、書く、聞く能力が高ければ、おおよそ話す力だって高いのではないか。「帰国子女」といった特別ケースを除けば、高校段階で問題が起きるほどスピーキング力の差はないのではないか。多少あっても、高校入学後に育てていけばいいじゃないか。不登校だったり、障害がある生徒も、最初は全日制高校を受けてみたいと思う生徒がかなりいる。落ちてからでも、夜間定時制や通信制の二次試験を受けることはできるのだから。(最初にそれらが埋まってしまうことは事実上ないので。)だけど、そのような生徒にも当然、事前のスピーキングテストを中学側で受けさせないといけなくなる。ものすごい現場の負担増である。

 ところで、このテストはいつやるんだろうか? 現場の忙しさを考えると、1月半ば以後はもう無理だろう。中学は都立の推薦指導や私立高入試を控え、高校はセンター試験対応や推薦入試がある。だったら12月にでもやるんだろうか。その段階では都立の推薦の結果は誰にも判らない。国立や私立難関高を目指す生徒も、受かるかどうかわからないんだから、都立のすべり止めの出願をしておく。だから、私立の推薦がすでに決まっている生徒を除けば、事実上すべての生徒が事前のスピーキングテストを受けないといけなくなる。なんだか釈然としない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする