⑨まで書いたから、⑩まで書いて終わりにする。こんなに長く書くとは自分でも予想していなかったけれど、思ったより作品論に手間取ってしまった。結論的には、この劇にすべて合理的な解決を求めてはならないということだ。もともと僕は最初に見たときから、出てくるすべての世界は異界で、この劇は「冥府めぐり」であると感じてきた。それを現実の六本木の少年少女とか、現実の引きこもりや想像妊娠の話だと考えるのは違っているだろうと思う。
「作者はどこにいるか」ということを考えると、普通の劇では作者は「劇場で見ている」、映画では「カメラのこちら側」にいる。近代絵画の遠近法のように、画面の外に作者の視点が設定される。しかし、20世紀前半以来、「作者の視点」そのものが揺らいでしまい、いわば「ニュートン力学」から「相対性理論」への転換のようなことが小説や演劇でも起こった。登場人物が作中に登場してしまったり、劇中劇が連続してどの世界が作者のいる世界なのか不明な劇がたくさん現れる。この劇もそういう流れの中で「メタ演劇」(演劇についての演劇)として語られている。この劇の基本構造は、登場人物が劇中人物の世界に拉致されることが繰り返されることにある。(姉と弟がボクケントミントン世界に、姉が少女の世界に、弟が六本木少女世界に。)そこから来る重層性が世界の多層構造を象徴的に表している。
この象徴性が、判らなさのもとでもあるし、魅力のもとにもなっている。世の中に判りやすいドラマはいっぱいあるが、エンターテインメントとして作られた作品は見た端から忘れて行く。忘れて行くようにスラスラ見ることを目的に作られていて、俳優がカッコ良かったとかは印象に残っても、筋やメッセージはまったく思い出せない。それに対して、象徴の世界を描く作品では、筋が判らなくても何か重い印象のようなものが残り続ける。例えば、村上春樹の「海辺のカフカ」や「1Q84」などがそれで、筋立ては合理的には理解できないが何か深い所で訴えるものが残る。それは世界の深層、人間の深層を象徴のレヴェルで書いているからで、僕たちの心の深い所に向って作者も判らないような世界を展開させるのである。(例えば、「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」や岩宮恵子「思春期をめぐる冒険 心理療法と村上春樹の世界」などを参照。)
ただ、そのような物語には「物語としての力」が必要で、村上春樹にも「物語性」があふれている。では「六本木少女地獄」はと言うと、セリフの魅力で引っ張っている。何だかおかしなところ、まだ世界観がはっきりしないところはもちろんあるが、登場人物のセリフをずらしていく関節技などはなかなか見事なものだと思う。それらを抜書きしたいところだが、長くなるからやめておきたい。自分でみてくれればいい。僕が書いてきたのは、この戯曲がどのような意味で皆にとって意味があるかを確かめたかったからである。そのことは、今までに書いてきたつもりだが、自分の中になんらかの「不在」を抱えているものにとって(それは象徴的なレヴェルでは現代の若者すべてに当てはまると思うのだが)、やはり「自分の物語」としてとらえられるのではないかと思う。(ただ、この物語には「語られざる物語」がもう一層隠されている感じがしないではない。が、それは敢えて語らないということで。また、語感にはやはり「若書き」性が強いが、まあこれは時間が解決する問題なのだろう。)
「作者はどこにいるか」ということを考えると、普通の劇では作者は「劇場で見ている」、映画では「カメラのこちら側」にいる。近代絵画の遠近法のように、画面の外に作者の視点が設定される。しかし、20世紀前半以来、「作者の視点」そのものが揺らいでしまい、いわば「ニュートン力学」から「相対性理論」への転換のようなことが小説や演劇でも起こった。登場人物が作中に登場してしまったり、劇中劇が連続してどの世界が作者のいる世界なのか不明な劇がたくさん現れる。この劇もそういう流れの中で「メタ演劇」(演劇についての演劇)として語られている。この劇の基本構造は、登場人物が劇中人物の世界に拉致されることが繰り返されることにある。(姉と弟がボクケントミントン世界に、姉が少女の世界に、弟が六本木少女世界に。)そこから来る重層性が世界の多層構造を象徴的に表している。
この象徴性が、判らなさのもとでもあるし、魅力のもとにもなっている。世の中に判りやすいドラマはいっぱいあるが、エンターテインメントとして作られた作品は見た端から忘れて行く。忘れて行くようにスラスラ見ることを目的に作られていて、俳優がカッコ良かったとかは印象に残っても、筋やメッセージはまったく思い出せない。それに対して、象徴の世界を描く作品では、筋が判らなくても何か重い印象のようなものが残り続ける。例えば、村上春樹の「海辺のカフカ」や「1Q84」などがそれで、筋立ては合理的には理解できないが何か深い所で訴えるものが残る。それは世界の深層、人間の深層を象徴のレヴェルで書いているからで、僕たちの心の深い所に向って作者も判らないような世界を展開させるのである。(例えば、「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」や岩宮恵子「思春期をめぐる冒険 心理療法と村上春樹の世界」などを参照。)
ただ、そのような物語には「物語としての力」が必要で、村上春樹にも「物語性」があふれている。では「六本木少女地獄」はと言うと、セリフの魅力で引っ張っている。何だかおかしなところ、まだ世界観がはっきりしないところはもちろんあるが、登場人物のセリフをずらしていく関節技などはなかなか見事なものだと思う。それらを抜書きしたいところだが、長くなるからやめておきたい。自分でみてくれればいい。僕が書いてきたのは、この戯曲がどのような意味で皆にとって意味があるかを確かめたかったからである。そのことは、今までに書いてきたつもりだが、自分の中になんらかの「不在」を抱えているものにとって(それは象徴的なレヴェルでは現代の若者すべてに当てはまると思うのだが)、やはり「自分の物語」としてとらえられるのではないかと思う。(ただ、この物語には「語られざる物語」がもう一層隠されている感じがしないではない。が、それは敢えて語らないということで。また、語感にはやはり「若書き」性が強いが、まあこれは時間が解決する問題なのだろう。)