ウォルター・サレス監督の『アイム・スティル・ヒア』が公開された。素晴らしい出来栄えの感動作で、時代を見据えた恐ろしさを感じる映画でもある。「自由」「人権」の大切さ、「独裁」の恐ろしさ、現代世界に突きつけるメッセージが重い感動を呼ぶ。多くの人に是非見て貰いたい映画。2025年の米国アカデミー賞国際長編映画賞受賞作だが、それだけでなく作品賞や主演女優賞(フェルナンダ・トーレス)にもノミネートされた。2024年のヴェネツィア国際映画祭脚本賞を受賞するなど、世界で数多くの栄誉を受けたが、そういう「名作」「問題作」という先入観は持たずに「家族映画」として見ても見事な出来を堪能できるだろう。
1970年、ブラジル・リオデジャネイロ。海岸で子どもたちが遊んでいる。この映画の良いところは、家族の日常をていねいに描いていることで、最初は状況がよく理解出来ないが、それが次第に効いてくる。ブラジル現代史と言ってもほとんど知らないが、1964年にブランコ将軍による軍事クーデタが起こり、1985年に民政移管されるまで軍事政権が続いていた。(これは韓国の朴正熙、全斗煥政権時代とほぼ重なるが、ラテンアメリカの現代史の知識は少ない。)そんな中、建築家のルーベンス・パイヴァは家族のため一生懸命仕事をしているが、実はクーデタで罷免されるまで国会議員で、その頃も秘かに国外と連絡を取っているようだ。
この映画の工夫はすべてを妻のエウニセ・パイヴァ(フェルナンダ・トーレス)の目で描くことである。彼女は夫の事情をすべては知らず、5人(上に女子4人、男子は末っ子マルセロ)の子ども、さらに家政婦、マルセロが連れてきた犬などで日々頭がいっぱいである。こういう時代だけに反政府運動と関わる恐れもあるから、長女は早めにロンドンに留学させたい。下の子どもたちはまだ小さく、大人世界の厳しい事情は知らせたくない。反政府都市ゲリラの活動も盛んで、スイス大使が誘拐されたのをきっかけに、軍や警察の検問、監視も強くなる。そして、ある日、何者かが現れ夫のルーベンスを連行したのである。
そして次にエウニセと娘まで連行され尋問される。車の中では袋を被せられ、一体どうなるんだろうと見ている方も恐怖である。実話だと知って見たのだが、軍事独裁はホラー映画より恐ろしいとよく判る。そして、何とかエウニセは帰れたが、ルーベンスの消息は知れない。夫の預金を引き出せないし、金繰りも大変になって、エウニセはリオの海際にあった家を売って、親のいるサンパウロに帰ることを決心した。そして25年後。1995年、エウニセは人権派弁護士となって先住民の権利のために活動している。そんな彼女の元に、ようやく「夫の死亡証明書」を政府が発行するという知らせが入ったのである。(それまでは「行方不明」。)
そして、さらに20年近くが過ぎ、エウニセはもう認知症を患っている。その老年期を演じるのは(後で知ったのだが)、フェルナンダの実母である女優フェルナンダ・モンテネグロ。同じ人を母娘で演じたわけである。さらにモンテネグロは同じサレス監督の『セントラル・ステーション』(1998)でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされているのも奇縁。この何十年かの間に、昔は小さかった子どもたちも大きくなっている。それぞれどんな変化があったかも興味深い。大きな危機に見舞われた一家は、長い時間を母を中心に家族でまとまって生きてきたことが想像できる。そんな家族関係をうかがわせる親密空間である。
ウォルター・サレス監督(1956~)はブラジルを代表する映画監督だが、新作は12年ぶり。(ポルトガル語ではヴァウテル・サレスと読むようだ)。先に挙げた『セントラル・ステーション』が世界的に評価され、各国で映画を作るようになった。アルゼンチンで撮影したチェ・ゲバラの青春期を描く『モーターサイクル・ダイアリーズ』(2004)は僕の大好きな映画。2012年の『オン・ザ・ロード』(ケルアックの原作の映画化)以後12年間の沈黙を経て、今回ブラジルに戻って『アイム・スティル・ヒア』で大成功を収めた。リオとサンパウロという二大都市を描いていることも興味深く、リオの海の魅力、音楽など見どころが多い。
1970年代のラテンアメリカでは多くの国が軍事独裁政権で、数多くの人権侵害が起こった。アルゼンチンの同じような「強制失踪」を描くルイス・プエンソ監督『オフィシャル・ストーリー』(1985)はアカデミー賞外国語映画賞を受賞した。チリでは1973年にピノチェト将軍による軍事クーデタが起こり、人権侵害が頻発した。パトリシオ・グスマン監督『チリの闘い』3部作など多くの映画で描かれている。しかし、この映画を見て、昔は「ひどいことがあったな」というだけでは見れなかった。香港で起こったように、いつ「自由」を奪われるか測りがたい。劉暁波氏やナワリヌイ氏のように獄中から戻れなかった人は今も多いのだ。