尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

追悼・阿藤周平

2011年04月29日 21時35分12秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 八海(やかい)事件の元被告・阿藤周平(あとう・しゅうへい)さんが亡くなった。4月28日。84歳。
 
 八海というのは、山口県東南部の地区名で、今は田布施町。岸信介、佐藤栄作兄弟宰相の出身地。そこで、1951年に夫婦殺害の強盗殺人事件が起きた。警察は一人ではできない、複数犯だと思い込み、真犯人を強引に攻め、無実の共犯者を作り出した。真犯人は阿藤さんを主犯と「自白」したため、一審で無期懲役が確定した。二人殺害だから当時死刑以外にはありえないから、真犯人と警察の思惑が一致したのである。

 一方、阿藤さんは一審死刑、二審も死刑。他の二人の「共犯」者も有罪となった。
 最高裁になってから、冤罪救援、戦時抵抗で有名な正木ひろし弁護士が担当。無実を確信した正木弁護士は「裁判官 人の命は権力で奪えるものか」を公刊、ベストセラーになった。この著書は今井正監督により「真昼の暗黒」として映画化され、ベストワンになるなど高い評価を得た。今見ても、技術的には難もあるが、非常に力強い冤罪映画の最高峰である。今では裁判中に本や映画を作ること自体が問題になるとは思えないが、当時は「裁判は雑音に惑わされるな」と最高裁がいうなど、進行中の裁判を批判すること自体がとても困難な時代だった。

 最高裁は、1957年に死刑を破棄、高裁に差し戻し、1959年に無罪判決が出た。これで確定しそうなものだが、検察は再上告。ところが1963年に最高裁(下飯坂裁判長)は再び有罪の観点から、無罪判決を破棄、高裁に差し戻し、1965年三度目の死刑判決が下った。決着がついたのは1968年、三度目の最高裁判決で、最高裁が破棄・自判して無罪判決を下したのである。
 
 こういうエレベータみたいな裁判は他にはなく、阿藤さんは無罪になるために、3回の最高裁判決を必要とした。という八海事件は戦後裁判史、人権の歴史に忘れられない事件なのだが、今では知る人も少ないと思い少しくわしく書いてみた。
 
 阿藤さんは、無罪確定後は大阪に住み、冤罪救援運動にも参加していた。僕も2回くらい話を聞いたことがあると思うけど、20年以上前のことでなんだかあまり覚えていない。しっかりと、わかりやく話す人だった記憶がある。

 映画「真昼の暗黒」の最後で、阿藤さん役の青年は、「まだ最高裁がある」と叫ぶ。「まだ」と言えた時代だった。今はなんだか「また最高裁がある」というような裁判が多い。最高裁は人権の砦なんだけど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜明け前-リアリズムの力

2011年04月27日 22時17分24秒 |  〃  (旧作日本映画)
 昔の映画の感想。「夜明け前」を見たのは一週間前だが、重要なので書いておきたい。もちろん島崎藤村の大傑作の映画化。長すぎるので読み通した人は少ないかもしれない。故・篠田一士(しのだ・はじめ)が「二十世紀の十大小説」に選んだだけのことはある傑作だ。「交通」「情報」「周縁」などといった用語で精緻に分析すべき作品。木曽旅行しながら読んだけど、今もなお生き生きとした作品だった。

 今回は、国立近代美術館フィルムセンターでやっている吉村公三郎監督の生誕百年の特集である。学生時代以来で、久しぶりに見た。吉村監督は日中戦争下に松竹でデビューした監督で、岸田國士原作のメロドラマ「暖流」が評判を呼び名声を確立した。今回はやってないけど、「軍神」を描く「西住戦車長伝」という戦争協力映画では、カメラが回転して中国軍側から日本軍を映すという場面があった。

 戦後、松竹と対立して新藤兼人と近代映画協会を設立し、独立系映画会社の先駆けとなる。確かなリアリズムを基にした人物の描きわけに長じていて、独立後も大手会社で風俗映画などで活躍している。僕の見るところ、大傑作は3本ある。祇園の裏表を辛辣に描く「偽れる盛装」、京都を舞台に大人の恋愛の行く末を描く「夜の河」(山本富士子が最高に美しい)、そして「夜明け前」である。

 「夜明け前」は劇団民藝が全面的に協力し、主人公青山半蔵(藤村の父をモデルにした馬篭宿の本陣当主)は名優滝沢修が演じている。(国学に傾倒する村のインテリ役だから宇野重吉ではできない。)舞台はもちろん、映画、テレビでも活躍した名優中の名優だけど、これは映画の代表作だと思う。重厚なリアリズム演技のすごさをたっぷり味わえる。1953年の映画化なので、まだ武士の時代の名残りがあった。映像の感触が今の時代劇なんかと違う。そこであらわにされるのは「階級」だ。武士階級と町人、本陣の庄屋と貧しい農民、そして明治維新という変革の嵐の中で、時代に取り残される半蔵の姿。

 一方、隠ぺいされるのは「ジェンダー」。藤村の、あるいは脚色した新藤兼人の目に映るのは、時代と切り結び時代に取り残される「男」の人生で、裏には「女たちの夜明け前」があったはず。その意味で、原作も映画も「フェミニズムがなかったころ」(©加納実紀代)の「物語」と言える。しかし、半蔵の娘役の乙羽信子(魅力的)の悲劇に「女たちの夜明け前」が予感的に描かれている。

 全体的にいうと、リアリズムの凄さの再認識。映画も演劇も、そして文学も、いわゆるリアリズムは60年代になって流行らなくなっていく。それ以後に育ったので、社会派リアリズム映画や新劇には多少のうっとうしさを感じないわけではないが、こういう映画が作られたことはまさに「映画遺産」だと思う。若き大滝秀治もキャスティングされていたが、判らなかった。民藝の新作「帰還」(坂手洋二作)に主演しているんだから驚き。60年近くも前の映画にも出てたのに。(2020.5.20一部改稿)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気仙沼・唐桑キャンプから帰って③

2011年04月24日 22時39分42秒 |  〃 (震災)
 震災現地から帰って元気にしていたのですが、今になって少し疲れたなあという感じ。
 土曜日はGWキャンプの事前説明会に行きました。FIWC(フレンズ国際ワークキャンプ)の唐桑キャンプはどんどん広がっています。オールド・キャンパーもたくさん参加予定。

 今回良かったなと思うのは、現地で参加する人が出てきたことです。最初に行ったメンバーが苦労しながらボランティアの可能性を広げ活動する中で、一緒にワークに参加してくれる人が出てきました。友達も連れて来て、毎日話せる関係ができました。その後、新聞チラシをまいたら高校生から参加の電話がありました。その後の状況報告によれば、僕たちが帰った後で一緒に参加しているようです。

 唐桑というところは、検索すると「唐桑御殿」という言葉が出てくるようなところです。唐桑御殿という建物があるのかと思ったら、この地域に何百軒とあるお城みたいな壮麗な家を総称する呼び名だそうです。大きな瓦をたくさん使い、大きな柱に支えられた、まさに御殿みたいな建物。その財を支えたのは、遠洋漁業だそうです。そのような家も津波で大きな被害を受けていますが、高台にある家も倒れていません。

 この唐桑半島の突端に国民宿舎からくわ荘があり、この地に関係のできたきっかけの鈴木重雄さんの銅像がありました。(ちなみに、近くに「津波体験館」があって、小沢昭一さんが行った経験が今日(4/24)の朝日新聞に出ていました。)

 鈴木さんはハンセン病回復者として唐桑町長選挙に立候補した方です。1973年のことです。21世紀になって違憲国賠訴訟勝利後は何人か選挙に立候補した人がいますが、40年も前に町長選に挑むというのはどれだけ勇気がいることだったでしょうか。惜敗後に福祉施設高松園を作り、今も福祉法人洗心会として発展しています。国民宿舎誘致に貢献したということで銅像がたったそうです。

 昔、FIWCの韓国キャンプに参加しました。その縁で細いながらもずっとハンセン病との関わりが続き、六本木高校の「人権」の授業でも毎年取り上げたし、こうして震災キャンプにも参加するに至りました。
 縁と言うのは不思議なものだと思っています。「ハンセン病が人をつなぐ」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼・田中好子

2011年04月22日 23時07分39秒 | 追悼
 元キャンディーズスーちゃんがなくなった
 ショック!!

 僕はファンクラブに入ったり、追っかけをしたことが一度もないけど、70年代に青春を送ったものとしてキャンディーズは身近な存在でした。
 特にスーちゃん。もともとメンバーの中ではスーちゃんがお気に入りで、それは「丸顔ポッチャリ系」が好みということなんですが。

 スーちゃんこと、田中好子は僕と同じ足立区出身で、僕の住んでる東武線竹ノ塚駅から2つ離れた梅島駅近くの足立区立第四中の卒業です。(ちなみに北野大、武兄弟もそこ。足立四中は夜間中学設置校でもあります。)

 そして、学年で言えば一つ下。ランちゃんは一つ上。ミキちゃんは全く同じ。全く同世代。
 誕生日の関係で、訃報が伝えられた時点では、全く同年齢である。
 同世代で早くから活躍してた人が早々となくなるのは、ショックです。

 一枚ぐらいシングルレコードを持ってたはずと思い、探したら「哀愁のシンフォニー」がありました。(ちなみに南沙織やアグネス・チャンのシングルの方が多い。LPはクラシックやジャズが多いです。)

 一度「普通の女の子に戻りたい」という名言で引退したが、やがて女優として芸能界復帰。
 女優としては、1989年の今村昌平監督作品「黒い雨」につきると思います。井伏鱒二の原作や今村昌平の映画には、僕は疑問を感じる点もあるし、公開当時の批判できないような名作扱いには納得できない点もありました。しかし、田中好子の名演は素晴らしいと思った記憶があります。原爆にあって縁談がうまく行かず、やがて自身の体調も崩れてゆく若い女性を熱演して見事。哀切極まりない。

 本人自身が、原発大事故中にガンで亡くなるという運命をたどるとは。
 謹んで追悼の意を表したいと思います。(震災キャンプのまとめは明日以後に続けます。)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気仙沼・唐桑キャンプから帰って②

2011年04月21日 22時06分17秒 |  〃 (震災)
 帰ってきて新聞をみると、ようやく「死者」が「行方不明」を上回っていました。今でも毎日遺体が発見、確認されています。それでもまだ1万人以上が「行方不明」とされています。

 行った当日も書いたけど、陸前高田を訪れたことは非常に衝撃的なことでした。今回は建物の倒壊による死者は少なく、大体は大津波による被害でした。それは想像を絶するもので、自然の威力は計り知れないと言えば、それはそうなんだけど、それで片付けたくない。

 大体の人は映像、写真等で壊滅した町の様子を見たと思います。それだけで言葉を失うような惨状だけど、実際にこの目でみると、表現のしようがない。僕にとっては、すべて壊滅した町の写真は、授業で東京大空襲を教えるときを思い出させます。

 現代日本ではありえない状況。仕事場もないから暮らしがめどがたたない。では他の町に避難するかと言えば、行方不明の親族がいるから町にいる。地盤沈下して浸水するから元の場所に家は建てられない。平地が少ないから仮設住宅の建設もすすまない。どうすればいいんでしょうか?僕にはわからない。
 よそ者の僕にすぐわかるわけない。

 だけど、見て良かった。言い方は難しいけれど、見る前とは何か認識が違ったと思う。
 唐桑でも海辺の家は破壊されています。でも町全体が破壊されたところはまた違う。唐桑は半島なので高台が多く、川沿いの沖積平野に町が発達した陸前高田などの被害の甚大さは格別と言えます。

 それでも、この地は海で生きる人々の住む地。また海で生計を立てることになると思います。これだけ被害を受けても、海で生きていく。(いや、もう海は嫌で町を出る人もいると思うし、誰もそれを批判できないけど。)そして、僕も日本は海に生きる国だと思うから、ワカメ、さんま、カキなどが復興してほしいし、三陸の海産物がないと寂しい。東北の温泉になんど行ったことか。そして三陸の海産物をなんど食べたことか。現地の人と話して飲んで、やはりそこに行きつくのです。
 同情して言ってるのではなく、僕は東北の温泉と海産物を愛してるから、絶対復興してほしい、と。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気仙沼・唐桑キャンプから帰って①

2011年04月20日 23時47分33秒 |  〃 (震災)
 震災ボランティアキャンプのまとめを数日続けます。

 今日は六本木高校に行って、今年の第1回「人権」授業。ゲストの立場で今回見てきたことなどを語りました。アンケートに「尾形の授業と思って登録した」という人がかなりいて、申し訳ないです。今日はいろいろな人が歓迎してくれてありがとうございました。

 でも、昨日の今日で、かなり疲れていたね。年も年だし、集団で仕事するのも大変。仕事はいろいろで、危険もあるし、現地の人との関係でも気を使うことがある。精神的にも大変。

 ヘルメット、登山靴(長靴ではダメな場合が多い)、防塵マスク(普通のマスクではダメ)、厚手のゴム手袋でずっと作業してました。これは過去のワークと質的に全く異なる次元のキャンプだと思いました。
 気軽な気持ちでボランティアをできる段階ではないですね。

 ただ、少しすると体もなじんでくるし、メンバー間の関係もできてきます。そして、今回は現地の人々との関係がだんだん濃くなっていって、それが意味があったと思います。

 現地でお世話になった馬場さんのお宅の皆さん(犬のモモも含めて)はもちろん、唐桑に住んで一緒にワークに参加する人が出てきたのがうれしかったです。今回FIWCで新聞チラシを入れたら、一緒にやりたいという声もいろいろ寄せられているようです。
 毎日誰かが訪ねて来てくれて、語り合う(飲む?)のも意義深い時間でした。 

 やはり自分たちだけで津波被害に立ち向かうのは大変なことで、一緒に話しながら片付けを手伝ってくれるボランティアという存在は、確かに意味があると思いました。
 それがまず、第一の確認です。

 明日改めて書きたいと思う、陸前高田市の高田松原の、たった一本残った松の写真を載せておきます。
 もとがどうだったかは、自分で調べてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東北から帰ってきました

2011年04月19日 23時52分37秒 |  〃 (震災)
 本日、9時半頃、東京着。行きも帰りも僕の車で何人か乗っていったので、無事に行き来できて今回のワークキャンプ終了です。

 唐桑では、携帯の受信状態の関係でログインできない時が多く、ほとんどメールで投稿しました。
 それにしても、昨日の投稿は何ですか!酔って打ってるのが一読瞭然(一目瞭然ならぬ)ですね・

 今回は、久方ぶりにパソコンから投稿です。
 写真も少し撮ってきました。最初は撮る余裕がなかったのであまり撮ってません。今後少しずつ載せていきたいと思いますが、いろいろな事情から掲載が難しいものもあり、個人的な報告会等で使いたいと思います。

 どこでもうかがいますので、呼んでください。

 さて、今日は唐桑のコメリ上に乗った自動車。かなり有名なので使わせてもらいます。
 今日、やっと重機が入り、撤去されました。だからこれから行っても見られません。震災から1か月と1週間。それだけたってやっと撤去されました。それが今回の津波被害の規模を示しています。
 遠くから撮ったので、写真が小さいです。パソコンの人は拡大して見てください。

 今日はまず簡単な報告のみで。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

打ち上げ

2011年04月18日 21時58分33秒 |  〃 (震災)
明日、気仙沼の唐桑から帰ります。

六本木高校の第1回人権の授業に行くことにしているので、帰りたいと思います。

現在、打ち上げ中。

今回、唐桑で経験したことは改めてまとめて報告します。

今日は毎日見てくれている百人くらいの人に元気で帰りますと言う報告で投稿します。

では、また帰ってから報告します。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐桑の人々

2011年04月17日 20時59分07秒 |  〃 (震災)
唐桑の人々と毎日会っている間に、この地域に親しみが深くなってきました。

人はどこでも様々で、なんでも捨ててくれと言う人もいれば、自分でなんとかしてみるから残して置いてと言う人もいます。

ボランティアが来てくれるから、子供たちが手伝いに帰って来たと言う方もいました。

地域の中にそういう小さな明るさを灯すことがボランティアの意義なんではないかと思いました。

そもそもここに来た縁のもとになった鈴木重雄さんは今でも地域で語り継がれています。

鈴木さんの作った福祉施設の常務理事の馬場さんのお宅にご厄介になっています。どの地域にもすごい人がいるなあと感服するような方です。

もう2泊して帰りますが、今後も継続して関わって行けたらと思っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キャンプの日々

2011年04月16日 22時24分28秒 |  〃 (震災)
まず、熊本の方から、教員免許更新制度で失職した人が多数いるというコメントがありました。

現在、気仙沼にいて対応できませんが、結局東京のマスコミ報道、あるいは文科省の発表は誤報だったということです。今後、調べてともに闘って行きたいと思います。

気仙沼の唐桑半島は今日は寒くて風が強いです。昨日まではかなり暖かい日々だったのですが。

お世話になっている方の家で普段以上に食べているかも知れません。近所の民宿で毎日お風呂に入っています。

しかし、現場では釘、ガラスが散乱し、危険性もあります。

僕も今回他の人を誘いましたが,安易に誘う段階ではなかったように思いました。

しかし、地元の人々と話す機会が増え、いろいろお話を聞くことが多くなりました。

そうやって、人と人のつながりができることが、地域に良い刺激を与えること。それもボランティアの役割ではないかと考えています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陸前高田に行きました

2011年04月15日 21時42分42秒 |  〃 (震災)
唐桑でお世話になっている方の妹さんが陸前高田から避難して来ています。

今日はその妹さんの思い出の品を探しに行きました。

海辺に近いその集落は完全に壊滅していて、水産会社のさんまがあたり一帯に散乱しています。

結局ご本人のものは見つかりませんでしたが、かなり遠くから流れてきたアルバムを見つけました。市議会議長を務めた方らしく特定できそうです。

その後、高田松原まで行きました。松が数万本あったという名所です。

市内は完全に壊滅していて、僕は「日本のグラウンドゼロ」だと思いました。

地盤沈下してまだ海水が引いてないところがいっぱいあります。湖のような状態。堤防も壊滅しています。

松もほとんどなくなってしまったけれど、奇跡的に一本だけ残っています。まさに復興のシンボルのように。

尾形修一
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

震災ワークキャンプ2日目

2011年04月14日 17時04分53秒 |  〃 (震災)
唐桑には今、自衛隊がたくさん入っています。行方不明者の捜索が中心と聞きます。

まだ自衛隊が活動している現場でワークすることがあるとは思いませんでした。

とにかく、未曽有の大災害です。今はまだ、ようやく片付けが始まった段階、ボランティアを受け入れ始めた段階。

屋外作業中心、危険性もないとは言えません。

電気は通じています。物質もかなりあります。それでも、被害が大き過ぎて手当てできないことが多すぎると感じました。
また。

尾形修一
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

震災ボランティア1日目

2011年04月13日 16時45分43秒 |  〃 (震災)
昨日東北へ入りました。東北道を福島に入ると道がかなり悪くなり、段差があったり、修理のあとが多くなりました。

夜になって気仙沼の唐桑半島につきました。

今朝からボランティア。災害からひと月立って、まだガレキの山。近くにあるスーパーのコメリの屋根に自動車が乗ったままになっています。

そういう状態なので、今まで国内ではあまり経験したことのない、本物のワークキャンプをしています。

具体的には、被災者宅の荷物片付けをお手伝いしました。

人生の様々な記念の品も皆なくなってしまったわけです。と同時に人間はいかにたくさんのモノに囲まれて生きているか、改めて感じさせられた1日でした。

くわしくは、また。
では、また報告します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本でも決選投票制度を!

2011年04月11日 20時32分48秒 |  〃  (選挙)
 昨日は都知事選。1位=石原候補(260万)、2位=東国原候補(170万)、3位=渡辺候補(100万)、4位=小池候補(62万)…よって、石原候補と東国原候補の決選投票ですね
 えっ、違うの?石原氏が当選ですか。なんで?ペルー大統領選は決選投票ですよ。

 選挙の中身も大事だけど、国政選挙で毎回違憲訴訟が起きる国なので、まずは選挙の方法自体に関心を持っています。で、小選挙区(1人を選ぶ選挙)では過半数の支持を得るのが何をおいても大事なのではないかと思います。過半数を得ていない比較多数の当選者が全体を代表してよいのでしょうか?

 決選投票が難しいなら、順位をつけるというやり方もあります。3人以上の候補者がいた場合は順位をつけられ、下位落選者の票から2番につけた候補の票に振り替えるというやり方です。
 
 なお、日本でも、有効投票の4分の1を超える得票者がいない場合は再選挙になります。
 最近では2003年の札幌市長選挙がそうでした。このときは1回目に1位だった上田市長(今回3選)がひと月半後の再選挙で当選しました。しかし、単純な再選挙なので、1回目に出なかった自民党系の候補が2回目に出たり、共産党系候補が2回目は立候補後に運動を取りやめたりしました。なお、2回目の再選挙でも上田氏は過半数を得ていません。
 1回目の選挙で、1位、2位だった候補の決選投票の方がリクツが通ります。

 また、石原氏が初当選した1999年の知事選も、「もしかして再選挙」と言われていましたが、石原氏が30%を得票して当選しました。(石原166万、鳩山邦夫85万、舛添83万、明石康69万、三上満66万、柿沢63万という選挙です。ついでに書くと、次がドクター中松で10万票。)
 確かに、石原氏は2位の2倍近いけど、決して圧勝ではなかったのです。どう考えても、決選投票制度があるべきだと思いませんか?

 今回の統一地方選挙は前に書いたように、選挙運動自粛で全国的に現職有利だったので、中身については書きません。大阪や愛知の地方政党のことは、時間があったらいつか書きたいと思っています。

 ところで、石原慎太郎当選以来10年以上。誰彼かまわず知事選の話をするわけではなく、むしろ選挙の話は普通しないですが、それでも石原知事に投票したという人に一回も会ったことがない。石原と書く人はどこにいるのでしょう?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浜岡原発の即時停止をー原発について、今の段階で思うこと

2011年04月10日 23時39分53秒 |  〃 (原発)
 福島原発事故は最悪の段階に至ってはいませんが、まだまだ予断を許しません。最悪とは、チェルノブイリで起こったような、炉心溶融(メルトダウン)して爆発が起こり、大量の放射性物質が大気中に拡散する事態です。今回、炉心溶融が起こり大量の放射性物質が出ましたが、原子炉格納容器が残っているので、まだ大部分は抑えられている状況と考えています。今、格納容器に窒素を注入し爆発を防ぐ対応を取っていますが、絶対大丈夫という段階ではありません。いくつもの原発が並び、どこか一つで異常事態が起これば、もう全部近づけなくなります。廃炉までは20年以上かかるわけですが、当面の事態が収束するのにはどのくらいかかるか…あと数カ月はかかるでしょう

 原子力のことはよくわからない点も多いのですが、今の時点で考えていることを箇条書きで。(ちょっと長くなるけど。)

 福島原発の周辺地帯は、今後も含めて考えると積算被ばく量はかなり危険な状態のところがあると考えられる。
 200キロ圏外の東京は、現在の放射線量を見る限り、切迫した危険はないと考えられる。(なお、ウクライナの首都キエフとチェルノブイリは100キロほどだった。)

 政府、東電の対応は、配慮を欠いたり後手後手に回る点が多いのは事実で、今後厳しい検証が必要。
 ただし、自民党が政権批判を言うのは笑止千万。今まで原発(に限らず大型公共工事すべて)を権力的に推し進めてきたのは誰か?
 だから、原発に限らず、火力発電も水力発電(ダム)もすべて今まで問題を起こしてきたので、原発だけが問題ではない。風力発電や地熱発電も健康被害や環境破壊をもたらす場合が多いので注意。

 東電の対応が官僚的だったり誠意がないように感じられるのは、たまたまそういう人がやっているという問題ではない。国策として進められ、大規模テロの危険があるプロジェクトは、必ず「自己防衛的」「官僚的」な人々が力を持つのである。

 工場はすべて危険だが、このように「万が一」の時に破滅的な被害をもたらす技術は、大量生産(消費)社会に合わない。今後「津波は想定外」(それは事実だろう)で、「原発自体は停止した」ので「(女川原発のように)冷却装置さえ壊れなければ原発は有効な技術」という「御用学者」が続発するはずだ。しかし、今回明らかになったように、操業中の原発だけでなく、その時点で停まっていた原発でも使用済み核燃料プールが危険な状態になる、などといった技術が他にあるか?
 いわゆる「トイレなきマンション」問題(使用済み燃料の処理が確立されていない)がどれほど危険なものなのかを、今回の事態は完全に証明した。

 政治家、官僚、電力会社、原発メーカーの責任はもちろんあるが、くわしい科学的なことがわからないわけで、「○○審議会」などといった組織がお墨付きを出す仕組みがある。(これは原発に限らずすべての問題でそうだが。)そのとき、必ず政府、業界よりに答える「御用学者」がどの分野にも存在する。この手のやからが良心的に行動していれば、日本の多くの問題はここまでひどくなっていない。「御用学者を許すな」。

10 決定的に重大なのは、御前崎にある中電浜岡原発。ここは活断層の真上にあるともいう。今回の地震を受け、東海・南海大規模地震が近々に起こる可能性が高まったのではないか。近々といっても地球時間の話なので今日明日ということではないが、自分の生きている間には起こるのではないか。
 浜岡原発は前から事故も多いし、危険である。もし、浜岡原発が今回の福島のようになれば、東海道新幹線、東名自動車道は20キロ圏内にあるので、東西の大動脈が止まる。福島原発は、新幹線、東北道からは遠いので復旧すれば通れるが、浜岡で事故が起こればそうはいかない。
 浜岡原発は、停止する必要があると考える。

 ざっと以上のようなことを考えましたが、「歴史を知る」ことが何の問題でも大切だと思っています。
 プロ野球がもうすぐ開幕しますが、一時セリーグだけ3月開催を主張していた時期がありました。例によって特に読売が強硬論を主張していました。何を言うのか、自分たちの責任を考えないのかと思ったけど、そういうことを言った人はいないようでした。
 日本に原子力発電を最初に導入したのは、正力松太郎初代科学技術庁長官(鳩山一郎、岸内閣)だったと言っていいでしょう。昭和天皇が摂政時代に狙撃された虎の門事件で警察官僚をやめ、読売新聞を巨大紙にのし上げた人物です。プロ野球の父民間放送の父(民放初の日本テレビを開局)と言われますが、原子力の父とも言われる人物です。今でも、プロ野球で活躍した監督、選手などに贈られる「正力松太郎賞」があります。その正力が原発を導入したわけで、読売グループも歴史的責任があるのではないでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする