尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

A・マンロー、R・コーマン、武田花、吉田ルイ子他ー2024年5月の訃報②

2024年06月09日 19時47分22秒 | 追悼
 2024年5月の訃報2回目。外国人の訃報から。カナダの作家アリス・マンローが5月13日没、93歳。2013年ノーベル文学賞受賞者である。短編小説のみ書いたことで知られるが、それは育児をしながら創作できるジャンルだったからである。カナダ東部のオンタリオ州に生まれ育ち、一地方に住む人々を描き続けた。特にエディンバラから移住した自らの一家のルーツを描いたことで知られる。日本では21世紀になってから、「新潮クレストブックス」で『イラクサ』『林檎の木の下で』『小説のように』『ディア・ライフ』『善き女の愛』『ジュリエット』『ピアノ・レッスン』と次々に翻訳され評判になった。クレストブックスはほとんど文庫化されないので、僕はアンソロジー収録作しか読んでない。人生の真実を一瞬の中に追求する鋭さに定評があった。
(アリス・マンロー)
 アメリカの映画監督、プロデューサーのロジャー・コーマンが5月9日死去、98歳。正直まだ生きてたのかと思った。生涯を通じて「B級映画」を作り続け、『私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか』という自伝まで書いた。60年代に営々と作り続けたポー原作の『アッシャー家の惨劇』(60)、『恐怖の振子』(61)、『姦婦の生き埋葬』(62)、『黒猫の怨霊』(62)、『忍者と悪女』(63)、『赤死病の仮面』(64)、『黒猫の棲む館』(64)などで知られた他、『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』(60)、『X線の眼を持つ男』(63)、『デス・レース2000年』(75)などカルト作になった映画も多い。しかし、それ以上に多くの若手映画人にチャンスを与え低予算映画でデビューさせたことで知られる。コッポラ、スコセッシ、スピルバーグなどもコーマンの下で働いていた。その事が評価されたか、2009年にまさかのアカデミー名誉賞受賞。日本で言えば若松孝二みたいな存在だが、政治的、性的に過激な映画を作ったわけではなく娯楽に徹した。
(ロジャー・コーマン)
 アメリカの作曲家、リチャード・シャーマンが5月25日死去、95歳。兄のロバート・B・シャーマンとともに、数多くのミュージカル映画の作曲をしたことで知られる。『メリー・ポピンズ』(1964)でアカデミー賞の作曲賞、歌曲賞を兄弟で受賞した。またディズニーパークのアトラクション用に作られた「イッツ・ア・スモールワールド」の作曲者である。ウォルト・ディズニーに見出され、『ジャングル・ブック』(67)までディズニー映画で活動した。ウォルトの死後独立して『チキ・チキ・バン・バン』(68)、『ベッドかざりとほうき』(71)、『スヌーピーの大冒険』(72)、『シャーロットのおくりもの』(73)、『シンデレラ』(76)、『ティガー・ムービー』(2000)などで作曲を担当した。劇場よりミュージカル映画の作曲をした人だった。
(リチャード・シャーマン)
 アメリカの画家、彫刻家のフランク・ステラが5月4日死去、87歳。戦後アメリカを代表する抽象画家と言われている。50年代末に黒いストライプによる「ブラック・ペインティング」で、ミニマルアートの代表とされた。80年代以後に大きく作風を変え、様々な色彩を施された破片や立体物をそのまま大画面に貼り付けるようなダイナミックな作品を作った。千葉県佐倉市にある「DIC川村記念美術館」がステラ作品の収集で世界的に知られているという。
(フランク・ステラ)
 5月19日にイラン北西部でヘリコプターの墜落事故が起こり、ライシ大統領アブドラヒアン外相らが死亡した。ライシは63歳。2021年にイラン・イスラム共和国第8代大統領に当選した。80年代から一貫して司法関係で仕事をしてきて、検事総長も務めた。その間反体制派弾圧にあたり人権抑圧に責任がある人物である。北東部の宗教都市マシュハドに生まれ、保守派の代表として最高指導者ハメネイ師の後継とも想定されていた。
(ライシ大統領)
 他にも『タイタニック』の船長役を務めたイギリスの俳優バーナード・ヒル(5日没、79歳)、アメリカのサックス奏者でグラミー賞6回獲得のデヴィッド・サンボーン(12日没、78歳)、ヴァイオリニストで元ウイーン・フィルのコンサートマスター、ヴェルナー・ヒンク(21日没、81歳)などの訃報があった。

 写真家、エッセイストの武田花が4月30日に死去した。72歳。武田泰淳(1912~76)と武田百合子(1923~93)の娘として1951年に生まれた。アルバイトをしながら野良猫の写真を撮り続け、1990年に木村伊兵衛賞を受賞した。猫や寂れた町並みをモノクロで撮影した写真で知られる。泰淳も百合子もついこの前亡くなったような気がするが、ついに武田花も亡くなってしまったのか。ちょうど『武田百合子対談集』(中公文庫)を読んだばかりだったので、訃報には驚いた。今も武田百合子は読まれ続けているが、それらの本に武田花撮影の写真も多く収められている。
(武田花)
 フォトジャーナリストの吉田ルイ子が31日に死去。94歳。朝日放送アナウンサーからフルブライト奨学生として渡米、コロンビア大学で修士となった。その間ハーレムで撮った写真が高く評価され、1968年に公共広告賞を受賞。71年に帰国して、日本でも写真が評価された。それをまとめた著書『ハーレムの熱い日々』が評判となった。これは僕も読んでるけど、非常に多くの人に影響を与えた本だと思う。その後、南アフリカのアパルトヘイト取材にも取り組んだ。年齢的に21世紀になってからはほとんど消息を聞かなかったが、こういう日本人女性が70年代に存在したことは次の世代にも知って欲しいと思う。
(吉田ルイ子)
 元早稲田大学総長、高野連(日本高等学校野球連盟)会長の奥島孝康が1日死去、84歳。法学者で専門は会社法。1994年から2002年に早稲田大学総長を務めた。奥島時代に長年の懸案だった「革マル派」との絶縁に取り組んだことで知られる。高野連会長としては元プロ選手の学生野球指導資格回復制度を作った。豪腕で毀誉褒貶あった人らしいが、業績は遺した人なんだろう。
(奥島孝康)
 元衆議院議員で環境庁長官(90年)、防衛庁長官(94年)を務めた愛知和男が3日死去、84歳。元大蔵大臣の愛知揆一の女婿で、1976年に自民党から衆議院議員に当選した。93年に離党して新生党に参加、細川内閣で防衛庁長官になった。新進党結成後に政審会長となったが、次第に小沢一郎への批判を強め、97年に自民党に復党した。2000年に落選して引退を表明したが、2005年の「郵政選挙」に請われて東京選挙区の名簿下位に掲載され、自民が圧勝して思わぬ当選を果たした。2009年に二度目の引退。
(愛知和男)
 大相撲の元力士、大潮(元式秀親方)が5月25日没、76歳。最高位は小結。敢闘賞、技能賞各1回受賞。1962年1月に時津風部屋から初土俵を踏み、1988年1月に40歳で引退するまで通算26年間相撲を取ったことで知られる。通算出場1891番は今に至るも歴代1位の記録になっている。通算勝ち星964勝は、引退当時歴代1位だった。その後、白鵬、魁皇、千代の富士に抜かれたが、横綱・大関以外の力士としては今もトップである。十両通算55場所(歴代1位タイ)、幕内昇進13回は歴代1位で、努力してはい上がって長年務めた。引退後は時津風部屋から独立して式秀部屋を創設した。
(大潮)
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唐十郎、中尾彬、小山内美江子他ー2024年5月の訃報①

2024年06月07日 22時29分53秒 | 追悼
 2024年5月の訃報特集。今回も芸能関係の訃報をまず書いて、その他及び外国人の訃報を2回目に書きたい。一番大きく取り上げられたのは、唐十郎だった。肩書きは劇作家、演出家、俳優、作家などである。5月4日没、84歳。1983年に47歳で亡くなった寺山修司と命日が同じだった。生年は寺山が5年ほど早いが、60年代末の「アングラ演劇」の旗手として当時から並び称せられる存在だった。1969年12月12日には、唐十郎主宰の「状況劇場」と寺山修司主宰の「天井桟敷」が役者どうしの乱闘事件を起こしてお互いに現行犯で逮捕された事件もあった。狂乱の60年代末期を文化面で象徴する一人だった。
(唐十郎)
 1867年に新宿の花園神社境内で紅テントを建てて公演を始めた。評判になったというが、その時点では僕は小学生なので全然知らない。天井桟敷もそうだが、街頭やテントで「演劇」と称して怪しげな見世物を行う連中と見られていただろう。しかし、1970年に『少女仮面』が岸田国士戯曲賞(劇作家の新人賞として有名)を受け、その頃から演劇的な評価も高くなっていった。70年代初めに『少女仮面』が角川文庫から出た時に読んだ記憶がある。詩的なセリフが飛び交い、読んだだけでも熱気が伝わるような戯曲だった。実際に見たのは大学時代だと思うが、実は紅テントはあまり見てなくて、佐藤信の黒テントの方が合っていた。
(若い頃)
 紅テントは何回か見てるけど、正直よく覚えていない。最後に見たのは2003年に高く評価された『泥人魚』。腰痛持ちなので、もうテント芝居は辛いなと痛感した記憶がある。作家では『佐川君からの手紙』で1983年に芥川賞を受けた。映画では1976年にATGで『任侠外伝・玄界灘』を監督した。正直どっちもあまり面白くなかった。僕は唐十郎とは相性が良くないのだが、状況劇場から多くの異才を輩出した功績は大きい。妻だった李麗仙(88年に離婚)、麿赤児四谷シモン根津甚八小林薫佐野史郎らである。つげ義春夫人の藤原マキもそう。大島渚監督『新宿泥棒日記』(1968)が当時の様子を伝えている。
(紅テント)
 俳優、タレントの中尾彬が5月16日に死去、81歳。元々武蔵野美大在学中に日活ニューフェイスに合格したが、絵を諦めきれず退社してフランスに留学した。その後も絵は描き続け認められている。帰国後、劇団民藝に所属(71年退団)しながら、映画にも出演した。中平康監督『月曜日のユカ』(1964)が実質的デビューで印象に残る存在感を発揮していた。『本陣殺人事件』(1975)では主役を務め、何人目かの金田一耕助を演じた。テレビドラマでは多くの大河ドラマや『暴れん坊将軍』(徳川宗春役)などで活躍した。晩年はヴァラエティ番組やCMが記憶に残る。池波志乃(10代目金原亭馬生の娘で、古今亭志ん生の孫)と「おしどり夫婦」の印象が強いが、実は再婚で前妻との間に子どもがいる。
(中尾彬)
 脚本家の小山内美江子が5月2日死去、94歳。当初は映画監督になりたかったが、女性では無理と言われスクリプター(記録)を務めた。長男(俳優、映画監督の利重剛)出産後、家でできる仕事として脚本を書き始めた。数多くのテレビドラマを執筆したが、特に1979年に始まり何シリーズも作られた『3年B組金八先生』が大きな評判を呼んだ。時の社会問題も取り入れ、教育界にも影響を与えた(と書かれることが多いが、「一人の教師の頑張りで学校を変えられる」と誤解させた面もあると思う。)他には朝ドラ『マー姉ちゃん』『本日も晴天なり』、大河ドラマ『徳川家康』『翔ぶが如く』などがある。晩年になっても国際的な教育支援活動を行い、カンボジアを中心に400を越える学校を建てた。カンボジアからは叙勲されている。
(小山内美江子)
 漫才師の今くるよが5月27日死去、76歳。高校時代にソフトボール部で一緒だった相方今いくよ(2015年に67歳で没)とコンビを組み、80年代に女性漫才コンビとして大活躍した。なかなか売れなかったが、80年代になって認められた。84年に上方漫才大賞、88年に花王名人大賞受賞。80年代の「漫才ブーム」を支えたコンビだが、「夫婦漫才」ではない女性どうしのコンビとして先駆的だった。大柄な体格に派手な衣装のくるよと、反対に痩せたいくよの容姿をネタにした掛け合いが爆笑を呼んだ。吉本の後輩女性芸人の面倒見が良かったと言われている。
(今くるよ)
 作曲家のキダタローが5月14日死去、94歳。全く知らなかったが、案外大きな訃報で驚いた。何でも「浪花のモーツァルト」と言われていたとか。今いくよ・くるよは東京のテレビにもいっぱい出ていたから知っているが、関西圏のテレビCMは全く知らないのである。まあ「バラエティ生活笑百科」や「プロポーズ大作戦」のテーマ曲と言われると、聞いたことはある。でも「かに道楽」や「日清出前一丁」のCMは関西人は誰でも知っているそうだが、東京では思い浮かばない。そういう地域性がある。
(キダタロー)
井川徳道、16日没、95歳。映画の美術監督で、東映映画の任侠映画の多数を担当した。テレビでも『暴れん坊将軍』『水戸黄門』などを担当している。加藤泰監督の『明治侠客伝 三代目襲名』『沓掛時次郎 遊侠一匹』『緋牡丹博徒 お竜参上』などの名作の美術担当である。他にも深作欣二監督の『仁義なき戦い 頂上作戦』『北陸代理戦争』『柳生一族の陰謀』『魔界転生』などがある。日本映画アカデミー賞、毎日映画コンクールなど受賞多数。
増山江威子が20日死去、88歳。声優。『ルパン三世』の峰不二子役で知られた。60年代の『鉄腕アトム』から『アタックNo.1』『天才バカボン』など長年テレビアニメで活躍したほか、劇場アニメや洋画の吹き替えなどでも活躍した。
真島茂樹、22日没、77歳。ダンサー、振付師、大ヒットした『マツケンサンバII』の振付を行った人である。紅白歌合戦で美川憲一『さそり座の女』でも振付を担当した。
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曙、笠谷幸生、O・J・シンプソン、ヒッグス他ー2024年4月の訃報②

2024年05月07日 19時26分54秒 | 追悼
 スポーツ関係や1回目に書かなかった人を内外まとめて。まずは第64代横綱曙太郎(旧名チャド・ローエン)が4月上旬に亡くなり、11日に公表された。54歳。(死亡日は未公表。)ハワイのマウイ島出身で、ハワイ初の関取高見山の東関部屋に入門して、1988年3月に初土俵を踏んだ。昭和63年入門の貴ノ花、若乃花、魁皇など「花の六三組」と競い合って昇進、1990年3月に新十両、9月に新入幕した。92年5月場所で初優勝して大関に昇進、92年11月、93年1月に連続優勝して横綱に昇進した。外国人力士として初の横綱である。当時は92年3月で北勝海が引退して横綱不在で、95年1月に貴乃花が昇進するまで一人横綱だった。
(曙)
 として相撲界を支えた。204㎝の身長、223㎏の体重を生かした豪快な相撲で人気があり、貴乃花との白熱した優勝争いが記憶に残る。(曙貴時代と呼ばれた。貴乃花とは21勝21敗だった。)後半は膝のケガに悩まされながら、長期休場が多かったが、2000年に2度優勝した。優勝11回で、2001年1月に引退。引退後は東関部屋に残ったが、2003年11月に相撲協会を退職。格闘技K-1参戦を発表した。しかし大みそかに行われたボブ・サップ戦では1回ノックアウトされた。格闘技は1勝9敗、総合格闘技は4敗で、その後はプロレスラーとして活動した。まだ亡くなる年齢ではないが、心不全だったという。忘れられない相撲取りの一人である。
(貴乃花を圧倒した曙)
 1972年札幌冬季五輪で、スキージャンプ70メートル級金メダルを獲得した笠谷幸生(かさや・ゆきお)が23日死去、80歳。この人の名前は、当時を生きていた人には忘れられない。70メートル級(現在のノーマルヒル)は、笠谷が金、金野昭次(こんの・しょうじ、2019年没)が銀、青地清二(2008年没)が銅と日本勢が独占し「日の丸飛行隊」と呼ばれた。90メートル級は7位とメダルを逃した。五輪には4回出場したが、その中で10位位内に入ったのは札幌だけ。まさに札幌五輪のために輝いたのである。北海道の余市高から明治大を経て、ニッカウヰスキーに入社。ニッカでは東京本社広報部長や北海道支社副支社長を務めて1999年に退社。その間に国際審判員の資格を取り、IOC理事、2010年のバンクーバー五輪選手団副団長を務めた。2018年に文化功労者。
 (笠谷幸生)
 アメリカンフットボールの元スター選手O・J・シンプソンが10日死去、76歳。南カリフォルニア大学で活躍し、1969年にドラフト1位でバッファロー・ビルズに入団してプロ選手となった。プロとしても素晴らしい成績を挙げたが、僕はルールもよく知らず何も言うことはない。この人に関しては、もちろん94年に起こった元妻とその知人を殺害した容疑で起訴されたことで知ったのである。刑事事件としては翌95年に陪審員が無罪の評決を出した。(民事では責任が認定され多額の賠償金を命じられた。)その後、2007年にラスベガスのホテルの部屋に銃を持って押し入り、記念品などを奪ったとして逮捕された。有罪となり不定期刑で収監されたが、2017年10月に仮釈放されていた。あれ、そんな事件があったっけ。
(O・J・シンプソン)
 物理学者のピーター・ヒッグスが8日死去、94歳。2013年にノーベル物理学賞を受賞した。エディンバラ大学名誉教授。1964年に南部陽一郎の理論を発展させ「ヒッグス粒子」の存在を予言した。様々な素粒子が発見されたが、長くヒッグス粒子だけ未発見だったが、2012年にスイスのCERN(欧州合同原子核研究所)の巨大加速器を使った実験で発見された。ではヒッグス粒子とは何か、どのような理論から導かれたものかは、手に余るので自分で調べてください。
(ヒッグス)
 元カネボウ会長、日本航空会長の伊藤淳二が2021年12月19日に死去していたことが明らかになった。99歳。20年前なら一面に載った訃報だろうが、長命すぎて忘れられただろう。1968年に45歳でカネボウ(当時は鐘淵紡績)社長に就任し、経営多角化、労使協調の経営路線で注目された。1985年に中曽根首相の要請で日航副会長、翌86年に会長となった。しかし、労使対立が深刻化して87年に道半ばで退任した。山崎豊子『沈まぬ太陽』、城山三郎『役員室午後三時』のモデルとされ、ある時期まで日本で最も知られた会社経営者だった。しかし、カネボウは2007年に粉飾決算が発覚して破綻した。(現在も残る化粧品会社はは花王の子会社として残ったのである。)日航も後に破綻し、結果的に伊藤淳二は失敗した経営者となってしまった感がある。
(伊藤淳二)
 歌手、俳優の佐川満男が12日死去、84歳。当初はロカビリー歌手として成功し紅白歌合戦にも2回出場。その後病気で低迷した後、1968年に「今は幸せかい」が大ヒットして、紅白に返り咲いた。1971年には歌手の伊東ゆかりと結婚し、子どもも生まれたが1975年に離婚。一端芸能界を引退したが、80年代から関西を中心に俳優活動を中心にカムバックした。以後大阪制作の朝ドラや旅番組などに出演した。現在公開中の映画『あまろっく』にも出演していた。
(佐川満男)
 ルドルフ・シュタイナー研究の第一人者として知られる高橋巖が3月30日に死去した。95歳。慶応大学で学び、西ドイツに留学した。帰国後慶大教授となったが、1973年に退職。「異端」であるシュタイナー研究と普及に全力を捧げるため、アカデミズムを離れたのである。以後、ルドルフ・シュタイナーの著作を翻訳するとともに、神秘学やシュタイナー教育に関する著作を数多く発表した。1985年に日本人智学協会を設立し、一生をシュタイナー紹介に努めた人だった。
(高橋巖)
日本史研究者の訃報が二人。中世史の元木泰雄が9日死去、69歳。京大名誉教授。院政期から鎌倉時代が専門で、『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、2004)や『河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流』(中公新書、2011)はとても面白かった。また古代史の笹山晴生が12日死去、91歳。東大名誉教授。律令制下の兵制が専門だが、平安京に関する一般書や教科書も執筆した。小泉政権の「皇室典範に関する有識者会議」のメンバーだった。僕は単著は読んでないと思う。
外国の映画監督の訃報が二人。エレノア・コッポラが12日死去、87歳。フランシス・フォード・コッポラの妻で、娘のソフィアは映画監督、息子のロマン、ジャン=カルロも俳優や製作者など映画一家で知られている。『地獄の黙示録』のメイキング『ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録』と劇映画『ボンジュール・アン』を監督している。フランスのローラン・カンテが26日死去、63歳。『パリ20区、僕たちのクラス』が2008年にカンヌ映画祭パルムドールを受賞した。日本でも公開され評判になったが、他の作品は正式公開がなく全然知らない。
・ヴェトナムの現代美術家、ディン・Q・レが6日死去、55歳。ボートピープルとして子ども時代に渡米したが、後に帰国。戦争の記憶を扱う作品で世界的に評価された。3月に訪日して作品を製作したという。イタリアのファッションデザイナー、ロベルト・カバリが12日死去、83歳。ヒョウ柄など動物柄で人気を得て、服だけでなく時計、アクセサリーなどのブランドを展開した。
・海岸工学の創始者、堀川清司が18日死去、96歳。津波や海岸浸食などを研究した。文化功労者。東大名誉教授。東大退官後の埼玉大学で学長を務め、誘拐未遂事件にあったことがある。政治評論家屋山太郎が9日死去、91歳。
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フジコ・ヘミング、星野富弘、桂由美、P・オースター他ー2024年4月の訃報①

2024年05月06日 19時25分30秒 | 追悼
 2024年4月の訃報特集。1回で終わるかと思ったら、最後になって重要な訃報が相次いだ。タイトルに挙げた4人はいずれも5月になって報道された人である。1回目は文化関係者をまとめて。まずピアニストのフジコ・ヘミングが4月21日に亡くなった。92歳。そのドラマティックな人生は大きく報道された。父親はスウェーデン人、母親が日本人で、1931年にベルリンで生まれた。5歳で日本に移り、戦時中は岡山に疎開、その後青山学院高校、東京芸大を卒業した。若き優秀なピアニストだったわけだが、その後留学しようとしたら無国籍だったことが判明した。難民として西ドイツに留学し才能を認められたが、風邪をこじらせて左耳の聴力を失った。それ以前に右耳の聴力も失っていたのである。その後はスウェーデンでピアノ教師をしていた。
(フジコ・ヘミング)
 母親の死後、1995年に帰国。1999年2月にNHKで「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映され、多くの人がこの人の存在を知ったのである。デビューCD『奇蹟のカンパネラ』(パガニーニのヴァイオリン協奏曲のロンドをリストが編曲したピアノ曲)は200万枚の大ヒットとなった。若い人ならともかく、聴力を失いながら(その後左耳は40%回復)高齢になって大ブレイクしたのは印象的である。最近はあまりクラシックのコンサートに行かない僕も上野の文化会館に聞きに行ったものである。まあ何を聞いたか忘れてしまったが。2023年11月に転倒するまで、世界各地でコンサートをしていた。晩年に円熟した人だった。
(CD『奇蹟のカンパネラ』) 
 口にくわえた筆で絵や詩を創作した星野富弘が28日に死去、78歳。もともとは群馬県の中学で体育教員をしていた。しかし、採用初年度の1970年に体操部の指導中に転落事故にあい、脊髄損傷で首から下の身体機能を失った。1972年に口で絵筆を動かして表現活動を始め、74年にはキリスト教に入信した。80年代に「花の詩画展」を全国各地で開催して大きな感動を与えた。評判を呼んで、91年には東村(現みどり市)立富弘美術館が開館した。草木湖畔に立つ美術館には多くの人が訪れている。足尾に通じるわたらせ鉄道沿いの地区で、僕も行ったことがある。人生というものはどこで道が分かれているか、計り知れないということをこの人の人生は教えてくれる。素直に感動した美術館である。
 (星野富弘)
 ファッションデザイナーの桂由美が26日死去、94歳。デザイナーといっても、この人はブライダルデザインに特化していた。洋装のウェディングドレスを日本に定着させた人である。一時は文学座研究生になるなど演劇を目指していたが、後にファッションを仕事に選び、誰もやっていなかったブライダルデザインを選択した。戦時中に育ち、戦後の憧れだったウェディングドレスを「一ヶ月の給料で買える」ようにしたいと思ったのである。ヨハネ・パウロ2世に博多織の祭服を献上したこともあった。政治的には保守派で「日本会議」のメンバーだったという。死去数日前に「徹子の部屋」収録を行っていた。
(桂由美)
 アメリカの重要な作家二人が亡くなった。まずポール・オースターが30日に死去、77歳。日本では柴田元幸訳で新潮文庫に収録されている。『孤独の発明』やニューヨーク3部作(『ガラスの街』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』)などは、ある種前衛ミステリー風で取っつきにくい印象がある。しかし、そこで終わらせてはもったいない。『ムーン・パレス』(1989)は最高に心打つ青春小説だし、『偶然の音楽』『リヴァイアサン』も面白かった。もっともその後は買ってあるけど読んでない。
(ポール・オースター)
 映画にも深い関心を持ち、自身の短編を基にした『スモーク』(1995)の脚本を担当、また『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(1998)では監督を務めた。ボール・ベンジャミン名義で発表されたミステリー『スクイズ・プレー』(新潮文庫)は野球小説としても秀逸。都市生活者の孤独や憂愁を描き、日本でも人気が高い作家だった。『スモーク』は近年修復版が公開され、新宿東口映画祭で上映がある。タバコをめぐる綺譚だが、本人は肺がんで亡くなったのである。
(映画『スモーク』)
 アメリカの作家、ジョン・バースが2日死去、93歳。実験的な作風と物語を融合させた『酔いどれ草の仲買人』(1979)や『旅路の果て』『やぎ少年ジャイルズ』『キマイラ』などが代表作とされる。アメリカのポストモダン文学の代表者と言われるが、短編しか読んでないのでよく判らない。同じ日にフランスの女性作家マリーズ・コンデが死去した。90歳。カリブ系黒人だが、パリに学んでソルボンヌ大学を出た。ギニアの俳優と結婚してアフリカで活動したが、70年にフランスに戻り創作活動を本格化させた。世界的に高く評価されていて、『生命の樹 あるカリブの家系の物語』『心は泣いたり笑ったり マリーズ・コンデの少女時代』など邦訳もある。2018年にスウェーデンの市民団体が設立したニューアカデミー文学賞を受賞した。
(ジョン・バース)(マリーズ・コンデ)
 「ぼくら」シリーズで知られる作家、宗田理(そうだ・おさむ)が8日死去、95歳。この人を有名にした『ぼくらの七日間戦争』(1985)は、昔中学校の文化祭で演劇にしたことがある。その思い出が鮮烈なんだけど、今回Wikipediaで知ったそれ以前の「編集者時代」が凄かった。日芸映画学科に進み若い頃から脚本の助手をしたが、仕事が減って高利貸し森脇将光の「森脇文庫」の編集者となった。今じゃ知らない人が多いと思うけど、造船疑獄の端緒となった森脇メモは宗田が書いたというのである。その後PR会社を設立し自動車業界の裏情報を梶山季之、清水一行らに提供した。そして水産業界の裏を知って書いた『未知領域』が直木賞候補となって作家専業となった。「ぼくら」シリーズは中学生に始まり、高校生編、青年編、教師編と延々と何十冊も書かれ、累計発行部数2千万部と言われる。全然知らない前半生があって、それは忘れられている。
(宗田理)
 フランス文学者、文芸評論家、詩人の粟津則雄が19日死去、96歳。特に詩人ランボーの研究や翻訳で知られる。小林秀雄の影響を受け、詩や文学に止まらず美術や音楽などヨーロッパ文化について幅広く評論活動を展開した。正岡子規、萩原朔太郎など日本の詩人に関する本も多い。特に草野心平と交友が深く、草野心平記念文学館長も務めた。翻訳ではゴッホ書簡全集、ランボー全詩集、モーリス・ブランショなどがある。法政大学名誉教授。芸術院会員。
(粟津則雄)
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五百旗頭真、鈴木健二、加藤幸子、ポリーニ他ー2024年3月の訃報②

2024年04月08日 22時19分39秒 | 追悼
 2024年3月の訃報特集。1回目に書ききれなかった日本の学者、著述家等と外国人の訃報をまとめて。政治学者の五百旗頭真(いおきべ・まこと)が6日死去、80歳。兵庫生まれで、京大で猪木正道に師事、広島大助教授からハーバード大研究員を経て神戸大学教授となった。このように東大系じゃなく、猪木、高坂正堯の系譜の現実主義的政治学者として名をなした。日米関係史、占領政策などを研究し、1985年『米国の日本占領政策』でサントリー学芸賞、『占領期 首相たちの新日本』(1997)で吉野作造賞などを受賞。2006年から12年まで防衛大学校長を務めた。多くの内閣で有識者会議委員を務めている。95年阪神淡路大震災で被災したのをきっかけに「災害復興」研究に携わった。その経験から2011年に「東日本大震災復興構想会議議長」を託され、「創造的復興」を掲げて復興への道筋を示した。最後まで「ひょうご震災記念21世紀研究機構」の理事長を務めていた。
(五百旗頭真)
 元NHKアナウンサーの鈴木健二が29日死去、95歳。テレビ司会者として、またエッセイストとして大活躍していた80年代には、日本人全員が知っていた人である。ニュースや紅白歌合戦司会なども担当したが、それより『歴史への招待』(1978~84)、『クイズ面白ゼミナール』(1981~88)などの教養・バラエティ番組で有名になった。特に後者では「教授」と呼ばれて人気を得た。また180冊以上の著作があり、1982年の『気くばりのすすめ』は400万部を超えるベストセラーになった。NHK退職後は、テレビにはほぼ出ずに、熊本県立劇場館長(1988~98)、青森県立図書館館長(1998~2004)を務めた。映画監督鈴木清順の弟
 (鈴木健二)
 作家の加藤幸子(かとう・ゆきこ)が30日死去、87歳。5歳から11歳まで北京で過ごし、敗戦後に引き揚げてきた。その後、同居していた叔父(戯曲『なよたけ』などで知られる加藤道夫)が自殺して大きな衝撃を受けた。北大農学部卒業後、農林省、日本自然保護協会などに勤めた理系、自然保護活動家の加藤幸子が作家になったのは、若い時の体験のため。1983年、『夢の壁』で芥川賞、『尾崎翠の感覚世界』(芸術選奨文部大臣賞)、『長江』(毎日芸術賞)などの他、『北京海棠の街』『苺畑よ永遠に』『翼をもった女』などの作品がある。その清冽な世界が好きだった。東京港野鳥公園設立に尽くした人でもある。
(加藤幸子)
 SF作家、ゲームデザイナーの山本弘が29日死去、68歳。SFとしては『去年はいい年になるだろう』(2011、第42回星雲賞日本長編部門)、『多々良島ふたたび』(2016、第47回星雲賞日本短編部門)や『アイの物語』などがある。それ以上に有名なのは、オカルト、UFO、ノストラダムスなどの疑似科学本を「トンデモ本」と名付けて、その世界を楽しんでしまおうという「と学会」を結成して初代会長になったことである。この「トンデモ」という言葉はすっかり定着してしまった。本人はいたって真面目に疑似科学を正面から批判していて、それは『ニセ科学を10倍楽しむ本』(ちくま文庫)でよく理解出来る。是非一読を。
(山本弘)
 ラリードライバーの篠塚建次郎が18日死去、75歳。三菱自動車のドライバーとして、ダカール・ラリーに参戦。12回目の1997年に日本人として初の総合優勝を果たした。2002年に三菱を退社したが、生涯現役を目指して日産と契約するなどした。21世紀になってからはソーラーカーのレースに参戦して活躍した。妻は三浦友和の姉。
(篠塚健次郎)
 大相撲の元関脇、明武谷(みょうぶだに)が10日死去、86歳。驚くことに「明武谷」は本名である。189㎝と当時としては破格の高身長で、「人間起重機」と呼ばれた。1957年7月場所で新入幕、1969年11月場所で引退するまで、豪快な吊り出しを得意技として、殊勲賞、敢闘賞を各4回受賞するなど活躍した。僕はこの人の活躍を幼い頃に覚えているのだが、驚いたのは引退後である。中村親方を襲名して指導に当たっていたが、「エホバの証人」に入信して1977年に廃業したのである。よりによって格闘技を認めない宗派に入信するなんて。その後はビル清掃などをしながら布教したという。
(明武谷)
 経済界ではメニコン創業者の田中恭一が10日死去、92歳。現代音楽の作曲家、篠原眞が3日死去、92歳。イタリア文学者の大久保昭男が12日死去、96歳。イタリアの作家アルベルト・モラヴィアの翻訳は大久保訳でほとんど読んでいる。政治家では鳥取県知事(74~83)、衆議院議員(83~90、93~2003)、郵政大臣を務めた平林鴻三が28日死去、93歳。また冒険家の阿部雅龍が27日死去、41歳。2018年~19年にかけ、単独徒歩で南極点に到達した人である。

 イタリアのピアニスト、マウリツィオ・ポリーニが23日死去、82歳。1960年、18歳でショパン国際ピアノコンクール優勝、ルービンシュタインが絶賛して知られた。その後8年間の空白を経て、1968年から国際的活動を再開し、現代最高のピアニストと呼ばれた。古典から現代音楽まで何でもこなしたが、特にショパン、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンなどを得意とした。何度も来日したが、聞きにいったことはない。だがクラシック界の貴公子だったポリーニが亡くなったというのはショックだ。自分も年を取ったということだから。
(マウリツィオ・ポリーニ)(ショパン「練習曲集」)
 スウェーデンの世界的陶芸家、デザイナーのリサ・ラーソンが11日死去、92歳。動物をモチーフにした温かみのある作風で知られる。猫のキャラクター「マイキー」などが日本でも人気を集めた。
 (リサ・ラーソン)
 日本では報道されていないが、フィリピンの女優ジャクリン・ホセが3日死去、60歳。80年代から女優として活動し、近年はブリランテ・メンドーサ監督作品で国際的に知られた。『ローサは密告された』(2016)でカンヌ映画祭女優賞を受賞している。最近公開された『FEAST -狂宴-』でも重要な役を演じていたので訃報に驚いた。重厚な存在感で知られた女優だった。またアメリカの俳優ルイス・ゴセット・ジュニアが29日死去、87歳。『愛と青春の旅だち』(1982)でアフリカ系初のアカデミー賞助演男優賞を得た。テレビドラマ『ルーツ』では、主人公クンタ・キンテの友人のバイオリン弾きを演じていた。
(ジャクリン・ホセ)(ルイス・ゴセット・ジュニア)
 アメリカの心理学者、行動経済学者のダニエル・カーネマンが27日死去、90歳。心理学的見地から消費者行動を分析する独自の研究で、2002年のノーベル経済学賞を受賞した。従来の経済学では人間は経済合理的に行動するとしていたが、現実の人間の意思決定ではそういう前提とは異なる習性があることを示した。
(ダニエル・カーネマン)
 元米上院議員のジョー・リーバーマンが27日死去、82歳。2000年の米大統領選で、民主党候補アル・ゴアの副大統領候補となった。これはユダヤ系として初のことだった。1989年から2013年まで上院議員を務めたが、民主党内では最右派に属し最後の任期では無所属となった。地元の予備選で左派候補に敗れて、本選を無所属として戦って当選したのである。イラク戦争支持、同性婚反対などを主張し、2008年大統領選ではオバマではなく「個人的友情」で共和党のマケインを支持した。
(ジョセフ・リーバーマン)
 2000年にノーベル物理学賞を受けたハーバート・クレーマーが8日死去、95歳。受賞理由は「高速エレクトロニクスおよび光エレクトロニクスに利用される半導体ヘテロ構造の開発」。イギリスの脚本家、デヴィッド・サイドラーが16日死去、86歳。『英国王のスピーチ』で米アカデミー賞を受賞した人。イタリアの彫刻家ジュリアーノ・ヴァンジが26日死去、93歳。2002年に静岡県にヴァンジ彫刻庭園美術館が開館したが、23年に閉館した。アメリカの彫刻家リチャード・セラが26日死去、85歳。鋼板による巨大彫刻で知られる。ヴァンジ、セラ二人とも高松宮世界文化賞を受賞している。
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鳥山明、寺田農、天児牛大、坂本長利他ー2024年3月の訃報①

2024年04月07日 21時38分35秒 | 追悼
 2024年3月の訃報特集。まず1日に漫画家の鳥山明が亡くなり、一週間後の8日に集英社から公表された。68歳。若い時の写真しかなくて、近年の肖像写真を公表していなかったのは驚いた。以下の画像は「徹子の部屋」に出演した時のもの(1983年5月4日)。(著名人が亡くなると、テレビ朝日のニュースで大体「徹子の部屋」の映像が流れる。)『Dr.スランプ』の累計発行部数は3000万部、『ドラゴンボール』は2億6000万部を記録。キャラクターデザインを務めた『ドラゴンクエストシリーズ』は、8,800万本の出荷本数というからものすごい。しかし、本人は生まれ育った愛知県に住み続けた。
(鳥山明)
 僕は鳥山明のマンガに関して書けることがない。小さい頃はテレビでアニメをよく見てたけど、大きくなってからは(時間が合わず)見なくなった。鳥山明のマンガがテレビ化され大ブームになったのは、80年代から90年代にかけてで、自分には子どももいないから見る機会がなかった。それでも名前を知っているぐらい有名人だったけど、作家論や作品論は書けない。諸外国でも大きく報道されたが、鳥山明がこんなに世界的に知られていたとは知らなかった。2013年にはフランスのアングレーム国際漫画祭40周年記念特別賞を受けている。内外で「伝説の漫画家」「史上最も影響力のある漫画家」と呼ばれる人だった。

 アニメ関係では、1990年1月からアニメ『ちびまる子ちゃん』の主人公まる子の声優を務めていたTARAKOが死去、63歳。本名は非公表。原作者さくらももこの声に似ていたため、オーディションで抜てきされたという。それ以前に『うる星やつら』『めぞん一刻』などでも声優を務めていたが、本人はシンガーソングライターを目指していてCDも出している。小さな役だが『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』などでも声優を務めたほか、CMやテレビ番組のナレーションも数多く務めていた。
(TARAKO)
 俳優の寺田農(てらだ・みのり)が14日死去、81歳。文学座付属演劇研究所に入所、三島由紀夫作『十日の菊』で舞台デビュー。その後テレビや映画に数多く出演した。1968年の岡本喜八監督『肉弾』で、監督自身の戦争体験を演じて鮮烈な印象を与え毎日映画コンクール主演男優賞。岡本喜八、実相寺昭雄、相米慎二らの監督作品で重用され、相米慎二『ラブレター』では主演を務めた。声優では『天空の城ラピュタ』のムスカ大佐で知られた。また、一人芝居『土佐源氏』で有名な坂本長利が20日死去、94歳。「ぶどうの会」「変身」を経て、1967年から『土佐源氏』を演じた。これは宮本常一忘れられた日本人』の挿話を一人芝居にしたもので、異様な迫力がある傑作だった。他に日活ロマンポルノなどの映画、テレビ『Dr.コトー診療所』の村長役などにも出ていた。また伝統芸能では能楽の観世流シテ方で人間国宝の坂井音重(さかい・おとしげ)が27日死去、84歳。
(寺田農)(坂本長利)
 舞踏家で『山海塾』主宰の天児牛大(あまがつ・うしお)が25日死去、74歳。1980年代以降、ヨーロッパで「BUTOH」の大ブームを起こした。70年代初頭に土方巽や大野一雄に出会い、舞踏を目指した。72年に麿赤兒の「大駱駝館」の設立に関わり、75年に「山海塾」を旗揚げ。外国での評価が高く、92年フランス政府から芸術文化勲章(シュヴァリエ章)を受けた。世評が高くなって一度見てみようと、世田谷パブリックシアターに見に行ったが、全く理解不能なので驚いた。また舞踏家の中嶋夏が3日死去、80歳。バレエ、モダンダンスを経て、土方巽、大野一雄に師事した後「霧笛舎」を創設して国際的に活躍した。メキシコで死去。
(天児牛大)(中嶋夏)
 美術関係では彫刻家の舟越桂が29日死去、72歳。彫刻家舟越保武の次男で、東京造形大、東京芸大大学院で彫刻を学んだ。クスノキの半身像に着彩し目に大理石を入れ、詩的で端正な人物像で知られた。独特の憂愁や精神性はキリスト教信仰から来ると言われる。海外でも高く評価された他、本の装幀に多く使われた。天童荒太『永遠の仔』は特に印象的だった。中原悌二郎賞、毎日芸術賞、芸術選奨文部科学大臣賞など受賞多数。また画家、美術評論家の谷川晃一が10日死去、86歳。60年代は前衛美術運動に参加していたが、88年に伊豆高原に拠点を移して素朴な画風に転じた。評論、エッセイの他、絵本など著書多数。妻は故・宮迫千鶴。
(舟越桂)(谷川晃一)
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小澤征爾、赤松良子、山本陽子、赤堀政夫他ー2024年2月の訃報①

2024年03月07日 22時13分38秒 | 追悼
 2024年2月の訃報特集。先月はロシアの反体制派指導者ナワリヌイ氏の訃報は別に書いた。世界的に大問題となったが、ここではそれ以上書かない。それ以外では、まず指揮者の小澤征爾が2月6日に亡くなり大きく報道された。88歳。何しろ翌日の朝日新聞は、2面全部を使って村上春樹の追悼文を掲載したぐらいで、これには驚いた。小澤征爾には大江健三郎との対談『同じ年に生まれて:音楽、文学が僕らをつくった』という本がある。この世代(特に男性)がどんどん物故している。僕は小澤征爾について全然知らない。母親の小澤さくら、娘の小澤征良の本は読んだのに、小澤征爾のコンサートには一回も行ってない。カラヤンやベームの来日公演には行ってるが、やはり日本の指揮者に関心がなかったのかもしれない。レコードやCDさえ持っていないのだから。
(小澤征爾)
 ボストンやウィーンが本拠地だったから、なかなか聴く機会もない。晩年になってサイトウ・キネン・オーケストラが毎夏松本でやってたが、あっという間に高額なチケットが売り切れてしまう。僕も一度は見たかったのである。小澤征爾が海外に本拠を移したのは、1962年の「N響事件」がきっかけとなった。NHK交響楽団と揉めて契約を解除されたのである。大問題となって、三島由紀夫、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、武満徹らが「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、日比谷公会堂で日フィルを指揮して実現したという。「征爾」の名は、「満州国」を作った軍人、板垣征四郎、石原莞爾から付けられたのは有名。
(小澤征爾)
 元労働省官僚で「均等法の母」と呼ばれた赤松良子(あかまつ・りょうこ)が6日死去、94歳。1953年に東大を卒業して労働省に入省、婦人少年局に配属された。1979年には国連公使として、女子差別撤廃条約に賛成票を投じた。1982年に婦人少年局長に就任し「男女雇用機会均等法」の立案に当たった。(85年成立。)その後、ウルグアイ大使などを歴任。退官後の1993年、非自民の細川内閣成立に際して、民間人枠から文部大臣に就任した。その後、2008年に日本ユニセフ協会会長に就任し、死去まで務めていた。最後まで選択的夫婦別姓制度や「クオータ制」(候補者に一定の女性を割り当てる)などの実現に向け活動した。
(赤松良子)
 女優の山本陽子が20日に死去、81歳。1963年に日活ニューフェースとして芸能界入りしたが、当時の日活には若手人気女優が多く脇役が多かった。70年頃からテレビや舞台で活躍するようになり、大河ドラマ『国盗り物語』や『となりの芝生』などで人気を得た。71年に森光子主演の『放浪記』で初舞台を踏み、94年の『おはん』では紀伊國屋演劇賞を受賞し、400回以上上演された。この人を一番見ているのはテレビCMで、山本海苔店との契約が42年に及び、ギネス世界記録に登録された。その印象から和服の印象が強いが、実生活ではジーンズでポルシェに乗るのが好きだったという。2月2日放送の「徹子の部屋」に高橋英樹とともに出演していた。誰が死んでも黒柳徹子との映像が出て来るのがすごい。
(山本陽子)
 女性史研究者のもろさわようこが29日死去、99歳。本名は両沢葉子。長野県に生まれ、地方紙記者などを経て、市川房枝主宰の「婦人問題研究所」の所員として「婦人展望」の編集者となった。その後女性史を研究し、『おんなの歴史』(1965)『信濃のおんな』(1969、毎日出版文化賞)など数多くの著書を通じて、先駆的な女性史研究を行った。82年に佐久市に「歴史を拓(ひら)くはじめの家」を開き、沖縄県南城市、高知市にも同様のオープンスペースを開設して晩年まで行き来しながら活動を続けた。
(もろさわようこ)
 元参議院副議長を務めた角田義一(つのだ・ぎいち)が23日死去、86歳。保守系が圧倒的に強い群馬県で長年野党系の中心として活動した。県議を経て社会党から国政に挑んだが2度落選、3度目の1989年に初当選した。95年に再選、その後民主党に移って、01年に3回目の当選を果たし、04年に参院副議長に就任した。しかし、07年に闇献金疑惑が報道され副議長を辞任した。07年参院選には立候補せず引退し、元の弁護士を続けながら、民進党、立憲民主党で活動した。群馬県民の森にあった「朝鮮人労働者追悼碑を守る会」の共同代表を務めて、撤去に強く反対していた。
(角田義一)
 2月24日に仲宗根美樹が死去、79歳。両親は沖縄出身だが疎開先の東京で生まれた。61年の「川は流れる」が大ヒット、62年以後に紅白歌合戦に5回出場した。71年に結婚して引退(その後、離婚・再婚)、歌手としては忘れられた感があるが60年代に人気歌手だった記憶はある。また「内山田洋とクールファイブ」メンバー、小林正樹が15日に死去、81歳。毎月歌手の訃報が続いている。
(仲宗根美樹)
 ダイソー創業者で、大創産業の社長、会長を務めた矢野博丈(やの・ひろたけ)が12日死去、80歳。若い頃は転職を繰り返したが、72年に東広島市で移動販売の「矢野商店」を創業。倒産した商品を引き取り移動販売するうちに、全品100円という販売方法に商機を見出した。77年に大創産業、87年から100円ショップの全国展開、01年には海外にも進出。国内4300店、海外25か国990店を有する規模に育て、「100円ショップ」「百均」という業態を確立した人物である。訃報で名前を知った人。
(矢野博丈)
 作家では児童文学者の谷真介(7日死去、88歳)、ミステリーの梓林太郎(1.27日死去、91歳)。スポーツで64年東京五輪レスリング、グレコローマンフライ級金メダルの花原勉(5日死去、84歳)。映画プロデューサーの叶井俊太郎(かない・しゅんたろう、16日死去、56歳)はフランス映画『アメリ』を買い付けて大ヒットさせた。漫画家倉田真由美の夫としても知られた。フジテレビのプロデューサー、黒木彰一(13日死去、54歳)は「笑っていいとも!」「SMAP×SMAP」などを担当した。物理学者俵好夫(13日死去、91歳)は俵万智の父だが、70年代に(当時は)世界で一番性能の高いサマリウムコバルト電池を発明した。佐々木宏幹(ささき・こうかん、26日死去、93歳)は、宗教人類学者でシャーマニズム研究の第一人者。もう一人、安倍晋三元首相の母、安倍晋太郎元外相の妻、岸信介元首相の娘である安倍洋子(4日死去、95歳)の訃報もあった。
 
 死刑確定事件で4件目の再審無罪判決を受けた赤堀政夫が22日死去、94歳。1954年3月に静岡県で起きた幼女殺害事件「島田事件」で逮捕、起訴され、60年に最高裁で死刑が確定した。83年5月に東京高裁が新証拠で自白の信用性が揺らいだとして再審開始を決定。その後高裁が検察の即時抗告を退け、87年に再審が始まり89年1月に無罪となった。この事件には深刻な問題(社会的偏見や鑑定の間違いなど)があった。80年代には免田事件、財田川事件、松山事件の3事件で「死刑から無罪」という再審事件があった。その被害者は赤堀さんで皆亡くなったことになる。そして今5件目の袴田巌さんの再審が開かれている。
(赤堀政夫)
 外国ではイタリアの映画監督パオロ・タヴィアーニが29日死去、92歳。兄のヴィットリオとともに、脚本、演出を共同で「タヴィアーニ兄弟」として映画を作ったことで知られる。『父 パードレ・パドローネ』(1977)でカンヌ映画祭パルムドールを受賞した。その他幾つもの名作を作ったが、2018年に兄が死去。その後も一人で映画を作り『遺灰は語る』(2022)はベルリン映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した。日本公開時にはここでも紹介した。映画では『ロッキー』で敵役アポロ・クリードを演じたカール・ウェザースが1日に死去、76歳。
(パオロ・タヴィアーニ)
 マラソン世界記録保持者のケルビン・キプタムが11日にケニアで交通事故死、24歳。2023年10月のシカゴ・マラソンでキプチョゲの記録を34秒更新する2時間0分35秒をマークした。世界初の2時間切りを実現するとしたらこの人と言われていた。
(キプタム)
 他にノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングが17日死去、93歳。「平和学の父」と呼ばれる。貧困や差別のない「積極的平和」という概念を提唱したことで知られる。日本でも中央大、立命館大などで教えたことがあり、多くの邦訳書がある。ソ連時代の元首相ニコライ・ルイシコフが28日死去、94歳。ゴルバチョフ書記長のもと、85年に首相となってペレストロイカを推進したが、次第に保守化して90年に解任された。ソ連崩壊後に一時国会議員を務めた。カナダの元首相ブライアン・マルルーニーが29日死去、84歳。1984年から93年まで進歩保守党で首相を務め、アメリカとの自由貿易協定を締結した。
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ベッケンバウアー、中岡哲郎、西嶋勝彦他ー2024年1月の訃報②

2024年02月09日 22時43分14秒 | 追悼
 2024年1月の訃報特集2回目。ドイツ(旧西ドイツ)のサッカー選手、監督のフランツ・ベッケンバウアーが1月7日死去、78歳。「皇帝」(カイザー)と呼ばれたサッカー界の巨人で、訃報は日本でも大きく報じられた。1974年ワールドカップ西ドイツ大会で主将を務めて優勝した。その後代表監督となり、1986年は準優勝、1990年ワールドカップイタリア大会では優勝した。選手、監督双方で優勝を経験したのは二人目とされる。守備選手でありながらボールを奪ったら攻め上がる「リベロ」のポジションを確立させた。近年マラドーナ、ペレなど伝説的サッカー選手が次々と亡くなっているのは残念。日本でも知名度が高く、名前にちなんで「別件バウアーですが」などという表現があったぐらいである。
(ベッケンバウアー)
 技術史家の中岡哲郎が6日死去、95歳。大阪市立大学名誉教授。活躍していた時代には相当の知名度があったと思うが、訃報は非常に小さかった。言論活動をしていたのはネット時代以前なので、顔写真が出て来ないぐらいである。『工場の哲学』『技術文明の光と影』『日本近代技術の形成』など一般向け著作多数がある。現代の工業化社会に警鐘を鳴らす人だったと思うけど、読んでないからよく知らない。研究者の訃報をまとめると、マルクス経済学者の大内秀明が9日死去、91歳。東北大名誉教授。宇野弘蔵やマルクスに関する多くの著作があるが、最晩年には宮澤賢治やウィリアム・モリスを論じていた。ドイツ文学者の谷川道子が9日死去、77歳。東京外国語大学名誉教授。ドイツ現代演劇が専門で、ブレヒトやハイナー・ミュラーの著作を多く翻訳している。
(中岡哲郎著『近代日本技術の形成』)
 弁護士から2人。袴田事件再審弁護団長西嶋勝彦が9日死去、82歳。この人の生涯を調べると、若くして加わった八海事件に始まり、仁保事件、徳島ラジオ商事件、島田事件など戦後を代表する冤罪事件の弁護に加わってきた。島田事件が再審無罪を勝ち取った後に袴田事件に加わり、94年から弁護団長を務めていた。もうすぐ終わる前に亡くなるのは無念だろう。もう一人、山本博弁護士が17日死去、92歳。この人は弁護士以上にワイン評論家として著名で、多くの著作がある。日本にワイン文化を定着させた最大の功労者。僕もワイン本で名前を記憶している。本職は戦後を代表する労働弁護士で、何しろ砂川事件弁護団に始まり全逓中郵事件など戦後の代表的労働事件を担当した。日本労働弁護団名誉会長。そして21世紀には主に翻訳家として活動、エド・マクベインやロバート・B・パーカーなどハードボイルドの翻訳をしていた。それも名前を見たことがあるが、同一人物とは知らなかった。
(西嶋勝彦)(山本博)
 アマスポーツ界の「ドン」が二人亡くなった。田中英寿が13日死去、77歳。青森県出身で早くから相撲で活躍。日大に入学して、69、70、74年と3度アマチュア横綱になった。プロ入りしたら大関は間違いないと言われたが、アマを続けて80年に現役引退、83年から日大相撲部監督となった。高見盛、舞の海、遠藤など多くの人気力士を育てた人である。国際相撲連盟会長、日本オリンピック委員会理事、副会長も務めたが、2005年に「週刊文春」に暴力団との交際が報じられ辞任した。ところでこの人を皆が覚えているのは、2008年から21年まで日大理事長を務めていたからだ。そして数々のスキャンダルが報道され脱税で逮捕、起訴された。元日本ボクシング連盟会長の山根明が31日に死去、84歳。奈良県をボクシング王国と呼ばれるまでに育て、2011年ボクシング連盟会長となり、翌年に終身会長となった。二人は交友があり、2018年4月に山根が日大客員教授になっている。しかし、田中に先立ち、2018年に多くの不祥事が告発され年末に連盟から除名された。二人ともさすがの「面構え」がテレビ映えしていた。
(田中英寿)(山根明)
 財界では、元アサヒビール会長の福地茂雄が29日死去、89歳。99年に社長、2002年から2006年まで会長を務めた。しかしこの人が知られているのは、本業以上に2008年から11年に第19代NHK会長になったからだ。当時の古森経営委員長と親しく、就任には反対意見も強かった。元リコー社長で経済同友会代表幹事を2007年から2011年に務めた桜井正光が24日死去、82歳。リコーで初の技術系出身社長で、11年間務めて業績を大きく伸ばした。今調べたら都立墨田川高校出身だった。

 昨日の書き忘れだが、作家の利根川裕(とねがわ・ゆたか)が29日死去、96歳。『宴』(1966)が評判となった他、映画化された『喜屋武マリーの青春』(1986)など著書多数。またテレビ朝日の深夜番組『トゥナイト』の司会を1980年から94年まで務めた。経済評論家の山崎元が1日死去、65歳。個人投資家向けの判りやすい本を多数書いた。保守系では日本会議会長を務めた田久保忠衛が9日死去、90歳。時事通信外信部長などを歴任。他に大きく騒がれた訃報に、漫画家の芦原妃名子(25日死去、50歳)と「桐島聡容疑者を名乗る人物」(29日死去)の訃報があるが、今はよく判らないので書かないでおきたい。
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篠山紀信、林家正楽、 N・ジュイソン他ー2024年1月の訃報①

2024年02月08日 21時42分36秒 | 追悼
 2024年1月の訃報。今度こそ簡単に書きたいが、それでも結構多かったので、まず広い意味での芸能、芸術関係を内外問わず。まず写真家の篠山紀信が1月4日に死去、83歳。写真家としては「きしん」と読ませたが、本名は「みちのぶ」である。60年代に活動を開始、和田誠の自伝にも出て来るが、高度成長時代に広告写真に新しい表現をもたらした先駆者だった。何でも撮っているが、特に「肖像」で知られた。三島由紀夫、坂東玉三郎、ジョン・レノンとオノ・ヨーコなどの他、「激写」シリーズや「週刊朝日」の表紙「女子大生」シリーズ、さらに宮沢りえ、樋口可南子などのヌード写真など多岐に渡る。追悼文を見ると、驚くべき速写で撮っていく「一瞬のアート」だった。僕にとっては南沙織と結婚した人という印象も大きい。
(篠山紀信)
 寄席の紙切り第一人者の三代目林家正楽(はやしや・しょうらく)が1月21日に死去、76歳。88年に林家小正楽、2000年に林家正楽を襲名した。2020年には芸術選奨文部科学大臣賞、2023年には松尾芸能賞功労賞、浅草演芸大賞など紙切り芸としては過去にない栄誉を受けてきた。僕も何度も見て来て、長年楽しませて貰った。2015年に上野鈴本演芸場でトリを取ったとき『寄席紙切り百年「正楽三代展」』を書いた。所属していた落語協会の柳亭市馬会長の追悼文を一部引用すると「正楽さんに、もう会えないのか、あの芸を見られないのかと思うと、とても辛い。悲しくて、寂しくて、どうかなってしまいそうです。協会員も、いや正楽さんを知る人は皆、そうなると思います。今はただ、一緒に高座をつとめられた喜びと、楽しかった思い出を噛みしめつつ、ご冥福をお祈り申し上げるだけです。 」多くの人も同じ気持ちだろう。
(林家正楽)
 アメリカで活躍したカナダ出身の映画監督ノーマン・ジュイソンが1月20日死去、97歳。主に60年代から90年代に多くの素晴らしい映画を作ったが、特に決まった方向性は見られず職人的に何でもこなす監督だった。一番有名なのは『夜の大捜査線』(1967)で、南部で起こった殺人事件を差別的な署長と旅行中だった黒人捜査官が捜査する。アカデミー賞作品賞、主演男優賞など5部門で受賞した。ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』(1971)、シェールが主演女優賞を獲得したコメディ『月の輝く夜に』(1987)と合わせて3回アカデミー賞監督賞にノミネートされたが受賞出来なかった。最近全然話題にならないのが、ロックオペラ『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973)だが、僕は公開当時ずいぶん感激したものだ。他に『華麗なる賭け』(1968)、黒人ボクサーの冤罪事件『ザ・ハリケーン』(1999)など幾つもの作品を残している。
(ノーマン・ジュイソン)
 1月31日に文楽の人間国宝、豊竹咲太夫が死去、79歳。人間国宝、文化功労者で、多くの名人の芸を受け継ぐ義太夫節を伝承する「最後の砦」と呼ばれていた。同じ31日に染色作家の柚木沙弥郎(ゆき・さみろう)が死去、101歳。芹沢銈介に感銘を受けて弟子入りし、染色を学んだ。女子美術大学で教え、学長も務めた。100歳を越えても染色を続けていた。
(豊竹咲太夫)(柚木沙弥郎)
 ピアニストの江戸京子が1月23日死去、86歳。桐朋女子高校音楽科卒業後に渡仏しパリ高等音楽院で学び、その後はアメリカを拠点にして多くの演奏活動を行った。1985年に東京に本格的な音楽祭を作ろうと「アリオン音楽財団」を設立し、様々な音楽普及活動を行った。国際音楽祭の審査員、文化団体の役員なども数多く務めていた。1962年から4年間小澤征爾と結婚していた。父親は財界活動で知られた三井不動産社長江戸英雄。
(江戸京子)
 演歌歌手の冠二郎が1月1日に死去、79歳。1967年にデビューしたが、紅白初出場は91年で長年の苦節を乗り越えてヒット曲を出した人だが、僕はこの時代になると歌謡界に詳しくなくて名前ぐらいしか知らない。歌手ではスプレーCMで知られた小金沢昇司が11日に死去、65歳。漫才トリオ「かしまし娘」の長姉、正司歌江が19日死去、94歳。三味線担当で、三人娘の音曲漫才で人気を博した。81年に活動を休止した後は、テレビドラマなどで活躍した。妹二人は健在である。コメディアン、パフォーマーの南部虎弾(なんぶ・とらた)が20日死去、72歳。「ダチョウ倶楽部」初代リーダーで、脱退後の80年に「電撃ネットワーク」を結成した。沖縄芝居の役者、平良進が27日死去、89歳。沖縄芝居で活躍し、琉球歌劇保存会の会長を務めた。映画『ナビィの恋』など多くの映画にも出演している。同じく琉球芝居の女優平良とみの夫。
(冠二郎)(正司歌江)
 韓国の映画監督、イ・ドゥヨンが19日死去、81歳。70年に監督に昇進以来数多くの映画を作った。世界的に韓国映画が評価される直前に、世界に知られる映画を作っていた人。『避幕』『ムルレヤ ムルレヤ』『桑の葉』などで知られている。
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八代亜紀と中村メイコー2023年12月の訃報③

2024年02月07日 22時31分05秒 | 追悼
 恒例の訃報特集だが、昨年末に亡くなった芸能人を「12月の訃報」として特別に書きたい。一人は八代亜紀で、もう一人は中村メイコ。歌手の八代亜紀が年末の12月30日に亡くなっていたと1月9日に公表された。73歳。古稀は過ぎているわけだが、平均年齢には達しない。昨年来続いている歌手の訃報がまた報じられたことに驚くしかない。熊本県八代(やつしろ)出身で、芸名はそこから付けたが「やしろ」と読ませた。この人の歌はいわゆる「演歌」だったけれど、普段演歌を聴かない僕も長年すごいと思ってきた。没後に社会貢献活動の「良い話」ばかりがどんどん出て来るのも驚きである。

 中卒でバスガイドになるも、15歳で上京して歌手を目指したという話は有名である。1971年にプロデビューし、1973年の『なみだ恋』が大ヒットして歌手として成功した。「夜の新宿 裏通り 肩を寄せ合う 通り雨」という冒頭の歌詞は、まさに「ネオン街」の哀感を見事に表現している。当時のことだから、東映の夜の歌謡シリーズで映画化された。八代亜紀もちょっと出ているとのことだが見てない。『山口組三代目』の併映だった由。こういう歌を知っているのは、テレビでベストテン番組などがあるうえ、受験生の最大の情報源、娯楽がラジオだったためである。そして、1979年に『舟唄』が大ヒット、翌80年の『雨の慕情』でレコード大賞を受賞した。阿久悠の数多い作詞の中でも最高傑作と言えるのではないか。
(若い頃)
 「舟唄」は「お酒はぬるめの燗がいい 肴はあぶったイカでいい」と始まるが、僕はお酒は冷やが好きだし、肴(さかな)もイカ(するめだろう)が好きなわけじゃない。続くフレーズの「女は無口なひとがいい 灯りはぼんやり灯りゃいい」に至ると、もう全然反対である。だけど八代亜紀がこの歌を歌うときに、鮮やかにそういう風に生きてきた男のイメージが起ち上がる。もしかしたら降旗康男監督の映画『』に影響され過ぎているのかもしれない。映画で「舟唄」が使われたため、主演した高倉健のイメージが離れなくなった面もある。だけどこの歌ほど「歌手」こそが歌を生かしていることを示す歌もない。
(八代亜紀の絵)
 八代亜紀は歌と同じぐらい、絵が好きで上手だった。フランスの美術展「ル・サロン展」に連続して入選して正会員になっているという。また福祉活動に熱心で、中でも日本の女子刑務所すべてを慰問している。東日本大震災でも何度も被災地を訪れたが、その後故郷の熊本で震災が起こってそちらでも多くの活動をした。長年にわたって多くの地域振興活動にも参加してきた。歌手としては次第にジャズやブルースも多く歌うようになっていった。そっちは聞いてないのだが、あのハスキーヴォイスはブルースに合っているだろう。今度聞いてみたいなと思う。
(八代亜紀の絵)
 女優、歌手であり、元祖ヴァラエティタレントというべき中村メイコが12月31日に死去、89歳。訃報が小さかったのに僕は驚いたが、もう現役新聞記者も知らないのだろう。それにしても「まだ89歳だったのか」と思った。それ以前に「まだ存命だったのか」とも思った。赤ちゃんの時から子役で活躍していたので、芸能生活86年と言っている。榎本健一、古川緑波、徳川夢声、柳家金語楼などと共演していたのだが、今じゃその人は誰ですかと言われるんだろう。
(中村メイコ)
 もちろんそんな昔のことは僕も知らない。自分にとっては、「テレビによく出ていた人」という印象である。黒柳徹子と並び草創期からテレビで活躍した。二人は親友でもあり、亡くなる6日前の12月25日に最後の「徹子の部屋」収録を行ったという。1957年に作曲家神津善行(こうづ・よしゆき)と結婚し、子どものカンナ、はづき、善之介とともに芸能一家として知られていた。NHKの「連想ゲーム」の紅組初代司会者だが、Wikipediaを見ると68年から69年の1年しか出ていない。「3時のあなた」の司会も1年だが、もっと長い印象がある。本職は女優で、いろいろな映画、テレビドラマに出ていた。
(若い頃)
 中村メイコは無数の映画に出たが「演技派」とは思われなかった。親しみやすい個性を生かして、途中からはヴァラエティ番組や司会(紅白歌合戦の司会も59年~61年に3回務めている)のイメージが強かった。そんな中で探してみると、森崎東監督の「喜劇・女シリーズ」の2本。新宿芸能社の森繁久彌社長の妻を演じた『喜劇・女は男のふるさとヨ』(71)、『女生きてます 盛り場渡り鳥』が浮かぶ。そしてもう一つは6歳の時の豊田四郎監督『小島の春』(1940)になる。ハンセン病患者隔離を進める女医を聖女として描いた作品で、内容的には問題をはらむが中村メイコの「演技」は有名なのである。
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西木正明、寺尾、竹入義勝、徐京植他ー2024年12月の訃報②

2024年01月05日 21時51分10秒 | 追悼
 2023年12月の訃報。2回目は日本関係者。まず直木賞作家の西木正明が12月5日に死去、83歳。誰もが知る人気作家じゃなかったろうが、僕はずいぶん読んできた。現代史に材を取った「ノンフィクション・ノベル」が持ち味だった。「レポ船」(ソ連に情報を流すスパイ船)を扱う『オホーツク諜報船』(1980)で日本ノンフィクション賞新人賞を受けて注目され、1988年に「凍(しば)れる瞳」「端島の女」で直木賞を受賞した。心に残っているのは1994年の『夢幻の山旅』(新田次郎文学賞)と1999年の『夢顔さんによろしく 最後の貴公子・近衛文隆の生涯』(柴田錬三郎賞)である。前者は辻潤と伊藤野枝の長男辻まことの生涯を描いて感動的。後者は近衛文麿の長男でシベリア抑留で亡くなった近衛文隆を描き、劇団四季のミュージカル『異国の丘』の原作となった。他に『蛇頭(スネークヘッド)』『ルーズベルトの刺客』『其の逝く処を知らず 阿片王・里見甫の生涯』などがある。
(西木正明)
 元大相撲の元関脇寺尾錣山(しころやま)親方が12月17日死去、60歳。元関脇鶴ヶ嶺(元井筒親方)の三男で、長男鶴嶺山(十両)、逆鉾(関脇)と並ぶ「井筒三兄弟」と呼ばれた。小柄な体ながら闘志あふれる突っ張りで湧かせ、イケメン力士として人気があった。寺尾は母の旧姓である。1979年名古屋場所で初土俵、2002年秋場所まで長く土俵を務めた。85年春場所で新入幕、幕内出場1378回は歴代5位。殊勲賞3回、敢闘賞3回、技能賞1回受賞。弟子の阿炎(あび)は新型コロナ対策違反で出場停止になり、処分後の2022年九州場所で優勝した。その頃から不整脈で入退院を繰り返し、その場所も休場していた。
 (寺尾=錣山親方)
 元公明党委員長竹入義勝が12月23日に死去、97歳。正直まだ存命だったのかと驚いた人も多いだろう。僕はこの人のことはよく覚えている。自分が住んでいた旧東京10区(足立、葛飾、江戸川)が選挙区だったのである。1967年に初当選以来、1986年まで連続8回当選。1回を除き、すべてトップ当選だった。1967年2月に委員長となり、1986年12月まで約20年間務めた。1970年に政治評論家藤原弘達『創価学会を斬る』をめぐる出版妨害事件で田中角栄(当時自民党幹事長)に藤原との交渉を依頼した。そこから田中との交友が深くなり、1972年には田中訪中に先立ち周恩来と日中国交正常化をめぐる調整を行った。80年代には社会党、民社党との社公民路線を推進した。ところが政界引退後の1998年に、朝日新聞に政界回顧録を連載し、党と創価学会の政教分離の実情をあけすけに語り、党、創価学会から除名されるに至ったのは気の毒で皮肉なことだった。
(竹入義勝)
 在日コリアンの作家、元東京経済大学教授の徐京植(ソ・キョンシク)が12月18日死去、72歳。70年~80年代に大きな社会問題になった「在日韓国人政治犯」問題の中でも一番最初に起こったのが、徐勝徐俊植兄弟の事件だった。徐京植は二人の末弟で、救援運動においても中心的役割を担った。その中で思索を深め、『長くきびしい道のり 徐兄弟・獄中の生』(1988)以来、多くの著作を発表した。『子どもの涙 - ある在日朝鮮人の読書遍歴』(1995)で日本エッセイストクラブ賞、『プリーモ・レーヴィへの旅』(1999)でマルコポーロ賞。僕はきちんと読んで来なかったので、ちゃんとした評価が出来ないが、上の二人が存命なのに一番若い人が亡くなったのを残念に思う。
(徐京植)
 元NHK記者で「ニュースセンター9時」初代キャスターを務めた磯村尚徳(ひさのり)が12月6日死去、94歳。この人もまだ存命だったのかと思ったが、ほとんど報道されなかったのにも驚いた。いま考えると74年~77年と3年間しかやっていないのだが、「NC9」のインパクトは大きかった。キャスターがまとめる報道番組は今では民放各社にあるが、当時は初めてで新鮮だったのである。それ以前からワシントン特派員などで知名度があったが、これ以後磯村は全国民が知るような人物となった。そのため、1991年に自民党から都知事選に担ぎ出されたが、4選を目指す鈴木俊一に敗れてしまった。その後、97年から2005年にパリ日本文化会館初代館長を務めたが、国内では忘れられた感があった。
(磯村尚徳)
 「アホの坂田」として親しまれたコメディアン坂田利夫が29日に死去、82歳。吉本新喜劇に入門した後、前田五郎と「コメディ№1」(2009年解散)を結成して漫才に転向した。2015年の安藤桃子監督『0.5ミリ』に出演していたのが思い出される。お笑いタレントでは、「ヒップアップ」で活躍した島崎俊郎が6日死去、68歳。「オレたちひょうきん族」で「アダモちゃん」を演じて人気になった。また俳優でスーツアクターの薩摩剣八郎が16日死去、76歳。84年から95年まで『ゴジラ』シリーズで着ぐるみに入って演じた。85年には北朝鮮の怪獣映画『プルガサリ』にも出演している。着ぐるみ以外でも多くの映画、テレビに出ている。 
(坂田利夫)
 女性陶芸家の草分けといわれる神山(こうやま)清子が22日死去、87歳。信楽焼で、釉薬を使わずの昔の自然釉を再現した。長男が白血病で死去し、骨髄バンク設立運動に尽力した。映画『火火』、朝ドラ『スカーレット』のモデルになった。演出家の藤原新平が17日死去、95歳。文学座で別役実作品の演出を50年にわたって担当した。僕もずいぶん見て来たが、こんな年齢になっていたとは驚いた。農民詩人として知られた星寬治が7日死去、88歳。山形県高畠町の有機農業の草分けで、農民詩人としても知られた。『かがやけ、野のいのち―農に生きる』『自分史 いのちの磁場に生きる―北の農民自伝』など多くの著書を残している。
(神山清子)(藤原新平)(星寬治)
 広島商業野球部で選手、監督として優勝した迫田穆成(さこだ・よしあき)が1日死去、84歳。6歳で広島で被爆した。1957年に夏の甲子園で優勝、67年に監督となって73年に優勝した。93年に如水館高校監督となり、同校を8回甲子園に出場させた。
(迫田穆成)
 学者ではイスラム教研究者の中村廣治郎が5日死去、87歳。『イスラム教入門』など。東洋史の池田温(あつし)が11日死去、92歳。農業経済学の暉峻衆三(てるおか・しゅうぞう)が22日死去、99歳。妻は経済学者暉峻淑子。
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イオセリアーニ、ライアン・オニール、ドロール他ー2024年12月の訃報①

2024年01月04日 22時23分18秒 | 追悼
 2023年12月の訃報特集。一般的には12月に亡くなった人をあまり思い出せないんじゃないかと思う。今回は一回で終わると思っていたが、振り返ると特に日本で「忘れられていた」(高齢により活動期から時間が経ってしまったため)訃報が結構多かった。まず外国人の訃報から。ジョージア、フランスの映画監督オタール・イオセリアーニが、12月17日にトビリシ(ジョージアの首都)で死去、89歳。2023年に日本でほぼ全作品上映の映画祭が行われた。とぼけたユーモアや人生賛歌が人気で、今後の上映も期待したい。ソ連の「グルジア」時代に作った『落葉』『田園詩』などが岩波ホールで上映され、我々はその名前を知ることになった。しかし、社会風刺の効いた作品が疎まれ、ソ連で上映出来なくなり、1979年にフランスに移住して映画を作り続けた。
(オタール・イオセリアーニ)
 フランスに移っても作風は全然変わらず、『蝶取り』(1992)『素敵な歌と舟はゆく』(1999)、『月曜日に乾杯!』(2002)、『ここに幸あり』(2006)など、人生を肯定する映画を作った。深刻にならず、好きなように生きる人物を描くことが多く、それが理想だったんだろう。その反面、登場人物のドラマ的な葛藤には乏しく、計算された映像でつづる詩のような作品が多い。2010年の『汽車はふたたび故郷へ』で自伝的にジョージア時代を描き、2015年の『皆さま、ごきげんよう』は再びパリの人々を温かく描き遺作となった。まあ、作風が似てて飽きるところもあるが、ほのぼのしてて気持ちが晴れる。
(イオセリアーニ監督『落葉』)
 アメリカの俳優ライアン・オニールが12月8日に死去、82歳。もうほとんど70年代の人で、昔の人気を知らない人が大半だろう。テレビで活躍後、70年に大ヒット作『ある愛の詩』(Love Story)に主演した。「アメリカン・ニュー・シネマ」全盛期に真逆の大恋愛+難病ドラマが大受けしたのである。オニールの「愛とは決して後悔しないこと」というセリフも有名。(なお、「詩」を「うた」と読ませるのもこの邦題から。)続いて、娘のテイタム・オニールが10歳でアカデミー賞助演女優賞を獲得(最年少記録)した『ペーパー・ムーン』(1973)、キューブリック監督の大作『バリー・リンドン』(1975)の18世紀ヨーロッパを渡り歩く主人公などで知られる。その後は度重なる恋愛遍歴や闘病(白血病やガン)が話題になった。21世紀になって、テイタムが自伝を発表し父親に虐待されたと告発したが、子どもたちは薬物中毒で苦しむことが多く、父親の責任を否定出来ない。
(ライアン・オニール)
 俳優では韓国のイ・ソンギュンが12月27日に死体で発見された。薬物疑惑が取り沙汰されていたため自殺と見られている。48歳。『パラサイト 半地下の家族』で、主人公一家が取り入る社長を演じていた人である。他に映画『キングメーカー 大統領を作った男』、テレビドラマ多数。
(イ・ソンギュン)
 イタリアの政治哲学者アントニオ・ネグリが12月15日死去、90歳。アメリカの哲学者マイケル・ハートとの共著『〈帝国〉』や『マルチチュード』でグローバル化時代に多国籍企業や国際機関が権力を持つ世界秩序を論じて、大きな影響を与えた。一方で、1979年にモロ元首相暗殺事件などテロ事件の指導者とみなされ逮捕・起訴されたことでも知られる。事件への直接的関与はなかったものの、過激な言論活動の責任に関して有罪となった。1983年に獄中立候補して国会議員に当選、不逮捕特権で釈放され、フランスに亡命して活動した時期もあった。マルクスやスピノザの研究者としても知られ多くの邦訳もあるが、全然読んだことはない。
(アントニオ・ネグリ)
 フランスの政治家ジャック・ドロールが12月27日死去、98歳。フランスのミッテラン政権で財務相などを務めた後、1985年から95年まで欧州委員長となり、欧州単一通貨「ユーロ」導入を進めて「ユーロの父」と呼ばれた。93年には欧州連合条約が発効し、EU(ヨーロッパ連合、それまではヨーロッパ共同体=EC)となった。ヨーロッパ統合に夢を求めた時代の代表的政治家である。
(ジャック・ドロール)
 アメリカ初の女性最高裁判事サンドラ・デイ・オコナーが1日死去、93歳。1981年にレーガン大統領によって指名され(上院で承認)、2006年に引退するまで務めた。それ以前はアリゾナ州議会議員やアリゾナ州裁判所判事などをしていた。最高裁内では次第に保守派から中間派に移り、キャスティングボートを握ることが多かったとされる。
(サンドラ・オコナー)
ファニータ・カストロ、12月4日没、90歳。キューバ革命指導者のフィデル・カストロ、ラウル・カストロの実妹で、7人の兄弟姉妹の中でただ一人革命反対派となり、1963年にアメリカに亡命した。
ロバート・ソロー、12月21日死去、99歳。アメリカの経済学者。1987年にノーベル経済学賞。ハーバード大学でサミュエルソンと共同で研究した。
レファト・アラリール、パレスチナの作家、詩人で、12月6日にイスラエルのガザ空爆で死亡した。44歳。ガザ・イスラム大学教授。没後に彼の詩「If I must die」(もし私が死なねばならないなら)が世界に知られるようになった。
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4代目朝潮、鈴木瑞穂、河合幹雄他ー2023年11月の訃報③

2023年12月07日 20時33分40秒 | 追悼
 2回で終わるはずが、2回目を書いてるうちに長くなってしまい疲れてしまった。2回目は大して疲れないけれど、1回目のキッシンジャー、池田大作に気を遣ったのである。疲れたら頑張らないで止めたいと思う。 

 大相撲の元大関で前高砂親方の4代目朝潮(本名長岡末広)が11月3日に死去、67歳。近畿大時代に2年連続でアマチュア横綱となり、高砂部屋に入門した。78年春場所に幕下付け出しで初土俵、幕下、十両を2場所で通過した。強烈な突き押しで活躍し、三賞を14回獲得している。(敢闘10回、殊勲3、技能1)。北の湖から千代の富士が活躍した時代で、なかなか大関昇進を果たせなかったが、83年春場所後に大関に昇進。85年春場所でただ1回の優勝を果たした。
(4代目朝潮太郎)
 89年春場所で引退、若松親方を経て高砂部屋を継承した。横綱朝青龍、大関朝乃山を育てたが、どちらも不祥事を起こしたし、自身もコロナ対策違反で角界を去ることになった。監督責任を問われることが多かったが、それもまた持ち味みたいな気の弱さが魅力でもあった。80年代初めに大相撲の升席券をもらって家族で見に行ったことがある。今月の中でナマで見ている唯一の人。
・高校野球指導者の石井好博が11月26日に死去、74歳。1967年夏に千葉県習志野市立習志野高校の選手として、千葉県勢初の優勝を果たした。1972年に母校の監督に就任し、1975年夏に全国優勝した。

 俳優、声優の鈴木瑞穂が11月19日に死去、96歳。昔の映画を見ると、実に多数の名作に脇役として出ている。何しろ1952年に劇団民藝に参加したというから長い経歴の人で、正直まだ存命だとは思っていなかった。71年に民藝を退団して、72年に劇団銅鑼を設立し代表を務めた。62年に『るつぼ』で芸術祭奨励賞、2006年に『夜の来訪者』『女相続人』で紀伊國屋演劇賞を受賞。映画では山本薩夫監督や熊井啓監督作品でよく出ていて、弁護士や警察中堅幹部みたいな役が多かったが、70年代半ば以降は大臣や校長などの役を安定して演じていた。また数多くの外国映画で吹き替えを担当している。『ゴッドファーザー』のマーロン・ブランドや『スターウォーズ』のダーズベイダーなど。
(鈴木瑞穂)
・俳優、日本舞踊家の花ノ本寿が11月4日に死去、84歳。58年に松竹から美少年俳優として売り出されたが、やがて家業の日本舞踊に専念し、15世花ノ本流宗家を継いだ。映画俳優としては実相寺昭雄監督の『無常』『あさき夢みし』に出ていたことが記憶にある。武智鉄二監督作品にもよく出ていて、問題化した『黒い雪』では主演を務めていた。
千葉一彦、11月12日死去、91歳。映画美術監督。『幕末太陽傳』『八月の濡れた砂』などを担当した人である。

 学者としては、法社会学者の河合幹雄が11月26日に亡くなったのには驚いた。63歳。桐蔭横浜大学教授で副学長だった。訃報を見て初めて知ったが、河合隼雄が父だった。「法社会学」というと遠い感じがするかもしれない。しかし、河合の著書『安全神話崩壊のパラドックス―治安の法社会学』(2004、岩波書店)は、犯罪白書などの基本データを分析しながら、確かな「エビデンス」に基づき「治安の悪化」「犯罪増加」などの根拠なきイメージを批判している。現実的な意味があると同時に、知的な興奮を呼ぶ稀有の業績だった。『日本の殺人』(2009、ちくま新書)も重要で、日本が殺人が非常に少ない社会であることを論証している。「犯罪」に関して何かを述べる際には必読の本である。一般書が少なかったが、もっと多くの人に読まれて欲しい。
(河合幹雄)
 歴史学者の岩井忠熊が11月4日に死去、100歳。立命館大学名誉教授。日本近現代史を専攻し、近代天皇制に関する研究書がいくつもある。また『大陸侵略は避け難い道だったのか - 近代日本の選択』(1997)などの一般書も出している。最晩年になって、京大から学徒出陣で召集っされ、「特攻」から生還した体験を語るようになった。特攻兵器「震洋」部隊に配属され沖縄へ向かう途中で輸送船が魚雷で沈没し、3時間漂流後に辛くも救助されたのである。2歳年上の兄も慶大から出征し「特攻」兵器を経験し生還した。2020年には『特攻 最後の証言 100歳・98歳の兄弟が語る』(河出)を出版して話題となった。
(岩井忠熊)
佐藤正英、倫理思想史学者、11月9日死去、87歳。東大名誉教授。『歎異抄』を研究し、『親鸞入門』(1998、ちくま新書)などがある。他に『日本の思想とは何か-現存の倫理学』(2014、ちくま選書)など。また、ちくま学芸文庫の『葉隠』『甲陽軍艦』『五輪書』『風姿花伝』などの校訂を行っている。
・外国ではフランスの歴史学者エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリが11月22日に死去、94歳。政治や戦争などの「大きな歴史」ではなく、民衆生活や習俗の移り変わりなどを通して時代相を探る社会史を研究した。そのような立場の「アナール派」の代表的な一人。日本では80年代以後に紹介され、『新しい歴史 歴史人類学への道』(1980翻訳)は読んだ記憶がある。『気候と人間の歴史』全3巻など、歴史学として気候を論じた先駆者である。
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伊集院静、山田太一、三木卓、KAN他ー2023年11月の訃報②

2023年12月06日 22時32分44秒 | 追悼
 2023年11月の訃報、2回目。11月は作家の訃報が多かったので最初に。最初に報じられたのが伊集院静だった。11月24日死去、73歳。様々な伝説に彩られた人だったが、取りあえずは1992年に『受け月』で直木賞を受賞した作家である。まずCMディレクターとして知られ、また1984年に女優夏目雅子と結婚した人として知ったわけだが、夏目雅子は1年後の85年に白血病で亡くなった。1992年に女優の篠ひろ子と再々婚し、96年から篠の出身地・仙台に住んでいた。代表作に『機関車先生』『いねむり先生』『琥珀の夢』などがあるが、読んでない。近藤真彦の『ギンギラギンにさりげなく』『愚か者』など作詞でも活躍した。競輪、麻雀などギャンブル好きで知られ「最後の無頼派」と呼ばれていた。
(伊集院静)
 続いて脚本家、小説家の山田太一が11月29日に死去、89歳。僕は今まで書いているようにほぼテレビドラマを見てないので、書くことが出来ない。しかし、代表作として朝ドラ『藍より青く』(1972)、『男たちの旅路』(86)『岸辺のアルバム』(77)、大河ドラマ『獅子の時代』(80)、『ふぞろいの林檎たち』(1983)などがあり評判は聞いていた。小説では『異人たちとの夏』(1987)で山本周五郎賞。他に『飛ぶ夢をしばらく見ない』(1985)など多数があり、脚本集も多い。映画では自作の映画化『異人たちとの夏』の他、『キネマの天地』『少年時代』など。テレビ関係の賞を数多く受賞していて、業績の大きさがわかる。早稲田大学教育学部卒で、寺山修司と同窓の友人だった。病気で入院中の寺山と交わした書簡集も出ている。
(山田太一)
 芥川賞作家の三木卓が11月18日に死去、88歳。「満州」からの引き揚げ体験を基にした『』(1972年)で芥川賞。『砲撃のあとで』(73)など戦争体験を書いて注目されたが、それ以前に詩集『わがキディ・ランド』(70)などで詩人として知られていた。破傷風にかかった娘を描いた『震える舌』は映画化され注目された。僕は若い頃にかなり読んでいて、『かれらが走りぬけた日』(78)や『野いばらの衣』(79)の素晴らしさは忘れがたい。しかし、後の作品『路地』や『K』を読んでない。また児童文学も多く、『真夏の旗』(71)は素晴らしかった。翻訳やエッセイも含めて、もっと高い評価が必要な作家だと思う。
(三木卓)
 SF作家の豊田有恒(とよた・ありつね)が11月28日に死去、85歳。初期SF作家としてテレビアニメ『エイトマン』の脚本を担当、認められて虫プロで『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』の脚本を書いた。作家としては『モンゴルの残光』(67)に始まるシリーズなど多数の作品がある。邪馬台国論争など古代日本を舞台にした作品も多い。原発支持など反左派的な論客だった。
(豊田有恒)
・他にも第1回ファンタジーノベル大賞を『後宮小説』(89)で受賞した酒見賢一が7日に死去、59歳。他に『墨攻』(91)『陋巷に在り』シリーズなど中国を舞台にした作品を書き続けた。
・外国ではイギリスの作家A・S・バイアットが16日に死去、87歳。『抱擁』(90)でブッカー賞を受けた。映画化され日本でも公開されたが、映画はともかく原作は非常に面白い傑作だった。

 谷村新司以来歌手の訃報が続いているが、11月12日にKANが61歳で死去したニュースには驚いた人が多いだろう。死因がメッケル憩室ガンという珍しいものだったことも話題となった。なんと言っても90年の『愛は勝つ』の大ヒットで知られるが、この歌は震災後にも歌われた。シンプルな歌詞が力強く、皆で歌える元気ソングとして永遠に残るだろう。公表が逆になったが、大橋純子が9日に死去、75歳。『たそがれマイ・ラブ』『シルエット・ロマンス』(81、レコード大賞最優秀歌唱賞)などで知られた。
(KAN)(大橋純子)
・音楽関係では作詞家の三浦徳子が6日死去、75歳。松田聖子の『青い珊瑚礁』を作詞した人である。他に『みずいろの雨』(八神純子)、『お嫁サンバ』(郷ひろみ)などがある。80年代アイドルの歌詞を多数手がけたことで知られる。
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キッシンジャー、池田大作、細田博之他ー2023年11月の訃報①

2023年12月05日 22時46分04秒 | 追悼
 2023年11月の訃報特集。11月は1回で済むかと思っていたのだが、月末に重要な訃報が集中した。外国人の訃報は少なかったので、内外ではなく「政財界」と「芸術・スポーツ」で分けたいと思う。1回目は誰から書くべきか迷ったが、世界的視野で見ればキッシンジャーだろうなと思った。まあ、若い人だと知らないかもしれないけど。アメリカの元国務長官元大統領補佐官の国際政治学者、ヘンリー・キッシンジャーが11月29日に死去。なんと100歳という長寿だった。1969年から1975年まで国家安全保障問題担当大統領補佐官、1973年から77年にかけて国務長官を務めた。共和党のニクソン、フォード両政権の時代である。
 (キッシンジャーとニクソン大統領)
 もう半世紀前のことになるが、キッシンジャーは確かに世界を変えた。そのことで今に至るも伝説的な存在になってきた。その最大の「業績」は1971年7月の中国秘密訪問である。冷戦下で長く対立していた中国を秘密裏に訪れ、72年のニクソン訪中を決めた。ベトナム戦争解決のため中ソの対立を利用する政治的リアリズムである。この方針は日本など「同盟国」に事前に知らされず、発表されたときには当時の佐藤栄作政権に激震が走った。その当時のことはよく記憶している。1973年にはベトナム戦争終結のための「パリ和平協定」を締結。北ベトナムのレ・ドク・トとともに同年のノーベル平和賞を受けた。
(周恩来と)
 1923年、ドイツに生まれたが、ユダヤ系だったためナチスを逃れて1938年に一家でアメリカに逃れた。ハーバード大学で国際政治学を学び同大学で教えていたが、60年代に政界と関わり始めた。77年の国務長官退任後も外交を論じることが多かったが、一貫して大国同士のパワーバランスを重視した。小国を軽視する「人権」軽視外交であり、批判的に振り返る必要がある。ただ中国は「老朋友」として重視して、2023年に100歳で訪中したときも習近平が会談した。毛沢東、習近平の双方に会っているのである。
(習近平と)
 創価学会名誉会長池田大作が11月15日に死去、95歳。日本人なら誰でも知ってる名前だが、ではどう評価するべきかは難しい。創価学会員には非常に重大な魂を揺るがす訃報だろうが、非会員にはそれほどの意味はない。ただ「公明党」を結成したことで、立場はともかく多くの人に影響がある人物だった。創価学会は日本で公称世帯数827万、海外で280万人を組織していると言われる。近年の公明党の得票数から見ても、これは過大な数字だろう。それでも戦後日本で最大の宗教団体を組織したのは間違いなく、その原動力が1960年に39歳で第3代会長になった池田大作にあったのは確かだ。
(池田大作)
 大勢力となって政界進出を図り、1961年に公明政治連盟、1964年に公明党を結成した。しかし、1970年の「出版妨害事件」を機に政教分離を表明した。その後の様々なことを書いていると長くなるから省略する。聖教新聞に小説『人間革命』『新・人間革命』を1965年から2018年まで断続的に連載、日本最長の新聞小説とされる。2018年段階で、合わせて5400万部刊行とWikipediaに出ている。司馬遼太郎『竜馬がゆく』(2450万部)を大きく越えて、日本で一番売れた「小説」なんじゃないかと思う。世界的な著名人と対談していて、その中にはキッシンジャーとの写真もあった。
(池田大作とキッシンジャー)
 なお、教義面には深入りしないが(よく理解していない)、「日蓮宗」と「日蓮正宗」(にちれんしょうしゅう)が違うことを認識していない人がいるので一言書いておきたい。日蓮宗は仏教の一派だが、日蓮正宗は日蓮を本仏とする「仏教系」宗教である。日蓮の高弟日興に始まるが、日蓮宗は認めていない。創価学会は日蓮正宗の在家信徒集団だが、宗門との関係が悪化して、1991年に宗門から破門処分になった。そのため、学会員の葬儀に僧侶を呼べなくなり「友人葬」を行っている。

 第78代衆議院議長の細田博之が11月10日に死去、79歳。官房長官や自民党幹事長も務めた大物だけに、2021年に衆議院議長に就任したときは期待されていた。それが旧統一協会問題やセクハラなどにちゃんと答えることをせず、「晩節を汚した」印象が残ってしまった。死去直前に議長を辞任したときも、選挙には出ると言って驚かされた。健康にこれほど大きな問題があるとは自分でも思ってなかったのかもしれない。しかし、今「安倍派」と呼ばれている派閥はちょっと前まで「細田派」だったのである。いろんなものを墓場に持って行ってしまったなと思う。
(細田博之)
 元衆議院議員で文部大臣、自治大臣を務めた保利耕輔が11月4日死去、89歳。衆議院議長や官房長官を務めた保利茂の死去により、1979年の衆院選に出馬して当選し、以後12回連続当選した。2005年に郵政民営化に反対して無所属で当選し、自民党を離党した。しかし、国民新党には加わらず、2006年に復党を申請、認められた。福田康夫、麻生内閣では政調会長に就任し、民営化法案反対派の中でも一番「復活」した人だろう。
(保利耕輔)
 財界人から。野村證券元社長の田淵義久が11月8日に死去、91歳。バブル期に業績を大きく伸ばしたが、91年に大口顧客への損失補填や暴力団幹部との取引が発覚して辞任した。初代郵政公社総裁を務めた生田正治が11月13日に死去、88歳。商船三井会長から2003年に郵政公社総裁に就任。小泉首相から請われて、民営化直前の困難な時期に総裁を務めた。三井住友フィナンシャルグループ社長の太田純が11月25日に死去、65歳。金融界のデジタル化を推進したという。
(田淵義久)(生田正治)(太田純)
鶴羽肇、11月12日死去、91歳。ツルハホールディングズ初代会長。北海道旭川の薬局から始まり、ツルハドラッグを日本一のドラッグストアチェーンに育てた人である。
若林正俊、11月11日死去、89歳。元衆議院、参議院議員で、環境相、農林水産相を務めた。この人は3つの珍しいエピソードを持っている。まず、2006年に農林水産相を臨時で「3ヶ月に3回」務めた。たまたま閣僚の死亡、辞任などが重なり環境相ながら農水相臨時代理を務めた。また、2009年の「政権交代選挙」後の首班指名で、麻生首相が敗北して辞意を表明していたため、参議院議員会長だった若林が自民党の首班候補となった。そんな有力議員だった若林が、2010年に席を外していた隣席の青木幹雄のボタンを採決時に押してしまった。一人二票を行使した「前代未聞の不祥事」で、これで議員辞職することになったのである。

 元アメリカ大統領ジミー・カーターの妻、ロザリン・カーターが11月19日に死去、96歳。1946年に海軍軍人だったジミー・カーターと結婚。退役後にジョージア州で家業(ピーナツ栽培)を営みながら、州議会議員、州知事となった夫の政治活動を支えた。その間に福祉政策の助言者として大きな役割を果たしている。ファーストレディ時代(1977から1981)にも閣僚会議に参加するなど大きな存在感を発揮した。1980年にカーターがレーガンに敗れた後も、女性運動家、人権運動家として活動を続けていた。
 (ロザリン・カーター)
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