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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

2014年の訃報から、こんな人がいた!ー山田昭男、山下道輔、篠塚良雄、大塚明彦

2025年08月21日 20時33分10秒 | 追悼

 最近ずっと過去記事の見直しをやってて、もう残して置かなくてもいいなという記事はどんどん削除している。読もうとして、もう見つからない記事が増えているのは、そういう事情である。基本的にどのカテゴリーもかなり減らしたが、「追悼」として毎月まとめている訃報特集は、その性格上削除しにくい。いつから月ごとにまとめているのか、自分でも覚えていなかったが、今回見直してみたら「2014年」以後の訃報特集を書いていることが判った。(それ以前は個別に書いていて、中身が薄い記事は削除した。)

 ノンフィクション作家の阿奈井文彦さんは、若い頃に参加したFIWCの韓国ワークキャンプで知り合った。もう大分前に亡くなったが、それがいつかと言われても思い出せない。今回昔の訃報記事を読み直していて、2015年3月9日に追悼記事を書いていた。もう10年経ったのか。その後6月になって追悼の会が行われた。『 アホウドリが飛んだ-阿奈井文彦さん追悼会』を書いたが、書いておかないと何があったか忘れちゃうから、書いておくと出ていた。その通りで、僕は東中野で追悼会があったことは覚えているけれど、中身については全く覚えていないのである。実は読み直しても思い出さない。そんなものなのかな。やはり記録は大事だ。

 この訃報特集は、当初は「2014年3月の訃報」といった素っ気ないタイトルで書いていた。長く書いているうちに、それじゃ記事内容が後で判らないと気付いて、今は「自分にとって重要な訃報」の個人名を書くようにしている。今回昔の記事も全部書き直して、その月も「蟹江敬三、朝倉摂、宇津井健、大西巨人、安西水丸ー2014年3月の訃報」と変えた。ところで、そうやって読み直していると、自分でも忘れてるような、そう言えば「こんな人がいたんだ」という人に巡り会ったので、是非再掲してみたい。

 まず2014年7月30日に亡くなった山田昭男氏である。名前でも「未来工業創業者」でも知る人は少ないだろう。

未来工業創業者で相談役の山田昭男(7.30没、82歳)が死去した。と言っても知らない人が多いだろう。もともとは岐阜で活動していたアマチュアの「劇団未来」だったのである。演劇では食べていけないことから、1965年に劇団の仲間4人で資本金50万円の会社を設立。それが電設資材メーカーとして、順調に発展していった。「残業禁止」「年間140日の休日」など他の企業に見られない経営で知られ、地域文化への貢献も続けてきた。会社のホームページを見ると、ロシアの国立モスクワマールイ劇場「桜の園」とかアントニオ・ガデス舞踏団「カルメン」の公演を行うなど、ちょっとビックリ。

(山田昭男)

 「グループの行動基準」というのが素晴らしく、ちょっと紹介すると「企業活動において不公正な競争は行いません」「従業員の人権を尊重するとともに良好な職場環境の維持を図り、災害等が起こらないよう努めます」などと言った具合。そんな会社が果して儲かるのかと心配する人もいると思うけど、この未来工業は「名証2部」ではあるけれど、れっきとした上場企業なのである。8月1日付の株価は、1540円。単位株は100株なので、15万4000円で買える。(証券会社の手数料等は除く)。一株当たりの配当は会社予想で42円。ちゃんと利益も上げていて、配当性向もいいではないか。この未来工業という存在は、「そんな夢みたいなこと言っててどうするんだ」などと訳知り顔で語る輩のくだらなさを証明している。青春時代の夢は、確かに演劇では実現できなかったけれど、こういう会社を作り上げることで実を結んだ。そういう会社を作ったのが、山田昭男という人だったのである。

 次にハンセン病療養所多磨全生園のハンセン病図書館を整備した山下道輔さん。いわゆる「活動家」じゃなかったけど。

★僕の心に残る人として、山下道輔さんが死去した。(10.20没、85歳)朝日に訃報が載ったが、「肩書き」は「国立ハンセン病療養所多磨全生園入所者」となっている。これは「肩書き」と言えないが、公的な役職に就いた人ではないので他に書きようがないのだろう。山下さんは、全生園でハンセン病図書館に拠って、ハンセン病資料を集め続けた人である。各地の自治会資料や新聞記事などを丹念に集めて、散逸しないように努めた。ハンセン病関係の知名人では、療養所の自治会活動や国賠訴訟の活動、さらに小説や詩が評価されたり、ハンセン病問題を当事者として告発するとか…。山下さんは直接そういう活動をした人ではなく、「縁の下の力持ち」的に図書館を守り続けた。大きな集会があると、集会で皆に呼びかける方ではなく、ロビーの書籍売り場で本を売った。そういう形で「ハンセン病問題」を残した人である。ハンセン病問題に関心を寄せる人なら、多くの人に慕われていた。心に残る人である。
(山下道輔)

 次に篠塚良雄さんも挙げておきたい。かつて「731部隊展」に関わったときに何回か話も聞いている人である。

★あまり知られていない人だろうが、篠塚良雄さん(4.20没、90歳)の訃報を最後に書いておきたい。この人は、千葉県に生まれ、同郷の石井四郎の作った関東軍第731部隊の少年隊員となったのである。その仕事はなんと細菌兵器を作るというものだった。少年時代の残虐な出来事を忘れられず、731部隊の出来事の証言活動を続けてきた。僕は「731部隊展」に関わった時に篠塚さんの話は何回か聞いている。誠実な人柄を偲ばせる証言だったと思う。アメリカでも証言しようとしたのだが、米国は戦争犯罪に関わったとして、入国ビザを出さなかった。自国の戦争犯罪隠ぺいを暴かれるのが怖かったのだろうか。日本の細菌戦は戦犯裁判で裁かれず、情報はアメリカ軍が独占し、朝鮮戦争では実戦にも使われたという疑惑がささやかれている。

(篠塚良雄)

 最後に大塚明彦氏。大塚ホールディングズ会長だったから、今までの人に比べれば名を知られているだろう。しかし、この人の業績と言われて、すぐに答えられる人がどのぐらいいるだろう。日本人の食生活を変えたと言って良い人である。

★大塚ホールディングス会長、大塚明彦(11.28没、77歳)は、「ボンカレー」を発案した人だが、「ポカリスエット」「カロリーメイト」もこの人だったか。そうすると現代日本に大きな貢献をしたことになる。「オロナミンC」「ソイジョイ」もある。でも、98年に新薬開発をめぐる贈賄事件で有罪になったと書いてある。それほどの事件なら当時報道で知っていたはずだが、全く覚えていない。忘れてしまうもんである。でも、そういう経歴があると、死後も叙勲などはないんだろう。大塚グループは徳島にあり、陶板画で名画を複製した大塚国際美術館が鳴門にある。
(大塚明彦)

 大塚国際美術館は、その後2018年の紅白歌合戦で米津玄師がここで歌って有名になった。ボンカレーは最初のレトルトカレーで、ポカリスエットは最初のスポーツドリンクである。ただの商品でなく、市場に初の商品を売り出して成功させたのが凄いのである。ちなみに一番最初の未来工業の本日付株価を調べてみたら、3880円で倍以上になってる。配当予想も130円と倍以上。

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和泉雅子、上条恒彦、玉井義臣、都出比呂志他ー2025年7月の訃報

2025年08月05日 20時03分37秒 | 追悼

 2025年7月の訃報は内外を1回でまとめて。俳優で冒険家の和泉雅子が7月9日死去、77歳。この人のトークは前に聞いたことがあり、その時のことは『和泉雅子、加藤武、曽根中生のトークショーを聞く』に書いた。今までに聞いた中で最も面白いトークで、よく覚えている。2013年2月、東銀座の三原橋交差点地下にあった「銀座シネパトス」で行われた「銀座映画特集」である。和泉雅子はまさに銀座生まれの「チャキチャキの江戸っ子」。何しろ「美空しばり」と言うので驚いた。子役からスタートし、60年代に日活映画で活躍した。吉永小百合、松原智恵子と共に青春スターとして活躍した。浦山桐郎監督『非行少女』(1963)が代表作。

(和泉雅子)

 歌手としても山内賢とデュエットした『二人の銀座』が大ヒットし映画化された。テレビ番組で南極を訪問したことから、冒険心に火が付き北極点到達を目指した。1985年には一度失敗しているが、1989年に再チャレンジして、北極点上に到達した。その後も北極地方によく出かけるとともに、登山を趣味とした。著書も多い。下の画像の映画『若草物語』では長女芦川いづみ、次女浅丘ルリ子、三女吉永小百合の一番下の四女を演じた。上の三人が存命なのに一番先に亡くなるとは。

(『若草物語』、右から二人目)

 歌手、俳優の上條恒彦(かみじょう・つねひこ)が7月22日死去、85歳。1971年に「六文銭」と歌った「出発(たびだち)の歌」がヤマハ主催の世界歌謡祭で優勝してヒットした。72年には市川崑監督の連続テレビドラマ『木枯らし紋次郎』のテーマ曲「だれかが風の中で」もヒット。新しいタイプの時代劇として大評判になり、テーマ曲も実に新鮮で共感を呼んだ。僕はその印象が一番強い。圧倒的な歌唱力で突然出て来た歌手という感じだった。その後はテレビドラマ(「三年B組金八先生」など)やミュージカル(『ラ・マンチャの男』『屋根の上のバイオリン弾き』など)、声優(『千と千尋の神隠し』など)、多方面で活躍してきた。 

(上条恒彦)

 「黒猫のタンゴ」を歌った皆川おさむが7月23日死去、62歳。おばが創設したひばり児童合唱団に所属、1969年にレコードデビューした「黒猫のタンゴ」は200万枚以上の大ヒットとなった。60年代に活躍したアメリカの歌手コニー・フランシスが7月16日死去、87歳。日本では「可愛いベイビー」で知られるが、「ヴァケイション」などヒット多数。多くの歌手がカバーしている。この歌でスペルを覚えた人も多いだろう。夏休みになると昔はよくラジオで掛かっていた。夏休みが待ち遠しかった頃の懐かしい歌。

 (皆川おさむ)(コニー・フランシス)

 「ヘビーメタルの帝王」と呼ばれたイギリスの歌手、オジー・オズボーンが7月22日死去、76歳。1968年に地元バーミンガムで「ブラック・サバス」を結成、70年に出した同名のアルバム「黒い安息日」がヘビーメタルの象徴と言われるようになった。

(オジー・オズボーン)

 芸能評論家の矢野誠一が7月23日死去、90歳。1962年に「落語精選会」をプロデュースして知られた。また桂米朝の東京初の独演会を企画して東京で知られるきっかけを作った。落語を中心に諸芸能を幅広く論じて多くの著書がある。文化功労者。音楽評論家の渋谷陽一が7月14日死去、74歳。72年に音楽雑誌『ロッキング・オン』を創刊し、86年には『ロッキング・オン・ジャパン』を立ち上げ、日本を代表する音楽雑誌に育てた、ロック・フェスの企画やラジオ番組のDJとしても活躍した。

(矢野誠一)(渋谷陽一)

 芸能関係では上方歌舞伎俳優の片岡我當(がとう)が5月11日死去、90歳。片岡仁左衛門の兄。劇団四季創立に参加した舞台照明家の吉井澄雄が2日死去、92歳。俳優の中山麻理が12日死去、77歳。「サインはV」の主人公のライバル役で人気を得た。俳優の遠野なぎこが死去、45歳。(発見日3日)朝ドラ「すずらん」のヒロイン役。アメリカの俳優マイケル・マドセンが3日死去、67歳。『レザボア・ドッグス』『キル・ビル』などタランティーノ作品の常連。アメリカの舞台演出家、劇作家、ビデオ・アーティストのロバート・ウィルソンが31日死去、83歳。76年の『浜辺のアインシュタイン』で知られた。高松宮記念世界文化賞受賞。

 「あしなが育英会」を創設した社会運動家、玉井義臣(たまい・よしおみ)が7月5日死去、90歳。母親が交通事故にあったことをきっかけに「交通評論家」を名乗って社会活動を始めた。1969年に交通遺児育英会を設立し大きな団体に育てた。しかし、90年代になって運輸省官僚の「天下り」で組織が硬直化すると、93年に独自の民間組織「あしなが育英会」を創設し、交通事故だけでなく災害や病気、自死などで親をなくした子どもへの支援を行った。2016年、吉川英治文化賞受賞。社会学者副田義也の著書『あしなが運動と玉井義臣』は自立的な非営利団体がいかにして国家官僚に乗っ取られていったかを証した痛憤の書である。多くの人が駅前で行われる「あしなが募金」を見聞きし、募金した記憶があるのではないか。玉井義臣一人がゼロから作りだした事業である。

(玉井義臣)

 考古学者の都出比呂志(つで・ひろし)が7月18日死去、83歳。大阪大名誉教授。古墳時代の研究で知られ、「箸墓古墳」成立を古墳時代の始まりと考えた。巨大前方後円墳の成立をもって「初期国家」が成立し、各地の首長と身分的な編成が成立したとする「前方後円墳体制」を提唱したことで知られる。岩波新書『王陵の考古学』を読んで、刺激的な論考だと思った記憶がある。

(都出比呂志)

 児童文学者の岩崎京子が7月10日死去、102歳。1969年の『鯉のいる村』(芸術選奨文部大臣賞)、73年の『花咲か』(児童文学者協会賞)などで知られる。自然への愛を盛り込んだ民話風の作品が多い。民話の再話『かさこじぞう』でも知られる。

(岩崎京子)

 2012年のロンドン五輪レスリング女子48キロ級金メダリストの小原日登美(おばら・ひとみ)が18日死去。44歳。世界選手権で8度優勝。日本でも活躍したプロレスラー、ハルク・ホーガンが24日死去、71歳。80年から新日本プロレスに参戦しアントニオ猪木らと対戦した。そういえばそういう人がいたなと思ったけど、近年はトランプ大統領の熱心な支持者として知られていたという。

(小原日登美)(ハルク・ホーガン)

 『黒澤明vs.ハリウッド』で大佛次郎賞を受賞したジャーナリスト田草川弘(たそがわ・ひろし)が2024年7月30日に死去していた。陶芸家で人間国宝の井上萬二が14日死去、96歳。佐賀県の有田焼である。フードサービス事業大手のシダックス創業者志田勤が9日死去、90歳。模型のタミヤ会長の田宮俊作が18日死去、90歳。静岡をプラモデルの街として有名にした。電子工学で文化勲章の岩崎俊一が25日死去、98歳。ハードディスクドライブ(HDD)の容量を飛躍的に高める垂直磁気記録方式を開発した。

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「聖人」への道、長嶋茂雄の人生②白秋・玄冬編

2025年07月09日 22時39分00秒 | 追悼

 長嶋茂雄は1974年限りをもって引退を決意した。その年の成績を調べると、108安打、15ホームラン、打率.244で、全盛期に比べれ見劣りするもののまだ余力は残していた。そういう時、まだ惜しいと言われるうちに引退したいという美学だと思う。38歳だった。そして最終戦終了後の10月13日、後楽園球場で「引退セレモニー」が行われた。その時に有名な「我が巨人軍は永久に不滅です」というフレーズが述べられた。この時点では「ミスタージャイアンツ」ではあっても、まだ「ミスタープロ野球」ではなかったのである。僕はその日のテレビニュースで聞いたと思うけど、別に巨人ファンじゃないから心に響く言葉じゃなかった。

(引退セレモニー、1974年10月)

 1974年セリーグは中日が優勝し、巨人は10連覇を逃した。これをもって川上哲治監督は退任し、引退したばかりの長嶋が監督に就任した。ところが1975年の巨人はなんと最下位に沈んだのである。いろいろと長嶋采配が批判されたが、基本的には「長嶋無きジャイアンツ」を率いるという問題を解決出来なかったのである。すでに1965年からドラフト制度が実施されていて、巨人だけに有望な新人が集中する時代ではなく各チームの戦力は平均化しつつあった。それにしても監督が代わった直後に初の最下位という劇的変化も、デビュー戦で金田に対して4連続三振だった長嶋だけのことはある。新鮮な驚きがあったものである。

 76年、77年はリーグ優勝したものの日本シリーズでは敗れた。78年(2位)、79年(5位)、80年(3位)と3年連続優勝を逃したことに読売本社内で批判が高まり、「辞任という名の解任」となり読売・報知新聞の解約が相次いだと言われる。後任は元投手の藤田元司で、この年限りで引退した王貞治が助監督になった。81年は優勝して日本一にもなり、82年は2位だったものの83年はまた優勝して、王監督に交代した。王は5年間で優勝一回だったため、89年に再び藤田が監督に戻って2年優勝するも91、92年と優勝を逃した。こうして、「常勝」を義務づけられたジャイアンツでは、1993年から2001年まで二度目の長嶋監督体制となったのである。

 巨人の成績を詳しく見たけれど、実はこの経緯こそ長嶋の人生だけでなく日本社会にとっても大きかったのである。「放逐」と「復活」というギリシャ悲劇のような、あるいは源氏物語のような「王権の構造」が長嶋を神話化していくのである。そして、それは大量の長嶋ファンがこの復活を支えたわけである。彼らは単に巨人ファンというだけでなく、やはり長嶋ファンだったのである。そして、関東地区における読売新聞の販売戦略上、読売は長嶋を無視できなかった。朝日、毎日が高校野球を主催しているのに対し、読売新聞はまずジャイアンツの親会社なのである。その時点で、最大の拡販材料は「巨人戦チケット」だったのである。

(「メークドラマ」1996年10月6日)

 第二次長嶋監督時代の巨人の成績は3位、1位、3位、1位、4位、3位、2位、1位、2位だった。優勝3回(そのうち日本一2回)でBクラスは一回だけなのだから、二度目の監督は成功というべきだろう。だが順位に止まらない大きなドラマがあった。それが1996年の「メークドラマ」で、広島に最大11.5ゲーム差がありながら7月以降の快進撃で「奇跡の大逆転優勝」を成し遂げた。その時のキャッチフレーズが「メークドラマ」で、こんな英語はないと言われながら(本人も自覚していた)その劇的ドラマを象徴する言葉となり、その年の新語流行語大賞の年間大賞となった。これが「長嶋神話」の決定打となったと思う。

(ON対決)

 2000年には監督として現役時代の背番号3を付け、並々ならぬ決意を示して優勝した。ダイエー・ホークス(南海ホークスが九州に移転、現ソフトバンク)が王貞治を1995年に監督に招へい、しばらく低迷するものの1999年に34年ぶりに優勝。2000年はただ一回だけの監督としての「ON対決」となり大きな評判となった。(日本シリーズは4勝2敗で巨人が日本一。)そして2001年限りで監督を退任、アテネ五輪優勝を目指す日本代表強化委員長となった。2003年11月のアジア選手権で優勝し五輪出場権を獲得したが、2004年3月4日に脳梗塞で倒れ、結局はアテネで指揮をすることは適わなかった。(結果は3位だった。)

 この68歳の病気までが「白秋」で、以後が「玄冬」期となるだろう。そして、この時期こそが実は長嶋が真に長嶋になった時期なのだと思う。それまで一貫して「読売ジャイアンツ」一筋、つまり偉大であっても私企業にしか関わってこなかった長嶋が、初めて「国家的肩書き」を持って成功へ歩み出した途端に病に倒れた。そこで「神話化」から「聖人化」へと進んで行く。聖人と言っても何も完全不可欠な人間という意味ではなく、カトリックの「聖人」に近い。昔なら長嶋神社に祀られたかもしれないような「神格化」と言っても良い。カトリックでは「列聖」運動が行われて、それが認められて聖人に認定される。

 長嶋においても、持ち上げようという動きが読売新聞を中心に行われた。例えば東京ドームに野球観戦に訪れ読売グループが独占取材する。2004年11月4日には皇居で天皇・皇后と懇談している。2005年には文化功労者に選ばれた。(川上哲治に続くプロスポーツ界2人目。)そして2013年には松井秀喜とともに国民栄誉賞を受けた。国民栄誉賞というのは、1977年に王貞治のホームラン世界一達成を顕彰するために新たに作られた賞である。プロスポーツ選手に授与する適当な賞が見つからなかったのである。そのため長嶋茂雄に授与する機会がなかったが、松井と合わせ技で授与というのは安倍内閣と読売グループの思惑があったんだろう。

(東京五輪聖火ランナー)

 そして2021年の東京五輪で不自由な身体ながら王、松井とともに「聖火ランナー」(走ってないけれど)として登場した。世界的にはマイナー競技の野球だが、日本ではやはりスポーツと言えば長嶋が必須だったのである。そして2021年秋に文化勲章を受章した。こうして長嶋の「聖人化」が完成する。たかだかその程度のレベルではあるがプロスポーツ界初の「名誉」なのであり、やはり長嶋には国民的な人気、存在感があったということだろう。選手、監督時代の実績だけを考えれば、「文化勲章」に値するのかと思うけれど、もはや誰もそういうことは言わないし言えない。それほどの神聖なイメージをまとってしまったのである。

(文化勲章受章セレモニー、2023年3月)

 この人生最後の「名誉」は、読売グループや安倍政権の思惑もあったと思うが、それ以上に「リハビリ」の様子が広く伝えられたことが大きいと思う。自分でも頑張ったし、病院や他の患者に対しても「長嶋らしい」陽気な頑張り屋だったらしい。最後まで「長嶋を生きた」のである。だがその「生涯野球選手」という生き方は、必ずしも家族には望ましくはなかったらしく、夫人の苦労は大きかった。亜希子夫人は東京五輪(64年)のコンパニオンだったときに長嶋茂雄が一目惚れしたというエピソードは当時子どもでも知っていた。夫人は2007年に夫に先立って64歳で急逝し、墓所はハワイにある由。だから長嶋一茂はハワイが好きなのである。

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「アイドル」への道、長嶋茂雄の人生①青春・朱夏編

2025年07月08日 22時10分59秒 | 追悼

 2025年6月3日に長嶋茂雄が亡くなった。89歳。その人生を振り返ることは同時代の日本社会を考えることである。だから2回に分けてちゃんと考えてみたい。中国で人生を4期に分けるときの「青春・朱夏・白秋・玄冬」のまず「青春・朱夏」から始める。長嶋はいかにして長嶋になったのか。長嶋茂雄は自分で「長嶋をやっているのも大変なんですよ」と言ってたらしいから、ほとんど「長嶋茂雄が職業」とでもいう人生だった。あえて言えば、「元プロ野球選手」で「読売ジャイアンツ終身名誉監督」となる。監督は名誉職といえど「終身」である。(なお「株式会社読売巨人軍専務取締役」でもあったらしい。)

 生涯に何度もの「」が訪れるが、もっとも代表的なものを二つに絞るなら1959年6月6日の「天覧試合」と、1996年の巨人優勝時の「メークドラマ」だろう。それにしても歴史上ただ一回だけの天皇によるプロ野球観戦という出来事が今も語り継がれるのは、プロ2年目の長嶋によるサヨナラホームランがあったからだ。「伝統の一戦」巨人・阪神戦は抜きつ抜かれつで、9回裏を迎えた時には4対4の同点だった。そして先頭打者の長嶋が新人投手村山からホームランを放って決着したのである。ホームランもそうだけど、同点で先頭打者が回ってくること自体に「運命的」とでも言うべき強運を感じる。イマドキ言葉で言う「持ってる」人だった。

(「天覧試合」でサヨナラ本塁打)

 と言っても僕は特に長嶋ファンでも巨人ファンでもなかった。ジャイアンツは1965年から1973年まで有名なセリーグ「9連覇」をしたが、これは何と僕の小学校4年から高校3年までに当たる。物心ついてからずっと巨人が優勝していたのである。だから巨人ファンになる子どもも多かったわけだが、僕は違った。こんな応援しがいのないチームもない。つまり優勝がほぼ事前に予測出来てしまう球団なんだから。当時良く言われた「巨人・大鵬・卵焼き」の横綱大鵬も同じである。白鵬が登場するまで最多の32回優勝を誇った大横綱だが、強すぎるから僕はファンじゃなかった。応援というのは、弱い方に対して行うべきものだと僕は思っていた。

 「巨人が嫌いな人がいても、長嶋が嫌いな人はいない」は本当だろう。僕も巨人は嫌いだが、長嶋は嫌いではなかった。長嶋は誰もが知る時代のアイコンで、「世界のホームラン王王貞治が孤高の求道者だったの対し、長嶋は打つべき時に打つ「華」があったのである。通算安打2471本(9位、大リーグ通算では13位)、通算ホームラン444本(15位、大リーグ通算では16位)、通算打率3割5厘通算打点1522(7位、大リーグ通算8位)。首位打者6回、ホームラン王2回、打点王5回、MVP5回(2位、1位は王の9回)ともちろん立派な成績ではあるが、数字上は決してベスト級の選手ではない。しかし長嶋は後に「ミスタープロ野球」と呼ばれた。

 この呼び方を「何という冒涜」と嘆くのは蓮實重彦である。朝日新聞に寄せた追悼文で、蓮見氏はそもそも長嶋は(当時はプロ野球より人気があった)「六大学野球のスター」だったのだという。そして六大学野球観戦時に長嶋と目を合わせた(と思い込む)「特権的体験」を語るのである。そして、長嶋がプロ入りしたから、プロ野球が大衆的人気を獲得したのだと述べる。そこまで断言出来るかはともかく、昔は確かに「東京六大学野球」が人気を博していた。そして優勝回数は1位の早稲田から法政、明治、慶応までが40回以上なのに対し、立教13回、東大0となっている。そして立大は長嶋がいた1957年に初の春秋連覇を達成したのである。

(六大学野球で優勝=1957年11月3日)

 僕は1974年10月の長嶋引退セレモニーを覚えてはいるけれど、あまり大きな記憶がない。大学浪人生だったからである。そして翌1975年に図らずも立教大学に入学し、蓮實重彦氏の「映画表現論」という講座を受講することになる。この講義は後に黒沢清らに大きな影響を与えたというが、今は別の話になる。立教大学では当然長嶋ファン、巨人ファンが多かったかというと、全くそんなことはなかった。むしろ1975年は広島カープが史上初の優勝をした年なので、授業が終わったあとで皆で見に行こうとしたぐらいである。もちろん満員で入れなかったが、当時は東京ドームじゃない時代だから場外にまで大声援が聞こえてきたのを覚えている。

 2024年に立教大学に長嶋茂雄を顕彰するプレートが設置された。(「篠懸の小径」にある。)長嶋による学生へのメッセージもあり、よくぞ間に合ったと思う。今までなかったのが不思議といえば不思議だが、むしろ立教大学としては長嶋だけを特別視していなかったのではないかと思う。横綱大鵬は15日間取り組みをして優勝するわけだが、当然当時も他に横綱、大関、関脇、小結などがいたのである。何人の人がそれらの力士の名を記憶しているだろうか。同じように野球はチームスポーツだから、長嶋一人では優勝出来ない。だから他にも有力選手がいたわけだが、訃報のニュースでは全く触れられないのが実に不可解だった。

 (立教大学に設置された記念プレート)

 当時「立教三羽烏」と呼ばれたのが、長嶋と投手の杉浦忠(後、南海)、遊撃手の本屋敷錦吾(後、阪急、阪神)だった。当時の立大野球部では砂押監督の体罰を伴う猛練習が続き、1955年には砂押監督排斥運動が起きた。そういう環境を嫌って長嶋と杉浦が合宿所を抜け出し中日に入りかける事件もあった。ノーヒットノーラン達成の杉浦と最多ホームラン(8本)の長嶋は在学中から注目され、ドラフト制度がなかったので鶴岡一人監督率いる南海ホークスが接触していた。両者ともに南海入団が確実視されていたが、長嶋は最後に翻した。心配になった鶴岡監督が杉浦に訪ねると「心配ですか?僕がそんな男に見えますか?」と言ったという。

(杉浦忠)

 この言葉はWikipediaから引用したが、基本的な事実は当時の子ども野球ファン(ほぼ男子全員)なら大体知っていたのである。杉浦は入団から27勝、38勝、31勝、20勝と活躍を続け、2年目には優勝に貢献してMVPとなった。当時の少年ファンにとって、長嶋だけが特権的に大選手だったわけではないのである。半世紀以上も経つと、「巨人の長嶋、王」だけが特別視、神聖視されていくが、その時代には他の選手のファンも(特に関西では)多かったはずである。

 では「長嶋茂雄とは何だったのか」。「最初の現代的アイドル」だと評する人がいて、なるほどと思った。IT革命というと今ではインターネットだけを指すが、歴史的には何度も「情報技術革命」が起こってきた。新聞、電話、映画、ラジオと続々と登場し、「有名人」が多数誕生する。それらの人々は「スター」と呼ばれた。星だから手が届かないのである。ただ憧れの対象になるだけである。しかし、50年代末から60年代にかけての「テレビの登場」は全く違う新しい社会を切り開いた。何しろ毎日毎日テレビに有名人が出てくるのである。そこでは「隣にいるような」「身近な友だちのような」感覚が重要になってくるのだ。

 そして当時プロ野球は驚くことに、毎日テレビで(ラジオでも)放送されていた。東京では巨人戦である。毎日長嶋と王を見ていたのである。(しかし、中学生ともなると塾が始まり、野球は見られなくなるけれど。)そして孤高の王貞治は「スター」だったのに対し、陽性でお祭り男的な長嶋は確かに「アイドル」に近かった。そして打たないときも愛嬌があり、守備も巧みで、打たなければならない時には(相当の確率で)ヒットを放つ。プロスポーツ選手が「現代的アイドル」になった最初なのかもしれない。

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藤村志保、ジェームス三木、石森史郎、増位山他ー2025年6月の訃報

2025年07月07日 19時44分16秒 | 追悼

 2025年6月の訃報、日本人編。長嶋茂雄はこの後別に書く予定。まず女優の藤村志保が6月12日死去、86歳。1962年市川崑監督『破戒』(大映)でデビュー。原作者の島崎藤村と役名志保から芸名が付けられたのは有名。座頭市や眠狂四郎シリーズなど大映の看板シリーズで、楚々とした娘役で存在感を示した。中でも時代劇の名匠三隅研二監督の文芸女性映画『古都憂愁 姉いもうと』『なみだ川』(ともに1967年)では主演して魅力的。大河ドラマ『太閤記』(1965)のねね役などテレビでも活躍、バラエティ番組にも出たけれど、僕には60年代の魅力的な姿が忘れがたい人である。

(藤村志保)

 脚本家のジェームス三木が6月14日死去、91歳。本名は山下清泉(きよもと)。元々は俳優志望で俳優座養成所に入るも目が出ず、歌手に転向。その時の芸名がジェームス三木だった。歌手も成功せず脚本を書き始め、60年代後半から採用された。『赤い鳥逃げた?』『さらば青春の光』など当時好きだった映画も書いている。しかし、最大の成功を収めたのはテレビの朝ドラ『澪つくし』で最高視聴率55.3%を記録した。他にも大河ドラマ『独眼竜政宗』『八代将軍吉宗』『葵 徳川三代』などで知られる。舞台作品も多数。監督もした『善人の条件』という映画は選挙がテーマで授業で使った。92年には妻から「女性遍歴」を暴露され騒がれた。

(ジェームス三木)

 脚本家の石森史郎(いしもり・ふみお)が6月9日死去、93歳。この人は僕の大好きな斉藤耕一監督『旅の重さ』(1972)の脚本家である。同じ斉藤監督『約束』やその頃の松竹の漫画実写映画『同棲時代』『愛と誠』『博多っ子純情』などもこの人が手掛けていた。その前は日活で活動していたが、松竹に移りその後フリーになった。朝ドラ『水色の時』(1975、大竹しのぶ主演)も評判となり、70年代が活躍の絶頂期。その後は『青春デンデンデケデケ』『理由』など大林宣彦監督とのコンビも多い。多くのテレビドラマも手掛けた他、小説も書いている。原作を巧みに映画向きに仕立てる職人的手腕にたけた人だった。

(石森史郎)

 大相撲の元大関増位山が6月15日死去、76歳。元大関の初代増位山の長男として生まれ、父親の三保ヶ関部屋に入門。技巧派として知られ技能賞5回受賞。80年初場所後に大関に昇進したが、6場所で引退した。当時の大関は貴ノ花ひとりで、直前3場所31勝での昇進となった。史上初の親子大関だったが、大関としてはほとんど活躍出来なかった。しかし、この人はむしろ歌手として知られ、現役時代の1974年「そんな夕子にほれました」(120万枚)、1977年の「そんな女のひとりごと」(130万枚)のレコードが大ヒットした。今の相撲協会では許可されないことだが、結局増位山は演歌歌手として記憶される人だろう。

 (増位山) 

 指揮者で山形交響楽団創設者の村川千秋が6月25日死去、92歳。東京芸大卒業後、アメリカに留学して指揮を学び、1966年に帰国後、東京交響楽団の客演指揮者としてデビューした。その後中央や世界を目指すのではなく、故郷の山形県に1972年に東北初のプロオーケストラ、山形交響楽団を創設。半世紀以上にわたって指揮者として活躍した。『フィンランディア』などシベリウス作品に定評があった。山形県関係の多くの文化賞を受賞している。映画監督村川透の兄にあたる。

(村川千秋)

 三味線奏者で浪曲に合わせて演奏する「曲師」として活躍した沢村豊子が6月18日死去、88歳。玉川奈々福さんの曲師を務めていたので、僕も何度か聞いてる。今月の訃報で実際に接したことがある唯一の人。21年に松尾芸能賞功労賞受賞。福岡出身だが、幼少期から三味線が好きで、戦後すぐから浅草に出て厳しい修行を積んだ。並々ならぬ実力を感じさせる人だった。

(沢村豊子)

 映画会社「ユーロスペース」代表の堀越謙三が6月19日死去、80歳。ドイツに留学してヴェンダース監督の映画と出会い、日本に紹介する場を作った。それが1977年に渋谷に開設した「ユーロスペース」である。最初は「ニュー・ジャーマン・シネマ」を上映したが、後にキアロスタミ、カウリスマキなど世界の映画を紹介した。その後、映画製作にも乗り出し、カラックス、オゾンなどの映画を製作した。97年には「映画美学校」、2005年には東京芸大大学院映像研究科を立ち上げ教授に就任するなど次世代育成にも尽力した。僕は一番最初のドイツ映画上映から(昔の)ユーロスペースで見てきたが、この人の名前は知らなかった。

(堀越謙三)

 映画監督の栗山富夫が6月18日死去、84歳。松竹で『釣りバカ日誌』第1作を監督し、11作担当した人である。他に『祝辞』(芸術選奨新人賞)、『ハラスのいた日々』など。元日活の映画監督武田一成が6月12日死去、94歳。50年代に鈴木清順監督の助監督を務め、67年に監督昇進して、『盛り場流し唄 新宿の女』などを撮った。その後ロマンポルノになると、『おんなの細道 濡れた海峡』『私の中の娼婦』などの佳作を監督。また児童映画『先生のつうしんぼ』(1977)は高く評価された。

(栗山富夫)(武田一成)

 哲学者で「草刈十字軍」運動創設者の足立原實(あだちはら・みのる)が6月30日死去、94歳。東大農学部を卒業し、「地べたの哲学」「土に根ざした思想」を唱えた。富山県の大谷技術短大に職を得て、富山を中心に様々な活動を展開した。1974年に始まった「草刈十字軍」はヘリコプターによる除草剤散布に反対し、ボランティアによって草刈りを行うというもので、当時大きな反響を呼んだ。1997年には加藤剛主演で映画化もされたが、若者の参加が減り2016年で活動を終了した。その他、中国での植林活動なども行った。「農」を基にした哲学を提唱、実践した人だった。「草刈十字軍」って、懐かしいなあと思い出した。

(足立原實)(映画チラシ)

 他に、元京都大総長の宇宙科学者松本紘(ひろし)が15日死去、82歳。元大相撲幕内藤ノ川の服部祐児が6日死去、64歳。マチュア横綱、学生横綱2度獲得で期待されたが、腰痛で東前頭3枚目が最高位だった。気象学者の増田善信が9日死去、101歳。広島原爆の「黒い雨」降雨範囲を従来の4倍とする研究をまとめた。72歳で写真を始めユニークな自撮り写真でインスタグラムフォロワー数38万人の西本喜美子が9日死去、97歳。元競輪選手でもあった。ミステリーや冒険小説の評論家の関口苑生(えんせい)が12日死去、72歳。元森永製菓社長松崎昭雄が25日死去、92歳。元首相夫人安倍昭恵氏の父である。空手家の山崎照朝が22日死去、77歳。「あしたのジョー」の力石徹のモデルとも言われた伝説の空手家で、Wikipediaに長大な説明がある。

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ブライアン・ウィルソン、ブレンデル、ラロ・シフリン他ー2025年6月の訃報①

2025年07月06日 19時41分45秒 | 追悼

 2025年6月の訃報特集。今回は長嶋茂雄を別に2回書き、後はまとめて書くつもりだったが長くなったので内外で分ける。

 まず、ザ・ビーチ・ボーイズの中心メンバーだったブライアン・ウィルソンが6月11日死去、82歳。1961年に兄弟や友人とザ・ビーチ・ボーイズを結成し、「サーフィンU.S.A.」「カリフォルニア・ガールズ」などをヒットさせた。いかにもグループ名らしいゴキゲンなロックミュージックを作詞作曲をしたのがブライアンだった。西海岸の開放的な若者文化を象徴するような音楽だが、彼の本質は実はそこにはなかった。やがて彼はライヴ活動から撤退し作曲とレコーディングに専念し、1966年に『ペット・サウンズ』を発表した。ほぼブライアンのソロ作品で技法的にも世界観的にも当時は賛否両論あったが、現在ではロック史上最高レベルの名盤と評価されている。理解されないブライアンは薬物中毒となり心神不調が続くが、その後ソロで活動し世界ツァーなども行った。

(ブライアン・ウィルソン)(『ペットサウンド』)

 ピアニストのアルフレッド・ブレンデルが6月17日死去、94歳。ベートーベンを中心にモーツァルト、シューベルトなどを理知的で厳格な演奏をすることで知られた。現代的解釈で演奏するのではなく、作曲家の意図を忠実に伝える演奏スタイルだった。20世紀後半を代表するピアニストの一人で、日本でもたびたび公演している。2009年に高松宮記念世界文化賞受賞。

(アルフレッド・ブレンデル)

 作曲家のラロ・シフリンが6月26日死去、93歳。この人は「スパイ大作戦」つまり『ミッション・インポッシブル』のあのテーマ曲を作曲した人である。しかし、それ以上に『暴力脱獄』『ブリット』『ダーティハリー』『燃えよドラゴン』『さすらいの航海』など60年代、70年代のヒット作、名作の音楽を数々担当した人である。グラミー賞4回受賞。アカデミー作曲賞は6回ノミネートも受賞出来ず名誉賞が与えられた。他にもクラシックの指揮、作曲も行い、ジャズピアニストでもあった。元はアルゼンチン出身。

(ラロ・シフリン)

 ロックバンド「スライ&ザ・ファミリー・ストーン」のリーダー、スライ・ストーンが6月9日死去、82歳。テキサス生まれで、当時としては珍しい人種・性別混合のバンドを結成、1967年にデビューした。多様なジャンルの音楽を取り入れ、数多くのヒット曲を生んだが内部のあつれきも多く、75年の解散後はソロで活動した。「ウッドストック」音楽祭に出ていたのを映画で見た。

(スライ・ストーン)

 イギリスの作家フレデリック・フォーサイスが6月9日死去、86歳。ジャーナリストとして活動していたが、1971年に突然小説『ジャッカルの日』を発表、世界的大ベストセラーとなった。フランスのドゴール元大統領暗殺未遂事件を詳細に描き、映画化もされた。これは確かにものすごく面白かった。その後『オデッサ・ファイル』『戦争の犬たち』『悪魔の選択』『第四の核』など多数あるが、結局最初の作品に及ばなかった。日本ではすべて角川書店から出ていた。実はイギリスの諜報部MI6の協力者で、かつ自分でもアフリカのクーデタ計画に関わる(とされた)疑惑もあり、単なるミステリー作家ではなかったらしい。

(フォーサイス)

 フランスの映画監督、作家のフィリップ・ラブロが6月4日死去、88歳。日本では70年代に公開された娯楽映画の監督としてちょっと知られている。『刑事キャレラ 10+1の追跡』やベルモンド主演で最近上映された『相続人』『危険を買う男』、イヴ・モンタン、キャサリン・ロスの『潮騒』などである。しかし、一生を通しては作家やジャーナリストとして活躍した人だったらしい。自伝が高く評価された他、ジャーナリストとしてはアメリカでケネディ大統領暗殺を取材中、ジャック・ルビーがオズワルドを暗殺する瞬間に居合わせて、公式にウォーレン委員会の調査対象となったという。

(フィリップ・ラブロ)

 元ニカラグア大統領ビオレッタ・チャモロが6月14日死去、95歳。1990年3月から97年1月まで、中米初の女性大統領を務めた。1978年に、反体制派新聞の社主だった夫が右派ソモサ独裁政権に暗殺されて政治家に転身した。1979年にソモサ政権を打倒してサンディニスタ民族解放戦線政権が成立したが、ダニエル・オルテガ大統領が左傾化して内戦が再発したした。和平が成立した1990年の総選挙でビオレッタが勝利して大統領となり、就任後は経済立て直しのため親米政策を取ったが内部対立が激しかった。2006年の大統領選でオルテガが16年ぶりに勝利し、以後2011年と2021年の選挙でもオルテガが勝利し、事実上の独裁化が進行している。チャモロは3人の子どもとともにコスタリカに亡命し、そこで亡くなった。

(ビオレッタ・チャモロ)

・6月13日のイスラエルによるイラン攻撃で、軍参謀総長、革命防衛隊司令官、核物理学者モハンマド・メフディー・テヘラーンチーなど多数が殺害された。

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山田昭次先生をしのぶ会(+梅雨の立教大学散歩)

2025年06月17日 21時54分20秒 | 追悼

 2025年6月14日に「山田昭次先生をしのぶ会」が立教大学マキムホール(MB01教室)で行われた。山田昭次先生は3月15日に亡くなり、そのことが報じられた時に『山田昭次先生の逝去を悼むー日本人の「良心」を貫いて』を書いた。近年この種の催しには欠席することが多かったが、今回は行ってみようかと思ったのは山田先生の様々な社会運動との関わりを知りたいと思ったのである。ともに何かの運動を担ったわけではない僕が書くのも僭越かと思うが、自分の備忘ということで記録しておきたい。

 司会者としてまず開会あいさつを行ったのは石坂浩一氏(立教大学異文化コミュニケーション学部立教大学平和・コミュニティ研究機構代表)で、今回の会の内容は今後「平和・コミュニティ研究機構」の紀要に掲載されるということだった。その後、韓国からの弔辞が聖公会大学のハン・ホング氏よりあり、その後紹介されたが大韓民国国家記録院というところで山田先生の遺した史料・著書なども(一部)保存されるとのことで、さすが山田先生の業績が国境を越えて残ることに感銘を覚えた。

 以後、9人の方が以下のような分野での思い出を語った。感想を書くと長くなるので、敬称略でまとめて紹介したい。

山田先生のあゆみ(高柳俊男)②朝鮮人戦時労働動員に関する研究(長澤秀)③金子文子に関する研究(留場瑞乃)④関東大震災における朝鮮人虐殺についての研究と活動(矢野恭子)⑤山田先生の著作(黒田貴史)⑥在日朝鮮人史研究会での活動(樋口雄一)⑦在日韓国人政治犯徐勝・俊植支援運動との関わり(大槻小百合)⑧立教大学の歴史の再検討(宮本正明)⑨粟屋ゼミのメンバーからの思い出(伊香俊哉)

 山田先生の関わった事柄がいかに広かったか、単なる学究ではなく誠実な市民運動家でもあったことが伝わる。配布された略年譜によれば、1959年に立教大学助手、1962年に一般教育部専任講師となり、1965年には助教授に昇格した。しかし、その後1972年に「文学部史学科から転籍要請があるも、一般教育の重要性に鑑み断る」と出ている。そして一般教育部在籍のまま、史学科、大学院でもゼミを担当したわけである。なかなか普通出来ないことではないかと思うが、どうだろうか。

 先の追悼記事では長くなることもあって書かなかったことを書いておきたい。山田先生が最後に取り組んだこと(の一つ)に「君が代斉唱、日の丸掲揚の強制への反対」(年譜の表現の通り)があった。最後の著作も2016年に出た共著の『学校に思想・良心の自由を 君が代不起立、運動・歴史・思想』(影書房)だった。僕も立教大学で山田昭次先生や粟屋憲太郎先生に学んだものとして、東京都の教員として採用された時には、少なくとも「日の丸・君が代」(当時は法的には国旗・国歌ではなかった)を推進する立場、つまり管理職にはならないと心に決めて仕事していたものだ。それは結構大変なことだったと思い返すのだが。

 多くの方の話に山田先生から電話があって運動に関わったというエピソードが多く聞かれた。僕はむしろ自分のやってることに先生の講演をお願いしたりしたわけだが、生涯でただ一度(だと思う)山田先生から電話で参加を要請された集会がある。それが「日の丸・君が代」反対集会なのである。21世紀初頭、石原都政下の時代で、多くの集会が開かれていたが、その時の集会は山田先生らが起ち上げた、規模的にはそんなに大きくない学習会だった。そこで「教育現場からの証言」を求められたわけである。

 その時は夜間定時制高校の教員をしていたが、卒業した高校が中高一貫化され都立中学に扶桑社の歴史教科書が採択されたことへの反対運動もやっていた。そのこともあって、僕は「日の丸・君が代」問題には深入りしていなかった。その頃は教育関係じゃない人からは、東京は国旗国歌や教科書問題で大変ですねと良く言われたものだ。しかし、僕がその時発言したのは、「石原都政下の極右イデオロギー教育政策」という視角だけでは解けない大きな問題があるということである。

 鈴木都政、青島都政を通して「異様なまでの都教委の中央集権化」が進行していたのである。教員の階層化(主幹はすでに設置されていた)、勤務評定の実働化(自己申告書の提出)、異動要項の改悪授業計画提出などが毎年のように進行していた。その対応で現場は疲弊していて、現場で自由闊達に教育を語り合うという気風も消えつつあった。管理職は教員を評価するだけでなく、自らも教育委員会に評価されている。その状況はほとんど知られてなくて驚かれたことが多かった。

 そんな中で東京の問題じゃないけれど、第一次安倍政権で「教員免許更新制」が成立した。そのことで「教員という仕事は、そこそこマジメにやってきたこと」を評価されない仕事になったのかと思い知ることになった。この制度は現場を悪くするだけだと確信していたが、結局その通りで10年ちょっとで廃止された。しかし、その経緯を見ていた僕は何か「心が折れる」という気になって、更新講習を受けずに2011年に退職したのである。その後、「年賀状」(にあたるもの)も一切作らなくなり、元同僚や昔の先生には失礼をすることとなった。それまでは山田先生にも送って丁寧な返事を貰うこともあったが、晩年にはもう連絡していない。

 立教大学で行われた追悼会に参加したことはもう一回あったなあと思い出した。1987年秋にチャペルで行われた日本文学科(当時)の前田愛先生をしのぶ会である。前田先生が亡くなった時(1987年7月27日)は穗高岳に登山中で全く知らなかったので、僕は葬儀には参加していない。立教大学では上限はあったが他学科、他学部の講座を卒業単位として認定していた。前田先生とは集中合同講義などでも接していたが、それ以上に講義で永井荷風日和下駄』を読んだことが忘れがたい。僕は教員を辞めた後、映画や寄席、散歩などで日々を送っているが、これは自分の『日和下駄』なのである。大学時代の影響は人生を決めるものだ。

 その前に時間があったので、久しぶりにキャンパスを散歩しようかなと思った。梅雨時というのは案外写真向きなのである。しかし、この日は午後に雨予報が出ていた。降り始めの時間は予報で違っていたけれど、結局1時半頃には結構降ってきたので、昔の研究室を見に行くのは止めた。「すずかけの小径」に2024年に長嶋茂雄を顕彰するプレートが出来たとホームページにあったので見て来た。(写真はいずれ書く予定の追悼記事で。)アジサイ(紫陽花)がところどころに咲いていてキレイだった。(下の2枚目)

   

 雨が激しくなってきたので、「立教学院展示館」に行くことにした。正門から入って左手に作られている。前に少し見たこともあったが、時間を掛けて見ていなかった。今回も展示はちゃんと見なかったが、前に書いた松浦高嶺先生の著書『学生反乱』が展示されていた。それより映像で見る学院の歴史コーナーがあって、そこは椅子に座れるので、休みながらずっと見ていたのである。これが長いんだけど面白かった。全部は見てないけれど、関東大震災から戦争戦後の時期を取り上げていた。

(立教学院展示館)(尹東柱に関する展示)

 戦争中に「幻の医学部設置計画」があったこと、それは「聖路加病院」を傘下に収めるというものだった。また戦時中に「キリスト教主義に基づく教育」という建学の精神がにらまれて、なんと「皇道主義に基づく教育」と変更した一時期があったとは驚いた。立教大学からも多くの学生が「学徒動員」されて101人の戦死が確認されていること、「自由の学府」と歌詞にある校歌を戦時中は歌うことが許されなかったが、学徒動員で故郷へ向かう学生に在校生が校歌を歌って送ったことなどが心に残る。

 この前慶應義塾大学で資料館を見たが、近年各大学で自校の歴史をふり返る施設が多く作られている。映画『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』でも関西大学の資料館が出て来た。それらの比較検討も課題ではないかと思った。

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佐和隆光、鎌田東二、大村幸弘、マーサ三宅、沢竜二他ー2025年5月の訃報②

2025年06月08日 21時25分47秒 | 追悼

 2025年5月の訃報、日本人編。6月早々に「長嶋茂雄」の訃報が伝えられたが、来月に書きたい。5月は僕もよく知らない人の訃報が多かったが、まず学者から。経済学者の佐和隆光(さわ・たかみつ)が5月17日死去、82歳。数量経済学の大家で、京大経済研究所長、滋賀大学学長を務めた。80年代以後、環境経済学に研究領域を広げ国の環境政策にも影響を与えた。一般書も多く、岩波新書の『経済学とは何だろうか』(1982)、『地球温暖化を防ぐ』(1997)、『グリーン経済学』(2009)などの他、中公新書、ちくま新書などにも著書がある。ダイヤモンド社からも一般向け経済書を出した。もっとも一冊も読んでないのだが。

(佐和隆光)

 宗教人類学者の鎌田東二が5月30日死去、74歳。京大名誉教授。宗教哲学、民俗学などを横断的に研究し、日本人の死生観を研究した。著書に『翁童論』『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』『霊性の文学史』『日本人は死んだらどこへ行くのか』『悲嘆とケアの神話論 須佐之男と大国主』など多数。神職の資格を持ち、日本臨床宗教師会会長などを歴任した。また「神道ソングライター」として活動したり、水神祥(みなかみ・あきら)名義で詩人、小説家としても活動した。この人も読んでないのでよく知らない。

(鎌田東二)

 考古学者でトルコのアナトリア地方の発掘に携わった大村幸弘が5月20日死去、78歳。1986年から古代ヒッタイト帝国の中央部、カマン・カレホユック遺跡を発掘し「中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所」所長として研究を推進してきた。4月から名誉会長になっていた。トルコの自宅で心臓発作を起こし亡くなった。NHKブックスに『鉄を生みだした帝国-ヒッタイト発掘』(1981、講談社ノンフィクション賞)、『アナトリア発掘記-カマン・カレホユック遺跡の二十年』(2004)などがある。

(大村幸弘)

 芸能界では大衆演劇で知られた沢竜二が5月21日死去、89歳。「女澤正一座」の座長の子として巡業中の楽屋に生まれ、4歳で舞台に立った。1954年に10代で座長となるも、一時解散して東京で歌の勉強をした。歌手として目が出ないため、現代劇やテレビ、映画などでも活躍。その後再び一座を結成しアメリカ公演も行った。また漫才師の昭和のいるが24日死去、88歳。1966年に獅子てんや・瀬戸わんやに弟子入りし、「昭和のいる・こいる」として活躍した。

(沢竜二)

 ジャズ歌手のマーサ三宅が5月14日死去、92歳。米軍キャンプで歌い始め、55年にレコードデビュー。1956年に当時ジャズ評論が仕事の中心だった大橋巨泉と結婚した。二人の間には歌手大橋美加など二人の子がいるが、巨泉がテレビタレントになる中ですれ違いが多くなり、1967年離婚。1972年、マーサ三宅ヴォーカルハウスを開校し、大橋純子、今陽子らを輩出した。1988年南里文雄賞を受賞。また「ザ・ゴールデン・カップス」のギタリストだったエディ藩が10日死去、77歳。

(マーサ三宅)

 ジャーナリストの田畑光永(たばた・みつなが)が5月7日死去、89歳。1960年に現在のTBSに入社し、中国報道などを専門とした。80年代には『報道特集』や『ニュースコープ』などのキャスターとして活躍した。著書に『中国を知る』『鄧小平の遺産』など。定年後は大学で教えたが、退職後の2007年に、護憲・軍縮・共生を掲げるブログ「リベラル21」を開設した。

(田畑光永)

 阪急阪神ホールディングス元会長角和夫(すみ・かずお)が4月26日死去、76歳。私鉄大手の経営統合を実現し、関西経済界の重鎮として知られた。村上ファンドによる株式大量取得に揺れた阪神に対し、阪急社長だった角が経営統合を決断した。梅田駅周辺の再開発などを進め、2017年に会長に就任した。2024年末に健康上の理由で会長を辞任。

(角和夫)

 ハンセン病国賠訴訟を最初に提訴した原告13人の1人で、全国原告団協議会会長だった志村康が5月1日死去、92歳。佐賀県に生まれ、1948年に15歳で熊本県の菊池恵楓園に入所した。一時退所したものの、93年に再入所。98年に熊本地裁に国賠訴訟を提訴した。菊池恵楓園の自治会長も務めた。国賠訴訟を最初に提訴するのに大きな役割を果たしたことは特筆される。

(志村康)

 文芸評論家の桶谷秀昭が3月27日に死去していた。93歳。1984年に『保田輿重郎』で芸術選奨文部大臣賞、1992年に『昭和精神史』で毎日出版文化賞など。60年代末から『土着と情況』『近代の奈落』など名前が気になる本を出していた。その後、北村透谷、正岡子規、二葉亭四迷、中野重治、伊藤整など近代日本の文学者を論じた。晩年は保守的な論調だったと思う。

(桶谷秀昭)

・バイオリニストの小林武史が19日死去、94歳。1955年に東京交響楽団のコンサートマスターになり、その後ヨーロッパで活躍した。帰国後読売日本交響楽団のコンサートマスターを経て、71年からソロで活躍した。

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ムヒカ、サルガド、グギ・ワ・ジオンゴ、ナイ他ー2025年5月の訃報①

2025年06月07日 20時00分41秒 | 追悼

 2025年5月の訃報特集。5月は内外ともに大きな訃報が少なかった。しかし一回で書くのは大変なので2回に分けて書くことにする。外国人の訃報で比較的大きく報道されたのは元ウルグアイ大統領ホセ・ムヒカだった。5月13日没、89歳。「世界一貧しい大統領」と呼ばれ、記録映画にもなった。(現在リバイバル上映されている。)60年代には極左ゲリラ組織「ツパマロス」に加わり、10年以上投獄された。95年に下院議員に当選し、上院議員を経て、2010年から2015年に大統領を務めた。報酬の大部分を寄付して自身は農場で住んで質素な生活を送って話題となった。退任後の2016年に来日して広島などを訪問した。

(ホセ・ムヒカ)

 ブラジル出身の世界的写真家、セバスチャン・サルガドが5月23日死去、81歳。60年代後半に軍政反対運動に参加し、その後フランスに移住。ロンドンの国際コーヒー機関に勤務してアフリカ各地を訪れた。その間に趣味だった写真を本格的に追求するため、仕事を辞めてフォトジャーナリストとなった。アフリカに取材した「サヘル」や世界各地の労働者を題材にした「人間の土地 労働」などの代表作がある。雄大な大自然に向き合う人間をフォトジェニックに映し出し世界的に評価された。ヴィム・ヴェンダース監督による記録映画『セバスチャン・サルガド、地球へのラブレター』があり、この人の素晴らしい業績を初めて知った。

(セバスチャン・サルガド)(サヘルの飢饉)

 ケニア出身の作家グギ・ワ・ジオンゴが5月28日死去、87歳。イギリス植民地だったケニアに生まれ、独立直後の時代に創作活動を開始した。イギリスに留学後、ナイロビ大学などに勤務したが、この時代は英語で創作していた。77年に現地のキクユ語で書いた民衆劇「したい時に結婚するわ」が反体制的とされ1年間拘禁された。釈放後は英語ではなくキクユ語で創作を続けたが、82年の英国滞在時に帰国すれば逮捕されると警告され、事実上亡命生活に入った。92年にはアメリカに移り、ジョージア州で亡くなった。代表作に『川をはさみて』(1965)、『一粒の麦』(1967)などがあり邦訳もある。長くノーベル文学賞候補と言われ続けてきた。

(グギ・ワ・ジオンゴ)

 アメリカの国際政治学者、ジョセフ・ナイが5月6日死去、88歳。国家には軍事力や経済力だけでなく、文化や価値観などで国際的目的を達成する「ソフト・パワー」が重要だと主張した。「文明の衝突」論のハンチントンなどへの批判でもあったが、その後の国際政治学のキーワードとして定着した。またカーター政権で国務副次官、クリントン政権で国家情報会議議長、国防次官補などに就任して現実政治にも関わった。その時代には東アジアの米軍10万人態勢を維持する「東アジア戦力報告」(ナイ・リポート)を発表して、日米関係に影響を与えた。4月に亡くなったアーミテージとそもに「アーミテージ・ナイ・リポート」を出すなど、対日政策に深く関わってきた。ハーバード大教授を長く務め、トランプ政権から見れば「民主党支持のエリート学者」になるのだろう。

(ジョセフ・ナイ)

 アメリカの映画監督ロバート・ベントンが5月11日死去、92歳。『俺たちに明日はない』(1967)の脚本家(アカデミー脚本賞ノミネート)であり、『クレイマー、クレイマー』(1979)の監督である。『おかしなおかしな大追跡』『スーパーマン』などの脚本がある。『夕陽の群盗』(1973)で監督に進出。『クレイマー、クレイマー』ではアカデミー賞で作品、監督、脚色、主演男優(ダスティン・ホフマン)、助演女優(メリル・ストリープ)の5部門で受賞した。演技部門の2人はこれが初のオスカーだった。また子役のジャスティン・ヘンリーは8歳で助演男優賞にノミネートされ、今も最年少記録となっている。その後『プレイス・イン・ザ・ハート』(1984)でサリー・フィールドが主演女優賞、ベントンが脚本賞を受賞した。他に『殺意の香り』(1982)、『ビリー・バスゲイト』(1991)、『白いカラス』(2003、フィリップ・ロス『ヒューマン・ステイン』の映画化』などがある。

(ロバート・ベントン)

ユーリ・グリゴローヴィッチ、19日死去、98歳。ロシアのバレエ振付家、指揮者。46年にレニングラード・バレエ学校を卒業してダンサーとなった。64年にボリショイ・バレエ団でバレエマスター、88年に芸術監督。ボリショイ・バレエの黄金期を築いた。

ジェームズ・フォーリー、アメリカの映画監督、6日死去、71歳。『摩天楼を夢みて』などがある。

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小山正明、畠山重篤、山口崇、徳岡孝夫他ー2025年4月の訃報②

2025年05月08日 19時40分56秒 | 追悼

 2025年4月の訃報、日本人編は元野球選手、小山正明から。4月18日死去、90歳。阪神、大毎(現ロッテ)、大洋で活躍し、通算勝利数320勝は歴代3位。それなのに今ひとつ知名度が低いと思うが、引退後にコーチだけで監督をしていないからだろう。阪神時代の62年には27勝11敗で優勝の原動力となった。(しかし、その年は中日の権藤が30勝で最多勝利だった。)翌63年のオフに「世紀のトレード」と騒がれた山内一弘選手と交換で大毎オリオンズに移籍した。(映画会社の大映と毎日新聞で「大毎」、直後に東京オリオンズと改称)。年齢的に僕はその後しか知らず、小山と言えばパリーグという印象である。64年には30勝をあげて最多勝利となった。コントロールにすぐれ「精密機械」と呼ばれた。引退後は阪神、西武、ダイエーでコーチを務め、2001年に野球殿堂入り。

 (小山正明)

 海洋資源を守るため環境保全運動(「森は海の恋人」)を進めた畠山重篤が4月3日死去、81歳。肩書きとしては、カキ養殖漁師、NPO法人理事長、エッセイスト。宮城県気仙沼でカキ養殖をしていたが、60年代から赤潮被害が発生するようになった。その原因として上流地域の森林荒廃に着目し、森の植樹運動などを始めた。著書に『森は海の恋人』(1994)、『漁師さんの森づくり』(2000、産経児童出版文化賞、小学館児童出版文化賞)、『日本〈汽水〉紀行』(2003、エッセイストクラブ賞)、『鉄が地球温暖化を防ぐ』(2008)など多数。吉川英治文化賞受賞。僕もずいぶん読んで来たが、次第に「有名人」になったかなと思う。

(畠山重篤)

 俳優の山口崇が4月18日死去、88歳。この人は今でも『天下御免』の平賀源内と言われる。NHKで1971~72年に放送された時代劇で、確かに面白くて林隆三の出世作でもあった。今年の大河ドラマに源内が出て来るのでインタビューを受けたら、声がかすれていて検査して肺がんが判明したとWikipediaに出ている。また『大岡越前』の徳川吉宗役を30年近く演じたり、「クイズタイムショック」の司会者を田宮二郎の後を受けて78年から86年まで務めた。そういう風に「お茶の間の人気者」だったのだが、元は舞台人で劇団俳優小劇場の創設メンバー。小沢昭一の芸能座を加藤武、山谷初男らと結成したメンバーでもあった。邦楽に造詣が深く、本人も長唄の名取りだったが、長男が3代目杵屋巳三郎を襲名しているほどだという。

(山口崇)

 ジャーナリスト、評論家の徳岡孝夫が4月12日死去、95歳。毎日新聞記者としてバンコク特派員などを務め、ベトナムや中東情勢を取材した。1970年、サンデー毎日記者時代に、「三島事件」当日に親交のあった三島由紀夫から依頼され「楯の会」関係者から檄文を託されたことで知られる。73年にドナルド・キーンとの共著『悼友紀行』を刊行(現在は『三島由紀夫を巡る旅 悼友紀行』として新潮文庫に収録)。それをきっかけにキーンの信頼を得て『日本文学史』の訳者となった。三島との交流は『五衰の人』(1997)を刊行、新潮社学芸賞受賞。保守派の論客と知られ、雑誌『諸君!』によく書いていた。トフラー『第三の波』、トーランド『真珠湾攻撃』、ニクソン『指導者とは』、『ライシャワー自伝』など話題作の翻訳者でもあった。高齢になって忘れられたか訃報が小さかった。

(徳岡孝夫)

 「保守派」にもう一人、美術史家の田中英道が4月30日死去、83歳。東北大名誉教授。日本美術の世界的価値を高く評価し、国中公麻呂(くになかのきみまろ、東大寺大仏を作ったと言われる)を「天平のミケランジェロ」と評するなどした。しかし、次第に「トンデモ」化していき、「新しい歴史教科書をつくる会」会長を務めるなどした。

(田中英道)

 『今日の日はさようなら』の作詞、作曲をした金子詔一が4月1日死去、82歳。青少年キャンプ団体ハーモニィセンター設立に参加、1966年にキャンプソングとして『今日の日はさようなら』を作った。この曲は森山良子が歌って多くの人に知られ、卒業式などの定番ソングとなった。僕も最初の卒業生を出した時にクラスで歌った思い出がある。(昔はそんなことが可能だったことに驚くけど、20世紀の話。)その後は英語教育や「英語九九」の普及に努めたらしい。1975年の都知事選に出たこともある。

金子詔一)

 和歌山県知事の岸本周平が4月15日死去、68歳。財務官僚、トヨタ自動車を経て、2009年に民主党から衆議院議員に当選。その後、民進党、希望の党、国民民主党から5回当選。2022年の知事選に出馬して当選、一期目の途中だった。

(岸本周平)

・ラジオプロデューサー、作家の延江浩が6日死去、67歳。FM東京でラジオプロデューサーとして活躍、ギャラクシー賞など多数受賞している。村上春樹の「村上RADIO」を担当した。映画『大鹿村騒動記』の原作他、『愛国とノーサイド』など著書多数。

・画家や作家など幅広く活動した大宮エリーが23日死去、49歳。電通でコピーライターとして活動後、脚本家、映画監督、エッセイスト、画家、演出家、ラジオパーソナリティなど多くの分野に渡って活動していた。

・弁護士の阪口徳雄が24日死去、82歳。1971年に青年法律家協会所属の裁判官の任官拒否問題に、司法修習生として異議を唱えて罷免された。その後再び修習生となり73年に弁護士となった。政治資金オンブズマンを務め、森友学園訴訟などに関わった。

・女優の入江杏子が24日死去、97歳。劇団民藝に所属して50年代に『アンネの日記』や『セールスマンの死』などに出ているが、それ以上にこの人は檀一雄『火宅の人』のモデルとして知られる人なのである。最近まで生きていたのかと感慨深い。

 

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フランシスコ教皇、バルガス=リョサ、アーミテージ他ー2025年4月の訃報①

2025年05月07日 20時08分11秒 | 追悼

 2025年4月の訃報特集。やはり一番最初に書くべきは第266代ローマ教皇フランシスコだろう。4月21日没、88歳。長い歴史の中で「フランシスコ」という名がなかったことも驚きだが、それでも普通は「フランシスコ1世」と名乗るものだ。しかし、この人の場合「1世」はつかない。2013年3月に前任者ベネディクト16世の(約600年ぶりの)「生前退位」を受けて教皇に選出された。俗名ホルヘ・マリオ・ベルゴリオで、アルゼンチン出身。初の南米出身だった。(非ヨーロッパ系としてはシリア出身の90代グレゴリウス3世までさかのぼる。8世紀の人。)2月に入院していて危篤と報道されつつ退院した直後の訃報だった。

 フランシスコは出身国だけでなく、カトリック教会初のイエズス会出身でもある。軍事政権下のアルゼンチンで活動した経過は『ロマ法王になる日まで』という映画になった。また教皇選出後に世界各地を訪問する様子は『旅するローマ教皇』という映画になっている。2005年にも有力候補と言われたが選ばれず、2013年には75歳という年齢から選出はないと言われていた。カトリック教会は「保守派」「改革派」に争いがあるが、フランシスコは改革派に近いけれど改革は不十分との批判も絶えない。日本は2019年に訪れて、長崎・広島の被爆地で核兵器廃絶を訴えた。在位中に47回、66か国を訪問したという。その中にはパレスチナ、イスラエルも含まれる。他宗派、他宗教との対話にも積極的だったが、晩年はロシアに宥和的な発言など批判も多かった。

(広島で)

 ペルーの作家で、2010年のノーベル文学賞受賞者マリオ・バルガス=リョサが4月13日死去、89歳。(ガブリエル・ガルシア=マルケスに関して以前書いたように、スペイン語圏では父姓と母姓を複合させて使用することがある。バルガスが父の姓、リョサが母の姓である。)1963年に『都会と犬ども』を発表して評価され、『緑の家』(1966)や『ラ・カテドラルでの対話』(1969)などの大長編で世界的作家とみなされた。それらはスペインやフランスで書かれたが、1974年に帰国し1976年には40歳で世界ペンクラブ会長となった。政治的には当初の左翼から次第に保守化していき、1990年には中道右派「民主戦線」から大統領選に出馬したが、決選投票でアルベルト・フジモリに敗れた。その後は外国で暮らすことが多かったが、最期はペルーで亡くなった。ほとんどの作品が翻訳されていてずいぶん持っているのだが、長くて何となく敬遠して読んだことがない作家である。

(マリオ・バルガス=リョサ)

 元米国国務副長官のリチャード・アーミテージが4月13日死去、79歳。海軍兵学校を卒業してベトナム戦争に従軍、一時は米国に戻るが、再び戻って75年のサイゴン陥落時に南ベトナム空軍の将兵とともに脱出したという。その後レーガン政権で国防次官補に就任、2001年から05年にジョージ・ブッシュ(子)政権で国務副長官を務めた。「アジア通」「知日派」とされ、00年以来超党派の対日政策文書「アーミテージ・リポート」を発表した。2001年の同時多発テロ時には日本の柳井駐米大使に「Show the FLAG」(旗幟を鮮明にしろ)と発言したという。共和党「穏健派」の重鎮だが、日本にとっては軍備増強を迫る「圧力」を掛け続けた人。

(アーミテージ)

 アメリカの俳優、ヴァル・キルマーが4月1日死去、65歳。1986年の映画『トップガン』でトム・クルーズのライバル(アイスマン)を演じて注目された。1991年のオリヴァー・ストーン監督の『ドアーズ』では主役のジム・モリソンを演じた。『トップガン マーヴェリック』で同じ役を演じたのが遺作となった。

(ヴァル・キルマー)

 元中日ドラゴンズなどで活躍した野球選手トニ・ブランコが4月8日、ドミニカの首都サントドミンゴで起きたナイトクラブの屋根崩壊事故に巻き込まれれて死亡した。43歳。米大リーグに所属後、2009年シーズンから中日に所属、その年にホームラン、打点の2冠に輝いた。ナゴヤドームで天井を直撃した認定本塁打を初めて放った人。その後DeNA、オリックスに移籍して2016年引退。同じ事故では、大リーグ13球団に所属して当時の最多チーム所属としてギネス記録となったオクタビオ・ドーテルも51歳で死去。

(トニ・ブランコ)

 イギリスのミステリー作家、ピーター・ラヴゼイが4月10日死去、88歳。70年代から21世紀初頭に活躍し、日本でもたくさん翻訳された。エドワード皇太子が探偵役の歴史ミステリーなどで知られた。一番評判になったのはピーター・ダイヤモンド警視シリーズで、『最後の刑事』『単独捜査』『バースへの帰還』などは日本でも高く評価された。ノンシリーズでは『偽のデュー警部』『苦い林檎酒』などがあり、ほとんどはハヤカワ文庫に収録されていた。『最後の刑事』は面白かったなと記憶している。

(ピーター・ラヴゼイ)

・元マレーシア首相のアブドラ・バダウィが14日死去、85歳。2003年にマハティール元首相の後任として首相に就任。2008年の選挙で与党議席を減らした責任を取り、2009年に辞任した。

・映画監督のテッド・コッチェフが10日死去、94歳。カナダ出身で米映画『ランボー』の監督をした人。

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いしだあゆみ、みのもんた、石川一雄、ジョージ・フォアマン他ー2025年3月の訃報

2025年04月05日 21時31分53秒 | 追悼

 2025年3月の訃報特集。山田昭次先生と篠田正浩監督を別に書いたので、他の方々は一回で。まず歌手・俳優のいしだあゆみが3月11日に死去、76歳。甲状腺機能低下症という死因に驚いた。1968年に「ブルーライト・ヨコハマ」が大ヒットしたが、中学生だった僕はよく記憶している。本当に大ヒットした曲だった。後に是枝裕和監督の映画にうまく使われていて、何だか時代を思い出す曲だなあと思った。他にヒット曲があったのかと思ったら、テレビニュースで「あなたならどうする」を流してた。そういう曲もあったなあ。私生活では1980年から84年まで萩原健一と結婚していたが、もう皆触れない感じだった。

 

 その後活躍の場を俳優業にシフトしていったが、代表作はやはり『火宅の人』(1986)の主人公(作家檀一雄)の妻役だろう。毎日映画コンクール、日本アカデミー賞、ブルーリボン賞で主演女優賞、キネマ旬報では助演女優賞を獲得した。果たして主演か助演かという役柄。他にも『駅STATION』『男はつらいよ あじさいの歌』など数多くの映画、テレビドラマ、舞台で活躍したが、中で一番忘れがたいのは工藤栄一監督の『野獣刑事(でか)』(1982)という「異常犯罪」もの。ヤクザの情婦でありながら、獄中にいる亭主を逮捕した刑事緒形拳と出来ちゃったという凄い役を全力で演じていた。情感あふれる犯罪映画の大傑作。

(『野獣刑事』)

 テレビ司会者、アナウンサーのみのもんたが3月1日死去、80歳。本名御法川法男(みのりかわ・のりお)。2006年には「一週間に最も長くテレビに生出演する司会者」としてギネスブックに登録されたぐらい活躍していた。「クイズ$ミリオネア」の決めぜりふ「ファイナル・アンサー?」も知られた。しかし、そんな人が2013年に不祥事がいろいろあって降板して全く消えてしまった。僕にとって「みのもんた」は、文化放送時代のアナウンサーとして記憶している人である。深夜放送の『セイ!ヤング』のパーソナリティを69年から73年まで務めて、受験生だった自分は他局と行きつ戻りつ、よく聴いていたので懐かしい名前。

(みのもんた)

 狭山事件再審請求人の石川一雄が3月11日死去、86歳。その時に追悼記事を書こうかとも思ったが、実は狭山事件60年の記事が差し止めになっている。事件や支援運動について詳しく書くことが出来ないなら書く意味がない。事件については比較的調べやすいので、ここでは書かないことにする。僕は一度も事実調べが行われていないということは、どういうことなのだろうかと感じている。金宣雄監督『SAYAMA 見えない手錠をはずすまで』などの映画は配信で見られるようなので、紹介だけしておきたい。

(石川一雄)

 元福島県知事の佐藤栄佐久が3月19日死去、85歳。参院議員を経て88年に福島県知事に当選、06年まで5期当選した。06年9月に実弟の談合事件で批判が高まり辞職した。その後、本人も県発注工事をめぐる収賄容疑で逮捕、起訴され、東京地裁(懲役3年、執行猶予5年)、東京高裁(懲役2年、執行猶予4年)で有罪となり、12年に最高裁で確定した。しかし、この事件は確定判決によると「収賄額ゼロ円」という奇妙な「汚職」事件である。東電原発のプルサーマル計画の受け入れ撤回など国策に反対したことから、「国策捜査」だったという疑惑が指摘されている。『知事抹殺 つくられた福島県汚職事件』『福島原発の真実』(両方とも平凡社)の著書があり、それらを読むと考えさせられるものがある。「不当捜査」が指摘されるケースとしては、2002年に検察官裏金問題をテレビで告発予定の日に逮捕された元大阪高検公安部長の三井環が1月9日に死去していたことも報道された。80歳。

(佐藤栄佐久)

 政治家としては、元参議院議長斎藤十朗が3月17日に死去、85歳。三重選挙区で自民党から6回当選し、95年から2000年まで参院議長を務めた。選挙制度改革をめぐる混乱の責任として議長を辞職した。また元福岡県知事の麻生渡が3月15日死去、85歳。特許庁長官などを経て、95年から2011年まで福岡県知事を4期務めた。05年~11年には全国知事会長に九州の知事で初めて就任した。在任中に県産イチゴ「あまおう」をブランド化したことで知られる。同県人だが麻生太郎元首相との血縁関係はない。

(斎藤十朗)(麻生渡)

 政治家としては、元参院議員の田名部匡省(たなぶ・まさみ)が26日没、90歳。青森県議を経て、衆院6期、参院2期務め、91年宮沢内閣で農水相を務めた。93年に自民党を離党、新生党、新進党などを経て05年民主党入党。アイスホッケー日本代表として冬季五輪に2回出場したことで知られる。また竹村泰子が27日没91歳。83年に横路知事の代わりに衆院に立候補して当選。その後落選し、89年に参院に転じて2回当選した。市民運動から社会党、民主党で議員活動を行った人である。

 プロボクシングの元ヘビー級チャンピオン、ジョージ・フォアマンが3月21日死去、76歳。68年メキシコ五輪ヘビー級金メダリストで、69年にプロに転向、73年1月無敗で王座についた。74年にモハメド・アリ(ベトナム戦争の兵役拒否によるライセンスはく奪処分を解除された)とキンシャサ(コンゴ)で対戦し、初めて敗れた。77年に一端引退しキリスト教宣教師になったが、金策のため87年に現役復帰。94年に45歳で20年ぶりの王座に復帰した。97年に競技を離れたが、戦績は76勝5敗だった。

(ジョージ・フォアマン)

 日本のスポーツ界では、五輪で6つの金メダルを獲得した体操競技の中山彰規(なかやま・あきのり)が3月9日死去、82歳。68年メキシコ五輪で団体、鉄棒、平行棒、吊り輪、72年ミュンヘン五輪で団体、吊り輪で金メダルを獲得した。他に銀2、銅2。また東京五輪マラソン代表だった寺沢徹が23日死去。90歳。63年に当時の世界最高記録を樹立したが東京五輪では15位だった。

(中山彰規)

 芸能界では喜劇俳優の芦屋小雁(あしや・こがん)が3月28日死去、91歳。兄の芦屋雁之助とともに兄弟コンビの漫才師として人気を得た。2004年に兄が亡くなった後、放浪の画家山下清役を引き継ぎ『新・裸の大将放浪記』に出演した。芸能人じゃないけど、テレビによく出ていた料理研究家枝元なほみが2月27日に死去、69歳。「転形劇場」の俳優をしながら無国籍料理店で働き、解散後に料理研究研究家となった。「きょうの料理」「はなまるマーケット」など多くのテレビに出演し素材の味を生かした家庭料理で人気を得た。食を通し多くの人を支援しホームレス支援のビッグイシュー基金理事を務めた。多くの著書がある。

(芦屋小雁)(枝元なほみ)

・元駐日アメリカ大使のマイケル・アマコストが8日死去。87歳。89~93年にブッシュ(父)政権で駐日大使を務め、「ミスター外圧」と呼ばれた。今のところ最後の外交官出身駐日大使である。

・旧ソ連出身の世界的な前衛作曲家ソフィア・グバイドゥーリナが13日死去、93歳。タタール共和国出身で、民族楽器の可能性を開拓した作品で西欧で高く評価されたという。90年代にドイツに移住して活動した。日本のエッセンスを取り入れた学教もあり、武満徹や高橋悠治に大きな影響を与えた。98年世界文化賞(音楽部門)受賞。スゴイ人らしいが名前を知らなかった。

藤川晋之助、11日死去、71歳。「藤川選挙戦略事務所」代表理事。いわゆる選挙プランナーとして知られた存在だった。元大阪市会議員で、小沢一郎系として自民党を離党、いくつかの選挙で落選した後、「裏方」専門となった。24年都知事選では石丸伸二陣営の選対事務局長を務めた。

オレグ・ゴルジェフスキー、21日までに死去、86歳。旧ソ連でKGB将校だったが、68年のチェコ侵攻に幻滅してイギリスのスパイとなったことで知られる。冷戦期に重要な情報を伝えて衝突回避につながったとされる。85年に英国に亡命した。『KGBの男-冷戦史上最大の二重スパイ』という伝記がベストセラーになり、日本でも翻訳されている。

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山田昭次先生の逝去を悼むー日本人の「良心」を貫いて

2025年03月27日 21時54分18秒 | 追悼

 歴史学者で立教大学名誉教授の山田昭次先生の訃報が伝えられた。3月15日没、95歳。年齢が年齢だけに遠からず訃報を聞くことは覚悟していたが、やはり寂しいことである。僕は直接に授業、ゼミなどで教えを受けた者だが、それ以上に卒業後もいろいろと関わりがあって、話を聞く機会も多かった。関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の真相究明にライフワーク的に取り組んできたが、関東大震災の周年集会でも顔を見ることがなくなっていた。まあ年齢的にやむを得ないことだろうと推察していた。

 山田先生は立教大学では長く一般教育部に所属して、文学部史学科にも出講していた。そのためかどうか、ゼミも朝イチか夕方に開講されていて、僕は早起きが苦手なので学部時代にゼミを取らなかった。大学院に進学後にゼミを受講して史料の読解など非常に勉強になった。そういう普通の意味で「恩師」なのだが、山田先生と言えば学部時代から違うことで知っていた。それは「韓国政治犯徐勝徐俊植兄弟の救援運動である。1971年に韓国で「学園浸透スパイ団事件」として逮捕されたのが徐兄弟である。山田先生は自ら救援会を立ち上げ、渡韓して長く運動を続けた。昔のチラシ、ビラ等をかなり取ってあるので、探してみたら出て来た。

(「徐さん兄弟救援報告」36号)

 幾つもあるのだが、ここでは第36号(1987年12月13日付)の画像を載せておく。もう僕は就職していた時期だから、送られてきたのか集会などで貰ったものか。多分時々カンパしていたと思う。会の名前は「徐さん兄弟を守る会」で、連絡先は立教大学12号館になっている。徐勝さんは韓国が民主化されてもすぐには解放されず、1990年に釈放された。(刑期は原判決が無期懲役で、その後20年に減刑されていて、19年間の拘禁生活を送った。)徐兄弟初め多くの在日韓国人政治犯の救援運動がその頃存在した。徐兄弟に関しては他にも救援運動があったが、一人で最後までやり切ったのは見事というしかないと思う。

(『生き抜いた証に』)

 もう一つ新聞やウィキペディアに載っていない重要な仕事に、朝鮮人・韓国人ハンセン病元患者の聞き書きがある。これは学生と共に取り組んだ研究で、立教大学史学科山田ゼミナール編生き抜いた証に ハンセン病療養所多磨全生園朝鮮人・韓国人の記録』という本にまとめられている。1989年に緑陰書房から刊行された本で、1996年に廃止される「らい予防法」がまだあった時代である。僕もその前から何度も全生園を訪問していたし、別に訪問に許可など要らなかった。それでも法律上は厳しい「隔離」が定められていた。ハンセン病問題への関心がまだ少なかった時代の先駆的な業績で、忘れられないで欲しい本だ。

 僕は1980年に韓国ハンセン病元患者定着村へのワークキャンプに参加した。その後も関わりが続き、韓国に「交流(むすび)の家」を作ろうという動きが起こった。(「交流の家」というのは、奈良に作られたハンセン病元患者との交流用施設の名前。)その会で僕が中心になって「映画と講演の会」を企画したことがある。映画はハンセン病差別を描く『あつい壁』と韓国映画『族譜』で、講演は山田先生にお願いした。日時の承諾を得た後、中身をきちんと説明するために、久しぶりに大学の山田研究室を訪ねた記憶がある。韓国とハンセン病ともに語れる人は数少ない。非常に感銘深い講演だったが講演料は受け取って貰えなかった。

(『金子文子』)

 以上のように、40代、50代の学者としての壮年期を救援運動に費やしたこともあり、多くの論文がありながらなかなか単行本にまとめることがなかった。新書本なども書いてないから、一般的な知名度は高くはないだろう。僕が思うに代表作は『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』(影書房、1996)である。金子文子は『何が私をこうさせたか』(岩波文庫)という独創的な自伝で知られる。朝鮮人の朴烈と結婚したアナキストで、関東大震災後に「大逆事件」をデッチ上げられた。その本のことは、『金子文子「何が私をこうさせたか」再読』(2018.9.1)に書いた。この本はなかなか大変だが、是非ともチャレンジして欲しい本だ。

(『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』)

 非常にすごいなと思うのは、退職後に妻に先立たれた後も、研究をまとめて世に問うた姿勢である。時々は新聞の投稿などを読むこともあった。関東大震災関係では『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後 虐殺の国家責任と民衆責任』(創史社、2011)が最後になったと思う。読後の感想をまとめて書いたが、特に「国家責任」を厳しく問うとともに、「民衆責任」を問い続けたことは特筆すべきことだ。「侵略」「虐殺」を直視出来ない日本人に対する言葉は時に厳しすぎるかと思えるぐらいである。しかし、その認識は厳密な史料批判から導き出されたものだった。「日本人の良心」と呼びたい研究者人生だったと思う。

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吉田義男、袖井林二郎、曽野綾子、岡村勲他ー2025年2月の訃報②

2025年03月07日 22時07分37秒 | 追悼

 2025年2月の訃報、日本編。まず元プロ野球選手、監督の吉田義男が2月3日に死去、91歳。阪神タイガース一筋の名内野手(主に遊撃手)として知られ、引退後は阪神の監督を3度務めた1985年の優勝時の監督で、訃報は関西圏ではとりわけ大きく報道されたらしい。もちろん東京でも大きくは報道されたが、号外が出たり朝から晩までテレビで優勝シーンが流れるということはなかった。1953年から69年まで現役選手だったが、打率3割超えは1度だけ、通算ホームランはわずか66本だが、通算安打1864本を記録している。しかし、小学生の僕が「阪神の吉田」を覚えているのは、「今牛若丸」と呼ばれた華麗な守備にあった。

(吉田義男)

 9連覇中のジャイアンツ選手の名を連ねて「王、金田、広岡」というのがあった。子どものダジャレで「おっ、カネだ、拾おうか」である。その後に「吉田」(止した)と続く。ヒット性の当たりも吉田に取られてしまうのである。守備力を評価するゴールデングラブ賞は72年からで、当時は守備の賞はなかったけれど、子どもでも吉田のショート守備は知っていた。その後、1975~77、1985~87、1997~98と10年置きに呼び出されて監督を務めた。1985年には今も必ず映像で流れる4月17日の巨人戦、バース、掛布、岡田の「バックスクリーン3連発」などで弾みが付き、21年ぶりの優勝を遂げた。なお、この年は8月の日航機墜落事故で球団社長が亡くなっている。1989年~1996年までフランスの代表監督を務めた経験もある。

(1985年の優勝)

 政治学者の袖井林二郎(そでい・りんじろう)が2月10日死去、92歳。戦後日米関係史が専門で、占領期研究を開拓した一人。一般向け著書も多く、特に『マッカーサーの二千日』(1974)は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。また日本人がマッカーサーに宛てた手紙を分析した『拝啓マッカーサー元帥様』(1985)もある。どうにもやり切れないような内容なんだけど、これが日本人かと納得させられた。アメリカ時代の竹久夢二研究でも知られた。その後の占領期研究は進展しているから、半世紀前に読んだ『マッカーサーの二千日』は今読む価値があるかどうか。しかし、当時としては非常に刺激的な本だった。

(袖井林二郎)

 作家、エッセイストの曽野綾子が2月28日没、93歳。1954年に「三田文学」に発表された『遠来の客たち』が芥川賞候補となり知られた。当時戦後10年ほど経って評価された作家が「第三の新人」と呼ばれたが、その仲間に加わり同グループの三浦朱門(1926~2017)と結婚した。小説としては映画化された『二十一歳の父』や自分の子を主人公にした『太郎物語』シリーズ、『神の汚れた手』(女流文学賞に選ばれるも辞退)などがある。それより『誰のために愛するか』(1970、278万部)、『老いの才覚』(2010)などのエッセイで知られた。さらに保守的言論人としてアパルトヘイト支持など数多くの物議を醸す発言を行った。2003年に文化功労者に選ばれたが、どういう「功労」なんだろう? 晩年には日本財団会長も務めた。僕が読んでるのは史料として読んだ『ある神話の背景』(沖縄戦の「集団自決」に軍命令はなかったとする)だけだと思う。

(曽野綾子)

 日本の犯罪被害者運動の中心を担った弁護士岡村勲が2月24日死去、95歳。日弁連副会長など弁護士として活躍していたが、1997年に山一證券問題で逆恨みした男に妻を殺される事件が起きた。犯罪被害者の当事者となり、2000年に「全国犯罪被害者の会」(あすの会)を結成して代表幹事となった。その後の活動で、2004年の犯罪被害者等基本法、2008年施行の刑事裁判への被害者参加制度、2010年の殺人罪の時効廃止などの実現に尽力した。思っても見なかった後半生を見事に生きた人だと思う。

(岡村勲)

 弁護士、元裁判官の福島重雄が2月8日死去、94歳。札幌地裁裁判官を務めていた1973年に、いわゆる「長沼ナイキ訴訟」の裁判長を務めた。自衛隊の憲法判断が争点となり、自衛隊を憲法が認めない「戦力」と認定し自衛隊は憲法9条違反とする判決を言い渡した。これは76年に札幌高裁で取り消され、82年に最高裁で確定した。以後は東京地裁手形部、福島家裁、福井家裁と異動したので、明らかに最高裁に忌避され冷遇されたのである。1989年に59歳で退官し、生地の富山県で弁護士として活動。

(福島重雄)

 俳優、声優の下條アトムが1月29日に死去、78歳。父は俳優の下條正巳で、アトムは本名。1946年生まれで、『鉄腕アトム』とは無関係。「原子力の平和利用」という願いで付けたという。多くのテレビ、映画で活躍したが、エディ・マーフィーの吹き替えで知られた。また『世界ウルルン滞在記』(1995~2007)のナレーターとして有名になった。落語家の桂才賀が2月21日死去、74歳。二つ目の古今亭朝次時代に「笑点」メンバーだった。刑務所や少年院を千回以上慰問したことで知られる。多分1回か2回聞いてる。

(下條アトム)(桂才賀)

 確実に会っているのは、写真家の八重樫信之。2月1日死去、81歳。朝日新聞の写真記者だったので、朝日新聞の地方欄に小さく訃報が載っていた。96年の「らい予防法廃止」以後、内外でハンセン病元患者の取材を行って写真展などで啓発を行った。『それぞれのカミングアウト』『絆:「らい予防法」の傷痕 日本・韓国・台湾』『輝いて生きる:ハンセン病国賠判決から10年』の著書がある。また、森本美代治さんらとともに国際的なハンセン病患者運動を支援した。

(八重樫信之)

 舞台衣装デザイナーの緒方規矩子(おがた・きくこ)が7日死去、96歳。多くの演劇、オペラ、バレエ、テレビドラマの衣装を担当し、読売演劇大賞や文化庁長官表彰などを受けた。医師の柴田紘一郎が19日死去、84歳。長崎大医師時代にケニアに派遣され、医療活動に従事した。さだまさしの「風に立つライオン」のモデルとなったことで知られる。

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ジーン・ハックマン、ロバータ・フラック、キム・セロン他ー2025年2月の訃報①

2025年03月06日 22時36分48秒 | 追悼

 2025年2月の訃報。2月は短いということもあるが、例年に比べても重大な訃報が少なかった。だから当初は頑張って1回で書こうかと思っていたが、別に頑張る必要もないなと思って、いつもと同じく内外で分けて2回で書きたい。

 アメリカの俳優ジーン・ハックマンの遺体が2月26日にサンタフェ(ニューメキシコ州)の自宅で発見された。95歳。同時に妻と犬も死んでいた。調査の結果、妻が先に感染性疾患で病死し、アルツハイマー病だったハックマンはそれを認識出来ず、その後に心臓病で亡くなったらしい。(ペースメーカーの分析から死亡日は18日らしい。)ジーン・ハックマンは70年代に大活躍していた俳優で、高校時代からよく見ていて思い出深い。ポール・ニューマンやロバート・レッドフォードのようないかにも「二枚目」ではないのでなかなか売れなかったが、「アメリカン・ニュー・シネマ」の時代に合っていたのである。

(『フレンチ・コネクション』で)

 1967年の『俺たちに明日はない』でクライドの兄を演じて評価され、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。その時すでに37歳で、青春スターにはなれなかったのである。しかしその代わりに「中年」の疲れ気味の職業人の役が回ってきて大活躍が始まる。1971年の『フレンチ・コネクション』では麻薬捜査を担当する粗暴な刑事を演じてアカデミー賞主演男優賞を獲得した。フランスのマルセイユとニューヨークの街頭ロケが魅力的な傑作。その後『ポセイドン・アドベンチャー』『スケアクロウ』『カンバセーション…盗聴』『スーパーマン』と名作、傑作、大作に相次いで出演し、70年代ハリウッドを代表する俳優となった。

(『許されざる者』)

 その後少し低迷したが、1988年の『ミシシッピ・バーニング』でアカデミー賞主演男優賞ノミネート、1992年にはクリント・イーストウッド監督・主演の傑作『許されざる者』の保安官役でアカデミー賞助演男優賞を受賞した。その間1990年に心臓発作を起こしたが立ち直って名脇役として映画に出ていたが、2004年に引退を表明した。1991年に再婚し今回遺体で発見された二度目の妻は、日系アメリカ人のピアニスト、ベッツィ・アラカワという人である。

 アメリカの歌手ロバータ・フラックが2月24日死去、88歳。ノースカロライナに生まれ、ピアニストとして知られた。15歳で黒人大学の名門ハワード大学に入学してクラシック音楽を学んだのである。しかし、黒人女性がクラシック界で活躍出来る環境が限られる中で、中学教師をしながら音楽活動を続け69年に歌手としてデビュー。そこに収録されていた「愛は面影の中に」が72年にクリント・イーストウッドの初監督映画『恐怖のメロディ』に使われて大ヒット。年間チャート1位となってグラミー賞を受賞した。続く「やさしく歌って」(Killing Me Softly with His Song)も大ヒットし、2年連続でグラミー賞を獲得した。この歌は本当に素晴らしくて、僕もSPレコードを持っている。その後もコンスタントに活躍し、高橋真梨子の曲を英語で歌ったアルバムもあるようだ。

(ロバータ・フラック)(「やさしく歌って」)

 韓国の女優キム・セロン(김새론)の遺体が2月16日に発見された。24歳。自殺とみなされている。子役として活躍し、特に2009年の『冬の小鳥』(ウニー・ルコント監督)に主演し注目された。監督自身の経験に基づく「国際養子」を描き、カンヌ映画祭に出品された。日本では岩波ホールで公開され、キネ旬ベストテンに入選した。その後、2010年に『アジョシ』で韓国映画大賞新人女優賞を史上最年少で受賞。2014年の『私の少女』ではペ・ドゥナの巡査と関わる少女を演じて、末恐ろしいほどの才能を感じさせた。僕は当時「数年後には大美人女優に大成しているかもしれない」と書いた。しかし、その後映画やドラマに出演するも役に恵まれず、2022年には飲酒運転で事故を起こし罰金となった。素晴らしい才能があったのに、あまりにも早い死に何があった?

(キム・セロン)(『冬の小鳥』)

 アウシュビッツ収容所生存者で歴史家、ジャーナリストのマリアン・トゥルスキが2月18日死去、98歳。ポーランド(現リトアニア)に生まれたユダヤ人で、収容所を生き延び、戦後はポーランド統一労働者党に参加し報道部で働いた。冷戦崩壊後にポーランドのユダヤ歴史協会で活動した。2019年に国連の「国際ホロコースト記念日」に招待されスピーチを行った。2020年の解放75年式典では「アウシュビッツは急に空から降ってきたものではない」として「無関心になるな」と訴えた。

(マリアン・トゥルスキ)

 ナミビア初代大統領独サム・ヌジョマが8日死去、95歳。南アフリカの委任統治領「南西アフリカ」に生まれ、南西アフリカ人民機構議長として独立運動を指導した。1990年にナミビアとして独立後、1990年から2005年まで大統領を務めた。

(サム・ヌジョマ)

・ウィーンフィルの元首席クラリネット奏者ペーター・シュミードルが1日死去、84歳。ウィーン国立音大教授として多くの弟子を育て、日本でも草津夏季国際アカデミー&フェスティバルの講師を勤めた。

・アメリカ映画の音響監督クリス・ニューマンが3日死去、84歳。『エクソシスト』『アマデウス』『イングリッシュ・ペイシェント』でアカデミー録音賞を3回受賞。その他『フレンチ・コネクション』『ゴッドファーザー』『羊たちの沈黙』などで5回ノミネートされた。

・西アフリカのマリ共和国出身の映画監督スレイマン・シセが19日死去、84歳。家父長制や軍事政権に抵抗する人々を描き、アフリカ内部の対立を初めて映画にしたと評価された。1987年の『ひかり』はカンヌ映画祭審査員賞を受賞し日本でも公開された。

・韓国の元「日本軍慰安婦」、吉元玉(キル・ウォンオク)が16日死去、96歳。

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