2025年6月14日に「山田昭次先生をしのぶ会」が立教大学マキムホール(MB01教室)で行われた。山田昭次先生は3月15日に亡くなり、そのことが報じられた時に『山田昭次先生の逝去を悼むー日本人の「良心」を貫いて』を書いた。近年この種の催しには欠席することが多かったが、今回は行ってみようかと思ったのは山田先生の様々な社会運動との関わりを知りたいと思ったのである。ともに何かの運動を担ったわけではない僕が書くのも僭越かと思うが、自分の備忘ということで記録しておきたい。
司会者としてまず開会あいさつを行ったのは石坂浩一氏(立教大学異文化コミュニケーション学部立教大学平和・コミュニティ研究機構代表)で、今回の会の内容は今後「平和・コミュニティ研究機構」の紀要に掲載されるということだった。その後、韓国からの弔辞が聖公会大学のハン・ホング氏よりあり、その後紹介されたが大韓民国国家記録院というところで山田先生の遺した史料・著書なども(一部)保存されるとのことで、さすが山田先生の業績が国境を越えて残ることに感銘を覚えた。
以後、9人の方が以下のような分野での思い出を語った。感想を書くと長くなるので、敬称略でまとめて紹介したい。
①山田先生のあゆみ(高柳俊男)②朝鮮人戦時労働動員に関する研究(長澤秀)③金子文子に関する研究(留場瑞乃)④関東大震災における朝鮮人虐殺についての研究と活動(矢野恭子)⑤山田先生の著作(黒田貴史)⑥在日朝鮮人史研究会での活動(樋口雄一)⑦在日韓国人政治犯徐勝・俊植支援運動との関わり(大槻小百合)⑧立教大学の歴史の再検討(宮本正明)⑨粟屋ゼミのメンバーからの思い出(伊香俊哉)
山田先生の関わった事柄がいかに広かったか、単なる学究ではなく誠実な市民運動家でもあったことが伝わる。配布された略年譜によれば、1959年に立教大学助手、1962年に一般教育部専任講師となり、1965年には助教授に昇格した。しかし、その後1972年に「文学部史学科から転籍要請があるも、一般教育の重要性に鑑み断る」と出ている。そして一般教育部在籍のまま、史学科、大学院でもゼミを担当したわけである。なかなか普通出来ないことではないかと思うが、どうだろうか。
先の追悼記事では長くなることもあって書かなかったことを書いておきたい。山田先生が最後に取り組んだこと(の一つ)に「君が代斉唱、日の丸掲揚の強制への反対」(年譜の表現の通り)があった。最後の著作も2016年に出た共著の『学校に思想・良心の自由を 君が代不起立、運動・歴史・思想』(影書房)だった。僕も立教大学で山田昭次先生や粟屋憲太郎先生に学んだものとして、東京都の教員として採用された時には、少なくとも「日の丸・君が代」(当時は法的には国旗・国歌ではなかった)を推進する立場、つまり管理職にはならないと心に決めて仕事していたものだ。それは結構大変なことだったと思い返すのだが。
多くの方の話に山田先生から電話があって運動に関わったというエピソードが多く聞かれた。僕はむしろ自分のやってることに先生の講演をお願いしたりしたわけだが、生涯でただ一度(だと思う)山田先生から電話で参加を要請された集会がある。それが「日の丸・君が代」反対集会なのである。21世紀初頭、石原都政下の時代で、多くの集会が開かれていたが、その時の集会は山田先生らが起ち上げた、規模的にはそんなに大きくない学習会だった。そこで「教育現場からの証言」を求められたわけである。
その時は夜間定時制高校の教員をしていたが、卒業した高校が中高一貫化され都立中学に扶桑社の歴史教科書が採択されたことへの反対運動もやっていた。そのこともあって、僕は「日の丸・君が代」問題には深入りしていなかった。その頃は教育関係じゃない人からは、東京は国旗国歌や教科書問題で大変ですねと良く言われたものだ。しかし、僕がその時発言したのは、「石原都政下の極右イデオロギー教育政策」という視角だけでは解けない大きな問題があるということである。
鈴木都政、青島都政を通して「異様なまでの都教委の中央集権化」が進行していたのである。教員の階層化(主幹はすでに設置されていた)、勤務評定の実働化(自己申告書の提出)、異動要項の改悪、授業計画提出などが毎年のように進行していた。その対応で現場は疲弊していて、現場で自由闊達に教育を語り合うという気風も消えつつあった。管理職は教員を評価するだけでなく、自らも教育委員会に評価されている。その状況はほとんど知られてなくて驚かれたことが多かった。
そんな中で東京の問題じゃないけれど、第一次安倍政権で「教員免許更新制」が成立した。そのことで「教員という仕事は、そこそこマジメにやってきたこと」を評価されない仕事になったのかと思い知ることになった。この制度は現場を悪くするだけだと確信していたが、結局その通りで10年ちょっとで廃止された。しかし、その経緯を見ていた僕は何か「心が折れる」という気になって、更新講習を受けずに2011年に退職したのである。その後、「年賀状」(にあたるもの)も一切作らなくなり、元同僚や昔の先生には失礼をすることとなった。それまでは山田先生にも送って丁寧な返事を貰うこともあったが、晩年にはもう連絡していない。
立教大学で行われた追悼会に参加したことはもう一回あったなあと思い出した。1987年秋にチャペルで行われた日本文学科(当時)の前田愛先生をしのぶ会である。前田先生が亡くなった時(1987年7月27日)は穗高岳に登山中で全く知らなかったので、僕は葬儀には参加していない。立教大学では上限はあったが他学科、他学部の講座を卒業単位として認定していた。前田先生とは集中合同講義などでも接していたが、それ以上に講義で永井荷風『日和下駄』を読んだことが忘れがたい。僕は教員を辞めた後、映画や寄席、散歩などで日々を送っているが、これは自分の『日和下駄』なのである。大学時代の影響は人生を決めるものだ。
その前に時間があったので、久しぶりにキャンパスを散歩しようかなと思った。梅雨時というのは案外写真向きなのである。しかし、この日は午後に雨予報が出ていた。降り始めの時間は予報で違っていたけれど、結局1時半頃には結構降ってきたので、昔の研究室を見に行くのは止めた。「すずかけの小径」に2024年に長嶋茂雄を顕彰するプレートが出来たとホームページにあったので見て来た。(写真はいずれ書く予定の追悼記事で。)アジサイ(紫陽花)がところどころに咲いていてキレイだった。(下の2枚目)
雨が激しくなってきたので、「立教学院展示館」に行くことにした。正門から入って左手に作られている。前に少し見たこともあったが、時間を掛けて見ていなかった。今回も展示はちゃんと見なかったが、前に書いた松浦高嶺先生の著書『学生反乱』が展示されていた。それより映像で見る学院の歴史コーナーがあって、そこは椅子に座れるので、休みながらずっと見ていたのである。これが長いんだけど面白かった。全部は見てないけれど、関東大震災から戦争戦後の時期を取り上げていた。
戦争中に「幻の医学部設置計画」があったこと、それは「聖路加病院」を傘下に収めるというものだった。また戦時中に「キリスト教主義に基づく教育」という建学の精神がにらまれて、なんと「皇道主義に基づく教育」と変更した一時期があったとは驚いた。立教大学からも多くの学生が「学徒動員」されて101人の戦死が確認されていること、「自由の学府」と歌詞にある校歌を戦時中は歌うことが許されなかったが、学徒動員で故郷へ向かう学生に在校生が校歌を歌って送ったことなどが心に残る。
この前慶應義塾大学で資料館を見たが、近年各大学で自校の歴史をふり返る施設が多く作られている。映画『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』でも関西大学の資料館が出て来た。それらの比較検討も課題ではないかと思った。