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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

山田昭次先生をしのぶ会(+梅雨の立教大学散歩)

2025年06月17日 21時54分20秒 | 追悼

 2025年6月14日に「山田昭次先生をしのぶ会」が立教大学マキムホール(MB01教室)で行われた。山田昭次先生は3月15日に亡くなり、そのことが報じられた時に『山田昭次先生の逝去を悼むー日本人の「良心」を貫いて』を書いた。近年この種の催しには欠席することが多かったが、今回は行ってみようかと思ったのは山田先生の様々な社会運動との関わりを知りたいと思ったのである。ともに何かの運動を担ったわけではない僕が書くのも僭越かと思うが、自分の備忘ということで記録しておきたい。

 司会者としてまず開会あいさつを行ったのは石坂浩一氏(立教大学異文化コミュニケーション学部立教大学平和・コミュニティ研究機構代表)で、今回の会の内容は今後「平和・コミュニティ研究機構」の紀要に掲載されるということだった。その後、韓国からの弔辞が聖公会大学のハン・ホング氏よりあり、その後紹介されたが大韓民国国家記録院というところで山田先生の遺した史料・著書なども(一部)保存されるとのことで、さすが山田先生の業績が国境を越えて残ることに感銘を覚えた。

 以後、9人の方が以下のような分野での思い出を語った。感想を書くと長くなるので、敬称略でまとめて紹介したい。

山田先生のあゆみ(高柳俊男)②朝鮮人戦時労働動員に関する研究(長澤秀)③金子文子に関する研究(留場瑞乃)④関東大震災における朝鮮人虐殺についての研究と活動(矢野恭子)⑤山田先生の著作(黒田貴史)⑥在日朝鮮人史研究会での活動(樋口雄一)⑦在日韓国人政治犯徐勝・俊植支援運動との関わり(大槻小百合)⑧立教大学の歴史の再検討(宮本正明)⑨粟屋ゼミのメンバーからの思い出(伊香俊哉)

 山田先生の関わった事柄がいかに広かったか、単なる学究ではなく誠実な市民運動家でもあったことが伝わる。配布された略年譜によれば、1959年に立教大学助手、1962年に一般教育部専任講師となり、1965年には助教授に昇格した。しかし、その後1972年に「文学部史学科から転籍要請があるも、一般教育の重要性に鑑み断る」と出ている。そして一般教育部在籍のまま、史学科、大学院でもゼミを担当したわけである。なかなか普通出来ないことではないかと思うが、どうだろうか。

 先の追悼記事では長くなることもあって書かなかったことを書いておきたい。山田先生が最後に取り組んだこと(の一つ)に「君が代斉唱、日の丸掲揚の強制への反対」(年譜の表現の通り)があった。最後の著作も2016年に出た共著の『学校に思想・良心の自由を 君が代不起立、運動・歴史・思想』(影書房)だった。僕も立教大学で山田昭次先生や粟屋憲太郎先生に学んだものとして、東京都の教員として採用された時には、少なくとも「日の丸・君が代」(当時は法的には国旗・国歌ではなかった)を推進する立場、つまり管理職にはならないと心に決めて仕事していたものだ。それは結構大変なことだったと思い返すのだが。

 多くの方の話に山田先生から電話があって運動に関わったというエピソードが多く聞かれた。僕はむしろ自分のやってることに先生の講演をお願いしたりしたわけだが、生涯でただ一度(だと思う)山田先生から電話で参加を要請された集会がある。それが「日の丸・君が代」反対集会なのである。21世紀初頭、石原都政下の時代で、多くの集会が開かれていたが、その時の集会は山田先生らが起ち上げた、規模的にはそんなに大きくない学習会だった。そこで「教育現場からの証言」を求められたわけである。

 その時は夜間定時制高校の教員をしていたが、卒業した高校が中高一貫化され都立中学に扶桑社の歴史教科書が採択されたことへの反対運動もやっていた。そのこともあって、僕は「日の丸・君が代」問題には深入りしていなかった。その頃は教育関係じゃない人からは、東京は国旗国歌や教科書問題で大変ですねと良く言われたものだ。しかし、僕がその時発言したのは、「石原都政下の極右イデオロギー教育政策」という視角だけでは解けない大きな問題があるということである。

 鈴木都政、青島都政を通して「異様なまでの都教委の中央集権化」が進行していたのである。教員の階層化(主幹はすでに設置されていた)、勤務評定の実働化(自己申告書の提出)、異動要項の改悪授業計画提出などが毎年のように進行していた。その対応で現場は疲弊していて、現場で自由闊達に教育を語り合うという気風も消えつつあった。管理職は教員を評価するだけでなく、自らも教育委員会に評価されている。その状況はほとんど知られてなくて驚かれたことが多かった。

 そんな中で東京の問題じゃないけれど、第一次安倍政権で「教員免許更新制」が成立した。そのことで「教員という仕事は、そこそこマジメにやってきたこと」を評価されない仕事になったのかと思い知ることになった。この制度は現場を悪くするだけだと確信していたが、結局その通りで10年ちょっとで廃止された。しかし、その経緯を見ていた僕は何か「心が折れる」という気になって、更新講習を受けずに2011年に退職したのである。その後、「年賀状」(にあたるもの)も一切作らなくなり、元同僚や昔の先生には失礼をすることとなった。それまでは山田先生にも送って丁寧な返事を貰うこともあったが、晩年にはもう連絡していない。

 立教大学で行われた追悼会に参加したことはもう一回あったなあと思い出した。1987年秋にチャペルで行われた日本文学科(当時)の前田愛先生をしのぶ会である。前田先生が亡くなった時(1987年7月27日)は穗高岳に登山中で全く知らなかったので、僕は葬儀には参加していない。立教大学では上限はあったが他学科、他学部の講座を卒業単位として認定していた。前田先生とは集中合同講義などでも接していたが、それ以上に講義で永井荷風日和下駄』を読んだことが忘れがたい。僕は教員を辞めた後、映画や寄席、散歩などで日々を送っているが、これは自分の『日和下駄』なのである。大学時代の影響は人生を決めるものだ。

 その前に時間があったので、久しぶりにキャンパスを散歩しようかなと思った。梅雨時というのは案外写真向きなのである。しかし、この日は午後に雨予報が出ていた。降り始めの時間は予報で違っていたけれど、結局1時半頃には結構降ってきたので、昔の研究室を見に行くのは止めた。「すずかけの小径」に2024年に長嶋茂雄を顕彰するプレートが出来たとホームページにあったので見て来た。(写真はいずれ書く予定の追悼記事で。)アジサイ(紫陽花)がところどころに咲いていてキレイだった。(下の2枚目)

   

 雨が激しくなってきたので、「立教学院展示館」に行くことにした。正門から入って左手に作られている。前に少し見たこともあったが、時間を掛けて見ていなかった。今回も展示はちゃんと見なかったが、前に書いた松浦高嶺先生の著書『学生反乱』が展示されていた。それより映像で見る学院の歴史コーナーがあって、そこは椅子に座れるので、休みながらずっと見ていたのである。これが長いんだけど面白かった。全部は見てないけれど、関東大震災から戦争戦後の時期を取り上げていた。

(立教学院展示館)(尹東柱に関する展示)

 戦争中に「幻の医学部設置計画」があったこと、それは「聖路加病院」を傘下に収めるというものだった。また戦時中に「キリスト教主義に基づく教育」という建学の精神がにらまれて、なんと「皇道主義に基づく教育」と変更した一時期があったとは驚いた。立教大学からも多くの学生が「学徒動員」されて101人の戦死が確認されていること、「自由の学府」と歌詞にある校歌を戦時中は歌うことが許されなかったが、学徒動員で故郷へ向かう学生に在校生が校歌を歌って送ったことなどが心に残る。

 この前慶應義塾大学で資料館を見たが、近年各大学で自校の歴史をふり返る施設が多く作られている。映画『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』でも関西大学の資料館が出て来た。それらの比較検討も課題ではないかと思った。

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佐和隆光、鎌田東二、大村幸弘、マーサ三宅、沢竜二他ー2025年5月の訃報②

2025年06月08日 21時25分47秒 | 追悼

 2025年5月の訃報、日本人編。6月早々に「長嶋茂雄」の訃報が伝えられたが、来月に書きたい。5月は僕もよく知らない人の訃報が多かったが、まず学者から。経済学者の佐和隆光(さわ・たかみつ)が5月17日死去、82歳。数量経済学の大家で、京大経済研究所長、滋賀大学学長を務めた。80年代以後、環境経済学に研究領域を広げ国の環境政策にも影響を与えた。一般書も多く、岩波新書の『経済学とは何だろうか』(1982)、『地球温暖化を防ぐ』(1997)、『グリーン経済学』(2009)などの他、中公新書、ちくま新書などにも著書がある。ダイヤモンド社からも一般向け経済書を出した。もっとも一冊も読んでないのだが。

(佐和隆光)

 宗教人類学者の鎌田東二が5月30日死去、74歳。京大名誉教授。宗教哲学、民俗学などを横断的に研究し、日本人の死生観を研究した。著書に『翁童論』『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』『霊性の文学史』『日本人は死んだらどこへ行くのか』『悲嘆とケアの神話論 須佐之男と大国主』など多数。神職の資格を持ち、日本臨床宗教師会会長などを歴任した。また「神道ソングライター」として活動したり、水神祥(みなかみ・あきら)名義で詩人、小説家としても活動した。この人も読んでないのでよく知らない。

(鎌田東二)

 考古学者でトルコのアナトリア地方の発掘に携わった大村幸弘が5月20日死去、78歳。1986年から古代ヒッタイト帝国の中央部、カマン・カレホユック遺跡を発掘し「中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所」所長として研究を推進してきた。4月から名誉会長になっていた。トルコの自宅で心臓発作を起こし亡くなった。NHKブックスに『鉄を生みだした帝国-ヒッタイト発掘』(1981、講談社ノンフィクション賞)、『アナトリア発掘記-カマン・カレホユック遺跡の二十年』(2004)などがある。

(大村幸弘)

 芸能界では大衆演劇で知られた沢竜二が5月21日死去、89歳。「女澤正一座」の座長の子として巡業中の楽屋に生まれ、4歳で舞台に立った。1954年に10代で座長となるも、一時解散して東京で歌の勉強をした。歌手として目が出ないため、現代劇やテレビ、映画などでも活躍。その後再び一座を結成しアメリカ公演も行った。また漫才師の昭和のいるが24日死去、88歳。1966年に獅子てんや・瀬戸わんやに弟子入りし、「昭和のいる・こいる」として活躍した。

(沢竜二)

 ジャズ歌手のマーサ三宅が5月14日死去、92歳。米軍キャンプで歌い始め、55年にレコードデビュー。1956年に当時ジャズ評論が仕事の中心だった大橋巨泉と結婚した。二人の間には歌手大橋美加など二人の子がいるが、巨泉がテレビタレントになる中ですれ違いが多くなり、1967年離婚。1972年、マーサ三宅ヴォーカルハウスを開校し、大橋純子、今陽子らを輩出した。1988年南里文雄賞を受賞。また「ザ・ゴールデン・カップス」のギタリストだったエディ藩が10日死去、77歳。

(マーサ三宅)

 ジャーナリストの田畑光永(たばた・みつなが)が5月7日死去、89歳。1960年に現在のTBSに入社し、中国報道などを専門とした。80年代には『報道特集』や『ニュースコープ』などのキャスターとして活躍した。著書に『中国を知る』『鄧小平の遺産』など。定年後は大学で教えたが、退職後の2007年に、護憲・軍縮・共生を掲げるブログ「リベラル21」を開設した。

(田畑光永)

 阪急阪神ホールディングス元会長角和夫(すみ・かずお)が4月26日死去、76歳。私鉄大手の経営統合を実現し、関西経済界の重鎮として知られた。村上ファンドによる株式大量取得に揺れた阪神に対し、阪急社長だった角が経営統合を決断した。梅田駅周辺の再開発などを進め、2017年に会長に就任した。2024年末に健康上の理由で会長を辞任。

(角和夫)

 ハンセン病国賠訴訟を最初に提訴した原告13人の1人で、全国原告団協議会会長だった志村康が5月1日死去、92歳。佐賀県に生まれ、1948年に15歳で熊本県の菊池恵楓園に入所した。一時退所したものの、93年に再入所。98年に熊本地裁に国賠訴訟を提訴した。菊池恵楓園の自治会長も務めた。国賠訴訟を最初に提訴するのに大きな役割を果たしたことは特筆される。

(志村康)

 文芸評論家の桶谷秀昭が3月27日に死去していた。93歳。1984年に『保田輿重郎』で芸術選奨文部大臣賞、1992年に『昭和精神史』で毎日出版文化賞など。60年代末から『土着と情況』『近代の奈落』など名前が気になる本を出していた。その後、北村透谷、正岡子規、二葉亭四迷、中野重治、伊藤整など近代日本の文学者を論じた。晩年は保守的な論調だったと思う。

(桶谷秀昭)

・バイオリニストの小林武史が19日死去、94歳。1955年に東京交響楽団のコンサートマスターになり、その後ヨーロッパで活躍した。帰国後読売日本交響楽団のコンサートマスターを経て、71年からソロで活躍した。

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ムヒカ、サルガド、グギ・ワ・ジオンゴ、ナイ他ー2025年5月の訃報①

2025年06月07日 20時00分41秒 | 追悼

 2025年5月の訃報特集。5月は内外ともに大きな訃報が少なかった。しかし一回で書くのは大変なので2回に分けて書くことにする。外国人の訃報で比較的大きく報道されたのは元ウルグアイ大統領ホセ・ムヒカだった。5月13日没、89歳。「世界一貧しい大統領」と呼ばれ、記録映画にもなった。(現在リバイバル上映されている。)60年代には極左ゲリラ組織「ツパマロス」に加わり、10年以上投獄された。95年に下院議員に当選し、上院議員を経て、2010年から2015年に大統領を務めた。報酬の大部分を寄付して自身は農場で住んで質素な生活を送って話題となった。退任後の2016年に来日して広島などを訪問した。

(ホセ・ムヒカ)

 ブラジル出身の世界的写真家、セバスチャン・サルガドが5月23日死去、81歳。60年代後半に軍政反対運動に参加し、その後フランスに移住。ロンドンの国際コーヒー機関に勤務してアフリカ各地を訪れた。その間に趣味だった写真を本格的に追求するため、仕事を辞めてフォトジャーナリストとなった。アフリカに取材した「サヘル」や世界各地の労働者を題材にした「人間の土地 労働」などの代表作がある。雄大な大自然に向き合う人間をフォトジェニックに映し出し世界的に評価された。ヴィム・ヴェンダース監督による記録映画『セバスチャン・サルガド、地球へのラブレター』があり、この人の素晴らしい業績を初めて知った。

(セバスチャン・サルガド)(サヘルの飢饉)

 ケニア出身の作家グギ・ワ・ジオンゴが5月28日死去、87歳。イギリス植民地だったケニアに生まれ、独立直後の時代に創作活動を開始した。イギリスに留学後、ナイロビ大学などに勤務したが、この時代は英語で創作していた。77年に現地のキクユ語で書いた民衆劇「したい時に結婚するわ」が反体制的とされ1年間拘禁された。釈放後は英語ではなくキクユ語で創作を続けたが、82年の英国滞在時に帰国すれば逮捕されると警告され、事実上亡命生活に入った。92年にはアメリカに移り、ジョージア州で亡くなった。代表作に『川をはさみて』(1965)、『一粒の麦』(1967)などがあり邦訳もある。長くノーベル文学賞候補と言われ続けてきた。

(グギ・ワ・ジオンゴ)

 アメリカの国際政治学者、ジョセフ・ナイが5月6日死去、88歳。国家には軍事力や経済力だけでなく、文化や価値観などで国際的目的を達成する「ソフト・パワー」が重要だと主張した。「文明の衝突」論のハンチントンなどへの批判でもあったが、その後の国際政治学のキーワードとして定着した。またカーター政権で国務副次官、クリントン政権で国家情報会議議長、国防次官補などに就任して現実政治にも関わった。その時代には東アジアの米軍10万人態勢を維持する「東アジア戦力報告」(ナイ・リポート)を発表して、日米関係に影響を与えた。4月に亡くなったアーミテージとそもに「アーミテージ・ナイ・リポート」を出すなど、対日政策に深く関わってきた。ハーバード大教授を長く務め、トランプ政権から見れば「民主党支持のエリート学者」になるのだろう。

(ジョセフ・ナイ)

 アメリカの映画監督ロバート・ベントンが5月11日死去、92歳。『俺たちに明日はない』(1967)の脚本家(アカデミー脚本賞ノミネート)であり、『クレイマー、クレイマー』(1979)の監督である。『おかしなおかしな大追跡』『スーパーマン』などの脚本がある。『夕陽の群盗』(1973)で監督に進出。『クレイマー、クレイマー』ではアカデミー賞で作品、監督、脚色、主演男優(ダスティン・ホフマン)、助演女優(メリル・ストリープ)の5部門で受賞した。演技部門の2人はこれが初のオスカーだった。また子役のジャスティン・ヘンリーは8歳で助演男優賞にノミネートされ、今も最年少記録となっている。その後『プレイス・イン・ザ・ハート』(1984)でサリー・フィールドが主演女優賞、ベントンが脚本賞を受賞した。他に『殺意の香り』(1982)、『ビリー・バスゲイト』(1991)、『白いカラス』(2003、フィリップ・ロス『ヒューマン・ステイン』の映画化』などがある。

(ロバート・ベントン)

ユーリ・グリゴローヴィッチ、19日死去、98歳。ロシアのバレエ振付家、指揮者。46年にレニングラード・バレエ学校を卒業してダンサーとなった。64年にボリショイ・バレエ団でバレエマスター、88年に芸術監督。ボリショイ・バレエの黄金期を築いた。

ジェームズ・フォーリー、アメリカの映画監督、6日死去、71歳。『摩天楼を夢みて』などがある。

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小山正明、畠山重篤、山口崇、徳岡孝夫他ー2025年4月の訃報②

2025年05月08日 19時40分56秒 | 追悼

 2025年4月の訃報、日本人編は元野球選手、小山正明から。4月18日死去、90歳。阪神、大毎(現ロッテ)、大洋で活躍し、通算勝利数320勝は歴代3位。それなのに今ひとつ知名度が低いと思うが、引退後にコーチだけで監督をしていないからだろう。阪神時代の62年には27勝11敗で優勝の原動力となった。(しかし、その年は中日の権藤が30勝で最多勝利だった。)翌63年のオフに「世紀のトレード」と騒がれた山内一弘選手と交換で大毎オリオンズに移籍した。(映画会社の大映と毎日新聞で「大毎」、直後に東京オリオンズと改称)。年齢的に僕はその後しか知らず、小山と言えばパリーグという印象である。64年には30勝をあげて最多勝利となった。コントロールにすぐれ「精密機械」と呼ばれた。引退後は阪神、西武、ダイエーでコーチを務め、2001年に野球殿堂入り。

 (小山正明)

 海洋資源を守るため環境保全運動(「森は海の恋人」)を進めた畠山重篤が4月3日死去、81歳。肩書きとしては、カキ養殖漁師、NPO法人理事長、エッセイスト。宮城県気仙沼でカキ養殖をしていたが、60年代から赤潮被害が発生するようになった。その原因として上流地域の森林荒廃に着目し、森の植樹運動などを始めた。著書に『森は海の恋人』(1994)、『漁師さんの森づくり』(2000、産経児童出版文化賞、小学館児童出版文化賞)、『日本〈汽水〉紀行』(2003、エッセイストクラブ賞)、『鉄が地球温暖化を防ぐ』(2008)など多数。吉川英治文化賞受賞。僕もずいぶん読んで来たが、次第に「有名人」になったかなと思う。

(畠山重篤)

 俳優の山口崇が4月18日死去、88歳。この人は今でも『天下御免』の平賀源内と言われる。NHKで1971~72年に放送された時代劇で、確かに面白くて林隆三の出世作でもあった。今年の大河ドラマに源内が出て来るのでインタビューを受けたら、声がかすれていて検査して肺がんが判明したとWikipediaに出ている。また『大岡越前』の徳川吉宗役を30年近く演じたり、「クイズタイムショック」の司会者を田宮二郎の後を受けて78年から86年まで務めた。そういう風に「お茶の間の人気者」だったのだが、元は舞台人で劇団俳優小劇場の創設メンバー。小沢昭一の芸能座を加藤武、山谷初男らと結成したメンバーでもあった。邦楽に造詣が深く、本人も長唄の名取りだったが、長男が3代目杵屋巳三郎を襲名しているほどだという。

(山口崇)

 ジャーナリスト、評論家の徳岡孝夫が4月12日死去、95歳。毎日新聞記者としてバンコク特派員などを務め、ベトナムや中東情勢を取材した。1970年、サンデー毎日記者時代に、「三島事件」当日に親交のあった三島由紀夫から依頼され「楯の会」関係者から檄文を託されたことで知られる。73年にドナルド・キーンとの共著『悼友紀行』を刊行(現在は『三島由紀夫を巡る旅 悼友紀行』として新潮文庫に収録)。それをきっかけにキーンの信頼を得て『日本文学史』の訳者となった。三島との交流は『五衰の人』(1997)を刊行、新潮社学芸賞受賞。保守派の論客と知られ、雑誌『諸君!』によく書いていた。トフラー『第三の波』、トーランド『真珠湾攻撃』、ニクソン『指導者とは』、『ライシャワー自伝』など話題作の翻訳者でもあった。高齢になって忘れられたか訃報が小さかった。

(徳岡孝夫)

 「保守派」にもう一人、美術史家の田中英道が4月30日死去、83歳。東北大名誉教授。日本美術の世界的価値を高く評価し、国中公麻呂(くになかのきみまろ、東大寺大仏を作ったと言われる)を「天平のミケランジェロ」と評するなどした。しかし、次第に「トンデモ」化していき、「新しい歴史教科書をつくる会」会長を務めるなどした。

(田中英道)

 『今日の日はさようなら』の作詞、作曲をした金子詔一が4月1日死去、82歳。青少年キャンプ団体ハーモニィセンター設立に参加、1966年にキャンプソングとして『今日の日はさようなら』を作った。この曲は森山良子が歌って多くの人に知られ、卒業式などの定番ソングとなった。僕も最初の卒業生を出した時にクラスで歌った思い出がある。(昔はそんなことが可能だったことに驚くけど、20世紀の話。)その後は英語教育や「英語九九」の普及に努めたらしい。1975年の都知事選に出たこともある。

金子詔一)

 和歌山県知事の岸本周平が4月15日死去、68歳。財務官僚、トヨタ自動車を経て、2009年に民主党から衆議院議員に当選。その後、民進党、希望の党、国民民主党から5回当選。2022年の知事選に出馬して当選、一期目の途中だった。

(岸本周平)

・ラジオプロデューサー、作家の延江浩が6日死去、67歳。FM東京でラジオプロデューサーとして活躍、ギャラクシー賞など多数受賞している。村上春樹の「村上RADIO」を担当した。映画『大鹿村騒動記』の原作他、『愛国とノーサイド』など著書多数。

・画家や作家など幅広く活動した大宮エリーが23日死去、49歳。電通でコピーライターとして活動後、脚本家、映画監督、エッセイスト、画家、演出家、ラジオパーソナリティなど多くの分野に渡って活動していた。

・弁護士の阪口徳雄が24日死去、82歳。1971年に青年法律家協会所属の裁判官の任官拒否問題に、司法修習生として異議を唱えて罷免された。その後再び修習生となり73年に弁護士となった。政治資金オンブズマンを務め、森友学園訴訟などに関わった。

・女優の入江杏子が24日死去、97歳。劇団民藝に所属して50年代に『アンネの日記』や『セールスマンの死』などに出ているが、それ以上にこの人は檀一雄『火宅の人』のモデルとして知られる人なのである。最近まで生きていたのかと感慨深い。

 

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フランシスコ教皇、バルガス=リョサ、アーミテージ他ー2025年4月の訃報①

2025年05月07日 20時08分11秒 | 追悼

 2025年4月の訃報特集。やはり一番最初に書くべきは第266代ローマ教皇フランシスコだろう。4月21日没、88歳。長い歴史の中で「フランシスコ」という名がなかったことも驚きだが、それでも普通は「フランシスコ1世」と名乗るものだ。しかし、この人の場合「1世」はつかない。2013年3月に前任者ベネディクト16世の(約600年ぶりの)「生前退位」を受けて教皇に選出された。俗名ホルヘ・マリオ・ベルゴリオで、アルゼンチン出身。初の南米出身だった。(非ヨーロッパ系としてはシリア出身の90代グレゴリウス3世までさかのぼる。8世紀の人。)2月に入院していて危篤と報道されつつ退院した直後の訃報だった。

 フランシスコは出身国だけでなく、カトリック教会初のイエズス会出身でもある。軍事政権下のアルゼンチンで活動した経過は『ロマ法王になる日まで』という映画になった。また教皇選出後に世界各地を訪問する様子は『旅するローマ教皇』という映画になっている。2005年にも有力候補と言われたが選ばれず、2013年には75歳という年齢から選出はないと言われていた。カトリック教会は「保守派」「改革派」に争いがあるが、フランシスコは改革派に近いけれど改革は不十分との批判も絶えない。日本は2019年に訪れて、長崎・広島の被爆地で核兵器廃絶を訴えた。在位中に47回、66か国を訪問したという。その中にはパレスチナ、イスラエルも含まれる。他宗派、他宗教との対話にも積極的だったが、晩年はロシアに宥和的な発言など批判も多かった。

(広島で)

 ペルーの作家で、2010年のノーベル文学賞受賞者マリオ・バルガス=リョサが4月13日死去、89歳。(ガブリエル・ガルシア=マルケスに関して以前書いたように、スペイン語圏では父姓と母姓を複合させて使用することがある。バルガスが父の姓、リョサが母の姓である。)1963年に『都会と犬ども』を発表して評価され、『緑の家』(1966)や『ラ・カテドラルでの対話』(1969)などの大長編で世界的作家とみなされた。それらはスペインやフランスで書かれたが、1974年に帰国し1976年には40歳で世界ペンクラブ会長となった。政治的には当初の左翼から次第に保守化していき、1990年には中道右派「民主戦線」から大統領選に出馬したが、決選投票でアルベルト・フジモリに敗れた。その後は外国で暮らすことが多かったが、最期はペルーで亡くなった。ほとんどの作品が翻訳されていてずいぶん持っているのだが、長くて何となく敬遠して読んだことがない作家である。

(マリオ・バルガス=リョサ)

 元米国国務副長官のリチャード・アーミテージが4月13日死去、79歳。海軍兵学校を卒業してベトナム戦争に従軍、一時は米国に戻るが、再び戻って75年のサイゴン陥落時に南ベトナム空軍の将兵とともに脱出したという。その後レーガン政権で国防次官補に就任、2001年から05年にジョージ・ブッシュ(子)政権で国務副長官を務めた。「アジア通」「知日派」とされ、00年以来超党派の対日政策文書「アーミテージ・リポート」を発表した。2001年の同時多発テロ時には日本の柳井駐米大使に「Show the FLAG」(旗幟を鮮明にしろ)と発言したという。共和党「穏健派」の重鎮だが、日本にとっては軍備増強を迫る「圧力」を掛け続けた人。

(アーミテージ)

 アメリカの俳優、ヴァル・キルマーが4月1日死去、65歳。1986年の映画『トップガン』でトム・クルーズのライバル(アイスマン)を演じて注目された。1991年のオリヴァー・ストーン監督の『ドアーズ』では主役のジム・モリソンを演じた。『トップガン マーヴェリック』で同じ役を演じたのが遺作となった。

(ヴァル・キルマー)

 元中日ドラゴンズなどで活躍した野球選手トニ・ブランコが4月8日、ドミニカの首都サントドミンゴで起きたナイトクラブの屋根崩壊事故に巻き込まれれて死亡した。43歳。米大リーグに所属後、2009年シーズンから中日に所属、その年にホームラン、打点の2冠に輝いた。ナゴヤドームで天井を直撃した認定本塁打を初めて放った人。その後DeNA、オリックスに移籍して2016年引退。同じ事故では、大リーグ13球団に所属して当時の最多チーム所属としてギネス記録となったオクタビオ・ドーテルも51歳で死去。

(トニ・ブランコ)

 イギリスのミステリー作家、ピーター・ラヴゼイが4月10日死去、88歳。70年代から21世紀初頭に活躍し、日本でもたくさん翻訳された。エドワード皇太子が探偵役の歴史ミステリーなどで知られた。一番評判になったのはピーター・ダイヤモンド警視シリーズで、『最後の刑事』『単独捜査』『バースへの帰還』などは日本でも高く評価された。ノンシリーズでは『偽のデュー警部』『苦い林檎酒』などがあり、ほとんどはハヤカワ文庫に収録されていた。『最後の刑事』は面白かったなと記憶している。

(ピーター・ラヴゼイ)

・元マレーシア首相のアブドラ・バダウィが14日死去、85歳。2003年にマハティール元首相の後任として首相に就任。2008年の選挙で与党議席を減らした責任を取り、2009年に辞任した。

・映画監督のテッド・コッチェフが10日死去、94歳。カナダ出身で米映画『ランボー』の監督をした人。

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いしだあゆみ、みのもんた、石川一雄、ジョージ・フォアマン他ー2025年3月の訃報

2025年04月05日 21時31分53秒 | 追悼

 2025年3月の訃報特集。山田昭次先生と篠田正浩監督を別に書いたので、他の方々は一回で。まず歌手・俳優のいしだあゆみが3月11日に死去、76歳。甲状腺機能低下症という死因に驚いた。1968年に「ブルーライト・ヨコハマ」が大ヒットしたが、中学生だった僕はよく記憶している。本当に大ヒットした曲だった。後に是枝裕和監督の映画にうまく使われていて、何だか時代を思い出す曲だなあと思った。他にヒット曲があったのかと思ったら、テレビニュースで「あなたならどうする」を流してた。そういう曲もあったなあ。私生活では1980年から84年まで萩原健一と結婚していたが、もう皆触れない感じだった。

 

 その後活躍の場を俳優業にシフトしていったが、代表作はやはり『火宅の人』(1986)の主人公(作家檀一雄)の妻役だろう。毎日映画コンクール、日本アカデミー賞、ブルーリボン賞で主演女優賞、キネマ旬報では助演女優賞を獲得した。果たして主演か助演かという役柄。他にも『駅STATION』『男はつらいよ あじさいの歌』など数多くの映画、テレビドラマ、舞台で活躍したが、中で一番忘れがたいのは工藤栄一監督の『野獣刑事(でか)』(1982)という「異常犯罪」もの。ヤクザの情婦でありながら、獄中にいる亭主を逮捕した刑事緒形拳と出来ちゃったという凄い役を全力で演じていた。情感あふれる犯罪映画の大傑作。

(『野獣刑事』)

 テレビ司会者、アナウンサーのみのもんたが3月1日死去、80歳。本名御法川法男(みのりかわ・のりお)。2006年には「一週間に最も長くテレビに生出演する司会者」としてギネスブックに登録されたぐらい活躍していた。「クイズ$ミリオネア」の決めぜりふ「ファイナル・アンサー?」も知られた。しかし、そんな人が2013年に不祥事がいろいろあって降板して全く消えてしまった。僕にとって「みのもんた」は、文化放送時代のアナウンサーとして記憶している人である。深夜放送の『セイ!ヤング』のパーソナリティを69年から73年まで務めて、受験生だった自分は他局と行きつ戻りつ、よく聴いていたので懐かしい名前。

(みのもんた)

 狭山事件再審請求人の石川一雄が3月11日死去、86歳。その時に追悼記事を書こうかとも思ったが、実は狭山事件60年の記事が差し止めになっている。事件や支援運動について詳しく書くことが出来ないなら書く意味がない。事件については比較的調べやすいので、ここでは書かないことにする。僕は一度も事実調べが行われていないということは、どういうことなのだろうかと感じている。金宣雄監督『SAYAMA 見えない手錠をはずすまで』などの映画は配信で見られるようなので、紹介だけしておきたい。

(石川一雄)

 元福島県知事の佐藤栄佐久が3月19日死去、85歳。参院議員を経て88年に福島県知事に当選、06年まで5期当選した。06年9月に実弟の談合事件で批判が高まり辞職した。その後、本人も県発注工事をめぐる収賄容疑で逮捕、起訴され、東京地裁(懲役3年、執行猶予5年)、東京高裁(懲役2年、執行猶予4年)で有罪となり、12年に最高裁で確定した。しかし、この事件は確定判決によると「収賄額ゼロ円」という奇妙な「汚職」事件である。東電原発のプルサーマル計画の受け入れ撤回など国策に反対したことから、「国策捜査」だったという疑惑が指摘されている。『知事抹殺 つくられた福島県汚職事件』『福島原発の真実』(両方とも平凡社)の著書があり、それらを読むと考えさせられるものがある。「不当捜査」が指摘されるケースとしては、2002年に検察官裏金問題をテレビで告発予定の日に逮捕された元大阪高検公安部長の三井環が1月9日に死去していたことも報道された。80歳。

(佐藤栄佐久)

 政治家としては、元参議院議長斎藤十朗が3月17日に死去、85歳。三重選挙区で自民党から6回当選し、95年から2000年まで参院議長を務めた。選挙制度改革をめぐる混乱の責任として議長を辞職した。また元福岡県知事の麻生渡が3月15日死去、85歳。特許庁長官などを経て、95年から2011年まで福岡県知事を4期務めた。05年~11年には全国知事会長に九州の知事で初めて就任した。在任中に県産イチゴ「あまおう」をブランド化したことで知られる。同県人だが麻生太郎元首相との血縁関係はない。

(斎藤十朗)(麻生渡)

 政治家としては、元参院議員の田名部匡省(たなぶ・まさみ)が26日没、90歳。青森県議を経て、衆院6期、参院2期務め、91年宮沢内閣で農水相を務めた。93年に自民党を離党、新生党、新進党などを経て05年民主党入党。アイスホッケー日本代表として冬季五輪に2回出場したことで知られる。また竹村泰子が27日没91歳。83年に横路知事の代わりに衆院に立候補して当選。その後落選し、89年に参院に転じて2回当選した。市民運動から社会党、民主党で議員活動を行った人である。

 プロボクシングの元ヘビー級チャンピオン、ジョージ・フォアマンが3月21日死去、76歳。68年メキシコ五輪ヘビー級金メダリストで、69年にプロに転向、73年1月無敗で王座についた。74年にモハメド・アリ(ベトナム戦争の兵役拒否によるライセンスはく奪処分を解除された)とキンシャサ(コンゴ)で対戦し、初めて敗れた。77年に一端引退しキリスト教宣教師になったが、金策のため87年に現役復帰。94年に45歳で20年ぶりの王座に復帰した。97年に競技を離れたが、戦績は76勝5敗だった。

(ジョージ・フォアマン)

 日本のスポーツ界では、五輪で6つの金メダルを獲得した体操競技の中山彰規(なかやま・あきのり)が3月9日死去、82歳。68年メキシコ五輪で団体、鉄棒、平行棒、吊り輪、72年ミュンヘン五輪で団体、吊り輪で金メダルを獲得した。他に銀2、銅2。また東京五輪マラソン代表だった寺沢徹が23日死去。90歳。63年に当時の世界最高記録を樹立したが東京五輪では15位だった。

(中山彰規)

 芸能界では喜劇俳優の芦屋小雁(あしや・こがん)が3月28日死去、91歳。兄の芦屋雁之助とともに兄弟コンビの漫才師として人気を得た。2004年に兄が亡くなった後、放浪の画家山下清役を引き継ぎ『新・裸の大将放浪記』に出演した。芸能人じゃないけど、テレビによく出ていた料理研究家枝元なほみが2月27日に死去、69歳。「転形劇場」の俳優をしながら無国籍料理店で働き、解散後に料理研究研究家となった。「きょうの料理」「はなまるマーケット」など多くのテレビに出演し素材の味を生かした家庭料理で人気を得た。食を通し多くの人を支援しホームレス支援のビッグイシュー基金理事を務めた。多くの著書がある。

(芦屋小雁)(枝元なほみ)

・元駐日アメリカ大使のマイケル・アマコストが8日死去。87歳。89~93年にブッシュ(父)政権で駐日大使を務め、「ミスター外圧」と呼ばれた。今のところ最後の外交官出身駐日大使である。

・旧ソ連出身の世界的な前衛作曲家ソフィア・グバイドゥーリナが13日死去、93歳。タタール共和国出身で、民族楽器の可能性を開拓した作品で西欧で高く評価されたという。90年代にドイツに移住して活動した。日本のエッセンスを取り入れた学教もあり、武満徹や高橋悠治に大きな影響を与えた。98年世界文化賞(音楽部門)受賞。スゴイ人らしいが名前を知らなかった。

藤川晋之助、11日死去、71歳。「藤川選挙戦略事務所」代表理事。いわゆる選挙プランナーとして知られた存在だった。元大阪市会議員で、小沢一郎系として自民党を離党、いくつかの選挙で落選した後、「裏方」専門となった。24年都知事選では石丸伸二陣営の選対事務局長を務めた。

オレグ・ゴルジェフスキー、21日までに死去、86歳。旧ソ連でKGB将校だったが、68年のチェコ侵攻に幻滅してイギリスのスパイとなったことで知られる。冷戦期に重要な情報を伝えて衝突回避につながったとされる。85年に英国に亡命した。『KGBの男-冷戦史上最大の二重スパイ』という伝記がベストセラーになり、日本でも翻訳されている。

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山田昭次先生の逝去を悼むー日本人の「良心」を貫いて

2025年03月27日 21時54分18秒 | 追悼

 歴史学者で立教大学名誉教授の山田昭次先生の訃報が伝えられた。3月15日没、95歳。年齢が年齢だけに遠からず訃報を聞くことは覚悟していたが、やはり寂しいことである。僕は直接に授業、ゼミなどで教えを受けた者だが、それ以上に卒業後もいろいろと関わりがあって、話を聞く機会も多かった。関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の真相究明にライフワーク的に取り組んできたが、関東大震災の周年集会でも顔を見ることがなくなっていた。まあ年齢的にやむを得ないことだろうと推察していた。

 山田先生は立教大学では長く一般教育部に所属して、文学部史学科にも出講していた。そのためかどうか、ゼミも朝イチか夕方に開講されていて、僕は早起きが苦手なので学部時代にゼミを取らなかった。大学院に進学後にゼミを受講して史料の読解など非常に勉強になった。そういう普通の意味で「恩師」なのだが、山田先生と言えば学部時代から違うことで知っていた。それは「韓国政治犯徐勝徐俊植兄弟の救援運動である。1971年に韓国で「学園浸透スパイ団事件」として逮捕されたのが徐兄弟である。山田先生は自ら救援会を立ち上げ、渡韓して長く運動を続けた。昔のチラシ、ビラ等をかなり取ってあるので、探してみたら出て来た。

(「徐さん兄弟救援報告」36号)

 幾つもあるのだが、ここでは第36号(1987年12月13日付)の画像を載せておく。もう僕は就職していた時期だから、送られてきたのか集会などで貰ったものか。多分時々カンパしていたと思う。会の名前は「徐さん兄弟を守る会」で、連絡先は立教大学12号館になっている。徐勝さんは韓国が民主化されてもすぐには解放されず、1990年に釈放された。(刑期は原判決が無期懲役で、その後20年に減刑されていて、19年間の拘禁生活を送った。)徐兄弟初め多くの在日韓国人政治犯の救援運動がその頃存在した。徐兄弟に関しては他にも救援運動があったが、一人で最後までやり切ったのは見事というしかないと思う。

(『生き抜いた証に』)

 もう一つ新聞やウィキペディアに載っていない重要な仕事に、朝鮮人・韓国人ハンセン病元患者の聞き書きがある。これは学生と共に取り組んだ研究で、立教大学史学科山田ゼミナール編生き抜いた証に ハンセン病療養所多磨全生園朝鮮人・韓国人の記録』という本にまとめられている。1989年に緑陰書房から刊行された本で、1996年に廃止される「らい予防法」がまだあった時代である。僕もその前から何度も全生園を訪問していたし、別に訪問に許可など要らなかった。それでも法律上は厳しい「隔離」が定められていた。ハンセン病問題への関心がまだ少なかった時代の先駆的な業績で、忘れられないで欲しい本だ。

 僕は1980年に韓国ハンセン病元患者定着村へのワークキャンプに参加した。その後も関わりが続き、韓国に「交流(むすび)の家」を作ろうという動きが起こった。(「交流の家」というのは、奈良に作られたハンセン病元患者との交流用施設の名前。)その会で僕が中心になって「映画と講演の会」を企画したことがある。映画はハンセン病差別を描く『あつい壁』と韓国映画『族譜』で、講演は山田先生にお願いした。日時の承諾を得た後、中身をきちんと説明するために、久しぶりに大学の山田研究室を訪ねた記憶がある。韓国とハンセン病ともに語れる人は数少ない。非常に感銘深い講演だったが講演料は受け取って貰えなかった。

(『金子文子』)

 以上のように、40代、50代の学者としての壮年期を救援運動に費やしたこともあり、多くの論文がありながらなかなか単行本にまとめることがなかった。新書本なども書いてないから、一般的な知名度は高くはないだろう。僕が思うに代表作は『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』(影書房、1996)である。金子文子は『何が私をこうさせたか』(岩波文庫)という独創的な自伝で知られる。朝鮮人の朴烈と結婚したアナキストで、関東大震災後に「大逆事件」をデッチ上げられた。その本のことは、『金子文子「何が私をこうさせたか」再読』(2018.9.1)に書いた。この本はなかなか大変だが、是非ともチャレンジして欲しい本だ。

(『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』)

 非常にすごいなと思うのは、退職後に妻に先立たれた後も、研究をまとめて世に問うた姿勢である。時々は新聞の投稿などを読むこともあった。関東大震災関係では『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後 虐殺の国家責任と民衆責任』(創史社、2011)が最後になったと思う。読後の感想をまとめて書いたが、特に「国家責任」を厳しく問うとともに、「民衆責任」を問い続けたことは特筆すべきことだ。「侵略」「虐殺」を直視出来ない日本人に対する言葉は時に厳しすぎるかと思えるぐらいである。しかし、その認識は厳密な史料批判から導き出されたものだった。「日本人の良心」と呼びたい研究者人生だったと思う。

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吉田義男、袖井林二郎、曽野綾子、岡村勲他ー2025年2月の訃報②

2025年03月07日 22時07分37秒 | 追悼

 2025年2月の訃報、日本編。まず元プロ野球選手、監督の吉田義男が2月3日に死去、91歳。阪神タイガース一筋の名内野手(主に遊撃手)として知られ、引退後は阪神の監督を3度務めた1985年の優勝時の監督で、訃報は関西圏ではとりわけ大きく報道されたらしい。もちろん東京でも大きくは報道されたが、号外が出たり朝から晩までテレビで優勝シーンが流れるということはなかった。1953年から69年まで現役選手だったが、打率3割超えは1度だけ、通算ホームランはわずか66本だが、通算安打1864本を記録している。しかし、小学生の僕が「阪神の吉田」を覚えているのは、「今牛若丸」と呼ばれた華麗な守備にあった。

(吉田義男)

 9連覇中のジャイアンツ選手の名を連ねて「王、金田、広岡」というのがあった。子どものダジャレで「おっ、カネだ、拾おうか」である。その後に「吉田」(止した)と続く。ヒット性の当たりも吉田に取られてしまうのである。守備力を評価するゴールデングラブ賞は72年からで、当時は守備の賞はなかったけれど、子どもでも吉田のショート守備は知っていた。その後、1975~77、1985~87、1997~98と10年置きに呼び出されて監督を務めた。1985年には今も必ず映像で流れる4月17日の巨人戦、バース、掛布、岡田の「バックスクリーン3連発」などで弾みが付き、21年ぶりの優勝を遂げた。なお、この年は8月の日航機墜落事故で球団社長が亡くなっている。1989年~1996年までフランスの代表監督を務めた経験もある。

(1985年の優勝)

 政治学者の袖井林二郎(そでい・りんじろう)が2月10日死去、92歳。戦後日米関係史が専門で、占領期研究を開拓した一人。一般向け著書も多く、特に『マッカーサーの二千日』(1974)は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。また日本人がマッカーサーに宛てた手紙を分析した『拝啓マッカーサー元帥様』(1985)もある。どうにもやり切れないような内容なんだけど、これが日本人かと納得させられた。アメリカ時代の竹久夢二研究でも知られた。その後の占領期研究は進展しているから、半世紀前に読んだ『マッカーサーの二千日』は今読む価値があるかどうか。しかし、当時としては非常に刺激的な本だった。

(袖井林二郎)

 作家、エッセイストの曽野綾子が2月28日没、93歳。1954年に「三田文学」に発表された『遠来の客たち』が芥川賞候補となり知られた。当時戦後10年ほど経って評価された作家が「第三の新人」と呼ばれたが、その仲間に加わり同グループの三浦朱門(1926~2017)と結婚した。小説としては映画化された『二十一歳の父』や自分の子を主人公にした『太郎物語』シリーズ、『神の汚れた手』(女流文学賞に選ばれるも辞退)などがある。それより『誰のために愛するか』(1970、278万部)、『老いの才覚』(2010)などのエッセイで知られた。さらに保守的言論人としてアパルトヘイト支持など数多くの物議を醸す発言を行った。2003年に文化功労者に選ばれたが、どういう「功労」なんだろう? 晩年には日本財団会長も務めた。僕が読んでるのは史料として読んだ『ある神話の背景』(沖縄戦の「集団自決」に軍命令はなかったとする)だけだと思う。

(曽野綾子)

 日本の犯罪被害者運動の中心を担った弁護士岡村勲が2月24日死去、95歳。日弁連副会長など弁護士として活躍していたが、1997年に山一證券問題で逆恨みした男に妻を殺される事件が起きた。犯罪被害者の当事者となり、2000年に「全国犯罪被害者の会」(あすの会)を結成して代表幹事となった。その後の活動で、2004年の犯罪被害者等基本法、2008年施行の刑事裁判への被害者参加制度、2010年の殺人罪の時効廃止などの実現に尽力した。思っても見なかった後半生を見事に生きた人だと思う。

(岡村勲)

 弁護士、元裁判官の福島重雄が2月8日死去、94歳。札幌地裁裁判官を務めていた1973年に、いわゆる「長沼ナイキ訴訟」の裁判長を務めた。自衛隊の憲法判断が争点となり、自衛隊を憲法が認めない「戦力」と認定し自衛隊は憲法9条違反とする判決を言い渡した。これは76年に札幌高裁で取り消され、82年に最高裁で確定した。以後は東京地裁手形部、福島家裁、福井家裁と異動したので、明らかに最高裁に忌避され冷遇されたのである。1989年に59歳で退官し、生地の富山県で弁護士として活動。

(福島重雄)

 俳優、声優の下條アトムが1月29日に死去、78歳。父は俳優の下條正巳で、アトムは本名。1946年生まれで、『鉄腕アトム』とは無関係。「原子力の平和利用」という願いで付けたという。多くのテレビ、映画で活躍したが、エディ・マーフィーの吹き替えで知られた。また『世界ウルルン滞在記』(1995~2007)のナレーターとして有名になった。落語家の桂才賀が2月21日死去、74歳。二つ目の古今亭朝次時代に「笑点」メンバーだった。刑務所や少年院を千回以上慰問したことで知られる。多分1回か2回聞いてる。

(下條アトム)(桂才賀)

 確実に会っているのは、写真家の八重樫信之。2月1日死去、81歳。朝日新聞の写真記者だったので、朝日新聞の地方欄に小さく訃報が載っていた。96年の「らい予防法廃止」以後、内外でハンセン病元患者の取材を行って写真展などで啓発を行った。『それぞれのカミングアウト』『絆:「らい予防法」の傷痕 日本・韓国・台湾』『輝いて生きる:ハンセン病国賠判決から10年』の著書がある。また、森本美代治さんらとともに国際的なハンセン病患者運動を支援した。

(八重樫信之)

 舞台衣装デザイナーの緒方規矩子(おがた・きくこ)が7日死去、96歳。多くの演劇、オペラ、バレエ、テレビドラマの衣装を担当し、読売演劇大賞や文化庁長官表彰などを受けた。医師の柴田紘一郎が19日死去、84歳。長崎大医師時代にケニアに派遣され、医療活動に従事した。さだまさしの「風に立つライオン」のモデルとなったことで知られる。

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ジーン・ハックマン、ロバータ・フラック、キム・セロン他ー2025年2月の訃報①

2025年03月06日 22時36分48秒 | 追悼

 2025年2月の訃報。2月は短いということもあるが、例年に比べても重大な訃報が少なかった。だから当初は頑張って1回で書こうかと思っていたが、別に頑張る必要もないなと思って、いつもと同じく内外で分けて2回で書きたい。

 アメリカの俳優ジーン・ハックマンの遺体が2月26日にサンタフェ(ニューメキシコ州)の自宅で発見された。95歳。同時に妻と犬も死んでいた。調査の結果、妻が先に感染性疾患で病死し、アルツハイマー病だったハックマンはそれを認識出来ず、その後に心臓病で亡くなったらしい。(ペースメーカーの分析から死亡日は18日らしい。)ジーン・ハックマンは70年代に大活躍していた俳優で、高校時代からよく見ていて思い出深い。ポール・ニューマンやロバート・レッドフォードのようないかにも「二枚目」ではないのでなかなか売れなかったが、「アメリカン・ニュー・シネマ」の時代に合っていたのである。

(『フレンチ・コネクション』で)

 1967年の『俺たちに明日はない』でクライドの兄を演じて評価され、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。その時すでに37歳で、青春スターにはなれなかったのである。しかしその代わりに「中年」の疲れ気味の職業人の役が回ってきて大活躍が始まる。1971年の『フレンチ・コネクション』では麻薬捜査を担当する粗暴な刑事を演じてアカデミー賞主演男優賞を獲得した。フランスのマルセイユとニューヨークの街頭ロケが魅力的な傑作。その後『ポセイドン・アドベンチャー』『スケアクロウ』『カンバセーション…盗聴』『スーパーマン』と名作、傑作、大作に相次いで出演し、70年代ハリウッドを代表する俳優となった。

(『許されざる者』)

 その後少し低迷したが、1988年の『ミシシッピ・バーニング』でアカデミー賞主演男優賞ノミネート、1992年にはクリント・イーストウッド監督・主演の傑作『許されざる者』の保安官役でアカデミー賞助演男優賞を受賞した。その間1990年に心臓発作を起こしたが立ち直って名脇役として映画に出ていたが、2004年に引退を表明した。1991年に再婚し今回遺体で発見された二度目の妻は、日系アメリカ人のピアニスト、ベッツィ・アラカワという人である。

 アメリカの歌手ロバータ・フラックが2月24日死去、88歳。ノースカロライナに生まれ、ピアニストとして知られた。15歳で黒人大学の名門ハワード大学に入学してクラシック音楽を学んだのである。しかし、黒人女性がクラシック界で活躍出来る環境が限られる中で、中学教師をしながら音楽活動を続け69年に歌手としてデビュー。そこに収録されていた「愛は面影の中に」が72年にクリント・イーストウッドの初監督映画『恐怖のメロディ』に使われて大ヒット。年間チャート1位となってグラミー賞を受賞した。続く「やさしく歌って」(Killing Me Softly with His Song)も大ヒットし、2年連続でグラミー賞を獲得した。この歌は本当に素晴らしくて、僕もSPレコードを持っている。その後もコンスタントに活躍し、高橋真梨子の曲を英語で歌ったアルバムもあるようだ。

(ロバータ・フラック)(「やさしく歌って」)

 韓国の女優キム・セロン(김새론)の遺体が2月16日に発見された。24歳。自殺とみなされている。子役として活躍し、特に2009年の『冬の小鳥』(ウニー・ルコント監督)に主演し注目された。監督自身の経験に基づく「国際養子」を描き、カンヌ映画祭に出品された。日本では岩波ホールで公開され、キネ旬ベストテンに入選した。その後、2010年に『アジョシ』で韓国映画大賞新人女優賞を史上最年少で受賞。2014年の『私の少女』ではペ・ドゥナの巡査と関わる少女を演じて、末恐ろしいほどの才能を感じさせた。僕は当時「数年後には大美人女優に大成しているかもしれない」と書いた。しかし、その後映画やドラマに出演するも役に恵まれず、2022年には飲酒運転で事故を起こし罰金となった。素晴らしい才能があったのに、あまりにも早い死に何があった?

(キム・セロン)(『冬の小鳥』)

 アウシュビッツ収容所生存者で歴史家、ジャーナリストのマリアン・トゥルスキが2月18日死去、98歳。ポーランド(現リトアニア)に生まれたユダヤ人で、収容所を生き延び、戦後はポーランド統一労働者党に参加し報道部で働いた。冷戦崩壊後にポーランドのユダヤ歴史協会で活動した。2019年に国連の「国際ホロコースト記念日」に招待されスピーチを行った。2020年の解放75年式典では「アウシュビッツは急に空から降ってきたものではない」として「無関心になるな」と訴えた。

(マリアン・トゥルスキ)

 ナミビア初代大統領独サム・ヌジョマが8日死去、95歳。南アフリカの委任統治領「南西アフリカ」に生まれ、南西アフリカ人民機構議長として独立運動を指導した。1990年にナミビアとして独立後、1990年から2005年まで大統領を務めた。

(サム・ヌジョマ)

・ウィーンフィルの元首席クラリネット奏者ペーター・シュミードルが1日死去、84歳。ウィーン国立音大教授として多くの弟子を育て、日本でも草津夏季国際アカデミー&フェスティバルの講師を勤めた。

・アメリカ映画の音響監督クリス・ニューマンが3日死去、84歳。『エクソシスト』『アマデウス』『イングリッシュ・ペイシェント』でアカデミー録音賞を3回受賞。その他『フレンチ・コネクション』『ゴッドファーザー』『羊たちの沈黙』などで5回ノミネートされた。

・西アフリカのマリ共和国出身の映画監督スレイマン・シセが19日死去、84歳。家父長制や軍事政権に抵抗する人々を描き、アフリカ内部の対立を初めて映画にしたと評価された。1987年の『ひかり』はカンヌ映画祭審査員賞を受賞し日本でも公開された。

・韓国の元「日本軍慰安婦」、吉元玉(キル・ウォンオク)が16日死去、96歳。

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堀場清子、李恢成、原広司、秋山和慶、森政弘他ー2025年1月の訃報②

2025年02月09日 20時23分11秒 | 追悼

 2025年1月の訃報、日本編。シンプルに書いて行きたい。直接会ってる人はいないので、読んだことがある人から。詩人、女性史研究家の堀場清子が1月10日死去、94歳。詩の方は全然読んでなくて、ずいぶん評価が高いらしいのに驚いた。僕が知ってるのは高群逸枝研究家である。近代日本思想史の鹿野政直の妻で、共著『高群逸枝』(1977)には非常に大きな刺激を受けた。高群関係の本、史料集の他に岩波新書の『青鞜の時代』(1988)などがある。疎開先の広島で原爆被害を目撃し、被爆体験をテーマにした本もあるが、僕は読んでない。新聞の訃報で高群逸枝に触れてないのもあって、時代が違うのかと驚いた。

(堀場清子)

 作家の李恢成(り・かいせい、イ・フェソン)が1月5日死去、89歳。1972年に『砧をうつ女』で芥川賞を受賞。これは同賞史上初の外国籍受賞者だった。樺太出身で敗戦後辛くも北海道に脱出するが姉を残してしまい、後年大きなテーマとなった。朝鮮新報記者を務めたが、総連を離れて作家に専念。1970年の『伽耶子のために』は小栗康平監督によって映画化された。70年代後半に書かれた『見果てぬ夢』6部作は、韓国民主化をめぐる大河小説でとても興奮して読んだ。金大中政権成立で韓国民主化はなったとして韓国籍を取得した。『百年の旅人たち』(1994)『地上生活者』全6部(2005~20)などは読んでない。70年代に大きな関心を持って読んだが、「在日コリアン」が「政治と歴史」で語られた時代を象徴した作家だったと思う。

(李恢成)

 建築家の原広司が1月3日死去、88歳。大江健三郎と親しく、多くの論考を書いているが僕は読んでない。世界中の集落を調査し、「住居に都市を埋蔵する」として自邸を設計したという(1974年)。大阪・梅田スカイビル、京都駅ビル、札幌ドームなど都市の顔をなる巨大作品を手掛けたことで知られる。東大の原研究室から隈研吾、山本理顕などを輩出した。

(原広司)(原広司自邸)

 指揮者の秋山和慶(かずよし)が1月26日死去、84歳。1月初めに自宅で転倒して引退を発表していたが、直後の訃報となった。桐朋学園大学で斎藤秀雄に師事し、1964年に東京交響楽団でデビューした。直後に東響が解散するも自主再建に向け努めた。世界各地で指揮したが、東京交響楽団桂冠指揮者、バンクーヴァー交響楽団桂冠指揮者、広島交響楽団終身名誉指揮者になっている。サイトウ・メソッドを最も受け継いでいると言われ、1984年には小澤征爾とともに斎藤秀雄メモリアル・コンサートを企画。これがサイトウ・キネン・オーケストラ発足につながった。

(秋山和慶)

 ロボット工学者の森政弘が12日死去、97歳。東京工業大学名誉教授。日本のロボット研究の先駆者で、数多くの先駆的研究に取り組んだ。ロボット発展における「不気味の谷」という現象を提唱したことで知られる。87年に定年になった後、高専対抗ロボット・コンテストを実施し、NHKで放映されて大評判となった。これが「ロボコン」の始まりである。またロボット工学の本以上に、『「非まじめ」思考法』、『森政弘の仏教入門』など、仏教に基づく独自の「非まじめ」論などの著書がある。

(森政弘)

 経済アナリストでテレビやラジオで活躍した森永卓郎が1月28日死去、67歳。闘病を公表していて、体調悪化をラジオで最後まで報告していた。そのため非常に知られた存在となったが、本質的には「B宝館」という私設のお宝博物館を開くなど趣味的なエッセイストだったと思う。話や文章が面白いので、実務的なことを知るときには役立つ本が多い。しかし、『ザイム真理教』などの本は割り引いて読む方が良いと思っている。「最期」の日々をどう生きるかは一つのモデルを示した。

(森永卓郎)

 歌手のアイ・ジョージが1月に死去(死亡日未発表)、91歳。60年代に非常に人気があった歌手で、紅白歌合戦にも60年から71年まで連続12回出場した。外国の歌が多いが、オリジナルでは61年の自作の「硝子のジョニー」がヒットした。この歌から日活映画『野獣のようにみえて 硝子のジョニー』(蔵原惟繕監督)が生まれ、本人も出演して野性的な風貌が残された。実力のある歌手だったが、ある時期から消えてしまい、テレビの懐メロ番組などにも出なかった。金銭スキャンダルなどがあったとも言われるが詳細は不明。新聞、テレビ、ネットニュースなどに出ていないが、Wikipediaに訃報が掲載されている。

(アイ・ジョージ)

・歌手の三浦洸一(こういち)が11日死去、97歳。50年代に「落葉しぐれ」「東京の人」などがヒットし、紅白歌合戦にも8回出場した。21世紀にも懐メロ番組などに出演していた。映画撮影監督の上田正治(しょうじ)が16日死去、87歳。東宝に入社して、黒澤明監督の晩年作品『影武者』『乱』などを担当した。小泉堯史監督作品も担当し『雪の花』が遺作となった。映画監督の山田火砂子(ひさこ)が13日死去、92歳。現代ぷろだくしょんを夫のプロデューサー山田典吾から受け継ぎ、日本の福祉関係者をテーマにした映画を多数作ったことで知られる。賀川豊彦、石井筆子、留岡幸助、荻野吟子、矢島楫子らである。

・火山学者の大田一也が15日死去、90歳。九州大名誉教授で、地元の九大島原火山観測所長として90年の雲仙普賢岳噴火に際して警戒区域の設定などに関わった。経営学者の野中郁次郎が25日死去、89歳。共著『失敗の研究』(中公文庫)で日本軍の「失敗」を分析したことで知られる。

・作家の童門冬二(どうもん・ふゆじ)が2024年1月に死去していた。96歳。都庁に勤務しながら美濃部都政で政策室長を務めた。その間に作家としてデビュー、79年に退職して作家に専念した。『小説上杉鷹山』など時代小説で知られた。絵本作家のいわむらかずお(岩村和朗)が24年12月19日死去、85歳。『14ひきのひっこし』など14ひきシリーズで人気を集めた。

・政治評論家の俵孝太郎が1日死去、94歳。産経新聞論説委員からフリーのニュースキャスターに転身、保守派の論客として80年代頃には非常に知名度の高い人だった。元妻の俵萌子(08年死去)は、離婚後に政治的立場が正反対となった。

・元連合赤軍メンバーの植垣康博がが23日死去、76歳。集団リンチ事件で懲役20年の刑が確定、出所後は静岡でスナックを経営していた。著書に『兵士たちの連合赤軍』など。

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デヴィッド・リンチ、ピーター・ヤーロウ、デヴィッド・ロッジ他ー2025年1月の訃報①

2025年02月08日 22時24分23秒 | 追悼

 2025年になっても、もちろん重要な訃報は続く。見続けていかないといけない。まずはアメリカの映画監督デヴィッド・リンチが1月15日死去、78歳。何本も見てるから、すぐに特報を書こうかとも思ったんだけど、結局僕はリンチを理解出来ないので止めることにした。「カルトの帝王」などと報道され、まあそうなんだけど独特すぎて何か今ひとつ満腹出来ない。そんな不思議な映画監督だった。『ツイン・ピークス』が評判になって名前だけはかなり有名だが、どうにも位置づけが難しい。

(デヴィッド・リンチ)

 1976年に自主製作作品『イレイザー・ヘッド』を作るも大手には認められず、1980年の『エレファント・マン』がまさかの大ヒット、アカデミー作品賞ノミネートの快挙となった。日本でも公開され話題となったが、僕にはどこか居心地の悪い映画だった。その成功で『デューン/砂の惑星』を任されれるも興行的にも作品的にも不評だった。去年リバイバルされたので見たが、やはり近年の2部作の方が面白い。最終カット権を持っていなかったため大幅に削除されたと言われる。そのため次作『ブルー・ベルベット』(1986)では好きなように作れる権利を得て、不可思議なリンチ世界を確立した。僕はこの作品が一番好きだ。続く『ワイルド・アット・ハート』(1990)がカンヌ映画祭パルムドールを獲得し、この時期から世界の巨匠と認知された。

(ブルー・ベルベット)

 そして1990年からテレビドラマ『ツイン・ピークス』の放送が開始され、表面的な世界の裏に潜む異常な謎が世界で話題となった。リンチ作品はほぼすべて「謎」に満ちている。ただ一作『ストレイト・ストーリー』(1999)だけが普通に感動的だが、それでもひたすら目的地にトレーラーで向かう老人という設定は普通と変わっている。2001年の『マルホランド・ドライブ』はカンヌで監督賞を取るなど高く評価され、近年もどんどん高くなっている。去年見直す機会があったが、この映画は実に面白いけど世界観が全く理解不能。実は見てない映画もあるし、決して凄く好きな監督じゃなかった。上映素材はいま日本にかなりあるので、今後特集上映の機会があるだろう。何度見ても判らないと思うけど、少なくとも幾つかの映画では何度も見る価値があると思う。

(マルホランド・ドライブ)

 アメリカの歌手で「ピーター・ポール&マリー」(PPM)のピーター・ヤーロウが1月7日死去、86歳。1961年にポール・ストゥーキー、マリー・トラヴァースと「ピーター・ポール&マリー」を結成。62年に「レモン・トゥリー」でデビュー。同年に初のアルバム『ピーター・ポール&マリー』を発表し200万枚を売り上げた。これには「500マイル」「花はどこへ行ったの?」「天使のハンマー」などが含まれ、60年代フォークソングブームを生んだ。63年には代表作「パフ」を発表し、ボブ・ディランの「風に吹かれて」をカバーした。これらの歌は公民権運動やヴェトナム反戦運動で歌われ、ピーターも運動に参加した。70年にソロ活動のため一時解散したが、78年に反原発運動のため再結成した。僕はPPMが昔から好きで、今も聞いている。

(ピーター・ヤーロウ)

 イギリス生まれの歌手、俳優マリアンヌ・フェイスフルが1月30日死去、78歳。両親が離婚したため修道院で暮らし、17歳で結婚した。夫がローリング・ストーンズのマネージャーと知り合いだったため芸能界に誘われ、アイドルとなった。そして66年に離婚後はミック・ジャガーの恋人となったことで知られる。ゴダールに見出され映画にも出るようになり、フランス映画『あの胸にもう一度』でアラン・ドロンと共演し、裸でバイクに乗るシーンが大きな影響を与えた。その後アイドルとしては終わったが、歌手活動を続けていた。2007年に映画『やわらかい手』の驚くべき演技で見る者をあ然とさせた思い出がある。

(マリアンヌ・フェイスフル)

 イギリスの作家、デイヴィッド・ロッジが1月1日死去、89歳。日本では訃報がマスコミ報道されなかったと思うけど、邦訳も多い人気作家である。大学教授を主人公とするコミカルなキャンパス・ノヴェルで知られ、『大英博物館が倒れる』(1965)、『交換教授』(1975)が日本でも評判となった。後者は英米の大学で交換教授となった二人が、すったもんだあって妻も「交換」するに至る爆笑インテリ小説。今も白水Uブックスに残っている。他に『楽園ニュース』『恋愛セラピー』『作者を出せ!』『絶倫の人 小説H・G・ウェルズ』『作家の運 デイヴィッド・ロッジ自伝』など面白そうな題名の本がいっぱいある。『バフチン以後 〈ポリフォニー〉としての小説』『小説の技法』などちゃんとした文学研究書も翻訳されている。

(デイヴィッド・ロッジ)

 フランスの政治家ジャン=マリー・ルペンが1月7日死去、96歳。極右政党「国民戦線」を1972年に結成して党首となった。以後、人種差別や歴史修正主義発言で批判されながらも支持を伸ばし、2002年大統領選でまさかの2位となり決選投票に残って衝撃を与えた。2011年に引退し三女のマリーヌ・ルペンが後継となったが、父の反ユダヤ発言がもとで父娘の関係が悪化。最終的に父親は除名され、2018年には党名も国民連合に変更された。戦後フランス政治の異端児、風雲児ではあった。

(ジャン=マリー・ルペン)

・フランスの映画監督ベルトラン・ブリエが20日死去、85歳。1963年に記録映画『ヒットラーなんか知らないよ』で監督デビュー。その後は劇映画で『バルスーズ』『ハンカチのご用意を』(アカデミー外国語映画賞)、『美しすぎて』(カンヌ映画祭グランプリ)などの作品を撮った。オーストリアの演出家、俳優オットー・シェンクが9日死去、94歳。世界的なオペラ演出家で、ウィーン国立歌劇場やメトロポリタン歌劇場などで名演出を残した。

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渡辺恒雄、鈴木修、須田寛、石原一子、千田謙蔵他ー2024年12月の訃報③

2025年01月10日 22時23分49秒 | 追悼

 2024年12月の訃報、日本の政治・経済関係を中心に。読売新聞グループ本社代表取締役主筆渡辺恒雄が12月19日死去、98歳。中曽根康弘元首相が2019年に101歳で死んだあと、僕は時々「ナベツネはいつまで生きるのか」と思うことがあった。100歳には届かなかったが、十分長生きした。最初に書いた長い肩書きにあるように、最後まで「代表取締役」兼「主筆」であり続けた。これは他の新聞社ではあり得ないし、むしろあってはならないことだろう。それを言えば、そもそもジャーナリストは「文化」だと思うが、「ナベツネ」は自ら政治のプレーヤーだったので、ここで書くわけだ。マスコミ人としては異例の人だった。

(渡辺恒雄)

 1945年東京帝大入学後に、陸軍に召集された。復員後に東大に復学、今度は共産党に入党した。活動に疑問を持ち1947年末に離党(除名)したが、この両方の体験から「反軍」「反共」という「ナベツネ」の信念が作られた。21世紀になって、小泉首相が靖国神社に公式参拝したとき、それまでの「保守」「自民党寄り」のイメージを覆すかのような激しい批判を繰り広げた。それを「ナベツネの本質は硬骨のリベラリストだった」と論じる人がいる。しかし、僕は全く同感出来ない。(大体、今まで読売の主張に賛同してきた「保守」陣営に同調した人がいないではないか。仲間内を説得できなかったのである。)

 「リベラリスム」(自由主義)とは、その主張内容の以前に「常日頃のふるまい」で判断されなくてはならない。読売新聞はもともと保守的ではあった(社主の正力松太郎は自民党議員だった)が、それでもある時期までは「庶民派」風のところがあり、反骨の記者も多かった。それが「ナベツネ」が実権を握るにつれ、全く異論を許さない体制が作られたのである。自ら「独裁者」を任じていたぐらいである。この人の下では仕事が出来ないと思わせる「リベラリスト」はあり得ないだろう。

(中曽根首相と)

 1950年に読売新聞に入社、「週刊読売」を経て政治部記者となった。自民党の有力者だった大野伴睦の「番記者」となり、信頼されて総裁選やポスト交渉まで任された。その後、まだ若手だった中曽根康弘と懇意となり、裏の仕事も手伝うようになる。内閣や議員のゴーストライターを務めたりしていたので、「新聞記者」を越えた「政治屋」だったと言うべきだろう。「昔はそんなことが許された良き時代だったのか」という問題ではない。記者が自ら大臣ポストを交渉するなど、当時でもアウトだろう。「英雄伝説」にしてはいけないと思うが、他には誰もマネ出来ない戦後ただ一人の怪物的人間ではあった。

 ホントはプロ野球(1リーグ制をめぐる問題)やサッカー(Jリーグの理念をめぐる)の話が残されているが、それはよく言われているので省略したい。中公文庫に『渡辺恒雄回顧録』(伊藤隆、御厨貴、飯尾潤)という本が入っている。なかなか興味深い聞き書きだと思うが、結構高いし(1362円)読まなくいいやと放ってある。きっと面白いと思うんだけど。

 軽自動車で知られる「スズキ」の相談役(元会長兼社長)鈴木修が12月25日死去、94歳。もともと銀行員だったが、2代目の鈴木俊三氏の女婿となり、1958年に鈴木自動車工業に入社した。1978年に社長就任後すぐに発売された軽自動車アルトがヒットし、「軽自動車」のスズキというブランドを確立した。またインド政府の要請に応えて1981年に進出し、インドの経済成長とともに日本を上回る販売数を記録するまでに育てた。後継者と見込んだ女婿小野浩孝(元経産省課長)が2007年に先に亡くなるなど不運もあって、2008年に会長兼社長に復帰した。(2015年に長男に譲る。)徹底した現場主義を貫いて、家業の「中小企業」を世界的企業に育てた実業家だった。静岡県(特に浜松市)に大きな政治、経済的影響力を持っていた人である。

(鈴木修)

 JR東海初代社長を務めた須田寛が12月13日に死去した。僕はこの人のことを知らなかったが、非常に興味深い人である。引退後の2007年から15年間「鉄道友の会」会長を務めるなど、経営者という以上に「鉄道ファン」という面があった。新幹線建設に深く関わり思い入れも強かったようで著書も多い。いわゆる「改革派」ではなく、性急な分割民営化には疑問を持っていたので、自分が初代社長になるとは思っていなかったそうである。「シルバーシート」「青春18きっぷ」「ホームライナー」「オレンジカード」などの企画に関わった。また「のぞみ」の投入や品川新駅の設置など新幹線の利便性向上を実施した。社長就任直後に「シンデレラ・エクスプレス」のCMが始まり、大きな話題となった。2021年までJR東海相談役を務めていた。

(須田寛)

 元高島屋常務石原一子(いしはら・いちこ)が12月1日死去、100歳。この人も長生きによって忘れられたかも知れない。同族経営を別にして、「東証1部上場企業初の女性役員」だった人である。1952年に東京商科大学(現一橋大)を卒業し、男女同一賃金だった高島屋に入社、二児を育てながら1979年に取締役になり広報室長についた。1987年に退社し、多くの会社や団体に関わり、女性経営者育成に務めた。Wikipediaには国立市のマンション景観問題で、環境を考える会代表を担ったと出ている。

(石原一子)

 元最高裁長官の山口繁が11月27日死去、92歳。福岡高裁長官から1997年に最高裁裁判官に就任、同年秋から2002年まで5年間長官を務めた。2002年の郵便法事件で、大法廷で違憲判決を言い渡した。2015年には当時審議されていた「安保法制」について、集団的自衛権の行使を認める立法は違憲だと述べたことで知られる。

(山口繁)

 元秋田県横手市長千田謙蔵(ちだ・けんぞう)が12月20日死去、93歳。この人は1952年に起きた「東大ポポロ事件」の被告として知られていた。学生劇団「ポポロ」の上演中、私服警官を見つけた学生らが警察手帳を取り上げるなど吊るし上げた事件である。「大学の自治」が争点となったが、1972年に有罪確定。しかし、千田は故郷の横手に戻って1959年に27歳で市議(社会党)に当選して3期務めた。1971年には市長に当選し、根強い人気に支えられ5期20年間務めた。その間、市民参加や暮らしと健康を守る市政を掲げて活動した。引退後も自治や平和運動に尽力した。

(千田謙蔵)

 「原爆乙女」として知られた笹森恵子が12月15日、カリフォルニアで死去、92歳。13歳で被爆し、大きなケロイドを負って自由に指や首を動かせなくなった。1955年にアメリカの慈善団体の招きにより、渡米して治療を受ける「原爆乙女」の一人となった。その後アメリカで看護師となり、被爆体験を語り平和を訴える活動を行った。

(笹森恵子)

・社会学者の打越正行(うちこし・まさゆき)が9日死去、45歳。『ヤンキーと地元』で知られる。

・少女画で知られた少女漫画家高橋真琴が11月17日に死去、90歳。イラストレーターとして大きな瞳の少女が人気を得た。男性。また漫画家の森田拳次が23日死去、85歳。『丸出だめ夫』で知られた。漫画評論家の村上知彦が22日死去、73歳。

・映画美術家の小池直美が11月29日死去、75歳。相米慎二監督『ションベンライダー』『魚影の群れ』、滝田洋二郎監督『おくりびと』などを担当した。

・バスケットボール女子の強豪校として知られる愛知県の桜花学園の監督、井上真一が12月31日死去、78歳。全国高校総体で25回、全国高校選手権で24回の優勝を記録。日本代表で活躍する多くの選手を指導した。

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小中陽太郎、川田順造、中山美穂、谷口𠮷生他ー2024年12月の訃報

2025年01月09日 22時22分27秒 | 追悼

 2024年12月の訃報。日本人の訃報は広い意味での文化関係を最初に書いて、政治、経済関係者を次に。まず、作家・評論家の小中陽太郎が12月3日死去、90歳。小中さんを最初に書くのは、ひょんなことから同席する機会があったからだ。もともとNHKに務めていたが、64年に退職して文筆家となった。65年にはベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)結成に参加。その頃の若者をテーマにした『小説ふぁっく』(72)、『私の中のベトナム戦争』(73)などが評判となった。その頃から読んでいて、『信じないヤツの人間学』なんて本も読んだ気がする。80年の『小説内申書裁判』は裁判の支援者だったので興味深く読んだ。(もしかしたら集会で小中さんの話を聞いてるかも。)21世紀になっても『翔べよ源内』(2012、野村胡堂賞)がある。

 小中さんは都立大附属高出身で、同校を中高一貫化する外部委員会に参加していた。中高一貫化されると、都教委が教科書を採択し、右派の扶桑社版が採択された。2005年夏に、一緒に中高一貫化される白鴎、小石川、両国の同窓生と共に反対運動を行ったことがある。僕は白鴎高校卒業生として運動を起ち上げたのだが、その時に小中さんも都教委要請行動に参加してくれたのは心強かった。「教科書問題につながるという説明は一切なかった」と怒っていたのが今も記憶にある。

(小中陽太郎)

 文化人類学者の川田順造(かわだ・じゅんぞう)が12月20日死去、90歳。僕はこの人を若い時によく読んでいて影響も受けた。フランスに留学した後、西アフリカのブルキナファソの旧モシ王国の住民の中で9年暮らした。その時の体験が、『無文字社会の歴史』(1976、岩波現代文庫)に結実した。レヴィ=ストロース悲しき熱帯』の翻訳でも知られる。エッセイストクラブ賞を受けた『曠野から』(1973)も心に残った。もっともちゃんとフォローしていたのはその頃までで、その後の『口頭伝承論』(1992)など多くの本は読んでない。深川の生まれで、晩年には『江戸=東京の下町から』(2011)などの著作もある。文化勲章受章。

(川田順造)

 一般的知名度、衝撃から言えば、12月の訃報で一番ビックリしたのは、俳優・歌手の中山美穂の訃報だ。12月6日、54歳。その日に大きく報道されたが、死因は「入浴中の事故」とされる。お風呂と階段は非常に危険なので、気を付けないといけない。それはともかく、僕は「80年代アイドル」を語る資格がない。年齢的なものと、83年に結婚後「テレビを持たない」選択をしていたからだ。従って、中山美穂と言えば、岩井俊二監督『Love Letter』(95)ということになる。あの映画を見た人は、中山美穂の叫びが永遠に心の中に響いているだろう。この映画がアジア各国でブームになったというのも、1995年に始まる「現在史」である。ところで、僕は辻仁成の小説がすごく好きだったんだけど、なかなかうまく行かないものである。

(中山美穂)

 建築家の谷口𠮷生(たにぐち・よしお)が12月16日死去、87歳。父は建築家谷口吉郎。美術館建築で知られ「洗練されたモダニズム」と称された。自身の建築について多くを語らず「作品に語らせる」タイプだった。ニューヨーク近代美術館(MoMA)の増改築を除きコンペには応募せず、国外の作品も少ない。主要な作品に東京国立博物館法隆寺宝物館(日本建築学会賞)、土門拳記念館(芸術院賞)、葛西臨海水族園(毎日芸術賞)、丸亀市立猪熊玄一郎現代美術館鈴木大拙館(金沢市)などがある。あの素晴らしく気持ちの良い土門拳記念館を設計したのはこの人だったのか。

(谷口𠮷生)(土門拳記念館)

 作曲家の間宮芳生(まみや・よしお)が12月11日死去、95歳。1953年に外山雄三、林光と作曲家グループ「山羊の会」を結成、日本古来の民謡や世界の民族音楽を取り入れた多彩な画曲で知られた。放送用オペラ「鳴神」はザルツブルクテレビオペラ賞グランプリを受賞。尾高賞を2回受賞したほか、毎日芸術賞など受賞多数。アニメ『火垂るの墓』や『太陽の王子ホルスの大冒険』、大河ドラマ『竜馬がゆく』などの音楽も手掛けた。また作曲家の蒔田尚昊(まいた・しょうこう)が12月26日死去、89歳。TBS社員として劇伴音楽を担当したことから作曲を本格的に学び、多くの合唱曲や賛美歌を作曲した。テレビなどでは冬木透(ふゆき・とおる)名で、「ウルトラセブン」以後のウルトラシリーズの音楽で知られた。また映画『無常』『曼荼羅』なども担当した。

(間宮芳生)(冬木透)

 アニメーション作家、イラストレーターの久里洋二(くり・ようじ)が11月24日に死去していた。96歳。1958年に「久里実験漫画工房」を設立、60年には映画部を作り実験的アニメを多数作った。特に『人間動物園』(1962)、『殺人狂時代』(1967)はヴェネツィア国際映画祭など海外で高く評価された。1993年 アヌシー国際アニメ映画祭功労賞受賞。また70年前半頃までの「みんなのうた」の楽曲映像を多数手掛けた他、「11PM」や「ひょっこりひょうたん島」のタイトルでも知られた。ずいぶん活躍して有名な人だったと思うが、長生きして忘れられたかもしれない。

(久里洋二)

 女優の加茂さくらが12月24日死去、87歳。1955年に宝塚に入団し、71年に退団するまで主に主演娘役で活躍した。退団後はテレビドラマで活躍したほか、ワイドショー「3時のあなた」の司会で人気を得た。2014年の「宝塚歌劇の殿堂」100人に選ばれた。また、アナウンサーの小倉智昭が12月9日死去、77歳。70年に東京12チャンネル(現テレビ東京)に入社、76年にフリーに転じ「世界まるごとHOWマッチ」などで知られた。99年4月開始の「トクダネ!」の司会を2021年まで務めた。ガン闘病を公表していた。

(加茂さくら=宝塚時代)(小倉智昭)

 日本のサッカージャーナリストの草分けと言われる賀川浩が12月5日死去、99歳。戦後すぐに自らサッカー選手として活躍、52年から産経新聞のスポーツ記者となった。ワールドカップ取材歴10回に及び、日本サッカーの普及に貢献した。2010年に日本サッカー殿堂入り、2015年にはFIFA会長賞を受賞している。名前を知らなかったがサッカー隆盛の影にこういう人がいた。

(賀川浩)

 哲学者の清水多吉が12月3日死去、91歳。フランクフルト学派の研究で知られ、マルクーゼやハーバーマスを多数翻訳した。著書に『一九三〇年代の光と影 フランクフルト研究所』『ヴァーグナー家の人々 30年代バイロイトとナチズム』『ベンヤミンの憂鬱』など。戦前ドイツの動向が注目されていた70年代頃に多く読まれた本を書いた。21世紀になると、西周、岡倉天心、柳田国男などの評伝を書いている。またクラウゼヴィッツ『戦争論』の翻訳や紹介書でも知られた。

(清水多吉)

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オリビア・ハッセー、ジミー・カーター、フリーマントル他ー2024年12月の訃報①

2025年01月08日 22時24分08秒 | 追悼

 2024年12月の訃報特集。最近よく「今月は1回で終わるかな」と思っていると、月末に重要な訃報が相次ぐことが多い。12月もそうだったが、中でもオリビア・ハッセー(Olivia Hussey)が73歳で亡くなったというニュースは悲しかった。「オリヴィア・ハッシー」と書くべきかもしれないが、一応マスコミの訃報通りに表記する。今では誰だと言われるんじゃないかと思うが、1968年の映画『ロミオとジュリエット』(フランコ・ゼッフィレリ監督)のジュリエットを16歳で演じた女優である。

(オリビア・ハッセー)

 若いようだけど、シェイクスピアの原作では14歳なのである。相手役はレナード・ホワイティングで一歳上。映画は素晴らしい傑作で、全世界で大ヒットし作品的にも高く評価された。(米国アカデミー賞で作品、監督賞などにノミネートされ、撮影賞、衣装デザイン賞を受賞した。)僕は公開時はまだ中学1年生なので見てないけど、名画座でよくやっていたから若い時に見ている。素晴らしい映像、忘れられないニーノ・ロータのテーマ曲、そしてオリビア・ハッセーの初々しい魅力に魅せられた。

 そしてこの人はどんな大女優になるんだろうと思ったけれど、案に相違してあまり恵まれない女優人生を送ることになった。だから、それ以後のことはあまり知りたくないし、ましてや書きたくもない。例えば、1980年に日本の歌手布施明と結婚した(1989年に離婚)とか。今では布施明も解説がいるかもしれないが。10代で活躍した俳優はなかなか大成出来ないことが多い。『ペーパームーン』のテイタム・オニール、『エクソシスト』のリンダ・ブレアーなども、それが生涯の代表作になった。『タクシー・ドライバー』のジョディ・フォスターの方が例外と言えるだろう。これは日本でも同じだろう。

 その後は『暗闇にベルが鳴る』(74)、『ナイル殺人事件』(78)などに出た他、深作欣二監督『復活の日』でパンデミックで人類が滅びた時に、ノルウェーの南極基地隊員として生き残る役をやっていた。しかし、テレビ作品の方が多く、日本には紹介されていない。21世紀になって、念願だった『マザー・テレサ』のタイトルロールを演じて名前を思い出せてくれた。ところで、最近になって『ロミオとジュリエット』撮影で未成年のヌードシーンが強制されたと告発したというニュースが流れた。僕はDVDを持っているけど、まだ見てないのでどういうシーンだったか思い出せないんだけど。

(『ロミオとジュリエット』)

 書きすぎたので、他の人は簡単に。1977年~1981年にアメリカ大統領を務めたジミー・カーターが12月30日に死去、100歳。よく「ピーナツ農家からホワイトハウスへ」と言われたが、1971年から75年にジョージア州知事を務めて人種差別撤廃などに取り組んだ実績があった。ただ76年大統領選に出馬したときには、全米的には無名に近かった。任期中はイラン・イスラム革命ソ連のアフガニスタン侵攻に直面し、不運な大統領だった。イランではアメリカ大使館員人質事件が起き、救出作戦に失敗した。80年にはアフガン侵攻に対し、モスクワ五輪ボイコットを呼びかけた。80年大統領選ではロナルド・レーガンに大敗したが、退任後に世界各地を訪れ平和や人権活動を推進し、「最も優れた元大統領」と呼ばれた。2002年にノーベル平和賞受賞。

(ジミー・カーター)

  2004年から14年まで2期10年間インドの首相を務めたマンモハン・シンが12月26日死去、92歳。写真のターバンを見れば判るとおり、少数派のシーク教徒だった。中央銀行総裁、財務相などを務めた後、2004年に与党国民会議派に請われて首相に就任した。(国民会議派総裁のソニア・ガンジーがイタリア出身なので辞退したため。)経済政策ではそれまでの社会主義的統制経済から自由化路線に切り替え、90年代には「インドの鄧小平」と呼ばれた。インド経済の成長の度代を築いた政治家と評価されている。しかし、2014年の総選挙で敗北し、人民党のナレンドラ・モディ首相と交代した。

(マンモハン・シン)

 アメリカのプロ野球選手リッキー・ヘンダーソンが12月20日死去、65歳。メジャーリーグで最高の盗塁王として知られ、通算盗塁記録1406は歴代1位。1シーズン最高は1980年の130盗塁と言うんだからすごい。大谷の「50ー50」もすごいけど、盗塁だけに限ればリッキー・ヘンダーソンは驚くべき選手だった。盗塁王も14回記録している。通算得点2295も歴代1位。通算ホームランは297本で長距離打者とは言えないが、先頭打者ホームラン81本も歴代1位となっている。1979年から2003年まで現役で活躍し、70年代、80年代、90年代、00年代の4年代に盗塁を記録した唯一の選手。盗塁に関しては誰も抜けないと思う。

(リッキー・ヘンダーソン)

 日本ではなぜか報道されなかったが、イギリスのスパイ小説作家、ノンフィクション作家のブライアン・フリーマントルの訃報が12月31日に公表された。元々はジャーナリストだが、70年代にスパイ小説を書いて有名になった。チャーリー・マフィンを主人公にしたシリーズで知られ、『消されかけた男』に始まる14作はすべて新潮文庫で刊行され日本でもファンが多かった。また『CIA』『KGB』『FIX-世界の麻薬コネクション-』などの世界の情報機関や犯罪組織に関するノンフィクションも邦訳されずいぶん読まれた。僕はどっちの系列も読んでいて、面白い上に役立つ情報いっぱいだったが多作なので未読も多い。

(ブライアン・フリーマントル)

 ドイツの映画監督ヴォルフガング・ベッカーが12月12日死去、70歳。この人も報道はないけれど、『バグダッド・カフェ』のパーシー・アドロンの訃報(2024年3月)を見逃したので、ちょっと注意深く見て知った。『グッバイ・レーニン!』(2003)の監督。これは母親が昏睡中に東ドイツが崩壊し、奇跡的に意識を回復した母にショックを与えないよう皆で東ドイツが存続しているように装うというコメディで、当時は大評判になった。他に『僕とカミンスキーの旅』(2015)がある。また、インドの映画監督シャーム・ベネガルが12月23日死去、90歳。70年代に「インディアン・ニューシネマの旗手」と呼ばれた人で、日本ではアジア映画祭、大インド映画祭などで『ミュージカル女優』(77)、『ゴアの恋歌』(85)が紹介された。有名な映画監督グル・ダッドのいとこに当たる。社会性と娯楽性を兼ね備えた巨匠で、『ミュージカル女優』では「ボリウッド」の裏側を鋭く描いている。

ヴォルフガング・ベッカー)(シャーム・ベネガル)

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谷川俊太郎はかがやく宇宙の微塵となった、「じゃあね」ー2024年11月の訃報③

2024年12月09日 20時23分53秒 | 追悼

 詩人谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)が2024年11月12日に死去、92歳。読み方は「たにかわ」で濁らない。「たにがわ」と濁る名前もあるので、僕も今まで間違って読んでいた。Wikipediaには「詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家」と出ているが、別の仕事も詩人の延長である。何しろ詩集だけでも100冊以上、絵本も同じく100冊以上ある。年平均2冊以上出してきたのである。大学教授にも小説家にもならず、一貫して詩人として生きたのだが、そんな人は他に思い浮かばない。中国人の谷川研究者である田原(ティアン・ユアン)によれば、世界的に読まれている日本の詩人は松尾芭蕉と谷川俊太郎だけということだ。

 僕は今まであまり谷川俊太郎を読んで来なかった。今回読んでみようと思ったのだが、何を読めばいいか。岩波文庫に『自選谷川俊太郎詩集』があるが、本屋になかった。他に何かあるかなと思ったら、集英社文庫に先の中国人研究者田原の編で『谷川俊太郎詩選集』が4冊あることに気付いた。2005年に3冊出て、その後書いた分を2016年にまとめた。集英社文庫にはその他『二十億光年の孤独』他詩集がいくつも入っている。今まで気付かなかったが、ちゃんと読むならまず集英社文庫を探してみるべきだろう。そういうことをしているとお金もヒマもかかるんだけど、読んだだけの収穫は得られたと思う。

(『谷川俊太郎詩選集1』)

 谷川俊太郎は父谷川徹三と母多喜子の一人っ子として生まれた。谷川徹三は1963年から65年にかけて法政大学総長を務めた哲学者で、芸術院会員にもなった人物である。生前は非常に有名な人だったが、今では数多い著作を読む人も少ないだろう。母親は衆議院議員長田桃蔵という人の娘で、この母方の祖父が孫を見たいと強く望んだため俊太郎が生まれたという。谷川徹三夫妻は特に子どもが欲しくなかったらしく、戦前には珍しく一人っ子として育った。そして父親は北軽井沢の大学村に別荘を所有していた。

 それは草軽電鉄が所有していた土地を法政大学関連人物に売った別荘地である。野上豊一郎・弥生子夫妻を中心に、法政以外でも気に入った岩波茂雄安倍能成田辺元岸田国士など当時のそうそうたる文化人が購入していた。谷川俊太郎は東京生まれだが、浅間山麓の雄大な大自然に親しんで育った。このことが俊太郎少年を「詩人」にした最大の要因だろう。後に最初の妻となる岸田衿子(詩人)は劇作家岸田国士の長女なので、実は幼なじみだったのである。

(若い頃)

 1944年に豊多摩中学に入学したが、もう戦時下。直接の被害にはあわなかったが、空襲を体験し死体を見ている。一端母の実家淀に疎開して終戦を迎え、元の豊多摩中学(1948年に新制都立第十三高校、1950年に豊多摩高校)に復学した。しかし、勉強の意味を見出せず、不登校になり教師とも衝突した。大学進学の意欲もなくなり、定時制に転学して1950年にようやく卒業した。しかし、ほとんど「引きこもり」である。家で模型飛行機やラジオを作るかたわら、詩作に熱中した。

 父親も心配したため、俊太郎は詩作のノートを見せた。どうせ子どもの遊び程度と考えていた父は、そのノートを見て才能を感じ、友人の三好達治に見せた。三好は大いに興奮して、三好の序文付きで6編が『文學界』に掲載されるという幸運なデビューとなった。そのノートは刊行の予定だったが、版元が倒産。父親が原版を買い取って自費出版的に出版されたのが『二十億年の孤独』である。1952年のことで、これは石原慎太郎や大江健三郎より数年早かった。この詩集は今読んでも「若書きの懐かしさ」にあふれた作品が多く、才能が感じられる。しかし、父なくして幸運なデビューはなかったのである。

(「二十億光年の孤独」初版)

 50年代に一時誌誌『』(かい)に参加したが、生涯のほとんどはどの流派にも参加せず、一人で詩作を続けた。それも平明な言葉でつづられ「人生」を考えるような詩が多かった。およそあらゆる方法、形式の現代詩を書いたが、「天成の詩人」と呼ぶしかなく、言葉が自在に操られている。長編小説は書けないと自分で言っていて、詩もそんなに長くないものが多い。そういうタイプの詩人だったのである。そこで僕が何で谷川俊太郎をあまり読んでこなかったかも判明する。僕は若い頃に結構日本の現代詩人を読んでいたが、同じ「櫂」同人の大岡信茨木のり子吉野弘川崎洋などの方が手法的にも内容的にも興味深かったのだ。

 谷川俊太郎が一番輝いていたのは、70年代から80年代頃だと思う。向かうところ敵なしの感じで、詩作や翻訳を多数出版した。1975年に対照的な『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』と『定義』を刊行して大評判となり、僕も珍しく現代詩集を買って読んだ。同じ年から「マザーグース」の翻訳もしている。その2年前には絵本『ことばあそびうた』が大評判になっていた。「かっぱかっぱらった かっぱらっぱかっぱらった」で始まる詩は有名だろう。このように「ナンセンス」を積極的に再評価したのも時代風潮にあっていた。意味のあるもの、ないものにこだわらず、日本語表現の幅を大きく広げた詩人だ。

(北軽井沢で)

 こうして書いていると終わらない。僕が特に初期のことを書いたのは、「詩人」の出発地を確認したかったからだ。デビュー作に「孤独」とあるが、これは社会的な孤立、差別などではなく、夢想好きな少年の「宇宙的規模」の観念的孤独である。それを自分でも認めているが、社会が大きく変わってもコスモロジカル(宇宙的)な孤独感は今も生き生きと通じるのだ。「社会派」的作風の詩を書けない谷川俊太郎だからこそ、「言葉遊び」などが現代の若者にも受けるのと同様である。

 代表作を挙げるとさらに長くなるので控える。好き嫌いもあるだろうが、僕は冒頭に書いた「詩選集」では第2巻(1975~88)あたりが一番輝いていたのではないかと思う。もっともそれは僕の「青春」と同時代だからこそ、そう感じてしまうのかもしれない。長男の谷川賢作は「父は『かがやく宇宙の微塵(みじん)』になったのではないか」と述べている(朝日新聞)。この言葉は宮澤賢治の『農民芸術概論綱要』にあるものだが、本人も21世紀に書いた「」という詩の中で「私も「私」も〈かがやく宇宙の微塵〉となった」と書いている。なお、「私は母によって生まれた私/「私」は言語によって生まれた私」と書いている。

 2024年はフォークシンガー高石ともやも亡くなった年になった。高石ともやが谷川俊太郎の詩に曲を付けた『あわてなさんな』というCDがあって、かつて高石ともや年忘れコンサートのゲストに谷川俊太郎が登場したことがあった。谷川俊太郎本人を見たただ一回の体験。そのCDにある谷川俊太郎の詩『じゃあね』を一部紹介したい。

「忘れちゃっておくれ/あの日のこと/くやしかったあの日のこと/けれどもそれももう過ぎ去って/じゃあね/じゃあね/

 年をとるのはこわいけど/ぼくにはぼくの日々がある/いつか夜明けの夢のはざまで/また会うこともあるかもしれない/じゃあね /もうふり返らなくてもいいんだよ/さよならよりもきっぱりと/じゃあね」

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