goo blog サービス終了のお知らせ 

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「パラダイス三部作」

2014年03月25日 23時48分43秒 |  〃  (新作外国映画)
 オーストリアの映画監督ウルリヒ・ザイドルの作った「パラダイス三部作」は、僕には非常に面白かった。娯楽映画じゃないだけでなく、普通のアート映画というより、人間を見つめるドキュメンタリー、あるいは「毒が強い」純文学作品という感じである。それぞれ「パラダイス/愛」「パラダイス/神」「パラダイス/希望」と題されている。それぞれ独立した作品だけど、登場人物に関連性がある。

 第1作の「愛」を見れば判るが、離婚した母と娘の家庭があり、夏休みに母はケニアのリゾートに旅行する。そのため娘は叔母(母の姉)にいったん預けられる。その後、娘(13歳)は肥満児のためのダイエット合宿に参加させられる。ケニアでの母の日々が「愛」で、叔母の信仰生活が「神」娘のダイエット合宿が「希望」ということになる。「愛」は2012年のカンヌ、「神」は2012年のヴェネツィア、「希望」は2013年のベルリンと三大映画祭のコンペに出品されて、「神」は審査員特別賞を受賞した。

 この映画のすごい所は、「人が見たくないもの」を直球勝負でぶつけてくることで、だからいわゆる「娯楽映画的面白さ」はない。でも、一種の「怖いもの見たさ」や「他人の生活を覗き込む隠微な面白さ」があるのは否定できない。「見ちゃいられないもの」を見せつけられた気恥ずかしさが抜けない映画でもある。ああ面白かったとか、いい映画を見たなあとか、そういった安定した心情が残らず、どうにもザラザラした触感が残り続ける。だから多くの人に勧められる映画ではないのだけど、それでもこの三部作が傑作であり、重要な達成であるのは間違いない。

 映画というのは、本来製作に巨額の資金が必要なので、「観客が見たいもの」を撮影することがほとんどである。(その代り、複製芸術なので、成功すれば一挙に製作費を回収できる。)だから、カッコいい主演男優の大アクション映画とか、美男美女が結ばれるまで一波乱も二波乱もある大恋愛映画とかが無数に作られてきた。純文学の映画化なんかもあるけど、それはそれで一定の観客がある。社会派の映画も「見ておくべきテーマ」だと考える客が想定できる。若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」は凄惨なリンチ場面が連続するから、見てる間に出ていく客がとても多かった。でも新左翼運動の暗部を「辛くても直視しなければ」と考える少数の観客に支えられている。

 ヘテロセクシャル(異性愛)のクリスチャンだから、この映画の家族はヨーロッパ社会の多数派に属してはいる。だが、人生では恵まれている方ではない。映画界には美女スターが何人もいるけど、この映画の主人公3人は、要するに「恋愛市場での価値が低い」のである。母親のテレサもその姉のアンナ・マリアも、50代で太っていて美人ではない。その娘も太っていて、夏休みはダイエット合宿なんかに行かないといけない。だから三人とも、恋愛市場で高価値の男性にめぐり合うことはないのだが、それでも人は「パラダイス」(楽園)を人生に求めるのである。
  
 「見たくないもの見せつけ度」で一番ぶっ飛んでいる第一作の「」が僕には一番面白かった。テレサ(自閉症患者のヘルパー)はケニアのビーチリゾートで、若い黒人男とのセックスにのめり込む。最初は自然の豊かさに歓喜していたが、他の中高年女性から「若い黒人と交際してる」と教えられる。これは実態としてあるようで、そういう中高年女性を「シュガーママ」、男を「ビーチボーイ」と呼ぶらしい。ビーチは完全に「リゾート客」と「現地人」が区切られた「植民地」的空間である。警備区域を抜けてビーチに近づくと、お土産を買ってくれと黒人男性が殺到する。そういう男たちを追い払ってくれる男が現われ、心の付き合いをしようとか言われる。最初は躊躇していたテレサも、ついにホテルに行っちゃう。悪いけど見て美しいようなヌードではないが、主演女優はブラジャーを取ったらオッパイが下がるなどと「自虐ネタ」を演じている。「見ちゃいられない」シーン続出。でもだんだん妹(?)の子が病気だとかいろいろとお金をくれないかという話になって行って…。はっきり言って、自国の恋愛市場では価値が低い女性が何で発展途上国では「モテる」のか、判りそうなもんだけど。これが「脂ぎった中年男性が、カネで現地の少女を買う」という話だったら、もっと「安全に怒りを表出できる」。「可愛い少女に同情という名の好奇心」を抱くこともできる。ここまで「居心地の悪い映画」にはならない。この居心地の悪さは半端でない。

 「」では、アンナ・マリア(放射線技師)は夏休みも旅行に行かず、ウィーンの移民地区で信仰を広める活動をしている。聖母像を持って「一緒にマリア様に祈りを捧げましょう」と訪ねて回っている。もちろんほとんどは相手にされず追い払われるけど。家では祈祷会を開いていて、イエス像に毎日信仰を捧げている。それどころか、罪の犠牲のため自らの体を鞭打って(本当に自分で自分の体をムチで打って)、神と共に生きる「パラダイス」を生きる。ところが驚くべきことに、独身かと思ってたら夫がいた。それも「車いすのエジプト人」なのである。事故で負傷していたが、2年ぶりに家に帰ってきて、映画の途中で登場する。移民で来て定住したムスリムという設定である。どういう事情で結婚したのか描かれないが、お互いがお互いを必要とした事情があったんだろう。(あからさまに言えば、夫は定住目的、妻は他には相手がいなかったため。)だから前はそこまで信仰に凝り固まっていなかったはずなのだが…。夫からすれば、帰って見たら妻が変貌してた。一番身近なところに同情を示すべき障害者がいるわけだが、もう妻は夫を相手にしない。壮絶な家庭内バトルになってしまうという、全く救いのない展開で…。この「妻が宗教に行っちゃう」という、これもまた「見ちゃいられない」夫婦の物語。

 最後の「希望」では、13歳の娘メラニーはダイエット合宿所に来ている医師に恋してしまう。いやあ「中年男」と「少女」の「恋愛(みたいなもの)」は、物語的には定番ではあるけれど、もっとカッコいい中年男ともっと魅力的な美少女じゃないと、悪いけど「禁断の恋」にならないでしょう。だってここは夏休みのダイエット合宿ですよ。でもまあ、人はどこでも恋をすると言えばその通り。それにしても、オーストリアにも軍隊的な夏の肥満児向け合宿なんてのがあるんだ。何の説明もないので、その医師に妻子がいるのかどうかは判らないけど、特にカッコいいとも見えないただのオジサンだと思う。メラニーだって「デブの小娘」に違いない。映画はそういう間柄でも「奇跡の愛」が芽生えるという展開ではもちろんなく、ただひたすら(傍から見れば)みっともない姿を描く。夜は仲間同士で酒宴をするし、抜け出して酒場に潜り込んだりする。実際に13歳の時の出演だというけど、日本なら高校生にはなっていそうな感じ。医師の方も満更ではないというか、ロリコン的なところがあるらしいが、もちろん実りなく、限られたケータイ時間に母や父に留守電を入れるしかない…。これもまた「見ちゃいられない」少女の一夏

 監督のウルリヒ・ザイドル(1952~)は長く記録映画を作っていた監督とのことで、山形国際ドキュメンタリー映画祭で「予測された喪失」という映画が優秀賞を得ている。この10年ほどは劇映画を作っているが、やはりある種「記録映画的な作り」になっている。シーンの設定は細かくあるけど、セリフは事前にはないという。アマチュアの役者も起用して、セリフは即興で作って、それをドキュメンタリー的に撮影する。映画は「順撮り」で(シーンの順番に沿って撮影する)、音楽は基本的にない。こうして、劇映画の設定で演じている俳優を記録映画的に撮るという映画が誕生した。そうするとセット撮影やクローズアップ、クレーンによる撮影などもないわけで、映画は静かで内省的なムードが出てくる。また家や家の外を撮るシーンが多いので、「四角」で区切られた世界がくっきりと浮かび上がる構図の美しさが印象的。非常にシンプルな世界なんだけど、忘れがたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「ネブラスカ」

2014年03月19日 22時55分14秒 |  〃  (新作外国映画)
 本当は震災3年で原発問題を書くつもりが風邪を引いてしばらくお休みしてしまった。疲れてるだけだと思って、土曜夜にチケットを買ってた落語会「三遊ゆきどけの会」(国立演芸場)に頑張って行った。日曜は新文芸坐で有馬稲子トークショーに行くつもりが、もう無理だなと思い休んでたけど、一日休んだから大丈夫とブログも書いた。でもその後月火と休んでしまったわけ。で、今日は外出してきて、見た映画「ネブラスカ」を先に紹介しておきたい。

 新宿武蔵野館で見たのだが、先に「早熟のアイオワ」という映画を見た。これはジェニファー・ローレンスの初主演映画で、困難な環境で生きる少女たちを描く作品。「キック・アス」シリーズで有名になったクロエ・グレース・モレッツも出ていて、2008年の作品が今公開されたわけである。それはともかく、題名にあるアイオワとかネブラスカ、アメリカの州名だということは大体知ってるのではないかと思うが、では、どこだと言われたら首をかしげる人がほとんどだろう。どちらもアメリカ本土の中西部と言われる地方だが、ちょうどアメリカの中心部と言えるあたりである。五大湖の南、大都市シカゴがあるのがイリノイ州、その西がアイオワ州で、さらに西がネブラスカ州である。そのネブラスカの州都がリンカーンで、そこが映画「ネブラスカ」で主人公が目指す町となっている。

 最近、どちらもアカデミー作品賞ノミネートの「アメリカン・ハッスル」「ダラス・バイヤーズクラブ」を紹介したが、この「ネブラスカ」もアカデミー賞ノミネート作品。僕はこの映画が一番好きだし、傑作だと思う。ロード・ムービーで、旅をしながら父と息子、さらに母や兄、親せきとの関係があぶりだされていき、アメリカの地方の状況も描かれていく。アメリカの風景を描く撮影も素晴らしく、見ていて心に沁みる。ただし、設定自体はかなり苦い。冒頭、老人が高速道路を歩いていて、パトカーに止められる。こういうことはアメリカでもあるんだ。その老人ウディはモンタナ州(カナダと接する州)に住んでいて、なんかの懸賞で100万ドルに当選したという郵便をもらって、賞金を取りにネブラスカまで歩いて行こうとしているのである。息子で電気店を経営しているデイビッドが呼ばれて引き取るが、最近は毎日こうして出ているらしい。その当選クジはどう見てもインチキで、周りはみな止めてるのだが、本人は当たってると信じ込んでる。ほとんどボケかかってるのではないか。

 という冒頭部分が、まず白黒で示される。えっ、モノクロ映画だったのかという感じだが、アメリカの自然を映し出すカメラが美しく、白黒映画を今作るのもいいものだと思う。結局、本人が思い込んでるので仕方ないし、たまに親子で一緒に出掛けるのもいいかという感じで、デイビッドなら仕事を休もうと思えば休めないことはないので、車で連れて行くことになる。でも父は昔から飲酒癖があり、(運転免許も取り上げられている)、旅のあちこちで飲み明かすことになる。「父さん、酒を飲んでるのか?」「ビールは酒ではない」ってな感じである。だんだん息子の方も、たまには親子で飲もうかという感じになる。そして、昔住んでいたホーソーンという町に着く。これは架空の町ということだが、ここに親せきが住んでいて、昔はウディも住んでいた。母と知り合ったのもこの町。自動車工場を経営していたという。例によって飲みに出かけ、昔の知人にも会う。息子は賞金の話はするなと釘を刺しておいたのだが、酔っぱらうとやはりしゃべってしまい、大金持ちになって帰ってきたとあっという間に広まってしまう。そこに母と兄もやってきて、家族と親せきの様々な姿が見えてくる…。さて、この賞金話の真相は…というところは映画で確認を。

 この父と母のイザコザとダメ具合が実に身に沁みる。父ももうボケかかっているとしか思えないが、それでも賞金をもらいたい心情には「思い」があるのである。父も昔から酒で失敗してきたらしいが、母もいつも一言多くけっこうウットウシイ。そういう実によく判る夫婦の関係がリアリティを持って描かれている。この老父と演じているのが、ブルース・ダーンという役者で、西部劇を始め様々な娯楽映画で脇役を演じてきたが、初めてのアカデミー賞主演男優賞ノミネート。その前に昨年のカンヌ映画祭男優賞。この老人役が素晴らしい。前にデビッド・リンチの「ストレイト・ストーリー」という芝刈り機を運転して兄に会いに行く老人の映画があったが、これは歩いてモンタナからネブラスカに行こうというんだから、無茶振りはさらに増している。

 監督はアレクサンダー・ペインで、「アバウト・シュミット」「サイドウェイ」「ファミリー・ツリー」を監督した人である。このうち、「サイドウェイ」「ファミリー・ツリー」ではアカデミー賞脚色賞を受賞している。今回はオリジナル脚本をボブ・ネルソンという人が書いてアカデミー賞にノミネート、他に母親役のジューン・スキップの助演女優賞、監督賞、撮影賞と6部門でノミネートされたが、結局受賞はしなかった。でもアカデミー賞を取れなかったのが、むしろこの映画の勲章で、地方の生活と人生をしみじみ見つめた地味系の白黒映画だから、映画祭向けの作品だろう。ペイン監督の作品は上記3本とも見ているが、好きなタイプの映画が多い。特にカリフォルニアのワイナリーを独身最後の日々にめぐり歩こうという「サイドウェイ」が面白かった。ロード・ムービーが多い。この映画も滋味あふれる映画で、是非おススメ。こういう個人情報集め目当てと思う「私設宝くじ」みたいなのはアメリカにも多いのだろう。老親の問題も身につまされる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「盗まれた」復興と安倍政権-震災3年目②

2014年03月16日 21時36分06秒 |  〃 (社会問題)
 自民党の2013年参議院選挙公約を見てみる。(以前は自民党のホームページを開くと、すぐに選挙公約のバナーがあったが、今は「転嫁拒否は違法です!」と大きく出る。過去の公約は「政策」の中の「選挙関連」にある。) さて、公約はいくつかのパートに分かれているが、以下のような構成になっている。(数字の順番は付いてないので、出てくる順に付けた。)
①「まず、復興を加速します。
②「さあ、経済を取り戻そう。
③「さあ、地域の活力を取り戻そう。」
④「さあ、農山漁村の底力を取り戻そう。」
⑤「さあ、外交・防衛を取り戻そう。」
⑥「さあ、安心を取り戻そう。」
⑦「さあ、教育を取り戻そう。」
⑧「さあ、国民のための政治・行政改革を。」
⑨「さあ、時代が求める憲法を。」

 この「まず、復興」、2番目に「経済」というのは、2012年衆議院選挙でも同様だった。参議院選挙に勝利し、「ねじれ」が解消された。公約に書いてあるんだから、「外交・防衛」「教育」「憲法(解釈の変更)」に取り組んでいるのだと言われれば、その通りかもしれない。しかし、あくまでも「まず、復興」だったはずである。どうして国民を二分する行動を安倍政権は取り続けるのか。「靖国参拝」などはその典型で、賛否は否の方が若干多い調査が多いが、大筋において「国論は二分」されている。どういう意見を支持するかという問題と別に、「国論が二分されると判っている」「経済に悪影響を与えかねない」と事前に判断できる行動を何故するのだろうかと問う必要がある

 大震災3年目を迎えて、確かに時間も経ち、「震災の風化」とでも言うべきムードが東京にはあると思う。しかし、そのようなムードをもたらしているのは、単に「時間の経過」ではないと思う。一方においては「2020年東京五輪」があり、自民党の政権復帰をきっかけにして「国土強靭化」の名のもとに、すっかり「公共事業推進」が戻ってきた。地方の保守勢力にとっては、待ち望んだ政権交代だっただろう。経済期待の保守支持層の岩盤が固いので、安倍政権の支持率が長期に安定している。「特定秘密保護法」をきっかけに、一時は確かに下落傾向があったが、年明けとともに元に戻ってきた。調査により多少の差はあるが、5割程度は維持し続けている。

 もう一方、安倍政権を支持しない層の「反対度」はどんどん上がっている。もはや「ガマンが出来ない」というレベルに上がっているのではないか。僕にとっても震災が少し遠くなってきた気がするのだが、その直接のきっかけは安倍政権の打ち出す様々な「悪法」に対応するのに精一杯だということにある。これだけ外交、教育でどんどん「戦後レジームからの脱却」政策が進行していくと、僕が専門的に勉強してきたわけではない「原発問題」や「これからの水産業のあり方」などへの対応は不可能に近い。

 僕の気持からすれば、あからさまに書くなら「「復興」は安倍政権によって盗まれた」という気分である。「民主党の対応が遅いから復興が進まない」などと言っておいて、政権に復帰すれば復興、経済より、防衛・安保などをやりたいのである。政権復帰一期目は、復興と経済再生に専念し、諸外国と摩擦を起こしたり、国論を分裂させるような政策は抑制して欲しかった。僕はそう考えるけれど、まあ、言っても仕方ないのだろう。それでも僕の予想を超えたスピードでものごとは進行している。

 その安倍政権の支持率が下がらない。安倍政権への反発は、もともと安倍政権を支持しない層から大きく広がって行かない。それは国民の中に「とにかくまだアベノミクスに期待するしかない」という気分が強いからではないかと思う。個々の政策課題で調査をすれば、安倍政権のすすめる防衛、外交、教育政策が大きな支持を受けているとは言えないのだが、政権全体の支持率に大きな影響を与えないのである。これをどう考えるべきかは、僕にはまだ判断ができない。そもそも「政権2年目を迎えて、支持率が5割程度を維持している」というのは、「政権が2年続く」のが前提だから、前の第一次安倍内閣を含めて、比較対象がここしばらくない。数年以上続いた長期政権は小泉、中曽根しかないので、今後の予想は立てにくい。

 ただ、今までの保守政権を思い出すと、人事でつまづいたのがきっかけで支持率が落ちることが多かった、小泉政権では、田中真紀子外相の更迭が一つの引き金になった。安倍政権でも、NHK経営委員とか法制局長官など、相当強引な人事を行い、ほころびを見せてしまった。ただ、閣僚の失言が少ない。(麻生副首相の「ナチスの手法」発言などひどい例もあったけれど。)閣僚の中にはウルトラタカ派はかなりいるのに、外交問題化するような発言をしないでいる、下野した3年間がよほどきつかったのだろう。しかし、参院選から1年経ち、内閣改造も行われるとなると、少しづつ「失言」が出てくるかもしれない。「敵失」しかないのでは困るのだが、衆参両院を押さえ、選挙も当分ないとあっては、ますます「復興」は盗まれていくんだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復興「まだら模様」の時代-震災3年目①

2014年03月14日 23時46分09秒 |  〃 (社会問題)
 3月11日に、政府主催の「東日本大震災三周年追悼式」が国立劇場で開かれた。式典における天皇の言葉には「永きにわたって国民皆が心をひとつにして寄り添っていくことが大切と思います」という一節がある。さて、安倍首相は午後2時13分に国立劇場に到着、式典に参列し、式辞を述べ献花した。「首相動静」を見ると、3時38分に官邸に戻って、その後4時41分から国家安全保障会議が開催された。そこで「武器輸出三原則」に代わる新原則の素案が報告された。つまり、もはや安倍内閣において、東日本大震災追悼式は日常業務の一つに過ぎず、直後に「国民が心をひとつに」できない政策を推進するスケジュールがあらかじめ組まれていたわけである。

 僕は震災直後にボランティアとして被災地に行って、1年目、2年目の「3・11」にはブログに記事を書いている。しかし、今年はあえて当日には書かなかった。(前日にレイトショーで見た「東京難民」の終映が近いから先に書いたという事情もあったけど。)震災当日に書くと、その日のマスコミ報道に影響されてしまうのを避けられないと自分でも思う。「復興に向け出来ることを協力して行きたい」とか「原発問題を忘れてはならないと改めて痛感する」とか、別に自分でウソを書くわけではないし、実際そう思っているけれども、まあそういう(はっきり言ってしまえば)「タテマエ」だけ書いて終わってしまいそうである。今年あたりからは、「3・11に思うこと」だけではなく、「3・11当日がどう迎えられたか」も考える材料になっていくんだろうと思う。だから、あえて当日をはずし、追悼式典の「日常化」の話から書き始めたのである。

 確かに3年がたって、少し変わってきたかなと思う。自分の気持ちもそうだし、世の中のムードもそうだろう。東京の話で言えば、めっきり「余震が減った」と思う。余震と思われる福島や茨城の沖合を震源とする地震は、去年あたりまで結構あった。地震が多いと、やはり原発事故や津波を思い出し、ちょっと恐怖感が甦るのである。では忘れたかと言えば、別に忘れたわけではない。東京では関東大震災や東京大空襲があったわけだが、それは日常的にはほとんど思い出さない。地下鉄の霞ヶ関駅はよく通るけれど、もう地下鉄サリン事件をいちいち思い出すことはない。それに比べれば、東日本大震災はまだずっと生々しい記憶である。

 だけど、ある程度時間がたったという事実も否定できない。3年間というのは、震災当時小学6年生だった子どもが中学を卒業してしまうという時間である。時間がたてば、当時は生々しかった記憶も何だか遠くなる。その間も日々、時間は進行していたのだから当然だろう。実際、東日本大震災の直前に起こったニュージーランド南島地震のことは、もうほとんど振り返られない。多くの日本人がクライストチャーチの語学学校に研修に行っていて犠牲となったのだが。(調べてみると、日本人28人を含む185人の死者、行方不明が出た。)

 この「忘れる」ということは、我々が日常生活を送って行ける基礎的条件なんだから、あまり倫理的な批判をしてはいけないと思う。(そうでなかったらすべての人が失敗体験が一度でもあれば人生が終わってしまう。)でも、現に原発事故で家を突然追われたまま帰還できない人が何万人もいる。だから「原発事故を風化させてはいけない」というのも判る。実際に大きな被害を受けた当事者は、もちろん軽々に忘れられるわけがない。家族を失い、家を失ったら、「その日から時間は止まっている」というのが実際のところだろう。だから、ここ数年間が一番、「直接大きな被害を受けた人々」と「それほど被害を受けなかった人々」との様々な差が大きくなるときだろう。だからどうすればいいと簡単には言えないけれど、「そういう段階に入ってきた」と認識していることは大切だと思う。

 大津波の被害は青森から千葉に至る地域に及んだ。原発事故の放射能拡散は、ほとんど東日本一帯に及んだ。(静岡県のお茶が出荷停止になったりしたはずだ。)これほど大規模な災害は日本史上でも珍しい。とにかく戦災以来であることは間違いない。だから1年や2年で「復興」するはずがない。それは判っているので、一年目や二年目の段階では、「復興が遅れている」という批判もあったけれども、なかなか難しいというのも皆が承知していたと思う。でもこの一年の間に、気仙沼市で津波で乗り上げてしまった共徳丸の解体工事など、「震災遺構」の風景もかなり変わって行った。そこで見えてくるものは何だろうか。

 僕はこれから「復興のまだら模様」などと呼ばれる段階が始まると予想している。もともと東北の太平洋側一帯は県庁所在地からも遠く、過疎化が進行していた。震災が起きなかったら、仙台などの一部例外は別にして、大体の地域はゆっくりと過疎が進行し続けただろう。震災が起き、「復興」が叫ばれ、地盤沈下した土地のかさ上げ、高台への移住、防潮堤の再建などがスケジュール化された。どの町はもう放っておくとは言えないから、一応全部元に戻せるようなことを政府は言う。原発からの避難地区も、除染を進めながら少しづつでも帰還を進めるという話になっていた。今の段階ではっきり書いてしまえば、そういう「復興幻想」はもう崩れつつあるのではないかということである。

 もちろん一部の都市地区では、それなりに「復興」が進んで行くんだろう。でも思った以上に人口流出が激しく、なかなか元に戻れないという地区も出てくる。「復興は不可能」とは言えないので、マスコミなどでは「一部は復興しつつあるものの、厳しい地区もあり、復興はまだら模様の様相」などと表現するのではないかと思う。その直接の原因は(まだ東京五輪の直接影響は少ないと思うから)、「国土強靭化」とか「アベノミクス」などで、建設事業がスケジュール通り進行できないことだと思う。土木工事の人員や原料などが不足しているうえ、予算が思った以上に高騰していくのではないか。待っていられない人はどんどん都市に流出していく。子どもが町に住んでる人は一杯いるはずだから。だから住宅再建をしない人も多くなる。実際震災以後2割以上人口が減少している町も出てきているということである。だから、かつてオイルショックの後で開発がとん挫して荒れ野と化した苫東やむつ小川原などのミニ版が広がるのではないか。

 もっと深刻なのは原発避難地域で、家はあっても帰還できない生活が3年も続けば、もはや帰って農業や漁業に戻るというのは難しくなる一方だ。それでも「除染の遅れ」と言われる地域は帰還の可能性はあるが、原発そのものに近い双葉町、大熊町などは帰還できるメドが立たない。というか今の表現はまだ「配慮した言説」であって、はっきり言えば遠い未来はともかく、当面は「帰還不能地区」と言うしかないのだろうと思う。政府もどこかの時点で、「もう帰れないと思って、他の地区で生活再建を考えて欲しい」という時期が来るだろう。それはまだもう少し先なのではないかと思う。それを待っていられず、若い世代から他の地域に定住していく動きがはっきりするだろう。僕は自分に対策があるわけではないので、書いていいのかどうかとも思うけれど、認識のレベルではそのように考えているという話である。原発問題や安倍内閣の問題については、また別に書きたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「ダラス・バイヤーズクラブ」

2014年03月13日 21時48分58秒 |  〃  (新作外国映画)
 もう一本、新作映画の感想。マシュー・マコノヒーがアカデミー賞の主演男優賞を受けた「ダラス・バイヤーズクラブ」。映画に限らないが、人は大体事前に何らかの情報を得て行動を起こす。映画だったら、好きな俳優が出てるとか、ベストセラーの映画化だとか、原発事故の問題を追及してるとか…。だから、見てみると単に「情報確認」みたいな感想で終わってしまうことがままある。情報社会だから、既視感が常につきまとうのである。この映画も、チラシに「エイズ患者の希望の星となった男の生きざまを描いた感動の実話」とあり、まあその通りであって付け加える言葉もない感じなんだけど、やはり見てみると「発見」が幾つもある映画だった。

 時は1985年。「エイズ」の初期時代である。ロデオのカウボーイで電気技師のロンは、典型的なテキサス人。「酒と女の日々」を送っていて、いわゆる「マッチョ」的な価値観を持つ人物である。ある日、倒れて病院に担ぎ込まれると、「HIV陽性」で余命30日と言われる。そんなバカな。エイズと言えば、同性愛か麻薬患者の病気ではないか。自分は「酒と女」だけだから、誤診に決まっているではないか。しかし、周りにこの話が広まると、あいつはゲイだと忌避されてしまうのである。

 HIV(ヒト免疫不全ウィルス)が「異性との性交渉で感染する」なんて、今では全世界で学校で教える基本中の基本である。だけど、この病気が広まり始めた時期には、(アメリカでは)同性愛や麻薬注射針共有の感染が多く、アメリカの保守派の中には「不道徳な病」と見なす言説が流通していたのである。だからロンも、最初は自分を受け入れられないし、エイズを発症していることは認めるようになっても「自分はゲイではない」と強調する段階があったのである。

 主演のマシュー・マコノヒーと言っても、イメージが湧かない人が多いと思う。最近では「マジック・マイク」「ペーパーボーイ」「リンカーン弁護士」なんかに出ていたけれど、どれもひと癖ある人物を生き生きと演じていた。「リンカーン弁護士」というのは、マイクル・コナリーのミステリーの映画化で、原作のイメージと違うように僕には思えたけれど、ちょっと偏屈そうな感じが案外うまく出ていたと思う。近年では主演級の俳優だけど、演技派というか「ちょっと訳あり」みたいな役をオファーされる人である。今回も難役中の難役で、というのも病気でどんどん痩せて行ってしまうのを、実際に21キロ痩せて撮影に臨んだというすごさである。チラシの写真を見れば一目瞭然だが、その結果は驚くべき説得力が生じた。この演技は一見の価値がある。

 筋に戻れば、初めは抗がん薬のAZTという薬がHIVに有効ではないかという話が伝わり、治験が始まると自分もその薬を何とか入手しようとする。しかし、副作用も大きいのに製薬会社が独占していることに疑問を持つようになる。そして、もっと副作用が少なくて免疫力を向上できる薬を求めて、メキシコにも行く。その薬はアメリカでは未認可だったけれど、自分用に密輸してくる。しかし正規の病院では代替薬を得られず、それでは他の患者が助からない。もちろん「未認可の薬を売ることは違法」であるが、そこで考えた。「会員に代替薬を無料で配布する」という会を立ち上げ、その会に入会するときに高い入会金を取るというアイディアを。その組織が「ダラス・バイヤーズクラブ」である。これは当たり、多くの患者が詰めかける。

 その組織は病院で知り合ったゲイの患者レイヨンを協力者としてリクルートする。このレイヨンを演じているのがジャレット・レトという俳優で、アカデミー賞助演男優賞を受けた。僕も見てる様々な映画に出てきたが、あまり印象にはなかった。今回は基本は女装した役柄だけど、生きてきた道筋が正反対とも言えるロンと、ぶつかりながらも人間的に判りあっていく役を一世一代の名演で演じている。その後、ロンは世界を飛び回り、なんと日本にも来る。岡山の林原が開発したインターフェロンを輸入しようと考えたのである。国家を相手取った裁判闘争も起こすようになる。

 このように、単なる無知でマッチョなカウボーイだったような男が、国家を相手取る人権の闘士になっていくのだが、同時にきっちり金儲けもできる仕組みも整えるし、協力してくれる女医にもアプローチする。そういう複雑性を矛盾したまま行ききるようなロンを見ているうちに、どんな人間に中にも「聖なる部分」があるという啓示のような瞬間が訪れるのである。それがこの映画の見所で、俗を脱せずとも、また純粋な人助けだけでなくても、人は人生で己の生きるべきテーマを見つけて輝くということを示している。

 余命30日だったはずが、結局7年ほども生きて、ロンは亡くなる。世界的には無名の人物だろうが、この実在人物の魅力的設定がこの映画を成立させた。監督はジャン・マルク=ヴァレという人物で、フランス系カナダ人。「ヴィクトリア女王 世紀の愛」という映画を監督した人である。でも演出的に特に傑出しているというほどには思わなかった。現にアカデミー賞では作品賞や脚本賞にはノミネートされたが、監督賞にはノミネートもされなかった。アカデミー賞では、他にメイクアップ&ヘアスタイリング賞を取っていて、ロンやレイヨンなどのメイクは確かに評価すべきものだったなと思う。何と言っても、マシュー・マコノヒー一世一代の名演と闘うことの意味を考えるという映画だと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「東京難民」

2014年03月11日 21時17分11秒 | 映画 (新作日本映画)
 「東京難民」という映画を見た。若者よ是非見るべしという映画。
 
 父親が学費と生活費を仕送りしていた学生がいる。(東京の「三流大学」という設定。)母親が大学入学直前に死去し、建築事務所をやってる父はフィリピンパブに入り浸るようになる。学生はもう帰省せず、父ともしばらく会っていない。ある日大学へ行くと、学生カードが無効になっていて、学生課に行くと「学費未納」で除籍になったと告げられる。そんなバカな。あわてて帰ってみると、家は差し押さえられ誰もいない。東京に戻ると、住んでいたマンションも家賃未納で追い出される。(敷金、礼金不要の代わり、家具付きで鍵の使用料だけ払うという契約だったのだそうだ。部屋を借りてるというか、ホテルの長期滞在みたいなシステムだ。)

 かくして、突然あっという間に「転落」してしまったのである。それまでは結構「イマドキの軽い学生」だった。それなりにモテてたみたいだし。ところが、まず家を失い、「居場所」がなくなる。とりあえずカネを何とかせねばならず、「ネットカフェ難民」となり、ネットで見つけた「ティッシュ配り」。さらに「治験ボランティア」。
 せっかく大金をつかんだら、警察の不審尋問で「腕に注射痕が多く、大金を持っている」と疑われ、本署まで来いと「警察権力の横暴」。
 出てきたら「飲みに行こう」と誘う子に付いて行って、「ホストクラブ」に連れて行かれる。誘った子のおごりかと思って高い酒を飲んでたら、翌朝20数万の請求書を突き付けられる。

 しょうがないからホストになって返そうと直訴して認められ、ホストクラブに勤めることになるが、さらに難題が次々と生じて、カネに追われ、暴力団に追われ、ホストで知り合った女性との関係もどうなっていくか…とたった半年で人間生活の底の底まで見てしまうはめとなり、今は多摩川河川敷でホームレス生活

 これは物語の作りとしては「新宿地獄めぐり」という話である。いろいろと新宿周辺の、フツーに生活してると見ないで生きていける「日本の裏」を見せてくれる。そういう意味で、非常に実践的教訓の得られる映画で、若い人は是非「世の中の仕組み」を知る意味で見ておいた方がいい。親がかりで生活してる学生の「親が急に支えてくれなくなったら」という設定の「社会実験」と言ってもいい。だから、映画芸術としての完成度とか、人間描写の深さなどを求めて見る映画ではない。出てくる人間は、皆生き生きと演じているが、あまり有名でない俳優が演じていることが多く、ある種の「類型的人間タイプ」を演じている。建設現場のアパートやホームレスの段ボールハウスには、主人公に社会を見る目を養ってくれる知恵ある年長者がいる。主人公は初めて本当の社会、人生を知ることになる。ゴーリキーの著書にあるように、それこそが「私の大学」だったのである。

 一応教訓的なことを書いておくと、まず「いきなり除籍」「いきなり家追い出し」はないでしょう。実際、冒頭で不動産会社から「内容証明書付郵便」なるものが届くが、主人公は読まずに投げ出す。人生で「内容証明書付郵便」なんてものにお目にかかることはまずないだろう。(僕は一度もない。)何よりもまず、その郵便はじっくり読むべきだった。大学だって同じで、突然除籍になることはないだろう。何回か警告があったはずで、この大学もある程度待って除籍にしたらしい。全く意識せずに「ノーテンキ」に生きていたのである。

 次に「酒」と「タバコ」と「ギャンブル」。主人公も大事な時にパチンコでカネを使ってる。最初のうちはタバコを吸ってるので、ずいぶんタバコ代もかかったはず。それより、なにより「酒」で、酒で酔っ払って意識がないうちに重大な出来事が起こっていることが多い。若い時は失敗しがちで、世の中は怖い人ばかりだと思い過ぎると何もできない。酒の失敗も程度問題で、普段の飲み会で飲み過ぎるくらいは問題ないけど、大金のかかった段階ではシラフでいないと危ない。これは決定的な問題である。10万、20万なら親に泣きつけば何とかなることが多い(だまされたことを打ち明けるのは恥ずかしいけど)。しかし、100万を超えるとちょっと厄介なことになる。急には余裕がない場合、カードローンやサラ金で借りることなり、利子がかさんで抜け出せなくなる。他にもいっぱいあるけど、それは映画を見てもらうとして、そういう人生の実践的教訓の詰まった映画だと思う。

 原作があるということで、福澤徹三の原作は光文社文庫に収録されている。筋は映画とは多少違っているようで、ウィキペディアのサイトで詳細を知ることができる。映画は親を描かないが、原作は父にめぐり合うとある。またホスト時代に主人公に付いたナースの茜という女性が、映画ではヒロイン格に描かれている。監督は佐々部清で、「半落ち」「ツレがうつになりまして」などを作った人で、「チルソクの夏」「夕凪の街 桜の国」がキネ旬ベストテンに入っている。どれも素直な作りで、丁寧にストーリイを肉付けしていく。その分圧倒的な情感に乏しいかもしれないけど、安心して見ていられる社会派エンターテインメントが多い。今回の映画も、絶対に飽きることなく最後まで目が離せないけど、まあ一種の情報映画と言えるかもしれない。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホモソーシャルな世界-小津映画の話④

2014年03月09日 00時49分19秒 |  〃  (日本の映画監督)
 小津映画を見ていると、そこに高度成長以前の日本人の暮らしが保存されていて、非常に懐かしい気持ちになってくる。懐かしいといっても自分でも知らない世界なんだけど、「初めてだけど懐かしい」という感情である。「東京物語」では、原節子が笠智衆や東山千栄子(義父母)に対してうちわをあおいでいる場面が心に残る。やがて扇風機が、そしてクーラーが登場すると、そういうことをする必要自体なくなってくる。そして、日本人はそういう電気機具を50年代半ば以後、喜んで家庭に導入していった。

 「彼岸花((1957)では、田中絹代の妻がラジオで謡曲を聞くのを楽しみにしていると、佐分利信の夫が機嫌が悪くて、うるさいと勝手に切ってしまうシーンがある。佐分利信や笠智衆が演じることが多い小津映画の主人公は、それなりに知られた大企業で働いていることが多い。しかし、「彼岸花」の段階ではまだテレビや掃除機はないのである。家事は誰がやっているかというと、「お手伝いさん」(それまでは「女中」だった)がいるのである。

 それが1959年の「お早う」になると、子どもたちがテレビを買ってくれとうるさく笠智衆の父にねだる。黙ってろと一喝されて、じゃあ「大人には口をきかない」というレジスタンスを開始する。近所に昼間からパジャマ姿でテレビを見ているカップルがいて、そこにいけばテレビを見せてもらえる。お目当ては大相撲の若乃花(初代)である。笠智衆は酒場で知人と「一億総白痴化ですな」などと世間話をしている。この言葉は評論家の大宅壮一が主張して当時大きな話題になっていた。テレビが普及すると日本人の文化が低下するという意見である。でも、結局子どもたちのためにテレビを買うことになる。(子ども対策だけではなく、近所の電気屋で買ってあげた方がいい事情も裏ではある。)

 1962年の「秋刀魚の味」になると、佐田啓二の夫が岡田茉莉子の妻にせっつかれて、電気掃除機を買うための手付金を笠智衆の父に借りにくる。日本社会の電気機具の普及のスピードを、小津映画の中に見ることができる。そのように小津映画二は日本社会の変貌が刻印されていて、そこに「高度成長と日本人」という映像社会学的なテーマを見つけることができる。ただし、小津映画は会社製作の劇映画だから、一定のコードに規定されている。まずはその解読が丁寧になされる必要があるだろう。

 映画内の社会的コードというのは、例えばアメリカ映画「十二人の怒れる男」を例にとると、当初のシドニー・ルメット監督映画(1957)では、「陪審員が全員白人男性」となっている。しかし、1997年のウィリアム・フリードキン(「フレンチ・コネクション」の監督)が演出したテレビドラマでは、陪審員や裁判官に黒人、ヒスパニック、女性が含まれている。現実のアメリカ社会の変化を反映し、「政治的に正しくない」設定は変えられたのである。ところがロシアのニキータ・ミハルコフが翻案した「12人の怒れる男」(2007)では再び男性ロシア人のみが陪審員を務めている。それぞれの設定は製作された社会における「映画に求められる規範意識」を反映しているのは間違ない。

 小津映画の場合は、戦後においてはほとんど「娘の縁談」(あるいは「妹の縁談」)なので、戦後社会の中産階級における「結婚のコード」を反映している。「彼岸花」、「秋日和」、「秋刀魚の味」に共通するのは、「結婚は本来親の紹介で相手を選ぶのが、つり合いなどを考えると望ましい」けれど、中産階級では高校または短大を卒業した後に女性も就職するので、そこで「女性にも社内結婚などの機会がある」という現実である。結婚は家どうしのもので「見合い結婚」が主流というのは当時の社会の反映だけど、その時の見合い相手は女どうしの間で世話焼きがあっせんすることも多かった。しかし、この3本の映画では、「父親が結婚相手を自分の友人関係のネットワーク内で探す」というのが特徴である。

 父親はそれなりの会社の役員であり、旧制中学、旧制高校、あるいは旧制大学以来の強固な友人関係を維持している。彼らは今でもよく集まり飲んだりする関係である。共通の知り合いが多いから、結婚式や葬式も共通なのである。その仲間は映画ごとに多少違うが、基本的に中村伸郎北竜二がいつもいる。同窓会シーンなどには、当時実業家というか、売春や麻薬防止運動でも知られた一種のフィクサー菅原通済がワンシーンぐらい出てくるのも共通している。「彼岸花」のラスト近くでは、旧制中学の同窓会が蒲郡で行われ、笠智衆が詩吟を披露している。蒲郡でやったのは、東京と大阪にメンバーがいるから中間でやるということだとされている。

 一方、娘の方は基本的には「短大を出て、一流企業に結婚退職まで務めている」ということだと思う。「秋日和」では娘の司葉子と友人の岡田茉莉子が、結婚した友人千之赫子が新婚旅行に行く列車を見ようと屋上に出る場面がある。そこから丸の内の中央郵便局が下に見えるので、三菱ビルのあたりのはずである。見合い相手にも恵まれるだろうが、娘本人も結婚相手を探しやすい職場にいたのだ。

 特に「秋日和」が典型だが、男同士のつながりで「結婚相手を探すゲーム」をしている感じがする。この映画では佐分利あるいは笠の娘ではなく、今は亡き友人の娘司葉子をそろそろ嫁に出したらどうかという話なのである。その場合母親の原節子も一緒に再婚させてはどうか。かつての原節子の夫は佐分利、中村、北と東大と思われる大学時代に近くの薬局の看板娘原節子を争った間柄だった。ただし、佐分利信には三宅邦子、中村伸郎には沢村貞子の妻がいる。一方、大学教授の北竜二は妻を亡くしてヤモメ暮らしが長いので、どうだ母親の方と再婚してはと勝手に話が男同士で進む。最初の場面がその友人の年忌なのだが、その後料亭で飲んで「母親の方がいいね」などと言いあっている。本人がいないとはいえ、セクハラに近い発言が連発するシーンである。
(「秋日和」のバー)
 このような「男同士の関係」が基本となり、結婚相手が決められていくという「ホモソーシャルな世界」が展開していくのである。「ホモソーシャル」というのは、体育会系などによくある男同士の関係が何より優先する同質的社会のあり方を指す用語である。間違って「ホモセクシャル」と勘違いする人がいるが、反対に表面的には「ホモフォビア」(同性愛嫌悪)になることが多い。最近ではデンマーク映画「偽りなき者」に出てくる男だけの狩猟シーンが典型である。アメリカの保守的な地方が出てくる映画でも、よく出てくる設定だ。「家父長制」とも似ているが、単に家父長が威張っているだけではなく、男同士の社会的関係が重視される。

 小津映画ではこの「ホモソーシャルな世界」が称賛されているわけではない。むしろ女たちの反発を買い、相対化されている。料理屋の女将(大体、高橋とよ)などはカラカイの対象となっているが、映画の主筋の方ではいかに女たちが反撃するかが見どころとなっている。「彼岸花」では娘有馬稲子と佐田啓二の結婚をかたくなに認めず、一方「秋日和」では勝手に司葉子と原節子の二重縁談を進めていく。しかし「彼岸花」では山本富士子が、「秋日和」では岡田茉莉子が現われて、映画空間をかく乱して、男の勝手を弾劾する。山本富士子、岡田茉莉子は、いつもは主演している女優だけど、小津映画の助演で儲け役を演じている。「彼岸花」では有馬稲子と山本富士子は「親の強制に抵抗する同盟」を事前に結んでいる。山本富士子も縁談に固執する母親の浪花千栄子に辟易していたのである。このような「女縁ネットワーク」の活躍こそが、この映画の真のテーマではないかと思われるほどだ。
(「彼岸花」)
 日本の社会では、国会議員や大企業の役員には先進各国に比べて女性が非常に少ない。スポーツや文化面で女性の活躍が目立っているが、逆に言えばそういう世界しか女性に開かれていないとも言える。しかし、それは女性に実権が全くないということではない。子どもの学校生活、進学や就職、結婚相手選びなどは、父親が長時間労働や単身赴任で相談に乗る時間が少ない事情もあり、子どもに密着できる母親の役割が大きい。一応、「最終的承認権」のようなものが父親にあることになっていても、事実上本人と母親が同意していれば、父親は事後承認するしかないというのが実情だ。「彼岸花」の佐分利信はまさにその通りになって、認めないと振りかざした拳のメンツ問題が残るけど、田中絹代の母親が認めてしまえば渋々同意するしかないのである。

 しかし、そのような展開も見る者には予想の範囲内だろう。「彼岸花」は有馬稲子と佐田啓二、「秋日和」は司葉子と佐田啓二というキャスティングを見れば、最終的に観客が祝福する形で終わるのは判っている。原節子も「再婚しない」という役柄を演じてきたので、予想通り再婚はしないという運びとなる。そこまでに至る話の運び具合の練達こそが見所で、先に書いた山本富士子や岡田茉莉子が映画の美味しい場面をさらって行って、男の思惑は粉砕されて、ラストに祝福された結婚が待っている。「結婚という制度」あるいは「異性愛という前提」を疑う時代ではなかった。

 小津映画は親の古風な世代と子の新世代を、余裕を持って暖かく見つめてコメディタッチで描くホームドラマになる。この「余裕ある眼差し」こそが、「東京物語」で到達した最終段階の小津の境地だろう。菅原通済に象徴される「鎌倉文化人」の一員となった小津は、晩年の映画は小説家里見弴(さとみ・とん)の映画化が多い。里見は有島武郎、有島生馬の実弟で、小津映画のプロデュ―サーだった山内静夫の父親でもある。文化勲章を受章した作家で、鎌倉に住んでいた。このような人脈を見ると、戦後、武者小路実篤、安倍能成らが創刊した雑誌「心」グループに近い場所に小津安二郎はいたのではないか。つまり「戦時中は反軍部」「戦後は反左翼」という位置である。「保守リベラル」で、文化的保守主義の立場である。このあたりは、細かく分析する蓄積がないが、小津安二郎の思想をもっと検討したうえで、小津映画に見られる日本社会の特徴を分析する必要がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セルフリメイク-小津映画の話③

2014年03月06日 21時46分58秒 |  〃  (日本の映画監督)
 小津安二郎の映画は、特に最後の頃のカラー作品などは、みなよく似ている。どの作品が誰の主演だったかなど、映画ファンでもなかなか間違いやすい。どこかの会社の役員をしている父親が、娘の縁談を友人などと相談する話で、娘が自分で見つけてしまったり、実は好きな人がいたりとか、多少はヴァリエーションがある。また、母親が誰かでも物語は変ってくる。でも、父親が友人とバーや小料理屋で飲む場面などが挿入され、その友人が大体固定された俳優なので、どうしても既視感が生じてくる。

 このように似たような作品を連発するというのは、世界の映画監督には多い。フェリーニアントニオーニ、あるいはベルイマンなどの映画も大体似ていた。最近でもウッディ・アレンの映画などは、どれがどれだかよく判らないものが多かった。(と思ったら、ヨーロッパで撮るようになり、都市名が入っている映画はさすがに区別できるようになった。)また、他の芸術分野でもよくあることで、特に絵画の世界では一定の様式を確立して評価されると、その後は似たような絵を描き続けることが多い。

 それを「セルフ・リメイクの作家」と呼ぶことができると思う。セルフ・リメイクは狭義で言えば、自己の過去の作品を自分で再映画化することである。小津の場合、狭義のリメイクは「浮草物語」(1934)と「浮草」(1959)だけだけど、細かく見て行けば「実質的なリメイク」あるいは自己の過去作品からの影響(特に登場人物の名前の共通性)がたくさん見つかる。日本の映画監督には、稲垣浩、市川崑など同じ映画を作った監督が多い。何と言ってもマキノ雅弘が「次郎長三国志」を有名な東宝作品以後も何度も何度も作っている。まあそれは映画会社の依頼で興行的観点で選ばれた企画だろうが。日本の映画界では、過去の作品をリメイクするのはよくあることだった。
(「浮草」)
 同じようなものが連続すると「創造力の枯渇」だなどと思いがちだが、それは近代の「個性」「創造性」などの神話というべきだろう。日本の伝統芸能では先代の芸を受け継いでいくことが重要だった。一定の境地に達すれば、後はそこで確立された様式を再生産し、洗練していくことが評価基準になってくる。だから、小津もそういう日本の芸術的伝統と言う観点から見れば、同じような道行きをたどって、「巨匠」と呼ばれ、映画監督として日本初の芸術院会員にも選ばれたのである。(1963年に選ばれ、同年に死去したので会員期間は短い。以後は山田洋次しかいない。)

 もっともこういう風に思うようになったのは、僕にとっても割と最近のことである。最初に小津映画をまとまって見たのは、多分フィルムセンターの小津特集(1981年)だと思う。(「東京物語」「晩春」「麦秋」などはその前に銀座並木座で見ていたが。)その時にはまとめて何十本も見たのだが、面白いには面白いけれど、似たような映画が連続することにほとんど呆れた。それに松竹で大島渚が「青春残酷物語」を作った同じ年に、ということは「60年安保」の年にということだが、よりによって「秋日和」などという映画を作るというのは、何と言うか「時代とのズレ」も甚だしと決めつけたい気持ちが募った。

 ところが今見ると、大島映画と小津映画が同じ基盤の上で作られていたと思える時代が来た。僕にしたって、小津映画と松竹ヌーベルバーグは仇敵関係にあると思ってきた。小津と吉田喜重が黙って酒を飲みかわした1963年の松竹新年会の有名なエピソードがあるが、同じ会社ながら相容れない映画を作っていたと思っていた。まあ映画史的には確かに対立関係にあったのだが、今見れば大島映画も(「日本の夜と霧」は確かに別だが)「一種のホームドラマ」である。父の権威が失墜し、子ども世代がさまようという「青春残酷物語」の構図は、実は「彼岸花」「秋日和」も同じである。ただし、子の立場から父世代を乗り越えようとし、世代の差異を強調する大島に対し、小津は父の世代にも理解を示す。だが、母の立場、子の立場なども相対化して、「物語としての面白さ」を「落ち着いた」「ユーモラス」な「洗練された話法」で描き出す。

 実はこの「洗練」が昔は嫌だったのである。洗練されていなくていいから、もっと荒々しく現実の矛盾を生々しくむきだしにすることこそ、映画の魅力ではないかなどと思っていたからである。僕は今でもベースにはそういう考え方がある。何度もNGを繰り返し、俳優を追いこんで、自分の望む映像を求める小津映画にある美的な世界には、確かに魅力も感じる。しかし、俳優や技術陣のコラボにより、現場で思いもしない驚くべきデモーニッシュ(鬼神に取りつかれたような、悪魔的)な瞬間が啓示される。映画に限らず、それが芸術の魅力ではないかと思っているのである。小津の話はもう一回。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美術品として-小津映画の話②

2014年03月05日 22時54分34秒 |  〃  (日本の映画監督)
 小津安二郎監督の映画について、何本か見直した感想。中身を論じる前に、まず映像としての特徴。昨年、小津生誕110年記念で、国立フィルムセンターが松竹と協力してカラー作品のデジタル修復を行った。小津のカラー作品は、1957年の「彼岸花」以降の6本である。そのうち、大映で撮った「浮草」(1959)、宝塚映画で撮った「小早川家の秋」(1961)を除き、松竹で撮った「彼岸花」(1957)、「お早う」(1959)、「秋日和」(1960)、「秋刀魚の味」(1962=さんまのあじ)の4本でなる。

 これらの作品は最近でもよく上映されていた。鑑賞に大きな妨げとなるほどの損傷はなかったと思っていた。2年前に「秋日和」を再見したが、問題は感じなかった。非常に厳しい状態にある戦時中の「父ありき」など、他にデジタル修復して欲しい作品がある。それでも、修復のデモ映像を見ると、画像の傷や飛びが予想以上に多かった。昔のカラー映画の最大の問題は「褪色」だ。一般的な色あせというより、青系が抜けて画面全体が赤っぽい映像になることが多い。チラシにある「秋刀魚の味」のタイトル画面を見ると、こんなに違っていた。(左が修復前、右が修復後。)
 
 いやあ、こんなに違っていたのか。もっとも公開当時を知らないから、見ていても何も感じなかったわけだ。こうして「甦った小津カラー」に何を感じ取るのか。今回の修復は500年間維持できる技術だと解説されていた。解説担当者によれば「美術品としての小津映画」、一つ一つの場面が磨き上げられた美術的な価値を持つことが、今までにも増してはっきりとしたと述べていた。
 
 「彼岸花」を最初に見た人はみな驚くだろう「赤いやかん」など、現実にはありえない家具・調度品の数々、それらの美術的魅力が今まで以上にはっきりした。実際に美術品を画面にたくさん配置している。今までは人物の会話に気を取られて背後の絵画などきちんと見ていなかったが、多くの巨匠の実物が展示されていたのだ。「秋日和」で使われた橋本明治「石橋」は、現在フィルムセンターで行われている展覧会で展示されている。

 一つ一つの画面の構図も練り上げられている。俳優の動きを得心が行くまで撮り直したことは有名だ。そうして作り上げられた画面が、リズムよく編集されている。この会話やカメラ配置、編集技術などのリズムはまことに快適で、何度見ても飽きない。中身がほとんど同じような映画なのに、なぜ何度見ても飽きないのか。自分でも不思議だったけれど、小津映画は中身ではなくリズムということだろう。小津に限らず、また映画に限らず、芸術にもっとも大事なものは、リズムなんだと思う。

 小津映画と言えば「ローアングル」。加藤泰の映画を見ると、もっととんでもないローアングルが出てくるが、今まで小津調の代名詞とも言われてきたのが、カメラの低さである。でも世界が小津映画に慣れてしまうと、今では小津映画を見ていてもそれほどローアングルを感じない時も多い。小津映画の画面構成は、美的なリズムを作り出すことが目的で、観客を驚かせたり、俳優を際立たせたり、ましてや世界観の表明などではなかった。慣れてしまえば、特に違和感を感じない。

 「秋刀魚の味」に使われた小道具(中華料理屋の看板やトンカツ屋前のポリバケツ)がフィルムセンターに展示されている。それを写真に撮ってみると、やはりものすごく下から撮っていることが判る。一番左が立って撮った写真、次が座って撮った写真、最後が胸のあたりに置いて屈んで撮った写真。4枚目の解説を見れば判るが、実際の映画の画面は僕の胸のあたりよりさらに下から撮っていた。
   
 美術的な魅力が増した小津映画だけど、そのことは良いことばかりではないと思う。今まで映画は時間と共にフィルムが損傷するのは仕方ないと思われていた。(ニュープリントを焼き直せば、直後は解決するが。)名画座で古い映画を見る際は傷や褪色をガマンしていたのである。タランティーノらが作った「グラインドハウス」シリーズでは、わざと画面が飛んだり、雨音のような傷がついていて、それがB級映画へのオマージュとなっていた。(どうせジョークで作った映画なんだから、ジョークでデジタル修復してみたら面白いと思うけど。)あまりにきれいによみがえった小津映画では、「高踏的性格」が増加した。小津映画も長い間にたくさん作られたが、末期には東京の中産階級の家族問題ばかりを描いている。その「余裕」ある映画作りがどうにもなじめないという人もいると思う。

 小津映画では音楽があまり触れられないが、「お茶漬けの味」以後の作品では、ほぼ斉藤高順(さいとう・たかのぶ 1924~2004)が務めている。航空自衛隊の「ブルー・インパルス」を作曲したことから航空自衛隊の音楽隊に招かれたという経歴がウィキペディアに掲載されている。「お早う」と「小早川家の秋」だけが黛敏郎で、その事情は判らないが、そこに違いはあるのだろうか。黛敏郎を初め、戦後日本の「現代音楽」の旗手たちは、ほとんどが映画マニアでずいぶん映画音楽を担当している。そういう映画では、画面が非常に強い緊張感を持っていて、音楽も映像に対峙する力強い音を発している。一方、斉藤による小津映画の音楽は、耳に快い、まさに「伴奏」に徹している。磨きこまれた映像と「対立」するのではなく。そこが何か、小津映画の古さ、「大船映画」の限界を感じさせる部分だ。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼・アラン・レネ

2014年03月05日 00時01分52秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランスの映画監督、アラン・レネ(1922~2014)が3月1日に亡くなった。91歳。僕には思い出深い監督なので追悼文を書いておきたい。亡くなるまで現役の映画監督で、なんと今年のベルリン映画祭で新作が上映されている。マノエル・ド・オリヴェイラや新藤兼人になるのかと思っていたら、さすがに100歳を超える映画監督というものは難しい。

 でも、アラン・レネが世界映画のもっとも先鋭的な監督だったのは、ずいぶん前の話。キネマ旬報ベストテンには、「二十四時間の情事」(1959、7位)、「去年マリエンバードで」(1964、3位)、「戦争は終わった」(1967、3位)が入選しているが、半世紀ほども前の話である。最近もずいぶん公開されているが、あまり強い印象はない。晩年のフェリーニや黒澤明のように、まあ見ればそれなりに面白くないこともないのだが、全盛期には遠い作品群が作られていたと思う。

 マスコミ報道では「ヌーヴェルヴァーグ」と書いてあるものもあったが、ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)の定義次第だから間違いとも言えないが、本来は「ヌーヴェルヴァーグの先駆者」と言うべきだと思う。50年代末に映画雑誌「カイエ・デュ・シネマ」に集う若い批評家(シャブロル、ゴダール、トリュフォーなど)が一斉に映画作りを始めて注目を集めたから、「波」というわけである。でもアラン・レネは1948年に作った短編記録映画「ヴァン・ゴッホ」がアカデミー賞短編映画賞を取っているのだから、キャリアはずっとずっと早い。しかし、「新しい」という方で見れば、確かにアラン・レネの映画はそれまでのフランス映画に多かった感傷的な文芸映画ではなく、知的でドキュメンタリー風な作風だった。アニェス・ヴァルダやクリス・マルケルなどとともに、よく「セーヌ左岸派」と呼ばれて、50年代半ばから非商業主義的な作家の映画を作り出していた一員ということになる。

 アラン・レネのテーマはほぼ一貫して「記憶」だと思う。「時間」と呼んだり「歴史認識」と呼んでもいいかもしれない。1955年に作ったナチスの強制収容所に記録映画「夜と霧」で世界的に注目され、1959年には初の劇映画「二十四時間の情事」を作った。これは邦題では判らないが、マルグリット・デュラスの脚本の邦題は「ヒロシマ、私の恋人」(原題 Hiroshima mon amour)である。前年の58年に来日して広島ロケをして作った。岡田英次とエマニュエル・リヴァが広島で恋仲となり、街の様子を見て回る。そして「広島で何を見たか」をめぐって語り合う。岡田英次は「あなたは広島で何も見なかった」と語る。エマニュエル・リヴァはやはり戦中戦後の過去を回想する。(エマニュエル・リヴァと言っても長く忘れられていたが、この人はミヒャエル・ハネケ「愛、アムール」のあの老女で、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。)

 このようにアラン・レネは、早くも50年代において「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」をともに取り上げた映画作家なのだが、そこでは政治的な告発ではなく、思想的な懐疑でもなく、「われわれは過去の記憶をいかに認識できるか」がテーマになっていた。その当時は考えられもしなかっただろうが、その後「ホロコーストはなかった」などという「歴史修正主義」が世界的に登場して、「記憶をめぐる闘い」が重大な思想課題になることを先取りしていたと思う。それはさらに一般化された形で「去年マリエンバードで」(1961)に結実する。これはアラン・ロブ=グリエの脚本の映画化で、ロブ=グリエは黒澤の「羅生門」に影響されたという話である。男と女が温泉地マリエンバードで会うが、男は「去年会った」と言うが女は「知らない」と言う。それだけのような映画だけど、一体、「客観的真実」とは何なのだろうかと深く考えさせるような痛切な情感に満ちている。

 もっとも以上の2作とも、難解である意味では不毛な言葉の応酬が延々と続く中で、いわゆる「物語」的な展開を見せない。僕が映画ファンになった頃には、アラン・レネと言う監督は「伝説的な難解映画を作る人」と思われていた。でも、今でも「1937年12月、南京で何が起こったか」「いや、何も起こらなかった」などと言った「不毛な論争」は現実に続けられている。何も感じることが出来なければ「2011年、フクシマで何も起こらなかった」とさえ言えてしまうのではないか。そうでなければ、原発を「ベースロード電源」などと言えないだろう。「記憶をめぐる闘い」は今でも世界各地で続いていて、アラン・レネ映画のアクチュアリティは失われていない。

 続いて作った「ミュリエル」(1963)は、日本公開が1974年となり僕が初めて見たレネの映画である。ここでもアルジェリア戦争での過去の記憶がテーマとなっている。画面は静かながら常に緊迫していて、美しい映像が続く。僕はこういう静かで思索的な映画が基本的に好きなので、いっぺんで気に入った。アラン・レネ映画(特に初期)は難解だという定評があったが、「二十四時間の情事」も「去年マリエンバードで」も画面が非常に美しく、画面を見ていて陶酔できる。特に「去年マリエンバードで」は一度見るとシンメトリカルな構図が忘れられない。1966年の「戦争は終わった」はスペイン内戦と現代の反フランコ運動家の物語で、過去の戦争の記憶と言う意味では共通している。しかし、映画は過去をめぐる抽象的思索ではなく、現実の革命家の日常を描く物語性が今までより強い。この映画の脚本を書いた作家、ホルヘ・センプルンが実際に内戦でスペインを去り、ナチスの収容所経験があるということもあるんだろうと思う。アラン・レネが一番面白かったのはここまで。

 その後は未公開映画も多くなる。1974年の「薔薇のスタビスキー」が30年代の政界スキャンダルをジャン・ポール・ベルモンド主演で華麗に描いた娯楽大作で、話題になったし面白くもあったけど、大分変った印象があった。「プロビデンス」(1977)、「アメリカの伯父さん」(1980)などまでは、なかなか刺激的な映画だった。近年の「恋するシャンソン」(1997)、「巴里の恋愛協奏曲」(2006)、「風にそよぐ草」(2009)などになると、まあ見てはいけないわけではないが、ごく普通のフランス映画で「昔の名前で出ています」という印象が強かった。しかし、まあ僕も一応律儀に見に行ったのである。好きな映画監督は最後まで見ておきたいから。でも、まあかなり長く見ても1980年頃までの映画作家だったと思う。それでも映画を作り続け一定のレベルは維持したのだからあ、そこはすごい。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小津散歩-小津映画の話①

2014年03月03日 00時00分45秒 |  〃  (日本の映画監督)
 映画監督小津安二郎の生誕地を知っているだろうか?僕は長く知らなかったので、東京都江東区の深川だと知って驚いた。小津安二郎(1903~1963)は、2013年に生誕110周年と没後50年を迎えた。全作品上映が行われるなど、あらためて注目を浴びた。僕も主要作品はほぼ見ているが(ごく初期のサイレント作品数本が未見)、面白いけれど、非常に大好きな映画監督とは言えない。だから、伝記的事実をあまり知らなかった。小津は10歳で三重県松阪に転居し、松坂の小学校を卒業、三重県立四((現・宇治山田高)に進んだ。神戸高商の受験に失敗し、三重県で代用教員となったが、1年で辞めて上京し、松竹に入った。このように青春時代を過ごし映画に目覚めたのは三重県という印象が強かった。

 小津安二郎誕生の地のプレートが造られている。地下鉄東西線門前仲町駅から清澄通りを北へ歩き、高速道路の下を過ぎた歩道橋の下である。結構わかりにくい。歩道橋の下で写真も撮りにくい。
  
 実は最初に行くべきはここではない。門前仲町駅から10分ほど行った古石場文化センターである。ここには「小津安二郎紹介展示コーナー」が作られている。小さいながら、小津に関する資料、映画ポスターなどがたくさん展示されている。この文化センターに「周辺マップ」があるので、まずそれを入手した方がいい。それを見れば、小津関連の情報が出ている。先の誕生地も判りやすい。このセンターは時々「江東シネマフェスティバル」と題した古い映画の上映も行っている。展示の内容は写真に撮れないが、センターの外観はこんな感じ。黒い瓦が印象深い。
 
 小津家は何でこの地にいたのか。小津家はもともと伊勢商人の一族なのである。松阪の小津本家はもっと大きいようだが、分家筋が東京へ出てきて、肥料問屋湯浅屋、深川では小津商店を営んでいた。だから、小津安二郎にちなんでということではなく、「小津橋」という橋が古石場文化センターの裏あたりにある。川というか、この地域一帯に掘りめぐらされている運河にかかっているのである。
 
 近くに小津が最初に入学した明治小学校や小津の父親の墓所がある陽岳寺などもあるが、まあいいかと訪れなかった。東京に戻ってくると、深川不動裏の和倉町に住んだという。小津は後に「鎌倉文化人」の仲間入りし、墓所も鎌倉の円覚寺に葬られる。映画の内容も山の手の中産階級のイメージが強い。しかし、戦前の映画を初め下町地域の出てくる映画も多い。古石場文化センターの周辺マップには、「一人息子」に出てくる永代橋、「風の中の牝鶏」に出てくる相生橋、「秋日和」に出てくる清洲橋などが紹介されている。

 「東京物語」も東京東部が舞台になっていて、特に山村聰演じる長男が医院を開業しているのは東武線の堀切駅あたりである。駅から土手が見える。そこも行ったけど、紹介するほどの写真は今は撮れない感じだった。小津映画のほとんどは大船撮影所のセットで撮られているわけだが、探せば結構東京各地の風景が残されている。小津に関しては、現在フィルムセンターで「小津安二郎の図像学」という興味深い展示が行われている。また鎌倉文学館で「生誕110年 小津安二郎」が行われている。鎌倉は行ってないけど、フィルムセンターの展示はとても面白い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まど・みちお、山本兼一、シャーリー・テンプル他ー2014年2月の訃報

2014年03月02日 00時35分26秒 | 追悼

 2014年2月に亡くなった人の追悼特集。まど・みちお(2.28没、104歳)の訃報が最後に大きく伝えられた。本名石田道雄。「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」の作詞家とあらゆるメディアに大きく出ている。それは知ってたけど、あらためて「ぞうさん」のような誰でも知ってる、ほとんど詠み人知らずの民謡みたいな歌を作った人が今も生きていたことに驚く。でも確かに北原白秋や野口雨情に比べれば、現代風である。他の曲はないかと言えば、「一年生になったら」しか知らない。これは山本直純作曲で、先の二つは團伊玖磨である。山口県徳山の出身で徳山動物園に「ぞうさん」の碑があるという。
(まど・みちお) 
 直木賞作家で「利休にたずねよ」が映画化されたばかりの山本兼一(2.13没、57歳)が死去。先月、坂東眞砂子が55歳で亡くなったばかり。まだ若いというべき年だけど。「火天の城」という安土城を作った大工の小説で評判になった。受賞作の「利休にたずねよ」は構成にビックリし、利休に関してこういう風にも書けるのかと一読の価値ある小説である。
(山本兼一)
 アメリカの俳優フィリップ・シーモア・ホフマンとオーストリアの俳優マクシミリアン・シェルの訃報は別記事を書いた・マクシミリアン・シェルの訃報は出てない新聞もあったと思う。その後、シャーリー・テンプル(2.10没、85歳)の訃報が。この人は戦前のハリウッドで名子役で超有名だった人で、訃報でも子役の写真が使われている。1935年に6歳で、アカデミー特別賞を受けたぐらい有名だったのである。その後もなかなか興味深い人生を歩んだが、1970年代以後は共和党政権下で外国の大使を務めてとても高く評価されたという。子役期、結婚(2回)期、外交官期と分れる人生らしい。ウィキペディアに詳細な記述があり、面白い。
(シャーリー・テンプル=子役時代)
 尺八奏者の人間国宝、山本邦山(2.10没、76歳)は有名だし、多彩な活動をしたから名前を知ってるが、何か書けるほど知らない。村岡実(1.2没。90歳)という尺八奏者の訃報も2月に載っていた。永六輔の「誰かとどこかで」で「遠くへ行きたい」を吹いていた人と言えば、僕も耳に思い出す。鈴木博之(2.3没、68歳)は日本を代表する建築史家だということで、近代建築の保存運動で大きな役割を果たしたと出ている。東京駅の赤レンガ駅舎復元とか。正直、名前を訃報で知った。

 スペインのギタリスト、パコ・デ・ルシア(2.26没、66歳)がメキシコで急死。読響の常任指揮者を長く務めたゲルト・アルブレヒト(2.2没、78歳)、「サウンド・オブ・ミュージック」のモデルになったトラップファミリーの侍女で、ただ一人の生存者だったマリア・フランツィスカ・トラップ(2.18没、99歳)などの訃報も伝えられた。

(パコ・デ・ルシア)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サルトル「アルトナの幽閉者」を観る

2014年03月01日 01時23分33秒 | 演劇
 新国立劇場で上演中のジャン・ポール・サルトル作「アルトナの幽閉者」を観た。(3月9日まで上演。)この劇にまつわる思い出は後で書くとして、非常に力強い舞台で、何となく今は読まれなくなってしまったサルトルという作家の重要性を考えさせられた。僕が見たいと思ったのは、この劇が「戦争責任」をテーマとしているということだけではなく、自分で部屋に閉じこもった人物を描いているからである。昔はそういう言葉がなかったから「幽閉」などと難しい言葉を使っているが、要するに「引きこもり」ではないか。この劇を「アルトナの引きこもり」と訳し、評判になった長編小説を「ムカつくぜ」と訳してみれば、サルトルの驚くべき現代性が見えてくるのではないか。
 
 サルトルは1960年代から70年代初期にかけて、世界的に文学、思想界の覇権を握っていた。1964年にノーベル文学賞を授与されるが辞退し、「飢えた子の前で文学は有効か」と問いを発した。1966年に伴侶のシモーヌ・ド・ボーヴォワールとともに来日し、この頃にサルトル人気は絶頂を迎えた。「実存主義」とか「アンガージュマン」(作家や思想家が政治に参加すること)という言葉は、知的世界の常識だった。その時期の人気のほどは今は全く想像できないほどで、むしろボリス・ヴィアン「うたかたの日々」でパロディ化されたジャン・ソール・パルトルで伝わっているというべきかもしれない。

 サルトルは哲学、小説、戯曲、評論、時事エッセイなど多彩な分野で活躍した。戯曲もけっこうたくさん書いていて、ドイツ占領下のパリで上演された「蝿」や「出口なし」などで知られた。その後「汚れた手」「悪魔と神」「キーン」などそれなりに有名な劇を書いて、昔はよく上演されていた。「アルトナの幽閉者」は1959年に書かれた最後の創作戯曲で、ドイツの物語となっているけど、同時にフランスが行っていたアルジェリアでの残虐行為を告発する含意があったのは、同時代人なら誰でも判ったことだろう。(アルトナはドイツの地名で、今はハンブルク市内となっている。)

 ある西ドイツ(当時)の富豪の家、ナチス時代を生き抜いた造船王の当主は喉頭ガンで死が近いことを悟り、次男夫婦を呼ぶ。しかし、この家には秘密があり、アルゼンチンで死んだことになっている長男フランツは実は2階の部屋で生きていて、13年間も出てきていない。世話をしてきたのは妹のレニだが、引きこもったわけには戦争時代に関わる複雑な理由があるらしい。次男の妻ヨハンナは、自分たち夫婦が自由になるためには、長男に会うしかない立場に立たされる。そうして、フランツとレニ、そしてヨハンナの葛藤が始まり、最後に父と13年ぶりの対面をしたフランツは…どういう選択をするのか。父は戦時中の「密告者」であるらしく、フランツは「戦争の加害責任」を負っている。そういう構図が見えてくると、このドラマの現代的意味が見えてくる。

 戦争中の残虐行為の責任、自分が犯したことと救えなかったことの意味、自らの人生を選択できるのか、引きこもりの精神状況、親と子は和解できるのか、「近親相姦」的な世界…など、半世紀以上前の戯曲だけど、今の日本でドラマ化されるべきテーマをたっぷりとてんこ盛りした劇なのである。岩切正一郎新訳のセリフはよく通り、ヒトラーの写真を大きく使ったり、鏡を印象的に使う舞台美術も優れている。上村聡史演出、フランツに岡本健一、ヨハンナに美波、父に辻萬長、レニに吉本菜穂子などの配役。6時半開始で、10時近くまでかかる(休憩15分)という長さだが、劇的世界は緊迫していて飽きることはなかった。

 サルトルは昔人文書院で全集が出ていて、そのため他社の文庫にほとんど入っていなかった。だからあまり読んでいないのだが、文学少年としてカミュなどを新潮文庫で読み始めると、サルトル・カミュ論争が文庫に入っているのでサルトルに関心を持たざるを得なくなる。70年頃はサルトルやゴダールが一番政治運動家になっていた時代で、サルトルも極左運動家=マオイストのビラ配りなどをしていた。世界的な反乱の季節が終わると、サルトルの知的覇権は失墜し、レヴィ=ストロースやミシェル・フーコーの時代となった。僕はサルトルの小説は少ししか読まなかった(手ごわかった)が、「汚れた手」が河出の文学全集にあり戯曲の方が読みやすいと思ったので、「アルトナの幽閉者」も買ってきて読んだ記憶がある。まだ中学生の頃。その時は頭の中で、観念的な「戦争責任」の話と思って、結構面白く読んだと思う。

 今回上演を見た感想では、思想を肉体化する装置としての演劇の力がうまく駆使されていて、サルトルは単に政治的、観念的な作家ではなかったことがよく判った。この劇のベースは日本でもたくさん作られた「家族どうしの解体ドラマ」であり、「父と子」「二人の女と男」の究極的な対立というドラマである。そうすれば日本の劇にもいっぱいあるが、でも日本軍の加害責任を問うとか、人生の自己選択というテーマに帰結していく構造が日本ではなかったように思う。そこにサルトルの作家的特徴と力量がうかがえる。今も生き生きと迫ってくる力作戯曲の創造的上演。たまたま今埼玉で同じ岩切新訳のカミュ「カリギュラ」を上演中。いまどきサルトルとカミュを同時に上演している国が他にあるのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする