尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『シチリアの奇跡』(島村菜津著)に見る未来への希望

2023年02月27日 22時27分00秒 | 〃 (さまざまな本)
 東京新聞2月19日付のサンデー版「大図解シリーズ」で、「動き始めたオーガニック給食」という特集が組まれていた。そこに「給食は、次世代を大事にするバロメーター」という文章が載っていた。全くその通りだと思うが、その著者は島村菜津という人である。多分名前を言われても知らないという人が多いだろうけど、僕はすぐ判った。最近、島村菜津さんの本を読んだばかりだったからである。それが『シチリアの奇跡 マフィアからエシカルへ』(新潮新書)で、最近読んだ中で一番感動的な本だった。

 その本の帯には「『ゴッドファーザー』の島から、オーガニックの先進地へ。」と出ている。いや、知りませんでした。島村菜津さんは、東京芸大でイタリア美術史を専攻したあと、イタリアに留学したという経歴の人である。そしてイタリアの「スローフード」運動に出会って、『スローフードな人生!-イタリアの食卓から始まる』という本を2000年に出した。それ以後、スローフードに関する本を何冊も書いている。でも一番最初の本は『エクソシストとの対話』という本だった。どんな本だろう?
(島村菜津氏)
 今回の本は実は大部分がシチリアの反マフィア運動に関するものである。シチリア島は下の地図で示すように、イタリア最南端の大きな島(世界の島の大きさ45位)である。よくイタリア半島を「長靴」に例えるが、シチリア島は足で蹴ろうとしているサッカーボールに例えられる。風光明媚な自然と複雑な歴史を持ち、世界遺産が7つもある観光地でもある。
 (パレルモ)
 でも、やっぱりシチリアといえば「マフィア」を思い出す人が多いだろう。映画『ゴッドファーザー』シリーズでは、アメリカの話なのに大事なところでシチリア島が出て来る。映画に出て来た町を訪ねにやってくる観光客が今も多いんだそうである。特に『ゴッドファーザー Part3』に出て来る大オペラ場、州都パレルモのマッシモ劇場は印象深い。1897年に建てられたもので、ヨーロッパでもウィーン、パリに続く3番目に大きな劇場だという。
 (マッシモ劇場の外観と内部) 
 戦後のシチリア島の歴史は壮絶なマフィアとの闘いの歴史だった。今まで何本かの映画は紹介されてるが、ちゃんと知ってる人は少ないだろう。ここでも2020年に公開されたマルコ・ベロッキオ監督『シチリアーノ 裏切りの美学』について書いている。マフィア内部からの情報をもとに幹部を逮捕し、大々的なマフィア裁判を起こした実話を描いた映画。それが80年代の話で、その裁判を主導したジョヴァンニ・ファルコーネと盟友のパオロ・ボルセリーノの二人は、1992年に相次いでマフィアに暗殺された。
(左=ファルコーネ、右=ボルセリーノ)
 その事件はイタリア全土を震撼させ、多くの人々を憤激させた。パレルモ空港が「ファルコーネ=ボルセリーノ空港」と改名されたぐらいである。自分の生命を賭けてマフィア撲滅のために闘った人がいたのである。それから40年、もはやシチリアはかつてのイメージを払拭し、多くの若者たちの奮闘で新しいイメージを獲得しつつあるという。日本ではほとんど知られていない、現代シチリアの勇気ある試みについて、ていねいな取材を積み重ねて書かれたのがこの本である。

 マフィア幹部が有罪となり、不法に獲得した財産や土地も押収された。そういう土地がいっぱいあるが、なかなか利用されずに残っていた。それを反マフィア団体の若者たちが借り上げ、そこでオーガニック(有機栽培)でブドウを作ってワインを作る。または、オリーブやオレンジや野菜を植えて、それらを利用したレストランを作る。EUの補助金を上手に使って教育プログラムを組んで、イタリアやヨーロッパ各地の学校から若者たちの旅行を誘致する。そんな話がいっぱい出て来る。

 そんなにうまく行くのかというと、それは問題もないわけではない。でも、この本で紹介されたシチリアにあるレストランのいくつか、そこで供されるピザの美味しそうなことは忘れられない。日本でも「みかじめ料」を取るヤクザの話などいっぱいあったけど、ここまで凄い恐怖はなかっただろう。日本全国にシャッター通りがあるけど、もっとアイディアを出せば若い世代の働き口もいっぱい作れる。世界からの観光客も戻りつつある今、似たような試みは日本でも可能ではないか。

 この勇気ある人々の歩みを思う時、安易な気持ちで読めない本だ。何人もの人が殺されてきた。日本でも公開された『ペッピーノの百歩』(2000)という映画ある。反マフィアのラジオ放送を開始して暗殺された実在の人物、ジュゼッペ・インパスタートという人物を描いた映画である。「百歩」というのは、マフィア幹部の家からたった百歩の距離の家に生まれたことを意味している。父や兄はマフィアの世話になっており、家族はペッピーノ(ジュゼッペの愛称)も同じような道を歩むことを望んでいた。しかし、彼は「百歩」の距離を離れて自分の足で歩き出したのである。

 その映画は僕が今までに見た映画の中でも、もっとも感動した何本かに入る。恐怖を乗り越えて「ちょっとした勇気」を人々の心に残して去ったペッピーノの人生。それをシチリアの人々は忘れていなかった。「百歩」と名付けられた店や運動がある。そのことに僕は感動した。
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『未来展望の社会学』ー見田宗介著作集を読む⑧

2023年02月26日 22時20分13秒 | 〃 (さまざまな本)
 毎月読んでる見田先生の本、8回目。全10巻だから、後2回である。もっとも、その後まだ真木悠介著作集が3冊残っているんだけど。今回は著作集第Ⅶ巻の『未来展望の社会学』である。先月は『宮沢賢治』だったから、とても面白かったし感動的だった。順番だから読んだけど、いやあ、今回は困った。全然判らないのである。今までも、判ったけどつまらない巻は前にもあった。でも、ここまで判らない本を読んだのは久しぶりだ。難しくて理解できないのである。

 例えば、こんな感じ。「コミューンと最適社会」の「四 個体性・共同性・相乗性」の中から。(135ページ)

 周知のように、ヘーゲルの疎外論にたいするマルクスの批判の核心は、ヘーゲルにおいて「疎外の止揚が、対象性の止揚と同一視されている」(「現象学のヘーゲル的構成」)ということにあった。 
 疎外論のサルトル的構成にあっては、疎外の止揚が多数性の止揚と同一視されている。多数性の止揚による疎外の止揚、これこそがまさに「溶融集団」の意味するところに他ならない。
 それはもともとサルトルにおいて、他者性と相克性とが不可避にむすびついている結果、相克性の否定ということが、(「稀少性のわくの中では」!)他者性の否定と同一視されるからである。
 ヘーゲルにおいては対象性はもともと仮象にすぎないのであって、この仮象の止揚がすなわち疎外の止揚に他ならない。すなわちそこでは、主体と対象世界とのいわば溶融が約束される。
 サルトルはもちろんそのような、観念論的な装置を信じない。他者は厳然として他者である。したがってサルトルにおいて、他者性の解消にのみ疎外解消を求める要請と、他者性の解消が不可能であることの承認とのディレンマ、「ヘーゲル的な要請とマルクス的な真理の承認」との矛盾(キョーディ)が生まれる。(傍点省略)

 いやあ、もう十分過ぎるぐらい引用したと思う。「キョーディ」なんて知らないけど、検索してみたら、『サルトルとマルクス主義』という本を書いたピエトロ・キョーディという人らしい。戦後フランスを席巻した哲学者、小説家、劇作家のジャン=ポール・サルトルは、1966年に伴侶のシモーヌ・ド・ボーヴォワールとともに来日して大歓迎を受けた。先のキョーディの本の邦訳は1967年に刊行されたとあるから、当時は多数の人に読まれたのではないか。サルトルは1964年のノーベル文学賞に選ばれたが、「作家は自分を生きた制度にすることを拒絶しなければならない」として受賞を拒否したことで知られている。
(来日したサルトルとボーヴォワール)
 先の論文「コミューンと最適社会」は、筑摩書房から出ていた雑誌「展望」の1971年2月号が初出だと出ている。当時はサルトルの「実存主義」が一番影響を持っていた頃で、僕も高校時代に『実存主義とは何か』を読んだ記憶がある。サルトルがマルクス主義をどのように考えていたか、当時は大きな関心の的だっただろう。この論文ではサルトルの『弁証法的理性批判』(1960)という、今ではあまり取り上げられない本を批判的に紹介してコミューンに関して論じている。

 見田宗介氏は「社会学者」だから、今まで読んだ巻では何かのデータをもとに論を立てている。しかし、このⅦ巻は違っていて、「理論」だけなのである。そういう論文は真木悠介名義で書かれることが多く、実際先に引用した論文も真木悠介人間解放の理論のために』として刊行された。真木悠介著作集には収録されず、収録論文が見田宗介著作集の方に入っている。それはどうでもいいことだけど、半世紀前はこんな難しい論文を読んでいたのかと驚くしかない。まあ、読んでる方も理解できるはずがないだろう。ただ「何か」が伝わったということである。

 それは「コミューン」を「最適社会」と比べて論じるという問題意識にある。60年代末から70年代初頭の「反乱の季節」には、それは多くの人が関心を持つテーマだった。最後に収録されている論文は、この論文を受けて書かれている「交響圏とルール圏」。それらは「皆が今より幸せに生きられる社会」を構想するときに、「自由」を最大限に重視すれば「独占資本主義」になり、一方で「平等」を重視しようとすればエリート独裁の自由なき「スターリン主義」になる。そのどちらでもない道はあり得るかという問いである。その理論的検討は70年前後には現実的関心事であっただろう。

 でもドラマ性がない文章はもう僕には関心がない。やはり自分は「歴史」の方なのである。理論的な関心ももともと薄くて、現代思想とか哲学なんかの本は全然読んでない。著者もその後の『気流の鳴る音』をきっかけに、文章も思考もスタイルが変わっていったということだろう。今の僕にとっても、このような「理論」編に関心はない。現実に存在する「性的マイノリティ」とか「ヤング・ケアラー」などの課題は、「コミューン」という方向性からは解けないと思う。もちろん「共産主義社会が実現さえすれば、人間社会の矛盾はすべて解決される」なんて官僚的発想をしていれば別だが。世界に存在する個別のアポリア(解決のつかない難問)を一発で解ける方程式なんか世界には存在しない。
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佐伯祐三展(東京ステーションギャラリー)を見る

2023年02月25日 20時47分58秒 | アート
 東京ステーションギャラリーで開催中の佐伯祐三展を見に行った。(4月2日まで。)佐伯祐三(さえき・ゆうぞう、1898~1928)はパリの街角を描き、30歳で客死した画家だ。そのドラマティックな人生、パリへの憧れなどが気になって、若い頃は展覧会に行ったこともあったと思う。東京では久方ぶりに生涯を通観する展覧会だが、思えば没後100年も近いではないか。
 
 今回は「自画像としての風景」と題されて、一番最初に自画像がまとめられている。それを見ると、若い頃からの透徹した自己省察がうかがえる。佐伯は大阪に生まれ、17歳で東京に出て来た。東京美術学校(現・東京芸大)に学び、卒業後の1924年に2年間パリへ行った。一度帰国した後、1927年に再びパリへ戻り、翌年同地で死んだ。画家としてのわずかな人生の中で、印象的な絵を残したのである。東京に戻った時は、新宿区下落合にアトリエを構え、現在「佐伯祐三アトリエ記念館」が再建されている。近くには中村彝(つね)のアトリエも再現されていて、散歩で訪れたことは「佐伯祐三と中村彝-落合散歩①」(2016.5.16)に書いた。
(自画像)(下落合風景)
 パリではフォーヴィズムの大家ヴラマンクを訪ね絵を見せたところ、「このアカデミックめ!」と罵倒されたと伝えられる。その後、作風に独自性が出て来たのは間違いないけど、佐伯の描くパリ風景はどうしてこんなに暗いんだろう。最初は「壁の町」とまとめられ、確かに家の壁ばかりを描いている。2度目のパリになると「線の町」になる。また町の中にある「文字」が絵に取り込まれているのも特徴だ。それは最初に見た時は実に魅惑的だった。
(「ガス灯と広告」1927年)
 2度目にパリ行ったときに街角を描いた風景画はとても魅力的なものが多い。佐伯も影響を受けたユトリロも思わせるが、佐伯の暗色が多いパリ風景は確かに独自である。20年代のパリはこんなに暗かったのか。というか、夕方や夜を描いているものが多いから暗くなるだろうけど、やはり心象風景なのかと思う。
(レストラン(オテル・デュ・マルシェ)1928年)
 1928年3月頃に結核が悪化し、精神状態も不安定になったという。もう外で絵を描くのも大変になってきた頃、偶然訪れた郵便配達夫をモデルにして油絵2点、グワッシュ1点を描いた。またモデルに使って欲しいと言ってきたロシア人の少女も描いている。それが絶筆になったが、今回チラシにも使われている「郵便配達夫」を実際に見ると、印刷以上に印象的で奇跡的な作品だった。鬼気迫る感じもする絵で、郵便夫は二度と現れなかったことから、佐伯の妻(画家の佐伯米子)は「神様だったのではないか」と言ってるという。その後自殺未遂を経て、精神病院に入院し、そこで妻が子どもの世話をしている間に一人で亡くなった。 
(「郵便配達夫」1928年)
 平日の午後だが、かなり混んでいた。日時予約も可能だが、並んでいれば入れた。3階から2階へ下りる階段は、昔のレンガ壁が残されている。重要文化財だから触るな書いてあるけど。見終わった後の回廊から見下ろす東京駅も魅力。
 (壁)(2階から)
 出れば東京駅が見える。曇っていてあまり見映えしない。今回は地下鉄大手町駅から歩いたので、東京駅には入ってない。中央郵便局に寄って、70円切手を買う。これは「国際郵便のハガキ」に適用される料金である。海外へのハガキというのは、アムネスティの運動として、世界各国の政府に要請を送るのである。毎年秋に出る「国際文通週間」用の記念切手を貼っている。意味ないだろうけど、抗議される側だって記念切手の方がいいだろう。そこから国立映画アーカイブまで歩いて、石田民三監督『花つみ日記』を見た。前に見てるけど、改めて日本映画史上屈指のガーリー・ムーヴィーだなと思った。
 (東京駅)
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「靖国」化するロシア正教、これからのロシアを考えるーウクライナ侵攻1年⑤

2023年02月24日 23時20分06秒 |  〃  (国際問題)
 「ウクライナ戦争」に関して書き始めたら、いろんな問題が出て来て終わらなくなってきた。他に書きたいことが溜まっているので、さすがに5回で一端終わりにしたい。侵攻1年を機に、国連総会では「ウクライナに侵攻したロシア軍の完全撤退や国際法上の重大犯罪への調査と訴追などを求めた決議案」が賛成多数で採択された。賛成141、反対7、棄権32、無投票13である。これを1年前の決議と比べて見る。去年に関しては、「国連総会のロシア非難決議案、世界の状況を分析する」を書いている。その時は、賛成140、反対5、棄権35、無投票12だった。大きな傾向は変わっていないと読むべきだろう。
(国連総会でロシアの撤退を決議)
 反対で増えた2か国はニカラグアマリ。(他は当事者のロシア、ベラルーシとシリア、エリトリア、朝鮮民主主義人民共和国。)中米のニカラグアは1979年のサンディニスタ革命ダニエル・オルテガが大統領になった。その後、民政移管の選挙で敗北し下野していたが、2007年に16年ぶりにオルテガが大統領に当選した。その後、オルテガ独裁が続き、2021年に5回目の政権が発足した。まあ、昔の「反米左翼」路線の延長でロシア寄りになっていると考えられる。

 マリは西アフリカの内陸国家で、旧フランス植民地だった。イスラム系武装組織との紛争がありクーデタが絶えず、フランス軍の治安維持部隊も撤退した。その間隙をぬって、例のロシアの民間軍事会社「ワグネル」が暗躍し、治安維持を担っているという話。そのことが投票行動に影響していると思われる。ついにワグネルが外交にも影響を与えだしたのである。

 ニカラグアのオルテガ大統領じゃないけど、「反米」に固執して脳内が何十年も前の時点でストップしている人は日本でも時折いるようだ。確かに半世紀前にはアジアに多かった独裁政権は大体アメリカが支援していた。韓国朴正熙大統領、フィリピンマルコス大統領(現大統領の父)、インドネシアスハルト大統領などなど…。冷戦時代だったから、どんなに国民を弾圧していても、共産主義に反対するならアメリカは意に介さなかったのである。

 時は流れ、今は逆である。先の反対国を見ても、ベラルーシ、シリア、「北朝鮮」…、みな独裁国家ばかりである。他でもイランミャンマーなど、人権状況をめぐって世界から批判される国は、大体中国やロシアが支援しているではないか。(ミャンマーが決議に反対でないのは、軍事クーデタ前の国連大使が頑張っているためと考えられる。)これらの国は自国の独自性を強調して「内政不干渉」を主張することが多い。欧米の「民主主義」や「人権」などの「普遍的価値」が大嫌いなのである。

 ロシアは「反米」だから「左っぽい」などと思い込んでいると、プーチンのロシアはむしろ「極右」である。ロシア独自の価値を誇示して、欧米の「LGBT」への寛容に反対して「同性愛宣伝禁止法」なんていうのまで作った。何でも村上春樹の『スプートニクの恋人』が図書館から廃棄されたとか。そして、ロシア正教との深い関わりがはっきりしてきた。先日の年次教書演説でも、最前列でキリル総主教が聞いていて、プーチン体制の最重要人物の一人として遇されていることが判る。
(キリル総主教)
 この人物は何でも神学校時代にKGBにスカウトされたとか。心底から「ウクライナはロシアと一体のものだ」と信じているらしい。2014年の「マイダン革命」後、ウクライナ社会で非ロシア化が進行し、2018年にウクライナ正教会がロシア正教会からの独立を一方的に宣言した。これらの出来事をキリル総主教は認めず、また「性の多様化」に反対して、その問題こそがウクライナに対する「西側の攻撃」とみなしているらしい。今回の戦争に対しては、「あなたはロシアの戦士です。あなたの義務は、ウクライナの民族主義者から祖国を守ることです。あなたの仕事はウクライナ国民を地球上から一掃することです。あなたの敵は人間の魂に罪深いダメージを与えるイデオロギーです。」という免罪符を出しているという。(ウィキペディアによる。)

 なんとも恐れ入った時代錯誤としか言葉がないが、ここまで国家と一体化した宗教がありうるのか。正教会は国家ごとに独立しているというが、2018年までウクライナ正教会がロシアの支配下にあったという方が、今から考えればおかしかった。ロシア正教会はいわば「靖国神社」の役割を担っている。「戦死」を「祖国防衛」の美名で粉飾するイデオロギーである。自由選挙が事実上不可能で、言論・集会の自由もない。当初は反戦デモもあったが、押さえ込まれてしまった。そういう社会だったからこそ、侵略戦争を起こせるのであって、すぐに大規模な反戦運動が組織できるような社会だったら、こんな戦争を指導者が起こせるわけがない。

 ただロシア経済もロシア社会も大きく崩壊する兆しはない。それは当然であって、かつての日本でさえ、「満州事変」(1931年)段階ではむしろ景気がよくなり、「日中全面戦争」(1937年)になっても、まだまだ消費生活は相当に豊かだった。去年読んだ谷崎潤一郎『細雪』は日中戦争下の物語なのである。米英との全面戦争(1941年)が始まり、本格的に食糧難などが起こってきた。テレビで見る限り、モスクワのスーパーマーケットには、物資は豊富にそろっている。それも当然、ロシアのようなエネルギーも食料もほぼ自給できる国は、そう簡単に崩壊しない。人々はソ連時代、ソ連崩壊後を通して、物資欠乏に慣れている。
(ロシアのスーパーの棚)
 特に今回はウクライナがロシアに攻め込んだわけではない。ロシアが一方的にウクライナに侵攻しているのである。つまり、「ヴェトナム戦争型」である。その頃のアメリカは経済的に戦争の影響はあった(ドルの価値低下)が、それでも世界で最も豊かな国だった。しかし、アメリカには戦争の深い傷が残った。「不正義の戦争」に駆り出され、精神的に信じるものがなくなった若者たちが多かった。そして、国内で反戦運動が燃えさかった。そこまで行ったのは、戦争が大規模化し大規模な動員が行われてから、数年が経っていた。かつて1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻したときも、ソ連国内に影響が及ぶには数年間が掛かった。

 それを思い出すと、ロシア国内では戦闘が起こっていないのだから、ロシア国内で「この戦争はおかしい」と人々が本格的にプーチン政権に疑問を持つには時間が掛かると思う。今はむしろ支持率が上がっているらしい。何故ならソ連崩壊後、傷つけられていたロシア国民の心に「西欧の悪魔に魅入られた可哀想なウクライナを救え」という「大義」を与えたからである。米欧は経済制裁を科したが、どっこい偉大なるロシアは偉大なる指導者に率いられて持ちこたえてるじゃないか。この間違った認識、「不正義」を変えていくには、「武器」以上に「世界の道徳の力」がいる。

 武器援助によってウクライナがロシア軍を押し返したとしても、ロシア国民が道徳的な過ちに気付かなかったなら、何にもならない。日本でも「ロシアが負けるわけない」と言ってる人がいるが、そういう人は大体「宗教右派」に近い。ロシアにいたらプーチンと正教会の支持者になってる人である。僕らとしては、武器を取るのでも、武器を送るのでなくても、日本を変えていくこと、また小さな場でも(このブログのような)ロシアの道徳的な力を蘇らすための呼びかけを続けることに意味を見出したい。
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アメリカの責任、安保理改革は可能かーウクライナ侵攻1年④

2023年02月23日 22時57分32秒 |  〃  (国際問題)
 プーチン大統領は「戦争は西側が始めた」などと言っている。それが何を意味しているのか不明だが、何でも他人に責任転嫁するタイプは時々いる。論者の中には「NATOの東方拡大」が原因だとか、2014年のマイダン革命はアメリカによるクーデタだったとか言ってる人もまだいる。前者は事態の評価をじっくり考える必要があり、(ロシアにとって)「遠因」だった可能性はある。だが、それが隣国首都をミサイルで無差別に攻撃することを正当化できるわけがない。

 後者は「マイダン革命」の正当な評価ではない。天安門事件や香港民主化運動も「アメリカの陰謀」なのだろうか。マイダン革命が不当なクーデタだったならば、ロシアが求めるべきは「ヤヌコビッチ大統領の復権」である。しかし、ウクライナの民心を完全に失ったヤヌコビッチは、ロシア逃亡後は全く公の場に姿を見せず「使い捨て」された。ロシアがやったことは、秘密部隊を送り込んでクリミア半島を奪取し、ドネツク、ルハンスクの両「人民共和国」を分離させることだった。これらはジョージアやモルドバで起こったことと同じで、ロシアは初めから武力で有利な現状を作りだそうとしてきた。

 従って、ウクライナ戦争におけるアメリカの責任は直接的なものではない。だけど、今までの戦後史全経過を考える時、やはりアメリカの責任を指摘せざるを得ない。また、国連安保理の改革も必要だろう。いま、ウクライナに関する問題は、安保理の常任理事国であるロシアが拒否権を行使するから何も決まらない。そういう事態が続いているが、何もこれはロシアの「発明」ではない。むしろ今までアメリカがやってきたことを「学習」したとさえ言えるだろう。

 今まで国連加盟国の領土が、他の国連加盟国に軍事力で奪われたことはあるだろうか。国連発足直後に起きた「パレスチナ問題」、つまりイスラエル建国や1950年の朝鮮戦争は、事情が複雑なのでちょっと別にしたい。そうすると、今回のようにロシアがウクライナの4州を併合したことに匹敵する事態は、1990年のイラクのクウェート侵攻(併合を宣言)と、1967年の第3次中東戦争によるイスラエルのヨルダン川西岸(ヨルダン)、ゴラン高原(シリア)の占領が挙げられる。
(ゴラン高原の地図)
 1967年の第3次中東戦争では、国連安保理は占領地からの撤退を決議したがイスラエルは全く応じてこなかった。これは実現していない最長の安保理決議になっている。それに対して、イスラエルに制裁を科すことはアメリカが拒否権を使うので不可能である。それどころか、イスラエルは西岸地区に入植を進めているし、ゴラン高原に至っては1981年に「併合」を宣言した。国連や日本政府はその併合を認めていないが、アメリカは2019年3月にトランプ前大統領がゴラン高原に対するイスラエルの主権を認めた。イスラエルの安保理決議違反を棚上げして、ロシアの4州併合だけを批判することは「二重基準」と言うしかないだろう。

 また、2003年のイラク戦争は明らかな国際法違反だった。それに先だって、当時のジョージ・ブッシュ(ジュニア)米大統領は、「ブッシュ・ドクトリン」を出して「自衛のための先制攻撃」は認められるとした。イラク攻撃の理由は、イラクのサダム・フセイン大統領(当時)が「大量破壊兵器」の開発を進めているという「疑惑」だった。それは結局証明されないままになり、疑惑は間違っていたとされている。アメリカはイラク領土の併合を行ったりしたわけではない。だが、「自国防衛のため、先制攻撃が許される」という理屈は、プーチンの主張とそっくりだ。要するに、同じじゃないかと言いたいんだろう。
(ブッシュ・ドクトリンを発表)
 このイラク戦争を見て、ロシアや中国は「大国は何をしても許される」という先例を作ったと理解しただろう。その意味でもイラク戦争は非常に大きなマイナスを残している。その結果、国連安保理の「常任理事国」の身勝手が横行している。じゃあ、どうすれば良いのか。ウクライナはロシアの拒否権を取り上げろと言っているが、それこそロシアが拒否権を行使するから不可能である。アメリカも拒否権を放棄しないだろうし、5大国はその点では一致するはずだ。それに大国の拒否権をなくしてしまったら、アメリカや中国は国連を脱退するだろう。それを防ぐためにこそ、「拒否権」というアイディアが取り入れられたのである。
(国連安全保障理事会)
 しかし、世界各国の政治制度には、様々な工夫を見つけることが出来る。例えば、アメリカでは両院で可決された法案に対して、大統領が拒否権を持っている。しかし、上院、下院双方が3分の2以上で再可決した場合、大統領の署名なしで有効な法律となる。また、アメリカや日本など民主主義国では最高裁判所が「違憲立法審査権」を持っている。5大国の拒否権をなくすことは無理だろうが、国連総会で4分の3以上の賛成があれば、拒否権を覆せるといった仕組みなら将来取り入れる可能性はあるのではないか。または、国連総会で過半数の賛成があれば、国際司法裁判所の判断を求めることが出来るとか。近い将来には実現不可能だが、今後の検討が必要だと思う。
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「外交優先論」の罠、真にリアルな「力」の認識をーウクライナ侵攻1年③

2023年02月22日 23時17分20秒 |  〃  (国際問題)
 ウクライナ戦争は日本のあり方も大きく変えてしまった。岸田政権は戦後日本の防衛政策の大転換を打ち出している。最近の日本では「台湾有事」をめぐる危機感が強くなっている。日本及び東アジア情勢に関する問題はまた別に考えたいが、ここでは「外交優先論」を取り上げたい。外交の重要性はもとより明らかだが、それだけで戦争を防げるものだろうか。

 今回バイデン米大統領がウクライナを電撃訪問したが、ラジオ番組では「バイデン大統領はウクライナだけでなく、モスクワも訪問してプーチン大統領に戦争を止めさせて欲しい」という意見が紹介されていた。もちろん、それは様々な感想の一つに過ぎないが、これではよく右派がリベラルを揶揄する時に使う「お花畑」という表現を否定できないなあと思った。

 21日に行われたプーチン大統領の年次教書演説を見ても、妥協する可能性はゼロ。そもそもバイデン米大統領を受け入れるには、ウクライナへの武器援助を大幅に削減するなどの「お土産」が要求されるに決まっている。アメリカがそれを受け入れるはずがなく、モスクワ訪問など夢想でしかない。そういう問題もあるが、そもそもウクライナ側が同席することなく、米ロの「ボス交」で解決を図るという発想そのものが日本社会に残る時代錯誤を象徴している。

 それはともかく「戦争という悲劇」を避けるために、外交で解決しないと行けないという発想をどう考えるか。もちろん、事態を最小限の犠牲で済ませるために、あらゆる試みを避けてはならない。しかし、「外交交渉による解決」というとき、1938年のミュンヘン会談を思い出さずにはいられない。チェコスロヴァキアのズテーテン地方に住むドイツ人住民が迫害されているとして、ドイツのヒトラー総統は同地方の割譲を要求した。問題解決のため、ドイツ(ヒトラー)、イギリス(チェンバレン)、フランス(ダラディエ)、イタリア(ムッソリーニ)がドイツのミュンヘンで会談を行った。
(ミュンヘン会談の4首脳)
 会談の結果、結局「これ以上の領土要求は行わない」ことを条件に、ズテーテン地方をドイツに割譲することを認めた。しかし、それは始まりに過ぎなかった。ドイツは1939年3月にチェコスロヴァキアを解体し、8月にはポーランドに侵攻する。領土不拡大の約束など、全く意味を持たなかった。ミュンヘン会談当時、英仏では「戦争が避けられた」と好意的に迎えられたが、その後の経過が判明した現在では、ヒトラーに時間を与えただけだったと非難されることが多い。僕はそれ以上に、この会談が当事者であるチェコスロヴァキアを招かずに、大国どうしの「ボス交」だったということが最大の問題だと考える。

 今回のウクライナ戦争でも、2021年末から国境沿いにロシア軍が「演習」と称して集結していることが何回も報道された。それは衛星から監視できる現代では、もはや秘密情報でも何でもなかった。そして、フランスのマクロン、ドイツのショルツなどヨーロッパ各国の首脳が何度もモスクワを訪れて、ロシアの自制を求め続けた。しかし、結局外交努力は実らなかったのである。それは何故かといえば、結局はプーチン大統領が戦争を開始する断固たる意思を持っていたことに尽きる。
(戦争前のプーチン、マクロン会談)
 強権的指導者には「忖度」した情報しか上がってなくて、本気でウクライナ政府がすぐに崩壊すると信じ込んでいたのかもしれない。それにしても、プーチンが戦争を避けたいと思えば、なんとでもできたはずだ。要するに戦争を避ける気がなかったのである。もともとゼレンスキーが大統領に当選(2019年5月)してからも、プーチンは求められた会談になかなか応じなかった。前任のポロシェンコは「反ロシア」が明確で、ロシアとの和平交渉も停滞していた。ゼレンスキーはそれを批判して当選したのだから、ロシアは有利に交渉を進める好機だったはずだ。だが、プーチンはゼレンスキーに「塩対応」を続けた。
(2019年12月の4か国会談)
 プーチンがゼレンスキーとの初顔合わせに応じたのは、2019年12月になってからだった。それもマクロン(仏)、メルケル(独=当時)の顔を立てた形の「4か国協議」という場のことであり、場所はパリだった。ゼレンスキーは直接会いたいと何度も申し込んでいたが、一切応じてこなかった。政治に素人のゼレンスキーへの期待も、結局なにもできないじゃないかとしぼみつつあったのが実際のところである。その支持率低迷こそロシアの目指したもので、侵攻に向けたプログラムの一環だったのかもしれない。今になると、そう考えるべきかもしれない。

 このような「強者の塩対応」は日本でも見られた。沖縄県知事に翁長雄志が当選(2014年12月)してから、安倍首相や菅官房長官(いずれも当時)は翁長知事の求めを拒否して会談に応じなかった。(当時、沖縄北方対策特命相だった山口俊一が会談に対応していた。)そして、直接会うことなく、2015年度予算策定において沖縄関係予算を削減したのである。安倍、翁長会談が実現したのは、当選4ヶ月後の2015年4月だった。つまり、強い側が「譲歩する気が全くない」ときには、「あくまでも話合いによる解決を求める」と言っても、実はそれだけでは何も勝ち取れないのである。
(2015年4月の安倍・翁長会談)
 実際、「ウクライナ侵攻を外交によって防ぐ」と考えた時、それはどうすれば良かったのか。もし可能だったとしたら、かつてのチェコスロヴァキアと同じように、ウクライナを「いけにえの羊」としてロシアに差し出す以外に何かできたのだろうか。外交とか、話合いと言っても、相手が応じる気がないときには無意味である。では、「武力」しか対応策がないのか。世界は軍事力だと言いきってしまうのも、逆に世界に対するリアルな認識とは思えない。「世界」に満ちあふれる「力」は多種多様である。経済力文化力情報発信力、すぐ効果が出ないとしても国際世論の力…。

 「力」の裏付けを欠いた理想論が空転するように、目指すべき理想を欠いた「軍事力行使」も(一瞬の効果はあげても)果てしなき暴走をしかねない。「リアル」な認識とは何か、一人一人が問われている。いや、それは本来はいつの時代も問われてきたんだろうけど、危機の時代に立ち向かうときこそ、本当に大切になってくる。
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ロシアはなぜファッショ化したのかーウクライナ侵攻1年②

2023年02月21日 23時09分11秒 |  〃  (国際問題)
 ロシアは「特別軍事行動」開始以来、「ウクライナの非ナチ化」というスローガンを掲げた。そのプロパガンダを真に受けて、日本でもウクライナは「ナチズム」に冒された極右国家だと説く論者も結構現れた。「ファシズム」「ナチス」「極右」といった言葉は、定義を厳格にしてから使わないと事態を正確に理解できなくなる。ここで今回書くのは、ロシアの宣伝とは異なって、実はロシアの方が「ファシズム」化しているという認識である。ロシアのファシズムは何故起こり、どう理解するべきか。

 ロシアのファシズム化を象徴するのは、最近よくニュースに出て来る民間軍事会社ワグネル」だろう。2014年のドンバス侵攻頃から、「プーチンの料理人」と呼ばれるオリガルヒ(新興財閥)エフゲニー・プリゴジンが作り上げたワグネルの名前をよく聞くようになった。(「プーチンの料理人」とは、プリゴジンが創設したレストランやケータリングサービスが外国高官のもてなしに使われたからと言われる。)プリゴジンは資金提供者で、実質的な創設者はドミトリー・ウトキンという人物だとされる。この人物がナチスに親近感を持っていて、ヒトラーが愛好した作曲家リヒャルト・ワグナーから「ワグネル」と名付けられた。
(プリゴジンとプーチン)
 「民間軍事会社」というのは、イラク戦争でアメリカ軍占領地域の警備などに「活躍」したとして知られるようになった。しかし、「ワグネル」はそんな裏方みたいな仕事に止まらず、囚人に恩赦を与えると約束して戦闘に駆り出すなど、常識を越えた活動をしている。ウトキンはチェチェン紛争を経験し、残虐な行為をいとわない。ウクライナで起こった様々な残虐行為にも、ワグネルが関わっているものが多いらしい。シリアでも活動したし、中央アフリカやマリなどアフリカ諸国でも暗躍したという。ロシア政府が公然とは関与を認めない国でも、ワグネルを通じて影響力を行使しているのである。

 現在の話はちょっと置いて、歴史的に考えてみたい。現在のウクライナ地域は、19世紀後半にはロシアとオーストリアに分割されていた。ウクライナの大部分は、ロシア帝国時代に属し「小ロシア」などと呼ばれていたのである。第一次大戦でロシア帝国とオーストリア帝国がともに崩壊し、西部には一時リビウを首都とした西ウクライナ人民共和国が成立するも、ポーランド系住民が蜂起しポーランドが勝利した。ソ連(ソヴィエト連邦)が成立すると、各民族を「ソヴィエト共和国」に再編して連邦国家としたが、その時にも西ウクライナ地方はポーランド領に残された。
(独ソ不可侵条約以後のヨーロッパ地図)
 1939年に結ばれた独ソ不可侵条約には秘密条項が存在し、ドイツがポーランドに侵攻した後に、ソ連もポーランド東部を占領した。つまり、ここで西ウクライナ(リビウなど)は初めてソ連の一部とされたのである。その後、ソ連はウクライナ中部、東部と同様に急激な農業集団化を進め、激しい反発が生まれたという。そこに1941年になって、突如ドイツが不可侵条約を破ってソ連に侵攻を開始した。当初は優勢だったドイツ軍は、リビウでは「解放軍」として歓迎された。ウクライナの映画監督セルゲイ・ロスニツァが作ったドキュメンタリー映画『バビ・ヤール』で、その当時の映像を見ることができる。
(映画『バビ・ヤール』)
 もちろん最終的にはソ連が勝利し、リビウは再びソ連領に戻った。ナチス・ドイツと協力してソ連軍に抵抗した人々は、反革命犯罪者集団とされ厳しい弾圧にさらされた。それでも1960年代までは、ソ連支配に対するテロが散発したとされる。こうした「反革命犯罪者」は歴史の中で抹殺されてきたが、2014年の「マイダン革命」後に評価が逆転し、ソ連(ロシア)への抵抗者は「民族の英雄」と認定されたのである。「反ソ連」「反ロシア」がウクライナでは正しいこととされたわけで、これをロシア側から見れば「大祖国戦争」を冒涜する「ネオ・ナチ」に見えるかもしれない。

 世界のどの国にも極右支持者は存在する。当然ウクライナにも存在し、マイダン革命後はかなり力を持ったとも言われる。だが、ウクライナは独ソ戦で500万人以上の死者を出したとされ、常識的に考えてナチスを前面に出して政治活動を行うことは不可能だろう。ウクライナがソ連崩壊で「独立」した後も、94年、98年と共産党が選挙で第1党となった。親ロ派のヤヌコヴィッチが率いる「地域党」が成立すると共産党は小政党になったが、それでも2012年選挙までは存在していた。2014年以後にロシア寄りの政党の存在が問題になって、事実上ロシア派の共産党も禁止された。しかし、そのための法律は「共産主義・ナチズム宣伝禁止法」であり、ウクライナでは共産主義とナチズムを掲げる政党は結成できない。
(極右と言われたウクライナのアゾフ連隊)
 ネオ・ナチというなら、イタリアやフランスはどうなんだろう。イタリアでは、ネオ・ファシスト党である「イタリア青年運動」を継ぐ「国民同盟」の指導者ジョルジャ・メローニが首相に選ばれた。フランス大統領選では2回続けて、極右出身のマリーヌ・ルペンが決選投票に進出した。しかし、イタリアやフランスをネオ・ナチ国家とは言わないだろう。国内で言論の自由が確立しているからだ。一方、ロシアではプーチン政権の強権化が進み、反体制ジャーナリストや野党政治家が何人も暗殺された。ノーベル平和賞を受けたロシアの人権団体「メモリアル」も解散させられた。

 ファシズムの定義にもよるけれど、ロシアの状況はドイツや日本の1930年代を強く想起させる。プーチン体制をそのまま「ファシズム」とは呼べないかもしれないが、現段階は明らかにただの強権体制を越えている。市民的な自由が一つずつ崩されていった様子は、1930年代の「満州事変」から「日中全面戦争」にかけての日本社会に似ている。当時の日本もファシズムと呼ぶべきか論争があったが、そのような学問的定義は今どうでも良い。ロシアは一時「主要国首脳会議」に招かれ、その時点では「G8」と呼んでいた(1998年から2013年)。2006年にはサンクトペテルブルクでロシア初のサミットが開催されたのである。

 2014年のクリミア侵攻で、ロシアの参加は停止された。つまり、ロシアを世界の重要国として遇し、国際的秩序の中に包摂していこうという試みは完全に挫折したのである。もう皆が忘れてしまって、ずっと「G7」だったかに思い込んでいる。どうして、ロシアの民主化は失敗したのだろうか。それを考える時、1920年代ドイツのワイマール共和国を思い出すのである。文化の花開いた時代でもあったが、自由の下でナチスが支持を広げていた。ベルサイユ条約でドイツに課せられた巨額の賠償金がドイツ人の民族感情を傷つけたのである。ソ連崩壊後、別に巨額の賠償金などはなかったけれど、ソ連の優位性を教えられて育ったロシア人は、ソ連崩壊と経済危機に深く傷ついたのだろう。そのルサンチマン(遺恨感情)が30年代ドイツと同じく、強権的、好戦的国家として蘇ったプーチンのロシアを作り出したのだと考えられるのである。
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ウクライナ戦争は終わらない、ありえない「中立」ーウクライナ侵攻1年①

2023年02月20日 22時21分10秒 |  〃  (国際問題)
 ロシアのウクライナ侵攻から1年近く経って、マスコミの報道も多くなってきた。前から何回かまとめて考える必要があると思っていたが、書きたいことに追われて延び延びになっていた。そろそろ書かないといけないだろう。この「ウクライナ戦争」(ここではそのように呼びたい)は、世界の秩序を大きく変えてしまった。その影響は未だはっきりと見えないことも多い。まず書かないといけないのは、しばらく「戦争は終わらない」という冷厳なる現実である。

 最近ブラジル大統領に返り咲いたルラ氏がアメリカを訪問して、バイデン大統領と首脳会談を行った。ルラ氏はアメリカでCNNのインタビューに答えて「もし武器や弾薬を(ウクライナに)送れば、戦争に参加したことになる」と語ったという。しかし、僕はこの発言が理解できない。ロシアとウクライナの軍事的、経済的、人口的規模は、「非対称」である。ロシアが圧倒的に大きいのだから、ウクライナに軍事的支援を行わなければ、ロシアが最終的に勝利するのは目に見えている。だから、ウクライナに軍事支援を行わないということも、ロシア寄りで「戦争に参加した」ことになる。
(ルラ大統領の訪米を伝えるニュース)
 「ロシアの最終的勝利」が何を意味するかは、現段階では僕にはよく判らない。ただ、ロシアはウクライナの東南部4州(ルハンスク、ドネツク、ザポリージャ、ヘルソン)を2022年9月に「併合」した。これは各州の「住民投票」を受けて、ロシア最高会議が承認した、ロシアから見れば合法的な措置になる。しかしながら、現時点でドネツク州やザポリージャ州のほぼ半分はウクライナの支配下に残されている。これはロシアから見れば、「ウクライナが不当に支配している未解放のロシア領土」になるはずだ。
(ロシアは4州の「併合」を宣言)
 もちろんウクライナ側からすれば、4州は不当に侵略された自国領土以外の何物でもない。双方の認識には両立する余地が全くない。もちろん戦争はロシア側が仕掛けたものだから、ロシアが攻撃を中止して撤退すれば戦争は終結する。しかし、北方領土交渉で言われたように、ロシア憲法は領土割譲を禁止している。「領土の一部を譲渡しようとする行為及びそのような事態を発生させる行為は認めない」と規定され、政府がそのような交渉の場に就くこと自体を禁じているとのことである。国際法に対する憲法優先の原則を定めた第 79 条もあるという。

 従って、常識的に考えれば、プーチン大統領が4州を「返還」することは不可能だし、それどころか「和平交渉」に応じることさえ不可能である。プーチンが「返還」を口にすれば、国内の強硬派に足をすくわれるだろう。「プーチン以外に交渉可能な者はなく、プーチンの政治生命を保証して、停戦を実現するしかない」というような主張する人もいるが、僕に言わせればそれは無理というもんだ。プーチンはウクライナ各地を無差別にミサイル攻撃を行った「戦争犯罪者」のイメージをもはや免れられない。ウクライナを支援する側も、国内世論上安易に妥協はできないだろう。

 ところで、この問題は本来どのように解決されるべきだったか。国連加盟国が他の加盟国から全面的攻撃を受けた。国連発足後に、ほとんど起こらなかった事態である。(起こっても短期間で軍事衝突が終了したことが多い。)本来は安全保障理事会が責任を持って解決を探り、経済制裁等で解決を目指す。しかし、それで解決できなかった場合は、軍事的手段を排除しない。最後は「国連軍」を結成して、紛争を解決することになる。ただ、戦後の軍事的衝突の大部分は「米ソ冷戦」時代に起こった。なぜかソ連が欠席を続けていたときに起こった朝鮮戦争(1950年)を除き、国連軍は結成されなかった。

 今回は拒否権を持つロシアが他国を侵攻したのだから、当然国連軍や(1991年の湾岸戦争時のような)「多国籍軍」も結成できない。それどころか、直接軍隊を送るなど共同軍事行動を行うと「第三次世界大戦」につながりかねないとして、NATO各国も武器支援に止まっている。世の中には、ウクライナに武器支援を続けるから戦争が長引くのであって、「まず停戦を」と論じる人がいる。だけど、ウクライナの「自決権」を全く無視するような議論には疑問がある。自国領土を占領されたままの状態で「停戦」してしまったら、国土を取り戻せなくなるのは目に見えている。(ロシアが交渉で領土を返還することは憲法上できない。)
(ミュンヘン安全保障会議)
 ロシアの侵攻を正しいものと考える人が今も日本に存在する。アメリカなどによって、ウクライナがロシアから引き離されたのが真の原因だと考えるのである。しかし、このような考え方は全く間違っている。ウクライナがロシアと結ぶか、西欧諸国入りを目指すか、それはウクライナ国民が決める問題だ。そして、ウクライナ国民はロシアに支配された歴史を否定したいと考えている。従って、ロシアと妥協してウクライナ領土の一部を譲り渡すことはありえないだろう。

 それらを考えると、戦争がまだまだ続くと予想せざるを得ない。ロシア経済は少なくとも数年間は崩壊などしないと思われる。ウクライナに支援軍を送ることは難しいから、支援国はそれぞれのできる範囲で武器を支援することことになる。それは戦争を延ばしウクライナ、ロシア双方に大きな犠牲をもたらす。ロシア国内で、大きな反戦運動が起きるのも現段階では考えにくい。我々としては、それがどれほど効果を上げるかはともかくとして、「ロシアはウクライナから撤退せよ」と言い続けるしかないと思う。半世紀前に「アメリカはヴェトナムから手を引け」とデモをしたのと同じように。
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古河歴史散歩ー「雪の殿様」と永井路子

2023年02月19日 22時23分55秒 | 東京関東散歩
 19日は4月並みに気温が上昇するという予報で、散歩日和だなと思った。そこで、茨城県古河(こが)市の歴史散歩に行ってきた。この前読んだ新書『大塩平八郎の乱』に、鎮圧の最高責任者は当時大坂城代だった古河藩主土井利位(どい・としつら)だと出ていた。この人は「雪の殿様」として知られ、26日まで古河歴史博物館で「雪の殿様 土井利位」という展示が行われている。また最近、作家の永井路子氏の訃報が報道された。古河市の出身で、旧宅が保存されている。今が行くべき機会かなと思った。

 自分の家からは東武線に乗って、埼玉県の久喜まで行ってJRに乗り換え。案外早い。古河駅構内に観光案内所があって案内地図が置いてある。実は数年前の地域紙に載ってた古河散歩の地図を持っていたのだが、それが間違いだらけ。迷ううちにパラパラ降ってきた。城下町の風情なら去年秋に行った岩槻(埼玉県)の方が残っていたかも。

 いつも書くけど、関東人は関東の歴史を知らない。多くの地方ではお城が残って、町のシンボルになっているところが多い。関東には現存天守閣は一つもなく、本格的な復元も小田原城ぐらい。そもそも関東は徳川幕府の天領が多い上、天守のない御殿が多かった。維新期に取り壊された城が多く、なかなか知られた城が少ない。古河も城下町のはずなのに、どんな城だか全然知らない。今回調べたら、渡良瀬川の改修で城跡はほとんどなくなってしまったのだという。それじゃ知らないはずだ。

 さて、駅を降りて西口へ。まっすぐ行くと県道261号に出る。これが旧日光街道で、古河は9番目の宿場町だった。道には「古河宿」の標しがあった。北上して迷走したが、普通は「古河歴史博物館」直行がいいのではないか。
 (古河宿)
 町並みを歩けば、歴史的なムードが確かに感じられる。途中で曲がったり行き止まりの道にお寺が多い。また、うなぎ屋が多いのは、川沿いの町だからだろう。大回りして古河歴史博物館に行った。ここは立派な展示があって、この種の歴史博物館の中でも優れている。1992年建築で、建築学会賞を得たという。古河城の諏訪曲輪(すわくるわ=出城)の跡地に建てられている。
  (歴史的な町並み)(古河歴史博物館)
 原始から近代まで展示するが、やはり土井利位と家老鷹見泉石のものが充実している。土井利位(1789~1948)は、分家筋の愛知県刈谷藩の土井家の4男に生まれて、本家の養子に迎えられた。老中になり、水野忠邦の政敵だった人である。フィクションだが、映画『十三人の刺客』で暗殺指令を出す殿様。日本で初めて雪の結晶を顕微鏡で観察し、『雪華図説』『続雪華図説』にまとめた。そもそも雪の結晶を「雪華」と名付けたのも、この殿様。なんかお殿様趣味みたいなものかと思っていたら、その本の影響で当時「雪華」デザインの着物が大流行し、その様子が当時の浮世絵に残されているのである。
(土井利位)(「雪華図説」)(雪華模様の着物)
 今でも古河市の小学校の校章は雪華文様になっているという。また近隣の古河第一小の付近には雪華の石畳がある。その小学校の体育館裏あたりが、家老鷹見泉石の生誕地。碑があるとのことだったが、日曜日で閉まっていたので見れなかった。
(雪華の石畳)(古河第一小学校)
 歴史博物館の真ん前に「鷹見泉石記念館」がある。鷹見泉石(1785~1858)が死去したのはこの屋敷だという。もとは藩士用の武家屋敷で、本来はもっと大きな屋敷だった。一時は天狗党投降の水戸藩士の仮収容所になったこともある。明治後になって鷹見家の所有となって、鷹見泉石関係資料はここで保管されていた。資料一切が近年歴史博物館に寄贈され、2004年に重要文化財に指定された。今まで「渡辺崋山の肖像画に描かれた蘭学者」ぐらいしか知らなかったが、博物館に展示された史料を見ると、なかなか奥が深い人だ。殿様の雪の研究を支えた人でもあり、膨大な地図のコレクターでもある。古河藩関係の絵地図だけでもいっぱいあった。オランダ由来の品々もたくさん残されている。「記念館」自体は、無料で中にも上がれない。建物を外から見るだけの場所。
   (鷹見泉石記念館)
 鷹見泉石記念館の庭から奥に続いて、奥原晴湖画室がある。奥原晴湖(1837~191)って誰よという感じだが、明治時代を代表する女性南画家だそうである。「南画」もよく知らないけど、中国南宋時代の様式に影響された文人画。古河出身で、鷹見泉石の姪にあたる。木戸孝允や山内容堂に庇護されて多くの文人と交流したとウィキペディアにある。明治3年に東京に画塾を開き大繁盛したが、明治24年に熊谷に転居した。この屋敷は昭和4年に熊谷から移築し、さらに歴史博物館前に移した。博物館に説明があって、初めて名前を知った画家。ウィキペディアを見ると、代表作が掲載されている。
 (奥原晴湖画室)
 そこから5分ほど歩くと、古河文学館がある。永井路子の追悼コーナーもあった。永井路子の他は、佐江衆一小林久三粒来哲蔵(詩人)とか。小林久三は『暗黒告知』で乱歩賞を取ったミステリー作家(それ以前は松竹のシナリオライター)だが、同作の主人公は鉱毒事件で有名な田中正造だった。佐江衆一も田中正造を描いているが、渡良瀬川に接し谷中村にも近い古河の風土によるものだった。文学館からさらに5分ほどに永井路子旧居がある。中に入れるけど、何となく通り過ぎてしまった。
(古河文学館)(永井路子旧宅)
 永井路子旧宅に行く前に、文学館から大きな道に出たところに「篆刻美術館」がある。別にそんなに関心はないんだけど、歴史博物館、文学館と3館共通券を買ったので行かないと。篆刻(てんこく)とは、「印章を作ること」で、主に篆書を印文に彫るから篆刻だそうである。「篆書」は字体の一つで、見れば何となく判ると思う。1991年に開館したもので、国登録の有形文化財の蔵を利用している。この蔵に風情があるので、篆刻には特に興味ないけど見た価値はあった。
  (篆刻美術館)
 永井路子旧宅から少し行くと、正定寺(しょうじょうじ)がある。藩主土井家の菩提寺だという割りに小さいなと思ったら、もう一つ東の方に大きな正定寺があるんだそうだ。下の画像真ん中は土井利勝像で、土井家藩祖になる。この寺を「利勝山」と呼ぶぐらいである。いろいろと文化財もあるらしいが、この頃雨が降ってきたから退散することにした。
  (正定寺)
 渡良瀬川を渡って、東武線新古河駅から帰ろうかと思っていたんだけど、雨のためJR古河駅へ戻る。駅ビルで鮒の甘露煮がいっぱい売っていた。小さいとき、よく家にあって結構好きだったけど、まあ買わずに帰ることにした。
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五代目春風亭柳朝三十三回忌追善興行

2023年02月17日 23時22分51秒 | 落語(講談・浪曲)
 浅草演芸ホールで行われている「五代目春風亭柳朝三十三回忌追善興行」も20日まで。1月下席の4代目桂三木助追善興行は、まだ落語に行ける心境じゃなくて見送った。今回は連日立ち見という評判だし、もうそろそろいいかなと思って、行くことにした。寒いから、つくばエクスプレスで演芸ホールの真下まで行くことにした。地上に出たら、ズラッと行列が…。アレと思ったら、東洋館のものだった。そこは昔のフランス座で、今は漫才専門館。今日はナイツやU字工事も出る。大行列のわけである。

 ところで「五代目春風亭柳朝」(1929~1991)って誰だっけ。60年代に「若手四天王」と言われた一人だということは知っている。他の三人は古今亭志ん朝立川談志5代目三遊亭円楽なんだから、それに並ぶ人気者だったのである。テレビにも出ていたというから、当時よく落語番組を見てた僕が知らないはずがない。でも、覚えていない。若い頃は寄席や落語会には行かなかった。だから、1980年に弟子の春風亭小朝が「36人抜き」で真打に昇進したニュースは覚えているのに、師匠の名を忘れていた。
(五代目春風亭柳朝)
 五代目柳朝の師匠は、8代目林家正蔵(後の林家彦六)である。(この人の戦中日記を読んだ感想は「『八代目正蔵戦中日記』を読むー戦時下の寄席と東京」に書いた。)7代目林家正蔵は、先代林家三平の父だった。一代限りということで蝶花楼馬楽が借りて、1950年に8代目正蔵を継いだ。現在の9代目正蔵は、林家三平の息子だから名跡は戻ったわけである。という経緯があって、8代目正蔵は一番弟子に「林家」ではなく、春風亭という亭号を付けさせた。その頃の「春風亭」には落語芸術協会(前名=日本芸術協会)を立ち上げて44年間会長を務めた春風亭柳橋がいたので、正蔵は柳橋に断りを入れたという。

 柳朝の一番弟子は春風亭一朝だが、真打に昇進したのは1982年12月だった。二番弟子の春風亭小朝の昇進が80年5月だから、兄弟子を抜いてしまったのである。ところで、今回は出ていないが、一朝の二番弟子が最近「笑点」メンバーになった春風亭一之輔で、2011年に21人抜きで真打に昇進した。一之輔が売れたせいもあって、一朝も最近よく寄席で聞く機会が多い。しかし、一之輔は兄弟子を抜いたわけではない。一朝の一番弟子が、2007年に真打に昇進した6代目春風亭柳朝で、孫弟子が大師匠の名を継いだことになる。連日トリを取っていて、今日は堅すぎる若旦那を稲荷参りと称して吉原に連れて行く「明烏」を熱演していた。
(6代目春風亭柳朝)
 今回はプロデューサーとしての春風亭小朝の力が見事に発揮された公演だと思う。特に話題になったのが、三遊亭好楽が40年ぶりに落語協会定席に出たこと。好楽はもともと8代目正蔵の弟子で、林家久蔵の名で81年9月に真打に昇進した。しかし、82年に師匠が亡くなり、83年になって落語協会を脱退して5代目三遊亭円楽一門に移籍して三遊亭好楽を名乗ったのである。つまり、好楽はもともとは5代目柳朝と兄弟弟子なのである。そこで特例として、今回の追善興行に参加を認められた。それが小朝の力である。林家木久扇も8代目正蔵の弟子として、何回か出演している。今日は息子の林家木久蔵だったけど。
(春風亭小朝)
 今日は5代目柳朝の兄弟弟子は三遊亭好楽三代目八光亭春輔。5代目柳朝の弟子からは、春風亭一朝春風亭小朝春風亭正朝春風亭勢朝いなせ家半七と勢揃い。孫弟子としては、一朝の弟子の6代目春風亭柳朝春風亭三朝春風亭一左、小朝の弟子が(師匠没後に移籍した勢朝、半七を除き)、蝶花楼桃花。(五明楼玉の輔もプログラムにあるが欠席だった。)初めて聞いた人も多くて、こういう機会は貴重だ。これに9代目林家正蔵が加わって、実に豪華な布陣に満足。

 今回は噺の中身にほとんど触れず、人名ばかり並べてる。僕がここまで詳しいわけがなく、ウィキペディア等で調べながら書いてるわけだが、それが楽しい。そうだったのかと思うことが多い。「春風亭」は落語協会と落語芸術協会の双方にいるけれど、そんな経緯があったのか。6代目春風亭柳橋の弟子に春風亭柳昇がいて、その弟子が春風亭昇太。落語協会には春風亭一之輔が出て、今や春風亭は注目のまとだ。まあ、僕としては昇太も一之輔も早く「笑点」から卒業して欲しいと思ってるけど。
(カバーby林家たい平=今戸焼のうさぎ)
 色物も面白かったが、浮世節の2代目立花家橘之助の舞台に、21歳の弟子の立花家あまねが同席して、三味線だけでなく舞踊も披露したので驚き。漫才の「にゃん子・金魚」で、金魚ちゃんにホントにバナナを差し入れした客がいたのも驚き。3月末に江戸家猫八を襲名する江戸家小猫も相変わらず上手かった。久しぶりでお尻が痛いけど、やはり面白かったなあ。
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竹生島は島じゃないのか?ー日本の島の数が「倍増」した理由

2023年02月16日 22時44分39秒 |  〃 (歴史・地理)
 日本の島の数が倍になったそうである。具体的に数を示せば、これまでの「6852」から「14125」になった。エッと思うけど、そもそもなんで数え直したのか。それは自民党の有村治子参議院議員が「島の数を正確に把握することは国益に関わる大事な行政だ」と指摘したのがきっかけだという。計算のベースは、国土地理院の2022年の「電子国土基本図」で、コンピュータで自動計測した。ただ人工的な埋め立て地などを除外するため、過去の航空写真と照合したという。
(島の数倍増を伝えるテレビ)
 ところで、そもそも「島ってなんだろう?」問題がある。「島」を定義しないと、数えようがない。それを授業などで考えてみるのも面白いだろう。まあ、ここでは話を進めるために答えを書いておくと、定義の根拠は国連海洋法条約である。
 ①自然にできた陸地 ②水に囲まれている ③満潮時でも水面上にある

 なるほどと思う定義だろう。だけど、疑問もある。それでは満潮時でも海面の上にちょっと出ている岩も島なのか。「島」ならその周囲は領海、あるいは排他的経済水域の基準となる。しかし、ただの「岩礁」(がんしょう)なら、そうはならない。人が住めないような「岩礁」では権利を主張できない。これが南シナ海をめぐって争われた国際司法裁判所の判断である。

 日本では「外周が100メートル以上の島」を数えることにしているという。正方形の島だとすると、一辺が25メートルである。大きいような小さいような…。ただ人が住めるような面積じゃない。なんで100メートル以上なのか書かれてないけど、これまでの島の数は海上保安庁がその基準で手作業で海図から数えたものだという。だから、以前と同じ基準なのである。電子地図をコンピュータで検索したことで、小さな島まで自動的にリストアップされてきたということのようである。

 都道府県別に、多い順に示すと以下の通り。
長崎県 1479
北海道 1473
鹿児島 1256
岩手県  861
沖縄県  691
宮城県  666
和歌山  655
東京都   635
島根県  600
三重県  540
(都道府県別の島の数)
 一方、少ない方の県はと考えて、そうか「海なし県」は島がない。埼玉県奈良県に島があるわけないだろう。海に面した都道府県で島がないのを探してみると、大阪府だけがゼロである。関空や夢洲はあるが埋め立て地。ところで、海なし県は軒並みゼロになっているが、琵琶湖のある滋賀県はどうなんだろう。ここもゼロである。えっ、おかしくないだろうか。

 国宝の島として知られる竹生島(ちくぶしま)は島じゃないのか。あるいは近江八幡市にある沖島はどうなんだ。ここは人口250人程度が住み、日本唯一の淡水湖中の有人島である。(また猫の島としても有名。)このように湖の中の島は全国に見られる。島根県の中海にある大根島。北海道の洞爺湖にも島があるし、日光の中禅寺湖にも島がある。長野県の野尻湖には琵琶島があって、昔作家の中勘助が暮らしていたことがある。
(竹生島)
 先に見た島の定義からしても、まあ湖だと湖水の干満はないけれど、自然にできた陸地なんだから、島の数に入れなくて良いのだろうか。ただ昔のように、数えるのが海上保安庁なら海上交通の保安面からして湖の島を数える必要がない。だけど、我々の文化的、自然景観的な常識からして、湖にある島も「日本の島の数」に入れるべきではないだろうか。

 一方、「外周100メートル以上」条件のために、到底普通は島とは言わないような所までリストアップされている。それは上記都道府県リストで、長崎、北海道、鹿児島はいいけれど、第4位に岩手県が入っていることでも判る。上位3道県は有名な島の名前がすぐ思いつくけど、岩手県に島があるのか。地図がある人は見て欲しいけど、とても861個も島があるとは考えられない

 それは首都圏でみても同様。伊豆諸島、小笠原諸島を管轄する東京都は理解出来るが、茨城県が13千葉県が244神奈川県が97って、ほんとにそんなにあるのかなあと疑問に思う。江ノ島とか幾つかあるのは知ってるけど、こんなにあるのはよほど小さいのまで数えているわけだ。国境地帯などは別だろうが、人が住んでいない島の数がいくつかなど、これほど細かく調べても「国益」に関係ないだろう。むしろ湖の島なども入れて、「常識的な数字」を出した方が良い。
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映画『モリコーネ 映画が恋した音楽家』

2023年02月15日 22時32分36秒 |  〃  (新作外国映画)
 イタリアの映画音楽家、エンニオ・モリコーネ(1928~2020)の生涯を描くドキュメンタリー映画『モリコーネ 映画が恋した音楽家』。157分もある長い長い映画だが、興味深くとても楽しく見られた。作ったのは『ニュー・シネマ・パラダイス』以来、モリコーネの音楽を使い続けたジュゼッペ・トルナトーレ。モリコーネは2020年に亡くなったが、映画では長いインタビューが行われ、音楽を担当した映画が何十本も引用されている。実に贅沢な気分になる映画。

 映画ファンじゃなくても、『ニュー・シネマ・パラダイス』や『荒野の用心棒』なんか、どこかで聞いていると思う。いや、聞いてなくても、一度聞けば懐かしい世界に浸ってしまうだろう。彼はもともと医者になりたかったが、楽団のトランペッターをしていた父が音楽学校へ入れたという。トランペットさえ出来れば家族を養っていけると。だけど、音楽院の中でトランペットはマイナーな楽器で、彼は作曲に憧れた。学校には現代イタリアの代表的な作曲家ペトラッシがいて、彼に付いて作曲を学べるようになった。しかし、やがてポップスや映画音楽で成功したモリコーネは師との関係が悪くなってしまう。
(エンニオ・モリコーネ)
 当時は音楽に限らず、芸術に「純粋志向」を求めることが多く、様々な前衛的な芸術運動が繰り広げられた。モリコーネもジョン・ケージなどに影響されて、現代音楽を作曲している。実は最後まで現代音楽家として作曲を続けていて、たくさんの作品を残しているという。ただ、それだけで食べることは出来ないから、「歌謡曲」の作曲を頼まれる。その映像がたくさん残っているが、歌手の魅力をどのように見出したか興味深い。そして、1964年のセルジオ・レオーネ監督『荒野の用心棒』を頼まれた。
(『荒野の用心棒』)
 レオーネに頼まれた時に驚いたという。実は小学校時代の同級生で、一緒に写った集合写真が出て来る。そして彼は一本の日本映画をモリコーネに見せた。黒澤明監督の『用心棒』である。これをやりたいんだという。この映画で「マカロニ・ウェスタン」が世界的に大ヒットし、クリント・イーストウッドをスターにした。その後、レオーネは世界的巨匠と認められるが、最初はアメリカの西部劇の「まがい物」として低く見られていた。そんな中で、現代音楽も生かしたモリコーネの才能が、映画にどのように大きな貢献をしたか。映像をもとに解説される。

 やがて、様々なイタリア映画の名匠から依頼が来るようになる。ジロ・ポンテコルボ監督の『アルジェの戦い』やパゾリーニ、マルコ・ベロッキオ、ベルナルド・ベルトルッチ、エリオ・ペトリなどの新進監督たちである。当時の映像を引用しながら、映像の魅力を引き出す音楽の力が解明されていく。監督よりも映像解析力が高い場合もある。彼の音楽があって、物語が始動していく。特にセルジオ・レオーネがアメリカで作った『ウエスタン』(リバイバル時の題名『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト』の抒情的、かつ壮大、前衛的試みも含まれた傑作を担当した。この映画は最近日本でもリバイバルされ、その音楽の素晴らしさに魅せられて2度見たぐらいである。
(映画『ミッション』)
 まあ、あまり細かく書いても仕方ないけど、次第に世界からオファーが来るようになり、テレンス・マリック監督『天国の日々』(1978)で初めてアカデミー賞作曲賞にノミネートされた。そしてローランド・ジョフィ監督『ミッション』(1986、カンヌ映画祭パルムドール受賞)は、本格的なオーケストラを使った作曲でアカデミー賞最有力と言われた。しかし、受賞者はフランス映画『ラウンド・ミッドナイト』のハービー・ハンコックだった。ハンコックは優れたジャズ・ミュージシャンだが、映画ではジャズの名曲の再現シーンが多く、モリコーネは自身の落選に納得できなかった。
(『ニュー・シネマ・パラダイス』)
 何度も映画音楽は辞めると言っていたらしいモリコーネだから、最初に新人監督ジュゼッペ・トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』を頼まれた時は、一度断ったという。しかし、製作者から一度シナリオを読んでくれと言われて、読んだら気が変わった。そして映画音楽の傑作が生まれたのである。この映画の音楽はもっと聞いていたいぐらいだが、トルナトーレは自分の映画の引用は控えめ。以後の彼の全作品をモリコーネが手掛けたが、『海の上のピアニスト』しか引用されない。
(アカデミー賞名誉賞受賞)
 そしてアカデミー賞は2006年にそれまでの業績に対して、名誉賞を贈った。その後も活躍を続け、タランティーノ監督『ヘイトフル・エイト』(2015)でようやく受賞することになった。これは最高傑作というより、功労賞みたいなものだろう。最後は映画音楽をオーケストラで演奏するコンサートを各地で開催し、「イタリアの誇り」「マエストロ」と呼ばれていた。ある意味、20世紀を代表する音楽は「映画音楽」だったと語られている。そこまでの長い人生を豊富なフィルムをもとに振り返った映画。まあ書くまでもないんだけど、映画ファンには非常に幸せな気分になれる映画。一応紹介しておきたいなと思って書いた次第。
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映画『すべてうまくいきますように』、「尊厳死」を考えるフランス映画

2023年02月13日 22時39分21秒 |  〃  (新作外国映画)
 フランス映画のフランソワ・オゾン監督『すべてうまくいきますように』は、とても良く出来た映画だった。なめらかに進行して、判りにくいところがない。いや、人間の人生には不可解なことが多く、映画を見ていて疑問も多いのだが、見てると何となく判ってくる。説明過多ではなく、観客が次第次第にそうだったのかと感じられるように作られている。そのストーリー展開そのものは納得できるんだけど、この映画の肝心の主題である「尊厳死」に対する疑問は尽きない。

 フランソワ・オゾン(1967~)は20世紀末から活躍していて、初期作品では『まぼろし』『8人の女たち』『スイミング・プール』などが評判になった。その後も順調に映画を作り続けていて、フランス映画界では中堅から巨匠になりつつある。ここでは『婚約者の友人』や『グレース・オブ・ゴッド』(ベルリン映画祭銀熊賞)を書いている。ゲイを公表していて、性的マイノリティをめぐる映画も多い。ここでは書かなかったが、前作『Summer of 85』も同性の友人と出会う「ひと夏」を鮮烈に描いていた。

 全然知らなかったのだが、今名を挙げた『まぼろし』『スイミング・プール』の脚本を手掛けたエマニュエル・ベルンハイム(1955~2017)という小説家がいた。2017年に亡くなっているが、彼女が書いた小説、というか実話のようだが、それを監督自身が脚色して映画化したのが『すべてうまくいきますように』なのである。冒頭で父親アンドレ(84歳)が倒れて病院に担ぎ込まれる。脳卒中だが一命を取り留めた。しかし、体の自由が効かなくなった父は、エマニュエルに対し「すべてを終わらせたい」と言い出す。これは死にたい、安楽死や尊厳死を指すものだとエマニュエルや妹のパスカルには了解できた。
(原作者エマニュエル・ベルンハイム)
 父がいれば母がいるはずだが、どうなっているのか。と思う頃に、長く闘病中の彫刻家である母のクロードが登場する。父は実業家・アート・コレクターで、これは原作者の実際の境遇のようである。経済的には裕福だが、夫婦の関係はずっと悪かった。その理由はやがて判ってくるが、結局父親の面倒を見るのは二人の娘、特に子どもがなく自由業のエマニュエルが中心になるしかない。エマニュエルを演じるのは、かつての大アイドル女優、ソフィー・マルソーで、実に自然で見事。母親が『まぼろし』などに主演したシャーロット・ランプリングという懐かしいキャスティングになっている。
(エマニュエルと母クロード)
 父は頑固と娘たちは繰り返し言っている。時々挿入される娘たちの子ども時代の映像を見れば、確かに頑固というか、身勝手である。自分が病気になったからといって、娘たちを煩わせて「尊厳死」を望むなんて…というのが大方の日本人の反応ではないか。エマニュエルがネットで検索すると、フランスでは不可能だが、スイスへ行けば可能だという。2022年に映画監督ジャン=リュック・ゴダールが自ら死を選んだという衝撃的なニュースも報じられた。
(最後に娘夫婦と外食)
 1万ユーロ(現時点では140万円ぐらい)必要と言われているから、経済的に困窮していてはできない。映画の中でも父は「貧しい者はどうするんだ」と問い、娘は「死ぬのを待つだけ」と答えている。1万ユーロは高いか安いか。高いけど、まあ人生の最後に出して出せない金額じゃない人も多いだろう。だけど、お金の問題ではなく、矛盾も多い。頭がクリアーな状態で判断しないといけないが、本人が正常な判断力を持っているなら死ぬのを選ぶだろうか。この映画のように、面倒を見てくれる娘がいて経済的問題もない。何故死なないといけないのか。

 それは病気で弱った自分を認められないからだろう。しかし、人生の最後の数年間を家族や医療施設のお世話になりながら、弱者、障害者として生きてはダメなのだろうか。確かに「生活の質」(QOL)は落ちるだろう。絵を見に行くこともままならない。だけど音楽を聞くことは可能だ。アンドレは最後にもう一度「ヴォルテール」に行きたいという。実在する有名レストランである。そこで美味しそうに食べている。死ぬ必要がどこにあるかと僕は思ったが、そこで「オシマイにする」決断をするのがヨーロッパの生き方なのか。弱った自分を受け入れて周りに頼るのを肯定してもいいではないか
(昔のソフィーマルソー)
 そんなことを思ったのだが、フランスでも「違法」スレスレの行為のようで、実際に娘二人が警察に呼ばれるシーンがある。またスイスまでは「救急車」で行くが、(これは公的な救急車ではなく、「介護タクシー」のようなものだろう)、運転手の一人がムスリムなので途中で拒むシーンもある。愛する娘にそんな負担を掛けてまでやることか。だけど、それが本人の意思なら尊重するというのも、フランス的には正しいのだろう。ソフィー・マルソーは昔「スクリーン」誌の表紙を飾ったぐらい日本でも人気があった。『ラ・ブーム』『ラ・ブーム2』のデジタル版は最近リバイバル上映された。見事に年齢を重ねていることに感心した。
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日本の国会議員は多いのか?ー日本は人口比で少ない国である

2023年02月12日 22時53分00秒 | 政治
 テレビでクイズ番組をよく見る。内容も興味あるけど、ドラマやドキュメンタリーのようにずっと見てなくていいのが好きなのである。夜は大体ブログを書きながら見てるので、テキトーに時々見てるだけでも楽しめるのが大事。(それに歴史、地理系の問題なら全問正答できるから、間違えるタレントを笑って見てられる。国旗問題を除き。)

 ところで、10日にあった「クイズ!あなたは小学5年生より賢いの?」という番組で、「日本とアメリカの国会議員はどちらが多いのか」という問題が出た。これは日本の方が多いのである。日本の議員定数は最近変わったから、僕もすぐには答えられない。調べてみると衆議院が465人参議院が248人で、合計713人。アメリカは下院が430人上院が100人で、合計535人になる。

 これだけ見ると、日本の方が178人も多いから、アメリカに比べてムダに多いような気がしてしまう。番組中では「日本の議員数は多いと聞いている」という小学生の発言があった。誰から聞いたのか知らないけど、まあ教師や親ということだろう。でも、これは内容の検討を抜きに数だけ比べたもので、本質的問題を置いてミスリーディングさせてしまう発想だ。
(人口比で見たG7各国の議員数)
 上記画像を見れば一目瞭然だが、人口一人当たりで比べれば「アメリカは極端に議員数が少ない国」である。そして、日本も人口比で7ヶ国中で第6位である。7ヶ国中で、少ない方の1番と2番を比べて「どっちが多い」という比べ方はおかしい。G7で比べるのもどうかとも思うが、日本でサミットが開催されると宣伝してる年だから、今はその中で比べておきたい。

 そもそも政治制度は各国で違っているので、それを無視して比べても仕方ない。例えば、世界には「一院制」の国もあるが、その方が議員数が少ないのは当然だ。例えば韓国は一院制で、定数は300名になっている。それを見れば国会議員が少ないように思うが、総人口は5173万人なので、人口あたり17万2千人に一人国会議員がいることになる。

 G7各国はいずれも二院制だが、上院議員を自由選挙で選んでない国もある。イギリスは未だに貴族院(上院)議員は貴族から選ぶ。さすがに世襲貴族ではなく、一代貴族が多いということだが、貴族院議員だけで785人もいる。庶民院(下院)議員も650人だから、合計すると1435人にもなる。選挙で選ばない議員を入れて比べても意味がない。下院だけで計算すれば、イギリスの人口は6868万人なので、10万5千人に一人ということになる。

 ドイツも二院制だが、連邦参議院は各州の代表で構成され、定数はわずか69人。実質的には一院制の国と言える。大統領がいるが、国会が選んで儀礼的な仕事を担い、行政は国会が選んだ首相が担う「議院内閣制」である。イギリス、日本、イタリア、カナダも同じ。アメリカとフランスだけが国民が選んだ大統領が政治を行う大統領制である。ドイツの選挙制度は「小選挙区比例代表併用制」で、定数は決まっているけど選挙結果によっては「超過議席」が生じる。定数は598人だが、現在は736人になる。人口8378万人だから、11万4千人に一人
(日米英の国会比較)
 今見ているのは、下院にしぼったうえで、「人口一人当たりの国会議員数」である。議会制民主主義では「下院優越の原則」がある。上院のあり方は各国様々で、その国の成り立ちによって大きく異なっている。それを無視して、ただ数だけ比べても無意味。例えば、あれだけ大きなアメリカ合衆国で上院が100人なのは、連邦制だからだ。各州2人ずつだから、50州で100人。人口の少ないワイオミングも、人口の多いカリフォルニアも2人ずつ。人口差は60倍以上になるが、「一票の格差」問題は起きない。

 各国の人口あたりの下院議員数を調べると以下の通り。(議員一人当たり国民数が少ない順)
イタリア 代議員定数=630 総人口=6046万 9.6万人に1人 
イギリス 庶民院定数=650人 総人口=6868万 10万5千人に1人
カナダ 庶民院定数=338 総人口3774万 11万2千人に1人
ドイツ 連邦議会定数=598(現在の議員数736人) 総人口=8378万 11万4千人に1人
フランス 国民議会定数=577 総人口=6830万 11万8千人に1人
日本 衆議院定数=465 総人口=1億2421万 26万7千人に1人
アメリカ合衆国 下院定数=435 総人口=3億3480万 77万人に1人

 国会議員、特に下院議員は議院内閣制の国ではとても重要である。(アメリカだけは特殊で、上院に与えられている権限が大きい。)国会議員の数は多ければ良い、少なければ良いという問題ではない。政治制度も違っているし、上院のあり方にもよるから下院だけで比べるのも本来はおかしい面がある。また国会の物理的キャパシティの問題もある。国会議員を1万人にして、東京ドームで国会をするわけにもいかない。日本の場合、イギリスのように「人口10万人」ほどにすると、1200人以上の議員になって国会議事堂に入りきれない。だけど、ヨーロッパ先進国基準で考えると、衆議院定数はむしろ少ないのである。
(イギリスの国会議事堂)
 それなのに、なぜ日本では「国会議員を減らせ」という声がすぐ出て来るんだろうか。国会議員は「国民の代表」なんだから、自分で自らの代表を減らせと言ってはおかしい。減らすと少数意見が国会に更に届かなくなってしまう。だけど、何となく国会議員は何してるんだと思うのは、「党議拘束」の縛りが強いからだろう。自民党、公明党が話し合って、その議員たちが全員決まったとおりに賛成する。だから、国会で野党の質問に答えるより、与党同士の裏の話合いの方が重要になる。

 いま問題になっている「LGBT理解促進」とか「選択的夫婦別姓」とか、与党の中でも公明党は賛成である。自民党内がまとまらない、ただそれだけで国会に提案もされない。自民党内にも賛成者はいるんだから、「党議拘束を外して採択」すれば成立するんじゃないだろうか。国会議員は「国民全体の代表」であり、地域代表でも政党の代理人でもないはず。一人一人が自分で判断するという人間として当たり前のことをすれば、国会議員は多すぎるなんて声も出なくなるのではないか。(なお、僕は国会議員数を増やして、その分政党助成金を減額するべきだという考えである。)
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門田博光、永井路子、天沢退二郎、鈴木邦男他ー2023年1月の訃報②

2023年02月10日 22時51分06秒 | 追悼
 2月9日になって、映画監督小沼勝の訃報が報道されたので、①に追加した。芸能界以外で一番知られた物故者は、プロ野球選手の門田博光(かどた・ひろみつ)だろう。1月24日に亡くなっているのが見つかった。74歳。1969年に南海ホークスに入団。2年目に打点王を獲得した。その後、一本足打法でホームランを量産し、通算567本は王、野村に次ぐ歴代3位の記録になっている。1988年には40歳にしてホームラン、打点で2冠を獲得しMVPとなり「中年の星」と呼ばれた。89年にオリックス、91年にダイエー(現ソフトバンク、元南海)に移籍し、92年に引退。名前は有名だったが、テレビなどで見た記憶はほとんどない。野球のテレビ中継が毎日あった時代だが、それはほぼ巨人戦オンリー。日本シリーズにも1回(南海時代に)出ただけ。88年の活躍も家でテレビを持ってなかったから見てない。引退後は指導者にならず評論家をしていた。
(2006年、殿堂入り表彰時)
 歴史小説家の永井路子が1月27日に死去、97歳。歴史小説の多くが戦国か幕末かを舞台にするのに対し、永井作品は古代、中世を扱ったものが多かった。直木賞受賞作の『炎環』は源実朝暗殺事件を「裏に三浦氏あり」との仮説で描き、歴史学界にも影響を与えた。(現在は否定的な説の方が強いようだ。)その他、奈良時代の『氷輪』、平安初期の『雲と風と-伝教大師最澄の生涯』、日野富子を描く『銀の館』など多数。大河ドラマ『草燃える』(鎌倉時代の東国武士)、『毛利元就』の原作者。男性中心の歴史観に対し、女性の役割を評価する作品を書いた。また判りやすい歴史エッセイでも知られた。僕も何冊か読んでいるが、特に面白かったのは『悪霊列伝』。茨城県古河市で育ち、旧蔵書をもとに「古河文学館」を開館、また旧居を別館として公開している。
(永井路子)
 詩人、児童文学者、フランス文学者で、宮沢賢治研究で知られた天沢退二郎(あまさわ・たいじろう)が25日死去、86歳。宮沢賢治に影響を受け学生時代から詩を書き、数多くの詩集を刊行した。『《地獄》にて』(1984)で高見順賞。さらに『光車よ!まわれ』『《三つの魔法》』シリーズなど児童文学でも評判になった。フランス文学者としては明治学院大学で教えるとともに、多くの翻訳を行った。アラン・フルニエ『グラン・モーヌ』(岩波文庫)は素晴らしかった。また『《中島みゆき》を求めて』などの著書もある。しかし、一番重要だと思う業績は、やはり宮沢賢治全集を作ったことだろう。弟の宮沢清六から生原稿を見せて貰い、何度も花巻に通って『校本宮澤賢治全集』(1973~77)をまとめ、その後新修、文庫版をへて、『新校本 宮澤賢治全集』(1995~2007)を完成させた。これによって賢治研究の基礎が作られたのである。
(天沢退二郎)
 政治運動家、著述家で、「新右翼」と言われた「一水会」の創設者、鈴木邦男が1月11日死去、79歳。「生長の家」の家庭で育ち、早大時代には生長の家系の右派学生運動で活躍。1969年に右派系学生運動の連合で委員長となったが、内部争いで1ヶ月で退任した。70年の三島由紀夫事件に衝撃を受け、72年に民族派団体「一水会」を設立した。75年に東アジア反日武装戦線を評価し、三一書房から『腹腹時計と〈狼〉』を刊行し論壇にデビューした。以後、新左翼系著名人などと知り合うが、21世紀になると非暴力の立場をはっきりさせた。また、反差別を掲げてヘイトデモ反対行動に参加した。周囲からは「右翼からリベラル派になった」などと評されたが、まあ、「反差別」や「死刑廃止」こそ日本の伝統だという思いはホンネなのだろう。何回か映画上映後のトークを聞いたと思うけど、本を読んだことはない。面白い人、勇気ある人ではあった。
(鈴木邦男)
 国際的に知られた数学者の佐藤幹夫が1月9日に死去、94歳。京大名誉教授。関数を極限まで一般化した「佐藤超関数」、微分積分を代数的に調べる「代数解析学」、概均質ベクトル空間の研究など、現代の数学、物理学に大きな影響を与えた。文化功労者。すごい人らしいんだけど、研究テーマのそれぞれを調べても、僕には難しすぎて全く意味不明。
(佐藤幹夫)
 現代音楽の作曲家として知られた松平頼暁(まつだいら・よりあき)が1月9日死去、91歳。本職は生物物理学者で、立教大学教授を務めた。一方、作曲家松平頼則の子として生まれ、独学で作曲を学んだ。様々な様式に基づくシステム化された作曲を模索するとともに、一柳慧やケージの影響で偶然性の音楽も手掛けた。国際的な評価が高く重要な現代音楽家と言われている。
(松平頼暁)
 「本の雑誌」創刊者で、本や競馬の評論でも知られた目黒考二が19日死去、76歳。本が読めないとの理由で次々と会社をやめ、ついには会社の同僚だった椎名誠らと1976年に「本の雑誌」を創刊した。実質的な編集長として多くの新人を発掘したことで知られる。また北上次郎名義で冒険小説やミステリーの評論を行い、1994年『冒険小説論 近代ヒーロー像100年の変遷』で日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞を受賞。藤代三郎名義で数多くの競馬関連本も出している。面白本に関するこの人の眼力は素晴らしいものがあり、刊行中の「日本ハードボイルド全集」(創元推理文庫)も楽しみにしていたので残念。
(目黒考二)
 1987年から95年まで、内閣官房副長官を務めた石原信雄が29日死去、96歳。竹下、宇野、海部、宮沢、細川、羽田、村山の7内閣を支えた。(当時は最長。現在は杉田和博、古川貞二郎に次ぐ3位。)この間は消費税導入、昭和天皇逝去、湾岸戦争、PKO法制定、非自民政権誕生、自社連立と戦後最大級の政治変動に見舞われた時期だった。退任後、95年の東京都知事選に立候補した。自社さ連立の村山政権時で自社など各党相乗りとなり、それに反発した青島幸男が当選してしまった。僕も当時は「各党相乗り」に反発して青島に入れたのだが、結果的には石原信雄知事が当選していたら、「現職2期目」は圧倒的に強いから、もう一人の石原(慎太郎)都知事は誕生しなかったのは間違いない。僕の人生にも大きな影響を与えていただろう。
(石原信雄)
 セコム創業者の飯田亮(いいだ・まこと)が7日死去、89歳。1962年に日本初の警備会社、日本警備保障を設立。1964年の東京五輪の警備を一手に担って飛躍し、テレビドラマ「ザ・ガードマン」のモデルになった。74年に東証二部、78年に一部に上場し、83年に社名をセコムに変更した。誰も手掛けていなかった分野を切り開いた戦後史の重要人物である。
(飯田亮)
阿部市次、2022年10月10日死去、99歳。松川事件元被告人で最後の存命者。一審で死刑判決を受けたが、61年の仙台高裁差し戻し審で無罪判決、63年に最高裁で確定した。
石井昭男、2022年12月30日死去、82歳。78年に明石書店を創業し、人権問題の出版につくし、08年にマグサイサイ賞を受賞。
金川千尋、1日死去、96歳。信越化学会長。90年から10年まで社長を務め、シリコンウェハー事業で世界最大手に育てた。
仲尾宏、1日死去、86歳。歴史学者。在日コリアン・マイノリティー人権研究センター理事長。朝鮮通信使研究の第一人者で、著書に『朝鮮通信使 江戸日本の誠信外交』(岩波新書)などがある。
河野一郎、6日死去、93歳。英文学者、翻訳家。東京外大名誉教授。カポーティ『遠い声、遠い部屋』、マッカラーズ『心は孤独な狩人』、シリトー『長距離走者の孤独』など、英米現代文学の紹介に務め、僕もずいぶん読んできた。
岸義人、9日死去、85歳。化学者。世界で初めてフグ毒「テトロドトキシン」の人工合成に成功した。また乳ガンの抗がん剤「ハラヴェン」を開発するなどして、ノーベル賞候補と言われた。文化功労者。
三枝佐枝子(さいぐさ・さえこ)12日死去、102歳。1958年に「婦人公論」編集長となった。(女性として初の商業誌編集長。)1973年に商品科学研究所所長、1978年に西武百貨店監査役。家庭と職業を「両立」させた先駆者だった。
中山きく、12日死去、94歳。沖縄戦の元白梅学徒隊の生存者として、体験を語る活動を続けた。
大村益夫、15日死去、89歳。早稲田大学名誉教授。朝鮮近代文学の研究で知られ、多くの翻訳を行った。
石田穣一、17日死去、94歳。元東京高裁長官として、永山則夫の差し戻し審判決で死刑を宣告した。退官後に沖縄に移住し、那覇で死去。「ゆたか・はじめ」名義で鉄道趣味を生かしたエッセイも書いた。国内の鉄道全線を完乗しているという。
上田誠也、19日死去、93歳。地球物理学者でプレートテクトニクス理論を広めたことで知られる。東大名誉教授。
石井紫郎、17日死去、87歳。日本法制史研究者。中世・近世の土地制度を研究した。
西原春夫、26日死去、94歳。刑法学者、元早稲田大学総長。「間接正犯」の研究で知られた。憲法学者西原博史(18年没)の父。
カール・アレクサンダー・ミュラー、9日死去、95歳。超伝導酸化物の発見で、1987年ノーベル物理学賞を受賞した。
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