尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

神保町ぶらぶら散歩①

2013年10月31日 00時32分39秒 | 東京関東散歩
 神田神保町あたりを本屋や映画の合間にぶらぶら散歩。その写真がたまっているので、そろそろまとめたい。この地域は、世界最大の古書店街でとにかく古本屋が多い。他にも新刊書店、出版社、カレー屋、スポーツ用品店なども集中している。元は大学も集中し、「日本のカルチエラタン」などと言われ、60年代末期にはいつも催涙弾の匂いが充満していた。今も明大、専修大、日大などがあるし、駿台予備校や大原簿記学校などもある。この地域の案内サイトとしては「神保町へ行こう」があり、役に立つ。ちょうど秋の文化の日あたりに毎年神田古本まつりを行っている。今が一番神保町散歩にふさわしい季節だろう。

 さて神保町(じんぼうちょう)というのは、元は神田周辺の地名の一つで、旗本神保氏の屋敷があったからだという。関東大震災以後にだんだん東京が整備されていき、白山通りと靖国通りの交差点に「神保町交差点」の名が付いた。今は地下鉄が3線も通っているが、1972年に都営地下鉄三田線が開通するまでは、駅から遠くて行きにくい場所だった。靖国通りをX軸、白山通りをY軸とすると、交点が神保町交差点。++(御茶ノ水駅から明大)を第1象限、反時計回りに第2、第3とし、三省堂や書泉など大書店があるところを第4象限として書くことにする。

 神保町の奥、第4象限の下の方に学士会館がある。最近は「半沢直樹」のロケが行われたとかで知られるようだが、ここがどういう場所か知ってる人は少ないだろう。僕も今回調べて知ったのだが、旧帝大の同窓会的な組織で、東大、京大以下、京城、台北を含む9帝大卒業生以外には関係ない場所だった。ここに何で学士会館があるかというと、「東京大学発祥の地」という由来があるのである。1877年のことで、その後今の本郷に移転するのである。また、ここで初めて野球が伝えられたので、「日本野球発祥の地」でもある。真ん中の写真が学士会館。
  
 ところでそこで足を止めずに裏の方に回ると、「新島襄生誕の地」という碑もあった。上州安中藩の藩士の家に生まれた新島は、安中藩屋敷だったここで生まれたというのである。これは知らなかった。今年大河ドラマで取り上げられているが、神保町に生誕地の碑があることは知らない人が多いだろう。ところで学士会館の真ん前が共立講堂。共立女子大の講堂だけど、戦前戦後に忘れられないコンサートがいっぱいあった場所。今は外部貸出をしていないので知らない人も多いだろうけど、最近では2009年にアリスが再結成コンサートを特別に認められて行ったという。かぐや姫、グレープ、ガロなどの解散コンサートが行われた場所で、「フォークの聖地」と言われた。しかし、もっと前は日比谷公会堂とここしか大きな公会堂がなく、クラシックでも有名。1940年に最初のコンサートを行ったのは、古賀政男が指揮する明大マンドリンクラブだったという。今は外見を見ることだけしかできない。
  
 特にX軸に集中している古本屋街は次に回し、史跡関係を先に見ると、第1象限の明大裏の方にお茶の水小学校がある。もとの錦華小のところに統廃合されてできた学校である。この錦華小夏目漱石の母校で、「吾輩は猫である」という碑がある。また水道橋の方に歩いて、第2象限に入ると神保町愛全公園というところがあり、「周恩来ここに学ぶ」という碑がある。中華人民共和国の首相を建国から死去までずっと務めていた人物である。劉少奇、小平、林彪などが相次いで失脚していく中で、最後まで首相を務めたのである。周恩来が通ったとして有名なゆかりの店が「漢陽楼」で、ホームページに周恩来の写真が載っている。肉団子スープが好物だったという。僕は入ったことがない店だけど。(場所は駿台下近くで坂を駅から降りてきて、直進して靖国通りを渡る前にカレー屋のエチオピアなんかの手前で曲がる道がある。その道の右手。)
   
 ところでX軸たる靖国通りは、駿河台下交差点(御茶ノ水駅から明大通りを下ったところ)から南にぐっと曲がっている。歩いているとあまり感じないのだが、地図を見ると一目瞭然である。これは駿河台の元々の地形に沿ったもので、山を避けて道を作った証だという。そのことは竹内正浩地図と親しむ東京歴史散歩」(中公新書)で知った。この本はとても面白い。その本によれば、江戸時代から「すずらん通り」、つまり三省堂の裏の通りだけど、今は裏通りという感じになってるけど、こっちが元は「表神保小路」だったのだという。靖国通りの方が裏だったけど、震災後の道路拡張工事で逆転したわけ。そういう歴史を神保町も持っているわけである。
 
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鈴木清順の映画③清順映画をどう評価するか

2013年10月28日 23時49分25秒 |  〃  (日本の映画監督)
 鈴木清順監督の映画のまとめ。鈴木清順は僕にとって長いこと「伝説の監督」だった。何しろ新作は撮れないし、旧作さえ見られなかったのである。というのも、日活の1967年作品「殺しの烙印」が、当時の堀久作社長から「判らない映画を作ってもらっては困る」と言われ、製作翌年の1968年になって専属契約解除を通告されたのである。作ったものの公開されない映画はある。ヒットせずに干された監督もいる。日活にもそういう監督や作品はあるけど、いきなりクビになった監督は他に思いつかない。一時はフィルムの貸し出しも禁止したので、名画座等でも清順特集はできなかったのである。

 これに対し、鈴木清順は解雇撤回を求めて日活を提訴し、事態は民事訴訟に発展した。映画監督や評論家などは清順支援に動き始め、「鈴木清順問題共闘会議」を作った。デモも行われたのである。フランスで同年に起こった、マルロー文化相によるシネマテーク・フランセーズのラングロワ館長解任事件(及びカンヌ映画祭中止問題)と並び、激動の68年を象徴するような事件だった。しかし、今では「日活百年」記念上映にも清順作品が含まれているし、ネット上の日活百年年表に「殺しの烙印」が載っている。日活でも「なかったこと」にしたいのかもしれない。裁判は71年に和解金を払って和解した。日活自体の土台が揺らぎ、ロマンポルノ路線に転換する時代になっていた。

 鈴木清順は1977年に「悲愁物語」で復活するが、10年間劇映画が撮れなかった。もはや映画会社で次々と映画が作られる時代ではなくなっていた。1980年に、東京タワー下に特設映画館を造るという方式で上映された「ツィゴイネルワイゼン」を監督した。キネマ旬報ベストワン日本映画アカデミー賞最優秀作品賞ベルリン映画祭審査員特別賞など内外の映画賞を取った。日本映画界にまさに「倍返し」。翌1981年に「陽炎座」(かげろうざ)を発表。この2本が清順芸術の紛れもない頂点である。
(ツィゴイネルワイゼン)
 70年代後半には名画座へのフィルム貸出も解禁されていて、文芸地下や銀座並木座でずいぶん清順映画を上映していた。その時に感じたのは「独自の美学的素晴らしさ」である。清順映画は「わからない映画」ではなく、「わかりやすい映画」であり、政治的、社会的メッセージを打ち出す映画ではなく、ひたすら「独自の美学」「独自のリズム」完成に向かっていた。「けんかえれじい」を初め、「刺青一代」「関東無宿」「野獣の青春」「悪太郎」「殺しの烙印」などは、その頃見たと思う。
(陽炎座)
 当時は会社ごとにほぼ毎週多数の映画を自社傘下の映画館で公開していた。会社ごとに特色があり、その特色に沿った無数の娯楽映画が作られていた。そんな中で、独自の世界を見出していった監督は、他国にもいる。林権澤(イム・グォンテク)やトルコ(クルド系)のユルマズ・ギュネイなどは、ものすごい数の娯楽映画を経て社会的メッセージや映像美学を見出した。日本でも東映の加藤泰や大映の三隅研二などは、娯楽映画を撮りながら「独自の美学」を追求し続けた。

 しかし、加藤泰は明治侠客伝や緋牡丹博徒など、三隅研二は座頭市や眠狂四郎など会社の看板シリーズを任されている。日活は戦後に製作を再開(1954年)以降、なかなかパッとしなかったが、1956年に石原裕次郎を見出したことで爆発的人気を得た。裕次郎が「大人」になりつつあった60年代中旬には、青春スター吉永小百合が登場する。鈴木清順のフィルモグラフィを見ていて特徴的なのは、石原裕次郎、吉永小百合の主演作品が一本もないことである。

 特に50年代にはスター的な俳優がほとんど出ていない映画も多い。やがて小林旭宍戸錠松原智恵子和泉雅子など主演級を使えるようになった。それでも会社を支えるようなシリーズもの、あるいは文芸大作、社会派問題作などが一本もない。63年以後、面白い、すごいという評価をするファンが出てきたようだけど、ベストテンなどでは全く評価の対象になっていない。当時はプログラムピクチャーとして作られた映画は、全くと言っていいほど無視されていた。「けんかえれじい」は25位に入っているが、これは佐藤忠男氏一人が2位に推したために9点が入ったのである。(佐藤氏は大島渚「白昼の通り魔」が1位で、「なつかしい風来坊」「とべない沈黙」を入れるなど、非常に鋭い選定をしている。)「殺しの烙印」は白井佳夫氏が一人2点を入れて最下位の36位。他の人はどの映画にも誰も入れてない。

 ではそういう時代の清順映画を今見るとどうだろうか。当時の凡百青春映画(慎太郎原作、裕次郎主演映画を初め、似たような映画が山のように作られた)、歌謡映画に比べ圧倒的に面白いのである。特にクレーン撮影スクリーンプロセス撮影(例えば繁華街や山道などのフィルムを背景に映し、俳優はその前の自動車に乗って運転してるふりして撮るような方法)がうまい。娯楽映画をテンポよく撮る方法を心得ている感じである。演劇的な演技ではなく、撮影現場を俯瞰して臨場感あふれる映像を撮る。特に日本の娯楽映画では「大乱闘」シーンが多い。西部劇みたいな「1対1の銃撃戦」は、「用心棒」などを例外にして、多くは日本刀による「お約束」的な武闘である。日活の無国籍クラブでの乱闘も、銃があるときもあるが大体は大乱闘になる。これをクレーンでうまく撮ると実に映画的快楽を得られる。(最近の日本映画のアクションシーンがいかにつまらないかが判る。)

 そういうお約束的娯楽映画を多産し続けていると、どうなるか。ただ慣れて行って会社企画を乱作したまま映画史に埋もれた監督がたくさんいた。しかし、鈴木清順の独自性は際立っていた。映像の美学的洗練を経て、自己パロディの「メタ映画」に至ってしまうのだ。そのような人は世界的に見ても非常に珍しい。映画産業が揺らいで行った中で、プログラムピクチャーを作っていた監督が、ATGなどで自由な映画製作を試みた人は何人もいる。しかし、鈴木清順ほど大きな成功を収めた人はいなかった。娯楽映画を営々と作りながらも、清順はずっと「独自の職人」であり「独自の作家」だった。

 映画というジャンルは、娯楽的にも芸術的にも、1950年代から1960年代に世界中で頂点を迎えた。その後はテレビが出てきたことに象徴される大量消費時代を迎え、産業的には落ち込んで行く。50年代に、映画が大きな社会的、芸術的な力を持っていたのは、「第二次世界大戦後」という時代背景が大きい。それまで世界に認められていなかった日本、イタリア、ポーランドなどで巨匠が現われるのも、戦争や戦後の社会相と格闘した作品を作ったからである。そういう「巨匠の時代」には様々な「巨匠伝説」がある。黒澤明の「七人の侍」がどのように作られたとか、ロッセリーニの映画を見たイングリッド・バーグマンが感動のあまりロッセリーニに会いに行き結ばれたとか…。

 そういう「巨匠伝説の時代」を生きた日本の映画監督は、2012年に新藤兼人と若松孝二が、2013年に大島渚が亡くなりほとんどいなくなりつつある。しかし、鈴木清順こそは「20世紀の映画伝説」を体現する数少ない巨匠だと思う。「面白さ」と「ユニークさ」が常に結びついていた稀有の映画監督だと思う。(2019/10/13改稿)
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鈴木清順の映画②日活後期(「殺しの烙印」まで)

2013年10月27日 00時51分28秒 |  〃  (日本の映画監督)
 鈴木清順監督の1963年以降の日活作品。なかなか面白いながら、添え物映画を主に作らされていた鈴木清順が、「独自の美学」で注目されていく時期である。名画座などの清順特集で上映されるのも、ほぼこの時代の作品。清順の評価全体はまた別にして、後期作品の短評。
探偵事務所23 くたばれ悪党ども(1963) 
 第27作。主演宍戸錠で、大藪晴彦原作の映画化。コメディタッチのハードボイルド。探偵事務所長の宍戸が、ギャング同志の襲撃事件で困ってる警部(金子信雄)に頼まれ、悪の組織に潜入する。両者を相争わせながら、悪党組織を壊滅させていくが、宍戸の素姓が疑われ父(教会の神父)に会いに行くシーンなど面白い。悪党の愛人笹森礼子が、実は父の死後、ガソリンスタンドを奪われ隷属状態にあるのを知り接近する。ガソリンスタンドの地下に二人が閉じ込められ火をつけられる。大人数を手際よくさばく清順の演出が生きている。その間の探偵事務所やモテる宍戸の描写などがコミカルで軽快。
野獣の青春(1963)
 第28作。同じく大藪春彦作品を宍戸錠で映画化。錠の活躍が大変印象深い作品で、とても面白い。美術は横尾嘉良で非常な名手。木村威夫ではないが似た感じがする。清順の発想が背景にあるということだろう。宍戸は元警官だが、汚職容疑で解雇、服役し、出て来ると恩人の先輩警官が「情死」したという。不審に思い、悪党組織に売り込みに行き、自主的潜入を始める。相手組織にも出入りし両者を争わせるのは前作と同じだが、まあハメットや「用心棒」である。次第に真相が見えてくるが、大藪春彦のストーリイをうまく映画化している。この映画から「清順が化けた」と言われ、僕もそう思っていたけど、初期作品と後期作品の中間のような映画だと思う。宍戸錠は素晴らしいけど、独自の美学で世界を塗りつぶす映画ではまだない。矢切の渡しのロケ場面がある。
(野獣の青春)
悪太郎(1963)
 第29作。今東光原作の青春映画で、何度見ても面白い、痛快青春映画の大傑作山内賢和泉雅子主演で、今までの路線と違う青春ものだが。素晴らしい結果。ロケと木村威夫美術が生きている。但馬の豊岡の設定だが、郡上八幡や近江八幡でロケされた。町の風景が本当に素晴らしい。大正初期、神戸で中学を放校になった山内賢が、東京に出るつもりで母に連れられ城崎温泉に行き、だまされ豊岡の中学に入れられる。芦田伸介が校長で見事な存在感だ。豊岡で暴れまわり、病院の娘の和泉雅子と文学談義で友人となり恋愛関係に。大雨の中、救出に行き急速に接近し…。青春彷徨の面白さ、ケンカ、性、愛。そして切ない結末が…。古い街並みを白黒でとらえた撮影が心に残る。
(悪太郎)
関東無宿(1963)
 第30作。平林たい子原作の「地底の歌」の2度目の映画化。小林旭主演の任侠映画。殿山泰司が落ち目の組長で、子分の旭は筋目を通すヤクザになりたい。組長の娘松原智恵子は旭に憧れて、友人と刺青師を見に行ったりする。そこで友人の中原早苗がヤクザに憧れ、その後連れ出されてしまう。一方、旭は「おかるはち」と言われるいかさま師(伊藤雄之助)を賭場で見かけ、その愛人伊藤弘子との数年前の因縁も思い出す。昔と今の因縁が絡まり、ラストに旭が乗り込むと、ふすまが倒れて赤のホリゾントで画面が塗りつぶされる。これが有名な木村威夫美術で、最初に見るとあ然とする。独自の美学で作られた初の映画。人気スター小林旭を任されたことからも、会社から一定の信頼を得ていたことが判る。ただし、何回か見るとストーリイの奇妙さも見えてくる。様々のエピソードがバラバラで、美的な感覚でつながっているのである。中原早苗なんか、どこでどうしてるのかと思うと最後にまた登場する。映画の中で、昔風と今風が混在している。品川近辺に古い町並みのロケも魅力。
(関東無宿)
肉体の門(1964)
 第32作。この映画で野川由美子が登場する。その後もテレビや舞台で活躍しているが、最初の清順3部作がものすごく印象的だ。エネルギッシュで野性的、ちょっとファニーな顔立ちだが、いかにも清順好みでエッセイなんかでもたくさん語っている。田村泰次郎が戦後に発表して大評判になった原作の2回目の映画化。カラーで戦後の闇市を再現し、大規模な廃墟のセットで、戦後の世相を描いている。野川は米兵にレイプされた後、私娼仲間に入り、自分の力で生きている。ボルネオで死んだ兄を忘れられず「ボルネオ・マヤ」と言われる。彼女をめぐる女たちと同じ壕にいた宍戸錠の元兵士との関わりを描く。大規模なセットが興味深いが、映画のまとまりから言うとあまり成功していないように思う。
俺たちの血が許さない(1964)
 第33作。裕次郎作品のリメイクで、小林旭、高橋英樹兄弟の物語。父がヤクザで、兄弟が小さい時に殺された。母はヤクザにならないように育てたが、兄の旭は東大を出たものの、父が原因で中央官僚になれず、今はヤクザ組織で働きキャバレーの店長をしている。弟の英樹は広告会社で働きながら、ヤクザに憧れている。旭は秘書の松原智恵子と愛し合っているが、実は彼女はボスの小沢栄太郎が付けたスパイである。智恵子が殺され、ボスに反旗を翻す。英樹は同僚の長谷百合と結婚したいが、兄を救いにボスとの闘いの場に赴く。松原智恵子の切なさ、英樹と長谷百合の能天気さが面白い。他の有名作に隠れて、知名度が高くないが、木村美術や登場人物の描き分けなど非常にうまく、再評価が必要。
春婦伝(1964)
 第34作。田村泰次郎原作の戦争映画で、野川由美子が「慰安婦」役を熱演する。日本映画史上他に類例のない愛の映画。天津で娼婦をしていたが、男に裏切られ「慰安婦」になった野川由美子を、玉川伊佐夫の中尉(副官)が気に入る。強圧的な副官を嫌い、彼の下にいる川地民夫(三上)を愛し始める野川。「捕虜になってはいけない」が身体化している川地と、軍を脱走しても愛に生きたい野川。軍内の差別、私刑、書類上だけの報告、三光作戦(儘滅掃討作戦)、八路軍への投降の実態、朝鮮人慰安婦と日本人慰安婦の差別など、軍内の様々の事情が描かれる。山西省あたりかと思うが最前線の状況を描き出している。別に新しいことを言ってるわけではなく、当時の軍隊経験者には常識のことだが、戦争を知らずにいろいろ発言している人は一度この映画を見ておく方がいい。戦争映画として戦後有数の問題作。野川由美子の「愛」が狂熱的すぎて、困るかもしれないが。

☆「悪太郎伝 悪い星の下でも」「刺青一代」「河内カルメン」と今回未上映だが、特に後2作は大傑作。「刺青一代」は清順任侠映画の最高傑作で、「河内カルメン」は野川由美子が現代劇をはつらつと演じる。38作目の「東京流れ者」は別に詳しく書いた。
けんかえれじい(1966)
 第39作。「とにかくひたすら面白い」という意味では日本映画史上有数の作品。ものすごく面白いけど、では筋を書けと言われると書けない。なんだかケンカしてるだけみたいな映画。前半は岡山、後半は会津。岡山では学校で硬派を通すオスムス団とケンカして仲間入りするが、軍事教練の軍人に逆らい退学に至る。喜多方中学で拾われ、会津若松の中学と学校間抗争を起こす。そして二・二六事件が起こり、北一輝に憧れ上京していく。その間、浅野順子に憧れ続ける。青春期の憧れと無謀が画面いっぱいに暴れまわる。「悪太郎」と似ているが、それより「硬派的」で、ケンカ一筋みたい。最後の北一輝の使い方を含め、何か思想的、社会的意味を求めるのあまり意味がないだろう。
(けんかえれじい)
殺しの烙印(1967) 
 第40作。この映画は訳が分からないと言われて、清順が解雇された伝説的作品だが、今は世界中でカルト的人気を得ている。でも、確かに「判らない」のも間違いない。殺し屋ランキングをめぐる、宍戸錠と他の殺し屋との死闘。「拳銃(コルト)は俺のパスポート」と並び、宍戸錠の日活アクションの最高峰だと思う。飯を炊く匂いが大好きという設定がおかしい。脚本は具流八郎名義で、これは大和屋竺、田中陽造、曽根中生らの共同ペンネームである。清順作品では一番、「作家性」というか、アクション映画という世界を描くメタ映画という側面が強い。伝説の殺し屋ランキングナンバー1は誰なのか。誰が誰だか判らない中、狙われる主人公。面白いけど、それは映画マニア向けの面白さだというのも間違いない。「けんかえれじい」の面白さとは一風違う。(2019/10/13改稿)
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鈴木清順の映画①日活前期(「峠を渡る若い風」まで)

2013年10月24日 23時09分51秒 |  〃  (日本の映画監督)
 鈴木清順(1923~2017)の映画を20本見続けたので、忘れないうちに感想をまとめておきたい。鈴木清順は最初松竹に入社したが、1954年に日活に移籍した。戦時中に製作部門を切り離された日活が製作を再開して、人材を求めていた時期である。1956年に監督に昇進したが、その時は鈴木清太郎(本名)を名乗っていた。(元NHKアナウンサーの鈴木健二の実兄。)その後、1967年にかの有名な「鈴木清順解雇事件」が起きるまで、日活で40本の映画を監督した。

 そのほとんどはアクション映画で、日活のプログラム・ピクチャーを支えた。鈴木清順という映画監督は、日本映画史の中でも特別な位置を占めている。第1回は初期作品の10本。(なお、今気付いたけど、僕は鈴木清順と誕生日が同じだった。もちろん生年は30年以上違うけど。)

港の乾杯 勝利をわが手に(1956) 清太郎名義
 監督デビュー作。横浜を舞台に、競馬の騎手が八百長に引き込まれる話。元船員の兄と騎手の弟、女をめぐる争いなど日活的主題を、港やクラブといった定番シーンで手堅く撮る。第1作から「日活フィルムノワール」ムードがある。脚本に浦山桐郎、助監督に蔵原惟惟が入ってるが、主演兄弟は三島耕、牧真介ともう知らない俳優である。助演に菅井一郎、河津清三郎、芦田伸介などがいるが。
悪魔の街(1956) 清太郎名義
 監督第3作。首領が脱獄し逃亡するために配下の男たちを動かしていく犯罪アクション。首領が菅井一郎で、配下のトップが河津清三郎と、古い映画ファンには渋い魅力だが、興行的にはこれでいいのかというキャスト。最後に逃げ込むのが、石油精製工場みたいで、セットで作るには巨大すぎるのでロケしたと思うが、そんなロケが認められたのか。工場を舞台に光と影を描く描写は、一応面白い。
浮草の宿(1957) 清太郎名義
 第4作。何だか小津みたいな題名だが、春日八郎のヒット曲。キャストの筆頭も春日八郎。でも真の主演は二谷英明で、添え物映画ながら初の主演。横浜で殺人の汚名を着せられた二谷が、海に落とされながら船に拾われ船員となって帰ってくる。港近くの「Harbor light」なるクラブにいた恋人を探すが、似た女は妹で姉は行方不明だった…。という、「港や怪しげなクラブで真犯人と運命の女を捜す」という、いかにも日活的なアクション。ロケとセット内のクレーン撮影の切り替えがなかなか魅力的で、監督の力量をうかがわせる。港町のロケが魅力的。ヒロインが山岡久乃(二役)で、春日八郎が「港の流し」だけど、実は警官だったというご都合主義丸出しの映画。
8時間の恐怖(1957) 清太郎名義
 初期作品の傑作。列車が止まって代替バスで峠を越そうとする様々な人々。そこに銀行ギャングが紛れ込み…。「銀嶺の果て」みたいな設定で、よくあるサスペンスものの定番だけど、テンポよく進み、様々な出来事が起きる。金子信雄がトップのキャストというのはいかにも添え物企画だが、演出のテンポで見せる。清順映画の人物さばきのうまさ、クレーン撮影の見事さはこうした映画で作られていったのだろう。絶壁を走るバスという話だから、スクリーン・プロセスの撮影が多いのもいつも以上。
(8時間の恐怖)
暗黒街の美女(1958) この映画から清順名義
 第7作。3年前の事件で隠したダイヤの争奪戦。安部徹が事件で足をなくして、屋台のおでん屋をやってる。ダイヤ争奪の中でダイヤを飲み込み、ビルから落ちて死ぬ。その妹が白木マリで、奔放に画面を動き回り主役級の活躍。これがなかなかいい。飲み込んだダイヤは、病院の死体の中にあるわけだが…。白木はモデルで、恋人がマネキン会社で塑像を作っている。その様子も面白いが、死体からダイヤを取り出した恋人がマネキンに隠すという設定につながる。
暗黒の旅券(1959)
 第12作。筑波久子白木マリに加え、主演の葉山良二の妻役で沢たまきが出てる。後に公明党から参議院議員になった。「ゲイボーイ」を出演させるなど、興味深い。クラブのミュージシャン葉山は歌手の沢と結婚するが、新婚旅行へ行く列車から妻がいなくなり、殺される。葉山は最初は犯人視されながら、真相を突き止めようと駆け回る。そこへ怪しげな人々が続々と…。
素っ裸の年令(1959)
 第13作。赤木圭一郎の長編デビュー。10代の「犯罪集団」を描くが、赤木が「ハイティーン」として中学生くらいの子どもを束ねている。カマボコ兵舎に犯罪集団の城を作るが、新聞は低年齢化する犯罪と書き立てる。これは赤木主演作品という歴史的意義はあるが、あまり面白くない。
けものの眠り(1960)
 第15作。菊村到原作のミステリーの映画化で、香港から帰国した商社員・芦田伸介の様子がおかしい。娘の吉行和子と甥の長門裕之(新聞記者)が真相を探して訪ね回る。どうも密輸にかかわる会社と関係があるらしく、追っていくと新興宗教の関わりも見えてくる。何人かの死者も出ているが、それにも関わりが…と真相に向かって追っていくドキュメントタッチが珍しい。ロケも興味深い。宗教法人を扱うのも面白いが、それは多分原作にあるんだろう。
すべてが狂ってる(1960)
 第17作。清順に珍しく、ヌーベルヴァーグ風のタッチで、60年の「青春の反抗」を描く。新宿や逗子のロケが今見ると貴重で面白い。川地民夫が親に反抗する若者を演じるが、背景には戦後を生きた男女がいる。母親の奈良岡朋子が夫が戦死した後で、戦後は芦田伸介の愛人になった。芦田が川地の学資も出してきた。それが頭にくるのである。奈良岡、芦田と名優が演じて、この問題は説得力が増している。当時の風俗も面白いが、結局車を盗んで暴走し、事故を起こす。川地民夫という役者は清順映画にたくさん出たが、ラストまで生きていた映画はあるだろうか。
(すべてが狂ってる)
峠を渡る若い風(1961)
 第22作。カラー映画なのは、当時は主演スター扱いだった和田浩治作品だからか。旅する大学生和田が、旅回りの奇術団と旅する不思議な設定。奇術団がだんだん売れなくなり、興行主から迫られて団長は水中縄抜けの大技に挑戦する。しかし、練習中に水死してしまうという、どうなるんだという筋でビックリ。そこに、今までは東京に出たいと言っていた娘の清水まゆみが、頑張ってやり抜こうと説得し、皆で新演目を考え盛り返す。その主筋の合間に、犯罪映画らしいエピソードが散りばめられているが、基本は明朗青春映画。なかなか面白い。

 この後、1963年から清順作品がブレイクする時代に入る。初期作品は2011年のシネマヴェーラ渋谷の清順特集では、他に「踏みはずした春」「影なき声」「らぶれたあ」「密航0ライン」「くたばれ愚連隊」「海峡、血に染めて」「百万弗を叩き出せ」という7作を上映している。「海峡、…」は対馬を舞台に日韓関係を背景に海上保安官の活躍を描くという作品である。第2作の「海の純情」は昨年フィルムセンターで上映された。清順初期作品はほとんど上映される機会がないが、まあごく普通の娯楽映画、それも重要作ではなく添え物ばかりということなので、やむを得ない。確かに映画史的にものすごく重要な作品があるわけではないが、どれもかなり面白い。人物の描き方、撮り方がうまいのである。そこが日活後期の「大爆発」につながるのだろう。初期では、「8時間の恐怖」が一番面白く、「すべてが狂ってる」「峠を渡る若い風」が次ぐと思った。(2019/10/13改稿)
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映画「ムード・インディゴ」

2013年10月23日 21時34分46秒 |  〃  (新作外国映画)
 「ムード・インディゴ うたかたの日々」という映画の感想。ミシェル・ゴンドリー監督作品。インターナショナル・ヴァージョン。シネマライズ渋谷で21日に見た。これはボリス・ヴィアンの「うたかたの日々」(日々の泡)の3回目の映画化で、えっ、それは是非見なくっちゃ、見たい、見たいと思う人には、ほぼ満足できる出来ではないかと思う。ボリス・ヴィアン??誰、それ?っていう人は、まあ見なくてもいいと思うけど、「タイピスト」のロマン・デュリス、「アメリ」のオドレイ・トゥトゥ主演で、「最強のふたり」の黒人介護士役、オマール・シーが助演という魅力的なキャストで見たい人も満足できるとは思う。でも、基本的には「原作を愛する人々が作った、原作を愛する人々に向けた映画」なのかな。
 
 ボリス・ヴィアン(1920~1959)は、戦後フランスの伝説的な作家で、単なる「作家」というより、詩人、劇作家、作詞家、翻訳家に加え、作曲家、ジャズ・トランぺッター、歌手、そしてエンジニアでもあった人物である。アメリカの大衆文化を愛し、ジャズやハードボイルド・ミステリーに憑りつかれ、自らも心臓が悪いのにトランペットを吹いて寿命を縮めた。ヴァーノン・サリヴァン名義で、黒人を主人公にした犯罪小説「墓場に唾をかけろ」を書き、自分が翻訳したと称して出版した。俗悪な暴力小説と批判されるが、ある殺人事件の現場に残され、スキャンダラスなベストセラーになる。そして映画化され、その試写会の場でヴィアンは死んだ。まだ39歳だった。

 ヴィアンが残した、言葉遊びやブラックユーモアがいっぱい詰まった幻想的で超現実的な幾つかの小説は、存命中はほとんど認められなかった。しかし、死後にだんだん認められていき、中でも「うたかたの日々」は、おかしくも切ない青春小説の古典と認められている。レーモン・クノー(作家で「地下鉄のザジ」等の作者)は「20世紀でもっとも悲痛な恋愛小説」と評している。日本では曽根元吉訳で、1970年に「日々の泡」として出版された。(今は新潮文庫。)その後、早川書房からボリス・ヴィアン全集が出され、その中に伊東守男訳で「うたかたの日々」として出され(今はハヤカワepi文庫)、また2011年には野崎歓訳で光文社古典新訳文庫から「うたかたの日々」が出されている。つまり現在、違う翻訳で文庫本が3冊も出ているわけで、だからこの物語を愛する人はかなりいるのだろう。僕は全部読んでいるが、最初に曽根訳の単行本を読んだので、なんだか「日々の泡」という直訳題名に愛着がある。

 今までに2回映画化されていて、最初は1968年のフランス映画で、シャルル・ベルモン監督(ジャック・ぺラン主演)。日本では1995年に「うたかたの日々」の題名で公開された。その後、2001年に日本の利重剛監督が、永瀬正敏、ともさかりえで「クロエ」の名で映画化している。どちらも見たけど、コランとクロエの主人公カップルを中心に描いていたように記憶する。もちろんそれでいいのだけど、原作はむしろ細部に様々な「遊び」があり、そこが楽しい。今回は素晴らしい映像技術で、「遊び」的な設定をいっぱい再現した。冒頭の「カクテル・ピアノ」を見るだけで、原作を好きな人には嬉しくてたまらないはず。「カクテル・ピアノ」って、なるほどこういうものなんだなあ。二人が乗る「雲」や魅力的な料理の数々、映画の前半は素晴らしく楽しい。

 映画はほぼ原作と同じで、主人公コランが結婚したクロエは不可思議な病にとりつかれ、だんだん衰弱する。と画面もまた「衰弱」して色彩を失っていく。悲痛で寒々しいトーンとなる。原作にある「ジャン・ソール・パルトル」(むろん、ジャン・ポール・サルトルのもじり)のコレクションに人生を賭けてしまった友人と、その恋人によるパルトル殺人事件も悲しくもおかしく映像化されている。この転調が切なくて悲しいけど、映像では難しい部分だと思う。国外では二人の恋愛のゆくえを中心にした「インターナショナル版」が公開され、もっと原作に忠実な「ディレクターズ・カット」はフランスだけで上映されるという。(日本では2回だけ、監督版も上映。)時間的に40分近く違っている。監督版を見ると、また印象が違うかもしれない。

 今回主演したふたりは、なるほどと思わせる顔ぶれだけど、ニコラ役を黒人にしてしまったのは驚いた。しかし、現時点の映画化としては悪くないのではないか。問題はオマール・シーがどうしても「最強のふたり」を思い起こさせることだけど、役柄の解釈としてはありかもしれない。「ムード・インディゴ」というのは、デューク・エリントンのジャズの名曲だそうで、失恋したあとの「藍色のこころ」というような意味だと思う。アメリカで「エターナル・サンシャイン」などを作ったミシェル・ゴンドリー監督だが、元々はフランス人で前から大の愛読書だったというから、念願の映画化ということらしい。とても楽しく、原作を愛する人にも満足できる出来だと思うけど、では原作を知らない人はどう思うかは、僕には判らない。これをきっかけに原作を読んで欲しいなあと思う。ボリス・ヴィアンの「詩と真実」は一度読んだら忘れられないと思う。
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中津留章仁「裏小路」

2013年10月22日 23時52分08秒 | 演劇
 トム・プロジェクトプロデュース、中津留章仁作・演出の「裏小路」という劇を21日に見た。新宿・紀伊国屋ホール。もう公演は終わっているのだが、中身が教育問題なので感想と疑問を書いておきたい。舞台は最初から最後まで非常に緊張したムードに包まれている。それもそのはず、「とある名門高校の名門バレーボール部で起きた事件…真相を探る女と顧問の教師。体罰と虐めと人間の尊厳の物語…。」というのである。これは見たくなるではないか。
 
 顧問教師宝田には大迫力の吉田栄作、「真相を探る女」は、自殺生徒の親に依頼された女性弁護士安藤で、秋野暢子が吃音場面もある難役を熱演。校長に下條アトム、同僚教師役に吹上タツヒロ、大迫という生徒役に新人辻井彰太(難役を鮮烈に演じている)と、俳優は5人だけで、2時間ほどの芝居である。

 舞台上には職員室と校長室がある。一人の教師がパソコンを見てると、校長と弁護士が入ってくる。弁護士は「親の意向」を、バレー部顧問の宝田に伝えにきたのである。バレー部では「ある事件」が起きたらしい。セリフにしか出てこないが、バレー部員が自殺した事件。レギュラー争いに敗れた生徒が、男子2人に頼んで女子生徒をトイレに呼び出し、レイプまがいの行為をして、画像に撮影したものという。その画像はネットに投稿され、その生徒は自殺してしまう。関係した3人の生徒はすでに「退学処分」になったという。そういう事件が直近にあったのである。「親の意向」とは、一つは「バレー部の体質」が事件の背景にあるので指導を見直して欲しいという点。もう一つは、ネット上で「真の主犯」説もある芹山(?)が処分されなかったのは何故かという問題である。ネットでは、親が有力者だからではないかという話もあるらしい。7時になるというのに、宝田と安藤の間で、学校への不当な介入だ、芹山も調べて問題なしと応酬が続く。

 その後、宝田に話があると残っていた生徒の大迫が入ってくる。大迫は「自殺事件の主犯は芹山さん」と告発する。成績もいいし、ルックスもいい(モデルもしてるらしい)、生徒会もやってる、先生だって可愛いと思ってるはず、大体の男子は皆芹山が好き、だけど実は芹山には表裏があるのだという。実際、自分はひどいことを言われてる、ちゃんと調べ直して欲しいと訴える。話が終わった後で、大迫は先生の写真を撮っていいですかと頼み、いいというと目をつぶって欲しいと頼む。宝田が目をつぶると、大迫は先生の顔に近づき唇にキスをする。驚いた宝田は「気持ち悪いことをするな」と叫んで大迫を突き飛ばす。椅子が倒れ、大迫は腕を怪我したらしい。観客は何があったかを知っているが、校長も弁護士も見ていない。宝田は大迫は同性愛なのかもしれない、ケガは不可抗力だったというが、しばらくすると、ネット上に暴力教師にけがさせられたと載せられる。

 ということで、話は複雑化していく。実は宝田と安藤は同級生で、安藤弁護士は昔いじめられていた。学校で吃音があったためである。一方、宝田も大学3年でけがでバレーを引退した後、いじめられたという。いじめの本質は何だろうか。教育の本質とは。一方、週刊誌は宝田を暴力教師と書き立て、教育委員会は「減給1か月の上、懲戒免職」という「不可思議な処分」を下す。自殺生徒の親は芹山問題をマスコミにリークし、その週刊誌のゲラを安藤が大迫に見せてしまし、大迫はクラスでばらしてしまう。大迫がネット書き込みの主と判明し…、そんな中で、校長は教育の本質は今や「問題を起こさないこと」と言い放つ。宝田は日本人に「思想」がないという。最後に「何で教師はいじめに気づけないんだろう」と宝田が大迫に問うと、大迫は「それは先生は人を見てるからではないですか」という。「いじめる生徒」「いじめられる生徒」ではなく、生徒は「空気を見ている」のだという。

 いじめをめぐる議論が教育や社会全般に広がって行き、「芹山」という生徒をめぐるイメージも二転三転する。非常に面白い劇だし、考えさせられる問題が多い。特に大迫という生徒(を演じる俳優)の「セリフ以外のボディ・ランゲージの演技」が素晴らしい。劇中の教師は、大迫が「いじめられていない」「同性愛ではない」というと、それを信じて済ませてしまうが、観客は見ていて本質がすぐに判る。もう全身で、この事件の本質を大迫がかなり早い段階から示していると思う。「周りの大人が気づけない」だけなのだ。

 さて、この劇にある学校像に対する疑問をいくつか書いておきたい。まず、セリフに「父兄」という言葉がある。今でも古い教員には「父兄」という言葉を使う人もいるかとは思うが、いまどき「父兄の要求」なんて言葉を使う教員がそれほど多いとは思えない。だから「批評的に使ってる」のかと思ったら、安藤弁護士まで使ってたので、これは作者の用法なのかと疑問に思った。とにかく、学校の扱うドラマの中に「父兄」という言葉が出てきたら、それだけで信用性が危なくなる言葉だと思う。

 また、この学校は公立か私立か。電話で「何とか学園」という(「何とか」は聞き取れなかった)。バレー部が名門で、理事長の芹山は元野球部で雨天練習場を寄付したんだという。これだけ聞いたら、この高校は私立かと思うだろう。僕は私立高校だと思い込んで見ていたら、宝田が教育委員会から懲戒免職になるんだから、なんと公立高校だったのである。まあ、公立でも「○○学園高校」というのはないこともない。でも、理事長がいる公立があるか。有力者が練習場を寄付する公立があるか。(まあ、地方では同窓会の理事長が権力者という公立高校もあるのかっもしれないが。)「減給一か月、懲戒免職」という処分も実に不可思議。

 最後のシーンでは、安藤弁護士が宝田に「いじめ調査員の求人があるけど、一緒にやらないか」と声をかける。これも不思議。それまで宝田も安藤も「いじめに立ち向かう」ことを生徒に求めていた。マスコミに一方的に暴力教師と決めつけられ、教育行政から「懲戒免職」とされた宝田。宝田本人と安藤弁護士は何故ここで闘わないのか??百%確実に、「処分取り消し訴訟」は勝利するはずである。なぜなら、その傷害事件は実は「セクシャル・ハラスメントによる不可抗力」だからである。(これが「男性教師が女子生徒に目をつぶらせ、キスしたところ、生徒が教師を突き飛ばし、教師が椅子にぶつかりケガした」という事件があったとして、女子生徒が対教師暴力で退学になって終わったら、それが不当だというのは誰でも判るだろう。)また、週刊誌に対する損害賠償訴訟を起こせば、懲罰的な多額の賠償が認められる可能性がある。安藤弁護士の仕事は、そのような闘いを提起することではないのか。(というか、どんなマスコミでも、ネットの書き込みと一部生徒の訴えだけで、「暴力教師キャンペーン」はしないのではないか。紋切型の「世間の悪」の象徴として「マスコミ」を描き出しているけれど。)

 それ以上に大きな問題は、安藤弁護士も大迫も、「芹山がなぜ無罪放免なのか」という問題を訴えていることである。安藤弁護士は、芹山に事情を聴いたのは、担任で部活顧問(演劇部)の鷲尾なので、それでちゃんと判るのか問う。まことにもっともなことである。だから、そんなことをしてる学校は全国どこにもないだろう。担任は本人を呼んで来たり、家庭連絡はするけれど、事情聴取自体は生活指導部の教員が複数で担当するに決まってる。また弁護士に対して事情を説明するときは、教頭(副校長)か生活指導主任が行うはずである。舞台は狭いので、あまり多くの教員を出せないだろうが、生活指導主任が一人いるだけで、ぐっと説得力が増すはずだ。これは多くのドラマや小説に共通の疑問。

 そして、セリフで説明される限り、芹山は事件には関わっていないが、事件を起こした生徒に相談されて「冗談でこんなことしたらいいんじゃない」などと言ったりしたらしい。「まさか本気に取って、本当に事件を起こすとは思わなかった」んだと。さて、この説明をどう思うだろうか。これで「無罪放免」になる学校があるとは僕には思えないのだが。「喫煙同席」だって「謹慎」になる学校がほとんどだろう。これだけの事件に発展する問題を「冗談」で口にして、それで何もないのか。この芹山は事件を防げる立場にいたのは明らかで、「刑事責任」はないかもしれないが、「教育的見地」からは「特別指導」が必要なのではないか。最低「自宅謹慎2週間」くらいの期間があってしかるべきではないか。この劇は芹山に何の処分もなかったというところから始まるが、実際の学校ではなんらかの「指導」があるはずだというのが、僕のこの劇に対する最大の疑問である。

 この劇を見て、改めて学校でのセクシャル・マイノリティ研修の必要性を強く感じた。また教師が演劇を見る必要性についても。言語だけでなく、非言語的コミュニケーションの理解能力を高めるトレーニングの必要性。前者は「『反いじめ文化』を育てる②」に、後者は「『演劇』を見よー『ライブ』の重要性」に書いているので、参照を。中津留章仁の劇を見るのは、3回目。前に見たのもブログに書いてるけど、演出はいいけど、戯曲の展開は疑問を感じることが多い。次は寺山修司がシナリオを書いた映画「無頼漢」の脚本で、豊島区テラヤマプロジェクトの2弾。流山児祥演出。六本木高校の卒業生も関わっている。(なお、篠田正浩監督「無頼漢」もブログに書いてる。)
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「東京流れ者」と松原智恵子トークショー

2013年10月21日 00時41分26秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターの鈴木清順監督特集で、「東京流れ者」上映に合わせ、10月19日夜に松原智恵子さんのトークショーがあった。この日は1時頃に行って3本続けて見たのだが、その時点で「東京流れ者」の整理券は67番。100人ほどの小劇場なので、3時過ぎには満員になったという。もう前の方しか席がないかと思って入ったら、逆に前の方から埋まっていた。来てる人のお目当ては松原智恵子に近い席ということなんだろう。なお、サプライズとして、車いすで鈴木清順監督自身が見えて、少しだけど語った。前にも聞いたことはあるけど、90歳卒寿記念の上映会だけに感慨も大きい。メモは取ってないからかなり忘れているけど、その時のトークから。
(松原智恵子)
 助監督だった葛生雅美、岡田裕氏と共に松原智恵子さん(1945~)が現われると、場内は満場の拍手。女優さんのトークを最近よく聞くけど、皆さんお元気で美しい。そして日活青春映画のスターの話はいつも楽しい。男優も女優も皆仲良くやってたらしい。もっとも映画全盛時代で本業が忙しく、時間に追われてもいたんだろうけど。まず昔からの疑問だとして、映画の歌の吹き替えが自分の声と似てないのは何故だろうという。映画では主人公渡哲也の「運命の女」役の歌手だけど、歌は吹き替えだった。

 清順映画は4本出てるけど、まだ駆け出しの頃で言われた通りやってただけなんだという。でも清順映画の不思議なセットの色彩感覚などは印象的だったようで、木村威夫の美術の影響力が大きかった。松原智恵子本人は運転が大好きで、自動車を自分で運転して毎日撮影所に来ていたという。場所が神保町だったので、明大夜学部に通っていた当時の思い出を場内から質問された。それがなんと、休講になった時にクラス仲間にパチンコに連れて行かれたことだという。場所はどこだか判らないけど、という。大学にも、特別に認められて車で通っていたんだという話。撮影所システムが機能していた時代のスターの挿話はいつも面白い。

 さて、映画「東京流れ者」(1966年4月10日公開)だけど、これは「けんかえれじい」「殺しの烙印」とあと2作を残すだけとなった、鈴木清順40本の日活作品のラスト3本目である。日活が営々と作り続けた「日活アクション」の傑作であり集大成でもあるが、同時に日活アクションの自己パロディで、かなり「作家性」が入っている。しかし、「殺しの烙印」が完全に「作家の映画」で確かに「難解」とも言えるのに対し、「東京流れ者」はひたすら楽しい映画になっている。そこの危ういバランスが、見るたびに面白くなっていく。最初に清順映画を見るときには、「刺青一代」や「けんかえれじい」などのストレートに物語が進む映画の方が印象的だった。でも、清順作品や他の日活アクションをたくさん見てくると、「東京流れ者」のパロディとしての完成度が面白くなっていく。
(「東京流れ者」)
 この映画のパロディ性は、主人公がまだ本格的スターとなる前の「渡哲也」初期作品であることに由来すると思う。路線が確立する前だから、アクションスターとして日活アクションの様々な設定を詰め込むという筋書きが意味を持ってくる。木村威夫の美術による、あまりにも様式的なセットも素晴らしく、そこで繰り広げられる物語も「お約束」通りに進行する。だから、やり過ぎ的な進行やセリフやアクションに場内では爆笑、苦笑が絶えない。

 この映画の中には、日活アクションに見られる趣向がほとんで総ざらいで出てくる。主人公をめぐる裏切りと復讐、「運命の女(ファム・ファタール)」との出会いと訣別、「自己の信念」をめぐって悩み続ける主人公、超絶的なアクション、無国籍的なクラブでの愛や乱闘、港町をさすらう主人公、異常なまでの執念で付け狙う仇敵、「一匹狼」との友情、異様に様式化された洋風建築のセット、日本的な家屋でのアクションの様式美、主人公を象徴する歌の反復(敵が近くにいるのに「東京流れ者」を口ずさむので、思わず場内が爆笑する)などなど。

 アクションでも、銃撃戦、日本刀による殴り込み、素手の殴り合い、大乱闘や一対一の決闘、なんでもありである。これだけあると、じっくり撮るとものすごい長尺になるのではと思うが、そこは編集で省略に次ぐ省略をしてるので、まるでゴダールの「勝手にしやがれ」みたいな、「筋が突然飛んでしまうことによるリズム」が生じている。それを突き詰めると、「独自の美学」になっていくが、この映画では商業映画の娯楽性をも備えているので、スター映画として見られる。

 筋を書けば、ヤクザをやめて堅気で行くことを決意した倉田組の親分(北竜二)と子分の哲(渡哲也)をめぐる話である。会長の意思にあくまでも従うのが子分の筋と、きっぱり足を洗う「不死鳥の哲」だが、対立する大塚組はそれを信じていない。今日も大塚組にチョッカイを出されるが、全く手出しをせずにいる。哲さえいなければ倉田組はちょろいと、倉田ビル乗っ取りを大塚組は画策する。いろいろやり取りがあるが、金貸しの吉井をめぐる殺人事件に発展し、倉田の罪を哲が被り、東京を去ることになる。あくまでも親分を立てる哲を倉田は可愛がり、庄内に行かせる。(雪のシーンが美しい。)そこでも大塚組の関わるトラブルがあり、乱闘に巻き込まれるが、「流れ星の健」(二谷英明)に助けられる。しかし、かつて大塚組にいながら一匹狼になった健を、哲は信用できない。健は「親分を信じすぎてはいけない」と忠告するが、哲は「義理を欠いたやつとは一緒にやれない」と再びさすらいの旅に出る。

 あちこちさすらった後で佐世保に着くが、ここで今までつきまとっていた「マムシの辰」(川地民夫)がクラブに乗り込み、銃撃戦で死亡する。その後、親分は大塚組から哲さえいなければ一緒に組めると言われて、哲を捨てて大塚組と一緒にやること決意し、佐世保の同輩、梅谷に電話し哲を消して欲しいと頼む。こうして親分に切り捨てられたことをようやく悟った哲は単身東京に舞い戻ってくるのだった…。という筋書きで、親分の裏切りだって、「意外な展開」でも何でもない。映画内で健から「親分を信じすぎるな」と繰り返し繰り返し忠告されるので、そこまで言われたら親分が裏切るしかないだろうと見てる人が誰でも判る展開になっている。最後の銃撃のアクションも現実離れしていて、虚構のパロディ性を満喫できる。(まあ、銃撃戦自体が日本ではハリウッド映画の摸倣でしか存在しえないけど。)

 このような様式性、パロディ性の高い作品だけど、奇怪なセットや美しい撮影、松原智恵子との恋愛など、チープな感じはしない。伝説的なカルト映画という枠組みで大傑作になっている。この時期の松原智恵子は本当に美しい。「運命の女」というには健全すぎるかもしれないけど。また親分を北竜二がやっているのも新鮮。見るからに裏切ってもおかしくない二本柳寛や金子信雄では感じが出ない。北竜二は小津映画で佐分利信や中村伸郎なんかとバーで飲んでる常連だった人で、フリーになってあちこちに出た。「秋日和」で妻が死んで男やもめになっていて、未亡人の原節子と結婚できるかもと喜んでいた役柄が印象的だ。善人っぽい役柄が多いからこの映画が成立していると思う。
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「イーハトーボの劇列車」

2013年10月19日 01時01分18秒 | 演劇
 なんと奥深く心揺さぶられる舞台だろうか、と今回も思ったけど、特にそう思ったのは初演の時なのである。生涯に見た演劇の中でも、一番心を打たれたと言ってもいい。それが井上ひさし「イーハトーボの劇列車」で、1980年の初演以来の観劇。こまつ座101回公演で、紀伊國屋サザンシアターにて、11月17日まで上演。
 
 初演は1980年10月3日から23日まで、三越・五月舎提携公演として呉服橋三越劇場で行われた。(紀伊國屋ホールかと思い込んでいた。)演出は木村光一。主要な配役を見ると、賢治に矢崎滋、父に佐藤慶、母に中村たつ、妹に白都真理ら。今回は鵜山仁演出で、賢治が井上芳雄、父に辻萬長、母に木野花、妹に大和田美帆。こうして見ると、今回の井上芳雄などとても頑張っていて忘れがたいが、初演時の矢崎滋の賢治と佐藤慶の父という配役も実に素晴らしかった。

 今の初演データは、新潮社刊の単行本にあったものだが、自分自身は1980年10月9日に見た。何でわかるかというと、ノートに付けていたのである。ちなみにこの日は、飯田橋の佳作座で黒澤明の「影武者」を見てから行ったらしい。いやあ、同じ日なのか。演劇では10月3日に、文学座アトリエで「赤色エレジー」(別役実)を見てる。5月9日に「上海バンスキング」、11月には黒テントや韓国演劇「草墳」(文芸坐の地下にあったル・ピリエで見てる)、知り合いがいた人形劇の結城座などなど。映画では翌日の10月10日(体育の日)に文芸地下で「遙かなる山の呼び声」(山田洋次)と岩波ホールの「大理石の男」(ワイダ)を2本見たことになっている。お金も体力もどうなっているんだろうと思うが、それにしてもすごいものを見続けでビックリ。文芸坐やフィルムセンターによく行っている。音楽は少ないが、池袋にあったパモス青芸館で2月に嘉手苅林昌や大工哲弘などを聞き、11月11日にオーレル・ニコレのフルートに行ったり。絵や集会の記録もあるんだけど、もう書かない。我ながらいろいろ行ってるのに驚くが、記録してる情熱にもビックリ。この年は夏に韓国ハンセン病定着村のワークキャンプに参加した年でもあった。

 この劇には「思い残しキップ」なるものが登場する。初めはなんだか判らない。最後に説明はされるけど、それでもよく判らない。判らないけど、何を言いたいのかは伝わる。突然命を奪われることになる人が、最後の最後に「思い残しキップ」なるものを残し、それが生きている人に渡されていく…という趣向に込められた深い思いはよく伝わる。この「思い残しキップ」は、一度見たら忘れることができないと思う。僕は「3・11」の後で、この劇を思い出し、本を見つけ出してきて再読した。このブログのどこかでも、再演を望むと書いているんじゃないかと思う。東北出身の井上ひさしが、岩手に生まれた宮沢賢治に託して書いた劇に出てくる「思い残しキップ」。大津波と原発事故のさなかに、井上ひさしの「思い残しキップ」を思い出すのは当然だし、それは私たち今を生きている人々に渡されたキップだと思っている。

 
 この劇は宮沢賢治の生涯を基にした評伝劇だけど、賢治が何回か上京する時の上野駅に向かう列車内という設定で劇が進む。その間に東京での出来事、妹の見舞いでのベジタリアン論争、家出した賢治を連れ戻しに来た父との宗論、尾行警官とのエスペラント教室など、印象深い「ディベート」がはさまれている。「列車」という発想の素晴らしさ、音楽劇の楽しさ、そして「思い残しキップ」。初演時の印象はそれが強いのだが、展開を知ってて見る、また台本が完成されていて見る今回は、劇中の「論争」の面白さが特に印象的だった。いつも「論争」みたいなものが多い井上ひさしの劇だが、初演時は台本の完成が遅れることもあって、論争のための論争みたいな感じを受けることもあった。この劇では、賢治の生涯のテーマと分かちがたく結びつく「論争」であるという点と、今の時点でも重大な論点であるような問題があり、「言い合いの楽しさ」が際立っている。そして、少し傾いた楕円の回り舞台という、あっと驚く舞台装置。初演時は「列車」だったと思うのだが、今回は思い切って本来は細長いはずの列車内も円形の上で展開させている。それが「宇宙的感覚」を呼び起こし、僕は大成功だったと思う。

 ロジャー・パルパースがプログラムに書いている言葉を引用する。
 「賢治の主なテーマのひとつは、わたしたちが他人の悲しみに思考や感情、行動の焦点を合わせられるならば、深い悲しみを乗り越えることは可能だということでした。これが2011年3月以来、賢治の作品が日本人に圧倒的な影響を与えた理由のひとつとなりました。真の復興のためには、無私、慈しみ、思いやり、感情移入が必要です。これらはすべて賢治が何よりも望み、実行しようとしたことでした。」
 「宮沢賢治と井上ひさしが気にかけていたことは、紛れもなく私たちみんなの問題です。二人が寝ても覚めても考えていた他者への苦難への思いと、すべての創造物と人間が相互依存の関係にあるという考え方も、わたしたち自身の問題として引き継がれることを願ってやみません。」

 この劇には、宮沢賢治の他の作品からも多くの「引用」がある。だから賢治が好きな人ほど、細部で楽しめる部分がある。一々挙げないが、それも大きな楽しみ。僕も昔から好きで、非暴力トレーニングでやった「ビジテリアン大祭」、中学のクラスでやった「飢餓陣営」などを思い出した。最初に海外に行った時、タイに向かう飛行機の中で読んでいたのも、新潮文庫の「銀河鉄道の夜」。(もちろん3回目か4回目。)そういう風にいろいろ思い出してしまう。ここしばらく賢治を読んでないが、見田宗介さんの「宮沢賢治」が出たのがきっかけだったと思う。僕の「疑問」のようなものがかなり解決したので。また読み直したくなった。
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「おれたちの約束」と「さようなら、オレンジ」

2013年10月16日 23時59分48秒 | 本 (日本文学)
 感動的な2冊の本の紹介。どちらも「友情」というべきものをめぐって物語られるが、それ以上に「言葉」というものの意味を深く考えさせられる本だった。一つは佐川光晴「おれたちの約束」(集英社)で、もう一つは岩城ケイ「さようなら、オレンジ」(筑摩書房)。
 
 「おれたちの約束」は、佐川光晴(1965~)の坪田譲治賞受賞作「おれのおばさん」、その続編「おれたちの青空」に続く3作目。前作はブログで紹介したが、近年にない感動的なシリーズで、さらに続くことは確実。今後も目が離せない。

 今までの中味が広告にあるので、それを引用する。「おれのおばさん」は、「東京の名門私立中学に通う陽介は、父の逮捕をきっかけに一家離散。母の姉、恵子おばさんが切り盛りする札幌の児童養護施設「魴鮄(ほうぼう)舎」に居候することに…。「生きる力が湧いてくる!」と話題沸騰、感動の青春小説。」続く「おれたちの青空」は、「父親が服役中の陽介、虐待の記憶に苦しむスポーツ万能の卓也。魴鮄舎に暮らす仲間も高校受験を迎えている。受験を控えたある大雪の朝、卓也は「家出」を敢行するが…。人気シリーズ第2弾。」

 「おれたちの約束」では陽介は高校に進学し、父親も出所する。前作で陽介は北海道の高校ではなく、寮も完備された仙台の私立進学高の特待生を選択する。もともと東京では開成(と思われる高校)に入って東大を目指していたんだから、成績は抜群なのである。そういうエリートの卵みたいなのが集まったところへ行ってどうなるか。父親に春休みに会いに行った陽介は心乱れて、ガールフレンドの波子さんともケンカしてしまう。父のことだけは級友に知られたくないと防御していた陽介なんだけど、あるきっかけから全校にカミングアウトしてしまう。その生徒会選挙の場が感動的で、そこから「友情」が生まれてくる。そのメンバーを中心に学園祭を企画するのだが…。

 学園祭の一日目が終わろうとするときに、突如大きな揺れが校舎を襲う。耐震建築だから壊れはしないけど、電気や水道は通じなくなる大地震である。東北一帯に大きな揺れと津波が襲ったのである。アレレ、学園祭は2学期なのに、「3・11」が起こってしまうのか。そうなのである。作者は東日本大震災を小説内で秋に動かしてしまった。(原発事故の話も出てこない。)生徒の中には家族を失ったものも多く、陽介も避難所でボランティアをする。その時テレビの取材を受け、一日しかできなかった学園祭の「パート2」をやると宣言してしまう。果してそれは成功するか。地元の高校生が被災1か月で企画した学園祭、そこに友人たちは陽介の父親を招待することを考えるが…。

 高校1年の秋、学園祭の途中で大震災が起こったことにしてしまった以上、この小説は陽介の今後を描くだけでなく、東北の今後をも描きながら、さらに書いて行かざるを得ない。まあヤングアダルト小説という枠で書かれているので、展開がうまく行き過ぎの部分が目につきすぎるかもしれない。でもここまで心を揺さぶる小説はめったに読めない。多くのことを感じ、考え、心揺さぶられた。

 一方、岩城ケイ「さようなら、オレンジ」は、全くタイプの違う小説である。今年の太宰治賞受賞作で、作者はオーストラリア在住20年の全くの新人。太宰賞は吉村昭、加賀乙彦、宮尾登美子、宮本輝などを生み出したが、筑摩書房倒産で20年間中断、1999年から再開されたけど、以後の受賞者では津村記久子しか知ってる人がいない。でもこの作品は、中味の詰まり具合が素晴らしく、是非とも一読を勧める本。

 この本は2つの異なった章からなる。どちらもオーストラリアの小さな町を舞台にしている。一つは結婚して子どもがいる日本人女性が恩師のオーストラリア人の教授にあてた手紙。もう一つはソマリア(?)から逃れてきた難民女性サリマが働きながら生きていく姿を描いた3人称小説。サリマは日本人女性を「ハリネズミ」と呼んでいて、その女性が手紙の書き手なので、両方の章は「合わせ鏡」になっている。二人は地域にある「英語教室」に通っていて知り合う。そこには子供を育て上げたイタリア人女性も来ている。主な登場人物はこの3人と英語教室の先生。そしてサリマが働くスーパーの上司(これは男)。

 ハリネズミ(サユリ)は大学院生だったらしいが、研究者の夫について研究中途でオーストラリアへ渡り、子どもができる。このような成り行きから、それでも自分の研究を進められる夫と違い、研究をあきらめ夫と子供のために生きることに釈然としない。その時彼女を悲劇が襲い、深い喪失感を味わう。働こうと思うが、どこも雇ってくれない。(あまりに落とされるので、ヨーロッパ系の名前で履歴書を送ると面接通知が来る。)結局、サリマが働くスーパーで肉体労働をするしかない。

 サリマはオーストラリアに何とかたどり着いたものの、夫は都市に行ったまま戻らず、二人の子どもを育てるため、働きに出る。スーパーで魚をさばく重労働だが、熱心に仕事をするので、職場でも認められていく。学校に通ったことはなく、現地の学校に通う子どものためにも、英語を習おうと教室に通い始める。やがて英語を覚え、文字を覚えていく。だから「書き言葉」「読み言葉」としての英語は、彼女には「第二言語」ではないのである。母語はあるが、いわば「母文字」はない。文盲だった者が初めて外国語で文字を習得するのである。女が外で働き、学校へ行く必要はないという文化の中で育ったサリマが、働くことで、言葉を習得することで、初めて「自分を生きる」ようになっていくのである。

 息子の先生に頼まれてアフリカの話をしに学校へ行く場面、とてもつたない言葉で行われた、つたない「プレゼンテーション」でしかないのだけれど、「おれたちの約束」の生徒会場面にも増して感動的である。初めて獲得した「自分」だからだろう。これは「女たちの絆」の物語であり、異文化共生の物語だけど、同時に「言葉と文字の力」を伝える物語。日本を離れて20年という作者が、心の奥底から発せずにはいられなかった「物語の力」である。そんなに読みやすい本ではないかもしれない。でも粛然として読み終わる本。
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メキシコ映画「エリ」

2013年10月15日 00時27分50秒 |  〃  (新作外国映画)
 新宿のバルト9で、ラテンビート映画祭というのをやっていた。あまり行ったことはないんだけど、14日に「エリ」というメキシコ映画を見に行った。今年のカンヌ映画祭監督賞受賞作だけど、どうも正式公開は難しい感じがしたからである。ペドロ・アルモドバル監督の新作なんかもやってたけど、これは公開されるから後でいい。でも最近はカンヌ受賞と言っても公開されないことが多い。まあ、カンヌの受賞作も最近はばらつきが多いけど。

 今回の「エリ」はアマト・エスカランテ監督(1979~)の4作目で、今までの作品もあちこちの映画祭で上映され、日本でも東京国際映画祭などで上映されているという。(見てない。)内容的には地味で社会派的な色彩が強く、今回も正式公開されるかどうかは判らない。(今後、東京では東京国際映画祭で、17日の19時25分から上映が予定されている。)

 暴力の絶えないメキシコの荒涼とした地帯で、青年エリの日常をじっくりと描き出しながら、家族を取り巻く状況を描く。途中で一転して凄まじい暴力が一家を襲い、悲劇に見舞われる。解説によると、「舞台はメキシコ・グアナフアト州にある小さな田舎町。住民の多くは貧しく、自動車組み立て工場の仕事か、麻薬密売組織の手先になるしか、生きる道がないような厳しい状況にある。そんな中、一家の大黒柱であった男が突然、姿を消した。彼の息子エリは、父親捜しをする中で、大人たちの汚れた裏の顔に直面していく。」とあるけど、これが間違い。それで書きとめておこうかなという気になった。

 エリは、新婚の妻と生まれたばかりの子、父親と妹の5人暮らし。近くの自動車工場で夜勤をしている。父は昼の勤務らしい。この自動車工場の様子は何回か描かれるが、最初の方の場面で突然ラジオ体操が流れてビックリする。日系工場なのだろう。妹には恋人ビトがいる。彼は17歳で、「年上すぎる」と言われているから、妹は何歳なのか。かなり幼い感じで、13とか14とか言う感じか。結婚すると言ってるから、まあそのくらいの年齢ならあり得なくはないだろう。ビトは警察とか軍の訓練を受けていて、暴力的な扱いを受けている。そこで聞きつけた話をもとに、ある日の夜、隠されていた麻薬を盗み出し、妹の家に来て屋根の上の水タンクの中に隠す。夜勤から帰ってきたエリは二人を見つけ、叱りつける。翌日、妻がシャワーの水が出ないと訴えて、屋根のタンクを調べて麻薬を発見する。エリはそれを捨てに行って池に投げ入れる。

 その日、突然武装グループが襲ってきて、事情が分からない父親は銃を取りだし、銃撃されて死ぬ。ビトも連行されていて、エリと妹も一緒に車で拉致される。(妻と子はたまたま留守にしていて助かる。)その後、父の死体は放り出され、二人の男は部屋に閉じ込められて凄惨な拷問を受ける。妹は別の場所に連れて行かれる。ビトは殴られただけでなく、陰毛に油を掛けられ火をつけられる。エリは何とかそれは免れる。二人は翌日に車に乗せられ、ビトは歩道橋からつるされる。(映画の冒頭でその場面が出てきて、「処刑」だろうとは思うものの事情が分からないのだが、ここで何の場面だかやっと分かる。)エリはそこで置き去りにされ、やっと家に帰ると、警察が来ている。以後は、会社での仕事もうまく行かずクビになり、妹も帰ってこない。父の死体も見つからず、夫婦の仲もしっくりしない。さて、妹はどうなっているのか。それは映画のラストで一応分かるが、悲惨な状況で終わっていく。

 荒涼たる風景を描く場面は美しいとさえ思える映像美だけど、そこで展開される暴力は凄まじい。麻薬を扱うのも誰なのか。ギャング組織というより、軍内の特殊部隊かなんかの一味のような感じもする。解説にあるように、「父親探しをする」のではなく、父は目の前で銃殺され死体は「ピューマが持っていった」らしい状態である。妹探しはするものの、何の手がかりも得られない。サスペンスやミステリーという映画ではなく、ある暴力事件に巻き込まれた家族の悲劇を淡々と描く映画。娯楽的な映画ではなく、またこの家族に何かを象徴させるという作りでもない。だけど、映像と人物描写には力があり、見応えはあった。何かの答えが見つかる映画ではないと思ったけど。
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福井県立図書館の「覚え間違いタイトル集」

2013年10月13日 22時54分43秒 | 〃 (さまざまな本)
 東京新聞の12日夕刊に、福井県立図書館のホームページに「覚え間違いタイトル集」というのが載ってると出ていた。そこに出てる、「生姜(しょうが)みたいな名前の人」=姜尚中(カン・サンジュン)という「うろ覚え」の例は何となくおかしい。そこで見てみたら、姜尚中には別に「カンサンジの『やめる力』」という間違いも載ってた。これは「悩む力」の間違い。

 村上春樹の「そば屋再襲撃」=「パン屋再襲撃」というのも、どこでどう覚え間違ったのか。「『もたれない』というタイトルの本」って、何の本だか判るだろうか。これは茨木のり子の詩集「倚りかからず」だそうだ。「大木を抱きしめて」が、ダワー教授の「敗北を抱きしめて」というのもおかしい。「『探さない』とかそんな感じのヤツ」というのは、加島祥造「求めない」の間違い。「いけずの京都」という本は、実際はグレゴリ青山・著「ナマの京都」という本だった。

 最近の例では、「職業別のタウンページみたいな本。職業がいろいろ紹介されている。作者はヨウロウタケシ?カドカワハルキ?とにかく有名な人 」って何だろうと思うと、村上龍の「13歳のハローワーク」のことか。うーん。『うろんな客』(エドワード・ゴーリー/著 柴田元幸/訳)という小説があるらしいが、これを「いろんな客」と間違う。「中村屋の坊主」というのは、中島岳志の「中村屋のボース」のこと。村上春樹の「1Q84」なんて、直接棚を見れば見つけられそうだけど、検索しようとすると間違いやすい。「1984」とか「IQ84」とか入れやすい。「かもだしげき」の絵本というのもあるが、これは「志茂田景樹」のこと。「最近映画化されて、シベリアが舞台の『白い大地の伝説』という本」というのもあるが、これは山崎豊子「不毛地帯」のことだそうで、どこでどう間違ったのか。

 「しおのななえ」の本というのは、もちろん「塩野七生」(しおの・ななみ)のこと。図書館にある検索システムは、著者名をカナで入れるようになっていることが多い。漢字で入れられれば、このような問題はなくなるけど、まあ仕方ない。僕も詩人で小説家の「清岡卓行」を検索しようとして、正式な読みがわからず「きよおか・たっこう」と入れたら出てこなかった経験がある。「きよおか・たかゆき」が正式な読みだと後で知った。家で調べれば、漢字で検索できるからすぐ判る。

 しかし、読みようもない著者は、レファレンスに聞くしかない。こういう例もある。「『主婦の友』とかでよく見るんだけど、名前が読めない人の本。」という問い合わせがあり、これは「奥薗壽子(おくぞの としこ)。『ズボラ人間の料理術達人レシピ』など著書多数。 」という人のことだそうだ。

 見ると絵本や児童文学の問い合わせが多い。自分の小さい頃の記憶とか、誰かに勧められて子どものために探すとか、そういう機会が多いんだろうと思う。名前だけでなく、中身の断片がある場合も多い。こういうのは図書館職員の腕の見せ所というものではないか。まあ、ちょっと面白い話ということで。
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天皇・マッカーサー会見の「真相」は?-「終戦のエンペラー」と史実⑤

2013年10月10日 23時41分09秒 |  〃 (歴史・地理)
 「終戦のエンペラー」をめぐる話の最後に、昭和天皇とマッカーサーの会見(第1回)について考えてみたい。映画では最後の場面で、天皇(片岡孝太郎が好演)が「自分が全責任を負う」発言(以下、「天皇発言」)をしている。いやあ、この発言をまだ信じている人がいるんだ。ビックリである。これは「マッカーサー回想録」に出ていて、そしてその本にしか出ていない。この発言をめぐっては、昔から真相はどのようなものだろうと疑問が持たれてきた。

 重要な会見だから、日本側に正式な記録はあるのだろうか。あるならば、それを見ればはっきりする。しかし、その記録は長いこと非公開とされて来たのである。ところが、1975年の「文藝春秋」11月号にノンフィクション作家、児島襄(こじま・のぼる)氏が「奥村勝蔵が手記した会見記録」を公開した。これが第1回会見記録なのである。そして、そこには、「天皇発言」はなかった。この記録は正しいものなのか。そして児島氏はどのようにして、記録を入手できたのか。不明のまま児島氏は2001年に死去した。(なお、75年9月から10月にかけて天皇はアメリカを訪問した。)

 外務省はその後もずっと公開していなかったが、ようやく2002年10月17日に公開した。そして、それは児島氏が公開した「奥村手記」と同じものだった。外務省の公開を受け、宮内庁保管分も公開されたが、それも同じ。つまり日本国家の保管する文書には、マッカーサーの書いた「天皇発言」はないのである。(この公開は以下の経緯による。朝日新聞社が外務省に公開を請求したが、外務省は不開示とした。それに対し朝日側が内閣府の情報公開審査会に不服申し立てを行い、同委員会が開示すべきとの答申を行った。それを受け、外務省も公開に踏み切った。情報公開法が役に立った。)

 さて、児島氏が公開した文書にある「奥村勝蔵」とは誰か。第1回会見では、外務省の奥村勝蔵が通訳を務め、記録も奥村がまとめたのである。ちょっと細かくなるが、会見の通訳を見ておきたい。マッカーサーと天皇の会見は11回あるが、以下の通り。
 1、4   奥村勝蔵
 2、3、5 寺崎英成
 6、7   不明
 8~11  松井明
 2、3回目は寺崎英成が務めた。当時寺崎はフェラーズと共に天皇免責に向け活動していて、英語もできるので起用されたのだろう。しかし、4回目は寺崎が病気のため再び奥村が務めた。その会見後に漏えい問題が起こったため、奥村は外務省を辞めさせられる。5回目は寺崎が復帰したが、また病気となる。6、7回目の通訳は不明。恐らく米側の通訳が務めて日本側には記録がないとも言われている。8回目から11回目(最後)は外務省の松井明が抜てきされた。

 つまり、マッカーサーが書いている「天皇発言」は、日本側の正式記録にはないのである。では単なる「伝説」に過ぎなかったのかと言えば、問題は残っている。最後に通訳を務めた松井明が、「会見記録をまとめた手記」(松井手記)を作っていたのである。(朝日新聞が2002年8月5日に一部を公開したが、遺族の意向で全面公開されていない状態にある。)その「松井手記」の中に、「奥村勝蔵が削除した部分があると、松井は奥村から直接聞いた」という趣旨の記述がある。その真偽も、削除したとされる内容も一切不明。今でも「天皇が全責任を負うという発言をしたが、奥村があまりに重大だとして削除した」と論じる人がいる。そういう人はこの松井手記の奥村発言の伝聞に拠っているのである。

 この「削除」はマッカーサーの書く「天皇発言」ではなく、「東条問題」に関する発言だったのではないかと推論するのが、豊下楢彦「昭和天皇・マッカーサー会見」(岩波現代文庫)である。その本によれば、ニューヨークタイムズ記者への回答英国王への親書などを総合的に判断することが大切だと言う。当時、昭和天皇の「開戦責任」がアメリカで大きな問題となっていた。だから、第1回会見で「東条問題」に触れない方が不自然とも言える。以前は、天皇は臣下について発言しないと思われていた。しかし、「昭和天皇独白録」が発見され、その前提は崩れた。「松岡(洋右元外相)はヒトラーに買収でもされていたのではないか」などと露骨な「臣下批判」をしていたからである。
(「昭和天皇・マッカーサー会見」)
 マッカーサー会見の2日前、天皇はニューヨークタイムズのクルックホーン記者を「謁見」した。クルックホーンから、天皇が米国民に直接メッセージを送ってはどうかと提案され、政府や側近が同意した。(日本人を含め、天皇が新聞記者と会った最初。)あらかじめ提出されていた4つの質問への答えは、政府有力者も協議して決められた。その質問の一つが、「宣戦の詔書が、アメリカの参戦をもたらした真珠湾への攻撃を開始するために東条大将が使用した如くに使用されるというのは、陛下の御意志でありましたか」というものだった。それに対し「宣戦の詔書を、東条大将が使用した如くに使用する意図はなかった」と回答しているのである。

 これが9月25日の1面トップで「ヒロヒト、インタビューで開戦の責任を東条におしつける」と大々的に報道された。それが日本政府内で大問題となり、外務省は国内向けには東条個人への非難を避けた文章を公表した。2006年7月になって、クルックホーンへの「回答正文」の控えが発見され、そこには東条への言及があったのである。やはりニューヨークタイムズの記事が正しかったと証明された。
(東条英機元首相)
 一方、会見から4か月後の1946年1月29日付で、天皇は英国王へ親書を送った。それは極東諮問委員会英国代表のサンソムに託したもので、当時は全く知られていなかった。(当時の国王は映画「英国王のスピーチ」のジョージ6世である。東京裁判開廷前の重大時期に、歴史的に親しい英国王室にあえて送ったのである。)その中でも「私は当時の首相東条大将に対し、英国での楽しかった日々を想い起しつつ、強い遺憾と不本意の気持ちを持って余儀なく署名するのだと繰り返し述べながら、断腸の思いで宣戦の詔書に署名したのであります。」と書かれているのである。これを見ると「あえて東条首相に触れる」という方針が明らかではないかと思う。

 天皇は「ぶっつけ本番」でマッカーサーに会ったのではないと豊下氏は強調している。吉田茂外相は9月20日にマッカーサーと会談し、翌21日に吉田は天皇に実に1時間10分も「拝謁」している(入江相政日記)。25日にクルックホーンに「御答」が渡され、入江日記には「二十七日の御行事が済めば全く一安心である」と書かれているという。(入江は1934年以来ずっと侍従として仕えた人物で、後に侍従長となった。)この流れで考えれば、「ニューヨークタイムズを通して米国民に送ったメッセージ」と違うことをマッカーサーに話したと考える方がおかしい。詳しくは豊下著を読んで欲しいが、マッカーサーとの会見でも東条元首相への言及があったが、その部分が削除されたと推論できるのである。

 マッカーサーは何故そんなことを書いたのだろうか。実はマッカーサー回想録には、信ぴょう性に疑問符が付く場面がいろいろあるのである。今でもこの本をもとに「昭和天皇のお人柄」を語る人がいるが、マッカーサー証言を信じたいなら、「新憲法は日本側が作った」(「押し付け」ではない)という部分も信じないとつじつまが合わない。一般に、功成り名をとげた後に書いた回想録は、意識的無意識的な自己正当化が多いのが常識である。歴史研究に使う時は、十分な史料批判が必要となる。
(「マッカーサー回想録」中公文庫)
 特に「偉大な人物」(裏を返せば「尊大な人物」)の回想ほど当てにならないものはない。(「偉大」や「尊大」では価値観が入るというなら、単なる「大人物」でもいい。)「大人物」は自分の業績を誇大に表現するため、自分の「好敵手」をも「大人物」視することが多い。天皇にしても私利私欲で行動しているわけではなく、「国体」(天皇制)を存続させるために一生懸命なのである。その部分で共鳴する部分も確かにあったのだろう。そこにマッカーサー回想録の「自己神話化」のベースがあるのではないか。1951年、マッカーサーは占領軍最高司令官を解任された。52年に共和党の大統領予備選に破れた後は、名誉職以外にはつかず、1964年に死去した。その年に回想録が出されている。
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フェラーズという人ー「終戦のエンペラー」と史実④

2013年10月09日 21時15分51秒 |  〃 (歴史・地理)
 「終戦のエンペラー」の中で大きな役割を演じるボナー・フェラーズ(Bonner Fellers, 1896 - 1973)とは、一体どのような人物だろうか。映画ではフェラーズが「天皇こそが戦争を終わらせた」とのメモを提出する。(史実では10月2日。)その後、マッカーサーは天皇に会いたいと望み、天皇が(最高司令官のいる第一生命ビルではなく)アメリカ大使館を訪問した。それは9月27日なので、史実と映画では順番が異なっている。その「会見の真実」を考える前に彼の人生を見ておきたい。
(ボナー・フェラーズ)
 フェラーズは1996年にイリノイ州の農家に生まれた。1914年にインディアナ州リッチモンドのアーラム大学(クエーカー系の大学)に進学した。この大学では新入生を小さな班に分け、担当の上級生が面倒を見るやり方を取っていた。彼の担当が日本人留学生の渡辺ゆりで、フェラーズは彼女を通して日本に関心を持った。ゆりが卒業・帰国した後の1916年に、彼は大学を中退して陸軍士官学校に入学した。(恐らく経済的事情か。)卒業後、フィリピン勤務となり、1922年に休暇を利用して初めて訪日して、渡辺ゆりと再会した。ゆりはラフカディオ・ハーンを教え、フェラーズはやがて全巻を読破するほどのマニアとなる。30年に2度目の訪日をした時に小泉家を訪ねハーンの墓参もした。
(渡辺ゆり)
 このような経過で、彼は日本人の心理に詳しくなり陸軍内の「日本専門家」となったのである。1935年には陸軍大学の卒論で「日本兵の心理」をまとめた。そこにはすでに「天皇のためならば命を惜しまない」日本兵の心理が詳細に分析されている。日本人は「団結しやすい」が、「逆境時には国民性の最悪の部分が現われる」、「日本軍の計画には柔軟性がほとんどない」などなど。36年にフィリピン勤務となり、マッカーサーと出会い、37年には一緒に日本を訪れている。38年には再び訪日し、40年からはエジプトに赴任していた。
 
 第二次大戦中は対日心理作戦を担当し、多くの業績を上げた。彼は日本語は話せないが、二世兵士を使ってビラ作りなどをした。米軍は日本軍が敗走した後でも、なかなか降伏しないことに困っていた。「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられていたからだ。ここで日本人の心理研究が生きてくる。「天皇」と「軍閥」を分けて、兵隊も天皇も軍閥にダマされていた、「降伏しても天皇に不忠にはならない」と呼びかけたのである。1944年8月に書いた文章では、「東条を首相として承認した以上、天皇には明らかに戦争責任がある」、「しかし、天皇の戦争責任を追及すれば日本人から猛反発を招く」、「軍部が天皇をだましたという認識を広め、軍国主義者を一掃するのが最も賢明である」と書いた。降伏後の日本軍は、天皇の停戦命令で武器を置いた。フェラーズは自分の分析に自信を持っただろう。

 フェラーズがマッカーサーに提出したメモでは、「アメリカは天皇の力を利用して被害を最小限に食い止めた」「天皇を裁判に掛けることは、アメリカの長期的な利益に反する」と明記されていた。このようにフェラーズは確かに知日派で、天皇制を残そうと努力した人物なのだが、すべては米軍に有利なようにと考えた結果なのである。いかに米軍の犠牲を少なくして勝利を得るかという観点から行動しているだけである。映画では「純粋な親日派」のように見えるが、それは真実の姿ではない。フェラーズはメモ提出後に、本格的に天皇免責に向け、日米の人脈を使って対策を練る。皇太子にアメリカ人の家庭教師をつけるのも、元はフェラーズのアイディアだったらしい。

 フェラーズは何か目標があって行動していたのだろうか。彼の目的は、日本占領を円滑に進めた上で、マッカーサーを大統領に擁立するという計画だった。映画では「大統領になりたいマッカーサーに利用されている」などと言われているが、現実は逆だろう。天皇不訴追がほぼ確実になった1946年7月、50歳でフェラーズは退役し、海外退役軍人協会に勤め、全米各地を講演し日本に関する記事を書いた。マッカーサーの占領を宣伝する目的だろう。1947年11月には、共和党全国委員会副委員長に就任した。マッカーサーを大統領にするための仕事に違いない。しかし、48年の予備選に失敗した(占領中で本人不在だから無理)。52年はかつての部下で、より若いアイゼンハワーが共和党候補となった。それを見て52年7月に、フェラーズは共和党全国委員会を退いたのである。
(昭和天皇 二つの『独白録』)
 以後は主だった職には就かず、回想録をまとめるつもりもあったらしいが、完成しなかった。71年には、占領中の活動に対して、日本政府から勲二等瑞宝章を受章した。73年に10月7日に、77歳で死去。その歩みは東野真昭和天皇 二つの『独白録』」(NHK出版)に詳しい。以上の記述は基本的にはその本による。(今は新刊は入手できないようだが、地域の図書館ですぐ見つかると思う。)彼の「活躍」や彼の元に英文「独白録」があった事情なども、この著書に詳しい。
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関屋貞三郎と寺崎英成-「終戦のエンペラー」と史実③

2013年10月05日 00時51分02秒 |  〃 (歴史・地理)
 映画「終戦のエンペラー」では、調査に行きづまったフェラーズが天皇側近に話を聞くべくマッカーサーの命令を持って宮城(きゅうじょう=今の皇居)に乗り込むと、そこに宮内次官関屋貞三郎(1875~1950)という人物がいる。関屋が言うには、天皇は平和主義者であり、その証拠として御前会議で天皇が読み上げた明治天皇の御製(ぎょせい=天皇の和歌)を朗々とうたいあげる。
  「四方(よも)の海 みな同朋(はらから) 思う世に など波風の 立ちさわぐらん

 この御前会議のエピソードは史実である。会議直後には東条陸相も「大御心は平和だぞ」と受け取ったと言われる。1941年9月6日に開かれた御前会議では、10月上旬までに日米交渉がまとまらない場合、米英蘭に対する開戦を決意するという「帝国国策遂行要領」が決定された。

 この描き方はどうも違和感がある。まず関屋なる人物が判らない。どこかで聞いたようにも思うが、ほとんど記憶にない。それになぜ「宮内次官」が出てくるのだろうか。マッカーサーの命令なんだから、当然トップ(宮内大臣)が対応すべきだ。なんでナンバー2が出てきてくるのか。これはこの映画を見て、一番違和感を持つところだろう。調べてみると、関屋貞三郎は、1921年から1933年の宮内次官で、敗戦より10年以上も前に辞めていた。1900年に官界入りし、三一独立運動時は朝鮮総督府学務部長だった。19年8月より静岡県知事、21年宮内次官、33年に退官後は貴族院議員を務めた。
(関屋貞三郎)
 実際の宮内次官は大金益次郎という人物で、後に侍従長となった。宮内大臣は石渡荘太郎、侍従長は藤田尚徳である。それらの人物を差し置いて、なぜ当時の職員でもない関屋なる元宮内次官が活躍するのか。それはプログラムを読めば氷解する。プロデューサー奈良橋陽子の祖父なのである。なんだ、ファミリー伝説の映画か、身びいきのフィクションかと脱力してしまうが、そういう設定にしたくもなる背景はあった。関屋貞三郎は確かにフェラーズの協力者だったのである。

 東野真昭和天皇 二つの『独白録』」(NHK出版、1998)によれば、関屋はフェラーズと同じクエーカー信者で、そこからつながりができたという。もっとも関屋がフェラーズに会ったのは、フェラーズ・メモが提出された10月2日より後の16日である。その時にフェラーズは「天皇が真珠湾攻撃を承知していたかどうかを確かめることが最も重要」と河合道を通じて関屋に伝えたと同書にある。河合は恵泉女学園を創設した女性教育者で、フェラーズとは戦前来の知人である。彼がクエーカー系の大学に在学していた時に、日本から留学していた渡辺ゆりと知り合い、来日した時に恩師の河合を紹介したという。なお、渡辺の方が年上で映画のような恋愛関係はもちろんない。大体フェラーズは45年当時49歳で、学生時代の恋愛相手が仮にいたとしても40代後半のはずだ。

 このようなクリスチャン人脈による日米協力が、天皇免責の裏にあったのである。しかし、この映画では関屋を元の公職に戻してしまった。それはご愛嬌かもしれないが、これだけで史実とは無関係と宣言しているようなものだ。さらに問題なのは関屋の説明である。大体御前会議のメンバーではない宮内次官が、なぜ内容を知っているのか、また外国人に漏らしていいのかという大問題もあるが、それは一応置く。そこでの説明では、昭和天皇は平和主義者で、天皇の力なくしてポツダム宣言の受諾は出来なかったと言う。それは確かに事実なのだが、この時期には慎重な配慮が求められる問題だった。

 天皇の力が軍を押さえるほど強力で、戦争を終わらせる力を持っていたのなら、その強大な力をなぜ開戦阻止には使わなかったのかという疑問を直ちに招くのである。積極的な侵略主義者ではなかったとしても、「不作為」という戦争犯罪があるのではないか。この難問にいかに答えるべきか。「天皇を戦犯として裁くか」という問題がすべて終わった現在では判りにくいが、関屋の説明はフェラーズの求める答えとしては危険なのである。

 実際の戦犯裁判が近づくと、東京裁判へ向けた対策として、天皇の回想を記録することになった。1990年に公開された「昭和天皇独白録」(文春文庫)がそれである。この独白録で、天皇の免責論理が語られている。立憲君主として内閣や軍が一致している政策は認めないわけには行かない。しかし、2・26事件と終戦時だけは内閣が機能せず天皇が判断を迫られたので決断したというのである。それが事実かどうかは別にして、映画に関屋を登場させたことで、重要な人物が映画に全く出てこないことになったと思う。それは寺崎英成(1900~1951)である。
(寺崎英成)
 寺崎は戦前に米国勤務経験がある外交官で、妻はアメリカ人だった。娘の「マリコ」の名が日米交渉の中で暗号として使われたことでも知られている。(柳田邦夫のノンフィクション「マリコ」で知られ、NHKドラマにもなった。)寺崎英成はなかなか複雑な人物なのだが、当時天皇の御用掛として独白録の聞き取りに参加していた。そして数十年を経て、「独白録」はマリコの家で発見されたのである。

 当時から、独白録に英語版があるかどうかが問題となった。それをついに発見したのがNHK取材班で、フェラーズの未亡人が管理するフェラーズ文書の中にあった。その経緯は東野の本に詳しい。ところで、これは寺崎とフェラーズが会った後で判ったことらしいが、寺崎の妻グエンドレンは、フェラーズの祖母ベッツィー・ハロルドの姪で、二人は姻戚関係にあった。フェラーズを主人公にするなら、関屋ではなく寺崎を出す方が自然で、その方がドラマチックになる。「寺崎とフェラーズが協力して天皇を戦犯から救った」という物語なら、フィクションにしても、もう少し違和感のない映画になっただろう。
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近衛と木戸ー「終戦のエンペラー」と史実②

2013年10月03日 00時15分34秒 |  〃 (歴史・地理)
 映画「終戦のエンペラー」で、マッカーサーはフェラーズ准将に「昭和天皇の役割を突き止めろ」という特命を与える。フェラーズは日本の重要政治家に天皇について聞き回る。その対象となったのは、東条英機近衛文麿木戸幸一の3人。この選択は、フィクションとしてはなかなか適切ではないか。ただし、自決に失敗した東条に「あなたは死刑になるんだから」などと脅迫的に迫って、事情が判る証人を選ばせる設定はムチャだ。そして、東条が近衛文麿を指名したのも。日米開戦当時の首相が東条で、その前が近衛だぐらいは、米軍でも知っている。
(近衛文麿)
 その時、近衛はどういう立場にあったのか。東久邇内閣の無任所国務相という現職閣僚だった。だから何も秘密裏に聞きに行く必要もない。実際近衛の方からマッカーサーに会いに行っている。その時マッカーサーに言ったことを、映画で近衛に言わせればいい。近衛が会ったのは10月4日で、天皇・マッカーサー会見の後だが、実際のフェラーズ・メモ提出だって実は会見後である。

 この映画の近衛は「日米首脳会談を断ったのは米国務省である」(それは事実)、「アメリカは原爆で2つの都市を壊滅させた。日米は同じではないか。アメリカもイギリスも侵略をしている。我々はそれを手本にしただけだ」などと言う。このセリフがハリウッド映画にあることを評価する意見を見たが、僕は困ったことだと思う。近衛がそんなことを言うと思ってるのか。歴史的感性が鈍っている。

 我々は天皇は免責され、日本は世界有数の経済大国になったことを知っている。現在の眼で見てしまうと、「日本が悪いならアメリカも同じではないか」と言いたくなる人が出てくる。しかし当時の状況は違う。日本は開戦責任を厳しく問われ、昭和天皇を裁けという声が連合国に満ちていた。(45年6月に米国で行われたギャラップ世論調査では、天皇の処遇は「死刑=33%」「裁判で決定=17%」「終身刑=11%」「追放=9%」で厳しい意見が7割となる。「軍閥の名目上の頭目に過ぎないから何もしない=4%」「日本を動かす傀儡(かいらい)として利用する=3%」、他はその他、何とも言えないとなっている。)母国のこの厳しい世論に、マッカーサーやフェラーズは向き合っていたのである。

 近衛が日本は欧米をまねただけだと言ったら、侵略戦争を起こした「自白」になってしまう。それでは天皇が戦争犯罪を問われかねない。近衛文麿(このえ・ふみまろ、1991~1945)とはどういう人物か。3回にわたり内閣総理大臣となり、その間に日中戦争、国家総動員法、日独伊三国同盟など重要事が続々と起こった。だから、教科書には必ず載っている。藤原氏に発する五摂家の筆頭で、皇族に続く最上位の家柄である。貴族院議長を務めた父近衛篤麿(1863~1904)が若くして亡くなり、有名なアジア主義者だった悲運の父の名声を背負って育った。

 1918年には「英米本位の平和主義を排す」という論文を発表し、若い頃にアジア主義的、反欧米的な思考があった。近衛があんなことを言いそうな理由はあるのだ。後に貴族院議長となり(1933年)、「政界の貴公子」として期待を集めた。1937年6月に内閣総理大臣に就任し、1939年1月まで務めた。その間に日中戦争が本格化して南京事件が起こった。1940年7月に再び総理大臣に復帰し、1941年10月まで務めた。就任時45歳で、これは歴代2位。(1位は伊藤博文の44歳。)

 近衛は日米開戦直前に辞職して以後、戦時中は公職につかず、1943年頃から終戦工作に関わった。1945年2月には有名な「近衛上奏文」を天皇に提出した。その論旨は、敗戦は必至だが、恐ろしいのは敗戦ではなく共産革命で、この戦争は陸軍内の赤化分子の陰謀であるから、早期和平をすべきというものだった。天皇は一撃を与えてからでないと難しいとこの上奏を退けた。陸軍軍人が実は共産主義者とは、いくら何でも無理だろう。しかし、近衛はその後も主張し続けたから、戦争は東条ら軍閥と配下の赤化分子が起こしたもので、責任は陸軍軍閥にあるというのが近衛の立場である。

 つまり戦争責任は一切合財東条はじめ陸軍に負わせ、天皇を救うのが近衛ら政府中枢の考え方だった。マッカーサーに対しても、天皇と財閥が日本の共産主義化を防いでいるのであり、戦争は陸軍内の赤化分子が起こしたと説明している。この時期の近衛に戦争について語らせたなら、そういう赤化陰謀史観を述べないとおかしいのである。

 日本軍は真珠湾の米軍基地に「奇襲攻撃」を行った。日本大使館の通告ミスがあったとかいうが、日本から開戦に踏み切った「厳然たる事実」は揺るがない。連合艦隊は11月26日に、エトロフ島を出発していた。東条英機首相兼陸相がいくら強大な権力を持っていたとしても、海軍連合艦隊に指令を出せるのか。日本の法制上、天皇が認可しなければ軍の作戦はできないはずではないか。昭和天皇は事前に「だまし討ち」を知っていて認可したのか。この天皇制の歴史上最大の危機に対して、欧米も同罪だろうなどと言い返す余裕は全くない。

 近衛で長くなったので木戸は簡単に。木戸幸一(1889~1977)は維新の元勲、木戸孝允の妹の孫である。(妹の子が木戸侯爵家を継いだ。)1940年から天皇側近の内大臣を務め、内大臣職が廃止される1945年11月まで務めた。昭和天皇は1901年生まれだから、木戸は2歳上だがほぼ同年代。戦時中を最側近として過ごし、「木戸日記」を遺した。「木戸日記」は超重要文書で、検察側に提供された。映画の時期には現職の内大臣だから、隠れ潜むような描写は史実と違う。
(木戸幸一)
 木戸には東条内閣を成立させたという大問題があった。近衛辞任後の後継首相は、木戸の責任で東条一人に絞られた。東条にすべての責任を負わせたくても、木戸の推薦で東条が組閣したという事実が残る。この問題を問われて、木戸は日記を提出して、いかに答弁したかは、粟屋憲太郎「東京裁判への道」(講談社学術文庫)に検察側資料を用いて60頁も描かれている。

 最後に「一票差で死刑を免れた」と字幕で説明される問題。これはウィキペディアにも出ているし、児島襄「東京裁判」(中公文庫)には裁判官ごとの予想量刑表も付いている。しかし、実は証明されているとは言えない。日暮吉延「東京裁判」(講談社現代新書)によれば、当時の報道機関が「匿名判事」の情報として木戸初め数人が一票差で死刑を免れたと伝えた以外には何も証拠がないらしい。木戸は戦時中に捕虜処遇などに関係していないので、もし死刑という判断だとすれば、「真珠湾攻撃による殺人罪」が考えられるが、それは難しい。A級(平和に対する罪)でしか有罪になっていない被告はすべて終身禁固刑である。木戸は天皇の側近として、政治の裏面で活躍することが多かった。天皇との関わりから言っても死刑判決は考えられないと思う。映画の最後に出る説明は、事実と異なる可能性が高い
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