1917年に起こったロシア革命から100年、今どう考えるべきか。2017年1月に岩波新書から、池田嘉郎「ロシア革命」が出た。刊行直後に読んだので、ずいぶん忘れてしまったんだけど、この本をもとにロシア革命を考えてみたい。
1905年の「血の日曜日事件」以後に起こった出来事を「第一次ロシア革命」と呼ぶ。その意味では、ロシア革命は非常に長いスパンで考えるべきテーマだ。1917年のロシア革命は2段階に分かれる。ロマノフ王朝の専制政治を終わらせた「二月革命」と「世界で初めての社会主義革命」と言われた「十月革命」である。ロシアは「ユリウス暦」だったので、普通に使われている「グレゴリオ暦」と13日間違っていた。グレゴリオ暦では、二月革命が起こった2月23日は3月8日、十月革命が起こった10月25日は11月7日になる。
だから「三月革命」「十一月革命」と書いてある教科書もある。まあ、僕は現地の日付で二月革命、十月革命でいいんじゃないかと思う。革命は1917年で終わったわけではなく、内戦を経て「ソヴィエト社会主義共和国連邦」が成立する(1922年)までは、革命の過程と言える。
その時、ロシアを含めヨーロッパの主要国は第一次世界大戦の真っ最中だった。サラエヴォでオーストリア皇太子が暗殺された事件をきっかけに、誰も想定していなかった大戦争になってしまった。ドイツがオーストリアを支援し、オスマン帝国も加わった。一方、セルビアをロシアが支援し、三国協商を結んでいたイギリスとフランスがロシア側に立って参戦した。1917年にはアメリカもイギリス等の連合国側で参戦した。1918年にドイツが敗北して長い大戦が終わった。
第一次世界大戦でロシアは惨憺たる状況に陥った。革命が起こった最大の理由はそこにある。武器を持った兵士が上官の命令を無視してしまえば、それは武装革命の種となる。農村も疲弊し、とても戦争を遂行できる状態ではなかった。それにしても、皇帝ニコライ2世がもうすこし先見の明がある人物ならば、なんとか「立憲民主主義体制」が機能していたかもしれない。肝心な時にいつも民衆を武力で鎮圧しようとした皇帝に大きな責任がある。
二月革命によって皇帝は退き、弟のミハイル大公に譲位しようとしたが、ミハイルが拒絶してロマノフ朝は崩壊した。1905年の第一次革命によって、ロシアにも一応「国会」(ドゥーマ)が作られていた。しかし、皇帝の権力が強く機能できなかった。それでも二月革命時には「第4次ドゥーマ」が存在していたので、ドゥーマを中心に臨時政府が作られた。当初から首都ペテルブルグで反乱兵が作る「労兵ソヴィエト」と二重権力状態だったのである。
昔は「ソ連史観」と言うか、「十月革命」神聖視が多かった。二月革命は社会の混乱を解決できなかった、臨時政府は無能だった、そこに革命英雄レーニンに率いられたボリシェヴィキが現れ、人類史上初の社会主義革命が成功した、といったようなものである。「1917年」は世界史を画する大事件であり、そこから「現代史」が始まるとマジメに書かれた本も多かった。
だから「臨時政府」なんて言っても、ほとんど具体的なことを知らない。最後の首相だったケレンスキーの名前だけが、無能で反革命の象徴のように記憶されているだけだった。岩波新書「ロシア革命」では臨時政府の変遷が事細かに分析されている。そもそも第一次臨時政府では、首相は無所属のリヴォフ公という人だった。日本の衆院選で同じ名前の党があったと反響を呼んだ「立憲民主党」(カデット)が5人と一番多く入閣していた。カデットは名前からしても、中道自由主義派である。その中で、唯一左派として入閣したのが、司法相のケレンスキーだった。
(ケレンスキー)
3月2日から5月2日までが臨時政府。5月5日から7月2日までの第一次連立内閣では、リヴォフ公のもと、カデット4人に対し、ケレンスキーを初め諸社会主義党派(エスエル、メンシェヴィキなど)から6人が入閣した。7月24日から8月26日の第二次連立内閣では、ついにケレンスキーが首相となり、右派社会主義者と自由主義者の連立となった。そして9月25日から10月25日までの最後の第三次連立内閣では、ケレンスキーと同様に3月からずっと連立政権にいた同僚は一人だけになっていた。
労働者の反乱、農民の蜂起、労働者のストが頻発する情勢には、都市上層階級の穏健な自由主義者では太刀打ちできなかったのだ。だから内閣には社会革命党(エスエル)やメンシェヴィキ(ロシア社会民主労働党少数派)が増えていった。今までケレンスキーは混乱する情勢に対処できなかったと僕も思いこんでいたが、今回読んでみると、どうして八面六臂、獅子奮迅の大奮闘である。大衆的人気もあり、若いリーダーとしてよくやっていたのである。
だけど、彼の内閣は民衆が一番望む政策を実施できなかった。「ドイツとの即時和平」である。英仏の同盟国を放っておいて、勝手に講和を結ぶなど戦後の国家経営を考えればできなかった。自由主義者や穏健社会主義者の当面の目標は、ロシアを英米のような安定した議会政治と発展した産業国家にすることだった。戦後に英米資本の支援を受けるためには、ドイツとの単独講和はできない。実際英米側が勝利するわけだから、ロシアがもう少し持ちこたえていたら、ロシアは大戦の勝者になって国際連盟の常任理事国に(英仏伊日とともに)選ばれていただろう。
そのためには兵士の反乱、無秩序な農村情勢、労働者の相次ぐストライキを容赦なく押さえ込むしかない。武器や食料もないのに兵士に戦えとは言えない。実際ロシア戦線は崩壊していた。しかし、ケレンスキー内閣は国内反対派を弾圧することもできない。それは戦争を止められない理由と同じである。「自由で民主主義的なロシア」というタテマエを崩せないのである。
そこにボリシェヴィキのレーニンという「天才」が現れ、歴史に表れた一瞬の奇跡を利用して、「十月革命」を成功させた。「ボリシェヴィキ」(多数派)とは、最左派「ロシア社会民主労働党」が分裂した時の「多数派」という意味である。レーニンの「四月テーゼ」などを見ると、やはり天才的な政治勘というしかない。でも「十月革命」は民衆革命というより「クーデター」だろう。
(レーニン)
ボリシェヴィキはドイツとの単独和平を実現させた。戦後の外交関係なんか、社会主義建設を目指す彼らには関係ないのである。農民の反乱、労働者のストライキも容赦なく弾圧した。二月革命後になかなか開かれなかった「憲法制定議会」の選挙が実施されたが、圧倒的に支持されたのは農村に強いエスエル(社会革命党)だった。そうすると、レーニンは「ソヴィエト共和国」が全権を掌握するとして、憲法制定議会を解散した。こうして一党独裁のソ連が成立していくわけだけど、それは「人類史上初の社会主義政権」というものではなかったというべきだ。
1905年の「血の日曜日事件」以後に起こった出来事を「第一次ロシア革命」と呼ぶ。その意味では、ロシア革命は非常に長いスパンで考えるべきテーマだ。1917年のロシア革命は2段階に分かれる。ロマノフ王朝の専制政治を終わらせた「二月革命」と「世界で初めての社会主義革命」と言われた「十月革命」である。ロシアは「ユリウス暦」だったので、普通に使われている「グレゴリオ暦」と13日間違っていた。グレゴリオ暦では、二月革命が起こった2月23日は3月8日、十月革命が起こった10月25日は11月7日になる。
だから「三月革命」「十一月革命」と書いてある教科書もある。まあ、僕は現地の日付で二月革命、十月革命でいいんじゃないかと思う。革命は1917年で終わったわけではなく、内戦を経て「ソヴィエト社会主義共和国連邦」が成立する(1922年)までは、革命の過程と言える。
その時、ロシアを含めヨーロッパの主要国は第一次世界大戦の真っ最中だった。サラエヴォでオーストリア皇太子が暗殺された事件をきっかけに、誰も想定していなかった大戦争になってしまった。ドイツがオーストリアを支援し、オスマン帝国も加わった。一方、セルビアをロシアが支援し、三国協商を結んでいたイギリスとフランスがロシア側に立って参戦した。1917年にはアメリカもイギリス等の連合国側で参戦した。1918年にドイツが敗北して長い大戦が終わった。
第一次世界大戦でロシアは惨憺たる状況に陥った。革命が起こった最大の理由はそこにある。武器を持った兵士が上官の命令を無視してしまえば、それは武装革命の種となる。農村も疲弊し、とても戦争を遂行できる状態ではなかった。それにしても、皇帝ニコライ2世がもうすこし先見の明がある人物ならば、なんとか「立憲民主主義体制」が機能していたかもしれない。肝心な時にいつも民衆を武力で鎮圧しようとした皇帝に大きな責任がある。
二月革命によって皇帝は退き、弟のミハイル大公に譲位しようとしたが、ミハイルが拒絶してロマノフ朝は崩壊した。1905年の第一次革命によって、ロシアにも一応「国会」(ドゥーマ)が作られていた。しかし、皇帝の権力が強く機能できなかった。それでも二月革命時には「第4次ドゥーマ」が存在していたので、ドゥーマを中心に臨時政府が作られた。当初から首都ペテルブルグで反乱兵が作る「労兵ソヴィエト」と二重権力状態だったのである。
昔は「ソ連史観」と言うか、「十月革命」神聖視が多かった。二月革命は社会の混乱を解決できなかった、臨時政府は無能だった、そこに革命英雄レーニンに率いられたボリシェヴィキが現れ、人類史上初の社会主義革命が成功した、といったようなものである。「1917年」は世界史を画する大事件であり、そこから「現代史」が始まるとマジメに書かれた本も多かった。
だから「臨時政府」なんて言っても、ほとんど具体的なことを知らない。最後の首相だったケレンスキーの名前だけが、無能で反革命の象徴のように記憶されているだけだった。岩波新書「ロシア革命」では臨時政府の変遷が事細かに分析されている。そもそも第一次臨時政府では、首相は無所属のリヴォフ公という人だった。日本の衆院選で同じ名前の党があったと反響を呼んだ「立憲民主党」(カデット)が5人と一番多く入閣していた。カデットは名前からしても、中道自由主義派である。その中で、唯一左派として入閣したのが、司法相のケレンスキーだった。
(ケレンスキー)
3月2日から5月2日までが臨時政府。5月5日から7月2日までの第一次連立内閣では、リヴォフ公のもと、カデット4人に対し、ケレンスキーを初め諸社会主義党派(エスエル、メンシェヴィキなど)から6人が入閣した。7月24日から8月26日の第二次連立内閣では、ついにケレンスキーが首相となり、右派社会主義者と自由主義者の連立となった。そして9月25日から10月25日までの最後の第三次連立内閣では、ケレンスキーと同様に3月からずっと連立政権にいた同僚は一人だけになっていた。
労働者の反乱、農民の蜂起、労働者のストが頻発する情勢には、都市上層階級の穏健な自由主義者では太刀打ちできなかったのだ。だから内閣には社会革命党(エスエル)やメンシェヴィキ(ロシア社会民主労働党少数派)が増えていった。今までケレンスキーは混乱する情勢に対処できなかったと僕も思いこんでいたが、今回読んでみると、どうして八面六臂、獅子奮迅の大奮闘である。大衆的人気もあり、若いリーダーとしてよくやっていたのである。
だけど、彼の内閣は民衆が一番望む政策を実施できなかった。「ドイツとの即時和平」である。英仏の同盟国を放っておいて、勝手に講和を結ぶなど戦後の国家経営を考えればできなかった。自由主義者や穏健社会主義者の当面の目標は、ロシアを英米のような安定した議会政治と発展した産業国家にすることだった。戦後に英米資本の支援を受けるためには、ドイツとの単独講和はできない。実際英米側が勝利するわけだから、ロシアがもう少し持ちこたえていたら、ロシアは大戦の勝者になって国際連盟の常任理事国に(英仏伊日とともに)選ばれていただろう。
そのためには兵士の反乱、無秩序な農村情勢、労働者の相次ぐストライキを容赦なく押さえ込むしかない。武器や食料もないのに兵士に戦えとは言えない。実際ロシア戦線は崩壊していた。しかし、ケレンスキー内閣は国内反対派を弾圧することもできない。それは戦争を止められない理由と同じである。「自由で民主主義的なロシア」というタテマエを崩せないのである。
そこにボリシェヴィキのレーニンという「天才」が現れ、歴史に表れた一瞬の奇跡を利用して、「十月革命」を成功させた。「ボリシェヴィキ」(多数派)とは、最左派「ロシア社会民主労働党」が分裂した時の「多数派」という意味である。レーニンの「四月テーゼ」などを見ると、やはり天才的な政治勘というしかない。でも「十月革命」は民衆革命というより「クーデター」だろう。
(レーニン)
ボリシェヴィキはドイツとの単独和平を実現させた。戦後の外交関係なんか、社会主義建設を目指す彼らには関係ないのである。農民の反乱、労働者のストライキも容赦なく弾圧した。二月革命後になかなか開かれなかった「憲法制定議会」の選挙が実施されたが、圧倒的に支持されたのは農村に強いエスエル(社会革命党)だった。そうすると、レーニンは「ソヴィエト共和国」が全権を掌握するとして、憲法制定議会を解散した。こうして一党独裁のソ連が成立していくわけだけど、それは「人類史上初の社会主義政権」というものではなかったというべきだ。