尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

オウム事件の「真相究明」とは-オウム事件考②

2018年07月31日 23時36分30秒 | 社会(世の中の出来事)
 オウム真理教事件の死刑執行があり、これで「真相解明されず」といった論調で報道するマスコミもあった。それ以前に「麻原彰晃の死刑執行の前に、治療して真相を語らせるべきだ」という呼びかけもされていた。この問題をどう考えたらいいのだろうか。

 僕は「執行ではなく治療」という考え方には無理があると思っていた。だから、このブログでもそういう主張はしていない。ただ僕は麻原彰晃が「心神喪失」状態にあったのではないかという疑いは強く持っていて、だから死刑の執行ができる状態だったのか、法務省はしっかりと説明するべきだとは思っている。もともと刑事裁判の目的は「真相究明」ではなく、「刑事責任の有無」を決めることである。法務省の役割は確定判決の執行(死刑だけでなく、懲役や禁錮確定者の刑務所収容、罰金を払えないものの労役場収容など)である。しかし「裁判幻想」があって、多くの事件で「裁判で真相は究明されなかった」と報道される。もう決まり文句になっている。

 死刑囚といえど、執行されるまでは病気になったら治療されなけれなならない。しかし、刑務当局の立場からすれば、それは「ちゃんと執行するために、元気でいてもらわないといけない」ということである。治療の目的が「死刑を執行するため」というのでは、医療とは本質的に相容れないのではないか。拘置所には多くの治療が必要な死刑囚がいる。連合赤軍事件の永田洋子も、連続企業爆破事件の大道寺将司も獄中で死んだ。冤罪を訴え続けた帝銀事件の平沢貞通、牟礼事件の佐藤誠、波崎事件の富山常喜、名張事件の奥西勝、三崎事件の荒井政男、みな雪冤ならず獄中で死んだ。ざっと数えてみれば、21世紀になって29人もの死刑囚が獄中で病死している。

 このように「死に至る病」でさえ満足に治療されていない現状がある。どうせ死刑にするんだから、病死してくれた方が手間がかからない…と思っているかどうか、それはタテマエ上は適切な治療をしているとは言うが現実には怪しい。と同時に全体的に犯罪においても「高齢化」が進行しており、死刑囚も高齢になれば長年の拘置が心身をむしばむことも理解できる。長年にわたって執行されていない死刑囚もいるが、共犯者や再審請求だけでなく事実上執行できない精神状態になっている者もいるのではないか。死刑囚に限らない獄中の劣悪な処遇を見るとき、「麻原を治療する」ことよりも他にもっと緊急に医療が必要な人がいる可能性の方が高い。

 それに精神医療の現状を見れば、仮に麻原彰晃を無条件で病院に移し丁寧な医療措置を施しても、では何か語りだすという想定は難しい。袴田さんのケースを見ればそう思う。肝臓や腎臓などの病気の多くと同様に、精神の病も一生抱えていく場合の方が多いと思う。ところで「心神喪失」という刑法、刑訴法に規定される用語も、精神医学的にはなんだかよく判らない。病状名でそういう言葉は使わない。法精神医学の中の独自概念になっている。

 「自分で悪いことだと判っていて、あえて犯罪を選択した」という「近代的自我」を前提にして、だから罰するというのが近代的法制度である。だから病気で判断力が失われていた場合は、その行為の責任を問えないという論理になる。死刑執行の場合も同様で、本人が悪いことをしたと理解していなければ、死刑を執行する目的を達せられないと考えるわけだ。その論理自体を再検討する必要もあるかもしれないが、とりあえずはそういう理解になる。

 ところで、麻原彰晃はいつから心を閉ざした状態なのか。一審段階では語る気ならいくらでも語れたはずだ。弟子たちが「離反」していった後で、何を思ったのか。それは宗教学的、あるいは心理学的というか、興味深いことには違いない。麻原彰晃が語らなかったことであり、語らせたかったことでもある。だけど、ただ犯罪の立証という意味では、おおよそのことは判っているのではないか。大幹部だった村井秀夫が刺殺されたことで、幾分不明なことはある。細かなことで争いもあり、再審を申し立てている者もいた。だけど、坂本弁護士、松本サリン、地下鉄サリンの三大事件の実行犯は全部明確に判明している。事実認定としては大きな問題はないと思う。

 もちろん弟子たちがどんな気持ちで付いていったのか。そこにはいまだよく判らない面も多い。そういうところは今後も考えて行かないといけない。それと僕が思うのは、なぜ坂本弁護士事件の際に捜査が尽くされなかったかである。せめてその時点で終わっていれば、サリン製造ということにはならず、オウム側の人間も含めて死ななくてよかった人が多数いた。だけど安倍政権によると、「森友学園関係の公文書が改ざんされた動機ははっきりとは判らない」んだそうだ。麻生財務相は「それがわかりゃ苦労せん」とか言ってた。そんなのは誰でも判ると思うけど、そんなことさえ「真相究明」できない政府に、オウム事件の「真相究明」など出来るはずもない。

 よく言われていることだけ書くことにする。1985年から86年にかけて、東京都町田市に住む日本共産党国際部長緒方靖夫宅の電話が盗聴されていたという事件があった。後に判ったことは、これが神奈川県警警備部公安第一課による組織的な不法行為だった。ところで「オウム真理教被害者の会」を作っていた坂本弁護士は「横浜法律事務所」に所属していた。この事務所は自由法曹団に属していて、左派的な立場で労働問題にも取り組んでいた。盗聴事件でも神奈川県警の不法行為を厳しく指弾していた。

 横浜市磯子区に住んでいた坂本弁護士事件は、神奈川県警の担当になるが、このように県警と対立関係にある弁護士の「失踪」事件であり、だから捜査を「手抜き」したのではないか。少なくとも「逃げている」「内ゲバだ」などの風説を警察がマスコミに言っていたらしい。宗教団体がこのように残酷な犯罪を起こすとはなかなか想像できなかったかもしれないが、このような背景を考えると神奈川県警の大失態こそが一番究明されるべき問題ではないか。

 なお10年後の1999年、神奈川県警で警察官による覚せい剤使用事件が起きる。問題はそこにではなく、「隠ぺい工作」があったことである。そして「不祥事隠ぺいマニュアル」が各署に配布されていたという驚くべき真相が明るみに出た。そこでは「不祥事を出来るだけ公表しない」方針が通達されていた。この事件では空前絶後の県警本部長辞任、逮捕、有罪確定という出来事が起こった。この前後神奈川県警では多くの不祥事が頻発している。80年代からの「隠さねばならないこと」の積み重ねが組織をいかに腐らせるかがよく判る。若い人だと知らない人も多いかと思い、あえて書いておく次第。
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オウム事件と日本国-オウム事件考①

2018年07月30日 23時52分58秒 | 社会(世の中の出来事)
 オウム真理教事件は重大な問題だったから、常に考え続ける必要がある。だから記事もいつ書いてもいいはずだけど、やはり7月中に書いておきたい。そう言うと、なんだか自分でも「平成の事件は平成のうちに」という法務省と同じような感じがするが。

 今回オウム真理教死刑囚の執行を受けて、マスコミではずいぶんいろんな人がいろんなことを述べていた。いま社会問題の論評をするような人は大体40代から60代ぐらいで、そういう人にはオウム真理教事件は忘れられない事件だったと思う。今回執行された死刑囚は48歳から68歳で、うち50代が9人だった。同世代の人たちにとって、事件が大きな意味を持ったのは当然だろう。しかし、30代以下の人は23年も前のオウム事件はちょっと遠い。その世代には「3・11」が圧倒的な人生体験だろう。60代以上になると、60年代末から70年代にかけての政治の季節の印象が強くなる。僕も1972年の連合赤軍事件が人生で一番衝撃を受けた事件だった。

 何にせよ、これらの事件・事故や災害は人生で何度も経験しない大事件だったのは間違いない。1995年は1月17日に阪神淡路大震災が発生した年である。地下鉄サリン事件直後の都知事選では、各党相乗りの候補に対して青島幸男が当選した。そもそも当時は社会党の村山富市内閣で、自民党が社会党に乗っかって政権に復帰していた。もう全く先の読めない、何が起こっても不思議ではない時代に突入したんだとは思った。でも、ニューヨークの高層ビルにハイジャックされた飛行機がテロ攻撃を行うとか、大地震が起こって日本の原子力発電所が大事故を起こすなどとは全く想像も及ばなかった。今の時代を見通す力は誰にもなかったのである。

 1994年6月に松本サリン事件が起きた。全く謎の事件で、近所に住む河野さんが疑われ続けた。それ以前に1989年に坂本弁護士一家殺害事件が起きていた。オウム真理教の名前はささやかれ続けていたが、警察の捜査はなかなかオウム真理教に及ばなかった。その理由は何だったのか。これが最大の問題だと思うが、国家的に検証されたことがない。

 1995年1月1日の読売新聞が、オウム真理教の宗教施設があった山梨県の村で、サリンが検出されていたと報じた。2月に家族がオウムに入信していた公証役場の所長・仮谷清志さんが白昼に公然と誘拐されるという事件が起こった。(結局仮谷さんは監禁され死亡した。)これ以後は非常に緊張した日々が続く。地震で何千人もの人がなくなった直後でもあり、東京でも何かが起きるのではないか。そうした不安が世の中に漂っていたと思う。

 このようなオウム真理教による犯罪は、あまりにも想像を絶する規模のものだった。その責任の大きな部分は、間違いなく教祖の麻原彰晃(松本智津夫)にある。犯罪発生時に麻原が「心神喪失」状態にあったとは考えられない。オウムのような「上意下達」型の組織において、最上層にあるものが判断不能に陥っていたとしたら多くの犯罪は起きなかっただろう。弟子たちが教祖の意思を「忖度」して事件を起こしたと考えるのは、多くの弟子たちの証言から明らかに無理がある。

 そのような巨大な犯罪をどう裁けばいいのか。だが特殊な事情が多いとは言っても、一つずつを見れば刑法犯なんだから、通常に捜査して起訴するしかない。このような巨大犯罪の「首謀者」には、その社会の法的体系で認められている最高刑が科せられるべきだろう。日本では最高刑が死刑だから、これを裁いた裁判所が死刑以外を選択する余地はない。もちろんそれは「首謀者」の場合で、個別の実行犯に関しては違った量刑もありうるが。僕が今書いているのは、日本の刑法に死刑がある以上、裁判官が勝手に死刑を科さないというわけにはいかないことだ。

 僕はオウム真理教事件よりずっと前から死刑廃止論者である。中山千夏に「ヒットラーでも死刑にしないの?」という本があるけど、僕の立場は「麻原彰晃でも死刑にするべきではない」というものだ。だが現実の日本には死刑制度がある。現行の法体系を前提にする限り、首謀者である麻原彰晃に死刑判決が出るのはやむを得ない。ところで、僕が言いたいのはそういうことではない。世の中には「日本に死刑がある以上、麻原の死刑を執行するのは当然だ」という人が多い。だが「現行の法体系を前提にする限り」、死刑判決が出るのは理解できるわけだが、「現行の法体系を前提にする限り」、刑事訴訟法479条に規定された「心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する」によって、麻原の死刑は執行できないのではないか。

 袴田巌さんの精神状態を見ると、まったく冤罪であることが疑えない者でも、死刑が確定した状況であまりにも長い間を拘禁されると、明らかに「心神喪失」になるということだ。それを考えると、当初の麻原彰晃は自分の意志で口を閉ざしたのかもしれないが、その後の長い拘禁によって「心神喪失」の状態になっていないとはいえないだろう。日本政府は麻原彰晃の精神状態をどう見ていたかを明らかにしていない。法務大臣は「個別事情」は答えないとしている。しかし、麻原の精神状態は「個別事情」ではない。死刑執行が違法なものだったかどうかという問題である。

 何の説明もなく死刑を執行したということは、「日本国対オウム真理教」の対決という視点で見た場合、日本国の方が圧倒的に強いということは証明しても、日本国が正しいということを証明しなかった。そのことが僕には残念なのである。多分そうなるだろうと予測しながらも、もう少し別のやり方があったのではないかと思う。ところでオウム事件の「真相究明」を言う人がいる。そのことをどう考えるか。またオウム事件は日本をどう変えたかなどを今後続けて書きたい。
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確かな感動本、「手のひらの音符」を読む

2018年07月28日 22時21分04秒 | 本 (日本文学)
 台風12号が東から西へ動いている。普通の台風とは逆の動きで、小笠原あたりから八丈島に近づいて、今日(28日)には関東を直撃しそうだった。それがどんどん西へ曲がっていって、結局東京では大きな被害はなさそうだ。でも、前日の段階ではそれは判らず、土曜日の鉄道は大混乱になるかもしれなかった。ということで、土曜は外出は無理だろうからと前夜はひたすら読書。

 藤岡陽子「手のひらの音符」(新潮文庫)という本が新聞に紹介されていて、面白そうだった。最初の方は服飾業界の話から、京都の子ども時代の話へ移り、なんだか舞台が身近じゃない感じがする。でも読んでるうちに登場人物たちの構図が判ってくると一気読み。なるほど評判になるだけある。これは今を生きている人に送られた、とても大切なバトンのような本だ。受け取ったバトンを次の人に渡したくなるから、ここで簡単に紹介しておくことにする。

 瀬尾水樹はもう40代半ばの服装デザイナーで、「服のマクドナルド」をめざした会社を退社し、自分なりに納得できる服作りを続けてきた。それなりに評価されてきたんだけど、会社が服部門から撤退することを決めてしまう。そんなときに高校時代の男子学級委員、堂林憲吾から携帯電話がかかってくる。高校時代の担任の先生、上田遠子先生が重病で入院しているという。家が貧しく、高卒で就職することしか考えていなかった水樹に、進学を勧めたのが先生だった。もう内定も出ていたのに、三者面談で進学を母に勧め、そのことで今の人生があるのである。

 学校時代の水樹は京都郊外の団地で暮らしていた。近くに住む森嶋家の子どもたちとは幼なじみで、兄の徹、森嶋家の三兄弟と祭りに行ったりするのが楽しみだった。一番上の正浩、同い年の信也、そして発達障害でいじめられている悠人。だが森嶋家に悲劇が訪れ、同級生の森嶋信也は心を閉ざしてしまう。高校も一緒だった信也は忘れがたい人だったが、東京の学校に受かった水樹の上京前日に会ったまま、ある日ふっつりと一家ごと消えてしまった。以後一回も会ったことがない。大切に思ってくれる人もいたけど、結局水樹は独身のままだった。

 といろいろ書いても、大事なことは伝わらない気がする。時間と空間を行ったり来たりしながら、水樹の人生を通して読者はずいぶんたくさんのことを感じることになる。「日本のものづくりのありかた」なんかもその一つ。「教員という人生」もある。「親の生き方」も出てくる。水樹の母と森嶋家の母の生き方は違ってくるが、どっちがいいとは言えない。水樹は家が貧しいから、金銭的苦労を掛けたくなくて進学は諦めていた。だけど先生から進学を勧められた母はむしろ喜んだ。自分の子に才能を見出してくれて、そんな子どもにお金を出せるのが親の喜びだったのだ。

 やはり「いじめ」も出てくる。悠人へのいじめと水樹自身へのいじめ。その時の森嶋信也の行動。「リレー」を通して語られる「全力で生きること」の大切さ。そう言えば、幼いかれらは周囲になじまない悠人に対して、「ドは努力のド、レは練習のレ、ミは水樹のミ」とうたっていたのだった。この小説が特に重要なのは、「ヤング・ケアラー」の問題を取り上げていることだ。悠人を抱えて生きていく信也だけでなく、実は堂林も壮絶なケアラーとして生きていたのだ。信也、堂林、遠子先生をつなぐものがあったのである。それにしても消えてしまった信也はどこに?
 
 藤岡陽子(1971~)という人は、同志社大学を出て報知新聞のスポーツ記者になり、その後タンザニアのダルエスサラーム大学に留学。帰国後に看護専門学校を出て看護師になった。ここだけでも相当珍しい経歴だが、その後看護やスポーツに関わる小説を書き始めた。デビュー作の「いつまでも白い羽根」(2009)はドラマにもなった。「手のひらの音符」は2014年の本で、2016年に文庫化されていたが、最近になって話題を呼んでいる。題名がいま一つ内容とミスマッチな感じで、これじゃ音楽の話かなと思ってしまう。ラストの忘れがたい感動はぜひ多くの人に読んで欲しい。
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岸田政調会長は安倍首相と会ったのか

2018年07月27日 23時05分38秒 |  〃  (安倍政権論)
 オウム真理教の問題を続けて書くつもりだったけど、ちょっと政治の「小ネタ」を。何だか興味深いんだけど、あまり書かれてないようなので。7月24日に、自民党の岸田政調会長が来る9月に行われる自民党総裁選に不出馬を表明した。そのこと自体は大した問題じゃない。やっぱり出ないんだなあ程度の感想である。まあ出ても勝てない。岸田派は48人いるから、総裁選に出るために必要な20人の推薦人は確保できる。その意味では石破氏や野田氏より有利だ。でも人気がさっぱりだし、ヘタして石破氏より下になると二度と総裁候補になれないかも
 (24日の岸田氏)
 まあそんな感じで総裁選出馬を見送ったんだろうが、これは今の自民党を象徴している。安倍氏は自民党総裁をすでに3回務め、内閣も第4次まで来たが、一時は森友、加計問題で支持率も急降下、不支持が上回った。その後回復の兆候も見えるけれど、いつの間にか総裁選は安倍氏有利になっている。安倍氏の属する細田派、副総理の属する麻生派、幹事長を出している二階派。共通利益を有するこの三派の結束が崩れない限り、安倍氏三選が有力だ。

 そういう情勢を見て、岸田氏も不出馬と安倍氏支持を表明したわけだろう。岸田派というのは「宏池会」(こうちかい)で、池田勇人、大平正芳、鈴木善幸、宮澤喜一と4人の首相を輩出した名門派閥。岸、福田、安倍晋太郎とは違う系列にある。政策的にも本来は「潜在的反安倍派」であり、一定の期待を持たれてきた。でも2021年には、もはや岸田氏の出る幕はないのではないか。「加藤の乱」前後の加藤紘一氏のケースがトラウマになっているのだろうが、冷や飯覚悟の行動も「天下取り」には必要だ。まあ外相時代の岸田氏を見ても「その程度」の政治家だったのだろう。

 ところで、24日の不出馬表明にあたって、岸田氏は23日に安倍首相に会って、不出馬と安倍氏支持を伝えたとされる。「西日本豪雨や北朝鮮問題」を理由にして、「今の政治課題に安倍総理を中心にしっかりと取り組みを進めることが適切」なんだという。ものは言いようで、毎年のように災害は起きるし、「北朝鮮問題」が完全に解決するまで安倍首相がずっとやるべきなんだったら、いつまで安倍内閣が続くことやら…。自民党総裁は私的な役職だけど、事実上は日本国の総理大臣だ。そういう大事な問題について、二人で会って決めてしまっていいのか

 本来はそういう「闇取引」みたいなことはおかしい。それでも安倍氏と直接会って「現下の政策的な取り組みについて合意した」ことは、不出馬を正当化する最低ラインだろう。出馬を強く求める同志、支持者もたくさんいたわけだから。ところが、菅官房長官は25日の記者会見で「(首相は)会ったことはないということだった」と発言した。自民党の三役である政調会長が会ったと言ってるのに、首相本人は会ってないと言う。どうなってるんだ? 岸田氏はウソをついているのか

 新聞に載っている「首相動静」では確かに会っているとは出ていない。午前中は歯の治療で日本歯科大付属病院に行っていた。正午前に官邸に戻り、しばらく来客はない。その後は議員や官僚が相次いで訪れ、7時前に自宅に帰っている。しかし、新聞記者が作る「首相動静」は官邸正面から入る面会者を確認するだけである。他に出入り口もあるし、大体官邸以外で会うのはつかみようがない。総裁と政調会長は連絡がつかないと困る関係だろう。本人同士もそうだし、秘書同士も携帯電話でいつでも連絡が付くだろう。出先でちょっと会っても何の不思議もない。

 それなのに、首相、官房長官は会談自体を否定する。何故だ? 誰でもすぐに思いつくのは、加計問題だ。愛媛県の文書で、安倍首相と加計孝太郎氏が会ったと書かれていたが、安倍氏も加計氏も会ってないと否定している。何でも加計学園関係者が間違って県に伝えたとか。首相動静には確かに載ってないわけだが、首相と加計氏は会ったのか。ここで「首相動静に出てない岸田氏と会ってたと認めると、じゃあ加計氏ともどこかで会ってたんじゃないかと思われる」ってことだと思う。違うかな? でも民間人で遠くに住んでる加計氏と与党の政調会長では立場が違う。

 ウソをついたことにされた岸田氏は怒らないのか。支持者や同志に何と言い訳するのか。あるいは、しないのか。岸田氏も加計問題に波及することに気づいて、ことを荒立てないことにしているのか?その代わり、秋に見返りがあるのか。でも官房長官にバカにされたままでいいのか。これで判るのは、むしろここまで神経質になるってことは、やっぱり加計氏と会ってたってことだよね。安倍首相も、こんなことでウソついてどうするんだろう。
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オウム「B級戦犯」の死刑執行

2018年07月26日 22時42分19秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 オウム真理教事件では13人の死刑が確定していた。そのうち教祖の麻原彰晃(松本智津夫)など7人の死刑が6日に執行された。残る6人はどうなるかと思っていたら、26日にすべて執行されてしまった。これは僕には信じられなかった。「共犯者は同時に執行するのが通例」という人もいる。「残されて執行に怯える日々は残酷」という人もいる。しかし、1年ではなく、1月の間に13人の死刑を執行するとは、現在の「先進国」の例としては考えられないと思っていた。

 「現場」にかける負担が大きすぎるんじゃないかと思っていたのである。命令する法相の方も普通なら大変だ。大体の内閣で、通常国会終了後の夏から秋に内閣改造がある。今の第4次安倍内閣は、2017年10月の総選挙後の11月1日に成立した。今年は9月に自民党総裁選があるから、常識的にはその後の新総裁(恐らく安倍総裁)が決まるまでは今のままだろう。7人を執行したことで、上川陽子法相の役目はおしまい。次の執行は次の法相かと思っていた。

 執行場所を見てみると、6日の執行では東京=3人(松本、土谷、遠藤)、大阪=2人(井上、新実)、福岡=1人(早川)、広島=1人(中川)だった。26日の執行では、東京=3人(端本、豊田、広瀬)、名古屋=2人(岡崎、横山)、仙台=1人(林)である。大阪と名古屋は、両日に分かれているが、ともに同じ日に二人が執行されている。これは恐らく移送の時点で死刑執行の順番が決められていたということだろう。(なお「懲役」囚は「刑務所」で服役するが、死刑囚の場合は執行されるのが「刑」なので、刑の確定後も拘置所で拘置されている。)

 以上で見たように、東京拘置所では3週間の間に6人の執行があった。刑務官は命令が下れば従わざるを得ない立場だが、いくらなんでもこれでは精神的負担が大きすぎるのではないだろうか。どんなに重い罪を犯した重罪犯と言っても、今では長い間拘束されていた弱い人間にすぎない。死刑は執行する側の負担も重い。何でも特別手当が出るらしいが、お金の問題じゃない。ホンネを言うなら、誰かの答弁じゃないけど「それはいくら何でも、いくら何でもご容赦ください」と言いたいんじゃなかろうか。しかし、森友・加計問題を見るまでもなく、「現場」に苦労を押し付けてなんとも思わない安倍内閣である。一月の間にまた大量執行があることも予想しておくべきだった。

 今回執行された死刑囚は、オウム真理教事件では「B級戦犯」的な存在である。ドイツおよび日本に対する戦争犯罪裁判では、A級が「平和に対する罪」、つまり戦争そのものを起こした戦争責任が問われた。一方、B級は「通常の戦争犯罪」である。それをオウム事件に当てはめれば、事件全体の首謀者、立案者的立場だった教祖、幹部クラスがA級、命令されて従っただけの兵士レベルがB級と言ってもいいだろう。もちろん「命令されて従っただけ」でも刑事責任はある。それは当然だけど、しかし自ずから刑罰には軽重がある。今回執行されたメンバーの中には、恩赦で罪一等を減じてもいい死刑囚もいたように思う。

 オウム真理教事件そのものは別に書きたいと思いつつ、なかなか気持ちがまとまらない。「これでオウム真理教事件の法手続きはすべて終了した」などとマスコミは報じている。何を勘違いしてるんだろうか。無期懲役囚が懲役刑を務めている間は、「法手続き」が続いているじゃないか。無期懲役は終身刑じゃないけど、現在は事実上果てしなく終身刑化が進行している。それはともかく、オウム事件の懲役囚がいる間は事件が続いている。

 「自首」が認められて無期懲役になった林郁夫の場合、地下鉄サリン事件で二人の死者と多くの重傷者を出している。一方「自首」しても軽減されなかった岡崎一明、地下鉄サリン事件で死者が出なかった横山真人、坂本弁護士、松本サリンで裁判所も「従属的立場」と認めた端本悟の場合などを考える合わせると、重大犯罪に関わったと言っても刑罰の軽重を人間が決定できるのかと思う。

 今回のような大量の死刑執行を見ると、安倍内閣は「外からの批判に聞く耳を持たない」ということがよく判る。アメリカのトランプ大統領、ロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席、皆同じだ。あるいはトルコのエルドアン大統領、フィリピンのドゥテルテ大統領、カンボジアのフン・セン首相…。そう言えば同じようなタイプの指導者が増えている。安倍首相の「お友達」が多い。後のアメリカ大統領、テキサス州知事のジョージ・ブッシュは大量の死刑を執行したことで知られる。(その中には国際人権規約で禁じられた犯行時未成年の死刑囚も含まれる。)ブッシュがイラク戦争を始めることを思えば、やはり死刑制度と戦争は深い関係があると思う。
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映画「グッバイ・ゴダール!」を見る

2018年07月25日 22時38分21秒 |  〃  (新作外国映画)
 ミシェル・アザナヴィシウス監督の「グッバイ・ゴダール!」という映画が公開されている。Michel Hazanavicius というのは、長くて覚えにくい名前だけど、映画ファンなら「アーティスト」を作った人と言えば判るだろう。イマドキ無声映画を作ってアカデミー作品賞を取っちゃった人だ。その後「あの日の声を探して」というチェチェンを舞台に子どもの悲劇を描いた。今回は1968年のジャン=リュック・ゴダールを描く映画で、ゴダールの妻だったアンヌ・ヴィアゼムスキーの小説が原作。

 ゴダールは「勝手にしゃがれ」でデビューして「ヌーヴェルヴァーグの旗手」と呼ばれた。その後、60年代を通じて「女と男のいる舗道」「軽蔑」「気狂いピエロ」など評価の高い映画を作っていた。初期には妻のアンナ・カリーナの主演映画が多いが、65年に破局した後にゴダールは政治化していった。67年にはフランスのマオイスト(毛沢東主義者)を描く「中国女」を作る。その映画の主演に抜てきしたのが19歳のアンヌ・ヴィアゼムスキー。16歳の時にロベール・ブレッソンの「バルタザールどこへいく」に主演していたが、実質的には政治を学ぶ大学生だった。ノーベル賞作家フランソワ・モーリヤックの孫にあたる。その後二人は親しくなって結婚した。
 (五月革命時の街頭)
 そんな前置きは映画を見るときに必要ないはずだが、この映画に関してはゴダールを見てないと面白くないだろう。ゴダールをカリカチュアする映画を、いかにもゴダール的なパロディ映画として撮っている。そこが映画ファン的には面白い。「中国女」は中国に受けるかと思ったら、中国大使館に拒絶される。観客の反応もかんばしくない。そりゃあ当然だろうという映画だった。しかし、「革命の映画」から「映画の革命」へとゴダールはとことん過激化していった。

 その過程を若き妻として伴走していたのがアンヌだったけど…。でも、これじゃ耐えられないだろうな。マジメ過ぎて浮きまくるゴダール。68年5月には「五月革命」が起こり、パリは突然デモ隊でいっぱいになる。ゴダールもカメラを持って出ていくが。「反復」が喜劇の作劇法だが、デモのたびに転倒しては眼鏡を割ってしまうゴダール。あまりに繰り返されるので、最後には笑えない。学生集会に参加しては、受けない演説をしてしまう。不器用な天才を愛してしまった若き妻は?

 68年のカンヌ映画祭は中止に追い込まれた。ゴダールもだが、トリュフォーやルイ・マルが強硬な反対派だった。5月革命だけでなく、ドゴール政権の文化政策、特にシネマテークのアンリ・ラングロワ館長解任事件が大きかった。(映画には出て来ないが。)ゴダールは行きたくないけど、アンヌは行ってみたい。カンヌに出品予定の友人監督と一緒に出掛けるが、宿泊先は保守系新聞の社長別荘。ごねるゴダールも結局は行くことになる。そこは「気狂いピエロ」のラストを思わせる別荘である。帰りのガソリンがゼネストで入手できなくてパリに帰れないのもイライラさせる。ゼネストを支持していたのは誰?とからかわれる。やっと帰れると車の中で大激論。

 そんなこんなの日々を描いていくが、やがて夫婦の間には隙間風が。夫は政治化する一方で、ほったらかしの妻の浮気を疑う。イタリアのマルコ・フェレ―リから出演のオファーが来るが、全裸は困る。そこで監督はアンヌだけは服を着せるけど、相手役は裸だから心配。撮影現場まで出かけて二人で食べるシーンは、うまく行かない二人のいたたまれない食事シーンが悲しい。ゴダール役はルイ・ガレル。映画監督フィリップ・ガレルの息子で、父の映画の他「サンローラン」などに出ている。アンヌはステイシー・マーティン。「二ンフォマニアック」でシャルロット・ゲンズブールの若いころをやった。アンヌはともかく、ゴダールは外見的にはすごく似ていると思った。
  (ホンモノのゴダールとアンヌ)
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ヤン ヨンヒ「朝鮮大学校物語」

2018年07月24日 23時17分15秒 | 本 (日本文学)
 映画「かぞくのくに」を作った映画監督、ヤン ヨンヒ(梁英姫、1964~)の「朝鮮大学校物語」(角川書店)を読んだ。1983年に東京の朝鮮大学校に入学した大阪出身の「パク・ミヨン」の物語である。著者本人なのかなと思って読んでいくと、もちろん本人の経験もあると思うけど、ちょっと違うなという描写も多い。そもそも著者は兄3人が「帰国者」(帰国運動で朝鮮民主主義人民共和国に帰った人)だが、作中のミヨンは姉が「帰国」している。だんだんラストに近づくとはっきりするが、ミヨンは著者が「こういう生き方ができたらよかった」という姿なんだと思う。

 短いプロローグ、エピローグの間に、1年生から4年生までの4年間が描かれている。ミヨンは入学当初から、自由を求めていて学校の厳しい規則になじまない。もともと大阪の朝鮮学校時代も演劇や映画に夢中で、演劇雑誌「テアトロ」を購読して部屋に持ち込んでいる。東京でも「大劇場のミュージカルからアングラ劇団のテント芝居まで、観まくる生活を送ればいい」と思ってやってきた。そんな人が朝鮮大学校にいたのかと思うが、親が総連幹部で朝鮮学校へ行ったが内心ではもう演劇少女だったということだろう。

 先輩に連れられて、俳優座劇場で上演されたウェスカーの「料理人」を見に行く。主演が在日朝鮮人で本名で出ていると言われて驚く。多摩地区の小平にある朝鮮大学校から、俳優座劇場のある六本木まで、ずいぶん遠い。全寮制で門限が8時だから、日曜の昼間の公演を見たら、すぐ帰らないと遅れる。でもどうしても公演後の飲み会に付き合ってしまう。そして案の定遅れるが、食べてないから男子朝大生しか行かないというラーメン屋に入る。そこで武蔵野美術大の学生、黒木裕とふとしたことから知り合う。(ムサビは朝大の隣にある。)

 この小説にはいろんな読み方がある。「朝鮮大学校」という「秘境」に紛れ込んだレポート。80年代初期、朝鮮人女性が日本人の男子大学生と知り合って、対等の恋愛関係は成立するか。そんな環境で、当時の東京のようすも描かれる。ミヨンと黒木裕はある日曜日に、長いこと見たかったフランス映画「天井桟敷の人々」を池袋の文芸坐に見に行く。そういう描写も非常に興味深かった。しかし、この小説の最大の読みどころは、3年時の卒業旅行だろう。

 もちろん「祖国訪問」に行くのである。ピョンヤンには10年前に別れた姉がいる。姉は音楽家で、同じ仕事の夫との間に娘も生まれた。大阪の母のもとには聞きたいというクラシック曲のリクエストが来る。(クラシックは最近許可になったとか。)CDはないというから、まずCDラジカセから買っていくが、入国時に係官をもめることになる。しかし、そんな姉はピョンヤンにいないと告げられる。中朝国境の新義州に転居したという。なんで? 何があったの? その事情は次第に判ってくるが、一体ミヨンは姉と会えるのか。ここで見聞きする「祖国」の真の姿、恐るべき階級社会、秘密社会の様子が一番心に響くところだ。

 そして4年生、卒業してどうする? 著者履歴を見れば、実際の著者は卒業後に大坂朝鮮高級学校の国語教員となっている。(国語とはもちろん朝鮮語である。)その後に退職し、演劇や映画に関わり、ニューヨークに留学する。つまり、小説中のミヨンとは違う。本人ができなかったことをミヨンがやっているんだろう。ヘイトスピーチに見られる日本社会の差別、朝鮮人社会に根強い男性中心的な世界観など、いろんな問題が詰まってる。だけど、何より読んで元気になる本だと思う。著者の兄は一人が亡くなったが、まだ二人が「北」にいる。こんな本を書いて大丈夫かというと、もう批判する映画を作っているわけで、「有名過ぎて家族に手を付けられない存在」になるしかないと言っている。だからみんなできるだけ買って、読んでみましょう。
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劇団燐光群「九月、東京の路上で」を見る

2018年07月23日 22時39分02秒 | 演劇
 劇団燐光群公演「九月、東京の路上で」を22日に見た。下北沢のザ・スズナリで、8月5日まで上演。加藤直樹氏の同名の著書をもとに、劇団を主宰する坂手洋二が作・演出したもの。原作は関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺の現場を訪ね歩いた記録である。しかし、これはフィクションじゃなく、ドキュメントである。一体どうやって舞台化するんだろうか。

 テーマに関心があるから、見に行かないわけにはいかない。燐光群も久しぶりだし、ザ・スズナリも久しぶりだが、何しろ猛暑なんで参った。21日がプレビュー公演だから、珍しく事実上の初演日に見に行った。それは原作者がアフタートークに出るだ。それに唯一の午後5時開演というのも良かった。2時開演だと一日がそれで終わるし、7時開演だと帰りが11時を回ってしまう。このぐらいの時間もいいかなと思う。

 さて、劇が始まると本を持った出演者が出てきて、本の「まえがき」や最初に出てくる萩原朔太郎の詩を代わる代わる読み始める。えっ、群読なのという出だしだが、もちろん全部がそうじゃない。世田谷区の千歳烏山(ちとせからすやま)にある「烏山神社の椎の木」の話は、元の本でもとても印象的なエピソードだ。その話を使って、東京五輪に向け千歳烏山を活性化させようと集まる人々という設定を作った。彼らは地元に残る「椎の木」のエピソードを探り、朝鮮人虐殺があったことを知る。衝撃を受け他の現場も訪れるようになる。一方、その後神社に植えられたという13本の椎の木が今は4本しか残っていないのを知り、街を活性化する方策として残りの木を植えるアイディアを思いつく。しかし、この椎の木は何のために植えられたものだったか。

 こうして原作をもとに13人の俳優たちが「市民」となって過去を探っていくのだが…。そこに突然舞台を異化する人物が現れる。ジョギングをしていた自衛官を名乗る人物が、歩いていた国会議員大西を「国民の敵」と罵倒するのである。これはもちろん、実際に起こった小西洋之参議院議員に対する実話がもとになっている。現役自衛官が野党議員に対し「国民の敵」と暴言を吐くという驚くべき出来事だった。しかし、僕もここで書かなかったし、もう忘れてる人も多いかもしれない。改めてほぼ当時の発言そのままという自衛官の言動を聞くと、過去に通じる恐ろしさが身に迫る。

 この自衛官が一つの象徴となって、以後も2回ほど現れる。「大西」が現れる所を追いかけるかのように。これが演劇的には非常に効果をあげていると思う。リアルな設定かというと、どうもよく判らないけど、現在という地点で感じる何か「嫌な感じ」を浮き彫りにしている。アフタートークで坂手洋二が語ったように「代替り」「五輪」を経た時の日本は一体どのような恐ろしい社会になっているか、予想も出来ないということだ。その様子をまだ僕らははっきりと想像することができない。しかし、何だか見え始めている新しい時代を何とか感知しようというのが、この舞台だと思う。

 加藤直樹さんの話でなるほどと思ったことがある。本に関して日本各地で講演に呼ばれたりするようになった。そうすると東京の地名が判らない、イメージが湧かないと言われるというのである。たしかに東京を始めとして関東各地で起こった事件ばかりだ。(中国人王希天や日本人が襲われた福田村事件も出てくる。)それは当然と言えば当然で、関東大震災の話なんだからやむを得ない。でも日本全国の話ではなく、首都圏の問題だったということに気づかされた。

 例えば後に有名な俳優となり、俳優座を結成する千田是也(せんだ・これや)の芸名は、震災時に千駄ヶ谷で朝鮮人と間違われて殺されかけたというエピソードから取られている。「千駄ヶ谷のコリアン」である。その体験を忘れないようにと付けた。これは有名な話なんだけど、確かに「千駄ヶ谷」という地名(というか駅名)の喚起するイメージがこのエピソードには付いて回る。(日本棋院のあるとこだが、建設中の国立競技場や東京体育館など「五輪の中心」になる場所だ。)

 ドラマとして成功しているかは、僕にはよく判らない。原作を読んでるし、東京東部の学校で授業でも取り上げてきたテーマだから、知ってると言えば知ってる話である。早めに下北沢に行ったらどこのお店もいっぱいで猛暑にゲンナリした。あまりの暑さで、ちょっとボっとして見た気がする。でも、これは劇を見るという意味ではなく、日本の「いま」と「これから」を予感するためには絶対に見ておくべき劇だ。あまり詳しくない人は、原作もぜひチャレンジを。
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日傘の効用

2018年07月21日 22時15分49秒 | 自分の話&日記
 国会が事実上終わって、政治の問題を書こうかと思った。少し書き出したんだけど、風呂から上がったらなんだか面倒になってしまった。僕は安倍首相が辞めると思ったことはないし、一時不支持が上回った安倍内閣の支持率もやがて回復してくるんだろうと思っていた。実際そういう感じなんだけど、当たってもうれしくない。なぜそうなるかが理解できないのである。安倍外交も、「アベノミクス」経済も、もう底が見えたと思うが。まだ「期待」する人がいるんだろうか。

 しかし、そんなことも「猛暑」の前に霞んでしまう。西日本の集中豪雨も、オウム真理教幹部の死刑執行も、あるいはそれ以前の米朝首脳会談サッカー・ワールドカップも…35度レベルの暑さが一週間以上続くような気候にノックダウンである。とにかく暑い。

 今頃、東京五輪は大丈夫かという人が多いのも驚き。僕は開催決定後は、夏の暑さをどうすると書いたと思う。でも、五輪返上も、時期変更も、もうできないんだろうから、僕にはもう関係ない。書いても仕方ないと思うことにした。「ボランティア」というのは、好きでやるはずなんだから、体力的に無理そうな人はやらない方がいい。「ボランティア」を「奉仕」と決めつけて、東京の学生・生徒は五輪に「奉仕せよ」と、きっと東京都は言ってくる。「自衛」できない人もいるだろうことが心配だ。

 夏の暑さに接すると、確かに昔より暑いとは思いつつ、自分の体力も落ちているなあと思う。若い時は少しぐらい太陽を浴びても、そんなにダメージはなかった。まあ山で一日ケアしないでいたら、日焼けで痛いというようなことはあった。夏にはどこかの山に登りに行って、麓の温泉に泊まるというようなことを毎年のようにしていた。だから、ついうっかり日焼けしすぎたということもあった。でも最近はそんなに日に当たってないのに、すぐ皮膚が痛くなる。

 もちろんUVケアはするし帽子を被ったりするけど、それより何より「日傘」の効用がすごいと今年気付いた。最近は「日傘男子」という言葉もあるらしいが、男が日傘なんてという意識もあるんだそうだ。僕はそういうのはなかったけれど、ただ単に持ち歩くのが面倒なので日傘をしようとは思わなかった。でもすごく軽い折り畳み傘にしたので、これなら夕立対策という意味でも、夏は毎日持っててもいいなと思った。そのぐらい軽いのである。検索すればたくさん出てくるけど、今は100グラムもしない傘がいっぱい出ている。

 その超軽量傘は、大雨だと小さすぎる。ビル風にも弱すぎる。だから降水確率5割以下の日しか意味がない。それ以上なら、ちゃんとした傘の方がいい。でも、今年それを日傘に使ってみたら…。全然調子いいじゃないか。ホントに温度が違うのである。そして紫外線を防ぐ効果ももちろん高い。いや、こんなに違うのか。もちろん、いちいち折りたたんで持ち歩くのが面倒だ。面倒で嫌なんだけど、太陽の暴力から身を守る効果は抜群だった。これはまだ男では知らない人が多いだろう。
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追悼・浜田知明と橋本忍ー100歳を生きて

2018年07月20日 23時02分39秒 | 追悼
 著名人の訃報が相次いでいる。劇団四季の浅利慶太が亡くなったが、7月のまとめで書きたい。海外ではフィギュアスケートのソチ五輪銅メダリスト、カザフスタンのデニス・テン選手が強盗に殺害されたという驚くべき悲報に驚かされた。映画脚本家の橋本忍が長命の末、100歳で亡くなったという報道に接し、これは書かないとと思った。しかし、それならつい先ごろ訃報が伝えられた日本を代表する版画家、浜田知明も100歳だった。合わせて追悼記事を書いておこうと思う。

 浜田知明(はまだ・ちめい、本名は「ともあき」、1917.12.23~2018.7.17)って言っても誰だという人もいるだろう。熊本を中心に活動し、作品数が少なく、日本政府からの国家的顕彰もなかったけれど、戦後日本を代表する何人かの版画作家の一人だという評価は定着している。フランス政府からは芸術文化勲章を受けている。(このフランス芸術文化勲章の日本人受賞者一覧がウィキペディアに出ている。ちょっとアレレと思う人もないではないが、日本の文化勲章では選ばれない人が相当数いてフランスらしいなと思う。)注意していれば、あちこちの美術館に収蔵されているし、2018年3月には町田市立国際版画美術館で回顧展が行われた。
 (浜田知明)
 僕がビックリしたのは、日中戦争の残酷な戦場を題材にした「初年兵哀歌」シリーズを見た時である。日本軍の残虐行為を描写しているではないか。そんな人がいたのかと思った。では「社会派」なのかというと、そうではない。ほとんどがエッチング(腐食銅版画)で、その特質を生かした乾いたブラックユーモアが忘れがたい。核兵器や現代社会の不条理をテーマにしながら、ユーモラスな風刺作品が多い。これほどの芸術家が同時代にいた。どこかで是非見て欲しい。
  (「初年兵哀歌」シリーズから)
 橋本忍(1918.4.18~2018.7.19)は、戦後日本を代表する脚本家である。近年もシネマヴェーラ渋谷や新文芸座で脚本家としての特集上映が行われた。脚本家の名前で今も特集される人は数少ない。長命すぎて最近の若い映画ファンには知らない人もいるかもしれないが、70年代にはとても有名な人だった。書き始めるといくらでも書けるから、簡単にしたいなと思う。橋本忍の出発点は黒澤明の映画だが、僕は「超大作」の作り手として名前を知った。
 (橋本忍)
 60年代の「白い巨塔」「日本のいちばん長い日」「風林火山」などに始まり、「人間革命」「日本沈没」「砂の器」「八甲田山」「八つ墓村」などと続いた。さすがに3時間は越えないけど、優に2時間半ほどにもなる映画が多い。当時の2本立て興行時代にはそぐわない。一本立てで、時には洋画系列で公開され、多くは大ヒットした。最近見直したら、さすがに「白い巨塔」や「日本のいちばん長い日」はうまく出来ているなあと思ったけれど、同時代にはどっちかというと嫌いな映画が多い。

 黒澤映画では「羅生門」から始まり、「生きる」「七人の侍」「隠し砦の三悪人」などの世界史的傑作に関わっている。黒澤映画の脚本は共作だけど、橋本忍が関わった「羅生門」から「悪い奴ほどよく眠る」までの時代は、全部が成功しているわけじゃないけれど、ダイナミックな映画世界が魅力的な作品が多い。よく言われるのは、橋本忍の世界は「論理的」「構成力」という点で、確かにそういう面はある。だからこそ、正木ひろし弁護士の原作をもとにした「真昼の暗黒」という優れた映画を成功させたと思う。これは世界映画史上に例がない、裁判に並走した冤罪告発映画である。

 その方向性の最高傑作は小林正樹監督による「切腹」だと大方が認めている。これは日本のシナリオ史に残る大傑作。一方、橋本にはもう一面にセンチメンタリズム(感傷主義)があって、70年代の大作群にも「いかにもヒット狙い」という感じで、うまく感傷性が取り入れられている。テレビで評判になり、自身で監督もした「私は貝になりたい」もBC級戦犯問題を論理性より感傷的な描き方で「涙を誘った」わけである。そのような論理性と感傷性をともに兼ね備えていて、だからこそ人気があったのが松本清張である。

 だから「清張映画」を橋本忍が手掛けると成功することが多い。「張込み」(1957)に始まり、「黒い画集 あるサラリーマンの証言」「ゼロの焦点」「霧の旗」「影の車」「砂の器」と続いて、みんな今でも傑作とされている。どうも嫌な話が多いけど、それも清張の特徴。はっきり言って、原作より面白い。さすがに原作をうまく映画にしている。だけど「張込み」以外は二度と見たくないような映画だな。「ゼロの焦点」に典型的だけど、これはテレビの2時間ドラマのミステリーの元祖と言ってもいい。いろんな意味で戦後日本の大衆文化を考えるときに重要な人だった。浜田知明ともども、まだ訃報が聞かれないから存命なんだと思っていたが、やはり人間は死ぬわけだ。
  (どっちも脚本家の名が大きく出ている。)
コメント (1)
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河川災害と国家責任-水害訴訟を考える

2018年07月19日 22時42分15秒 | 社会(世の中の出来事)
 災害の多い日本とはいえ、7月上旬に西日本各地で起こった集中豪雨による洪水、土砂災害には驚かされた。ここ数年、毎年のように起こっている集中豪雨だけど、その災害地の広さ200人を超える犠牲者はかつて経験したことがない規模だ。いつになく豪雨が降り続け、その後はものすごい猛暑である。日本だけでなく、恐ろしい気候変動の時代になってしまった。

 ここ数年に起こった豪雨災害を振り返ると、2017年7月には福岡県朝倉市を中心にした「九州北部豪雨」で死者40名。2016年8月下旬には台風10号で死者・不明27名。この時は岩手県岩泉の高齢者施設で9名の死者が出た。また北海道の水害が翌年のポテトチップス生産に大きな影響を与えた。2015年9月上旬には茨城県常総市に大きな被害を与えた「関東・東北豪雨」で死者20名。2014年8月には「広島豪雨」で大規模な土砂崩れが発生して、死者77名。2013年9月には、伊豆大島で大規模土石流が発生し、死者・不明39名。毎年起こっているのである。

 この間に2014年には御嶽山噴火、2016年には熊本地震が起こった。2011/3/11以後、日本では毎年大災害のニュースばかり聞いている。まあ、大地が揺れ、火山が火を噴き、天空から雨が降ってくること自体は、大自然の営みというしかない。それ自体を恨んでも仕方ないんだけど、それをただ「天災」として済ませるわけにはいかない。こういう災害が毎年のように起こることは事前に判っている。だから、避難の指示や方法が適切だったか様々な施設・設備が適切に作られていたかが問題になる。東日本大震災でも多くの訴訟が起こっている。

 水害の場合はどう考えるべきだろうか。もちろん大雨が降ることは誰にも止められない。国や地方自治体に責任があるわけじゃない。だけど、ただ川があふれたわけじゃない。堤防やダムは人間が作ったものである。大昔のままの河川なんか、今じゃどこにもない。改修工事が行われ、堤防が築かれ、その結果として地域の住民も安全意識を持っている。それなのに川の水が堤防を越え、あるいは決壊し大きな災害をもたらすとしたら、それは「行政の責任」とは言えないか。

 そのように考えた人は前にいて、かつて多くの水害訴訟が起こされた。先陣を切る形で提訴したのが、大阪府大東市で1972年に起こった水害に関して国家賠償を求めた「大東水害訴訟」である。その災害では大東市内の谷田川(たんだがわ)が氾濫し床上浸水が発生した。それは急激に狭くなった谷田川未改修部分が原因だった。住民は改修を長年放置してきた行政の責任を問う裁判を起こしたのである。74年1月に提訴、1976年2月の大阪地裁判決は住民側主張を全面的に認めた。2審の大阪高裁も77年12月の判決で、改修を5年以上も放置していたのは行政の責任だと住民側勝訴の判決を下した。

 この大東水害訴訟に続いて、全国各地で多くの水害訴訟が起こされた。それは41にものぼり、多くの裁判では住民側が勝訴した。河川管理に関しては、国の責任を幅広く認めることが判例になりつつあった。それがガラッと変わったのは、1984年1月26日の大東水害訴訟の最高裁判決である。それは河川管理の責任を限定的に解釈し、大阪高裁に裁判を差し戻した。
 (最高裁判決を報じる新聞記事)
 その判決では、完全に人間が作った道路と違って、河川は自然のものだから制約が多くなるとし、過去の水害、頻度、原因、自然条件、社会的条件等を総合判断する必要があるとした。そのうえで「その計画に不合理な点がなく、後に変更すべき特段の事情が発生しない限り、未改修の部分で水害が発生しても、河川管理者たる国には損害を賠償する責任はない」とするのである。こうして新たに最高裁で作られた「大東基準」によって、ほとんどの水害訴訟は一転して住民敗訴に終わってしまった。今では全国各地で様々の水害訴訟が起こされたことも忘れられている。

 2015年の常総市の水害に対して、8月7日に国賠訴訟が提訴されるという。新聞記事によれば、「土地の改変を行う際に国の認可が必要となる「河川区域」の指定を国が怠ったため、民間業者が自然堤防だった場所の一部を掘削し、水があふれた」という主張という。大東水害以後で、最高裁で住民側勝訴となったのは多摩川水害訴訟だけである。テレビドラマ「岸辺のアルバム」でも有名な1974年の水害である。このケースでは、すでに河川改修が行われ、雨量も想定範囲内だったのに堤防が決壊した。そういう特殊事例に関しては最高裁も国の責任を認めた。

 常総水害に関してはどうなるか判らないが、今のところ全国の行政は「大東基準」をベースに、多摩川訴訟を例外と考えて河川改修にあたっている。つまり、国も地方も財政難の中で「総合的判断」で河川改修を先送りしても責任は問われない。しかし、部分的に改修して結果的に被害が出れば責任を問われかねない。そう考えているんじゃないだろうか。最高裁の大東判決は、今から考えると、近年頻発する水害被害をもたらすものだったのではないか。避難のありかたの問題以前に、「河川管理の国家責任」をもう一度問い直す必要があるように思う。(ダム放流の問題も大きいが、それは別の問題になるのでここでは省く。)
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中山千夏「活動報告」を読む

2018年07月18日 22時55分28秒 | 〃 (さまざまな本)
 中山千夏『活動報告』(講談社、2017.11)という本を読んだ。今まで気づいてなかったけど、これは中山千夏の自伝的三部作の最後の本らしい。最初が『蝶々にエノケン』という「天才子役」が見た昭和の芸人たち。次が『芸能人の帽子』というアナログテレビ時代の「芸能人」時代。そして最後の『活動報告』は1980年から1986年までの参議院議員時代の活動を振り返っている。

 「中山千夏」という人を知らない人もいるだろう。知ってる人でも様々なイメージがあると思う。この人は最初「天才子役」だった。僕は長いこと知識としてしか知らなくて、最近になって中平康監督「現代っ子」とか千葉泰樹監督「がめつい奴」といった映画を見て、その子役姿を確認できた。本当は舞台の活動が中心だが、もちろん見てない。僕は子役時代の中山千夏を全然知らない。

 僕が知っているのは、その後の20歳前後からの歌手やタレントとしての活動から。それまでの商業演劇時代にしっくりこないものを感じて、1968年に専属契約を離れてフリーになった。そのため舞台の口はかからなくなり、テレビでの活動が中心になった。長い髪が魅力的で、「あなたの心に」という歌もヒットした。僕は中学生だったけど、周りでも誰でも知ってるテレビタレントだったと思う。「あなたの心に風があるなら」と続く「あなたの心に」はその頃から大好きで、今も時々口ずさむ。

 その中山千夏がどうして参議院議員になったのか。その活動を当時得票した「162万人」に対して報告するのがこの本である。僕はその162万人の一人だった。僕は今まで国政選挙を一度も棄権していないけど、投票した候補はかなりの割合で落選している。投票した候補者が当選した稀少な例が中山千夏さんだけど、僕が行使した中でも一番有意義な一票だったと思う。当時よく参加していた死刑廃止の集会で、ずいぶん講演を聞いた。こんなに身近な思いで接することができた国会議員は他にいない。(その当時刊行された「国会報告」も、僕も少し読んだと思う。)

 中山千夏は、テレビタレントから「作家」や「市民運動家」になっていった。テレビではどうしても、男性司会者のサブのような役割を割り振られていたが、それでも見ている側はこの人は少し違うと感じたと思う。「自分の考えがある人だ」といった感じは伝わってくるのである。それはその頃文化放送の社員アナだった落合恵子さんも同じだった。深夜放送「セイ・ヤング」で「レモンちゃん」なんて呼ばれて人気が出ていたけど、聞いてれば「この人はそれだけの人ではない」と何となく感じる。その後「作家」として活動し、さらにさまざまな活動を始めてゆくのは周知のとおり。

 「生き方を決めたウーマンリブ」という章があり、その言葉がすべてを表わしている。「ウーマンリブ」とは1970年にアメリカで始められた女性解放運動で、世界的に非常に大きな衝撃を与えた。60年代末に世界で起こった反体制運動、革命運動の中にも男性優位、女性蔑視があったと告発したことが驚きだったのである。まだ「フェミニズム」という概念がなかったころで、日本では一種の風俗的現象として扱われた感もあった。(「リブ」とは解放=liberationの略である。)

 中山千夏さんもその「ウーマンリブ」に触れ、「人生の方針が決まる」「政治の必要性を知る」。そんな中山千夏を具体的な政治の世界に引っ張り込んだのは、雑誌「話の特集」の矢崎泰久だった。「話の特集」はごった煮的な不思議な面白雑誌で、当時はそんな雑誌がけっこうあった、中山千夏もその雑誌に書いていた。1977年の参院選は「保革伯仲」と呼ばれる結果になったが、そのことを見越して「我々が候補を全国区に多数立ててキャスチングボートを握ろう」と考えた人がいた。中山千夏はキャスチングボート(投票の際にどっちに付くかで結果を左右するグループのこと)という言葉も知らなかったけれど、女性として代表になることになった。

 その時に作られたのが「革新自由連合」(革自連)という政治団体だった。その成り立ちをめぐる五木寛之、青島幸男、竹中労などの動きはどうもよく判らない。著名人10人を全国区に立てるという方針はいろいろあって挫折する。情報はマスコミにどんどん漏れてしまい、皆がしり込みする。何とか10人立てたものの結果は惨敗。当選したのはすぐに革自連を離れてしまった(多分もともと選挙の看板に利用しただけの)横山ノック一人に終わった。ちなみにこの1977年の参院選には中山千夏は出ていない。被選挙権を得られる30歳に達していなかったのだ。

 この選挙の失敗で革自連は解散の危機に陥る。矢崎泰久も解散論だったが、中山千夏は継続を主張した。その結果、1980年の参院選では中山千夏が立候補することになった。当時の全国区という制度は全国すべてが選挙区で、上から得票数50人まで当選するという制度。広すぎて有力な団体(業界団体、労働組合、宗教組織など)が付いているか、または知名度抜群の「タレント候補」しか当選できないと言われた。中山千夏は最初に書いたように162万票ほどを得て、5位で当選した。その時の1位は市川房枝だった。

 3年後の参院選では違う制度が導入された。「拘束名簿式比例代表制」である。全国区は政党しか出られなくなってしまった。83年は「無所属市民連合」として候補を立て、比例名簿1位には永六輔を擁立した。2位が矢崎泰久、5位に岩城宏之、10位に水戸巌となっている。もしかしたら僕も投票したのかもしれないが、まったく記憶がない。83年は就職、結婚した年だから、多忙でほとんど何も覚えていない。そして、その選挙は惨敗する。86年は中山千夏の改選期だが、全国区はない。10人立てて比例区に出るのではなく、東京選挙区に転じることを選択した。そして次点で落選。(僕はその時は千葉県に住んでいたので投票できなかった。)それで選挙に出るのも終わり。

 結局、似合わないことをやったのだと思う。議員としての活動は自分で振り返る通り、ずいぶんよくやってたと思う。何かを成しとげたわけじゃないけど、「私の代表」だと思える議員だった。でも「出たい人」じゃなかった。その後、「古事記」などの研究、伊豆に移住してスキューバ・ダイビングを始める。その後も様々な市民運動に関わっている。政界報告の部分は案外短くて、政界裏話を期待すると裏切られる。僕はウーマンリブ時代の「新宿ホーキ星」の話が一番面白かった。そして、「死刑をなくす女の会」のこと。そういう団体があったのである。当時の記憶を持たない世代、「中山千夏」という名前も知らない世代にこそ、そんな時代もあったのかと読んでみて欲しい本。
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オウム死刑囚、刑執行の問題点を考える

2018年07月17日 20時20分40秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 時々つながる不思議なネット接続、つながってない間にワールドカップは終わってしまった。日本代表に関してはもっと書きたいことがあったが、もういいかな。西日本の集中豪雨に関しては、また後で。まずはオウム真理教の死刑執行の問題点について書きたい。

 オウム真理教幹部7名の死刑が執行されてだいぶ経ったけれど、僕にはいくつもの疑問点がある。日本政府は死刑制度存続に固執し、21世紀に入ってからも毎年執行してきた。執行の人数や順番は秘密とされ、誰がいつ執行されるのかはよく判らない。大まかには死刑の確定時期をもとに、再審、恩赦の請求の有無などによって判断されるが、今までにもまだ順番にならないはずの死刑囚が執行されたことも多い。

 その意味では、今回のオウム真理教の場合も、一般的な日本政府の「死刑執行に関しては秘密にする」方針から外れているわけじゃない。だから「疑問」なんてないという考え方もあるだろう。単に共犯者の裁判が終わって順番が来ただけだと。だが、7名もの大量執行の人数はどうして決まったのか麻原彰晃(松本智津夫)の遺体はなぜ拘置所側が火葬したのか当日朝の大々的な報道ぶり(僕は見てないが)は何故可能になったのか。それらは僕にとって疑問である。

 死刑の執行命令は7月3日(火)に上川陽子法相が署名した。実際の執行は6日(金)で、その前日夜に「自民党酒場」が開かれていた。5日夜から西日本の集中豪雨が激しくなっていて、(麻原処刑後の)6日から各地で大きな被害を出した。そんなときに「宴会」かと批判されているが、この席に上川法相が出席していた。それも普通だったら、死刑執行を命じている最中に宴席に出るだろうかと思う。部下が明日の死刑執行を控えているんだから、上司が飲んでる場合じゃないだろう

 オウム真理教事件は普通、「狂信的なカルト宗教によるテロ事件」と思われている。それに間違いないけれど、オウムの主観ではちょっと違うんじゃないか。普通のテロ事件の場合、「自分でもテロと判っている」。2001年9月11日のいわゆる「アメリカ同時多発テロ」の場合、実行犯は自分も死ぬことが判っていた。だから、その事件がどういう結果をもたらすかは、後に残る仲間に託す問題である。自分がアメリカ大統領になって世界を変えるつもりなど最初からないわけである。

 一方、オウム真理教の場合、あまりにもチャチで拙劣な団体だったから、誰も本気にはしなかったけれど、日本政府に戦争を仕掛けているという意識だったのではないか。だから「自爆テロ」はしない。自分たちは国家に準じた組織を持ち、既成の日本政府にとって代わる存在なのだから。もともとオウム事件は「内乱罪」で裁くべきなのではないかという主張があった。麻原彰晃の主観にあっては、それは確かに「内乱」だったのかもしれない。日本政府もそれを判っていて、一種の「国事犯」と考えたのではないだろうか。

 現在の日本の憲法では、特別法廷は作れない。オウムも「単なる殺人犯」以上のものではなく、現行の法体系のもとで死刑判決を受けた。だが当時はオウム信徒は何か理由を付けて「微罪逮捕」された。日本は事実上の「緊急事態宣言」のもとにあった。当時を知る人なら、そもそもそれを覚えているだろう。だから、事実上の「オウム特別法廷」で裁かれたとも言える。そこでは事前に決められていたかのように、地下鉄サリン事件実行犯は死刑、送迎役は無期懲役になっている。刑事責任上、それは当然とも見えるけれど、何だかどこかで基準があったような気もする

 そういうことを考え合わせてみると、今回の死刑執行の疑問が解けてくる。これは一種の「内乱勝利宣言」だったのではないか。だから事前に執行をリークして、一部のテレビは刑務官が出勤してくるところを映像で撮影した。そんなことは事前に知らなきゃできない。そして麻原執行をいつもの死刑執行よりずっと早くリークして、大々的な報道を可能にした。執行されたのが7人だったというのは、たまたま幹部級の数だったという以上に、「極東軍事裁判」(東京裁判)の死刑執行数を意識していたのではないかと思う。占領下の戦犯裁判の「屈辱」を晴らすことを念願とする安倍政権だから、きっと同数の処刑を考えたのではないか。

 麻原彰晃(松本智津夫)の遺体をめぐる問題はもっと深刻である。拘置所側は4女へ渡すという「遺志」があったとする。でもこの4女は昨年、家裁に父との相続関係を断つ申し立てを行い認められた。相続は「財産」「負債」だけではなく、遺体(遺骨)、遺品も「相続」者が受け継ぐべきものだ。死者の財産を受け継ぐ代わりに、葬祭も担当するのが普通だろう。だから相続権を放棄した人には、もともと遺体、遺骨の引き取り資格はないはずだ。他に遺族がないのならともかく、引き取りを申し出ている他の遺族がいるにもかかわらず、拘置所側で火葬したのは何故か。

 それが「故人の遺志」だということになっているが、拘置所側の説明はあいまいだ。口頭で表示があったというが、後々揉めないためには書面による指示が必要だったと思う。それは可能なはずだ。「心神喪失」状態なら死刑は執行できないんだから、執行時は心身喪失じゃなかった。だったら書面で指示できるはずだ。僕が想像するには、多分麻原彰晃は執行時にはっきりとした意思を明かさなかったのではないか。拘置所側が4女でいいかと問いかけ、はっきりしないまま「いいんだな」となったのかもしれない。

 麻原が自覚して4女を指定したとは考えにくい。相続を断った子どもに遺体を渡すとは普通理解できない。拘置所側が「誘導」しないとそうはならないと思う。そう思われないためには、本人の自筆の書面さえあればいい。心身喪失じゃないんだったら、可能なはずである。でもそれはないというなら、逆に考えて「心神喪失」状態にあったと疑われても仕方ない。4女指定という中に、僕は心神喪失状態の死刑囚を無理やり執行してしまったという事態を想定してしまう。

 その結果、「麻原遺体の神格化を避ける」の名目で、4女側が遺骨を海に散骨すると言われている。遺骨の「奪還」「襲撃」が予想されるとして、国家がやってくれと弁護士が要請している。これはまずいんじゃないか。それでは「国葬」である。引き取りたいという遺族がいたら、引き渡せば良かったのではないかと思う。それが神格化に利用されたとしても、そのことが「可視化」された方がいい。見えない「伝説」になるより、ずっといいと思う。

 「日本国対オウム真理教」の戦争だったら、当然のことだが僕は日本国の側に立っている。しかし、その日本国が現行の法規を守らないで、無理やり死刑を執行したように思える。それでは「法治」ではなくなる。安倍政権はいろいろな場面で「立憲主義」「法治主義」をないがしろにしてきた。また原発など多くの問題で「世界の情勢」を無視してきた。そういう安倍政権ならではの死刑執行だった。政治利用を考えたところに、集中豪雨が重なった。その日の夜のニュースでは、死刑執行は二番目のニュースだった。もう「麻原死刑の日から大雨が続いた」という印象しか残らない。
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日高六郎、金鐘泌、辰巳渚等-2018年6月の訃報②

2018年07月14日 22時36分37秒 | 追悼
 時々パソコンからネットに接続できなくなる。最近毎日書けてないのはそのため。パソコンはもう10年以上経ってるし、いろいろな理由からプロバイダーも変えたいんだけど、こうして時々復活するからまだいいかとなる。ワールドカップやオウム事件も書く気いっぱいなのに、ネットにつながらないから書けない。西日本の豪雨災害に関しても、かつて大きな問題となった水害訴訟のことを書きたいんだけど…。とりあえず、①を書いたから、6月の訃報の続き。

 社会学者で元東大教授、というか戦後の「進歩的文化人」の代表格だった日高六郎が死去。1917~2018.6.7、101歳。武田清子氏の時にも思ったけど、日高六郎氏はまだ存命だったのかと正直感じた。「日高六郎」が非常に有名だったのは、70年代頃までだろう。僕には岩波新書にあった「1960年5月19日」という本の編者という印象がある。もう日付で判る人も少ないかもしれないが、これは「60年安保闘争」の記録である。5.19は衆議院で日米安保条約が強硬採決された日である。エリッヒ・フロム「自由からの逃走」の訳者でも知られている。これはテーマが有名過ぎて、読んだんだか、買ったまま読んでないのか、それとも買ってもいないのか、自分でもはっきりしない。

 1980年に岩波新書で「戦後思想を考える」が出て、これは読んだと思う。そのころは「革新」という言葉が通じていた最後の頃だろう。「戦後思想」を振り返ることに、現実的な意味があったんだと思う。単著はすごく少なくて、編著、共著が多い。様々な社会的活動とともに、一種の思想的オルガナイザーとして優れていた。その時代の論文をまとめた「日高六郎セレクション」が岩波現代文庫から出ている。没後に気付いて読んでみたが、今も生きているのは「戦争経験」の持つ意味だと思った。「非マルクス主義」の立場から論じることの大変さも痛感した。思想的空間の位置取りが今とは逆の意味で大変だったのである。個人的に話を聞いたりしたことはないので、もう忘れていたけど、昔はこういう論文をよく読んだなと思った。

 歌手の森田童子が4月24日に亡くなっていたことが6月12日に公表された。65歳。1975年に「さよなら ぼくの ともだち」でデビューした女性シンガー・ソングライターである。1976年の「ぼくたちの失敗」が後にテレビドラマ「高校教師」で使われて大ヒットした。ある程度世に知られたのはそのためだけど、僕にとっては70年代後半の歌手というイメージ。本人自身もメジャー思考ではなく、本名も今も非公表だという。そんなに聞いてたわけじゃないけど、なんだか懐かしい歌手だ。

 「『捨てる!」』技術」がベストセラーになった辰巳渚が6月26日に軽井沢でバイク事故で亡くなった。52歳。そう言えばそういう人がいたな程度出しか知らないけど、一種の生活哲学者だと出ていてなるほどと思った。21世紀になって、ものすごく多くの本を書き、その手の「断捨離」の先駆け的な存在となった。その後「家事塾」を主宰。でも人間はやっぱり捨てられないで生きてるよなあ。

 元韓国首相の金鐘泌(キム・ジョンピル)が死去。1926~2018.6.23、92歳。1961年の軍事クーデタに参加し、パク・チョンヒ(朴正熙)政権を成立させた。以後大統領の側近として、首相などを務め「日韓国交正常化」をまとめた。そのことには当時も今も批判があるが、日本では「知日派」という言葉で現在でも評価される。マスコミでは100歳となった中曽根元首相が追悼の言葉を寄せたし、1973年の金大中事件後に特使として来日して「政治決着」させることもできた。80年代には「三金」と呼ばれて、金大中、金泳三と並び称された。だが保守系をまとめる存在ではなく、地盤の忠清道を基盤に「独自の存在」に止まり大統領には届かなかった。金大中、金泳三はすでになく、全斗煥と中曽根がまだ存命なのは「善人」から召されてゆくということなんだろうか。

 カシオ計算機の創業者である樫尾和雄が18日に死去、89歳。僕らの世代なら誰でも一度は使ったことがある電卓「カシオミニ」を大ヒットさせた人。もう「電卓」という名前で通用しているが、「電子卓上計算機」である。それ以前はソロバンで、次は電卓だったが、今じゃパソコンやスマホでできるから、持ってない人の方が多いかも。腕時計「Gショック」を主力商品にしたのも大きい。

・アメリカのSF作家、ハーラン・エリソンが6月27日に死去、84歳。「世界の中心で愛を叫んだけもの」など多くの翻訳があるが読んでない。それ以上にテレビ脚本家として「宇宙大作戦」(スター・トレック」)、「アンタッチャブル」、「ルート66」、「原子力潜水艦シービュー号」、「0011ナポレオン・ソロ」、「ヒッチコック劇場」など60年代の傑作をたくさん手掛けた。これはよく見てたのが多く、懐かしいな。
・東京大空襲訴訟原告団長の星野弘、17日死去、87歳。
馬場有(たもつ)、福島県浪江町長。6.27死去、69歳。
ゲンナジー・ロジェストベンスキー、16日死去、87歳。ロシアの指揮者。ショスタコーヴィッチやプロコフィエフの交響曲の指揮で知られた。
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加藤剛、藤原智子、名和宏、寺尾次郎-2018年6月の訃報①

2018年07月12日 22時16分23秒 | 追悼
 2018年6月の追悼特集はもう7月と一緒でもいいかなと思っていたんだけど、加藤剛の訃報が伝えられたのでやっぱり書いておこうと思う。7月に入って桂歌丸の訃報が大きく取り上げられているが7月分で書きたいと思う。6月18日に亡くなっていた加藤剛の訃報が7月9日になって報道された。そういうことが最近は多いけど、やはり現役じゃないとすぐには判らないんだなと思う。

 加藤剛(1938~2018.6.18、80歳)はテレビの「三匹の侍」で知ったんだけど、そのことは平幹二郎、長門勇の訃報でも書いた。五社英雄演出の「三匹の侍」は子ども心にすごく面白かったが、3人とも亡くなった。その後テレビの時代劇「大岡越前」を30年近く演じ続けたが、僕はとんど見ていない。20代、30代はほぼテレビドラマを見なかったので。だから、僕の印象では加藤剛という人は若い時の端正な二枚目の映画俳優のまま残っている。

 一番思い出にあるのは「忍ぶ川」で、すごく評判になって僕は土曜日に学校に帰りに見に行った。(併映の「白鳥の歌なんか知らない」も見たかった。)秋に「旅の重さ」が公開されて、僕の映画の思い出はそっちになっちゃったが、「忍ぶ川」の加藤剛と栗原小巻は忘れられない。74年の「砂の器」が代表作という人が多いけど、あの映画はミステリーとしておかしいし、どう考えてもハンセン病差別だろう。ハンセン病問題を全然知らなかった時代に見たけど、それでもこれはおかしいと思った。設定がおかしいから映画に入れないまま見終わった。

 加藤剛さんからは一回だけ手紙を頂いたことがある。都立中高一貫校の中学歴史教科書に扶桑社を採択しないように求める運動の時である。僕が出た白鴎が一年先行したが、翌年に両国、小石川、都立大附属(現・桜修館中等教育学校)の3校も中高一貫化された。他の3校の関係者にもアピールしたいと思って、僕はいろんな人にアピール文を送ったが、都立小石川高校卒業の加藤剛さんもその一人だった。多くの人からは何の反応もなかったけれど、加藤さんからは「憲法9条を大切にしなければいけない」という(細かい文面は忘れちゃったが)烈烈たる熱情のアピール文が届いたのだった。そんな小さな運動にも応じてくれた加藤さんに感謝する。

 ドキュメンタリー映画の藤原智子監督の訃報も7月になって報じられた。(1932~2018.6.18、86歳)。加藤剛と同様に、藤原さんも憲法への思いが強かった。憲法24条の男女平等条項を書いたベアテ・シロタ・ゴードンを追う「ベアテの贈りもの」(2004)を作った。もっともこの映画の内容はほとんど知ってたから、僕は続編の「シロタ家の20世紀」(2008)の方が興味深かった。

 「杉の子たちの50年」(1995)で注目され、「ルイズ その旅立ち」(1998)が大きな評価を得た。大杉栄、伊藤野枝の娘である伊藤ルイさんの人生を追う映画だ。ルイさんは松下竜一「ルイズ」の主人公だから、僕は「草の根通信」で以前から知っていた。晩年になって多くの運動に関わり、しなやかな感性で人々をつないだルイさんのことを多くの人に知って欲しい。続いて「伝説の舞姫 崔承喜 -金梅子が追う民族の心-」(2000)、「夢は時を越えて -津田梅子が紡いだ絆-」(2000)を作った。どれも岩波ホールで上映されたが、「女性史映画」としての魅力にあふれていた。

 東映映画の悪役で知られた名和宏(1932~2018.6.26、85歳)が死去。テレビにもたくさん出ていたから、名前を知らなくても顔を見れば思い出す人が多いと思う。時代劇の印象が強いけど、元は日活で、松竹を経てフリーになったと出ている。役柄上、何が代表作ということも言えないけど、東映任侠映画、実録映画では敵役の親分、時代劇では悪代官のような役にピッタリで、逆に名和宏の存在から僕たちの悪役イメージが作られたのかもしれない。

 フランス映画の字幕翻訳者寺尾次郎が死去。6月6日没、62歳。最近デジタル版でリバイバルされたゴダールの「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」には「寺尾次郎新訳」とうたわれていた。字幕で売るのかと思ったけど、確かにそれは見てみたいと僕なんかは思った。以前と比べるつもりはないけど、「気狂いピエロ」ってこんなだったっけと思った。

 その人が「シュガー・ベイブ」で山下達郎などと一緒にやってた元ミュージシャンで、最近ミュージシャン&ノンフィクション作家である寺尾沙穂の父親だとは僕は全然気付かなかった。知らないことは多い。ジャック・リヴェットの「美しき諍い女」や近年のゴダールの新旧作はほぼ寺尾次郎訳だった。ずいぶん見ているはずだけど、今まであまり意識しなかった。僕と同年代なんだけど、胃がんが死因となっている。
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