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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

五輪と政治-ピョンチャン五輪をめぐって④

2018年02月28日 23時17分27秒 |  〃  (国際問題)
 ピョンチャン五輪から五輪のあり方を考えてみる。競技時間が「アスリート・ファーストではない」という声も大きかった。でも多分東京でも同じだろう。欧米の都合に合わせた時間設定じゃ困ると言っても、ここまで肥大化した五輪を開催するには欧米放送局の放映権料を無視できない。それに選手自身だって、冬季競技の盛んな欧米でナマで見て欲しいだろう。実質プロ選手ばかりだから、人気が出ないと困る。日本のスピードスケート陣は、遅い競技開始に合わせたトレーニングを積んで出場した。そういう対処をして好成績を挙げたわけである。

 「スポーツと政治」という問題も大きく取り上げられた。特に「北朝鮮参加」問題だけど、日本のマスコミの捉え方には違和感があった。僕は事前に何も書かなかったけど、まあ多分書くまでもないだろうと思っていた。予想通り、「北朝鮮」は「美女応援団」を送って来たし、安倍首相も開会式に参加した。合理的に考えればそうなると予測できる。キム・ジョンウンが五輪参加をにおわせる発言をしたのは、1月1日。ギリギリのタイミングだが、早くから打ち出してもつぶれたのかと思う。

 米国ペンス副大統領と北朝鮮代表団のキム・ヨジョン氏(ジョンウンの妹)に会談の予定があったことが事後に判った。その会談をめぐる虚々実々が多分昨年来続いていたんだろうと思う。結局実現しなかったわけだが、それでも「五輪をきっかけに米朝対話の可能性があった」わけである。これは「五輪の政治利用」には違いないが、「平和の祭典」としての「よき政治利用」なんじゃないか。そういうことが起こり得るのが五輪の意味だと思う。

 日本では、国連を中心に制裁を強化している時期になぜ? 北朝鮮に利用されるだけでは? などという人がいた。でも12月にサッカーの東アジアカップが日本で開かれたばかりじゃないか。そこには北朝鮮も参加して、女子は優勝した。(ちなみに男子優勝は韓国。日本はどちらも準優勝。この東アジアカップは4か国が出るが、台湾、香港、グアムなども予選に出ている。)日本政府だって、国際的なスポーツ大会は制裁の例外だと認めて、選手団の入国を認めている。

 オリンピックは「東アジア」どころではない大々的な世界大会だから、韓国政府が「北朝鮮の参加」を望むのは当然だ。緊張が高まる情勢だからこそ、オリンピックに出場する意義がある。急な展開で多少無理はあった。そうなんだけど、一緒に競技に参加した意味は大きいと思う。今まで何度か国際大会で南北合同チームが作られたが、確かにその後の情勢緩和にはつながらなかった。でも「参加することに意義がある」はずの五輪で、参加すること、参加を求めることは当然だ。

 もちろん、政治家はそれを利用しようとする。いろんな方向で。日本では「ピョンチャン五輪ではなく、ピョンヤン五輪になった」などと実に下品なことを言う人もあった。どうせやれば判ることだから、特に事前には書かなかったけど、五輪が始まればそれぞれの国が自国選手の活躍に熱中した。開催国韓国のいろんな情報も多く報じられ、まさに「民間外交」になった。戦争が起こりかねない地域で、両方の選手がともに参加した五輪が実現できた。良かったじゃないか。

 韓国の女子アイスホッケーに北朝鮮選手が交じって参加した。確かにその分韓国選手が出られなくなる。政治家が「韓国にメダル可能性がない」と言って批判されたりもした。でも冷静に考えて、また結果から見ても、韓国チームが最下位なのは間違いなかった。何も合同チームになったから負けたわけじゃない。そういうチームを南北合同にするのは、間違いなのだろうか。現場は大変だったろうが、一緒に練習し、一緒に試合し、「涙の別れ」が報じられた。「北韓」に具体的な顔と名前が思い浮かぶ知り合いがいるということ。それはすごく大切なことじゃないか。

 「政治が五輪を利用するな」なんて言うから、てっきり安倍政権を批判してるのかと思うと、今回はどうも韓国のムン・ジェイン政権批判の言葉だった。でも安倍政権の方が東京五輪利用度が高いのではないか。だけどまあ、僕はそういうもんだと思う。スポーツに限らず、注目の高いイベント、人気が高い有名人には利用しようという人が集まってくる。おかしい、嫌だと言っても、そうなる。そのこと自体を取り上げて、さも正論を述べているかのように「政治が五輪を利用してはならない」などといくら言っても何も変わらない。

 「政治」と関係がないことは世の中に存在しない。自分がいくら政治に関心がなくても、政治の方ですべての人に関わってくる。スポーツや芸術には、それ自体の価値があるけれど、だからと言って政治と完全に無関係にはなれない。スポーツ界や芸能界で知名度が高くなると、日本では「政治的発言」を控えたりする。本来はおかしなことだ。「政局」や「政治家」にはあまり関わらないで欲しいけど、人間として「平和」を大切にするというメッセージを発するのはオリンピアンの義務だと思う。今回のピョンチャン五輪では、五輪を一つのきっかけにして米朝対話の機運が出てきた。これをジャマする言動の方が「五輪の政治利用」ではないだろうか。

 ついでに。有名スポーツ人を一番たくさん選挙に擁立したのは自民党だ。現役では橋下聖子参院議員、馳浩衆議院議員(レスリング、84年ロス五輪出場)、堀井学衆議院議員(スケート)、石井浩郎参議院議員(野球)、朝日健太郎参議院議員(ビーチバレー)。過去には小野清子(体操、64年東京大会団体銅)、荻原健司(スキーノルディック複合)、釜本邦茂(サッカー)、堀内恒夫(野球)、大仁田厚(プロレス)、神取忍(プロレス)などなど、そうそうたる名前がそろっている。(全員参議院議員)そう言えば麻生太郎副総理もクレー射撃で76年モントリオール五輪に出ている。

 自民党以外で当選した知名度があるスポーツ選手は、谷亮子(柔道)、アントニオ猪木(プロレス)、江本孟紀(野球)ぐらいだろう。それと新進党が衆院選に立てた旭道山(力士)もいた。これを見ると、圧倒的に「自民党がスポーツを利用している」としか思えないんだけど…。
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もうひとりのサラ-ピョンチャン五輪をめぐって③

2018年02月27日 23時24分00秒 | 社会(世の中の出来事)
 ネット接続不調の中、確定申告用紙を作ってたら遅くなってしまった。そういう日は書かなくてもいいんだけど、そんな日のための話題をこの機会に。それは女子スキージャンプの「もうひとりのサラ」の話である。ピョンチャン五輪の女子スキージャンプは日本の高梨沙羅伊藤有希にメダルのチャンスがあるということで、見てた人も多いんじゃないかと思う。

 そんな中で、一番最初の頃のジャンプで、アメリカのサラ・ヘンドリクソンが出ているじゃないですか。ああ、まだやってるんだ。また出られたんだと何だか僕まで嬉しくなった。覚えている人もいると思うけど、スキージャンプに女子ワールドカップができた時の、初代総合チャンピオンである。2011年—12年シーズンのことで、もう高梨沙羅が優勝した試合もあったけれど、総合では届かなかった。その後、高梨沙羅もぐんぐん伸びてきて、「サラ・沙羅対決」として評判になった。

 2012-13年シーズンは高梨沙羅が総合チャンピオンになった。女子スキージャンプはソチから五輪競技に採用され、最初の金メダルはこの二人が争うんだと誰もが予想していた。ところが、2013年8月にサラは膝の靱帯に大ケガをした。シーズン前半の競技は欠場したが、なんとか2014年2月のソチ五輪には出場することができた。しかし、結果は21位という惨敗だった。そして高梨沙羅もメダルに届かず、4位に終わった。初代金メダリストはドイツのカリーナ・フォクトだった。

 その後、高梨沙羅が好調な年が続いた。今シーズンになるまでは。みんな知ってるように、今シーズンは圧倒的にノルウェーのマーレン・ルンビが好調で、続いてドイツのカタリナ・アルトハウスが2位になることが多かった。ピョンチャン五輪の結果は、そういうワールドカップの事前結果と同じく、金がルンビ、銀がアルトハウス、銅が高梨沙羅だった。そんな中でサラ・ヘンドリクソンがまだ出ていたじゃないか。結果を調べてみると、19位。これはソチよりいいじゃないか。

 サラ・ヘンドリクソンは五輪競技じゃなかった時代から、女子のジャンプを切り開いてきた。そして、もうメダル候補じゃない。度重なるケガを抱えて、最初にジャンプする選手になっている。ワールドカップ出場がないために、後の方で滑降する有力選手に入れない。その代りに、長年の夢がかなった五輪出場で、一番最初に飛ぶジャンパーになったのである。そんなサラがまだやってる。この競技が好きなんだなあと思える。全然消息も聞かなくなったけど、まだやってたんだというのは、全然関係ない僕も何だか嬉しい。

 世界にはいろんな選手がいる。メダルに届くどころか、ほとんど競技経験もないのに南国から出る選手もいる。今回一番すごいのは、間違いなくチェコのエステル・レデツカ(22)選手だろう。なんとスキーとスノーボードで両方金メダルを取っちゃったというんだからすごい。本職はスノボーだというけど、斜面を滑り降りるのは同じじゃないかと女子スーパー大回転にも出場。誰もマークしてなかったけど金メダルを取っちゃった。そしてスノーボードの女子パラレル大回転でも金メダル。
 (レデツカ選手)
 ノルウェーのマリット・ビョルゲン選手も大きな記録を成しとげた。女子のクロスカントリー選手で、今回2個の金メダルを得て合計8個目の金メダル。銀4、銅3も獲得していて、合計15個のメダル。2002年のソルトレイクシティから、トリノ、バンクーバー、ソチ、ピョンチャンと5大会連続でメダルを取った。1980年生まれだから、これが最後かもしれないけど、すごい選手がいるものだ。
 (ビョルゲン選手)
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メダリストの価値-ピョンチャン五輪をめぐって②

2018年02月26日 22時43分11秒 | 社会(世の中の出来事)
 オリンピックに出場するだけで、考えられないぐらい凄い。入賞するのは全世界で数人なんだからさらに凄い。その上に3人だけがメダルを授与される。一番が金メダル、次に銀メダル、そして銅メダル。スピードスケートで活躍した清水宏保がテレビでこんなことを言っていた。自分は三つの色のメダルを取ったけれど、金メダルはうれしい銀メダルは悔しい銅メダルはホッとする。なるほどなあと思わせる言葉だが、オリンピックを見ると「メダルの価値」を考えさせられる。 

 いやスポーツの価値はメダルの色だけでは測れない国ごとにメダル数を競うのもおかしいといえば、まったくその通りだと思う。特に国家としてメダル数の数値目標を作るのは止めて欲しい。でも、そんな僕だって入賞しただけの選手は名前を忘れてしまう。(報道も少ないから、「忘れる」前に「覚えていない」と言うべきか。)メダルを取って初めて名前を覚えているのである。それが現実だし、世界選手権じゃダメでやっぱり五輪メダリストに大きな意味がある

 五輪終盤に「4位」の結果になった競技があった。女子フィギュアスケートの宮原知子は、ケガを克服し自己ベストの美しい演技をしたんだけど、残念ながら4位だった。得点はソチ五輪だったら、2位のキム・ヨナを超えていた。(もっとも得点基準が変わっているので比較は意味がないというが。)でも、金のサギトワ、銀のメドヴェージェワは圧倒的だったし、銅のオズモンドも素人目でも宮原知子を上回っていたと思う。やっぱり「メダリストは凄い」んだと思った。同様にスノーボード・女子ビッグエアの岩渕麗楽ラージヒルの男子複合チームもメダリストとは差があったと思う。

 だから選手はメダルを取りたいと思うし、周りの人たちも取ってもらいたいと思う。「高梨沙羅は銅メダルだけど、取れてよかったなあ」と多くの人がホッとしたはずだ。そんな中で絶対的な金メダル候補として五輪に出場し、実際に取った人はとてつもなく凄いんだと思う。特に小平奈緒選手。競技だけでなく、人間としての素晴らしさに魅せられる。主将という重責を担いながらの金メダルもすごい。金メダル確定直後に、銀の韓国イ・サンファ選手に歩み寄った姿は感動的だった。

 小平奈緒は2010年のバンクーバー五輪で、田畑真紀、穂積雅子とともに女子パシュートで銀メダルを取っている。正直忘れていたけれど。2014年のソチ五輪では500mで5位、1000mで13位。年齢的に小平奈緒の選手生命はここで終わったのかなと思っていた。その後、オランダに留学し、また科学的トレーニングを積み重ね、30歳を過ぎて頂点に立つことになるとは…。人間はいつまでも諦めずに伸びてい行けるんだと示してくれた。彼女は信州大学教育学部卒で、女子初の大学卒メダリストだという。単にスケート界に止まらず日本を支えていく人になるんじゃないかと思う。

 こんな感じでみな書いていても長くなるから、後は簡単に。今回は「羽生結弦は五輪に間に合うか」というのが多くの人の最大関心事だった。ケガがありながら見事に連続金メダル、これぞ伝説が今作られたという演技に驚くしかない。スケートの高木姉妹も、五輪にまつわる姉妹の因縁、パシュートで今季絶好調の戦績、皆が知っている中でよく活躍できたものだと思う。高木美帆という選手も単にスケートを超えた大変な逸材だと思う。
 
 一方、入賞した選手を2人ほど。スケートは女子の活躍が目立つ中で、男子のメダルはなかった。バンクーバーの500mで、長島圭一郎が銀、加藤条治が銅を獲得したのが最後である。今回1000mと1500mで小田卓郎選手がどっちも5位、500mで山中大地選手が5位、加藤条治選手が6位に入賞した。山中選手は27歳、小田選手は25歳だから、小平選手のことを考えるとまだまだ活躍できる。でも名前知ってるかと言われると、そんな人いたっけ程度。顔を判る人はほとんどいないんじゃないか。僕も同じだから写真を下に載せておく。やはりメダルを取らないと、覚えてない。
  (先が小田卓郎、後が山中大地)
 ノーマルヒル複合個人で渡部暁斗選手が前回に続いて銀メダルを獲得した。金はドイツのフレンツェルで、前回ソチも金メダル。今回は団体も金、ラージヒル個人は銅という大選手である。渡部選手は最後に置いていかれるまで、交互に先頭を交代しながら悪条件のクロスカントリーを戦った。ずっと後ろに付くのではなく、「フェアに戦いたいたかった」ということだった。このように「フェア」という感覚が生きていた。パシュートやカーリングに見られたように、協力、団結などの心も生きていた。日本社会の中で忘れられている、もうなくなっちゃったのかと思うような価値がこのように脈々と生きていたということがうれしい。
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カーリングの魅力-ピョンチャン五輪をめぐって①

2018年02月25日 22時23分11秒 | 社会(世の中の出来事)
 韓国のピョンチャン(平昌)で行われていた冬季オリンピックが終わった。日本選手団は冬季五輪史上最多のメダルを獲得した。まあ昔の五輪にはなかった競技のメダルが多いけど。今回の五輪に関しては、政治とスポーツドーピング、あるいは冬季五輪のあり方など考えるべき問題が多い。また緊迫の度を高める朝鮮半島情勢を無視してピョンチャン五輪を語れない。だけど、それは後に回して、さらにスケートなどの話題も後に回して、まず「カーリング」(curling)について。

 今回、日本の女子チーム(LS北見)は、カーリング発祥の地イギリスを破って銅メダルを獲得した。僕も最後の頃はすっかりカーリングにはまっていた。「そだねー」はもう今年の流行語大賞確実。今回は男子も出てたから、毎日夜には男女どちらかの試合が放映されていた。試合時間が長いから、全部身を入れて見てたわけじゃない。でも見てるうちに競技内容がだんだん理解できてくる。戦術のねらいや狂いも判るようになると、この競技の深さを感じてきた。そして、やっぱり日本チームの「笑顔」、特にスキップ藤澤五月選手に魅せられてしまった。

 準決勝の韓国戦、明らかに韓国が優勢に試合を進めていた。前半戦は6対3で負けていたから、もう負けが濃厚だった。第6エンドで日本は1点を入れて、2点差。第7エンドの韓国は後攻だが、無得点として第8エンドも後攻を選ぶ。続く第8エンドで後攻の韓国は1点しか入れられなかった。第9エンドで後攻の日本は、ここで2点を入れる。かくして、7対6で韓国が一点勝って、第10エンドは後攻。さて、これで事実上日本の敗退は決まったわけである。

 この競技は後攻が圧倒的に有利。第1エンドに先攻か後攻かは、試合直前にストーンを投げて決める。以後、勝った方が次のエンドの先攻になる。先攻で始まったチームは、相手チームに最小の1点を取らせて、次は後攻に回りたい。後攻の時に2点以上取れれば逆転できる。後攻チームは2点以上取りたいけれど、それが無理そうな場合、あえて自分のストーンもはじき出して無得点にすることもある。そうすれば次のエンドの後攻は変わらないから。この「あえて1点を取らせる」とか「あえて無得点にする」とかいう作戦が面白いのである。

 だから韓国との準決勝で、1点負けていて最終の第10エンド、相手が後攻というのは普通は勝てない。オリンピックに出るほどの選手なんだから、できるだけ中心にストーンを置いて1点取る程度のことは楽勝だ。そして最後のストーン、韓国チームはみな勝利を確信してブラシを突き上げて歓喜していた。でもここで「眼鏡先輩(アンギョンソンベ)」ことキム・ウンジョンの投げたストーンが微妙に狂い、日本のストーンに当たり、クルクルと回転して日本のストーンが中心近くに滑る。

 この時の日本チーム皆の、何これ、ウソ、こんなことあるんだ、日本が1点だよ、という破顔一笑が素晴らしかった。どっちが勝つとか負けるとかを超越した「氷の神さまのいたずら」を楽しんでいた。もちろん、延長の第11エンドになったとしても、7対7の同点で日本が先攻なんだから、韓国は1点を入れればよく勝利目前。それは判っているんだけど、何が起こるか判らない面白さだ。

 それは3位決定戦の最後で再現された。今度は日本は1点勝って、第10エンドでイギリスは後攻である。つまり、1点入れれば同点になって延長だけど、その場合はイギリスが先攻になってしまう。それは圧倒的に不利だから、第10エンドに2点以上入れたい。そして入りそうなストーンの状態だった。だから2点取ろうというストーンが若干狂って、日本のストーンを中心に押し出してしまった。なんという偶然と言えるけど、そこまでの緊迫した展開で相手チームにはプレッシャーがあった。最後の最後まで精神的な戦いが繰り広げられていた。

 知的なゲームであるとともに、カーリングは「バランス系」のスポーツだと思う。もちろんあらゆるスポーツ、いや人間の活動すべてに、体の力をバランスよく筋肉から「道具」に伝えるという技がある。でも陸上競技やレスリングなど、体の力そのものを使って競うのが多くのスポーツだろう。一方、バランスよく力を伝えるタイプの競技もある。馬術が典型。体力そのものが衰えても、うまくバランスを取る力を発揮できれば活躍できるから、馬術やカーリングは高齢でも活躍する選手が多い。

 よく「氷上のチェス」と言われるけど、相手のストーンを利用したり、反発したりするところが違う。ストーンはチェスや将棋や囲碁のような「コマ」ではない。だから、氷上のビリヤードとか氷上のボーリングと言う方が近い感じがする。それでも、途中で氷をスウィープ(掃く)することで摩擦力をコントロールできるという違いがある。フィールド状態を選手がある程度変えられるなんて競技は他にはないと思う。その点でも、とても面白い。

 「おやつタイム」で食べていた「赤いサイロ」も大人気。北海道の「どさんこプラザ」はよく行くけど、これは食べたことないなあ。多分しばらくは買えるチャンスはなさそうだ。オホーツク沿岸の常呂(ところ)町の名前から、LS(ロコ・ソラーレ)の名前を付けた。(常呂っ子の意味。)今は内陸の北見市と合併してるけど、ここのホタテは絶品だ。「しんや」というメーカーの「ホタテ燻油づけ」はものすごく美味しい。貝柱を燻製して油に浸したもの。以前現地を旅行していて本社の売店で買って、うまさに驚いた。「赤いサイロ」はなくても、こっちはアンテナショップにおいてあると思う。
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衝撃的な「不妊手術強制」問題

2018年02月23日 23時45分03秒 | 社会(世の中の出来事)
 旧優生保護法に基づく、障がい者に対する不妊手術の強制が大きな問題となっている。2018年1月に、仙台地裁に国家賠償請求訴訟が起こされた。実際に被害者である当事者が声をあげ始めたのである。そのことにより、さまざまな資料が公開され、この手術が思いのほか多くの人に施された実態が明らかになって来た。この問題を考えると、当事者が動き始めないと見えてこないものがあると改めてよく判った。それは自分には衝撃的なことである。

 朝日新聞2月20日付の記事によると、不妊手術件数は総計で1万4939件となっている。ただ1952,53年分は含んでいないので、実数はもっと多い。(1949年~96年の厚生省「優性保護統計報告」から作成したものとある。)都道府県別で見て1000件を超えているのは、北海道(2503件)と宮城県(1406件)。岡山県(845件)、大分県(663件)、大阪府(625件)が続いている。小学生の年齢で手術を受けさせられた事例も見つかっていて、あ然とさせられる。

 この数字は非常に多い。予想以上に多いと言える。非常に深刻な実態があったということだ。僕はもちろん法律のこの規定を知っていた。ハンセン病問題に関心を持ってきた人は、知識として優生保護法にハンセン病規定があったことを知っていたはずだ。そして「遺伝病ではないハンセン病患者に断種手術をするという差別」を批判してきた。しかし、その時に「遺伝」を理由に不妊手術を強制された障がい者の存在をどこまで意識していただろうか。(これは自己批判でもある。)

 法律を見ておきたい。優生保護法第三条第一項に以下のようにある。
第一号 本人若しくは配偶者が遺伝性精神病質、遺伝性身体疾患若しくは遺伝性奇形を有し、又は配偶者が精神病若しくは精神薄弱を有しているもの
第二号 本人又は配偶者の四親等以内の血族関係にある者が、遺伝性精神病、遺伝性精神薄弱、遺伝性精神病質、遺伝性身体疾患又は遺伝性畸形を有しているもの
第三号 本人又は配偶者が、癩疾患に罹り、且つ子孫にこれが伝染する虞れのあるもの

 以上は医師が優生手術を行うことができる疾患例だが、驚くべき障がい者差別に改めてビックリする。ただ、法の条文を見る限り、「本人及び配偶者(がある場合)の同意」が必要とある。「但し、未成年者、精神病者又は精神薄弱者については、この限りでない」とも書いてある。この但し書き条項によって、「保護者の同意」を根拠に未成年にも手術が実施されてしまったのだろう。

 ところで本人の同意に続き、医師は(上記疾患を確認した後で)「都道府県優生保護審査会」に手術の可否を申請することになっている(第4条)。その審査会できちんと審査されていれば、「本人の同意」なき手術が行われたはずがない。ハンセン病の場合、療養所に強制収容されているから、事実上の強制力が働く。障がい者の場合も、このような審査会が設置されていても、事実上は医師などの意向に逆らえなかったということだ。書類上は「本人の同意」が得られたことになっていたはずで、だからこれほど多数の手術が行われたとは想定できなかったのである。

 この問題は日本における「優性思想」の問題である。「優性思想」というのは、「民族的資質」を向上させるために生殖を管理しようという考え。日本でもナチスに影響された国民優性法1940年に制定された。当時は「産めよ殖やせよ」の時代で、妊娠中絶も不妊手術も禁止されていた。(それどころか避妊知識を広めることさえ危険思想だった。)そんな時代に、遺伝的疾患の場合に「国民素質ノ向上ヲ期スルコト」を理由に不妊手術が容認された。
 
 戦後になり、1948年に優生保護法という法律が作られた。この法律で人工妊娠中絶が容認されたが、その法律に上記のような「優生条項」も入っていたわけである。現在ではこのような条項は「人道に反する罪」とみなされる。「その当時は法で決まっていた」と主張するのは、人権の意味をまったく判っていないと言うしかない。その時点で「合法」であると言うなら、アメリカの奴隷制度も、南アフリカのアパルトヘイトも、何でもかんでも許されてしまう。長い裁判に被害者を立ち会わせるのは、人道的な観点から問題だ。早い段階で「政治的解決」を図るべきだろう。ただその場合でも、単に慰謝料を出すというのではなく、きちんとした謝罪がなされねばならない。
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映画「ガープの世界」は今も新しい

2018年02月20日 23時04分12秒 |  〃  (旧作外国映画)
 ジョン・アーヴィング原作、ジョージ・ロイ・ヒル監督の「ガープの世界」(The World According to Garp)を30数年ぶりに再見。新文芸座のワーナー映画旧作特集で、「ビッグ・ウェンズデー」と一緒に見た。ジョン・ミリアスの「ビッグ・ウェンズデー」は、サーフィン映画の傑作である以上に失われゆく青春への挽歌だ。でも僕にはもう昔見た時ほどの感動は得られないなあと思った。一方、「ガープの世界」は今もまったく古びていないだけでなく、むしろ今の世界を予見したかのようだ。

 この映画は1982年製作で、日本では翌1983年に公開されてキネ旬ベストテン2位になった。僕は同時代に見ているが、そこまでいいかなあと思った。というのも同じ年に「ソフィーの選択」や「ガンジー」があった。また何といっても「フィッツカラルド」「アギーレ・神の怒り」があったから、僕にとっては「ヘルツォークの年」だったわけである。それはアメリカでも同様で、先の2作に加え「E.T.」や「トッツィ-」もあったから、アカデミー賞には男女の助演賞がノミネートされただけだった。

 冒頭にビートルズの「When I'm Sixty-Four」(64歳になっても)が流れる。それだけで、もう何だか時代を超越して昔に戻れる気がする。とにかく「語り」が滑らかで、スイスイ見てしまえる映画。とてもウェルメイドな作りに感心した。それ以上に驚いたのが、テーマがまったく古びていないこと。むしろ今の方が切実かもしれない。主人公ガープ(ロビン・ウィリアムズ)の母、ジェニー・フィールズ(グレン・クローズ)は夫はいらないが子どもが欲しいと望む。「看護婦」だったジェニーは、死に際の傷痍軍人と一方的にセックスしガープを身ごもり、シングルマザーになる。

 人間はなかなか思うように生きられないけど、ある段階までその原因を作ったのは戦争や貧困だった。映画でも戦争で引き裂かれた悲劇、なんていうのがいっぱい描かれた。戦後何十年も経ち、「先進国」では戦争や貧困が(完全ではないけど)ある程度遠いものになっていく。じゃあ、前の時代より幸せかというと、以前は問題化されなかったようなテーマが切実なものになっていく。「セクシャリティ」の問題はその最大のものだろう。シングルマザーとその子どもの人生を通じて、性と生の悲喜劇をたっぷりと見せてくれるこのドラマは、今こそ思い出されるべきだ。
 
 LGBTなんて言葉は、この映画の公開当時は知らなかった。というか、なかっただろう。「#Me Too」として「セクシャルハラスメント」が改めて問われる現在に、この映画は驚くべき先見性で迫ってくる。もう一つの大きな問題は、アメリカの銃社会である。これも今もなお、というより今こそまさに現在的な問題。しかし、そのようなセクシャリティや銃の問題以上に、「怒りは怒りを来す」という「スリー・ビルボード」が問う問題意識に再び直面してしまう。人間が怒りを制御できなくなる時に、自分に返ってくる大きな悲劇。今こそこのテーマに真剣に向き合う必要がある。

 アメリカであまり高い評価にならなかったのは、有力作とぶつかった他に原作が面白すぎることもあるだろう。ベストセラーになったから、多くの人が読んだ。そういう場合によくあるが、映画にするとよく出来たダイジェストに見えてしまう。原作の持つ大きさ豊かさがカットされたように感じてしまう。僕も公開当時は、サンリオ文庫の原作を先に読んでたので、ちょっと物足りなかった。今回は大まかな流れは覚えていたが、細部は忘れていた。だからなのか、ものすごく面白く見られた。ロビン・ウィリアムズの悲劇的な最期を思うと感無量。

 ジョン・アーヴィングの映画化には、作家本人がアカデミー賞脚色賞を受賞した「サイダーハウスルール」やトニー・リチャードソン監督による「ホテル・ニューハンプシャー」などがある。だが、「ガープの世界」が一番いいだろう。ディケンズに憧れる長大なリアリズム小説ばかりだから、なかなか読むのも大変。でも現代アメリカを知る意味でも、物語の面白さ豊かさという意味でも挑戦しがいのある作家だ。
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湯島天神に梅を見に行く

2018年02月20日 20時54分05秒 | 東京関東散歩
 今年の寒さは厳しかった。いや、まだ寒い日が続いている。でも、だんだん春が近づいてきた感じはする。冬至から2か月ぐらい経ったから、日が長くなってきた。だから昼間に太陽が出ている日は、冬から春に移って来たなあと思う。今日は午後に少し時間があったので、湯島天神の梅祭りに行ってみた。湯島天神は前に行ってるけど、梅の季節は初めて。
  
 湯島天神に近づいてくると梅祭りの幟がいっぱい出てくる。ここはいろんな碑もあるけど、今回は梅に集中。もう満開の木もあるが、全体としては五分咲きぐらいか。でも紅梅白梅そろって、香りもいい。「湯島の白梅」という映画があった。泉鏡花「婦系図」(おんなけいず)である。何度も映画化されてるけど、衣笠貞之助監督の山本富士子は美しかった。新派の舞台で有名だが、今じゃ「別れろ切れろは芸者の時にいう言葉」なんてセリフも知らない人が多いかな。映画でも天神が出て来て、お蔦と早瀬主税が逢引きする。まあ、ロケじゃないと思うが。
 
 この時期は合格祈願で多くの人が訪れる。ちょっともう時機が過ぎただろうが。他にもいろいろゲン担ぎの名所はあるけど、東京ではまず湯島天神が一番だと思う。僕はそういうことをしたことがないから、あんまり知らないけど。とにかく絵馬がものすごく多い。それを見ている人も。最近は「個人情報」を書かない人が多いがする。「志望校に合格できますように」だけで、志望校がどこか神様には通じるのかどうか判らないけど。
  
 今日は境内で猿回しをやっていた。日光猿軍団から来たという話。軽妙な紹介に、猿もよく応えて演技している。でも人が多いし、猿は常に動いているから写真が撮りにくい。一枚だけ、猿が三つのハードルを飛ぶ演技の時に割とうまく撮れた写真があった。もう一枚、遠くから撮ったのでよく判らないけど、猿がはしごの上で逆立ちしているところ。梅祭りの期間らしく面白い。
  
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「階段映画」の魅力-「貴族の階段」「何がジェーンに起こったか」

2018年02月18日 21時02分56秒 |  〃  (旧作日本映画)
 ここには書いてないけど、実はピョンチャン五輪を見たり、昔の映画を見たりして日々が過ぎている。五輪をめぐる話はいずれまとめて書きたいが、昔の映画の話は書きだすと毎日長くなってしまうからあまり書いてない。フィルムセンターでは、小津の「浮草」のカラー修復版を見たし、五所平之助の「大阪の宿」「朝の波紋」を見た。また、大映女優祭をあちこちでやってたが、今度は大映男優祭も始まる。大体見ているから全部通うわけじゃないが、何本かは見たい。

 ところで新文芸座で「貴族の階段」と「何がジェーンに起こったか」という映画を見たんだけど、「階段映画」というものがあるなあと思った。「怪談映画」はいっぱいあるけど、そっちじゃなくて「階段映画」。映画史的に思い出してみても、階段を利用した名シーンは数多い。まずは「戦艦ポチョムキン」のオデッサ階段。あるいは「ローマの休日」のスペイン広場の階段。
 
 どっちも外の階段だけど、中にある階段が印象的な映画と言えば、まずはヒッチコックの「めまい」か。日本映画なら「蒲田行進曲」の「階段落ち」シーンか。今はCGで宇宙空間の大スペクタクルを見せられるけど、昔の技術だと階段が「上下」の動きを一番見せやすいということか。特に日本だとちょっと前まで「平屋建て」がほとんどで二階も珍しかった。(この前見た脚本家の水木洋子の家も平屋。)だから「階段」の持つ意味も今よりも大きかったに違いない。
 
 さて題名に階段が付いている「貴族の階段」。1959年の吉村公三郎監督作品。武田泰淳の原作を新藤兼人脚本で映画化したものである。原作は持ってるけど読んでない。でも新藤のシナリオはかなりよくまとまっているように思う。間野重雄の美術が見どころがある。ここで「階段」というのは、一種の比喩であるとともに、華族の頂点にある貴族院議長西の丸家の階段をもさしている。ここには滝沢修演じる陸軍大臣が訪れ、密談の後に帰るときに階段を転がり落ちる。
 (「貴族の階段」)
 西の丸公爵(森雅之)は貴族院議長で、後に首相となるから近衛文麿に近いが、近衛は2・26事件で襲撃されてはいない。襲われた牧野伸顕や多くの人のイメージが交じって作られたんだろう。陸軍の皇道派軍人は歴史に闇に消え、貴族が生き残って「階段」を上る。そういう意味の題名だろう。日本では上流階級を描く映画、小説があまりない。歴史研究も遅れていた。

 そういう中で50年代に作られた「貴族の階段」は重要だと思う。吉村監督は1956年の「夜の河」が最高だが、以後も文芸作品の映画化などで安定した力を発揮している。陸軍軍人の娘役の叶順子、あるいは西の丸公爵の娘役の金田一敦子がとても良かった。大映女優陣のトップ級が出てない分、今は忘れられたような女優の力演がかえって効果を挙げていると思う。公爵長男の若き本郷功次郎も初々しい。老練なベテランもいいが、若手も見ごたえがある。

 「何がジェーンに起こったか」は1962年のアメリカ映画。ロバート・アルドリッチ監督。新文芸座はワーナー映画の旧作特集を続けているが、テレビでしか見たことがなかった映画を大スクリーンで見られるとは。1940年代に毎年のようにアカデミー賞にノミネートされていた大女優ベティ・デイヴィスが心が壊れてしまった老いた子役スターを演じてビックリさせたホラー的なサスペンス映画である。ジェーンはかつて大人気の子役だったが、やがて姉が映画女優としてスターになり忘れられた。その姉は謎の自動車事故で車いすの生活となり、今は妹が世話をしている。

 姉は2階の部屋で暮らすが、妹の様子が完全におかしいので、何とか医者に電話したいと思う。妹が外出したすきに、なんとか電話のある1階に下りようとする。車いすで階段に近づき、何とか下りていくが…。2階に住む姉と1階にいる妹は階段でつながっている、あるいは階段で分離されている。障がい者の姉にとっては、階段を下りるということだけで大アクション映画並みのスリルが生まれる。果たして電話まで行けるか。そして医者は来てくれるのか。

 ベティ・デイヴィスは、キャサリン・ヘップバーンに抜かれるまで最多のアカデミー賞ノミネート記録を持つ女優だった。(11回。「青春の抗議」「黒蘭の女」で2回受賞。今はさらにメリル・ストリープが20回という大記録を持っている。)リアルタイムで見たのは「八月の鯨」だけなわけだが、あの時も驚いた。1950年の「イヴの総て」もかなり強烈な役だが、このジェーンという役ほどすごい役でアカデミー賞にノミネートされた人もいないのではないか。ところで、階段を下った姉はジョーン・クロフォードだから、ベティ・デイヴィスの話は「階段映画」には関係なかった。

 多くの家で主人の部屋は1階にある。2階は子どもや客室などのことが多いのではないか。多くの映画で子ども部屋は2階にあったように思う。昔は2階だけ人に貸したりすることもあった。「煙突の見える場所」でもそうだし、山田洋次監督の「二階の他人」でもそう。男はつらいよシリーズでは、寅さんが帰ってくるたびに階段を上って2階の部屋で寝る。「小さいおうち」では2階に特徴があり、子ども部屋も2階。映画の中で階段がどのように描かれてきたか。もっといろんな映画があると思うけど、「階段映画」というジャンルをめぐって。
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「山椒魚戦争」と「ロボット」-チャペックを読む⑤

2018年02月17日 21時34分24秒 | 〃 (外国文学)
 まだチャペックを読んでたのかという感じだが、「山椒魚戦争」(1936)を読まなくちゃ。チャペックは軽妙なエッセイ、時事的な評論などをいっぱい書いてるけど、本職は小説家である。純文学的な作品、ミステリーなど様々な傾向の著作がある。今も評価が高いのはSF作家としての仕事だろう。何しろロボットという言葉は、チャペックが作ったぐらいである。その中でも大著「山椒魚戦争」は傑作であり、チャペックの小説で一番知られている。
 
 昔から有名で、日本でも何種か翻訳が出ている。初めてチェコ語から訳した栗栖継訳は、1978年に岩波文庫に入った。僕は1989年の7刷を買っていたので、30年近く放っておいた本を見つけ出してきた。これがめっぽう面白い。ホラ話と物語性、風刺と警世、評論と時事的関心などが絶妙に交じりあっている。最後の方は警世の書としての性格が強くなりすぎている感もあるが、チェコスロヴァキアという国がナチスに侵略される危機にあったんだから仕方ないだろう。

 ヴァン・トフ船長はインドネシア(当時はオランダ領東インド)でオランダ船の船長をしていたが、ある島の入り江で原住民に怖れられる不思議なサンショウウオを知る。他の島へ行く能力はないが、道具を使えて人間の言葉を理解できた。そこで真珠貝を割らせる仕事をさせるための「家畜」として使うことを思いつく。もともとはヴァントフというモラビア人(チェコ中央部)だったので、帰郷した時に同郷の富豪G・H・ボンディに出資を仰ぎ大々的な事業展開を始める。

 この第一部のホラ話がとても面白い。冒険的気風の船長ものという定型をなぞりながら、なんとサンショウウオかよという驚きを読者にもたらす。それがあれよあれよと世界に広まり、サンショウウオをどう理解するべきか大問題になっていく。なんでサンショウウオかと思うと、もともとはヨーロッパで19世紀に見つかった化石がノアの箱舟以前の人間と誤解された事実からだという。

 サンショウウオというのは、現在はほぼ東アジアの固有種で、特に日本にしかいないものも多い。この小説で出てくるオオサンショウウオは学名も「Andrias japonicus」と日本の名が入っている。シーボルトがヨーロッパに紹介したという。日本では井伏鱒二「山椒魚」が有名だから、なんとなく小説の題名にあっても不思議じゃない感じがするが、世界的には珍種。(日本でも特別天然記念物。)なんだかけっこう気持ち悪い外見だけど、「キモカワイイ」というやつかもしれない。

 ボンディ家の門番ポヴォンドラ氏はヴァントフ船長の訪問を門前払いしても良かったわけだが、勘が働いて主人に会わせた。それが歴史を変えたと自負する彼は、世界に広まったサンショウウオに関する新聞記事、ビラ、研究論文等を収集するようになる。夫人によってかなり燃やされたが、残った資料が第2部という設定。そんなバカなという論文や記事が満載で、バカバカしい設定を大真面目に語っている。少し長すぎるかもしれないが。メルヴィルの「白鯨」が鯨百科になっているのと同様だが、こっちは全部がデタラメである。デタラメが過ぎて、日本語のチラシ(読めない)まである。日本は国際連盟で「有色人種代表」としてサンショウウオ問題を取り上げていたのだ。

 そして第三部になって、サンショウウオが増えすぎて人間の大地を侵食し始める。人間は利用しようとして統御できなくなり、そうなってもお互いの利益のために争い続ける。そのバカげた有様を思う存分風刺している。それは当時の大恐慌やファシズムを背景にしているが、今読んでもまったく古びてない。原子力を利用として制御できない現実。それは今週書いた映画「スリー・ビルボード」が突き付ける怒りの連鎖の問題にも通じる。トランプ政権、安倍政権の政策に見られる発想にも通じる。ありえない設定のように見えて、人間の愚かなふるまいは全く変わっていないのだ。今もなお生きている小説なのである。

 戯曲「ロボット」(1920)も岩波文庫にある。これは前に読んでいたけど、今もなお面白い。もちろんロボットを作り過ぎてロボットは反乱を起こすという筋立て自体は今では古いだろう。でも「科学の発達で便利になったものが、かえって人類を滅亡させる」というテーマそのものが今も生きているということなのである。どこかの島にあるロボット工場という設定が、マッドサイエンティストが住む島というSFの類型に則っている。セリフの中に今では問題もあるし、人物設定も古い。だから今では上演は難しいかもしれないが、読む分には面白く読める。当時は日本でも築地小劇場で上演された。なお、「ロボット」という言葉自体は兄のヨゼフが示唆したと言われている。
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「専守防衛」を踏み越える安倍政権

2018年02月16日 22時34分24秒 |  〃  (安倍政権論)
 トランプ政権が危険な核戦略を選択するのと同時に、安倍政権の「防衛戦略」にも大きく変わる動きがある。日本政府が長い間主張していた「専守防衛」が変わりつつあるのである。今のところ安倍首相も「専守防衛を堅持する」と言っている。だが、注意しておかないといけないのは、今や国会で堂々と「専守防衛は不利」と言い放つまでになってきたのである。

 ちょっと簡単に問題の経緯を説明しておくと、戦後の日本は憲法9条により「戦力」は持てない。だが、憲法解釈により、最小限度の自衛権は持てるとされ、他国攻撃の能力を持たない「専守防衛」に留まる限り憲法には違反しないというのが日本政府の長年の憲法解釈だった。それが安倍政権による解釈変更により、部分的に集団的自衛権が解禁された(2015年の安保法制。)しかし、その場合においても、他国攻撃はできない制約がある。

 そもそも「自衛隊」が合憲という解釈は成り立つか、また現実の自衛隊装備が「専守防衛」の範囲内なのかという問題はある。しかし、それはともかく今まで日本は「専守防衛の範囲内で自衛隊を持つ」というタテマエになっていた。そして今後もそうである。そうなんだけど、安倍首相は2月14日の衆議院予算委員会で「防衛戦略として考えれば大変厳しい。相手の第一撃を甘受し、国土が戦場になりかねないものだ。先に攻撃した方が圧倒的に有利だ」と述べた。これは自民党の江渡聡徳元防衛相の質問への答弁である。(15日東京新聞朝刊)

 これは一体何だろう。自民党議員、それも元防衛相への答弁だから、当然うっかり答えたというもんじゃないだろう。「同志」に向けたホンネでもあり、ある意味「観測気球」なのかもしれない。「安全保障環境の悪化」ということを安倍首相は言い続けてきた。「北朝鮮」ばかりでなく、「中国の海洋進出」も大きい。国民の中にも「日本が先制攻撃する能力を持たないと心配だ」などと言う人が出てきた。今回の答弁も長射程の巡航ミサイル導入に関する質問に答えたものである。今のところ、巡航ミサイルも「専守防衛」の範囲内ということになっているが、ホンネは違うのである。

 これは非常に危険な考えである。歴史に学ぶことのない安倍政権らしいと言えば、そういうことかもしれない。かつての日本軍は、そのような発想を持って「先に攻撃」を繰り返した。その結果どうなったのか。国民と国土を滅亡の淵に追い込んだではないか。日本がそう思えば、相手国も同じように思う。お互いに疑心暗鬼を募らせる。そして実際に戦争になってしまう。それで取り返しがつかない。だからこそ、「歴史の反省」に立って「専守防衛」という方針が出てきたわけだ。

 「先に攻撃」するということは、自国民を守る意識はあっても、他国の国民国土は犠牲にして構わないということである。まあ、相手国の国民は自分たちに投票してくれることはない。自国民の人気だけを気にしているのかもしれない。そもそも「相手の攻撃を甘受し」などという発想自体が間違っている。突然攻撃を仕掛ける国など存在しない。事前に摩擦があり、「攻撃準備段階」がある。だからこそ、「外交」の出番がある。国際連合という組織もある。戦争の危機にあっても何もしないつもりなのか。相手国が攻撃してくるまで「甘受」して待つのか。相手国に乗り込んで戦争を阻止する努力をするのがリーダーの努めだろう。

 いま安倍首相は「自衛隊を憲法に明記する」という憲法改正を進めようとしている。その改憲が成立しても、自衛隊のあり方は何も変わらないのだという。一方、改憲案が国民投票で否決されても何も変わらないのだという。改憲案が可決されても否決されても、何も変わらないというふざけた説明をしている。それは「憲法改正は必要ない」と自ら言っているのと同じではないか。

 実際は多分こういうことなんだと思う。憲法改正が成立すれば、それは憲法の文言解釈を別にして、「現行の法体系にある自衛隊」(つまり集団的自衛権の一部解禁)が信任されたと首相として解釈する。以後、内閣が自衛隊に関する憲法解釈を再び変更しても、それも自動的に合憲になる。9条の解釈権を首相のフリーハンドとする。これが自衛隊に関する答弁のホンネだろう。自衛隊を憲法に明記する。その後に「専守防衛」の名で、巡航ミサイルなど装備を強化する。(2017年末には空母を保有するという意向も報道された。)そして、アメリカが容認する範囲で軍備を増強しながら、やがて「先制攻撃を可能にする自衛隊」に変えていく。そういう方向を予測させる安倍政権下の軍備増強である。
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世界を映す問題作、「スリー・ビルボード」

2018年02月14日 21時24分18秒 |  〃  (新作外国映画)
 アメリカ映画の賞レースで話題沸騰の「スリー・ビルボード」。アメリカの地方都市の人間模様を細密に描いたすごい脚本で、映像も演技も素晴らしいが、傑作という以上に、まずは「問題作」。不穏な気配がずっと画面に漂い、一瞬も目が離せない予測不能の展開に心震える。見逃せない映画だ。原題は、〝Three Billboards Outside Ebbing, Missouri”で、「ミズーリ州エビング郊外の三枚の広告掲示板」という意味。ビルボードというと、ヒットチャートの音楽雑誌を思い出しちゃうけど、屋外にある広告板のことを指している。

 ミズーリ州というのはアメリカ中西部の真ん中あたりにある。大都市としてはセントルイスがある。しかし、ここはイメージ的には「ヤバい地域」だとプログラムに出てた。映画で言えば「ウィンターズ・ボーン」や「ゴーン・ガール」等、現実の事件では「ファーガソン事件」(セントルイス郡ファーガソンで起きた白人警官による黒人青年射殺事件)。大統領選挙ではずっと共和党候補が勝つ、そんな州。エビングは架空の地名だが、そこの郊外に住むミルドレッド・スミスという女性が、見捨てられていた広告板に警察を非難する広告を掲示する。そこから静かな町が微妙に歪んでいく。

 ミルドレッドの娘アンジェラはレイプされ殺害された。7カ月経っても事件は解決しない。「警察は怠慢だ、早く犯人を逮捕しろ」という広告である。親の心情としてはまさに同情に値する。さっそく地元テレビに取り上げられ、ミルドレッドは「黒人を虐待しているヒマがあったら、娘の事件を捜査しろ」と挑発する。母親とは言え、なかなかどうして大したもんである。この母親役はフランシス・マクド-マンド。兄弟で脚本、監督、製作を行うコーエン兄弟の「ファーゴ」でアカデミー賞主演女優賞を得た。兄の方、ジョエル・コーエンの妻でもある。もう圧倒的な存在感で、ゴールデングローブ賞の主演女優賞。アカデミー賞にもノミネートされている。

 しかし、白人女性のレイプ殺人なんだし、いくら何でも警察もわざと遅らせるとも思えない。実際、非難された署長も自ら説明にやってくる。そして事情もあるんだと言う。自分はガンだと。彼女は知っている、町の人は全員知ってると返す。住民は署長に同情していて、彼女はやり過ぎだといろんな人が言ってくる。署内には黒人に偏見を持っていたり、容疑者に暴力をふるう警官も実際にいる。そんな町で彼女が突出していくことで、「平穏な日常」が微妙に狂いだすのである。

 その後の予測不能の展開を書いてはつまらないから止めておく。だけど、途中でふと思う。この映画はものすごく面白いんだけど、一体何が言いたいんだろう。いや、映画に直接的なメッセージ性を求めているわけじゃないんだけど、それでもどう終わるんだろうかと。そう思って見ていると、後半のある時点から、はっきり見えてくることがある。人間は完全ではないんだと。そして、「怒りは怒りを来す」ということに。怒るべきことは世界に山のようにある。だが、怒りに怒りを対峙させることで、復讐の連鎖になっていることはないか。アメリカの小さな町で起こっていることが、実は世界を映し出していたのである。このエビングという町は、今の日本でもあったのだ。

 この映画の脚本、監督はマーティン・マクドナー(1970~)。アイルランドを舞台にした演劇作品で評価された劇作家だったが、最近は映画を主にしているらしい。「セブン・サイコパス」という映画が日本でも公開されている。舞台でも何作も上演されているというが、僕が名前を知らなかった。(何作も上演してきた長塚圭史により、2018年5月に「ハングマン」という劇が上演される。)「スリー・ビルボード」ではヴェネツィア映画祭脚本賞、ゴールデングローブ賞脚本賞を受賞している。登場人物の造形が見事であるだけでなく、関係性がどんどん変容していくところが素晴らしい。

 助演陣も素晴らしく、特に暴力警官役のサム・ロックウェルがゴールデングローブ賞で助演賞を取っている。同時にウィロビー署長役のウディ・ハレルソンも非常に素晴らしく、ゴールデングローブ賞にノミネートされていた。他にも忘れがたい脇役が多いが、ここでは省略する。この映画を見て思うのは、「加害者」「被害者」の相対性である。人はただ被害者であることはなく、何かしら加害者でもあるという現実である。そして、その加害者性、被害者性は絶対不変であるわけではなく、状況に応じていくらでも変わっていく。それは単に「人間は変わる」というだけではない。人間の持つ不可思議な深さに思いを致す。そんな映画だと思う。まさに今見るべき映画だ。
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泰明小の「アルマーニ標準服」問題

2018年02月12日 21時19分57秒 |  〃 (教育問題一般)
 東京都中央区立泰明(たいめい)小学校で、来年度から新しい「標準服」に変えることになり、それが「アルマーニ」だというので話題になった。現在は1万7千~9千円ぐらいだが、今度は8万円もする、高すぎるんじゃないかと国会でも取り上げられた。林芳正文科相も、決める過程でもう少し保護者と話をしていればと答弁した。(上衣そのものは2万5千円程度だが、半ズボンに夏用、冬用があり、シャツ、セーター、ベスト、帽子など全部そろえると高くなる。)この問題は東京の教育のあり方をよく表しているように思う。少し整理して、考えてみたい。

 山手線有楽町駅の近くに、昔「日本劇場」があった。今の「有楽町マリオン」だが、そこは千代田区である。(上階に「日劇」の名を冠した映画館があったが、2月上旬で閉館になり「日劇」の名前がなくなった。)道を渡った数寄屋橋公園になると中央区銀座で、公園の裏に泰明小学校がある。1878年(明治11年)創立という歴史を誇り、卒業生の島崎藤村、北村透谷の碑が校門前に立っている。(他にも近衛文麿など有名人が多数在籍した。)現在の校舎は1929年に建てられた震災後の「復興小学校」で東京都の歴史的建造物、経産省の近代化遺産に選定されている。

 東京では「学校選択制」を小学校から実施しているところが多い。中央区でも全16小学校の中で4校に関しては、「特認校制度」という選択を認めている。泰明小の他、城東、常盤、阪本の4小学校で、地名を見ると銀座、兜町、八重洲などにある。居住者が少ない地区にある学校である。中央区民であれば、保護者が説明会に出席し教育方針に賛同したら希望を出せる。人気があって、抽選になるという。中央区は地価が高いから、もともと保護者には一定の経済水準があると考えられる。当然のこととして、卒業後は有名私立中を受験する児童が多い。そういう学校である。
 (右から男児夏服、男児冬服、女児冬服)
 どこに「問題」があるのだろうか。「標準服」が高すぎるのか。それとも公立小に有名ブランドだからか。あるいは、学校側の説明が納得いかないということか。(新入生向けの保護者説明会では金額が出されなかったという。)そういうことに話題が行くことで、そもそも「公立小学校に標準服があってもいいのか」という根本的問題が問われない。そもそも「標準服」なんだから、制服と違って着用義務はない。だけど、親が買わないという選択肢はないだろう。「お前のうちはビンボーなのか」という記号をまとわせて子どもを登校させるわけにはいかない。

 校長が、あるいは学校側が説明なしで勝手に決めたというなら、それは東京の教育では当然とされるだろう。標準服(あるいは制服)をどうするかは、「学校経営」の問題である。学校経営は校長の専権事項だから、教職員や保護者の意見を聞く必要はない。むしろ聞いてはならない。校長のあり方として、そう教えられているだろうから、それを実践したということだろう。他のブランド(バーバリー、エルメス、シャネルなど)にも校長が交渉したというが、アルマーニしか応じてくれなかったという。しかし、それにしても他も有名ブランドなんだから、要するに「高い標準服にする」のは当初から目論見だろう。それは「保護者を選別する」という目的なんだろうと思う。
 
 嫌なら他の学校へ行けばよいということだ。それは私立学校には言えても、公立学校では本来あり得ない発想だ。しかし、泰明小は普通の小学校ではない。「地区の子どもたちを地区の中学校に送る」のが「普通の小学校」だが、恐らく泰明小は「高い進路実績」を求める保護者の要望に応えるのが事実上の目標だと思う。だから、あえてこのような標準服を決める。高いという保護者には配慮もするなどと言ってるようだけど、そもそも着用の義務はないんだから、そのように指導をすればいいだけだ。だが校内の「運用」では「制服」だという意識なんだと思われる。

 そもそも公立小学生に「標準服」は必要なんだろうか。小学生は通常は6歳から12歳までである。どんどん大きくなるし、まだ自我のめざめ以前である。ブランド物の服を着る意味も判ってないだろう。中央区の小学校は16校中14校で標準服があるというが、全国的には「私服」が圧倒的だろう。それなのに「標準服」を制定する。服装には男女差がある。幼いころから、男女差を刷り込んでいく。高額な服を一斉に着用することで、エリート意識形成をも刷り込む。第2次性徴以前とは言え、世の中には「男の服を着る人」「女の服を着る人」の2種類しかいないと教え込んでいく。

 文科省は「自ら学ぶ」生徒を育てると言う。東京都は競争を導入し学校の個性化を進めるという。教育行政がどこまで本気で言ってるのか判らないが、「学校の個性化」を進めることにより、現場では校長の専断によって「個性のない子ども作り」を競い合うのである。それが日本社会の要望なんだから、致し方ない。校長だって数値化された学校目標実現に向けた「成績評価」にさらされている。現場教員を評価する管理職もまた、より上からの厳しい評価を気にしなければならない。そういう教育風土の中で起こった「椿事」が今回のアルマーニ騒動だ。

 ところでアルマーニ以外のブランドが断ったのは何故だろう。泰明小は小規模校で一学年が50名程度だという。それが男女別に分かれる上、細かい配慮を求められる。どんどん大きくなると、買い替える前にリニューアルにも応えないといけないだろう。だからと言ってこれ以上高額にはできない。とてもペイするとは思えない。しかし、「波及効果」があると見込むんだと思う。子どもがアルマーニ着てるのに、親がユニクロで授業参観に行けるか? やっぱりバーバリーじゃなくて、アルマーニを買ってしまうんじゃなかろうか。それは教職員も同じで、そうそうラフな服装で勤務も出来なくなるんじゃないか。子どもたちも何となく、デザインに慣れてしまえば、大人になって買ってくれるかも。それ以上に他の私立学校などに、大いなる宣伝価値があるだろう。そのような「波及効果」を見込んで、あえて引き受けたのではないかと思う。
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沢島忠、西部邁、ル・グイン等ー2018年1月の訃報②

2018年02月10日 22時59分22秒 | 追悼
 2018年1月の訃報続き。映画監督の沢島忠が亡くなった。(1.27没、91歳)東映で50年代後半から60年代に実に面白い娯楽映画を連発した。映画界の斜陽化に伴い、美空ひばり萬屋錦之助の舞台演出が主な仕事になった。だから、まずは演出家とするべきかもしれない。1963年の「人生劇場 飛車角」が大ヒットし、東映任侠映画の量産につながった。確かに面白いんだけど、それより錦之助やひばりが演じた、ひたすら楽しくて弾むような時代劇が懐かしい。その当時は、面白いというだけで消費されてしまったタイプの映画だが、時間が経ってみると日本映画の黄金時代を見る気がする。ただ一本の股旅映画「股旅 三人やくざ」が作品としては最高かな。

 保守派論客として活躍していた評論家、西部邁(にしべ・すすむ)が1月21日に多摩川に入水して自死。78歳。以前から「自裁」を口にしていたという。この人は元「学生運動家」で、60年安保闘争時の全学連指導部にいた。つまりブント(共産主義者同盟)である。その後、運動から離れて東大大学院に進んで、70年代には気鋭の「経済学者」だった。そういう伝説的な存在だったが、だんだん「保守」の評論家として知られた。でも「朝まで生テレビ」を見たことがなし、西部氏の本も読んだことがない。保守だからではなく、評論とかそういうものはほぼ読まないから。今回、西部を思想的というよりも、人格的に影響を受けたとか、好きだったという人が多いので驚いた。

 読んでないと言えば、作家のアーシュラ・K.ル=グウィンも死去。1.22没、88歳。アメリカのSF、ファンタジー作家で、「ゲド戦記」で有名。というか、70年代にサンリオSF文庫でいろいろ出たころから、印象的な名前を覚えたし、少し持ってるかもしれない。しかし、自分でも意外なことにル=グウィンを読んでない。村上春樹が訳した絵本「空飛び猫」シリーズだけは読んでるけど。(その前に実は「ナルニア国」も「指輪物語」も読み切ってない。だから、「ゲド戦記」に手が付けられない。)この人の両親は人類学者のクローバー夫妻で、母親が「イシ-北米最後の野生インディアン」を書いた。そういうドラマも興味深い。(でも「イシ」も持ってるけど読んでない。)

 僕が知ってるという意味では、ハンセン病療養所多磨全生園の自治会長、佐川修さんが亡くなった。1月24日、86歳。草津の栗生楽泉園に戦時中に入園し、「重監房」に小記事を運んだ生き証人だった。語り部としてハンセン病を語り継ぐ活動を行っていた。

・早稲田大学教授の西原博史が中央道で事故死した。中央分離帯に衝突し、路上に出ていたところを後続の冷蔵冷凍車にはねられた。この人の追悼をあまり目にしないのだが、憲法学選考で教育現場の国歌強制問題、安保法制の問題などで反対の発信をしていた。
・科学技術史の研究者で、原発反対運動にも加わっていた九州大教授、吉岡斉(ひとし、1.14没、64歳)が亡くなった。「原子力市民委員会」座長を務めた。
小野寺健(1.1没、86歳)は英文学者で翻訳がたくさんある。カズオ・イシグロの第一作「女たちの遠い夏」(今は改題されて「遠い山なみの光」)を翻訳した他、オーウェル、イヴリン・ウォーなど読んでる本も多い。 
夏木陽介(1.14没、81歳)は学園ドラマで活躍し、その後もテレビドラマで人気を集めた。映画プロデューサーの貝山知弘(1,7没、84歳)は東宝で「狙撃」「赤頭巾ちゃん気をつけて」など青春映画、アクション映画を製作。その後独立して「南極物語」を作った。
狩撫麻礼(かりぶ・まれい、1.7没、70歳)は、漫画原作者で「オールドボーイ」もこの人だったのか。朝日夕刊にブルボン小林、つまり作家の長嶋有の追悼が載っていた。
ピーター・メイル(1.18歳、78歳)はイギリスの作家。80年代後半に南フランスのプロヴァンスにに住んで、いくつもの本を出して世界的なプロヴァンスブームをもたらした。日本でも主に河出文庫からたくさん出てたけど、今も読めるのかな。
フランス・ギャル(1.7没、70歳)はフランスの歌手で「夢見るシャンソン人形」が世界的に大ヒットした。この歌は日本でも多くの人に歌われたから知ってるけど、この人のことは知らなかった。

住田正二(12月20日没、95歳)は運輸次官後に「国鉄民営化」に関わり、JR東日本の初代社長になった。「改革に尽力」「上場に道筋」と訃報だと評されるが、北海道や四国を切り捨てれば、上場もできるだろう。住民、労働者切り捨ての「分割民営化」を進めた。
犬養兵衛(1.16没、73歳)が死去。朝日新聞阪神支局襲撃事件で重傷を負った人。
小菅和子は、その名では判らない人が多いだろう。藤沢周平夫人。12月29日没、86歳。 
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星野仙一と野中広務-2018年1月の訃報①

2018年02月09日 22時32分39秒 | 追悼
 例年にないような寒波が続く日々、1月の訃報もけっこう多かったので2回に分ける。僕が知らない人がいかに多いことか。知名度の高さでは星野仙一野中広務がまず挙げられる。日本人の過半数は名前ぐらい覚えているだろうが、世の中には案外野球や政治に何の関心もない人がいるもんだ。それでも一面に出た訃報はこの二人だったから、まずはそこから。

 星野仙一(1947.1.22~2018.1.4、70歳)は、知られているように中日ドラゴンズで投手として活躍したのちに、中日、阪神、楽天で監督を務めた。1968年のドラフトで中日に入団、1982年まで現役。87年~2001年まで中日監督(優勝2回)、2002、3年に阪神監督(優勝1回)、2011年~14年まで楽天監督(優勝1回)。阪神で優勝したのも昔だから、2013年に楽天で日本一がなかったら、そんな人もいたなあレベルの訃報だったかもしれない。だけど、震災のあった東北のチームの監督として、日本シリーズ最終戦で田中将大をリリーフに送り出したシーン。日本球界で最後の投球になったこの鮮烈な思い出が、まだ多くの人に残り続けているだろう。

 1968年のドラフトは「空前の当たり年」と言われる。1位指名は阪神が田淵幸一、広島が山本浩二、阪急(オリックス)が山田久志、西鉄(西武)が東尾修、東京(ロッテ)が有藤通世、そして中日が星野である。もともと、星野は明大から巨人に行きたかったわけだが、結局巨人は島野修という高校生投手を1位指名した。そこから「巨人キラー」伝説が生まれるほどの反発心が生まれたという。しかし、中日時代の戦績は、146勝121敗34セーブ。勝利数で歴代50位だから、すごいことはすごいけど、超スゴイ!というわけじゃない。
 
 殿堂入りも監督しての業績であるように、結局3チーム、及び北京五輪の監督(4位)になった印象が強い。特に中日辞任直後に阪神の依頼を受け応諾した時はビックリしたし印象が強い。そういうのもありかと思った。そして、監督として評価され「上司になって欲しい人」なんかで高い評価を受けた。でも「拳骨をふるっても後でフォローした人情監督」なんて言われても、もうそれは否定しないといけない指導法だなあと思う。そういう時代の野球人だったということだろう。

 野中広務(1925.10.20~2018.1.26、92歳)の名前をちゃんと認識したのは、1994年に村山内閣の自治大臣、国家公安委員長として初入閣した時だ。僕は昔は全国の選挙区事情を大体覚えていたので、名前だけは知ってた。1995年に阪神淡路大震災オウム真理教事件が起こった。戦後史の転換点と言える年に、その双方で最も重大な担当大臣だったのである。その内閣における言動を見て、ただものではないと思ったのである。

 野中氏を「ハト派」として評価する声が「リベラル系」の中にけっこうある。しかし、それはどうなんだろうか。後藤田正晴を「ハト派」という人もあったが、後藤田や野中は「保守中の保守」である。確かに彼らは戦争体験者として戦争反対だったろうし、憲法9条の改憲にも消極的だったろう。全体の軸が右に寄り過ぎて、彼らも前より左に見えてしまうのかもしれないが、戦争をしないなんて当たり前すぎる。当たり前のことを言うだけで評価されてしまう方がおかしい。「保守」体制を維持していこうとすれば、戦争は不可だし過度な国家主義は危うい。

 野中広務がある種「胆力」のある「剛腕」政治家となったのは、京都府で長く革新府政に対する「野党」政治家として鍛えられたからだろう。7期府知事を務めた蜷川虎三時代に府議会議員を務め、保守系府政になって副知事に就任し、1983年に衆議院議員に当選した。自民党は94年の細川内閣成立で結党後初の野党となったわけだが、そこから社会党と組んで政権を奪還するという「修羅場」政局に野中が力を発揮したのも当然だ。そして、以後竹下派の実力者と認められ、小渕内閣で官房長官、森内閣で自民党幹事長となった。

 その剛腕で成し遂げたのは、政局的には当時の自由党小沢一郎に「ひれ伏してでも」と連立を組み、その連立に公明党を引き込んだこと。「自自公連立」である。その後、小沢は小渕内閣との連立を解消し、以後反自民陣営にいるが、当時は「自自連立」なしに公明党との連立はならなかった。つまり、民主党政権時を除きずっと続いている「自公連立」を作った人だ。そして政策的には「国旗国歌法」を成立させたこと。当時の国会答弁で強制するものではないと言ったけれど、そんなものはウソだったことは歴史に照らして明白。

 このような野中を政治家として評価する「リベラル」がいるのは理解しがたい。しかし、野中は小泉内閣時に政治家として失墜した。以後は小泉内閣や安倍内閣に対して批判的なスタンスを取るようになった。自民党内で野中に親和的な勢力は、大体郵政民営化法案をきっかけに離党するか、小泉・安倍に屈してしまう。それが嫌なら引退しかない。そして野中は2003年の総選挙に立候補せずに引退したわけである。まあ「筋を通した」ということだろう。

 ところで野中広務には魚住昭「野中広務 差別と権力」や辛淑玉との対談「差別と日本人」がある。被差別の出身だったことは周知だが、マスコミの訃報では触れられていない。それはどうなんだろうか。運動団体には批判的な立場だったから、あえて書かなくてもいいのかもしれない(解放運動の要職にあったことは一度もないのだから。)でも、彼が「骨のある」「胆力」を身に付けた背景には、反差別の思いがあったことは間違いない。だがそうして選んだ地方政治家出身の戦後保守政治家という道は、今やほとんど絶滅してしまった。その意味はまだ全体的な評価が難しい。星野、野中を書いたら長くなってしまったので、1月は2回に分ける。
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話題の「屍人荘の殺人」を読む

2018年02月07日 21時34分15秒 | 〃 (ミステリー)
 追悼特集を書くヒマがないが、先に今村昌弘「屍人荘の殺人」(東京創元社)を読んだ話。2017年の鮎川哲也賞受賞作で、新人ながら年末のミステリーベストテンで「三冠王」(「このミステリーがすごい」「週刊文春」「本格ミステリベスト10」)を獲得した。ミステリーファン以外にも評判を呼んでいるが、確かに面白いし、よく出来ている。しかし、途中から展開される「ある設定」を書くわけにいかない。独創的な「クローズド・サークル」とか書いてあるから、読みたくなってしまう。

 抜群のリーダビリティなんだけど、ミステリーファン以外の人がうっかり読むと怒り出すかもしれない。僕もこれは「反則」だと思う。でも、エンターテインメント小説なんだから、面白ければ反則でもいい。ただし、設定はともかく、事件と謎解きはまさしく「本格」である。この「方法」にはビックリさせられる。なるほど、新人離れした才能だ。

 「屍人荘の殺人」というだけで、これはクローズド・サークルものの本格ミステリーだと判るわけだが、イマドキどんな手を使ってくるのか。「屍人荘」なんて名前の建物があるわけない。ほんとの名前は「紫湛荘」だというんだが、なるほど。もとは別荘で、今はある会社のペンションになっている。そこで毎年のように、神紅大学映画研究部の夏合宿が開かれている。今年も夏合宿があるが、そこにミステリ愛好会の明智恭介(3年)と葉村譲(1年)も参加することになる。

 明智は人呼んで「神紅のホームズ」だが、一年生の葉村が語り手となって物語が進行する。この夏合宿はなんだか「訳あり」らしく、事前に脅迫状も届いたとか。明智は映画部長の進藤に何度も参加を打診するが、ずっと断られていた。そこに2年生の「探偵少女」剣崎比留子が現れ、彼女と一緒なら何とか参加可能となったのである。ということで、ロックフェスで知られた娑可安湖(さべあ湖っていうすごい名前)にある紫湛荘に管理人を含めて14人が集まった。その中にはいかにも感じが悪い先輩が3人いるが、一人はペンションを持ってる一族である。(名前が覚えられんと思う頃に、登場人物が語呂合わせの覚え方まで教えてくれる親切さ!)

 はいはい、大学生の夏合宿っていうのも、お約束の定番ですね。青春ミステリー風に始まり、教授の別荘がある島を台風が直撃して…とかなんとか、誰も近づけない「クローズド・サークル」ができ、鍵のかかった部屋で死体が見つかる…。なんて展開は今さら書けないよね。なぜなら今じゃ台風や大雪でもスマホ使えるでしょ。皆の携帯電話、スマートフォン、タブレット端末などが全部電池切れになるまでにはかなり時間がある。それまでなら誰かが外部に連絡可能である。

 そこでこの小説の超絶的設定が出てくるわけである。大体登場人物が大胆に「淘汰」されてしまうのにもあ然。そりゃまあ、神紅のホームズが、明智さんかあとは思ったりもしたけれど。それはそれとして、普通は現実には「密室殺人」なんか起きない。そんな手間ひまかける前に逃げた方がいい。この世に一番多い「密室事件」は、実は「老人の孤独死事件」だろう。(それも実質的には殺人かもしれない。)でも、この小説の「密室殺人」の設定はよく出来ている。

 まあ、「フーダニット」(Who done it? 犯人)、「ホワイダニット」(Why done it? 動機)はミステリーファンには判るかもしれない。他にいなさそうだから、僕も予想した通りだった。でも「ハウダニット」(How done it? 方法)が見当つかない。この「解決」にはうならされた。なるほど。論理的解決はこれしかないだろう。(だけど、最後の事件などはかなり無理筋だろう。)超絶的設定をうまく生かした「論理性」には驚くしかない。

 ミステリーファンなら図書館予約待ちや文庫化を待ちきれずに、単行本を買ってしまう価値はあると思う。今回は「紫湛荘事件」だけだが、本来はこの事件はもっと大きな大規模テロ事件の一環である。そっちは今回は解決されていない。また剣崎の過去の事件なども出てこない。よって、今後は本格でなくていいから、新しいタイプの面白ミステリーを読みたいもんだと思う。ぜひ期待。
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