尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

西股総生「東国武将たちの戦国史」

2021年02月28日 22時40分55秒 |  〃 (歴史・地理)
 関東地方の中世史、特に戦国時代史をもっと知る必要があると思って、以前5回にわたって書いたことがある。意識してみると案外関東戦国史の本もあるし、最近は注目も集まっている気がする。今回読んだ西股総生東国武将たちの戦国史」は河出文庫の2月新刊で、元の本は2015年に刊行された。10章に分かれているが、それぞれは雑誌「歴史群像」に掲載された「よみもの」である。論文ではないが、小説でもなく、人名などが細かいから面倒だと思う人もいるかもしれないが、僕はこの手の本はつい買ってしまってすぐ読んじゃう。簡単に入手できる好著だ。

 第一章は「長尾景春と太田道灌」。太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)は江戸城を築いた武将として有名だが、具体的な人間像はほとんど知らないだろう。長尾景春(1543~1514)は名前もよく覚えてないが、この本で見る反乱また反乱の人生はとても面白い。関東地方では15世紀半ばから享徳の乱(1455~1488)が続いていた。足利尊氏の子、基氏に始まる「鎌倉公方」と公方を支える執権上杉氏が争っていた。上杉氏もいくつかの家系に分かれ、山内上杉家扇谷上杉家が争っていた。非常に複雑なんだけど、扇谷家(おうぎがやつ)家の家宰だったのが太田道灌、山内家の家宰だったのが長尾景春の一族である。
(太田道灌)
 景春の父の死後、家宰は叔父が務めることになり、その事に不満を抱いた景春は反乱に踏み切った。一時は主君上杉顕定軍を打ち破り、大いに勢力を伸ばした。これに対して、道灌は戦乱に割って入り、策謀をめぐらし乱を集結させた。しかし、武蔵南部に勢力を広げて主君をしのぐ勢いを示して、主君に暗殺されてしまう。長尾景春は逃げ延びて、敵だった古河公方や勢いを増す北条氏、さらには駿河の今川氏など次々に亡命しながら、時に関東に反乱ののろしを上げた。とても興味深い人生を送った人だ。伊東潤に「叛鬼」という小説があるらしい。

 続いて、伊勢宗瑞北条氏綱武田信虎長尾為景が扱われる。信虎は武田信玄の父である。信虎がほぼ甲斐を統一したが、子どもの信玄に追放される。それはかなり有名だが、長尾為景と言われても誰という人が多いだろう。この人は上杉謙信の父である。つまり、この本では誰もが知る信玄、謙信ではなく、父の代の統一戦争が語られるのである。それが非常に興味深く、父の代あってこその武田家、上杉家(長尾家)であることがよく判る。

 戦国大名では珍しく、家督争いに明け暮れなかった北条氏は、「最初の戦国大名」であり、かつ「最後の戦国大名」である。北条氏も草創期が語られる。今川氏の客分のようだった伊勢宗瑞が伊豆を乗っ取り、やがて南武蔵に勢力を伸ばす。結局、最後は豊臣秀吉に滅ぼされてしまうから何となく印象が薄くなるが、五代にわたって家督を混乱なく相続させ、文書による統治体制を完成させた。それを家康が受け継ぐので、江戸時代に続く関東地方を実質的に作り上げたと言ってもいい一族だ。関東の政治・軍事状況は複雑で一時は追い詰められたときもあるが、北条氏康(3代目)が「河越夜戦」で勝利して関東制覇に進む。
(北条氏康)
 そして後半になると、信玄、謙信相撃つ時代へと入っていく。関東は武田・今川・北条の「三国同盟」を基軸にした時代が長く、長尾為景の子景虎(謙信)は関東の上杉氏を継いで関東に毎年のように「越山」した。しかし、信玄が同盟を破棄して駿河の今川氏を攻撃、一転して上杉・北条が手を結び「越相同盟」を結ぶ。今川氏は大名としては滅ぶが、やがて信玄、謙信ともに亡くなる。信玄は今川氏出身の正妻から生まれた長男と争い、殺害していた。そこで諏訪氏から生まれた勝頼が継いだわけだが、もうそこら辺は有名だから書くまでもないだろう。
(武田勝頼)
 著者の西股総生(にしまた・ふさお)氏は多くの城郭を踏査し、軍事史的視点から戦国合戦を鋭く分析すると紹介されている。大学に所属する学者ではなく、フリーライターとして活動している。その軍事的視点が興味深く、太田道灌の戦略分析などに生かされている。だから1575年の「長篠の戦い」の分析も興味深い。細かくは書かないが、武田氏はそこから一気に滅亡したわけではない。武田勝頼はかつては弱将イメージがあったが最近は再評価されている。ここでは「御館の乱」の影響が重視されている。これは謙信死後の跡目争いだが、北条氏康の実子で謙信の養子となっていた上杉景虎と謙信の甥に当たる上杉景勝が争った。

 北条家は当然ながら景虎を支援して、勝頼にも支援を要請した。しかし、北信情勢にも影響があるため武田勝頼は景勝の勝利を黙認した。そのことで対北条関係も緊張して、武田家としては西部戦線だけでなく、東部戦線にも力を注がなければならなかった。もし御館の乱で景虎が勝利していたら、北条=上杉同盟が秀吉の統一戦争に立ちふさがっていた可能性が高い。そう考えると、そんなところにも歴史の分かれ目があったのかもしれない。
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沢田瞳子「火定」(かじょう)ー天平の天然痘大流行を描く

2021年02月27日 22時17分08秒 | 本 (日本文学)
 時代小説作家、澤田瞳子(さわだ・とうこ)の「火定」(かじょう)を読んだ。2017年に刊行され、第158回の直木賞候補に選ばれた。その当時に評判だったので、前から読みたいと思っていた。2020年11月にPHP文芸文庫に収録されたので、この機会に読んでみることにした。これは天平(奈良時代)に日本を襲った有名な天然痘大流行に材を取った小説である。まさか著者も刊行数年後に世界をリアルな感染症大流行が襲うとは思いもしなかったに違いない。

 時は天平9年西暦737年平城京天然痘が大流行した。729年の「長屋王の変」の後、政界の中心にいた藤原四兄弟、藤原不比等の子どもの武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂が相次いで亡くなったことで知られる。「火定」はこの大災厄をめぐる大混乱と悲劇をあますところなく描き尽くしている。尽くしすぎて気持ち悪い箇所も多いけれど、今の世界を考えるヒントとしても書いておきたいと思う。

 聖武天皇の皇后である光明皇后は藤原不比等の娘で、皇族以外で初めて皇后になった。730年に皇后の願によって、都には「悲田院」「施薬院」という福祉施設が作られた。「悲田院」は貧困者や孤児の救済施設、「施薬院」は貧しい病者のための医療施設である。主人公は施薬院で働く若い下級官僚の蜂田名代(はちだのなしろ)という架空の人物で、21歳の彼は医者に関心は無い。もっと重要な中央官庁に配属されたいと不満たらたらである。皇后による設立と言っても、律令に書かれていない「令外官」(りょうげのかん)なので何かと冷遇されているのだ。

 もう一人の主人公と言えるのが、猪名部師男(いなべのもろお)という元・侍医。身分は高くないものの真面目に勤めて、天皇の診療にあたる侍医の一人にまでなっている。しかし、ある日全く思いもよらぬ罪に落とされて、終身徒刑を宣告され監獄に入れられる。ここの描写もすごくて、奈良時代の監獄に「人権尊重」があるわけないけれど、いくら何でも読んでて気持ち悪いぐらい。そんな先行きのない諸男だったが、ある日突然恩赦で赦免される。その後、いろんな人材を求めてる藤原房前に何故か召し抱えられている。
(澤田瞳子)
 小説はこの二人を交互に描いていく。冒頭は「遣新羅使」の持ち帰った品の払い下げの場である。ここで名代と諸男は相知らぬままに出会っている。そして二人のその後を追うことで、この大災厄の実情が明かされていく。どうしようもない(当時としては)状況の中で、人々は怪しげな呪いに頼り、また疫病をもたらした外国への憎悪が広がる。実際にこの大流行は「遣新羅使」がもたらしたものと思われている。半島との交流は日常的にあり、九州では早く流行していたと言われるが、それが都に入り込んだのは使節の往来が関係していたのかもしれない。

 澤田瞳子は「火定」以前に「若冲」、以後に「落花」という小説が直木賞候補に選ばれているが、まだ受賞していない。「火定」の時は、藤崎沙織ふたご」が話題になっていたが、受賞は門井慶喜銀河鉄道の父」だった。僕も「火定」のラスト近くの展開はありきたりで、人間描写に弱さは感じた。多分こうなるだろうなあという風に「予定調和」してしまうのはどうなのか。しかし、それは別にして、大流行を利用して儲けようとする人、憎しみを外部に向ける人々、民衆の苦しみに無関心な上層部、ひたすら目の前の出来事に対応する「現場」の人々など、いかにも現代世界を見る思いがする。グロテスクなホラー描写もすさまじい。
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開高健記念館(茅ヶ崎市)を見に行く

2021年02月26日 22時21分40秒 | 東京関東散歩
 神奈川県茅ヶ崎(ちがさき)市にある開高健記念館に行って来た。開高健は1974年に茅ヶ崎に終生の住まいを作った。2003年にそこが記念館になって公開されたが、知らない人が多いと思う。僕も割合最近(と言っても数年前だが)に知った。何しろ金土日しか開館してないから、なかなか行きにくい。今日も雨の予想だったが、何とか持ちそうな予報に変わったので行くことにした。最近開高健を読んだから、こういう時期じゃないとなかなか行きにくい。

 茅ヶ崎と言えば、一般にはまずサザンオールスターズ(桑田佳祐の出身地)で、続いて加山雄三だろう。(父親の上原謙が邸宅を構えた。)有名人の出身者、居住者が多い町で、松坂桃李や今宇宙に行っている野口聡一さんの出身地とも出ている。映画監督の森田芳光の出身地で、小津安二郎の定宿だった茅ヶ崎館もある。大岡越前一族の墓があって大岡越前祭もやっている。茅ヶ崎で開高健を思い出す人はほとんどいないだろう。

 そんな茅ヶ崎だが行くのは初めて。遠いけれど乗り換え一回で行ける。上野駅で上野東京ラインの熱海行に乗って、ウトウトしてる間に着いてしまう。スマホでバスを調べたが、時間が全然違ってる。改札を出て南口寄りに観光案内所があり、ガイドマップが置いてある。初めて行く人には必須だ。コミュニティバスに開高健記念館というバス停があるが、時間が合わないので歩くことにした。徒歩20分とあるから何とかなるだろうと思ったが、まあ近くまでは問題なく行ける。問題は近くに案内が少ないことで大回りしてしまった。
   
 2枚目の写真にあるように、今も「開高健 牧羊子」と刻まれた表札のままである。入ると玄関前に碑がある。「入ってきて人生と叫び 出ていって死と叫ぶ」。館内では写真を撮らなかったが、戦場のヘルメットや釣り道具や酒、本が集まっている。「パニック」のアイディアの基となった新聞記事、開高が携わったサントリーの新聞広告、人生折々の写真など貴重な資料がいっぱいだった。主のいない書斎がそのまま保存され外から見られる。
  
 庭を歩けるが、開高は「哲学の小途」と名付けていた。開高家の本籍は福井県で、中野重治と同じ村だった。そのゆかりで庭には越前スイセンが植えられて今見頃だった。記念館には開高健の流通している本も集められて購買できる。全然知らない人には意味が無いところだと思うけど、そういう人はもともと来ないだろう。現代史の貴重な資料が残されていて僕は面白かった。
  
 記念館のそばに「茅ヶ崎ゆかりの人物館」というのがあって、共通券もあったから行ってみたが、ここは入る必要はないと思う。記念館の所在地は「東海岸南」だが、開高邸から海は見えない。砂防林があるからだ。5分ぐらい歩いて国道を越えると海が見えてくる。堤防まで行くと下が砂浜である。遠くに江ノ島が見えた。松林の中は散歩道が整備されている。歩きながらサザンビーチを目指す。途中に野球場があり、そこに国木田独歩の文学碑がある。
  
 明治の文学者国木田独歩は結核のため36歳で亡くなった。亡くなる前は茅ヶ崎にあった有名な結核病院、南湖院に入っていた。ここは当時非常に有名だった病院で、名前の「南湖院」はいかにも湘南っぽいけれど、実は所在地の地名である。(ただし「なんご」と読むらしいが、病院は「なんこいん」である。)平塚雷鳥の愛人だった奥村博史や詩人の八木重吉なども入っていた。近代文学史、思想史に大きな意味を持った場所だが、戦後進駐軍に接収され、現在は滞在型有料老人ホーム「太陽の郷」になっている。第一病棟などが現存していて公園として公開されている。ここも行きたかったのだが、雨がパラパラしてきたから今回は止めることにした。
 (茅ヶ崎館)
 そこでサザンビーチ前で曲がって「茅ヶ崎館」を探すことにした。まあここは現役の旅館だから外から写真を撮って帰ることにした。ビーチ沿いには夏ならばオシャレそうな店が並んでいたが、緊急事態下の冬の曇天(時には雨がパラパラ)だから、特にビーチリゾート感はなかった。でも町全体に何となく夏っぽいムードがある町だ。僕は一度も湘南ビーチに行ったことがない。千葉や伊豆はあるが、混んでそうなところは行きたくない。だから鎌倉と小田原の中間地帯は全然知らないが、そこにも興味深い史跡はあるので今後また行きたいと思った。
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山鳩湯と仙壽閣ードバドバ温泉の魅力ー日本の温泉②

2021年02月25日 22時46分15秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 「日本の温泉」1回目は「色」に注目して「国見温泉」を取り上げた。温泉の魅力はいくつもあるが、湯そのものに焦点を当てれば、泉質湧出量になる。効能とかというのは「泉質」の問題だが、「湧出量」が風呂のあり方を決める。20世紀終わり頃から、「源泉掛け流し」という言葉が聞かれるようになった。湧出量がいっぱいある温泉は、温泉を循環する必要が無い。やはり僕も温泉は豊富な湯がいっぱい流れている方がうれしい。

 ただ僕は一概に「循環」を否定するつもりはない。素晴らしい泉質を持ちながら、湧出が少ないために循環せざるを得ない温泉もある。限られた温泉資源を循環することで守っている小さな宿の魅力もある。僕が困ったのは、バブル期に作られた大ホテルである。内湯も露天風呂も豪華にして、ジャグジーなど多彩な機能の風呂がある。僕も若かったから最初はそういう風呂を喜んだ。でも塩素殺菌が強すぎて、入浴後にかえって肌が荒れてしまう風呂まであった。本末転倒だ。

 ということで2回目は「湧出量」を見てみる。湧出の仕方で「足下湧出泉」を大事にしている人もいる。お風呂の下からどんどんお湯が湧き出しているという温泉である。しかし僕がここで書きたいのは、単に量的にいっぱい出てる温泉である。ドバドバ出ているから、「ドバドバ泉」と勝手に呼んでいる。山梨県山梨市の「はやぶさ温泉」は風呂からどんどんお湯があふれていて凄い。カランやシャワーもすべて温泉。毎分500リットルも出ているという。ただし、ここは立ち寄り専門で、宿泊できない。でも近くに行ったら是非寄りたいところ。泉質もアルカリ泉で肌に優しい。

 宿泊したところでは、あまり知られていないだろう奈良県川上村の「入之波温泉 山鳩湯」を思い出す。「入之波」は知らないと読めないと思うが、「しおのは」で所在地の地名。奈良県東南で、山また山の地帯。吉野川に沿ってダムがあり、大迫ダムに面している。僕は熊野古道に行きたいと思って、途中で三重県の榊原温泉に泊まり、翌日に赤目四十八瀧大宇陀町に寄って、山鳩湯に泊まった思い出がある。(南紀には何度か行っているが、この時は台風に直撃され熊野古道を歩くことは出来なかった。)
 
 山鳩湯は確かにたくさん出ているんだけど、ここの風呂はちょっと裏技である。普通は源泉掛け流しだと風呂から湯があふれている。(最近はあふれないで湯を片側から抜くような風呂も多いが。)しかし山鳩湯はあふれない。なぜなら湯はどんどん外の露天風呂に出て行くからである。それが一枚目の写真で、どんどん内風呂から流れているのが判るだろう。そもそもの湯は上からホースでどんどん内風呂に供給されている。露天風呂もあふれない。こっちはどんどんダムへ落ち込んでいる。いいのかそれで的な設計である。
 
 全体としてはジャブジャブ湯がどんどん交代しているのは確か。宿のホームページにある写真を見ると、源泉ではどんどん噴出している。最初は無色だが、風呂の中で茶褐色に変わっている。何だか土を溶かした感じだけど、炭酸泉と書いてある。写真を見てもずいぶん秘境で、「秘湯の会に入ってない本当の秘湯」である。

 もう一つドバドバ泉を紹介すると、長野県の湯田中渋温泉郷にある上林温泉仙壽閣である。こっちは山鳩湯と違って高級旅館である。高いんだけど立ち寄り湯をやってないので、泊まるしかない。ある時泊まってみたが、これはまたすさまじいドバドバ泉だった。男湯と女湯を分ける大きな壁があって、そこから滝のように湯が落ちてくる。華厳の滝や那智の滝ではない。ナイアガラの滝とかイグアスの滝である。つまり壁の上全面からどんどんあふれ出しているのである。下が風呂になっていて、風呂からもどんどんあふれ出す。毎分720リットルというからすごい。
   
 湯田中渋温泉郷は長野県東北部の山ノ内村にあって、9つの温泉がある。最近火事が起こった「よろづや」のある湯田中温泉、「金具屋」が有名な渋温泉、猿が温泉に入る公園がある「地獄谷温泉」、戦時中に林芙美子が疎開していた角間温泉など個性ある温泉が集まっている。その中で宿も少ない上林温泉は知名度は低いが、仙寿閣長野電鉄が直営する高級旅館なのである。今回の温泉も行きにくいところを選んだが、長野県随一の湧出量を誇る宿で、お金があるときなら行く価値あり。

 他にもお湯が川になっているところ、それどころか川そのものが温泉のところもあるじゃないかと温泉通なら言うかもしれない。確かにその通りで、それはまた数回後に書きたいと思う。
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桂宮治真打昇進披露公演ー浅草演芸ホール2月下席

2021年02月24日 22時17分22秒 | 落語(講談・浪曲)
 落語芸術協会所属の桂宮治真打昇進披露公演が始まった。2月中旬の新宿末廣亭が最初だが、夜だったので敬遠。毎日代わりの口上メンバーが豪華だったけど、帰りも遅くなるし食べるところがない。次の浅草演芸ホールは夜の予定が昼に変わったので、時間を作って聴いてきた。現在の芸協会長・春風亭昇太以来の5人抜き真打抜てきだという。

 桂宮治は初めて聴いたけど、これはまた威勢のいい真打が登場したものだ。二つ目ユニット「成金」メンバーで、柳亭小痴楽神田伯山昔昔亭A太郎瀧川鯉八桂伸衛門に続く6人目の昇進だ。1976年生まれだが、入門は2008年で30を超えていた。しかし、2012年に二つ目に昇進すると、その年にNHK新人演芸大賞落語部門大賞を受賞した。その後も毎年のように若手落語家向けの賞を受賞している。口上で桂文治が言ってたが、他の二つ目に賞を譲るため宮治と神田松之丞(伯山)は早く昇進させるべきだと主張したという。
(師匠の桂伸治と)
 若手の春風亭昇也や昨秋の真打・昔昔亭A太郎が元気だったけど、成金メンバーは宮治を含めて相当変だ。かつてはイキの良さ抜群だった春風亭昇太が普通に見えてきた。まあ昇太は寄席では古典をやることが多く、口上でも「さすが会長」的にまとめていた。ナマ昇太にも少し飽きてきたかな。上方から応援の桂三度の「代書屋」がおかしい。東京で柳家権太楼や三遊亭小遊三がやるときと雰囲気がかなり違う。調べてみるとこの人も異色の経歴の持ち主で、吉本で漫才や放送作家をしていた。2011年に文枝に入門したが、そのエネルギーと面白さは注目。

 今日は子どもが客にいたためか、割と有名な噺が続きちょっと飽きてきた。桂竹丸桂文治の安定した力量が楽しい。僕も若手のエネルギーに押され気味である。口上後は、芸協の真打披露は大体同じだが、東京ボーイズ(歌謡漫談)、ボンボンブラザーズ(曲芸)が終わり頃に組まれる。そのとぼけた味わいが客を沸かせて、また静める。特にボンボンの帽子投げは客を巻き込んで、最近ではトリの次ぐらいに受けている。今日も男の子を高座に上げて大喝采だった。
(大分竹田の姫だるま=林家たい平絵)
 そして十分盛り上がったところで、トリの桂宮治。悪口と客いじりのエネルギーで各席を圧倒。マクラが面白すぎて、ネタをあまり覚えてない。しかし、こういうエネルギッシュな落語に当てられると、落語協会も聞きに行きたくなるから不思議。今年初めての寄席だったが、コロナ禍に半日をつぶすのはどうなのかと1月は行かなかった。席は半分だし、検温しているから、マスクをしてれば大丈夫だと思っている。ただし最大の問題は腰や尻が痛くなることだ。
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面白くて深い「評伝 開高健」ー開高健を読む④

2021年02月23日 22時51分09秒 | 本 (日本文学)
 開高健に関して4回書いたので、一端お休み。まだ読んでない本もあり、書きたいスピンオフもあるから少し後で再開予定。2017年に出た小玉武評伝 開高健ー生きた、書いた、ぶつかった!」が2020年10月にちくま文庫に入った。そこで今回読んでみたが、ここ最近読んだ本の中では圧倒的に面白かった。読み終わるのが惜しくなって、他の本と掛け持ちで読んだぐらいだ。開高健も逝去から時間が経って関係者の多くも亡くなりつつある。そのため失われたものも多いが、逆に新資料や新証言も集まるようになったのだろう。

 前回までに芥川賞受賞サントリー宣伝部の話は書いた。今度の本は評伝だから、生育や文学修行時代が初めに追跡される。そこは今細かく書かないが、小学校教員だった父親が1943年に急死して、13歳の健が「戸主」となって空襲下の大阪を生き延びたのである。妹二人は疎開したものの、母と健は残っていた。学校はもはや授業ではなく、勤労動員に明け暮れた。操車場で大人に交じって働き、機銃掃射にもあった。敗戦後は貧困の中を何とか生き延びた。

 それらの体験は後に「青い月曜日」などで書かれたが、出発時の開高健は決して焼け跡時代の思い出を叙情的には書かなかった。苛酷な戦争体験は開高健を「日本的叙情」から遠ざけたのである。初期短編は「自我」の外側にテーマを設定している。「パニック」はネズミの大発生、「巨人と玩具」はお菓子会社の宣伝競争、「流亡記」に至っては秦・始皇帝の万里の長城建設をテーマにしている。それらはもちろん「現代」と「人間」を考える仕掛けだが、幼児期や恋愛・失恋の思い出を甘く語るような「青春文学」ではない。
(開高健と牧羊子)
 開高健にとって、牧羊子と出会い、サントリー(寿屋)に入社したことが人生を決めたが、その経緯が細かく検討される。開高健は晩年にテレビCMに出たときは、ずいぶん太っていた。しかし、結婚当時の写真を見ると痩身の文学青年である。東京に出てきて「裸の王様」で芥川賞を受けたが、仕事と家庭を抱えながらではすぐにアイディアが枯渇する。「文學界」への受賞第一作が書けずに、「群像」から書き直しを求められていた「なまけもの」を流用した。以後「群像」(講談社)と絶縁された。「開高健短編選」にある「なまけもの」は自伝的作品だが失敗作だろう。

 この評伝はいくつかの作品を読んでないと面白くないだろう。それを挙げれば「日本三文オペラ」「輝ける闇」「夏の闇」「オーパ!」だ。苦闘する開高健が挑んだのは、地元の大阪を舞台にした「日本三文オペラ」(1959)だった。これは大阪城近くの砲兵工廠跡に残された金属を盗み出そうとする集団を描くピカレスク(悪漢)小説である。小松左京日本アパッチ族」や梁石日(ヤン・ソギル)の「夜を賭けて」と同じ題材である。つまり主人公は本当は在日朝鮮人だった。開高は牧羊子を通して、詩人金時鐘や後の作家梁石日に取材したのである。
(小玉武氏)
 全部書いてると終わらないが、一段の凄みを感じたのは「夏の闇」をめぐる考察である。これはどことも知れぬヨーロッパの町(明示されてないだけで明らかにパリやベルリン)で、過去の因縁を抱えた女と性に耽溺するある夏の話である。小説だから「事実」である必要はないが、その「熱」には現実のモデルがいたのだろうか。年上の妻を持つ作家は外国で妻ならぬ女性と関係を持っていたのか。どのような事情が背景にはあるのだろうか。そこを追跡していくと、様々な事実が発掘される。「文学探偵」の妙味だが、それは哀切なエピソードだったと言えるだろう。

 細かいところは本書に譲るが、開高没後に娘道子妻初子(牧羊子)に訪れた運命も哀切なものだった。僕も新聞で訃報を読んで絶句した思い出があるが、事情を知って言葉を失う。そして開高自身も59歳と早死にだった。石原慎太郎や大江健三郎が今もなお存命であるだけでなく活動もしていることを思えば、開高健が今も現役作家であってもおかしくはないのだ。1930年生まれ、1989年没と日本の元号で言えば、ほぼ「昭和」を生きたと言ってよい。冷戦終結、バブル崩壊を前に亡くなったのである。

 そして著者は恐るべき指摘をしている。ヴェトナムを共に取材した朝日のカメラマン秋元啓一も49歳で亡くなった。死因も同じ食道がんだった。これはヴェトナム戦線取材時に浴びた「枯葉剤」、つまりダイオキシンの影響なのではないか。それは今では確かめられない。開高は喫煙家だったし、がんの原因は誰にも判らない。しかし、戦後を駆け抜けて去って行った作家には、その幅広い活動の中でそんな指摘もあるということだ。
(左から開高、佐治敬三、山崎正和、高坂正堯)
 なお、著者は「日本三文オペラ」の考察の中で、梁石日の原作を映画化した崔洋一監督の「月はどっちに出ている」を岩波ホールで見たと書いているが、それは明らかな勘違いである。「月はどっちに出ている」は1993年11月6日に公開され、自分は11月20日に「新宿ピカデリー2」で見た。(記録を付けているから確か。その日は先に中国映画「香魂女」をテアトル新宿で見た。)その時岩波ホールではシンシア・スコット監督「森の中の淑女」という「老女映画」が大ヒットしていた。9月4日から12月10日まで上映され、翌94年の3月19日から6月10日まで再上映されたぐらいのヒットだった。岩波ホールのホームページには過去の全上映記録が掲載されている。
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開高健のサントリー時代ー開高健を読む③

2021年02月22日 23時21分59秒 | 本 (日本文学)
 開高健寿屋宣伝部に勤めていたことは芥川賞受賞時から有名だった。「寿屋」は現在のサントリーだが、戦前来宣伝広告の上手な会社だった。僕も昔のウイスキーやビールのCMをよく覚えている。現在もビールの「金麦」や缶コーヒーの「BOSS」など有名だろう。またサントリー宣伝部には芥川賞作家の開高健だけでなく、1963年に「江分利満氏の優雅な生活」で直木賞を受賞した山口瞳もいた。そんなサントリーで開高健はどのように働いていたのだろうか。
(『洋酒天国』とその時代)
 それがよく判る本が小玉武『洋酒天国』とその時代」(ちくま文庫)である。2007年に出て、織田作之助賞を受けた。小玉氏はサントリー宣伝部で開高、山口の後輩として働いた人物だが、単なる会社員ではない。早稲田大学新聞部では在学中に大隈講堂で開高健、大江健三郎の講演会を実施して、学生時代から開高を知っていた。サントリーでは広報部長、文化事業部長を歴任し、「サントリー・クォータリー」を創刊し編集長を長く務めた。サントリーの文化的な面を伝えるには絶好のポジションにいた。本来は「小玉武を読む」だけど、まあ「開高健を読む」として書く。

 開高健は作家活動を続けながら、本業としては芥川賞受賞前から雑誌「洋酒天国」の編集長をしていた。この雑誌は知る人ぞ知る存在で、僕も名前を聞いたことはあった。1956年に創刊され、1963年に休刊したから、もちろん読んだことはない。そもそも市販した雑誌ではなく、サントリーが全国展開した「トリスバー」の常連に無料で配られた宣伝雑誌である。それがいかに都会的でオシャレで知的好奇心に満ちた雑誌だったかは、小玉著に余すところなく書かれている。僕の時代でいえば「面白半分」とか「ビックリハウス」みたいなものか。僕の世代だとトリスバーそのものを知らないんだけど、時代相は何となく通じる。

 そして1961年1月に新聞広告のコピーで開高健の最高傑作が生まれる。
 「人間」らしく
 やりたいナ

 トリスを飲んで
 「人間」らしく
 やりたいナ

 「人間」なんだからナ (「ナ」は小文字)

 トリスを飲むことが「人間らしく」あった時代だった。もっと時代が後になるが、70年代には「ネスカフェ ゴールドブレンド」のテレビCMで著名人が「違いのわかる男」と呼ばれていた。今ならば違いが分かる「人」は、自分で豆を選ぶところから始めるだろう。だから、日本はまだ貧しかったのだが、欧米に憧れる洋風の生活がウイスキーやコーヒーからスタートしたのである。
(柳原良平作の「アンクルトリス」)
 では開高健はなぜ寿屋に入社したのか。それは妻の詩人・牧羊子(本名初子)との入れ替わりだった。7歳年上の牧羊子とは、大阪の同人雑誌で知り合って学生時代に同棲して子どもが出来た。牧羊子は当時珍しい「リケジョ」で、寿屋の実験室で働いていた。二代目社長になる佐治敬三は自分の趣味のような「ホームサイエンス」という雑誌を作っていた。それはアイディアが早過ぎて売れなかったけれど、牧羊子も編集に加わっていた。そして開高健にコピーを書かせて買い取ったりしてた。1954年2月に正式に入社し、代わりにその時に牧羊子が退社した。

 だから大阪で勤め始めたのである。最初は全国を営業で回ったり、労働組合でも活躍するなどしていた。そのようなことは小玉氏だからこそ、サントリーの内情が調査できたのだろう。そして今も使われる「アンクルトリス」を生み出した柳原良平や遅れて中途入社した山口瞳ら多士済々の顔ぶれが集結して、独自の社風の中ではつらつと活躍する。この本はまさに高度成長期の「多幸感」がいっぱい詰まっていて、読む側も面白い時代だなあと感じ入るしかない。開高、山口は後にサントリーの70年史を書いているぐらいだ。正式の社史の中に小説みたいな叙述がある。今では山口瞳・開高健「やってみなはれ みとくんなはれ」として新潮文庫に入っている。

 それを読むと、創業者の鳥井信治郎が傑物だった。そして宣伝の巧みさは昔からだった。有名な「赤玉ポートワイン」のポスターは一度は見たことがあるだろう。(この製品は今も「赤玉スイートワイン」の名で売られている。ポートワインはポルトガルのポルトということだから、クレームが寄せられたという。)鳥居の長男吉太郎が31歳で亡くなり、次男の佐治敬三(名前だけ親族の姓を名乗っていた)が後継となった。佐治敬三は独自の文化人的経営者で生前は誰もが知っている人だった。開高とは終生の友人となった。東京にはサントリーホールやサントリー美術館があり、サントリーの文化事業の恩恵を受けている。
(赤玉ポートワインの広告)
 僕は開高健があんなに世界を飛びまわり、ヴェトナムで従軍したりしたから、当然ながら60年代初期に退社して作家に専念したのだと思っていた。それが実は間違いだったことが小玉著でよく判る。サントリーは確かに従業員の社外活動に許容的だったが、忙しくて遅刻すれば給与をキッチリ差し引いたという。そのため「サン・アド」という別会社を作って開高健も非常勤取締役となった。80年代初期には出版社の「TBSブリタニカ」にサントリーが出資し、開高も関わった。「ニューズウィーク日本版」などの発足に尽力したのだという。この会社は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(ヴォーゲル)や「不確実性の時代」(ガルブレイス)をヒットさせた会社である。

 「『洋酒天国』とその時代」はただサントリー文化人に止まらず、植草甚一や山本周五郎などの興味深いエピソードが詰まっている。自分が前に記事を書いた「夜の蝶」や大岡昇平「花影」をめぐる問題も書かれている。「戦後酒場史」であり「戦後文壇史」でもある。貴重な名著だが、やはり一読して脳裏に印象付けられるのは開高健ではないか。
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開高健の短編を読み直すー開高健を読む②

2021年02月21日 23時16分44秒 | 本 (日本文学)
 開高健の最高傑作は、間違いなく「輝ける闇」(1968)と「夏の闇」(1972)だが、今回は長編は読み直さない。2019年1月に大岡玲編「開高健短編選」が岩波文庫に収録されたが、560頁を超える厚い文庫本なので、なかなか読む気になれなかった。2020年12月に集英社文庫で「流亡記/歩く影たち」が刊行されたので、合わせて読んでみたわけである。デビュー頃の作品はほぼ半世紀以来、後期の作品は刊行当時にリアルタイムで読んだから30年ぶりぐらいの再読だ。
(開高健短編選)
 開高健は1958年1月に「裸の王様」で芥川賞を受賞した。その当時は寿屋(現サントリー)に勤務しながら、短編を書いていた。1957年8月に「パニック」を「新日本文学」に発表して評価され、文藝春秋の文芸誌「文學界」10月号に「巨人と玩具」、12月号に「裸の王様」を発表した。「新日本文学」は左翼系文学団体の新日本文学会の機関誌である。開高は寿屋の「洋酒天国」の編集をしていて、1956年11月に大阪から東京へ出てきたばかり。「パニック」は以前から交友があった文芸評論家佐々木基一に託したら「新日本文学」に掲載されたのである。

 「文學界」編集長が注目し、続けて短編を依頼され芥川賞候補にもなった。同期の有力候補には大江健三郎死者の奢り」があり、東大の学生作家大江が注目されたが、結局開高が受賞した。大江健三郎も次回(58年7月)に「飼育」で芥川賞を受賞する。1956年1月には石原慎太郎太陽の季節」が芥川賞を受賞していた。芥川賞が社会的に注目されるのは、その頃からである。1956年7月発表の「経済白書」は、「もはや戦後ではない」と記述して流行語になった。時代の変化に合わせたかのように、文学界に新しい世代が続々と登場したのである。

 今の若い人には感覚がつかめないと思うので、少し詳しく当時の事情を書いている。これらの「若い世代」はお互いにつながってもいた。1958年に岸信介内閣が国会に提出した「警察官職務執行法改正案」は女性週刊誌が「デートもできない警職法」と書き、国民的な反対運動が起こった。その時に石原慎太郎谷川俊太郎永六輔らが「若い日本の会」を結成した。彼らは「60年安保」にも反対した。参加したメンバーに開高健大江健三郎もいたが、他にも黛敏郎寺山修司江藤淳浅利慶太羽仁進武満徹などそうそうたる顔ぶれが揃っている。石原慎太郎、江藤淳、黛敏郎など後に右の論客になる人たちも、その時は「若い世代」だった。

 僕がどうして同世代じゃないのに書けるかというと、岩波新書の中村光夫日本の現代小説」を中学生で読んで文壇的知識を得たからだ。今では2年か3年もすれば文庫になるが、当時は文庫に入るまで時間が掛かった。70年頃に「文学青年」になったので、最新の日本小説は大江か開高、その上の三島、安部公房なんかだった。若い世代向けの小説なんてなかった時代だから、三島由紀夫潮騒」とか大江健三郎セヴンティーン」なんかを読んだのだ。そして開高健の初期短編を読んだけど、確かに新しかった。日本的な「私小説」でもなく、日本軍の横暴や革命運動の挫折を描く小説でもなかった。「組織の中の個」を描く新時代の小説だった。

 学生だった石原、大江と違って、開高健はデビュー時にすでに「会社員」だった。その経験が違いを生んだのだろう。「パニック」は120年に一度のササの開花でネズミが大繁殖したことで、人間社会が大パニックになる様を風刺している。「巨人と玩具」は製菓会社の宣伝競争、「裸の王様」は子ども向け画塾を舞台に、抑圧された子どもの魂の解放をテーマにした。未だに他の誰とも違った独自の世界だと思う。でも、はっきり言えば、ずいぶん古い感じもした。「戦後」も75年以上経つ今となっては、「戦後12年」で書かれた短編群は認識の枠組がずいぶん昔風なのだ。

 「巨人と玩具」は1958年に大映で映画化された。増村保造監督によるスピーディな演出は今見ても面白く、当時ベストテン10位になった。映画では「ワールド製菓」のキャラメル販売戦略が興味深く描かれていて、僕は映画で使われたコマーシャルソングを覚えているぐらいだ。ところがビックリしたことに、小説では「サムソン製菓」だった。そして映画には出て来ない時代分析や商品宣伝の仕掛けが事細かに分析される。案外観念的な小説だった。それは、いかにも「戦後小説」的な感じがする。僕が昔読んで「新しい」と思ったものが、今読むともう古びて見える。
(流亡記/歩く影たち)
 開高健の短編小説をずっと読むと、やはりヴェトナム体験で文体も変わったと思う。日本では一時「行方不明」と伝えられるぐらいの激戦に巻き込まれた。またサイゴンで秘密警察長官が裁判なしで「ベトコン」青年を銃殺するシーンも見た。解放戦線側の爆弾テロで日本の特派員が死んだところも見た。確かに人生が変わるような体験だ。そういう体験を通過して書かれた後期の短編は素晴らしい。ヴェトナムものは急逝する10年ほど前にまとめて書かれ「歩く影たち」に収められた。岩波文庫にも「兵士の報酬」「飽満の種子」「貝塚をつくる」「玉、砕ける」が収録されている。やはり、この4篇が抜きん出ていると思う。

 特に「玉、砕ける」は短編に与えられる川端康成賞を受けた傑作中の傑作。ヴェトナムではなく香港を舞台に、60年代末の中国文革時代の苦難をスケッチする。「貝塚をつくる」も釣りを描くと思わせながら、ラスト付近で転調する構成が見事に着地した名篇。これらの作品を通して、「絶望」をくぐり抜けた作家がどのように生きたかが伝わってくる。安易に時代や政治を語らず、人間の運命を見つめている。初期の短編は古くなったかと思ったけれど、後期の作品群は今もなお魂に触れる。岩波文庫にある「掌のなかの海」は没後に出た「珠玉」に入っているが、人生の奥深い凄みを描きつくした傑作。このタッチ、重くて軽くて深みがあるのが開高健の魅力だ。
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開高健のエッセイの魅力ー開高健を読む①

2021年02月20日 20時58分04秒 | 本 (日本文学)
 昨年来、開高健(1930~1989)を読み直している。読み方は正式には「かいこう・たけし」だが、大方の人は「かいこう・けん」と読んでいた。2020年は開高健の生誕90年だった。あまりにも早過ぎた急逝にビックリしてから早くも30年以上経った。今もなお開高作品は新しく文庫に入ったりする。そうすると買ってしまうのである。開高健は存命中に大体の本を読んでいたから、そんなに読まなくてもいいはずなんだけど。今回少し読み直して感じたことを記録しておきたいと思う。
 
 開高健は小説に加えて、ぼうだいなエッセイやルポを残した。早過ぎた晩年には「オーパ!」などの大評判になった海外フィッシング紀行を書いた。60年代にはヴェトナム戦争に従軍し、「ベトナム戦記」を書いた。1957年に「裸の王様」で芥川賞を取る前から、サントリー(寿屋)の宣伝部に勤めていた。その関係は以後もずっと続き、テレビでサントリーのCMに出ていたから、多くの人が開高の名前を知っていた。戦争や釣りで海外に出かける「行動派」の作家と当時は思われていたと思う。日本のヘミングウェイのように思われていたのである。

 しかし、少し小説を読めば作家が深いウツ状態を繰り返す悩みが読み取れる。本人はそれを「滅形」(めつけい)と読んでいた。(もともとは梶井基次郎の言葉だという。)開高健はその中でも、自らを奮い立たせるように社会を見てルポを書き、外国へも出掛けた。まだ日本人が自由に海外旅行が出来ない時代(外貨管理の問題から、1964年まで日本人は自由に外国へ行けなかった)に、新聞社の特派員としてイスラエルのアイヒマン裁判を傍聴し、ヴェトナム戦争に従軍した。また作家の代表団の一員として「社会主義圏」の中国やソ連にも出掛け、ポーランドでアウシュヴィッツへも行った。これほど海外を駆け回った文学者は他にいないだろう。
(「魚の水(ニョクマム)はおいしい」)
 2020年10月に「魚の水(ニョクマム)はおいしい」が河出文庫から刊行された。これは文庫オリジナルの「食と酒エッセイ厳選39篇」である。ニョクマムはヴェトナムの魚醤で、日本の「しょっつる」のような調味料だというのは、今では大体の人が知っているだろう。しかし、70年代は日本でようやく「ハンバーガー」や「ピザ」が食べられ始めた頃で、東南アジアの料理なんか知らなかった。(インドネシア料理の「インドネシア・ラヤ」という店はあったが。2008年閉店。)

 日本人の多くはヴェトナムは戦争とクーデターばかりの国と思っていただろう。しかし、ヴェトナムは中国とフランスという世界2大美食民族に支配された歴史があるから、奥深い食文化を持っている。当時は多くの人がヴェトナムへ行って戦争のルポを書いたが(もちろん開高健もたくさん書いた)、ニョクマムはフークォック島産に限るなんて話は他の人は書かなかった。フークォック島というのは、ほとんどカンボジア領にはみ出ているような島で、後に傑作短編「貝塚をつくる」に出て来る。開高健の「食レポ」は「味覚」はもちろん「嗅覚」の世界を書き綴っている。争乱のサイゴンは美しくない面も多かったが、それでも開高健が魅せられた何かがあった。

 開高健のエッセイが注目されたのは、2018年の小玉武編「開高健ベストエッセイ」(ちくま文庫)の力が大きいと思う。好評だったとみえて翌年に「葡萄酒色の夜明け (続)開高健ベストエッセイ」も出た。編者の小玉武氏はサントリー宣伝部で開高の後輩だった人で、その後もずっと関わりがあった。2017年には「評伝開高健」も書いている。「開高健ベストエッセイ」は満遍なく開高の世界が抽出されている。そうすると当たり前のことながら、開高健はヴェトナムと釣りと美食だけの作家ではないことがよく判る。

 生まれ育った大阪のこと、焼け跡時代を生き抜いた苦難の青春時代、文学への目覚めなどを読むと、開高健が戦後日本を生きた作家だということがよく判る。社会派でもあるし、文学論議も多い。今になると少し読みにくいところも多い。話題が古くなってしまったものも多い。アルジェリア問題はもちろん、ヴェトナム戦争だって知らない人も多いだろう。開高健は大江健三郎とともにサルトルに会いに行き、その前日に反右翼デモ(当時はアルジェリア独立問題で右翼のOASがテロを起こしていた)に巻き込まれてもいる。時代を感じさせるところも多い。

 続編の冒頭では、没後に見つかった若き日の手紙が収録されている。埴谷雄高中村光夫広津和郎の3人宛てで、こういう「何者でもなかった」日々をよく示している。エッセイというより「文芸評論」に近いもの、あるいは当時有名になった東京ルポなども入っている。池袋にあった「マンモス・プール」を読むと、いかにも「高度成長時代」を思い出させる。僕はそのプールを知らなかった(自宅の近くに「東京マリン」という大プールがあったから、他のプールは知らないのである。)池袋の大プールも1993年に閉鎖され、豊島清掃工場になっている。「ずばり東京」など当時人気があったルポだというが、そこには今はもう失われた東京が封印されている。

 開高健を今どう評価するかは、今後書いていく。だがエッセイなんかすぐ読めると思って取り組んだ割には、けっこう長く掛かった。今の作家の文章はもっとライトで、サクサク読み進めるなと思った。僕は小説も好きだが、「オーパ!」などの写真付釣り紀行を愛読した思い出がある。とにかく豪快で面白いのである。そういう印象があったので、久しぶりに読んだ開高健はずいぶん昔の文学者だったのかと実感した。「今日から見ると不適切な表現」がずいぶんあったのもビックリ。特にハンセン病(らい病)を「悪いもののたとえ」に使う表現に何回か出会った。まだ問題意識が全くなかった時代だったのである。
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西川美和監督の傑作「すばらしき世界」

2021年02月18日 23時20分15秒 | 映画 (新作日本映画)
 西川美和監督の「すばらしき世界」は傑作だ。深く考えさせる要素が詰まっていて、多くの人に見て欲しい映画である。日本を代表する女性映画監督と言ってよい西川美和だが、今まではオリジナル脚本を映画化していた。それどころか自作脚本のノベライズ「ゆれる」で三島賞候補、「きのうの神様」「永い言い訳」は直木賞候補と作家としても評価されている。しかし、自作の映画化「永い言い訳」に続く長編映画第6作「すばらしき世界」は初の原作ものである。

 その原作が佐木隆三身分帳」だと言うから驚く。1990年に刊行され伊藤整文学賞を受けた。直木賞を受けた「復讐するは我にあり」以来、佐木隆三は多くの犯罪ドキュメントを書いた。テーマに関心があるので、僕は佐木隆三の本はずいぶん読んでいる。賞を受けた原作も読んでいるんじゃないかと思うけど、もう全く覚えていない。これは獄中で作られた「身分帳」という本来は表には出ない書類を元に「ある犯罪者の人生」をたどる試みである。

 映画は時代を現代に移し、2015年に旭川刑務所を満期出所した三上正夫の出獄後の日々を描く。この三上を役所広司が演じている。役所広司はどんな役でもこなせるだろうけど、とりわけ三上の演技は半端ない迫力だ。今までに演じてきた「Shall we ダンス?」とか「うなぎ」、最近だったら「蜩ノ記」「三度目の殺人」「孤狼の血」などいくらでも思い出すが、これほど「その人になりきる」演技は滅多に見られないと思う。「三度目の殺人」も殺人犯だった。逆に「孤狼の血」は暴力刑事だった。しかし、それは演技であると見ていて思う。今度の「すばらしき世界」だって、もちろん演技だと判っている。でも僕は途中から「三上」の密着ドキュメント映画に思えてきた。

 というか劇中では実際にテレビが取材している。三上は「身分帳」をテレビ局に送って生母を探してもらおうとしたのである。(秘密の「身分帳」をなぜ本人が持っているかというと、三上は獄中で訴訟をたくさん起こして、原告の権利として訴訟書類を筆写して持っていたのである。)テレビのプロデューサー(長澤まさみ)はテレビ番組製作会社を辞めて小説家を目指していた津乃田仲野大賀)に「身分帳」を送って取材を持ちかける。三上は福岡県生まれで、養護施設で育ち若い頃からヤクザ組織に入った。何度も刑務所に入った三上には高血圧の持病があり、もう二度と刑務所には戻りたくない。三上はシャバで更生できるんだろうか。
(三上と津乃田)
 三上は彼なりの正義感を持ち見て見ぬふりができないうえ、「瞬間湯沸かし器」のように我を忘れてしまう。シャバでは「見て見ぬふり」をして生きていくしかないのだろうか。三上をめぐって、身元引受人夫婦(橋爪功梶芽衣子)、福祉事務所職員(北村有起哉)、スーパーの店長(六角精児)など多くの人々が登場するが、果たして彼らは三上を支えられるのだろうか。「三上」も問われるし、周囲の人物も問われるが、同時に見ている我々も問われる。「殺人犯が社会に復帰できるのだろうか。」とても深い問いを突きつけてくる映画である。

 そしてついに三上は昔のヤクザ関係者に連絡してしまう。組長夫婦(白竜キムラ緑子)は三上を暖かく迎える。「女」(風俗嬢)を用意してくれるぐらいに。役所はもちろん、支援団体もマスコミも絶対にこんなことをしてくれない。随所に衝撃的な「三上の衝動」を入れながら、ある人間の人生を深掘りしていく様子は見事だ。撮影の笠松則通(「悪人」「大鹿村騒動記」など)も名手ぶりを発揮しているが、やはり脚本、監督の西川美和の手腕を感じた。「刑余者」(罪を犯し刑務所から出所した者)の問題をこれほど生き生きと描き出し見るものに訴える映画は記憶にない。
(西川美和監督)
 この映画では梶芽衣子が「見上げてごらん夜の星を」を歌うファン必見のシーンがある。また母の情報を求めて三上と津乃田が同宿し、風呂に入るシーンがある。ここで太賀が役所広司の背中を流すのだが、これは佐木隆三原作、今村昌平監督の「復讐するは我にあり」にあった三國連太郎と倍賞美津子のシーンへのオマージュだと思う。この時の役所広司の背中演技も必見。映画を支えるキムラ緑子の凄さも必見。長澤まさみも悪くないけど、太賀と共演だとCMを思い出しちゃうし、貫禄負けしている。

 なお、事件のいきさつは組を抜けて東京・亀有で経営していたスナックで、ホステスが引き抜かれてイザコザが起こった。ある夜に日本刀を持った殴り込みを受けて、刀を奪って相手を刺したというものだ。検察官の被告人尋問で引っかけられて「未必の故意」を認めた形になってしまった。しかし、本人の意識ではやり返さないと殺されるので、傷害致死または過剰防衛だと思っている。判決に不満があるから獄中でも問題を起こし、何度も懲罰を受け仮出所できずに満期出所になってしまった。生育歴を見ても不遇の人生を歩んだわけだが、事件当時は支える妻もいた。一審で懲役13年になって、長期、反社を対象とする旭川に送られてしまった。
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オリヴィアとジョーン、東京生まれの姉妹女優②

2021年02月17日 22時33分38秒 |  〃  (旧作外国映画)
 1回目にオリヴィア・デ・ハヴィランドだけで長くなった。次は妹のジョーン・フォンテインについて。姉は理知的な美女という感じだが、妹は一見して「可愛い」タイプで、主人公が一目惚れしてしまうようなヒロイン役が多かった。この姉妹は仲が悪かったらしい。原因は判らないが、母が姉の方をより愛していたとよく言われる。そのためかジョーンだけ再び東京に帰って、聖心インターナショナルスクールを卒業した。帰国後に舞台に出た後に映画会社と契約した。
(「レベッカ」)
 ジョーンはヒッチコック監督のハリウッド第一作「レベッカ」(1940)で成功した。「レベッカ」は今見ても鮮烈なサスペンス映画で、この一作でアカデミー作品賞を受賞してしまった。ジョーンも主演女優賞にノミネートされた。富豪の夫ローレンス・オリヴィエに請われて結婚したものの、先妻の謎の死に怯えるサスペンスが怖い。ゴシック・ホラーの傑作だ。そして続いてヒッチコックの次作「断崖」(1941)に主演して今度はアカデミー主演女優賞を受賞した。結果的にヒッチコック映画で俳優がアカデミー賞を受賞したのはジョーンだけである。
(「断崖」)
 シネマヴェーラでは今まで2回ヒッチコック特集をやっているが、「断崖」の上映はなかった。僕もテレビで見ただけなので期待して見たんだけど、あまり面白くなかった。日本では1947年に公開されてベストワンになっているが、ヒッチコックの最高傑作とは言えない。フランシス・アイルズのミステリーの映画化で、ケーリー・グラントが列車の中でジョーン・フォンテインを見初める。ジョーンは舞い上がって結婚するが、男は無職の一文無しだった。夫は全然仕事に就く感じもなく、妻はやがて夫に殺されるのではないか…と疑心暗鬼になっていく。ケーリー・グラントがひどすぎて、ジョーンに同情できない。確かに魅力的なんだけどという映画だった。
(「忘れじの面影」)
 1943年の「永遠の処女」で三度目のアカデミー賞ノミネート。しかし上映はなく見たこともない。同年の「ジェーン・エア」は有名な原作の映画化で、前に見てるからパス。夫がオーソン・ウェルズに代わっただけで、ジョーンの役柄は同じような感じ。夫や先妻を気にする若い妻である。1948年の「忘れじの面影」(マックス・オフュルス監督)はアパートの隣に引っ越してきたピアニストに恋した娘の哀しいロマンスを描く。思い続けてある一夜に結ばれたが。監督の語り口が絶妙で見せるんだけど、ジョーンの役柄は似たようなもので観客はジョーンを見るだけ。

 ジョーンの役柄は似たようなものが多い。その中でもジョーンの美貌だけに頼っているのが「旅愁」(1950)だ。テーマ曲の「セプテンバー・ソング」が有名で昔から名前は知っていたが初めて見た。飛行機が故障でナポリに降りる。修理の間に、機内で知り合ったジョゼフ・コットンとジョーン・フォンテインはナポリ見物に出かける。どうせすぐ直らないと油断したら、空港に戻った時飛行機はもう出発していた。二人はもう離れられなくなっていたが、その飛行機が地中海で墜落したことを知って…。いくら当時だって遅れた乗客はチェックしているだろう。
(「旅愁」)
 女はピアニストで、先生を戦前のフランス映画の大女優フランソワーズ・ロゼーがやっている。男の妻はジェシカ・タングで、脇役は面白かった。当時のアメリカ人の「イタリア幻想」がよく判る観光映画。映画としてはなるほどジョーンとだったら、死んだことになってもいいかなとは思うかも。女は有能なピアニストで、結婚せずに生きてきて一世一代のロマンスに巡り会う。ジョーンも30を過ぎて、このような役が回ってくるのも終わりかかっていた。それでもジョーンは確かに魅力的だ。映画としてはデヴィッド・リーンの「旅情」には全く及ばない。

 その後の「生まれながらの悪女」(1950)や「二重結婚者」(1953)では少し違った役をやっている。しかし、映画としてはともかく、女優として成功したとは思えない。こうして見てくると、姉のオリヴィアの方が演技の幅が広い演技派だったと言えるだろう。それは偶然ではなく、オリヴィアは自分の望む役を求めて闘った人だった。当時は契約期間内にオファーされた役を断った場合、その分だけ契約が延びる慣行があった。これに対して訴訟を起こして勝訴したのである。ハリウッドではプロデューサーが絶対的な権力を持つことが多かったが、それに対して俳優の権利を主張したのである。これは「デ・ハヴィランド法」と呼ばれている。

 当時のことだから、女優は30を過ぎると主役に恵まれなくなる。オリヴィアは映画界に2年間干されたこともあった。二人とも結婚して育児に時間を取られたこともある。やがて二人とも脇役で映画にも出るが、それ以上に舞台やテレビで活躍したようである。舞台公演で各地を回れば、昔の知名度で長く人気を得られるし、クローズアップもない。日本でも映画が斜陽になった60年代に、映画女優の多くは舞台やテレビで活躍した。オリヴィアは「アナスタシア」というテレビドラマのロシア皇太后役で、ゴールデングローブ賞を受賞している(1986年)。それにしても30年以上前のことで、何しろ姉妹とも長命だったから知らない人も多いだろう。
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オリヴィアとジョーン、東京生まれの女優姉妹①

2021年02月16日 23時29分47秒 |  〃  (旧作外国映画)
 最近は昔の映画を見ることが多かった。特にシネマヴェーラ渋谷でやっている「オリヴィア・デ・ハヴィランド追悼 女優姉妹の愛と相克」をかなり見たので簡単にまとめ。オリヴィア・デ・ハヴィランドは2020年7月26日に亡くなった。なんと104歳である。妹のジョーン・フォンテインも有名な女優で、2013年に96歳で亡くなった。現在までともにアカデミー賞主演女優賞を受賞したただ一組の姉妹である。親子で違う部門の賞を取ったケースはあるが、姉妹では二度とないのではないか。そして、この二人は共に東京で生まれたのである。

 何で二人が東京で生まれたかといえば、父親のイギリス人、ウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランド(1872~1968)が日本に働きに来ていたからだ。特に専門技術や宗教的情熱があったのではなく、先に日本に来ていた兄を追ってきたらしい。そして函館や金沢で英語を教えた後で、東京高等師範学校の教師になり、1906年に退職して特許事務所を開いた。東京で早稲田大学教授アーネスト・ルースの妹リリアンと出会い、一度はプロポーズを断わられたが、第一次大戦が勃発して帰国したウォルターは母国で再度プロポーズした。年齢はすでに42歳だった。
(「風と共に去りぬ」のオリヴィア・デ・ハヴィビランド)
 ニューヨークで結婚して東京に戻り、1916年にオリヴィア、翌年にジョーンが生まれた。「デ・ハヴィランド」(de Havilland)とは珍しい名前だが、もともとは英仏海峡のチャネル諸島ガーンジー島の貴族で、ノルマン王朝のイングランド征服に従った一族だという。ウォルターは日本では函館や東京などでサッカーを教えたことで、黎明期の日本サッカー史に名前を残している。
 
 父親は囲碁を紹介する本も書いているように、趣味人タイプだったようだ。子どもが病弱で帰国する途中で夫婦関係が破綻して、ウォルターだけが女中と日本に戻った。「ゲイシャガール」を持ちたかったらしく、帰国後にその女中と再婚した。戦時中に日本人の妻とカナダに移住し、妻の死後に三度目の結婚をして96歳で亡くなった。姉妹とも長命だったのは父の体質だろうか。それほど有名な人ではないが、ウィキペディアに載っていて以上の情報はそれによっている。

 イギリスに帰る途中で子どもたちが病気になって、母と姉妹はカリフォルニアに止まった。リリアンはロンドンの王立演劇学校を出た舞台女優で、子どもたちにシェークスピアを読み聞かせたりした。その後母は再婚し、その相手の姓がフォンテイン。二人は姉妹仲が悪かったことで有名で、別の姓を名乗ることになった。オリヴィアは高校演劇で評価されワーナーと契約しアクション映画やコメディに出演した。そして1939年の「風と共に去りぬ」でスカーレット・オハラの友人メラニー役が一躍評価されてアカデミー賞助演女優賞にノミネートされた。同じく女優になっていたジョーンはスカーレット役を狙っていてヴィヴィアン・リーに敗れた。

 オリヴィアは正統的な美女で、ちょっとマジメなために婚期に遅れそうといった役柄が多い。「国境の南」(1941、Hold Back the Dawn、日本未公開)ではアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたが、なんと受賞したのはヒッチコック「断崖」に出ていた妹のジョーン・フォンテインだった。「国境の南、太陽の西」という村上春樹の長編があるが、その「国境の南」は1939年の「South of the Border」 という歌である。同名の映画のテーマだと言うが、今回の映画ではない。
(「国境の南」)
 大戦中に米国入国を待つ人々がメキシコ国境の町に溜まっている。ジゴロのシャルル・ボワイエは米国人と結婚すれば早く入国できると知って、子どもたちの遠足で来た小学校教師オリヴィアに目を付ける。帰れないように車に工作し、翌朝には結婚に持ち込んでしまう。しかし、ヨーロッパで一緒に組んで詐欺を働いていた女が仕組みをバラしてしまう。そんな中でアメリカの捜査官が迫ってくるのだが。婚期に遅れて大学院に行こうかと思っていた女性教師が一途な恋に目覚めてしまった切ないメロドラマ。貴重な映画だが、やはり当時のハリウッド的な結末になっている。

 名監督ジョン・ヒューストンの第2作「追憶の女」(1942)では妹のベティ・デイヴィスが夫と駆け落ちして、やがて行き詰まった夫は自殺する。残されたオリヴィアはベティの婚約者だった男性と次第に心を通わせるようになっていくが、そこにベティが戻ってきて…。名優ベティ・デイヴィスが暴走するドロドロの不倫ドラマを落ち着いたオリヴィアの演技が救う。
(「追憶の女」、ベティ・デイヴィスと)
 「暗い鏡」(1946、ロバート・シオドマク監督)はオリヴィアが双子の姉妹を一人二役で演じるミステリー。殺人事件が起き、目撃証人もいるが、逮捕しようと思うと全く顔かたちが同じ姉妹だったことが判明する。これではアリバイも証明しようがなく、捜査は迷走するが…。正反対の姉妹をオリヴィアが演じ分け、しかも同じシーンで一緒に写っている撮影には驚き。光と影が印象的なモノクロのノワール映画で、いかにも昔のハリウッド映画の醍醐味。

 「蛇の穴」(1948、アナトール・リトヴァク監督)も凄い。幼い頃からのトラウマで心を病んだオリヴィアは精神病院に入れられる。当時のことで治療には「電気ショック」という恐怖の連続で、そこを精神分析で救おうという医師が奮闘するが、果たして治癒するのか。恐るべき精神病院というのは、昔の映画には時々出て来るが、この映画は最高レベル。オリヴィア・デ・ハヴィランドの演技は見事で、アカデミー主演女優賞にノミネートされた他、ニューヨーク映画協会主演女優賞やヴェネツィア映画祭女優賞など多くの演技賞を受賞した。
(「蛇の穴」の電気ショック)
 オリヴィア・デ・ハヴィランドがアカデミー賞主演女優賞を獲得したのは「遙かなる我が子」(1946)と「女相続人」(1949)だった。「遙かなる我が子」は監督のミッチェル・ライゼン(「国境の南」と同じ)と共に今は忘れられたような映画で、今回も上映がなかったので全然判らない。「女相続人」はヘンリー・ジェイムズ原作の舞台化が基になった究極の文芸心理ドラマ。ここでも「オールドミス」の資産家の娘の恋を演じている。名匠ウィリアム・ワイラー監督の本格ドラマだが、昔リバイバルされたときに見ているので今回はパスした。

 他に「いちごブロンド」(1941)と「謎の佳人レイチェル」(1952)を見た。後者は「逆レベッカ」という感じで、年上のオリヴィアにいかれてしまう青年を若き日のリチャード・バートンが演じてアカデミー助演男優賞にノミネートされた。オリヴィアは珍しく謎めいた悪役的演技。父親が長くなってしまって、妹のジョーン・フォンテインを書くのが大変になった。オリヴィアにもまだ書くことがあるんだけど、一端切ってもう一回書きたい。
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「夫婦別姓」に対応しない自民党ー結婚の「規制緩和」が必要だ

2021年02月15日 23時06分21秒 | 政治
 森発言に関連して、日本の会議は結論が決まっていることを確認するシステムだと述べた。日本に数多くある「審議会」などは大体そういうもんだと思う。最近の例では「厚生科学審議会」の「感染症部会」で新型コロナ特措法の改正について諮ったところ、罰則を設けることに反対が多かった。しかし、罰則を設けるという原案が「概ね了承された」となってしまった。国会でその経過が問題視されたが、首相は問題ないと言っている。これが「日本の会議」なのである。

 しかし世の中には何事も例外がある。12月15日に自民党は「第5次男女共同参画基本計画」の政府原案にあった「夫婦別姓」の「対応を進める」という文言を削除した。その時の自民党の「会合」を調べると「内閣第1部会と女性活躍推進特別委員会の合同会議」である。原案を審議する会合には反対派が動員されたらしい。衛藤晟一山谷えり子高石早苗議員らが主導した。もちろん政府原案を与党がそのまま了承しなければならないわけではない。立法権を持つ国会議員が政府原案を変更するのは、「自由」で「民主」な党というべきか。
(自民党が「夫婦別姓」の文言削除)
 この会議のあり方にどういう意味があるのかはちょっと置いといて、ここでは「結婚制度の規制緩和」に関して考えてみたい。「選択的夫婦別姓制度」については、自民党保守系議員などを中心に右派の激しい反対がある。だから何となく「イデオロギー的問題」のように思い込まされている人もあるかもしれない。しかし、もともとは「法制審議会」の1996年の答申にあった民法改正案である。政府の正式な機関である重要な審議会で25年も前に出た答申がなぜ未だ立法化出来ないのか。そんなことは他の問題ではあり得ない。
(自民党の検討経過)
 自民党ではどのような経過をたどって「原案の文言削除」に至ったのか。それは上記画像に譲りたい。先に「結婚制度の規制緩和」と書いたことを説明したい。そもそも必ず結婚しなければならないとも思わないが、それでも「日本的世間」の中で生きている日本人は「結婚」という仕組みに入らないと不利なことが多い。結婚しなくても子どもを産むことはできるわけだが、諸外国と違って日本では「シングルマザー」を増やすことで少子化を止めるのは難しい。現実には「結婚しやすい環境」を作ることが大切だ。現実論としては僕はそう思っている。

 「結婚しやすい環境」とは経済的問題や働き方の問題、子育て環境の整備などが大きいだろう。しかし、それだけでなく「法的整備」も考えた方がいい。その一つが「選択的夫婦別姓」である。反対派が「夫婦同姓」じゃないと「家族の一体感がなくなる」など現実とは異なった認識を振りかざすのは困ったことだ。そもそも子どもが結婚すれば、男女のどちらか(現実には女性の多く)の姓が変わる。しかし、実家の親との固い絆は残る。結婚して姓が違った女性の子どもが実家の親を介護するのはよく見られることだ。(介護の女性負担の問題はあるが。)

 国際結婚離婚した場合など、親と子の姓が違う場合は今も実際にたくさんある。もし親子の姓が一致しなければ良くないというのなら、離婚も禁止しなければおかしい。離婚は禁止できるが死別することもある。死別した場合は再婚を禁止しなければいけない。そうじゃないと親子の姓が異なる場合が起きるではないか。もちろんそんなことは出来ないし、してはいけない。スポーツで考えると、1964年の東京五輪には女子のマラソン、サッカー、レスリング、重量挙げなどはなかった。この半世紀で女性の活躍場面はどんどん増えていった。

 だから未婚の段階で女性が経済、文化、政治などで活躍する人が出てきた。それは止めることは出来ない。そのため未婚時代のキャリアが結婚で中断されるという問題が起きた。理科系研究者の場合など途中で姓が変わると相当不利もあるだろう。それに一般女性でもたくさんのカードを持って毎日使っている。名義の変更はものすごく大変だ。だから政治家の場合など、例えば丸川珠代議員のように当選後に結婚しても以前の姓を使用している。(高市早苗議員も一時そうだったが、その後離婚した。)政治家はそれをきちんと法整備するべきだ。

 女性の再婚禁止期間をなくすという試案が法制審議会の「親子法制部会」で出された。これも当然のことだ。やがて「同性婚」も議論しなければいけない。これらは「結婚規制」である。もちろん「結婚制度」自体が国家の枠組で認められるということだから、「事実婚」でいいじゃないかという考え方もあるだろう。育児への援助において、親が結婚しているかしていないかで差別があってはならない。そういう原則のもとに、日本的世間の中で「多くの人が結婚しやすくなるための規制緩和」が必要なのではないかと思う。

 ちなみに僕は別姓論者ではない。同姓論者でもない。同姓にせよ、別姓にせよ、法律的に人が名乗れるのは「父の姓」「母の姓」「配偶者の姓」しかない。女性の多くが姓を変更している現実から、夫婦別姓とは「女性が父親の姓を使い続けられる制度」になる。でも子どもが大きくなって自分で母の姓(あるいは父の姓)を名乗ってはいけないのか。あるいは配偶者と合わせた「複合姓」を名乗ってはいけないのか。僕は同姓、別姓という以前に「子どもが自分の姓名を自由に変えられる制度」があるといいと思う。父の姓も母の姓も名乗りたくないという人だっているだろう。
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脱原発の「失われた10年」

2021年02月14日 22時47分47秒 |  〃 (原発)
 2月13日の夜11時8分頃、宮城県を中心にかなり強い地震があった。福島県、宮城県では震度6強を記録し、負傷者も9県で150人に及んだ。東北新幹線も那須塩原ー盛岡間で止まってしまい、全線復旧には10日ほど掛かるという。東京は震度4だったが結構長く揺れていた。家では絵が倒れて額のガラスが割れてしまった。もともと壁に掛かっていたのだが、紐が劣化して数年前に床に落ちてしまった。その後立て掛けておいたが、前は割れずに今回割れたのが不思議。

 ところで今回の地震は2011年3月11日の大地震の余震とみられるという。こんなに時間が経っても余震があるのか。まあ10年は人間にとってはかなり長いが、地球にとっては「ほんのわずか」なんだろう。「3・11」から10年が近づいて、マスコミの報道も多くなってきた。節目だけしか報道しないのかとも思うが、この後は節目の報道も減っていくのだろう。阪神淡路大震災を見ても当時を知らない世代が多くなっていき、課題が変わっていった。ただ東日本大震災の場合、津波による被害があまりにも大きかったこと、原発事故の影響で帰還できない地域があることなど、今まで日本が経験したことがないスケールの大災害だった。
(大飯原発設置許可取消判決)
 「2020年の書き残し」に原発問題がある。2020年12月5日、大阪地裁で福井県の大飯(おおい)原発3号機、4号機の設置取り消しを求めた裁判で、原告側の主張を認めて設置許可を取り消す判決が出た。原子力規制委員会は2017年に設置許可を出していたが、その判断が不合理とされた。規制委は全国で同じ計算式を用いて判断しているため、全国の原発に波及する可能性も指摘されている。具体的な判決趣旨は詳細にわたるもので、僕にはよく判らない点が多く省略する。

 かつては原発訴訟はほとんど裁判所で却下されていたが、3.11後は少し変わってきた。上級審で取り消されたものの、高浜原発(福井県)でも運転停止の仮処分が出たことがある。また伊方原発(愛媛県)3号機の運転を認めない仮処分が2020年1月17日に出ている。このように裁判で原発を停止する決定が出るというのは、「安全性」の判断がいかに困難なものかを示しているだろう。安全性の判断に上限はなく、住民が安心して暮らせることはない。
(高浜原発)
 ところが大飯原発設置取り消し判決の1ヶ月ほど前に、40年を過ぎている高浜原発1,2号機の20年延長に高浜町議会が同意したという報道があった。すでに原子力規制委員会は延長に同意していて、安全性対策と地元合意が残っていた。(まだ福井県の同意が残っている。)原発事故後、規制委員会が発足し「原発は原則40年」というルールが作られた。それが破られているのだ。40年までだったら安全で、少しでも延びたら危険というわけではないだろうが、「60年」というのは長すぎるのではないか。

 それに20年延長しても、その後は「廃炉」である。原発新設が出来ないなら、廃炉の時期を延ばしただけである。そして新しい原発の新設なんて出来ないだろう。出来ると言うんだったら、原発維持を主張している自民党の有力議員が地元に誘致すればいい。そんなことが出来る議員はいないだろう。結局「脱原発」の時期を延ばすだけで、その間に世界の再生エネルギー技術に遅れを取ってしまうだけだ。福島第一原発の深刻な大事故でも何も変わらないのか。その現実が日本人に与えている無力感は大きい。世論はずっと原発に批判的ななのに、一向に政府の政策に反映されない。これが10年間の現実だった。「失われた10年」だ。

 「温暖化対策」で原発を支持する人もいるが、未だにそんなことを言ってる人がいるのが信じられない。確かに原発は運転時に二酸化炭素を排出しない。その代わりに冷却に使った高温の排水を海に流している。それはCO₂に換算すれば、どれほどのものになるだろう。そして安全対策や安全審査、さらに必ず起きる訴訟で必要な文書のやり取り、そこに費やされる膨大な労働力と紙などの製造に使われるエネルギーでどれほど二酸化炭素を使うだろうか。僕には原発が地球温暖化対策になるなどというのは「悪い冗談」としか思えない。
(ウランの生産国)
 それでも日本でウランが採掘されるというのなら、「エネルギーの自給」という意味はある。よく原油液化天然ガスは中東地域からの輸入に頼らざるを得ず、「エネルギーの安全保障」の面から考え物だという人がいる。しかし、ウランこそ日本にはほとんどないレアメタルである。上記2016年度のグラフでは、カザフスタンが一番多く、カナダオーストラリアと続いている。確かに戦争などの危険性は低いかもしれないが、日本にはないことには変わりない。

 もちろん再生エネルギーには、特に太陽光風力など天候に左右されやすい問題がある。しかし、電気は「発電」だけでなく、「送電」して初めて消費者に届けられる。そして送電には大きなロスがつきまとう。さらに日本には「水力」も大きい。大規模発電ダムは環境破壊につながるが、小規模水力発電は可能性が大きいのではないか。そして「蓄電」技術の革命によって、発電も大きく変わるだろう。政府が率先して「脱原発」「再生エネルギー重視」を打ち出し、「送電」「蓄電」技術の開発に注力すれば、日本は世界をリードする技術を築けるのではないか。

 ちょっと大きな地震があるたびに、付近の原発の状況が報道される。やはり皆心配なのである。倫理的側面も含め、即時ではなくても「脱原発」に舵取りすることが日本にとって絶対に必要だ。
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イスラエルのワクチン接種とドイツのビオンティック社

2021年02月12日 23時12分10秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 諸外国では昨年のうちに新型コロナウイルスへのワクチン接種が始まったという報道が聞かれた。しかし、日本ではどうなっているんだろうか。河野太郎が突然「新型コロナウイルス感染症ワクチン接種推進担当大臣」なんて任命を受けたが、調べてみるとそれは1月18日のことだった。そしてようやく、2月12日になってファイザー社(推定)のワクチンがベルギーから到着した。もっとも日本ではまだ厚労省の正式承認が下りていないから、明日から打てるということはない。(異例に早く14日に承認され、すぐにも医療関係者の接種が始まるらしい。)
(ワクチンが到着)
 日本政府はワクチン製造会社と国民全員分の契約を済ませているということだが、アメリカやEUも「ワクチン囲い込み」を強めている。自国の分を後回しにしてまで他国に輸送するのは難しいだろう。世界ではイスラエルでワクチン接種が進んでいる。すでに国民の4割ほどが2回の接種を行ったという。これはネタニヤフ首相がファイザー社と契約し、接種時のデータを提供する代わりに早めにワクチンの提供を受けたらしい。

 イスラエルでは直近2年間で4度目の総選挙が予定されている。収賄で訴追されている首相と人口は約880万人ほどの国でデータが得られるファイザー社の思惑が一致したのだろう。しかし、パレスチナの占領地域では接種が遅れているのと話もある。データとしては「2回目の接種から7、8日後のワクチンの有効性は、現在のところ93%と推定される」という。ネタニヤフ首相は「過去30日間に国内で死亡した感染者は1536人で、このうち97%以上がワクチン未接種で、接種済みの人は3%より少なかった」とも発表している。接種していても死亡する例がある。

 そのイスラエルでワクチンを打った日本人がいる。共同通信の特派員の体験記が2月6日付東京新聞に掲載されている。事前に「震えや肩の痛みがあるかもしれません。肩の痛みは3日ほど続くでしょうが、さらに続けば連絡して」と言われた。接種後に10分ほどアレルギー反応確認のため待機したが、全部で15分程度で済んだという。しかし、夜になって左肩の痛みが増し、激しい頭痛や歯ががたがたするふるえに襲われた。翌日も肩の痛みや頭痛が続いたが、2日後に回復。2回目の接種の方が副反応が強いと話す人が多く不安が募るともいう。

 これをどう思うか。他のワクチンに比べて結構副反応が強いような気がする。許容範囲とも考えられるが、イスラエルでも若い世代は感染リスクが少ないと考えるのか、接種が進まないとも言う。12月20日から接種が始まったイスラエルでも、最近は人数が減ってきているらしい。果たして日本でどのような副反応が出るのか。このような肩の痛みや頭痛がウェブ上でリアルタイムで拡散されると、恐ろしいと思う人が増えるかもしれない。もっとも副反応は少ないかもしれず、今のところなんとも言えない。

 ところで今回今までに比べて非常に早くワクチンが開発された。イスラエルの接種を報告した特派員によれば、そのワクチンには「ファイザー・ビオンティック・COVIDー19」と書かれていた。ファイザーはアメリカの大企業だが、次のビオンティックはドイツのベンチャー企業である。「多和田葉子のベルリン通信」(朝日新聞1月26日付)に出てくる。そこでは「バイオンテック」と表記されている。興味深いのはその会社を創設したのが、トルコ系移民夫妻だったということだ。2001年に最初の会社を作り、2008年に小都市マインツにバイオンテック社を作った。トルコ系の医学生夫婦が会社を作って研究を積み上げてきた。それが可能なドイツの社会はやはり素晴らしい。
(mワクチンの仕組み)
 今回のワクチン開発が早く進んだのは、従来の病原体のウイルスを弱毒化して使うワクチンと違うからだ。それは「メッセンジャーRNA」を体内に送り込んで体内でウイルスのタンパク質を作らせるという方式である。僕がこれ以上書いても混乱させるだけなので、詳しく知りたい人は自分で調べて欲しい。ここ数十年の生命科学の発展がワクチン開発に生かされている。ところで中国もロシアもワクチン開発を行っているのに、何で日本製ワクチンがないのだろうか。いや、日本の会社も開発を進めているのだが結局遅れを取っているらしい。ドイツの例で判るように、若い人が起業してワクチンを開発するということは不可能ではない。それも凄いことだ。
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