尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

自書式から記号式へ、さらに順位付け投票に選挙改革を

2021年10月30日 22時23分47秒 |  〃  (選挙)
 選挙というものは、100%考えが一致する候補者はなかなか見つからないものだ。調べていくとこの人はどうなんだろうと思うことが多い。でも100%の一致を求めてしまうと、自分で立候補しない限り棄権せざるを得なくなる。自分で立候補するわけにもいかないから、まずまずのところで妥協するしかない。

 だけど最低限、名前を覚えていかないといけない。「自書式」だからである。明治時代から有権者が候補の名前を書く方式が定着してしまった。前近代から識字率が高かった日本だからこそかもしれないが、今ではどうなんだろうか。結構投票に行くのが大変だという声もある。物理的な大変さ(会場に段差があるなど)もあるが、名前を書くためのメモも持ち込んではダメ、老夫婦で相談してもダメという投書があった。

 調べてみると、衆院選と同日に行われる神戸市長選では「記号式」で行われるという。記号式と言っても、要するに候補者名の上に○印を付けるだけである。(下の画像参照)もっとも記号式は31日だけで、期日前投票、不在者投票は自書式だという。その理由は判らない。他にも記号式でやってるところがあるらしい。だから法律で出来るようになっているんだろう。
(神戸市の投票用紙モデル)
 日本の選挙というと、選挙カーが「○○、○○」と名前だけ連呼していくイメージがある。まずは名前を記憶してもらわないといけないんだから、やむを得ない面がある。政策より候補者名世襲政治家が有利になる現行の自書式を変えた方がいいんじゃないだろうか。高齢者、障がい者にはその方がいいだろうし、開票も簡単だ。解読が難しくて裁判になるようなケースも少なくなるだろう。(二人にまたがるように○をする人なんかもいて、もめることはあるだろうが。)郵便番号みたいに機械で開票すれば時間と予算も節約になる。

 しかし、それだけでなく記号式にすれば、「順位付け投票」も可能になる。小選挙区が良いのかどうか検討が必要だと思うが、小選挙区制度を続けるならば「過半数の得票がない場合は決選投票にする」べきだ。自民党総裁選だって決選投票だったのだから、自民党も反対しないだろう。投票率が5割前後、野党候補がいっぱい立って得票率40%程度で与党候補が当選したとする。そうすると有権者全体のわずか2割ほどの得票で、その地域の人々の意向を与党が代表してしまうことになる。

 それは問題だということで、今回は野党どうしの選挙協力が行われている。それは「候補を統一する」というやり方で、どこかの党(主に共産党)が候補を下ろしている。しかし、誰を統一候補にするかもめたり、直前に急に決まってバタバタしたりした。でも本来はトップの候補者の得票率が5割に行かない場合は、1位と2位で決選投票するべきじゃないのだろうか。フランスのように一週間後に決選投票をしてる国があるんだから。

 だけど一週間後にまた選挙かよと思って2回目は行かない人が多いだろう。投開票の手間も大変である。だったら「順位付け投票」をしたら良いのではないか。全員に付けるやり方もあるが、まあ「1」と「2」を書くだけでいいと思う。最初に1位票を確認して(機械ですぐに読み取れるはず)、過半数に達した候補がなければ、3位以下の候補票の2位投票を確認していく。その2位票を足してトップの候補を当選とする。2位を書かない人もいるだろうから、どっちも過半数に達しないこともありうるが、その場合はトップが当選でいいと思う。

 各野党がそれぞれ出ても、協定を結んでお互いに2位と書くように支持者に呼びかければいい。立憲民主党の場合、政策的に共産党に歩み寄らないと2位と書いてくれないことがありうる。だけど保守系候補の場合、維新に近づく人もいるかもしれない。この制度になれば、各政党がもっと擁立することになる。自民党の場合、国民民主などに2位と書いてもらうために、あまり極端に右派的な政策を抑制する必要も出て来る。いろんなことが起こると思うが、それが目的ではなく、要するに「小選挙区では過半数の得票で当選とする」ことが重要だということだ。最新の読み取り機を開発すれば、十分に実現可能だと思う。
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衆院選より総裁選の方が長かったテレビ

2021年10月29日 23時12分56秒 |  〃  (選挙)
 もう一回衆院選について。選挙を見ていて、段々僕はどの党が勝つかという問題よりも、日本の選挙制度を作り直さないといけないという気持ちが強くなってきた。以前から選挙制度や選挙運動などについて何度も書いてはいるが、それでもいつまでも書かないといけない。確かに町のあちこちにポスター掲示板はある。選挙の案内は送られてくるから、住民票の場所に住んでる人は選挙があることぐらいは知ってるだろう。でも、毎回入れる党が決まってる人はいいけれど、そうじゃない若い人なんかはどうすればいい? もちろん、調べる気があればスマホでマッチングアプリもあるけれど、選挙運動、あるいは選挙報道が日本には非常に少ないのである。

 そして「投票率が低い」と「自己責任」にしてしまう。僕は毎回そうなんだけど、候補者の演説にも行き会わないし、チラシも配ってない。選挙カーも一度聞こえてきただけだし、それも政策じゃなくて名前を連呼していた。選挙区の外れに住んでいるから、大体いつもそうである。そりゃあ、新聞を読んでるから候補者を知る機会はある。でも新聞を取ってない人はどうなるんだろう。選挙公報が配布されたのは28日だった。期日前投票が終わりそうな頃にやっと届いた。まあみんな読まないのかもしれないが。

 政見放送も多くの人は見てないと思う。昔(93年以前)は違った。多くの人が自分の選挙区は見てたと思う。今は政党中心になってしまい、一党の時間が長い。その最後の方で選挙区の候補を紹介しているけれど、その前は延々と党の紹介である。もちろん比例区の情報としてはそれでいい。でも小選挙区の方はこれでは困るのである。小選挙区ごとに出ている人を続けて見たいのである。そうじゃないと比較出来ないではないか。

 それに無所属候補には政見放送がない。これって、憲法違反ではないのだろうか。同じように立候補に際して供託金を納めているのに、法の下の平等に反するのではないか。無所属を含めて自分の小選挙区候補が続けて出て来れば、多くの人が自分のところだけは見ると思う。というか、インターネットで自分の選挙区の選挙公報と政見放送を24時間見られるように出来ないんだろうか。まずはそういう工夫が必要なんじゃないか。

 それにしても、今回はテレビでの選挙報道が少なすぎると思う。もちろん報じてはいる。でも31日は天皇賞だとか、ハロウィーンだとかいう方が印象的だ。朝日新聞29日の記事によると、衆院選より先に行われた自民党総裁選の報道の方が多いという。さすがにニュース番組では衆院選の方が多い。でも情報・ワイドショーなどでは圧倒的に少ないのである。これは何となくの印象と一致している。具体的に書けば、総裁選はワイドショーが14時間31分、ニュースが15時間24分の計29時間55分衆院選はワイドショーが8時間25分、ニュースが17時間52分、計25時間52分となっている。

 もっとも衆院選は途中経過だし、総裁選は結果報道も含まれているだろう。だけど、それだけではない。ワイドショーはこの間「小室眞子さん」に熱中してきた。郵政選挙の時の刺客騒動などに比べれば、今回の衆院選には皇族をしのぐ話題性がないんだろう。この日程は前から決まっていたから、僕は多分そうなる(テレビで衆院選が霞む)だろうと思ったし、それを見込んで投票日を決めたんだろうと思っている。それと同時に、現在は自民党がワイドショーも「監視」している。自民党有力候補が当落線上にある(と伝えられている)石原伸晃や平井卓也などを取り上げるには注意が必要だ。

 この間自民党内閣は二度と政権交代を起こさせないような脅迫的取り組みを構築してきた。安倍内閣以来の取り組みが成功して、今や選挙を扱うのは難しくなっているのか。もちろんNHKニュースなどでは各党首を追うみたいな報道はある。でも「世間が選挙で盛り上がる」ためには、ワイドショーなどでも沢山取り上げられる必要がある。テレビなんか見ないという若い世代も多いだろうが、高齢世代は違う。高齢世代は選挙に行くと言われるが、実は昔よりずっと投票率が下がっている。若者よりは行っているというだけのことだ。そうなると、今回の投票率が気になるところだが、果たしてどうなるんだろうか。
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東大生が教えてくれない勉強になる東京名所

2021年10月28日 22時28分12秒 | 東京関東散歩
 大体夜はブログを書いてるけれど、BGMが欲しいからテレビを付けてる。CDを掛けてると聞き入ってしまうから、テレビの方がいい。ずっと見てないと筋が判らなくなるドラマではなく、クイズとかヴァラエティ番組が多い。火曜日には林修先生の「今でしょ!講座」で「現役東大生が選ぶ東京の勉強になる名所ベスト25」というのをやってた。なんで東大生なのかというのは置いといて、結構なるほどなと思う場所が選ばれている。でも当然落ちているところもあるわけで、東京散歩の番外編として幾つか紹介してみたいなと思う。

 まず番組で紹介された名所を。下から発表したので、25位から。
神保町国立天文台台場飛鳥山公園浅草 
哲学堂公園アドミュージアム東京等々力渓谷大森貝塚中銀カプセルタワービル
日本科学未来館上野動物園東京タワー目黒寄生虫館国立西洋美術館
明治神宮神田川東京国立博物館江戸城跡国会議事堂
東京スカイツリー江戸東京博物館東京駅国立科学博物館東京大学

 いやいや一応全部知ってます。国立天文台と寄生虫館は行ってない。中銀カプセルタワービルも知ってるけど、見たことはない。哲学堂とか飛鳥山は昔散歩記をブログに書いた。中でお薦めはアドミュージアムかな。科学未来館も面白い。僕は歴史系だから、科博ではなく東博の方が好きで、学生時代はヒマなときによく行っていた。今は高くなってしまったし、コロナで予約制だからずいぶん行ってないな。

 それぞれ面白いところだと思うけど、見学できる場所としては国会議事堂よりも日本銀行の方が面白いと思う。(なお、コロナ禍で見学が制限されているところが多いので、それぞれ最新情報を確認する必要がある。)美術館としては国立近代美術館も素晴らしい。工芸館に使われていた近くの旧近衛師団司令部はどうなるんだろうか。街では神保町と浅草が入っているが、河童橋新大久保、あるいは谷中なども面白い。東大直下の本郷もとても面白い。案外古い町並みが残っていて、ぶらぶら歩きに最適。東大は駒場にもあるが、旧前田邸日本民芸館も一度は行っておきたいところだろう。

 しかし「勉強になる」という意味では、東大に限らず全大学生に見て欲しいのが、東村山市にある国立ハンセン病療養所多磨全生園ハンセン病資料館である。何でも医学部生は寄生虫館に行ってレポートを書く必要があるらしいが、本当はこっちにも行って欲しい。同じ東京でもちょっと遠いかと思うが、医学部だけでなくあらゆる学部で行ってみて欲しい。人権ミュージアムが東京には少ないが、ここは必須の場所である。
(ハンセン病資料館)
 また日本最大のモスクである東京ジャーーミイも一度は見て欲しい。お寺は行ったことがあるだろうが、キリスト教の教会は入ったこともない人がいると思う。お茶の水のニコライ堂などは見学できる。ロシアの正教だから珍しいと思う。もちろんどこの教会も寺院も自由に入れるけど、なんかイスラム教のモスクだと入りにくいと思う人がいるだろう。だから皆で見学する方がいいかなと思う。代々木上原(小田急、地下鉄千代田線)から5分程度。非常に美しい建物で、イスラム教のイメージが変わると思う。
(東京ジャーミイの内部)
 東京は日本の政治経済の中心というイメージばかりが強く、震災、戦災があって古い物が残ってないと皆思ってしまいがち。でも日本の古い大学は東京に集中している。戦災を越えて残っている建物も多いので、大学は格好の散歩道だ。1位が東大になっているのは、東大生だから当然か。三四郎池もあるし古い建物が多い。前に東大散歩を書いたことがあるが、これから銀杏並木の黄葉が素晴らしい季節になる。東大博物館もあるが、現在は東大生のみ公開になっている。しかし、もっと面白いのは私立大学に多い。

 慶應義塾大学三田キャンパスにある三田演説館は福沢諭吉が演説という日本語を作って実践した場所である。重要文化財だが、いずれ国宝になると思っている。ただし、通常は外観しか見られない。時々講演会や見学会で公開されるのだが、コロナ禍で今は難しいかもしれない。他にも図書館旧館も重文。早稲田大学演劇博物館も外観が独特で素晴らしい。こっちは坪内逍遙の作ったものである。演劇に関して様々な資料を展示している。他にも会津八一記念館など興味深いし、最近村上春樹ライブラリーも出来た。
(三田演説館) (演劇博物館)
 キリスト教系の大学には趣のある建物が多い。立教大学、明治学院大学はここでも書いたが、他にもいっぱいある。学習院大学にも古い建物が多いらしいが行ったことはない。大学博物館としてはお茶の水の明大博物館だろう。東京は近代日本の文化、学術の中心だったので、探していけばいろいろな物が残っている。特に大学は一般に無料公開している資料館なども多いし、学食も一般に開放しているところがある。今は警備が厳しいし、コロナ禍で立ち入れないところが多いと思うが、一度は行って見たいところが多い。東京以外でも京都の大学にも見どころが多いらしい。「観光資源としての大学キャンパス」という観点で町を見るのも面白いと思う。
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映画「コレクティブ 国家の嘘」、ルーマニアの闇に挑む

2021年10月27日 21時59分35秒 |  〃  (新作外国映画)
 「コレクティブ 国家の嘘」はとても面白い映画だった。「面白い」と言ってはいけないような告発型のドキュメンタリー映画だし、舞台は遠い東欧のルーマニアである。でも展開は圧倒的で驚くべき発見に満ちている。何でもオバマ元米大統領が昨年の公開映画ベストワンに選んだとか。2021年のアカデミー賞でも、長編ドキュメンタリー映画賞だけでなく、国際長編映画賞にもノミネートされた。受賞作「アナザーラウンド」やノミネート作「アイダよ、何処へ?」「少年の君」はここでも書いたけれど、決して負けてはいない。

 「コレクティブ」というのは、ルーマニアの首都ブカレストにあったディスコの名前である。2015年10月30日、そこで火事が起こった。出入り口が一つしかない構造のため逃げ遅れた客が煙に巻き込まれ、27人が死亡し180人が負傷したという。そういう大火事は日本でも時々起こったし、世界でも起こっている。しかし、この映画が追求するのは火事ではない。その後、病院に入院していた患者たちが37人も亡くなったのである。それは緑膿菌の院内感染が広がったためである。何でそんなことが起こったのか。そこへ内部告発があり、何と表示より10倍に薄められた消毒薬が病院に納められていたというのである。

 それを追求したのがスポーツ紙「ガゼタ・スポルトゥリロル」というのが面白い。カメラはその新聞に密着する。当初保健省は消毒能力に問題はないとしていた。しかし、その検査は問題を超した病院が行ったものである。製薬会社を隠し撮りすると疑惑の社長が登場してくる。キプロスに秘密の口座も持っているらしい。病院と製薬会社の汚れた関係が見えてくる。政府も捜査に乗り出さざるを得なくなるが、釈放された社長は交通事故を起こして死亡する。そんなバカなという展開で、これを劇映画でやったらストーリーがご都合主義と批判されるだろう。
(追求するマスコミ)
 国民の怒りが増して政府は総辞職して新しい保健相が登場する。後半はこの保健相に密着するが、公然たる圧力が掛かってくる様子をとらえていて闇の構造の深さに慄然とする。ルーマニアでは病院の理事長に医師以外でもなれるらしく、医療が政治的にゆがめられやすい。しかも、政権党だった社会民主党が立ちはだかっている。社会民主党といっても、過去のチャウシェスク政権当時の関係者が関わっている党である。
(新保健相は頑張るけれど)
 この映画は一体どうやって撮影されたのだろう。監督のアレクサンダー・ナナウ(1979~)は、「トトとふたりの姉」(2014)で世界に知られた。日本でも公開され、僕も見てるんだけど書いてないと思う。崩壊した家族の中で生きていく子どもたちに密着した映画だった。密着度合いが生半可ではなく、まるで再現された劇映画みたいだった。そこまで密着できるのかという感じ。日本ではとても無理だと思う。

 このような政治の腐敗による人災は世界中どこでも起こっている。日本でも福島第一原発の事故や水俣病、最近では熱海で起こった土砂崩れもそうじゃないか。そういうところに思いが及んでいく。と同時に被災者も描かれているのが貴重だ。火事の熱傷のサヴァイヴァーが義手を付けている様子が出て来る。全体的によくここまで撮れたなという映像が多い。マスコミ報道の重要性をこれほど実感させる映画もない。ジャーナリズムを学ぶ若い学生は全員に見て欲しいなと思う。映画館での上映は限定的(東京ではシアター・イメージフォーラムとヒューマントラストシネマ有楽町のみ)だが、今後も様々な形で上映機会を作って欲しい。
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瀬見温泉(山形県)の喜至楼ー日本の温泉⑩

2021年10月26日 22時22分06秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 各地方から特別にセレクトした温泉旅館を紹介するシリーズ。第一回は北海道の銀婚湯温泉だったが、段々南へ下がっていって次は東北地方になる。でもどうしても一つに絞れなくて、東北だけで二つ書きたい。東北には温泉ファンなら一度は行きたい「超有名秘湯」がいっぱいある。青森県の八甲田周辺の酸ヶ湯温泉蔦温泉、秋田県の乳頭温泉郷御生掛(ごしょがけ)温泉、岩手県の鉛温泉大沢温泉、山形県の銀山温泉…ちょっと飽きたので宮城、福島は省略する。西日本からは行きにくいと思うが、東京在住なら一度は行かないと。

 何だか銀山温泉を書きたくなってきたけれど、今回書くのは山形県瀬見温泉にある喜至楼(きしろう)という宿である。今までずいぶんいろんな宿に泊まって、四万温泉(群馬県)の積善館、渋温泉(長野県)の金具屋などでは建物の大きさ、古くて渋いムードに圧倒された。それらはいつも人気で活気に満ちた宿だった。ところが瀬見温泉の喜至楼は人がいないではないか。夏休みだというのに他の客はいたのだろうか。けっして廃墟ではないものの、そのレトロなムードと迷路のように複雑な旅館建築に完全にノックアウトされた。
 (最初が別館、後が本館の入り口)
 旅館のホームページには、「皆様から、【明治?】、【大正?】、【レトロ?】、【文化財的?】と言われる喜至楼は、本館玄関(日帰り温泉の入り口)とその周辺建物は、山形県内に現存する最古の旅館建築物と言われております。」「外観はもちろん、館内の建具や彫刻や装飾品なども歴史的なものが数多く残っておりまして、ご利用頂いたお客様からは、「明治、大正、昭和を一度に感じられて、喜至楼はまさにワンダーランド!」とお褒め?頂いております。」なんて自分で書いている。

 とにかく一泊すれば(日帰りでもいいけれど)、その驚くべき建築には感嘆すると言うより呆れかえるに違いない。行ったのはもう10年以上前なので、もしかしたら潰れてる?と心配したのだが、今も健在なので嬉しかった。僕が東北地方を旅行したときに、ぜひ喜至楼に行きたいと思ったのは、実は嵐山光三郎の本を読んだからだ。建物と温泉と鮎の塩焼きをほめていた。確かに鮎は美味しかった。建物の方はレトロ感が予想以上で、ほとんど冒険感覚で館内をめぐったが、自分の部屋に戻れるのか心配になった。
(名物のローマ風呂)
 お風呂に関しては、ホントにいっぱいある。家族風呂もあるが、やはり目玉はローマ風呂。何がローマなんだかよく判らないけど、昔はあっちこっちの大旅館によくあった。全部上の写真のような感じだったと思う。何となく確かにテルマエ・ロマエっぽい感じはする。写真を見ると緑色のお湯かと思うが、これはタイルの色。他のお風呂はみんな透明である。泉質はナトリウム、カルシウム、塩化物・硫酸塩温泉とホームページに出ている。

 源泉そのものではなく、温度が高いため加水している。それも川の水で埋めているという。ちゃんとホームページに、「当館では加水に天然の沢水を使用(オランダ風呂を除く)しているため、大雨の日などは泥が混入しお湯が濁る場合がございます。予めご了承のほどお願い申し上げます。」と書いてある。
(館内風景)
 瀬見温泉といっても、どこにあるのかという人が多いだろう。岩手県にも瀬美温泉というのがあって、混同されやすい。「見」と「美」に違いがある。山形県最上町というところにあって、小国川沿いに温泉宿が6軒の宿がある。山形県の東北にあって、山形旅行という点で言えばずいぶん遠い感じがする。でも山形県東北部ということは、隣接する宮城県西北部に近いということである。宮城の鳴子温泉から国道が通じているから、直接行くにはそっちの方が近いと思う。でもまあ、何だか遠くまで来たなあという感じの温泉だ。

 温泉の話はアクセス回数が他の記事より少なくて、あんまり読まれないのかなと思っている。温泉ファン(あるいはミステリーファンも)はすごく多いはずだが、いつもは映画とか選挙とかを書いてることが多いから届いていないのだろう。でも前回の銀婚湯温泉にはコメントが寄せられて、読んでる人がいるんだと思った。選挙のことなどを調べていて、つい感想を返すヒマが作れないままになってしまったけれど。僕ももう一度行きたい温泉が多いけど、もう2年近くどこへも行ってない。コロナもあるけど、母が高齢なのでしばらく遠くまでの旅行は難しい感じ。今は時々昔行った温泉を思い出して懐かしんでいる。
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最高裁裁判官の国民審査はどうするか

2021年10月25日 22時43分04秒 |  〃  (選挙)
 衆議院選挙と同時に最高裁判所裁判官国民審査も行われる。これは最高裁判所の裁判官を国民が罷免できる唯一の制度である。最高裁は多くの判決を通して国民に大きな影響を持っている。最高裁は司法権の最高機関だから、多くの国民が関心を持つべきだと、まあタテマエではそうなるけど、じゃあ現在の最高裁長官の名前を知っているかと言われてもすぐに答えられる人は少ないと思う。現在は第19代の大谷直人長官だが、数年で交代していくから覚えていられない。大谷長官も2022年6月までである。

 最高裁裁判官は70歳が定年なので、大谷長官も来年で定年になるわけだ。最高裁裁判官は40歳以上から任命されるが、戦後の最高裁発足直後は別にして、もう半世紀以上も60歳以上しか任命されていない。そして最高裁裁判官は10年に一度国民審査を受けると決められているから、最高裁裁判官にとっては人生で一度の国民審査である。

 でも国民審査で罷免されることはない。今まで一度もないし、今後もないだろう。我々は衆議院議員の選挙に行くのであって、小選挙区の個人名と比例代表の政党名を書いた上、誰も知らない裁判官の名前を書いた紙を渡されても、どうしたら良いのか判らない。罷免したい裁判官の名前に「×」を付けるか、白紙のままかのどちらかなので、つまり「○」を付ける方式ではないから、多くの人は何も書かないまま投票する。議員選挙では「白紙」は棄権を意味するが、国民審査では「白紙」は「罷免しなくても良い」の意味なのである。

 それで良いのかという問題意識から、今回は「主権者である私たちが最高裁を変えよう」というリーフレットが作られた。作ったのは「日本民主法律家協会・国民審査プロジェクトチーム」である。選択的夫婦別姓正規・非正規の格差是正冤罪(大崎事件、袴田事件)、一票の格差の4つの観点から、各裁判官がどのように関わっているかを検証して、望ましくない裁判官を指摘している。他にも重要な裁判はあるだろうし、最近任命されたばかりで最高裁判決への関わりがない人もいる。しかし、参考にはなるので、それを基に検討してみたい。(なお、このリーフレットは「澤藤統一郎の憲法日記」に教えられた。)
(リーフレット)
 最高裁の裁判官は、内閣が任命する。アメリカの場合、上院で承認される必要があり、非常にシビアな聴聞会が開催される。日本は日銀総裁や公正取引委員会委員長などは国会の同意が必要なのに、最高裁裁判官のような重大な職責を持つ役職が単に内閣だけで任命できてしまう。裁判に訴えても何だか政府よりの判決が多いような気がするのは、一つにはこの任命方法があると思う。(これに関しては憲法改正が必要。)とにかく内閣が任命する最高裁裁判官に対して意見を表明できるのは国民審査だけなのである。

 最高裁の裁判官は全部で15人いる。15人全員で裁判することもあるが、それは憲法上の新しい判断などの場合で、通常は第一、第二、第三の三つの小法廷に分かれて裁判をしている。15人の内訳は、法律で決まっているわけではないが、今までの慣例として大体固定化されている。裁判官出身が6人、弁護士出身が4人、検察官出身が2人、行政官出身が2人、学者出身が1人というのが、現在の大体の出身枠である。(昔は裁判官と弁護士枠が同じ5人だった。)以下に今回の対象裁判官を列記するが、カッコ内には出身と所属小法廷、年齢。

深山卓也(裁、第一、67) 合憲  
三浦守(検、第二、65)  合憲
草野耕一(弁、第二、66) 違憲
宇賀克也(学、第三、66) 違憲
林道晴(裁、第三、64)  合憲
岡村和美(行、第二、63) 合憲
長嶺安政(行、第三、67) 合憲
安浪亮介(裁、第一、64)
渡邉惠理子(弁、第三、62)
岡正晶(弁、第一、65)
堺徹(検、第一、63)

 合憲、違憲と書いたのは、2021年6月23日にあった「選択的夫婦別姓訴訟」の憲法判断である。最高裁では多数意見だけでなく、少数意見も公表される。最後の4人は7月以後の就任なので、裁判に関与しなかった。いろんな裁判があって、それぞれが様々に関与している。調べてみれば、いろんなサイトがある。僕は夫婦別姓問題だけで判断するのもどうかなと思う。(憲法判断は難しい論点がいくつかあるし、さらに合憲判断をした裁判官に×を付ける運動をすると、今度は違憲判断をした裁判官に×をしようという極右活動家の運動を誘発しかねない。)
(国民審査のモデル用紙)
 しかし、僕はこの間の最高裁の判断の中にどうしても納得できないものがある。それは大崎事件の再審取り消し決定である。当時「大崎事件再審取り消しー信じがたい最高裁決定」(2019.6.28)を書いた。この決定に関与した深山卓也裁判官は「×」を付けることにする。また東京高裁長官から最高裁入りして、あらゆる判決で多数意見、つまり保守的な判断を繰り返している林道晴裁判官も「×」を付けようかと思う。また検察官出身の三浦守裁判官は、林裁判官と同様に多数派を形成しているだけでなく、かつて大阪高検検事長として湖東病院事件の再審開始決定を最高裁へ特別抗告した責任者である。それは最高裁で棄却され、再審が開かれ無罪判決が出た。無罪の事件を引き延ばした責任は大きいと思う。

 ということで、3人に×を付けようと思うのだが、どうせ罷免には至らないので他の人に勧めるつもりもない。もっといろいろの裁判を調べてもいいんだけど、覚えていられない。4年間衆院選がなかったため、国民審査が11人というのはかつてない多さである。衆院選が優先だが、ちょっとヒマがある人は調べてみてはどうかなと思う。せっかくの制度なんだから。まあ参考ということで。
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公明党の「子どもに10万円給付」公約を考える

2021年10月24日 23時00分10秒 |  〃  (選挙)
 公明党が衆院選の公約として「18歳までの子どもに10万円を給付する」という政策を提唱している。この公約をどう考えるべきだろうか。確かにコロナ禍で子育てに困っている人は多いと思うが、それは全員ではないだろう。大学生も非常に困っている人がいると報じられているが、どうして18歳で区切るのかが疑問。一般的に困窮している人すべての支援を考えるべきではないのか。それより何より、一人一人に10万円を配るよりも、そのお金をまとめて使えば保育や児童虐待防止などにずいぶん回せるのではないだろうか。
(公明党の公約を発表する山口代表)
 この「10万円給付」には「所得制限を付けない」と言っている。それは「スピード感を持って対応する」ためだと言っていた。僕はこの段階で非常に大きな疑問を持った。もちろん「親の所得に関わらず子ども全員に給付する」のも一つの考えである。その方がいいと思えばそう主張すればいい。でもそんなに困ってない家庭には給付しなくてもいいというのが普通ではないか。その場合、親の所得を新たに把握しようと思えば時間が掛かると考える人もいると思うが、それは間違いである。行政は子育て世代の所得をすでに把握しているのである。

 中学を卒業するまでは「児童手当」を支給していて、それには所得制限があるからである。また中学を卒業するとほぼすべてが高校に進学するが、高校授業料無償化制度にも所得制限がある。民主党政権では「児童手当」を「子ども手当」と呼んだが、政権交代で名前を元に戻した。また民主党政権で実現した高校授業料無償化は、当初は所得制限がなかった。政権交代後に自公政権で所得制限が設けられたのである。だから18歳までの子育て世代の所得は(ほとんどを)行政当局で判っている。それを公明党が知らないはずがない。

 「子どもに10万円給付」というときに、何も新たな制度は必要ない。中学生までだったら、単に「児童手当に10万円をプラスすれば良い」だけのことだ。しかし、一時的に10万円を給付すれば、それを親が自分のために使ってしまうかもしれない。だから「月1万円増額を10ヶ月」続ければ良い。しかし、それよりも「月5千円増額」ならば20ヶ月続けられる。そういう風に考えていけば、じゃあ一時的に大金を給付するのではなく、千円でも2千円でも恒久的に増額した方がいいのではないか。「児童手当を増額する」と言えば良いのではないだろうか。

 中学生までは児童手当もあるわけだから、親に給付するということになるだろう。でも高校生の場合はどうなんだろうか。18歳までに10万円給付ということは、40人学級の場合「1クラス全員分で400万円」ということである。だから8学級あれば、1学年で3200万円。全日制3学年分で、何と9600万円になる。つまり高校一校に1億円臨時給付するということである。(東京都の場合、日比谷高校などは8クラス。職業高校は35人、定時制課程は30人と違っている。クラス規模も少ない学校もあるが、概ね学校全体で合せれば5千万~1億ほどになる。)

 そういう風に計算してみれば、その1億円を生徒全員で山分けしようぜというのが公明党案だと判る。しかし、生徒にどう使うかを考えさせてみれば、必ずしも山分け案が勝つかどうか判らないと思う。もちろん困っている家庭もあるだろう。そういうクラスメイトを支援するべきだという考えもあるだろうが、せっかくだから学校全体で使ってはどうかという意見も出ると思う。IT環境の整備などもあるが、行政からは後回しにされやすいトイレのウォシュレット化なども案に出るかもしれない。それよりも世界全体に目を向けて、もっと大変な環境の子どもたちや地球環境問題などに寄付したらという意見も出てくるのではないか。

 そういうことを生徒に考えさせてみればどうなんだろうと思うのである。そういう議論をすれば、やっぱり個人への還元も欲しいという声も出て来るだろう。でもお金で渡せば食べ物などに消えちゃうから図書カードにしたらとか、そういう議論をするのが勉強になるような気がする。でも最終的にはやはり卒業後の大学や専門学校などの入学金に充てるというのが一番多いのではないだろうか。

 それだったら学校全体で1億円受け取って、奨学金に回したらいいのではないか。学校ごとにやるのは大変すぎるので、各学校が信託銀行などに預けて独自の奨学金を作るとか。しかし、それだったら10万円給付なんかやめて、大学生も含めて既存の奨学金制度をもっと充実させることに使ったらどうなんだろうか。結局そういうことになるんじゃないか。困窮世帯は別に対策を作るとして、子ども一人に10万円給付するより、保育や奨学金など子育て支援システム構築に回した方がずっといいと思う。それを国政選挙を前にして、連立与党の一員であるのに独自公約として打ち出したところに、何となく「バラマキ」でアピールしようという感じを受けてしまう。
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労働組合と選挙ートヨタ労組の撤退の意味するもの

2021年10月23日 22時04分09秒 |  〃  (選挙)
 民主党という党があった。まあ今もあるといってもよく、今回の選挙の比例区に「民主党」と書いても有効ではある。ただし、「立憲民主党」と「国民民主党」のどっちに入れたかが判らないので、その票は両党に按分されるという。(その地区で立民40万票、国民10万票だったとしたら、ただ「民主党」と書いた票は立民0.8票、国民0.2票とする。)党が付かない「民主」はダメ。自由民主党や社会民主党もあるので。という話である。

 2012年の衆議院選挙で政権党の民主党が分裂し、小沢一郎らは「日本未来の党」を結成し、また「日本維新の党」から出馬した議員もいた。それから約10年が経ち、かつては民主党だった政治家たちは誰も覚えていないような離合集散を経て、おおよそ「立憲民主党」にまとまり、別の何人かは「国民民主党」から出馬している。その他に自民党に移った人もかなり多く、維新などから出ている人もいる。それらの経緯は今は書かない。今回は労働組合と政党の関係についてを特に考えたいのである。

 戦後の労働運動には、社会党を支持する「総評」(日本労働組合総評議会)と民社党を支持する「同盟」(日本労働組合総同盟)という二つのナショナルセンター(労働組合の中央組織)があった。他にもあったし、そうなるまでの経過も長いんだけど、書き始めると長くなるから省略する。80年代になって、労働戦線統一の動きが始まって、共産党系の組合を排除しながらまとまって、1989年に「日本労働組合総連合会」(連合)を結成した。「連合」を「反共、労使協調路線」と批判する共産党系組合は「全国労働組合総連合」(全労連)を結成した。(また社会党左派系の「全国労働組合連絡協議会」(全労協)も結成された。)

 以上に書いたようなことは知ってる人には常識で、知らない人には全く関心がないことかもしれない。半世紀前には春には私鉄のストがあったし、「総評」という言葉は誰でも知っていた。いつの間にか労働組合はどこにあるんだという社会になってしまったが、今でも労働組合は大きな意味を持っている。それをまざまざと示したのが、2019年の参議院選挙だった。連合が出来た後も、旧総評系は社会党、旧同盟系は民社党を支持していたが、「民主党」結成後は基本的には連合所属組合は民主党支持でまとまることになった。(一部は社民党を支持。)

 ところが民主党が分裂してしまったため、2019年の参院選では組織内候補が立憲民主党と国民民主党に別れて立候補することになった。その結果は当時「組織票の当落を点検するー2019参院選③」(2019.7.24)に書いたが、両党ともに比例区の個人名投票の上位にはズラッと組合の組織内候補が並んだのである。しかも立憲民主党からは自治労日教組JP(旧全逓)、情報労連(旧全電通)、私鉄総連など旧総評系が出て、国民民主党からはUAゼンセン自動車総連電力総連電機連合JAMなど旧同盟系が出た。すっかり社会党と民社党の時代に先祖返りしてしまったのである。しかも立民系は全員当選したが、国民系は3人しか当選出来なかった。

 ちょっと前提の説明が長くなったが、この民主党系の分裂が今回の選挙にも影響を及ぼしている。特に顕著なのが今まで民主党の牙城だった愛知県。愛知県はトヨタ系列の企業が多く、昔から労組が支援する民社党が強かった。20世紀になってからは民主党を支援し、前回でさえ立憲、希望、無所属合せて旧民主系が(全15選挙区中)7つで当選している。しかし、今回は全トヨタ組合連合会(全ト)は所属する自動車労連が支持する国民民主党に支援を絞った。立憲系は特に関係の深い3議員のみ支援するという。

 さらに驚かされたのは、トヨタの組織内候補として愛知11区で当選してきた古本伸一郎議員が公示直前になって立候補を中止したのである。古本議員は2003年から民主党から5回当選して、前回は希望の党から当選、その後無所属になっていた。古本氏はまだ56歳で引退する年齢ではない。たとえ無所属でもトヨタ系の支援を受けるから当然は確実だ。今回の突然の方針転換は古本氏の問題ではなく、全トの問題なのである。
(古本伸一郎前議員)
 もともと愛知11区はトヨタの城下町で、古本氏の前の組織内候補だった伊藤英成は労組と社長が合意して候補になっている。伊藤は民社党、新進党、民主党で6回当選して、2003年に62歳で引退後はトヨタ車体の常勤監査役を務めたとウィキペディアに出ている。衆議院議員といってもトヨタ内の人事異動みたいなものである。今回の不出馬に関して古本は「組織内候補が出なければ(超党派連携の)可能性は開ける」と述べている。全トは「超党派」を掲げて方針を変えたが、それは事実上自民党との連携を目指すものと言えるだろう。

 東海テレビのウェブニュースでは、古本伸一郎氏は「国を良くしたい思いが同じであるならば、“対立より解決”の方法がないものか。街をよくしたい思いが同じならば、組合は旧民主党、地域は自民党という壁をなくせないものか」と述べている。またトヨタ労組の西野勝義委員長は「今後は従来以上に政策実現に重きを置きながら、『何党』ということよりも『何をしていただけるのか』を重視して、是々非々で連携を模索していきたい」と述べている。つまり、「国を良くしたい思い」「街をよくしたい思い」の方向性がもうすでに自民党と同じだと思っているのである。これで労働者の多くが納得するのだろうか。

 さらに脱原発を公約にする立憲民主党に対して、原発立地県の連合地方組織が支援しない例が相次いでいる。確かに労働組合の初志は「労働者の職を守る」ことにあるだろう。でも地球環境問題SDGsが問われている現在、労働組合が単に自分たちの組織防衛のみを考えていて良いのだろうか。原発問題のように、国民的な関心が高い問題で、国民世論を無視するような方針では理解されないのではないか。

 これらの問題の背景には前回書いた立憲民主党と共産党との選挙協力がある。2019年の参院選で野党協力がある程度実績を上げて、衆院選での協力につながっていった。それに反発した労組出身参議院議員は立憲民主党に合同しなかった。それも判らないではない。旧同盟系労組のリーダーは労働運動家の生涯を通じて組織内の共産党系組合員と対立してきたわけだから。しかし、国民民主党の方が共産党より多くの票を持っているなら、立憲民主党だって共産党より国民民主党を重視するに決まっている。そうじゃないから票がきちんと出る共産党と協力するのである。国民民主党から立候補している前議員は6人だが、かなり個人票を持っていて強いので当選可能性が高い。しかし、比例区での当選は非常に厳しいのではないだろうか。

 このままでは国民民主党の党勢拡大が厳しいとなったとき、労働組合と関係が深い議員たちはどうするのだろうか。一部は立憲民主党に移籍するだろうが、自民党に移る議員もいるのではないだろうか。その場合、組合ごと「超党派の対応」の名の下に自民党系になっていく。そういう予測が出来る気がする。もちろん今の社民党のように、小さくなっても国民民主党で残る人もいるかもしれない。何にしても、自民党と立憲民主党では「国を良くしたい思いが同じ」などとは言えないだろう。まあ「思い」だけならそうかもしれないが、「目指す社会像」では相当に違うはずだ。これほど非正規労働者を増やしてきた自民党政権を労働組合が支持するというようなことは、僕は組合員に対する裏切りではないかと思う。
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問題は「立共」より「自公」ではないのか

2021年10月21日 22時22分22秒 |  〃  (選挙)
 立憲民主党共産党が一定の「選挙協力」を行っていることに、自民党などから「反共攻撃」が激しくなっている。甘利幹事長など「政権選択ではなく、体制選択」などと言っているようだ。しかし、きちんとした協力というほどのものではなく、共産党などが候補を取り下げて立憲民主党が「事実上の野党統一候補」になっているという程度の話である。自公が過半数を割ったとしても、立憲民主党内閣には共産党は入閣せず閣外協力に止まるという。実際上どの程度効果があるものなのか、やってみないと判らない。

 立憲民主党と共産党とは、例えば日米安保条約に関して違いがある。立憲民主党は安保条約を認めているが、共産党は廃棄して日米友好条約にすると言っている。そういう違いが将来大きな問題になる日が来るかもしれないが、今回の選挙に関しては何か大騒ぎする意味があるのだろうか。もともと「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」と立憲民主党、共産党、社会民主党、れいわ新選組の4党派が「市民連合と立憲野党の政策合意にあたっての声明」で共通の合意に達している。(9.8日)国民民主党はその合意に加わらなかった。
(市民団体と4党の合意)
 そういう合意がある訳だから、その範囲において各党が協力するのは当然のことだ。合意内容は詳しくはリンク先に掲載されているが、幾つかを挙げてみれば以下のような項目がある。
安保法制、特定秘密保護法、共謀罪法などの法律の違憲部分を廃止し、コロナ禍に乗じた憲法改悪に反対する
核兵器禁止条約の批准をめざし、まずは締約国会議へのオブザーバー参加に向け努力する
コロナ禍による倒産、失業などの打撃を受けた人や企業を救うため、万全の財政支援を行う
最低賃金の引き上げや非正規雇用・フリーランスの処遇改善により、ワーキングプアをなくす
再生可能エネルギーの拡充により、石炭火力から脱却し、原発のない脱炭素社会を追求する
ジェンダー、人種、年齢、障がいなどによる差別を許さないために選択的夫婦別姓制度やLGBT平等法などを成立させるとともに、女性に対する性暴力根絶に向けた法整備を進める
森友・加計問題、桜を見る会疑惑など、安倍、菅政権の下で起きた権力私物化の疑惑について、真相究明を行う

 僕にはおおよそのところ、反対するところが全然ない政策合意である。他の項目もあるわけだがこの、政策合意に賛同する人は合意した政党の候補が一人だったら、その候補に投票すれば良い。反対するのは自由だが、共産党が入っているから反対なんて理由だったら、いつの時代だよという感じだ。自民党には何か特に共産党だけには知られたくないことがあるのかもしれないが、一般有権者には関係がない。

 中央政治では共産党が与党になったことはないけれど、地方政治だったら半世紀前には「社共共闘」の「革新自治体」がいっぱいあった。しかし、その後自民党に取り戻されてしまった自治体ばかりだ。共産党の首長も今までに何人かいたけれど、結局のところ「だから、何?」というあたりだろう。先駆的な政策もあったし、あまり意味がなかったこともあるだろう。もし共産党に問題があったら次の選挙で交代して貰うだけのことで、大騒ぎするようなことでもないと思う。

 それを言うなら、自公連立はどうなんだというのが僕の感想。自民党は今回「日本で初めて共産主義のイデオロギーに立つ党が政権に影響を与えるかもしれない選挙」なんて言っている。でも公明党と連立を組むときは、「宗教的な背景がある党と連立を組んで大丈夫なのか」と自民党内でも反対がいっぱいあった。特に創価学会と対立してきた親自民系の宗教界からは、非常に厳しい反発があった。でも連立を組んで20年、国家政策が宗教的にゆがめられたわけでもないだろう。要するに高度に発達した情報社会では、一党一派の影響は限定的なんだろう。

 連立を組んだ当初は自民党が参議院で過半数の議席を持っていなかった。そこに連立の意味があったわけだが、近年では自民党一党で衆参両院の単独過半数を持っている。だから連立する意味はないはずだが、もうお互いに連立を止めることは出来ない。多くの自民党議員が野党候補との票差が厳しい状態で、各選挙区で平均2~3万票程度あるとされる公明票抜きでは小選挙区が厳しい。9つの小選挙区と大臣1ポストを渡す代わりに、小選挙区で安心感を得ている。公明票は確実に出る(その地区の自民候補に投票する)ことで知られている。公明党にしても、自公で協力しない限り小選挙区では勝てない。比例区だけだと第3党の地位が危うくなるかもしれないのである。だから、相互依存が恒常化してしまって、今さら抜け出せない状態かと思う。
(岸田総裁と山口代表の連立合意)
 だが選挙後も「自民が単独過半数獲得でも自公連立」と決まってるなら、本来は「連立2党の政権公約」を決めるべきではないのか。今は独自に公約を発表していて、公明党は「18歳以下の子どもに10万円支給」と打ち出している。(しかし、ゼロ歳児に預金口座があるはずもなく、当然親に出すんだろうから「子育て家庭に支給」と言うべきだろう。)この公約の是非は置いといて(僕には疑問が多いが)、実現するんだったら自公の共同公約にするべきだ。公明党だけでは実現出来ないなら、公明党の独自公約って何なのだろう。

 公明党は自民党の公約にかなり批判をしている。「防衛費をGDP2%に増強」「敵地攻撃能力」には山口代表が苦言を表明しているし、選択的夫婦別姓制度にも公明党は賛成していて、反対しているのは自民党だけである。立憲民主と共産を「野合」などと批判している場合じゃない。このように基本的政策が異なる党が連立していて良いのだろうか。「夫婦別姓」などは本来公明党が連立離脱を覚悟して、国会で党議拘束を外して採決すべきだと自民党に迫っていれば、ずっと前に解決していたのではないのか。安保・防衛政策でも、集団的自衛権を容認した時でさえ反対できなかったのだから、今後も連立離脱カードを切って阻止することはないだろう。

 ということで、僕は「立共」の協力問題をあれこれ言ってるヒマがあったら、現実に20年も続いている「自公」連立の意味を検討する方が先だと思っている。ただし、今回は連合からの批判など労働組合の問題を書いていない。そこでもう一回、国民民主党と立憲民主党の全面的選挙協力が何故出来ないのかを考えたい。
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野党支持者に試される忍耐力ー参議院で少数の現状をどう考えるか

2021年10月20日 22時34分56秒 |  〃  (選挙)
 衆院選の話を少し続けて書こうかと思う。19日に公示され、各党党首がテレビなどで紹介される。国政に議席を持っている政党は呼ぶ方針らしく、衆議院には議席がない「れいわ新選組」や「NHKと裁判してる党弁護士法72条違反で」も呼ばれている。他を一応挙げておけば、自由民主党立憲民主党公明党日本共産党日本維新の会国民民主党社会民主党(衆議院の公示前勢力順)の合計9党である。比例区に出ている政党はこれだけだと思っている人が多いだろうが、他に「日本第一党」「新党やまと」「政権交代によるコロナ対策強化新党」(以上東京)「支持政党なし」(北海道)が出ている。比例代表の定数が一番多い近畿で出ないのが不思議。
(9人の各党首)
 ズラッと紹介するときは顔だけになることが多いから判らないけれど、日本記者クラブで行われた共同記者会見では一堂に並んだ写真が報道された。別に身長で政治が変わるわけはないではないけれど、それを見ると結構党首に身長差がある。高い方から立花、志位、山口、山本、玉木、岸田、枝野、松井という感じかなと思う。福島瑞穂が一番低いけど、男で言えばそういう感じ。松井一郎が背が低くて、立花孝志が一番高いように見えるのは意外な感じがする。山本太郎は俳優だったから、身長も公表されているかと思って検索したら、公称175㎝だそう。岸田首相は173㎝だと出ている。まあどうでもいいけど、ちょっとどうだろううかなと思ったので。
(日本記者クラブでの一堂写真)
 今回立憲民主党は(全289小選挙区の中で)214選挙区に候補を立てた。他に推薦候補がいるところもあって、数字上は「立憲民主党単独政権」が成立可能になる。今回は立憲民主党と共産党がかなり「選挙協力に近いこと」をしている。ホントに協力するとなると、全選挙区で棲み分けて、相互に推薦を出さなければおかしい。今回はそこまではやってない。というか、やると「逃げる票」もあるということだろう。

 今回は共産党が候補を下ろして「勝手連」的に応援する。(「勝手連」も古い用語かもしれないが。)一方で立憲民主が候補を立てずに共産党候補が「事実上の野党統一候補」になっているところもある。融通無碍なところが日本的ではある。じゃあどんどん勝って、自公で過半数を割ったら立共で連立内閣を組織するのか。そこは「閣外協力」と言っているが、自民党はそこを攻撃して「政権選択ではなく体制選択だ」と各地で猛烈な反共攻撃をしている。その問題は別に考えたいと思うが、とにかく今回の選挙の焦点になっている。

 とは言うものの、今回の選挙で一気に政権交代というのは難しいだろう。それが大方の予想になっている。今の段階でそれが正しいかどうかは判らない。野党協力や安倍・菅政権の「負の遺産」、岸田内閣の支持率も今ひとつぱっとしないところから、自民が減って立憲民主が増えるだろうということは予想されている。でも問題はその幅である。ただし、コロナ禍の影響がどう出るか、全く判らない。

 コロナ禍といっても業績がかえって伸びた企業も案外あるが、非常に困窮している人もいる。コロナ禍でいろいろ考えただろう人が、取りあえず手っ取り早く自民党に助けを求めるか、それとも怒りの一票を野党に入れるか、はたまた選挙に行くヒマも関心もないと棄権するか。98年参院選のように、前年の金融危機を受けて予想外の自民党大敗北が起こった例もある。98年参院選(橋本内閣)や10年参院選(菅直人内閣)のような予想外の事態(与党敗北)も起こりうるかもしれない。岸田首相が総裁選で主張したことが公約になっていない。有権者が「岸田首相はぶれた」「安倍元首相が操っている」と判断すると、予想外に自民が伸びないこともありうる。

 もう一つ重要な点は「野党支持者の忍耐力」だと思う。今回野党が主張していることのほとんどは、仮に政権が交代してもすぐには実現出来ない。参議院で多数を持っていないからだ。山本太郎が「消費税は廃止」と言ってるけど、もちろんそれはごく少数勢力の「れいわ新選組」が他の野党と別に主張してることだから、実現することはない。それどころか、他の野党が概ね主張している「消費税減税」も実現は難しい。与野党が逆転しても、参議院の多数派の自民党は妥協しないだろう。それが10年前の教訓で、民主党政権の足を引っ張り続けて、ついに民主党を分裂に追い込んだ。そして自民党は大勝利して政権に復帰した。

 その時に野党支持者が「消費税が減税になると思って投票したのに、実現しなかった」と失望して政治への関心を失ってしまうかもしれない。そんなことを言っても衆参両院で多数を占めてないんだから、仕方ないじゃないかと思う。有権者もそんなに愚かではないだろうと思うと、案外そういう人がいるんだと思う。30年前もそういう人がいた。「消費税を廃止する」というから社会党に入れたのに、実現しなかったと思った人がいるのである。でも自民党が選挙で勝ったんだから、社会党に入れた人が少数だっただけなのである。今回はやはり選挙には行かなければという若い人向けのキャンペーンもある。しかし、ネットで調べて消費税を減らすと言うから入れたけど、実現出来なかったと去って行く人が出ないとは言えない。
(参議院の勢力)
 次の参議院選挙は2022年7月である。だから野党支持者にとっては、今後の半年間が非常に重大だ。今回の選挙の結果がどうなろうと、すぐに総括して来年の選挙の準備を始めなければいけない。現在の参議院(全245議席)では自民党が108、公明党が28の議席を持っている。ただ24日に2議席の補欠選挙があって、確実に1議席は自民党。山東昭子議長や五輪組織委の橋本聖子が無所属になっている。野党では立憲民主が45、維新と国民民主が15、共産が13といった具合である。参議院は1人区が多く、与野党逆転が実現しやすい。現実的には来年の参院選で与野党伯仲を実現できるかどうかで、次の衆院選で政権交代が見えてくるのだと思う。
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瀬々敬久監督の映画「護られなかった者たちへ」

2021年10月19日 22時53分47秒 | 映画 (新作日本映画)
 「護られなかった者たちへ」という映画を見た。チラシには「佐藤健(容疑者)×阿部寛(刑事)×瀬々敬久(監督)」と書かれている。佐藤健や阿部寛だけでなく、瀬々敬久(ぜぜ・たかひさ)監督もウリになるのか。時間がちょうど合って近所に見に行ったんだけど、内容が内容なので一応書いて置くことにする。何しろ「東日本大震災」「生活保護」を真っ正面から描く映画なのである。でも後味が悪い映画かなと思った。佐藤健や清原果耶目当てに見に行くと引いちゃうかもしれない。要注意の映画である。

 瀬々敬久監督はピンク映画から出発したが、一般映画を撮るようになってからの壮大な映像世界が見応えがある。4時間38分の「へヴンズストーリー」や189分の「菊とギロチン」など作家性の強い映画だけでなく、「64」「楽園」「友罪」「」など多彩な映画をヒットさせた。どれも壮大で見応えがある映像である。今年もすでに「明日の食卓」があったし(見逃し)、来年以降も公開作が控えている。要注目の監督の一人だ。
(佐藤健×阿部寛)
 宣伝からコピーすると、「東日本大震災から10年目の仙台で、全身を縛られたまま放置され“餓死”させられるという不可解な殺人事件が相次いで発生。被害者はいずれも、誰もが慕う人格者だった。捜査線上に浮かび上がったのは、別の事件で服役し、刑期を終え出所したばかりの利根(佐藤健)という男。刑事の笘篠(阿部寛)は、殺された2人の被害者から共通項を見つけ出し利根を追い詰めていくが、決定的な証拠がつかめないまま、第3の事件が起きようとしていた―― なぜ、このような無残な殺し方をしたのか? 利根の過去に何があったのか?」

 物語はミステリーとして進行する。10年前と行ったり来たりしながら、ベースは阿部寛林遣都の刑事二人組が事件を追うのが主筋。だから詳細は書けないが、発端は大震災にある。阿部寛の刑事も震災で家族を失っているが、10年前の避難所のシーンが長い。そこでは佐藤健が心を閉ざしているが、カンちゃんという子どもと遠島けい倍賞美津子)の二人が気に掛けてくれる。それぞれ誰も家族がいない3人で、助け合って生きていく。
(3人で助け合う)
 10年経ってどうなったか。利根(佐藤健)はかつて避難所で助け合ったカンちゃんを探す。大人になった丸山幹子清原果耶)は公務員になって生活保護の現場で働いている。事件の被害者も生活保護に関わる仕事をしていたことが判って、刑事は話を聞きに行く。そして幹子の仕事を描きながら、「生活保護」の問題点をあぶり出していく。そして遠因に大震災があり、避難所で知り合った三人には一体何が起こったのかを刑事が追う。阿部寛演じる笘篠刑事は相当に強引な捜査をしているが、阿部寛、佐藤健の演技合戦は見どころ。ずいぶん走っている。
(清原果耶演じる丸山幹子)
 この物語は中山七里の原作がもとになっている。仙台が舞台になっていて、映画も仙台を中心にロケされている。原作はもっと生活保護の状況を詳しく描いているらしい。映画ではロケの風景の中で大きな人間ドラマが展開される感じ。そこが「映画を見た」という満足感を与えるけれど、僕が見るところ話が図式的で納得できないのである。図式的という言葉は「イデオロギー的」といった感じで使われることが多いが、ここで言うのは作家側が意図した「物語の構図」をはみ出さないというような意味。

 「餓死」という死因の殺人事件は珍しいと思うが、そこがポイントとなる。だけど、いくら何でもこの物語はやり過ぎではないか。まあ永山則夫が言ったように、殺人は「仲間殺し」だということなのか。カンちゃんは天気予報してる方がいいよという難役。一生懸命やってるけど、僕は無理があると思った。むしろ事件の「主犯」は「生活保護を受給しにくくしている政治家」であるはずだ。それは誰なのか。ちょっとは言及されるけれど、そこはやはり弱い。コロナ禍のいま、この映画はとても重要な問題を告発している。それだけに個人の問題のように進行して「悲劇のドラマ」のように終わるのが残念だった。
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2021年衆院選、投票率はどうなるか

2021年10月18日 21時11分46秒 |  〃  (選挙)
 2021年10月31日投開票の衆議院選挙が10月19日に公示される。10月1日にはまだ菅内閣だった。4日に岸田内閣が成立し、14日に解散って、どう考えても早すぎる。17日には神戸市川崎市の市長選が告示された。日本全体の未来を決める国政選挙より、政令指定都市の市長選の方が選挙期間が長いのである。どう考えてもおかしい。リクツとしては、「小選挙区」よりも「政令市」の方が面積が大きいから長い期間が必要というのだろう。だから全県で選ぶ参議院選挙は衆議院よりも選挙期間が長い。(参院=17日、衆院=12日)

 でも、衆議院は内閣総理大臣の指名で参院に優先するから「政権選択」選挙になる。選挙期間中はテレビやネットで党首討論などが行われる。見なくても決まってる人も多いだろうが、本来は政見放送選挙公報をじっくり見てから決めたいと人だっているはずだ。多くの人が休日になる日曜日が選挙期間中に一回しかない。こんなに国政選挙の期間が短くて良いのか。それで投票率が低いなどと批判されるわけだが、投票先をじっくり吟味する時間を与えないで批判するのはおかしい。

 さて、ともかく31日には衆議院選挙があるわけだが、投票率はどうなるのだろうか。今回は非常に読みにくい。急に早くなったといっても、任期満了を過ぎているんだから、この秋に衆院選があることは判っている。選挙には必ず行くという人は、大体決めているのかもしれない。しかし、この間長くコロナ禍が続いてきた。生活が大変で選挙に関心が持てない人もいるかもしれない。保守系や公明党などはきめ細かな集会を積み重ねて集票活動を行ってきた。しかし、この2年ほど夏祭りなどもほとんど中止され、名前を売る機会が少なかったはずだ。特に新人候補の場合など、影響がどう出るだろうか。

 世論調査ではどうなっているか。実は岸田内閣成立直後のため、内閣や政党の支持率調査が優先して、選挙への関心を問う調査が少ない。毎回「選挙に行くか」を聞いていた読売新聞も今回は聞いていない。ただし、「関心があるか」は聞いている。これは前回調査との比較が可能なので、まず見てみたいと思う。
(選挙への関心を問う調査結果)
 それによれば、4択の中で、「大いに関心がある」が29%。「多少は関心がある」が44%。合せて77%が関心を示している。「あまり関心がない」は20%、「全く関心がない」は7%、「答えない」が1%になっている。

 これは高いように見えて、実は前回よりもかなり低い。前回2017年の衆院選時の読売新聞調査は、選択肢が今回と同じである。その結果は「大いに関心がある」が43%。「多少は関心がある」が37%。合せて80%が関心を示している。「あまり関心がない」は14%、「全く関心がない」は5%、「答えない」が1%になっている。

 「大いに」「多少」を合計すると3%の減少になるが、「多いに関心がある」だけを見れば何と14%も減っている。2017年の実際の投票率は53,68%だった。つまり、「大いに関心がある」にプラスして、「多少」派の3人に1人ぐらいが選挙に行ったわけである。今回も同じ割合だと仮定すると、50%に達しないことになる。
(NHKの選挙に行くかどうかの調査)
 そこでNHKの世論調査を見てみる。こちらはネット上で前回調査を見つけられないので、比較が出来ない。今回の選挙に対して、「必ず行く」が56%、「行くつもりでいる」が29%、「行くかどうかわからない」が8%、「行かない」が5%という結果になっている。この種の調査で「行くつもり」は行かないことが判明している。「必ず行く」から少し減った数字が実際の投票率になると思われるので、投票率は5割程度という予測が出来る。

 なお、NHKでも関心があるかという調査をしていて、その結果は「非常にある」が28%、「ある程度ある」が49%、「あまりない」が16%、「まったくない」が4%になっている。これは誤差を考えると、読売調査とほぼ同じ傾向を示している。つまり、今回の選挙は「ある程度は関心はある」けれど、現時点では大いに盛り上がっているわけではないのである。それが何に原因するのかは判らない。何党であれ、大規模集会が出来ない状況が続いている。盛り上がるわけがないのも当然か。今後の選挙期間で、そこが変わっていくのかが今回の注目点である。与野党どちらにコロナ禍の影響が大きいのか、今は判断出来ない。
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自民党はずっと強いのに、なぜ社会党はなくなったのかー93年政局考⑤

2021年10月17日 22時48分21秒 | 政治
 「55年体制」の時期の自民党政権は、よく「擬似的な政権交代」をしていたと言われる。岸から池田、佐藤から田中、田中から三木といった感じでタイプが違う首相に代わることで、国民に新しさを印象づけた。自民党内に左右の派閥があって様々な合従連衡の中で、目新しさを演出できたのである。一方21世紀の自民党では、森、小泉、安倍と清和会系の首相が続くようになった。それは何故だろうか。

 国際環境の変化も大きく影響しているが、それ以上に党内力学の変化が大きい。要するに「羽田派」離党の影響である。羽田派、小渕派が竹下派にまとまっていた時代には、党内最大の派閥だった。宏池会の宮澤喜一が政権に付けたのも竹下派が支持(というか容認)したからである。羽田派が離党してしまえば、党内力学がグッと右に寄ってしまう。もし羽田派が自民党に残っていれば、20世紀末に羽田政権や加藤紘一政権が成立していたのではないか。「変人」といわれた小泉純一郎は「何度も総裁選に出たけれど、首相になれなかった政治家」、つまり今の石破茂のような存在で終わったのではないか。

 では小沢一郎らは何故離党してしまったのか。そこで目指していたものは何だったのだろうか。そこでは「擬似的な政権交代」ではなく、「二大政党による本格的な政権交代」を目指していたのだと思う。一党支配が続けば、どうしても長期政権の緩みが出て来てスキャンダルが多発する。冷戦終結で「資本主義か社会主義か」というイデオロギー選択は決着した(と当時は思われていた)。それならば、今後は「経済界が支持する成長優先の党」と「労働界が支持する分配重視の党」が交互に政権につく政治体制が望ましい。

 そういう判断だったのではないかと思うし、その発想に意味はあったのかと思う。しかし、現実には自民党が強大さを維持している一方で、自民に反対する勢力は分断されている。冷戦終結とはいっても、東アジアでは冷戦構造が残り続けていたため、冷戦終結の恩恵を得にくかったという問題もある。一方で国内情勢を考えると、想定外の村山政権成立の影響が大きかった。93年8月に細川政権が成立した段階で、その翌年に自民党と社会党の連立政権が出来るなどと考えた人は誰もいなかっただろう。
(自社さ連立、右から橋本龍太郎、村山富市、武村正義)
 現実に94年6月に村山富市政権が成立すると、社会党内や支持者にも一種の高揚感が生じた。まさか社会党首班内閣が自分の生きている間に実現するとは思っていなかった支持者が多かったのである。もともと細川政権成立時の社会党委員長は山花貞夫だった。山花は政治改革担当相として入閣したものの、93年総選挙で社会党が惨敗(136議席から70議席へほぼ半減)した責任を取って委員長を辞任した。後任の村山富市は国対委員長が長い党内右派だが、周囲には小沢一郎への警戒感が強く、連立からの離脱を主導した。

 細川政権時には自民党が社会党の政策は内閣の政策と不一致だと攻撃していた。一方、社会党内では政権入りしても党独自の政策は譲るなという声が強かった。しかし、村山は首相としてはその説明では無理だと判断して、就任直後の国会演説で、日米安保条約肯定原発肯定自衛隊合憲など、旧来の路線から180度の変更を一方的に宣言した。(後に1994年9月の臨時党大会で追認した。)政策変更の内容とは別に、権力の座についたからと突然一方的に政策を変更したやり方は拙劣だった。各地で反基地、反原発などで長く住民運動を続けていた社会党員は突然梯子を外されたのである。

 村山首相は96年1月に辞任し、自民党の橋本龍太郎が後継となった。第1次橋本内閣はもちろん自社さ連立を受け継ぎ、副首相・蔵相に書記長の久保旦が就任した。(この時にさきがけの菅直人が厚生大臣に就任し、不明とされていた薬害エイズの資料が見つかるなどの実績を挙げた。)そして、96年10月に小選挙区比例代表並立制による初めての衆議院選挙が実施された。ところが連立を組んでいながら自社さ各党の選挙協力が成立せず、自民党は前首相の村山富市や衆院議長だった土井たか子の選挙区にも候補者を擁立した。

 社会党は96年1月に社会民主党に党名を変更していたが、この選挙では小選挙区で土井、村山、上原康助、横光克彦の4人しか当選出来ず、比例区の11人と合せて15議席に激減した。新党さきがけは党首の武村と園田博之の2議席だけで、比例区では1議席も獲得できなかった。田中秀征、井出正一なども落選した。小選挙区制を取る以上は自民党と連立を組んでも選挙協力を行わない以上は予想された結果だろう。この結果、両党は閣外協力に転じて、第2次橋本内閣は自民党単独内閣となった。(98年6月閣外協力も解消。)社会党は十分に準備されていない段階で連立を組んでしまって、自らを滅して自民党復権をもたらしたと言える。
(96年1月、社会民主党に党名を変更)
 96年総選挙は自民党と新進党の2大政党の対決と言われた。その中で選挙協力をせずに臨めばリベラル勢力の激減は予想されたことだった。そのため社会党とさきがけの一部議員は生き残りを賭けて新党結成を目論み、民主党(旧民主党)を結成した。鳩山由紀夫と菅直人が共同代表となり「鳩菅新党」と呼ばれた。社会党は一部地区で民主党への組織的合流を決め、民主党の中で生き残った社会党議員は多数にのぼる。北海道の横路孝弘鉢呂吉雄、東京の山花貞夫、愛知の赤松広隆らである。横路は民主党政権で衆院議長となった。

 社民党の大多数が民主党に移行した北海道では民主党の中に社会党議員が残っていく。一方で社民党がそれなりの勢力で残留した九州などでは、その後も民主党勢力が弱く自民党の強力な地盤となっていく。社民党残存勢力が強い地域では、民主党が弱いため自民党が圧倒するという皮肉な結果になったのである。新進党解党後に、小沢一郎らの自由党に移らなかった勢力(羽田、細川、岡田ら)は小党を経て民政党にまとまり、やがて民主党に合同した。このように保守系議員も大量に抱えた民主党は、社会民主主義を名乗ることは出来なかった。

 このようにして、日本では「社会民主主義」勢力が非常に弱体化してしまった。社民主義はもともとはソ連式共産主義に対抗して、議会主義によって富の再分配を目指す。政治、経済体制としては、資本主義の枠内でアメリカとの同盟関係を維持する。ドイツでは1959年にいち早く「ゴーデスベルク綱領」を採択して、階級政党から国民政党へと転換した。その結果、1969年にブラントによる社民党政権が成立した。(それ以前に1966年にキリスト教民主・社会同盟との「大連立」を経験している。)

 そのようなドイツでは今も社会民主党が強大な勢力として存在する。日本では社会党内にプロレタリア独裁を主張する社会主義協会の影響が強く、社民主義への転換が80年代になっても出来なかった。そのことが結果的に社会党、後継の社民党の衰退につながっていると考えられる。社会主義協会はマルクス経済学者の向坂逸郎(さきさか・いつろう)を指導者にしていたが、向坂らはソ連のチェコ侵入(1968年)や、ノーベル賞作家ソルジェニーツィンの国外追放(1974年)を支持していた。70年代の西側諸国では非常に珍しい教条的ソ連信奉者だった。そのような社会党の姿は、今では党内に多様性を容認できない極右勢力を抱え込んでいる自民党を思わせる。
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新生党の「人生いろいろ」ー93年政局考④

2021年10月15日 23時42分07秒 | 政治
 「55年体制」が終焉を迎えた直接のきっかけは、自民党の羽田派宮沢内閣不信任案に賛成したことである。長く自民党内最大勢力だった竹下派は1992年10月に「羽田派」と「小渕派」に分裂した。羽田派は反政権的姿勢を強めていき、約束していた「政治改革を実現出来なかった」ことから不信任案に賛成した。そのまま離党して「新生党」を結成した。参加したのは衆議院議員36人参議院議員8人合計44人だった。かつて「竹下派七奉行」と呼ばれた面々の中では、羽田孜小沢一郎渡部恒三奥田敬和の4人が参加した。
(新生党結党時)
 新生党の党首には羽田孜が就任し、小沢一郎が代表幹事になった。総選挙では現職35名、新人19名、元職2人が当選し、合計55名の大勢力となった。この選挙結果を見る限り、自民党離党は当時の有権者に受け入れられたと言えるだろう。その後、小沢が中心になって非自民8党派連立の細川護熙政権を成立させた。新生党は外相羽田孜、蔵相藤井裕久、農水相畑英次郎、通産相熊谷弘、防衛庁長官中西啓介と5人が入閣した。社会党6人、公明党4人だが、国政運営上の重要閣僚は軒並み新生党が独占した。自民党にいたら羽田派がこれだけ入閣することはあり得ない。新生党結党は短期的には大成功だったのである。

 細川政権では社会党が与党第一党だったが、政権運営は「与党代表者会議」を牛耳る小沢一郎新生党代表幹事と市川雄一公明党書記長に事実上握られた。当時この2人を「一・一ライン」と呼んだ。当時の社会党は日米安保条約反対、自衛隊違憲論者が多く、自民党は国会で内閣不統一と攻撃した。小沢らから見れば社会党の内部調整を待っていては、政策決定が遅れると思っただろう。連立内で一番左の社会党は何があっても連立を離脱出来ないと高をくくっていたのかもしれない。しかし、与党代表者会議が実権を持つことに官邸の武村官房長官も反発を強めていき、結果的に社会党・さきがけを自民との連立という奇手に追いやることになる。
(小沢一郎と市川雄一)
 細川首相が93年4月に辞意を表明すると、連立の枠組はそのままに羽田孜外相を首相に推すことになった。連立には自民党を離党した柿沢弘治らの「自由党」(高市早苗が所属していた)や鳩山邦夫らの「改革の会」(石破茂が所属していた)も加わった。しかし、社会党とさきがけは「閣外協力」に止まった。新生、公明、民社などは社会、さきがけを除いて、院内会派「改新」を結成し、社会党は露骨な社会党外しとみなして連立を離脱した。その結果、羽田内閣は過半数を失い少数与党となったため、不信任案可決が避けられなくなった。予算成立後に自ら総辞職して、その後に社会党と新党さきがけが自民党と連立した村山富市内閣が成立した。
(首相指名時の羽田孜)
 当時は小沢一郎に対する忌避感が社会党などに強かった。自民党幹事長時代から豪腕で知られたが、表に立つよりは裏での調整が得意で、入閣したのは第二次中曽根内閣(1985.12.28~1986.7.22)の自治大臣兼国家公安委員長だけである。新生党結党時の記者会見にも欠席し、宮沢内閣の官房長官だった河野洋平は「改革すべきはあの人たちの体質」と述べたという。(ウィキペディアによる。)1993年5月には著書「日本改革計画」を出してベストセラーになった。そこでは新自由主義的な経済政策や防衛力を含めた国際貢献を主張していた。そのため左派リベラル系には小沢と組むよりも河野洋平が新総裁になった自民党の方がマシと考える人が相当いたのである。

 羽田内閣の与党グループは野党転落後に「新進党」を結党した。1994年12月10日のことである。前日に新生党は解党したので、わずか1年半の短い政党だった。そして新進党も96年総選挙に敗北後に内部分裂が深まり、97年12月に解党した。その間、小沢の豪腕、あるいは黒幕的体質に期待したり、失望したりが繰り返される。結果的に新生党結党時の衆院議員36人のうち、半数近い17人が自民党に復党した。地方自治体の首長に立候補したり(青森県知事になった木村守男)、立候補しなかったり(松浦昭)などもいるので事実上半分以上と言える。

 自民党に復党しないものの、小沢と袂を分かった人も多い。首相となった羽田孜はその一人である。1995年の党首選では小沢と羽田が直接争って小沢が勝った。96年総選挙で新進党が敗北すると羽田との対立が深まり、96年12月に羽田らが離党して「太陽党」を結党した。奥田敬和熊谷弘畑英次郎北沢俊美(民主党内閣で防衛相を務めた)など衆参13議員が参加した。このグループの人はその後細川護熙らと民政党を結成し、やがて民主党に合流して自民党には戻らなかった。

 早く自民党に戻ったのは、愛知和男船田元石破茂(93年総選挙は無所属で戦い、後改革の会を経て新進党に参加したものの96年総選挙前に自民に復党)などがいる。船田元は新進党で羽田を支持し敗れた後、一時はさきがけの鳩山由紀夫とともに新党(鳩船新党)を結成しようと目論んだ。船田はリベラル系のイメージがあったためだが、当時新進党所属の参議院議員畑恵との「政界失楽園」が騒がれて、この構想は実らなかった。結局自民党に戻るが、その不倫問題でイメージが低下し、2000年総選挙で落選した。

 新進党解党まで小沢と行動を共にしたものは、大方は小沢と自由党を結成した。その時に自由党に行かなかったのは石井一岡田克也である。岡田は新進党解党に抵抗し、有権者への裏切りだと主張した。その後は民政党を経て、民主党に参加し、2003年の民主・自由の合併で再び小沢と同じ党になる。岡田は以後も民主党系勢力の中心者であり続けている。小沢の自由党は1999年1月に小渕首相の自民党と連立したが、2000年4月に離脱した。この時まで小沢に付いてきた議員の中でも、連立に残って保守党を結成したものが多かった。二階俊博はその一人である。また新進党解党後自由党に参加した野田毅加藤六月扇千景小池百合子西川太一郎らもこの時小沢と離れた。

 小池百合子のように日本新党から新進党、自由党、保守党、自民党となったものもいる。しかし、一応93年政局で新生党に参加した人で考えてみると、現在も政治活動を続けている人は以下のようになる。
自民党に復党したもの
 二階俊博、船田元、石破茂、江崎鐵磨、山本幸三
立憲民主党に所属するもの
 小沢一郎、岡田克也
無所属の参議院議員
 上田清司
地方自治体の首長に転じたため無所属のもの
 西川太一郎
参議院議員だったが、横浜市長選に立候補して落選中
 松沢成文

 一時でも新生党に所属した人で今も政治活動を続けているのは、多分以上10人だと思う。羽田孜、渡部恒三、奥田敬和、石井一、小沢辰男ら多くの人は亡くなった。長野4区当選の村井仁は93年に離党後、自民に復党し、さらに郵政法案反対で公認されなかった。ところが2006年に田中康夫の対抗馬として長野県知事に擁立されるという浮き沈みの激しい政治人生を送った。振り返って思うのは、小沢一郎への「期待」と「幻想」、「幻滅」と「対立」で多くの政治家の人生が翻弄されたということである。翻弄される方にも問題があるから小沢一郎一人の問題ではないと思う。小沢だから何かしてくれるだろうなどという幻想を一度も持ったことがないから、僕にはよく判らない。

 まだ全体的な評価が難しい「政界の惑星」だったと思う。小沢とは文京6中時代の同級生という西川太一郎でさえ最後は離れた。それでも付いていく人もいる。魅力と迷惑が同居しているのかもしれない。
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日本新党とは何だったのかー93年政局考③

2021年10月13日 23時33分58秒 | 政治
 日本新党という政党があった。1992年5月に結成され、1994年12月に解党したから、僅か2年半ほどの短い期間しかない。国政選挙には92年参院選93年衆院選の2回しか参加していない。大体名前もおかしい。普通は政党の理念を党名に付けるわけだが、「日本新党」というのは単に新しいということしか表明していない。しかし、この党は日本の現代史に大きな影響を与えた。93年政局において、党首の細川護熙(ほそかわ・もりひろ)が衆院当選1回にして内閣総理大臣に指名され、35年以上続いた自民党内閣を終わらせることになったのである。

 そもそもは前熊本県知事だった細川護熙が1992年5月の「文藝春秋」に「『自由社会連合』結党宣言」という論文を掲載したことにある。細川は55年体制打破を掲げて新党を結成し、参議院選挙に臨むと表明したのである。政策の一番目に「地球環境問題への貢献」があることで判るように、自民党、社会党の「冷戦的枠組」にとらわれない新しい政党という方向性があったのである。

 細川護熙(1938~)は肥後熊本藩主細川家の18代目当主で、父の細川護貞は戦争末期に高松宮の御用係を務め「細川日記」(「情報天皇に達せず」)を残した。(母は近衛文麿の次女。)上智大卒業後に朝日新聞記者になった。その後政治家を志し、1971年の参院選全国区で自民党から出馬して当選した。(田中派に所属。)1977年には熊本選挙区で再選されたが、1983年に熊本県知事に転じて2期務めた。知事時代は全国的に注目される実績を残したが、「権不十年」(同じ権力に10年以上付くべきではない)として1991年に退任した。知事時代に中央集権的な日本政治を改革するべきだと実感したと言われる。

 日本新党に注目が集まったのは、この細川の知名度や実績、あるいは「家柄」などがあったのは間違いない。しかし、それに止まらず、イデオロギーよりも「環境」「地方」を重視する平和志向の穏健保守路線が90年代にフィットしたところも大きい。さらに当時ニュースキャスターとして知名度が高かった小池百合子を候補者にリクルートしたことも大きかった。(もっとも小池優遇に反発してテニス選手の佐藤直子が出馬を辞退するような出来事もあった。)92年の参院選では比例代表区に候補を立て、一挙に4人が当選した。当時は拘束名簿式で1位の細川、2位の小池に続いて、3位の寺澤芳雄、4位の武田邦太郎までが当選した。(翌年細川、小池が衆院に転出し、小島慶三円より子が繰り上げ当選した。)
(参院当選時の日本新党)
 こうして国政政党として認知され、翌1993年の衆議院選挙では55人の候補者を擁立した。政策に共通する新党さきがけとは棲み分けし、議席ゼロから一挙に35人が当選した。これは自民、社会、新生、公明に次ぐ第5党だった。新党さきがけは13議席で、両党で共同の院内会派「さきがけ日本新党」を結成した。93年選挙では自民党は(新生党、さきがけが離党したため)大きく過半数を下回ったが、実は1議席増やして223議席だった。社会、新生、公明、民社、社民連を合せても195議席だったから、「さきがけ日本新党」がキャスティングボートを握ることになった。そこで「小選挙区比例代表並立制への選挙制度改革」を双方に提示し、両勢力ともに受け入れた。さらに小沢一郎が細川政権構想を打ち出し、結局「非自民政権」が樹立されることになった。
(衆院初登院時の日本新党)
 こうして細川政権が成立したが、これは小沢一郎の「軍師」としての最高傑作だろう。自民党の方が勢力が大きいのだから、その気になっていたら自民政権が継続することもあり得たと思う。というか、憲政の常道としてはその方が正しいのではないか。しかし、自民党はまだ55年体制に安住したままだったので、小沢一郎にしてやられたといったところだろう。細川内閣はさきがけ代表の武村正義を官房長官にし、社会党6人、公明党4人が入閣したが、外相は羽田孜、蔵相は藤井裕久、通産相は熊谷弘など重要な閣僚は新生党が占めていた。

 細川政権は当初は非常に新鮮な感じがあった。発足直後の8月15日には日本の戦争について首相として初めて「侵略」と認めた。しかし、結果的に細川政権は短命だった。1994年1月に「政治改革法案」が成立すると、急速に求心力を失い、官房長官の武村と公然と対立した。自民党は佐川急便グループからの借入金問題を追及し、4月8日に細川首相は辞意を表明した。さきがけとの院内会派は解散したが、親さきがけグループは離党して日本新党は分裂していく。細川後に新生党の羽田孜が首相になるが、社会党以外が共同の会派を結成したことに反発して社会党が連立を離脱した。その後、6月に社会党委員長をさきがけと自民党が支持する村山富市内閣が成立した。

 小沢一郎らは自民党の元首相海部俊樹を首相候補に擁立して、社会党委員長には投票できないと思う自民党議員に働きかけた。結局は敗れたが、海部支持グループで大同団結することになり、新生党、日本新党、民社党などは解散して94年12月に「新進党」を結成した。(公明党衆議院議員も参加したが、参議院と地方議員は「公明」として残しておいた。)新進党のことは別問題になるからここでは取り上げない。では日本新党議員はどう行動したのだろうか。全員が新進党に参加したわけではなかった。

 現在まで政治活動を続けている政治家を中心に、どういう行動があったのかみておきたい。
新進党に参加した後で、自民党に入党したもの
 伊藤達也(元金融相、2021年総裁選で河野太郎陣営の選対本部長)
 鴨下一郎(元環境相、石破派事務総長を務め、今回で引退)
 山田宏(元杉並区長、一時維新で当選、現在自民党衆議院議員)
 小池百合子(現都知事、元環境相、元防衛相)
新進党に参加せず、無所属を経て自民党入党
 茂木敏充(もてぎ・としみつ、現外相)
さきがけに入党し、その後民主党に参加したもの
 枝野幸男(現立憲民主党代表)
 海江田万里(現立憲民主党、元民主党代表)
 荒井聰(現立憲民主党、今回で引退)
 前原誠司(現国民民主党、元民主党代表)
新進党に参加し、その後民主党に入党したもの
 野田佳彦(現立憲民主党、元首相)
 長浜博行(現立憲民主党)
 河村たかし(現名古屋市長)
その他
 中村時広(現愛媛県知事、新進党で落選し、松山市長に転じる。)
 矢上雅義(新進党で当選、新進党解党後に自民入党、落選して熊本県相良村長。2017年立憲民主党から当選。)

 ④のタイプは本当はもっと多いのだが、藤村修、鮫島宗明など引退した人が多い。樽床伸二は落選中。中田宏も自民党参院議員に立候補して落選。結局、上の一覧にある人だけが今も政界に残っているのだが、日本新党は自民党にも、立憲民主党にも人材を送り出したことになる。両方のタイプが政治の世界に進むためのステップとして、「日本新党」を利用したということだろう。細川政権では総理を出したわけだが、当選1回では大臣など重要な役は回ってこない。厳しい政局を生き抜いて、自民、民主のどちらかに賭けて、21世紀に首相や党首級になった人が多く出た。短命の小党としては異例なほど、重要な政治家を生んだと言えるだろう。
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