尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ルーム」と「光りの墓」

2016年04月29日 23時11分33秒 |  〃  (新作外国映画)
 ちょっと前に見た新作映画の話。ホントは昨日書くつもりが、参院選の話が思わず延びてしまった。今日は昔の映画をレイトショーで見るつもりだったけど、強風が吹き荒れていて、疲れも残っていたので、出かける意欲を失ってしまった。

 さて。まず「ルーム」。今年のアカデミー賞の主演女優賞映画で、他にも作品、監督、脚色部門でノミネートされた。オスカー映画が続々と公開されているが、そろそろ見ておかいないと。冒頭、若い女性と幼い子供が狭い場所でともに暮らしている。その不自然な様子が動き回るカメラで捉えられている。それは何だというと、知らないで見れば判らないかもしれないが、見ている人は映画の情報を事前に知っているはずである。これは若い女性が誘拐されて閉じ込められている「納屋」で、子どもはそこに閉じ込めている、時々食料などを差し入れる男、つまり誘拐犯の子である。

 そこからの母子の生活、子どもの脱出、母の救出というドラマは凄まじいまでの迫力に満ちている。脱出できるのは多くの事前情報で知らされているが、知っていても緊張して見ることになる。だから、ここでも書いておくが、この映画は「脱出」だけを描く映画ではない。「サヴァイヴァーのその後」を描くことで、本当に重要な映画になっている。むしろそっちが映画の醍醐味と言えるだろう。

 主演のブリー・ラーソンは、間違いなく一世一代の演技。この人は誰と思ったら、このブログでも紹介した「ショート・ターム」の主演をしていた人である。監督のレニー・エイブラハムソンはアイルランドの人で、この映画もカナダ・アイルランドの合作映画。合衆国のどこかの田舎かと思って見たけど、カナダのトロントで撮影されたという。エマ・ドナヒューという人の原作は日本でも翻訳されているが、原作者自身が脚色している。幼い子供に「世界」をどのように理解させていくか、繊細な情感を見事に描いていて、心の奥深いところを揺さぶられる映画だった。その意味では見ておくべき映画。

 だけど、日本でも外国でも、現実に似たような犯罪も発生している。そのことを考えると、なんだか複雑な感じを覚えてしまう。単純にフィクションとして見ることができない。この映画は「犯罪被害者」に寄り添うことで成立しているが、犯罪は「犯人」なくして起きない。映画でも犯人は出てくるが、犯人側の「内面」は判らないし、どういう背景があるか不明である。映画としてはそれでいいと思うが、どうしてこのような犯罪が起きたのか、背後に存在する「闇」の大きさにたじろぐ思いがする。

 続いて、タイの映画「光りの墓」(2015、英語題 Cemetery of Splendour)。「ブンミおじさんの森」でカンヌ映画祭パルムドールを取ったアピチャッポン・ウィーラセータクンの新作映画である。日本人には覚えにくい長い名前の監督だが、前に2本見ている。今年初めに特集上映があった時は、時間が取れなくて見逃してしまった。「光りの墓」は5月6日まで渋谷のシアター・イメージフォーラムで。

 「ルーム」と違って、物語というほどのストーリイもない映画だけど、好きな人にはものすごく面白いと思う。タイ映画はけっこう日本で上映されていて、僕もエンタメ系の映画をずいぶん見ている。タイは初めて行った外国で、言葉の響きがフランス語のように素晴らしく聞こえる。タイ語の響きを聞きたくて、タイ映画を見にいくこともある。だけど、完全にアート系映像作家であるアピチャッポン・ウィーラセータクンは、訳が分からないという感じがつきまとう。疲れていると寝てしまいそうな映画。

 でも「光りの墓」は傑作である。イサーン(タイの東北地方)で軍に謎の眠り病が流行っている。仮設病院では不思議な光を放つ菅を設置して治療している。ボランティアで病院で眠ったままの兵隊につきそう女性ジェンは、眠る男の魂と交信できる不思議な女性ケンと知り合う。そして、二人を中心に不思議な出来事が起こっていくのを映画は静かに見つめていく。死者も生きているような、不思議に満ちたスピリチュアルな世界。だが、それは安らぎに満ちた世界で、決して怖いものではない。死者が生きているように出てくる映画は日本にも多い。去年の映画では「岸辺の旅」「母と暮らせば」などが思い浮かぶ。この映画の世界は、風景も懐かしく、死が決して怖くないもので、あの世に帰っていくというような世界に思える。そういう世界観もあるという風に思えば、これはとても美しい映画だと思う。
 
 イサーン地方は監督の故地でもある。事前に流れる監督のビデオでは「タイは今、軍事政権」とも語っている。タクシン派の基盤でもあるイサーンで、軍人が眠り続けるというのは、タイ社会に対する一種の寓意でもあるらしい。だけど、僕が思い出したのは、小栗康平の「眠る男」である。もうあまり覚えていないけど、「眠る男」では眠り続けるアン・ソンギは決して起きることはない。リアリズムの世界だけど、アピチャッポンの映画では眠る男も起きあがって語る。もっと不思議なんだけど、イサーン地方の風景も心に沁みて、不思議に感じないというのが、そこが面白い。タイ映画では、もうすぐ「すれ違いのダイアリーズ」が公開予定で、こっちも楽しみにしている。タイに限らず、東南アジアの映画が好きで、政治的、経済的なつながりという意味でも、もっと知っておきたいと思う地域である。
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岩井俊二「リップヴァンウィンクルの花嫁」

2016年04月27日 21時37分12秒 | 映画 (新作日本映画)
 岩井俊二監督の日本での実写長編映画は、何と「花とアリス」(2004)以来12年ぶりだという。もはや映画監督を超えた活動を行っていくのかとさえ思っていた岩井俊二が突然、大長編映画を発表した。それも3時間にも及ぶ大長編で、ものすごく面白く、紛れもない傑作映画である。それが「リップヴァンウィンクルの花嫁」で、ずっと気になっていたが時間的に体調がよくないと見る気が起きない。ようやく昨日見たのだが、言われてみれば黒木華(はる)の初主演映画なのである。

 皆川七海(黒木華)は大学を出たが、正規の教員に合格せず非常勤講師をしている。ネットで知り合った男性と結ばれ、結婚に至る。「ライン」では「クラムボン」と名乗っていて(そう、宮沢賢治ファンなのである)、「結婚相手さえネットでクリックして見つける時代なんだね」といったようなことを書き込んでいる。夫(教員)はそれを見て、こんなこと書いてるヤツいる、お前じゃないよななどと言ってる。七海は声が小さく、教室の後ろまで声が届かない。生徒がマイクを使って下さいと持ってきて、つい使ってしまう。それで解雇されてしまうが(その事情は最後に触れる)、夫の母親は「仕事続けるのか?」などといい顔をしていなかったので、生徒には「寿退社」みたいに言う。といった具合に、ネット社会の人間関係を風刺するような映画かと思わせて出発するのだが、実はそれは単なる序章にしか過ぎない。

 七海の父母は離婚していて、親せき付き合いも少ない。夫の方は親族が結婚式にいっぱい来るので、釣り合わないと言われる。何とかならないかと強く言われて、その悩みをネットに書き込むと、安室綾野剛)という便利屋が応答し、今はレンタル親戚がいますよと言われる。そこでつい頼んでしまうが、以後、この安室が神のように、あるいは悪魔のように七海の人生を揺さぶっていくのである。七海の夫が自分の彼女と不倫していると詰め寄る男が現れる。この男は「別れさせ屋」らしく、これも安室の仕掛けらしい。七海は罠にかけられて、夫の母から離婚を迫られる。以後、ホテルの清掃をしながら、また安室の紹介で自ら「レンタル親戚」になる。そこで里中真白Cocco)という女優と知り合い…。ということをいくら書いていても、この物語の行く末は見えてこない。

 美術や音楽、舞踏などは身体で感じるということでいいけど、小説、劇、映画などの多くは「物語」になっているから、受容側も「意味」や「起承転結」を考えてしまう。意味なんかなくてもいいんだろうけど、見ている間は「この物語は何なんだろう」と思ってしまうのは避けられない。七海を狂言回しにして現代社会をめぐっていくが、この波乱万丈の行く末はどこにあるのか。お城のような洋館に「メイド」として雇われると、そこで真白と再会する。そして、だんだん真白という女性の真の姿を目にすることになる。ここまででも十分に面白いけど、実は2時間以上経って真白と再会して以後が、この長大な物語の眼目なのである。「リップヴァンウィンクル」とは真白がネット上で名乗る名前で、七海は真白と深く魂で結ばれていくのである。最後の最後に題名の由来が判る。

 そしてラスト近くで、真白の母親に七海と安室が会いに行く。この真白の母をリリィがやっている。「私は泣いています」の歌手を大島渚の「夏の妹」以来、何度かスクリーンで見てきたわけだが、この映画のほんのちょっとしたシーンは実に凄まじい。短い出番だけど、ぶっ飛んでいる。「花とアリス」は高校の文化祭などを延々と見せながら、最後にまだ10代の蒼井優がラストのバレエシーンで「降臨」してくるのを見る映画だった。同じように、この映画も七海の流れゆくさまをピカレスクロマン(悪漢小説)風に描きながら、ラストに至って現代人の孤独と叫びを圧倒的な情感で描き出す映画だと判るのである。

 こんな映画を前にも見たなあと思うと、それは安藤桃子の「0.5ミリ」や濱口竜介の「ハッピー・アワー」だった。長いけど面白く、一体この物語はどこに行きつくのかと思いながら、最後にこれが現代を行きる人々だと圧倒的なパワーで示す。ただ、現実を描き出していく先の2作に比べて、この映画は話の進行が極端で、寓話的、風刺的な展開になっている。その分現実性は薄いけど、「ありえなそうな展開」の持つ物語性が楽しめる。題名の「リップヴァンウィンクル」とは、アメリカ版浦島太郎の名前で、ワシントン・アーヴィング(19世紀初頭のアメリカ建国初期の作家)の「スケッチ・ブック」に収められている。(岩波文庫に翻訳がある。)真白がどうしてこう名乗ったのか、推察すると悲しくなる。

 岩井俊二(1963~)の事を書いていると長くなるが、テレビから登場して1995年に「Love Letter」で劇映画デビューした時の興奮は今も記憶に新しい。後にアジア各国で大ヒットする、いわば「Jシネマ」の代表作と言える映画で、僕はその巧緻な作りと痛切な悲哀に驚嘆して何回も見たものである。その後の「スワロウテイル」(1996)や「リリイ・シュシュのすべて」(2001)までが素晴らしい。その後アメリカで「ヴァンパイア」という映画を作ったり、音楽ビデオ、テレビCM、小説、写真、音楽活動などマルチな活躍をしていた。驚くべきことに「復興支援ソング」という「花は咲く」は岩井俊二の作詞なのである。

 いずれの映画も「たくらみ」の魅力に満ちている。また「Love Letter」の中山美穂、「四月物語」の松たか子、「花とアリス」の鈴木杏と蒼井優など、明らかに女優の存在にインスパイアされた物語が多い。今度の映画も明らかに黒木華あっての映画で、黒木華という女優を現代日本に漂流させてみたいという思惑があるだろう。それは見事に成功したと思う。気が早いけど、今年の映画賞において、黒木は主演女優賞、綾野とCoccoは助演男女優賞の有力な候補になると思う。

 ところで、先に書いたように黒木演じる七海は、声が小さく、教師を解雇される。どういう意味かというと、私立学校に「派遣会社」から派遣されているのだと思われる。学校の意向を受け、会社側が契約解除とする。公立学校の非常勤講師なら、こうも簡単に首を切れないだろう。およそ、教師が派遣会社から派遣されるなどということ自体があっていいのだろうか。それでは学校において、他の同僚や生徒ともに「育っていく」ということができない。映画そのものの問題ではないが、非常におかしなことだと思う。と同時に「声が届かない」教員が一部に存在するのも間違いない。今は「模擬授業」を採用試験で行うので昔より少ないような気がするが。前にこのブログで書いたように、教員養成で「発声訓練」「演劇レッスン」を必須にするべきだと思う。子どもの声なき声、身体言語を読み取るためにも、役立つだろう。ところで、黒木華は「幕が上がる」でも「ソロモンの偽証」でも教師を全うできなかった。「母と暮らせば」でも教師だけど、学校の様子は映像では出てこない。今度もダメ教師だけど、一度ちゃんとした学校映画で教師役を演じて欲しい気がする。誰か作って欲しいなあ。
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映画「無伴奏」をめぐって

2016年04月25日 21時54分45秒 | 映画 (新作日本映画)
 小池真理子原作、矢崎仁司監督の「無伴奏」が公開されて、もうすぐ上映も終わりに近づいている。こういう「60年代青春映画」はつい見てしまうのだが、まあ、そこそこ面白かった。あまり評判にもなってないようだし、実際そんな傑作とは思わない。でも、当時のムードがうまく再現されていて、懐旧的なムードにひたることができる。「あの頃」は一体なんだったのだろうと思わされる。

 「無伴奏」というのは、仙台に昔あった「バロック喫茶」の名前だという。「バロック喫茶」というのは、つまりはバロック音楽のレコードを掛けている喫茶店。「名曲喫茶」とか「ジャズ喫茶」というのは知ってるけど、バロック音楽に特化しているようだ。二人掛けの席が並んでいて、しゃべる時はヒソヒソ声でささやく。多くの席は一人で来て本を読みながらタバコを吸っている若者である。この喫茶店のセットは、原作者が認める再現度らしい。(名前の由来は当然バッハの「無伴奏チェロ組曲」なんだろう。)

 仙台の女子高生・野間響子(成海璃子)は、親や学校に反抗して高校で「制服廃止委員会」を結成する。冒頭は仲間3人で、教室の前で制服を脱ぎ捨てるシーン。仲間に連れられて、「無伴奏」に行き、いつもパッヘルバルの「カノン」をリクエストする堂本渉(池松壮亮)という青年と知り合う。堂本は有名な和菓子屋の息子だが、家を出て友人の関祐之介(斉藤工)とお寺の離れの茶室で暮らしている。祐之介には高宮エマ(遠藤新菜)という恋人がいる。いつの間にか、渉に惹かれていく響子だったが、渉は謎めいていてなかなか近づけない感じもある。渉の「美しすぎる姉」(松本若菜)、4人で行った海の思い出、うっとうしい父親(光石研)と優しい叔母(藤田朋子)、卒業式粉砕闘争…いろいろな謎を散りばめながら、時間はラストの悲劇に向って流れていく。

 僕は原作を昔読んだと思うけど、すっかり忘れていた。だけど、「ミステリー」的な意味では途中で多分そうなんだろうなあと判る展開。69年、70年という時点では「衝撃的」とも言えるが、今ではそれほど衝撃を受けない。小池真理子は、似たような感じの政治と恋愛を背景とした「傷つく青春」のロマネスクな物語をいくつも書いている。直木賞受賞作の「恋」とか、「欲望」「望みは何と訊かれたら」などの方が重層的な深みのある構造になっている。何と言っても、「無伴奏」は主人公は女子高生なので限界がある。でも、その設定は作家本人の自伝的部分でもあるので、やむを得ないわけである。その「初めて世界を知って、深く傷つく」というところに物語の焦点がある。 

 全編にわたって「カノン」が流されていて、悲劇の予感を高めている。響子はデモにも参加し、文学や思想も語る。難しそうな本も読んでいるが、「資本論は判らない」し、「隠れサガンファン」である。17歳で世界的ベストセラー「悲しみよこんにちは」を書いたフランソワーズ・サガンは、当時の若者の多くが読んでいた。フランスの若い女性作家というだけで、「日本脱出」の象徴だったのである。(サガンの訃報が伝えられた時に、小池真理子は追悼文を書いている。)そんな響子のあり方は、「ムードだけの反体制」と言えるものだけど、ツケは払わされる。その痛みにどの程度共感できるかがカギになるが、僕は不十分な感じがしたし、全体にムード優先のきらいを感じた。

 主人公の響子は、進学校にいて、家も大学進学を当然視している。親は仕事の都合で東京に転勤し、響子は一人でピアノ教師の叔母の家にいる。世界のさまざまな矛盾に反抗するのはいいけど、響子の境遇は恵まれている。その自分の位置を問い直すことはしない。この悲劇の展開を唯一防げたかもしれない響子は、ただ見過ごすだけで、傷を負って町を去る。それが「若い」ということだとは言え、その重さを背負って生きて行かなくてはならないだろう。

 この時代には、当然ながら「携帯電話」がなかった。だから、いざという時は家に電話する。親(またはそれに代わる保護者)が出るのである。だから滅多に掛けられないし、掛けるには勇気がいる。それだけに非常時に使うことが多く、この映画でも電話の呼び出し音は禍々しい予感を見る者に感じさせる。すぐに手が出る父を見れば、反抗したくなる気持ちも判るが、こうした親が昔は普通だったのだと思う。(光石研は「お盆の弟」「恋人たち」など最近よく見かけるが、存在感がある。)

 一方で、なんであの頃は皆がタバコを吸っていたのだろうか。背伸びして吸い始めたまま、依存症になってしまったのだろうか。そのせいで、70年代ころの学生運動、労働運動を経験した「左派」の運動家には今でも喫煙者が多いのではないか。21世紀になって、「市民運動」で喫煙している人はほとんどいなくなったと思うが、昔ながらの「左派」が喫煙しているわけである。見ていても煙い画面が続くが、あれがあの頃の風景だった。学校でも、もちろん禁止ではあるけれど「禁煙指導」なんかなかった。

 反原発集会なんかに、「制服向上委員会」というグループがよく出てくる。昔から不思議なんだけど、なんで「制服廃止委員会」じゃないんだろう。僕も「制服廃止」を言ってたクチで、実現は出来なかったけど、まさか何十年もたって「制服がカワイイ学校に行きたい」という生徒が出てくるとは思わなかった。もっとも自分だって「服装指導」なんかする仕事に就いてしまったわけだけど。まあ、高校生が「世界革命」とか「大学は帝国主義的支配の道具」とか言ってたのは、やっぱり無理があった。だけど、この映画のムードに懐かしいものがあるのは間違いない。

 矢崎監督は1956年生まれで、1952年生まれの小池真理子と「同世代」と書いてある資料があるが、それは違う。最低限「高校紛争」に間に合わなかった世代は「遅れてきた青年」であり、この時代の1、2年は決定的な違いとなる。1952年生まれの村上龍(早生まれ)や小池真理子は、高校で「紛争」を起こせた世代である。だけど、大学紛争には遅い。1949年(早生まれ)の村上春樹、1951年(早生まれ)の高橋源一郎などがその上の世代ということになる。また、住んでた場所や親の階層なども大きいが、とにかくほんのちょっとした年齢差が大きな違いとなる時代だったのである。
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パレスチナ映画「オマールの壁」

2016年04月23日 23時13分13秒 |  〃  (新作外国映画)
 「パレスチナ映画」として作られた「オマールの壁」(2013)が公開されている。パレスチナ映画として世界的に評価された映画に、「パラダイス・ナウ」(2005)というのがあった。アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたことで有名。あれは自爆テロに向う若者たちを等身大に描いた「問題作」であり、傑作だった。「オマールの壁」は、その「パラダイス・ナウ」を作ったハニ・アブ・サイド(1961~)の新作で、これもアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞の外国語映画賞を受賞した。去年公開のチラシを見てぜひ見たいと思いつつ、なかなか公開されなかった。小規模公開で気付かないうちに終わってしまったかと思い、ネットで検索しても情報がなかった。ようやく今月16日に、アップリンク配給で、渋谷アップリンクと角川シネマ新宿で公開されたわけである。

 アカデミー賞の主要部門受賞作など、見ておきたい映画がたくさん公開されている。しかし、そういう映画はまだまだ上映していそうだし、「オマールの壁」は時期を逃すと見逃すかと思い早めに見ることにした。「社会派」的な「世界情勢お勉強」映画に止まらない、人間をじっくりと見つめた名作だった。アメリカでも評価されるはずである。(上映館が小規模なので、新宿の今日の14時15分の会は満席だった。休日はネット予約してから行った方がいいだろう。)

 舞台は「ヨルダン川西岸」の町。(1967年の第3次中東戦争以来、イスラエルが占領している土地。)そこはイスラエルが築いた「分離壁」がイスラエルとの間を閉ざしている。パン職人のオマールは、時々その壁をロープで越えて恋人のナディアに会いに行く。監視塔から銃撃される可能性のある、命掛けの行動である。ナディアは幼なじみのタレクの妹で、同じく幼なじみのアムジャドもナディアが好きらしい。3人は実は抵抗組織の一員で、射撃訓練も行っている。オマールはナディアとの結婚を夢見つつ、リーダーのタレクの指示によりイスラエル兵を銃撃する。ところが、その後イスラエル軍に捕まり、過酷な拷問にさらされる。イスラム系組織の一員として接触してきた囚人に「自白するな」と言われて、「自白は絶対しない」と答えると、実はそれが録音されている。イスラエルの裁判では、それが自白となり懲役90年になると言われ、タレクの居所を知らせれば釈放されるという。

 こうして、オマールはイスラエルの「協力者」にされるが、実はタレクと協力して「待ち伏せ」するつもりである。だが、まわりはナディアも含めて、オマールはスパイになったのではないかと疑う。そして「待ち伏せ」も失敗して、タレクは逃げるがオマールは再び捕まり、拷問にかけられる。オマールを操るイスラエル当局のラミは、ナディアの秘密を握っているといい、再びオマールを釈放する。その「秘密」とは何か。オマールはアムジャドに会いに行き、そしてタレクにあって確かめるが、その時に思わぬ悲劇が起こる。オマールは「信頼」を完全に失ってしまうのだった。そして、2年後に…。

 これはパレスチナという特別に悲劇的な土地をめぐって展開されるけれど、同時にもっと普遍的な「愛と裏切り」の物語である。デニス・ルヘイン原作で、クリント・イーストウッドが映画化した「ミスティック・リバー」も、幼なじみの3人組が大きくなって再会した時に、大きく立場を変えているという設定になっていた。この「オマールの壁」の3人は、それと少し違い、志も同じくし、皆がそれぞれにナディアを思っているのだが、それが思わぬ悲劇につながっていく。それはもちろん「イスラエルの占領」という背景があるからである。「壁」に引き裂かれたオマールたちの焦燥と恐怖は、世界に通じるものだ。と同時に、人はどこでも「愛」をめぐって行動し、そして間違った行動を続けてしまうということもよく判る。だから、「愛」と「後悔」の物語でもある。ラストのオマールの行動は、まさに「命を懸けた愛の行為」だったと思う。

 この映画の若者はイスラーム過激派ではなく、自爆テロは行わない。正面からイスラエルに抵抗するというのが、タレクたちの考えのようだ。オマールも普通の時はパンを作っている職人として描かれている。パレスチナ社会では(というか、欧米と東アジアを除く世界で)、結婚前のセックスはタブーである。だから、若い男は好きになった女性がいると、早く結婚したいと思う。もちろん、タブーを破るカップルもいるだろうが、社会的な制裁を覚悟しないといけない。それがこの映画の悲劇の原因でもある。政治的に、経済的に、パレスチナは大変な状況にあるけれど、そこで生きている若者には、抵抗運動とともに愛やセックスが大問題である。当たり前だけど。それにしても「壁」の威圧的な存在感はすごかった。
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役所は壊れても、学校は壊れなかった!?

2016年04月22日 23時27分57秒 |  〃 (震災)
 熊本の大地震から一週間ほど経つが、未だ余震が続きながら、大分県や県南部の方にも広がる気配もある。一方でインフラの復興も少しづつ進み、物資も届きつつあるようだ。空港も再開し、鹿児島本線も全線で開通している。九州新幹線は、新水俣以南が開通し、博多―熊本間も明日には開通する。こういうニュースを聞くと、東日本大震災の時もそうだったけど、多くの関係者の不眠不休の復旧作業があったんだろうなあと思う。その前提として、社会インフラの多くが基本的にしっかりと作られていて、完全に崩壊したわけではないんだと思う。「当たり前のことを当たり前にしっかり仕事をしていてくれた先人」のおかげである。まだ熊本駅から新水俣駅間が不通だし、大分県に通じる在来線も見通しが立たない。高速道路もまだである。いろいろ大変な部分もあるとしても、「緊急事態」期から「今後を見通した中長期的展望を考え始める時期」になってきたということだ。

 今回は「続けて2回の震度7を記録する」という、歴史上に類例がない揺れを記録した。だから、一度目の地震に耐えた家屋が2回目で倒壊したりした。写真で伝えられた「宇土市役所」の状況にもビックリした。宇土市だけでなく、八代市、人吉市、益城町の4自治体の役場庁舎が使用不能になっている。救援、復興の司令塔になるはずの役場がつぶれてしまった。だけど、考えてみれば学校はそこまで壊れなかった。2回の地震はいずれも夜に起こったので、学校が倒壊しても子どもに被害が出たはずがない。そうだけど、役場が大丈夫なのに学校が倒壊したら、猛烈な非難にさらされただろう。

 東京新聞では「地震で役所壊れても学校無事 中国ネット上で熊本の自治体に称賛」(4.21朝刊)という記事があった。中国のネット上で、「『市の財政が厳しい中、庁舎より学校の建て替えを優先した』という宇土市民の声も紹介され、『役人の既得権や治安維持が優先される国とは大違い』『日本のような地方政府だったら、四川大地震でどれだけの子どもの命が救われたことか』との意見もあった。」とのことだ。別に日本社会だから素晴らしいわけではないだろう。「普通選挙」で市長を選ぶわけだから、学校の耐震化をさておいて、市役所を建て直したりしたら、当選がおぼつかない。批判も出てくるし、それを報道する自由もある。「選挙」と「報道の自由」が何よりも大切なのである。普段は当たり前すぎて気づかないけれど、実はそういう「民主主義の仕組み」が世の中を支えているわけである。

 中国の習近平主席は、2014年のAPEC時のオバマ米大統領との会談で、「我々の民主に対するこだわりは“一人一票”に限らない」と述べたそうである。でも、やっぱり「一人一票」が大切なのであると思う。時に人気取り的な政策が出てくるとしても、どんな人でも投票権があるということが重要なのである。だけど…「一票の価値の格差は」「日本の報道の自由は」といくらでも話は広げられるけれど、ここでは中国や日本の政権批判のために書いているわけではないので止めておく。

 そもそも、その日本でも「震度7」が2回くるということも想定されていなかった。だから、学校も倒壊まではしないまでも、ひび割れなどが相次いだ。避難所になっていた学校が閉鎖されたりしている。これは全く想定外で、学校というところは「大災害時には避難所になる」と教員も思っているし、地域住民も思っている。それなのに…ということで、全国的にも大きな影響を与えるのではないかと思う。

 また、熊本城の石垣が崩れたり、しゃちほこが落ちたりしたのも驚きだった。加藤清正が築城した熊本城は、明治10年の西南戦争で焼失した。昭和30年(1955年)に再建されたということだが、その際当然のこととしてコンクリ製になった。木造建築の城に比べて重いということも、石垣に負荷を掛けてきた可能性もあるという。東日本大震災で被災した福島県白河市の小峰城の復元が進められている。(白河藩というのは、松平定信の居城だったところで、僕も行ったことがある。)今回、熊本城の復元に関して、小峰城の経験が役立っているという。具体的なアドバイスも行っているようだ。ニュースを検索していたら、「石工職人・遅澤晴永さん」の話というのが出ていた。「昔、(石を)積んだ人の積みグセがあるのでそれを忠実に再現する。しかも再び崩落しないように強度を保ちながら復元しています」。いやあ、すごいなあと思う。こういう職人さんがいて、「文化」が継承されていくということだろう。
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日光で桜を見る

2016年04月21日 22時29分04秒 | 旅行(日光)
 19、20に日光旅行。日光には昔から何度となく行ってきたが、そう言えば4月は行ったことがなかった。春休みとGWの間は観光客が少ない。そういう時期に行ってみると、ここも外国人客の方が多い感じ。ちょうど桜のシーズンで、この時期もいいなと思った。いつも通り奥日光の湯元温泉でノンビリが主眼で、ちゃんとハイキングする気はない。桜を初め、花が一斉に咲き始めていたが、山の新緑はまだ。雪は山の上の方に少し残っている。樹林帯が遠くまで見通せる季節である。

 市内は翌日にブラブラ歩こうと思って、まず世界遺産のあたりへ。東照宮も輪王寺も何度か見てるから、もうタダの領域しか歩かない。歴史散歩じゃなくて、桜散歩なので。輪王寺の三仏堂の前に金剛桜というのがあり、山桜の突然変異種として天然記念物に指定されているという。残念ながらほとんど咲いてなくて、満開は連休頃になるらしい。この桜だけで「金剛桜」という種類なんだからスゴイ。東照宮から二荒山神社、大猶院までザッと歩くけど、まあ大した写真もないので省略。

 じゃあ、どこへ行こうかと思ったら、日光植物園が開園しているので行くことにした。旧田母沢御用邸公園の先にあって、東大の附属施設である。もう10年以上昔に一度行っている。夏だったような気がするが、あまり覚えてない。今回行ったら、桜がここのメインにもなっていて、「大当たり」だった。何しろ「サクラ属」にあるほとんどの自生種と栽培種がある。アカヤシオやシャクナゲもある。それよりビックリしたのが、ミズバショウと桜が一緒に咲いていることである。
  
 なんだか判らないかもしれないが、上の最初の写真を2回クリックすると、後ろにあるのはソメイヨシノである。前にはミズバショウが咲き誇る。園内を大分行ったところにある「ミズバショウ池」。「夏の思い出」の印象が強く、尾瀬で6月に咲く花のような気がしてしまうが、山の湿地にはよくある花。夏に登山すると、お化けのように巨大化したミズバショウによく出会う。尾瀬より低地では早く咲くに決まってるが、日光では桜とコラボしてるとは思わなかった。
    
 上の最初の写真は「ニッコウザクラ」。あまり種類が多いので、桜の名前はもう忘れている。ニッコウザクラというのは、写真に名前が出ている。小さな花で珍しい。ヤマザクラの他、「リョクガクザクラ」など珍しいものが多い。そういう写真を載せるけど、後の方は名前がよく判らない。観察会もあるようだけど、いつか行ってみたい気がする。アカヤシオ(ツツジの種類)など、他の花を下に。
  
 その後にバスに乗って、湯元温泉に。いつもの休暇村日光湯元だけど、昨冬に少しリニューアルした。和洋室ができたり、露天風呂に壺湯を作ったり。この壺湯はなかなか良かった。今回は和室だったけど、湖がよく見えて気持ち良かった。部屋にあった椅子が面白いので、写真を撮ってきた。これは楽チン。翌日は湖を半周して、少し歩いてからバスに乗る。
   
 バスは西参道で降りて、どうしようかと思うが、川沿いの裏道へ行ってみる。桜が見えたので。バスの通る国道をそれて、ちょっと裏に入るだけで、ずいぶん知らない町になる。史跡探勝路を歩きながら、浄光寺というお寺が見えてくる。なんかいい感じで桜が咲いている。調べると由緒のあるお寺のようで、「菅笠日限地蔵」というのがある。お寺の中ではなく、駐車場の桜の写真。
 
 予定外の裏道を歩いて時間を取ったが、この大谷川(だいやがわ)沿いの道は発見だった。日光は奥が深い。街中にはソメイヨシノは少なく、枝垂桜が多い。「日光桜回遊」というガイドマップでは、「イトザクラ」となっているが、枝垂桜と同じである。蕎麦を食べてから、ゆっくり駅に向かって下って行く。そこにいろいろな桜がある。公園などの桜ではなく、個人宅にある樹木がパンフに掲載されていて、自由に見て回ることができる。(迷惑をかけないようにとは出ている。)まず、「岸野家のしだれ桜」(2枚)。駅から神橋に行く途中の左側、日光郷土センターの裏手にある。そこからバス通りの向こう側へ行って、「虚空蔵尊のしだれ桜」。最後が「高田家のしだれ桜」。高田家の桜など、個人宅というレベルを超え、道路をはさんで隣家まで続いている巨木で、それが見事に咲き誇っている。街中のあちこちにこういう桜がある。奥深い町である。
   
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ドッヂビーの話

2016年04月18日 23時04分34秒 | 自分の話&日記
 「ドッヂビー」を知ってますか?僕も10日ほど前に初めて知った。「ドッジボール」と「フリスビー」の合成語で、簡単に言えばフリスビーでするドッジボール。(だけど、ドッジボールと混同しないように、「ドッヂビー」と「チ」に濁点を付けるんだという話。)こんなもの。

 それがどうしたというと、6月にドッヂビーをやるのである。僕が非常勤で行っている福祉作業所がある。区の施設が集まってスポーツ交流会を一年に一度行っている。今までは「ソフトバレーボール」だったのだが、今年は担当施設の意向で「ドッヂビー」に。聞いたこともない競技である。で、早速買ってみて、今日初めてやってみたわけ。

 月に一度、スポーツ施設を利用して練習している。今月は今日を取っていて、もちろんソフトバレーをする予定だったのである。場所は北区の「東京都障害者スポーツセンター」。十条台の旧軍施設が占領軍に接収され、返還後に障害者施設が集中している。池袋または王子から送迎バスも出ている。アリーナやプール、グラウンドなどはもちろん、テニスコートやアーチェリー場もある。障害者手帳がある人は、登録すると個人でも利用できる。今日は団体利用である。
 
 で、どうだったかというと、よく判らない。こういうのを持ってみると、つい長く飛ばしたくなる。きれいに遠くまで飛ぶのを目指してしまう。でも、遠投大会ではない。もっとごく近いところに、相手がいて、ぶつければいいのである。コートの大きさはドッジボールと同じ。その場合はどんな感じなのかは、やってみないと判らない。まあ、軽いからぶつかっても痛くはない。だけど、うまく飛ばすのは結構難しい。取るのも案外難しい。円形で、軽いから、必ず回転がかかり、取ろうとすると触った瞬間に逃げていくこともある。それでは、要するに「ぶつけられた」ということになる。まあ、そんな感じ。

 ドッヂビーを検索していたら、ウィキペディアに球技のカテゴリーが分類されていた。まず「コートあり」と「コートなし」で分ける。「コートあり」は、「ゴール入れ」「ネット越え」「人当て」に分けられる。「ゴール入れ」は、「バスケット」「フットボール」「ハンドボール」「スティックアンドボール」。最後のはホッケーとかポロなど。「ネット越え」は、「バレーボール型」と「ラケットスポーツ」に分ける。最後の「人当て」にドッジボールがある。競技としての「雪合戦」もここにある。コートを決めてやるらしい。

 せっかくだから、「コートなし」も見ておく。「バットアンドボール」と「ゴルフ型」と「その他」。バットアンドボールに、野球やソフトボールがあるのは言うまでもない。クリケットの他、キックベースボールや三角ベースなんか載っている。さて、最後の「その他」。何が残っている?ボーリング、ビリヤード、大玉送り、玉入れ、ペタンク、蹴鞠…まだあるけど、知らない。なるほどという感じ。学校体育の経験で、誰でも10種ぐらいはやってると思うが、ずいぶん球技も多い。「球技を言い合うクイズ」なんてのもできるだろう。(僕が一度でもやったことがあるのは、バレー、バスケ、サッカー、野球、ソフトボール、卓球、テニス、バドミントン、ハンドボール、ホッケー、ドッジボール、ボーリング、玉入れ、大玉送りなど。)

 僕は今、その福祉施設で週に2回か3回、仕事している。所長と長年の友人だから、欠員があった時に僕が行くことになった。そこの所長とは、1980年の8月初め、関釜フェリーの船上で出会った。日韓合同のハンセン病快復者定着村のワークキャンプに参加する途中。自己紹介の冊子の愛読書欄に、真木悠介「気流の鳴る音」宮沢賢治「農民芸術概論」と書いてあった。おい、ホントかよと思って、友人になった。お互いの結婚式で司会をしている。僕はその年に、雑誌「80年代」(というのがあった)に出ていた真木悠介(見田宗介)さんの講座に通っていた。終わった後もリユニオンがあったので、誘って一緒にいくうちに、精神福祉関係の仕事に誘われていった。ということだから、縁は不思議なものだ。自分が通い、勤めた「学校」の外で続いた人間関係の方が生きているということかもしれない。
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熊本大地震の衝撃-次は関東?

2016年04月16日 23時34分23秒 |  〃 (震災)
 熊本県で大地震が続いている。4月14日(木)の夜9時25分頃、テレビでニュースを付けていたら「緊急地震速報」が流れた。その日、直前に東京で震度2ほどの地震があったばかりなので、それが前震で今度は東京に本震が来たのかとちょっと身構えてしまった。が、よく見れば画面では熊本県と出ていて、直後に「熊本県で震度7を観測」という緊急ニュースが流れた。その後、それは「益城町」と出て、位置も知らないし読み方すらわからない。調べると「ましき」と読んで、再春館製薬所の本社があるところである。土曜になると、死者9名、熊本城にも大被害という状況が伝わってきた。

 その後も「余震」が続いていたが、16日(土)午前1時25分頃に、震度6強、マグニチュード7.3の大地震が起きた。それを受けて、気象庁は14日の地震は「前震」で、16日未明の地震が「本震」だと発表した。そんなことがあるのか。震度5以上の地震は14回続いているそうで、断層地震でこれほど大きな地震が続くことは確かに稀らしい。地震は阿蘇から大分県にかけても被害をもたらしている。今夜から雨風も強くなるという予報で、屋外に避難している人も多いという話だから大変な状況。

 僕は2011年9月に熊本へ行ったことがある。(ハンセン病や教員免許更新制等の問題に関する熊本行だったのだが。)その前にも、阿蘇や人吉などを旅行している。九州は自分の車で行くには遠いので、あまり行ったことがないのだが、それでも山や温泉に何度かは行っているわけ。でも熊本の街中はは5年前が初めてだったので、熊本城にも行った。その時の写真を見つけてみると、こんな感じ。これかどうかは判らないが、この城壁が崩れたとは驚きだ。
 
 政治状況にも影響を与えると思うが、それは後で考えるととして、「地震」をめぐって今後の事を考えてみたい。今回は「断層」の動きによるものだから、地震そのものは局所的である。「日本が大変だ」などというレベルではない。ただ、九州中央で起こったことにより、福岡と鹿児島を結ぶ九州新幹線や九州自動車道などがストップしている。また熊本空港も本震により使えなくなった。そのことが支援活動や物流に大きな影響を与える可能性がある。

 また、断層はさらに大分県にも続いている。今後、四国へと「中央構造線」に影響を与える可能性を指摘する声もある。大分から四国へと続くと、四国電力の伊方電発がある。だけど、僕にはそれ以上に、まだ動いていない日奈久断層帯南部の方に影響があるかもしれないと心配である。熊本県南部だけど、その先に鹿児島県西北の出水断層帯がある。その場合、現在ただ一つ稼働している川内原発に近くなる。日本の主要活断層については、「活断層地図 主要活断層 98断層帯のリスト」というサイトが判りやすい。布田川・日奈久断層帯も出ている。

 もう一つ、「過去の地震を訪ねて、歴史的な経験に学ぶ」ということである。文科省は大学の文系学部の再編を求め、「文科系学問の価値」が改めて問われている。だけど、「文系」「理系」などという分け方自体を問い直す必要がある。「3・11」以後、歴史学の中で「災害史」が本格的に扱われてこなかったことへの反省がある。歴史学だけでなく、地理学、考古学、民俗学などの研究者が、地震や火山、土砂災害などの研究者と手を携え、列島に生きた人々の過去の経験を問い直し、学んでいく必要がある。理系の人も、古文書を読むまではともかく、自分の生きている場所の過去の情報に深い関心を持つ必要があるだろう。歴史学の中では、磯田道史氏が有名である。朝日新聞土曜版に連載され、中公新書で刊行された「天災から日本史を読みなおす」は必読。

 その磯田さんが16日の朝日新聞で指摘していた事実を紹介しておきたい。熊本県は決して地震がなかったわけではないが、前回の大きな地震は1889年なので、経験者がいない。今までも熊本城が崩落するような地震も起こってきたのである。中でも、1625年に起きた地震に注目するべきだという。この時は熊本城で火薬庫が爆発したという。年表を見ると、その前の1619年に同じ熊本の八代で大きな地震が起きている。さらに注目するべきは、「3・11」のちょうど400年前の1611年、「慶長三陸地震」が起きていることである。M 8.1の巨大地震で、津波で数千人の犠牲が出た。同じ年、「会津地震」も起きている。その4年後、1614年に日本海側の新潟県直江津沖で「高田領大地震」、1615年に相模、江戸に地震。1616年に再び宮城県沖地震で三陸地方に大津波。そして、1619年に八代地震、1625年に熊本地震。1628年に江戸で地震があり、江戸城の城壁が崩れる。そして、1633年に、寛永小田原地震で、1635年に江戸で大きな被害を出す地震

 日本ではどこでも地震があると思うべきだろう。過去に起きた通りに地震が起きるわけではない。だけど、ちょうど400年前にはこういうことがあった。東北地方で大地震があり、その後新潟や熊本で大きな地震が続いた。そして10数年後には江戸、相模に大きな被害が起きる地震があった。これを思う時、「首都圏」も十分に覚悟していなくてはいけないということはますますはっきりする。400年前のことだけど、決して無視はできない。過去の歴史を知ることは大切だ。
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「母よ、」「木靴の樹」他、新作映画あれこれ

2016年04月14日 23時01分10秒 |  〃  (新作外国映画)
 世界で一番好きなイタリア映画を中心に、最近見た映画の話。古い映画も見ているが、フィルムセンター、神保町シアター、シネマヴェーラ渋谷など、東京で昔の映画を多く掛ける場所が、今月は見てる映画が多い。新作映画を中心に、この間にあえて書かなかった映画にも簡単に触れておきたい。

 ところで、イタリアの前に非常に奇怪な日本映画をまず。「蜜のあわれ」という映画である。上映館も限られていて、東京でも上映があまりない。大杉漣二階堂ふみ真木よう子と期待大なキャストで、大杉漣が老作家を演じ、二階堂ふみと戯れる。谷崎や川端を思わせる老作家の愛欲ものだが、これは室生犀星原作。犀星の故郷、金沢で撮られていて、石川県では上映館が多い。ところが、話を聞いていると、二階堂ふみは実は金魚の化身のようである。何だこりゃと思っていると、真木よう子が登場してくるが、こっちは幽霊。金魚や幽霊と戯れる三角関係。読んでないけど、多分犀星の原作そのものがぶっ飛んだ怪奇幻想愛欲小説なんだろう。二階堂ふみは例によって、期待を裏切られない。だけど、あまりに変な展開なので、ついて行くのが大変。石井岳龍監督、つまり昔の石井聰亙で、こういう題材で撮るのは珍しいと思うが、健闘している。だけどなあ…、という映画。

 世界の映画の中で、国(言語というか風土)で映画を思い浮かべるとき、多分イタリア映画が一番好きだと思う。フェリーニやヴィスコンティなどの巨匠の名作が好きだという意味ではない。それも好きだけど、どうってことない映画で話されるイタリア語会話、あるいはイタリア各地の風景なんかが好ましい。最近はずいぶん上映されているので、見てないのも多いが、昔はイタリア映画なら全部見ようと頑張っていた。五月の連休に行われるイタリア映画新作映画祭もすっかり定着して、イタリアの生活風景をかいま見る娯楽映画の公開につながる例も多くなってきたのは「うれしい悲鳴」。

 さて、まずは「母よ、」で、巨匠ナンニ・モレッティの新作。原作は「Mia madre」(わが母)だが、これを「母よ、」という題名にした。この句点が効いている。ナンニ・モレッティ(1953~)はベルトルッチやベロッキオの一世代下を代表する監督だけど、自分で出演もした癖の強いコメディを作ることが多く、なかなか日本で受け入れられなかった。21世紀になると、2001年のカンヌ映画祭パルムドール受賞作、「息子の部屋」を作る。子どもを失った家族の喪失をじっくり描く大傑作だった。

 今度は母親の病気、死を描く映画で、また監督自身が出ている。だけど、中心人物は女性映画監督になっていて、監督はその兄の役。妹の女性監督は、家庭環境も不調(夫と離婚、娘ともうまくいかない)、映画製作の現場でも不調。そっちに自分が投影されているんだろうが、あえて女性監督という設定で客観化している。兄は介護のため仕事も離れるが、妹は仕事を続ける。この「分裂」に、自己の思いを込めている。映画製作の現場も面白く、特にイタリア企業を買収しにくるアメリカ人という役の、ジョン・タトゥーロが何度もセリフを間違うところなど実に面白い。「親の死」という人生の大問題を正面から描く作品だが、家族間の描写と映画製作現場、母親の心などがバラバラな感じもある。なお、母親はラテン語の教師だった人だが、孫は「何でラテン語なんてやらなきゃいけないの?」と思っている。でも孫の心を一番判っているのも祖母なのだと観客にも判る。ナンニ・モレッティも成熟した。

 続いて、岩波ホールで22日まで「木靴の樹」がリバイバルされている。エルマンノ・オルミ監督の名作である。1978年のカンヌ映画祭パルムドールで、3時間もする。当時はそんな映画を公開してくれるところは岩波ホールしかなかった。その年のキネ旬ベストテンで2位となった。1位は同じく岩波ホールで公開されたギリシャの「旅芸人の記録」で、さらに長く4時間もある。(この年は岩波ホールの絶頂期で、「旅芸人」「木靴」の他、「女の叫び」(6位)、「奇跡」(7位)、「プロビデンス」(10位)と外国映画の半分を占めている、さらに日本映画でも「月山」が6位。)この間「旅芸人」は何度も上映されてきたが、「木靴の樹」は最初の公開以来だと思う。何と37年も経っていたのか。それでは見てない人が多いと思う。必見。僕はこの映画を見たため、その後もエルマンノ・オルミ監督の映画は全部見て来た。

 と言いながらも、この長い長い19世紀の北イタリアの農民映画は、なかなか今の年齢になると大変な体験ではあった。多くの農民を出演させて、100年近い昔の生活をじっくり再現する。今はそういう映画も珍しい感じはないが、当時としては実に壮大な試みだったのである。ミラノから近いロンバルディア地方、ベルガモの農村地帯。大地主のもとで、貧しい農民が暮らしている。厳しい農作業、祭、教会、男と女、親と子、四季の移り変わりの中で、当時の農民のドキュメンタリーを見ているような気になる。画面に入り込んで、当時の時代を観客も生きる。そんな映画である。子どもは学校へ行かないといけなくなった時代。子どもの木靴が壊れてしまい、父親は川べりのポプラの樹を切ってきて、木靴を作る。しかし、その樹も地主のものなのである。ある男と女が結婚して、川船でミラノへ行き、修道院長をしている叔母に会う。そのシーンが非常に興味深かった。娯楽的要素はほとんどなく、厳しいリアリズム映画。23日からはオルミ監督の新作「緑はよみがえる」を上映。

 最後にいくつか。山田洋次の「家族はつらいよ」は、今も一定のレベルを保つ映画を作り続けるのは驚嘆に値する。だけど、この映画の自己引用や過去への眼差しは一体何なのだろう。役者はうまいし、見ている間は結構面白いけど、だんだん紋切型の展開にガッカリ感が強くなってくる。まあ同じ役者で撮った「東京家族」の、「東京物語」の凡庸なリメイクよりはましかもしれない。僕があまり乗れないのは、「オデッセイ」のタイプの映画。面白くないとも言えないのだが、よく出来たハリウッド映画だなあという感じ。リドリー・スコット監督はもう見なくていいと思っていたのに、うっかり見てしまった。でも、まあ21世紀のリドリー・スコット作品では一番いいのかもしれない。大作の「宇宙映画」はもう僕はダメだと思う。タランティーノの「ヘイトフル8」はいくら何でもうやりすぎ。確かにいつもバイオレンスで売ってるが、今まではそれなりにあった「必然性」がほとんどなく、ただ残酷なだけではないのか。

 アカデミー外国語映画賞の「サウルの息子」は、ナチスの収容所を舞台にしたハンガリー映画。カンヌ映画祭グランプリで、テーマ的にも映画賞受賞という意味でも見逃せない。そして、これを評価する人もいると思うけれども、僕はとてもダメ。デジタルカメラの発達で、暗い場所で激しく動く映像を撮りやすくなり、かつてない臨場感を出しているのは間違いない。だけど、見ている僕の身体が付いていけない。感想をまとめるつもりで見たスペインの「マジカル・ガール」。これも変な映画で、日本のアニメに夢中な病気の少女。その夢をかなえたい父の思いが、悲劇の連鎖を生んで行く。こう書くと、いかにも面白そうな「変な映画」みたいで、僕は期待して見たのだが、どうもその冷たい感触があまり良くなかった。それに日本アニメの使い方も、通常の予想の範囲内だった気がする。
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「今市事件」有罪判決への疑問

2016年04月13日 23時06分02秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 4月8日(金)に宇都宮地裁で、「栃木女児殺害事件」(ここでは「今市事件」と呼ぶことにしたい)に対し、有罪判決が出された。刑期は無期懲役である。判決はもともと3月31日に予定されていた。それが突然に延期された。弁護側は無罪を主張して激しく争っていたから、評議がまとまらないのか、無罪判決が出るのではないかなどという観測もあったと思う。日本の裁判報道には珍しく、被告・弁護側の主張もかなり紹介されていたように思った。  

 ところが、裁判員裁判で自白の信用性が認められ有罪判決が出たことで、マスコミの批判がほとんどない状態になった。僕には疑問が多い判決だと思うので、あえて批判的に検証しておきたいと思う。裁判員を務めた人の発言によると、「難しい判断」だが「録画が判断材料」になったという。それは問題なのではないだろうか。「自白」だけでは有罪に出来ないと憲法で定められている。

 この判決を第三者が批判する場合、でも「録画を見ていないだろう」と言われるに違いない。その録画に「迫真性」があるというが、それを見ていないものには判断ができない。だから、国民から選ばれた裁判員が判断したことに合理性があるというのも一つの考えだろう。だけど、僕は判断の前提となる「証拠の手続き」に問題があると思う。それは他の裁判にも影響すると思うから、書いておきたい。

 まず「録画の問題」。裁判というものは、検察側が有罪を立証し、それに対して弁護側が反証するという仕組みで行われる。だから、取り調べ過程の録画をどのように立証に使おうが検察側の裁量だという考え方もあるだろう。実際、取り調べすべての録画を裁判で検証していたら、裁判員裁判は成り立たない。何時間たっても終わらないから、誰も引き受けられない。そこで今回は「7時間超」に編集されたものが法廷で再生された。だけど、それは「検察側が編集したもの」である。

 本当は全部で80時間余りになるという。これを時系列に沿ってきちんと検証したら、自白の強要や変遷などが明らかになる可能性はないのか。もちろん、全部見れば、取り調べに問題はなかったということになるのかもしれない。それは判らない。だが、フェアではない感じがする。この時間の長さからすると、立証に使うには編集が必要である。だから、検察が編集して裁判員に見せたのは当然だと思うが、同時にすべての録画を弁護側に開示しない限り、録画を立証に使うのはアンフェアなのではないだろうか。弁護側も開示された録画を反証に使えない限り、「録画に迫真性がある」と判断してはいけないように思うのである。

 冤罪事件では「取り調べ段階で認めていた事件」(公判では否認)ばかりではなく、「公判中も認めていた事件」さえ存在する。富山県で起きた「氷見事件」は最近の例として有名である。裁判で有罪を認め、すでに懲役刑を終えていた人が実は無実で、真犯人が現れたことで再審無罪となった事件である。他にも一審で認めていた事件はかなりある。「無実」であっても裁判で無罪を勝ち取ろうと闘える人ばかりではないのである。完全に取り調べ側に「屈服」していた時点だけを「録画」で示す。それでは、取り調べの適正化を目的に行われる「取り調べの可視化」が、逆に検察側にのみ有利な材料を与えることになってしまう。録画は検察側だけのものではなく、被告・弁護側のものでもあるはずだ。

 次に「Nシステム」の通行記録の問題である。通常は明らかにしない、というか設置の法的根拠もはっきりしない「Nシステム」。どこに設置されているか明らかにしてしまうと、すり抜けも可能になるから、今までは裁判に使わなかった。(捜査には使っても。)今回は「直接証拠がない」ということで、状況証拠の一つとして通行記録が提出された。それによると、深夜の1時50分(鹿沼インター通り)と2時20分(国道123号)に宇都宮駅周辺で茨城県方向への通行があった。そして、同地点を逆方向に朝の6時12分と6時39分に通行している。また、両地点に近い国道121号で、朝の6時27分に通行記録がある。ところで、これは何なのだろうか。宇都宮市の中心部だけである。この間に遺体の発見現場である茨城県常陸大宮市に行って、戻ってきたのだという可能性は確かにある。だけど、それは何の証拠もないことである。何故なら、犯人がそのルートを使ったかどうか不明だからである。

 今書いた時間はいつの事かというと、2005年12月2日の話である。被害女児は、前日の12月1日、下校中に行方が判らなくなった。場所は当時の今市市(今は合併して日光市)である。被告の当時の住所は出てないから判らないが、Nシステム記録が立証に使われたのだから、宇都宮市内の中心部近くにあったのだろう。だから、そもそも事件を起こすには、12月1日に宇都宮から今市方面に出かけないといけない。1日の夕刻にNシステムに記録があれば、検察側は明らかにしたと思うから、被告の車が昼間今市方面に向い、夕刻に帰ってきた記録はないんだろうと思う。それは何故だろう。たまたまNシステムがなかったのだろうか。検察側が「死体遺棄」に向かうと見なした深夜のドライブは5回も記録されている。だから、Nシステムに引っかからないように小さな道しか通らなかったという可能性はない。

 茨城方面への深夜ドライブ(かどうかも不明だが)も重要だが、一番大切なのは「今市方面への昼間のドライブ」だと思う。それがないと、そもそも犯罪が起こせない。どうしてNシステムに記録がないのか。Nシステムをどこに設置してあるかを明らかにしないと、それが「行ってないのか」「記録がないのか」が判らない。さらに、被告はときどき深夜のドライブをしていたという供述もあるようだ。それが本当かどうか、他の日の記録も全部出すべきだ。地図をここで示さないけど、行方不明現場と死体発見現場は、宇都宮市内を通らずに行ける。県境の山の中には、もちろんNシステムはなかっただろうが、他にはどこにあるのか。それが判らない限り、被告のNシステム通行記録を有罪立証に使うのは慎重でないといけないように思う。

 僕の批判は、上記のようにまず「証拠の扱い方」に問題ありというものである。だけど、一応「自白」の任意性と信用性の問題について書く。この事件の捜査は典型的な「別件逮捕」である。2014年1月29日に、まず母とともに「商標法違反」で逮捕される。(偽ブランド品所持)その事件は2月18日に起訴されるも、拘置が続き、続いて5月30日に銃刀法違反で起訴される。その間に殺人への関与をほのめかしていたというが、6月3日に殺人容疑で再逮捕され、24日に起訴された。つまり、殺人事件として逮捕される前に、すでに4カ月以上も身柄を拘束されていた。そのうえでの「自白」なんだから、そもそも「任意性」を認めるべきかどうか、僕にはそれも疑問がある。

 だから「信用性」の判断には慎重にならないといけない。「自白」は鑑定結果と合わないという証言もあったのに、マスコミに載っている「判決要旨」ではどう判断したのか判らない。「運転席を通して被害者を助手席に引き込んだなどといった、想像にしては特異とも言える内容が含まれている」などと出ているが、これは何だろう。それが果して真実かどうかも判らないし、この程度を「想像」するのは「特異」でも何でもないと僕は思う。全体的にいって、録画記録に寄りかかった判断にように思う。控訴審では、ぜひ弁護側に録画記録を全面的に開示するべきである。それなしで有罪判決を出したのは、おかしいという判例を作って欲しいと思う。(なお、当時の今市(いまいち)は日光、鬼怒川温泉などとともに大合併して日光市になっている。市庁舎は旧日光市ではなはく、今市にあるのだが。湯西川温泉や奥鬼怒温泉郷、それどころか山の反対側の足尾まで日光市である。日光では広すぎるので、「今市事件」と書いた。「栃木…」と言うと、栃木市が別にあるので間違えないようにするべきだと思う。)
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何でもある場所-上野公園散歩④

2016年04月12日 00時34分35秒 | 東京関東散歩
 上野公園散歩の最終回。こういった散歩記は、よほどの重大事件でも起きない限り連続して書きたい。つまり、映画や本、ニュースなどはその間書かない。これはずいぶん気楽である。書く前に調べたり、写真を選んだり(写真はもっと撮ってあるに決まってる)、結構大変なんだけど気は楽。さて、今回はさまざまな施設には一切入ってない。都合5回くらい行ってみたけど、上野はどうせどこへ行くにも途中で通るので、あまり負担感がない。博物館や美術館は中で写真を撮れないし、どうせならタダで見られるところ限定にしようということで。パンダ関係とか、東博、科博なんかはまた別の機会に。

 さて、「何でもある場所」と題名に書いた。博物館も美術館も動物園もある。最初の洋食料理店の「上野精養軒」もあれば、今はスターバックスもある。だけど、そういう意味で書いたのではない。もちろん「ないもの」もいっぱいある。例えば映画館はない。国立博物館内に特設映画館を作って大森立嗣監督の「ゲルマニウムの夜」をやったことがある。そういう特例はあるけど常設館はない。公園の下にはあった。何と今は上野にロードショー館がなくなってしまった。(もっとも「上野オークラ劇場」という今や絶滅危惧種のピンク映画館が残っているんだけど。)昔は地下鉄駅を出て公園の下にたくさんあった。僕もよく見た。東宝で「忍ぶ川」を土曜日の放課後に見に行った。藤田敏八監督がロマンポルノを撮ったということで、日活の映画館に見に行ったのもここ。高校2年だから、ホントは成人映画は見れないけど。「赤ちょうちん」「妹」「バージンブルース」の秋吉久美子三部作もそこで見た。

 そういう「俗」なるものは、公園の中にはない。「俗」は公園外、つまり上野寛永寺の周りにあった。参詣に帰りに寄ることはできる。じゃあ「何でもある」とはどういう意味か。例えば「清水観音堂」がある。「五重塔」がある。「大仏」もある。「東照宮」まである。寛永寺が比叡山だとするなら、不忍池は「琵琶湖」にあたる。だから「竹生島」(ちくぶしま)にちなんで「弁天堂」まで作られた。京都や奈良、日光まで行かなくても、ここには「何でもある」のである。上野に参詣に訪れれば、済んじゃう。この発想がいかにも江戸人らしいと思うのである。外国人観光客に受けるのもそんなあたりだろう。
 
 では五重塔から。重要文化財。1639年建立。1631年に出来たが、一度焼失し直ちに再建された。今は「旧寛永寺五重塔」と「旧」を付ける。それは寛永寺が東京都に寄付したからで、位置的には上野動物園内にある。外からは柵越しにしか見られない。動物園と東照宮の間あたりで、駅近くからは見えない。次に「清水観音堂」。重要文化財。1631年建立。江戸の火事、震災、戦災に耐えて、よく残っているもんだ。でも日本じゃこの程度では国宝にならない。京都と同じ作りで、まあ規模は小さいけど、清水ムードはちょっと愉しめる。春の桜を眺めるのは美しい。下に広重が描いた「月の松」がある。くるっと枝が一回りしている松。狭いので堂上で写真を撮るのが難しい。下の3枚目は舞台から見た桜。
  
 次は「上野東照宮」。もと藤堂高虎邸内に造られたが、将軍家光が1651年に改築したもの。重要文化財。牡丹が有名。東照宮は日光や久能山以外に、全国にいっぱいある。東京では芝の増上寺にもある。上野は有名な方だろうが、さすがは家康である。拝観料500円なので中へは入らず。動物園の横あたりで、参道にずらっと屋台が並ぶのが外国人観光客に大受けしている。そこは載せず。
  
 さて、その近くから階段を下りて不忍池へ行くと、弁天堂。池の中にあるが、それは人工島。天海が築いたが、東京大空襲で焼失。1958年にコンクリ製で再建されたものである。このあたりも水の景色と弁天堂、桜と屋台の店と外国人に受ける要素が詰まってて混雑していた。
  
 さらにまだまだある。「時の鐘」。1787年作の鐘楼。芭蕉が「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と詠んだのは、ここの鐘。ただし、それは1666年の最初の鐘だという。精養軒の真ん前あたりにあり、今も午前午後6時と正午に鳴らすというが、聞いたことはない。
  
 その真ん前にあるのが、「上野大仏」。もと6mあったというが、度重なる災害に耐えられず、今は顔面しかない。大仏パゴダに残されている。そのパゴダというのは、1967年に東照宮の薬師三尊を祀るために作られた。「顔だけ大仏」は、「これ以上落ちない」と合格祈願で有名。
  
 これだけのものが、もともとの「上野寛永寺」にあったんだから、大したものである。それに結構残っているとも思う。震災、戦災を超えて、よくぞ残った。桜の季節に大流行りである。だけど、その代わりに根本中堂などの寛永寺の中心に人が行かないのである。最後に、お寺と関係ないものを。まず「擂鉢山古墳」。読みは「すりばちやま」である。古墳が東京の区部にあることを知らない人が結構いる。芝公園にもあるし、世田谷・等々力渓谷近くの野毛大塚古墳などはなかなか大きい。一番行きやすいのは、東京文化会館近くの上野公園の古墳だろう。階段があり、登ると真っ平になってベンチがある。休んでいる人がいつもいる。これが古墳かと一度登って欲しい場所。
   
 その近くに野球場。これは「正岡子規記念野球場」という。正岡子規は健康だった時には自ら野球を楽しんだ。ポジションはキャッチャー。打者、走者、直球、四球などの用語を作ったことで知られ、野球殿堂入りしている。
  
 さて、これで最後。西郷さんの銅像に真ん前に「彰義隊の墓」がある。他にも、五条天神社花園稲荷などの神社もあり、天神では例の赤い鳥居に外国人が大喜びしていた。「京都にあったよね」とか言い合いながら写真を撮りあっている。最後は写真ばかりだけど、上野公園には史跡がザクザクとあり、有料施設に入らなくても散歩しているだけで歴史ファンには楽しめるという話。すごい場所。
  
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上野公園の銅像-上野公園散歩③

2016年04月10日 23時24分27秒 | 東京関東散歩
 上野公園にある銅像と言えば、まずは「西郷さん」だが、それでは書く楽しみがない。他にもいろいろある。形の上で一番壮麗なのは、ちょうど公園のど真ん中あたりにある馬に乗った銅像。「あ、西郷さん」などと声を挙げている人がたまにいるが、これは「小松宮彰仁親王」像である。
  
 小松宮という人は、確かにいたとは記憶しているが、一体どんな人物か。近代史に詳しい人でもなかなか思い浮かばないだろう。小松宮彰仁(こまつのみや・あきひと、1846~1903)は、一言で言えば明治期の軍人皇族(元帥)である。傍流の伏見宮家の出で、仁孝天皇(孝明天皇の父)の猶子となり、親王となって仁和寺門跡となった。世が世ならそれでおしまいだが、王政復古のさなかに還俗し、奥州征討総督を務める。以後、佐賀の乱、西南戦争などで重要な役割を果たし、参謀総長などを経て、日清戦争では征清大総督となった。というと、戦前には有名人物かもしれないけど、なんで上野公園に銅像があるの?という感じである。それは小松宮が多くの団体に関わり、特に日本赤十字の総裁だったからである。日赤25周年を記念して佐野常民らの提案で、1912年に建てられた。よく戦時中に供出もされず、また軍人像が占領下に取り壊されず残り続けてきたものだ。
  
 有名な人物銅像という点では今では日本一かなと思う西郷隆盛像。(人物以外も入れると、渋谷駅前ハチ公像が有名度一番だろう。)人物の説明はいらないと思うので、銅像の説明だけ。造られたのは1898年で、高村光雲作。ただし、犬は別で後藤貞行という人で、皇居前広場の楠木正成像に馬を作った人である。信頼性のある写真が一枚もなく、キヨソネの絵をもとに多くの人に意見を聞き、この姿になったとか。小松宮とは敵同士だったわけである。
   
 他にもある。何と野口英世像がある。場所は科学博物館前の林の中。1951年に立った。試験管を持った全身像は野口像としては珍しいという。何でここにあるかは知らない。上の写真の2枚目、3枚目はボードワン像。これは上野公園にある意味がある。「上野公園の父」と言われる人である。オランダ人の軍医で、明治初期に上野に大学を移転という話があった時、公園建設を提言したという。1973年の上野公園100周年に建てられたが、その時の像は駐日領事だった弟の顔だったとか。手違いが後に判り、今は2006年に直された本人の顔。東京文化会館前に元都知事安井誠一郎像もあるが、それより東京国立博物館内にジェンナー像がある。種痘の発明者で、種痘100年を記念して、1896年に建てられたという。何で博物館の敷地内にあるのかは知らない。 

 ところで、今は「記念碑」的な意味で作られたものを挙げたが、モニュメントという意味では「上野公園最大の像」は別にある。だけど、多分銅製ではないと思う。それは科学博物館前のシロナガスクジラ。これは一度見たら忘れられないし、検索すると「トラウマ」だとか書いてる人も多いようだ。小さい時に一度は見てると思うが、まあ、僕は嫌いじゃない。クジラってすごいなあと素朴に驚きを感じる。写真的には一度に撮れないので苦労する。遠くから全体像を撮ると迫力に欠ける。
  
 もう一つというか、いっぱいだが、国立西洋博物館ロダンブールデルの彫刻がある。一番有名な上野の銅像は、だからロダンの「考える人」だというのが「ご名答」ということになると思う。西洋美術館は、松方コレクションを展示するために作られたが、今はル・コルビュジェの建築として世界遺産にという動きがあり、旗がいっぱいたなびいている。4枚目の写真は「カレーの市民」。
    
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東叡山寛永寺-上野公園散歩②

2016年04月10日 00時40分31秒 | 東京関東散歩
 上野の桜を最初に載せたが、本来は上野と言えば寛永寺である。上野公園と言ってる土地は、江戸時代には「東叡山寛永寺」(とうえいざん・かんえいじ)という巨大寺院だった。(本来は上野公園の2倍近い所領を持っていた。)京都の東北方にある比叡山延暦寺に対応して、江戸城の東北方にある上野の山を「東叡山」とした。そして、そこに3代将軍家光の時に「寛永寺」を建立したわけである。1625年(寛永2年)のことである。初代住職は天海和尚。徳川将軍6人の墓所が寛永寺にある。

 ただし、徳川家の正式な菩提寺は、芝の増上寺である。寛永寺はむしろ「政治的な重み」をもつところで、17世紀以後は皇族を住職に戴き、比叡山や日光山をも管轄する天台宗の総本山だった。なんとまあ、江戸時代には天台宗の総本山は比叡山じゃなかった。だけど、多くの人も知る通り、1868年の彰義隊と官軍による「上野戦争」で根本中堂ほか多くの伽藍が焼け落ちて壊滅的打撃を受けたわけである。だから、人によっては寛永寺はそこで終わったかのように思い込んでいる人もいる。

 まあ、確かに今は見る影もないとはいえ、今も寛永寺は残っている。上野公園の北の外れの方に根本中堂も再建されている。もっともそれは川越の喜多院から移築されたものである。その移築には露伴の「五重塔」の主人公も関わっていたらしい。ここまで行くと、人の数もグッと少なくなる。「歴史散歩」ムードを味わう花見はこっちの方がいい。(元の根本中堂は噴水公園のあたりだったらしい。)
   
 上の写真を見れば判るように、寺院も桜も立派なのに人が少なくてもったいない。この根本中堂の裏の「書院」は非公開だが、徳川慶喜が戊辰戦争後に謹慎蟄居した場所なのである。境内には、上野戦争碑や「虫塚」、尾形乾山の碑などがある。なかなか見応えがある。
   
 ここへ行くには、上野駅ではなく、JR山手線でひとつ隣の鶯谷駅から行く方がずっと近い。鶯谷は山手線で一番地味な駅で、降りたことがない人も結構多いと思うが、歴史散歩には大事な駅である。南口から歩いていくと、4代将軍家綱の墓所の勅額門がある。その先に5代将軍綱吉の墓所の勅額門。もともとは霊廟があり旧国宝に指定されていたというが空襲で焼失し、残った門などは重要文化財に指定。どちらも近くでは見られない。(前二つが綱吉、後二つが家綱。)
   
 その他、結構寛永寺時代のものは残っているのだが、花見客でにぎわう清水観音堂や五重塔、弁天堂など別に書くことにし、今回は北の方、国立博物館の先の方にあるものにしぼることにする。僕も今回初めて知ったのだが、いつもだと国立博物館の先へ行くときは芸大の方に曲がっていくのだが、反対に駅の方に曲がると「両大師堂」があり、その隣の輪王院に「旧本坊表門」が移築されている。(重要文化財)「両大師堂」というのが結構いい感じで、そこから隣に行くところに「幸田露伴旧宅の門」がある。(下の2枚が両大師堂、最後が露伴宅の門)
  
 「旧本坊表門」は寛永年間のもので、元は国立博物館のところにあったという。博物館の整備に伴い移築されたという。通称「黒門」で、そこから上野の地名を「黒門町」と呼ぶようになった。昭和の名人と言われた落語家、桂文楽(8代目)が「黒門町の師匠」と言われたことは有名。今も公園を降りて少し行くと「黒門小学校」がある。(その真ん前に「うさぎやカフェ」ができた。)
  
 ところで、国立博物館の裏あたりに今も寛永寺の「塔頭」(たっちゅう)がかなり残っているのを今回初めて知った。なかなかムードがある。JR山手線に沿ってずっと北上していくと、「日本鳩レース協会」の建物がある。こんなところにそんな団体があるのか。そのちょっと先に、海老名香葉子さんらが建てた「東京大空襲慰霊碑」がある。その隣に3代将軍家光に殉じた「殉死者の碑」。そこまで行った人は少ないかもしれない。僕も今回調べて知った。公園散歩からすると外れの方になる。
 
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桜満開、上野公園-上野公園散歩①

2016年04月09日 00時23分46秒 | 東京関東散歩
 僕にとって、桜と言えばまず上野公園である。超有名な場所だけど、人が多すぎる、特に近年は外国人観光客が多すぎる感じはする。別に外国人だから悪いわけじゃないが、皆が写真を撮っているから渋滞がすごい。それでも何で上野に行くかというと、自分の家から電車一本で行ける有名な場所だからである。博物館とか美術館が多いから、行くことも多い。ついでに寄って見られる。だから毎年のように見ている。僕の行動範囲にない、千鳥ヶ淵の桜とか、秋だと神宮絵画館前のイチョウ並木とかは、実は一度も行ったことはないのである。有名なのは知っているけど。

 上野公園は、春の桜文化施設である。博物館、美術館、動物園などいくつあるか正確に言える人はいないだろう。でも、それだけではない。1873年に作られた近代日本で初めてつくられた「公園」である。江戸時代に作られた大名庭園はかなり残されているが、あれは「私園」である。それに対して、公園は誰でも入れる。そして、上野公園ほど何でもある場所も少ないと思う。文化財も多いし、野球場まである。それどころか古墳があるというとビックリする人もいる。案外知らない人も多い「上野公園のあれこれ」を一度ちゃんと散歩して残そうと思っていた。桜の季節に合わせて何回か。
  
 何枚載せても同じだけど、以下にもう少し。東京文化会館と西洋美術館の間を抜けて、国立博物館を向こうに見る噴水広場。そこから上野広小路に向けて続くメイン・ストリート付近の写真である。桜はほとんどがソメイヨシノで、約1200本あるという。人の顔を写しても仕方ないから、空を入れて撮るか、樹のかたちに注目して撮るかということになる。この上下の写真は満開の4月初め。
  
 3月23日に行ったときは以下のような感じだった。
 
 ところで、急いでいる時やちょっと寄る時は、メイン・ストリート中心になるけれど、今回はあちこち行ってみた。不忍池(しのばずのいけ)まで行くのは久しぶりだけど、池を背景に桜が咲き誇りとても魅力的だった。ボートに乗りに来たこともあるけれど、今は手漕ぎよりもスワンボートのようなのが多いようだった。最後の写真は弁天堂を背景に鳥が止まっているところ。ユリカモメかな。拡大して見て。
    
 ところで、花見光景はあまり撮ってないし、人が騒いでいるだけだから面白くない写真が多い。まあ、割と問題ない写真を一枚。そして、ゴミはきちんと分別して捨てましょう。このゴミ箱の整然さは、渋谷スクランブル交差点に匹敵する「観光資源」と言えるのではないか。英語も読んで。最後の写真をクリックして大きくすれば読めます。
  
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わが夢、あるいは退職5年目の感想

2016年04月07日 23時00分09秒 | 自分の話&日記
 先週の4月1日。東京新聞の教員異動特集をつい熟読してしまい、本来その日に書こうと思っていた記事を書けなかった。ブログを始めた頃は、一日に二つの記事を書くことだって、そんなに苦ではなかった。今はもうそれは結構辛い。5年と言っても、やっぱり年を重ねているのである。

 教員の異動は昨年から都教委のHPにも掲載されている。だから新聞で読まなくてもいいはずだが、やっぱり新聞で読みたいのである。最近は異常なまでに複雑な職階に分かれていて、読むのが大変で、やはりこういうのを見ていると「このような世界では生きていけない」と思わされる。それくらい異常だと思うんだけど、最近しか知らない若い教員は「そういうもんだ」と思っているのかもしれない。

 特に今年なんか、見ても知り合いの数が少ない。知人が一斉に同じ年に異動するわけもないが、それ以上にもう知人が少ない。思えば、僕より年上の教員は(原則的に)誰も現職ではないわけである。自分が教員になった頃は、当然ほとんどの人は僕より年上だった。校長になった人は退職が報じられるが、他の人は辞めても出ない。だから個人的に知ってる少数の人を除いて、名前を覚えている程度の人なんか、全然判らない。辞めて今は何をしてるんだろうと思う時もあるが、もういいか。

 昔、一時千葉県に住んでいた時には、全国紙がこぞって異動特集の別冊を作っていた。しかし、東京では「東京新聞」しか出していない。だから、ある時まで4月1日だけ、東京新聞を扱う販売所に異動特集を取りに行ったものである。(今は東京新聞を購読している。)なんで教員だけこんなものが出るのか。個人情報だから嫌だという人もいるようだが、やはり親にとって教員の情報は一種の「公共」であり、「公務員」である証なんだと思うしかないんだろう。
 
 さて、5年経って何が違うと言って、やはりその分、年を取ったということである。人に会いたいという気もほとんどなくなってきた。辞めたら会いたい人が昔はいっぱいいたのだが。自分の中の「ヘンクツ」性が増しているのではないかと思う。もちろん今までもずっとあったんだけど、仕事をしている間は押さえられていた。仕事は役割だから「演技」していればいいが、それが「習い性」になった部分とそうでもなかった部分がある。僕の場合、仕事の反作用として、今はあまり会いたくないのかもしれない。

 今日の題名として「わが夢」と書いた。それは「日本百名山を完登したい」とか「マチュピチュ遺跡やタージ・マハルに行ってみたい」とかいう類の「やりたいこと」という意味ではない。本来の「夜見る夢」のことである。もちろん覚えていないことも多い。だが、昔から同じような夢をよく見る。それは大体「学校」で、どこまで行っても行きつかないような、建て増しに建て増しを重ねた温泉旅館かなんかのようなラビリンスになっている。自分が生徒の時もあるし、自分が教員の時もあるが、大体生徒は両方が入り混じっている。夢というのは、大体が訳が分からないものだろうが、「学校」はいつでも謎である。

 時にはもっと直接に教師の夢も見る。いいことはない。いつも窮地に立たされている。例えば、掃除の時間に掃除を指示するのだが、生徒は誰も見向きもしない。もちろんどこか具体的な学校ではなく、生徒の顔もさまざまなんだけど、自分の声はどこかに遠く消えて行ってしまう。実際にはそんなことを経験したことは一度もないのに、そういう場面が出てくるのである。実際にさまざまの「大変な場面」は経験したけれど、僕の経験ではそういう時こそ「助けてくれる生徒」も必ずいるのである。でも夢の中では、誰も助けてくれない。「世界」に一人で立ち向かっている。

 このような感覚は教員時代にはほとんどなかったと思う。学校はそもそも「個人技」ではなく「集団競技」だから、自分がホームランをねらう時もないではないが、まあバントでいいやと思って仕事をする時が多い。基本、「授業」という持ち場を「保守」することは、自分以外に誰もできないけど、そこに苦労はほとんどない。それ以外の胃が痛いような経験が、今も身体的に残り続けているのかもしれない。嫌だと言っても仕方ないし、どうせならいい思い出の場面だけ夢に見たいけれど、そういう風にはいかないんだろう。「学校」以外に「街」の夢なんかもよく見るけど、どこまでもどこまでも街が続いて行って、家に帰り着くはずの道筋が判らない。そういうのが夢なんだろうが、慣れているから怖いとか苦しいということはない。案外懐かしい感触が残るとも言えるのである。

 目も足もそんなに衰えた気はしないから、映画を見たり散歩する程度なら困ることはしばらくないと思う。現職で亡くなった人が何人もいたことを思えば、まあ元気だと思う。自分が取り組めなかったような、例えば読んでない長大な文学に取り組むようなこともしたいが、それでも「役割意識」は完全には捨てられない。「教員免許更新制反対日記」という旗は、5年経ったから降ろしてもいいような気もしているが、それでも安倍政権が改憲(という名の強権国家つくり)を目論んでいる間は、「反安倍教育行政」の象徴の意味はあるのかなとも思う。人はやむを得ない時間を生きるしかないんだから。
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