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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

錦糸町、新婚時代の街をたどるー僕の東京物語⑤

2025年05月28日 19時55分39秒 | 自分の話&日記

 「僕の東京物語」シリーズは今までずっと小学校時代を書いていたが、今回は一挙に飛ばして結婚して家を出た当時の思い出。前回書いた映画『金子差入店』はTOHOシネマズ錦糸町 オリナスという映画館で見た。時間が合っていたからだが、その錦糸町(きんしちょう)こそ新婚時代に住んだ街なのである。そこで昔住んでいた場所などを回ってみた。この映画館は近くの人じゃないと行かないと思うけど、自分の家からは(1回乗り換えて)駅から駅までなら20分ちょっと。錦糸町駅前には「楽天地」(後述)というビルがあり、そこに「TOHOシネマズ錦糸町 楽天地」というのもあるから間違えると大変だ。(子ども時代の話はまた別に。)

   

 錦糸町は東京23区東部の墨田区にあり、JR総武線で秋葉原から3つ目。2003年に地下鉄半蔵門線が東武線と直通運転するようになって、家から近くなった。北口に出ると、錦糸公園がある。その向こうにオリナスが見えてくる。ここは1997年まで時計の精工舎の工場があった場所で、再開発されて2006年にオリナスというショッピングモールとなった。3枚目の写真はオリナスから見た錦糸公園だが、向こうに「LOTTE」と見えるのはロッテシティホテル錦糸町。1970年から2007年まで結婚式場などがあるLOTTE会館だったが、2010年にホテルとなった。ロッテ会館はもうなかったのか。どこからもスカイツリーが見える街である。

  

 さて、映画を見終わった後で旧自宅を探し始めたけど、これがなかなか見つからない。目標は賛育会病院でその並びの道にあったはずだけど、その病院が見つからない。昔に比べて足のスピードが落ちていて、感覚が違ってしまうのだ。何となく「蔵前橋通り」の手前にあるかと思っていたら、違っていた。ようやく見つけた賛育会病院(上の写真)だが、最近この病院は2回ニュースに出て来た。一つは日本2例目の「赤ちゃんポスト」「内密出産」を準備中というニュース。もう一つは再開発中に東京大空襲で焼けたままの地下室が見つかったというニュースだった。調べてみると吉野作造片山哲が理事長を務めたキリスト教系病院である。

(自宅跡)

 錦糸町駅北口は再開発で全く違っているが、確か古びたマーケットがあって、そこを抜けてひたすら北上すると小さなビルがあった。そこの3階(もしかして2階かも)に1983年10月から1985年春まで住んでいた。1階が八百屋だったのですごく便利だった。当時の勤務先は新小岩駅(錦糸町から各駅停車で3つ目、快速で1駅)だったから、便利だったのである。新小岩から東京方面になるので、家賃はなかなか高かった。最初はなかなか暮らしも厳しかったけど、まあ都心からも近いので、皆で集まったりしたこともある。今は取り壊されて、更地になっていた。何か新しく建つらしい。1983年夏に決めて契約した頃が懐かしいな。

   

 最初の2枚が錦糸町駅北口。大きなバス乗り場になっている。両国方面に続く道は今は「北斎通り」と命名されて、ちょっとした観光地である。ずっと歩いて行くと「すみだ北斎美術館」がある。近くに「すみだトリフォニーホール」「東武ホテルレバント東京」があるが、今回はそっちまで行かなかった。むしろ今は錦糸町北口は「立志舎高校」校舎があちこちに目立っている。1999年に出来た私立通信制高校のはしりで、平日通学コースもある。ホントどこからでもスカイツリーが見える街である。

   

 錦糸町は南口の方が昔から栄えていて、今も駅ビル(一番最初)は北口よりずっと大きい。南口にはマルイ錦糸町店があり、1983年9月に開店したけど、ほとんど行ったことはないなあ。上の方に「すみだ産業会館」が入っている。マルイの隣にある「魚寅」という魚屋・鮨屋はマグロのぶつ切りですごく有名で、南口に出たら誰にでも目に入る。

 

 それより流行っているのは、駅そばの「PARCO」である。もともとここが東京楽天地で、今も上の方に天然温泉施設がある(しかし、男性専用だと出てる。)1937年に小林一三(阪急、東宝の創設者)が作った会社で、当初は浅草(当時東京最大の盛り場)に進出したかったが、浅草は松竹の牙城で東武の根津嘉一郎に懇願されて錦糸町にしたとWikipediaに出ていた。錦糸町にはどうも東京の外れ感がつきまとうが、1986年秋にここに錦糸町西武が開店して、一気に若者の街っぽい賑やかさが出現した。僕はもう錦糸町を離れていたが、それでも近いので行ったことがある。特に楽天地に映画館があったので、そこに行ったのである。

 中でも1986年に開館した(1994年まで)「キネカ錦糸町」という映画館は不思議だった。セゾン系映画館というのがあった時代である。そして堤清二がソ連を訪れて、ペレストロイカ時代に上映、輸出が可能になった映画を大量に買い付けてきて、キネカ錦糸町は「ソビエト映画専門館」になったのである。それが1990年のことで、翌年末にはソ連が崩壊するなど誰も想像していなかった。僕はここでずいぶん変な映画を見た記憶がある。さすがに92年にソ連映画専門館は止め、94年には閉館になった。

 

 「セゾン文化」は池袋や渋谷というイメージが強いが、まさかの錦糸町にそんな映画館があった時代もあるわけだ。西武百貨店というのものも幾多の変遷をたどりセゾングループは解体された。錦糸町西武は1999年にリヴィン錦糸町店、2019年に「錦糸町パルコ」が開業した。そんな錦糸町駅南口に誰も見てない碑があった。明治の歌人・小説家伊藤左千夫の碑だった。『野菊の墓』の作者で、アララギ派の歌人だったが、本職は牛飼いで錦糸町の南の方に牧場があったということらしい。ちゃんと読んでないけど。

 初めて親元を離れで住んだ街で、試験が終わった後で錦糸町楽天地で『プロジェクトA』を見たなあと思いだした。お店がいっぱいある(何しろ八百屋の上に住んでた)街で便利だった。しかし、1年半住んだ後で、急に家を買う話が持ち上がって引っ越すことになった。新婚生活を送った「短い錦糸町時代」である。

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誕生日で「古稀」となる日、『東海道四谷怪談』を見に行く

2025年05月25日 21時56分55秒 | 自分の話&日記

 5月24日が誕生日だが、小さい頃に特に何か大イベントを行う家じゃなかったので、ただいつもと同じ日が来るだけである。正月なども同じ。元プロ野球選手江川卓と同じ日に生まれているが、今年で何と「古稀」である。目出度くもなんともなく、驚くしかない。まあ、そういう日が来るのはやむを得ないけど、古来稀かもしれないが今なら「ごく普通」だろう。もっともすでに亡くなっている同級生もいるのだが、自分はこれから「喜寿」「傘寿」に向けて「現状維持」を続けて行ければと思う。

 たまにはそんな日を日記風に。最近急に暑くなっていたのが、また涼しい曇天になり、気持ちも弾まない。ノンビリ寝ながら新聞をじっくり読む。土曜日は書評が載ってるので、特にじっくり読みたい日。それにしても世界情勢を見ていると、こっちまで気がふさぐ。土曜日なので自分で作ってスパゲッティを食べる。箱入りのアラビアータをさらに辛くして満足した。

 この日は国立映画アーカイブ中川信夫監督特集に『東海道四谷怪談』を見に行く予定。事前にネット予約しなくてはならず、平日などほぼ高齢者ばかりなのに、改善なのか改悪なのか。コロナ禍をきっかけにそうなってしまった。シニア割引310円なのにカードで買うわけである。『東海道四谷怪談』(1959)は日本の怪談映画の最高峰と言われ、僕も前に(確か2回)見ている。しかし、しばらく見てない。6月中旬にもう1回上映があるが19時なので、土曜日12時30分の回に行くしかないのである。

 原作をコンパクトに77分にまとめているが、冒頭に「備前岡山」と出るのでビックリ。行ったばかりの岡山から始まるとは。もちろんセットだが、民谷伊右衛門が岡山藩浪人という設定である。原作は「裏忠臣蔵」なので、民谷伊右衛門は赤穂浪士(塩冶家)ということになるが、この映画はそこには全く立ち入らない。冒頭の長回しからシビれる映像美に改めて驚く。まあ知ってる展開だし、そもそも全然怖くないけれど。主演は天知茂だが、お岩の若杉嘉津子がわからない。よく77分で作れたと感心する。

 上映後に高橋洋のトークがあった。ホラー系はほぼ見ないので知らなかったが、『リング』『おろち』などの脚本を担当し、『恐怖』『霊的ボリシェヴィキ』などの監督作品がある。お岩の墓の写真を(お参りなどせず)ただ撮ったら、帰りに顔が腫れてきたなどと言っていた。終わったらすぐに帰るが、京橋駅から地下鉄銀座線に乗ると、行く時もそうだったけれどほぼ外国人なのである。浅草、上野、銀座、渋谷を結ぶ路線だし、浅草へ行けば銀座線で都心に出るしかないのだが、それにしても多い。

 地元駅近くのケーキ屋「トロワフィーユ」に寄ってケーキを買う。自分で買うのもなんだけど、どこで買うか候補がある中で、妻から「お金出すから自分で好きなところで買ってくれば」となったのである。ま、結局地元になるが、ここはホントに美味しいのである。だけど、ずいぶん高くなった。お互いの誕生日ぐらいしか買わなくなってしまった。いろいろここにしかないケーキがあるんだけど、いろいろと買った今は(定番過ぎてつい忘れる)「ショートケーキ」「バスクチーズケーキ」が良いと思う。

(トロワフィーユ)

 帰って大相撲を見る。(というか、そのためにすぐ帰る。)優勝も決まってしまったが、やっぱり本場所最終盤となると見てしまうのである。蕎麦を食べ、ケーキを食べた後は、今度は世界卓球。普段の土曜だと、テレ東の旅番組(充電バイク旅とか)からアド街を見てしまうことが多いが、そのテレ東が世界卓球だから、まあ付けてしまう。相撲と卓球、感想を書き出すと長くなるから書かないけど、ずっと見てるわけでもなく、でも時々は集中してしまうのがスポーツ番組というものだ。

 お風呂に入った後、金井美恵子の『小春日和』(インディアン・サマー)を最後まで読み切る。図書館で借りてきた「目白シリーズ」の一冊である。『文章教室』という変で面白い本を読み、次の『小春日和』は会話体なので一気に読んだ。「桃子」という語り手が大学に合格して、目白に住む「小説家の叔母」の家に間借りする一年ほどの話。この桃子が独特なのだが、驚くほど先見的な展開にビックリ。入学した大学は「立教大学」であると読んでいると判ってくる。花子(自称)という友人が出来て「桃花」コンビになる辺り、蝶花楼桃花を思い出してしまった。もちろん単なるおしゃべり小説じゃない。いずれまとめて。

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進学教室と中学受験、地下鉄で都心へー僕の東京物語④

2025年04月26日 22時00分01秒 | 自分の話&日記

 毎月1回書いている「僕の東京物語」。別に年齢を追って書いていくつもりじゃないんだけど、まあ幼い頃から始めたのでその続き。ホントに幼少時の思い出は自宅周辺か、前回書いた親に連れられた浅草である。小学生低学年までは、もちろん親に連れられて電車に乗っていた。さらに北千住で常磐線に乗り換えて、上野動物園にも行ったと思う。その際、車窓から「お化け煙突」を見たのも覚えている。しかし、基本的には学校と通学路(ほぼ田んぼ)の周りで遊んでいた時代である。

 自宅では「広い庭」で野球ごっこをしたりしたと思うけど、今も同じ家に住んでいるんだから、庭が広いんじゃなくて自分が小さかっただけである。それなのに庭があんなに広く感じていたなんて…! そして次第に成長するに連れ、周囲の農地はどんどん宅地開発され、移り住んできた子どもたちが転校してきた。生活レベルなどが似ているので、すぐに友だちになったのである。

 自分たちは高度成長さなかの「都市近郊中産階級」だったから、そういう子どもたち目当ての「習い事」がいっぱい出来始めた。自分もずいぶん通ったけれど、自分から行きたいと言ったものは一つもない。確かオルガン教室とか児童画教室、書道などに行ったはず。ものすごくイヤだったわけじゃないけど、何一つモノにならなかった。地域の野球チームからも誘いがあったが行かなかった。英会話とかスイミングスクールに行ってないのは、東京東部にはまだそんなものがなかったのである。

 しかし、小学校高学年になると「進学教室」に行くようになった。日曜日ごとに模擬テストと講義があるもので、今もある「四谷大塚」ではなく、いつの間にかつぶれてしまった「日本進学教室」(日進)に通っていた。平日毎日学校へ行ってるのに、何で日曜まで朝早く起きて都心まで通ったのか。いま思うと不思議だが、自分では楽しかったのである。それは「学校では教えて貰ってないこと」を先取り学習出来るからだ。芸術、スポーツ系よりも勉強の方が面白い子どもだったのである。

 多分中学時代も行ってたと思うんだけど、勉強よりも面白かったのは「一人で電車に乗って都心に出かけること」だった。1962年に(と今調べたんだけど)東武線と地下鉄日比谷線の直通運転(当初は人形町まで、1964年に全線開通)が始まり、最寄り駅から上野、秋葉原、銀座方面まで一本の電車で行けるようになった。そして1969年に地下鉄千代田線が大手町まで開通すると、北千住で乗り換えて新御茶ノ水まで行くことが多くなった。ここで国電お茶の水駅に乗り換えようと思うと、ひたすら長いエレベーターに乗らなくてはいけない。後から出来た路線ほど深い地下鉄になる。Wikipediaを見ると、長さ41mで当時「東洋一」だったという。

(千代田線のエレベーター)(乗り口)

 何で乗り換えるかというと、原宿まで行くことが多かったからである。つまり、中央線快速でお茶の水から新宿、そこから山手線で原宿である。今は新宿や中野方面に行く時(地下鉄を使わない場合)、日比谷線秋葉原駅を使うことが多い。しかし、当時は地下鉄秋葉原駅ホームから改札を通り、さらに地上まで。そして国電(首都圏の国鉄を「国電」と呼んでいた)の中央線ホームまで、どこにもエレベーターがなく、ひたすら階段を上っていたのである。もちろん真夏でも冷房なしだから、新御茶ノ水を使いたくなる。

(日本社会事業大学原宿キャンパス)

 原宿は今と違って若者が集まる町じゃなかった。そこに日本社会事業大学があった。ここは何か凄く古めかしい立派な建物だったが、今調べると旧海軍将校会館だったという。1989年に大学は東京西部の清瀬市に移転し、今は原宿署になっている。そこを日曜日だけ借りて、進学教室が行われたのである。60年代末のことだから、キャンパス内は「米帝打倒」(一応書いて置くと「米帝」とは、アメリカ帝国主義である)とか大書したタテカンが林立していた。小学校高学年にして、独特の文字で書かれた左翼用語に詳しくなってしまったのである。もちろん中身はよく理解出来なかったのだが。

 そして、一応「中学受験」をしてみた。別に特に国立、私立の名門校に行きたいわけでもなかった。まあ「実力試し」である。歩いて30秒のところに中学があり、どっちかと言えば体が弱かったので(車酔いするから遠足なんてユーウツ)、毎日電車に乗って遠くの学校へ行きたいとは心底思ってなかったのである。確か慶応に落ちたが、どこか国立附属で補欠となった。まあ補欠まで合格になるはずもなく地元の公立中に行くのだが、この経験は自分にとって「何でもない」ものである。

(お茶の水駅)(丸善)

 それより「進学教室」へ行ったことは、自分が一人で電車に乗って都心に出られるようになったという意味が大きい。新御茶ノ水駅を出ると、そこに「丸善」があった。大型書店である。さらに駿河台を明治大学沿いに下りていくと、そこには三省堂書店、書泉ブックマート(今はなし)、書泉グランデ、東京堂書店など、さらに古本屋街が広がっているということを知った。夢のような町じゃないか。小学生の頃から本が大好きだったのである。岩波ホール閉館後も、古い日本映画をやる「神保町シアター」に時々行くのだが、今も行き帰りに本屋へ寄ることを楽しみにしている。(この前書いた『隙間』は東京堂で買ったのである。)

 「リアル書店」に最近行ってないという人もけっこう多いんじゃないか。何しろ町中華は残っても、町本屋が絶滅しかかっているのだから。でも特に「大型書店」独特の匂いは時々行かないと「禁断症状」が出てしまう。進学教室体験が自分に残したものは、結局「神保町書店街の発見」ということになる。小学生から行っていたわけである。

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「Google Pixelを使ってます」?ースマホの機種変更記 

2025年04月21日 20時16分34秒 | 自分の話&日記

 いつもは大体第2月曜のことが多い「新聞休刊日」が今月に限って第3月曜なのは、大阪・関西万博が理由ということなんだろうか? とにかく今日は朝刊がないので、朝じっくり新聞を読むことを日々の大きな楽しみとしている僕には残念。しかし、その分朝早く行動可能だから、どこかへ行こうか、それとも朝早くから映画を見ようかなどと思っていたところ、昨日の夜になって突然日程が大きく変わってしまった。妻のスマホが壊れて、画面が真っ暗で全く動かなくなってしまったのである。

 そんなことをいちいちブログに書いて報告することもないんだけど、これは自分の備忘でもあるので一応書くことにする。そういうことをしてきたから、僕がスマホに変えたのは『スマホにしてみたけど…ぼくのケータイ遍歴』を読むと、2017年7月だと判るのである。その頃もう周囲の多くがスマホにしていたが、別に使えれば何でも良いので、昔の「ガラケー」をずっと使っていたのである。この時も妻のケータイが壊れて、その時にインターネットや固定電話ともどもNTTにまとめたのだった。

 それから8年近いから、スマホ的には替え時なんだろう。去年ぐらいからバッテリーが不安定になることが多く、そろそろだなとは思っていた。時々「今なら安い」みたいなお得情報があったが、まあ面倒なので放って置いたわけである。そしてやむを得ないから、自分のスマホを含めて今日買い換えた。それが「Google Pixel」(グーグル・ピクセル)なのである。今までAndroidなので、今さら高いiPhoneにする必要もなく、まだ「らくらくスマホ」でもないだろう。と思うと、日本のメーカーもあるんだけど、デザインや重さ、大きさなどを比較して、グーグル・ピクセルが良いと思ったわけである。

(Google Pixel)

 いや、しかし、それからが大変。数多くの書類にサインしてはカードで支払い。その間ずいぶん時間が掛かるが、もっと大変なのは「データ移管」だった。そして実はついに僕のメールアドレスの住所録は移せなかったのである。もう全然使うことがないと思いながら、ずいぶん前の卒業生のデータも残っていたのだが、これでついにお別れになりそうだ。まあ前のスマホは生きているので、移そうと思えば出来るわけだが、もう使うこともないんじゃないかと思う。それで電話番号は最初からずっと変わってないので、その気になれば連絡は可能なはずである。まあ、こんなことでデータが(画像も)なくなってしまうとは思わなかった。

 ところで、それより後で気付いた大きな面倒があった。それは「Google以外のアプリが入っていない」ということである。ドコモと契約しているのに、ドコモとの契約メニューを確認、変更出来る(あるいは通常はニュースや天気予報を見る)「dメニュー」さえ入ってないのだ。もちろんFacebookLINEXインスタグラムなどのアイコンもない。(ちなみに歩数計もなくなってしまった。)もちろん自分でインストールすれば良いわけだが、何だかしばらく面倒くさい。

 スマホショップというのは、まったく病院みたいなところで、何時間もずっと待ち続け、わかるようでわからないような話を聞いて、幾つもの書類にサインする。今日は病院に行って検査を受けたような気疲れで、しばらくスマホを見たくない。

(日本のスマホメーカーランキング)(世界5か国のスマホメーカーランキング)

 さて、最後にちょっと違ったことを書いて終わりたい。それは日本で売れているスマホのメーカー別ランキング(2024年、最初の画像)を見ると、アップル、シャープ、グーグル、サムスン電子、シャオミ(中国)となっている。一方、アメリカのメーカー別ランキング(次の画像の右上、2022年)を見ると、アップル、サムスン電子、レノヴォ、TCL(中国)、グーグルになっている。その後グーグルが増加しているようだが、昔はある程度売れていた日本メーカーとフィンランドのノキアは消えてしまった。(ノキアはMicrosoftとの協力を中心に事業を展開し、Androidスマホに遅れを取ったらしい。)

 日本のメーカーはソニー、京セラ、シャープ(まあ台湾資本になるんだろうけど)がスマホを作っているが、世界的にはアップル、サムスン、中国勢の争いに敗れてしまった。そこにGoogleが直接乗り込んでいるわけである。で、何が言いたいかというと、「日本はアメリカの自動車を買わない」(買いたくても買いたい車を売ってないわけだが)と言われたら、「アメリカは日本製のスマホを買ってない。Why?」と言い返せばいいじゃないか。今は自動車よりスマホの時代だろ。

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大変gooブログがなくなる!当面このまま続けきます(附・大腸検診の話)

2025年04月14日 19時55分21秒 | 自分の話&日記

 金曜日(11日)が血圧関係の通院日で、今日月曜日(14日)が大腸内視鏡検査の予約日だった。去年4月末に検査を受けて、悪性ポリープが見つかって2泊3日の入院となった。それから1年後の検査で、やっぱりやった方がいいという話なので予約したのである。経験者は知ってると思うけど、前日は検査食しか食べられず当日は朝から水に溶かした薬を大量に飲み続ける。なかなか大変なので、今日もブログはお休みしたいなあと思っていたんだけど…。朝方パソコンを見たら、ブログに大変なお知らせが載っていた。

(サービス終了のお知らせ)

 なんと「サービス終了のお知らせ」というのである。2025年11月18日でサービスを終わると書いてある。NTTドコモがやってるgooブログはなくならないと思い込んでいたんだけど…。もちろん今すぐではない。新規投稿は9月30日で終了で、11月18日で終わり。ということは10月以後11月18日までは旧記事閲覧のみ可能ということなんだろう。

 で、どうしたらいいだろう? 取りあえず新しい引っ越し先を探して、ブログは継続したいと思ってます。それは夏頃を予定し、しばらくはこのまま今のまま新規投稿を続けたいと思っています。別にやめてもいんだけど、継続して読んでくれてる人もいるし、自分でもブログを書くからニュースをちゃんと気にし、映画もいっぱい見に行くというところがある。書き出すと毎日のように書いてしまい、なかなか疲れるんだけど、やはり脳と足のトレーニングになってる。やめると「老化」が進行してしまいそう。

(今後のスケジュール)

 このgooブログでは、自分でも多くブログを読んできた。布川事件の桜井昌司さんのブログなど毎日読んでたけど、亡くなってしまった。それでも沖縄の芥川賞作家目取真俊さんの「海鳴りの島から」など幾つかのブログを読んでいる。このような社会問題、社会批判を発信出来るのも良いなと思って、2011年2月に(翌月に退職を控えて)ブログを開設するとき、ここを選んだのだった。

 現時点(2025年3月13日)のアクセス数を調べると、全部で「3201929ブログ」と出ている。下4桁は日々違っているけど、ここしばらく320万人以上が登録している。(その中でこのブログは、平均すると300~400位ぐらいの順位になっている。昨日は新記事を書かなかったから、530位だったけど。まあ特に宣伝してない割には、少しずつ読まれてきている感じ。)

 300万人以上が利用しているブログが終了するというのは、ちょっとしたニュースじゃないかと思うけど、今のところニュースサイトには全然出てないようである。理由も何も説明がないから、なんで終わるのかは不明。まあ運営が大変になっているのかなと推察するしかない。社会的意義の大きなブログもあったから、どこか(国会図書館とか)で保存する必要があると思う。

 さて、ということで夏頃までは今まで同様なんだけど、引っ越すに当たって記事の大整理をしたいと思っています。10年以上書いてるから、時事的なニュースはもう意味が薄れたものが多い。映画なんかも新作映画が全然評価されず、誰も読まない記事が結構ある。その点、本は古びないので文学記事が案外読まれ続けるのが不思議なものである。

 従って、整理に先立って、保存しておきたい記事(画像を含めて)がある方は個人でも保存してくださるようお願いします。記事自体は引っ越し出来たとしても、画像やコメントは引っ越せないようなので。一応お知らせしておきます。

 さて、大腸内視鏡検査、自分でパソコン画面を見ていてキレイだなと思ったのに、ポリープがありますとちょっと取られてしまった。その病院は、この地区で初めてAI診断を取り入れたと待合室で宣伝していた。そこで思い出して見ると、画面に色で指摘する箇所があったような気が。写真で見ても(素人には)判別できないところにポリープがあったという話。

 まあそれで良かったんだろうけど、そろそろどこかへ出かけたいのに旅行は1~2週間控えてと書いた紙を渡されてしまった。でもまあ今年は入院しなくて済んだから良かった。ということでこのブログを書いてるわけです。

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牛島神社から浅草へ、春のうららの隅田川ー僕の東京物語③

2025年03月28日 22時19分04秒 | 自分の話&日記

 「僕の東京物語」3回目はちょっと外に出てみたい。今年の冬は寒さが長かった。ようやく暖かくなってきて(むしろ暑いぐらい)、本来なら東京の桜も満開になるはずが、今年は少し遅れている。しかし、雨の予報もあり昨日(27日)隅田川近辺を浅草まで歩いて来た。ここらはいろんな意味で思い出やゆかりのある場所だが、まずは東武線で浅草から2駅目の曳舟駅で下りて川縁まで出て、ノンビリと隅田公園隣の牛島神社へ。ここは有名な「隅田川七福神」には入ってないけど、本所の総鎮守とされる大きな神社である。なんでここへ行くかというと、僕の名前はここの神主さんが付けてくれたらしいからである。

   

 僕の両親は当時墨田区の押上(おしあげ)に住んでいて、牛島神社を訪れて命名を頼んだらしい。もちろん「そう聞かされた」という話で、それっきりである。特にその後節目節目に親とともに参拝したとかいう事は全くなく、僕がここを見るのも初めてじゃないけど3回目ぐらいだと思う。概して自分の親たちは日常的に神社仏閣に行くことはなく、一家で初詣に行ったという記憶もない。なんで「修一」なのかも知らないし、名前に良いも悪いもないと思っている。まあ、あえて言うなら「なんて読むか不明な名前」よりはいいけど、「普通一つしか読み方がない名前」より「訓読み以外に音読みも可能な名前」の方が好きなんだけど…。

    

 曳舟駅から水戸街道、墨堤通りと大きな道を横切って西の方へ向かうと、長命寺(3枚目)に出る。その真裏にあるのが山本屋(1枚目)で、東京名物の「長命寺の桜餅」を売ってる店である。僕は大好きなんだけど、いつもは中で食べられるのに桜祭り期間は持ち帰りだけとあって買わなかった。ここの2階で昔正岡子規がひと夏を過ごしたとか。「正岡子規仮寓の地」説明板がある(2枚目)。そこら辺のことは伊集院静の小説『ノボさん』に詳しい。川沿いを歩くと、桜餅屋の裏がお寺という感じ。多くの碑があるが、4枚目は幕末明治の文人成島柳北の碑。気付かない場所に木の実ナナの碑があったのはなぜだろう?

    

 堤防を上ると川沿いに歩道がある。「春のうららの隅田川」とつい口ずさみながら散歩することになる。しかし、案外空が澄んでないのは、この日は黄砂だったのである。近くにある「とうきょうスカイツリー」が大きくそびえている。2枚目は「桜橋」で、1985年に作られた観光用のX字型の橋。いろんな映画やテレビドラマに出て来る。例えば『PERFECT DAYS』で役所広司が自転車で通っていた。3枚目が上流側、4枚目が下流側である。本来3月末は両岸一体が桜の花でいっぱいなんだけどな。

    

 この辺りには有名な寺社がいっぱいあって、正月には七福神めぐりをする人で一杯になる。僕は大分行ってないが、近くに勤務したこともあり、この辺りは既視感が強くて面白くないのである。一応写真を撮ってみたが、最初は弘福寺(ぐふくじ)で、すごく立派なお寺だった。2枚目、3枚目は三囲(みめぐり)神社。そこにはライオン像があって、これは三井家ゆかりの神社のため閉店した三越のライオン像が寄付されたんだという。七福神めぐりではこの神社だけ恵比寿と大黒の二つが祀られている。

   

 三囲神社近くに「すみだ郷土文化資料館」がある。いまは東京大空襲80周年の展示をやっている。20年前の「60年」時に見に行ったが、その頃は近くの定時制高校に勤務していて空襲を経験した高齢の生徒が通っていた。僕は東京東部の学校に20年ほど勤務したから、関東大震災や東京大空襲には無関心ではいられない。まあ今回はパスして、牛島神社に寄って、浅草へ。東武鉄道の鉄橋の下に「隅田川リバーウォーク」という歩道が出来て、最初の写真。渡ると「すみだ川」の看板の向こうにスカイツリー。東武線は浅草松屋の2階に吸い込まれる。1931年完成の駅ビルである。ここには小さい頃から何度も行っている。

  

 小さいときから何回も浅草へ行っているのは、父親が東武鉄道勤務で昔は「家族パス」があったからである。家から都心に出るには、僕の幼いときは東武線しかなかった。(後に地下鉄日比谷線が出来る。)パスで改札を通り浅草まで直行できる。それなら母親が連れて行くはずである。そして屋上には遊園地があって、子どもを遊ばせるのに最適。だから浅草寺や仲見世じゃなく、デパートだけが多かったと思う。昭和30年代には浅草は東京を代表する盛り場だった。だけど、母親は当時の世代によくいる「デパート好き」だった。そういうことで、僕の家や近所以外の記憶としては、浅草松屋の屋上になってくる。

 屋上遊園地は2010年まであったらしい。昔の映画を見ると、デパートの屋上でデートしたりするシーンがよくある。その後は夏にはビアガーデンになったりしてると思う。ちょっと前まで、隅田川対岸のアサヒビール本社ビル、屋上に奇抜な炎のオブジェがあって、皆が「○○○」ビルと呼ぶのが間近に見えていた。もちろん今も間近なんだけど、間にずいぶんビルが建っている。そうだったっけ。ちょっと前まで対岸から松屋もよく見えた気がするが、今回行ってみると案外見にくい。スカリツリーが真ん前に見えるので、松屋の屋上は狙い目の写真スポットである。今のところ奇妙に思えるほど外国人観光客に発見されてない。

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小学生の頃、東京五輪(1964)とカナダ太平洋航空機事故ー僕の東京物語②

2025年02月24日 21時51分06秒 | 自分の話&日記

 「僕の東京物語」の2回目。前回東京近郊の農村地区で育った話を書いた。僕があぜ道の中を通った伊興小学校は何と1874年開校とうたっている。もっとも分校として出発したらしいが、とにかく150年の歩みを持っているのだ。そして、ここは母親の母校でもあった。母方の大家族に同居していたわけではない。たまたま母の実家近くに、東武鉄道の建売住宅が作られた。両親は昭和20年代にともに東武鉄道に勤務していて知り合った。そして東武が住宅開発に乗り出した最初の戸建て住宅を買ったわけである。これが今も自分が住んでいる土地で、僕が足立区北部で育ったのは偶然ではない事情があったわけである。

 小学校時代はまだまだ辺りは田園地帯で、小学校も小さかった。(今なら近くの別の小学校に通ったはず。)全部で4クラスである。個人的な思い出はいろいろあるが、当時の世の中に関わる記憶を書いてみたい。小さな頃は家に電話がなかった。もちろん今「固定電話」と呼ばれているもののことだ。当時はクラスメートで電話がある家はまだ2割程度だったと思う。PTA会員名簿には、(呼)という番号が書かれていて、近所の電話がある家の番号が書いてあった。子どもは学校で怪我したり発熱することがあるから、近所の電話がある家が連絡先になっていた。まあ、そういう状態は小学校時代に終わったと思うが。

 日本の高度経済成長とともに、急激に電化が進んでいた時代である。電気器具のいわゆる「三種の神器」、冷蔵庫掃除機白黒テレビは、小学校低学年時代にそろったと思う。つまり、僕は「テレビがない時代」を覚えているのである。小津安二郎監督の『秋刀魚の味』(1962)に掃除機を買うかどうかという話が出て来るが、まさにそういう時代だった。お風呂も薪を焚いて沸かしていて、僕も子どもながら薪割りをしていた。もちろん家の風呂は毎日入るものじゃなかった時代である。

 そんな時代の東京に一大イヴェントがやってきた。東京オリンピックである。当時は小学校3年だったはず。確か高学年になるとあまり人気がない競技の見学に行っていたと思うが、僕たちは教室で「テレビ観戦」していた。突然各教室に白黒テレビが配備され、授業として見て良かったのである。もっとも何を見たかあまり覚えてない。今でもそうだけど、重要な決勝などは夜になるわけで、大事な試合は家で見たんじゃないか。だから一番の思い出は、開会式(1964年10月10日)の「五輪の輪」になる。

(開会式当日に「五輪の輪」)

 そしてもう一つは閉会式だった。開会式も記憶にあって、当時としては最多の参加国が行進した。NHKテレビの放送で北出清五郎アナが各国の名前を読み上げていった。それをマネ出来るというのが僕の世代には時々いるが、僕もある時期までは出来た。そして1945年8月6日に広島県で生まれた青年(坂井義則=早稲田大学競走部所属。後フジテレビ社員、2014年没)が聖火ランナーとして登場した。そういう事情は子どもながらに全部知っていて「平和の祭典」だと思って喜んでいたのである。そして祭りは終わる。最後の閉会式は隊列が崩れ参加者皆が手を取り合っていた。そういう式もアリなんだと非常に強烈なインパクトを受けた。

(閉会式)

 もう一つ強烈な思い出は1966年3月4日に羽田空港で起きたカナダ太平洋航空機事故である。1966年は歴史に残る悲惨な飛行機事故が続いた年だった。まず2月4日に全日空機羽田沖墜落事故(死者133名)、一月後のカナダ太平洋航空機事故(死者64名)、そして翌日にはBOAC(英国航空)機空中分解事故(死者124名)、11月13日に全日空機松山沖墜落事故(死者50名)と乗客に大きな被害が起きた航空事故が日本で連続したのである。その後、さらに大規模な事故、特に1985年の日航機事故があり、当時を知っている人でも1966年の悲惨な連続事故は忘れている人が多いのではないかと思う。

(カナダ太平洋航空機事故)

 その中でも特にカナダ太平洋航空機事故を覚えているのは、この事故で同学年の女子が亡くなったからである。もっともその子と話した記憶はない。一度も同じクラスにならなかったからだ。でも名前と顔は知っていたのは、割合有名な一家だったからだろう。父親は仕事でシンガポールに赴任していて、母親とその子も確か途中でシンガポールに行った。そして記憶で書くと新学期から日本に戻るということで、父に先立って母子で帰国したという話だったと思う。だから3月4日という日付になる。

 話したこともないんだから個人的な思い出はない。しかし、初めて「」が日常的な世界に飛び込んできたのが衝撃だったのである。しかも新聞の一面に名前が載るような形で、知り合いが登場した。そんな風に事件事故に巻き込まれた知人はその後もいないのだから、子どもとしては強烈な思い出になるわけである。その後少女雑誌(「少女フレンド」とか「なかよし」とか)が取材に来たのも覚えている。友だちだった女子に「窓のそばに立って」「空の方を見て」とか振付をして「悲しそうな顔」の写真を何枚も撮っていった。そういう「演出」をして写真が「作られる」のだということも初めて知ったわけである。

 先ほどの事情から母子ともに亡くなり、残された父親はその後小学校に遊具(ジャングルジムなど)を寄贈した。今年の正月に見に行った時には無くなっていたが、半世紀以上前のものが残っているわけもないだろう。しかし、そういうエピソードがあったということは、誰かが語り継いで欲しいなと思う。その後僕は地理や歴史に関心を持つようになり、新聞も毎日読むようになった。そんな話はまた別の機会に書きたいと思う。

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東京23区の北の端でー僕の東京物語①

2025年01月26日 22時02分44秒 | 自分の話&日記

 2年前まで日本の山や温泉を毎月1回書くシリーズを書いていた。それを終わりにした後で、なんか違うシリーズを始めたいと思ったけれど、ちょうど母親の入院と重なって書く機を逸してしまった。それが「僕の東京物語」である。実は東京新聞の最終面に「私の東京物語」という連載コラムがあって、著名人がそれぞれの東京の思い出を書き綴っている。まあ、それと同じなんだけど、自分なりに関わりのあった思い出の地を書き残してみようかと思ったのである。

 このブログを書き始めてもう15年ぐらい経つ。いつまで書けるか知らないが、まあ誰かと同じようなことを書いても仕方ない。絶対に誰も書いてないのは、自分自身の思い出である。とは言っても自分の仕事は教員だったから、面白いエピソードは大体「個人情報」に触れてしまう。そこで「場所」の方をメインにして書こうかと思いついたわけである。 

 「自伝」とは違うけど、まあ最初は自伝的に。僕は東京23区の北の端、足立(あだち)区という所で育った。1歳まで墨田区にいたらしいが、当然記憶はない。記憶は足立区から始まる。と言っても、全国的にはどこというイメージが湧かないと思う。北千住西新井大師があるが、東京人でも行ったことがない人の方が多いだろう。この前書いた寅さんゆかり、あるいは「こちら葛飾区亀有公園前派出所」(または「キャプテン翼」)に関係する隣の「葛飾(かつしか)区」の方が有名だろう。

(足立区立伊興小)

 しかし、足立区だろうが葛飾区や他の区も含めて東京23区の周縁部は、高度成長時代以前はほぼ農村地帯だった。ただ西の方は畑が多かったが、東の方は田んぼが主流だった。つまり、僕が小学校に通っていた時代には、通学路はほぼ水田地帯だったのである。あぜ道を歩いて通学していたのである。春になるとレンゲが咲き、やがて田植え、秋に稲刈りがあり、木に掛けて干す。それを「稲架掛け(はさかけ)」というらしいが、その一連の仕事を見て育った。冬になると、水田の水は落とされ乾いたところに鷺がよく来ていた。そうやって、就学時期が来て「足立区立伊興小」に通学するようになった。

 ということで伊興小に行ってみよう。行ったのはお正月のころだけど、アレ、どこだ、迷ってしまったじゃないか。仕方ない、スマホで検索するかと思ったら、スマホがないじゃないか。時々スマホを忘れて出てしまうのである。小学校は駅に行くのとは方向が違うので、もう半世紀以上ちゃんと行ったことがない。そうすると行き方を忘れてしまうのである。そんなことがあるのか。

 翌日地図を確認して出かけたら、ようやく着いた。こんなところにあったのか。案外遠いのに驚いた。子どもは元気だし、皆で行っていたから、遠さは感じてなかった。今はネットが張りめぐらされていて、写真を撮りにくい。ボール飛びだし予防もあるが、写真を撮りにくくする意味もあるのかもしれない。子どもがいたら、盗撮っぽくて撮りにくい。だから正月に行ったわけ。 

(校庭)

 校歌の2番をホームページで確認してみると、「東に筑波 西に富士 平和の旗はたなびきて 自由のかねのなるところ」とある。この歌詞とメロディは今も覚えているが、「平和」「自由」はいかにも「戦後の校歌」という感じがする。ところで、このように富士山筑波山を対比させる校歌は、自分が通学通勤した学校に多かった。しかし、もう僕の子ども時代に筑波山は見えなくなっていた。家が建ち並び始めていて、標高が低い筑波は見えないのである。しかし、特に空気が澄み渡る冬になれば富士山はよく見えた。今は家からは見えないが、電車に乗って荒川鉄橋を渡るときなど富士山がよく見える。(冬だけだが。)

(今は家ばかりの通学路)

 小学校2年、3年時の担任の先生は片足が悪かった。傷痍軍人だったのである。そしてバイオリンが得意で、時々弾いてくれた。図工の時間にはよく校舎外に「写生」に行かせてくれた。学校の周りは田んぼで、田植え前の時期にはレンゲがキレイ。周りにメダカがいる小川が流れていて、その辺りに腰掛けてスケッチするのである。時間があったらレンゲを摘んで首飾りを作ったり、皆で遊び回る。そんな自然環境が東京23区だけど、1960年代にはまだ残っていたわけである。

 自分の家で飼っていたニワトリがイタチに襲われて全滅したのも覚えている。そんな地域に住んでいたわけだから、周囲は空き地だらけ。「秘密基地」みたいな隠れ場所もいっぱいあったが、それらはほぼ1970年前後に無くなった。昨日まで遊んでいた雑木林が、今日見たら重機が入って土地がならされていた。そこに住宅が建って、あっという間に開発されていった。もともとただの郊外農村だったから、特に伝統ある祭りとか名物など何もなかった。そして風景も変わってしまった。

 僕には昔から「アイデンティティの拠り所」がないという気持ちに囚われていたが、それはこういう環境で育ったことが大きいと思う。僕の若い頃に「外地帰還者の文学」が注目されていた。僕はそういう体験とは違うけれど、何か似たような通じるものがあるのかと思う。僕が若い頃に感じていたのは「居場所が失われていく」という感覚だった。いつの間にかなじんでいた風景が無くなってしまうのである。今は肯定的なイメージで語られる「高度成長」だが、中で生きている時は激しい変化に付いて行くことが大変な時代だった。だから僕は「故郷がない」という感覚で育っていくのである。

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これからどんどん大変になる遺産相続ー相続を考える③

2024年05月02日 22時19分42秒 | 自分の話&日記
 遺産相続を通して考えたシリーズ3回目(最後)。1回目は相続財産確定が大変な話。2回目は不動産があると自分では難しいという話。3回目は最後にまとめとして、相続が難しくなっていく様子を考えておきたい。相続は「相続財産額」と「相続人数」で決まってくる。この相続人数の確定もなかなか大変である。もちろん自分にとっては、相続人数は判りきっている。親と兄弟姉妹の数だから自分は知っている。しかし、本当にそうなのか証明せよと言われると、これが結構大変なのである。

 「自分が自分である証明」も昔よりはるかに大変になった。何でもかんでも「本人確認書類」がいる。昔はそんなものはなかったのである。母親が主に使っていた銀行は「みずほ」で、自分が使っている銀行は「三菱UFJ」だが、初めに預金したときの名前は別だった。親が家を買った東京近郊は僕の幼少期には田畑ばかりだったが、どんどん住宅や団地、商店が建ち並ぶようになった。地区の発展に合わせて、駅周辺に銀行が作られていった。それが「富士銀行」や「東海銀行」だったのである。

 まあ僕の世代なら、金融危機などがあって銀行がどんどん合併していった様子はよく覚えている。そして、僕は東海銀行に口座を作ったのだが、開いたのは母親である。中学だか高校だかの時に、勝手に作ったのである。親なら子ども名義ですぐに口座が開けたのである。僕の「本人確認」などもちろんなかった。まだ銀行カードもなかった時代である。今じゃ考えられない。

 ちょっと脱線したが、「相続人数を確定させる」とは、つまり父母に他の子どもがいないかどうかということである。そんな話は聞いたことがないけど、それを証明せよと言われると面倒なのである。結局は生まれた時から死んだ時までのすべての戸籍を集めるということになる。この話は前に書いたことがあるが、異様に面倒だった。旧憲法時代の生まれで、「家族制度」があったからである。今と違って「母の父親」も「戸主」の戸籍に入っていたのである。

 だけど、そんな人は知らないし、ひょっとすると祖父の名前や出身地も知らない人がいるんじゃないだろうか。自分の場合、祖父の戸主の戸籍に母の出生が記録されていた。その後、祖父が分籍して戸主となり、さらに結婚で(僕の)父親の戸籍に移った。その戸籍は父方の祖父が住んでいた市にある。結局全部集めると、何十枚にもなってしまうのだった。もちろん戸籍謄本を申請するときには、僕の本人確認書類が必要になる。

 銀行や証券会社で相続手続きを行う場合、原則的にはその「すべての戸籍」の提出が必要になる。じゃあ、何通取ればいいんだと思うが、それを解決する方法があった。「相続情報一覧図」を作って法務局に登録するのである。これは2017年に始まった「法定相続情報証明制度」で、まあ公式認定された家系図みたいなものである。自分でも出来るらしいが、相続手続きを頼む時に一緒に頼めば簡単だ。(もちろん5万円ぐらい別に必要になる。)ただ、これがあれば紙一枚ですべての相続情報を証明出来るのである。
(相続情報一覧図=見本)
 銀行の場合は、振込手数料が取られるが自分の(他金融機関の)口座に入金可能である。(もちろん同じ銀行に自分の口座があれば、手数料なしで振り込める。)しかし、証券会社の場合、自分も同じ会社に口座を開かない限り相続が出来ない。わが家は父親由来の不動産と株式があったので、手続きが増えていったのである。株や投資信託は毎日値が変動するから、売るかどうかの判断は相続人がするしかない。そして証券会社に新規口座を開くときにも、本人確認書類がいるわけである。(他に「反社じゃない」とか、「北朝鮮に住んでる相続人がいないか」などにチェックする。)
(証券類の相続)
 こうしてやってみると、相続手続きは今後どんどん複雑になっていくと思う。母親の世代だと「暗号資産」など持ってない。FXとかネットの株取引もやってない。ネット上で完結する財産があって、パソコンやスマホにもパスワードが掛かっていたら、財産があるかどうかも判らない。それが判っても、財産額をどう見積もれば良いのか。一応死んだ日の値段で決まるんだけど、株や円相場の変動が激しくて困ってしまう。それにしても、どんどん世の中が面倒になっていくものだ。

 僕の身近な知り合いでも、配偶者がいないとか、子どもがいない、あるいは一人っ子であるという人がかなりいる。そういう人の場合、相続人の確定が難しい。そして昔買ったままの株などが残っていると、処理が大変である。昔は「株券」という実物があった。今は株券もなくなって、デジタル化されている。(2009年に株券電子化が行われた。)高齢者の場合、逆に紙の株式が見つかることもあるかもしれない。「デジタル化」に遺産相続が対応仕切れないのである。

 今は死後10ヶ月以内に相続税を払わないといけない。これはなかなか難しくなるのではないか。自分の場合、不動産の納税負担者の基準が1月1日なので、まず不動産の相続を先に行った。続いて、所有株がたまたま3月決算だったので、3月末までに株の書き換えを行った。相続税は少し掛かるレベルだったが、2月末には払った。遺産分割協議書は不動産とそれ以外の2冊になった。そういうことも可能なのである。だが難しいケースを考えると、申告期限を死後1年に延ばす必要があると思う。また「無条件でパスワードを開示出来る」国家資格(「相続士」とでもいうか)も必要なんじゃないか。
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不動産があれば自分じゃ難しいー相続を考える②

2024年05月01日 22時15分44秒 | 自分の話&日記
 今回相続をやってみて、一番感じたのは「不動産の有無」が問題だということだ。遺言がない場合、相続人が二人以上いると「遺産分割協議書」を作ることが多い。なくても出来るかもしれないが、銀行などの相続手続きを頼むと提示を求められる。その協議書は司法書士に作って貰える。司法書士事務所は調べるとあちこちにあるから、最初は自宅近くの司法書士に頼みに行ったのである。そうしたら自分では出来ないと断られてしまった。それは不動産があったからである。

 不動産、つまり土地や家屋がある場合、司法書士には出来ないと言われたのである。司法書士が誰か紹介してくれるのかと思うと、相続に詳しい税理士を別に見つけて欲しいという。そこでネットで探して、総合的に展開しているサポートセンターに頼んだ。結果的にそれで良かったと思う。母親が良く行っていた銀座松屋デパートのすぐ裏に事務所があったのも何かの縁だろう。

 やって驚き、よく「権利証」が大事だと言われる。後生大事に取っている人が多いだろう。母親もわざわざ銀行の貸金庫なんか借りて保管していた。この貸金庫を開けるまでも大苦労だったが、今はそれは省略。そんな大事な権利証が今はないのである。僕も相続の時には権利証が必要になると思っていたが、全く不要だった。売却するには必要なんだろうが、相続には不要。

 そして今は「登記識別情報通知」というものに変わっていた。それは12桁の符号(パスワード)で、不動産及び登記名義人となった申請人ごとに決められるという。それの通知書が従来の権利証に変わったのである。このパスワードは封印されていて僕は知らない。売却することでもなければ開けない方が良いと書いてある。次の所有権移転時の本人確認用に必要という話。
(登記識別情報通知書=見本)
 これは知らない人多いんじゃないかと思う。この新しい登記方法も、その気になれば誰でも出来るというけど、シロウトだと何度も通うことになると大体書いてある。よほど頑張れる条件があればともかく、相続財産がある程度あるならどこかに頼む方が良い。信託銀行はなかなか手数料が高いから、ネットでいろいろ探した方がベターだと思う。
(相続登記が義務化)
 4月から相続登記が義務化されたのは聞いている人が多いと思う。当然のことだが、自分が住んでる不動産なら登記はするだろう。と思うと能登半島地震のニュースでは何代も登記せずにいたという話が出ていた。都市居住者の場合、売買がひんぱんだから登記はしていることが多いはずだ。登記すれば、その人に固定資産税の納税通知書が送られてくる。大事なのは権利証よりこっちで、きちんと取って置く必要がある。親と別居している人は気を付けていないと後で困る。

 ところで僕の世代だと親が不動産を取得した人が多く、その住居で成人したケースが多い。女性の場合、80代を越えて90代、さらに100歳まで生きる人も多い。2023年は関東大震災(大正12年)から100年だった。つまり、大正末から昭和ヒトケタ生まれということになる。この世代だと、戦争と結核で大きな犠牲を被った。自分の両親もそうだが、そこを乗り越えられた人は壮年期に高度成長時代を迎えたのである。(戦争で男が戦死したので、結婚出来なかった女性も多かったが。)

 自分の場合、小中学校のクラスメートは大体自宅に住んでいた。都市近郊に育ったが、農業地帯がどんどん開発され、住宅地に変わっていった。同級生に農家もいたが、それより開発された住宅を買って移り住んだ人が多い。1970年頃にはほぼ高校に進学するようになっていて、同級生も二人を除き高校に進んだ。自分の場合、進学高校から大学へ進んだので、多分そこで出会った同級生も似たような境遇だと思う。典型的な都市中産階級である。

 その世代が買い求めた住宅が、いま相続時期を迎えているのである。僕の周りでも、多少遅い早いがあるのは当然だが、この10年ぐらいで親が亡くなった人が多い。自分は都市近郊で、そこに同居して住むことが可能だった。教員という地方公務員は、(交通機関が多い東京では)異動しても自宅から通勤可能だからである。これが地方出身者の場合、実家をどうするというのは大問題だろう。取りあえず自分の場合は、親が買った不動産の処理をしたわけである。
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全員に関係がある遺産相続ー相続を考える①

2024年04月30日 22時44分41秒 | 自分の話&日記
 高血圧の薬を飲むようになり、大腸ガン検診にも引っ掛かり、昨秋来頭上に暗雲が漂っているような気がしてきた。そして、この間母親の死去に伴う「遺産相続」をずっとやってきたが、これも面倒くさくて頭が痛い問題だった。大金持ちなら全部誰かに任せて、自分はハンコを押すだけで済むかも知れない。しかし、そんな金持ちじゃないので、出来る範囲のことは自分でやる気だった。しかし、どうしても自分じゃ出来ないこともあったので、外部に頼むことになった。で、どこに頼めば良いんだろう?

 自分が経験した「遺産相続」を通して、思ったこと考えたことを数回書いてみたい。まず「遺産相続は全員に関係がある」ということである。いや、ウチは大して財産がないから相続は関係ないと思う人もいるだろう。しかし、それは大間違い。どんな人でも何かしらの「財産」があり、ごく僅かしかない場合もあるだろうが、残された家族はその処理をしなければならない。もちろん「相続税が掛かるかどうか」という問題は別である。しかし、相続税には関係なくても、相続は発生する。

 そして、今後ケータイ電話ペットクレジットカード、スマホ内にあるが暗証番号が判らない暗号資産など、処理に困る「遺産」がどんどん増えてくると思われる。ちなみに、クレジットカードは暗証番号が判っていれば、(本人のフリをして)ネットで解約出来る場合もあるが、判らない場合は億劫。ネット上では難しく、電話すると何番を押せといろいろ操作して、「オペレーターにつなぎます」と言われて待つこと平均10~15分。それでも通じず何日も掛ける場合もある。

 スマホの解約も非常に大変で、本人が病気入院、施設入所の段階では、相談に行っても本人じゃないとダメ、または自筆の委任状がないとダメと言われることが多いと思う。ウチの場合も「ケータイ電話は重いから持って行かない」と本末転倒のことを言い出してから、10年以上払い続けていた。結構高いわけだから、少なくとも入院した段階で解約したかったが、どうせメンドーなこと言われると思って行かなかった。ちなみにさすがに死んじゃえばすぐに解約出来ました。
(相続税の控除範囲)
 「相続税」はいくらぐらいから掛かってくるのだろうか。知ってる人(経験した人)には周知のことだが、関係ない人は知らないだろう。僕も調べるまで知らなかった。まず「基礎控除が3000万円」で、それにプラスして「相続人数×600万円」が控除となる。つまり、父親が死んで、母親と子ども二人が相続人の場合、3000万+600万×3=4800万円が控除。その母親が死んで、子ども二人が相続する場合は、4200万円が控除。それ以下の場合は、相続税は掛からない。だけど、税務署に相続税ゼロという申告は必要だ。不動産と預貯金、有価証券などで6千万あったとすると、先の控除額を引いた額が相続税の対象となる、
(相続税額) 
 今の例で言えば、母と二人の子で相続する場合は、6千万-4800万=1200万円が相続税対象額となり、1000万を超えてしまったので15%となる。つまり1200万の15%=180万を相続分に応じて支払うことになる。これが相続額5千万だった場合は、無税となる。15%になるのは1000万~3000万だから、総額7800万を超える場合に20%になる。大体はそんな範囲に収まるんじゃないだろうか。6千万の財産を家族3人で相続するなら、合わせて180万ほど納税するというのは、そんな高いわけでもないと思う。

 ところで、では「相続財産額」はいくらぐらいになるのだろうか。預貯金や有価証券類、生命保険は大体判るだろう。だが不動産金などの宝飾品ブランド物などをどう評価するべきか。不動産の問題は次回に回し、ここでは預貯金有価証券類について考えたい。今はネット上だけで完結する預金、株、投信信託なども多いが、母の世代だと預金通帳があるから探せば存在は判明する。(株や投資信託などは、ちゃんとした会社なら報告を随時送ってくるから、それを取っておけば判る。詐欺の場合は、正式な書類を送ってこないはず。)だが、それだけでは済まないのだ。

 きちんとした相続サポート事務所(信託銀行や税理士など)に頼むと、「正規の残高証明書」が必要になるのである。今、預金口座はほぼ全員持っているはずだ。よくニュースなどで「年金だけでは食べていけないから大変」という声が聞かれる。ということは、少なくとも年金を振り込む預金口座はあるわけだ。コロナ禍の国民給付金も振込みで貰ったはずである。その口座を閉じないといけない。役所と民間企業の銀行は情報が連動しない。銀行に「死んだ」と伝えない限り、口座は生き続ける。(だから、年金振込みや公共料金、カード代支払いなどが終わるまで口座を残しておく方が良い。)

 注意が必要なのは、カードの暗証番号を知っていて死後に引き出した場合、相続放棄が出来なくなることだ。親が借金を抱えて死んだ場合、放棄する必要があるかもしれない。それにしても、入院費用、葬儀費などを親の口座から出すのは可能。だけど今は窓口で引き出すのは難しい。カードの暗証番号を知っていて、本人の委任を受けたということで引き下ろすしかない。そのためには、親の認知能力が怪しくなる前に、カードの保管場所と暗証番号を教えて貰っておかないといけない。

 そして死後に「残高証明書」を発行して貰う。これが面倒で、即日発行されるのは郵便貯金だけだと思う。(郵便局は身近にある場合が多く、今回郵便貯金の便利さを感じた。)銀行や証券会社の場合、「発行依頼」がいる。ある銀行はネットで来店予約が必要と言われ、見てみると最短でも2週間先。行って依頼書を出しても、発行まで2週間掛かると言われた。つまり、それだけで一ヶ月を空費したのである。またある銀行は「残高証明書発行料」が掛かるという。それが2千円もするというから呆れてしまう。

 証券会社にも一つずつ電話して依頼したのである。えっ、いくつ銀行や証券会社と取引しているんだという感じだが、これは恐らく多くの高齢者にあることじゃないかと思う。バブルとバブル崩壊を体験した世代である。あちこち転勤が多かった人もいるだろうし、地元にずっといた人でもバブル期には無理やり口座を開いてくれ、国債を買わないかと押し掛けてきた。バブル崩壊後に「ペイオフ解禁」などと、銀行が破綻しても預金は一千万しか払い戻さないと言われた。その頃退職金や遺産相続、土地売却などで何千万か手にした場合、銀行数社に分散したものである。これが80代、90代の親によくあることで、今子どもが苦労するわけ。
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ポリープ切除で、短期入院ー大腸ガン検診で内視鏡検査体験記

2024年04月29日 20時22分09秒 | 自分の話&日記
 ゴールデンウィーク前半に3日間更新しなかったが、どこかへ旅行していたわけじゃない。大腸ガン検診で引っ掛かって、「内視鏡検査」を受けたところ、思わず大きなポリープが発見され切除したのである。小さければ日帰りも可能なのだが、二泊三日の入院になってしまった。その間食事禁止で点滴と飴だけ。ポリープは病気じゃないので、予後が普通なら予定通り退院になって、今朝方9時過ぎに退院してきた。家のフトン(エアー)はやっぱり気持ちいいなあ。

 大腸ガンは非常に増えているという。40代から増えてきて、ガンによる死因の中で、女性1位、男性2位である。男の1位は肺がんだから、喫煙率が下落すれば大腸ガンが上回るだろう。特定健診では大腸ガン検診を受けようという案内が必ず入っていると思う。知ってる人が多いだろうが、検便を2回やって「便潜血反応」を調べる。実は前にも引っ掛かったことがあるけど、それは2回のうち1つだけだった。それでも受けた方がいいんだけど、大体は「気付かない程度の痔」が多いらしい。身近にやった人もそういう場合が多い。だからついやらずに来たけど、昨年は2回とも陽性反応が出たのである。

 これはそろそろやらないといけないなと思って、予約したのが11月中旬。ところが、その予定日直前に脳梗塞で入院になってしまった。仕方ないから一端キャンセル。その後、寒いから先延ばししていたが、ようやく電話したら結構いっぱいで4月下旬になったわけである。検査を受けるには、ただ病院に行けば良いというもんじゃない。前々日から下剤を服用し、前日は消化が良い特別の「検査食」を食べなくちゃいけない。これは病院で事前検診を受けたときに、買ってきた。1500円。ハンバーグとクリームチキンシチューとビーフシチューがあると言われた。ハンバーグにしたが江崎グリコが作っていた。
(検査食)
 さらに当日の朝に、水に溶かした特別な下剤を服用する。水を1800ミリリットル入れて、それを10分おきに200ミリリットルずつ飲むのである。タイマーで計りつつ飲んでいくと、やがて水のような便になってキレイになる。つまり当日は食事抜きで行くわけだが、まあ緊張していることもあるのか空腹感はなかった。そして時間になると着替えをして検査室へ。鎮静剤を使うから痛いということはなく、意識もはっきりして内視鏡で自分の大腸も見られた。そして、ここに大きなポリープがありますねと言われて、これを取るので二泊三日の入院と言い渡されたわけである。

 ポリープというのは、『皮膚・粘膜などの面から突出し、茎をもつ卵球状の腫瘤』と出ていたが、要するに体の中に出来た腫れ物(大腸以外もある)。それ自体は病気じゃないが、悪性だとそこからガンに転化することがあるわけ。そういう段階じゃないので、写真で見ても色がキレイ。しかし、大きさはかなりあったので、この段階で取って良かったと思った。切除手術も簡単で、何の痛みもない。そこをクリップで留めて終了。このクリップは自然排出されるという話。ポリープの写真もくれたが、見たい人もいないだろう。
(大腸)
 上記画像の中で、直腸に近いあたりに出来ていた。その切除部が出血しないように、しばらく食事禁止なんだろう。昨年はHCUというとこに入って、全く動けなかったが、今回は個室があったのでそこにした。個室は高いが、まあ2泊と判っているから、そっちを選択。トイレがいつでも行けて、テレビも自由に見られるから、やはり個室の方が気楽なのである。実はお風呂もあったけど、これは使えない。となると、食事、風呂なしの素泊まり・トイレ付としては、ビジネスホテルの倍以上したかなあ。

 早く帰りたいと思ったが、自由に押っ放すと「アルコール消毒だ」などと言ってお酒を飲んじゃう人もいるんだろう。食事抜き、お酒なども禁止では、病院で点滴しないとダメなんだろう。だけど点滴中は動けないので、体が固まってしまう。入院すると思ってなかったので、もうすぐ読み終わる本しか持ってなかった。充電器もないから、スマホを見まくるわけにもいかない。まだ面会は禁止だが、家から持ってきて貰うことは可能。でも2泊だから、着替えも充電もガマンしようかと思った。テレビしか娯楽がない。衛星放送も見られたので、大谷の試合を見た。

 ということで、突然の短期入院。全然元気だが、しばらく(一週間ぐらい)辛いもの禁止だと書いてある。これは困った。まあ甘いものは普段より多く取れとあるから、スイーツを楽しむしかないか。それにしても、きちんと検査は受けるべきだと痛感した次第。僕は昔から肉はそんなに食べないんだけど、なぜか高脂血症気味の数値が出る。体質なのかもしれない。日本人の食生活が洋風化してきて、大腸ガンが増えていると聞いた。日常生活も気を付けなくちゃいけないなと改めて思った。
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「コロナ時代」、自分の場合を振り返る

2024年03月31日 22時04分16秒 | 自分の話&日記
 たった4年前の「コロナ時代」、世の中の人々はもう忘れているんじゃないかと書いた。それは一般論だから、自分の場合を振り返っておきたい。もちろん自分にとっても、新型コロナウイルスは大きな問題だったけれど、多くの人に比べれば影響は比較的小さかったと思う。僕にとって「コロナ」以上に、この間は「母親」の問題の方が大きかった。

 1927年11月生まれの母は、2020年初めに「コロナ禍」が始まった時は92歳だった。家で食事をして、お風呂も入り、テレビも見ていた。新聞のテレビ欄を朝チェックして、見たいテレビに赤マルを付けていた。通院もせず、介護保険も使っていなかった。だから90代にしては元気だったけれど、さすがに以前のように頻繁にデパートに買い物に行くことはほぼなかった。僕は2020年から数年旅行しなかったが、それはコロナが原因ではなく、母親を置いて家を空けることが難しくなったと思ったのである。

 92歳だから、ワクチンのお知らせが来たとき、どうしようかと思った。本人は行かなくていいと言ったけど、以前利用したクリニックでもやるというから、僕がネットで予約して連れて行った。その時は2回接種が必要だったわけだが、ワクチンが回ってこないと言われて、1回打った後で2回目をキャンセルされてしまった。そこでちょっと遠い(母親の足の状態では歩いて行けない距離の)小学校を予約して(システム上2回連続しか出来ない)、タクシーで連れて行った。8月の暑い日で、ちょうど東京五輪の女子バスケ決勝戦をやっていた時だった。そうやって、何とか2020年、21年を過ごしたが、2022年11月に95歳の誕生日を迎えた数日後、心臓の痛みを訴えて救急車を呼ぶことになった。そのまま入院になったが、それらのことは当時書いた。
(某病院の面会制限のお知らせ)
 コロナ時代には病院や福祉施設などは、原則として面会禁止になった。入院当日や病状説明日などは別にして、はほぼ面会出来なかったと思う。母の場合、当初の救急病院から療養病院に転院したのだが、その転院日と病状説明日の2回しか会っていない。そういうことが多くの病院や施設で起こったはずである。急速に認知機能の衰えが見られたので、面会に行っても理解出来なかったかもしれない。別にものすごく親孝行というわけでもないけど、普通だったらもっと行っていたはずである。それが「僕のコロナ時代」だったということになる。
 
 よくオンライン集会のお知らせを貰うんだけど、一度も参加したことがない。そこまでする気が起きない。「オンライン授業」とか「オンライン会議」とか言われても全く判らない。技術的に付いていけない。ずいぶん時代に離されてしまった気がする。この間、母親と同居していたので、自分なりに集まりや外食などを避けていた。それが長くなって、何だかリアルな集会などに行くのもちょっと面倒になった気がする。映画館、劇場などすべて閉まった。やってない以上、出掛けても仕方ない。

 2020年4月、5月頃は大体は家にいたはずである。だけど、家で本を読むことは可能なんだから、それで精神的には大丈夫だったのである。小津安二郎監督の映画『彼岸花』で、田中絹代の妻が夫の佐分利信に対して「戦時中は大変だったけれど、家族がまとまれて良かった」と懐かしむようなセリフがあった。(正確には記憶していないが。)「コロナ時代」も似たようなことがあったのではないか。飲食や観光などの業界ではあり得ないだろうが、テレワーク可能な仕事をしていた場合、通勤せずに夫婦(と子ども)で過ごせた貴重な時間でもあった。それが嫌という人も中にはいるだろうが。
(半分の席しか入れない映画館)
 僕の場合、フルタイムで働く現役じゃなかったので、要するにあまり変わらなかった。いや、もちろん映画館や寄席が開いていれば行きたいのである。落語を聞いていると、「戦争中でもやっていた寄席が閉まった」とマクラに語る人が何人もいる。だから、今こうして客が戻って来て嬉しいというわけである。だから、ようやく元に戻った感じなのは嬉しい。この間、コロナに感染した人も弱毒化したオミクロン株以後は増えてきた。しかし、自分は一度も罹らずに済んだ。他の単なる普通の風邪にも罹らなかった。マスクのおかげなのか、それまでよりも健康だったのは不思議だ。
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高石ともや年忘れコンサート2023

2023年12月16日 22時16分27秒 | 自分の話&日記
 2年ぶりに「高石ともや年忘れコンサート」に行った話。もう夫婦の間で年末恒例行事になっていて、毎年行くことにしていた。ところが、昨年(2022年)は母親が11月末に入院して「いつ何があってもおかしくない」と宣告されていたので、チケットを買っていたけど行けなかったのである。今年はやっと行けるはずが今度は自分が入院してしまったが、何とか早期に退院できて、まあ良かったかなという年末である。ここ10数年は土曜日の午後に、亀戸カメリアホールで催されている。どう見ても客の大部分は高齢者だから、夜じゃなくて午後の方がありがたいのである。

 毎年秋になると労音から案内のハガキが来るんだけど、今年はなかなか来なかった。ホームページにも出てないから、もうないのかと思ってた。何でも大坂でやってた年忘れコンサートは、本人が去年をもって終わりにすると宣言したとネット上に出ていた。だから東京もないのかと覚悟していたら、発売直前にネット上に告知された。行けなかった去年が最後では心残りだから、今年は行けただけで良かったなと思っている。何と今までかつてない最前列が当たっていた。近すぎかも。
(2023年ホノルルマラソンで)
 そして、高石ともやさんがコンサート直前にホノルルマラソンを走ってくるのも恒例。もう47年連続だという。もちろん完走しているのである。1941年12月9日生まれ、つまり日米開戦翌日の生まれだから、82歳なのである。10年ぐらい前に配偶者を亡くし一人暮らしだが、元気だから凄いのである。そりゃまあ、昔より声量は落ちているかもしれない。でも、もう内容に改めて新鮮さを求めているわけじゃなく、知ってる歌を一緒に聴き、時には一緒に口ずさむだけだから、それで良いのである。

 年末だからクリスマスソングもある。持ち歌の多く(「陽の当たる道」「陽気に行こう」など)もアメリカのカントリーソングに訳詞を付けたものである。そこで改めて思ったけど、アメリカの民衆文化が自分の血肉になってきたと思う。アメリカの文化にもいろいろあるけど、69年代末の「フォークソング」ブームの基盤となったのは、ピート・シーガーウディ・ガスリーなんかが歌うアメリカである。「抵抗の歌」である。ベトナム反戦運動の中で見出されたものだ。
(ジャニス・ジョプリンの「Me and Bobby McGee」)
 今年も「ミー・アンド・ボギー・マギー」を歌った。高石ともやの特徴は日本語の歌詞を自分で付けて歌うこと。ジョン・レノン「イマジン」もオノ・ヨーコ公認の訳詞で歌っている。「ミー・アンド・ボギー・マギー」はクリス・クリストファースンが作った曲だが、1970年10月に急死したジャニス・ジョプリンが生前にレコーディングしていた。そして1971年にシングル・カットされビルボードで1位となった。その頃から大好きな曲だったんだけど、こうして聞けるとうれしい。

 Wikipediaを見たら、この曲を作るときクリストファースンはフェリーニ監督の映画『』を思い出していたんだという。なるほど、僕がこの曲を好きだったのも当然だ。10代の頃から『道』を何度も見て来たんだから。そして、これは「さすらい」の歌である。ヒッチハイクで南部(バトンルージュやニューオーリンズ)からカリフォルニアまで流れていって別れる。Freedom's just another word for nothin' left to lose (自由とはこれ以上失うものがないことさ)という歌詞が心に沁みる。谷川俊太郎の詩に曲を付けたのも高石ともやだ。「じゃあね」と別れていく。

 今まで40数年夫婦で通ってきた。ずっと前は平日夜に読売ホール(当時はそごうデパート、今はビックカメラの上の方)でやっていた。仕事が忙しくても何とか行っていた。一番の危機は忘年会と重なった年で、その年の幹事だったから最初はいないわけに行かなかったのである。そんな年でも最後何十分かは聞きに行ってる。仕事があったときは、多忙で行けるかどうか。今後は高石ともや本人と自分の健康が続くかどうか。やってる限りは行くんだろうなあ。まあ、今年は行けて良かったという確認を書いておく次第。
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「入院疲れ」から早期退院までー人生初、入院体験記②

2023年11月18日 22時14分05秒 | 自分の話&日記
 (前回からの続き)日曜朝に起きてみると、右手に力が入るではないですか。ただし、簡単な検査をすると、まだちょっと右が弱い。それは右手の手のひらを自分側に(甲を外に)して高く上げ、目をつぶって10秒間保つというものです。そうすると、右が次第に下がってくるわけです。自分では同じ高さを維持しているつもりでも。この簡易検査では月曜頃からほとんど左右の違いが無くなってきました。つまり、翌週にはほぼ軽快していたのです。

 ただ入院による「QOL」(生活の質)の低下が、この頃から影響してきました。何しろいろいろ繋がれて寝返りも打てない。トイレにも自由に行けない。ナースコールで看護師さんを呼んで、この時点では車いすに乗り込みます。尿の量も量っていて(便座に測れるカップをはめ込む)、なかなか落ち着きません。次第に自分で予測出来るようになり、この感じだと300CCだろう、今回は400まで頑張ったかなという予測がほぼ確実に出来るようになりました。

 日曜日は何も検査などがないので、起きてるときはテレビを見るか、スマホを見るか。日曜から大相撲が始まったので、今回は十両からずっと見てた感じです。本が読めない、新聞が読めないのは、自分にはつらいのですが、今回は頭を休めるためにもしばらくガマンするかと思いました。本は小説を読める感じじゃないけど、たまたま2016年に出た石川理夫(みちお)『本物の名湯ベスト100』(講談社現代新書)という本を最近「再発見」して枕元の一番上に置いてました。これを持ってきて貰おうかなと思ったけど、まあいいやと決めました。そうしたら火曜日に妻がこの本を差し入れてくれて、本当にビックリしました。
(最後の夕食)
 動けるのがトイレと食事だけだから、それが楽しみです。食事は最初はベッドの上で食べていて、火曜ぐらいからベッドを降りて机で食べました。(テレビを載せている台に引き出しがあって、そこを引き出して食事を食べる。)最初はお粥で、食べやすいけど水分が多い。おかずは魚と肉が交互という感じ。和風、洋風交互の味付けです。朝2回だけパンで、お粥が終わると普通のご飯でした。もちろん薄味ですが、家でもかなり薄味に慣れているので、何の問題もなし。ドレッシングやマヨネーズも付いてるけど、自分はほぼ使わない。(家でも同様。)全部完食しました。もちろんものすごく美味しいとは思わなかったけど、全然問題なし。
(最後の朝食)
 月曜からリハビリが始まって、同じ階を歩いたり、手の動き、頭の働きの確認など。動けるのもいいけど、他人にあって会話できるから嬉しいです。看護師さんだとどうしても忙しいから、トイレや食事の世話以外に案外話す機会がないものです。それでどんどん動けるようになって、問題はむしろ脳梗塞の影響じゃなく、ずっと寝ていることによる身体の硬化、よく起きる腰痛などに移ってきました。トイレに歩けるようになっても、へっぴり腰で遅くなる。これじゃ入院している意味がないです。

 何でいつまでHCUにいるんだろう?それは看護師さんも気に掛けてくれて、大部屋に移れるように調整しますと言ってたけど、最後まで移れなかった。急に寒くなってきて、多くの患者が来ているそうで大部屋も他の部屋もいっぱいだったようです。しかし、同じ階で2回移動しました。なんか救急で来た患者の問題もあって水曜日に移ったら、そこは呼吸器患者の部屋で深夜も非常に音が絶えない。そこで翌日もう一回移ったら、今度は一人部屋になって静かは静かですが、なんか離れ小島に流された感じ。でもいいのです、実は木曜日に翌日の退院が決まったので。

 リハビリで完全に問題なしだったのと、大部屋も空かないので、もういいのではないかという方向性になったようです。水曜日に、翌日午後に妻が来院できるか聞かれ、木曜午前に3回目のMRIを撮った。そして「明日退院」となりました。もう一つ要因があって、主治医の先生が僕の地元の病院に週1回来ているそうなのです。だから、今後はそちらでフォローするということでいいですか? はい、わかりました、お願いしますとなったわけです。歩いて20~30分ぐらいの場所、母親が亡くなった病院からさらに5分ぐらい歩いた場所のようです。「じゃあ、自分で自分宛に紹介状を書きます」と言って渡されました。
 (ラクナ梗塞)
 今回の病気は「ラクナ梗塞」というようです。左脳深部で起こった小さな梗塞です。僕のMRI画像を見ても、検索して出て来た画像にピッタリです。普通の細胞は再生していきますが、脳細胞は死滅したら再生しない。では、何で使えなかった右手が今自由に動かせるのか? この疑問を医者に聞いてみたところ、脳細胞は3割ぐらいしか使ってないと言われてる、使ってない脳細胞に新しい回路が通じたということでしょうと言われました。脳細胞は良く出来ているな、新たなバイパスを作っちゃうなんて。 

 「脳トレ」ではないけれど、僕もいろいろとやってました。記憶力に問題ないかどうか、「ヨーロッパの国を全部言えるかどうか」とか自分でテストしてました。社会科教員だったんで、知ってるのは当たり前。一般には全部は難しいと思いますが、10個とか20個とか目指すのもいいかと思います。自分はバルト三国とか全部思い出せたので安心しました。「か」で始まる字を一分間でいくついえるか言ってくださいとか正岡子規の俳句を書いた紙を正確に写し取るとか、いろいろやりました。子規の句には「法隆寺」とか「鶏頭」とか、今じゃ「打ってるけど、書いてない字」が多く、頭と手の連動感覚を見るには適しているんでしょう。

 病院は(学校などと同じく)多くの人によって運営されています。医者や看護師だけでなく、MRI検査をする放射線技師、リハビリ担当の理学療法士、あるいは清掃や日常用品の取り替えに来る業者など多くの人がいます。中でも身近に接するのが看護師理学療法士の方々でいろいろとお世話になりました。僕も出来るだけ迷惑を掛けないように努めたつもり。その人に言っても仕方ないのに文句を言う人にはなりたくないから。まあ、人間同士なので多少は相性があると思いますが、皆さん親切でありがたかったです。

 この病気は「無罪放免」じゃなく「執行猶予」だということは自覚しています。糖尿病や喫煙はないんだけど、高血圧がなかなか治まらない。塩分など控えるのも今まで以上に徹底していきたいと思います。ブログについても考えたけれど、余り頑張りすぎない範囲で同じように続けたいと思います。映画や本の感想に特化してもいいんだけど、時々は世界や日本の状況を語りたいのが自分であり、自分らしさを捨てても意味がないと思ったからです。ということで、今後とも折々に書いていきたいのでよろしくお願いします。書いてない間に、昔の記事が読まれてかえって順位が上がったのも不思議で、ありがとうございました。
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