ブログの引っ越しに向けて、大分過去の記事を整理しました。いよいよブログの引っ越しを考えないと。
細かい説明に従って、進めていますが、はっきり言って僕には難解。
「はてなブログ」というところに移行を考えています。そこに登録してブログを書けるようにはなってます。
問題が今まで書いた記事の引っ越し。うまく行くまで、しばらく苦闘しそうです。そのためしばらく休載します。
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毎月月末に書いてる「僕の東京物語」、8月は猛暑過ぎてどこにも行く気がしないからパスしようか。と思いつつ、国立ハンセン病療養所多磨全生園にある国立ハンセン病資料館に行って来た。実は今やってるギャラリー展「戦争とハンセン病」が31日で終了してしまうのである。これは「しょうけい館」(戦傷病者史料館)と共催ということで、行ってみたかった。まあ、思ったよりも小さな展示で、戦時下の療養所の紹介が多かったが、実際に戦地で発病した人も紹介されていて貴重な機会である。
東京都東村山市にある多磨全生(ぜんしょう)園は、昔から何度も行っている。まあ100回は行ってないと思うけど、何十回は行っている。もともとは韓国のワークキャンプに参加したことから、行く機会が出来た。若い時は面宿(面会人宿泊所)に泊まったことも何度かあった。その後教員になったので、生徒(卒業生を含む)を連れて来たこともある。夏休みに訪れることが多かったから、何だか夏の園を見ると昔を思い出してしまう。そんな気分で少し園内を歩いてみた。(暑くてあまり歩いていないが。)
展示で紹介されていたのは立花誠一郎という人で、邑久光明園で2017年まで存命だった。ニューギニア戦線でオーストラリアの捕虜になり、収容先のカウラ収容所でハンセン病を発症した。一人別のテントに隔離され、有名な「カウラ事件」(捕虜脱走事件)にも加わっていない。復員時も船底に隔離され、復員時の手続きも行われず、自宅には死亡通知が送られたという。園内では本名は名乗らず「立花誠一郎」は園名である。理髪師をしながら自動車免許を取得し、一度故郷を見てみたい入所者をそれぞれの故郷に連れて行ったという。立花さんが収容所で製作したトランクなど、実物も展示されていた。何重もの苦難を負った人生だった。
資料館の展示も少しずつ変化がある感じだったが、まあ何度も見ているから簡単に見て、園内を少し散歩。資料館からすぐそばの納骨堂は、いかに暑くても寄らないわけにはいかない。どこの療養所にも納骨堂がある。一度隔離されたら、二度と家族の元に帰れない人が多かった。そのような人の遺骨を納める場所は、ハンセン病療養所で最も厳粛な場所である。とは言っても、もう入所者は各療養所合わせても639人である(5月1日現在)。もう少ししたら誰もいなくなってしまうのは間違いない。
その時、「全生園」はどうなっているのか。それは入所者にとっても気になることである。そのため何年も前から「いのちとこころの人権の森」を作ろうという運動を自治会が中心になって行ってきた。植えられた樹木は、すでにずいぶん大きくなっている。22世紀には、明治神宮のように人工ではあるものの貴重な「武蔵野」を再現しているに違いない。近隣住民だけでなく、多くの人々にとって貴重な自然と親しむ場所となっているだろう。その中で「納骨堂」も永遠に残されていかなくてはいけない。
昔からの建物は大分少なくなっているようだ。園内も入所者住居がなくなった気がする。もっとも「入所者以外立ち入り禁止」の表示が多く、住居には近づけなくなった。いろいろとプライバシーに配慮が必要な時代になったんだろう。上の1枚目、ショッピングセンターも、建物は健在だけど商品は少なくなったと思う。となりにある食堂は今も利用可能。「じんけんの森釜めし」や東村山名物「黒焼きそば」とかがメニューにある。誰でも利用可能。売店で「胡麻麦茶」を買って水分補給と血圧対策。
ハンセン病資料館はもっと行きたいと思いつつ、やはり遠いから最近はずっと行ってなかった。まあ自宅が東京の東端にあるから仕方ない。今回は「戦後80年」ということで、何だか行く気になった。ここも東京。昔のことぞ偲ばれる。いろんなことを思い出せてくれる場所で、やはり時々行かないとなあと思って帰った。
「僕の東京物語」7回目は、映画を(映画館で)見始めた頃の話。もちろん子どもの頃から親に連れられて、あるいは学校の映画教室(今と違って体育館に集められて座って見るのである)なんかで映画を見たことはあった。しかし、それは教科書で読んだ小説みたいなもので、自分の選択じゃない。自分で「文学」に目覚めた頃、テレビで面白い映画をやってることに気付いた。(もちろんそれ以前にテレビではアニメやスポーツ中継、アメリカのドラマなんかを見ていた。それと別に当時は毎日のように「○曜映画劇場」みたいな番組があったのである。)そして、「自分一人で映画館に見に行く」ことも可能だとある日気付いたわけである。
今と違ってスマホもなく、便利な町歩き地図もなかった。1972に創刊され2011年に廃刊になった「ぴあ」みたいな雑誌もまだなかった。(「ぴあ」というのは、もともと映画館の上映時間や演劇などの情報が載ってる情報誌だった。)でも新聞に広告が載っていたのである。「日比谷みゆき座」「日比谷映画劇場」と言うんだから、地下鉄日比谷線日比谷駅から行けるはずである。そして1964年から最寄りの東武線が日比谷線に直通で乗り入れていた。だから駅から電車に乗れば、日比谷駅に着くはずである。下りて探せば見つかるだろうと思って、実際に見つかった。映画はそれなりに高いが、地下鉄の初乗り運賃は30円だった時代である。
今や「日比谷映画街」は全く無くなってしまった。「ミッドタウン日比谷」が出来て、その中にある「TOHOシネマズ日比谷」に集約されてしまったからだ。今はゴジラ像の向こう側にある巨大ビルにスクリーンがある。昔風の映画館は今では一つもない。昔はロードショー館でも自由席で、当日券しかなかった。いや事前に指定席を買える映画館もあったけど、そんなのは大人のデート用であって、中高生には関係ない。その日に買って、席がなければ立ち見である。自由席で好きな席に代われるのは今よりも良いかもしれない。「前売り券」もあるけれど、学生料金の方が安いから買わない。映画の途中でも人の出入りがあるし、「入れ替え制」じゃないから、一日中ずっと見ていても良いのである。(今でも寄席はそうなってる。)大体日本映画は二本立てだった時代だ。
そもそも阪急(東京宝塚)が東京に進出するとき、東京最大の盛り場浅草は松竹が押さえていたので、新興ビジネス街の日比谷一帯に娯楽街を作ることになった。1930年代初頭の話。今「映画街」と書いているが、本来は「娯楽街」あるいは「映画演劇街」と呼ぶべきだろう。何しろ「東京宝塚劇場」は今もここにあるんだから。東京の劇場は大体一回ぐらいは行ってるけれど、ここは一度も行ってない。(つまり宝塚歌劇を見たことがない。)その向いに今は「シャンテ」があるが、昔はここが大ビルで駅側から「日比谷映画劇場」、「有楽座」、地下に「みゆき座」があった。上の方には「芸術座」があって森光子の『放浪記』をそこで見た。
ところで映画館に何を見に行っていたのか? 好きな女優を見に行ってたわけではない。アクション映画や恋愛映画なんかも、もちろん見てはいたけど、僕が映画にハマったのは「アメリカン・ニュー・シネマ」の時代だったからである。ヴェトナム戦争が激化し、アメリカ国内は反戦運動に揺れていた。映画界も大きな影響を受け、それまでと違う新しい感性の映画がどんどん作られていた。つまり「カウンター・カルチャー」(反体制文化)の発見である。そういう映画にいっぱい流れていたロック音楽に影響を受けて、音楽を始めた若者も多かった。残念ながら自分は音楽的才能がなくて、映画を見たり本を読んだりするだけだったのだ。
僕がこの辺りに行き始めたのは、1970年だった。『明日に向かって撃て!』を見たのが日比谷映画だったと思うが、この年のベストワンで半年以上ヒットした『イージーライダー』は少し離れたスバル座でやっていた。有楽町駅の真ん前のビルだから、地下鉄で行くとちょっと遠いんだけど、すぐにこの辺の地理を把握した。スバル座は2019年まで昔のままの座席で続いていたが、最後はやはり椅子など古すぎた。今回探してみたが、全く再利用されてないようだった。この地区には大きな日本劇場(日劇)もあった。今の有楽町マリオンである。1933年に出来た独立劇場だが、その後東宝系になった。日本芸能史に残るエピソードが多々あるところだ。
ここは映画専門館ではなく、日劇ダンシングチームなどのレビューなどが中心。映画やショーを組み合わせた番組が多かったと思う。多分親と来たことがあったと思う。「日劇」の名前はマリオン上階の映画館名に残っていたが、TOHOシネマズ日比谷開業とともに消えてしまった。その隣に朝日新聞本社があり、裏側に松竹系の丸の内ピカデリーがあった。ここは中三の夏に伝説の音楽祭のドキュメンタリー映画『ウッドストック』を見に行った覚えがある。隣の朝日新聞社がここで印刷していて、トラックに積み込んでどんどん出ていく様子が面白かった。丸の内ピカデリーの名は今もマリオン上階に残っている。
もう一つ、この地域でよく行った映画館は「日劇地下」である。日劇の真下にある映画館で、元々はニュース映画館だったという。僕の頃はATG映画上映館になっていた。ATGとは「アートシアターギルド」の略で、日本で公開されにくいアート系映画を専門的に上映する場として設立された。60年代にベルイマン、アラン・レネ、ゴダールなどの傑作が続々と上映して評価された。その後、日本映画の製作にも乗り出し、70年前後は大島渚、篠田正浩、吉田喜重などの作品を送り出していた。東京には「新宿文化」と「日劇文化」の2館があり、今も新宿文化を熱く語る人は多いが、東京東部のことはいつも後回しで忘れられてしまう。
僕は日劇地下で、ゴダールの『気狂いピエロ』を見た。中学3年の時である。判ったのか? 判ったのである。もちろん不十分な理解だっただろうが、面白くて刺激的な世界は伝わるのである。高校1年の時に大島渚『儀式』や寺山修司『書を捨てよ町へ出よう』を見て、非常に大きな影響を受けた。長いこと日本映画はここでしか見なかった。背伸びしてたんだろうけど、面白かったのである。今若い人が見ても、面白いとは思わないだろう。やはり「激動の時代」「政治の時代」であって、表現は難解であっても難問にチャレンジする気迫は伝わるのである。最近の日本文化に欠けているものじゃないかと思う。
前に書いたように、その前から神保町書店街に出かけていた。次に自分で出かけるようになった東京の町が日比谷、有楽町近辺の映画街である。まだ新宿や渋谷には行ったことがなかった。映画もロードショーが終わった作品を2本立てで上映する「名画座」で見れば安く見られるわけだが、存在をまだ知らなかった。名画座に行くようになるのは高校生になってからになる。
「僕の東京物語」第6回は中学時代。足立区立第十四中学校というのが、僕の通った中学校である。今学校の写真を撮るのは難しいので(球よけネットで覆われているし、部活動などをしている生徒がいると撮りにくい)、都議選の日に撮ってみた。旅行から帰った翌日で、朝起きたら食べる前に早く行ったのである。朝ならまだ暑過ぎないし部活もやってないだろう。家から30秒だから、そういうことも可能なのである。体育館で投票後、外に出ると校庭から校舎が一望出来たのである。
1947年の新学制で中学校が設置されたときに、東京では単に順番で校名を付けた地区が多い。足立区でもその後の新設中学は地名を付けている。調べてみたら、二中や三中などすでにない学校もあり、近隣中学と統合されるときは地名が付くようだ。中学時代はそういうもんだと思っていたから疑問も持たなかったが、後に高校教員になって入選業務を担当すると、他区にもナンバースクールがあるので区別しにくいなと気付いた。僕の幼児期に中学が火事になった記憶があるが、調べてもよく判らない。
今は部活動などで活躍していて、よく新聞でも見かける。僕の時代は半世紀以上も前になるが、北の方で唯一の中学だった。今は「日暮里舎人ライナー」が通る一帯には中学がなく、西北部の小学校を出た生徒は自転車通学が認められていた。しかし、僕の場合は小学校が徒歩10分以上かかったのに対し、何しろ裏門まで30秒、そこから教室までの方が5倍ぐらい遠かった。ルール上は8時半までに校門を通れば遅刻じゃなかったので、当時は8時15分からだった朝ドラを見てから登校しても間に合った。
この「家から30秒」は便利だけど良くなかった。大体間に合うから時間厳守意識が薄くなり、逆に時間にルーズになる。遅刻癖が付いてしまい、後に直すのに苦労した。「放課後の道草」というのも不可能である。多くの人は中学時代に、部活動の思い出とか、初恋の思い出とか、進路の悩みなどを思い出すんだろうと思う。しかし、僕にはそういうのがなかった。当時はまだ「部活動」といわず「クラブ活動」だったけど、当時から地理や歴史に詳しいことになっていて、一応「社会科クラブ」なんてのには名を連ねていたと思うけれど、ちゃんと活動はしなかった。他のスポーツ系や文化系クラブにも入ろうという気はなかった。
というのも、小学生時代の「鬱屈」を抱えて中学生になったからである。田園地帯だった小学校の周りはあっという間に開発されて、遊び場が無くなっていった。それはまあ仕方ないが、実は小学校時代に幼いながら好意を持っていた女の子がいて、その子が転校してしまったのである。しかもそれが続いた。「僕が誰かを好きになると、いなくなってしまう」のである。これはこたえた。その後、中学時代に誰も好きにならなかったのはそのためだと思う。そして、このことが自分を「行動派」ではなく、一歩引いて周囲を見てしまう「観察派」にした最大要因になったと思う。だから、僕は中学時代に「文学少年」になったのである。
つまり、単に読書が好きというのではなく、「自分」を見つめると言うか、「自我」の問題として本を読むようになった。それは60年代末の時代風潮、ヴェトナム戦争や「チェコ事件」、ニュースでやってる「大学紛争」などの影響もある。塾に行くようになり、その帰り道が「放課後」だった。ある夜、新校舎建設中の学校に入り込んだ思い出もある。何か忘れ物があったのである。建設現場からすぐ校舎に入り込めた。警備会社がいるという時代じゃなく、そんなことも可能だったのだ。家に帰ったら、ラジオの深夜放送を聞いた。そして内外の最新音楽や映画の情報を得て、僕は映画少年にもなっていったのである。
「鬱屈」していた僕は、多分余り素直じゃない少年だった。後に教員になって、こういう感じだったかなと思う生徒が何人かいた。内面的にも、また時代風潮としても、すべては「諸行無常」という思いだったのである。そんな僕に面白かったのは、中学3年の頃から見始めたアメリカ映画、いわゆる「アメリカン・ニュー・シネマ」だった。高校は一応幾つか私立も受けているが、「紛争」後に自主ゼミを始めた上野高校に行きたかったから、普通に勉強してれば確実と踏んでいた。「学校群制度」だったから、上野じゃなく白鴎に振り分けられたのも、僕の「諸行無常」感を強めた。不運に取り憑かれていたというのが僕の実感だった。
中学2年の時に新規採用の先生が担任になった。その先生は僕らを卒業させたら、辞職してイギリスに留学した。戻ってきたら高校の試験を受けて、都立高校の教員になった。後に僕が卒業した白鴎高校にも勤務したし、僕が墨田川高校の定時制課程に勤めていた時には、同じ高校の全日制に異動してきた。そういう因縁もあるし、中学時代ももっと別の語り方も出来ると思うんだけど、自分自身で思い出す中学時代は「不運な時代」で、学校外で本や映画に触れ始めた思い出の方が強いのである。
「僕の東京物語」シリーズは今までずっと小学校時代を書いていたが、今回は一挙に飛ばして結婚して家を出た当時の思い出。前回書いた映画『金子差入店』はTOHOシネマズ錦糸町 オリナスという映画館で見た。時間が合っていたからだが、その錦糸町(きんしちょう)こそ新婚時代に住んだ街なのである。そこで昔住んでいた場所などを回ってみた。この映画館は近くの人じゃないと行かないと思うけど、自分の家からは(1回乗り換えて)駅から駅までなら20分ちょっと。錦糸町駅前には「楽天地」(後述)というビルがあり、そこに「TOHOシネマズ錦糸町 楽天地」というのもあるから間違えると大変だ。(子ども時代の話はまた別に。)
錦糸町は東京23区東部の墨田区にあり、JR総武線で秋葉原から3つ目。2003年に地下鉄半蔵門線が東武線と直通運転するようになって、家から近くなった。北口に出ると、錦糸公園がある。その向こうにオリナスが見えてくる。ここは1997年まで時計の精工舎の工場があった場所で、再開発されて2006年にオリナスというショッピングモールとなった。3枚目の写真はオリナスから見た錦糸公園だが、向こうに「LOTTE」と見えるのはロッテシティホテル錦糸町。1970年から2007年まで結婚式場などがあるLOTTE会館だったが、2010年にホテルとなった。ロッテ会館はもうなかったのか。どこからもスカイツリーが見える街である。
さて、映画を見終わった後で旧自宅を探し始めたけど、これがなかなか見つからない。目標は賛育会病院でその並びの道にあったはずだけど、その病院が見つからない。昔に比べて足のスピードが落ちていて、感覚が違ってしまうのだ。何となく「蔵前橋通り」の手前にあるかと思っていたら、違っていた。ようやく見つけた賛育会病院(上の写真)だが、最近この病院は2回ニュースに出て来た。一つは日本2例目の「赤ちゃんポスト」「内密出産」を準備中というニュース。もう一つは再開発中に東京大空襲で焼けたままの地下室が見つかったというニュースだった。調べてみると吉野作造や片山哲が理事長を務めたキリスト教系病院である。
錦糸町駅北口は再開発で全く違っているが、確か古びたマーケットがあって、そこを抜けてひたすら北上すると小さなビルがあった。そこの3階(もしかして2階かも)に1983年10月から1985年春まで住んでいた。1階が八百屋だったのですごく便利だった。当時の勤務先は新小岩駅(錦糸町から各駅停車で3つ目、快速で1駅)だったから、便利だったのである。新小岩から東京方面になるので、家賃はなかなか高かった。最初はなかなか暮らしも厳しかったけど、まあ都心からも近いので、皆で集まったりしたこともある。今は取り壊されて、更地になっていた。何か新しく建つらしい。1983年夏に決めて契約した頃が懐かしいな。
最初の2枚が錦糸町駅北口。大きなバス乗り場になっている。両国方面に続く道は今は「北斎通り」と命名されて、ちょっとした観光地である。ずっと歩いて行くと「すみだ北斎美術館」がある。近くに「すみだトリフォニーホール」「東武ホテルレバント東京」があるが、今回はそっちまで行かなかった。むしろ今は錦糸町北口は「立志舎高校」校舎があちこちに目立っている。1999年に出来た私立通信制高校のはしりで、平日通学コースもある。ホントどこからでもスカイツリーが見える街である。
錦糸町は南口の方が昔から栄えていて、今も駅ビル(一番最初)は北口よりずっと大きい。南口にはマルイ錦糸町店があり、1983年9月に開店したけど、ほとんど行ったことはないなあ。上の方に「すみだ産業会館」が入っている。マルイの隣にある「魚寅」という魚屋・鮨屋はマグロのぶつ切りですごく有名で、南口に出たら誰にでも目に入る。
それより流行っているのは、駅そばの「PARCO」である。もともとここが東京楽天地で、今も上の方に天然温泉施設がある(しかし、男性専用だと出てる。)1937年に小林一三(阪急、東宝の創設者)が作った会社で、当初は浅草(当時東京最大の盛り場)に進出したかったが、浅草は松竹の牙城で東武の根津嘉一郎に懇願されて錦糸町にしたとWikipediaに出ていた。錦糸町にはどうも東京の外れ感がつきまとうが、1986年秋にここに錦糸町西武が開店して、一気に若者の街っぽい賑やかさが出現した。僕はもう錦糸町を離れていたが、それでも近いので行ったことがある。特に楽天地に映画館があったので、そこに行ったのである。
中でも1986年に開館した(1994年まで)「キネカ錦糸町」という映画館は不思議だった。セゾン系映画館というのがあった時代である。そして堤清二がソ連を訪れて、ペレストロイカ時代に上映、輸出が可能になった映画を大量に買い付けてきて、キネカ錦糸町は「ソビエト映画専門館」になったのである。それが1990年のことで、翌年末にはソ連が崩壊するなど誰も想像していなかった。僕はここでずいぶん変な映画を見た記憶がある。さすがに92年にソ連映画専門館は止め、94年には閉館になった。
「セゾン文化」は池袋や渋谷というイメージが強いが、まさかの錦糸町にそんな映画館があった時代もあるわけだ。西武百貨店というのものも幾多の変遷をたどりセゾングループは解体された。錦糸町西武は1999年にリヴィン錦糸町店、2019年に「錦糸町パルコ」が開業した。そんな錦糸町駅南口に誰も見てない碑があった。明治の歌人・小説家伊藤左千夫の碑だった。『野菊の墓』の作者で、アララギ派の歌人だったが、本職は牛飼いで錦糸町の南の方に牧場があったということらしい。ちゃんと読んでないけど。
初めて親元を離れで住んだ街で、試験が終わった後で錦糸町楽天地で『プロジェクトA』を見たなあと思いだした。お店がいっぱいある(何しろ八百屋の上に住んでた)街で便利だった。しかし、1年半住んだ後で、急に家を買う話が持ち上がって引っ越すことになった。新婚生活を送った「短い錦糸町時代」である。
5月24日が誕生日だが、小さい頃に特に何か大イベントを行う家じゃなかったので、ただいつもと同じ日が来るだけである。正月なども同じ。元プロ野球選手江川卓と同じ日に生まれているが、今年で何と「古稀」である。目出度くもなんともなく、驚くしかない。まあ、そういう日が来るのはやむを得ないけど、古来稀かもしれないが今なら「ごく普通」だろう。もっともすでに亡くなっている同級生もいるのだが、自分はこれから「喜寿」「傘寿」に向けて「現状維持」を続けて行ければと思う。
たまにはそんな日を日記風に。最近急に暑くなっていたのが、また涼しい曇天になり、気持ちも弾まない。ノンビリ寝ながら新聞をじっくり読む。土曜日は書評が載ってるので、特にじっくり読みたい日。それにしても世界情勢を見ていると、こっちまで気がふさぐ。土曜日なので自分で作ってスパゲッティを食べる。箱入りのアラビアータをさらに辛くして満足した。
この日は国立映画アーカイブの中川信夫監督特集に『東海道四谷怪談』を見に行く予定。事前にネット予約しなくてはならず、平日などほぼ高齢者ばかりなのに、改善なのか改悪なのか。コロナ禍をきっかけにそうなってしまった。シニア割引310円なのにカードで買うわけである。『東海道四谷怪談』(1959)は日本の怪談映画の最高峰と言われ、僕も前に(確か2回)見ている。しかし、しばらく見てない。6月中旬にもう1回上映があるが19時なので、土曜日12時30分の回に行くしかないのである。
原作をコンパクトに77分にまとめているが、冒頭に「備前岡山」と出るのでビックリ。行ったばかりの岡山から始まるとは。もちろんセットだが、民谷伊右衛門が岡山藩浪人という設定である。原作は「裏忠臣蔵」なので、民谷伊右衛門は赤穂浪士(塩冶家)ということになるが、この映画はそこには全く立ち入らない。冒頭の長回しからシビれる映像美に改めて驚く。まあ知ってる展開だし、そもそも全然怖くないけれど。主演は天知茂だが、お岩の若杉嘉津子がわからない。よく77分で作れたと感心する。
上映後に高橋洋のトークがあった。ホラー系はほぼ見ないので知らなかったが、『リング』『おろち』などの脚本を担当し、『恐怖』『霊的ボリシェヴィキ』などの監督作品がある。お岩の墓の写真を(お参りなどせず)ただ撮ったら、帰りに顔が腫れてきたなどと言っていた。終わったらすぐに帰るが、京橋駅から地下鉄銀座線に乗ると、行く時もそうだったけれどほぼ外国人なのである。浅草、上野、銀座、渋谷を結ぶ路線だし、浅草へ行けば銀座線で都心に出るしかないのだが、それにしても多い。
地元駅近くのケーキ屋「トロワフィーユ」に寄ってケーキを買う。自分で買うのもなんだけど、どこで買うか候補がある中で、妻から「お金出すから自分で好きなところで買ってくれば」となったのである。ま、結局地元になるが、ここはホントに美味しいのである。だけど、ずいぶん高くなった。お互いの誕生日ぐらいしか買わなくなってしまった。いろいろここにしかないケーキがあるんだけど、いろいろと買った今は(定番過ぎてつい忘れる)「ショートケーキ」「バスクチーズケーキ」が良いと思う。
帰って大相撲を見る。(というか、そのためにすぐ帰る。)優勝も決まってしまったが、やっぱり本場所最終盤となると見てしまうのである。蕎麦を食べ、ケーキを食べた後は、今度は世界卓球。普段の土曜だと、テレ東の旅番組(充電バイク旅とか)からアド街を見てしまうことが多いが、そのテレ東が世界卓球だから、まあ付けてしまう。相撲と卓球、感想を書き出すと長くなるから書かないけど、ずっと見てるわけでもなく、でも時々は集中してしまうのがスポーツ番組というものだ。
お風呂に入った後、金井美恵子の『小春日和』(インディアン・サマー)を最後まで読み切る。図書館で借りてきた「目白シリーズ」の一冊である。『文章教室』という変で面白い本を読み、次の『小春日和』は会話体なので一気に読んだ。「桃子」という語り手が大学に合格して、目白に住む「小説家の叔母」の家に間借りする一年ほどの話。この桃子が独特なのだが、驚くほど先見的な展開にビックリ。入学した大学は「立教大学」であると読んでいると判ってくる。花子(自称)という友人が出来て「桃花」コンビになる辺り、蝶花楼桃花を思い出してしまった。もちろん単なるおしゃべり小説じゃない。いずれまとめて。
毎月1回書いている「僕の東京物語」。別に年齢を追って書いていくつもりじゃないんだけど、まあ幼い頃から始めたのでその続き。ホントに幼少時の思い出は自宅周辺か、前回書いた親に連れられた浅草である。小学生低学年までは、もちろん親に連れられて電車に乗っていた。さらに北千住で常磐線に乗り換えて、上野動物園にも行ったと思う。その際、車窓から「お化け煙突」を見たのも覚えている。しかし、基本的には学校と通学路(ほぼ田んぼ)の周りで遊んでいた時代である。
自宅では「広い庭」で野球ごっこをしたりしたと思うけど、今も同じ家に住んでいるんだから、庭が広いんじゃなくて自分が小さかっただけである。それなのに庭があんなに広く感じていたなんて…! そして次第に成長するに連れ、周囲の農地はどんどん宅地開発され、移り住んできた子どもたちが転校してきた。生活レベルなどが似ているので、すぐに友だちになったのである。
自分たちは高度成長さなかの「都市近郊中産階級」だったから、そういう子どもたち目当ての「習い事」がいっぱい出来始めた。自分もずいぶん通ったけれど、自分から行きたいと言ったものは一つもない。確かオルガン教室とか児童画教室、書道などに行ったはず。ものすごくイヤだったわけじゃないけど、何一つモノにならなかった。地域の野球チームからも誘いがあったが行かなかった。英会話とかスイミングスクールに行ってないのは、東京東部にはまだそんなものがなかったのである。
しかし、小学校高学年になると「進学教室」に行くようになった。日曜日ごとに模擬テストと講義があるもので、今もある「四谷大塚」ではなく、いつの間にかつぶれてしまった「日本進学教室」(日進)に通っていた。平日毎日学校へ行ってるのに、何で日曜まで朝早く起きて都心まで通ったのか。いま思うと不思議だが、自分では楽しかったのである。それは「学校では教えて貰ってないこと」を先取り学習出来るからだ。芸術、スポーツ系よりも勉強の方が面白い子どもだったのである。
多分中学時代も行ってたと思うんだけど、勉強よりも面白かったのは「一人で電車に乗って都心に出かけること」だった。1962年に(と今調べたんだけど)東武線と地下鉄日比谷線の直通運転(当初は人形町まで、1964年に全線開通)が始まり、最寄り駅から上野、秋葉原、銀座方面まで一本の電車で行けるようになった。そして1969年に地下鉄千代田線が大手町まで開通すると、北千住で乗り換えて新御茶ノ水まで行くことが多くなった。ここで国電お茶の水駅に乗り換えようと思うと、ひたすら長いエレベーターに乗らなくてはいけない。後から出来た路線ほど深い地下鉄になる。Wikipediaを見ると、長さ41mで当時「東洋一」だったという。
何で乗り換えるかというと、原宿まで行くことが多かったからである。つまり、中央線快速でお茶の水から新宿、そこから山手線で原宿である。今は新宿や中野方面に行く時(地下鉄を使わない場合)、日比谷線秋葉原駅を使うことが多い。しかし、当時は地下鉄秋葉原駅ホームから改札を通り、さらに地上まで。そして国電(首都圏の国鉄を「国電」と呼んでいた)の中央線ホームまで、どこにもエレベーターがなく、ひたすら階段を上っていたのである。もちろん真夏でも冷房なしだから、新御茶ノ水を使いたくなる。
原宿は今と違って若者が集まる町じゃなかった。そこに日本社会事業大学があった。ここは何か凄く古めかしい立派な建物だったが、今調べると旧海軍将校会館だったという。1989年に大学は東京西部の清瀬市に移転し、今は原宿署になっている。そこを日曜日だけ借りて、進学教室が行われたのである。60年代末のことだから、キャンパス内は「米帝打倒」(一応書いて置くと「米帝」とは、アメリカ帝国主義である)とか大書したタテカンが林立していた。小学校高学年にして、独特の文字で書かれた左翼用語に詳しくなってしまったのである。もちろん中身はよく理解出来なかったのだが。
そして、一応「中学受験」をしてみた。別に特に国立、私立の名門校に行きたいわけでもなかった。まあ「実力試し」である。歩いて30秒のところに中学があり、どっちかと言えば体が弱かったので(車酔いするから遠足なんてユーウツ)、毎日電車に乗って遠くの学校へ行きたいとは心底思ってなかったのである。確か慶応に落ちたが、どこか国立附属で補欠となった。まあ補欠まで合格になるはずもなく地元の公立中に行くのだが、この経験は自分にとって「何でもない」ものである。
それより「進学教室」へ行ったことは、自分が一人で電車に乗って都心に出られるようになったという意味が大きい。新御茶ノ水駅を出ると、そこに「丸善」があった。大型書店である。さらに駿河台を明治大学沿いに下りていくと、そこには三省堂書店、書泉ブックマート(今はなし)、書泉グランデ、東京堂書店など、さらに古本屋街が広がっているということを知った。夢のような町じゃないか。小学生の頃から本が大好きだったのである。岩波ホール閉館後も、古い日本映画をやる「神保町シアター」に時々行くのだが、今も行き帰りに本屋へ寄ることを楽しみにしている。(この前書いた『隙間』は東京堂で買ったのである。)
「リアル書店」に最近行ってないという人もけっこう多いんじゃないか。何しろ町中華は残っても、町本屋が絶滅しかかっているのだから。でも特に「大型書店」独特の匂いは時々行かないと「禁断症状」が出てしまう。進学教室体験が自分に残したものは、結局「神保町書店街の発見」ということになる。小学生から行っていたわけである。
いつもは大体第2月曜のことが多い「新聞休刊日」が今月に限って第3月曜なのは、大阪・関西万博が理由ということなんだろうか? とにかく今日は朝刊がないので、朝じっくり新聞を読むことを日々の大きな楽しみとしている僕には残念。しかし、その分朝早く行動可能だから、どこかへ行こうか、それとも朝早くから映画を見ようかなどと思っていたところ、昨日の夜になって突然日程が大きく変わってしまった。妻のスマホが壊れて、画面が真っ暗で全く動かなくなってしまったのである。
そんなことをいちいちブログに書いて報告することもないんだけど、これは自分の備忘でもあるので一応書くことにする。そういうことをしてきたから、僕がスマホに変えたのは『スマホにしてみたけど…ぼくのケータイ遍歴』を読むと、2017年7月だと判るのである。その頃もう周囲の多くがスマホにしていたが、別に使えれば何でも良いので、昔の「ガラケー」をずっと使っていたのである。この時も妻のケータイが壊れて、その時にインターネットや固定電話ともどもNTTにまとめたのだった。
それから8年近いから、スマホ的には替え時なんだろう。去年ぐらいからバッテリーが不安定になることが多く、そろそろだなとは思っていた。時々「今なら安い」みたいなお得情報があったが、まあ面倒なので放って置いたわけである。そしてやむを得ないから、自分のスマホを含めて今日買い換えた。それが「Google Pixel」(グーグル・ピクセル)なのである。今までAndroidなので、今さら高いiPhoneにする必要もなく、まだ「らくらくスマホ」でもないだろう。と思うと、日本のメーカーもあるんだけど、デザインや重さ、大きさなどを比較して、グーグル・ピクセルが良いと思ったわけである。
いや、しかし、それからが大変。数多くの書類にサインしてはカードで支払い。その間ずいぶん時間が掛かるが、もっと大変なのは「データ移管」だった。そして実はついに僕のメールアドレスの住所録は移せなかったのである。もう全然使うことがないと思いながら、ずいぶん前の卒業生のデータも残っていたのだが、これでついにお別れになりそうだ。まあ前のスマホは生きているので、移そうと思えば出来るわけだが、もう使うこともないんじゃないかと思う。それで電話番号は最初からずっと変わってないので、その気になれば連絡は可能なはずである。まあ、こんなことでデータが(画像も)なくなってしまうとは思わなかった。
ところで、それより後で気付いた大きな面倒があった。それは「Google以外のアプリが入っていない」ということである。ドコモと契約しているのに、ドコモとの契約メニューを確認、変更出来る(あるいは通常はニュースや天気予報を見る)「dメニュー」さえ入ってないのだ。もちろんFacebook、LINE、X、インスタグラムなどのアイコンもない。(ちなみに歩数計もなくなってしまった。)もちろん自分でインストールすれば良いわけだが、何だかしばらく面倒くさい。
スマホショップというのは、まったく病院みたいなところで、何時間もずっと待ち続け、わかるようでわからないような話を聞いて、幾つもの書類にサインする。今日は病院に行って検査を受けたような気疲れで、しばらくスマホを見たくない。
(日本のスマホメーカーランキング)
(世界5か国のスマホメーカーランキング)
さて、最後にちょっと違ったことを書いて終わりたい。それは日本で売れているスマホのメーカー別ランキング(2024年、最初の画像)を見ると、アップル、シャープ、グーグル、サムスン電子、シャオミ(中国)となっている。一方、アメリカのメーカー別ランキング(次の画像の右上、2022年)を見ると、アップル、サムスン電子、レノヴォ、TCL(中国)、グーグルになっている。その後グーグルが増加しているようだが、昔はある程度売れていた日本メーカーとフィンランドのノキアは消えてしまった。(ノキアはMicrosoftとの協力を中心に事業を展開し、Androidスマホに遅れを取ったらしい。)
日本のメーカーはソニー、京セラ、シャープ(まあ台湾資本になるんだろうけど)がスマホを作っているが、世界的にはアップル、サムスン、中国勢の争いに敗れてしまった。そこにGoogleが直接乗り込んでいるわけである。で、何が言いたいかというと、「日本はアメリカの自動車を買わない」(買いたくても買いたい車を売ってないわけだが)と言われたら、「アメリカは日本製のスマホを買ってない。Why?」と言い返せばいいじゃないか。今は自動車よりスマホの時代だろ。
金曜日(11日)が血圧関係の通院日で、今日月曜日(14日)が大腸内視鏡検査の予約日だった。去年4月末に検査を受けて、悪性ポリープが見つかって2泊3日の入院となった。それから1年後の検査で、やっぱりやった方がいいという話なので予約したのである。経験者は知ってると思うけど、前日は検査食しか食べられず当日は朝から水に溶かした薬を大量に飲み続ける。なかなか大変なので、今日もブログはお休みしたいなあと思っていたんだけど…。朝方パソコンを見たら、ブログに大変なお知らせが載っていた。
なんと「サービス終了のお知らせ」というのである。2025年11月18日でサービスを終わると書いてある。NTTドコモがやってるgooブログはなくならないと思い込んでいたんだけど…。もちろん今すぐではない。新規投稿は9月30日で終了で、11月18日で終わり。ということは10月以後11月18日までは旧記事閲覧のみ可能ということなんだろう。
で、どうしたらいいだろう? 取りあえず新しい引っ越し先を探して、ブログは継続したいと思ってます。それは夏頃を予定し、しばらくはこのまま今のまま新規投稿を続けたいと思っています。別にやめてもいんだけど、継続して読んでくれてる人もいるし、自分でもブログを書くからニュースをちゃんと気にし、映画もいっぱい見に行くというところがある。書き出すと毎日のように書いてしまい、なかなか疲れるんだけど、やはり脳と足のトレーニングになってる。やめると「老化」が進行してしまいそう。
このgooブログでは、自分でも多くブログを読んできた。布川事件の桜井昌司さんのブログなど毎日読んでたけど、亡くなってしまった。それでも沖縄の芥川賞作家目取真俊さんの「海鳴りの島から」など幾つかのブログを読んでいる。このような社会問題、社会批判を発信出来るのも良いなと思って、2011年2月に(翌月に退職を控えて)ブログを開設するとき、ここを選んだのだった。
現時点(2025年3月13日)のアクセス数を調べると、全部で「3201929ブログ」と出ている。下4桁は日々違っているけど、ここしばらく320万人以上が登録している。(その中でこのブログは、平均すると300~400位ぐらいの順位になっている。昨日は新記事を書かなかったから、530位だったけど。まあ特に宣伝してない割には、少しずつ読まれてきている感じ。)
300万人以上が利用しているブログが終了するというのは、ちょっとしたニュースじゃないかと思うけど、今のところニュースサイトには全然出てないようである。理由も何も説明がないから、なんで終わるのかは不明。まあ運営が大変になっているのかなと推察するしかない。社会的意義の大きなブログもあったから、どこか(国会図書館とか)で保存する必要があると思う。
さて、ということで夏頃までは今まで同様なんだけど、引っ越すに当たって記事の大整理をしたいと思っています。10年以上書いてるから、時事的なニュースはもう意味が薄れたものが多い。映画なんかも新作映画が全然評価されず、誰も読まない記事が結構ある。その点、本は古びないので文学記事が案外読まれ続けるのが不思議なものである。
従って、整理に先立って、保存しておきたい記事(画像を含めて)がある方は個人でも保存してくださるようお願いします。記事自体は引っ越し出来たとしても、画像やコメントは引っ越せないようなので。一応お知らせしておきます。
さて、大腸内視鏡検査、自分でパソコン画面を見ていてキレイだなと思ったのに、ポリープがありますとちょっと取られてしまった。その病院は、この地区で初めてAI診断を取り入れたと待合室で宣伝していた。そこで思い出して見ると、画面に色で指摘する箇所があったような気が。写真で見ても(素人には)判別できないところにポリープがあったという話。
まあそれで良かったんだろうけど、そろそろどこかへ出かけたいのに旅行は1~2週間控えてと書いた紙を渡されてしまった。でもまあ今年は入院しなくて済んだから良かった。ということでこのブログを書いてるわけです。
「僕の東京物語」3回目はちょっと外に出てみたい。今年の冬は寒さが長かった。ようやく暖かくなってきて(むしろ暑いぐらい)、本来なら東京の桜も満開になるはずが、今年は少し遅れている。しかし、雨の予報もあり昨日(27日)隅田川近辺を浅草まで歩いて来た。ここらはいろんな意味で思い出やゆかりのある場所だが、まずは東武線で浅草から2駅目の曳舟駅で下りて川縁まで出て、ノンビリと隅田公園隣の牛島神社へ。ここは有名な「隅田川七福神」には入ってないけど、本所の総鎮守とされる大きな神社である。なんでここへ行くかというと、僕の名前はここの神主さんが付けてくれたらしいからである。
僕の両親は当時墨田区の押上(おしあげ)に住んでいて、牛島神社を訪れて命名を頼んだらしい。もちろん「そう聞かされた」という話で、それっきりである。特にその後節目節目に親とともに参拝したとかいう事は全くなく、僕がここを見るのも初めてじゃないけど3回目ぐらいだと思う。概して自分の親たちは日常的に神社仏閣に行くことはなく、一家で初詣に行ったという記憶もない。なんで「修一」なのかも知らないし、名前に良いも悪いもないと思っている。まあ、あえて言うなら「なんて読むか不明な名前」よりはいいけど、「普通一つしか読み方がない名前」より「訓読み以外に音読みも可能な名前」の方が好きなんだけど…。
曳舟駅から水戸街道、墨堤通りと大きな道を横切って西の方へ向かうと、長命寺(3枚目)に出る。その真裏にあるのが山本屋(1枚目)で、東京名物の「長命寺の桜餅」を売ってる店である。僕は大好きなんだけど、いつもは中で食べられるのに桜祭り期間は持ち帰りだけとあって買わなかった。ここの2階で昔正岡子規がひと夏を過ごしたとか。「正岡子規仮寓の地」説明板がある(2枚目)。そこら辺のことは伊集院静の小説『ノボさん』に詳しい。川沿いを歩くと、桜餅屋の裏がお寺という感じ。多くの碑があるが、4枚目は幕末明治の文人成島柳北の碑。気付かない場所に木の実ナナの碑があったのはなぜだろう?
堤防を上ると川沿いに歩道がある。「春のうららの隅田川」とつい口ずさみながら散歩することになる。しかし、案外空が澄んでないのは、この日は黄砂だったのである。近くにある「とうきょうスカイツリー」が大きくそびえている。2枚目は「桜橋」で、1985年に作られた観光用のX字型の橋。いろんな映画やテレビドラマに出て来る。例えば『PERFECT DAYS』で役所広司が自転車で通っていた。3枚目が上流側、4枚目が下流側である。本来3月末は両岸一体が桜の花でいっぱいなんだけどな。
この辺りには有名な寺社がいっぱいあって、正月には七福神めぐりをする人で一杯になる。僕は大分行ってないが、近くに勤務したこともあり、この辺りは既視感が強くて面白くないのである。一応写真を撮ってみたが、最初は弘福寺(ぐふくじ)で、すごく立派なお寺だった。2枚目、3枚目は三囲(みめぐり)神社。そこにはライオン像があって、これは三井家ゆかりの神社のため閉店した三越のライオン像が寄付されたんだという。七福神めぐりではこの神社だけ恵比寿と大黒の二つが祀られている。
三囲神社近くに「すみだ郷土文化資料館」がある。いまは東京大空襲80周年の展示をやっている。20年前の「60年」時に見に行ったが、その頃は近くの定時制高校に勤務していて空襲を経験した高齢の生徒が通っていた。僕は東京東部の学校に20年ほど勤務したから、関東大震災や東京大空襲には無関心ではいられない。まあ今回はパスして、牛島神社に寄って、浅草へ。東武鉄道の鉄橋の下に「隅田川リバーウォーク」という歩道が出来て、最初の写真。渡ると「すみだ川」の看板の向こうにスカイツリー。東武線は浅草松屋の2階に吸い込まれる。1931年完成の駅ビルである。ここには小さい頃から何度も行っている。
小さいときから何回も浅草へ行っているのは、父親が東武鉄道勤務で昔は「家族パス」があったからである。家から都心に出るには、僕の幼いときは東武線しかなかった。(後に地下鉄日比谷線が出来る。)パスで改札を通り浅草まで直行できる。それなら母親が連れて行くはずである。そして屋上には遊園地があって、子どもを遊ばせるのに最適。だから浅草寺や仲見世じゃなく、デパートだけが多かったと思う。昭和30年代には浅草は東京を代表する盛り場だった。だけど、母親は当時の世代によくいる「デパート好き」だった。そういうことで、僕の家や近所以外の記憶としては、浅草松屋の屋上になってくる。
屋上遊園地は2010年まであったらしい。昔の映画を見ると、デパートの屋上でデートしたりするシーンがよくある。その後は夏にはビアガーデンになったりしてると思う。ちょっと前まで、隅田川対岸のアサヒビール本社ビル、屋上に奇抜な炎のオブジェがあって、皆が「○○○」ビルと呼ぶのが間近に見えていた。もちろん今も間近なんだけど、間にずいぶんビルが建っている。そうだったっけ。ちょっと前まで対岸から松屋もよく見えた気がするが、今回行ってみると案外見にくい。スカリツリーが真ん前に見えるので、松屋の屋上は狙い目の写真スポットである。今のところ奇妙に思えるほど外国人観光客に発見されてない。
「僕の東京物語」の2回目。前回東京近郊の農村地区で育った話を書いた。僕があぜ道の中を通った伊興小学校は何と1874年開校とうたっている。もっとも分校として出発したらしいが、とにかく150年の歩みを持っているのだ。そして、ここは母親の母校でもあった。母方の大家族に同居していたわけではない。たまたま母の実家近くに、東武鉄道の建売住宅が作られた。両親は昭和20年代にともに東武鉄道に勤務していて知り合った。そして東武が住宅開発に乗り出した最初の戸建て住宅を買ったわけである。これが今も自分が住んでいる土地で、僕が足立区北部で育ったのは偶然ではない事情があったわけである。
小学校時代はまだまだ辺りは田園地帯で、小学校も小さかった。(今なら近くの別の小学校に通ったはず。)全部で4クラスである。個人的な思い出はいろいろあるが、当時の世の中に関わる記憶を書いてみたい。小さな頃は家に電話がなかった。もちろん今「固定電話」と呼ばれているもののことだ。当時はクラスメートで電話がある家はまだ2割程度だったと思う。PTA会員名簿には、(呼)という番号が書かれていて、近所の電話がある家の番号が書いてあった。子どもは学校で怪我したり発熱することがあるから、近所の電話がある家が連絡先になっていた。まあ、そういう状態は小学校時代に終わったと思うが。
日本の高度経済成長とともに、急激に電化が進んでいた時代である。電気器具のいわゆる「三種の神器」、冷蔵庫、掃除機、白黒テレビは、小学校低学年時代にそろったと思う。つまり、僕は「テレビがない時代」を覚えているのである。小津安二郎監督の『秋刀魚の味』(1962)に掃除機を買うかどうかという話が出て来るが、まさにそういう時代だった。お風呂も薪を焚いて沸かしていて、僕も子どもながら薪割りをしていた。もちろん家の風呂は毎日入るものじゃなかった時代である。
そんな時代の東京に一大イヴェントがやってきた。東京オリンピックである。当時は小学校3年だったはず。確か高学年になるとあまり人気がない競技の見学に行っていたと思うが、僕たちは教室で「テレビ観戦」していた。突然各教室に白黒テレビが配備され、授業として見て良かったのである。もっとも何を見たかあまり覚えてない。今でもそうだけど、重要な決勝などは夜になるわけで、大事な試合は家で見たんじゃないか。だから一番の思い出は、開会式(1964年10月10日)の「五輪の輪」になる。
そしてもう一つは閉会式だった。開会式も記憶にあって、当時としては最多の参加国が行進した。NHKテレビの放送で北出清五郎アナが各国の名前を読み上げていった。それをマネ出来るというのが僕の世代には時々いるが、僕もある時期までは出来た。そして1945年8月6日に広島県で生まれた青年(坂井義則=早稲田大学競走部所属。後フジテレビ社員、2014年没)が聖火ランナーとして登場した。そういう事情は子どもながらに全部知っていて「平和の祭典」だと思って喜んでいたのである。そして祭りは終わる。最後の閉会式は隊列が崩れ参加者皆が手を取り合っていた。そういう式もアリなんだと非常に強烈なインパクトを受けた。
もう一つ強烈な思い出は1966年3月4日に羽田空港で起きたカナダ太平洋航空機事故である。1966年は歴史に残る悲惨な飛行機事故が続いた年だった。まず2月4日に全日空機羽田沖墜落事故(死者133名)、一月後のカナダ太平洋航空機事故(死者64名)、そして翌日にはBOAC(英国航空)機空中分解事故(死者124名)、11月13日に全日空機松山沖墜落事故(死者50名)と乗客に大きな被害が起きた航空事故が日本で連続したのである。その後、さらに大規模な事故、特に1985年の日航機事故があり、当時を知っている人でも1966年の悲惨な連続事故は忘れている人が多いのではないかと思う。
その中でも特にカナダ太平洋航空機事故を覚えているのは、この事故で同学年の女子が亡くなったからである。もっともその子と話した記憶はない。一度も同じクラスにならなかったからだ。でも名前と顔は知っていたのは、割合有名な一家だったからだろう。父親は仕事でシンガポールに赴任していて、母親とその子も確か途中でシンガポールに行った。そして記憶で書くと新学期から日本に戻るということで、父に先立って母子で帰国したという話だったと思う。だから3月4日という日付になる。
話したこともないんだから個人的な思い出はない。しかし、初めて「死」が日常的な世界に飛び込んできたのが衝撃だったのである。しかも新聞の一面に名前が載るような形で、知り合いが登場した。そんな風に事件事故に巻き込まれた知人はその後もいないのだから、子どもとしては強烈な思い出になるわけである。その後少女雑誌(「少女フレンド」とか「なかよし」とか)が取材に来たのも覚えている。友だちだった女子に「窓のそばに立って」「空の方を見て」とか振付をして「悲しそうな顔」の写真を何枚も撮っていった。そういう「演出」をして写真が「作られる」のだということも初めて知ったわけである。
先ほどの事情から母子ともに亡くなり、残された父親はその後小学校に遊具(ジャングルジムなど)を寄贈した。今年の正月に見に行った時には無くなっていたが、半世紀以上前のものが残っているわけもないだろう。しかし、そういうエピソードがあったということは、誰かが語り継いで欲しいなと思う。その後僕は地理や歴史に関心を持つようになり、新聞も毎日読むようになった。そんな話はまた別の機会に書きたいと思う。
2年前まで日本の山や温泉を毎月1回書くシリーズを書いていた。それを終わりにした後で、なんか違うシリーズを始めたいと思ったけれど、ちょうど母親の入院と重なって書く機を逸してしまった。それが「僕の東京物語」である。実は東京新聞の最終面に「私の東京物語」という連載コラムがあって、著名人がそれぞれの東京の思い出を書き綴っている。まあ、それと同じなんだけど、自分なりに関わりのあった思い出の地を書き残してみようかと思ったのである。
このブログを書き始めてもう15年ぐらい経つ。いつまで書けるか知らないが、まあ誰かと同じようなことを書いても仕方ない。絶対に誰も書いてないのは、自分自身の思い出である。とは言っても自分の仕事は教員だったから、面白いエピソードは大体「個人情報」に触れてしまう。そこで「場所」の方をメインにして書こうかと思いついたわけである。
「自伝」とは違うけど、まあ最初は自伝的に。僕は東京23区の北の端、足立(あだち)区という所で育った。1歳まで墨田区にいたらしいが、当然記憶はない。記憶は足立区から始まる。と言っても、全国的にはどこというイメージが湧かないと思う。北千住や西新井大師があるが、東京人でも行ったことがない人の方が多いだろう。この前書いた寅さんゆかり、あるいは「こちら葛飾区亀有公園前派出所」(または「キャプテン翼」)に関係する隣の「葛飾(かつしか)区」の方が有名だろう。
しかし、足立区だろうが葛飾区や他の区も含めて東京23区の周縁部は、高度成長時代以前はほぼ農村地帯だった。ただ西の方は畑が多かったが、東の方は田んぼが主流だった。つまり、僕が小学校に通っていた時代には、通学路はほぼ水田地帯だったのである。あぜ道を歩いて通学していたのである。春になるとレンゲが咲き、やがて田植え、秋に稲刈りがあり、木に掛けて干す。それを「稲架掛け(はさかけ)」というらしいが、その一連の仕事を見て育った。冬になると、水田の水は落とされ乾いたところに鷺がよく来ていた。そうやって、就学時期が来て「足立区立伊興小」に通学するようになった。
ということで伊興小に行ってみよう。行ったのはお正月のころだけど、アレ、どこだ、迷ってしまったじゃないか。仕方ない、スマホで検索するかと思ったら、スマホがないじゃないか。時々スマホを忘れて出てしまうのである。小学校は駅に行くのとは方向が違うので、もう半世紀以上ちゃんと行ったことがない。そうすると行き方を忘れてしまうのである。そんなことがあるのか。
翌日地図を確認して出かけたら、ようやく着いた。こんなところにあったのか。案外遠いのに驚いた。子どもは元気だし、皆で行っていたから、遠さは感じてなかった。今はネットが張りめぐらされていて、写真を撮りにくい。ボール飛びだし予防もあるが、写真を撮りにくくする意味もあるのかもしれない。子どもがいたら、盗撮っぽくて撮りにくい。だから正月に行ったわけ。
校歌の2番をホームページで確認してみると、「東に筑波 西に富士 平和の旗はたなびきて 自由のかねのなるところ」とある。この歌詞とメロディは今も覚えているが、「平和」「自由」はいかにも「戦後の校歌」という感じがする。ところで、このように富士山と筑波山を対比させる校歌は、自分が通学通勤した学校に多かった。しかし、もう僕の子ども時代に筑波山は見えなくなっていた。家が建ち並び始めていて、標高が低い筑波は見えないのである。しかし、特に空気が澄み渡る冬になれば富士山はよく見えた。今は家からは見えないが、電車に乗って荒川鉄橋を渡るときなど富士山がよく見える。(冬だけだが。)
小学校2年、3年時の担任の先生は片足が悪かった。傷痍軍人だったのである。そしてバイオリンが得意で、時々弾いてくれた。図工の時間にはよく校舎外に「写生」に行かせてくれた。学校の周りは田んぼで、田植え前の時期にはレンゲがキレイ。周りにメダカがいる小川が流れていて、その辺りに腰掛けてスケッチするのである。時間があったらレンゲを摘んで首飾りを作ったり、皆で遊び回る。そんな自然環境が東京23区だけど、1960年代にはまだ残っていたわけである。
自分の家で飼っていたニワトリがイタチに襲われて全滅したのも覚えている。そんな地域に住んでいたわけだから、周囲は空き地だらけ。「秘密基地」みたいな隠れ場所もいっぱいあったが、それらはほぼ1970年前後に無くなった。昨日まで遊んでいた雑木林が、今日見たら重機が入って土地がならされていた。そこに住宅が建って、あっという間に開発されていった。もともとただの郊外農村だったから、特に伝統ある祭りとか名物など何もなかった。そして風景も変わってしまった。
僕には昔から「アイデンティティの拠り所」がないという気持ちに囚われていたが、それはこういう環境で育ったことが大きいと思う。僕の若い頃に「外地帰還者の文学」が注目されていた。僕はそういう体験とは違うけれど、何か似たような通じるものがあるのかと思う。僕が若い頃に感じていたのは「居場所が失われていく」という感覚だった。いつの間にかなじんでいた風景が無くなってしまうのである。今は肯定的なイメージで語られる「高度成長」だが、中で生きている時は激しい変化に付いて行くことが大変な時代だった。だから僕は「故郷がない」という感覚で育っていくのである。