尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

インフルエンザに罹った(追加)

2019年01月23日 17時54分39秒 | 日記
 先週半ばからセキをしていて、寒いから風邪ひいたかなと思った。まあ年に一回ぐらいはあることだ。土日も出掛けたかったけど、まあ休むかな。その時点ではテレビでスポーツでも見て、ミステリーでもノンビリ読むかと甘く考えていた。ちなみに素晴らしく面白い「カササギ殺人事件」の下巻の半分あたりを読んでいた。土日はとても本を読めずにそのままになっている。

 金曜夜はまだ危機感が足りず、11時まで本を読んでいた。もう限界だと思って寝たんだけど、その後時々トイレに起きたりしたけど、結局土曜の午後1時まで寝てしまった。体温を測ると、38度5分もあった。ええっ、という感じで、日曜も下がらなかったから、これはインフルエンザかなと思うしかない。月曜になって医者に行ったら、やはりインフルエンザだった。しかし、今日は37度台に下がっていて、もう最悪期は通り過ぎている。まだセキやタンはあるけど、もう少しだろう。

 インフルエンザにはもちろん何回か罹っているけど、最近はなかった。21世紀初かも。世の中では大流行しているらしいから、どこかでウィルスを貰って来るのもやむを得ない。やっとパソコンを見られるようになり、最近記事を書いてない報告。ちゃんと書きだすにはもう少しかかると思うが、ようやくこの程度を書けるようになった。

追加
 月曜に医者に行き、体温も下がったいたから、ちょっと油断してしまった。夜にあったアジアカップ(サウジアラビア戦)も緊迫してたから、ついずっと見てしまった。火曜日になってまた熱が上がって、38度台になってしまった。インフルエンザだからいつか治るはずだが、甘く見るとこうなる。解熱剤も貰ってあったから、服用したら熱も下がって、これで大丈夫かなと思う。

 インフルエンザだから、よくある風邪の諸症状がある。今回は風邪としてはかなり軽い方で、のどの痛みや節々の痛みなどはあまりなかった。じゃあ、寝てればいいだけだろうという感じだが、それがそうでもない。何日も寝てると、腰や首が痛くなって寝がえりを打つのも辛いのである。

 若いころは一日中寝てても大丈夫だった。「一日中寝てる」というのは、要するに「ダラダラして過ごす」ということである。もちろん人生すべてをダラダラするわけにはいかない。でも学生時代なら、たまにはそんなこともできる。寝ながら本を読んでられれば、それが一番楽しいなと思ってたもんだ。若い時は、歳を取ると寝てても疲れるんだなどとは想像もしなかったのである。

 当初は全然食欲がなかった。お粥を煮たり、リンゴをすり下ろしたり、ゼリーを買っ来てくれる人がいて、本当に良かった。こういう時にそう思う。やはり「同居人」は大切だな。必ずしも異性(または同性)の配偶者じゃなくてもいいと思うけど。「助け合い同居人」という制度も大事だと思う。今だと法的な関係がないと、手術への同意などができない。ちゃんと法的な整備を考えて見るべきだ。
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実名でブログを書くこと-開設8年目に向けて

2019年01月17日 23時35分54秒 | 日記
 今まで新年に「年頭所感」のようなものを書く年が多かった。今年は書いてないので、ここで「このブログについて」をテーマにして簡単に書いてみたい。2011年2月にブログを開設した時は「尾形修一の教員免許更新制反対日記」だった。5年経ったころに「紫陽花通信」に変更した。「紫陽花通信」の由来は、年末に書いた「見田宗介『現代社会はどこに向かうか』を読む」に書いたので、今回はその前の名前部分について書いておきたいなと思う。

 ブログを始めた時は、まさか一カ月後に東日本大震災が起こるとは全く予想もしてなかった。この大震災は僕の人生も大きく変えたけれど、ともかくそれ以来ほとんど7年間毎日のように何か書いてきた。昔は勢いに任せて一日に2回書いたりする日もあった。今読み返すと、なんでこんなに長く書いてるんだろうと思う記事が多い。時たま見直して校正することもある。昔の記事でもう賞味期限が切れたものは「下書き」にして読めなくすることもある。(いまさら民主党政権時の内閣改造とか、その後の衆院選、参院選の情勢分析なんて関心がある人もいないだろう。)

 どうしても時事問題で書くと、時間が経つと何が問題なのかも自分でつかめなくなる。日々のニュースを見て、いろいろと感じ考えているんだけど、今はいちいち反応しないようになってきた。(国内ニュースに比べて国際ニュースは賞味期限が長い気がする。)この間いろんな記事を書いてきたので、一日二日記事を書かなくても、昔の記事が読まれることが多い。最近ではベラ・チャスラフスカの記事が突然読まれれていたけど、これは池上彰氏のテレビ番組があったからだろう。最近西加奈子「サラバ!」の記事が読まれているけど、そのきっかけは判らない。

 最初は誰も知らないから、当然ブログの順位なんてものも出ていなかった。身近な人が見つけやすいようにと言う意味で、「尾形修一」と実名を付けたのである。教員免許更新講習を受けずに、2011年度をもって退職してしまったので、その後の自分が何を考え何をしているのかを示すのは一種の義務だとも思っていた。かつての生徒がこのブログを探すには、名前を付けておくのが最善だろう。実名で書かない限り、探しようもない。長く教員をしていたから、自分の名前で検索されるのは予想できる。最近は趣味的だったり、歴史の話をけっこう難しく書くようになってきた。でも当初は昔の生徒に向けて書いている意識が強かった。

 ネット上で匿名、あるいはペンネームなどで発言するのはもちろん構わない。誹謗中傷的な発言が許されないのは、匿名だろうが実名だろうが同じである。でも、きちんとした批判なら、匿名でも構わないだろう。だから、僕が実名を付けているのは、「発言に責任を示す」という意味じゃない。もともと僕は何回か、自分が責任者となって集会を開いたことも何度もある。だから実名は前から社会に公開しているようなものだ。今さら選挙に出るじゃなし、名前を売るつもりもないけど。

 僕がやってるgooのブログは全部で285万ぐらいあるらしい。ちょっと前は300万を超えていたので、ブログのブームも落ちついているんだろう。でもツイッターは短すぎるし、インスタグラムで写真を投稿するのもめんどくさい。だから僕は今のところ、Facebookブログである。Facebookに連動した「いいね」なんて、自分が頑張って書いた記事には少ないことが多い。今では大体千番以内、最近は500番以内の順位の日が多いから、もう僕の知らない人が読んでくれているんだと思う。

 その意味では名前を取ってしまってもいいんだけど、去年だけでもずいぶん昔の生徒から連絡をもらった。最近はブログ経由より、FacebookのMessenger経由が多いけど。(ちなみに僕は自分が知っている人からの友達リクエストはすぐにOKしている。知らない人からリクエストは、相手を調べてからにしているけれど。)何をしているのかなと思っている昔の生徒はまだまだいるので、しばらくはこの名前のままで行こうかなと思っている。
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日傘の効用

2018年07月21日 22時15分49秒 | 日記
 国会が事実上終わって、政治の問題を書こうかと思った。少し書き出したんだけど、風呂から上がったらなんだか面倒になってしまった。僕は安倍首相が辞めると思ったことはないし、一時不支持が上回った安倍内閣の支持率もやがて回復してくるんだろうと思っていた。実際そういう感じなんだけど、当たってもうれしくない。なぜそうなるかが理解できないのである。安倍外交も、「アベノミクス」経済も、もう底が見えたと思うが。まだ「期待」する人がいるんだろうか。

 しかし、そんなことも「猛暑」の前に霞んでしまう。西日本の集中豪雨も、オウム真理教幹部の死刑執行も、あるいはそれ以前の米朝首脳会談サッカー・ワールドカップも…35度レベルの暑さが一週間以上続くような気候にノックダウンである。とにかく暑い。

 今頃、東京五輪は大丈夫かという人が多いのも驚き。僕は開催決定後は、夏の暑さをどうすると書いたと思う。でも、五輪返上も、時期変更も、もうできないんだろうから、僕にはもう関係ない。書いても仕方ないと思うことにした。「ボランティア」というのは、好きでやるはずなんだから、体力的に無理そうな人はやらない方がいい。「ボランティア」を「奉仕」と決めつけて、東京の学生・生徒は五輪に「奉仕せよ」と、きっと東京都は言ってくる。「自衛」できない人もいるだろうことが心配だ。

 夏の暑さに接すると、確かに昔より暑いとは思いつつ、自分の体力も落ちているなあと思う。若い時は少しぐらい太陽を浴びても、そんなにダメージはなかった。まあ山で一日ケアしないでいたら、日焼けで痛いというようなことはあった。夏にはどこかの山に登りに行って、麓の温泉に泊まるというようなことを毎年のようにしていた。だから、ついうっかり日焼けしすぎたということもあった。でも最近はそんなに日に当たってないのに、すぐ皮膚が痛くなる。

 もちろんUVケアはするし帽子を被ったりするけど、それより何より「日傘」の効用がすごいと今年気付いた。最近は「日傘男子」という言葉もあるらしいが、男が日傘なんてという意識もあるんだそうだ。僕はそういうのはなかったけれど、ただ単に持ち歩くのが面倒なので日傘をしようとは思わなかった。でもすごく軽い折り畳み傘にしたので、これなら夕立対策という意味でも、夏は毎日持っててもいいなと思った。そのぐらい軽いのである。検索すればたくさん出てくるけど、今は100グラムもしない傘がいっぱい出ている。

 その超軽量傘は、大雨だと小さすぎる。ビル風にも弱すぎる。だから降水確率5割以下の日しか意味がない。それ以上なら、ちゃんとした傘の方がいい。でも、今年それを日傘に使ってみたら…。全然調子いいじゃないか。ホントに温度が違うのである。そして紫外線を防ぐ効果ももちろん高い。いや、こんなに違うのか。もちろん、いちいち折りたたんで持ち歩くのが面倒だ。面倒で嫌なんだけど、太陽の暴力から身を守る効果は抜群だった。これはまだ男では知らない人が多いだろう。
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東武鉄道のSL「大樹」試乗記

2017年08月02日 21時27分02秒 | 日記
 東武鉄道がSL(蒸気機関車)の運行を開始する。8月10日から、下今市と鬼怒川温泉間を土日中心に3往復することになっている。それに先立って、2日に株主向け試乗会が行われた。前にスカイツリーの事前見学会に応募したときは外れたから、今回もあまり期待していなで一応出しておいたら、2週間ほど前に当選の連絡が届いた。

 まあ行って乗って帰ってくればいいやと日帰りで行ってきた。夏休みは泊ると高いし。「下今市➡鬼怒川温泉」と「鬼怒川温泉➡下今市」とあって、どっちも希望しておいたけど、鬼怒川温泉から出る方が当たった。午後2時40分発だから、のんびり出ればいいかなとゆっくり行ったんだけど、下今市まで行ったところで「人身事故」で止まってしまった。乗ってた特急が下今市止まりとなり、その後の各駅停車で行くしかなくなった。SLの運行も遅れるし、ゆっくり見る時間も無くなってしまった。

 ということで、鬼怒川温泉に付いたときは、もう駅前の転車台でグルッと回転する瞬間は終わっていた。でも、まあ何とかホームに入るまで、また入ってからの写真を何枚か撮ってみた。このSLは名前を「大樹」(たいじゅ)と付けられている。もともと「大樹」というのは、中国で征夷大将軍の別名である。徳川将軍の墓所にある日光、それに「スカイツリー」の意味を兼ねている。マークは3つの動輪だけど、これも徳川の「三つ葉葵」をイメージしている。(他にも理由があるけど。)
   
 ところで、夏の一日、鬼怒川とはいえ猛暑だったらどうしよう。それにSLっていうのは冷房があるんか? などと当初は心配もしてたんだけど、案に相違して今日は25度にも届かない一日中曇天の日だった。東武がせっかく冷却パックと麦茶をくれたんだけど、使う必要がなかった。それに今回のSLは、普通の列車に連結されているから、客車も当然冷房が付いていて、窓は開けない。当然煙くもない。だから「ただ乗ってるだけ」とも言える。動いてるところは自分では撮れないし…。
   
 自販機も「大樹」仕様になってる。一番前の車両の指定席だったので、窓から煙がよく見られた。今回は全国で残されたものを譲渡されて使っているものが多い。客車はJR四国で使っていたものを改良したという。1974年製の列車で、SLは北海道で1971年まで使用していたもの。下の最初の写真を拡大すると判るが、日立製作所で1941年に作られたものである。だから、SL本体と客車は同時代に使われたものではない。まあそういう工夫で、乗る方はある程度快適性を得られているわけ。
  
 鬼怒川温泉駅出発も遅れ、下今市着も当然遅れる。もともと特急で25分ほどかかるところを、SJだと34分ほどの時間になっている。だからのんびりしたもんである。沿線では「SLに手を振ろうキャンペーン」なんてやってるので、結構手を振る人も多い。こっちも一応振ってみることになる。もちろん手を振るのではなく、一心にカメラを撮っている人も多いけど。やっと着いたと思うと、もう帰りの時間。事故延着は帰りに取ってあった特急あたりから解消され、従ってすぐに帰るしかない。下今市には「SL資料館」ができ、SL見学エリアもできているけど、そっちを見る余裕はなかった。
 
 転車台で回って車庫に入る様子は、帰りのホームから遠望して少し撮った。これでオシマイ。なんだかよく判らん体験だった。僕は父親が鉄道会社だったので、小さなときは全国の駅名を覚えるような子どもだった。でも長じるに連れ、だんだん関心が薄れた。というか、今も鉄道好きではあるものの、他に関心のある事柄がいっぱいあるということかも。もともと鉄道であれ、クルマであれ、モノとしての関心が薄い。だからSLに機械としての関心はあまりない。ただ、昔あった、映画にもよく出てくる「蒸気機関車」という存在に、歴史的、文化的な興味があるということかなと思う。日光地区は大好きで、ここでも何回も書いている。今回SLという魅力も加わるので、多くの人に宣伝しておく次第。
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スマホにしてみたけど…ぼくのケータイ遍歴

2017年07月30日 21時40分05秒 | 日記
 先週月曜日朝に、連れ合いのケータイ電話が突然ご臨終を迎えた。前夜に充電して、その時までは何の問題もなかったという話で、朝になったら完全にいかれていた。バッテリーかなんかの問題ではなく、全然立ち上がらないという話。ケータイショップでは、8年も使ったので修理もできないと言われた由。だから電話帳なんかがまったく失われたのである。

 それをきっかけに、僕のケータイ電話も変えてしまうこととし、会社も変えた。今回はようやく「スマホ」にしたんだけど、やはりまだ使いにくい。いつかスラスラ使えるようになるかは予測がつかない。会社を変えたので、番号は変わらないけど、メールアドレスは変わった。でも、なかなか面倒でほとんどの人に変更通知を出してない。1年間にメールが来る人も限られているのが実際だから、昔の卒業生なんかどうしようと思うと、だんだん面倒になる。

 要するに、@以前は同じなので、ezweb を docomo に変えてくれればいい。まあ、知り合いはあまりブログを見てないらしいけど。そのうち順々にお知らせメールも出したいと思ってる。

 面倒と言えば、僕の場合、「スマホにはしない主義」かと思ってた人もいるらしい。そんなことはなくって、ただ面倒だっただけである。そもそも携帯電話を持つことそのものが面倒だ。ケータイショップに行くのは、歯医者に行くのと同じぐらい緊張を強いられる。訳が分からないことをいくつも決めないといけないから。会社も変えるとなると、ほとんど一日仕事である。先週は完全に予定が狂った。

 じゃあ、なんで会社を変えたかというと、「固定電話」の会社が変わったからである。僕の場合、母親と一種の2世帯住宅みたいな感じで電話2回線を使ってる。その電話を昔付けた時は、多分その頃の最新機種で、インタフォンと連動しているのである。外でピンポンとなると、電話に映像が映る。これが今では稀少機種で、光電話に変えられないのである。そして、KDDIで長くやってたけど、そういう電話回線サービスをKDDIが止めてしまったので、やむなくNTTに戻すしかなくなった。それまではKDDIの固定電話と、auの携帯電話をまとめるプランだったのだが、それはできなくなった。そこで次に壊れた時は、DoCoMoに変えてしまいたいと強く思っていたわけである。

 今までの「ガラケー」では、使えるコンテンツがどんどん減っている。例えば、昔はFacebookのメッセージ機能をケータイでできたのに、しばらく前から記事も見られなくなった。(ところで、Facebookのメッセンジャー機能は、パソコンでもどうやるんだか判りにくいんだけど。)このブログも、例えば震災のボランティアに行ったときは、ケータイから投稿できた。その頃の記事は現地から送ったものである。でも、数年前からそういうこともできなくなった。それじゃあ、スマホに変えるしかないではないか。

 ということで、次はスマホにするしかないかとは思っていた。だけど、現実の人間関係がどんどん希薄になっている段階で、スマホは必要なんだろうか。けっこう重たいし。それに何より、僕の指に反応しないとか、違うところを押してしまうという悩みがある。それらは高齢スマホユーザーに共通の悩みだろう。だけど、それ以上の大問題がある。それはケータイ電話やパソコンに共通する大問題。

 セキュリティの問題。世の中が便利になれば、その便利さを悪用する輩もいろいろ出てくる。そういう犯罪記事は毎日のように出ている。そうなると、何でもかんでも「パスワード」を要求するようになった。自分で決めたパスワードも忘れるけど、会社が最初に掛けたパスワードもたくさんあって、それをこっちは知らない。今回は今までの「電話帳」のパスワードが判らないから、スマホに移せなかった。自分で探し回った挙句、もともと会社が設定したパスワードだった。知るわけない。結局はまた別の日に行って、auのケータイからDoCoMoのケータイに赤外線通信で送り、それをスマホに再転送するというやり方で何とか移したのだった。

 パソコンでも、すぐにパスワードを要求してくるから、面倒になったら止めてしまう。そういうことが多くなった。個人情報保護というのは、学校でもいい迷惑だったけど、自分の持ってる通信機器でさえ自分で自由にならない。だから、スマホで使えるといういろんな機能も、まだほとんど使ってない。それじゃあ意味ないと言えば、そうなんだけど。僕の場合、パソコンとかスマホ(ケータイ)にかける時間はできるだけ少なくして、読書時間をキープしたいという欲求がある。すぐにもういいやとなっちゃう。

 僕が携帯電話を初めて持ったのは、1997年のことだった。何でちゃんと言えるかというと、FIWC関東委員会の「らい予防法廃止一周年記念集会」の連絡先になった時に持ったからである。その時は「Jフォン」というのだった。(ちゃと「フォン」だったんだな。)それはやがて、ボーダフォンとなり、ソフトバンクになった。そして、auに変え、今度はドコモに変えたから、三社遍歴したことになる。実は三社とも、歩いて5分ほどのところにお店があるので、どこにしても同じである。

 最初はメール機能もなかった。本当に携帯できる電話に過ぎなかった。それが電子メール機能が加わったのはいつごろか。自分が変えたのは21世紀初めごろではなかったか。その頃から、夜間定時制やチャレンジスクールに勤務したので、欠席がち、病気がち、引きこもり、アルバイト、ただの怠けなどで学校には現れてくれない生徒との連絡手段は、ケータイ電話しかなかった。生徒とメールするのは怪しからんなどという人は、不登校の生徒を担任して見てくれよと言いたい。だから、仕事にために持っていたようなもんなので、今後いつまで持つべきなのか、自分でも考えてしまうんだけど、ケータイ止めるとなると、またそれはそれで結構決断力を要する。
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「加齢臭」には重曹水スプレー!

2017年07月10日 23時44分24秒 | 日記
 羽仁進特集で「愛奴」という不思議な映画が一日しか上映がないから見てきたんだけど、そのことは後でまとめて書くことにしたい。突然話が全然変わるんだけど、時間がない時にでも書こうと思っている話を書いておきたい。それは「加齢臭」をどうするかという話。

 昔は「加齢臭」なんて言わなかった。当たり前である。「加齢臭」というのは、ウィキペディアによれば、2001年4月に資生堂リサーチセンター研究員の土師信一郎らによって発表された論文によって命名されたものなんだから。だけど、それ自体はあったはずである。でも、ちょっと昔は男の定年が55歳だった。家に風呂なんかなくて、ある家でも毎日入るものではなかった。70年代頃まではそうだったのである。だから、皆が損なものだと思っていたのかもしれない。

 ついでに書いておくと、電車の冷房なんかもちろんなくて、みんな暑さに耐えていた。駅にはエスカレーターなんかもなく、長い階段を上っていた。書くまでもないけど、お尻を洗えるトイレなんてシャレたものもなかった。60年代、70年代を「高度成長」の夢の時代のように思って、田中角栄なんかがいた時代をありがたがる人もけっこういるけど、今の方がずっと暮らしやすいのは間違いない。

 ところで、この「加齢臭」というものは、やっぱり大変なんである。僕のように昔の日本映画を見ることで、「時代亡命者」のように暮らしていると、どこに行ってもお年寄りの(ほぼ)「ジーサンズ」に会うことになる。中には全然気にしてないような人もいて、ちょっと大変である。そういう人にあてはまるかどうか、トイレに行っても手を洗わない年寄りが大体半分ぐらいいる。その問題はまた別にいつか書きたいけど、ほんの10年ぐらいのところで世代間の差があるのかもしれない。

 ところで、「加齢臭」はもちろん他人の問題ではない。やっぱり自分にもあるらしい。だんだんそういうことになってくるのも仕方ない。言ってくれる人もあるし、自分でも感じたこともある。明らかに「汗臭い」というのとは違うのである。ただし、喫煙者、アルコール愛好者の方がきついらしい。その臭いのもとは、先の資生堂グループの研究によれば「2-ノネナール(C9H16O)」という物質である。他にも似たような物質があるようだけど、とりあえず「物質的原因」があるのである。

 じゃあ、どうすればいいかというと、「抗酸化」や「抗菌」という問題にある。ドラッグストアに行けば、いろいろと売っている。特にいっぱい売ってるのは、「銀イオン・スプレー」である。「銀イオン」による抗菌作用を生かすというもの。無香料のものから、さまざまの香料を加えたものまで種々ある。前は主にそれを使っていた。そんなに高くないし。
 
 でも「重曹」が効くという話を聞いた。2年ぐらい前だと思うけど、検索してみると出所は「あさイチ」らしい。有働アナやイノッチがやってるNHK午前の番組である。ここで「女性にも加齢臭がある」と取り上げ、その対策に「重曹」が効くと言ったらしい。加齢臭に沁み込んだ衣服も重曹で洗うといいらしい。そういう話だったらしい。うちも多分それが出所だろう。

 「重曹」(じゅうそう)というのは、「炭酸水素ナトリウム」(NaHCO3)である。消火剤や脱臭剤などで使われるほか、食品にも使われているのは大体の人が知ってるだろう。ベーキングパウダーサイダーの素なんかは重曹である。だから、まあ体に使っても安全なんだろうと思える。

 市販のスプレー容器に、水200mgに対し重曹1~2グラム程度、これは水溶する濃度である。それに多少、ラベンダーオイルなんかを入れてもいいとある。僕はハッカ油を少しいれたりする。基本的には重曹の殺菌、消臭作用を利用するということである。これが使ってみると、素晴らしく効果がある。ビックリするぐらい。値段的にも、肌に優しいという面でも効果的なんだけど、消臭効果が非常にいいと思う。個人差もあるかと思うけど、これは使い出があると思う。高齢者ばかりでなく、若くても汗の匂いなんかを絹する人がいると思う。作ってみる価値はある。
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「内藤とうがらし」と「志そまきとうがらし」のペペロンチーノ

2016年10月15日 21時03分45秒 | 日記
 江戸野菜の一つに「内藤とうがらし」というのがある。最近「復活プロジェクト」が盛り上がってる。それをこの間、新宿中村屋の地下「ボンナ」で売ってたから、つい買ってしまった。先日、日光へ行った時に買った「志そまきとうがらし」(紫蘇巻唐辛子)と合わせて、ペペロンチーノ・スパゲティを作ってみる。

 大体、土日は自分でパスタを茹でて食べることが多い。元気がないときはダメだけど、少しは涼しくなってきたから大丈夫。他の家族には食べられない大辛仕様なので、自分だけの好み。スパゲティは最近1.6ミリを食べることが多い。ソースも昔は自分で作ったが、最近は面倒なので市販のソースを使うことも多くなった。安いのもたくさん売ってるけど、食べてみると好みに合わないのもある。

 まあ、今日は自分で作る。オリーブオイルで玉ねぎとニンニクを炒めたところに、マッシュルーム、内藤とうがらし(大2本、小1本)のみじん切り(あまりにも辛そうなので、種は洗い流してしまった)、志そまきとうがらしの輪切りを入れる。志そまきとうがらしは、結構塩味が濃いので、胡椒は入れるけど塩は入れない。そこにバジルやナツメグ(大好きで何にでも入れてしまうスパイス)などを入れて、炒めなおす。茹であがったスパゲティと絡めて出来上がり。簡単にできた。

 ついつい、健康を考えて、オリーブオイルと志そまきの量をセーブしてしまった。も少し、塩味とオイルが欲しかった。ペペロンチーノとしては。でも、まあ、この程度の薄味に慣れないと。「志そまき」の紫蘇が炒めるとほぐれていき、麺に絡まり香ばしい。

 内藤とうがらしは確かに辛いんだけど、種を取り除いたから、まあ僕にはこの程度でいいかな。はじめは輪切りでいいかと思ったんだけど、中の種を出しながらもっと切り刻むことになった。検索すると、そんなに辛くなくてダシが出ると書いてあるけど、どうも十分に辛いように思える。もちろん取り除いたりせずに全部食べちゃうのである。体にいいんだか悪いんだか。

 今の新宿は、江戸時代には甲州街道の内藤新宿という宿場だった。この内藤というのは、信州高遠藩の内藤氏の下屋敷があったからである。今の新宿御苑がその跡地だという。そこで、江戸時代からトウガラシが栽培され、「内藤とうがらし」と呼ばれて評判になった。東京の都市化により忘れられていたが、近年新宿区のあちこちで復活の機運がある。新宿御苑の中のレストランなんかでも、使われている。前に食べたこともあるけど、トウガラシの本物を買ったのは初めて。

 「志そまきとうがらし」は日光の特産品として知られている。でも、今まで買ったことはなかったんだけど、最近好みになってきた。東照宮に向かう参道(バス通り)の日光支所(元日光市役所)のあたりに「落合商店」がある。他でも作っているようだけど、前から気になっていた。大辛というのもあるけど、まあ「細巻き」から。全部を輪切りにしてビンに入れてある。基本的にはごはんのおかずである。もう辛みはそんなになくて、紫蘇味と塩気、そこにピリ辛という感じで、ちょっとクセになる。(日光に行かなくても、ネット通販もある。)

 ということで、ちょっと大きな話を書くのが気分的に面倒なので、今日の食べ物。そのあとで、床屋に行って、それから近くのTOHOシネマズでポイントで「SCOOP!」を見たけど、それはまた別の話。
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「紫陽花(あじさい)通信」に改名します

2016年10月04日 22時37分42秒 | 日記
 2011年2月のブログ開設以来、「尾形修一の教員免許更新制反対日記」として様々な記事を書いてきました。もともと、この名前、つまり「教員免許更新制を問う」というのは、5年ほどで変えようと思っていました。つまり、免許更新制がなかったとしても、「定年退職するべき年齢」に達したら、そこで「更新制反対」を僕が訴える意味も薄れるかなあと思っていたからです。

 そこで、このたび「尾形修一の紫陽花(あじさい)通信」という名前に改称することにしました。

 二つの候補がありました。前から、個人通信として「緑の五月通信」(ヴェルダ・マーヨ通信)という名前で発信してきました。一方、僕が何度か出した学級通信は、「紫陽花通信」という名前でした。このブログは、個人の思うこと、考えたことを書いているので、「個人通信」的な生活が強いでしょう。だけど、今回は「紫陽花通信」の方を使うことにしました。

 「緑の五月」と書いて「ヴェルダ・マーヨ」と読ませるのは、エスペラント語です。というか、この名前は戦前に日中戦争に反戦を貫いたエスぺランチスト、長谷川テルのペンネームでした。僕は5月生まれなので、そのこともあって、反戦、人権、大自然といった意味も込めて、「緑の五月通信」という名前で個人通信を作っていました。

 大学時代には「プリントゴッコ」で作った「ハガキ通信」(もう覚えている人はいないと思うけど)を作りました。もう「緑の五月通信」と言ったはずです。その後、長く書いた文章をコピーして綴じた文書通信を数号作って郵送したと思います。(足尾鉱毒事件と田中正造、「東アジア反日武装戦線」裁判などを書いた記憶があります。)2000年代になると、インターネットによる電子メール版「電送版・緑の五月通信」を400号近く出しました。(これは僕の周りでまだ記憶している方もいるかと思います。)

 そういう意味では、「緑の五月通信」という名前に愛着はあります。だけど、名前の由来を判る方から、僕がエスぺランチストだとか、長谷川テルの研究者だとか思われることもあります。そういうことは全くなく、そもそも大学時代に日本近現代史を学ぶものとして、たまたま付けてしまった(自分が5月生まれなので)という性格が強かった名前でした。ブログのデザインが、「緑の五月」的なので、そっちの方は今後も使うことにして、今回はその名前を使うことは止めることにしました。

 「紫陽花通信」の方は、僕が担任したクラスで学級通信を作るときには、いつもこの名前にしていたと思います。こっちの方は知る人ももっと少ないと思うので、この名前も残したいと思いました。僕は学級通信を毎日、毎週のように作った教員ではありません。忙しいときには無理せず、書きたいときだけ作るということで、創刊号しか出なかった年もあったかもしれません。でも、書くべきことがあるときには、家でも書いたことがありました。(ある時点からは、ワープロ、パソコンで作成したから、探せば残っていると思うけど、まあ今はそこまでする気もありません。)

 「紫陽花」(あじさい)というのは、奈良の「大倭紫陽花邑」(おおやまと・あじさいむら)から来ています。そこは、矢追日聖が戦後に開いた大倭教に基づく一種の共同体です。というか、というか、僕にとってはFIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会が作った、ハンセン病回復者の泊まれる家「交流(むすび)の家」があるところです。韓国へのキャンプに行くときに、あるいは韓国から学生メンバーが来た時に何度も行ったところ。(新婚旅行でも行ってしまった馬鹿者でした。)

 「紫陽花」の意味を最初に知ったのは、僕の周り(の一部)に大きな影響を与えた、見田宗介さんの「気流の鳴る音」でした。紫陽花という花は、全体として大きな花のように見えますが、実は小さな花が一つずつ咲き、それが集まっています。このように、「個として咲き誇り」、同時に「全体として花となる」。これは「学級通信」にふさわしい名前でしょ。(別に独占するものでもないから、自由に使ってください。)だから、中学でも、高校でも、担任したクラスでは、この名前でお知らせを作りました。

 同書には「もち」と「おにぎり」というたとえもあったと思います。「もち」は完全に「元の米粒」がなくなり、全体として「もち」というものに変えられています。それは、日本社会の中で、個性を押し殺してしまう会社や学校のあり方と重なります。一方、「おにぎり」は、元の粒粒を残し、中に異質なものを抱え込んで存在しています。集団のあり方(われわれは、いかに時代が変わったとは言え、完全に一人で生きることはできないから、何らかの集団に関わることを避けられません)として、「もち」ではなく「おにぎり」のようでありたいと思います。

 単に学級通信の名前というだけでなく、昔のキャンプの思い出や日本社会への批判もこめて、「紫陽花通信」の名前にしたいと思います。(ワープロやパソコンだと、ルビをふれたけど、できなさそうだから「紫陽花(あじさい)」と一応書いておきます。)あじさいの絵柄も背景にできるけど、やってみたら不満が強いので、全体のデザインは前のまま。最初の名前も残します。映画評や政治論だけなら、匿名でもいいと思うけど、教育論などを書くときは、実名で書いて責任を明示したいと思っているので。それと昔の卒業生などが、検索しやすいように当面は実名を残しておくつもりです。
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「Windows 10 」、電話、Eメールアドレス問題

2016年05月26日 21時17分00秒 | 日記
 今日は簡単に。先日、パソコンが「自動的」に「Windows 10」に更新されてしまった。実は「自動的」ではないんだとも言えるらしいけど、とにかく「今すぐ更新する」というクリックなんかはしていない。どうしてそうなるんだとネット界では大問題になっているようで、検索に「うぃ」と入れるだけで、「Windows 10 戻す」という項目が上がってくる状態になっている。

 さて、その問題は後でまた書くとして、その前に通信機器の諸問題続発でめんどくさいったらない。まずは「電話」である。「固定電話」の方である。これはこれで、もちろんまだ必要。かつては「電電公社」に申し込んで「電話加入権」なるものが必要だった。民営化されNTTとなり、「通信自由化」がなされ新電電各社に電話回線が開放された。まあ、独占はよくないよねと考えて、僕は実家に帰った後で別の会社のプランに変えてみた。ところで、自分の家の電話はかなり特殊な状態にあり、1階と2階で別の電話番号だけど、どっちも受け取れる電話機を使用している。

 さて、契約電話会社が従来のプランを廃止するという。新しいプランに変えないといけないのだという。申し込みと工事がいる。それは地元の系列携帯電話店でも可能だという話。やむを得ないから、去年の夏ケータイショップへ行って、申し込んだ。そして、しばらくして工事をしたら、今度は電話回線ではなく、無線を使うとのことで、その無線がうまくつながらなかった。というか、雑音が消えない状態なんだという。僕は工事に立ち会ってないからよく判らないが。そこでやむを得ず、「元へ戻す」という。

 「元へ戻す」のはいいが、それでは今年6月をもって電話が使用できなくなる。で、残された方法は「NTTと契約する」ということである。そのNTTへの引継ぎは今の会社でもできるというから、申し込んだところ混んでいるという。待つこと数カ月、ようやく順番が来て、今度は「昔の電話権を使用する」とか「新たに電話権を買う」とかいう申込書が来た。まだ、電話権なんてものがあったのである

 先に書いたように、1階と2階の電話が同時に使える電話機が今はもう珍しいらしい。だから、両者の回線が両方うまく機能するようにするのが、結構大変らしいのである。ようやくNTTへ申込書を送り、会社を切り替えるとの連絡がきたのが今月中旬。そして、20日に変わったらしい。特に関係ないけど。いや、NTTだと「電話帳」がまだあるので、「掲載しない」に丸をしたり、いろいろあるのである。

 次は「電子メールアドレス」である。僕は地元のケーブルテレビ会社のケーブル回線でインターネットをしている。昔はケーブルテレビ本体も見ていて、衛星放送もそれで見ていたし、時にはCNNやBBCも見ていた。映画のチャンネルや様々の選択肢があるわけだが、でもお金を払ったほど見てないと気付いて、解約してしまった。まあ、地上波デジタルでニュースが見られれば、テレビはそれでいいかという感じである。で、ネットだけケーブルテレビで見ているが、その会社がなくなった。というか、「JCOM」に統合されてしまった。よって、今までのアドレスは使用できなくなる。

 それは今月末が期限で、これも仕方ないから、連休ごろに変えた。というか、正確に言えば、新しいアドレス設定をした。今月末まで前のアドレスも使えるから、まだ「アドレス変更」通知をほとんどしていない。その前に、どうしても必要な「変更処理」が多いので、ゲンナリ。つまり、今はEメールは「知人との連絡」手段としては第一ではなく、それはケータイやSNSなんだと思う。ではEメールは何に使うかというと、「各会社との連絡手段」である。このブログもそうだし、Facebookもそう。それにパソコンウィルスの会社も真っ先に必要。そして銀行、カード、証券会社。チケットぴあやTOHOシネマズ、様々なメールマガジン。旅行会社やら何やら。これがすぐ変えられるところばかりではないから、まだ完了していない。パスワードは忘れているし、新しく登録した方が早いものもあるだろう。

 とにかくこれが一番面倒で、ホントは「Windows 10」問題の前に長くなってしまったではないか。で、とにかくマイクロソフトは基本的に全部10に変えてほしいようで、7月末頃の無償アップデート期限が迫る中で、どんどん変えている。通知が毎日何度も画面に出る。×で画面を消しても、それはMS側の予定を取り消したことにはならないという。ある日、夕食前にパソコンをつけ、ブログを少し書き、そこで食事に行って数十分後に戻ってきたら、勝手にアップデート中だった。(すべてのアプリは自動的に終わり、書きかけブログも消えたが、「復元する」で戻せた。何よりもまず、ウィルスソフトを10用に変えないと、何もできない。何とか新しいウィルスソフトに更新したら、拡張子も自動的に10用になった。だから、10にするとワードが使えないなどと聞いたことがあるが、そういうことは経験しなかった。

 それまでは「7」だったけど、この間に「スタートボタンがない」という仕様になってたらしいが、それは元に戻った。案外普通に使えるが、どうでもいいようなことだが「ゲームがない」という違いがある。ソリティアもフリーセルもない。いやあ、それぐらいあってもいいのでは。いや、無料でインストールできるということになっている。だけど、マイクロソフトのアカウントにログインできないから買えない。大体、マイクロソフトのアカウントなんか作った覚えもないから、新たに作ろうとすると失敗する。まあ、とりあえずどうでもいいや状態。その結果、「つい最初にフリーセルで時間を使う」といった愚挙がなくなり、今は9時でもうブログは書きあがりそうである。だけど、ソリティアやフリーセルは単なるゲームというより、最初にパソコンに慣れる手段でもあったから、なんだかあった方がいいかとも思うが。(ちなみに、ウィンドウズ7でなくなってしまったが、XPに入っていた「3D ピンボール」が好きだった。僕はもともとピンボールが好きで、だから「1973年のピンボール」も好きなのである。)とにかく一時に全部これらをやったから、もう面倒。ホントは続いて、ケータイも変え、プロバイダーも変え、いずれ全部まとめたプランにしたいものだ。そうなっていたのだが、グチャグチャになってしまった。
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ドッヂビーの話

2016年04月18日 23時04分34秒 | 日記
 「ドッヂビー」を知ってますか?僕も10日ほど前に初めて知った。「ドッジボール」と「フリスビー」の合成語で、簡単に言えばフリスビーでするドッジボール。(だけど、ドッジボールと混同しないように、「ドッヂビー」と「チ」に濁点を付けるんだという話。)こんなもの。

 それがどうしたというと、6月にドッヂビーをやるのである。僕が非常勤で行っている福祉作業所がある。区の施設が集まってスポーツ交流会を一年に一度行っている。今までは「ソフトバレーボール」だったのだが、今年は担当施設の意向で「ドッヂビー」に。聞いたこともない競技である。で、早速買ってみて、今日初めてやってみたわけ。

 月に一度、スポーツ施設を利用して練習している。今月は今日を取っていて、もちろんソフトバレーをする予定だったのである。場所は北区の「東京都障害者スポーツセンター」。十条台の旧軍施設が占領軍に接収され、返還後に障害者施設が集中している。池袋または王子から送迎バスも出ている。アリーナやプール、グラウンドなどはもちろん、テニスコートやアーチェリー場もある。障害者手帳がある人は、登録すると個人でも利用できる。今日は団体利用である。
 
 で、どうだったかというと、よく判らない。こういうのを持ってみると、つい長く飛ばしたくなる。きれいに遠くまで飛ぶのを目指してしまう。でも、遠投大会ではない。もっとごく近いところに、相手がいて、ぶつければいいのである。コートの大きさはドッジボールと同じ。その場合はどんな感じなのかは、やってみないと判らない。まあ、軽いからぶつかっても痛くはない。だけど、うまく飛ばすのは結構難しい。取るのも案外難しい。円形で、軽いから、必ず回転がかかり、取ろうとすると触った瞬間に逃げていくこともある。それでは、要するに「ぶつけられた」ということになる。まあ、そんな感じ。

 ドッヂビーを検索していたら、ウィキペディアに球技のカテゴリーが分類されていた。まず「コートあり」と「コートなし」で分ける。「コートあり」は、「ゴール入れ」「ネット越え」「人当て」に分けられる。「ゴール入れ」は、「バスケット」「フットボール」「ハンドボール」「スティックアンドボール」。最後のはホッケーとかポロなど。「ネット越え」は、「バレーボール型」と「ラケットスポーツ」に分ける。最後の「人当て」にドッジボールがある。競技としての「雪合戦」もここにある。コートを決めてやるらしい。

 せっかくだから、「コートなし」も見ておく。「バットアンドボール」と「ゴルフ型」と「その他」。バットアンドボールに、野球やソフトボールがあるのは言うまでもない。クリケットの他、キックベースボールや三角ベースなんか載っている。さて、最後の「その他」。何が残っている?ボーリング、ビリヤード、大玉送り、玉入れ、ペタンク、蹴鞠…まだあるけど、知らない。なるほどという感じ。学校体育の経験で、誰でも10種ぐらいはやってると思うが、ずいぶん球技も多い。「球技を言い合うクイズ」なんてのもできるだろう。(僕が一度でもやったことがあるのは、バレー、バスケ、サッカー、野球、ソフトボール、卓球、テニス、バドミントン、ハンドボール、ホッケー、ドッジボール、ボーリング、玉入れ、大玉送りなど。)

 僕は今、その福祉施設で週に2回か3回、仕事している。所長と長年の友人だから、欠員があった時に僕が行くことになった。そこの所長とは、1980年の8月初め、関釜フェリーの船上で出会った。日韓合同のハンセン病快復者定着村のワークキャンプに参加する途中。自己紹介の冊子の愛読書欄に、真木悠介「気流の鳴る音」宮沢賢治「農民芸術概論」と書いてあった。おい、ホントかよと思って、友人になった。お互いの結婚式で司会をしている。僕はその年に、雑誌「80年代」(というのがあった)に出ていた真木悠介(見田宗介)さんの講座に通っていた。終わった後もリユニオンがあったので、誘って一緒にいくうちに、精神福祉関係の仕事に誘われていった。ということだから、縁は不思議なものだ。自分が通い、勤めた「学校」の外で続いた人間関係の方が生きているということかもしれない。
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わが夢、あるいは退職5年目の感想

2016年04月07日 23時00分09秒 | 日記
 先週の4月1日。東京新聞の教員異動特集をつい熟読してしまい、本来その日に書こうと思っていた記事を書けなかった。ブログを始めた頃は、一日に二つの記事を書くことだって、そんなに苦ではなかった。今はもうそれは結構辛い。5年と言っても、やっぱり年を重ねているのである。

 教員の異動は昨年から都教委のHPにも掲載されている。だから新聞で読まなくてもいいはずだが、やっぱり新聞で読みたいのである。最近は異常なまでに複雑な職階に分かれていて、読むのが大変で、やはりこういうのを見ていると「このような世界では生きていけない」と思わされる。それくらい異常だと思うんだけど、最近しか知らない若い教員は「そういうもんだ」と思っているのかもしれない。

 特に今年なんか、見ても知り合いの数が少ない。知人が一斉に同じ年に異動するわけもないが、それ以上にもう知人が少ない。思えば、僕より年上の教員は(原則的に)誰も現職ではないわけである。自分が教員になった頃は、当然ほとんどの人は僕より年上だった。校長になった人は退職が報じられるが、他の人は辞めても出ない。だから個人的に知ってる少数の人を除いて、名前を覚えている程度の人なんか、全然判らない。辞めて今は何をしてるんだろうと思う時もあるが、もういいか。

 昔、一時千葉県に住んでいた時には、全国紙がこぞって異動特集の別冊を作っていた。しかし、東京では「東京新聞」しか出していない。だから、ある時まで4月1日だけ、東京新聞を扱う販売所に異動特集を取りに行ったものである。(今は東京新聞を購読している。)なんで教員だけこんなものが出るのか。個人情報だから嫌だという人もいるようだが、やはり親にとって教員の情報は一種の「公共」であり、「公務員」である証なんだと思うしかないんだろう。
 
 さて、5年経って何が違うと言って、やはりその分、年を取ったということである。人に会いたいという気もほとんどなくなってきた。辞めたら会いたい人が昔はいっぱいいたのだが。自分の中の「ヘンクツ」性が増しているのではないかと思う。もちろん今までもずっとあったんだけど、仕事をしている間は押さえられていた。仕事は役割だから「演技」していればいいが、それが「習い性」になった部分とそうでもなかった部分がある。僕の場合、仕事の反作用として、今はあまり会いたくないのかもしれない。

 今日の題名として「わが夢」と書いた。それは「日本百名山を完登したい」とか「マチュピチュ遺跡やタージ・マハルに行ってみたい」とかいう類の「やりたいこと」という意味ではない。本来の「夜見る夢」のことである。もちろん覚えていないことも多い。だが、昔から同じような夢をよく見る。それは大体「学校」で、どこまで行っても行きつかないような、建て増しに建て増しを重ねた温泉旅館かなんかのようなラビリンスになっている。自分が生徒の時もあるし、自分が教員の時もあるが、大体生徒は両方が入り混じっている。夢というのは、大体が訳が分からないものだろうが、「学校」はいつでも謎である。

 時にはもっと直接に教師の夢も見る。いいことはない。いつも窮地に立たされている。例えば、掃除の時間に掃除を指示するのだが、生徒は誰も見向きもしない。もちろんどこか具体的な学校ではなく、生徒の顔もさまざまなんだけど、自分の声はどこかに遠く消えて行ってしまう。実際にはそんなことを経験したことは一度もないのに、そういう場面が出てくるのである。実際にさまざまの「大変な場面」は経験したけれど、僕の経験ではそういう時こそ「助けてくれる生徒」も必ずいるのである。でも夢の中では、誰も助けてくれない。「世界」に一人で立ち向かっている。

 このような感覚は教員時代にはほとんどなかったと思う。学校はそもそも「個人技」ではなく「集団競技」だから、自分がホームランをねらう時もないではないが、まあバントでいいやと思って仕事をする時が多い。基本、「授業」という持ち場を「保守」することは、自分以外に誰もできないけど、そこに苦労はほとんどない。それ以外の胃が痛いような経験が、今も身体的に残り続けているのかもしれない。嫌だと言っても仕方ないし、どうせならいい思い出の場面だけ夢に見たいけれど、そういう風にはいかないんだろう。「学校」以外に「街」の夢なんかもよく見るけど、どこまでもどこまでも街が続いて行って、家に帰り着くはずの道筋が判らない。そういうのが夢なんだろうが、慣れているから怖いとか苦しいということはない。案外懐かしい感触が残るとも言えるのである。

 目も足もそんなに衰えた気はしないから、映画を見たり散歩する程度なら困ることはしばらくないと思う。現職で亡くなった人が何人もいたことを思えば、まあ元気だと思う。自分が取り組めなかったような、例えば読んでない長大な文学に取り組むようなこともしたいが、それでも「役割意識」は完全には捨てられない。「教員免許更新制反対日記」という旗は、5年経ったから降ろしてもいいような気もしているが、それでも安倍政権が改憲(という名の強権国家つくり)を目論んでいる間は、「反安倍教育行政」の象徴の意味はあるのかなとも思う。人はやむを得ない時間を生きるしかないんだから。
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「教師」を辞めてからの日々-日々のあれこれ③

2015年03月29日 23時17分27秒 | 日記
 学校を辞めて4年ほどになるわけだが、そのことをどう思っているかを書いておきたい。ここで書くのは、教師という仕事の本質論ではなく、文科省や都教委の教育行政批判でもない。そういうことはこの後で、改めて別に書きたいと思うけど、今は「日々のあれこれ」を書いておきたい。僕は「政策に抗議して辞めた」というのとはちょっと違っている。「抗議」という意味を見つけることもできなくもないだろうが、何もしないと止めざるを得なくなっていたという感じである。それが「抗議」だと言えば、まあそうでもあるんだけど。「教員免許更新制」のことも別に書きたいと思う。

 さて、辞めた当初は、ホントは後悔してるんじゃないか、「学校」または「授業」、あるいは「生徒と接すること」がなくなって、淋しかったり退屈してるんじゃないかなどと言われることも多かった。心配してくれているのか、励ましてくれるつもりなのか、よく判らないが。まあ、そういう風に世の人は思うものだから、別に驚かなかったけど。文科省や都教委とは対立していても、学校が大好きで(あるいは経済的に辞められないのかもしれないが)、定年後もずっと嘱託で教え続ける人がかなり多い。僕なんか、あんなに教育行政を批判してて辞めたくならないのだろうかと他人事ながら思ったりする場合もある。

 僕の気持ちで言えば、「やっとひとりになれた」という安堵の思いがしたのである。ひとりと言っても家族はいるわけだが、仕事で毎日のように会う人がいない解放感は大きい。教員時代は冬がちょっと怖かった。静電気がひどいからである。カー用品で売ってる静電気防止具を複数買って、学校でも金属にさわる時は注意していたのだが、それでもうっかりさわってしまうことがある。自分は「静電気体質」かなんかだと思っていたのだが、辞めてみたら冬でもほとんど静電気が起こらないではないか。今思うと、自分なりに「内圧」がかかっていたのではないか。できるだけ「無理せず」「楽しんで」「平常心で」仕事しようと心掛けてきたつもりだし、職員会議なんかでもよく発言していたから、それほどの「内圧」が自分にもあったことを辞めるまで気づかなかった。

 別に教師という仕事が特に大変だと思っているわけでもない。僕が長い年月を務めあげられる数少ない仕事の一つなんだろう。他の仕事だって、やってればそこそこ何でもできるとは思うけど、僕の場合、生徒と接したり、授業をする(教科内容や一時間立って声を出し続ける)ことには、ほとんど大変さを感じない。では何が大変なのかというと、広い意味での「生活指導」や「行事」なのである。それは大変なばかりではない。充実感もあるんだけど、やはり大変は大変なのである。特に学級担任をしていると、ずっと主演俳優をしてるのと同じで、カメラにずっと撮られているような緊張がある。時々、塾や予備校の先生の方が教え方がうまいとか言う人がいるけど、それはとってもアンフェアな比較である。生徒全員を塾や予備校に行かせて、講義の後に全員で掃除するという仕組みに変えてみれば、学校の教員の仕事がよく判ってもらえるはずである。

 時々学校の夢を見る。自分が生徒だった時代の場合もあるし、教師の場合もある。夢は毎日見てるものらしいけど、僕の場合覚えている日はそんなに多くない。その中で時々学校の夢があるということで、頻度はそれほど多いわけでもないが。よくあるのは、自分で「猫町系」と名付けているもので、要するに萩原朔太郎の「猫町」のように知ってる場所から不思議な町に入りこむという話である。大体学校の校舎を歩いていて、終わりがなく延々と続いて行くのである。そういうのが多いけど、時たまもっとリアルな夢もある。この前見たのは掃除の夢で、生徒が誰も手伝わずに消えてしまい、自分の「指令」が無視されるという夢である。もちろん、実際にはそんなことは一度もないんだけど、そういう夢を見るのである。また、トイレが異様に汚くなっていて、生徒と一緒に掃除する夢も見た。まあ、これは寝ていてトイレが近かったのだと思うが。

 不思議に、えっ誰だっけという生徒が夢に出てくるのものである。良いなり悪いなり印象に残る生徒ではなく、名前もよく覚えていない生徒が出てくる。そりゃあ人間だからカワイイなという生徒だっていたわけだが、どうせ夢なんだからと思ってもそういう生徒は出てこない。僕の思うに、自分にとっての「顔の典型」のようなタイプがあり、生徒との関係性と切り離されて、顔だけインプットされていて、夢に出てくるのではないかと思う。だから、名前が出てこないのも道理である。そういうのは駅で行き交う時に、あれ誰か昔の生徒っぽいなと思う場合も同様で、時たまあるけどまず他人。誰だか判らないけど、顔だけなんだか記憶にある気がする。思えば、何人ぐらい生徒の名前を覚えたんだろうか。もうどんどん忘れていくばかりである。外国の映画俳優の名前なんかと同じ。どんどん欠落していく。

 僕の場合、基本的には本だけ読んでれば精神的には大丈夫なので、もう読み切れないほどの本はあるから、後は目が悪くならないことを祈るばかりである。90年代末に耳は悪くしてしまった。特に耳に負荷は掛けてないのにおかしいのだが、目は大丈夫なのである。映画の字幕や車の運転にはメガネを使うが、新聞や本なら今でも裸眼で読めるのある。今も裸眼でブログを書いてるのである。だから問題はお金がどうなるかだけで、退職して時間を持て余したり、鬱屈することはないと思う。それは自分でだいたい判っていたので、辞められる日を待ち望んで来た。でも、それは思ったより早く来てしまったのだが。そりゃまあ、今後は日々老いに向かうわけだから楽しいだけでは済まないだろう。でも映画や散歩してると時間がなくなり、今まで調べてきたことを本にまとめるなどという時間はなかなか取れないものだ。
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昔の映画を見るということ-日々のあれこれ②

2015年03月28日 00時54分36秒 | 日記
 元気な時は昔の映画を見に行くことが多い。今日(27日)も仕事帰りで疲れているなと思って、プロ野球の開幕戦とかサッカー日本代表のチュニジア戦を見ようかと思い、あるいは袴田事件再審決定1周年集会が日弁連であるのも知ってたんだけど、やっぱり映画を見に行ってしまった。最近通ってる神代辰巳特集やフィルムセンターの井筒和幸監督特集もあるんだけど、気分的に菅原文太追悼特集の「山口組外伝 九州進攻作戦」と「安藤組外伝 人斬り舎弟」を見たくなったのである。前者は山下耕作監督、後者は中島貞夫監督で、やはり実録ものは深作欣二がいいなあと改めて思う。どっちも初めてで、東映の実録映画は大量に作られて70年代半ばには食傷気味で見てない映画がたくさんある。後者は4月初めにシネマヴェーラ渋谷の安藤昇特集でも上映されるが、併映の「仁義の墓場」が傑作というか、もう突き抜けてる映画で、近年見直したのでしばらく見たくないなあと思ってこっちで見た。僕にも見たくない映画があるのである。その「仁義の墓場」がどんな凄い映画かはいくらでも語れるけど、陰惨すぎてもう若くない身には思い出すのも辛い。

 こういう話は関心がある人には意味があるけど、知らない人には意味が薄いので、情報伝達の観点から新作映画以外は一つ一つの映画は書かないでいいかなと思っている。今回書きたいのは、自分がどうして昔の映画を見る、特に見直しているのかである。まあ、映画は昔から好きだったけど、自分でも何でこんなに見てるんだろうと思う時がある。外的な理由としては、「東京に住んでいること」と「ヒマな時間が増えて見たい映画のレベルが深化したこと」だろう。僕の場合、映画館のスクリーンで見ることを映画鑑賞の条件にしているので、映画館がないと見ることができない。東京では、昔の映画を上映するような場所が比較的多いのである。毎日見ても尽きないぐらいのプログラムがある。首都圏そのものが一番人口が集中しているわけだが、その中の相当数が老齢層なわけで、若い時の一番の楽しみが映画だった世代である。需要がある。

 外的な理由の二つ目は、要するに「たくさんやってると、見なくてもいい映画まで見たくなる」ということである。もっとも、見てみないと、見なくてもいいかどうかの判断ができない。駄作をたくさん見ないと、傑作の価値がわからない。これはあらゆるジャンルに共通することだろう。そして、たくさん見るようになると、見たい映画のランクが下がってくるわけである。例えて言えば、ヒマがないサッカーファンが日本代表戦ぐらい、せめてテレビで見たいと思ってて、退職して余裕ができた。そうすると、J!の試合や外国の試合もケーブルテレビで見るようになり、ヨーロッパのリーグ戦の細かな情報やJ2からどこが昇格するかの予想の方が面白いとか言い出すようなものである。あるいはプロ野球で言えば、2軍の練習試合を見にいく方が面白くなってしまうようなものである。一種のコレクション趣味で、有名作品は大体見てるので、珍品の方に興味が移るわけである。僕にもそういう面はあると思う。東京では、どんな趣味であれ、毎日通っても絶えないほどのプログラムが用意されているから、時々乱気流に巻き込まれないように自分でセーブしないといけない。

 では「内的な理由」は何だろうか。「時間を置いて再評価すること」と「日本社会、あるいは世界への尽きない興味」ということだろう。映画は製作に多額のカネがかかる(昔の商業映画の場合)ので、時代を反映するところが大きい。その時代に受けるような作りをしている。それを時代を経て見直してみると、社会のコードが転換してしまって、今では通じないような表現も多い。当時のベストテンなども見直していかないといけない。日本映画の最盛期からは半生記以上経ってしまったので、この「再評価の試み」はものすごく大切であると思う。これは「映画史的関心」というものだろう。映画だけでなく、文学や演劇なんかでも同じで、昔すごく面白かったものが今ではつまらなく、逆に今になって見るとものすごく身近に感じると言ったものはいくらでもある。

 でも、やっぱり昔の映画、日本でもそうだし、ハリウッドのどうってことない娯楽作は面白いのである。面白さと技術的高さに驚くような思いをすることがたくさんある。フィルムだから、現像してみないとどう撮れているか判らない。ダメだったら撮り直すということも大作や巨匠作品にはないでもないが、多くは撮影や照明、色彩設計などの技術力で何とかなる画面を何シーンも取って置き、優れた編集力で1時間半程度にまとめるのである。今の映画は、一本立てで、デジタル撮影だから、長すぎる映画が多い。いらないシーンが多すぎる。よくディレクターズ・カットと銘打って、上映時間が長くなった映画をやるけど、逆にもっともっと削ったヴァージョンを作る監督はいないものか。このようにモノクロですごい映画を作り続けた時代とは何なんだろうか。古代中国の殷王朝の青銅器は、今では再現できないような高い技術だというけれど、そのような「もう再現できない優れた技術力」が昔の映画には封じ込められているのではないか。

 そういう映画を見て、高度成長期以前、あるいは高度成長期の映像を今見直すと、忘れてしまった「日本社会の豊かさと貧しさ」を再発見することができる。そう、技術力の高さと人間性、社会性の豊かな世界と同時に、いかに日本社会が貧しかったのかもよく判る。そういうことを知らずに、21世紀の日本を考えることはできないのではないか。例えば、「文楽」(人形浄瑠璃)を見る時に、今すぐに文楽を見て、その世界に入り込める人ばかりではないと思う。それは仕方ないだろうと思う。(歌舞伎と落語は、まあ理解はできると思う。ただし、話自体が現代人には、何だ、これは的な展開になることがけっこう多い。)でも、近松門左衛門原作の映画を何本か見れば、その意味するところが判るのではないか。そういう話は前にも書いたことがあるけど、例えば「近松物語」(溝口健二監督)や「曽根崎心中」(増村保造監督)を神保町シアターというところで、4月に上映する。この映画などは、およそ日本の歴史や文学、あるいは人権やフェミニズムに関心がある学生などはまず見るべきものだと思う。だけど、それを学生に語るべき大学や高校の教員も、見てない人が多いだろう。だから、「負けちゃう」んだと思うのである。負けちゃうというのは、当面「文楽」の補助金を削った橋下大阪市政のことを指しているけど、もちろんそれだけではない。大昔のものはそのままでは通じない。でも、半世紀前の文化ならはまだ通じる。今では、人権と平和を求めて闘った日本人の心は、戦後日本の映画を見ることを通してしか継承していけないのではないだろうか。

 今までのブログでは、上映された映画、あるいは近々上映される映画を紹介することが多かった。だから、特集上映がしばらくないフェリーニやヴィスコンティ、アントニオーニなどを書いていない。四方田犬彦が大著をものしたけど、まだ特集上映の企画がないブニュエルも。インド映画はたくさんやるようになったけど、サタジット・レイもしばらく見てない。小津は書いたけど、溝口はまとめて書いてない。僕が本当に好きな映画作家はまだまだ書く機会を待っているなと思う。そういう話もまたいずれ。それを言えば、映画より好きな本と温泉のこともあまり書いてないなあ。
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日々のあれこれ

2015年03月26日 23時11分40秒 | 日記
 3月は10日が「東京大空襲」70年、11日が「東日本大震災」から4年目、20日が地下鉄サリン事件20年で、26日が米軍の慶良間諸島上陸に始まる沖縄戦70年である。いろいろメモリアルの日々が続くけど、僕は今年は特に書いてない。ブログを書き始めたころは書いてたけど、マスコミではないんだから毎年毎年記念行事的に書かなくてもいいだろう。新しく考えたということも特にないからである。探すのも面倒だと思うけど、原発やオウムのことは前にまとめて書いている。自分なりに書きたいのは、教育問題や教師論なんだけど、今でいえば川崎の事件になるだろうけど、書き出すとまた長くなってしまうので当面書かないで、その代わりに自分のことを書いておきたいと思う。

 今年になってから、旅行演劇の記事を書いていない。どっちも僕にとって大事なものだけど、お金とヒマの問題を別にして、ちょっと予約を入れにくい個人的な理由があって、当面いつでも昼に行ける映画ばかり行っている。映画の話は次回に書くけど、映画がいいのは、昼に予約なしでも見られることと、座席がいいと言うことである。小劇場や寄席は正直言って、座席が辛い。映画館はシネコンだけでなく、名画座なんかでも結構いい。特に画面の見やすさだけなら、池袋の新文芸坐が東京でも一番いいかもしれない。映画館でも座席が辛いところはほとんど行かない。若い頃は、「カネとヒマ」を待ち望んでいたわけだが、実は「体力」の方が重要で、長いこと働いて少しはカネとヒマが作れるようになると、実はもう体力が無くなっている。世界を放浪するだのライフワークの研究をまとめるだの、若い頃に言っていたことにはなかなか取り組めないのである。

 退職前に自分で思っていたのと大きく違ったのは、集会にほとんど行ってないことである。勤めているときは、行きたいけど行けないと思っていた集会(やデモ)がいっぱいあった。若い頃は集会マニア的にあちこちの諸問題、あるいは講演会的なものに行っていたので、ヒマが出来たら是非行きたいと思っていたのである。このブログでも、冤罪・死刑・ハンセン病などの集会は時々書くし、今もできるだけ行きたいとは思っている。でも、もっと一般的なテーマの集会だと、大体演題に関する自分の立場はすでに決まっていることが多く、講演やシンポジウムなどを聞いていても、つい寝てしまう。大体の社会問題はある程度は知っているし、知識はネットで集められる時代だから、わざわざ来なくても良かったかなという気になることが多いのである。それに今は結構参加費が高い。ちょっとした集会で、800~1500円ぐらいするのが多い。夜だと食費もかかるし、交通費も高い。昔はどうしていっぱい出られたんだろうか。集会は施設利用料がずっと安かったんだろう。特に、区民、都民が登録施設を利用する場合、無料だったのではないか。今では受益者負担とか言って結構取るんだろう。それに食費も交通費もみな格段に安かった。こっちもまあ駅蕎麦ぐらいで頑張れたんだろう。

 2年前から週二日程度、僕が理事長をしてるNPOがやってる「地域生活支援センター」に出ている。まあ、精神障害者の福祉作業所である。法的な位置づけはいろいろ難しい問題があるようだけど、僕が書いても仕方ないから書かない。そういう仕事は、学校と同じくあまり詳しく語れない部分もあるが、人間関係も出来てきて、今しばらくは関わっていくのかなと思う。僕が今まで学校で接した生徒の中に、今思えば自閉症とか学習障害の生徒がいっぱいいたと思う。だけど当時は学校で研修は何もなかったのである。自分が定時制高校に異動してから、様々なタイプの生徒と接することになった。最後の学校の「チャレンジスクール」で初めて様々な研修に接して、なるほどと思えることが多かった。そういう流れの中で、やはり「精神障害という問題」に対する問題意識が継続している面がある。でも学校で接した生徒や保護者と同じく、理想のような流れで理解できる範疇にはないのだと思う。今の福祉行政は、教育行政と同じく、「競争と自己責任」にシフトし過ぎている。「社会復帰」とか「就労支援」などと言うのはいいけど、実際は無理だなと思うことが多い。そういう部分を見ていくことになるんだろう。

 そこで「理事長」をしていると言っても、まあ昔からのことで大したものではない。ずいぶん前から関わっているけど、無給だから、兼職には当たらない。要するに、学校が(東京の場合)「学校運営連絡協議会」などという地域や保護者代表を入れた外部評価の仕組みを整えなけれなならなくなったように、福祉施設も任意団体ではなく、運営の理事会を作り、さらに運営のNPOを整備せざるを得ないようになって行ったということである。僕は所長と1980年の日韓合同ワークキャンプ以来の友人だから、「理事長」なるものを引き受けてきたわけである。要するに、大学までの学校での知り合いよりも、FIWC(フレンズ国際ワークキャンプ)に参加したことの方が人生上の大きな出来事だったのかもしれない。自分が映画を見ていること、及び今「学校」をどう思っているか、を次回以後に書いておきたい。
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「年賀状」への疑問

2015年01月03日 23時29分34秒 | 日記
 「新年」というのはまあいいけど、「新春」ってどこに春があるんだという寒さ。東京も寒いし、妻の実家の新潟も寒い。帰ってくると東京も寒い。僕は「年賀状」というものを作らなくなってずいぶん経つけど、今日は新年の初めに「年賀状」というものを考えてみたい。初めに断わっておくけど、僕も年賀状をいっぱい作っていた時があるし、「郵便による書状」はなくしてはいけない文化だと思っている。最近ありがちの「電子メール」で済ましてしまうのが良いと思っているわけではない。でも、学校などは住所録というものが無くなったから、郵便は出しようもない時代なんだろう。

 僕が年賀状に疑問を持つようになったのは、いくつかのきっかけがあるが、最大のものは最後に回す。まず、最初に思ったことは、「日本人の大部分は暦年で暮らしていない」ということである。政府(役所)や学校だけでなく、企業の大部分の決算も、4月から3月の「年度」で行われている。新たな気持ちになったりするのも、桜が咲いて年度が代わる4月の方ではないか。新年の抱負なんていっても、とりあえず受験に合格するとか、年度末に向け頑張るのが先だろう。時には、年度代わりに転任(あるいは新規に入学、就職)するので、新たに挨拶状をもらったりする。それなら、正月ではなく年度代わりに昨年度の報告と新年度の抱負を出す方がいいではないか。

 時々もらう「年賀欠礼」というハガキも変なものである。そもそも亡くなった時には連絡をもらってない場合がほとんどである。中には誰が死んだのか書いてないのさえある。それなのに「喪中につき年賀の儀欠礼」というのは、出すことになっているらしい。そうすると、年賀状には「一年の報告」「新年の抱負」など時にはけっこう大事なことが書いてあるのに、「喪中」の人にだけ伝えられない。それでも、「喪中」なんだから悲しみにくれて喪に服しているのかと思えば、「年賀欠礼」のハガキをくれた同僚が忘年会や新年会を喪中につき欠席した例を知らない。これは僕だけのことではあるまい。喪中だったら、忘年会もクリスマスもあったものではないはずではないのか。年賀状だけ「欠礼」する意味が判らない

 そういう風になってしまうのは何故だろうか。そもそも「年賀状」というものが誤解されているのではないかと思う。半七捕物帳を読んでると、半七は正月に年始回りを欠かさない。昔は多くの人が町内程度の規模で暮らしていたので、正月には世話役には顔を見せておくものだったのだろう。会社でも、ある程度の役職者は上役の家に年始のあいさつに行ったものだと思う。その時代は地方から都会へ出てきて地元に帰れない人、または正月は帰省するので都会で年始の挨拶に行けない人が、「年始回りに行けないので、失礼ながら書状で挨拶いたします」というのが、本来の年賀状というものだろう。だんだんそういう年始回りの風習もなくなってきて、ハガキで済ますのも失礼とは思われなくなったので、今度は「出しておかないと失礼」という感覚が生じてくる。でも、正月(松の内)に会う間柄(仕事や学校などはほとんど松の内に始まるだろう)は、新年に最初にあった時に挨拶すればそれで十分なはずである。年賀状を出すことで親しくなりたい「下心」でもあれば格別、普通は仕事の同僚や学校の同級生程度の関係なら、年賀状は必要ないんだと思う

 それを思えば、昔は自分も若かった。自分をPRしたいと思っていたし、知る限りの知人には出すべきものだと思っていた時代もある。それはそれでいいと思う。人間にはそういう時代もある。「礼儀正しい」とか「律儀」とか評価されたいと思ったわけである。また、学生時代には年賀状にかこつけて、好きな相手に連絡したということもある。電話は敷居が高い(親が出る)けど、年賀状は「季節の儀礼」の範囲だからお互いに抵抗が少ない。ケータイなどというものがなかった時代の話である。面白い趣向を込めて、自己評価を高くしたいと工夫した。昔の知人には「今年こそ逢いましょう」「たまには一緒に飲みたいですね」などと一言書いたものである。ウソではなく、実際に飲み会を企画したりした。そういう時もあったけど、だんだん「たまには逢いましょう」と書いても、来年も合わないだろうなあという人ばかりになってくる。そうなると、そもそも「一年の報告」たる年賀状を出す意味があるんだろうか。

 ところで、それ以上に僕が思ってしまうのは、「新年明けましておめでとう」とどうして平気で言えるのかが僕には判らなくなってしまったのである。2014年はいい年と言うよりは悪い年だった。2015年はもっと悪い年になりそうである。それなのに、昨年は無事に過ごしましたと書く人もいるが、「集団的自衛権」の一事を取ってみても、僕には去年も今年も全然無事な年とは思えない。少なくとも「明けてめでたい」年ではない。でも、そういう年は今年だけではない。東京都の教育がガラッと変わり始めたころ、それは21世紀になった頃からだが、毎年毎年職場環境が悪くなる一方で、明けても全然面白くない年になりそうな、そんな年ばかりになってしまった。僕はもう年賀状を出さないでいいだろうと思ったのである。悪くなっていく日本に少しでも抗って、それを何かのかたちで(今はブログに書くということで)表わしていけば、それでいいだろうと思っているのである。だから、今年も年賀状は作らなかったし、相変わらず大して読まれず影響力もないブログを書いて行きたいと思うだけ。
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