「僕の東京物語」シリーズは今までずっと小学校時代を書いていたが、今回は一挙に飛ばして結婚して家を出た当時の思い出。前回書いた映画『金子差入店』はTOHOシネマズ錦糸町 オリナスという映画館で見た。時間が合っていたからだが、その錦糸町(きんしちょう)こそ新婚時代に住んだ街なのである。そこで昔住んでいた場所などを回ってみた。この映画館は近くの人じゃないと行かないと思うけど、自分の家からは(1回乗り換えて)駅から駅までなら20分ちょっと。錦糸町駅前には「楽天地」(後述)というビルがあり、そこに「TOHOシネマズ錦糸町 楽天地」というのもあるから間違えると大変だ。(子ども時代の話はまた別に。)
錦糸町は東京23区東部の墨田区にあり、JR総武線で秋葉原から3つ目。2003年に地下鉄半蔵門線が東武線と直通運転するようになって、家から近くなった。北口に出ると、錦糸公園がある。その向こうにオリナスが見えてくる。ここは1997年まで時計の精工舎の工場があった場所で、再開発されて2006年にオリナスというショッピングモールとなった。3枚目の写真はオリナスから見た錦糸公園だが、向こうに「LOTTE」と見えるのはロッテシティホテル錦糸町。1970年から2007年まで結婚式場などがあるLOTTE会館だったが、2010年にホテルとなった。ロッテ会館はもうなかったのか。どこからもスカイツリーが見える街である。
さて、映画を見終わった後で旧自宅を探し始めたけど、これがなかなか見つからない。目標は賛育会病院でその並びの道にあったはずだけど、その病院が見つからない。昔に比べて足のスピードが落ちていて、感覚が違ってしまうのだ。何となく「蔵前橋通り」の手前にあるかと思っていたら、違っていた。ようやく見つけた賛育会病院(上の写真)だが、最近この病院は2回ニュースに出て来た。一つは日本2例目の「赤ちゃんポスト」「内密出産」を準備中というニュース。もう一つは再開発中に東京大空襲で焼けたままの地下室が見つかったというニュースだった。調べてみると吉野作造や片山哲が理事長を務めたキリスト教系病院である。
錦糸町駅北口は再開発で全く違っているが、確か古びたマーケットがあって、そこを抜けてひたすら北上すると小さなビルがあった。そこの3階(もしかして2階かも)に1983年10月から1985年春まで住んでいた。1階が八百屋だったのですごく便利だった。当時の勤務先は新小岩駅(錦糸町から各駅停車で3つ目、快速で1駅)だったから、便利だったのである。新小岩から東京方面になるので、家賃はなかなか高かった。最初はなかなか暮らしも厳しかったけど、まあ都心からも近いので、皆で集まったりしたこともある。今は取り壊されて、更地になっていた。何か新しく建つらしい。1983年夏に決めて契約した頃が懐かしいな。
最初の2枚が錦糸町駅北口。大きなバス乗り場になっている。両国方面に続く道は今は「北斎通り」と命名されて、ちょっとした観光地である。ずっと歩いて行くと「すみだ北斎美術館」がある。近くに「すみだトリフォニーホール」「東武ホテルレバント東京」があるが、今回はそっちまで行かなかった。むしろ今は錦糸町北口は「立志舎高校」校舎があちこちに目立っている。1999年に出来た私立通信制高校のはしりで、平日通学コースもある。ホントどこからでもスカイツリーが見える街である。
錦糸町は南口の方が昔から栄えていて、今も駅ビル(一番最初)は北口よりずっと大きい。南口にはマルイ錦糸町店があり、1983年9月に開店したけど、ほとんど行ったことはないなあ。上の方に「すみだ産業会館」が入っている。マルイの隣にある「魚寅」という魚屋・鮨屋はマグロのぶつ切りですごく有名で、南口に出たら誰にでも目に入る。
それより流行っているのは、駅そばの「PARCO」である。もともとここが東京楽天地で、今も上の方に天然温泉施設がある(しかし、男性専用だと出てる。)1937年に小林一三(阪急、東宝の創設者)が作った会社で、当初は浅草(当時東京最大の盛り場)に進出したかったが、浅草は松竹の牙城で東武の根津嘉一郎に懇願されて錦糸町にしたとWikipediaに出ていた。錦糸町にはどうも東京の外れ感がつきまとうが、1986年秋にここに錦糸町西武が開店して、一気に若者の街っぽい賑やかさが出現した。僕はもう錦糸町を離れていたが、それでも近いので行ったことがある。特に楽天地に映画館があったので、そこに行ったのである。
中でも1986年に開館した(1994年まで)「キネカ錦糸町」という映画館は不思議だった。セゾン系映画館というのがあった時代である。そして堤清二がソ連を訪れて、ペレストロイカ時代に上映、輸出が可能になった映画を大量に買い付けてきて、キネカ錦糸町は「ソビエト映画専門館」になったのである。それが1990年のことで、翌年末にはソ連が崩壊するなど誰も想像していなかった。僕はここでずいぶん変な映画を見た記憶がある。さすがに92年にソ連映画専門館は止め、94年には閉館になった。
「セゾン文化」は池袋や渋谷というイメージが強いが、まさかの錦糸町にそんな映画館があった時代もあるわけだ。西武百貨店というのものも幾多の変遷をたどりセゾングループは解体された。錦糸町西武は1999年にリヴィン錦糸町店、2019年に「錦糸町パルコ」が開業した。そんな錦糸町駅南口に誰も見てない碑があった。明治の歌人・小説家伊藤左千夫の碑だった。『野菊の墓』の作者で、アララギ派の歌人だったが、本職は牛飼いで錦糸町の南の方に牧場があったということらしい。ちゃんと読んでないけど。
初めて親元を離れで住んだ街で、試験が終わった後で錦糸町楽天地で『プロジェクトA』を見たなあと思いだした。お店がいっぱいある(何しろ八百屋の上に住んでた)街で便利だった。しかし、1年半住んだ後で、急に家を買う話が持ち上がって引っ越すことになった。新婚生活を送った「短い錦糸町時代」である。