「僕の東京物語」第6回は中学時代。足立区立第十四中学校というのが、僕の通った中学校である。今学校の写真を撮るのは難しいので(球よけネットで覆われているし、部活動などをしている生徒がいると撮りにくい)、都議選の日に撮ってみた。旅行から帰った翌日で、朝起きたら食べる前に早く行ったのである。朝ならまだ暑過ぎないし部活もやってないだろう。家から30秒だから、そういうことも可能なのである。体育館で投票後、外に出ると校庭から校舎が一望出来たのである。
1947年の新学制で中学校が設置されたときに、東京では単に順番で校名を付けた地区が多い。足立区でもその後の新設中学は地名を付けている。調べてみたら、二中や三中などすでにない学校もあり、近隣中学と統合されるときは地名が付くようだ。中学時代はそういうもんだと思っていたから疑問も持たなかったが、後に高校教員になって入選業務を担当すると、他区にもナンバースクールがあるので区別しにくいなと気付いた。僕の幼児期に中学が火事になった記憶があるが、調べてもよく判らない。
今は部活動などで活躍していて、よく新聞でも見かける。僕の時代は半世紀以上も前になるが、北の方で唯一の中学だった。今は「日暮里舎人ライナー」が通る一帯には中学がなく、西北部の小学校を出た生徒は自転車通学が認められていた。しかし、僕の場合は小学校が徒歩10分以上かかったのに対し、何しろ裏門まで30秒、そこから教室までの方が5倍ぐらい遠かった。ルール上は8時半までに校門を通れば遅刻じゃなかったので、当時は8時15分からだった朝ドラを見てから登校しても間に合った。
この「家から30秒」は便利だけど良くなかった。大体間に合うから時間厳守意識が薄くなり、逆に時間にルーズになる。遅刻癖が付いてしまい、後に直すのに苦労した。「放課後の道草」というのも不可能である。多くの人は中学時代に、部活動の思い出とか、初恋の思い出とか、進路の悩みなどを思い出すんだろうと思う。しかし、僕にはそういうのがなかった。当時はまだ「部活動」といわず「クラブ活動」だったけど、当時から地理や歴史に詳しいことになっていて、一応「社会科クラブ」なんてのには名を連ねていたと思うけれど、ちゃんと活動はしなかった。他のスポーツ系や文化系クラブにも入ろうという気はなかった。
というのも、小学生時代の「鬱屈」を抱えて中学生になったからである。田園地帯だった小学校の周りはあっという間に開発されて、遊び場が無くなっていった。それはまあ仕方ないが、実は小学校時代に幼いながら好意を持っていた女の子がいて、その子が転校してしまったのである。しかもそれが続いた。「僕が誰かを好きになると、いなくなってしまう」のである。これはこたえた。その後、中学時代に誰も好きにならなかったのはそのためだと思う。そして、このことが自分を「行動派」ではなく、一歩引いて周囲を見てしまう「観察派」にした最大要因になったと思う。だから、僕は中学時代に「文学少年」になったのである。
つまり、単に読書が好きというのではなく、「自分」を見つめると言うか、「自我」の問題として本を読むようになった。それは60年代末の時代風潮、ヴェトナム戦争や「チェコ事件」、ニュースでやってる「大学紛争」などの影響もある。塾に行くようになり、その帰り道が「放課後」だった。ある夜、新校舎建設中の学校に入り込んだ思い出もある。何か忘れ物があったのである。建設現場からすぐ校舎に入り込めた。警備会社がいるという時代じゃなく、そんなことも可能だったのだ。家に帰ったら、ラジオの深夜放送を聞いた。そして内外の最新音楽や映画の情報を得て、僕は映画少年にもなっていったのである。
「鬱屈」していた僕は、多分余り素直じゃない少年だった。後に教員になって、こういう感じだったかなと思う生徒が何人かいた。内面的にも、また時代風潮としても、すべては「諸行無常」という思いだったのである。そんな僕に面白かったのは、中学3年の頃から見始めたアメリカ映画、いわゆる「アメリカン・ニュー・シネマ」だった。高校は一応幾つか私立も受けているが、「紛争」後に自主ゼミを始めた上野高校に行きたかったから、普通に勉強してれば確実と踏んでいた。「学校群制度」だったから、上野じゃなく白鴎に振り分けられたのも、僕の「諸行無常」感を強めた。不運に取り憑かれていたというのが僕の実感だった。
中学2年の時に新規採用の先生が担任になった。その先生は僕らを卒業させたら、辞職してイギリスに留学した。戻ってきたら高校の試験を受けて、都立高校の教員になった。後に僕が卒業した白鴎高校にも勤務したし、僕が墨田川高校の定時制課程に勤めていた時には、同じ高校の全日制に異動してきた。そういう因縁もあるし、中学時代ももっと別の語り方も出来ると思うんだけど、自分自身で思い出す中学時代は「不運な時代」で、学校外で本や映画に触れ始めた思い出の方が強いのである。