尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大島渚の映画③ATGの時代

2013年03月29日 02時07分20秒 |  〃  (日本の映画監督)
 1968年から1972年まで、大島渚の映画は主としてATGで公開された。ATGというのは「日本アートシアターギルド」の略で、日本で公開が難しいアート映画を上映した。「野いちご」「尼僧ヨアンナ」「大地のうた」「去年マリエンバードで」などベストテン入選映画の多くが公開された。60年代末に製作に乗り出し、当時としても低予算の「1000万円映画」をうたい前衛的作品をたくさん発表した。大島の「絞死刑」、篠田正浩の「心中天網島」など、低予算を逆手に取ったような工夫と気概にあふれた傑作がたくさん生まれた。(今見ると、工夫はいいけど、確かに予算がきついなあという映像も多い。)

 第一弾が「絞死刑」(1968)だが、ここでは映画の内容にはあまり触れない。小松川事件と言われた「劇場型犯罪」の走りのような少年死刑囚、在日朝鮮人の李珍宇(イ・ヂヌ、犯行時18歳)がモデルである。李は獄中で支援者の朴壽南(パク・スナム)と出会い、それが映画の中の小山明子の「姉」のモデルである。獄中で信仰を得てたくさんの手紙を書いた。獄中書簡集「罪と死と愛と」が新書で刊行され(後に全書簡集が出た)、大きな影響を与えた。1962年に死刑が執行された。(一部に冤罪説の主張もある。)最初に見つかった被害者は都立小松川高校の屋上で、定時制1年に在籍中の女子高生だった。読売新聞に電話があり、大きな衝撃を与えた。逮捕された李も小松川高校定時制1年に在籍していた。(逮捕後、それ以前のもう一件の殺人を自白する。)
(「絞死刑」)
 映画には新小岩駅のロケが出てくる。小松川橋と思われる橋を通る映像もある。そうすると、映画に出てくるのは現実の小松川高校なのか。僕は川の真向かいにある中学に8年間勤務し、小松川には全定とも生徒を送った。いくら何でも、実際の高校でロケ出来たとは思えないが。ところで、「絞死刑」という言葉は造語である。「絞首刑」という「死刑」がある。死刑制度を描く映画はいろいろあるが、制度そのものを思想的に批判する映画はこれだけだろう。死刑執行が失敗し、心身喪失した「R」を再執行するために、犯行を思い出させようと関係者が事件を再現する。あまりにも卓抜な設定。それを通して、「戦争で人を殺すのもお国のため、死刑で人を殺すのもお国のため」という「国家批判」を展開する。スリリングな論理的、倫理的な言葉の応酬が、日本映画には他にないような思想映画の傑作だ。

 続いて、1969年の「新宿泥棒日記」。69年当時の熱気ある新宿の街を丸ごとパッケージした「タイムカプセル」みたいな映画である。60年代末の「アングラ」芸術のムードを一番伝える映画だと思う。ほとんど紀伊國屋書店状況劇場(唐十郎の紅テント)とのコラボ作品とも言え、それも時代に先駆けている。主演にイラストレーターの横尾忠則を充て、横山リエとのコンビで新宿という「地獄めぐり」を行う映画。当時は新宿が一番時代の先端と思われていた。冒頭に唐十郎が出てきて、その若さ思わずにたじろぐ。少しして横尾忠則が紀伊國屋で万引きし、横山リエに捕まって社長の田辺茂一のところに連れて行かれる。田辺茂一は当時はものすごく有名な人物だった。このあたりの横尾、田辺の掛け合いがシロウトっぽいが、それも「時代のタイムカプセル」と思えば面白い。性科学者の高橋鐡というちょっとした有名人も出てくる。劇映画だが「時代のドキュメント」と思って見た方がいい。まだまだ無名に近い状況劇場の、唐十郎以外の李麗仙、麿赤児なども出てくる。特に99年に亡くなった藤原マキの映像が残されているのが貴重。つげ義春の夫人である。
(「新宿泥棒日記」)  
 69年にはもう一本、一年間かけて日本全国を回ったカラー映画「少年」がある。「少年を連れた当たり屋夫婦」という現実にあった事件をモデルにしたロードムービー大島映画で一番心を揺さぶられる傑作。渡辺文雄、小山明子と二人の子ども以外に、ほとんど登場人物も出てこない。(まあ、ぶつかる車のドライバーがいるが。)城崎、松江、高知、福井、秋田、宗谷岬、小樽などでロケし、当時の街の様子も貴重。この映画の成功は、夫婦役の二人もうまいけど、何と言っても子役の素晴らしさにある。ほとんど表情もない感じで、実の父、義理の母につかず離れず悲哀を心にため込んでいる長男の姿が切ない。アンドロメダ星雲から宇宙人が助けに来てくれるという話を作って、下の幼児に言い聞かせている。北海道で雪だるまを作り、宇宙人に見立てるが、それを自分で壊す場面。幼児が幼い声で「アンドロメダ星雲」と何度もつぶやく場面は、涙なしに見られない日本映画屈指の名場面だ。自分の信じた理想を自ら壊していく「戦後民主主義の終わり」を読むこともできる。以前はそういう戦後思想史の暗喩と見たが、今見ると「被虐待児の精神的解離」を痛烈に表現した場面だろう。「誰も知らない」と並ぶ、子どもネグレクト映画の傑作だ。一番好きな大島映画でもある。
(「少年」)
 「東京戦争戦後秘話」(70)は結構面白いけど、やっぱり失敗作だろう。昔見た時も面白くなかった。「戦争」の「戦」は「占戈」をくっつけた字で、新左翼のタテカン文字である。70年安保に向け、武装闘争を主張した赤軍派が呼号した言葉。この映画は名前だけそこから借りて、その後の「シラケ」ムードを先取りしたような映画である。大島映画は「予感の映画」と言われたが、この映画で「闘争の終わり」を「予感」して、かえって意味を見失った感じだ。脚本に原正孝(現・原將人)を抜てきした。麻布高校時代の67年に作った短編「おかしさに彩られた悲しみのバラード」で大評判になっていた。その後73年に「初国知所之天皇」(はつくにしらすめらみこと)という8時間の映画を作った。1950年生まれの原を抜てきし、配役も若いシロウトに近い人を使った最も素人っぽい大島作品である。だが成島東一郎の撮影、武満徹の音楽などスタッフは超一流。ザラザラした質感の画面が捉える東京風景や音楽などは魅力的
(「東京戦争戦後秘話」)
 この映画は「映画で遺書を残して死んだ男の物語」と題されている。この「遺書」にあたる映像がなんだか判らないが、東京の普通の映像が残されているのは貴重だ。東京のどこで撮ったかは明示されず、あえて「迷宮映画」として作られている。今見ると、昔風の酒屋や店先の赤電話、昔の郵便ポストなんかが懐かしい。このころ、永山則夫の足跡をたどる「略称・連続射殺魔」が撮られていて「風景映画」と言われた。この映画も「風景映画」の一種で、東京の街頭で撮影した「反・東京物語」なのだと思う。それにしてもシナリオや演技の稚拙さは無視できない。今見ると「ドッペルゲンガ―」の映画にも思う。政治的なテーマ(大学映研がデモを撮っていてフィルムを警察に押収される)と「映画で遺書を残した男」のフィルムの中の何気ない風景、自己分裂するかのごとき主人公と女友達の東京めぐりが、統一されることなく雑然と同居する。「ある種の魅力」がつまった失敗作というべきか。

 71年の「儀式」はATG10周年記念の「大作」で、ベストワンに輝いた。ガウディの「サグラダ・ファミリア」(聖家族教会)ならぬ、日本の「桜田ファミリー」の儀式を通した戦後史。39歳の大島映画の集大成である。戦前の中央官僚で、占領期は一時「追放」されたが、その後復活して権勢を誇る桜田家の家長一臣(佐藤慶)。その長男は戦後自殺し、満州から引き揚げてきた孫の、その名も「満州男」(ますお=河原崎健三)のナレーションで映画は進行する。共産党の叔父、美しい叔母、年上のいとこ(実は叔父)の輝道(中村敦夫)や従妹の律子(賀来敦子)など一族には様々な人物がいて、葬式や結婚式で出会っては傷つけ合い、また結びつく。秘密の多い家族で、一臣が「外の女性に産ませた子ども」もいるらしい。引き揚げや中国で戦犯になるなど、辛苦をなめた戦後史。満州男は幼い時、引き上げる途中でまだ息のある弟を埋めたトラウマを引きずる。会うたびに誰かが自殺したり、事件が起きる。
(「儀式」)
 満州男の結婚式では、式の日に嫁が「盲腸」で入院ということで来ない。仕方なく新婦不在で有力者の前で形だけ式をあげる場面。右翼のいとこで警官の忠男はクーデター計画を式場で読み上げ、連れ出される時に交通事故死する。このバカバカしい結婚式と右翼青年のあっけない死は、戦後の日本システムと批判者双方のバカバカしいほどの「フォニー」ぶりを痛烈に描いている。最後に祖父が死亡すると、満州男の「結婚式」以後、南の島にこもっていた輝道が「テルミチシス テルミチ」という電報を送ってよこす。満州男と律子は二人で船で輝道を訪ねに行く…。筋を書いていても判りにくいが、映像で見る方が判りやすい。儀式で会う一族の中に、ちょっと年上でいろいろ教えてくれるタイプ、同世代で仲良くした女の子、ちょっと変わった親戚、憧れの親戚などがいる。今見ると何故輝道が最後死ぬのか、そこにどうして律子も加わるのか、途中で節子おば(小山明子)がなぜ死ぬのかなど、納得しにくい部分がある。しかし、71年の公開当時は説明されなくても、なんとなく通じたと思う。

 戦後革命は不発に終わり、戦争犯罪人が生き延びた日本社会で、闘い傷を負い倒れて行った多くの人々。もうこれ以上ゴマカシの人生は止めるか、ミジメでも生き延びていくか。71年の時点で、大島映画を見ている人には、その岐路に今立っているという思いが通じた。僕は公開時に見て、ベストワンになった記念上映でもう一回見た。高校生の時だが、こういう暗い情熱的な映画に強く引かれた。10年くらい前に久しぶりに見て、登場人物が死ぬだ生きるだと思い入れたっぷりに語り合う映画は古くなったと思った。今回見直して、同時代に対する「儀式」の挑発力は甦ったと思った。「3・11後」に見ると、「日本システム」が残り続けた社会でどう生きるかという問題意識である。満州男の結婚式のバカバカしさは、原発の「やらせ」公聴会とそっくり同じで、そういうバカバカしい仕組まれた行事をこなすことが日本システムを生きることなのだ。誰も笑って見ることはできない。似たようなことをやってきたはずである。そうしてミジメに生きて来て、何が残ったのか。そういう切実な問いを改めて感じる。

 72年の「夏の妹」はATG最後の作品。40年ぶりに見て、復帰直後の沖縄の映像はとても興味深いかったが、全体的にはやはり失敗作だと思った。切実な問いが欠けていて、どうも観光映画みたいな感じだ。魅力的な映像もいっぱいある。再建前の守礼の門や、あまり整備されていない石畳の道などは貴重。この映画は、当時東宝系でアイドルなりかけの栗田ひろみが沖縄に母違いの兄がいるらしいと夏に沖縄に行く話。その兄の母は小山明子だが、父の方は栗田ひろみの父・小松方正か、沖縄出身で警察幹部の佐藤慶か、両方の可能性があるらしい。兄は東京に妹がいると聞き、夏休みに会いたいと妹に手紙を寄こすが、そのとき見たのは実は栗田ひろみではなく、小松方正の再婚予定者で娘のピアノの家庭教師、りりィだった。親世代のもつれと若い世代のもつれという、二世代間のもつれが絡むが、今までのどの映画にもまして、これはどうでもいい問題ではないのか。
(「夏の妹」)
 本土の血を引くか、沖縄の血を引くかと言っても、たかが一青年の問題で、本人と家族には意味はあるだろうが、思想的意味を見出すのは難しい。そこに「殺されに来た」殿山泰司と「殺す相手を探している」琉歌の大家・戸浦六宏が絡んでいて、戦争というテーマが関係してくるけど、エピソードに止まり深まらない。どうも不完全燃焼の映画である。栗田ひろみのアイドル映画としても中途半端だが、「沖縄という問題」を突き付けてくるだろうと大島映画を見る前に観客が想像した挑発や思い入れを感じ切れない。いつもの大島組メンバーに、りりィと栗田ひろみが溶け込むのが難しかったのかもしれない。戸浦六宏が琉歌の専門家というのは、風貌はあっていた。
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大島渚の映画②性と犯罪と想像力

2013年03月28日 01時26分26秒 |  〃  (日本の映画監督)
 大島渚の第2期は、自分の作った創造社で製作し、古巣の松竹で公開した映画。その時期からアートシアターで撮りまくった30代後半の時期は、「性と犯罪と想像力」の時代である。問題作ばかりで、世界的にもゴダールか大島かというような時代だった。ATG以外の作品をまとめて見る。

 「悦楽」(65)は山田風太郎原作。中村賀津雄が家庭教師として教えていた加賀まり子を愛してしまう。昔加賀を襲った男が恐喝してきて、両親に頼まれた中村は金を渡すために男に会う。しかし男は二度としないとは約束しなかったので後をつけて、列車の中で男を殺してしまう。数日後、小沢昭一が下宿に現れ、殺人を目撃したと告げる。自分は中央官庁の官吏だが公金を横領して、もうすぐ捕まるが刑期は5年程度だろう、殺人をバラされたくなかったら横領金を預かってくれと言う。しかし、加賀は他の男と結婚してしまう。絶望した中村は死ぬ気になれば何も怖くない、金に手を付け好き放題生きて、小沢が現れたら自殺しようと決意する。そしてさまざまな女と出会い…、という不思議な設定で男と女とカネをめぐる寓話のような犯罪物語である。しかし、どうもあんまり面白くないなんだなあ。それは「性と犯罪」をテーマにしながらも、「想像力」による犯罪ではないということか。もう目の前に労せずして大金があって、その気になれば使ってしまえるという設定が面白くないのである。

 その次は韓国の少年の日記をもとにした「ユンボギの日記」(65)という不思議な短編。貧しい韓国少年「ユンボギの日記」は当時のベストセラーで、大島が韓国で撮影してきた写真に、小松方正のナレーションがユンボギに語りかける。「忍者武芸帳」のような感じでもあるが、貧しかった時代の韓国を感じさせる。朴正煕政権で高度成長が始まる直前の、まさに日韓条約が結ばれた年の映画。

 「白昼の通り魔」(66)を後にして「忍者武芸帳」(1967)を先に書く。ATGで公開された最初の大島作品。史上もっとも不思議な映画の一本で、白戸三平の有名な漫画を、その漫画の絵をそのまま映像で撮った作品である。登場人物が動いて見えるアニメーションではない。静止画像を移動撮影(一枚の漫画をクローズアップしてパンしていく)するという不思議な映画体験で、ある種の「美術映画」だ。原作は非常に長いが、主要人物の争いにしぼりこみ、セリフと音楽、ナレーションが入る。
 (「忍者武芸帳」)
 ナレーターは小沢昭一で、時代背景がよくわかる。林光の音楽が大変に素晴らしく革命的ロマン主義のムードに浸れること請け合いである。戦国時代の謎の忍者一族、影丸と影一族。その活動目的は何か。今見ると歴史的に問題がある描写(原作に由来する)もあるが(例えば出羽の伏影城に1560年時点で立派な石垣があったはずがない)、そういう細部の問題は超えて、民衆の革命的伝統への期待と信頼をうたい上げる映画になっている。信長政権と徹底的に対決した影丸一族の敗北が、身分制度と民衆の分断をもたらしたという「裏の権力闘争」だけで進む「階級闘争史観」。問題なんだけど、若い時に一度は見ておいてもいいのではないか。

 この時期は僕の一番好きな作品が多い。「白昼の通り魔」「日本春歌考」「絞死刑」「少年」など。「白昼の通り魔」(66)は、戦後民主主義の理想の崩壊を見事に形象化した傑作である。この映画の魅力と重要性は現在の方が良く伝わると思う。中学教員の小山明子が黒板に「自由 平等 権利」と書く場面の痛切な痛みは忘れがたい。冒頭、高級住宅地で女中をしているシノ(川口小夜)のところに英助(佐藤慶)が押し入る。シノは犯され、女主人は殺害された。シノは彼が「白昼の通り魔」として殺人を重ねている犯人だと確信したが、警察にはあいまいに話す。一方、英助の妻となっていた中学教員マツ子(小山明子)には手紙で知らせる。

 話が昔に戻ると、戦後の村で青年たちが毎晩のように集まって理想に燃えて語り合っている。新しい農村経営に夢を持つ青年たちの中心に、教師のマツ子や村長の息子、源治(戸浦六宏)がいる。シノは源治に金を借りていたが、源治はシノが好きだった。村議選に出た源治はトップ当選するが、シノの心を試すかのように心中を持ちかけ、シノもふと同意して山の木で首つりをする。英助は二人の後をつけるが、シノは枝が折れて失神しただけで助かる。英助は源治を見殺しにし、その死体の下でシノを犯す。恋愛の無償性を教えていたマツ子は、事故死として処理する村のやり方に納得できないまま、英助と結婚する。一人生き残ったシノは村にいられなくなった。そういう過去があったのである。修学旅行で大阪に来たマツ子はシノに出会うが…。最後は二人で裁判を傍聴し死刑判決を確認して、理想の喪失に絶望したマツ子はシノに心中を再び持ちかけるが、今回もシノは生き残ってしまう。
(「白昼の通り魔」)
 このように筋書きを書いているだけでは、なんだか判らないかもしれない。確かに筋としては、源治がなぜ死ぬのか、英助がなぜ殺人魔になるのか、マツ子と英助がなんで結婚したのか。どうも判らない点が多い。しかし、高田昭の撮影(非常に白っぽいモノクロ)や林光の音楽とあわせて、「性と犯罪」に「想像力」を重ねて感じて見ると、何となく判る気もしてくる。単に肉欲と殺人衝動による犯罪のように見えるが、「死なない肉体」を持つシノ=民衆の原像を犯すしかない英助は、仮死状態のシノを犯した時にだけ生きている実感が得られる。彼は犯罪を繰り返すが、実はそれは「想像力の犯罪」だった。それこそが「愛の無償」を掲げた戦後の「理想主義の敗北」なのである。こういう理解が正確かどうかはともかく、映画を見ている間中、何かが間違ってしまった、我々の愛と理想はどこで間違ってしまったのか、今や傷つけ合うだけになってしまった「過去」を取り戻すことはできるのかという切実な問いを突きつけられていると感じる。方法的にも思想的にも難解なんだけど、そういう痛切な痛みが全篇にあることは否定できない。それが映画として心に残る由縁だろう。

 「忍者武芸帳」をはさみ、次の作品「日本春歌考」(67)は、昨年小山明子映画祭で見て「小山明子映画祭と大島渚の映画」に書いたので、そちらを参照。僕はこの映画が好きだけど、何回見ても面白いと思う。冒頭の大学受験の場面の雪一色の白いシーンが美しい。その雪の日に、紀元節復活反対の「黒い日の丸」のデモが行われている。先頭に戸浦六宏、渡辺文雄、観世栄夫などがいるので、当然これは映画のためのデモシーンだ。それでも67年の「紀元節復活」=「建国記念の日」に対する反対運動を伝える貴重なシーンだと思う。この映画は「革命歌」対「軍歌」対「春歌」という民衆史の構図に、「ベトナム反戦フォークソング」を対置し、さらにそこに在日韓国人少女と思われる設定の吉田日出子歌う「満鉄小唄」を置く。「歌に見る日本民衆の分断状況」が心に刺さる。
 (「日本春歌考」)
 同時に男子高校生による「美女受験生」との性願望の想像を「想像力による犯罪」として再現し、想像力は現実を乗り越えられるかと問う映画でもある。高校生世代と年長世代(伊丹一三や小山明子)の対立を描くという意味で、初期大島映画の世代論が復活している。主演の高校生荒木一郎は1944年生まれで高校生はかなりきつい。吉田日出子も同じだが。でも高校生の年齢の俳優では、この複雑な映画は無理だったろう。美人受験生役の田島和子は、故草野大悟の夫人。串田和美宮本信子も高校生役で出ていて、貴重な映像である。大島映画はほぼすべてで犯罪が関わってくるが、「想像力」で犯罪を再現しようとする発想では、この映画と「絞死刑」が突出している。

 次の「無理心中日本の夏」(67)は非常に判りにくい「前衛映画」だが、近年のテロ事件を経て少し判りやすくなったかもしれない。映像的には白黒で都会を美しく撮影し、そこに何か深い意味があるのかなと見ていくと、何だかよくわからない銃撃戦になる。男を求めるフーテン娘ネジ子(桜井啓子)と死にたい男佐藤慶が出会うが、ヤクザの武器発掘を見て拉致される。ヤクザの出入りがあるらしいが、そこに白人青年の銃撃テロが発生して出入りは中止、人を撃ちたい高校生(田村正和)や数人が白人青年のところに合流し…。なんか皆衝動的に行動しているから、最後まで判りにくい。そういう死にたかったり殺したかったりする人間の衝動を通して「暴力の根源」に迫ろうという意図なんだろうか。でもまあ中途半端で、判ったような判らないような、やっぱり何だったんだろうなという映画である。

 「絞死刑」をはさんで次作の「帰ってきたヨッパライ」(68)も同じように、これは何だったんだろうという映画。大島渚の中でも一番不可思議な映画だろう。当時大ヒットしたフォーク・クルセイダーズの大ヒット曲の名を借りて、フォークル主演で作られた一種の「アイドル映画」。でも冒頭に「この映画は途中で同じ場面が出てくるけど、これは監督の意図です」みたいな字幕が出る。実際に途中でビデオを巻き戻した感じで同じ場面に戻る(少し違ってくるが)ので、終わったと思った観客が途中で席を立ったという話がある。発売中止になって問題化していた「イムジン河」も歌われている。後に「パッチギ」で取り上げられた、南北朝鮮の平和を求める歌である。
(「帰ってきたヨッパライ」)
 福岡の海で遊んでいたフォークルの3人が服を盗まれる。それはベトナム戦争への派遣を拒否して日本にきた韓国兵(佐藤慶)と学生だった。そこから両者の追いつ追われつの、現実なんだか幻想なんだかの追いかけっこが始まる。この設定は、実際にベトナム戦争を拒否して日本に亡命を希望した韓国兵金東希という実在の人物から来ている。日本と韓国の「同じことが繰り返す」現実の関係を想像力の中で再構成した、と深読みできないことはないけど。でもやっぱり異色の失敗作なんだろう。フォークルは、故加藤和彦、北山修、故端田宣彦(はしだ・のりひこ)の3人で、和製フォーク、インディーズ音楽の始まり。その後、北山修は「戦争を知らない子どもたち」を作り、時代の旗手となった。北山、加藤は日本のジョン・レノン、ポール・マッカートニーで、若き日の肖像が映画で残されているのは貴重だ。
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大島渚の映画①ヌーベルバーグの時代

2013年03月25日 23時40分23秒 |  〃  (日本の映画監督)
 大島渚監督の追悼上映で多くの作品を見直したので、まとめておきたい。「儀式」(1971)以後の大島映画は、同時代に見ている。それ以前の映画も、高校、大学時代にほぼ見たと思う。その頃は非常に面白かったし、時代の先端と思っていた。その後も折に触れ見ているが、政治の季節が去ったあとでは、時代遅れの「昔のアングラ」という印象を受けたこともあった。ところが今回見直してみると、再び時代の問題意識が痛切に感じられる気がした。「3・11後」という「またふたたびの敗戦」直後という時代に、大島が描いてきた戦後史の痛みが我が身に応えるように通じる。「甦る大島渚」という感じがする。日本という国家は大島渚を超えて行くことができないままなのか

 大島映画を時系列に沿って分けると、大体4つに分けられる。多少順番に違いはあるが。
第1期 松竹ヌーベルバーグ時代と退社後の他社作品
 「愛と希望の町」「浅春残酷物語」「太陽の墓場」「日本の夜と霧」「飼育」「天草四郎時貞」
第2期 創造社製作・松竹配給作品
 「悦楽」「白昼の通り魔」「日本春歌考」「無理心中日本の夏」「帰ってきたヨッパライ」
第3期 ATG製作・配給作品
 「忍者武芸帳」「絞死刑」「新宿泥棒日記」「少年」「東京戦争戦後秘話」「儀式」「夏の妹」
第4期 国際的活躍時代
 「愛のコリーダ」「愛の亡霊」「戦場のメリークリスマス」「マックス・モン・アムール」「御法度」
 おおむね順番に沿って、各期に合わせて4回に分けて書いて行きたいと思う。

 まず、劇映画初監督の「愛と希望の町」(1959)。助監督としてのリーダー性や脚本能力を買われ、まだ20代だった大島が他の人に先んじて監督に昇進した。松竹は篠田正浩、吉田喜重、山田洋次など重要な監督を生んだが、中でも一番早い。「愛と希望の町」は62分の白黒中編だが、脚本、演出共にすでに技術的に確立されている。この映画は「脚本のお手本」と言ってよい。川崎駅前で鳩を売る貧しい少年が、買ってくれたブルジョワの娘と知り合いになる。母が病弱で高校進学をあきらめた少年は、少女の父が経営する会社を受けられることになる。しかし、鳩が帰ってくるたびに何度も売っていたことが問題化して…。という「貧困の中でやむを得ず犯してしまう非倫理的行為」にどう向き合うかをめぐり、登場人物の立場がくっきりと分けられていく。
 (「愛と希望の町」)
 主要な対立(金持ちと貧乏人という「階級対立」)を主軸とし、もう一つ「年長者と年少者」(「世代対立」)という副次的対立を置く。対立するはずの両者を「学校という装置」や「愛情や友情」が媒介し、その形象化として「」がある。その鳩を最後に撃つことで、劇的な切断が明らかになる。様々な対立関係を媒介していた「鳩」が撃たれるという映像的体験が見る者に痛切な衝撃を与える。決して観念的なセリフの説明で終わらせずに、映像の力で語らせていく素晴らしい映画世界である。

 翌1960年に「青春残酷物語」が作られ大評判となった。他の若手監督の昇進作は白黒だが、この作品はカラーという点を見ても、会社の期待の大きさが判る。この映画は今見ても大変に面白い。「若い世代の無軌道な性と犯罪」という、日活「太陽族」映画みたいな内容。その中には今見ると他愛ない映画も多いが、これは女子高生が「美人局」(つつもたせ)行為を繰り返し、大学生と同棲、妊娠というのだから、今の感覚で見ても「無軌道」である。(実際にラスト近くで逮捕されてしまう。)主演女優は1942年7月生まれの桑野みゆきで、戦前の美人女優桑野通子の娘。公開は1960年6月だから、まだ17歳である。セックスはともかく、劇中でタバコを吸ってるのは、今なら大問題だろう。
 (「青春残酷物語」)
 技法的には、画面で常に二人以上の人物がドラマを作り、それをワンショットで語りきるというシーンが多い。カットの切り返しが多い映画ではなく、何か現実に起きている新しい世代の物語を実際に横で眺めているような感覚で作られている。特に、木場で水に突き落とされ、結ばれるまでのシーン。あるいは妊娠中絶の病院で、大学生(川津祐介)がリンゴをかじり続けるシーンなど忘れがたい名場面だ。これらの映像は確かに「日本のヌーベルバーグ」(新しい波)というべき魅力をたたえていた。「金のない若者」に愛の自由はあるのかという「貧困という暴力」が、この映画の真の主題だが、同時に「世代間対立」が副主題にあるのは前作と同じ。前世代(姉の世代)が自由を貫けず、今もなおその傷を忘れられない姉(久我美子)と恋人だった医者(渡辺文雄)が、若い二人と対比される。

 もぐりの中絶の医渡辺文雄は、最後に逮捕されるが、警察署の前で「おれたちの世代の過ちが、君たちの世代をダメにしたのだから、恨む気はないけどね」と語る。いくら何でも観念的に過ぎるセリフだが、大島渚は「世代対立」を描いた作家とも言える。日本の戦後思想史では「世代」という問題がある種のキーワードだったが、この映画はその代表格だろう。同時期の安保反対デモと韓国の「4・19学生革命」のニュースフィルムが挿入されるのも、後の大島映画を予見している。韓国学生の民主化運動に日本からの連帯の表明として忘れがたい。

 続いて「太陽の墓場」を大阪を舞台に撮る。通天閣の近く、釜ヶ崎のドヤ街で売血で稼ごうとする女(炎加代子)とのし上がろうとする愚連隊、対立するヤクザ組織、気持ちがふらふらする若者たちの愛と激情と対決を描いている。問題作ではあるが、様々な主題がごった煮的に混ぜ合わされ、前作のようなスピードある統一感がない。大島映画にはそういう映画がかなりあるが、この映画はその最初の例だろう。失敗のもう一つの原因は、主演の炎加代子に桑野みゆきほどの強い魅力がなかったことだろう。それでも随所にエネルギーが感じられ、映像的に見所は多い。「釜ヶ崎映画」の代表作。

 そして60年3本目の「日本の夜と霧」。この映画は社会党の浅沼稲次郎委員長暗殺事件のあと、4日で上映中止となった伝説的な政治映画である。映画で安保闘争の総括というか、50年問題以後の日本共産党の官僚的体質を(「より左」の立場から)批判しつくしている。世界のメジャー映画会社で作られた一番過激な新左翼映画だと思う。安保闘争で結ばれた渡辺文雄と桑野みゆきの結婚式で、新旧の闖入者が大演説を繰り広げて、新郎新婦および司会者夫妻(吉沢京夫と小山明子)の大批判大会が始まってしまう。大島「世代映画」の代表作であり、またプレ「儀式」とも言える。
 (「日本の夜と霧」)
 技法的には極端な長回しで有名だが、ほとんど実際の演説会をパン(カメラの平行移動)しながら一気に撮影している感じがする。映画内で時間が前後するから(それとフィルムで一度に続けて撮れる時間に限界があるから)、仕方なくシーンが変わるだけという印象だ。そういう映画を撮りたかったんだろうが、会社にちゃんとしたシナリオを渡さず急いで撮ってしまう策略でもあった。その結果、異様なまでの緊張感に満ちた映像空間が出現した。結婚式や同窓会などで傷つけ合う映画はかなりあるが、この映画は世界的にみて相当に激しい。

 映画としては「倒叙ミステリー」みたいな語り口が面白く、何回見ても飽きない映画だ。この映画の成功は、いかにも党官僚めいた空疎な演説がうまい吉沢京夫の演技にある。「高尾の死をもたらしたのは、米日反動ではないのか」などという学生寮での演説は、問い詰められた時の開き直りとしてのタテマエ用語使用法として「実践的意義」さえある。(ちなみに、「誰がベルを押したのか」という謎は最後まで解かれない。回想中の映像を信じるならば主要登場人物の誰もベルを押せないと思うが…。)

 多少の知識がないと判りにくいから、簡単に書いておきたい。共産党の50年問題(国際的批判から党が分裂した)は長くなるので省略。60年安保闘争の「主役」「全学連」(全日本学生自治会総連合)では、共産党から離れたブント(共産主義者同盟)が1959年に指導権を握った。「全学連主流派」(ブント)が国会突入をめざす立場で、映画の中では津川雅彦演じる学生。「反米愛国」を唱える共産党は、アイゼンハワー米大統領来日阻止を掲げ、秘書のハガチーが羽田空港に来た時に取り囲んだ(ハガチー事件)。国会デモでは「流れ解散」を主導して、全学連主流派から強い批判を浴びた。映画では「川崎」や女子学生の大部分がそっち。新婦の桑野みゆきも初めは共産党系だったが、だんだん懐疑的になっている。新郎渡辺文雄は学生時代はバリバリの党員だったが、卒業して新聞記者になりスターリン批判、ハンガリー事件をきっかけにして党の体質を批判するようになった。

 新安保条約は60年5月19日に衆議院で強行採決された。憲法の規定により参議院の決がなくても、6月19日には成立する。この「強行採決」が民主主義に反するとして、安保以上に「民主主義の危機」として反安保闘争は大きな盛り上がりを見せた。6月15日に東大女子学生、樺美智子が死亡し国民に大きな衝撃を与えた。この映画にも、その報を聞いて黙とうするシーンがある。「警官隊も心あるものは鉄かぶとを取れ」と呼びかけている。ヘルメットと言わず、鉄かぶとと言うところに時代を感じる。映画で何度も出てくる「若者よ」と始まる歌は、その名も「若者よ」。ゾルゲ事件追悼集会のために1947年に作られた。作詞はぬやま・ひろし。本名は西沢隆二で、60年代後半に中国派として党を除名された。「学生の歌声に」と始まる短調の曲には「われらの友情は、原爆あるもたたれず」という印象的なフレーズがある。これは「国際学連の歌」で、いかにもロシア民謡風に暗い情念を歌いあげる。学生団体の国際組織があったのである。今でも一応組織が残っているらしい。

 「日本の夜と霧」の上映禁止に怒った大島は、ちょうどそのころ挙行された小山明子との結婚式を、映画の再現のような大演説大会にしてしまい、そのまま松竹を退社した。以後、しばらくの間、他社またはテレビで活動する。家計は同時に退社した小山明子がテレビ出演で支えたようだ。まず作った「飼育」は、大江健三郎の芥川賞作品の映画化。配給した大宝映画は、新東宝が倒産した後に数カ月だけ存在した幻のような会社である。戦時下のムラ共同体を批判した作品で、映画の出来そのものだけで言えば初期の最高傑作かもしれない。戦争末期、米軍機から墜落した黒人兵を捕虜として「飼育」する山奥の村の、共同体内の階級矛盾、大人と子供、男と女などの相克の中、悲劇に向かって進んで行く様を暗い画像の中に描いている。
 (「飼育」)
 原作は子どもの目で書かれているが、映画は共同体を俯瞰する。長回しという特徴は変わらないが、あまり方法的な突出はない普通の「文芸映画」。「本家」を演じる三国連太郎他、沢村貞子、山茶花究、加藤嘉、岸輝子など戦後日本映画の演技派が結集した。60年の3作では、新しいエネルギーを感じる映像があるが、この作品では日本社会の自由圧殺、責任不在の体質が重く描かれている。ムラ共同体の分析という点で今村昌平的な主題だが、「重喜劇」にならない。当時の大島の心境の反映でもあるだろうが、これはこれで重要な戦争映画(「銃後」を描く映画)だと思う。

 東映に招かれた作った大川橋蔵主演の「天草四郎時貞」は、明らかに失敗した歴史映画だと思う。特に奇をてらった実験的失敗作ではなく、通常の意味で脚本と演出のねらいがよく伝わらない「普通の意味での失敗作」。民衆蜂起という意味では「忍者武芸帳」に、美少年をめぐる歴史秘話という意味では「御法度」に、それぞれつながる視点がある。しかし、日本には例のないキリスト教と民衆という問題が判りにくい。誰が作ってもうまく行かない題材ではないかと思う。(完全な伝奇物として作る「魔界転生」などは別として。) 
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無情なカネミ油症判決

2013年03月23日 00時20分08秒 | 社会(世の中の出来事)
 3.21に福岡地裁小倉支部であったカネミ油症損害賠償裁判の判決は、無情きわまりない、常識に反する判決だと思う。この判決を考えるためには、カネミ油症事件の歴史を簡単に振り返る必要がある。水俣病などに比べても知名度が低く、かなり昔の事件なので知らない人が結構いると思う。この問題はかなり複雑だけど、川名英之「検証 カネミ油症事件」(緑風出版、2005)が、とても判りやすく本質を伝える本だった。

 カネミ油症というのは、1968年頃にカネミ倉庫が製造販売した米ぬか油を食用した人が、顔面などの皮膚異常、頭痛、しびれ、肝機能障害などが続き日常生活を送れなくなった日本最大の食品公害事件である。1万4千人以上が被害を訴えたが、認定患者は1900人程度にとどまっている。原因は製造過程でカネカ(鐘ヶ淵化学)が製造したPCB(ポリ塩化ビニール)が混入したことである。PCBは構造的に安定した非常に便利な化学物質と言われて当時はいろいろ使われていたが、この事件をきっかけに製造中止になった。さらにその後になって、PCBが過熱される過程で、ダイオキシン類に変化したことが明らかになった。ダイオキシンというのは、ベトナム戦争の枯葉剤被害で知られるが、同時期に日本でも大規模なダイオキシン被害が発生していたことを知らない人が今でも多い。

 カネミライスオイルと言う製品は、安くて美味しいということで、九州北部ではかなり売れていたらしい。特に五島列島の島々に患者が多発している。当初は皮膚が黒ずむ被害が大きく取り上げられて、ダイオキシンによる肝機能低下などは判っていなかった。人間に被害が出る前に、養鶏用飼料に使われた油で49万羽もの鶏が死ぬというダーク油事件と言うものが起こっている。これは米ぬか油製造過程で出る黒っぽい油かすなどを再利用したものだというが、やはりPCBが混入したのである。当然これを農林省は把握していたが、厚生省に情報が伝わることはなかった。この「縦割り行政」の弊害が、「国の責任」と言えるかどうか。カネミ倉庫に責任があるのは間違いないが、さらに物質を製造しただけのカネカに責任があると言えるか。この事件にはこういう責任問題がつきまとった。カネミ倉庫は小さな会社で、被害者救済に尽くせる財源があるかどうかと言う問題もあったからである。

 被害者は1970年に、カネミ、カネカ、国の三者を相手取って裁判を起こした。その後も何回か裁判が起きている。最初は国の責任が認められなかったが、1986年に福岡高裁で国の責任を認定、仮払金の支払いも認める画期的判決が出た。被害者一人当たり300万円ほどの仮払金が支払われたが、以後の第2陣判決では認められず、最高裁段階での訴訟でも逆転敗訴の可能性が高まった。そのため、原告団は苦悩の中で、敗訴の判決を得るよりも訴訟以前の段階に戻す方が良いということで、1989年に訴訟取り下げに踏み切った。その結果、仮払金の返金義務が生じてしまった。しかしカネミ倉庫からはまとまった賠償金が支払われず、日々の治療費に苦しむ被害者のほとんどは、その段階で仮払金の大部分を使ってしまっていたのである。国もすぐには強制取り立てはしなかったが、この訴訟取り下げで社会的にはカネミ事件は終わったと思われ、以後何十年も忘れられてしまう。そして病気に苦しみながら生活苦から自殺した被害者の子どもに対して、返金支払いの義務がのしかかると言った大変な苦しみが続いてきたのである。

 この問題は21世紀になってようやく取り上げられるようになり、また被害の大きさ、ダイオキシンによる回復しない被害、離島に住んでいたり東日本に移住したため知らなかった被害者など、様々な問題があることが判ってきた。その結果、2004年に認定基準の見直しが行われた。また2007年に国の仮払金請求を放棄する被害者救済法が成立し、被害者の救済に関しては、昨年の21012年8月29日に「カネミ油症患者に関する施策の総合的な推進に関する法律案」が成立した。国が備蓄米の倉庫としてカネミ倉庫を指定し、その委託費を優先的に被害者の医療費などにあてるという法律である。

 さてようやく、今回の裁判。今回の原告は、大部分が2004年の新基準で認定された被害者であるという。カネミの責任は認めたが、賠償請求権が除斥期間の20年を過ぎていて、訴えは無効であるという判決である。民法では不法行為への賠償請求に訴えの期間を設けている。それは当然で、忘れていた借金を何十年もたってから訴えられても困るし、子供の頃いじめられたと老人になってから訴えても証拠を調べようがないから裁判にならない。しかし、この問題を厳格に考えすぎると、訴えられない事情があった人が不当に不利になる。ハンセン病国賠訴訟では、療養所への隔離そのものは何十年も前でも、被害は「らい予防法」廃止(1996年)まで続いていたと認定したから元患者側勝訴の判決になった。

 自分の症状がカネミ油症であることが認められる前に裁判を起こせる人があるわけがない。もしあっても、そのときは認定されていないという理由で敗訴するに決まってる。新規に認定基準が出来て、カネミ油症と認定された2004年が、除斥期間の始まりというのが、常識ある人の判断と言うべきだ。この裁判官は、裁判を起こすということがどれほど重いことか、判っていないのではないか。20年以内に裁判に訴えることができたと本当に思っているのだろうか。今も健康被害が続き、ある意味では「今も現在進行中の被害」があるのである。どうして「権利が除斥」されてしまうのか。目の前の被害者の苦しみが判らないのだろうか。

 司法改革が進められたが、全然裁判が変わった感じがしない。当然だろう。裁判員制度を作ろうが、司法試験を変えようが、「裁判官の官僚的意識」という一番大事なことを変えないのなら、裁判は変わらない。それを変えるのは、「司法の一元化」なんだろうと思う。つまり、今は司法研修を終える修習生を、裁判官、検察官、弁護士に希望と選別で選んでいく。これをやめて、全員を弁護士とするということだ。弁護士を10年程度務めた中から、裁判官、検察官を希望により選任する。弁護士として、刑事事件の被告と接し、各種民事事件に関わった経験を持つ人だけの裁判官にするというやり方である。本格的に考える必要があると思う。
*2014年2月24日、高裁でも請求棄却の判決が出た。原告側は上告の予定。
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伊豆をめぐる旅

2013年03月22日 01時23分22秒 |  〃 (温泉)
 春直前に伊豆へドライブ。春休み前で安いプランがあったからだが、梅と桜の境目の時期だった。伊豆は東京から行きやすいから、初めは親に連れられ、学生時代はゼミ合宿、勤めれば職員旅行などとずいぶん行った。個人でもずいぶん行っているが、小さい時から本当によく行ってる日光に比べれば、伊豆箱根、軽井沢などはあまり行ってない。大体回っているんだけど、近年は東伊豆に伊豆大川温泉ホテルという素晴らしい宿を見つけて、ここばかり行っていたが、退職後はしばらく行ってない。

 最初の日は、中伊豆の湯ヶ島温泉というか、湯ヶ島から少し離れて木太刀温泉と称している木太刀荘。湯ヶ島は本当に久しぶりで、自分では夫婦で行ったつもりになっていた。嵯峨沢や修善寺は行ってるので、勘違いしていた。学生時代に2回くらい来たような気がする。ここは川端康成が「伊豆の踊子」を執筆した場所である。天城山のふもとで、昔最高峰の万三郎岳や八丁の池に登りに来た。だから昔のガイドがあるので持っていったが、見比べると旅館がずいぶん減っている。木太刀荘の川向かいにあった湯川屋は、梶井基次郎が泊った宿で記念の展示室があると書いてあったが、つぶれていた。イノシシ村という施設も昔あったはずだが、もうなくなっている。

 たまたま来る前に読んだ新聞に湯ヶ島小学校が今年限りで閉校になると出ていた。井上靖が湯ヶ島小学校を卒業し、自伝的作品の「しろばんば」などによく出てくる。昨年公開された「わが母の記」という名作映画でも、湯ヶ島が印象的に出てきた。(ロケ地めぐりのガイドが観光案内所に置いてあった。)「しろばんば」の散歩道も整備されているので、初日は湯ヶ島文学散歩。まずは井上家の跡地が公園になり、「しろばんば」の碑が立っている。そこから少し歩くと、小説で「上の家」と名付けられた井上本家。
  
 そこから奥の方に歩くと階段があって、小学校の敷地に出る。井上靖の詩碑があり、そこまでは入っていける。校庭から小学校を見る。校庭が広い。翌日の朝だが、正門の方へ行くと、そこにも「しろばんば」の碑が立っていた。湯ヶ島温泉の奥山が熊野山で、そこに霊園があって井上靖が眠っている。せっかくだから、かなり車が大変だったが行ってみた。井上靖は「敦煌」「楼蘭」などシルクロードをめぐる歴史小説や鑑真を描く「天平の甍」など数多くの歴史小説を中学時代に読みふけった。僕の感性に深い所で大きな影響を受けたと思う。大好きな作家である。
   
 さて木太刀荘は、家族風呂を入れて7つの風呂があり夜と朝で男女を入れ替えるので、みな入ることができた。渓流を望む露天風呂や洞窟風呂が両方にある。湯はザブザブと出ていて気持ちがいい。夕食は鯛の姿盛り(甘えび、イカそうめん、まぐろ、サーモンのお造り)、イセエビの陶板焼きと豪華に出て、なんと入湯税入れて八千円ほどという信じがたい値段である。大いにおすすめ。部屋はすべて世古峡に面した渓流ビューで、風呂はないがトイレはウォシュレット。広さもまあまあ。世古峡は下りていけるので翌日歩いてみる。その渓流沿いから見た宿の全景を載せておく。道路に面した入口が5階で、風呂は一番下の1階という作りである。
   
 次の日は湯ヶ島を少し回った後で、滑沢渓谷の辺りで車を停める。そこから「太郎杉」へ行ってみる。片道30分程度の適度なハイキングコース。入り口近くに、井上靖「猟銃」の文学碑も。ずいぶん碑がある。渓流沿いにさかのぼっていくと、突然大きな杉が出てくる。県の天然記念物だが、国指定の千葉県清澄寺の大杉と比べても遜色ないのではないか。ビックリするような巨樹だが、写真では感じがあまり伝わらない。
  
 さて歩いて戻って少し疲れたが、まだまだ。次は「旧天城トンネル」。これが行ったか行かないかがよく覚えていない。「伊豆の踊子」が通り、松本清張「天城越え」の舞台となり、映画化され、石川さゆりの歌になった。清張や歌の碑がないのは何故だろうか。今はそっちで有名だろう。本来は1907年に開通した「天城山隧道」という重要文化財指定の産業遺産である。昔来たようにも思うが、本や写真のイメージかもしれない。間違いないのは車では来てないことで、旧道に車で乗り入れたら結構大変だった。何とか着いてみると、車が今も旧トンネルを通れるけど、せっかくだから真っ暗い中を歩いてみた。観光客はいるのに、案外皆歩いてない。このトンネルはまっすぐで、500メートルもない程度だが格好のウォーキング。立派な石組みがよく見られる。
   
 そこから南へ下り、峰温泉で蕎麦を食べ、下田を抜けて、石廊崎へ。ここは昔夫婦で来て「ジャングルパーク」に入った。その後車で一回通ったけど、まあいいやと通り過ぎた。今回調べたら10年も前につぶれてた。全体的に伊豆の観光が大変なような気がした旅である。団体旅行の本場、家族で行く大施設という、東京近郊で一番栄えてた特徴が、今は裏目に出ているのだろう。石廊崎は雨が降ってきて、下賀茂の方に回って、下賀茂熱帯植物園に行ってみた。行けばなかなか面白い。園の中に猫がいたのがご愛嬌。客は他に一組だけ。春分の日で祝日なんだけど。花は咲き乱れ、トロピカルフルーツがなっている。スターフルーツがなっていたし、一番珍しかったのは青い房のようなものがいっぱい垂れ下がっていることである。ルソン島原産の「ヒスイカズラ」と言うそうだ。本当にヒスイのような色である。サボテンの「盆栽盛り合わせ」も色取り取りできれいだった。買わないけど。
  
 宿は「休暇村南伊豆」。豪華バイキングの夕食、広い部屋はいいんだけど、風呂に行ったらプールかと思う塩素臭にガッカリ。休暇村は日光湯元によく行くので、50歳以上の会員になっている。関東周辺の休暇村はかなり行ってるが、設備がよく食事も美味しい。安心して利用できるので、どこも子連れや高齢者でいっぱいである。それはいいんだけど、大量に来るからか、温泉に循環が多いのが残念だ。伊豆の湯は単純泉が多く、泉質では特徴がない所が多いので、源泉掛け流しの宿が多くなって欲しい。ところで、ここでビックリ。食事の後でロビーで新聞を読んでいたら、部屋に戻るときエレベーターで大学時代のゼミ同期生夫妻が乗り込んできた。こんな奇遇があるんだな。もっとも昔北海道に行くフェリーに乗ったら、同じ学校の教員にあったことさえあるんだけど。教授の定年パーティで会ったから、まあ何十年ぶりと言うことでもないけれど。

 3日目。昨日行けなかった石廊崎(いろうざき)、というか本当は奥石廊崎へ行きたい。ちょうど晴れてきた。石廊崎を通り過ぎ、「ユウスゲ公園」の駐車場がある。これが大正解で、ここに停めて少し登ると、伊豆七島を一望の大展望。反対側が奥石廊崎で、真っ青な海に岩が点在し実に美しい。海がこんなにきれいなのは、昔見た北海道の積丹半島、沖縄の宮古島、小笠原などに匹敵するのではないか。他は行きにくいから、東京の近くで見るにはここが一番だ。こういうのは海や気象条件にもよるので、たまたま素晴らしく恵まれていたということだろう。そこから少し行くと、あいあい岬のジオパークビジターセンター(と言うには中身がまだ整備されていなかった)があって、そこからの眺めも素晴らしかった。「ジオパーク」(大地の公園)というのは僕はとてもいいと思う。地層や化石など見るととても面白い。ジオパーク認定の前に、新潟の糸魚川を旅したことがあるが、ものすごく面白かった。今高校で地学や地理が授業で置きにくくなっている。この世界の果ての、地震や台風が毎年来る国で、それはまずいでしょう。大地の活動への関心を子どもの頃から呼びおこすきっかけになるといい。
   
 ここから一路西伊豆を北上。前に行ってるから、松崎なんかも素通り。堂ヶ島、土肥を経て修善寺へ出て、沼津へ。このあたりはいつも時間切れで通り過ぎてしまうんだけど、今回は時間があったので、道沿いの「沼津御用邸記念公園」に寄ってみた。日光の田母沢御用邸も公開されている。時期的に近いので似ているが、こっちは空襲でほとんど焼けたという。病弱だった大正天皇のために1892年に作られた。当時の道具などはかなり残っていて、興味深い。まあ、時間もなく簡単に見ただけだが。
  
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ベルリン・アレクサンダー広場

2013年03月18日 23時05分46秒 |  〃  (旧作外国映画)
 「ベルリン・アレクサンダー広場」をユーロスペースで上映中。西ドイツ(当時)のライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督が1980年に作ったテレビ映画、1929年に出版されたデーブリンの原作を映像化した13話とエピソード。15時間の超大作である。噂にたがわぬ面白さ。ファスビンダーは作品が多すぎて見てない映画が多いが、これが代表作という人もいるのがよく判る。順番に見ないと判らないから土曜は12時から全4回続けて観た。入れ替え時間がほとんどなく、朝食べた後8時半ころまで食べられず。しかも最初の2回は立ち見で、通路に座ってみるというテント芝居かという感じ。だんだん座れるようになってきて、日曜日は土曜日の半分ほどの人数に減ってきた。でもその人々は僕と同じく、土日で全部見てる人だろう。僕は全回鑑賞券を買っていたので、順番に全部見ないといけない。最後のエピソードは、22日のレイトショーで見て、ようやく全話完結である。

 テレビ映画というのは、テレビ放映向けに製作された映画で、テレビドラマと映画では画質が大きく違ったし、茶の間で子どもも見るかもしれないテレビでは配慮がいる。画面が小さなテレビではロングショットは避けないといけないので演出上の違いが出てくる。でも、映画というソフトはテレビ放映に重要だから、テレビ局が出資して放映目的に映画を作ることは結構ある。70年代では「フェリーニの道化師」とかスピルバーグの「激突!」などは、好評のため日本で劇場公開されてベストテンに入選している。日本でも小林正樹監督の「化石」はテレビ向けに作られた後で、再編集されて劇場公開された。中でもファスビンダーのこの作品は、テーマ的にも芸術的にも長さの点でも重要な作品と言われてきた。今までもアテネフランセ文化センターなどで公開されたことがあるが、今回ドイツでデジタル・リマスター化され、日本でもソフトが発売された。元がテレビなんだから、DVD鑑賞でもいいと思うけど、まとめて劇場で見る方が安いし、一度に見る気になる。

 僕がこの映画を見たかったのは、昔からワイマール共和国時代のベルリンの「爛熟」した都市文化に関心があったから。例えばマレーネ・ディートリッヒとか映画「カリガリ博士」とか。その怪奇と幻想の世界を栄養にして、猥雑で混乱した文化への対抗としてナチスが支持されたという解釈がよくされていた。70年代には、今振り返るべきは「30年代」か「20年代」かという、今では不毛の論争みたいなものもあった。原作はドイツ最高にして唯一の都市小説という話で、ナチスの政権獲得直前の騒然、雑然とした情勢が反映されているのは間違いない。ただし発表は1929年でナチス後は出てこない。デーブリンはユダヤ人だったから33年にはパリに亡命するので、当然である。原作はぼう大で読んでないけど、映画に関しては都市の街頭を描くというより、都市下層民衆の愛と犯罪を描く大ロマンという感じである。

 光と影をくっきりと印象付ける撮影抒情的な音楽に合わせて、主人公フランツ・ビーバーコップの流れゆく人生が始まる。フランツは恋人のイーダを殴り殺し、4年間の刑務所暮らしを終えて今出所した。そこから「まっとう」に生きることを誓いを立てながら、時には犯罪に関わり、友人を信用し過ぎて間違った道を歩む。時には女たちを渡り歩き、酒におぼれ、ナチスの新聞を配ったり、左翼の集会に出たりする。街頭の商売をやるときもあるが、大体は失業者で、戦間期ドイツの最大の問題だった失業をめぐる話でもある。だんだん友人と思っていた犯罪集団との関わりで身を滅ぼしていく様が冷徹に描かれている。一端は車から落とされ片腕を失うが、本人は仕方なかったと考えてしまう。主人公フランツを演じるギュンター・ランブレヒトという俳優の、心の内面のないような演技が素晴らしい。何度かの出会いを経てフランツとの関わりが続く愛人のエバにハンナ・シグラの名演。それより女をとっかえひっかえし、フリッツが最後まで信じ続ける悪党のラインホルトを演じたゴットフリート・ヨーンが正体をつかめない悪党の姿をリアルに演じて圧巻である。

 1話が82分、エピソードが111分の他は、2話から13話まで大体58分か59分。こういうのがテレビ映画だが、その分話は長くなるが各回に起承転結めいた流れがあるから、退屈しないで見られる。ファスビンダーは演劇は映画のように演出し、映画は演劇のように演出したという。演劇は日本では見られなかったが、映画を見る限りなんとなく納得できる感じがする。今回はテレビ映画なので、演出が判りやすい。ただ中身は犯罪やセックスや飲酒の場面の連続で、テレビだからどぎつくはないんだけど、だいぶ西ドイツでは論議になって深夜にしか放送できなかったと書いてある。原作はやはり都市小説らしいけど、このテレビ映画はほとんど室内劇として作られている。最後のエピソードだけが、幻想的と言うか、フランツの夢の世界でフランツの半生を裁く冥界めぐりになっている。とにかく面白かったけど、主人公が友人関係を学ばずにだんだん悲劇が近づいてくるのが見ていてわかる怖い映画だった。
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「何者」2

2013年03月18日 20時24分21秒 | 本 (日本文学)
 朝井リョウ「何者」について書いた後で、なんだかまだ書きたりないような気がした。この小説はいろいろと語りたくなるところが多い。昔だったら「読書会に最適」という感じだけど、今では「読書会って何ですか?」と言われるのだろうか。今は「ビブリオ・バトル」って言うんでしょ、とか。何で本を読んだ後でまでバトルしなくちゃいけないのかな。あれこれおしゃべりするだけでいいじゃないか。

 僕はこの小説と「横道世之介」を読んで、ケータイやネットは若者を不幸にしたと思ったけど、こう言ったからって、インターネットを無くすわけにはいかない。僕もインターネットという場を通して書いてるわけだし。つまり時代というか社会というか、変わってしまった後では元に戻れない。電気、電灯というものが出来てしまった後で、それを使わないで夜は暗いまま早く寝るという生活はできない。何でもそうである。インターネットというものを使って企業が就職情報を広報する以上、学生側が見ないという選択はできない。その結果、大量に応募することができるようになり、大量に落ち続ける(逆に何社も内定を貰う学生もいる)ということになったとしても。学生側にはインターネット環境を使うかどうかの選択は許されない。ツイッターでいちいち就活戦線を経過報告するかどうかは自分で決められるが。

 だから、その渦中の学生には「インターネットをうまく使いこなす」ということが求められるわけだけど、これでは当たり前すぎる。中にいると、その環境自体を客観的に見ることができない。大学の最後の年は、今まで勉強してきたことの集大成の年であって、本来はその卒業論文なんかの方が重大なはずである。そしてそれを受けて、就職が決まるべきはずなんだけど、今は卒論書く前に大学院の試験さえある時代だ。僕にはそれが本当に不思議で、卒論見ない段階で大学院に受け入れ可能かどうかが何故わかるんだろうか。しかし、そういう時代になっている以上、学生の方はそれに自分の方を適応させないとやっていけない。

 若い時期は恥ずかしいことをいっぱいしてしまう。「勘違い」が多いのである。小説の中の登場人物も、ずいぶん「勘違い」が多いと思うけど、でもそれは誰もがそうなんで心配する必要はないと思う。それを若い人同士が責め合ってしまっては、ものすごく消耗するだろうと思う。お互いに攻撃的になるのも若いからで、家庭環境も違えば個人の能力、容姿なんかも違うわけだし、お互いの羨望、嫉妬なんかも避けられない。でも、そういうのが完全にないのがいいのかどうか。若い時は「勘違い」がエネルギーの基であり、どんどん好きなことを言い合いながらやりあえばいい。だから、この小説の中の登場人物を、僕はごく一部しか知らないので、あれこれ決めつけるように言いたくない。10年、20年すれば、まただいぶ違ってくるし、何がいいか判らない。「観察してるだけじゃダメ」という問題が最後に出てくるが、僕は「観察者」は世の中に絶対に必要だと思う。舞台にたって演じたり歌ったり踊ったりすることだけが重要なんだろうか。演劇評論家、音楽評論家、舞踊評論家…という人が交通整理して批評することで、現場で活動している人が、自分の場所を見つけられるんだと思う。どんな仕事でも、内部に「評論家」がいないと、うまく回らないのではないか。問題は「深い観察か」「浅い観察か」ということの方にあるんじゃないか。

 もう一つ、この小説の中で、大学出たら全部自分で人生を作って行かないといけないんだ、今までみたいに学校に守ってもらうわけには行かないんだよ、みたいなことを言う。それにみんななんか納得してるんだけど、今の学生はこう思うんだと僕はビックリした。そうか、この中では就活の模擬面接で大学の就職部のお世話になりましたという話もあるし、大学生でも「守ってもらってる」のか。確かに私立大学では就職に力を入れないと経営に響くし、得意分野を作って面倒を見てくれるらしい。公務員や教員なんかの試験もずいぶん細かくケアしているらしい。いやあ、そう言う時代なんだ。何十年か前は、大学に入った段階で、親や学校の世話はないものと思っていた。もちろんものすごい大金持ちなんかは別だけど。確かに大学生段階では、学費は親掛かりの学生がほとんどだと思う。だから完全に独立しているわけではないけど、もう親は入学式にも卒業式にも来ないし(子供も招待しない)、大学も必要なガイダンス以外はない。大体高校の進路指導なんかもとくにないし。自分の行きたい大学に願書を出して、試験で決まるだけだし。推薦入試というものは、学校推薦はあったけど、他の制度はなかった時代である。だから大学へ入った段階で、もうほとんど公的制度、または温かな配慮の世界から放り出されていた。それは「横道世之介」なんかでもまだそういう感じ。大学でさえ変わってしまったなんだなあ。それはこの20年間の非常に大きな変化ではないかと思う。
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「横道世之介」と「何者」-青春小説を読む

2013年03月17日 00時13分04秒 | 本 (日本文学)
 吉田修一「横道世之介」(文春文庫)が映画化され、今公開中。見てから映画と一緒に書こうかと思ってたんだけど、「何者」を読んだので一緒に書いておく気になった。映画は沖田修一監督ということで、僕も「修一つながり」で是非そのうち感想を書きたいと思っている。その原作の「横道世之介」なんだけど、これは素晴らしく面白い青春小説ですね。これは今大学生をしてる人には皆読んでおいて欲しい。

 吉田修一(1968~)という作家は、2002年に「パークライフ」で芥川賞を取った頃は、新鮮な感覚に魅了されてかなり読んだ。「最後の息子」とか「パレード」とか。その後しばらく読んでなかったが、「悪人」が評判になって読んだら大傑作。映画化された「悪人」も傑作だった。「横道世之介」は2009年に出されて、これも評判になったけど、文庫になってからでいいかと後回し。書名を見ただけでは、どんな小説か判らない。「世之介」って言って判る人がどのくらいいるか、これは井原西鶴「好色一代男」の主人公の名前である。そんな名前の人間が現にいるとは思えないから、これはニックネームだとばかり思ってたら、親に本当にそういう名前を付けられてしまった少年の物語だった。長崎の出身という設定も、他の多くの小説と共通するけど、作者と同じである。

 横道世之介、18歳。東京の大学に合格し、上京して、マンションに着いたところ。そこから始まって、大学1年生の物語。1980年代半ばという設定も、作者の実体験を反映したものだろう。そこから友人ができ、自動車学校に通い、交際らしきものも始まり、夏休みに帰省。新学期となり、誕生日を迎え、学祭があって、クリスマス。こうして一年がだんだん経っていく。という時間軸に沿った物語の中に、突然「未来の物語」がインサートされる。これが最初は何なんだろうと思いながら読んで行くと、ラストの驚くような深く心動かされるエピソードにつながっていく。見事である。それぞれ実人生の中身は違っても、大学1年生が春から夏、秋から冬と季節を巡って生活していくことは同じだから、これは大学へ行った人なら皆何らかの心当たりがある体験談が多いのではないか。

 世之介が付き合うお嬢様の話は抜群に面白い。帰省先でぶつかる出来事も心に残る。全体として、バブル直前の東京の学生生活が浮き上がってきて、懐かしい。どんどんスラスラ読める点では抜群の読みやすさで、それも大学1年だけを対象にしているからだ。「初めて」が多い時期の新鮮さ。そこに突然「未来」が割り込んでくる。青春のある時期に選択したことが、そのまま人生を決めてしまったり、いやいや人生はいろいろ回りまわっていたり、ちょっとした出会いが人生を変えてしまったり…。そういうことが人生にはあるんだという、当たり前だけど実際の人物で示されると心に刻まれる話がいっぱい。この時代は、まだ携帯電話もインターネットもなかった。なくて不便だったかもしれない。そういうシーンも多い。今ならケータイですぐ連絡できるのに…。でも、それがそんな不幸だったとは思えない。なければないで、手紙書いたり、直接会ったりすればいいんだし。

 そういう意味で、朝井リョウ「何者」(新潮社)を読むと、ケータイやネットがあって今の若者はなんて不幸なんだろうと思った。ツイッターで発信した言葉がいっぱい詰まった小説だが、その結果お互いに傷つけ合う。その時間で本読んだ方が絶対いいと思う。この小説は、今期の直木賞受賞作だが、直木賞というのはエンターテインメント作家に与えられる賞のはずだが、この小説はなかなか「面白い」とは言いにくい。相当に「イタイ」話になってて、お互いに攻撃し合うさまが楽しく読める感じではない。この小説を一言でいうと、「就活のフォークロア」ということになる。いまどきの「シューカツ」って、こういう風になってるんだと、オジサンには初めて知ることばかり。就活にまつわる都市伝説みたいものをまとめた本と言える。もっと言うと、孤島「シューカツ島」に流された男女4人+1人がどう関係が変化していくかという社会実験をやった結果、傷つけ合う関係が広がったというような小説である。

 構成としては「叙述ミステリー」みたいな感じで書かれていて、そこはうまいし、最後にちょっとビックリする。でも、僕にはよく判らない部分が多い小説だった。自分の「公式ツイッター」の他に、「裏ツイッター」みたいなのを書いてる人が何人もいて、実名では当たり障りなく書いておいて、匿名の方で容赦なく書く。これが判らない。どうして書くのか。それに、演劇やってたり、音楽やってたり、留学したりとかの学生ばかりで、しかも皆民間企業志望である。民間企業志望の人が集まって助け合おうかという最初の発想があるので当然なんだけど。でも公務員とか、大学院という人がいない。そこにある種の偏りが出てくる。僕はここで否定的に言われてしまう学生のありようは判らないではないけど、決して否定的にのみ考える必要はないと思う。今の就活に疑問を持つ方がまともだし、企業向きではない人材も、公務員や研究者やNPOなんかの仕事ではかえって活躍できるということがあると思う。家庭的事情で就職しないといけない人も多いと思うけど、そこは「横道世之介」を併読して欲しいと思う。20年もすれば人生はいろいろ変わる。何も大学卒業時だけが人生の選択ではない。

 だから「何者」という小説で、判ったように登場人物が語っていることはちょっと「青臭い」。その時期を通り過ぎた人なら誰でも知ってるような話をお互いに交わしている。しかも全部空気を読んで発言し、行動しないといけない。これでは疲れるだろうと思うと、現に疲れている。そういう「イタイ感じ」を自覚的に作ってるところと、あまり自覚しないで書いているところがあるんではないかと思う。だから単純に面白いと思える小説ではなかった。

 どっちの小説にも言えることだが、授業や本の話が出てこない。学部的にそうかという気もするが、理科系はだいぶ違うと思うし、文系でもこういうところばかりではないだろう。歴史系なら、歴史の本や歴史の話をしないことはないはずだ。それに今は授業の出席も厳しいし、レポートに追われたりという話もないとおかしい感じがする。卒業なら卒論はいいのかな。現実の大学生は、バイトもしてるけど、それなりに専門の勉強をしてると思うけど。今の学生、昔の学生、それに大学には行かなかった人、それぞれこの2つの小説をどう読むだろうか。
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我孫子市立中のミス、千葉県の高校入試

2013年03月15日 21時39分49秒 |  〃 (教育行政)
 学校が小説や映画に出てくるとき、いやあそれはないですねという場合も多い。岩井俊二監督の「Love Letter」(1995)という素晴らしい映画があったが、この映画ではある中学の2年4組に、藤井樹(いつき)という同姓同名の男女の生徒がいたことから、長い時間を掛けたドラマが始まる。それはロマンティックな物語で面白いんだけど、でもこの学校はなんでクラス分けでこの二人の生徒を分けなかったの?まあ、そういう疑問を持っても、このフィクションは十分に楽しめるけど。でも4組まであるのに、同姓同名の生徒を同じクラスにする学校は、全国どこにもないだろう。「藤井樹」は珍しいけど、「田中ユカ」とか「佐藤ユミ」とか、ユカやユミの漢字表記は違っても音にすると同じという生徒は、どこの学校にもいる。いない方がむしろ少ないだろう。そういう場合、選択教科の問題があったりしない限り、まず最初に別クラスに分けるだろう。

 風間一樹という若くして亡くなったミステリー作家がいるが、「男たちは北へ」という傑作がある。この小説は自転車で国道4号を北上する男が、自衛隊の秘密とからんでくるという話だが、同じように自転車で旅をしている少年も出てきた。中学の教員が高校入試の願書を出し忘れて都立高校へ入れず、高校浪人しているという設定である。これがおかしい。東京では、中学教員がまとめて願書を出すということがない。僕が受験した1971年の時も、自分で願書を出しに行った。もちろん自分が教員をしていた83年以後も、そんな学校はどこにもない。それ当たり前だと僕は思ってきたが、いつか千葉県で中学教員が願書を出し忘れたというニュースを見たから、それが話の基にあるんだろう。この千葉県の高校入試をめぐるミスが、今年も報道されている。

 千葉県我孫子(あびこ)市の中学が内申書作成にあたってミスがあり、合格するべき生徒が落ちていたという。この問題を取り上げて、何が問題なのかを考えてみたい。この事態を生んだ原因は、20代の男性教諭が1人で1年の成績を整理し、転記する際に数学の成績を理科、保健体育の成績を技術家庭に誤入力したことにあると報道には書いてある。違うでしょ。「誤入力」は誰でもある。私は絶対にないという人はどこにもいないでしょ。だから、このような重大な仕事の場合は、二重三重のチェック体制を取るはずである。この学校だって、全然チェックしなかったわけでもないだろう。でも打ち込んだ本人任せのチェックか、どういう体制が判らないが、チェックが不十分だった。「誤入力」ではなく、「チェック体制の不備」が原因である。チェック体制が整っていなかったか、あるいはどういうチェックをするのか学年任せになっていたりしたら、それは管理職の責任が大きいと思う。

 そういうチェックの問題こそ報道が追及するべきだが、それよりももっと大きな問題がある。千葉県では中学1年の成績が高校入試に影響するのか?しかも、生徒257人中115人で記載ミスが見あったというが、88人が低く間違われていて、そのうち24人が不合格だったとある。それは「オール5」の生徒が「オール2」だったりすれば不合格かもしれないが、最大の生徒でも「4」のマイナス幅だという。それだけで4分の1の生徒が落ちるのか??この入試制度の方がおかしいのではないか。大体、中学1年の成績が高校入試にいるのか。東京都ではそういう制度になったことがないので、これは異様な制度に思うのだが、全国ではかなりあるのだろうか。それは中学1年の時からマジメに勉学に励んできた生徒が大事にされるべきかもしれないが、点数化するのは中学3年のときだけでいいのではないか。英数国など、つみあげてだんだん難解になっていくわけで、その中3段階の上に高校の勉強がある。だから本来、中3の成績を確認すればいいはずである。社会科のように地理や歴史が好きだけど、公民分野の政治経済は不得意という生徒もいる場合もあるが。当日のテストも当然あるんだろうから、その点数にもよるけど、それにしてもここまで1年生の成績が影響すると、途中で不登校だったり、健康を害したりした生徒が不利になり過ぎるのではないか。

 というようなことを僕は思った。細かい制度を知りたかったらもっと調べられるんだろうけど、千葉県の高校入試制度を批判することが趣旨ではない。ただ、その地域に住んでいると、その地域の制度が当たり前に感じるかもしれないが、中学1年の成績は使わない地域も多いはずである。そこから考えるべきだという話。もちろん中1の成績を使わないと、逆に中3の成績の比重があがる。でも高校に直結した中学3年の成績が高校に重視されるのは当然だ。一方、人間がやる限り、書類にはミスが必ずある。そのチェックがどうなっていたかこそ大事な問題なので、マスコミは書くならそっちを書いてほしい。

 ニュースで学校の問題が報道されるのは、学校に問題が起こった時である。報道されていないほぼすべての学校では、大きなミスも事件もとりあえずなく、卒業の季節を迎えている。震災被災地や問題が報道された学校の卒業式は報道もされる。大変だなあと思うけど、日々はどんどん過ぎ行く。そういう日常の営為が尊いんだと思う。
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新劇俳優・小沢昭一-本と映画②

2013年03月14日 01時11分52秒 |  〃  (旧作日本映画)
 小沢昭一の主演した映画は数は少ないが、今回まとめて見て、今までの印象を少し変えなければいけないと思った。僕の小沢昭一体験はラジオの「小沢昭一的こころ」であり、代表作の一人芝居「唐来参和」も見てるけど、どっちも「語り芸」である。新宿末廣亭のトリを取った時に聞きに行った話は追悼文に書いた。だから「語り芸の人」として、小沢昭一を思い出すわけである。同時代でもそう思われていたのではないか。大島渚の「忍者武芸帳」を再見したら小沢昭一がナレーションを務めていた。ラジオを始める前の36歳の時である。調べると50年代から、ナレーションだけ担当した映画がある。「語りのうまさ」は早くから認められていたのではないかと思う。

 小沢昭一には師と呼ぶべき人が3人いるのではないか。一人は、作家で芸能研究家だった正岡容(まさおか・いるる)である。小沢昭一は桂米朝などとともに学生時代に正岡のもとを訪ね師事している。しゃべり方や仕草まで似てしまうほどの影響を受けたようだ。まだ世の中に落語研究などという分野が認められていなかった時代の先駆者である。この時期にも昭一青年は少年期以来の寄席通いを続けていて、早稲田に「史上初の大学落研」(名前は庶民文化研究会)を作っている。だから、そのまま大学出身落語家第一号になるという選択も決しておかしくなかった。渋谷実監督「勲章」(1954)という映画に「寄席に通っている大学生」という役で映画初出演しているが、まさにそういう生活を送っていた。

 ところで実際の小沢昭一青年が選んだのは、俳優座養成所だった。第2の師は千田是也である。寄席も行ったが新劇も見ている。当時の演劇青年だから当然である。戦後の民主主義化の時代、「型の文化」である日本の伝統芸能に対して、西洋仕込みというか、スタニスラフスキーの方法というか、役柄を分析し感情を追体験してリアリズムで演技を作り上げていく手法に心酔し、千田是也に心服したのだと思う。寄席芸人を見続けてきた体験をベースにしながらも、小沢昭一の演技そのものの本質はあくまでも新劇俳優だと思う。

 3人目の師は映画監督の川島雄三である。「寄席の世界」というとても面白い対談集で桂小金治と対談しているが、その中で映画の出演料の話が出てくる。桂小金治は有望な二つ目だったが、川島監督がファンで通って映画出演を口説いた。当時の映画出演料は二つ目の落語家には魅力的すぎた。演技が好評で依頼が相次ぐまま、いつか映画俳優、さらにテレビ司会者として大成功してしまった。永遠の二つ目で、ついに真打になる機会を逸したのだが、この状況は小沢昭一にもある程度当てはまるだろう。もっとも早稲田で演劇仲間だった今村昌平が日活で監督に昇格するので、いずれ出演はしただろう。今村映画にはほぼすべて出演して重要な役を演じるのだから。

 新劇俳優では食えないのは今も昔も同じ。映画から声が掛かるのを待ち望んでいた若い俳優は多いだろう。製作を再開した日活は俳優が少なく、芸風が広い助演俳優を求めていた。各社を渡り歩いていた川島雄三監督が日活に来て、「愛のお荷物」「洲崎パラダイス 赤信号」などで小沢を重要な脇役で使った。一代の大傑作「幕末太陽傳」でも重要な脇役で出ている。この川島雄三という人に心酔したのである。以後も川島作品のほとんどで重要な役を演じ続けた。川島雄三は今村昌平の師でもあるが、軽妙かつ洒脱に重いテーマを韜晦して語る作法が、小沢昭一と共通する。

 映画を見ると喜劇が多く、コメディアンとの共演も多い。うっかりすると軽演劇出身ではないかと勘違いしかねない。浅草のフランス座というストリップ劇場では、50年代に渥美清や関敬六などが前座でコントをやっていた。座付作者に井上ひさしがいた。後年芸能としてのストリップ称賛を続けた小沢昭一も、フランス座にいてもおかしくない感じがする。でも、渥美清や井上ひさしは、ストリップ目的でいたわけではない。あくまでもキャリアのステップである。若き苦労の時代があったという話だ。小沢昭一は、ある程度余裕ができてから、「ストリップ研究家」として通った。あくまでもストリッパー自身の芸を見つめるという態度なのである。根がマジメで、コレクター志向というべき「こだわり」がある。一端評価するとはたから見たら常識を超えるくらい通い詰める。この違いは大きく、一見「粋でシャレを解する語り芸人」に見えるけど、実質はかなり違ったのではないか。

 小沢昭一が主役を演じた映画は少ないが、基本的に共通性がある。「マジメな求道者」という点である。競輪におぼれる「競輪上人行状記」(63)や性風俗を究める「人類学入門」(66)「経営学入門 ネオン太平記」(68)など皆そうである。これは本人の性格と新劇俳優としての演技術があいまって、実に見事な名演を見ることができる。ほとんどなり切ったリアリズム演技で、そういう「助平なインチキ」が本人そのままであるかのように思われたかもしれない。坊主が競輪におぼれるとはトンデモナイと言えるが、本人は寺の偽善にいたたまれず坂口安吾の「堕落論」のように堕ちていく。そのマジメな求道者ぶりが、ラストの爆笑シーン(競輪説教)に結びついている。
(「競輪上人行状記」)
 中学教員小沢昭一は、兄の死で寺に戻され、適応できず堕ちていく。はたから見るとおかしい位の一本気で、そこがコメディになる。後に団地妻シリーズで日活を救う西村昭五郎の昇進作で、非常に面白い傑作。「人類学入門」はよく取り上げられるし、今村昌平はまとめて書いたので省略する。性に関して突き詰めていく「エロ事師」を熱演した。今村の弟子にあたる磯見忠彦監督「ネオン太平記」は大阪のアルサロ支配人役で、これも風俗産業を現場で支える中間管理職の苦労を丹念に描いた傑作。あまり知られていないが、再評価が必要。桂米朝、小松左京、三国連太郎、野坂昭如らの特別出演が面白く、特に渥美清のあっと驚く女装演技は必見。これも風俗産業の「求道者」の喜劇。
(「ネオン太平記」)
 今井正監督の「越後つついし親不知」(64)は、水上勉原作の完全なリアリズム悲劇だけど、越後から伏見にくる酒作りの杜氏が小沢と三国連太郎。佐久間良子の美しい妻の忠実な夫が小沢で、いいかげんな友人が三国。キャストが逆ではないかと思うが、実はマジメで思いつめる役が小沢昭一向き、わけのわからない衝動を抱える役が三国だというのは、それぞれの役柄にあっているのである。名匠田坂具隆監督の最後の映画「スクラップ集団」(68)は、渥美清、三木のり平、露口茂と小沢が、大阪の釜ヶ崎で出会いスクラップ会社を作る話。ゴミの匂いが大好きになって、清掃の仕事を失うほどになるという奇妙な役柄を演じている。助演だが、「ごみの求道者」とでもいう役。

 マジメで弱気で運命に翻弄される役も小沢昭一にあっている。「大当たり百発百中」、「ブラックコメディ ああ!馬鹿」「サラリーマン悪党術」など皆そうである。こういう映画で「怪演」を続けるごとに、「おかしな俳優」という見られ方をしたのではないかと思う。主演と言えばセックス関連が多いし、そういう役柄が固定してしまいかねない。そういう見方をさらに拡大してしまうのが、語りの芸を生かした外国人役である。川島雄三のやり過ぎ的大傑作「しとやかな獣」(63)でも、アメリカ帰りの音楽家とされる役で怪しげなセリフをしゃべっている。これは川島監督の遊びだろう。日活アクションの傑作「紅の拳銃」(61)は赤木圭一郎の遺作だが、ここでは香港のギャングのボスという役。思えば今村の「にあんちゃん」の在日朝鮮人役がその始まりかも知れない。タモリが出てくるときに「タモリ語」なる怪しい外国語を持ち芸にしていたが、それを映画でやっていたのが60年代の小沢昭一である。
(「大当たり百発百中」)
 今回見た中で「発見」は鈴木英夫監督「3匹の狸」(66)だった。鈴木英夫は東宝でサスペンス映画や文芸映画を多作していた。鈴木英夫特集が時々組まれるが、「3匹の狸」という映画は取り上げられていないのではないか。これは純然たる悪党コメディだが、東宝を代表する宝田明、星由里子の美男美女が詐欺師の悪党をさっそうと演じるのが珍しい。ここに伴淳三郎と小沢昭一が加わり、ある財界人の葬儀に香典泥棒や詐欺の目的で集まる。続いてある結婚式でも出会い、お互いに悪党と認識しコンビを組むことにする。4人で組んだ悪事の数々が面白く、小沢昭一は出るべき時に外国人を装って出てくる。それは映画的記憶に基づく「自己パロディ」として作られている。抱腹絶倒だが二度とできない自己イメージの他社での模倣だろう。

 こうして性格俳優をベースにしながら、様々な映画で怪演を続けたが、その時期が60年代末の演劇史的転換期に当たる。所属していた俳優小劇場も71年に解散する。そして放浪芸探訪期を経て、芸能座を結成。映画の衰退期ということもあるだろうが、基本的には年齢的なものもあり「語り芸」に集中するようになっていく。映画は今村昌平作品の脇役の他はあまり出ていない。こうして性格俳優や怪演の記憶よりも、語り芸の記憶が僕の中で大きくなるわけである。

 今回見た中に「お父ちゃんは大学生」(61)という60分の小品がある。映画としては中級だが、小沢昭一ファンには見所が多い。子連れの南田洋子と結婚してしまう大学8年生という役で、それだけ見たらコメディかと思うが、実にまっとうな心温まるホームドラマだった。南田洋子も美しい。小沢が卒業できないのはマジックにはまっているからで、それは止めて卒業するのが結婚時の約束なんだけど、どうしても頼まれてデパートで演技をしてしまう。ワンカットで撮ってるから、実際に小沢昭一がマジックを披露している。さらに子どもが叱られて帰らず、探しに行って土管でハーモニカを吹く場面。ハーモニカをたっぷりと聞ける名場面である。連れ子だが仲がよく一家は幸せで、見ていて気持ちがいい。一緒に銭湯に行った小沢昭一が裸で一緒に風呂に入っている。そういう珍しい場面がちりばめられている。
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小沢昭一の「純情」-本と映画①

2013年03月13日 01時32分50秒 |  〃  (旧作日本映画)
 2月に小沢昭一さんの追悼上映をいっぱい見た。感想を残しておきたいと思ったが、機会がないままになっていた。このままにしたくはないので、書いてしまうことにする。

 小沢昭一に関しては追悼を書いて、もう書くこともないかと思っていた。しかし前半生の自伝と言ってよい「わた史発掘」(岩波現代文庫)を読んで、今までの僕の理解を少し考え直さなくてはいけないのかなと思ったのである。小沢昭一には「軟派の身ぶり」(川本三郎)があり、多くの人はラジオや映画などを通して「助平なおじさんの語り芸」的なイメージを抱いている。その意味するものは何なのか。
(「わた史発掘」)
 小沢昭一は「大声で語らない」という「自己韜晦」があった。(韜晦=とうかい=自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと)。それは「東京人」の「照れ」でもあっただろうが、一番基本にあるものは「戦争体験」であり、「戦争に加担したという思い」だと思う。小沢昭一が私立麻布中学に入学したことは前にも書いた。今は「御三家」と呼ばれる難関私立になっているが、当時は府立中学の落第生が集まるところだったのである。昭一少年は勉強せず寄席通いをしていたと書いてるから、落ちてしまうわけ。その麻布に、加藤武、フランキー堺、大西信行、仲谷昇など後々芸能界で活躍する面々もいて、特に加藤武を「畏友」と呼んでいる。

 当時のことながら、若者は皆軍国少年で、自分たちは戦争で死ぬと思っていた。天皇のために死ぬことを人生の目的と信じていた時代である。麻布にも右翼的な教員が来て、小沢、加藤らも右翼的な結社をつくる。早起きして江の島に行って禊(みそぎ)をしたりした。小沢昭一は早起きが苦手でそれはサボったとある。そういう時代だったわけだが、小沢昭一だけが、中学後に海軍兵学校を志願した。皆、軍国的潮流の中にいたわけだが、誰も同じ道は取っていない。海軍のカッコよさに憧れたなどと書いている。そういう側面もあっただろうとは思うが、本当は「国家に奉公したいという思い」が誰よりも強かったんだと思う。国家と皇軍を熱烈に信じる「純情」少年だったのだ。

 小沢家は当時、東京南部の蒲田で写真館を営んでいた。父親は病気で弱っていて、戦争中は闘病が続き、昭和24年、昭一20歳の時に亡くなる。家財道具は空襲で焼けてすべて失っている。空襲とは言っても少しは持ち出せたり、焼け残ったりするものだが、昭一少年は海軍に行き不在、病気の夫を抱えた昭一の母は疎開を決心した。家財道具をまとめて引っ越しできる態勢を整えた、ちょうどその夜に空襲に直撃された。まとめた家財道具はまとめたまますべて焼けてしまった。後々まで母親は「ダイヤの指輪が残っていれば」と昭一に愚痴を言ったという。

 唯一の財産だったダイヤの指輪は、小沢昭一少年が「お国に献納せよ」と母親に強く迫り、供出させてしまったのであった。宝石や貴金属はお国に出しましょうというキャンペーンがあった時代である。「少年紅衛兵」である。親を突き上げるくらいの軍国少年だったのである。こういう「家庭内戦争犯罪人」だったという意識が常にあったはずである。ただでさえ、病弱な父を母に残して、自分だけ海軍に行ってしまった。これは戦時中はいいことだったが、戦後になれば「両親に申し訳なかった」と思っただろう。

 そして、実際に海軍兵学校に入って、激しいホームシックにとらわれる。16歳のことだから当然だろう。この時代のことは語りにくいと書いている。「うしろめたい」のである。職業軍人になろうとした過去が、今さら「だまされていた」自分を語ることになり恥かしいという思いだ。戦後になって戦友会に何度も誘われるが、司会を頼まれて断れなかった時を除いて行ってないという。軍歌を皆で歌い、青春をなつかしく回顧するような会には行けないのである。「中年御三家」と称した野坂昭如、永六輔はある程度社会的発言もしてきたのに対し、小沢昭一は「少年の思いを忘れず、戦争に反対する」以外の社会的発言はほとんどしていないと思う。それは自分の過去を見つめて「大言壮語しない」という強い思いを抱き続けたのだと思う。

 大逆事件後の永井荷風の姿勢に似ているかもしれない。小沢昭一は戦後になって、麻布中学で演劇部を作り、早稲田に入って庶民文化研究会(後の落語研究会)を作る。当時は低く見られていた落語に通い、またその落語からさらに低く思われていた浪曲(浪花節)も愛好する。また、当時はまだあった「赤線」(の中でもかなり安い場所)にも通ったといろいろな場面で語っている。これらは、戦後の青春でもあり、若さの発露でもあるのは間違いないが、荷風のあとを慕う「低回趣味」なんだろうと思う。あえて低く見られたものを尊び、上昇志向を捨て下降した中に「真実」を求めるのである。小沢昭一の「助平おじさん」的な身ぶりは、そういう自己韜晦の発揮だと僕は思う。

 70年代になって演劇や映画の活動を控えても、放浪芸探索の旅を続けた。これも少し理解が十分ではなかった。「日本の放浪芸」がもてはやされることが、「日本再発見」ブームみたいなものに乗せられ、ある種のナショナリズムに結びつくことを小沢昭一は常に警戒している。ちょっとビックリするくらい、そのことを強調し続けている。小沢昭一が求め続けたのは、「放浪のプロ芸人」であった。農閑期に村をあげて行う農村歌舞伎みたいものは一切訪ねていない。正月の万歳を芸として行い続ける村の集団などが探訪の対象なのである。

 だから、お寺の説教とかテキヤの商売(寅さんの口上である)なんかも語りの「芸能」に入ってくる。全国を回り続けるストリッパーこそ、現代でもっともすぐれた日本の放浪芸人だという評価もそこから出てくる。(ちくま新書で出た「芸人の肖像」によく示されている。)これも、自分がプロの役者であるという意識があって、今も差別視される芸能をプロで演じる芸人を求めた現れである。小沢昭一は少年の平和への思いを「ハーモニカブルース」で伝える以外に社会への大言壮語は控えた。そして、ストリッパーの一条さゆりを至高の芸人と持ち上げる。これが「小沢昭一の純情」だったのだ。

 小沢昭一少年の記憶をたどり直す「わた史発掘」は昭和ひとケタ世代の少年時代を再現して興味深い。自分でも言ってるように、「コレクション趣味」である。メンコ集めなんかもそう。相撲や寄席への熱中も当時の少年には普通だが、入れあげると半端でない熱中を示す。放浪芸探訪の旅をそうだし、芸人やセックスワーカーの女性などへのインタビューも数多く残している。「助平おじさん」イメージから週刊誌などから依頼されるままに、半端でなく話を聞きまくる感じである。小沢昭一の対談本はかなり多いが、インタビューのお手本であり、「語らせ芸」と言ってもいい。「語り芸」の裏に多くの人の話を語らせてきた体験があるわけだ。 
 
 「わた史発掘」の表紙を載せておくが、ここに珍しく残った写真がある。これは好きだった相撲取りの鯱の里(しゃちのさと)と撮った写真である。少年時に大病をして、父は元気になったら鯱の里を呼んであげると約束し、それが果たされたのである。鯱の里とはどういうしこ名かと思うと、名古屋出身で名古屋城の金のしゃちほこから付けた名前である。美男力士で人気はあったらしいが、三役にもなれず最高位は前頭3枚目。双葉山の連勝に土をつけた安芸ノ海を、その数日後の取り組みで破ったのが鯱の里という程度の実績しかないと小沢昭一も書いているが、その人のファンだったわけ。
 
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2年目の「3・11」-「風化」を考える中で

2013年03月11日 23時08分52秒 |  〃 (震災)
 昨年は「1年前の新聞を見る」「3・10と3・11(東京大空襲と東日本大震災)」を書いてるけど、2年目の「3・11」に思うこと。

 今年は、マスコミでは「風化を防がなくては」と言う声をかなり聞いたように思う。これをどう思うか。2年たてば、それぞれの人が、被災したり避難したりしている人も含めて、日常生活が継続されていく中で、「3・11」の記憶が薄らいでくることが避けがたい。僕はそのこと自体は、避けることができないし、やむを得ないことだと思っている。確かに震災直後は、日本中に連帯感、一体感があり、被災地のために自分も何かしたい、できることはないかと強く感情が動いたわけである。また、原発事故の危機感、恐怖感、衝撃の大きさは測り知れないものがあり、「日本というシステム」を作り直さなければならないという強い思いが共有されていた。

 しかし、あの当時を思い起こせば、誰もが(東日本では)地震そのものの揺れ、津波の映像、放射能拡散などの恐怖感、危機感に満ちていた。戦争や災害、個人の病気なんかの恐怖の記憶をいつまでも覚えていては日常生活が送れない。あまりに大きな恐怖のため、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症する場合もあるが、多くの人は「忘れる」という心の機能のおかげで生きていける。そういう恐怖感、危機感と、災害後の皆が苦しむ中での一体感、連帯感というのは表裏一体のものではないかと思う。「恐怖感だけ消えていって、一体感だけは残り続ける」という風にうまくは行かないんだろうと思う。それを「風化」という言い方をすれば「風化」だが、その分日常生活が戻ってきたということだ。多分、「子どもを亡くした親」の場合は、今もこれからも「時間が停まった」中を生きている人が多くいると思う。しかし、家が流されたが、家族は無事だったという人は、仮設住宅の日常に適応していく時間の方が、毎日の暮らしの中で多くなって行く。これは自然なことだ。

 東京でも、相当に大きく揺れた。人生で経験した最大の揺れである。その後も余震がかなり長く続いた。津波や原発の問題もあるが、地震の揺れそのものの恐怖もかなり続いたと思う。今も完全になくなったとは言えないが、これは日々の積み重ねの中でほとんど消えている。原発事故そのものによる放射能恐怖も、日常の中では薄らいでいる。東京で生きている限り、確かにあまり震災を考えないで生きていると言える。それを「風化」と言えば言えるかもしれない。復興や除染そのものに、僕たちが直接できることは少ない。そういう段階になっているということも大きい。

 僕はこういう過程は、戦争体験でも、あるいは阪神大震災なんかでも同じようなプロセスをたどってきたと思う。戦争の場合は、あまりにも被災が大きかったのと、復員がバラバラだったために1年、2年という区切りでは「風化」はしなかっただろう。でも、ある段階から「日常生活の中で忘れていく」という過程に入る。大事故、大災害なんかだと1年目までは皆が忘れずにいて、その後なだらかに災害の記憶が後景に退いて行く。10年目までが一つの区切りで、それまでは「風化を防がないと」という声が出る時期である。「10周年」が一区切りになって、後は「周年行事」化していってしまう。大体そういうプロセスになってきた。

 ところで、東日本大震災の直前までマスコミで取り上げられていたのは、ニュージーランド南島地震だったことを覚えているだろうか。クライストチャーチのビルが倒壊して、英語留学していた富山県の学校の関係者が多数犠牲になった。多分富山の新聞やテレビは今年も大きく取り上げたのではないかと思うが、ほとんど全国ニュースにはなっていない。また今年はイラク戦争開戦10周年だが、イラク戦争と日本の関わりを再検討しようという声もほとんど大きくならない。アメリカ軍も撤退し、ブッシュ政権も終わっている今、自衛隊派遣の是非、なんて言う問題も意味が少なくなったと思われているんだろう。僕は小泉政権の当時の対応を厳しく問い直す必要があると思うし、民主党政権で一部行われたが本格的なものとはならなかった。こうしてみると、「風化させていいのか」という声が上がる問題以前に、もう完全に「今の問題」とは思われなくなったケースがあることになる。「風化させていいのか」という声が大きく聞こえるケースは、特に大規模な被災をした場合なのである。

 ところで、東日本大震災では、それだけでいいのかという問題がある。思いつくままに列挙してみる。
①まず、「原発」問題は「現在進行形の問題」であり、事故があった原発の中で何が起こったのかもまだはっきりしていない。基本的には、放射性廃棄物の処理問題が解決できず、政策コスト(補助金等)を含めれば圧倒的にコストが高い原子力発電所が永続するはずがない。今後新規立地できるところがあるとは思えないし、仮に強行的に新設するとしてもそうたくさんできるはずがない。70年代、80年代に作られた原発が多く、もう原発時代の終わりが近いのははっきりしている。しかし、「原子力ムラ」と呼ばれるような産官学の複合体は、自民党の政権復帰とともに解体されずに生き延びかねない。その問題。一進一退を一喜一憂しないで見て行きたい。

三陸の復興は、「過疎」の問題を直視する必要がある。多くの地区で、産業の基盤が完全に破壊され、1メートル近くも地盤沈下した。これをすべて土地の改良をして、また大きな堤防を築き直し、一方で住宅地の高台移転を実現するというのが、本当に実現可能なのか。もともと過疎の問題を抱えていた地域で、今も住民の都市部への移住が多くなっている。公共事業を担当する建設業者も減ってしまったし、全国的に公務員が少なく都市計画などの実務担当者が確保しづらい。結局、政府、県当局の意向が、地元住民とともに考えることなく推進されてしまいそうな感じがする。その結果、形の復興が出来ても人々がもういないということにならないか。これは他地方の過疎地区の問題とも共通する問題だが。

③僕が前から指摘しているが、藤沼ダムの問題。東日本大震災では住宅の倒壊ではなく、津波や原発事故の問題が大きかった。しかし、それ以外の被害もあったのであり、特に福島県須賀川市の藤沼ダム決壊の重大性を忘れてはならない。ダムの崩壊というありえない事故が起こって、8人の犠牲者が出たのである。阪神大震災の高速道路倒壊のような大問題であるにもかかわらず、他の大災害に隠れてほとんど知られてもいない。これは農業用ため池だったものだが、中央道の笹子トンネル天井事故などを見ても、いつどこで大事故が起きないとも限らない。西日本の方がため池が多いので、安全性の確認がどれほど行われているか、厳しいチェックが必要だと思う。さらに大きなダムが崩壊すれば、津波や原発事故以上の大惨事が起きる可能性さえある。(藤沼ダムの問題については、週刊金曜日3・8日号にまさのあつこ「決壊した『藤沼ダム』の教訓をどう生かすか」が掲載されている。)

④その他、文科系・理科系を融合した地震災害研究の必要性、地震・津波以外の火山の大噴火、集中豪雨などの研究、新しい防災教育の必要性など、考えるべき問題は多い。「沈黙の町で」を読んだときに感じたことなのだが、大震災直後に「絆」という言葉があふれたけれど、日本人に必要なのはまだまだ「絆」よりも「自立」なのではないか。組織によりかかり組織を超える発想ができない人ばかりを育てる教育を改めて、「真の自立」を育てないと、次の大震災に生きないばかりか、いじめや体罰などの問題も解決できないと思う。
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追悼・山口昌男

2013年03月10日 22時04分25秒 | 追悼
 文化人類学者山口昌男が亡くなった。81歳。僕は70年代半ばに、山口昌男の文章を浴びるように読んでいた時期があって、非常に大きな影響を受けた一人である。山口昌男も亡くなったのかと時代の過ぎ行く速さに驚く。

 山口昌男は元々東大の国史を出たが、その後都立大の大学院へ移って文化人類学を学んだ。卒業後、一時麻布中学で教えていたこともある。東京外国語大学に迎えられ教授となり、長く務めた。静岡県立大を経て、20世紀末からは札幌大学学長を務めていた。71年に岩波新書で「アフリカの神話的世界」を刊行、同時期の「人類学的思考」「本の神話学」などで、文化人類学に止まらず、およそ「知」の興味関心の向かうところなんでも論じるという、驚くべき博識と幅広さを示した。読み始めたのは70年代半ばで、大学生だった僕はその幅広さは言うに及ばず、世界の独自の見方に大きな影響を受けたのである。

 それは70年代半ばの著書名をあげるとよく判るが、例えば「道化の民族学」「道化的世界」「文化と両義性」「知の祝祭」…などなど。ここで「道化」と言っているのは、山口用語では「トリックスター」と書かれていた。「中心と周縁」というのも、代表的な山口用語。その頃、「朝日ジャーナル」「世界」「中央公論」などに連載を持っていて、僕は中公まで毎号買っていたものだ。アフリカでのフィールドワークをもとに独自の「王権論」を展開して、「王殺し」「トリックスター」などをキーワードに「王権」の神話的構造を論じて、さらにそれを日本の天皇制分析に応用した。能楽など古典に見る王権構造を分析したもので、従来の左右の天皇制論者には理解不能だったろう。

 「新しい左翼入門」(講談社現代新書)の書評を去年書いたが、その本には「世界を上下に分けて、下に味方するのが左翼」と定義している。こういう言い方は面白いし、判る気もするけど、ぼくにはどうも「世界を上下に分けたり、内外に分けたりできるのか」という感じもする。マルクス主義的世界観では「上部構造」「下部構造」で世界を理解するが、ではそのマルクス主義を名乗って国家を建設したソ連や中国の政治を「下部構造」の経済や階級闘争だけで理解できるのか。それよりそれぞれの国家にある「文化」の構造が政治を左右している点も大きい。ナチスやスターリニズムと、同時代の中国文化大革命や自民党の「角福戦争」(田中角栄と福田赳夫のし烈な党内争い)なんかを同じ「政治」としてとらえるためには、「中心と周縁」理論の方が使いやすいように思ったのである。だから、世界は「真っ二つに分けられるもの」ではなく、「中心が二つある楕円」が「いくつも重なりあったもの」のように僕に見えてきたわけである。

 まあそういう難しい話はともかく、文学、演劇、映画、音楽、美術、建築などを論じながら、政治や歴史、国際問題なども考えるという知的な世界のあり方が僕には非常に魅力的だった。今は昔ほど「学問的な縄張り」はないかもしれないが、逆に幅広い関心を持ち続けることも少なくなったような気がしてならない。いくらインターネットが普及したと言っても、若い時は本を乱読し、ナマの芸術にたくさん触れることしか自分の世界を広げるすべはないと思う。山口昌男の本なんかは、若い人に「良き道しるべ」となるはずである。
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銀座の新旧・三原橋、歌舞伎座から三吉橋

2013年03月09日 23時09分25秒 | 東京関東散歩
 あちこち歩くのが結構趣味なんだけど、まとめて写真を載せたりするのが面倒だった。でもカメラを持って自覚的に歩こうと思わないと、だんだん歩かなくなってしまう。そこで「カテゴリー」を作って、時々書きこむようにしたいと思う。まずは「銀座界隈」で、次回は「東京駅周辺」を予定。

 銀座界隈って言っても、今回は東銀座と銀座のはずれの三吉橋。このブログでも、三原橋の映画館銀座シネパトス閉館と言う話は何回か書いている。今、リクエスト特集と銀座映画特集をやってる。またこの映画館を舞台に作られた「インターミッション」と言う映画を公開中で、たくさん催しも行っている。映画館の閉館は今珍しくないけど、「三原橋地下街」そのものの再開発である。ここは昔は「三十間堀川」という江戸時代に掘られた人工河川が通っていた。数寄屋橋、三原橋など、銀座周辺に橋の名前だけ残っているが、もとはちゃんと川を渡る橋だったわけで、江戸が世界有数の美しい水の町だった証である。それが第二次世界大戦のがれき処理のため、戦後に埋め立てが始まり、地下街が形成された。それが東日本大震災による耐震建築の見直しで、再開発になる。
 家から地下鉄日比谷線で一本、東銀座駅で銀座方面に地上に出てすぐ。
   

 壁が今「インターミッション」の宣伝、色紙や感謝の言葉などであふれている。店もほとんど閉まっているけど、「三原」と言う食堂だけ、昔懐かしいようなメニューで営業している。入ったことがないので、閉まるまでに食べてみたい感じ。最近新聞なんかでもこの地下街が取り上げられて「昭和の名残りが消える」などと書いてある。僕はそれがよくわからない。「昭和」は「64年」まであった。もっとも大正15年12月26日と昭和64年1月8日に改元されたわけで、実質は「62年と2週間」だったのだが。(もっとも昭和天皇は1921年の末から摂政を務めていた期間もあるが。)昭和の最初の20年は戦争で、最後の頃は「バブル」である。この三原橋地下街には、戦時下の軍国主義の影もバブル期の華やかな面影もない。つまり「昭和」全部ではなく、高度成長以前の50年代、60年代っぽい感じが残るということだ。なんだか戦後にできたものが、バブルでオシャレに改造されなかった古い感じが今では珍しいということだろう。映画館も狭く、小さな画面に地下鉄の音がするという条件の悪さが「昔の名画座」らしいということになる。

 ところで東銀座と言えば、歌舞伎座である。今まで地下鉄駅とは結ばれていなかったが、今回の新築を機に直結した。歌舞伎座開業を前にもう地下通路は開通していて、お土産屋もいっぱいあって早くも賑わっている。地下鉄駅の歌舞伎座方面に大きな道が出来ていて、そこを少しくとちょうちんが下がっている広い空間に出る。その広場にお店が出てる。コンビニもあった。そこのちょうちんの右の方にチケット売り場がある。
  

 歌舞伎座そのものは裏にビルが出来ているが外見は昔をきれいに直した感じにまとまっている。今、みんながデジカメやケータイで写真を撮っているけど、これが難しい。近くからだと全景が撮れず、道の向こうに行くと車が映ってしまう。大きなトラックが通ると、半分見えない。なお、歌舞伎座の向かいあたりが、岩手県のアンテナショップ「いわて銀河プラザ」である。近くに群馬県の店もある。どちらも近くに来たら是非寄りたい場所。
 

 今日は東京大空襲の集会(昨年は行った)の他、行きたいところも多かったのだが、フィルムセンターで見逃していた「東京の人」という川端康成原作の日活文芸映画(西河克己監督)を見たかった。そこで、まずシネパトスで「恋人」という市川崑の初期作品を見て、東銀座から京橋まで歩いたわけ。その途中で、今まで行ってなかった三吉橋(みよしばし)に寄っていった。中央区役所と中央会館(銀座ブロッサム)を結ぶところにある橋で、下は首都高だけど、昔は築地川。そこに掛かる三つ又型の橋が三吉橋で、三島由紀夫「橋づくし」に出てくる橋と言えば、思い出す人もいるかと思う。願掛けで橋を渡るんだけど、三吉橋だと一つの橋で2回渡れる勘定ができるというところがミソ。その時代は木造だったが、もちろん今は改造されコンクリ橋になっている。でも「三つ又」と言う点は同じ。なお、今は向島に桜橋という隅田川に架かるX型の橋がある。ここを渡れば一回でもっと渡ったことになるんだろうか。
  
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「発達障害」を考えるための本

2013年03月09日 00時34分32秒 | 〃 (さまざまな本)
 昨年末に、入手しやすい新書本というスタイルで、「発達障害」に関する本が3冊も並んでいた。「流行り」というか、関心がある人が多いテーマなんだなあと思う。まとめて紹介したいと思いながら、年末年始はミステリーばかり読んでたので、後回しにされていた。「沈黙の町で」の書評の中で、「発達障害」に触れたということもあり、最近の新書本くらい読んでおかないといけないなあと思い、読み始めたらすぐに読んでしまった。やはり新書本は読みやすい。「パーソナリティ障害」に関する新書と合わせて紹介。杉山登志郎発達障害のいま」(講談社現代新書)の評も書いているので、参照を。

 読んだ本をまとめて紹介すると、
①青木省三「ぼくらの中の発達障害」(ちくまプリマ―新書、2012.11、840円)
②河野俊一「誤解だらけの『発達障害』」(新潮新書、2012.11、680円)
③平岩幹男「自閉症スペクトラム障害」(岩波新書、2012.12、760円)
④牛島定信「パーソナリティ障害とは何か」(講談社現代新書、2012.11)

 ②の河野著は①③とちょっと立場が違っていて、発達の遅れを抱える子供を対象にした「学習指導室」を開き、700人の子どもたちを指導してきたという人の本。いわゆる「学者」の本ではない。研究による「障害の解説」は出てこない。その代り、「教育」により障害は改善していく、だから「発達障害」ではなく「発達の遅れ」と呼ぶという考えで書かれている。「発達障害」は、「精神疾患」ではないので、薬で抑えたり治したりということより、粘り強い働きかけで「発達」を促していくことで社会への順応性を育てるというのは正しいと思う。だから、今子育てで悩んでいるという親、あるいは受け持ちの生徒に困惑しているという教師なんかが読むと得るところがあると思う。

 でも、僕は脳の器質的問題で「遅れ」が生じているのは明らかだから、それは「障害」と呼んで捉えるべきだろうと思う。むろん、「障害」という漢字表記に問題はあると思うし、「障がい」と呼ぶか、「障碍」と言う古い字を使うか、全く違う言葉に変えていくか(「統合失調症」が定着したように)は、いろいろ考えるべき問題だろう。そのことは僕は当事者でも専門家でもないので、決まった考えはないので、今のところ「発達障害」という言葉を使うことになる。この「発達障害」と言う考え方がどのように、見いだされ定着していったかは、特に岩波新書の平岩著で詳しく知ることができる。この問題の本を読んでいると、アメリカ精神医学会の診断ガイドラインというのがよく出てきて、これを「DSM」と言うわけだが、日本でもよく耳にする「アスペルガー障害」というのも、このアメリカの診断基準の中に出ているわけである。今まで様々な種類に分類されてきた発達障害も、実は連続した障害と捉えるべきだという考えが強くなり、今年2013年に発表されることになっている、DSMの第5版では「自閉症スペクトラム障害」と言う呼び方になると言う話である。そこで③の署名もさっそくその言葉で書かれている。③の本は、さすがに岩波新書で、中では一番難しい。けれど学説史的な説明があるのと、様々な療育法が紹介されているので、細かく正確に知りたい場合は一番じっくりと読むべき本だと思う。

 発達障害の人が増えているのかどうかと言う問題が、よく話題になる。③の本は、「診断基準がはっきりしたために、発達障害と言う診断が増えた」と言う理解だと思う。と同時に、44ページに説明されているように、「コア群」「グレーゾーン群」「カテゴリー群」に分けて考えるべきだと言っている。「コア群」は自閉症による症状があり、社会生活上困っている人で、これはやはり1~3%。「グレーゾーン群」はなんとかサポートがあれば生活していける層で、ここまで入れれば5%くらい。その周りに、「カテゴリー群」があり、自閉症の診断は受けたが、ほぼサポートもなく学校に通えるようになっている層。ではもう「障害」と言う必要はないわけだが、それでもいじめなどにあうと引きこもりになって「コア群」に逆戻りもある。そういう層まで含めれば、10%位かとある。このように考えると、「増えているか」というのは「どの層まで対象にして考えているか」の問題と言う理解になる。

 一方全く違う考え方をするのは、①の青木著世の中が変わって、「コミュニケーション能力」がこれまで以上に問われるような社会になった。これは1次、2次産業の社会から、圧倒的に第3次産業の就業者が増えたということでもあるし、「グローバル化」とか「能力社会化」という言い方もできる。農業や漁業で生きていく社会や、工場のラインで働くような労働だったら、多少コミュニケーション能力の不足があっても、飲み会では「付き合いづらい」とか思われたとしても、仕事はなんとかこなせた。一方、顧客との柔軟な対応が日々問われてマニュアル通りに対応するだけでは済まない仕事にそういう人が付けば、「あの人は何だ」ということになる。学校でも、ただ座って話を聞いてればいれば何とかなるという授業ではなくなり、「総合学習」のような「意欲や関心」が問われ、調査能力、発表能力が問われる機会が増えた。そういう社会の変化が背景にあって、「コミュニケーション能力の不足」が大きなマイナスになる時代となった。だから「発達障害」の子どもが目につくようになったという風に理解するのである。これは21世紀に入ってからの、「総合学習」の導入とか「新学力観」という考え方などが学校に入った頃から、特に「発達障害」の子どもが目についてくるようになったという教育現場的な実感からすれば、かなり納得できる考え方ではないかと思う。

 ちくまプリマ―新書というのは、若い世代向けの新書なので、この「ぼくらの中の発達障害」が圧倒的に判りやすい。発達障害の子どもたちに向けたアドバイスの章もあって、一冊読むならこの本。学校や仕事だけでなく、恋愛で悩んでいる人へのアドバイスもある。その章は、ゴシック体で書かれているのも大事なことである。発達障害の人は「明朝体が苦手」だという。僕も定時制の学校では、試験問題を大きな字にしたり解答用紙を使わないようにしていたが、字体までは配慮していなかった。この点は学校現場で生かしていくべき部分ではないか。(ただ、試験全体をゴシックにすると、かえって見え辛いと言う生徒もいるだろう。生徒心得とか学習のすすめ方のプリントなどに生かす方がいいと思う。)周囲の人へのアドバイスもあって、とてもためになる本である。発達障害に関して知りたいと思う人が最初に手に取るべき本だと思う。

 最後の④のパーソナリティ障害。学校現場で、リストカットをする少女や、摂食障害(拒食や過食)の少女、担任や一部の教員にべったりくっ付いていたと思ったら、何かで怒られたら手のひらを返したように攻撃性をむきだしにするとか、異性とのつきあいが異常に自己中心的な行動をしたり(中高生が好きな異性が出来て付き合うケースがあるのは当然だが、放課後に校門前で抱き合ってしまい、人目も気にせず石になったかのように動かず、はた迷惑だから帰れと指導されると自殺するなどと大声でわめき散らすなんてのは常軌を逸している)、そんなケースがいつの頃からか時々見られるようになった。こういうのが「パ―ソナリティ障害」で、教師にもそうだが医者にもかなり困った存在らしい。その障害をDSMの分類をもとに、少し日本の状況を踏まえて付け加えたりして、判りやすく分類し説明した本。よく「治らない」と言われてしまうが、ソーシャルスキルを丁寧に指導していくことで、かなり社会適応が出来ていくことが示されている。これも合わせて読むといいと思う。
   
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