尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

川口浩と田宮二郎-増村保造の映画②

2014年07月31日 23時07分13秒 |  〃  (日本の映画監督)
 若尾文子作品以外の初期増村映画を見ておきたい。デビュー作は「くちづけ」(1957)で、「美貌に罪あり」などと同じく川口松太郎原作。川口松太郎(1899-1985)は「鶴八鶴次郎」などで第一回直木賞を受けた作家で、戦後は大映の重役として映画界でも活躍した。妻は「母もの」で有名な三益愛子で、二人の子どもの川口浩(1936-1987)が、この映画の主役である。相手役の女優は野添ひとみ(1937-1995)で、もとはSKD(松竹歌劇団)だから松竹でデビューしたが、大映に移籍した。
(川口浩)
 川口浩と交際していて、父の松太郎に頼みこんで移籍できたという。後に結婚しておしどり夫婦で知られたが、二人とも50代で亡くなった。川口浩は最後の頃はテレビで「川口浩探検隊」という秘境探検もので有名だった。50年代末から60年代初期に大映を代表する青春スターだった。
 (野添ひとみ)
 この二人は「恵まれた環境」にあったが、庶民的な役柄が多い。「くちづけ」でも、拘置所にいる父に面会に来ていて知り合うという滅多にない設定である。東京や湘南海岸のロケも面白く、スピ―ディに貧しい二人の出会いを語っていく。このドライなタッチやスピードが当時は評価されたけど、今見ると東京の貧しさが印象的である。前に見てるけど、あまり意識しなかった50年代の青春に惹かれる。

 二人のコンビの最高傑作は、開高健原作、白坂依志夫脚本の「巨人と玩具」(1958)である。菓子メーカーの宣伝で、貧しい娘の野添が突然スターになる。その間の事情を驚くべき早さのセリフ回しで、風刺していく。高度成長に向かう日本のエネルギーとも言えるし、経済成長の中で人間性を失う悲劇の戯画化とも言える。実に面白い映画だけど、今度見たら展開が図式的な感じもした。セリフも今の感覚でも早すぎて、よく聞き取れないところがある。その後の「不敵な男」(1958)は新宿のチンピラ川口浩とダマされる田舎娘の野添ひとみ。どうしようもない不良青年はどうして生まれたか。街を舞台にした「フィルムノワール」で、案外の拾い物。「親不孝通り」(1958)も不良大学生のリーダー川口が姉を捨てた船越英二への復讐で、彼の妹野添に近づくが…という映画で、筋立てに無理があるがスピーディな展開とロケの魅力で退屈せずに見られる。

 二人が主演で共演したのはこの4本だけど、この当時の作品の多くに二人が登場している。例えば、第3作の「暖流」と第4作の「氷壁」には野添が重要な役を演じている。どちらも有名原作の映画化で、「暖流」は日中戦争中の吉村公三郎版が有名。その後、松竹で野村芳太郎監督でもリメイクされた。吉村版で高峰三枝子が演じた病院令嬢が野添で、これはちょっと無理。病院再建を目指す日疋のスパイとなる看護婦が左幸子で、「愛人でも二号でもいいのよ」と駅で叫ぶシーンなどすさまじいバイタリティ。この堂々たる青春の姿に増村のマニフェストを見る思いがする。丸山明宏(美輪明宏)が出てくるなど、面白いシーンも多い。だけど、岸田國士「暖流」の映画化である以上、ドラマ的に無理が多い。僕は野村版の岩下志麻、倍賞智恵子が一番合っていると思う。
(「暖流」)
 「氷壁」は実際にあった遭難事件をモデルにした井上靖のベストセラーの映画化。山本富士子の人妻に憧れる川崎敬三と菅原謙二、その菅原を愛する川崎の妹を野添が演じる。非常に意志の強い女性役で、「自立した女性」が増村流で描かれる。60年代になると、増村映画は若尾文子の出演が多くなるが、大映を代表する女優の京マチコでも2本撮っている。「足にさわった女」(1960)と「女の一生」(1962)で、どちらも原作がある。「足にさわった女」は女スリが郷里に帰ろうとするが、そこは厚木基地になっているという現代の話にしている。「女の一生」は杉村春子で有名な作品を、40年にわたる日本の戦争をバックに描く。どっちもそつなく仕上がっているが、代表作ではないだろう。
(「氷壁」)
 60年代で(若尾主演と並んで)面白いのは、むしろ男性スターのアクションものである。特に田宮二郎。田宮二郎は「白い巨塔」やその死をめぐるイメージから語られることが多いが、「悪名」シリーズと並ぶ「」シリーズがある。梶山季之原作の「黒の試走車」(テストカー)の面白さは今見ても抜群だ。前に見て面白いと思ったけど、改めて面白かった。「産業スパイ」をめぐる物語だが、「巨人と玩具」の戯画化より娯楽映画の語り口がうまい。ところで、田宮と緑摩子主演の「大悪党」(1968)と宇津井健主演の黒シリーズ「黒の報告書」(1963)は、裁判の描き方が納得できず、とても楽しんでみられなかった。

 「闇を横切れ」(1959)はほとんど誰も知らない社会派ミステリーだろう。市長選立候補中の革新陣営候補がストリッパーの死体と一緒に発見され、殺人容疑で逮捕される。無茶なストーリイで、もちろん「謀略」に決まってる。いくら何でも市長選の最中には仕掛けないでしょ。川口浩の新聞記者が追及し、上司の山村聰が応援するが。演出が面白いが、脚本が弱すぎ。「恋にいのちを」(1961)も知られざる作品で、藤巻潤、江波杏子、富士真奈美というキャストも弱い。藤巻潤は、若尾文子の相手役などでこの頃よく出ている。「偽大学生」でも若尾の相手をするリーダー役。姉が大山倍達の妻で、極真カラテを習得してアクション映画でも活躍した。失踪した父の秘密を探る藤巻をめぐる二人の女。江波杏子の若い頃の魅力が判る。
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若尾文子作品-増村保造の映画①

2014年07月30日 23時30分40秒 |  〃  (日本の映画監督)
 7月はほとんど増村保造監督の映画ばかり見ていたので、そのまとめ。今回は若尾文子作品を中心に書いて、他の人の主演作品は次に。

 こんなにたくさん見ているが、僕が特に増村保造監督が好きなわけではない。改めて見て思うのだが、面白い作品が多いがどちらかと言えば好きな監督ではない。増村作品は作品数が多いので、珍品はほとんど見られないが、今でもよく上映される作品もある。例えば、市川雷蔵特集では「華岡青洲の妻」「陸軍中野学校」が上映される。上映が多い映画では、どうしても主演俳優やテーマに注目して見ることになる。有名ではない作品、失敗作も含めて、増村監督を評価してみたいと思う。

 今回見なかった作品もあるが(「最高殊勲夫人」「好色一代男」「妻は告発する」「爛」(ただれ)「女の一生」など)、今回見て非常に面白かったのは「美貌に罪あり」「偽大学生」「黒の試走車(テストカー)」「清作の妻」などである。特に「清作の妻」は若尾文子のトークを聞いたためもあるが、非常に完成度の高い映画だと改めて思った。若尾文子の「戦争映画」では「赤い天使」がすごいと思うが、戦争映画としては不自然な点も多い。若尾文子が「また殺してしまった」と異常なまでに悩んだり、中国軍が細菌兵器を使ったという設定など。ただ、従軍看護婦をこれほど正面から描いた映画はない。傷痍軍人と真っ向から向き合った点でも、忘れられない戦争映画である。
(「赤い天使」)
 増村映画は「若尾文子の映画」だと思うが、今回いろいろ見て、増村映画の真骨頂は「アクション映画」ではないかという気がした。「清作の妻」は日露戦争の話だが、村で排斥される若尾文子と結ばれる田村高廣の「愛のかたち」が見る者に衝撃を与える。「清作の妻」「赤い天使」はアクション映画ではないが、若尾文子の壮絶なアクション演技が忘れられない。「赤い天使」では戦傷で足を切断する兵士を全身で抑えつける演技がすさまじい。こんな演技をさせられた「美女スター」も珍しいのだろう。「爛」では水谷良重の妹と取っ組みあい、「からっ風野郎」では三島由紀夫とアクション演技をする。
(「清作の妻」)
 若尾文子が魅力的なのは、初期の「青空娘」や「最高殊勲夫人」だろう。どっちも源氏鶏太原作の他愛ない青春ものだが、「青空娘」のホントに見る者の心に青空が広がる。こんなに気持ちのいい青春映画もめったにない。オムニバス映画の「女経」(じょきょう)は増村の監督した第一話「耳を噛みたがる女」が一番面白い。若尾は水上(船)に住むキャバレーの売れっ子ホステス。ドライだけど可愛いという役柄を見事に演じている。木村恵吾監督「やっちゃ場の女」でも、若尾文子が野菜問屋を切り回す長女役を楽しげに演じていた。増村の「刺青」「卍」など谷崎作品の妖艶な映画も面白いが、「下町の働き者」なんかも実に可愛げに演じる女優だ。

 「偽大学生」は大江健三郎原作で、学生運動をカリカチュアする映画。ジェリー藤尾の「偽学生」が「政治的人間」の偽善を暴いていく構造に見応えがある。「偽学生」を演じたジェリー藤尾という不思議な俳優の存在が大きい。若尾文子は「日本の夜と霧」(大島渚)の小山明子のような「リーダーの女」役。芸者や下町娘が似合うんだけど、大学生も無難にこなしている。三島由紀夫を主演に起用した「からっ風野郎」は、持ち込まれ企画。三島と東大法学部同窓の増村が監督した。トークで若尾文子は「毎日祈っていた」と回想していたが、それほど三島の演技指導が大変だったのだろう。その熱意により、セリフ回しは思ったほどひどくはなかった。しかし、どう見ても映画俳優としての魅力に欠けているとしか思えない。セリフも演技も「友人」役の船越英二が登場すると、本職はこうも違うかと実感する。
(「からっ風野郎」)
 「文芸映画」というジャンルがあって、近代日本文学の名作は順番に映画化された。増村=若尾映画でも、「」(徳田秋声)、「」(谷崎潤一郎)、「刺青」(谷崎潤一郎)、「華岡青洲の妻」(有吉佐和子)、「千羽鶴」(川端康成)など。どれも新藤兼人の脚本で、その意味でも増村映画の主流ではない。「爛」は現代に置き換えていて増村「愛のアクション」系に近い。「卍」「刺青」に次ぎ、「痴人の愛」も安田道代主演で映画化されたが、増村作品は谷崎作品の「異常性」を生かした映画である。「華岡青洲の妻」は市川雷蔵(青洲)、高峰秀子(母)と若尾文子(妻)の壮絶な演技合戦。普通の意味で「名作」で、僕は好きになれないが、雷蔵作品として一つの頂点であるのは間違いない。

 1959年作品、川口松太郎原作、田中澄江脚本の「美貌に罪あり」は一種のオールスター映画で、87分の映画に山本富士子、野添ひとみ、若尾文子、川口浩、川崎敬三、勝新太郎、杉村春子が出ている。僕は非常に面白い映画だと思った。東京西部(多摩地区)で蘭作りをしている昔の豪農が、経済発展の中で没落していく。「桜の園」をモデルにした物語。杉村春子が母親で、山本、若尾、野添が三姉妹。母の思惑と違い、山本富士子は踊りの師匠勝新太郎と結婚し、若尾文子はスチュワーデスになってしまう。豪農の没落という話は珍しい。川口浩はオート三輪に乗って花を羽田に売りに行き、若尾文子に会いに行くのも興味深い。二枚目時代の勝新が山本富士子と踊る場面も何度かある。杉村春子と山本富士子が盆踊りを踊るシーンも貴重だ。貴重な社会派的映画にもなっている。

 16本撮った増村の若尾文子作品は、どれも技術スタッフの仕事が素晴らしい。特に美術や照明の力が大きく、撮影所システムで量産されていた時代のプログラム・ピクチャーの底力を思い知らされる。その意味では、どの映画も見る価値がある。話が多少変でも、技術で見せている。そういう映画の力を確認できるという意味で、50年代、60年代の傑作映画はもっと多くの人に見られるべきだろう。当時は戦争の記憶が皆に残っていて、特に戦争を取り上げた映画ほど、スタッフやキャストも実感がこもっている。そういう意味でも今後とも見ておく必要がある。
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「収容病棟」他-7月の新作映画

2014年07月29日 22時44分09秒 |  〃  (新作外国映画)
 今日、ワン・ビン(王兵)監督の4時間を超える記録映画「収容病棟」を見た。(シアター・イメージフォーラム)東京では8月8日まで(2日からは夕方からのみ)。全国のアート系単館映画館等で上映中(または上映予定)。これだけで一本書けると思ったけど、どうも僕には処理しきれない感じなので、7月に見た新作映画とまとめて書くことにしたい。
  
 例によってとんでもない迫力の映画だけど、とんでもなさが極まっている。何しろ中国雲南省の精神病院に通って、病棟の人々を撮ってしまったのである。今まで「鉄西区」という9時間の映画や反右派闘争に巻き込まれた人々、雲南の山奥に暮らす姉妹などを延々と見つめてきたワン・ビン。インディペンデント映画で国内で上映できないと思うけど、だからと言って撮影を許可する精神病院があったとは。収容者の人々も撮影の了解を(当然)取っているとのことだが、それにしても驚くべき世界である。

 ワン・ビンの映画にはナレーションや字幕説明がない。もっとも拡大公開されるような映画ではないわけだから、チラシを見て関心のある人が来ているわけだろう。当然、中国の雲南省の精神病院の映像だと判って見ているけど、これは一体何なんだろう。撮影許可を取っているんだから、病院としては特に非人道的とか不衛生と思ってないのだと思うが。でも、日本基準からすれば、ありえないような描写の数々。日本の精神病院も何十年も前に非人道的な扱いが告発されたが、こんなところが今もあるんだ。病院というより、「拘置所」というか、「収容所」というべき存在ではないか。いみじくも入所者が「ここにいると、精神病になってしまう」と語っているような場所なのである。

 ここには10年、20年と収容され続けている人がたくさんいる。プログラムを読むと、北京では戸籍を移す人もいると出ていた。これは「絶対にあってはならないこと」である。現在の国際的な標準からすると、何十年も遅れている。日本でも、今厚生労働省が「病棟転換型居住系施設」を認めようとしていることに対して、当事者による強い反対運動が起こされている。病院が住所になってしまうことは絶対に嫌だという多くの声がある。まさに「日本の中国化」である。中国は「発展途上国」というか「人権後進国」として、まだ精神医療に対する問題意識が低い段階で、警察や家庭からの「措置入院」が多いらしい。当事者の「孤独」や「愛」を語る感想がプログラムに多く出ているが、僕はその前に映像が見せる事実に驚愕したというのが大きい。映画ファンというより、精神医療、精神福祉関係者、中国研究者などがまず見るべき映画だと思う。

 最近はフィルムセンターでばかり見ていて、演劇や落語も行かず新作映画も株主優待しか見ないような状態だけど、7月1日のサービスデイに2本新作を見た。熊切和嘉が「私の男」を撮ったので見たかったのである。見たのは有楽町スバル座だけど、ここはネット予約も入場整理券もない。場内で待ってて、自由に座るだけ。70年の「イージーライダー」の時代より、場内の様子も変わってない感じ(まあ、椅子や映写、音響施設はリニューアルしてるんだろうけど)、その意味で「文化財的映画館」だと思ったが、上映開始後も天井の豆ランプや非常口の案内板が消えない。それはないだろうと驚いた。ということで気が散ったので、評価はもう一回見るときまで保留したい。ただ、原作よりいいところもあり、原作がないと判りづらい所もあるような感じ。あれで皆判るのか?まあ、原作を読んでる人が見るのか。俳優の肉体を得て、なるほどこういう話だったかと思った箇所は多かった。北の町の「背徳」はいいと思うけど、東京のシーンにどうかなと思うところが多かった。それと1993年の奥尻島地震と大津波も説明がいるのではないか。 
 「私の男」の前に、時間がうまく合うので「春を背負って」を見た。「剱岳 点の記」に続く木村大作の山岳映画。松山ケンイチ、蒼井優という配役を見ると、もうストーリイは判ったようなもんで、それでいいという映画。山のシーンは確かに素晴らしく、気持ちよく見られるので、これはこれで存在価値があるのではないか。ま、それだけとも言えるが、また3000メートル級に登りたくなったのも確か。
 
 外国映画では「ジゴロ・イン・ニューヨーク」が案外の拾い物で、渋目のニューヨーク映画が好きな人には逃せない。ジョン・タトゥーロが監督と主演で、ウッディ・アレンが監督作以外で久々の出演をしている。本屋がうまくいかなくなったアレンが、友人のタトゥーロを「ジゴロ」にあっせんする新職業を開始するという、二人のジョークから生まれた映画らしいけど、ウィットに富んでいて見応えがある。ニューヨークの季節の美しい撮影も見所で、こういう東京映画も欲しいなあ。シャロン・ストーン、ヴァネッサ・パラディの女優陣も素晴らしく、ユダヤ人厳格派の様子もうかがわれる。遊び心に、少し社会性とお色気をまぶして、大人の映画に仕上げる。この映画の企画には学ぶべき点が多い。まずは、遊び心で見るところから。
 もう一つ、音楽映画の「パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト」が面白い。実在した19世紀初頭のヴァイオリン奏者を生き生きと描き出す。主人公のわがままというか、天才と狂気がすごくて圧倒される。安定した出来で、クラシック系音楽映画として最近出色の「暑い夏に見て損のない映画」。どこもだれることなく一気に楽しめる。
 
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映画「her 世界でひとつの彼女」

2014年07月28日 23時37分21秒 |  〃  (新作外国映画)
 7月に見た新作映画をまとめて書きたいと思ったけど、今日見た「her 世界でひとつの彼女」が非常に興味深かったので、この映画だけ取り上げたい。今年のアカデミー賞オリジナル脚本賞受賞作品で、作品賞にもノミネートされた。この映画は、「人工知能」に恋してしまった男という「ワン・アイディア」を練り上げた作品で、確かに作品そのものとしては物足りない面もあると思うけど、結構いろいろなことを考えてしまい、「哲学的」な気分もちょっと味わえる(?)。声のナレーションを担当しているスカーレット・ヨハンソンがローマ映画祭で主演女優賞を獲得してしまったという映画でもある。
 
 主人公セオドア(ホアキン・フェニックス)は、手紙の代筆業をしている。幼なじみの妻と別居して、ふさぎがちの毎日である。ある日、誰より人間らしい人工知能(AI)を「購入」して、パソコンに「彼女」が住みつくことになる。「彼女」か「彼」かは選択可能で、セオドアは「彼女」を選択したので女性の声になるわけである。名前はサマンサ。これもAIが無数の名前を検索して一番いいと思った名を自分でつけたのである。このサマンサは人間の感情を理解できるようにプログラムされている。もちろんものすごいスピードで「読み取る」ことができるので、パソコン内を自由に読みまくって、いらないメールは削除しようと提案できる。ものすごく便利な「秘書」を雇ったようなものである。

 こうして孤独な毎日を「彼女」と過ごすうちに、彼はサマンサを「恋する」ようになる。しかし、それは「恋」?肉体のないヴァーチャルな存在と恋愛することは可能なのか?しかし、「初めての恋」にときめく「彼女」の「ときめき」は刺激的。でも、だんだん「感情的な行違い」も起こってくる。そして、思いがけない結末に…。

 監督・脚本はスパイク・ジョーンズ。「マルコヴィッチの穴」とか「アダプテーション」とかの不可思議な映画を作った人。ウィキペディアを見ると、かつてソフィア・コッポラと結婚していて、離婚後ミシェル・ウィリアムズと交際、破局後の今は菊池凜子と交際していると出ていた。主演のホアキン・フェニックスは夭折したリバー・フェニックスの弟で、「ウォーク・ザ・ライン」のジョニー・キャッシュや「ザ・マスター」の新興宗教に加わる退役軍人役など印象に残る。今回はありえないような「一人恋愛」という難役を見事に演じている。でもサマンサのスカーレット・ヨハンソンあってこそかもしれない。

 この映画の面白みは、「恋愛の本質」を見る者に考えさせるところにあると思う。人工知能というかコンピュータとの恋愛は可能かというテーマも面白いし、これからはこういう世界になっていくのかと思わせる面もある。日本では「将棋ソフト」と本物の棋士との対局が行われているけど、いくらコンピュータが進化しようと、プログラマーがプログラムした以上に「進化」して自分でルールを改編するなどということはありえない。この映画で自由に考え判断し感情を持つような「人工知能」が描かれているけど、まあそこまでは無理だろう。

 でも、例えば「ペットの本質とは何か」と考えると、エサをあげたり排泄の世話をしなければならない「生きた動物」より「ロボットのペット」の方が楽だという人はいるだろう。だけど、それはペットを飼うという点では間違っている。まあそう思うけど、「ペット」である以上、飼い主に楽な方がいいではないかという考えもあるかと思う。しかし、恋愛は?「生身の人間」との面倒な関わりなくして、肉体のない「人工知能」と会話を楽しむ方がずっと心休まるだろうとも思うけど。

 一体「それは恋愛と言えるのか」と反問はできるけど、「恋愛でなくていいから、自分の気持ちが楽な方が優先する」と言われたらどうなのか?人工知能との「関係」が楽なのは、すべてのデータを相手が知っているからでもある。また、「恋愛という以上、セックスという問題はどうするのか」という大問題もある。この映画は、その問題に対して様々な思いがけないアイディアを示している。当然、人工知能の方も「性欲」を理解し共有できるという設定になっている。そうなると、毎日「会話」しているAIとの交際の方が、「写真花嫁」なんかよりずっと健全なのではないかという気もしてきた。

 「恋愛に肉体は不可欠か」と問いを立てると、愛する者が死んだあとはもう恋愛とは言えないのかということになる。病気で性的接触ができない状態となり、それがきっかけで別れたり別の異性を求める場合も多いだろうけど、別れないで「セックスはないけど、精神的に結びついた恋愛関係」を継続する人だっているだろうと思う。しかし、性関係はなくてもいいかもしれないが、病身でも看病や介護する「肉体」があるが、人工知能では接触することができない。これでは「初めから死んでいるのと同じ」ではないのか。だけど小説や映画、マンガなどの登場人物に「恋する」人は昔からいるだろうし。今やヴァーチャルなアイドルまでいる時代だし。

 「物語の本質は記憶」なんだろうなあと思う。登山をしているとして、登頂に成功して写真を撮ったりすることで、一歩一歩登って行った苦しい時間は「登頂した」という物語に回収される。その苦しい時間につきそって撮影を続けて記録映画を作ることはできる。そういう映像はいっぱいある。でも撮影クルーの方も登山していて苦しいはずだが、それは描かれない。人生も何か(仕事でもセックスでも食事でも排泄行為でも…)をしている間は、「名づけられない」肉体の動きをしている。終わった後で自分で「恋愛」などと名付けるのだと思う。誰かアドバイザーが欲しかったセオドアは、AIじゃなくて犬でも良かったし、他の女性でも良かったのではないかと思う。その時点では、肉体の有無は二の次だろう。しかし、「持続的な恋愛」になるためにはやはり足りないものがあった。

 ところで、サマンサの声はどうしてスカーレット・ヨハンソンだったのか。コンピュータ風の合成音声だったら、恋愛対象になっただろうか。いくら進化したという設定であるとはいえ、女優が演じるような音声が出るということなら、それは恋愛対象になってもおかしくはない感じがしてくる。でも、それってセオドアはスカーレット・ヨハンソンに恋していたということが、この映画の本質ではないのか。などと、つらつら考えてしまった。映画そのものとしては、確かにいま一つの面があると思うけど、何か気になって考えてしまうという意味では面白い映画ではないかと思う。
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偏奇館の跡-荷風散歩④

2014年07月25日 22時58分13秒 | 東京関東散歩
 永井荷風が1920年から1945年まで住んだ麻布市兵衛町(現・六本木1丁目)の「偏奇館」の跡を見たいと思って、過日出かけてみた。もう東京は猛暑で散歩どころではなくなってしまったけれど、一週間ぐらい前まではまだ「梅雨」だった。雨は多いが、大雨より曇天の方が多く、何しろ夏至の時期だから、夕方も明るい。けっこう梅雨どきは散歩日和だなあと思ったことだった。

 この「偏奇館」は東京大空襲で焼失し、荷風の長年に亘る蔵書類なども灰塵に帰した。かの「断腸亭日乗」だけは本人が持ち出して、その後知人を通して疎開させてあったので現在に伝わったのである。その後、そこに跡地を示すプレートが建っていたことは知っているが、行ったことがなかった。ところで、今回知ったのだが、その一帯は大開発され「泉ガーデンタワー」という巨大施設になってしまい、偏奇館跡のプレートも移動された。そのガーデンタワーの一角に碑があるということだったけど、詳しいことは知らないまま出かけた。その「泉ガーデンタワー」は東京メトロ南北線六本木一丁目駅に直結していると出ていた。南北線というのは、いつもは全く乗らない路線で多分数回目だと思うけど、ある日出かけてみて、探し回った。ウロウロしてしまったけど、結局裏の駐車場側に見つかった。高速道路側ではなく、泉屋博古館分館に向かう方である。最後の写真は泉ガーデンタワーの正面。
   
 「偏奇館」というのは、「偏った」「奇人」の館というにふさわしい名前だけど、もともとは荷風が建てたのではなく、坂の途中にあった洋館を買ったものである。ペンキを新たに塗って改装して転居したので「ペンキ」にかけて名付けたもの。生地は文京区小石川、その後親が建てた邸宅は新宿区大久保余丁町と「山の手」だった。その後、築地や木挽町(東銀座)などに住んだこともある。勤め先(慶應)にも近く、遊び場所(待合)にも近く、医者にも通院しやすい。そのうえ、若い時に書いているものも「下町情緒」みたいな話が多く、下町に住んでみたかったのである。でも実際に住んでみると、人間関係がうっとうしい、近所がうるさい、静かに本が読めない(日比谷公園まで逃げていって読書している)ということで、下町を逃げ出すことにしたのである。他にも見たけど、結局麻布の坂の家に決めた。当時は繁華街には遠く、郊外とまでは言えないがかなり外れに近い。(当時も麻布区で東京市内だけど、渋谷は豊多摩郡だった時代だから、「東京市の外れ」なのである。)

 川本三郎「荷風と東京」97頁に当時の地図が載っているが、それをみると偏奇館のすぐそばが住友の屋敷である。ガーデンタワーの頭にある「泉」というのは、もともとは住友の屋号だそうで、この一帯は住友の地所だったのである。今もガーデンタワーの最上階は「住友会館」と書いてある。近くに「泉屋博古館別館」という美術館があるが、そこも住友所蔵品の美術館だった。ということで、住友不動産が大規模開発を計画して20世紀末に計画が進み、2002年に工事が完了したのである。それによって偏奇館があった坂そのものが無くなってしまった。偏奇館の跡地はタワー内のどこかのエスカレーターかなんかがあるところ。空襲は屋敷は焼いても地形をここまで変えることはない。六本木一帯は巨大開発により、もともとの地形は全く影も形もなくなり「土地の記憶」も無くなったところが多い。

 もともと住友の隣にスペイン公使館があり、それは今も変わらずスペイン大使館となっている。偏奇館に至る坂道もほとんど無くなったわけだけど、裏の方にある「道源寺」とその下にある「西光寺」は残っている。その道が「道源寺坂」で、荷風のいたころを多少ともしのばせるのは、その坂道ぐらいだろう。もっともこの道も舗装され歩きやすくなっているわけだが。
    
 磯田和一「東京遊歩東京乱歩 文士の居た町を歩く」(河出)という10年前に出た絵入りの本があるが、そこには以前の偏奇館跡地のプレート近辺の絵が載せられている。でも、本が出た時点でガーデンタワーは完成していたはずだから、もっと前に見てきたものだろう。荷風は土地もその後買っていたのだが、戦後はその場所に家を再建せず、千葉県市川市に住んで浅草に通った。土地は売ってしまったので、もう跡地には他の家が建っていた。絵をみるとアパートかなんかのようである。でも一帯は坂道の中に家が立ち並んだ地区だった。昔は市電(都電)かバスしか足がなかった地域だけど、今は少し歩けば地下鉄が何本も通っている。時代が違うと言えば、もう他の言葉もいらないようなもんだけど、今は高速道路と超高層ビルの町である。この「発展」は喜ぶべきか。僕には悲しいだけだ。
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川本三郎「荷風と東京」を読む

2014年07月23日 23時15分01秒 | 本 (日本文学)
 川本三郎荷風と東京 『断腸亭日乗』私註」を読んだ。というか、まだ最後の「田園に死す」という戦後の章が残っているのだが、これは読み終わるのが惜しくて残してある。これは「読んだ」というより「やっと読んだ」であり、「読まずに『荷風散歩』なんか書いてしまってすみません」という感じの本である。雑誌「東京人」に1992年1月号から1994年12月号にかけて連載され、加筆のうえ1996年9月に都市出版から刊行された。川本三郎さんの本はいっぱい読んでるし、荷風にも関心がある訳だけど、僕が買ったのは2003年2月発行の第14刷である。あまりに分厚い本で、持って帰るのが大変そうで買うのも少し躊躇したのである。今回もいつも持ち歩くのではなく、散歩する日などは川本三郎「荷風好日」の方を読むことにし、一週間以上かけたのである。
(「荷風と東京」)(「荷風好日」)
 注、索引を入れて606頁、ちなみに重さも量ってみたら971グラムもある川本三郎の文学論、東京論の集大成で、読むのは大変は大変だけど、荷風だけでなく近代文学史、社会史に関心が深い人には面白くて止められない本だろう。永井荷風の日記である「断腸亭日乗」をもとに、そこに記載された東京散歩の跡を訪ね、関連史料を渉猟し、荷風の精神史を明らかにする本である。ほんと、これまで誰もやってなかったのが不思議。川本三郎はそれまでに「大正幻影」という傑作評論を書いているし、東京(だけでなく)散歩記もいっぱい書いている。まさに人を得たという感じの本である。もともと映画論、都市論が中心だっただけあり、大正、昭和の東京の大衆文化への目配りも行き届いている。

 ということで、言うことなしの読書体験だったけど、今ごろ読んだのは遅かったという悔いは大きい。荷風の住まい(新宿区余丁町=断腸亭)は大逆事件で幸徳秋水らが処刑された東京監獄はすぐ近くだったなどと前に書いたけど、そんなことはこの本の一番最初に書いてあった。荷風自身が書いているということだ。もっとも自分で散歩した意味はやはり大きいのだが。僕の場合、荷風が後に「発見」する浅草や玉ノ井や荒川放水路などは別に珍しい場所ではないのだが、荷風の生まれた小石川や断腸亭のあった余丁町(駅で言えば、大江戸線の若松河田や新宿線の曙橋の付近)などは、「荷風散歩」をしようと思わなければ歩くことはなかったと思う。

 東京も梅雨明けし、もう散歩する季節でもなくなってきたが、荷風が住んだ現六本木一丁目「偏奇亭」の付近はこの前訪ねてみた。(この本に地図がある。)もちろん今はすっかり変わってしまった。坂そのものが無くなってしまったのである。この本が出た後ですぐに行っていれば間に合ったはずである。その他、東京もどんどん変わっていく。耐震化の問題もあり、やむを得ない場合が多いと思うが、それでもさらなる東京五輪に向け、50年前の五輪の時に起こったような「過去の記憶の虐殺」がいっぱい起こるはずだと思う。荷風の跡を訪ねるなどというのはもう無理で、道端の説明板を眺めるだけだけど、高度成長期のものもどんどん無くなっているのではないかと思う。それに「負の記憶」あるいは「文化の記憶」がないがしろにされることが多い。今見ておくべきものは多いはずだ。

 その「偏奇亭」は東京大空襲で焼失しているが、その前大正時代にはちょうど坂の真向いのあたりに「山形ホテル」というプチホテルがあり、荷風は朝食などに毎日のように利用していた。荷風の盟友だった市川左團次(2代目、演劇改良に務め、ソ連公演などもしたあの左團次)ともそこでよくあっていた。慶應時代の荷風の弟子である作家、佐藤春夫が山形ホテルで「缶詰め」になった時に荷風と久しぶりに会ったという。(佐藤春夫「小説永井荷風伝」岩波文庫)その山形ホテルとはどういうものか。僕も初めて知ったのだが、戦後の日本映画の名作にいっぱい出演している(大部分が悪役)山形勲という俳優が、この山形ホテルの経営者の子どもだったのである。山形勲の貴重なインタビューが載せられている。1996年に死去しているから、これは時間的にギリギリだった時期のインタビューだった。テレビにもいっぱい出ていたから、ある程度以上の年齢の人なら、顔を見ればあの人かと判ると思う。
(山形勲)
 もっと思いがけない話は、伊藤智子(さとこ)という「女優」との関わりである。成瀬巳喜男監督の「妻よ薔薇のやうに」に出演している。千葉早智子、丸山定夫、英百合子などに次ぐ順番だけど、フィルムセンターの階段にこの映画のポスターが貼られていて確かに載っている。1935年のキネマ旬報ベストワンを獲得したトーキー初期の名作である。この「伊藤智子」と荷風が大正時代に関係していたことが日乗に書いてあるという。ところで問題は、実はその当時智子は結婚していたのである。それも相手が軍人、よりによって本間雅晴だったのである。フィリピン攻略戦を指揮し、後に「バターン死の行進」の責任者として銃殺された、あの本間中将である。本間の海外滞在中のことで、後に離婚している。
(「妻よ薔薇のやうに」ポスター)
 その後、舞台美術家の伊藤熹朔(きさく)と結婚して「伊藤智子」となる。伊藤熹朔は戦前は築地小劇場の舞台美術をしていたが、戦後は新劇や映画の美術で大活躍をした。映画で言えば、溝口の「雨月物語」、豊田四郎の「雁」「夫婦善哉」「雪国」などの忘れがたい作品がある。荷風の映画化である「渡り鳥いつ帰る」や「濹東綺譚」も手掛けているから面白い。荷風だけでなく、本間や伊藤も近現代史に関心がある人には知らない人がいない有名人である。その3人と関係があった「伊藤智子」とはどういう人物だろうか。もともとは田村怡与造 (たむら・いよぞう)という明治の陸軍軍人の娘だという。田村も日清戦争などに出てくる人物で、一応歴史に名を残す人物である。

 荷風散歩のあれこれ、女性との関わり、経済状況などは本書でじっくり読んでもらうとして、あとは戦時下の荷風について。荷風ほど戦争に冷淡だった有名人はいないと思う。様々な人物の日記が明らかになっているが、表立っての発言はもちろん、日記などでも日本軍の「戦果」を大喜びし、戦況に一喜一憂している人がほとんどである。しかし、「同盟国ドイツ」がポーランドに侵攻した時に「シヨーパンとシエンキイツツの祖国に勝利の光栄あれかし」と書いている。シエンキイツツとは「クオ・ヴァディス」などを書きノーベル文学賞を得たシェンキェヴィッチのことである。ここまで「世界情勢を逆さまに見ていた」人は同時代にそれだけいたのだろうか。

 その荷風が戦後はパッとしない。谷崎潤一郎が戦後も大活躍し、「鍵」「瘋癲老人日記」など問題作を連発するのに対し、嫌いな軍人がいなくなり、性表現もかなり緩くなった戦後にこそ活躍しそうな荷風があまり重要な作品がない。全財産を持ち歩くなど「奇矯な行動」がマスコミに有名になった「変な老人」に思われてしまった。川本三郎はしかし、その背後に「空襲のシェル・ショック」を見ているのである。荷風は東京の2大空襲にあっている。3月10日の大空襲は荷風の愛した下町を焼き尽くしただけでなく、荷風の住む偏奇館をも焼いてしまった。東中野で友人宅にいた時に5月25日の空襲にあい、ほとんど間近に焼夷弾が落ちて辛くも生き延びた。その後、疎開を考え、明石にいた時も空襲にあい、岡山に行くとそこでも空襲にあった。

 ここまで空襲に痛めつけられた作家は他にいないだろうし、日本人全体を見ても数少ないのではないだろうか。この恐怖の体験が、戦後の荷風をして、さらに偏屈な老人、創作意欲を失った作家にしたと言うのである。非常に説得力があるのではないか。なお、「断腸亭日乗」は偏奇館空襲の時に持って逃げ、後にいとこを通して別の場所に疎開させていた。そのため今も読めるわけで、全く間一髪で貴重な文学財産が残されたのである。とにかく、この本は荷風や東京散歩に関心が薄い人にも、是非読んでもらいたい本だった。大著なので、なかなか大変だけど。なお、その後岩波現代文庫に上下2巻で収録されたが、上巻は品切れになっている。古書ではネットですぐに買える。(2020.5.9一部改稿)
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革命の子どもたち-7月の映画日記①

2014年07月22日 23時33分01秒 | 映画 (新作日本映画)
 最近はフィルムセンターで増村保造作品をいっぱい見ているが、それはもうすぐ別にまとめたい。他にも興味深い映画は新旧問わずいっぱいあるけど、もうすぐ終わるので「革命の子どもたち」を見てきた。テアトル新宿で昼間と夜に上映、25日まで。
 
 これはアイルランドの記録映画監督、ジェーン・オサリバンが撮ったフィルムで、ドイツと日本でかつて「テロリスト」と呼ばれた「極左」グループのリーダーを母親として生きてきた二人の女性の姿を追った映画である。一人は「日本赤軍」の重信房子の娘、重信メイ、もうひとりはバーダー=マインホフ・グループのウルリケ・マインホフの娘、ベティーナ・ロールである。ウルリケ・マインホフは1976年に獄中で自殺しているので、当然のこととして映像でしか出てこない。重信房子は2000年に日本で逮捕され、日本赤軍の関与したハーグ事件等で起訴された。無罪を主張したが、2010年に懲役20年の判決が確定しているので、こちらも当然本人は過去の映像でしか出てこない。

 ということで、二人の娘と過去の映像のモンタージュで構成された映画だけど、非常に興味深い現代史の証言になっている。当時の西ドイツの「過激派」に関しては、「バーダー・マインホフ」という映画になって日本公開されている。僕も見たけど、マインホフに娘がいたことは描写されていたのかもしれないけど、ほとんど記憶がない。一方、重信メイはパレスティナの闘士との間の子で、国籍自体がないままに育った。重信房子逮捕後に、初めて存在が公表され日本国籍を取り、その後は日本で生活し、今はジャーナリストとして活躍している。話を聞いたこともあるけど、いろいろな意味で非常に賢く魅力的な女性だと思う。

 その二人の過酷な人生が初めて世界に発信されたと言えるのが、この映画だろう。革命家の親を持った子どもの生き方は様々だが、重信メイは過酷な運命を引き受け自らの人生を切り開いてきた。母親と父親の特殊性、つまり「普通の家庭」のように親に庇護された幼年時代を送れなかったということだけでなく、イスラエルのレバノン侵攻と虐殺のような恐るべき惨状を幼い目で見なければならなかった。しかし、日本とアラブの「二重性」を自分のアインデンティティとして誇りを持って生きている。そういう重信メイの姿は、今の日本で多くの人に勇気を与えるのではないかと思う。

 今では若くして「世界革命」を語るなど信じられないような社会だけど、わずか40年ほど前には激しい抵抗の時代があった。若い世代にも見ておいて欲しい現代史の貴重なドキュメントである。ガザ地区へのイスラエル侵攻などを考える前提としても、是非見ておきたい映画。
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銀座で食べる他-銀座散歩⑤

2014年07月22日 00時32分14秒 | 東京関東散歩
 いつまで書いていても仕方ないから、銀座散歩は今回で一応終わりにしたい。銀座にはいろいろなものがある。例えば、「画廊」が一番多いのは今でも銀座だという話で、検索すると一覧のようなものが出てくる。でも僕が知っているのは「日動画廊」ぐらい。ここは数寄屋橋交差点から外堀通りを少し行ったところにある。今回歩いていて銀座8丁目に「月光荘」があった。今は画材店だけだけど、昔は画廊もやっていた。(月光荘事件というのがあったので、名前だけ何となく記憶していたのである。)映画の「銀座の恋の物語」では、浅丘ルリコが銀座で「お針子」をしている。銀座には昔はシャレた洋服、帽子などの店(ブティック)がいっぱいあったのではないか。今は多分、表参道や代官山などにいっぱいあるんだろう。並木通りを歩いていて「ヒロコ・コシノ」の店があった。コシノジュンコ(小篠淳子)の姉で、ファッション界のコシノ三姉妹の一番上。漢字で書くと小篠弘子なんですね。
  
 数寄屋橋交差点から有楽町マリオン(旧日劇)へ行くところに「西銀座デパート」がある。東銀座という地下鉄駅はあるけど、「西銀座」は今はない。今村昌平監督に「西銀座駅前」という小品があるけど、どなたかのブログに「今村昌平は映画の中で架空の駅名を使った」などと書いているのを読んだことがある。しかし、東京で2番目の地下鉄、丸の内線が出来た時、銀座駅は西銀座駅と言ったのである。銀座線(中央通り)と丸ノ内線(外堀通り)は並行して走っている。そこに1963年に日比谷線が晴海通りの地下に開通した。この結果、三つの地下鉄路線は全部「銀座駅」に統一されたのである。1957年から1963年までという短い間だけ、西銀座駅があったわけだ。その向かい側には、プランタン銀座(もともと今はなきダイエー系の商業施設だった)、丸の内東映銀座教会などが並んでいる。この銀座教会というビルも最初に見た時は結構ビックリしたものである。一度だけ迷い込んだときがある。日時も覚えていて、1972年12月24日、つまり降誕祭前夜のことだった。教会ビルから交差点よりに「塚本素山ビル」がある。塚本素山という人は元は軍人、戦後は実業家で、一種の政商のような人だった。創価学会とのつながりが深かった。ここの地下一階に「日本で一番有名なお店」がある。
 
 それは「すきやばし次郎」のことで、もちろんオバマ大統領来日時に安倍首相と行ったところである。というか映画「二郎は鮨の夢を見る」という記録映画の舞台。ホームページを見ると、前月の一日に翌月の予約開始。8月はもう一杯。おまかせコースで3万円とある。お店の前まで行ったけれど「写真お断り」と英語で書いてあった。だから店の写真は止めて、塚本素山ビルの地下入り口の店名だけ撮ってきた。僕は多分行くことはないだろうと思うけど、それは値段や予約の問題ではない。実はお寿司はあまり好きではなく、人生で寿司屋に行ったことが数回しかない。社会勉強としてなら、まず回転寿司に行く方が先なんだろう。

 ところで、「銀座で食べる」という題名にしたけど、実は「銀座では食べない」。高いということもあるけど、家に地下鉄一本で帰れるので「デパ地下で買って家で食べるか」になりやすい。有名な店は値段もだけど、どうも敷居が高いので、映画を見た後なんかにくつろげない。だから一時はシェーキーズによく行っていた時がある。中央通り(2丁目か3丁目あたり)にあったのである。村上春樹の「ダンス ダンス ダンス」で五反田君と「僕」がよくシェーキーズで会うのと同じで、バイキングという「匿名性」が気楽だった。歳とると行かなくなったけど。

 外で一番食べるのはカレーなんだけど、銀座では2丁目の「メルサ」の4階の「オールドデリー」がお奨め。名前で判るように北インド料理で、ナンが美味しい。サモサもいい。そんなに混んでないのもいい。銀座でカレーと言うと、東銀座の昭和通り沿い、歌舞伎座の近くに有名な「ナイルレストラン」がある。このナイルというのは、ナイル川ではなくて店主の名前から取ったもの。初代は独立運動弾圧を逃れて日本に来た。戦時中は日本軍とも協力した過去があるが、戦後1949年に開店した。昔、池袋西武に店があってよく食べに行ったし、本店にも行ってるけど「ムルギーランチ」ばかりすすめられて「混ぜて混ぜて」というのがちょっと鬱陶しくて最近は行ってない。今回久しぶりに見に行ったら、両隣の高いビルに囲まれ、自分のビルで頑張っていた。他に「カツカレーの元祖」、グリル・スイスもある。巨人の選手だった千葉茂が常連で、その求めで作った。和光裏のガス燈通り。
  
 銀座の「甘いもの」の名物は何だろうか。美味しいケーキ屋なんかが集中してそうだけど、それは昔の話かもしれない。いや、デパートなんかは別。松屋なんか、いくら見てても飽きないようなスイーツが並んでる。洋物はデパートに吸収されてる感じではないか。しかし、和菓子なら有名なものがある。「空也もなか」である。東京のもなかでは最強レベル。僕の中では、上野のうさぎやの「どら焼き」や長命寺の桜もちなどと並ぶ位置にある気がする。でも、これを店で買うのは大変。6丁目7番にある店には、いつも「売り切れ」の紙が貼ってある。もう銀座の風物詩に近い。基本は「予約」が必要なのである。でも、今回探していて、この空也もなかを一個でも食べられる店を発見した。松屋デパートの真裏に花や野草の店があり、そこの2階に「茶房野の花」という、銀座の隠れ里のようなスペースがあるのだ。いや、通り一本隔てただけで、こんなに静かな店があるのか。ここで「空也もなかとお茶(またはコーヒー)」が頼めるのである。非常に小さくて可愛らしい「もなか」だけど、やはり美味しい。
  
 後は銀座の有名な店をピックアップして載せておきたい。行ったことのない店ばかりだけど。新橋寄りに名店が多い。中央通りを8丁目(7丁目交差点)まで行くと、かの有名な「資生堂パーラー」。名前は昔から有名だけど、こういう店は親に連れられて行った経験でもないと、知らずに通り過ぎてしまう。こういう店に入るという文化を身に付けてないので。どこから撮っても自分が映ってしまうので写真が難しい。1902年創業の超有名店。メニューも撮ったので、一応。
  
 もう中央通りが終わるあたりに天ぷらの「天國」。「ハゲ天」とか「天一」とか有名店は多いけど、何しろ1885年開業という歴史がある。中華では「維新號」。1899年神田で創業し、戦後に銀座に開店した。肉まんで有名らしい。どっちも8丁目。7丁目に「銀座ライオン」。1899年創業のビヤホールの元祖である。ここも残念ながら入ったことなし。資生堂パーラーの道向かい、三菱東京UFJ銀行の並びに、「カフェ パウリスタ」がある。この名前は大正時代の文献によく出てきて、大正時代のモダン東京の象徴のような喫茶店だった。震災で焼けて無くなったはずが、同じ経営者のもとで1970年に復活したのだという。そのことを森まゆみさんの本で知っていたけど、今回初めて場所を知った。でも、まだ入ってない。僕のよく行く場所からすると、コーヒーを飲むには遠いのである。いずれ、また。店名はブラジルの「サンパウロ」から来ていて、まあ「パウロっ子」とでも言った言葉らしい。最後に3丁目、和光の裏をずっと道を燃えてしばらく行くと、洋食の「煉瓦亭」。1895年創業の、日本の洋食を始めた店の一つ。カツレツを考案したという。カキフライ、エビフライ、メンチカツなど、皆この店が始まりと森まゆみ「明治・大正を食べ歩く」(PHP新書)という本にある。高いステーキ屋と思い込んでいたけど、銀座にしては手が届く洋食屋と知ったので、いずれ入ってみたいと思う。
    
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新橋芸者の世界-銀座散歩④

2014年07月19日 23時35分38秒 | 東京関東散歩
 世界はイラク、ガザ、ウクライナとますます風雲急を告げているが、僕にはニュース以上の情報もないし、まだ銀座散歩の続き。今回は、今までよりさらに時代離れした「新橋芸者」の話。半分以上は「荷風散歩」の続きでもある。地名としては銀座を少し出るときもある。というか、そもそも「新橋芸者」というんだから、新橋だろうと思われるかもしれない。新橋というのは、JR山手線で東京駅から有楽町を経て2つ目の駅である。行政としては港区になる。

 ところが、それが違ったのである。荷風の年表を見ると、一度結婚したが父の死後すぐに離婚、なじみの芸者だった八重次と結婚したが、再び一年もたたずに離婚、という有名な話が出てくる。この「八重次」という人が「新橋芸者」だとある。荷風の代表的な傑作のひとつ「腕くらべ」は、新橋芸者の世界を描いたとある。主人公の芸者は金春通りに置屋があるとか、ひいきの役者が新富座で公演するとかという話が出てくる。そこで調べてみると、新橋芸者とは「銀座の芸者」のことだったのである。

 先に新橋の説明として、東京駅から2つ目と書いたけれど、これは今の東京人の脳内地図では大体そう書いてあると思う。山手線(東京環状線)は東京駅が起点のように思い込んでいるからである。でも、東京駅の開業は1914年、つまり今年が東京駅100年なのである。有楽町駅は1910年の開業、神田、秋葉原などはもっと後で、そもそも明治時代には山手線はなかったのである。日本の鉄道は1872年に新橋ー横浜間が開業した。その話は教科書で習っていても、以後のことは意識しない。最初は品川から大きく山の手側にアルファベットのCの字のように鉄道が整備されていったのである。上野-新橋間の敷設が遅れたのは、各地の城下町などによくあるように、中心部の商業中心地には鉄道を引きにくかったためだという。環状運転が開始されるのは、1925年のこととなる。

 東京駅がないんだから、明治時代には首都東京の表玄関は新橋駅(今の汐留)だったのである。もちろん地下鉄なんかないから、銀座というところも新橋駅が最寄り駅である。だんだん路面電車(後の東京市電、今の都電)が発達してくるが、それまでは新橋が銀座の正面出口だったのである。だから、今でも銀座や築地の芸者を「新橋芸者」と呼ぶし、芸者の組合は「東京新橋組合」となるが、場所としては「銀座8丁目」にある新橋会館にあり、その前の通りは「見番通り」と呼ばれている。
  
 もっとも「新橋会館」というのは単なる商業ビルに見える。「見番通り」も特に風情があるわけではない。ホームページによると、「東京新橋組合」は料亭部芸妓部に分かれ、新橋会館の7階に芸妓部の事務所や稽古場がある。でも、この一帯はバーやクラブなどが多く、夕方ともなれば和服姿の女性が多く行き来している。そういう中に芸者さんもいるのかなと思うけど、まあ銀座では歩いていて出会えるという感じではないと思う。見番通りは、中央通りの7丁目交差点、資生堂パーラーのところから花椿通りを西へ行って2本目の通り。1本目が「金春通り」である。ここは江戸時代に能役者の金春家の屋敷があったところだという。屋敷は後に移ったが、跡地に芸者が集まり花街として栄えたと解説プレートに出ている。この通りも今も飲み屋が多いようだが、「金春湯」という銭湯がある。 
  
 京大阪には立派な演舞場があるが東京にも作りたいと作られたのが「新橋演舞場」だという。1925年のことである。後、松竹に興行を委託し歌舞伎などの興行を行っているが、もともと新橋芸者の芸向上のため造られたところで、今も「東をどり」を行っている。ホームページの「演目・出演者紹介」というところを見ると踊りの動画が見られる。これもホームページで見つけたのだが、8月の終りに「なでしこの踊り」という催しが行われる。新橋演舞場地下特設会場にて、「一見さんお断りの新橋花街文化を、夏の涼みとともに味わう特別な五日間」だそうで、「お座敷遊びの体験と新橋芸者衆の芸の神髄を、新橋演舞場の会席弁当とともにお楽しみいただきます。」とのこと。料金は9000円なり。この新橋演舞場の真ん前が、かの有名な料亭の「金田中」である。もちろん今回調べて知ったのである。塀が長く続いて店の名が小さい。料亭は皆そんな感じ。3枚目は夜散歩した時。
  
 新橋組合の役員名簿を見ると、「金田中」(銀座7丁目)や「新喜楽」(築地4丁目)などの超有名料亭の名前がズラッと並んでいる。つまり、花街というのは「一見さんお断り」の高級料亭で芸者を呼んで芸を楽しむところということになるか。「新喜楽」というのは築地市場やがんセンターの真ん前にある料亭で、芥川賞・直木賞の選考会が開かれることで有名である。佐藤栄作元首相が倒れたところとも出ている。この二つの店は僕でも名前ぐらいは聞いたことがあるが、もちろん行ったことはない。この二つが「日本の二大料理屋」なんだそうで、これに「吉兆」(東京店)(銀座8丁目)を加えて「日本三大料亭」なんだという。最初と2枚目の写真が「新喜楽」、最後が「吉兆」。料亭は大体似た感じの外見。
  
 東京で今も芸者のいる街(花街)は、「東京六花街」という。柳橋、芳町、新橋、赤坂、神楽坂、浅草。芳町は人形町の地名、柳橋は浅草橋で降りて隅田川沿いの一帯で幸田文「流れる」の舞台だけど、だんだん衰退して今は一つも料亭がない。そこで柳橋を除き、今は向島を入れて「六花街」と呼んでいるとのこと。昔は柳橋と新橋で「二橋」と言われたらしい。江戸時代は柳橋が一番栄えていたが、その分旧幕びいきで薩長を田舎サムライとバカにした。薩長新政府の中心が霞ヶ関、日比谷などに置かれたため、明治になると新政府は新橋(銀座)を主に使った。ということで、権力と結びつき政治家や実業界と持ちつ持たれつ、花街が栄えてきたという歴史。今は芸者が少ない街もあるが、中では新橋は50人以上いて、ホームページに顔を載せている人も多いので、関心がある人は見ることができる。まあ、もちろん美人ぞろい。
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銀座の建物、今昔-銀座散歩③

2014年07月17日 23時00分00秒 | 東京関東散歩
 銀座もどんどん新しくなる。6丁目にあった松坂屋銀座店が取り壊され、新しい商業施設が建設されようとしている。銀座中央通りで一番北にあった「ホテル西洋銀座」、そしてそこにあった劇場「ル・テアトル銀座」、映画館「銀座テアトルシネマ」も昨年閉鎖され、もうすぐ解体される。2丁目にあってよく行く文具店「伊東屋」も改築中で、今は松屋の裏で仮営業中。ここはもともとは1904年創業だという。写真はホテル西洋銀座、松坂屋跡、工事中の伊東屋。
   
 中央通りは外国高級ブランド店がずらっと並んでいる。どうも銀座にふさわしいのかなあと思いつつも、銀座なら必ずホンモノのブランド品が手に入るというのも、アジア全体を考えれば必要なことなんだろう。1925年に銀座店を開店した松屋銀座店は銀座を代表するデパートだけど、その周りがブランド店集中地域。夜に行くと、シャネルの壁に映像が流れて面白い。松屋の隣がルイ・ヴィトンで、道を隔ててブルガリ、少し行くとティファニーがある。中央通りの向かいがシャネル。
  
 それでも銀座には超高層のショッピングビルはなく、昔からの店も結構残っている。それに古い建物も少しはある。今回知ったのだが、銀座に「東京都指定歴史的建造物」が3つある。2丁目の「メルサ」の裏にあるのが「ヨネイビル」。上の方には会社が入っているようだけど、1階には「アンリ・シャルパンティエ」という神戸のお菓子屋が入っている。1930年建築の非常に趣のあるビルで、震災後のモダンな銀座のムードを今に伝えている。
    
 銀座の外れの方、一丁目の一番東、三吉橋の近くにある「鈴木ビル」というのも歴史的建造物。でも、ここは周りを建物に囲まれて写真が撮りにくい。しかも時間的に太陽が当たって、あまりよく撮れていない。1929年建築で、寄席などに使われた建物らしいが、中を見られないのでよく判らない。
  
 三つ目が「藤村・透谷の碑」のある泰明小学校なんだけど、現役の学校だから、自由に入れない。小学校だから夕方にはもう閉まっている。一方、銀座西6丁目の電通銀座ビルは、都ではなく中央区の歴史的建造物だけど、昭和モダンの様式美が美しい。1934年建築のビルで、当時は電通本社(日本電報通信社)だった。銀座にはこういうビルがまだ残っているのである。銀座散歩も面白い。
    
 一方、昔の姿がないもの、全く影も形も無くなったものも多い。6丁目にある交詢社ビルは、2004年に建て直されて、以前の名残りはファサード(正面)だけ残されている。交詢社(こうじゅんしゃ)というのは、福澤諭吉の提唱で作られた実業家社交クラブである。70年代にここのホールが映画上映に利用されていて何度か行ったことがある。非常に古い感じのビルが残されていて、エレベーターに年寄りの係員がいたのが昔風だった。今は改築されショッピングビルになっているが、上の方にはドレスコードのある交詢社があって、裏へ回ると車がズラッと停まっている。
  
 僕が一番出かけているのは映画館や劇場なので、東京の町はそれで覚えていった。近くの日比谷や有楽町には映画館や劇場が多いが、千代田区だから銀座散歩から除く。普段は区境などほとんど意識していないが。今の銀座にはあまり劇場や映画館が少ない。歌舞伎座は銀座だけど、新築の時に写真を載せたので今回は扱わない。そうすると、銀座8丁目の博品館劇場、東銀座の新橋演舞場ぐらいか。(銀座能楽堂もある。)映画館も少なくなって、丸の内TOEIと和光裏のシネスイッチ銀座ぐらいだろう。シネスイッチ銀座というのは、1997年までは「銀座文化」と言っていた。「ニュー・シネマ・パラダイス」や「ライフ・イズ・ビューティフル」「かもめ食堂」などをやった映画館である。劇場じゃないけど、かつて銀座7丁目に「銀巴里」というシャンソン喫茶があった。調べると、1951年~1990年とある。美輪明宏、戸川昌子、金子由香里などが活躍した場所である。ここは跡地に「元銀巴里跡」の碑が残っている。写真は銀巴里跡、博品館、シネスイッチ。
  
 ところで、跡地の碑もなくすっかり消え去ったけど、僕が一番行った銀座の場所は、「銀座並木座」という小さな名画座である。並木通りの2丁目のビルの地下にあった映画館で、館内に柱が建ってて見にくい場所があるようなホントに小さなところだった。番組は特に最後の頃は古い日本映画に特化していて、小津や成瀬、黒澤などをいっぱいやっていた。僕はここで黒澤と小津を初めて見た。高校生の時で、「天国と地獄」や「東京物語」があまりにも面白く、続けて2回見てしまった。でも古い映画ばかりではなく、土本典昭の「水俣」もここで見たし、文化祭の後で藤田敏八の「八月の濡れた砂」を見たのもここ。大好きな映画で、大学生になってまた見に行った。主題歌を歌った石川セリが来ていて、歌ったことをよく覚えている。井上陽水夫人になった人である。今は何の痕跡もないけど、「銀座並木通りビル」が建っているあたりにあったのではないかと思う。
 
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銀座の碑-銀座散歩②

2014年07月16日 23時54分35秒 | 東京関東散歩
 「銀座」という地名は、今や「町の中心の商店街」という一般名詞に近いけど、もちろん元々は江戸時代の貨幣鋳造所のことである。「金座」とか「銭座」というのもあったけど、とりあえず「銀座」は今の銀座2丁目付近にあったとされる。中央通りの2丁目に「銀座役所跡の碑」が建っている。そこから始めて、銀座の記念碑をまとめて紹介しておきたい。地図で上の方の1丁目から挙げると、まず「銀座入口」付近に「銀座ガス灯の碑」がある。
  
 4丁目には「真珠王の碑」があるが一回目に載せた。4丁目から有楽町の方に曲がって高速道路の方まで行くと、4丁目と5丁目にかけて「数寄屋橋公園」がある。「数寄屋橋」(すきやばし)というのは、もともとは外濠に架かる橋の名前で、今は新橋とか京橋とか川がないからただの地名と思っているしまう人もいるけど、もちろんちゃんとした橋なのである。「君の名は」で待ち合わせたのが数寄屋橋で、昔の映画を見ればその様子が判る。でも1958年に埋め立てられ、今は東京高速道路になっている。その付近に数寄屋橋公園が作られ、ここまでが中央区銀座。その先の日劇(現マリオン)は千代田区有楽町である。僕は数寄屋橋公園というと、赤尾敏という名前を思い出す。愛国党党首として選挙にいつも出ていた右翼で、日曜日にここを通るとたいてい演説をしていた。ほとんど「銀座の風物詩」に近かったけど、さすがに「赤尾敏の碑」などはない。それはなくていいけど、ここには碑がいっぱいある。4丁目側(マリオン側)からいくと、震災10周年記念の北村西望の彫刻銀座の柳並木の碑。そして「銀恋の碑」。デュエット曲として有名な「銀座の恋の物語」の碑である。これは石原裕次郎と浅丘ルリコ主演で映画にもなっている。
   
 晴海通りを渡って5丁目の方に行くと、「君の名は」の菊田一夫の手になる「数寄屋橋の碑」がある。そこには「太陽の塔」みたいな塔が建っているけど、常に誰かがずっと座っているから写真が撮りにくい。そこから中央区立泰明(たいめい)小学校の方に行く。ここは震災後に建て直された「復興小学校」で、1929年建設。東京都の歴史的建造物である。と同時に島崎藤村、北村透谷がここに学んだという碑がある。また学校の入り口に「みゆき通り」の説明プレートや泰明小100年の彫刻がある。まあ、明治天皇が通ったという「御幸」ということである。戦後に「みゆき族」というのがあったけど。
   
 6丁目6-7に「啄木の歌碑」がある。「京橋の瀧山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」とある。中央通りに戻ると「一橋大学発祥の地」の碑。8丁目まで行くと、10番地の「御門通り」の入り口に「芝口御門」の碑がある。元々は汐留川に新橋が架かり、江戸時代に「門」が作られていたという地だとある。今は銀座は「高速道路に囲まれた地」なんだけど、戦前までは「川に囲まれた地域」だったのである。皆埋め立てられて、今の人には全然実感がない。
    
 そうして中央通りを8丁目まで歩くと、もう新橋ということになる。そこに「銀座柳の碑」と「新橋の碑」がある。この銀座柳というのは歌の方である。その一帯は高速道路の下、道路のつきるあたりで、団体観光客の集合場所に使われている。今は銀座は外国人客が多くて、特にこの地帯は中国人観光客が多いのか、法輪功がキャンペーンしていた。他にもあるようなんだけど、とりあえず今まで見た碑のまとめ。撮ってあるのもまだあるけど、何しろ探すのが大変なので。
  
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銀座四丁目周辺-銀座散歩①

2014年07月15日 22時47分16秒 | 東京関東散歩
 日本橋から京橋まで散歩記を書いたから、次は「銀座散歩」の番である。だけど、初めは銀座を散歩するつもりはなかった。銀座は大きな店が多くて、買いもしないのに散歩しても面白くないのではないか。外国高級ブランド店ばかり集中して、昔のような「銀ブラ」の時代でもないだろうと思っていた。世に銀座通、銀座ファンは多くて、僕のように銀座になじみがない人間が語りにくい地域だとも思っていたのである。でも、歩いてみると結構面白いし、今まで書いた場所も別になじみではない。むしろあまり知らない場所を書くから面白いわけで、銀座をブラブラしてみることにした。

 最近京橋のフィルムセンターで昼と夜の2回連続して映画を見る機会が多く、間が2時間ぐらいあると銀座歩きにちょうどいいと知った。でも、僕には昔から銀座の地理がよく飲み込めない。基本的には縦横に区切られた「十字街」をしているわけだけど、そういう京都や札幌みたいな街が東京には少ない。(東京では、駅を中心に東口、西口、または北口、南口などがあり、放射状に広がって行くというような構造になっている街が多い。新宿、渋谷、池袋、上野など皆そう。)それに路面電車が撤去されて以来、銀座の地名がある場所には地下鉄しかない。地下鉄には様々な路線と出口があって、地上での位置関係がすぐには飲み込めない。だんだん飲み込めてきたけれど、判りやすいはずの縦横の区切りが僕にはちょっとラビリンスだった。

 銀座の書き方はいっぱいあると思うけど、やはり「銀座の中心」である「四丁目交差点」を最初に取り上げるべきだろう。昔は「尾張町交差点」と言ったらしいが、僕にはそれは「本で読んだ知識」である。今でも「尾張町」「木挽町」(こびきちょう=東銀座の歌舞伎座あたり)などと使いたいという人もいるけれど、荷風の日記を読むときには必要な知識だけど、僕にはそれほどのこだわりはない。交差点だから四つ角なわけだけど、一番有名なものは和光、つまり昔の服部時計店の時計堂だろう。
    
 最初の時計塔は1894年に出来たが、建て替え計画中に震災があり、今の時計塔は1932年に完成したという。経産省指定「近代化産業遺産」だというが、まさに銀座のシンボル、いつまでも残されて欲しい。映画にはよく出てきて、銀座で出会う日活青春映画では必ず出てくるが、日活のスタジオには銀座の大セットがあったという。「ゴジラ」(第1作)では破壊されてしまうが、和光は激怒して東宝に抗議、東宝は「日劇も破壊されている」となだめたが、東宝映画には2年間情景の使用を認めなかったと出ている。この時計塔の存在は、東京の代表的な風景で、いつまでも残って欲しいものだ、で、和光って何のお店だ。服部(セイコー)系列の高級ブランドショップだけど、中に入ったことがない。

 銀座をタテに貫通する中央通り、ヨコに貫通する晴海通りだけど、和光から見て中央通りの向かいは三越銀座店、晴海通りの向かいは三愛ドリームセンターである。では、対角線側は?「サッポロ銀座ビル」というのだけど、今は再開発中。写真を検索しても、大体が和光と三越を撮っている。三愛ビルは、1963年に出来て有名なものだったらしいが、今は似たような建物があっちこっちにあって印象が弱い。むしろ、隣にある鳩居堂(きゅうきょどう)の印象が強い。京都で昔からある店だというが、1880年に銀座に出張所を置いた。もともとは香や薬種の店だというけど、和紙工芸品や便箋・封筒など和風のものがいっぱいあり、外国人客が大勢来ている。ここが土地の路線価で日本一の年が多いことでも有名で、一度は見ておきたいお店だろう。その隣あたりに竹葉亭(ちくようてい)という鰻屋があり、ここは荷風も愛好した昔からの店である。
     
 僕が割りあい行っているのは和光から中央通りで並んでいる店である。まず隣があんぱん創始者の木村屋。1870年に尾張町に店を出し(創立は1869年)、1874年にあんぱんを、1900年にジャムパンを考案した。東京にはいろんな地方から人が来て、いろいろな店があるので「ソウルフード」的な食べ物は少ないのだけど、「木村屋のあんぱん」というのは有名度から言って誰もが一度ぐらい食べてるような名物だと思う。久しぶりに今度食べたけど、イチジクパンが美味しかった。あんぱんは定番的な味。土日は店外にパンを並べて売っている。2階、3階にカフェとレストランがある。その隣が「山野楽器」で、僕がCDやDVDを一番買ってる店だけど、最近は行かなくなってしまった。1892年創業という古い店だが、今のビルは普通だから写真は撮らなかった。さらに隣がミキモト真珠店。御木本幸吉が成功した養殖真珠を売るために、1899年に銀座に創設した。日本を代表する高級ブランドで、店の前に「真珠王の碑」が建っている。上の方にホールがあり、催し物を見るために入ったことはあるが、ジーパン姿で売り場を通るのはちょっと勇気がいる経験だった。
    
 一つ置いて、もう5丁目の角にあるのが「教文館」で、銀座唯一の平場の書店としていつも賑わっている。そんなに大きくないけど、銀座に関する本なども集まっている。しかし、表を見るだけでは普通の書店だが、ここは単なる本屋ではない。本来はキリスト教書店で、日本のキリスト教の歴史において大きな役割を担ってきた場所である。今は村岡花子が教文館の編集部で働いていて、戦時中に同僚から「赤毛のアン」の原書を贈られた「花子とアン」の生まれた現場として有名になった。14日まで9階のウェンライトホールで展覧会をやっていたが、大好評により7月25日から9月7日まで、3階で無料の展覧会を開くという。9階の方は90歳になった藤城清治の展覧会が25日から。3階のキリスト教書店では、ここで村岡花子が働いていたと白いテープが貼られていた。上の方のホールやカフェ、キリスト教書店などは、裏の方からエレベーター、または階段で行く。この階段がまたちょっと古めかしくていい。6階は児童書の店「ナルニア国」、4階にキリスト教グッズ店「エインカレム」、3階にキリスト教書店がある。キリスト教の本なんか関係ないとか、他の本屋やネットで買えばいいと言わず、一度はここを見てみるべきだ。この本もあるのか、あの本もキリスト教に関係あるのかと知る。僕にとって教文館という場所は上の方こそ役に立つ本屋なのである。
   
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ヘンクツ人生の墓-荷風散歩③

2014年07月14日 00時31分57秒 | 本 (日本文学)
 永井荷風のゆかりの地を訪ね歩くのも長くなりそうな気がしてきたので、「文学映画散歩」というカテゴリーを作ることにした。「映画散歩」をするかどうかも分からないけど。さて、永井荷風という人も、どうも読んでないという人がいると思うので、荷風の人生を紹介しながら墓の話を。
 
 荷風という人は、奇人変人偏屈な人嫌い孤独癖孤高の人徹底した個人主義者などと言われることが多い。結婚も二度したがすぐに別れてしまい、「シングルライフの元祖」のような生活を何十年と続けた。夕食は主に外食で、女性関係は「玄人女性」との交流に限定した。その中で得た見聞を小説に書いたので、花柳界の女性(芸者)や娼婦などを扱った作品が多い。だから、男性中心主義的な小説ではないかと思われて避けてしまう女性の文学ファンもいるのではないだろうか。

 しかし、そういう理解は間違っていると思っている。永井荷風はフランスに憧れ、ボードレールやゾラなどを愛読した。しかし彼が本格的に「社会小説」を書こうとしても、東京は巴里ではない。日本の政治も企業も、欧米的な意味での資本主義社会の構成者ではなかった。日本の結婚も個人の自由で決まるものではなかった。だから明治大正の文学には、家の重圧で意に染まぬ結婚を強いられた女性が何人も登場する。なまじ教育を受け「初恋」なんか知ってしまったから、思いきるのに悩みがつきない。そういう未練を書きつづるのが、ある意味で明治文学の青春だった。しかし、大正以後の花柳界を舞台にした荷風の小説では、「恋のかけひき」や「自由恋愛(らしきもの)」が書かれている。それは男社会、階級社会の存在を前提にしているものの、一種の「社会風俗小説」、つまり欧米的な意味での小説に近くなっている。フランスでも「高級娼婦」が出てくる小説がたくさん書かれたが、日本でも「近代前期」においては「玄人女性」しか「自立した女性」が存在しなかったのである。

 荷風の本名は永井壯吉で、父久一郎の長男として1879年に生まれた。一族は尾張藩に仕えたこともある豪農の出で、尾張藩の儒学者、鷲津毅堂の塾に学んで頭角を現し、明治になると藩命で米国に留学した。帰国後に工部省、文部省、内務省などに出仕するとともに、かつての師鷲津家の次女、恒と結婚した。留学経験のある新政府の官僚を父に、儒学者の娘を母に持つというのは、ちょっと考えても鬱陶しいことこの上ないだろうと思う。どうも壯吉少年は体が弱くスポーツに向いていないし、学問好きでもなかったようである。12歳で高等師範附属中(今の筑波大附属)に入学したものの、高校や帝国大学には入学できなかった。一ツ橋高等商業学校附属外国語学校清語科なるところに18歳で入学したが、出席不足のため20歳で除籍されたというのが最終学歴である。

 それどころか、年表を見ると18歳で初めて吉原に出かけ、20歳で落語家に弟子入り、21歳で歌舞伎座で福地桜痴の弟子となるなどとある。遊芸に目覚め、本格的に官僚エリート社会から外れてしまったのである。親からすれば頭が痛かったことだろう。学校を出ていないので官僚は無理としても、何とか親の力で有力会社にでも入れたかったことだと思う。今なら若い時に音楽活動をしていたなどと言っても不思議に思う人はないけど、明治時代にエリート官僚の子どもが「芸能界」を目指すなど、あってはならないスキャンダルである。

 それどころか、小説なるものも書き始め、「新任知事」という作品を書いて、これが叔父(父の弟)の福井県知事、阪本之助(さかもと・さんのすけ)を批判したものとして、叔父は激怒し絶交されるという家族内の波乱を引き起こしている。この阪本なる人物は、実は作家・詩人の高見順の父親なのであるが、(だから永井荷風と高見順は「いとこ」にあたる)、ウィキペディアを見ると驚くべきことが書いてある。「母・高間古代(コヨ)は阪本が視察で三国を訪れた際に夜伽を務めた女性」というのである。高見順は一度も実父に会ったこともなく、後に母子で上京し、「私生児」といじめられながら、一高、東大に合格した。こういう叔父などは筆誅を加えてしかるべき存在だろう。

 荷風は名作「すみだ川」を1903年(24歳)で発表し、新進作家として地歩を固めつつあったが、父はそれを認めず荷風をアメリカに留学させることにした。しかし、アメリカでも大学を出ることはなく、イデスなる女性と交際するようになる。父は横浜正金銀行ニューヨーク支店の勤務を命じるが、荷風はオペラ通い。そこで父が手をまわしてフランスのリヨン支店に転勤をさせるが、荷風は仕事はそっちのけで辞職してしまい、憧れのパリで芝居やオペラ通いに歓喜した。この間、日本人の目で欧米を観察、「あめりか物語」「ふらんす物語」を書いていた。パリで知り合った上田敏の推薦で「あめりか物語」が刊行されたのは、荷風が日本に戻る船中のことだった。帰ってみれば、新進の人気作家となっていたわけである。父の計略は逆効果

 帰国の2年後、1910年、31歳の荷風は森鴎外、上田敏の推挙で慶應義塾大学に教授として迎えられる。一応、ここが荷風の社会生活の最上だった。父もまあそれなりに認めたのか、結婚させれば何とかなるということだろうが、1912年9月に湯島の材木商斎藤政吉の娘ヨネと結婚した。ところが年末には、前からなじみの芸者八重次と箱根に旅行している最中に父が脳溢血で倒れた。よりによって芸者と温泉にしけこんでいるときに親が倒れなくてもいいようなもんだけど、荷風の運命は根っからの親不孝者に出来ているのである。父は翌年1月2日に死去。さっそくヨネを離婚し、翌年1914年には八重次と結婚してしまい、弟とは絶縁となり30年以上会うことはなかった。ところが、もう翌年には八重次も家を出てしまい、1916年には慶應大学教授も辞職する。

 以後はずっとシングルで、散歩と文筆の日々ということだけど、この荷風の前半生を見れば、「荷風は誰をも愛することのなかった徹底した個人主義者」などというのは「半面の真実」であって、そんな人は文学者や画家などには無数にいるだろうと思う。でも荷風は「仮面の結婚」を続けるには純粋に過ぎたという方が当たっている。「すみだ川」を読めば判るが、この純真可憐な少年の魂を美しく歌い上げる詩人というのが荷風の本質である。欧米を見たことで、日本の近代の不純が身に沁みた。ましてや、わが一族の中に上層階級であることによる不義腐敗の匂いを嗅いできた。それでも父が生きているときは、結婚せざるを得なかった。それほど「家父長制度」の存在は重いのである。一度結婚して捨てられたヨネは可哀想だけど、荷風はだからガマンしていられるという人ではなかった。

 荷風が下層の女性を描くときに目は、冷徹でありつつも暖かいものがある。リッチな生まれであることが魂の幸せにはつながらないことがよく判るのである。だから、荷風は本当は三ノ輪の浄閑寺(じょうかんじ)に葬られることを望んでいた。「遊女の投げ込み寺」である。吉原の身寄りのない遊女を葬った。その中の一人になりたかったのであるが、死後のことは自分ではどうしようもない。父が用意した都立雑司ヶ谷霊園の中に荷風の墓があるのである。まあ、どうしようもないことであるし、墓自体には関心がないのでどうでもいい。雑司ヶ谷霊園は夏目漱石やジョン万次郎などの墓があるところで、荷風の墓はわりと入り口近くにあった。ところどころに看板があるので、大きな案内はないが何とか分かった。拡大すれば永井荷風の字が読めると思う。
 
 一方、浄閑寺には荷風の碑が作られた。寺の裏の方、吉原遊女の慰霊塔の真ん前である。隣には山谷の労働者を祀る「ひまわり地蔵」もある。他にも三笑亭歌笑などいろいろある寺なのだけど、とりあえず荷風の碑と刻印されている「震災」の文章を載せておきたい。文には重複あり。
 
 新吉原総慰霊塔の写真なども載せておきたい。
   
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「日和下駄」100年②-荷風散歩②

2014年07月13日 00時45分28秒 | 本 (日本文学)
 荷風の「日和下駄」を何十年ぶりに読んでみて、いろいろなことを考えた。読む前は「日和下駄」を読んで荷風が行ったところを訪ねたいような気持があったけど、どうもテーマごとに羅列されていて難しい。「断腸亭日乗」を読めば、いつどこへ行ったか判るはずだと思ったら、日記は1917年からだった。「日和下駄」の時代は、まだ慶應の教授だったのである。何だか完全に孤独になり切ってから散歩を始めたようなイメージがあるが、それは間違いだった。ところで荷風の散歩スタイルというのは、かなり独自のものである。「人並はずれて丈(せい)が高い上にわたしはいつも日和下駄をはき蝙蝠傘(こうもりがさ)を持って歩く。」(ちなみに文章には読点が非常に少なく、なれないうちは読みにくい。今の文章も読点(、)を書き忘れたわけではない。)荷風の東京散歩に関しては、以下で触れる「狐」「伝通院」なども収録された岩波現代文庫、川本三郎編「荷風語録」が役に立つ。)
  
 荷風が新宿区余丁町の邸宅を「断腸亭」と名付けたのは、胃腸が弱かったからだという。中州に知り合いの病院があって、通院したあとで下町散歩に出かけている様子が日記によく出てくる。(中州というのは、今の中央区箱崎のあたりで、今は埋め立てられているけど、当時は川の中州だった。佐藤春夫「美しい町」の舞台となったところ。)昔の人は足が強いけれど、それにしても通院後の散歩にしては歩き過ぎではないかと思う。今はコンビニがどこでもあるし、ペットボトルもある。僕は夏は水筒(というか「真空断熱ケータイマグ」ですね)を持ってくことが多い。当時は水分補給はどうしていたのか。はたまたトイレはどうしてる?そういうことは出ていないのだが、今の散歩なら考える必要もないことでも苦労が多かったはずである。(大体、坂道を下駄で歩くのは現代人には辛い。)

 荷風は坂道を苦にしないように見える。それは「坂の町」で生まれ育ったからである。荷風が生まれ育ったのは、文京区小石川の安藤坂のあたりである。春日の文京区役所(シビックセンター)のところから春日通りを西へしばらく行くと冨坂署があり「伝通院」という交差点がある。そこで春日通りと直角に交わるのが「安藤坂」である。その坂道の途中、文京三中の向かいあたりの小道を奥へ奥へと入っていく。そこに「荷風生育の地」というプレートがある。実際に生まれたところは、そのすぐ先をさらに奥へ入ったところだとある。下の写真の路地を入って行って、4枚目の写真「稲森ハイツ」というところが、番地で言えば永井家のあったところらしい。なお、安藤坂を少し下ると、明治初期に中島歌子の塾「萩の舎」があった場所がある。1886年から樋口一葉が通っていたところで、時期的には一葉と荷風が道ですれ違っていたかもしれない。
    
 もうこれだけでずいぶん坂の坂の坂と歩いてくる感じで、これは実は東京東部に住む人間としては新鮮である。荷風はじめ山の手人種は、東京東部の川のある風景を「発見」して喜ぶらしいのだが、それは東部の人には毎日のただの日常風景である。逆にこういう坂道を歩くと新鮮なんだけど、毎日駅に行くにも大変だなあと心配もする。荷風の父という人は新政府の有力官僚で、結構大きな大邸宅を構えていた。坂下に貧民長屋ができると困るというので、坂の下まで買い取ったと小説「狐」に出ている。この「狐」という短編は、昔高校の教科書で読んで印象深かった。もう一度読みたいと思っていたが、今回やっと読んでみた。なんだか山の手がロシアの貴族の領地みたいなツルゲーネフ風の作品だけど、気持ちの繊細な少年が強大な父権の下で苦しむ様子が身につまされる。明治初期には、東京のこんなところにも狐が住んでいたのである。

 安藤坂を登りきると「伝通院」がある。「でんずういん」と読むとある。このあたり一帯の坂道が荷風少年の遊び場だった。ここは「小石川という高台の絶頂でありまた中心点」というべき地で、伝通院は芝の増上寺、上野の寛永寺と並ぶ徳川家の三霊山だとある。何しろ、家康の生母於大の方千姫の墓のあるところなのである。エッセイ「伝通院」によると、米仏からの帰朝後、余丁町に移っていた荷風が久しぶりに生地の付近を訪ねたことがあった。もう生家は人手に渡り、しばらくすると取り壊された。伝通院ばかりが昔通りかと思うと、荷風が訪ねた日の夜に本堂が焼失してしまったのだという。今の東京ドーム、後楽園遊園地は陸軍の砲兵工廠だった。明治の富国強兵の時代に、江戸が東京へと移り変わって、荷風の思い出は失われていったのである。今は山門も真新しく、また名士の墓も多い。それはまた別にまとめるとして、於大と千姫の墓の写真を。
   
 荷風の名を始めて聞いたのは、多分親に連れられ浅草へ行ったときだと思う。すごく小さな時分である。東京には地下鉄がまだ少ない時代で、家では浅草の松屋に買い物に行き、屋上で子ども遊ばせることが多かった。永井荷風というエライ作家が毎日通ったという「キッチン・アリゾナ」はここだと教えられた。店の様子をうっすら覚えているので、入ったこともあったのかもしれない。だから小さい時から親しい名前なんだけど、読んだのはだいぶあとである。「花柳小説」が多く、芸者や娼婦、「カフェの女給」なんかの話が多いイメージだから、高校生ぐらいでは敬遠してしまう。その後、荷風が戦後ずっと住んだ千葉県市川市に自分が住んだ時代がある。また玉ノ井の近くの高校にも勤務した。東京東部にしか縁がないのかと思っていたら、最後になって荷風が長く住んだ麻布・六本木にも勤務することになった。文学散歩するヒマもないながら、案外荷風との縁が続いたのである。

 荷風は「下町」の風景に近代化を免れた江戸の情緒を「発見」したような人と思っている人もいる。でも、それは間違っていると思う。荷風の目は冷徹で、「下町の人情」などを持ち上げる人ではない。自分がリッチな生まれなので、「階級降下」して零細な路地を歩き回るのが新鮮だった。でも、そこに「理想」を見出しているわけではない。「滅び行く風景」に殉じる気持ちはあっただろうけど、荷風だって路面電車で通っているのである。木の橋が鉄の橋に架け替えられるのを嘆いて見ても始まらないぐらいは、もちろん判っていたはずである。でも俗物どもが闊歩する「まがい物の近代日本」が心底いやだったのである。だから明治の東京を嫌悪して江戸の名残りを探し求めた。

 今回読み直して、特に印象的だったのは震災や戦災よりはるか前に、「東京の古き良きものはもうない」「明治人が壊してしまった」と判断していたことである。今の時代の人間は、古き江戸や明治東京には情緒があったのだが、それは大地震や戦争によって失われてしまったと思い込みがちである。しかし、そういった「外部の力」によってではなく、東京は東京人の手で壊されてきたということである。震災、戦災の前に、明治大正の「市区改正」があり、戦後の「東京五輪」と「バブル」があった。荷風が長く住んだ麻布六本木一帯は大資本の手により、地形そのものが壊されてしまった。今の「大資本の町」が何を壊してきたか、そして次の東京五輪に向けさらに大規模な破壊が進むのではないかと危惧される時代を考えるために、荷風の散歩はお手本になり続けるのではないかと思う。
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「日和下駄」100年①-荷風散歩①

2014年07月11日 21時05分59秒 | 本 (日本文学)
 荷風散人の跡を慕い、東京の路地や水辺を歩きまわって明治大正昭和の名残りを訪ね、さらには江戸のよすがまでを探ろうとする人は数多い。検索するといくつも見つかるのである。かくいう僕自身ももちろん、永井荷風は昔から好きな作家だ。昔も今も散歩する志の底に荷風の面影があるのは言うまでもない。思い立って久しぶりに読み返しながら、「荷風散歩」を折々に書いて行きたいと思う。

 2014年は第一次世界大戦から100年だという記事を書いたけれど、実はそれは「日和下駄」100年を書く前提として書いたのである。「日和下駄」(ひよりげた)という作品は、東京散歩のバイブルのような位置を獲得するに至った散歩記だが、「」だの「」だのといった章立ての中に「淫祠」(いんし)や「路地」、「閑地」(あきち)、「」、「夕陽」などの印象的なテーマを散りばめている。実に先駆的というしかない視点だ。(「日和下駄」は講談社文芸文庫や岩波文庫「永井荷風随筆集(上)」などで読むことができる。今回は数年前に買った文芸文庫で読んだ。)

 僕が初めて「日和下駄」を読んだのは大学時代のことで、もう二昔以上もも前のことになる。当時大活躍していた前田愛先生(「樋口一葉の世界」「成島柳北」「都市空間のなかの文学」などの名著がある)の講義を取ったところ、「日和下駄」を扱っていたのである。前田先生からすれば、まさに荷風こそ「都市空間」への視点を持った先駆者だったことだろう。ゼミで一葉の井戸や玉ノ井近辺を散歩した思い出も懐かしい。(史学科ながら前田ゼミにも顔を出していたのである。1987年に56歳で亡くなるとは、あまりにも残念なことだった。ちょうどそのとき僕は穂高に登っていて、下山して帰宅後に初めて知って驚いたが、もう葬儀も終わっていたのである。)

 ところでその頃は、「文学散歩の達人」のような「趣味人」(ディレッタント)といった視点で「日和下駄」をとらえていた気がする。荷風は「市中の散歩は子供の時から好きであった」と言い、「その日その日を送るになりたけ世間に顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気(のんき)にくらす方法をと色々考えた結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである。」などと作中で韜晦している。しかし、荷風の歩き始めが「大正三年夏の初めころよりおよそ一歳あまり、月々雑誌三田文学に連載したり」とあるのを読み、違った観点もありうるのではないかと思った。大正3年は1914年で、本になったのは1915年である。だから、真の「日和下駄」百年は1915年だとも言えるかもしれないが、荷風が歩き始めた時点は、まさに第一次世界大戦が始まって、日本も参戦しようかという時点ではないか。

 永井荷風(1879~1959)は、1894年の日清戦争の時点ではまだ15歳だから学業途中だった。その10年後の1904年が日露戦争だけど、1903年から1908年までアメリカ、フランスに遊学していたので、開戦直前に日本を去っていた。全く日露戦争や日比谷焼打ち事件を知らないのである。だから、第一次世界大戦は荷風が大人として、職業人として(1910年2月から1916年2月まで、慶應義塾大学文学部教授を務めていた)、初めて迎えた「宣戦布告」だった。その時の荷風の行動が東京散歩に興じるということだった。これは「一種の国内亡命」じゃないだろうか。一種の社会的な抵抗、「いやな感じ」の社会を生きていくための一つのスタイルが、荷風の散歩の本質だったのではないか。

 かの最高傑作「濹東綺譚」に書かれた玉ノ井(現在の墨田区東向島)を初めて訪れたのは、1936年3月のことだった。これは「二・二六事件」の翌月ではないか。軍人が崇められる武張った時代になると、荷風はどうも表通りを歩けなくなり巷の路地に沈潜するのではないか。何だかそんな気もして、荷風が懐かしく感じられるのである。

 荷風の生涯を簡単にたどるのは次回に回し、あと一つだけ書くことにする。僕は荷風の小説などをちょっと読んだだけで、特に荷風研究をしているわけではない。だからきっと誰かもう指摘しているんだろうけど、荷風の邸宅と大逆事件の「位置的な関わり」が近いことに驚いた。それが「散歩の効用」というものだろう。荷風は今の文京区小石川の生まれだが、父は内務官僚で新政府の高官だった。生まれたのも父の邸宅だが、その後永田町の官舎や麹町などを経て、1902年に牛込区大久保に父が新邸宅を築いて転居した。まだ23歳で親がかりの時代だから、有力者の父が生家を売り払って新たに大邸宅を作れば、不満でも一緒に移るしかない。こここそが日記の題として有名な「断腸亭」である。今の地名で言えば、新宿区余丁町。都営地下鉄大江戸線若松河田駅から10分ほど、東京女子医大病院の近くである。その辺りの建物に説明プレートがある。
 
 そこから大通りを渡って見える緑の空間が「余丁町児童遊園」で、そこにくっ付いて「富久町児童遊園」がある。このあたり一帯は、1903年から1922年まで「東京監獄」だった。今の言葉でいう「拘置所」で、未決囚と死刑囚を拘束した場所である。(今は葛飾区小菅に東京拘置所がある。)「死刑囚」は「刑罰としての懲役」はないから刑が確定しても刑務所には行かない。執行まで拘置所にいるわけで、明治から大正の時代にはここにあったのだ。つまり、大逆事件の被告たちは1911年に、この近くで処刑されたわけである。現在は児童遊園になっている場所の一角に、戦後になって日弁連が建てた「刑死者慰霊塔」が建っている。市ヶ谷刑務所、市谷監獄などと明治大正の社会主義文献に出てくるのもここ。
 
 この一帯は坂になっていて、坂の上が邸宅地、坂の下が貧民街や拘置所だったのである。明治東京の最大の貧民窟と言われた四谷の鮫が橋とは、ここからさらにもう少し四谷方面に下った地帯のことである。荷風が大逆事件に衝撃を受けて、自分は戯作者として生きるしかないと思い定めたというのは有名なエピソードだけど、この位置関係を見れば、初めてその衝撃の心理が実感されるのではないだろうか。次の写真の1枚目、右の緑が余丁町児童遊園で、左の道の信号の先あたりがプレートの場所である。プレート設置場所の直前に撮ったのが2枚目で、左奥に女子医大病院が見える。これが坂の上で、そこから下がってきた一帯に広大な永井邸があった。そして、さらに下れば東京監獄である。
 
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