尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

探偵・竹花 「加齢」なる挑戦

2015年10月30日 23時19分00秒 | 〃 (ミステリー)
 仕事で旅行に行ってきた帰りで、疲れているから軽く読める本の記事。藤田宜永(よしなが)の「探偵・竹花 孤独の絆」(文春文庫)という本である。この「探偵・竹花」というキャラクターは、かつてシリーズとして書かれていた。調べてみると、「ボディ・ピアスの少女」(1992)と「失踪調査」(1994)の2作だけだったが。この両作は、昔文庫本で読んだはずである。その後、藤田宜永は「愛の領分」(2001)で直木賞を受賞して以来、恋愛小説が多くなった。しかし、竹花シリーズが最近戻ってきていて、もう4作も書かれているではないか。僕は今回書く短編集が文庫に入って初めて気づいたのである。

 大体僕は「私立探偵小説」というジャンルが大好きである。アメリカのハードボイルドの名作、ダシール・ハメットレイモンド・チャンドラーから始まって。ハメットは実際に「探偵」だったわけだけど、日本では「私立探偵」はなかなか現実味がない。結婚や離婚に関する調査ばかりでは、話がふくらまない。(まあ、今後は「いじめ」や「虐待」を調査して、子どもたちを救い出す探偵シリーズが成立するかもしれないが。)ここで「私立探偵」というのは、明智小五郎や金田一耕助のことではない。彼らも、またホームズやポアロも、頼まれて犯罪を解決する「名探偵」に違いないけど、「トリック」を見破って「真犯人」を名指しするような「名探偵」である。それに対して、ハードボイルドの主人公は、「卑しい街を這いずりまわる」ことによって、ことの真相をつかんでいく。

 かつて、結城昌司が書いた「真木シリーズ」や、原寮の渡辺探偵事務所の「沢崎シリーズ」などが日本で書かれた数少ない傑作私立探偵小説だと思う。日本では、組織的に、あるいは組織をはずれた一匹狼が、事件を解決する「警察小説」の方がはるかにリアルである。だから、そういうジャンルの傑作はいっぱいあるが、これから私立探偵ものなど、あまり書かれないかと思っていた時に、また戻ってきたのが「竹花」のシリーズである。

 麻布十番の外れのビルに、事務所兼自宅の小さな部屋を構える探偵・竹花。そこにはあまり事件も持ち込まれないんだけど、時たまひょんなことから事件調査を頼まれる。そこで、とんでもないクルマを操って、東京を調べまわる。ということで、現代のさまざまな人間模様を見ることになる…んだけど、その前に。かつては40代だった竹花も、今や還暦。張込み中に唇が渇くから、リップクリームを持参している。いや、判る判る。遠くがよく見えず、メモを見るには老眼鏡もいる。肉体的には弱くなってきて、加齢を意識せざるを得ない。いや、もうよく判って、他人とは思えません。

 だけど、暗くない。一人暮らしの竹花は、「孤独」の自由も感じている。世の中は、高齢化社会だ、孤独死だ、と騒ぐけれど、それがどうした。「孤独」の中で単独者として生き抜くことを「風流」と捉える文化があったはずではないかというのである。そういう覚悟が語られる、有料老人ホームから老人二人が「失踪」した問題を扱う「晩節壮快」が特に面白い。竹花が若い世代になる、もっと年上しか出てこない老人の話だけど、その最後のありえない展開も、まあ、そんなこともありでしょうと思える。

 難しいところは全然なく、スラスラ読める娯楽小説で、まあそれだけとも言えるけど、こういうものを読むのも僕には大切な時間。時々必要である。ところで、作者の藤田宜永自身は、同じ直木賞作家の小池真理子と結婚しているのはよく知られている。まあ、そのこととこの小説は特に関係ないと思うけど。
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田坂具隆監督の映画

2015年10月29日 00時04分23秒 |  〃  (日本の映画監督)
 田坂具隆(たさか・ともたか 1902~1974)監督の映画を続けて見た。池袋の新文芸坐で、長編映画の特集上映をやっていて、いずれも長い映画である。27日に「はだかっ子」と「女中っ子」を見て、28日に「陽のあたる坂道」を見た。どれも前に見ているが、見たのは1970年代後半のことで、30数年ぶりである。田坂監督は70年代にフィルムセンターで特集上映があり、その時にかなり見たが、監督歴も長いし、上映時間も長い映画が多い。今も俳優の特集などでは時々上映されていると思うけど、監督の名前はよほど映画史にくわしい人でなければ、もう忘れられているのではないか。

 映画の中身自体もそうだし、監督本人の人柄もそうだったようだが、「誠実」で「やさしい」世界をじっくり描く映画が多い。手法的にも奇をてらった演出や凝った映像などはなく、主人公のドラマを正攻法で演出して、クローズアップで感情移入させる。映画内世界に没入している場合は、登場人物の葛藤や悲しい運命に音楽がかぶさると感動するのである。だけど、リズムがゆったりで、余計な描写を省いてもっと短くしてくれと思う時も多い。テーマも今では時代離れしているものもあるし、感傷的で古い感じもつきまとう。昔から嫌いな監督ではないんだけど。では何が代表作かというと、僕も迷ってしまう。

 監督のキャリアは非常に古くて、1926年に日活で昇進した時はまだ無声映画時代である。1931年には入江たか子主演、菊地寛原作の「心の日月」がヒットしベストテン2位になった。だけど、これはフィルムセンターにもなく、失われてしまったのではないか。1938年には、「五人の斥候兵」「路傍の石」でベストテンの1位、2位を独占した。(1954年の「二十四の瞳」「女の園」の木下恵介しか、他にそういう人はいない。)翌1939年にも「土と兵隊」(2位)、「爆音」(8位)の2作が選出されている。この時代が最初のピークだろう。「路傍の石」は山本雄三原作の児童文学の正統的な映画化で、1937年には同じ作家の「真実一路」も映画化している。子どもたちを描く児童文学を丁寧な感動作に仕上げるという点で、戦後の「女中っ子」「はだかっ子」と同じである。

 一方、「五人の斥候兵」は日中戦争で、「誠実」で「やさしい」マジメな部隊長を描く戦争映画。ファシズム下イタリアで開かれたヴェネツィア映画祭で受賞したことで知られる。また「土と兵隊」は火野葦平の大ベストセラーの映画化で、中国大陸をひたすら行軍する兵士を映し続けている映画。その間に多少の兵士の交流が描かれるが、今見ると「退屈」であり、早く終わって欲しいとひたすら願うような映画である。どっちも他の田坂映画と似ていて、誠実な人間像をうたいあげるが、軍隊内の私刑や日本軍の残虐行為などは描かない。もちろん描きたくても描けないのだが、それと別に「苦闘する」主人公に誠実に同化していく田坂映画が「他者」を必要としないという本質とも関わっていると思う。

 田坂監督の戦後のキャリアはなかなか大変だった。戦争末期に召集されて郷里の広島で入営中に、原爆に被爆したことで、助かったものの体調不良の時期が長かったという。ベストテンに入ったのは、1955年の「女中っ子」の8位が最初である。これは由起しげ子という今は忘れられている芥川賞作家のベストセラーの映画化。秋田から出てきた初(左幸子)が世田谷で「女中」として働き始める様子を描く。次男はいつも母(轟夕起子)に叱られていて、疎まれている。母の嫌いな犬をひそかに飼っているが、初のとりなしで認められる。学校から呼ばれても母はいやがるので、代わりに初が行くので、次男は「女中っ子」とからかわれる。初が旧正月に秋田に帰っている時に、犬が母の草履を噛んでダメにしてしまい、怒った母は捨ててしまう。探しても犬が見つからない次男は、秋田にいる初に会いたいと思って家出する…。始めはなじめなかった次男が、犬をきっかけにだんだん初に懐いていく。ラストは子どもの罪を背負って初が去るという感涙シーン。犬と子どもには勝てませんという典型のような映画。左幸子がものすごく魅力的で、この人の庶民的な顔立ちと秋田弁が生きている。

 その後、石坂洋次郎原作、石原裕次郎主演の「乳母車」「陽のあたる坂道」「若い川の流れ」を作る。これが戦後の最初のピークだろう。裕次郎にアクション俳優とは別の、「根は素直だが、ちょっと影のある青年」という性格俳優的な側面を与えた意味は大きい。「陽のあたる坂道」(1958)は、3時間45分もある長大な映画で、上映する映画館も大変だし、見る方も大変。なかなか再見する機会がなかった。石原裕次郎と北原三枝のカップル共演作はいろいろあるが、これが最高傑作だと思うし、北原三枝がものすごく魅力的に描かれている。佐藤勝の音楽もいいし、木村威夫の美術も素晴らしい。主人公たちの住む洋館は、田園調布という設定らしいが、ロケは横浜の鶴見にあった家で行ったという。そこは一時「陽のあたる坂道」というレストランだったと言うが、今は解体されている由。
 
 だけど、物語はかなり変な設定である。アジア出版社長の田代家に、家庭教師を頼まれた倉本たか子(北原三枝)が訪れると、次男の田代信次(石原裕次郎)と出会う。田代家は兄雄吉(小高雄二)、妹くみ子(芦川いづみ)、母みどり(轟夕起子)と父玉吉(千田是也)が住んでいる。しかし、この家には秘密があった。信次は母の実子ではなかったのである。皆そのことに気づきながら、知らないふりをしている。ところで、倉本たか子が住むアパートには元芸者の高木トミ子(山根壽子)が住んでいて、たか子と親しくしている。そこには息子民夫(川地民夫)もいて、ジャズの若き歌手として人気がある。くみ子がたか子をジャズ喫茶に連れて行き、ジミー小池のファンだというと、それが民夫だった。ところで、このトミ子こそが信次の実の母で、民夫は信次の弟だったのである。

 という大衆芸術には許される(というか必須の)「驚くべき偶然」によって、登場人物は運命的に関わっている。これだけ書くと、人間関係ドロドロのメロドラマに思えるが、見ている時の感じはちょっと違う。それは登場人物たちが、みな「言語」によって、問題を表現していくという特異な構成だからである。まさに「戦後民主主義的」な「言語への信頼」に覆われている。一家が勢ぞろいした場面で、父は信次の出生を明かすが、母も信次も理性的に受け入れ、家族はその後皆で賛美歌を歌う。いつも皆が集まると合唱するらしいけど、この場面の空々しさは今見ると痛々しいまでである。

 それでも所々で、往々にして信次によって引き起こされる「ホンネの発現としての暴力」が見られ、それが物語を推進していく。(その意味でジェームズ・ディーンなどと同時代の、一種の「肉体の復権」という文化史的な文脈に位置づけ可能である。)この家にはもう一つの秘密があり、それはくみ子の足のケガは誰のせいかという問題である。それが雄吉をダメにして、一家の偽善の底にあることが次第に分かってくる。それらを基本的にはすべて言語で登場人物が説明していくんだから、長くなるはずである。それはうっとうしいようでいて、登場人物の魅力で見せていく。そこまで素直な演技を若いスターたちに指導した監督の力が実感できる。結局は、信次とたか子、くみ子と民夫のカップルが成立して、見るものを幸せにする。なんだか時代が変わったことを実感させる映画だが、モノクロ映像の美しさで捉えられた東京風景などが魅力的だった。

 その後田坂監督は東映に招かれ、中村錦之介の歴史劇(「親鸞」など)、三田佳子の時代劇(「冷や飯とおさんとちゃん」などを作るが、何と言っても佐久間良子主演、水上勉原作の「五番町夕霧楼」(1963)と「湖の琴」(1966)という切なさの極まる女性映画を作った。これが最後のピーク。最後は松竹の「スクラップ集団」(1968)という怪作で、渥美清、三木のり平、小沢昭一等の名優を使って、ゴミまみれの映画を作った。ある意味で時代を先取りしているが、日本映画史に残る異様なコメディである。今見ると田坂監督の映画は、かなり古いのは確かだが、素直な感動を誘う作品が多い。そういう映画が求められた時代があったのである。
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「はだかっ子」とユネスコ村

2015年10月28日 13時05分38秒 |  〃  (旧作日本映画)
 田坂具隆監督「はだかっ子」という1961年の映画を30数年ぶりに見た。涙なくして見られぬ感動作だけど、当時の学校の状況などがよく判る意味でも面白かった。だから、「映画の中の学校」という観点から簡単に書いておきたい。田坂具隆という監督については、別に書きたいと思う。
 
 1956年の、東京近郊の米軍基地に近い町。調べてみると、埼玉県の所沢でロケされているらしい。父がインドネシアで戦死して、母(木暮実千代)と二人で暮らしている少年・元太がいる。母は時々チンドン屋をしているが、いつもは「ニコヨン」(日雇い労働者)をして生活費を得ている。死んだ夫は大工で、その弟弟子(三國連太郎)の家の二階を間借りして、貧しく暮らしている。ある日、学校へ行く途中で、クラスメートの家の犬が、つないでなかったという理由で、「犬殺し」に連れて行かれるところに居合わせる。元太は犬を取り戻そうと噛みついたりして犬を逃がす。そこへ担任の高木先生(有馬稲子)が通りかかり、取りなしてくれる。こうして、この映画が始まる。

 元太は文字通り、元気いっぱいで、母親思いの一本気な少年。映画は、彼とクラスメートとの関わりや先生との交流を丹念に描いて行く。ある日、「ユネスコ村」に遠足に行く。ユネスコ村に関しては後記するが、世界各国の家を建ててある施設で、よく学校の遠足で利用されていた。そこで相撲をして、元太はみなに負けないが、高木先生にはかなわない。写生をすることになって、いろいろな家を皆がスケッチし始めるが、元太は決められず、あっちこっち行くうちに「インドネシア」の家にたどり着く。ここが父が死んだところかと思い、母に見せたいとその家を描き始める。急に天候が変わり雷雨になると、みなとはぐれた元太は家の中に避難する。そこに探しに来た高木先生が見つけて助け出す。

 翌日の授業では、社会科で「ユネスコ」の学習。戦争をなくすために「心の中に平和の砦を築く」というのは、どういうことだろうか。戦争というと大きくなるけど、「ケンカ」と考えてみるとどうでしょうと高木先生。相手を思いやる気持ちの大切さに気付かせていく。最後は教科書を皆に読ませて、確認させていく。板書は「UNESCO」と書くだけで、後は数多い生徒が一生懸命先生の話を聞いている。今では内容的にも方法的にも考えられない、素朴な授業である。それが成立していた時代である。教科書は東京書籍を使っていることが判る。

 ある日、「親子討論会」が開かれる。こんなものが開かれていたのか。先生はオブザーバーで、子どもと親が話し合うという企画である。競輪は良くないという意見が出てくる。そこで、後援会長が競輪を運営しているということで、答弁に立ち「競輪は社会にいい面もある」という。反論が相次ぐが、元太も「会長さんはいいこともあるというけど、会長さんは弱い者いじめをしているじゃないか」と告発する。この会長(織田政男)は地元の有力者で、後で元太の家にきて「誰に頼まれて、ああいうことを子どもに言わせたんだ」と母を追求する。そういうタイプの人物だったのである。その頃、母は病気に倒れてしまう。「再生不良性貧血」(白血病)である。そのため、修学旅行を止めることにした元太は、同じく行かなかった女子と自転車で遊園地(西武園)に行くことにする。当時の遊園地のジェットコースターを初めとするさまざまの遊具が出て来て、非常に貴重。最後は、運動会で頑張る元太を見ることなく、母は死んでいくという悲しいシーンとなる。ここの運動会シーンも、非常に貴重な映像。

 「いじめ」的なことがないわけじゃない。姉が基地の「外人」と結婚している女子(一緒に遊園地に行くことになる子)は、机にパンを二つ並べてからかわれている。(パンが二つで「パンパン」。)また、道に信号もガードレールもなく、車がひっきりなしに通るところを横断するので、見ていてハラハラする。その頃は「交通戦争」と言われ、子どもが多い時代だったこともあり、交通事故が今以上に大問題だった。子どもをめぐる当時の状況がよく判る映画だが、基本的に「教師の権威」「学校で勉強する」ことが全く疑われていない。「牧歌的な学校生活」である。田坂監督ならではの、クローズアップを多用した丁寧で誠実な演出に、ちょっとリズムがゆったりすぎると思いながらも、だんだん乗せられていき感涙に終わる。61年のベストテンで8位選出。1位が「不良少年」(羽仁進)、2位が「用心棒」(黒澤明)で、9位が「飼育」(大島渚)、10位が「黒い十人の女」(市川崑)。もうベストテンが意味ないような時代である。

 「ユネスコ村」は、西武鉄道が西武園の近くに開いていた遊園地というか、テーマパークだが、ベースは世界の家が並ぶというだけ。どうしてそれで客が呼べたかと思うが、海外旅行など夢のまた夢、世界を知りたいという人々の欲求にこたえるとともに、マジメな学習意欲が世の中に満ちていた時代なんだろう。東京周辺の学校では、小学校の遠足の定番で、大体の人は当時行ってるんではないか。1951年に開園して、1990年に閉園した。単に遊園地というよりも、ユネスコの理想を多くの人が大切していた時代の話である。日本はユネスコに1951年9月に加盟した。まだ占領中で、国連本体には加盟できていない時期である。戦争の傷を皆が負い、日本は「文化国家」「平和国家」を目指していた。日本はユネスコから国際社会に復帰したのである。だから、「ユネスコ」という名前は戦後の希望だった。今は「負担金を払うな」などとずいぶんエラそうなことを言う国になってしまったが。もちろん僕も行ってるし、そう言えば生徒を連れて行ったこともあったと思いだした。非常に貴重なシーンで、懐かしさでいっぱいになった。それだけでも見る価値がある。
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「心が叫びたがっているんだ」

2015年10月27日 00時51分51秒 | 映画 (新作日本映画)
 続いてもう一本映画の話。アニメ「心が叫びたがっているんだ」である。僕が書くまでもなく、このアニメ映画を必要としている若い人にはもう届いているのかと思う。僕はアニメ映画をあまり見ないけど、別に見ないと決めているわけでもない。同じように最近は、マジメ系のドキュメント映画を見逃すことが多いんだけど、映画以外にも行きたいところはあるわけだし、古い日本映画なんかだと一日しかやってないような場合も多く、ピンポイントで行くしかない。そうこうしているうちに、絶対見るつもりだった「バケモノの子」まで見逃してしまった。アレレというわけで、そういうことが多い。
 
 このアニメ映画は、言葉を失った少女が歌に乗せて言葉を取り戻すまでを描く。そのテーマとミュージカルを高校生が作るというストーリイに心ひかれて、見てみようかなと思って、もう公開一月半。ヒットしていたけど、ヒットするといつまでもやってる気になる。株主優待があって、時間がちょうどよく、そういう機会があって、やっと見たんだけど、いやあ、この「高校生映画」に途中から手もなくやられてしまった。アニメ映画としての特性、映画ならではの歌の使い方など、見るものを感動させる作りにはなっている。主人公たちが、実写ではなかなか難しいようなキャラクターで出てくる。教師が「命令」で4人を「地域ふれあい交流会」の出し物を決める実行委員に決めてしまう出だしも、実写なら不自然な感じが強くなると思う。そういう「突っ込みどころ」はいっぱいあるが、まあいいんだよなと思う。

 高校生がミュージカルを作る。ストーリイや歌詞を書くのは、言葉を失ったままの女子高生「成瀬順」。幼い頃に自分にかけた「呪い」を歌で解こうとする。その「頑張り」にさまざまの悩みを抱えたクラスの皆が、次第に応えていく。だけど、本番直前にある出来事で心が折れてしまうけど…。まあ、すぐ本番で大成功にはならないですよねえ。そこで、ずっと彼女を応援してきた男子生徒「坂上拓実」が消えた順を探し回って…、ようやく今は廃墟の「あの場所」で見つける。順が「グリーン・スリーヴス」に乗せた歌で登場するシーンは涙なしには見られない。

 そして、ラストの曲。いやあ、こういう使い方があったか。高校生なんだから、自分で急には曲を作れない。だから、昔の名曲を勝手に使うことにする。拓実の家には昔のレコードやCDが山のようにある。コンピュータですぐに曲に出来る友人もいる。都合いいけど、まあそういうことで。で、ラストは書かなくてもいいんだけど、曲名だけ。ベートーヴェンのピアノソナタ8番の「悲愴」(第2楽章)とミュージカル「オズの魔法使い」の「虹の彼方に」(Over the Rainbow)。どっちもものすごく有名な曲だから、メロディを今口ずさめる人が多いと思う。もし出来なくても、検索してちょっと聞いてみれば、あああの曲かと思うだろう。この二つの名曲を事前に知っておいたら、なるほど、こう来たかと納得しちゃうと思う。

 僕はこの映画を見ていて、いろいろと思いだしてしまった。この映画では「オズの魔法使い」がうまく使われているけど、昔中学で区の発表会向けに「オズの魔法使い」を演劇でやったことがある。僕は中学2校、高校3校を経験したけど、その2番目の中学は事情があって、一年だけの勤務だった。だから、その時代は余り思い出さないんだけど、この映画を見ていて、いろいろの思い出が急によみがえってきた。クラスで取り組むという意味で、この映画のミュージカルは演劇部の活動というよりは、文化祭のクラス参加に近い。僕は高校のクラス演劇を経験したことがないので、中学教員時代のクラス演劇を思い出してしまうのである。

 もう一つ、のこ映画のテーマである、「呪い」と「緘黙」という問題もかねてより考えていることである。言葉が出なくても「心は叫びたがっているんだ」。これはアニメでこそ発しやすいメッセージではないかと思う。そこらへんは今書くと長くなってしまうので、止めることにする。秩父を舞台にした「劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」を作ったスタッフが結集して、再び秩父を舞台に作ったアニメ。岡田麿里脚本、長井龍雪監督、キャラクターデザイン・総作画監督は田中将賀とあるけど、僕にはよく知らない名前。主人公たちの顔のイメージなんかが、どうもいま一つ僕には縁遠いし、突然主人公が歌がうまく歌えるのも不自然ではある。でも、あの歌のシーンはまた見てみたいなあ。
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映画「岸辺の旅」-「喪」の作業

2015年10月26日 23時33分35秒 | 映画 (新作日本映画)
 黒沢清監督の「岸辺の旅」は、静かな描写の中に確かな生の手ざわりを感じさせる秀作。今年のカンヌ映画祭で、「ある視点部門」の監督賞を受賞した作品。これはコンペティションではないが、独自の作家的作品を集めた部門で、ある意味ではもっと意義深いものかもしれない。

 冒頭で、ピアノ教師をしている深津絵里のもとに、3年間行方不明中の夫、浅野忠信が現れ、自分は死んでいるという。黒沢作品の多くがそうであるように、ホラー的、超常現象的な出だしだが、この二人が旅に出て、日常を生きる多くの人々と関わっていくところが少し違っている。死者が旅をして、生者のように行動するのはおかしいと言えばおかしい。でも、日本映画では「異人たちとの夏」「父と暮らせば」「鉄道員(ぽっぽや)」など、数多くの作品がある。特に珍しい感じはしない。ホラーというよりも、「死者との共生」をしみじみと描く「夫婦の物語」という趣である。

 原作は湯本香樹実の小説で、この人は相米慎二が映画化した「夏の庭」の原作者である。また、別の小説「ポプラの秋」も今年映画化されている。「夏の庭」などの作品は児童文学として書かれているが、この原作は一般向けの小説らしい。そういう意味で、「文芸映画」的な味わいがある。浅野忠信と深津絵里の演技は、非常に心に沁みる。忙しい歯科医だったらしい浅野は、同時に浮気もしていたらしく、多忙の中で心をすり減らしていたらしい。そのため、突然すべてを放棄して失踪したという過去がある。そして、今妻のもとにたどり着き、もう一回思い出の地を一緒に再訪したいという。

 というわけで、映画ジャンルとしては「ロードムーヴィー」に近い。日本中を回るかと思うと、関東周辺でロケされているようだ。さびれた新聞配達所、違う町の中華料理屋、山の中の農家などは、みな「死者」と関わりがある人々を訪ねていく。そういう旅を通じて、「喪」の作業を行っていくのである。死者はこの世になんらかの「心残り」を持っている。その「心残り」をほぐしていく、その結果死者が死者としてあるべき位置に収まっていく。まあ、仏教的に言えば「成仏」する。それを描く「喪」の映画である。

 静かな展開に今までとかなり違う感じがするが、今の日本でぜひ多くの人に必要で、心に届く映画だと思う。まあ、映画としては静的にすぎて、「トウキョウソナタ」や「CURE」に及ばないかもしれないが。大友良英、江藤直子の音楽がステキで心を打つ。

 黒沢清監督(1955~)は、世界では「第二のクロサワ」として評価が高いが、「カリスマ」「ドッペルゲンガー」「ロフト」など独自の感性に浸れる「芸術ホラー」系がいま一つよく判らなくて、僕は見ていない映画も多い。もともと立教大学でほぼ同時に学んでいたから、学生時代の映画も見ている。蓮實重彦の授業に影響を受けたところまでは似ているんだけど。でも、まあこの映画は好きだし、見てよかった。この映画をまだ必要としない人も多いかもしれないが。
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生誕百年、オーソン・ウェルズの映画

2015年10月25日 21時53分21秒 |  〃 (世界の映画監督)
 東京国際映画祭が始まっているが、例によって僕の見たい映画は行きにくい時間に集中している。今年はフィリピン映画が特集されていて、ぜひ見たいと思ったのだが。そんな中で、フィルムセンターでは映画祭関連企画として「生誕百年 オーソン・ウェルズ 天才の発見」を行っている。これは企画発表時から、今年一番期待していた。オーソン・ウェルズは、日本で現在見られない映画が多く、あの「天才児」の全貌を長く評価できないでいるからである。

 オーソン・ウェルズ(1915~1985)は、日本では70年代半ばに出たニッカのウィスキーのCMで広く知られた。「容貌魁偉」の風貌を生かして、「第三の男」をはじめとする印象的な俳優としても知られていた。でも、大恐慌下の演劇活動、全米をパニックに陥れたラジオドラマ「宇宙戦争」、そしてハリウッドに招かれて、僅か25歳にして作った「市民ケーン」。製作、脚本、監督、主演を兼ね、映画史を書きかえる傑作だったが、モデルとなったハースト系新聞に攻撃され「呪われた映画」になってしまった。日本では、遅れて1966年に公開され、ベストワンになっている。そのような「伝説の人」だった。

 だけど、今回のプログラムに「市民ケーン」はない。まあ、何回か見ているし、映画ファンには周知の作品だから、それはいいかもしれないが、第2作の「偉大なるアンバーソン家の人々」が入っていないのは残念。日本では70年代後半から80年代にかけて、ミニシアターで過去のウェルズ作品がかなり公開された。それ以前に、同時代的に公開されたのは、多分「マクベス」(1948)と「審判」(1963)ぐらいではないかと思う。カフカ原作の「審判」は、今まで見る機会がなく今回初めて見たが、実に美しいモノクロ撮影に圧倒された。美術、演出とあいまって、「前衛的映画」として成功している。もっとも、何が何だかわからないとも言えるが、それは原作の設定から来るんだから仕方ない。

 ウェルズはシェークスピアを「マクベス」「オセロ」と作ったが、どっちも上映がない。65年に作った「フォルスタッフ」は上映されるが、日本公開時に見たので、今日の上映はパスした。実に素晴らしく、中世イギリスを再現した映画で、ウェルズの演出も演技も印象的だった。一方、「フィルム・ノワール」系でも、あの面白い「黒い罠」がないのは残念。だけど、「上海から来た女」(1947)が「復元版」として上映される。これは金曜の夜に見たが、あまりの映像の美しさに絶句した。「ファム・ファタール」ものの素晴らしい傑作である。当時ウェルズの妻だったリタ・ヘイワースの美貌。(「ショーシャンクの空に」で貼ってあったポスターの人である。)そして、ラストに潜り込む遊園地の中を逃げ回るシーンの素晴らしさ。あまりにも有名な「鏡のシーン」に改めて呆然となる。日本で遅れて公開された時に見ているが、これは何度見ても素晴らしい映画だと思った。(もう一回見ようかな。)

 全く見たことがないのが、「Mr.アーカディン」(1955)や「不滅の物語」(1968)である。後者はデンマークのイサク・ディーネセンの原作による58分の作品で、テレビと劇場双方の公開を考えて作ったと書いてある。他に、最後の作品「フェイク」(1973)と、ウェルズについてのドキュメンタリー2本、企画に協力しているミュンヘン映画博物館のディレクターによる講演が企画されている。見られない映画が案外多いのだが、とにかく非常に貴重な機会であることは間違いない。

 オーソン・ウェルズはアメリカの映画監督だが、第一作からハリウッド映画の枠を超越して作り続けた、真の天才監督である。そこがハリウッドに入れられず、完成しない映画、ズタズタにされた映画が多い「呪われた」監督の系譜にある。これほどの巨人はアメリカに受け入れられないのだろう。戦後もむしろヨーロッパで作り続けた。今回は懐かしいニッカのコマーシャルも上映されている。「マッサン」の後だから、なんだか感慨深いものがある。
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首相米空母乗り込みの不快感

2015年10月24日 23時29分48秒 |  〃  (安倍政権論)
 10月18日(日)に、安倍首相は自衛隊の観艦式に出席したあとに、米海軍の原子力空母「ロナルド・レーガン」に乗り込んだ。当日の首相動静を見てみる。(一部省略)

午前】10時20分、官邸。26分、海上自衛隊のヘリコプターで官邸屋上ヘリポート発。59分、相模湾上の海自護衛艦「くらま」着。中谷元防衛相ら出迎え。昼食。
午後】0時、自衛隊観艦式に出席し、観閲。1時32分、隊員らに訓示。2時7分、海自ヘリで「くらま」発。20分、海自護衛艦「いずも」着。42分、艦内を視察。麻生太郎副総理兼財務相、中谷防衛相同席。3時36分、海自ヘリで「いずも」発。48分、米海軍の原子力空母ロナルド・レーガン着。米海軍第3艦隊のタイソン司令官ら出迎え。懇談。4時4分、艦内を視察。麻生副総理兼財務相、中谷防衛相同席。50分、海自ヘリでロナルド・レーガン発。5時20分、官邸屋上ヘリポート着。

 その後、銀座のイタリア料理店でイタリア大使や加藤1億総活躍相と食事しているが、まあそれはいいだろう。海自護衛艦「いずも」っていうのは、22分しかいなかったが、その後の「ロナルド・レーガン」には1時間2分もいたことになる。麻生副総理と中谷防衛相も同席していた。首相が米艦に乗船するのは初めてのことだという。これはもっと大きく取り上げられるかと思っていたら、なんだか小さな話題記事で終わってしまいそうである。でも、これはとても不快なニュースではないか。

 米艦訪問というのは米国側から出た話ではないという。官邸から防衛省に、観艦式後の米艦訪問を調整するように指示が出たという話である。では、今まで何で日本の総理大臣は米艦を訪れなかったのだろうか。それは幾つかの理由があるだろう。日米安保そのものが政治問題になっていた時期、あるいはベトナム戦争やイラク戦争など、米軍の活動が疑問視される戦争の時代には、あえて米軍の艦船に行ったりしたら国内で問題化するに違いない。そういう「配慮」はもういらないということだろう。

 と同時に、今までなら「保守派」「右派」でも日本の首相が米艦に行ったりしたら、批判したのではないだろうか。いくら「日米同盟」をうたっても、言ってみれば「敗戦国が戦勝国軍に自国防衛を頼り続けている」という事実は、民族派からすれば気持ちのいい話ではないはずだ。かつての「敵国」、戦争末期の本土空襲、沖縄の地上戦、広島・長崎への原爆投下などは、完全に「過去」になったのだろうか。そうではないだろう。たとえば、未だに米軍の最高責任者(大統領)は広島や長崎の原爆投下地を訪れていないそうである間は、日本の自衛隊の最高責任者(総理大臣)が米艦に行くというのはどうなんだろう。そういう感覚というのはないのだろうか。

 また、沖縄では米軍基地をめぐる政治的対立が続いている。そういう時に、首相が米海軍に乗り込むというのは、なんだか国内の対立をあおるようなものである。また、空母「ロナルド・レーガン」というのは、原子力空母である。原発事故による避難者がまだたくさんいる時に、何も原子力空母に乗ってみせなくてもいいではないか。まあ、そういう風に思うんだけど、それ以上に問題なのは、これが大きな反発も受けずに、日本国内に受け入れられそうな現状である。

 米軍に限らず、自衛隊も含めて、どんな国、あるいは国ではなくても、軍事組織というものは僕には怖い感じがする。自分を守ってくれるものだという安心感は感じない。むしろ、自分の生活や思想の自由を抑圧するかもしれない怖さを覚える存在である。「国防」とか「治安」という名のもとに、「人権」を無視して突進していく組織だと感じている。だから、行かなくてもいいのに、わざわざそういうところに訪問するという人が判らない。完全に「あっち側」の人なんだなあと思う。

 大体、国内にいる外国軍の艦船を訪れるなんていうリーダーが他国にはいるんだろうか。いたら、それはよほどの小国か、ほとんど「属国」みたいな場合ではないだろうか。やはり、日本はそういう存在なんだなあという感じもしてしまう。それに、総理大臣と副総理が同時に行かなくてもいいではないか。戦争が起きているわけではないけど、なんか事故があれば、一度に正副が機能しなくなるではないか。実際にその日の午前中に火事が起きていたという話である。
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「一億総活躍」の不快感

2015年10月24日 00時02分28秒 |  〃  (安倍政権論)
 臨時国会を開かないことに続いて、次は突然言い出した「一億総活躍」なるものへの不快感である。何を突然持ち出すのか、誰もよく判らない。本来なら、こういう時こそ政権側の方から臨時国会を開いて、所信表明演説で国民に向けて大演説をするべきところである。普通するでしょ。

 この「一億総活躍」には、多くの人から、判らない、何なんだという声が上がっているが、僕はそれ以上に不快で仕方がない。まず「一億」が問題で、次に「活躍」も問題だが、その前に担当大臣まで作ってしまった問題を先に書いておきたい。現在、国務大臣は19名と決まっている。ちょっと前まで18名だった。「東京五輪担当相」なんてものがホントに必要かどうか判らないが、それは法律を改正して大臣を一人増やしてから任命したのである。今回はそれをしていない。「地方創生担当相」なんてのも相変わらずいるんだから、「一億総活躍相」なんてどうすれば作れるんだ。結局は、「一億総活躍」以外に「女性活躍」「再チャレンジ」「拉致問題」「国土強靱化」「少子化対策」「男女共同参画」と、こんなにもいっぱい同じ大臣が担当しないといけないのである。いやあ、一億が活躍するんなら、「女性活躍」とか「再チャレンジ」なんて別に作る必要があるんだろうか。

 次に「一億」なんだけど、「一億○○」には悪いイメージがあるというのは、全くその通りだと思う。「一億玉砕」「進め一億!火の玉だ」「一億総懺悔」…。こういうことを政府が言い出すときは、みな戦争が絡んでいるじゃないかというわけである。大体、総務省の統計では日本の人口は1億2689万人(10月1日概算値)である。2689万人は最初から活躍しなくてもいいのである。省かれているのである。いやあ、そういう意味ではありませんと言うのなら、初めから「国民総活躍」と言えばいいではないか。そこを「一億」という語感意識に、もう古めかしい国家主義がかいま見えるわけである。

 ところで、それ以上に一番不快なのは「活躍」という言葉である。政府に言われて、活躍しないといけないのか。いつから、そんなお節介な世の中になったのか。活躍したくない人は許されないのか。何だか、そんな疑問が次々と浮かんでくるのである。いや、もちろん、国民それぞれがその人なりの活躍を目指すのは、まあいいことに違いない。だけど、「一億総活躍」なんていうよりも、まず「国が頑張ってる国民の足を引っ張らない」ことに務めて欲しいもんだと思う。

 安倍首相は現在、中央アジア歴訪中である。日本を代表して「活躍」しているわけだ。外遊直前に、ラグビー・ワールドカップ日本代表が首相官邸を訪問した様子が報道された。日本のラグビーはそんなに強くもないのに、次のワールドカップを招致してしまって、どうするんだ位に思ってた人が多い。それが強豪の南アフリカを破って、突然日本中を湧き立たせた。五郎丸という忘れがたい名前の選手を、日本中でマネしてる。そうやって「活躍」した人々が官邸を訪れる。それはもちろんいい。でも、世の中には「活躍」したくても難しい人々がたくさんいる。そういう人は首相官邸にいては会えない。地方視察に行っても、「活躍してる人」ばかりに会ってる。活躍できない人は目に入ってるんだろうか。

 「活躍できない人」というのは、主に「病気」や「障がい」や「貧困」などで、「活躍」というほどのイメージを持てない人々のことを想定している。いや、そういう人々でも、その人なりに日々を生き抜くことが「活躍」なんだというかもしれない。「障がい」があっても、パラリンピックで「活躍」している人もいるわけだし。でも、国の役割は「一億総活躍」なんて掛け声をかけることではなく、「病気」や「障がい」や「貧困」に対する「社会保障」を充実させることではないのか。多くの国民にとって、「一億総活躍」ではなく、「一億総安心社会」とでも言ってくれれば、まだしも納得できたのではないだろうか。(もっとも、「社会保障改革」と「治安対策」と「積極的平和主義」で、「一億総安心社会を作ります」なんて言われたら、もっと不安かもしれないが。)

 一番嫌なことは、「活躍」を強制されるような感じがすることだ。ナチスの時代には、福利厚生の充実や自然保護がけっこう叫ばれていた。だけど、それは「権利」としてではなかった。だから、国民にとっては「義務としての健康」「強制された健康」だった。その反面として「不健康(と認定されたもの)の排除」があったのである。精神障がい者や同性愛者は、その「排除」のターゲットとされた。日本でも、戦争末期には福祉施設や病院、あるいはハンセン病療養所では、食料不足で非常に高い死亡率が記録されている。「社会のお荷物」視されたのである。

 そういう歴史を思い起こすと、「活躍」を政府が言い出せば言い出すほど、むしろ「活躍できない人」に対する風当たりが強くなるのではないかと心配なのである。そして「社会の弱者」が目に入っていれば、もう少し違ったキャッチフレーズになったんじゃないかと思うのである。だから、「いやな感じ」がしてしまうわけだ。放っておいてくれと言いたくなるんだが。「活躍」なんかするよりも、普通にやるべきことを淡々とこなしていくのが、ほとんどの国民なんだと思う。それでいいではないか。結局、「活躍」させたいのは、自衛隊を海外に出すということなんではないか。
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臨時国会なしの不快感

2015年10月22日 21時39分43秒 |  〃  (安倍政権論)
 ちょっとまた、しばらく政治ネタを書きたいんだけど、ホントは「安倍政権論」をもうあまり書きたくもない。考える余地もないぐらい安倍内閣の政治路線に大反対で、今さら書く元気が湧かないのがほんとうのところである。だけど、今回の「臨時国会見送り」というのは、ビックリした。あまりに不快感が強いから、書かないのもシャクで、記録しておくことにする。

 野党各党が憲法53条の規定に基づいて、臨時国会召集を要求した。憲法53条というのは、「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」というものである。今回は衆参両院のそれぞれ4分の1以上の議員が要求した。よって、内閣は憲法の規定により臨時国会を開かなくてはならない。議論の余地はないし、解釈が食い違う余地もない。

 理由はどうあれ、野党が要求した以上、開かないわけにはいかないはずが、安倍内閣は臨時国会を開かない方針だというではないか。どうすれば、そういうことができるんだ。ここまで、行政府が立法府を軽視していいのか。許されるのか。自民党は自分たちが作った会見草案では、「要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければない。」と変えるとしている。そのことを指摘されると、憲法改正は実現していないので、政府としては現行憲法にたって政治をしているなどと、菅官房長官はヌケヌケと言っている。現行憲法では、何日以内と書いてないだけで、「召集を決定しなければならない」と明記されているではないか。

 だけど、自分の中の不快感のよってきたるところは、何なのだろうか。自分でもよく判らないところがある。安倍政権の政治の中身にはもとより反対だけど、国会を開くかどうかなどという問題で、これほど堂々と国会無視をすることが信じられないからかもしれない。世の中には必要なタテマエがあって、「憲法で国権の最高機関と定めている国会で、国民の代表である国会議員が召集を要求した」というのは、日本社会のタテマエの中でももっともケチの付けようのないものだろう。それをここまで堂々と無視してしまえるのなら、あとはなんでも無視できるだろうという不安感かもしれない。

 今回ビックリしたのだが、野党の召集要求に応じなかったのは初めてではないということである。2003年、2005年にも同じことがあった。小泉政権である。やはり、小泉政権が政治を壊した前例を受け継いでいるのが、安倍政権だということか。ただし、2003年も2005年も、衆議院選挙があった。だから、総理大臣指名のための特別国会はあったのである。ちょっと調べてみると、

 2003年 常会(1.20~7.28) 臨時会(9.26~10.10解散) 特別会(11.19~11.29)
 2005年 常会(1.21~8.8解散) 特別会(9.21~11.1)

 2003年は臨時国会中に解散し、特別国会で第2次小泉内閣が成立した。その新内閣の所信表明を野党が求めたのだろうが、確かにもう年末しかないから、翌年の通常国会まで日がない。2004年の通常国会は1月19日に召集された。まあ間が2か月だから、要求があっても臨時国会を開かなくても憲法違反にならないというのが内閣の言い分だという。2005年は例の郵政解散の年である。普通、特別国会というのは、議長を選んで総理大臣の指名をして閉じるもんだけど、この年は特別国会を40日も開いた。そこで、郵政民営化法案を通したのである。

 今年は通常国会の会期が異常に長かったことは確かである。安保法制を通すために95日間も延長したわけである。だから、1月26日から9月27日まで、245日も通常国会が開かれた。1年は365日なんだから、国会を開いていない時期は120日ということになる。確かに、いつもより長いこと国会を開いたのである。だけど、安保法制を無理無理通したことにした後は、審議なんかしなかった。夏休みもなく審議したわけではなく、8月後半はちゃんと夏休みを取った。2016年の通常国会は、1月後半に開かれるから、国会のない期間が3カ月以上になる。これだけ間が空けば、開かないのは憲法違反だろう。

 もちろん、いま国会で聞くべき問題がいっぱいあるのは間違いない。TPPのこともそうだし、沖縄の基地問題、軽減税率の問題、安保法制施行に伴う問題、新閣僚のさまざまな疑惑…さまざまな問題が国会審議を待っている。それに東京新聞によれば、国会の同意が必要な委員がたくさんあるという。特に「個人情報保護委員会」は5人で構成されていたものが、来年1月から9人に拡大されるという。その拡充分の4人の委員の同意がなければ、「マイナンバー制度」などの監視体制が整わないこともありうると言う。他にも、公正取引委員の一人が12月3日で任期が切れるため、欠員が生じる。臨時国会を見送ることで実害があるということなのである。

 そういう事態まで起きるというのに、与党内に「短期間でもいいから臨時会を開くべきだ」という声が上がらない。不快感はそれも大きいと思う。誰も正論を言い出さない、言いだせない。それで政治家なのか。一人ひとりが国民の代表ではないか。
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快作映画「私たちのハァハァ」

2015年10月20日 23時28分16秒 | 映画 (新作日本映画)
 若手の松井大悟監督(1985~)の「私たちのハァハァ」は、最近見た日本映画の中でも「快作」といっていい出来だ。「女子高生映画」というのは、けっこうたくさんあるが、その中でも出色のものだと思う。実在のロックバンド「クリープハイプ」(と言われても知らなかったけど)の大ファンである北九州の4人の女子高生。福岡の公演で出待ちして、「東京の公演も見に来て」と言われ、それを「真に受けて」(?)、東京へ向けて自転車で旅立つ。高3の夏の冒険のてん末を描くロードムーヴィーである。

 ある夜に、突然スマホで連絡して、飛び出してしまう。その様子は自分たちで動画に撮っていて、ツイッターに投稿する。 そんな動画をつなぎ合わせて出来ている映画だが、4人そろって寝ている場面もあるんだから、「もう一人の撮影者」がいる。女子高生の自撮り画像映画を装って、計算されたシナリオに基づいて作られた青春映画である。そのあんばいは、かなり巧妙で、見ていておかしな感じはしない。「誰もが映画を撮れる時代」を自覚的に批評した監督の手腕である。

 って言っても、自転車で九州から東京まで行けるわけないだろ!?じゃあ、どうなる。お金はないのである。そこがおかしいとも言えるが、それが若いということだし、一種のお祭りなんだから仕方ない。だから、ホントに行くのかと関門海峡トンネルでためらう子もいる。結局ノリで皆で旅するが、広島まで行って野宿。原爆ドームを望む公園で、全く無関心な様子で4人でだべりあうシーンが印象的である。結局、トラックに乗せてもらい、やがて自転車を捨ててヒッチハイク。それで神戸まで行くんだけど…。そこでカネを稼ぐしかなくなって、4人の絆も危うくなってくる。

 4人と言えど、「東京まで行く」という目的を共有した一種の「運動体」である以上、「組織の力学」がやはり必然的に立ち現われてくるのである。何のために東京を目指すのか。その「理想」にこだわる「原理主義者」もいれば、現実的に進めるしかないと考える「現実主義者」もいる。部活動だって、文化祭だって、そういう問題は出てくる。女子高生の現実には「進路」もあれば、「男女交際」もある。容姿をめぐる葛藤もある。「カレシ」がいて、出て来ているものもいるのである。クリープハイプと彼とどっちが大事なんだと問い詰められるわけである。

 女子高生役の4人は、一人を除いて演技経験はないというけど、等身大の役柄を生き生きと演じている。何かの表現活動には関わっていた人ばかりだという。幼い感じもするけど、まあ、こんなものだろうか。4人組崩壊の寸前、なんとか東京まで夜行バスで行けることになる。その昂揚感の中で、気付いてしまう。東京駅にバスが着いても、渋谷までの電車代がないと。では、歩いて行くしかない。けど、ライブの開始に間に合わないではないか。どうすると言いつつ、結局終演寸前にNHKホールにたどり着く。で、どうなるか。いやあ、東京駅から渋谷まで歩いてどうやって行くのか?知ってる東京人は誰もいないだろう。まあ、ホントに歩いているかは知らないが、青山辺りは歩いていた。とにかく、ライブ会場までは到達したのである。そこはすごい。

 松井大悟監督は、福岡出身で慶応大進学、「ゴジゲン」という劇団を結成して活動していたという。2012年に「アフロ田中」という映画で監督デビュー。その後「男子高校生の日常」や「スイートプールサイド」などの長編映画を作っているが、見たものはない。クリープハイプのビデオクリップをずっと手がけてきたそうで、この映画はのラストでもコンサート場面がでてくる。「若い」ことを等身大に描き出した映画で、「デジタル・ネイティヴ世代のいま」を鮮やかに映し出している。キネカ大森で見たけど、テアトル新宿で23日までレイトショー。
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ヘニング・マンケル「北京から来た男」

2015年10月19日 23時49分00秒 | 〃 (ミステリー)
 スウェーデンの作家、ヘニング・マンケルの訃報に接して「追悼ヘニング・マンケル」を書いておいた。(10月7日)その中で、最新の邦訳である「北京から来た男」は読んでないと書いたが、地元の図書館にあるのは前から知っていたので、この機会に読んでみた。上下2巻もあるのでかなり長いけど、一気読みしてしまうミステリーである。もっとも、ミステリーとしての興趣というよりも、国際情勢などを考え込みながら読む本なので、紹介しておきたい。
 
 原作は2008年に出ていて、邦訳は2014年。昨年の「このミステリーがすごい」の10位に選ばれている。邦訳はマンケルの中では早い方だけど、それでも少し時間が経っている。これ以上遅くなると、原作の持つ意味が薄くなるから、クルト・ヴァランダーシリーズの翻訳を置いても、こっちの翻訳が先に出たのだろう。それは「中国とどう向き合うか」というテーマだからである。

 冒頭で、スウェーデンの寒村で恐るべき犯罪が起きる。その恐ろしさは、かつて読んだどんなミステリーをも超えるようなものである。普通だったら、そんな恐るべき犯罪は、誰が(フーダニット)、どうして(ホワイダニット)、起こしたのかを中心に物語が進行するだろう。まあ、この小説だって、ある程度はそうなんだけど、途中でそういう謎は後景に退いてしまう。この小説で謎を追うのは、スウェーデンの女性裁判官である。もう50代後半で、体調が悪く、短期の休職中。事件の写真を見ていて、今は亡き母親の故郷ではないかと思い、調べ始める。現地にまで行って、謎の中国人の映像を見つける。ホテルに捨てられていた中国語のパンフも入手し、長年会ってなかった旧友の中国学者に読んでもらう。

 というところまで進むと、突然19世紀中国の若者3兄弟の苦難を語る章に飛ぶ。彼らは農村出身で地主の横暴で両親が自殺し、子どもだけで広東を目指す。そこで一人は殺され、残った二人はアメリカに強制的に連行され、大陸横断鉄道の労働者として、奴隷のような仕事をさせられる。その章は、まさに「“ニガー&チンク”」と題されている。(「チンク」は中国人の蔑称。)アメリカの鉄道敷設に中国人労働者が大量に動員されたことは有名だが、このようにすさまじい辛苦に満ちたものだということは具体的にはよく知らなかった。読めば、一読忘れられないものである。

 だけど、ミステリー的には、なんでこのエピソードに飛ぶのかと考えると、具体的には判らないが、やはり「謎の中国人」が鍵なんだろうなと、ここで判ってしまう。まあ、それでいいんだという小説なんだと思う。なぜなら、そんな昔の中国人の苦難が現代にどう関係するのかが主たるテーマになることで、この小説の目的は「中国について考える」ことだと読者に示しているのである。

 女性裁判官の友人は、おりしも始皇帝に関する学会での発表のため、北京を訪れる。一緒に行かないかと誘って、ここで突然北京旅行になる。そこで写真をもとに「謎の男」を聞いてしまったために、今度はその女性裁判官が「巻き込まれ型」のスパイミステリーみたいになってくる。この二人の友人は、60年代末期に過激な革命運動に参加していて、「毛沢東語録」を手にして文化大革命に憧れていた。北欧にもマオイストがいたのである。そんな二人は、かつての革命運動を振り返り、自分たちがいかに幼く、運動の中で恐怖感にとらわれていたかを語り合う。ここが一番面白いと言ってもいい。日本でも「60年代の変革」を振り返る動きがあるが、北欧の女性という設定でどう語られるだろうか。

 そこに、今度は「アフリカ」が出てくる。ヘニング・マンケルはモザンビークが第二の祖国という作家である。自身が激動の青春を送り、南部アフリカにあってポルトガルから独立後も長く内戦が続いたモザンビークで文化活動を行ってきた。そういうマンケルにとって、中国がアフリカに「進出」することの意味を考えないわけにいかないのだろう。その「進出」は「友好的」なものなのか、それともかつては半植民地の苦しみを受けた中国が今度は「新植民地主義」としてアフリカに君臨するのか。この小説の真のテーマはここにある。ここで描かれる中国のアフリカ戦略は、かなり衝撃的なもので、どの程度現実性があるのか判らない。

 だけど、「経済大国となった中国をどうとらえるか」という大問題は日本にとっても重大問題に違いない。ミステリーだから、そこはそれ、面白く出来過ぎているし、いくらか「中国脅威論」に近いかもしれない。だけど、北欧のリベラルな立場を代表するようなマンケルが、そういう小説を書いた意味は大きい。まあ、リベラルな価値感からすれば、軍事偏重の警察国家とも言える今の中国に批判的なスタンスになるのも理解はできる。それに中国のアフリカ戦略に胡散臭いものを感じるというのも、モザンビークに警告したいということかもしれない。ミステリー的興趣以上に、国際問題を理解するための本。
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「映画俳優 志村喬」展

2015年10月18日 22時03分50秒 |  〃  (旧作日本映画)
 フィルムセンターで「生誕110年 映画俳優 志村喬」をやっている。また大ホールでは、関連作品を4回にわけて上映している。見ている映画が多かったり、旅行や仕事でうまく合わなかったりしたが、今日(10.18)の今井正「砂糖菓子が壊れるとき」はいつも見逃しているので、見ておこうと思った。その後、展覧会の方も見て、もう一本「男はつらいよ 寅次郎恋歌」も見て来た。

 志村喬(1905~1982)と言えば、何と言っても黒澤明の「生きる」である。あるいは「七人の侍」である、とまあ、誰もがそう思う。映画ファンなら、いつかは見るだろうし、見れば永遠に忘れららないのが、志村喬という俳優である。他にも、「酔いどれ天使」や「野良犬」、「醜聞」など黒澤映画の初期には欠かせない俳優だった。「戦後」という時代のイメージを、多くの黒澤映画で共演した三船敏郎とともに形作った一人である。だけど、どういう人なのか、あまりよく知らない人が多いだろう。

 もっとも志村喬には、僕の敬愛する澤地久枝さんの「男ありて」という評伝風の作品がある。1994年に出たこの本は、出た当時に読んで感銘を受けたが、もう20年以上前のことになってしまい、細部は忘れてしまった。だから、この展覧会で、家族のこと、舞台俳優時代、戦前の主に時代劇の脇役が多かった時代、夫人のことなどがいっぱい判って興味深かった。黒澤作品のシナリオなども展示されているが、個人的には志村喬という人の個人的な部分が面白い。というのも、このいつも仏頂面しているような感じながら、時に感情をあらわにするほどの激情を見せる、貫録たっぷりの老俳優がずっと好きだったのである。まあ、日本映画が好きな人で、志村喬を嫌いな人は誰もいないだろうが。

 黒澤映画の印象が圧倒的な志村喬だけど、もちろんその他のたくさんの映画に出ている。戦前・戦中期の時代劇の出演が一番多いことを今回知った。中でも、先の澤地さんの本の題にもなっている「男ありて」のプロ野球監督、あるいは「お吟さま」の千利休役などは非常に感銘深い。戦前の「鴛鴦(おしどり)歌合戦」という不思議なミュージカル時代劇では達者な歌も披露している。「ゴジラ」では博士役だし、「次郎長三国志 第八部 街道一の大親分」での身受山鎌太郎という親分役の貫録はものすごい。この役はその後も演たし、任侠映画での親分役は他にも何本かある。これがなかなかいい。

 「砂糖菓子が壊れるとき」はマリリン・モンローの人生を日本に移した曽野綾子の原作を今井正が映画化したもの。今井作品としては大したものではないが、主演の若尾文子を見るという意味では非常に大切な映画だと思った。志村喬は恵まれない女優だった若尾を見出し売り出して、結婚を申し込む芸能プロの社長。ちょっと無理がないでもないが、こういう役柄もオファーされる俳優だったのである。志村喬の社長は、熱海の別荘で倒れて、あっという間に死んでしまう。

 「男はつらいよ」シリーズでは、寅さんの妹さくらの夫、博の父親役をやった。何回か出ているが、リストを見たら3回だけだった。意外な感じがする。第一作で、さくらは裏の町工場の労働者と仲良くなり、いろいろあるが親が結婚式にやってくると、これがインド哲学を教える老大学教授だったという設定。いかにも志村喬にふさわしい役柄だった。出た回数は少ないが、寅さんシリーズの重要メンバーではある。「寅次郎恋歌」(1971)は第8作で、シリーズの評価が高くなって、この映画から洋画ロードショー館での公開も始まった。最近見直した寅さん映画は覚えているのだが、リアルタイムで見た映画はどれがどれだか、よく覚えていない。この映画も見たと思いつつ、よく覚えていなかったのだが、志村喬の父親が寅さんに「日常生活の大切さ」を説く場面で、見ていることをはっきり思い出した。その後、志村喬が柴又へやってきて、幼い満男(中村はやとの時代)を膝にのせて可愛がっている場面があった。

 ところで、この展示のチラシの志村喬は喫煙シーンの写真が使われている。昔は男は大体喫煙者だし、会議中はもちろん、医者も患者もタバコを吸っている。「砂糖菓子…」でも、産婦人科医が患者の家族に説明するシーンで喫煙している。「映画の中のタバコ」をずっと調べてみれば面白いと思う。それはともかく、「生きる」や「七人の侍」など名場面がいくつもあるのだから、何も喫煙シーンをチラシにしなくてもいいだろうと思う。というか、喫煙写真をチラシに使うというのは、今は避けるべき行為なのではないかと思うのだが。
(追記)(10.19)
1.志村喬は兵庫県北部の生野銀山が生地だったとこの展示で初めて知った。生野銀山に志村喬記念館があるということも出ていた。いつか行ってみたいものだ。書き忘れ。
2、志村喬の役柄として、「牝犬」(木村恵吾監督、1951)の、京マチ子の色気に迷って人生を棒に振る男というのがあった。「生きる」と同年の映画である。いうまでもなく、「嘆きの天使」のエミール・ヤニングスと同じだが、ヤニングスは志村喬の好きな俳優に入っていた。京マチ子はマレーネ・ディートリッヒにも負けないビッチぶりを発揮している。堅気の会社員だった志村が、浅草の踊り子に夢中になった部下を探しに行って、逆に人生を誤ってしまう。こんな情けない役を堂々と演じられる人はいない。
3.助演の任侠映画では、マキノ雅弘監督、高倉健主演の「侠骨一代」(1967)が最高だと思う。
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映画「顔のないヒトラーたち」

2015年10月17日 00時38分12秒 |  〃  (新作外国映画)
 旅行や体調不良でなかなか新作映画を見てないんだけど、全然見てないわけじゃない。書かなくてもいい場合は書いてないということである。でも、「顔のないヒトラーたち」は紹介しておきたいと思う。題名だけでは意味不明だが、これは1963年に行われたアウシュヴィッツ裁判をめぐる映画である。
 
 ナチス・ドイツの出てくる映画は、今も毎年たくさん作られている。娯楽戦争映画から歴史ドキュメンタリー映画まで。「アウシュヴィッツ」(絶滅収容所)も、今では誰もが知っている。詳しくは知らないかもしれないが、名前は知っているし、「とてもひどいことが行われた場所」だという認識は多くの人が持っているだろう。でも、1958年のドイツ、フランクフルトではほとんど誰も知らなかったということがこの映画で判る。ナチスではヒトラーやゲッペルスは自殺したものの、ゲーリングなどの「大物」は「ニュルンベルグ裁判」で裁かれた。その時に裁かれなかった被告は、1949年までに行われた12の裁判で裁かれた。その継続裁判を描いたのが、アメリカ映画「ニュールンベルグ裁判」(1961、スタンリー・クレイマー監督)で、62年のキネマ旬報ベストテンの2位に選ばれている。

 ドイツ人は「それで終わり」と思っていたのである。それは日本でも同様で、「東京裁判」やいくつものBC級裁判が終わると、日本の戦争責任を自ら追及するという動きはどこからも出てこなかった。70年代になって、ようやく「民衆の戦争責任」や「日本の加害責任」が問われてくる。だけど、ドイツでは60年代初期に、この映画で描かれた「アウシュヴィッツ裁判」が行われて、国民意識に大きな影響を与えたということなのである。そういうことがこの映画で判った。

 映画としては、メロドラマやミステリー的な興味をうまく取り入れながら、最後まで興味深く見られる映画に仕上げている。だけど、はっきり言って普通の出来で、ウェルメイドな作り方がどうも物足りない。しかし、この映画で描かれる出来事は今まで知らなかったことだらけ。歴史的関心だけで見たのだが、その知的問題意識は十分に満たされる。現代史や社会問題に関心が強い人は、ぜひ見逃さないようにしてほしい映画だ。特に日本ではいろいろと考えさせられることが多いと思う。

 1958年のフランクフルト。アウシュヴィッツの収容体験のあるユダヤ人が、ある日当時残虐行為を行っていた看守が小学校の教師になっているのを見た。それを聞いた新聞記者が大きく取りあげたが、誰も耳を傾けない。ある若い検事だけが、その訴えを取り上げ、捜査を始めるのである。ナチス時代の犯罪の多くは時効になっていたが、殺人罪は当時から時効がなかったので、殺人罪に問えるのではないかと追及するのである。その若い検事、ヨハン・ラドマンの捜査ぶり、悩み、ロマンスなどを硬軟取り混ぜて、どうなるんだろうと興味をつないでいく。応援する検事もいるが、もう済んだことだと公然と反発する勢力もある。明らかに残虐行為に関わっていた者たちも、南米に逃れたり、公的な職業についていたりする。人体実験を行った医師、「死の天使」メンゲレなどは、アルゼンチンに潜みながら時々偽名でドイツに帰国したりしていた。そのことをヨハンはつかむが、メンゲレを逮捕することはできなかった。(イスラエルのモサドは、メンゲレの居所をつかんでいたが、アイヒマンの拘束と移送を優先したため、メンゲレは逃亡した。1979年にブラジルで水泳中に心臓発作で死亡した。)

 日本では一般にドイツは戦争犯罪に誠実に向き合ってきたと思っている人が多いと思う。でも、もちろんそんなことはないのである。生活のため、多くの人がナチに入党した過去を持つドイツでは、主要な大物戦犯が裁かれたことで終わりにしたい、それ以上触れて欲しくないという国民感情が大きかったのである。そんなドイツの事情を描いた映画は前にもあった。1990年のベルリン映画祭で銀熊賞を得た「ナスティ・ガール」という映画である。「白バラ」や「白バラは死なず」を作ったミハエル・フェアヘーヴェン監督の映画。ドイツの地方都市、カトリックが有力な町で、優秀な女子高生ソーニャが先生の指導の下、全国論文コンクールで最優秀となり、パリ旅行に行く。次のテーマを「ナチス時代のわが町」として調べ始めると、その町でもユダヤ人密告事件があったことを突き止める。さらに調べ始めると町の人々は一家に冷たく当たり、孤立してしまう。10数年後、恩師と結婚して子どもも生まれたソーニャは、育児が一段落して大学へ通って、昔のテーマをまた追求する。その結果として、家が爆破されたり、夫が別居を求めたりしたあげく、町に隠された驚くべき真相を突き止めたのである。

 これは実話の映画化だそうで、「ナスティ」(nasty)というのは、英語で「下品な」とか「不愉快な」と言った意味。町で孤立して「いけない女」になってしまったソーニャを指す。かつて一緒に論文コンクールを頑張った先生に憧れて、ともに理想を共有して結婚までした教師が、決定的な時点で去って行こうとするというのも、何だか身につまされたものである。こういう映画を見て判るのは、やっぱりドイツだって「臭いものにはふた」という態度で歴史をあやふやにしてしまおうという勢力が強かったのである。しかし、そんな風潮に敢然と対抗した人々の勇気ある行動があって、ドイツの歴史認識が作られて行ったのだ。そういうことを、特に日本でも知って学んで伝えていかないといけないと思う。戦争認識をめぐる問題に関心がある人向けだけど、まあ、誰が見ても楽しめるように作ってある。そういうたくましさを見る意味があるかもしれない。

 検事ヨハンは、アレクサンダー・フェーリングという人で、「イングロリアス・バスターズ」「ゲーテの恋」などに出てたというが、いかにもドイツ人的な美形男優。その恋人マレーネはフリーデリーケ・ベヒトという人で、「ハンナ・アーレント」の若き日を演じた人。監督・脚本は1965年イタリア生まれのジュリオ・リッチャレッリの初監督作。俳優も監督もとても覚えられない。
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北海道の素晴らしい山と温泉

2015年10月15日 22時46分43秒 |  〃 (温泉)
 函館旅行について何回か書いたけれど、北海道は前に何回も行っているので、番外編として少し思い出を書いておきたいと思う。一番行ってたのは90年代初期で、夏に車で山や秘湯を訪ね歩いた。ずいぶんいろいろ行っていて、「北海道三大秘湖」(オコタンペ湖、東雲湖、オンネトー)とか道北のパンケ沼ペンケ沼ウソタンナイ砂金公園なんかまで行っている。道東でも、霧多布湿原野付半島の美しさは印象的だった。北海道ドライブは、人生の最も楽しい思い出の相当上にある。

 そんな中でも一番素晴らしいのはどこかと言えば、ためらうことなく「礼文林道から見た利尻岳」だと言いたい。礼文林道というのは、礼文島(れぶん)にある道だけど、全島が低い丘に花咲き乱れているような礼文島の中でも、最も美しい道だと思う。そこから海を隔てて、利尻島の利尻岳がくっきりと浮かび上がっている。日本の山岳景観の中でも、ベスト級の圧倒的な風景である。ちょっとふさわしい写真が見つからなかったのだが、下の写真の最初が利尻島南部から見た利尻岳、次が礼文島。
 
 この利尻岳には1993年に登っている。当時も上の方はかなりガレていたが、今は途中にあった避難小屋もなくなって、相当登るのが大変だという。でも、「日本百名山最北の山」として、山好きには一度は登りたい山だろう。僕にはもうちょっと登るのは大変そうだけど、登り口を少し歩いた「甘露泉水」という「名水百選」に入っている水は、ものすごく美味しい水でもう一度飲んでみたいなあと思う。(名水百選もずいぶん飲んでいるが、岩手県の龍泉洞の水が一番好きで、利尻が二番。)

 でも、山と言えば大雪山山系がやはり北海道で一番すごい。黒岳ロープウェイから黒岳に登って、トムラウシまで縦走したのが最高の思い出。日本アルプスなら山小屋泊りで計画するが、北海道には小屋がないのでテントを持参した。食料をいっぱい詰め込むと重くて重くて大変だった。やっぱり本を持っていかないとダメなので、テントで岩波文庫の「カフカ短編集」を読んでいた。何となく、そんなことが忘れられないのである。北海道最高峰の旭岳(大雪山)やちょっと離れた十勝岳には別の機会に登っている。十勝岳では途中でキタキツネが出てきて、付かず離れず一緒に登頂したもんだ。どこかに写真があるんだけど、整理してないから見つけられないのが残念。

 大変だったのは、あまりにもアプローチが長かった上、ハエというかアブというかがずっとまつわりついてきた日高山脈の幌尻岳が一番。車を置いてから、登り口の避難小屋までが長かった。翌日に何とか登って下りて、車を運転して、その日の宿泊地、襟裳岬にたどり着いた。温泉ではないから、とにかく部屋で風呂に入ったら、靴や服の間からハエの死骸がいっぱい出てきてがく然とした。食事もおいしくて、ほんと生き返った気がしたものだ。百名山級ではなぜか登ってない羊蹄山(シリベシ山)を除いて、大体登ってるんだけど、知床の羅臼岳は、体調不良で途中の羅臼平でリタイアしたので登ったとは言えない。斜里岳はサンハウスの平野夫妻と一緒に旅行した時に登ったけど、行動は夫婦別。

 そういう旅行に時は、大体温泉宿に泊った。大きいところから小さな秘湯まで。然別湖(しかりべつこ)の奥にあって、しばらく休業していた菅野温泉もやってるうちに泊った(ここは昨年宿泊が再開された。)十勝の最奥にある幌加(ホロカ)温泉も素晴らしい野趣だった。北海道は観光シーズンが短く、観光地間の距離が長いから、団体旅行で大きな温泉に泊りながら移動することが多い。そのため、大きな温泉地には大観光ホテルが林立している。登別、洞爺湖、定山渓、湯の川(函館)、層雲峡、阿寒湖、川湯、十勝川、ウトロ(知床)、温根湯(おんねゆ)…などなど。どれも一度は泊ったけれど、確かに似たような感じの宿が多い。まあ、どこも普通に満足できるとも言える。登別温泉の第一滝本館なんかは、温泉も素晴らしいし(登別に出る7つの泉質が全部ある)、食事や部屋も満足できた。

 でも、思い出が深いのはやはり秘湯系。ベストは支笏湖畔の「丸駒温泉旅館」(下の写真)で、湖畔の露天風呂の気持ち良さは、高峰温泉や桜島の古里温泉の古里観光ホテルなどと並ぶ素晴らしさである。(古里観光ホテルは廃業してしまったようだが。)次に道南の「銀婚湯温泉」で、この名前は大正天皇の銀婚式に日に温泉が出たことで付いたというんだけど、気持ち良い湯が大量に出ている。行きにくい場所にあるけど、それも秘湯感を増している。それこそヒマとお金がある程度できたころの銀婚夫婦がよく来るらしいけど、そうでなくても一度は行きたいところである。まあ、どこも車がないと行きにくいんだけど。行ってないのは、ニセコの秘湯や大雪高原温泉、トムラウシ温泉など。やっぱり遠いので飛行機やフェリーで行くのも大変だから、しばらく北海道に行ってなかった。函館はまあ南の端っこみたいなところだが、また北海道に行きたくなってしまったので、つい思い出話を番外で書いた。
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恵山ドライブ-函館旅行④

2015年10月14日 00時15分51秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 3日目はレンタカーで恵山にドライブ。今回はなぜか同じホテルが三連泊で取れなかったので、荷物運びもあって車を借りることにして、郊外へ。9月末には爆弾低気圧が来て、帰った後には台風の影響で大風が吹いた。その合間に晴れ上がった日が続き、ドライブ日和である。北海道の南に突き出た半島は「渡島(おしま)半島」というが、さらにその半島の南西を松前半島、南東を亀田半島と言っている。恵山(えさん)は、その亀田半島の最先端にある火山で道立自然公園になっている。恵山岬と尻屋崎(下北半島)を結ぶ線が、津軽海峡と太平洋を分ける線だと言う。津軽海峡は日本海に属することになっていて、恵山はちょうど太平洋と日本海を分ける山と言える。

 温泉もあって一度は行ってみたいところだったんだけど、旅行ガイドに出ていない。何でかなあ、どんなところかなあと思い、行ってみることにした。最初に立待岬に寄ってから、海沿いの道をひたすら東へ真っ直ぐ進む。とても気持ちのいいドライブ。車も少ない。最初に目指すのは「道の駅 なとわ・えさん」である。「なとわ」って、何?アイヌ語かなと思うと、なんと「あなたとわたし」を意味するこの地方の方言だとあった。ここには昆布や海苔のお土産がいっぱいあって、そのことはまた後で触れる。

 突端の恵山岬に行くには、山を越してはいけない。山を大回りしないといけないが、とりあえずは山をひたすら登る。つつじ公園や温泉旅館を通り越し、「火口原駐車場」まで車で入れる。もう硫黄臭でいっぱい。今回は登る気で来てないからちょっと散歩するぐらいだが、「賽の河原」に噴気が上がっている様子がよく見える。よく晴れていて気持ちがいい。登り1時間ほどの618mの低山である。だけど、海風の影響と火山活動により、低山ながら高山植物が見られ、独特な植生をしている。
  
 初夏の頃にはツツジが咲き誇るというので、一度登ってみたい山だ。この程度の高度なら、これからでも登れると思う。反対側を見ると湿原風の草原が広がり、海向山(かいこうざん)に向かうコースもある。こっちもいい感じ。道にはフンがいっぱい。これはエゾシカかな。
 
 途中に旅館が二つある。恵山温泉旅館と石田旅館。どっちも掛け流しの恵山温泉に入れるはずなんだけど、なんだか人がいないし、案内もない。どうも平日の立ち寄り湯は夕方かららしい。そう言えば、昔90年代によく北海道に行ってた頃「恵山モンテローザ」というホテルがあったけど、それはどうなってるんだろうなあ。と思いつつ、帰ってから検索してみたら、そのホテルこそ「バブル遺産」として有名な「廃墟」になってると言う。そう言えば、来る途中で巨大な「黄金観音」を見たんだけど、何だろうと思いながら通り過ぎてしまった。それも、そのホテル開発の一環だったのかと思う。今度来たら、是非「廃墟探検」もしてみたいな。さて、山を越える道路はないので、来た道を戻って西回りの国道へ。海へ出たら、ひたすら先を目指す。「ホテル恵風(けいぶ)」で立ち寄り湯と昼食。
 
 温泉は「とどぽっくる」という施設が出来ていて、広いんだけどお昼で誰もいない。けっこう食事客はいたんだけど。ジャグジーやサウナもあって、中は塩素臭がするけど、高温湯と露天風呂が源泉のままだという。でも、高温は入れません。露天風呂は良かった。(今ホームページで見ると、すべて掛け流し・循環併用で、宿泊者専用浴場のみ掛け流しとある。)ところで、源泉は二つあって、恵山岬温泉と水無温泉と書いてある。この「水無温泉」は、岬の先にある「水無海浜温泉」と同じ。これは温泉好きには有名なところで、一日に数時間しか入れない、海の中にある温泉である。そういうところは屋久島の平内海中温泉や式根島(伊豆諸島)の地鉈温泉と同じ。僕はどこも入ってないけど、今回の「水無海浜温泉」もちょうど適する時間帯が朝4時から7時という時期だから、入れない。もう海水になっていて、温泉ではなく海水浴になってしまう。下の写真の石で囲んだところで、上に脱衣所がある。
  
 小さなかわいい灯台があって、中には入れないけど、これもとてもいい。ここが恵山岬とある。灯台資料館もあったけど、入らなかった。
  
 さて、恵山のあたりは昔は恵山町だった。2004年12月に広域合併して函館市になっているので、今回は函館市しか行ってない。函館から見て恵山の裏にあたる水無海浜温泉のあたりは、合併までは「椴法華村」だった。読み方は「とどほっけ」。難読の地名である。この地域は津軽海峡の暖流と太平洋の還流が混じり合う海域で、その恵みが素晴らしい昆布を生むという。そこで採れた昆布が「おとひめこんぶ」という昆布で、北海道プラザなんかに売ってるから家でも食べていた。でも、昆布と言えば日高とか利尻だから、「椴法華」なんていう謎めいた地名も北の方にある感じがする。だけど、実は函館市だったとは。こうして、道の駅に昆布や海苔がいっぱいあった理由が判る。他に物産館みたいなところもなく、そこで買うのがいい。帰り道はその椴法華の地帯を通り過ぎていく。昆布採りの寒村のような地帯がずっと続いていた。そこを通りすぎ、隣の旧南茅部町に入り、道の駅で休むと、そこに「縄文文化交流センター」がある。道の駅の名前も「縄文ロマン 南かやべ」という。ここに北海道唯一の国宝があるのである。それが中空土偶で、中空というのは中が空いているという意味。ヒスイなども出土しているが、それはもちろん糸魚川産で、縄文時代には津軽海峡を越えた濃密な交流があった。

*なお、恵山は常時観測対象の活火山で、噴火の恐れが皆無ではない。御嶽山のように噴火することもありうると函館市のホームページに出ている。だから、あまり宣伝しないのかもしれない。
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