尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「千島」と「ミクロネシア」を米ソで取引

2013年09月29日 01時29分43秒 |  〃 (歴史・地理)
 「終戦のエンペラー」が史実的に「トンデモ映画」だったので、細かいことを思い出すために現代史関係の本を読み直している。その中で豊下楢彦「昭和天皇・マッカーサー会見」(岩波現代新書)に、全く記憶にない興味深い事実があったので紹介しておきたい。多分知らない人が多いと思うので。それは「千島」のソ連領有とアメリカの「ミクロネシアの信託統治」が取引されたという事実である。そのこと自体も重要だけど、この事実は「核兵器の実験場がどこに置かれたか」という問題も考えさせる。

 論点はかなり複雑だが、最初はロバート・D・エルドリッヂ「沖縄問題の起源」(2003)という本に関する議論である。その本は昭和天皇のいわゆる「沖縄メッセージ」に新しい解釈をしているが、豊下氏はその解釈は成り立たないと批判する。まず「昭和天皇の沖縄メッセージ」を解説しておくと、新憲法施行後の1947年9月、昭和天皇が御用掛の寺崎英成を通してシーボルト(連合国最高司令官政治顧問)に対して、「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう」「長期租借による、これら諸島の米国軍事占領の継続」を希望するというメッセージを伝えたというものである。

 1979年に進藤榮一氏(当時筑波大助教授)が、アメリカの情報公開により入手した文書を公表すると、非常に大きな衝撃を与えた。沖縄はアメリカ軍の統治で大きな苦しみを受けてきたが、その「原点」は「天皇に棄てられた」という事実にあったのかという驚きである。また新憲法では「象徴」になったのに、国政に関わるメッセージを天皇が直接伝えるだろうかという疑問もあった。その後の研究の進展により、昭和天皇は時には日本政府(吉田首相)や占領軍(マッカーサー元帥)さえバイパスして、米国政府に直接接触することもあったことが判ってきた。まさに君主による「二重外交」である。昭和天皇は「天皇制を守る」=「共産主義の攻勢を米軍の力で防ぐ」=「沖縄に米軍が存在することが必要」という、「政治的リアリズム」に徹していたのである。天皇の動きは現実政治に大きな影響を与えたのではないかと今では思われている。

 このメッセージは「沖縄が本土の都合で切り捨てられた」とみなされることが多いが、エルドリッヂはそうではなく、「天皇メッセージ」が沖縄を日本領土に残したのだと評価しているという。米陸軍は沖縄の併合を求めていたが、天皇が米軍に先立って「米国の施政権を認める」という提案をしたため、併合の主張を押さえられたというのである。天皇メッセージがなければ、永久に沖縄は日本領土から切り離されただろうと。しかし、豊下氏は当時の国連における信託統治に関する議論を見れば、到底そのような評価はできないとエルドリッヂを批判するのである。

 戦前に「国際連盟の委任統治」という制度があった。旧ドイツ領の「南洋諸島」は日本の「委任統治領」だった。旧ドイツ領のアフリカ諸国やオスマン帝国領のパレスティナ(イギリスが委任統治)などもそうだった。日本は事実上、南洋諸島を軍事基地にしたため、サイパン島などで日米の激戦が繰り広げられた。アメリカ軍は「血で獲得した」それらの島々を併合することを求めていた。しかし、それは国連では認められようもなかった主張だというのである。国連はドイツ領南アフリカ(今のナミビア)問題でもめていたのである。ナミビアは戦前から南アフリカの委任統治領だったが、戦後になって南アフリカが勝手に併合を宣言したのである。国連はこれを「不法占領」と見なして認めなかった。南アのアパルトヘイト問題もあり、1990年にナミビアの独立が果されるまでこの問題は続いた。

 つまり、国連安保理で南アの「不法占領」を非難していたアメリカは、沖縄どころか「南洋諸島」の併合さえ主張できる情勢ではなかったのである。そこで国連信託統治委員会の米代表だったダレス(後に日米安保条約をまとめ、米国務長官になる)は、「戦略的信託統治」という制度を認めさせたのである。普通の「信託統治」は国連総会の管轄下にあり軍事的利用は認められないが、安保理の管轄下におかれる「戦略区域信託統治」は、「戦略地域」に指定されれば「軍事利用」「立ち入り禁止」が出来るという制度である。アメリカは安保理の拒否権を持つから、一度この指定を受ければ、後は事実上自由に統治できるわけである。

 「戦略的信託統治」は米軍がミクロネシアで核兵器の実験をできる仕組みだから、当然ソ連は反対すると思われていた。ソ連も拒否権を持つから、ソ連が反対すればこの制度は実現しない。トルーマン米大統領がこの方針を明らかにした1946年11月に、ニューヨークで4か国外相会談が開かれた。その時にアメリカのバーンズ国務長官はソ連のモロトフ外相に対して、「千島列島をソ連に引き渡すという、『ルーズヴェルトの約束』を米国が守るかどうかは、このミクロネシア戦略統治にソ連がどういう態度を示すかにかかっている」と迫ったというのである。1947年2月に、この戦略的信託統治案は安保理でソ連を含む全会一致で認められた。米ソは「ミクロネシア」と「千島」を取引したのである

 ここで千島問題に簡単に触れておく。カイロ宣言は、日本が「暴力および領土的野心により獲得した全領土」から追放されるとうたい、それはポツダム宣言にも引き継がれた。一方、1945年2月のヤルタ会談の秘密協定で、ソ連はドイツ降伏後3カ月以内に対日参戦する、その代償として千島列島をソ連に引き渡すと密約を交わされたのである。もちろん秘密協定だから、そのままでは日本は拘束されない。日露戦争後に日本領土になった南樺太は、戦勝国のソ連に引き渡されるのもやむを得ないとも言えるが、千島列島は本来「千島樺太交換条約」で平和裏に日本領となった地域である。しかし、日本はサンフランシスコ講和条約で、千島の放棄を認めた。「放棄した千島列島はどこまでか」に関して北方領土問題はあるが、日本が北千島を放棄したことは条約上の事実である。(ただ講和条約にソ連は署名しなかったが。)その条約を結ぶ前に、米ソの知られざる取引があったわけである。(なお、ソ連は米国とアジアで張り合いすぎると、最重要の東欧支配に影響しかねないと心配したのだろう。東欧地域はソ連が解放した地域が多く、その結果を重視してソ連優位を認めよと米英に迫っていた。だからアメリカが戦闘の結果日本から獲得したミクロネシアに文句を言うと、逆効果になりかねない。)

 さて、ここで考えることはアメリカの核実験がミクロネシアで行われてきたという事実である。1953年の世界初の水爆実験はビキニ環礁(現マーシャル諸島共和国)で行われた。住民は強制的に移住させられて今も帰ることができない。ソ連は現カザフスタン領のセミパラチンスク、イギリスはオーストラリア領の島々(クリスマス島など)、フランスはサハラ砂漠やフランス領ポリネシア(ムルロア環礁など)、中国は新疆ウィグル自治区のロプノールで行った。中国では独立運動がある地域だし、フランスも植民地で行っている。しかし、それでも自国領土で行っているとは言えるだろう。アメリカがミクロネシアで核実験を行うということの「合法性」には一番疑問があるのではないか。「戦略的信託統治」だから許されると言えばそれまでだが。もちろんどこで行おうが、核実験を大気中で行うことは許されないが、今まで「米国がミクロネシアで核実験できる理由」という問題意識がなかったので、ここに書き記す次第である。なお、ミクロネシアの信託統治は、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦、パラオが独立し、北マリアナ諸島(サイパン、テニアン等)が米国自治領(コモンウェルス)となって、今は行われていない。
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昨年度の教員免許更新制の結果

2013年09月26日 22時03分08秒 |  〃 (教員免許更新制)
 インターネットのニュースサイトを見ていて、産経新聞の9月24日付に今年(昨年度)の教員免許更新制の結果に関する記事を見た。ところが、それを裏付ける文科省の発表が見つからない。他の新聞でも見当たらない。とりあえず貴重なデータだから紹介しておく。教員免許更新制については、実施初年度(2010年度)が終わった2011年には、文科相のサイトでかなり早くまとめの数字が公開された。昨年(2012年)はなかなか発表されなかったので、ここでは紹介していない。(もっとも初年度の数字はかなりわかりづらく信用性が疑わしい部分もあった。)

 さて、産経の記事によれば、3月末に更新期限を迎えたのは全部で9万5919人。講習を受けて更新が認められたのが7万6734人だという。管理職などで講習が免除されたのは1万3026人、病欠などで期限延期が認められたのは5719人だった。以上を計算すると、「それ以外」が440人いることになる。
 
 その内訳は判らないが、「免許を失効したのは0.1%に当たる99人」だと「24日、文部科学省の調査で分かった」と新聞記事(というかネット上の記事)にはある。更新講習を受けずに退職すれば、この数字には含まれないはずだから、この「99人」というのは、「免許を更新するつもりだったけど、失効してしまった」という人のはずだ。その理由がどこにあるかは不明だが、10年、20年、30年と教員を続けていた人ばかりなんだから、「99人」というのは多いのではないか。

 その99人のその後は、
 「更新講習修了の確認手続きを忘れるなどして期限後に免許を取得し直したのが29人」
 「事務職など免許が不要な職種に移ったのが37人」
 「退職したのが33人」
    
 国公私立別の内訳は、公立33人、私立64人、国立2人。
 都道府県別では、東京が30人で最も多く、兵庫が10人、茨城と埼玉がそれぞれ6人。
 東京にそれほどいたのか。公立で「失効」すると「失職」してホームページで発表されるので、これは私立学校かも知れない。それは「事務職など免許が不要な職種に移った」という人が37人もいることでも想像できる。公務員の場合、採用試験に必要な資格が失効すると公務員の資格も失うという最高裁判例がある。一方、私立学校の場合は、学校法人の職員だから、その学校法人が(教員以外の職種で)雇用を継続することは可能である。だから、つまりそれでいいのである。公立学校だって。校長に民間人を登用するとか、塾と提携して学力向上を図るとか言ってる時代に、教員の免許が事務的に失効したからどうだこうだなどと問題視する必要があるか。また日本全国、設置者別を問わず、(校種は判らないが)、どこでも起こっている。国立学校でも失効者がいるというのには驚く。

 これほど失効者が毎年出ているというのに、制度を見直すという動きはあるのか。文科省のサイトには、「平成25年度免許更新制高度化のための調査研究事業について」なる発表がある。「高度化」の意味がよく判らないが、とにかく大学等になんらかの「調査研究」を依頼している。しかし、「高度化」することが目標だろうか。教員研修が時代にあったものになるためには、「免許更新制」そのものの再検討が必要なのではないか。しかし安倍政権になり、それは不可能かと諦めているというのが現状ではないか。
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青山真治監督の「共喰い」

2013年09月24日 23時58分56秒 | 映画 (新作日本映画)
 田中慎弥の芥川賞受賞作「共喰い」を青山真治監督が映画化して公開中。映画「共喰い」は、ロカルノ映画祭でも受賞した力作だが、あまり大規模な公開になっていないので見てない人が多いだろう。しかし、非常に優れた出来なので、紹介しておきたい。映画を長く見ていると新作に厳しくなって、昔のレアものに関心を持ちがちなんだけど、重要な新作は紹介して行かないと。
 
 青山真治(1964~)という人は、「EUREKA」(ユリイカ)で2000年のカンヌ映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞するなど、日本の新しい映画監督の代表格で活躍してきた。その「EUREKA」を小説化して三島由紀夫賞を受賞、批評集も出しているし、映画音楽も手掛けている。北九州市の出身で、「サッド・ヴァケイション」など北九州を舞台にした映画も多い。この「共喰い」の原作は下関を舞台にしていて、映画でも一応下関の設定になっているが、撮影は主に北九州市で行われた。原作の川辺はとても印象的だが、ロケ地は新門司港の付近だということだ。「昭和63年」、つまり「昭和最後の夏休み」という設定だが、まさにその時代っぽい。

 ちょうど最近、「EUREKA」を見直す機会があったのだが、その映画は西鉄バスを乗っ取る犯罪事件に巻き込まれた運転手と乗客の姉妹を描いた作品である。ところが映画の公開直前に、実際に福岡県で西鉄バスを少年が乗っ取る事件が発生して、非常に驚いたものだ。その印象が強いのだが、今回見てみると、一番最初に乗客の少女役の宮崎あおい(デビュー作)が「大津波がやってくる」とつぶやく場面から始まっていた。「少年犯罪を描く」という「予見の映画」だった以上に、超長期にわたって「日本を予見する」映画になっていたことに改めて驚いた。

 今回の「共喰い」は、芥川賞受賞のベストセラーの映画化という難しい課題をほぼクリアーしたと思う。田中慎弥は、生まれた地に留まりながら「父と子」というテーマに挑み続けている作家である。しかし、様々な小説体験を基にした「作り物感」を僕は多少感じてしまうのである。「共喰い」もほぼ完成された短編小説になっているが、しかし「出来過ぎ」というか、設定に不自然さも感じられた。「セックスの最中に女を殴ってしまう父」とか、汚い川でする「ウナギ取り」、あるいは「神社でセックスする主人公の高校生カップル」など、まあ頭で作った感じではないか。いかにも「絵になる」設定だが、読んだときには実在感を得にくい感じもした。また「父の血」、女に暴力を振う習性が遺伝しているのではないかと恐れるというのも、それがテーマだとは言え過剰な気がして違和感がある。舞台となる独特な「川辺」の雰囲気も、中上健次の「路地」などに近い趣を感じる。

 僕に感じられた、そういう「非実在感」を映画ではクリアーできたか。若手俳優やベテラン俳優の存在感、ロケ地の存在感、名手荒井晴彦の脚本などを得て、僕は原作よりいいのではないかと思った。原作はかなり有名だし、文庫されている短編なので、ここであらすじは紹介しない。原作よりいいと言っても、設定は基本的に原作通りで、原作があって映画がある。しかし、小説中の人物設定に具体的な肉付けをして、実際に生きている人物にするというのが映画に求められた仕事である。特に主人公の母親役の田中裕子、いいのは判り切っているが、戦災で片腕がない魚屋という難役を見事に演じている。光石研の父親は、やはり何で女を殴るのか、僕にはいま一つ納得できない感じもあるが、まあ何となく納得させられてしまう。小説では身近でなかった人物たちが、ロケ地の風景の中で生きている。

 ラストが大きく違う。小説は「事件」の直後で大体終わるが、映画は後がある。小説では主人公カップルが警察に保護されるが、映画ではそれがない。原作でも面会のシーンが最後にあるが、映画ではそこで「昭和天皇の病気」が語られ、母親(田中裕子)に「あの人(天皇)より長く生きていたかった」と語らせている。その後主人公は、父のもとを逃げた愛人を訪ねる場面があり、昭和が終わるというナレーションが入る。このあたりは、脚本の荒井晴彦が原作に挑戦して読み込んだ場面だが、僕はその方が成功していると思った。映画は生の人物や風景が出てくるので、突然終わるより「その後」を語って終わる方が余韻が残る。また「昭和の終わり」という時代設定上、「天皇」を避けて通れないという勇気ある挑戦である。
 
 この映画に関しては、原作を読んでから映画を見た方がいいと思う。小説で描かれた場面が映像で語り直されてなるほどと言う場面もあるし、原作と違う場面は何故変えたんだろうと考える。そんなに長くない原作だし、両方を体験することで、昭和最後の都市の地方で起こった血と暴力のドラマがより理解可能になるだろう。原作者もうならせた映画化だというが、是非読んで、見て、比べる見方が面白いと思う。セックスや暴力の場面が原作にも映画にもある。というか、それが主題である。その描き方も、真正面から登場人物を描くというやり方で、不自然さは感じない。登場人物が理解できるかは別問題だけど。ともあれ、今年を代表する力作だと思う。好きになれない人も多いと思うが、取り組む価値のある作品。
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朱建栄氏の事態を憂慮する

2013年09月23日 00時25分33秒 |  〃  (国際問題)
 東洋学園大学教授の朱建栄教授が、中国に一時帰国したあと、上海で「行方不明」となり中国当局に拘束されている。7月半ばに連絡が取れなくなり、日本のマスコミにも報道された。その後、9月11日になって、中国外務省の洪副報道官が「朱建栄は中国の公民だ。中国は法治国家であり、公民は国の法律法規を順守しなくてはならない」と記者会見で述べた。事実上、スパイ容疑で身柄を拘束していると認めたものである。

 朱建栄氏(1957~)は上海生まれで、1986年に来日し学習院大学で「毛沢東の朝鮮戦争」で博士号を取得。1996年以後、東洋学園大学教授を務めている。この最初の論文は岩波書店から1991年に出版され、日本でも大きな注目を集めた。後、岩波現代文庫に収められ、僕が読んでいる朱氏のただ一つの本である。以後、著書、共著、翻訳などを30冊近く出版してきた。また僕は見ていないがテレビ番組への出演も多かった。それらの言論活動は、中国の内部資料を使っていたことも多いように思える。中国の人権状況を批判するスタンスではなく、むしろ中国政府を擁護するような論調も多かった。

 「朱建栄先生を救え」と論陣を張っているのが、佐藤優氏である。一週間に一度、東京新聞に書いているコラムに2回もこの件を書いている。8月23日付で早くも「7月18日から夕から中国のカウンターインテリジェンス機関の監視下に置かれ、外部との連絡を遮断されている」と書いている。これは中国当局の発表を先取りしている。さらに「信頼できる筋から得た情報」として「日本の政府機関からカネを得た見返りに、中国の政治、軍事に関する情報を日本政府関係者に提供したことがスパイ容疑に問われている」との見方を示している。もちろん、その当否は僕には判らない。

 日本では朱氏を「二重スパイ」ではないかと書いたり、様々な風評があるようである。しかし、佐藤優氏の考えでは「日本の基準ではごく普通の学者の研究活動や意見交換を中国の一部勢力がスパイ事件にでっち上げ、日中関係を悪化させようとしている」と見立てている。その見方の当否も判らないが、理由のわからない身柄拘束は人権上許されない。情報の扱いをめぐっては国ごとに差はある部分がるが、それでも今の段階では2カ月もたつのに起訴はもちろん、正式な逮捕もされていないと思われる。とすれば、やはりこれは政治的な思惑を持って行われているのあり、朱氏は「政治犯」ではないのか。

 今から40年ほど前には、韓国に留学していた在日韓国人が多数スパイ容疑でとらわれるという事態が続出した。最近になってようやく再審で無罪になったりしている。近年は中国関係者で起こることがある。例えば東大大学院に在籍していたウィグル人トフティ・トゥニヤズさんの事例がある。中国の少数民族を研究していたトフティさんは1998年に逮捕され、1999年に懲役11年の判決を受け服役した。2009年に出所し、2年間の政治的権利剥奪機関も終わっているが、いまだに日本の家族のもとに変えることができない。(妻は日本国籍を取得している。トフティさんはアムネスティから「良心の囚人」と認定されていた。)

 中国政府の対応ももちろん問題なのだが、今までの事例を見る限り、日本政府は日本国籍保有者にしか関心を示さない。例えば、「北朝鮮」から脱北した「在日朝鮮人帰国者」を人権上の緊急問題として支えることがない。韓国での事件もそうだったし、中国での事件もそうである。しかし、朱氏は日本人の妻があり、日本の大学で正規に教育・研究活動を行っていた。理由なく拘束されていいわけがないし、どうなっているのかを注視し、関心を持つ義務が日本政府にもあるのではないかと思う。

 ということで、事態の真相はなお明らかになっていないが、「一種の政治犯」であることは間違いなく、事態を憂慮している。なお、安倍内閣が制定しようとしている「特定秘密保護法」なる悪法が実際に出来れば、こういう事態が予想できるという「予習」でもあると思う。朱建栄氏の運命に関心を持たざるを得ないのは、そういう日本の現状もある。

*朱建栄氏は2014年1月17日に、中国当局から釈放された。2月以後、日本に戻る予定という。東洋学園大学では「なるべく早く教壇に復帰されることを期待している」と声明を出した。体調は良好と伝えられる。中国当局は「朱建栄は中国公民であり、中国の法規を順守しなければならない」と言っていたが、中国の法規では、逮捕、起訴せずに身柄拘束を半年以上も続けることが認められるのか。法に違反したとして正式に事件化される前に、長く拘束して取り調べをするということ自体が国際的な人権法無視である。
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古山高麗雄の戦争小説

2013年09月22日 00時03分15秒 | 本 (日本文学)
 8月半ば以来、古山高麗雄(ふるやま・こまお)の戦争小説をずっと読んでいた。ようやっと読み終わったので、一応まとめておこうと思う。小説の紹介(書評)だと、まあ大抵「好著であり、多くの人に一読を勧めたい」なんて終わる。でも、まあ今回書く本はたいていの人は読まなくてもいいんではないか。「戦争を知る」という意味では残っていくと思うから、今では唯一文庫本で本屋にある「二十三の戦争短編小説」(文春文庫)は手元にあってもいいかもしれない。でも「好著」だからと言って、これほど読みにくい小説を皆ガマンして読む必要もないだろう。
 
 そもそも「古山高麗雄って誰」という人が多いと思うので、まず作者の紹介。古山高麗雄(1920~2002)は、1970年に自身の戦争体験(ベトナムの戦犯収容所体験)を描いた「プレオ―8の夜明け」で芥川賞を受賞した作家である。その時点で50歳だから、作家としては遅く出てきた。晩年になって「断作戦」(1982)、「龍陵会戦」(1985)、「フーコン戦記」(1999)を書き、この戦争三部作で2000年に菊池寛賞を受けた。また「セミの追憶」(1993)が、短編に与えられる川端康成賞を受けている。「プレオ―8の夜明け」や「セミの追憶」などは「二十三の戦争短編小説」に収められている。捕物小説なども書いたけど、大部分は戦争を主題にした私小説だった。
  
 まず戦争三部作。これは2003年に文春文庫に入ったが、その時点で「断作戦」は刊行後20年たっていて、作者の死後にやっと文庫に入った。帯に「幻の戦争文学」と書いてある。この三部作はまあ買っておこうかと思って10年以上、ずっとメンドーそうで手に取らなかった。読んでみてやっぱりずいぶんメンドーな本だった。特に戦争を知りたいと強く思う人以外には、あえておススメしない。というのも「戦争というものは退屈なもの」だからである。読んでも読んでもドラマチックにならず、全然読み進まない。いや、もちろん戦争に連れて行かれた兵士本人にとっては、とても「退屈」とは言えない。でも、戦争と言っても、そこには「日常」があるのである。だから「退屈な日常」が長々と続き、そしていつの間にか終わっている。そういう本である。

 この三部作の背景にある戦闘は、ほとんど日本で知られていない。簡単に言うと、ビルマ(ミャンマー)の北部から中国雲南省にかけて展開された作戦である。日本の侵攻に対して、中国国民党の蒋介石は、四川省の重慶に首都を移して抗日戦争を戦った。重慶に対する英米の支援ルートはいろいろあったが、戦争末期の1944年時点でビルマから雲南を通して重慶に至る「援蒋ルート」の遮断を図ったのが「断作戦」である。その前にビルマ駐留軍をインドに向かわせ大失敗に終わったインパール作戦があった。軍上層部の無能で多くの日本兵が死んだ典型的作戦である。インパール作戦は有名だが、その直後に行われた「断作戦」以後の戦争は日本ではほとんど知られないままである。(なお、断作戦を進めたのは、かの悪名高き辻正信参謀である。)

 理由としては、敗走するだけの戦闘だから宣伝されないし、戦争の悲惨としてはインパール作戦が有名過ぎたということもあるだろう。またアメリカの支援を受け重装備した国民党軍が主敵だったということもあるんじゃないか。日本では「アメリカの物量には負けたけど、中国には負けていない」とか「中国人民は中国共産党の八路軍を中心に抵抗した」とか思い込んでる人がいる。中国正規軍(国民党軍)は腐敗してるだけではなく、このように強い軍隊だったという認識が不足していたことも大きいと思う。

 古山自身は龍陵会戦に参加した。部隊は第二師団(仙台)の勇兵団である。しかし雲南戦線の主役は久留米の龍兵団(第五十六師団)だという。ここはほとんど全滅してしまった。その運命を書き残したいと思い「断作戦」を書いたのである。これは深い取材をして書いた本だが、続いて自分たちの戦闘を書き残して欲しいという声が寄せられ、自身の「龍陵会戦」を私小説的に書いた。さらに北ビルマのフーコン谷で行われた戦闘に参加した、長崎県大村の菊八九〇二部隊(歩兵第五十五連隊)だった兵士から自分たちも書いて欲しいとの声が寄せられ「フーコン戦記」を書いた。「フーコン戦記」を書くまでに10年以上かかっているが、それは著者はビルマ方面の戦場へは行ってないので、実際にフーコン方面を訪ねるなどの取材を重ねていたためである。(その紀行は遺著の「妻の部屋」に収められている。)

 これらの戦記はとても貴重で、他に読んだことはない気がする。でも、とにかく読むのが大変なのである。なぜなら戦争というものは、兵士には全貌が見えないからである。著者は朝鮮北部の新義州(中国との国境の町)出身で、京都の三高に入るが、当時の日本に深く絶望するとともに文学にめざめ、結局落第して退学した。東京で予備校に通っていた間に、安岡章太郎らの「悪い仲間」と知り合い、青春無頼の生活を送っていた。しかし、これでは徴兵猶予にならず、1942年に徴兵された。父親が宮城県出身なので、本籍地の東北の部隊になるが東北弁もしゃべれず、偏屈な兵士だったようだ。体力もなく、何をさせてもダメというような兵士だったように書いてある。

 そういう体力がない兵隊にとって、軍隊がいかに大変か。とにかく移動、移動で重い荷を背負って歩き、着いたところで穴を掘る。その「塹壕」で眠る。でも雨が降り続き寒い。山地なのである。マッチが濡れないように支給された衛生サック(コンドーム)に入れておくが、それでも濡れる。そして、死を見る。初めは動揺するが、だんだん当たり前になる。「死」さえ、日常化するのである。人間は何にでも慣れてしまう。死ぬか生きるかは運次第。たまたま命令で離れていたら助かったり、ぐずぐずして遅れたら助かったり。日本軍も少しは大砲がある。でも主人公は日本軍が反撃しないでくれと祈る。こっちの場所を教えるだけで、日本の撃った数倍の大砲が撃ち返されるだけだと判っているから。そして敵の砲弾に当たるかどうかは偶然。「軍隊とは運隊」。

 熱帯だから熱帯の病気があり、吸血ヒルも猛威を振るう。もちろんマラリアもある。そんな中で、原住民の人びとの村を焼く。虐殺がある。主人公は当たらないように銃を上に向けて打つが、ヘタだから当たらないと思われるような兵隊だった。塹壕に入りながら、「思うこと」だけは自由である。食べものを思い、家族を思う。村にいる原住民の可愛い女性と仲良くなり、一緒に脱走して共に暮らす夢を思い描く。「慰安所」もある。内地にいた時は玉ノ井に通ったのに、戦場で「慰安所」に行く気はしない。三人一緒じゃないと外出できないから、慰安所へ行く兵と外出して自分は原住民に言葉を教えてもらったりしていた。でも「女を知らずに死ぬのは耐えられない」という戦友に頼まれて、一緒に連れて行ったこともあった。自分たちも「強制連行」された兵士であり、「慰安婦」も「強制連行」されている存在。

 戦争だから、そこには(善悪を超えて)波乱万丈の日々があるかと思うと、それはない。特に日本の軍隊は細かな規則や私刑(体罰)が多くて特殊だけど、多分どこの国の軍隊でも基本は同じだろう。兵士は命令のまま動かされるだけで、運次第で生命を投げ出す。しかしそれさえ「日常化」してしまい、単に日常のように死んで行くのである。著者は捕虜収容所に回され、そこでの出来事で戦犯容疑がかかるが、それは多くの短編小説に詳しい。収容所内では、小説や映画の記憶を基に座興芝居を書いて大受けした。やっとところを得た。

 著者は戦後は様々な出版社を転々とし、苦しい生活時代が続いた。「季刊芸術」の編集担当になり、そこに「プレオ―8の夜明け」を載せた。この雑誌は江藤淳などが関わるもので、著者は「保守」の陣営にあった。軍隊の不条理、旧軍隊の虐殺行為などを書いたが、戦後は左翼批判に回る。それは多分、戦争中の軍隊と同じにおいを、戦後は「サヨク」の中に見たということだろう。しかし、晩年になるとけっこうウットウシイ作品が多い。同じ話の繰り返しが多くなるし、「年寄りの話をじっくり聞く」という体験になる。ま、そんな読書体験。
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リニア新幹線、いるのかな?

2013年09月19日 21時35分49秒 | 社会(世の中の出来事)
 JR東海が計画しているリニア中央新幹線の最終ルートが18日に発表され、来年度に着工されるとのことである。前から「リニアっているのかなあ」と思っていたけど、今回の決定を見て改めて考えて思うところを書いておきたい。

 まず僕は「時速500キロ、名古屋まで40分」を聞いた時に、すぐに「それは早すぎるでしょう」と思った。何で名古屋まで40分で行かなくてはならないのか。まずこの時点で、「いやあ、それはすごい技術だ、人類の夢の実現だ。」なんて思う人もいるのかもしれない。そういう人とは、立ってる基盤が違うと思う。そういう風に思う人もあっていいけど、世の中はいいことばかりは起こらない。だから夢のようなすごい技術が実現した時には、なんか良くないことも起こると僕は思うのである。それにいくら何でも、時速500キロなんて人間社会を生きる技術としては必要なんだろうか。(宇宙飛行をするんだったら必要だろうけど。)

 このリニア新幹線と言う新技術への根本的な疑問がある。僕も詳しく知らなかったのだが、電力をものすごく使うというのである。大阪まで全線開業時には、現在の新幹線の1.4倍の電力がいるという。(東京新聞9.19)JR東海の山田社長は「電力のない状態のシナリオに基づいていない。日本が立ち直るための手段が講じられるはず」と発言しているそうだ。これは「画期的な自然エネルギー」が開発されているだろうということではないだろう。多分、原発が再稼働されていて「安定的な電力」は確保されているだろうという意味なんではないか。

 また、南アルプスに長大なトンネルを掘るなど、9割が地下かトンネルという難工事になる。山田社長は「地質、地形も調査しているが、掘り返してみないと何とも言えない」と言っている。何とかなるメドがあるんなら、そういうだろう。できないということはないのかもしれないが、工期や建設費が大幅な見直しを迫られるのは必至と僕は思っている。日本列島を「逆くの字」に曲げている糸魚川・静岡構造線を掘り進もうというのである。そんなに簡単に行くのか。「日本列島をなめんなよ」という思いがよぎるんだけど。

 それに対し、もちろん利点も強調されている。JR東海としては、南海トラフの超巨大地震が発生して東海道新幹線が被害を受けた時に、日本の東西をつなぐ大動脈になるということを強調している。また事実上、首都圏と中京圏が合体し一大商圏が誕生するということも言われている。しかし、これらはどうも僕にはよく納得できない。それはリニア新幹線が出来ていれば、人の移動はできるだろう。でもリニア貨物なんてあるのか。ないんでしょ。「物流」が東名高速(または中央高速)に頼らざるを得ないのなら、経済治事情は従来とそれほど変わらないはずではないのか。人間だけ動けても、「モノ」が伴わなければ、「ストロー効果」、つまり中央が地方の人や情報を吸い上げるだけのものになる可能性が強い。

 また利点難点は別として、新技術には夢がある、その研究や着工から新しい技術や経験が生まれるんだという意見もあるだろう。確かに東京、名古屋間を40分で結ぶ必要は少ないかもしれない。でも「北京・上海間」とか「モスクワ・サンクトペテルブルク間」「ニューヨーク・シカゴ・ロサンゼルス間」などがリニア技術で結ばれたら、それはその国に取って、また世界経済に取って大きな意味があるのではないか。その技術を日本が開発すれば、世界に売り込めるチャンスとなる。まさに「夢と実益を兼ねた新技術」だと言われると、まあそういう面もあるとは思う。

 でも僕は人口減少下の日本で、これほどの巨大プロジェクトがいるのか、どうしても疑問なのである。今、朝6時に東京駅から「のぞみ」に乗れば、7時36分に名古屋に着く。品川(リニア新幹線の始発駅)は6時7分なので、そこから1時間半かからない。どこが不足なのか。電磁波の問題、騒音の問題なども持ち上がってくるかもしれない。問題点や巨大建設費に見合う利点があるのだろうか。まあ、そういう問題点はいろいろあると思うんだけど、僕が一番言いたいのは、いまだって十分以上に新幹線は速い、もうこれ以上すごい新技術なんているんだろうかという点である。ごく素朴に考えて、時速500キロの乗り物を実用化する必要があるのだろうかということである。

(補足)1987年の「国鉄の分割民営化」からもう四半世紀以上がたっている。なんとなく「民営化は成功」みたいに思って(思わされて)いるかもしれない。「国営」か「公社」か「民営」かということは、経営形態の問題だから、うまく行くならどれでも二義的な問題だと思っている。しかし民間企業なら、株式を公開しそれを買い取った国民が、利潤を配当として受け取れたり経営を監視できなければならない。しかし、7社に分割された旧国鉄のうち、株が上場されているのはJR東日本、JR東海、JR西日本の3社に過ぎない。他の北海道、四国、九州の三島会社とJR貨物が上場される日は多分来ないのではないか。JR東海、つまり東海旅客鉄道の9月19日付終値は1万2580円。前日から310円上がっているが、今日は全般的に上昇した日なので、リニアが原因で大きく株価が動いたというわけでもないだろう。ちなみに年初には7040円だったので、大きく上げている。これは「アベノミクス」相場で、このくらい上げている会社は多い。配当はない。JR東日本は8610円で、3月期の配当は120円。JR西日本は4295円で、配当110円。一方、今年の夏、JR北海道の事故、故障がよく起こった。僕はリニアへの投資や株主への配当ではなく、国鉄は「分割」せずに、本州の会社が島の会社を支える仕組みの方が全国民的にはベターだったのではないかと思うものである。またそれは別として、配当もない会社がこれほどの巨大投資を行うのは民間会社としてどうなのかと思うものである。そんなカネがあるなら配当に回せと思う人は、ここの株は買わないのかもしれないが。
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霞ヶ浦周辺ドライブ

2013年09月17日 23時58分26秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 9月14日に霞ヶ浦の帆曳船予科練平和記念館、それに旧土浦中学校本館を見てきたので、その記録。旧土浦中学校本館は現土浦一高にあり、毎月第2土曜に内部を公開している。帆曳船は今は漁業には使われず、観光用に7月21日から10月中旬の土日祝に出ている。従って両方を見たいと思えば、3回しか合う日がない。8月でも良かったが、当日の気温予想が38度だというので、これは出かける日ではないと思った。来月に悪天候だと両方は無理となるので、前からこの日に行きたいと準備していた。

 旧土浦中学本館というのは、重要文化財に指定されている非常に素晴らしい建物である。公開日は土浦一高のサイトに出ているが、外部を見るだけでも行く価値があると思う。1904年(明治37年)に竣工されたゴシック風の建物で、長いこと外国人設計と思われていたという。昭和49年に棟札が発見され、駒杵勤治(1878~1919)という人の設計と判った。東大で辰野金吾(東京駅や日銀本館を設計した人)について学んだ人で、卒業後すぐに土浦中学や大田中学を手掛けた。(後者は常陸太田市の太田一高に現存し重要文化財。)若くして亡くなったが、素晴らしい人がいたものである。
   
 中は古いまま保存されていて、資料館もある。中学時代も土浦一高になっても、甲子園出場経験があるようだ。テレビ番組のロケなどにも利用され、昔の学校に趣を伝える貴重な遺産。教室には木の机がいっぱい並んでいる。校長室は上の方の写真を撮ってみた。廊下も教室も昔風だけど、最後の写真の宿直室も懐かしい。
    

 そこから亀城公園近くの蔵通りで昼食を取り、霞ヶ浦へ。「帆曳船」(ほびきせん)は1880年に考案されたという。元は上層のシラウオ獲り、さらに中層のワカサギ獲りに使われたそうだが、60年代半ばにはトロール船に代わられたとある。今井正監督「米」(1958)というベストワンになった映画があるが、そこでも印象的に使われている。いわば「霞ヶ浦の風物詩」だから、現在も観光用で出ていて、それを遊覧船で見に行くのである。何だと言えばなんだという感じだし、実際に漁業してるわけでもないから、帆曳船にいる人もヒマそうである。でも、まあ「風物詩」として一度は見たいなあと思っていた。
    
 遊覧船に乗って10分くらい行くと帆曳船が2隻見えてくる。風をはらんでなかなか美しい。観光ポスターだと背景に筑波山が見えるけど、その日は霞んでいたし、第一いい構図になるようには船が停まってはくれない。どんどん帆曳船をグルグル回るだけである。まあシャッターを切れる程度のスピードで。大体の人はカメラ持参だから。
   
 まあいくら載せてもキリがないけど、2回回ってくれるわけではないので、どんどん撮って行くしかない。それで13時半ころ出発で14時10分頃には戻っているんだから案外早い。あっという間で行って帰るだけ。海ではないので潮風ではない。島や奇岩があるわけではないので、ホントに帆曳船を見るだけの遊覧。
 時間があったら、近くの「予科練平和記念館」に行きたいと思っていた。ここは古市憲寿「誰も戦争を襲えてくれなかった」の中で高評価を受けている記念館である。僕が行ってなかった中の一つ。建物がキューブを積み重ねたようで面白いが、中は写真が撮れないので、外観だけ。
  
 「予科練」は「海軍飛行予科練習生」の略だけど、僕も詳しいことはよく判らない。当時の少年兵の訓練は、1942年公開の「ハワイ・マレー沖海戦」に描かれている。この記念館では土門拳の写真などを使いながら、当時の日常的な訓練の様子を再現していく。「七つボタン」にちなんだ7つの展示室で、少年兵の手紙なども多用し心情に寄り添っている。戦争の目的とかそういう大状況に問題を広げず、少年兵の心情にあえて限定しているところが、なかなかうまいというか、心揺さぶられるところ。やっぱりこういうのには弱い。確かに大状況を見ていないという問題はあると思うが。

 予科練と言えば、「若鷲の歌」である。「決戦の大空へ」という映画の主題歌で、西條八十作詞、古関裕而作曲。この超一流の作った歌だから、僕の世代でもなんとなく知ってる人が多いと思う。
 「若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨  今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ でかい希望の 雲が湧く」2番以下は略。

 この歌を知ってるから、霞ヶ浦には戦争の思い出がつきまとうが、一方「予科練」は「今日も飛ぶ飛ぶ」だとうっかり僕も思い込んでいた。でも「予科」であり、14~17歳という少年が本物の飛行機を飛ばせるわけがない。自動車の免許だって取れない。グライダー以外では空を飛ぶことはなかったという。でももちろん卒業したら、飛行練習生となり実際に飛行士となって戦死したものも多い。陸軍は同時期に「陸軍少年飛行兵」という制度があったという。それはそうだと思ったけど、少年飛行士は「予科練」との印象が圧倒的に強い。霞ヶ浦近辺には飛行機関連の様々な軍事施設があったが、今はどうなのかはよく知らない。阿見町が作った記念館の近くに雄翔館という予科練出身者が作った施設があるが、今回は暑くて疲れてしまい行かなかった。そちらも見て、初めてこの場の理解ができるのではないかとも思ったんだけど。

 霞ヶ浦は車で1時間半程度だから、家から近いけど、案外知らない。琵琶湖や十和田湖なんかの方がよく知ってた。それではいけないかなと今年になって霞ヶ浦近辺に行く機会を作ってる。関東では重文建築が貴重なので、調べていて土浦中学本館を知った。午前中に土浦中学、午後に帆曳船、予科練記念館というのは、バス旅行にあってもいい、なかなかよく出来た日帰り企画だったなと思ったけど、まだ暑い日だった。翌日以後は台風だったので、この日晴れて良かった。土浦はレンコンが日本一で、レンコン入りのツェッペリンカレーと言う名物がある。ドライブしてると蓮田がいっぱい目についた。
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2020年東京五輪問題④

2013年09月16日 01時14分33秒 | 社会(世の中の出来事)
 さて、東京五輪問題もいったん今回で終わりたい。僕はもともと2016年の招致(前回)に反対で、その後も同じ人々が招致を主張していたのであまり賛成できなかった。特に震災以後は「辞退」するべきだったと思っている。そのことはもう書いたけど、そういうことにはならず、IOCの内部事情もあり東京が開催都市に選ばれたわけである。だから、まあ「なんだか迷惑だなあ」と言うのが正直な感想である。

 高度に発達した経済先進国では五輪開催が経済発展に及ぼす影響は、それほど大きいものになるとは考えられない。一方、五輪開催に伴い市民生活はかなりの影響を受けざるを得ないから、ただバンザイと喜ぶばかりの人は(本当は)少ないだろう。それが東京の開催支持率がなかなか上がらなかった理由だし、成熟した大都市にあってはむしろ当然だ。ロンドンなんかもそうだったけど、五輪が始まってしまえば盛り上がるけど、それまではなかなか盛り上がらなかったものである。東京も「招致成功フィーバー」がいったん終われば、あとは難しい問題もいろいろ見えてきて、ただ喜ぶだけのニュースではないという人も多くなるだろう。

 宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というフレーズがある。そう言ってはどこでも五輪ができないし、古代ギリシャでオリンピックが始まったのは、平和だからではなく「その間だけは戦争をやめる」という取り決めだった。でも、「フクシマ」や三陸沿岸、あるいは「沖縄」などを思い浮かべる時、「「日本がぜんたい幸福にならないうちは東京の幸福はあり得ない」と言いたい気持ちが湧いてくる。それほどの大きな災害が起こったのではないか。今もなお続いているのではないか。倫理的な問題として、東京バンザイなどと言ってはいけないのではないか。

 倫理はともかくとして、今後どれだけの「ヒトとカネ」が「東北復興」「原発事故対応」に必要なんだろう。そして次の震災に向けた全国の橋や道路などの補修にも、どれだけかかるんだろう。カネはなんとかなるとしても(するとしても)、建設業の人材は限られている。もう東北では入札が不調に終わることが多いという話を聞く。ここに東京五輪に向けた大規模公共事業が入ってくれば、東北の復興が遅れるのは間違いないことではないのか。それは判っていてやっているんだろうから、多分対応は決まってるんだと思う。「外国資本」と「外国人労働者」である。僕はそう考えている。

 五輪準備そのものは思ったよりたんたんと進んで行くだろう。一度開催している都市だし、いまどきいつまで五輪に熱狂しているわけもない。人が住んでるところをどかして大規模再開発をするわけではなく、もともと歴史の浅い湾岸エリアを主会場にするんだから、大きな問題は起こらないと思う。だから、たんたんと進んで、近づいて多少迷惑なことが出てきても「まあ、やむを得ないか」となる。(「テロ対策」とか「交通確保」とか「環境美化」とかで迷惑な出来事がいっぱい起こるはずだが。)、始まれば、やはり面白いのでみんな応援したりして、一応盛り上がる。そういうことになるだろう。だから、僕も五輪自体をやってはいけないとか、東京で開くべきではないとまでは思っていない。2002年ワールドカップのように、大会そのものは盛り上がり、日本の評判もいいけど、まあ「何となく成功」して終わっていくんだろう。

 このような肥大化した夏季五輪を開催できる都市は限られてしまっている。経済的に発展した温帯の経済大国の首都レベルの都市しか難しい。(海洋競技があるので、内陸都市より沿岸都市の方が有利だという点もある。)最近を見ても、アトランタ、バルセロナ以後は首都か首都レベルである。(バルセロナも、まあカタルーニャの首都とも言える。)リオは以前の首都だし、シドニーも最大都市である。ブラジリア、キャンベラ、オタワ、ワシントンDCなど政治都市は別にして、やる気のないらしいニューヨークを別にして、中小国ではもう開催は無理である。それでいいんだろうか。五輪は都市が開催するということになっている。しかし、表彰では国旗掲揚、国歌演奏がある。招致では政治家や王室が演説している。この「五輪の国家化」はもう防ぎようがないだろう。「簡素な五輪」と言っても限度がある。じゃあ、どうすればいいのか。去年五輪をやったばかりなのに、もう陸上や水泳や柔道や…なんかの世界大会があった。毎年あるわけではない競技が多いはずだ。どうせ2年おきに世界大会をやるんなら、オリンピックの方を2年に1回にしたらどうか。夏季、冬季あるから毎年あることになる。やりたい都市がいっぱいあるらしいから、その方が早く回る。やりたいとこがなくなったら、やめればいい。都市ではなく、国が共同で開いてもいいようにする。そうすれば、オランダとベルギーなども可能になるだろう。今年のサッカーのヨーロッパ選手権がポーランドとウクライナが共催したようなことも可能になるだろう。そうでもしないと、巨大都市しかできない。アフリカが開催できる時が来ない。五輪そのものをなくすよりも、まずは世界の多くに一度回す方策を考えたほうがいい。
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2020年東京五輪問題③

2013年09月14日 00時16分00秒 | 社会(世の中の出来事)
 僕は今後の五輪準備期間がものすごくつまらないものになるだろうと予感している。間違ってもらっては困るが、五輪自体は世界最高のスポーツ選手が集まってくるんだから、いくつもの感動のドラマが繰り広げられるに決まってる。でも、お金も時間も限られているんだから、東京でやってるからと言ってそれを生で見ることはできない。まあ、一つ二つは見られるかもしれないけど。だから、その「感動のドラマ」は大部分をテレビで見るだろうから、世界中どこでやってても同じ。むしろ夜9時、10時頃にいっぱい見られる時間帯の国の方が望ましい。(覚えてる人も多いと思うけど、北京五輪の水泳はアメリカのテレビ時間の都合で午前中に決勝を行った。そんなことが東京でもあれば、多くの人はテレビでもライブでは見られない。)

 僕が言いたいのは、準備期間や開催中でも裏方などの「表に出ない仕事」の部分のことである。大きなイヴェント、学校で言えば「文化祭」や「修学旅行」なんかだけど、当日も確かに大事だけど、ホントに重要なのは当日までの準備期間であり、そこが楽しいかどうかで本番が決まってくると思う。まあ、スポーツの話だから「体育祭」と言うべきか、生徒がせっかく盛り上げようといろいろ企画してるのに、教員側がもうやり方は全部決まってるんだ、君たちは教師の言うとおり動いてくれればいいのだ、自分たちで工夫する必要はない、当日はたくさんの来賓が来るので失礼のないようにするのが君たちの役割だ、とか何とか言ったら、それは楽しい体育祭になるだろうか。

 1964年の東京五輪の時は、そういう大規模イヴェントを企画、運営するシステムはできていなかった。だから当事者が多くの創意工夫でシステム自体を作り出していったのである。それは「TOKYOオリンピック物語」と言う本の紹介で以前に書いたことがある。例えば、選手村で一斉に多数の人向けのいくつもの食事を作るというやり方はそれまでになかったものなのである。今ではホテルのパーティでサンドイッチとかたくさんの食事が並んでいるのが当たり前に思ってるけど、それは東京五輪で学んだ成果を料理人が地方に広めていった結果なのだという。そういうことも含めて、初めて日本という社会が「現代化」されたきっかけが東京五輪だったわけである。

 ところがその後様々な巨大イヴェントを日本は経験し、「システム」はもう完成されつくしている。秒単位で仕切ったスケジュール表が作られ、後はそれを守れと言われるだけだろう。「個人の工夫」なんて発揮する余地はない。と言うか、発揮するなと言われる。なぜなら、東京都やJOCが五輪を運営するのではなく、いや形としてはそうなんだけど、実際はイヴェントを企画運営する会社に請け負わせるわけだし、その会社は実際の会場設営や様々な準備をさらに下請けの会社に請け負わせ、その会社はさらに下請けの会社に実際の仕事を発注する…ということになる。そしてその最後の会社は儲けの幅が少ないから、非正規の派遣社員を雇って五輪の準備をさせるわけだ。そんな非正規社員が「創意工夫」を勝手にしていいはずがない。言われた通りやればいいということになる。それでは士気が下がるから、「ボランティア」と言う名のタダ働きを動員する。でも、スマホで「ボルト、選手村で食事、なう」とかツイッターで写真を流されたりしないように、ボランティア登録には大学の推薦がいるし、入り口でスマホは預かるとか、ま、そういうようなことになるに決まってる。(ボルトはもう出てないだろうけど。)

 今日の東京新聞に「五輪セールにピリピリ」と言う記事が出ていた。ディズニーが商標を守ることに熱心で、学校の文化祭なんかでミッキーマウスを使ったりするのもダメなんだと聞いたことがあるが、それは私企業だから当然と言えば当然だろう。でも、五輪もパートナー企業を守ることに熱心で、商業利用に極めて厳しいんだそうだ。だから「2020 開催ありがとうセール」とか「祝東京2020」とか「やったぞ東京!」とか全部だめだという。さらに「7年後の選手たちに声援を」とか「未来のアスリートを応援します」なんて言うのもダメらしいというから呆れてしまう。どこかの会社やお店が、本当に純粋な気持ちで「祝東京五輪」と書いた手製のポスターを貼ったりしたとして、それが何の問題になるのだろう。これが「システム」と言うヤツなんである。ミッキーマウスが私企業のものなのはわかるが、五輪のマークや五輪開催自体に商標があるということがわからない。五輪マークはそもそも全人類のものではないのか

 まあそういうことがこれからいっぱい起こるのである。「そういうこと」というのは、盛り上げるために企画したことが中止させられたり、よりよくなるように工夫したことがダメだと言われて元に戻させられたりする…と言ったことである。だから、命令でやれと言われたことをただやってれば、角が立たないからそれが一番いいのである。そういう社会なんだから、そうなるに決まってると僕は思うのである。一番上のトップにいる人はまた別かも知れないが、まあ下々のものはあまり自分で盛り上げたいなんて考えてはいけない。

 でもそれができない境遇の人がいる。学校なんかは、「東京クリーン作戦を行うので、各校10人ずつボランティアを出すこと」なんて「語義矛盾」の通知がひんぱんに来るに決まってる。中学、高校、大学に在学している人は、この「ボランティア」に積極的に応募するしかない。なぜなら、進学や就職の面接で聞かれるに決まってるし、書類に「東京五輪ボランティアを経験」と書いてなければ大きなマイナスになるかもしれないと思わされるからである。「五輪のボランティアで外国の選手と話をする経験が出来て、英語の力が付いたと思います」とか言えなければ…。ま、それを「楽しかった」と思える人にはどうでもいいんだろうけど。
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2020年東京五輪問題②

2013年09月12日 23時30分03秒 | 社会(世の中の出来事)
 事前のニュースで、「最終プレゼンに参加する佐藤真海さんがブエノスアイレスに出発」という映像を見たんだけど、その時は僕も「Who is Mami?」という感じだった。いやあ、このような「隠し玉」があったんだ。最終プレゼンは「風立ちぬ」の感想が書き終わらないので、本当は翌日の旅行のために休みたいんだけど、何となくテレビをつけていて見てしまった。笑顔、スポーツの力、判りやすい英語、病気と震災を乗り越えてきた経験を力強く語った。「はまりすぎ」で「よくもこんなアスリートがいたもんだ」とも思ったけど、素直に感動したのも確かである。

 これが「プレゼン」(プレゼンテーション、 presentation)というもんなんだろう。最近よく言われる「英語力」「コミュニケーション力」「発表力」なんかを育てなさいというのは、こういうことができる能力のことを指すのに違いない。英語ができても、内気そうにぼそぼそしゃべるのではダメで、英語は簡単でいいから(IOC委員の相当数は英語が母語ではないはず)、ボディ・ランゲージを含めて「表現する力」が重要なんだろう。 

 そして最後近くに、安倍首相が登場して福島第一原発事故の汚染水問題を語ったわけである。その「the situation is under control」 と言う発言である。首相のプレゼンが、判りやすい英語だったことは評価しなければならない。このくらいの内容は大体判った。この発言について、それ以後日本では様々な批判が相次いでいる。東電も「福島第一原発近くで封じ込めている」という説明が、全くの事実ではないことを認めている。だから安倍発言はまあ「ウソ」か「誇張」か「主観的真実」か「誤認」のどれかということになるはずである。しかし、僕はその問題には、あまり関心がない。多分そういうことを問題にしても、「プレゼンなんだから」「招致に成功したんだから」といなされてしまいそうである。

 「内容の真実性を誠実に語る」のではなく、「聞くものに強い印象を与え、はっきりしたメッセージを送る」ことを最初から目標にした言辞を、中身の真実性だけで追及しても「のれんに腕押し」ではないのか。そして、これからしばらくは、こうしたコトバが横行するんだろうなあという暗い予測がある。僕は言葉と言うのは、内容の真実性が一番大事だと思うが、だから震災や原発事故を語るときには「時には口ごもる」という言葉しか発せない。あんなに明るく保証すること自体に違和感があるのである。

 でも、まあ首相が世界に向けて宣言しているのである。「だから、やってもらいましょう」と言う意見もある。ちゃんと原発事故の処理をしてください、と。それはまあ当然だし、僕も特に異論はないけど、多分実際は違ってくる。いつの日からか、「まだ原発にこだわっているのか」「五輪に水を差すようなことはしばらく止めよう」というムードが世の中を覆い尽くすんだろうなあと思うのである。

 「最近原発のニュースがないけど、うまく事故処理が進んでいるんだろうか。よっぽどひどい状態なら、さすがに報道されるだろうから、きっとうまく行ってるんだろうなあ」なんて思わせられてしまう。皆関心の外に追いやられ、実際はひどい状態でも記者は近づけないから判らない。報道発表がないから、判らないのである。一部のメディアはまだこだわってるけど、テレビやネットのニュースでは、もう五輪のことばかりである。沖縄には米軍基地があるが、皆忘れてしまっている。と言う風になるに決まってると僕は思うのである。

 成熟した民主主義社会では、反対意見がある方が自然である。1964年にはなかった反対運動が、1970年の大阪万博の時には存在した。「人類の進歩と調和」を掲げる万博に対し、それは間違っているという「ハンパク」が存在した。長期間にわたる万博と五輪は違うけど、「負の部分」を覆い隠そうとする「見えない権力」「見える権力」の横暴に対し、やはり五輪の陰に隠される問題を突き付けていく覚悟は必要だと思う。

 「五輪の開催都市にふさわしくないもの」に対する圧力が今後どんどん強まっていくだろう。例えば「ホームレス」や「経産省前テント村」などもそうだろうが、「ヘイトスピーチ・デモ」や「右翼の街宣車」だって隠されるに決まってる。「英語を話せない日本人」とか「コンビニの前で座ってるヤツラ」とか「怪しいフーゾク街」とか。明るく元気なニッポンだけが残る。しかし、それで済むわけがない。大都市と言うのは、わい雑な雑踏の中にこそ魅力があるのである。そしてそういう社会のなかで、戦略的に五輪を利用して行けばいいのではないか。ちょうどヒロシマ、ナガサキの時期に開かれる五輪なんだから。五輪は五輪で楽しい所も多いわけだが、同時に「民主主義を押さえる力」としても働く。民衆側の構想力も問われていく7年間になるだろう。
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2020年東京五輪問題①

2013年09月11日 23時45分39秒 | 社会(世の中の出来事)
 東京五輪招致問題については、ほとんど関心がなかったんだけど、東京に決まってしまった以上、無関心でも済まないので、思うことを書いておきたい。僕は前回に関しては、「かなり強い反対」という気持ちだった。2008年に北京でやったばかりで、8年後にまた東アジアに来るはずがない。東京の一公務員として、また都民として、「税金の無駄遣い」だと思ったのが一番の理由。それに加えて、気持ちとしてはこっちの方が大きいと思うけど、言い出した人が言い出した人で、都民のことではなく「人気取り」しか考えない「我欲の人」と思ってるから、成功させて勢いづかせたくないと思ってしまうのである。だけど、もし前回東京に決まっていたらと考えると、尖閣買い取り発言から発した一連の問題、また都政を放り出して「日本維新の会」共同代表として国政に復帰するなどという事態は起こっていなかったのではないか。歴史に「if」はないということだ。もう言っても仕方ないけど。

 今回は自分は無職で、2020年には完全な年金生活者だから、その頃現役の人に決めて欲しいという気持ちが大きい。年齢で言えば、1960年以降20世紀中に生まれた人々。2000年に生まれた人が今中学生になった年だから、まあそれ以上の年齢の人と言えばいいかもしれない。でも本当の気持ちは、「反対というより辞退」である。今回はローマも立候補していたのだが、財政危機問題で辞退したという経緯がある。(だから本来はマドリードも辞退すべきだったのではないか。)東京は、2011年に大震災、原発事故が起きた後で、今は招致活動に注力できる時期ではないとして辞退すべきだったと思う。僕が書いても仕方ないから書いてないと思うが、それが「常識」というもんではなかろうか。

 今後いろいろなことが考えられるが、一番恐ろしいのは「五輪開催中に第二次関東大震災が起きる」ということではないか。もちろん開催直前に起きてしまうかもしれない。その可能性はかなりの程度あるだろう。7月24日から8月9日までという開催時期からして、猛暑と多湿で世界各国の人々は苦しむだろう。「おもてなし」の時期ではない。しかし、まあ暑いのはアテネでも北京でも同じで、この時期にやるというIOCそのものがおかしいと思うが。僕はどうせテレビで見てるだけだから、どうでもいいんだけど、実際に裏方で働く警備や食事調理の関係者、選手の健康管理など本当に大変だと思う。それにしても、そういうことは事前に予測できても、地震は予測不能である。「開催期間に体感地震が起こる可能性」は、ほぼ100%だろう。2週間ほどの間に地震が一度もないことなんて、ここしばらくないんだから。こればかりは誰にもどうしようもない。 

 この東京五輪を決めたのは、IOC(国際オリンピック委員会)という組織である。いろんな問題はあるけど、東京が五輪を運営できないということはもちろんない。他の2都市より「安全パイ」という点は確かにある。だから、東京になるという可能性はかなりあるのではないかと僕は思っていた。でもそれは45%ぐらい。他の2都市よりは高いと思っていたのだが、他になる可能性もあったと思う。今回のIOC総会で一番重要なことは、おそらく今回もまたヨーロッパから会長が選ばれたということではないか。(第5代のブランデージはアメリカ人だが、白人であることは同じ。)IOCという組織は、世界の重要な組織の中でも一番貴族的で閉ざされた組織ではないだろうか。どうして、東京になったかも判るようで判らないが、レスリングがいったん外されかけて最後にまた復活した経緯なども、外部から見てなんだか全然判らない。世界すべてで100人ほどの、一般の選挙で選ばれたわけでもない人々が、世界各国の栄誉とぼう大なカネを動かしている。

 今回はバッハ副会長(ドイツ)が本命と言われつつ、対抗馬はウン副会長(シンガポール)という下馬評だった。しかし、ウン氏はたった6票しか取れなかった。「ウン会長、東京開催」ではアジア偏重ということにつきるのではないか。一方「バッハ会長、マドリード開催」は「まったくありえないことはない」と思うが、それでも「バッハ会長支持グループ」の中に「開催都市は東京に譲ってバランスを取る」という考え方があってもおかしくはない。これが今回「会長=バッハ、開催都市=東京」がIOCの多数派になった理由だと僕は思っている。東京が有力というより、バッハ会長選出を盤石にするための戦略である。

 「最終プレゼンが良かった」という人もいる。僕も見ていたのだが、確かに高い評価を受けるだけのものではあったと思う。その問題はまた別に考えたいが、東京選出が最終プレゼンが良かったためというのは、僕は信じていない。聞けばそういうことを言う委員もいるかもしれないが、それはタテマエである。あと数時間で3都市のどこかに決めなくてはいけない。自分はどこに入れるか、何の腹案も持たずに最終プレゼンに臨む委員がいるはずない。「プレゼンを見て決める」などというのは、ポーズに決まってる。どこかに約束してるのを秘密にしたいだけである。東京のプレゼンは、そういう人に「プレゼンが良かった」という理由付けを提供したということだろう。

 僕の考え、つまりIOC委員には会長選の方が重要だっただろうという考え方からすれば、東京選出は確実なはずだが、僕はそうは思っていなかった。それは今までにない「3都市競合」という理由である。前回リオ選出時は4都市(シカゴ、東京と落ち、最後はマドリードと決戦。)大阪が出た08年五輪は5都市で選挙した。(大阪は一回目に落ち、最後は北京が当選。)こういう風に4とか5で争うなら、最初は自分が推す都市に入れるしかない。でも、今回は3都市だから「まず決選投票に残る」という作戦がいる。当然、それぞれの都市には「強い支持」「弱い支持」の委員がいる。他都市の「弱い支持」委員に対しては、決戦では他に入れていいから、一回目はなんとか決戦に残れるように入れて欲しいと頼むはずである。「東京42」「イスタンブール、マドリード26」という数は、あと数人ずつが東京から流出していたら、全部が30台前半で横並びという数字である。だから、僕は東京が一次で落ちる可能性もなくはないと思っていたのである。

 結果は本当に珍しい2位が同点という結果で、2位決定戦という不思議なことが起こった。(これは本来は3都市で再投票するべきものではないかと思う。)その結果、「2,3位連合」が不可能になり、1位通過の東京に決定戦の票が集中することになった。(イスタンブールは決定戦で10票上積みしたが、東京は18票を上積みした。なお、スペイン人委員が投票できるようになったためだろうが、決定戦は2票多い。)2000年シドニー五輪決定の時は、イスタンブール、ベルリンが落ちた後、3回目は北京40、シドニー37、マンチェスター11だった。それが決戦で、シドニー45、北京43と引っくり返った。こういうこともなかにはあるわけだが、今回は2位決定戦なんかがあった以上、それは無理というもんだろう。

 イスタンブールは途中まで優位と言われつつ、最後に失速した。ソチやリオの工事遅れなどが響いたとも、反政府デモやドーピング問題が響いたとも言われるが、それらも大きいだろうが最後にシリア情勢緊迫化が影響したのは間違いないと思う。トルコもシリア反政府側に完全にコミットしている以上、やむを得ない部分がある。エジプトの政情混乱も続き、イスラム世界でのエルドアン首相の名声もかなり怪しくなってきた。最近は毎回立候補しているイスタンブールだが、次回はどうなんだろうか。それは南アフリカのケープタウンも同様。次回は1996年のアトランタ以来開催のない北米(というかアメリカ合衆国)が最有力だと思うけど、西欧のどこか(パリ?)も有力と言われている。それはともかく、五輪というものがどうあるべきか。また東京と日本は今後どういう影響が考えられるかなどを次回以後に。
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(改)宮崎駿監督の「風立ちぬ」

2013年09月10日 23時56分28秒 | 映画 (新作日本映画)
(注)2013年9月7日に、宮崎駿監督「風立ちぬ」を見て、その感想「宮崎駿監督の『風立ちぬ』-パラソルを受け取るもの」を書いた。しかし、翌日から旅行に行くということもあり、急いで書いたため意に染まない部分があったように思う。そこで考えを少し整理して、書き直してみた。前は長くなり過ぎてしまったので、それも整理しておきたい。なお、喫煙シーン問題は重要だが、論点が拡散するので改版では削除した。僕は病床で吸うシーンはいらないと思っている。

 宮崎駿監督の長編アニメーション映画の最終作品、「風立ちぬ」を見た。アニメと言う手法は実写映画以上に大変だと思うけど、「風立ちぬ」を見たら「やはりこれが最後なんだろうな、それでいい」と僕は思った。出来そのもの以上に、この映画は「メタ宮崎アニメ」であって、ここで「自分がアニメを作り続けたということの意味」そのものを主題化してしまった。もうこれから、気力・体力を奮い立てて新しいテーマに挑むのは本当に大変だと思う。

 ところで、ただ「風立ちぬ」と言ったら堀辰雄の小説を指すと僕は思う。堀辰雄の小説は2回映画化されているので、単に映画「風立ちぬ」と言えば、本当はそちらを指すはず。(最初の島耕二監督版は大胆不敵にもヒロイン節子が治る設定にしちゃったらしい。二度目は百恵・友和映画。)僕はこの映画を見る前に、いくらかの心配があった。それはゼロ戦設計者をモデルにしてるとか、庵野秀明が主役の声優をしてるとか、初の大人向けアニメであるとか、日本の戦争の時代をどういう風に描いているのだろうか…などの問題ではなかった。でも、実在の人物と小説内の人物を融合させてしまうというこの映画の根本的設計が、いくら何でも少し無理なんではないかと思ったのである。先に書いたように、小説「風立ちぬ」のヒロインの名前は節子で、この映画のヒロイン「菜穂子」は、堀辰雄が目指した本格的近代小説「菜穂子」から取ったんだろう。

 つまり、この映画は単に堀越二郎と「風立ちぬ」をくっつけた物語というより、実際の主人公は近代日本であり、近代化に賭ける「少年の夢」なのだと思う。その夢は十分に描かれているか。見た時は「物語の力」で感動してしまうのだが、だんだんとこの映画の根本的構成が無理をしているのではないかという感じが強くなってきた。この映画は基本的には近代日本の歩み、その中で生きざるを得ない「少年の夢」の矛盾と挫折を描いている。だから、僕にはこの映画を否定的に語ることが難しい。僕にとって否定することができない点、つまり「日本の中で生まれ、その矛盾を引き受けて生きるということ」「少年時代の夢を追い求める生き方」をこの映画は主題にしている。この映画の時代は、「戦争と結核があった時代」である。この映画は実際の日本の町や人々を実際よりもかなり美しく描いていると思う。本当の町はもっと汚く、人びとの心も差別的、好戦的だったろう。でも、主人公の美しい夢、美しい恋を描き出すために美化されて描かれている。

 この映画は宮崎駿の自己言及だと思った。宮崎アニメは「飛ぶことへの夢と憧れ」で満たされている。監督本人が飛行機や戦争のマニアでありつつ、思想としては反戦主義者であるという「自己矛盾」を生きている。ナウシカやラピュタの魅力は、その構想力や映画的快感とともに、様々な戦争技術のリアルな想像力も大きく貢献していた。宮崎駿自身が様々な矛盾を抱えている存在であり、それは近代日本が抱えてきた矛盾である。主人公の堀越二郎は、存在の根底において宮崎駿と同根の、心の中はリベラルだが技術としての戦争用具を構想しているという存在である。だから、宮崎駿は今までのように自分の外部の物語ではなく、自分の内部の物語を作ったわけである

 この映画は堀越二郎と堀辰雄である以上、主人公はゼロ戦を作り愛する妻は亡くなるしかない。「少年の夢」を描くという監督の意図からして、主人公にとっての妻は、伝説的に出会い民話のように消えていく存在である。美しいが、主人公に運命を伝えるという役割を果たす従属的な存在になっている。出会う場所は、関東大震災という災厄と日本とは思えない軽井沢のホテルである。非日常の物語の中でしか知りあうことができない。だから、初めから女性は「夢のような場所で出会い、夢を追い求める男を支える存在」である。「関東大震災の日に、飛んだ帽子を手渡された」時から、「軽井沢の美しい自然の中で飛んできたパラソルを手渡す」時までの長い時間に、日本は決定的な戦争への道を歩み始めている。この再会は1933年という、ナチスが政権を獲得した年とされている。二人の美しい夢は、結核と戦争でひき裂かれて終わる。

 「ナウシカ」から「もののけ姫」へと至る「闘う少女」伝説は、ここで大きく変容したように思える。というよりも「自分を描く」ことで、宮崎アニメの本質が見えやすくなったということだろう。「少女の力」により世界が変革される物語のように作られてきた宮崎アニメだが、「物語の構造」としては一貫して「少年の夢」であり、「少年」が好む「美少女」が「ヨーロッパの街」(のような風景)で大活躍する物語だった。今回は生活者として組織内で仕事人間として生きる二郎という「宮崎自身」を描くが、「夢のように美しい恋愛」はやはりヨーロッパのような軽井沢のホテルで展開される。同時代に作られていた清水宏の映画に出てくる温泉旅館に行く庶民は視界から消されている。これが「近代日本の矛盾」そのものであるのは明らかだろう。僕にはそういう物語を作ってきた宮崎駿を否定できないが、それでいいのだろうかという気もするわけである。

 この映画は「夢の役割」を提示したのであって、現実の戦争は描かれていない。ゼロ戦を作った男を主人公にしたと言われつつ、この映画ではゼロ戦はほぼ描かれない。ゼロ戦自体は、戦闘機であって爆撃機ではないので、基本的には戦闘機どうしの「一騎打ち」のための道具である。「武士の刀」と同じ性格のものであり、日本刀の美というものが判るように、戦闘機の持つ機能美というものも理解できる。ゼロ戦を描いたから、戦争肯定ではないのかという発想は取らないが、このような「メカ」好みを共有できないと映画の根本を評価できなくなるだろう。徹底して「メカニックなもの」への偏愛をうたいあげる「少年の夢」に共感できるか、それがこの映画の評価を決めるのではないか。(なお、ゼロ戦のゼロは、神話上の「皇紀」による「紀元2600年」から来ている。)

 軽井沢のホテルのシーン、ピアノで弾いているのは「会議は踊る」の主題歌である。1931年製作のドイツ映画。ワイマール時代の代表的なドイツ映画である。中身はウィーン会議でロシア皇帝がお針子に恋するというオペレッタ。イタリアのカプローニ伯爵と言い、ヨーロッパ貴族的リベラリズムが主人公の心の中に息づいているのだと思う。それは軽井沢の高級ホテルやイタリアの伯爵の中にしかない夢であって、日本の庶民の中にはない。このような「精神的亡命者」が日本の知識人の生き方であり、それが今も続いているというのが宮崎アニメだったのではないか。なお、松任谷ならぬ「荒井由美」の「ひこうき雲」が主題歌に使われているが、僕はそのレコードを持っている。デビューした時の鮮烈な印象を今も覚えている。まだ19歳だった。LPレコードだから全部がスキャンできないが、こんなジャケット。
 
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日光旅行を簡単に

2013年09月10日 00時06分18秒 | 旅行(日光)
 しばらく旅行してなかったんだけど、ようやく日程が取れて、じゃあどこにするかなと思ったけど、やっぱり定番の日光に一泊。このブログに書いてるだけで、もう4回目。もう一つ日帰りの記事もあるので、ホントによく日光方面には行ってるのである。とは言うものの今回は一日目が大雨で、避暑地に行ったつもりが、「涼」を通り越して「寒」なのには参った、参った。

 だから一日目は写真もなし。早く行っても仕方ないので高速を使わず国道4号を行く。「アグリパークすぎと」と「道の駅しもつけ」でトイレ休憩。日光に昼過ぎについて鈴木食堂で昼食。ここでイタリアンを食べるのが長い間楽しみだったけど、値段もあるけどラーメンの方が美味しい気がしてきて、今回は麻婆豆腐ラーメン。イタリアンの店だけど、和食、中華もあって、湯葉も出すから最近はガイドブックによく出てる。美術館に行くがやってないので、ガソリンを入れて「いろは坂」へ。中禅寺金谷ホテル前の「ユーコン」というとても気持ちのいいカフェでお茶を飲んで、ひたすら湯元へ。「ユーコン」やその前にある「ボートハウス」も関東有数の気持ちいい場所なんだけど、雨で寒くて閑散としててうら淋しいから写真も撮らない。湯元ビジターセンターに寄ったら、北米のハイイロオオカミのはく製があった。これがでかくて怖い。ニホノオオカミよりずっと大きい。

 宿はいつもの「休暇村日光湯元」で、ゆっくり休んで早く寝る。東京五輪決定ということで、テレビはきっと大騒ぎしてただんだろうけど、だから全然見てない。車のラジオで少し聞いただけ。普段は飲まなくてもいい酒を、旅行の夜だけ少し飲むから(今回は初の「杉並木」で、これはうまかった)、部屋に帰ると眠くなる。まあ、こうして書くまでもない一日がただ過ぎていく初日。風呂は毎度色が変わる不思議な硫黄泉で、帰ってからも硫黄臭が強い。今朝はゆっくり寝て、風呂に誰もいなくなったので、写真を撮ってみた。
 
 2日目は赤沼駐車場に車を停めて低公害バスで「西の湖」へ。途中の道は日本でも有数の気持ちいいカラマツ林だと思う。この湖も毎年行ってるけど、途中の道の魅力も大きい。昔はよくこの道で鹿を見たけど、今は鹿除けの柵などが整備され、この頃は全然見ない。まあ糞は時々落ちているけど。道の周りに咲いてる花は「シロヨメナ」で、鹿が食べないので増えているという話。
   
 吊り橋を渡って少し行くと、西の湖(さいのこ)が見えてくる。いやあ、かつてなく水が少ない。去年も少ないけど、今年はもっと少ない。これじゃアラル海だよ。大丈夫かなあ。湖に近づいてみると、湧水が川となって少しは流れ込んでいる。結局今年は雨が少ないということなんだろう。ここは関東一の「秘湖」だろう。バスで近くに行けるから今は「秘」というのもおかしいが、それでも山奥にひっそりという感じが残ってる。
 
 ところで西の湖へ行ってそこだけ見て帰る人が多いが、水のない方へどんどん進んで行くと、湖超しに男体山が見えてくる。中禅寺湖畔から見るほど大きくはないが、何しろ風景的にも信仰的にも日光のシンボル的山だから、是非見ておきたいところ。朝出発前に、宿の真ん前の湯の湖からも見た。西の湖から歩いて中禅寺湖(千手ケ浜)まで行くと、また見える。3カ所から見た男体山の写真を。少しづつ雲がかかってきた。
  
 帰りのバスまでかなりあったので、お昼は宿で頼んだおにぎり。バスを待って、後はもう帰る。いろは坂を降りて、侍屋敷の金谷ホテルベーカリーに寄る。帰りに金谷ホテルのパンを買うのは、大体いつもことだが、今日行ったのは初めてのところで出来たばかり。日本で一番古い金谷ホテルだが、最初にあった「梅屋敷」が田母沢御用邸記念公園の前あたりにある。イザベラ・バードの「日本奥地紀行」に出てくる場所はこっちである。そこが整備されて2015年には記念館として公開されるという。その隣に早々と金谷ホテルベーカリーが出店したわけで、ここは公開が始まったら是非行きたい。その近くに栃木県の有形文化財指定の「日光真光教会」(日本聖公会)がある。設計は明治から大正にかけ日本各地で教会建築を手がけた、J.M.ガーディナー。重要文化財に指定されているものもある。(今は明治村にある京都の聖ヨハネ教会。)聖公会だから、もともと立教大学校の初代校長という人。今の立教大学の建築も影響を受けているのではないかという話。東照宮や輪王寺ばかりでなく、そのすぐそばにこれほどの教会建築があったとは知らなかった。今は日光カステラ本舗の隣で、そこから見るのが一番美しいかもしれない。(最初が金谷ホテル梅屋敷、後の2枚が教会。)
  
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映画「日本の悲劇」(小林政広監督)

2013年09月05日 23時57分27秒 | 映画 (新作日本映画)
 新作映画「日本の悲劇」を見たので、その感想。題名の読みは「にっぽん」と読ませてる。同じ題名(読み方は知らないが)で、木下恵介監督「日本の悲劇」という映画もあり、つい最近見て記事を書いたばかり。今回の映画は小林政広監督の作品である。
 
 この映画はとても変わった映画で、普通の意味での劇映画とはかなり趣が違う。でも、紛れもなく日本の現実を鋭く描いた今年の劇映画の収穫の一本だと思う。登場人物は4人。(赤ちゃん役の子役が一人いるが、まあ配役とまでは言えない。)その中でも、母親(大森暁美)と息子の妻(寺島しのぶ)は途中で消えてしまうので(回想シーンでは始終出てくるが)、映画内の現実時間では父親(仲代達矢)息子(北村一輝)の2人しか出てこない。この2人は、もう大変追いつめられた段階にある。その2人を中心に、回想シーンを含めて、カメラは据え置きで全然動かない。時間は行き来するが、ある一家の部屋にカメラを置いて、家族の行く末をじっくりと見つめている。それも白黒で。ずっと白黒かと思えば、最後になって赤ちゃんのいる回想シーンがカラーになる。つまり、この映画はある家族が、「色を持っていた時から色を失うまで」を描いている。

 映画の冒頭で、仲代達矢の父親が病院から戻ってきたらしいところから始まる。良くなったのではなく、手術(治療?)を拒否して退院してしまったらしい。息子が布団を敷きかけると、いいから放っておいてくれという感じで、取りつく島がない。仲代は頑固というか偏屈な老人を、圧倒的な存在感で演じている。このままでは余命あと数か月らしいが、亡妻との思い出のみで生きているようだ。一方の息子の方も、今は無職で毎日のように職探しに通っているが、全然決まらないらしい。そういう現在のあり方は、字幕もナレーションもないので、最初はなんだか判らない。ただセリフを追っていくしかない。

 そういう「不親切」な映画作りは、小林政広監督の十八番である。小林政広(1954~)という人は、20世紀の終わりごろから、大手の映画会社と関係ないインディーズ映画を発表し始めた。それらをカンヌ映画祭などに出品し、外国でまず知られた。05年の「バッシング」は、イラク人質事件を描いた映画で、カンヌ映画祭のコンペに選ばれた。また07年の「愛の予感」はロカルノ映画祭グランプリで、少年犯罪の被害者と加害者双方の家族を扱っている。そういう主題的にも大変そうな映画なんだけど、手法的にも「わかりやすい社会派映画」を作る気はなさそうだ。2010年の「春との旅」は、有名俳優を多数キャスティングして(仲代達矢が主演で、淡島千景の遺作)、今までの中ではかなり一般的な映画で、老いた仲代と孫娘の「放浪」を描くロード・ムーヴィーとして面白い。だが、それでも何で旅してるのか、最初は説明がなく、画面上でウロウロしてるのを見つめているしかない。

 だから、この映画が最初はなんだか判らなくても全然驚かないが、それでも画面の中にある、うっとうしいまでの「日本の悲劇」の予感には圧倒される。果たして父親は、翌日になって部屋にこもってガムテープなど(と思われるが)を張りめぐらし、外部との接触を一切断ち部屋の外には出て来なくなる。そのまま死んでいい、ミイラになりたいという感じである。その後の回想で、この一家の出来事がだんだんわかってくる。息子は突然いなくなり、妻と子どもは暮らせないから実家の気仙沼に帰ってしまう。判を押した離婚届だけを残して。息子はやがて帰ってきたが、その間は長野県の精神病院にいたという。リストラされ自殺を考えるようになり、家族のことを考える余裕が全くない状態に陥ったらしい。妻は自分を家族のことを考えない会社人間だと批判したが、息子本人は家族のために自分の時間を削って働いてきたと思っている。会社人間じゃなかったから自分はリストラされたんだと納得させている。息子が帰ってきたときに母親はいなかった。買い物に行っていたのだが、そのとき電話がありスーパーで倒れ病院に運ばれたと伝えられる。

 こうして二人の生活になった時に、大地震が起きる。仲代の父は食堂の机の下に隠れている。どうやら東北で大地震が起こったらしい。息子の妻と子は果たして大丈夫だろうか。と悲劇がこの家族を襲い続け、息子は職と妻子を失い、父親の年金で暮らしているが、その父が部屋に閉じこもってしまった…。というのがこの家族の「悲劇」のあらましなんだけど…。映画はひたすらじっくりと見続け、失われた良き日をカラーで描き出す。そこには孫の誕生を喜び、息子と酒を飲みかわす平和な日常があったんだけど…。

 さて、この映画は何かを解決するための映画ではなく、現実を重く提出しているだけである。そこで僕が少し外部から考えてみたい。親が先に死ぬのはやむを得ない。その家族にとっては悲しいだろうが、孫がいるほどの年齢の人が病気になるのは避けられない。まあ、その病気になる年齢は人により何十年かの差があるが。特に父親はタバコと酒を大分たしなんでいるから、まあ仕方ない。でも母親は突然だった。突然の死はある意味で幸せだが、それは家族を残さない場合だろう。息子が行方不明のまま、父親を残し死ぬのは残念だったと思う。本人は日本の多くの家族と同様、自分が後に残ると思っていたに違いない。やはり父親が残されるのは、面倒くさいか。言っちゃなんだけど。

 でもそれは病気だからやむを得ない。問題は息子がリストラされたことで、その説明はないから実態は判らないが、無法なリストラは世の中に多いから会社に問題がある可能性も高い。が、同時にこの息子は精神病院に長期入院していたというから、うつ病か被害妄想などの病状があったと思われる。家族に相談もせず長期入院になったという経緯から見ても、かなり重かったのではないか。それを妻が気づかないのは、この病気に対する理解が社会的に不足しているということである。退院したとはいえ、普通はすぐに社会復帰できるとは限らない。むしろ難しいことの方が多いだろう。そう考えると、退院後に東京で通院はしていなかったのかが気になってくる。僕は病状から見て、精神障害者保健福祉手帳の認定が可能な段階だったのではないかと思えるのだが。そうすると、以前は会社勤めだから厚生年金に加入していたはずだから、障害厚生年金が受給できる可能性がある。(病状が軽くて認定されない場合もあるわけで、画面だけでは判らない。)しかし、もしそうなっていれば「父親の年金で食べている」などという本人の屈辱感はかなり薄くなると思う。ただし、この家族のあり方から見ると、精神障害者に関して深い理解がなく、かえって落ち込む可能性もあるかと思うが。

 問題はそういうことよりも、この映画は完全に家族しか出てこないで、医者、ソーシャルワーカー、介護士、行政関係者などが全く登場しないことである。登場しないでも映画が成立してしまうのは、それを不思議に思わない日本の現実がある。実際は父親も母親も息子も、病院にいたわけだから、何らかの手立てがどこかでなされるべきだった。この映画に家族しか出てこないということが「日本の悲劇」なのではないかと僕は思ったわけである。これは映画の出来の評価とは違う話だけど、映画を見ていて僕はそのことを感じ続けていた。
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山崎今朝弥「地震・憲兵・火事・巡査」

2013年09月03日 00時47分52秒 | 〃 (さまざまな本)
 明治から昭和にかけて、社会主義者かつ奇人弁護士として知られた山崎今朝弥(けさや、1877~1954)という人がいる。自伝的エッセイや社会批判の文を森永英三郎氏が編集した「地震・憲兵・火事・巡査」という本が岩波文庫に入っている。1982年に出た本だが、2013年7月に重版されて「11刷」とあるから、それなりに売れてきたわけである。今回久しぶりに読み直したので、簡単に報告。書名はもちろん関東大震災時の虐殺事件を批判する意味である。全員読むべしという本でもないだろうが、こういう人がいたということを知って欲しいと思って。

 山崎は1877年に長野県岡谷市に生まれたが、それを自伝では「明治十年逆賊西郷隆盛の兵を西南に挙ぐるや、君それに応じて直ちに信州諏訪に生まる」などと書いている。生まれながらの逆賊というわけである。苦学しながら明治法律学校(今の明治大学)に入り、優秀な成績で卒業した。その後判検事登用試験、弁護士試験に合格し、検事代理として甲府区裁判所に赴任したが、一月ほどで辞めてしまった。よほど官僚が性に合わなかったのだろう。1902年、アメリカに行き苦労したようだが、どうもちゃんとした大学には行っていないらしい。自伝には、「ベースメント・ユニバーシチー」で学問をして米国伯爵に任じられた、などと書いている。前者は皿洗いなどをしたという意味らしく、後者はそんな称号があるわけなく勝手に自称しているだけ。そういう名刺を作って配った。

 この人生初期の出来事だけで、どうも明治日本の官僚にはなれない人物だったと判る。その後弁護士として社会主義者の事件を軒並み引き受け、レトリックをつくした弁論で知られていく。その当時の抵抗とレトリックの苦心が、この本の半分くらいを占める。この本を読む楽しみは、そのレトリックを読み取るということにある。当時は言論の自由がなかった。だからこそ「ドレイの言葉」「敵の言葉」で書く必要がある。一方、弁護士として法廷内では比較的言論の自由の幅が広い場合もあった。

 そこではわざわざ挑発的な表現をして、あえて問題を起こすというやり方もある。その場合でも、「あの人はもともと奇人変人のたぐいだから」として、見逃しの幅が広くなる。山崎今朝弥の奇人ぶりや奇文は、半分は本当の茶目っ気であるけど、後の半分は戦略だろう。この本を紹介するのも、レトリックなき言論がはびこっている現在こそ、この人の文章を読む意味があると思うからである。

 エロシェンコという盲目のロシア人がいた。エスペランティスト、童話作家で、大正時代に日本に来て一部に影響を与えた。中村彝の有名な肖像画がある。日本では「過激派」と思われて1921年に国外追放された。その事件について自分の雑誌の片隅に「エロセンコ事件の建白書」を載せている。「(前略)露国盲詩人エロセンコの退去命令が果して世間伝うる如き事実に基づくものとせば、日本過激派の事情に精通する同人を遠く海外に放つは、虎を野に放つよりもなお危険なり。同人は永くこれを内地に保存し、盲目を幸いすこぶる簡易厳重に監視するを上策とす、しからざれば非難後悔たちどころに至らん。」という小文。これが「敵の言葉」によるレトリックをつくした当局批判の代表例である。

 こういう人が関東大震災の後、どういうことを書いたか。彼は根っからの「統一戦線論者」であり、というか「党派」的、イデオロギー的な人物ではなかった。弁護士は様々な事件を扱うのが仕事だから、大杉榮など無政府主義者も友人で、亀戸事件で殺された共産主義的労働組合の若者も知っていた。「地震・憲兵・火事・巡査」という題名は、山崎今朝弥が事件の本質をどうとらえ、正確に批判していたかを示している。ゴロ合わせの標語風題名でユーモラスな感じもするが、これは全身全霊を込めた、権力犯罪の告発である。自警団の民衆ではなく、一番の責任者は軍と警察だと明察していたのである。

 山崎は「朝鮮人の大虐殺、支那人の中虐殺、半米人の小虐殺、労働運動家、無政府主義者、日本人の虐殺」と書いている。今の時点で見ても、中国人や耳の聞こえない人、被差別部落出身の行商人など日本人も虐殺されたことをも捉えていることがすぐれている。「半米人」とは、大杉榮夫妻と一緒に殺された甥の橘宗一少年が米国籍も持っていたことを示している。そして、多くの朝鮮人虐殺、労働運動家を虐殺した亀戸事件について、事件後も責任を認めない警察、検察などの国家責任を追及している。「理が非でも、都合があるから何処までも無理を通そう、悪いことなら総て朝鮮人に押し付けようとする愛国者、日本人、大和魂、武士道と来ては真に鼻持ちのならない、天人共に容(ゆる)さざる大悪無上の話である。」

 大杉事件は一応裁判になった。この事件については裁判批判の形を取って、痛烈な批判をしているが、論点が細かくなるのでここでは省略する。山崎が書いた追悼文は、「外二名及び大杉君の思い出」という。この題が泣かせる。「大杉外二名」が殺されたと報道され、その外とされた伊藤野枝と橘少年を先にした思いの深さ。家族ぐるみの交際があったのである。大杉魔子(長女)と山崎の長男がケンカしたエピソードなどを書いている。その中で「竪公(僕の独り子で、もし僕と共にこれを殺しでもする者があれば、少しでもこれに関係ある者の九族は、その老幼たると男女たるを問わず、たちどころにこれを滅ぼし尽して見せるというほど僕が可愛がってる九歳の子)」などと激しい言葉を書いている。もちろん自分の子が可愛いと言いたいのではなく、そういう形を取って、大杉榮、伊藤野枝と共に子どもを殺した軍部の非人道を精一杯告発しているわけである。直接権力批判はできなくても、こうして誰もが思う、何故一緒にいただけで子どもまで殺したのかという思いを表したのである。

 そして、法律雑誌のアンケートなどの目立たない場で、「日韓併合の御趣旨に基づき、とうの昔に自治独立を許すべきだというのが私の持論」と言い切っているのである。もう少し引用してみる。
 「過般の震火災に際して行われたる鮮人に関する流言蜚語については、実に日本人という人種はドコの成り下がりか知らないが、実に馬鹿で臆病で人でなしで、爪のアカほどの大和魂もない呆れた奴だと思いました。その後のことは切歯痛憤身震いがします。」
 「今、日本が米国に併呑され、米国人が日本及び日本人を軽蔑しまたは虐殺するなら、僕はキットその時、日本の独立運動に狂奔するに相違ない。印度や愛蘭以上の深刻激烈のものであるに相違ない。(中略)僕は今朝鮮問題を考えて真に「自分を抓(つね)って人の痛さを知れ」ということをシミジミ日本人として感じる。」

 当時ここまで書いた人がいたのである。今の世で目を曇らされるなどあってはならない。(なお、愛蘭はアイルランド。「鮮人」は当時の略語だが、朝鮮人蔑視の意味合いがあり、今は使わない。「朝鮮」を上の字の「朝」で略すのは「朝廷」と重なり畏れ多いと思われたらしい。)
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