千葉県佐倉市の歴史民俗学博物館(歴博)で、「1968年」という企画展を行っている。「無数の問いの噴出の時代」と名付けられている。あの「反乱の季節」も来年で50年、国立博物館で「歴史」となるに至ったわけである。良し悪しはあるだろうが、これは一応見ておきたいな。合わせて懸案の佐倉の町並み散歩をしながら、歴博を訪れた。
散歩はまた別にまとめることにして、まずは「1968年ー無数の問いの噴出の時代ー」について。この企画展示に関しては、かなりマスコミ報道もされていて、東京新聞には「個人の主体性前面に 企画展で振り返る全共闘時代」が掲載された。この記事の中で企画の責任者の荒川章二氏(歴博研究部歴史研究系教授)の写真が目を引いた。荒川さん、歴博にいたんだ。荒川さんは立教の大学院の先輩である。軍事史の研究が長かったから、旧軍の連隊があった佐倉はふさわしいかもしれないが、1968年の展示とは意外感もある。
半世紀も経ったのだから、この時代を直接は覚えていない人が多くなった。当時の僕は中学生で、時事問題や文学、映画などに関心を持ち始めたころだ。マーチン・ルーサー・キングやロバート・ケネディの暗殺、ヴェトナム戦争のテト攻勢やパリ和平会談、フランス五月革命、「人間の顔をした社会主義」を進めたチェコスロヴァキアにソ連などワルシャワ条約軍が侵攻した事件。メキシコ五輪でチェコ事件直後のチャスラフスカが女子体操個人総合で連覇し、また米国黒人選手が拳を突き上げて人種差別に抗議した。今も忘れられない、心に刻まれた出来事ばかりだ。
日本も大きく揺れていた。「大学闘争、三里塚、べ平連・・・1960年代を語る資料を約500点展示 約50年後の今、「1968年」の多様な社会運動の意味を改めて問う」歴博のホームページにはこのように書かれている。続いて引用すると、「本展は、1960年代後半に日本で起こった、ベトナム反戦運動や三里塚闘争・水俣病闘争などの市民運動・住民運動、全国的な大学闘争などの多様な社会運動に総合的に光を当てたものです。これらの運動は、戦後の平和と民主主義、そして高度経済成長や公共性を押し立てた開発計画のあり方、広くは戦後日本の政治的・経済的枠組みを「問う」ものでした。この時代に噴出した「問い」はいまなお「現役」としての意味を持ち続けています。」
展示は地下の企画展示室の2室で行われている。第1部は『「平和と民主主義」・経済成長への問い』と題され、それが5章に分かれる。ベトナム反戦、神戸に焦点を当てた地方都市から戦後社会を問う、三里塚闘争(成田空港建設反対運動)、水俣病闘争、横浜新貨物線反対運動が扱われている。神戸や横浜の問題は知らないが、べ兵連から三里塚、水俣という流れは、今では社会運動史で広く認められているのか。それまでの党派や大組織(労働組合など)中心の社会運動から、「個」が結びあう新しい「連帯」へという理解である。
第2部は『大学という「場」からの問いー全共闘運動の展開』である。三派系全学連も扱われているが、多くは全共闘、それも東大と日大の闘争に割かれている。まあ、実際に一番大きなインパクトを与えたから当然だろう。こういう展示を企画するときには、それしかないわけだが、逆に言えば知ってる人には知ってることが多くなる。だから、この展示は昔懐かしで訪れるオールド世代ばかりではなく、まったく知らない世代、ベトナム戦争って何? 全学連と全共闘って違うの? という人にこそ見て欲しいものだと思った。
それと同時に「無数の問い」が噴出した時代にもかかわらず、「声を挙げられなかった人」がいるという「もう一つの現実」もよく考えないといけない。大学進学率がまだ低かった時代で、学生の地位は反比例して高かった。女子の大学進学率はさらに低かった。(1968年の4年制大学進学率は、男子22.0%、女子5.2%、計13.8%)女子の4年制大学進学率が2割を超えたのは、なんと1994年である。その時代の「大学闘争」が「女性の視点」を持ちえなかったのは当然だろう。女性解放運動は70年代に入ってから世界的に広まっていく。「まだフェミニズムがなかったころ」(by加納美紀代)なのだ。
大学には当然「障がい者」もいなかった。障がい者の声も70年代以後に噴出していく。日本の近隣諸国、韓国・朝鮮、中国・台湾、東南アジア諸国のことも全然知らなかった。ヴェトナム戦争終了後に、中国系住民がボートピープルとして脱出した時も、何が起こっているのかすぐには理解できなかった。また、解放運動がその頃、解放同盟と共産党が路線問題で争っていた影響もあると思うけど、概して「差別問題」に関する感性のアンテナも弱かった。平和運動や労働運動とともに、差別解放運動が戦後の社会に与えた意味は大きい。
一方で、負の遺産も大きい。僕は60年代の運動高揚時代は直接には全く知らない。70年代半ば以後には、大学では「内ゲバ」の党派抗争だけが続いていた。新左翼諸党派による各大学の割拠も残されていた。世界各国で60年代の「問い」がいくつも現実化されたのに、日本では「凍結」されてしまった問題が多い。東大闘争のきっかけになった医学部の問題も、なかなか改革が進まなかった。精神医療の改革も遅れている。教育現場はむしろ悪化しているかもしれない。
またここで取り上げなくていいとは思うが、60年代末は「カルチャー革命」の影響が大きかった。演劇、映画、音楽、美術、マンガ、舞踏などで、ここで名前を挙げる必要もないと思うが、何人もの「文化英雄」がいた。集会などに参加する人もいたし、テレビで見る人もいた。「文化人」が存在価値があったのである。今回の展示でも、ところどころで触れられているが、僕にはそのような文化革命こそ1968年の神髄のように思える。ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したように。
歴博にはもちろん何度も来ている。当初は近現代の展示がなかった。できるたびに見に来たから、全部まとめてちゃんと見たことがない気がする。佐倉市という場所は、やっぱりそう簡単には行けない。ショップも充実しているから、教材に使えるものをずいぶん買った。(「卑弥呼人形」は多分ここ。そんなものがあったのである。)歴博がある佐倉城址はちゃんと見たことがなかった。今回は武家屋敷の方から歩いて城跡を少し歩いた。そのことは別記事で。今回は「1968年展」だけ見てすぐ帰った。帰りに建物のそばで猫が落ち葉の上で寝ていた。上にもう一匹いるけど、色が保護色。落ち葉の上は温かいのかな。
散歩はまた別にまとめることにして、まずは「1968年ー無数の問いの噴出の時代ー」について。この企画展示に関しては、かなりマスコミ報道もされていて、東京新聞には「個人の主体性前面に 企画展で振り返る全共闘時代」が掲載された。この記事の中で企画の責任者の荒川章二氏(歴博研究部歴史研究系教授)の写真が目を引いた。荒川さん、歴博にいたんだ。荒川さんは立教の大学院の先輩である。軍事史の研究が長かったから、旧軍の連隊があった佐倉はふさわしいかもしれないが、1968年の展示とは意外感もある。
半世紀も経ったのだから、この時代を直接は覚えていない人が多くなった。当時の僕は中学生で、時事問題や文学、映画などに関心を持ち始めたころだ。マーチン・ルーサー・キングやロバート・ケネディの暗殺、ヴェトナム戦争のテト攻勢やパリ和平会談、フランス五月革命、「人間の顔をした社会主義」を進めたチェコスロヴァキアにソ連などワルシャワ条約軍が侵攻した事件。メキシコ五輪でチェコ事件直後のチャスラフスカが女子体操個人総合で連覇し、また米国黒人選手が拳を突き上げて人種差別に抗議した。今も忘れられない、心に刻まれた出来事ばかりだ。
日本も大きく揺れていた。「大学闘争、三里塚、べ平連・・・1960年代を語る資料を約500点展示 約50年後の今、「1968年」の多様な社会運動の意味を改めて問う」歴博のホームページにはこのように書かれている。続いて引用すると、「本展は、1960年代後半に日本で起こった、ベトナム反戦運動や三里塚闘争・水俣病闘争などの市民運動・住民運動、全国的な大学闘争などの多様な社会運動に総合的に光を当てたものです。これらの運動は、戦後の平和と民主主義、そして高度経済成長や公共性を押し立てた開発計画のあり方、広くは戦後日本の政治的・経済的枠組みを「問う」ものでした。この時代に噴出した「問い」はいまなお「現役」としての意味を持ち続けています。」
展示は地下の企画展示室の2室で行われている。第1部は『「平和と民主主義」・経済成長への問い』と題され、それが5章に分かれる。ベトナム反戦、神戸に焦点を当てた地方都市から戦後社会を問う、三里塚闘争(成田空港建設反対運動)、水俣病闘争、横浜新貨物線反対運動が扱われている。神戸や横浜の問題は知らないが、べ兵連から三里塚、水俣という流れは、今では社会運動史で広く認められているのか。それまでの党派や大組織(労働組合など)中心の社会運動から、「個」が結びあう新しい「連帯」へという理解である。
第2部は『大学という「場」からの問いー全共闘運動の展開』である。三派系全学連も扱われているが、多くは全共闘、それも東大と日大の闘争に割かれている。まあ、実際に一番大きなインパクトを与えたから当然だろう。こういう展示を企画するときには、それしかないわけだが、逆に言えば知ってる人には知ってることが多くなる。だから、この展示は昔懐かしで訪れるオールド世代ばかりではなく、まったく知らない世代、ベトナム戦争って何? 全学連と全共闘って違うの? という人にこそ見て欲しいものだと思った。
それと同時に「無数の問い」が噴出した時代にもかかわらず、「声を挙げられなかった人」がいるという「もう一つの現実」もよく考えないといけない。大学進学率がまだ低かった時代で、学生の地位は反比例して高かった。女子の大学進学率はさらに低かった。(1968年の4年制大学進学率は、男子22.0%、女子5.2%、計13.8%)女子の4年制大学進学率が2割を超えたのは、なんと1994年である。その時代の「大学闘争」が「女性の視点」を持ちえなかったのは当然だろう。女性解放運動は70年代に入ってから世界的に広まっていく。「まだフェミニズムがなかったころ」(by加納美紀代)なのだ。
大学には当然「障がい者」もいなかった。障がい者の声も70年代以後に噴出していく。日本の近隣諸国、韓国・朝鮮、中国・台湾、東南アジア諸国のことも全然知らなかった。ヴェトナム戦争終了後に、中国系住民がボートピープルとして脱出した時も、何が起こっているのかすぐには理解できなかった。また、解放運動がその頃、解放同盟と共産党が路線問題で争っていた影響もあると思うけど、概して「差別問題」に関する感性のアンテナも弱かった。平和運動や労働運動とともに、差別解放運動が戦後の社会に与えた意味は大きい。
一方で、負の遺産も大きい。僕は60年代の運動高揚時代は直接には全く知らない。70年代半ば以後には、大学では「内ゲバ」の党派抗争だけが続いていた。新左翼諸党派による各大学の割拠も残されていた。世界各国で60年代の「問い」がいくつも現実化されたのに、日本では「凍結」されてしまった問題が多い。東大闘争のきっかけになった医学部の問題も、なかなか改革が進まなかった。精神医療の改革も遅れている。教育現場はむしろ悪化しているかもしれない。
またここで取り上げなくていいとは思うが、60年代末は「カルチャー革命」の影響が大きかった。演劇、映画、音楽、美術、マンガ、舞踏などで、ここで名前を挙げる必要もないと思うが、何人もの「文化英雄」がいた。集会などに参加する人もいたし、テレビで見る人もいた。「文化人」が存在価値があったのである。今回の展示でも、ところどころで触れられているが、僕にはそのような文化革命こそ1968年の神髄のように思える。ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したように。
歴博にはもちろん何度も来ている。当初は近現代の展示がなかった。できるたびに見に来たから、全部まとめてちゃんと見たことがない気がする。佐倉市という場所は、やっぱりそう簡単には行けない。ショップも充実しているから、教材に使えるものをずいぶん買った。(「卑弥呼人形」は多分ここ。そんなものがあったのである。)歴博がある佐倉城址はちゃんと見たことがなかった。今回は武家屋敷の方から歩いて城跡を少し歩いた。そのことは別記事で。今回は「1968年展」だけ見てすぐ帰った。帰りに建物のそばで猫が落ち葉の上で寝ていた。上にもう一匹いるけど、色が保護色。落ち葉の上は温かいのかな。