尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「僕の帰る場所」と「あまねき旋律」

2018年10月17日 22時13分56秒 | 映画 (新作日本映画)
 東中野の映画館、ポレポレ東中野で「あまねき旋律(しらべ)」と「僕の帰る場所」という2本の映画を見た。上映は今後も続くが、20日からは夜の上映になる。新聞で「僕の帰る場所」を「途方もない才能が誕生した」と激賞していた(朝日、10.12夕刊、暉峻創三)ので見ておこうかと思った。ポレポレはドキュメンタリー映画の上映が多いので、「僕が帰る場所」も何となくドキュメンタリーだと思い込んでいたが、これは劇映画だった。かなりドキュメンタリー的な作りだけど。

 「僕の帰る場所」は、新人の藤元明緒(ふじもと・あきお、1988~)が脚本・監督・編集を担当した2017年の日本・ミャンマー映画。2017年の東京国際映画祭の「アジアの未来部門」で作品賞、国際交流基金アジアセンター特別賞を受賞した。公開規模が小さくて見過ごすところだったが、二つの文化の狭間に生きる子どもの姿を生き生きととらえた作品だった。前半は39歳のミャンマー人男性アイセが妻と二人の男の子を抱えて、日本で難民認定を求めて暮らしている姿を描く。難民認定の厳しさやミャンマーの人権問題を描く社会派かなと思うと、後半でガラッと変わる。

 日本での先行きに悩む妻のケインは次第に不眠になり、ミャンマーに帰りたい、あなたに付いて日本に来たのは間違いだったと夫に詰め寄る。この映画は2014年に撮影されたが、夫はミャンマーの民主化を信じられず、日本で難民認定を目指すという。結局、妻は子ども二人を連れてミャンマーに帰ってしまう。この母子3人は実際の家族で、父親は別人だという。現実のケースをもとにしたフィクションだが、この家族の描写はドキュメンタリーだと言われたら信じてしまうだろう。

 長男のカウンは日本の暮らしになじんでいたので、ミャンマーに行っても汚いと感じている。母の実家に住むが、居場所がない感じで「日本に帰りたい」といつも訴えている。ある日、日本に一人で帰ろうと全然知らない町に出て行く。飛行場まで行けば何とかなるだろうと思うが、どう行けばいいか判らない。おもちゃの銃を手に持ち、ヤンゴンの町を彷徨うカウン。車が行き交い危なっかしい街のようす、屋台や人力車など東南アジアの雑踏の中で、一体どうなるか目が離せない。カウンを演じるカウン・ミャッ・トゥが素晴らしい存在感で心を奪われる。

 全く映画製作の経験のない若い監督によってつくられた作品で、前半の日本編はちょっと弱い感じもある。でも撮影終了から時間をかけて編集し、ようやく公開までこぎつけた。監督はミャンマー人女性と結婚してヤンゴンで働いているということだった。日本の外国人行政が大きく変わろうとしているとき、「難民認定」の少なさという問題を描くのは大事な指摘だと思う。諸外国には難民を扱う映画がいくつもあるのに、日本映画では思いつかない。近年は外国で映画を作る若い日本人も多いけど、この映画も注目すべき達成だと思う。

 最初に見た「あまねき旋律」は簡単に。これはなんとインドの最東部、ナガランド州の民衆の歌を取り上げたドキュメンタリーだった。山形国際ドキュメンタリー映画祭で受賞している。二人のインド人監督による作品で、チョークリ語という言語の映画だと書かれている。風景が素晴らしく、人々は山の中の「千枚田」で稲作を行っている。その時に皆で歌っている歌と人々を取材した映画。ナガランド独立運動でインド軍を戦争した話。山奥にそびえるキリスト教会など興味深い描写が続く。ここまで自分が行くことはないだろうなあと思いながら、貴重な風景を楽しんだ。
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「万引き家族」をもう一度(ロケ地散歩)

2018年09月19日 22時22分07秒 | 映画 (新作日本映画)
 是枝裕和監督の「万引き家族」に関しては6月に2回書いた。「映画『万引き家族』をめぐって①」「奪うこと奪われること-『万引き家族』をめぐって②」である。この映画はカンヌ映画祭パルムドールということで大ヒットした。僕が見た時には普段映画を見ないらしい人もいっぱいいた。近くの老女二人組は「アッ、樹木希林よ」とか「樹木希林しか知った人がいない」とか「リリー・フランキーってガイジンなの?」などとささやくので気になった。そういう人まで見るというのはすごいなとも思ったけど、映画には謎もあるのでもう一回見直さなきゃと思った。また調べてみるとロケ地には近いところもあるので、行ってみた上でもう一回書こうかと思った。
 
 冒頭の万引きするスーパーは、東武スカイツリーライン新田駅(埼玉県草加市)東口から徒歩10分程の「新鮮市場 八幡店」で撮影された。証拠は2枚目の店内に貼られたポスター。万引きシーンがここで撮影されたと客に示していいのかと思うが、宣伝にもなるんだろう。僕も検索してわざわざ行ってみたぐらいだから。(自宅から数駅。)少し買いものもしたが、最近よくある「セルフレジ」がない。それどころかカード決済も不可、マイバッグ割引もなしという、すごいところだった。

 この冒頭シーンから、これは「疑似的な親子」の物語だと示されている。2回見てはっきりしたのが、「一応の安定」にあった大人4人と子ども一人の「家族」が「じゅり」が入ることにより崩壊する物語である。当初の段階では、リリー・フランキーの「父」、安藤サクラの「母」はともに仕事を持っていた。その仕事は「奪われる」のだが、そのことだけでは家族の関係性は変容しない。それどころか、祖母が死んでも、疑似家族の日常は続いていた。
  
 映画の中で登場人物が食べるところ。樹木希林と松岡茉優があんみつを食べるのは、西新井大師近くの「かどや」。ラスト近く、安藤サクラたちがコロッケを食べるのが三ノ輪商店街「ジョイフル三ノ輪」にある「肉の富士屋」。地下鉄日比谷線三ノ輪駅から5分程度、都電荒川線の三ノ輪橋駅近くである。このアーケード街はとても「下町的」なスポットだ。都電を撮る人はいっぱいいるが、その周辺こそすごい写真スポット。映画でここでコロッケを買うのは、商店街の外れで撮影しやすかったからではないか。安いコロッケなら、なんと39円という店さえ近くにあった。
 
 都電の写真も一応。停留所にある昔のホーロー看板も昔のまま。大村崑のオロナミンCや松山容子のボンカレーの看板が今もあるなんて。この都電荒川線は唯一残った都営の路面電車で、三ノ輪橋から王子、大塚と経由して早稲田まで通じている。通勤で使ったこともある。他にも病院の場所、「自宅」近辺も判っているけど、まあいいかと思って行ってない。

 映画では、初めの方で男の子「祥太」は今までの関係性を気に入っている。そこに女の子が入ることが気に入らない。しかし、「じゅり」が来たことにより、海に行くという素晴らしいシーンが出現する。そのようなエピソードが並んでいるので、なんだか登場人物を点描しているような気がしてくる。しかし、2回見れば、「祥太」が「妹」が現れたことで変容していき、疑似家族をわざと崩壊させるという物語だと判る。「万引き家族の成立と崩壊」において、成立史にもドラマがあるだろうが映画には出て来ない。観客が想像しなければならない。

 僕らが見るのは「崩壊史」である。崩壊のトリガーを引いたのは、柄本明の「妹にはさせるなよ」という言葉が大きい。もう一つ駐車場でリリー・フランキーが車上荒らしをするために窓ガラスを割るシーンも重大だ。ここで「祥太」は自分が来たきっかけに疑問を持つ。そこで妹にさせないために「わざと捕まる」ことを選ぶ。だが「父」であるリリー・フランキーとの関係は完全には切れない。一方獄中の安藤サクラは祥太が連れて来られた時の情報を伝える。登場人物を善悪で真っ二つに分けない。人間は灰色のグラデーションを生きていることを映画は描いている。
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今年最強の暴走映画「愛しのアイリーン」

2018年09月18日 21時12分18秒 | 映画 (新作日本映画)
 公開直後の映画を見ることはあまりないんだけど、吉田恵輔監督・脚本の「愛しのアイリーン」は公開3日後に見た。ものすごく面白い映画だった。もともと新井英樹が1995年から96年にかけて「ビッグコミックスピリッツ」に連載したマンガ。(マンガに詳しくないので、初めて知った。)「孤狼の血」や「検察側の罪人」も主人公が暴走するが、原作を読んだから知っていた。そもそも捜査権を持つ官憲が暴走するのと一般庶民が果てしなく暴走するのではインパクトが違う。

 地方男性の結婚難外国女性との結婚が一応テーマにになるだろうが、社会性よりもひたすら暴走する「愛のゆくえ」に目が離せない。日本社会、あるいは男というものに絶望したくもなるが、どんな場所にも「愛」は降臨するのだとも感じる。42歳の宍戸岩男安田顕)は未だ「嫁」の来てもなく、母のツル木野花)は嫁探しに余念がない。勤めているパチンコ屋の同僚、吉岡愛子河井青葉)に誕生日プレゼントを貰うも失恋。もうこの際フィリピンで嫁探しするしかないと思う。

 アイリーン(ナッツ・シトイ)と結婚して帰国したのは、父の葬儀の日だった。フィリピン人の嫁など認めないと母は亡夫の猟銃を持ち出して追い払う。二人は宿を転々としながらも、愛がないからとアイリーンはセックスを拒む。言葉も通じない二人は分かり合えない。そこに母がフィリピン人なのでタガログ語が通じるヤクザが登場、アイリーンを拉致して働かせようと企む。母親は何かと銃を持ちだすが、その銃を岩男が持った時に…。いや、こんなことを書いていても何も伝わらない。トンデモ人間が飛び跳ねる映像空間で、ありえない展開の暴力の輪が回りだす。

 一体どうなるんだと画面にくぎ付けになるが、なんでそうなるのかもよく判らない展開が続く。岩男が突然フィリピン妻を求めるのも判らない。とにかくセックス処理の相手が欲しいのか。一方、母のツルは子どもを守るのは親の務めと暴走する。「スリー・ビルボード」のフランシス・マクド-マンドかと言いたくなるほど、何かといえば銃を持ち出す木野花は今年最高の怪演として記憶されるだろう。パチンコ屋の人間関係も不可思議。とにかく「田舎」の「閉塞社会」の鬱屈が身に迫ってくる。その感じはアメリカ映画で地方を描く場合にかなり似ている。

 吉田恵輔監督(1975~)は塚本晋也作品の照明などをした後で「純喫茶磯辺」「さんかく」などを作って注目された。最近は「銀の匙」「ヒメアノール」などマンガ原作の映画化をヒットさせた。今回もマンガの映画化だが、20年も前の原作でテーマ性もあるから、ウェルメイドな娯楽作品とは言えない。登場人物の暴走ぶりは映画を破綻させていると思うほどだが、ムチャクチャ面白い。

 最近地方の疲弊や退廃を描く映画がよく作られている。この映画もそんな感じだが、「フィリピン人妻」という取り上げ方は20世紀の話で少し古いか。母親の排外意識にはビックリするが、勝手に外国人妻を「買い求める」息子も理解できない。安田顕は「俳優亀岡拓次」を除き、多くの映画、テレビ、舞台で脇役を務めている。この映画は脇役専門俳優を描く「俳優亀岡拓次」と違って、ごく普通の意味の主演だが、やはり主人公は地味。なのに暴走するから怖い。愛とか性とか、人間は厄介なものを背負っている。だからこそ、これほどとんでもなく面白い映画も作られる。
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青春映画の傑作「君の鳥はうたえる」

2018年09月15日 22時48分10秒 | 映画 (新作日本映画)
 佐藤泰志原作、三宅唱監督の「君の鳥はうたえる」は青春映画の傑作だった。函館生まれの作家、佐藤泰志は失意のうちに世を去り忘れられていた。数年前から相次いで映画化され、小説も文庫で読めるようになった。それをまとめて読んで「佐藤泰志の小説を読む」(2016.10.5)も書いた。その時思ったのは、「海炭市叙景」「そこのみにて光り輝く」「オーバー・フェンス」の「函館三部作」で映画も終わりかということだ。だって函館が出てくる長編はもうないんだから。ところが東京を舞台にした「君の鳥はうたえる」を函館に移して映画化したのである。その手があったか。

 70年代の東京の携帯電話以前の青春を、現在のスマホがある青春に移す。それが函館という町だと、案外違和感なく描ける。佐藤泰志の小説には、「三人の物語」が多い。この映画は(原作も)二人の男と一人の女のひと夏の物語だ。もちろんカラー映画なんだけど、ほとんどモノクロかと思うような暗い画面が続く。「僕」の独白で「ずっと続くかと思っていた」夏。クローズアップも多く、登場人物たちの焦燥が直に伝わってくるような映像が続く。でもやっぱり時は経って、人は変わってゆくのだ。終わりなき夏なんか、ないのだ。

 「僕」(柄本佑)はバイト先で知り合った静雄(染谷将太)と住んでいる。今は書店でバイトしているが、そこで佐知子(石橋静河)と知り合う。他に店長(萩原聖人)や同僚たち、静雄の母(渡辺真起子)なども出てくるが、映画の大部分は中心となる3人が酒場やディスコで過ごす時間である。それがものすごく楽しそうというわけでもない。ただひたすら暇つぶしみたいな感じもする。仕事もあるのに気にする素振りもない。冒頭で「僕」は無断でバイトを休んでいる。その日に佐知子を路上で待つとき、「僕」は120まで数えようと思って数字をつぶやき続ける。名シーンである。

 何を考えているのか伝わりにくい「僕」は、その揺れる心を柄本佑が好演している。「素敵なダイナマイトスキャンダル」もあったから、今年の主演男優賞かも。(主演女優賞は「万引き家族」の安藤サクラだったりして。)石橋静河(しずか)は昨年の「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」で多くの新人賞を受けたが、どうしてもセリフのつたなさは拭えなかった。今回は柄本、染谷の間で全く遜色ない演技と存在感を示している。石橋凌と原田美枝子の間の娘だが、期待できる。染谷将太が二人の関係に絡んでくる。いつも不思議な感じだけど、この映画でもいつの間にか大きな存在感を発揮している。三人の危うい関係はどう動いてゆくか。

 三宅唱(1984~)は札幌出身の新進監督で、自主映画で作った「Playback」(2012)が評判になったが見ていない。深田晃司、濱口竜介ら最近世界的に活躍している日本の若手監督の一人である。脚本も担当した「君の鳥はうたえる」は見事な達成だと思う。最近見た「寝ても覚めても」とはまた違った感じで、恋愛や青春について思いを巡らすことになる。立川辺りを舞台にした原作を函館に移した脚本が見事。もともと「70年代の中央線沿線」ムードが原作にはあるが、現代の函館でうまく行かされているのに驚いた。原題は静雄が歌うビートルズの『And Your Bird Can Sing』に基づくが、映画では石橋静河がカラオケで「オリビアを聴きながら」を熱唱している。
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心ザワザワ、映画「寝ても覚めても」

2018年09月11日 22時50分21秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画「SUNNY」は社会的な「外部」を排除しているが、新鋭濱口竜介監督(1978~)の「寝ても覚めても」では「東日本大震災」が重要な意味を持って描かれる。柴崎友香の原作は2010年の発表だから、震災が出てくるはずもない。主人公が知人の演劇(金曜日のマチネ公演)を見に行くと、劇場を激震が襲う。何だか心も体も「あの日」に連れ戻されてしまう。

 濱口監督は東北の被災地を描くドキュメンタリー映画も作っているが、この映画は別に震災がテーマではない。現代にはまれなほど真正面から突き詰めた「恋愛映画」だ。人が人を好きになるとはどういうことか、ヒロインの選択をどう考えるか、見ている方もドキドキする。大震災当日と同じく、似たような恋愛体験を思い出せてしまう。見ている間、心がザワザワしてしまう映画だ。

 牛腸茂雄(ごちょう・しげお、1946~1983)という写真家がいた。大阪に住む泉谷朝子唐田えりか)は彼の展覧会で、鳥居麦東出昌大)という青年に出会う。二人は一瞬にして心惹かれあった。しかし麦はふっとどこかへ行ってしまう時がある。「いつも朝子のところに帰ってくる」と言ってるけど、ある時はいつまでも帰ってこなかった。傷心の朝子は大阪から東京へ出てくる。
 (東出昌大と唐田えりか)
 喫茶店で働く朝子は、ある日隣のビルに勤める丸子亮平を見て驚く。亮平が麦とそっくりだったから。東出昌大の二役だから似てるのは当たり前だが、それがテーマをはっきりさせる意味を持つ。好きだった人に似てれば好きになるのか。朝子の態度が気になった亮平も、だんだん朝子が気にかかってくる。朝子の友人鈴木マヤ(山下リオ)や亮平の同僚串橋耕介(瀬戸康史)を含めて交際が続く。朝子は一時会わないと決めたが、大震災の日に運命的に出会って…。

 そして数年。震災ボランティアで東北に通う亮平は生き生きしている。朝子も一緒で、二人は同棲してる。そんなある日、大阪以来の友人と出会って、麦の消息を聞かされる。最近大人気のモデルなんだという。ビルの外を見れば、麦が出ている大きな広告。そんなとき、亮平は大阪の本社に転勤となり、朝子にプロポーズする。さあ二人はどうなるか。そのまま幸せになるのか、どうか。そこは映画で見て貰うとして…ドキドキの展開が続くが何が正しいのか、誰にも言えないだろう。麦は自分の夢に生きるが、周りの人間は一緒に夢を見られるか?

 もちろん完全に同じ顔の人間はこの世にいない。例外は「一卵性双生児」だが、フランソワ・オゾン監督の「2重螺旋の恋人」は双子の精神科医に翻弄される女性を描く。2017年のカンヌ映画祭コンペ作品だが、怪作的な展開になってしまう。2018年のカンヌ映画祭コンペ作品「寝ても覚めても」は「偶然似ている」という設定。これほど似てることはあり得ないだろうが、現実問題として似たようなタイプの人を好きになるのはよくあることじゃないか。

 むしろ「好きになる」ということの本質はそこにあるのではないか。しかし、その際に「性格」や「趣味」よりも、結局は「顔」なのか。「好きだった人にそっくり」で「性格がいい人」は、元の好きだった人が現れたらどうなるか。心の中に今は亡き「前に好きだった人」が生きている人は多いだろう。「見た目そっくり」が現れたらどうする? いや、それは東出昌大だからなのか? 

 濱口監督は前作「ハッピーアワー」が2010年代を代表する傑作だった。今回も面白いと思う。ヒロインの唐田えりかは「透明感」と言われるようだが、不思議な存在感で映画を引っ張っている。暗めの画面も印象的だ。牛腸茂雄の写真が効果的に使われている。
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大根仁監督「SUNNY 強い気持ち・強い愛」

2018年09月10日 22時55分11秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画もいろいろ見ているが、新作映画も少しづつたまってきたから、書いておきたい。まずは大根仁監督の「SUNNY 強い気持ち・強い愛」。これは韓国映画「サニー 永遠の仲間たち」を90年代の日本に移し替えてリメイクした作品である。元の映画はあまり期待しないで見たら案外の拾い物で、「サニー 永遠の仲間たち」(2012.6.16)に感想を書いた。そこでは「なんだか各国でリメイクしてもいいような…。登場人物たちが、ピンク・レディやキャンディーズを踊るのも見てみたい。日本人向けヴァージョンもどこかで作って。」とまで書いている。実際のリメイクはどうだったか?

 韓国版では時代が1986年に設定されていた。これは民主化運動ソウル五輪の記憶を呼び起こす仕掛けだと言っていい。しかし、日本版は90年代後半で、女子高生たちが「ルーズソックス」を履いて、「プリクラ」を撮りまくって、安室奈美恵を聴いている。画面には小室哲哉の音楽が響き続ける。(小室哲哉の最後の仕事となるらしい。)安室も小室も去って、「平成」も終わる。時代が去ってゆく。懐かしいなという感じはまあ僕も判らないわけじゃない。

 でも、と思う。20年ではまだ「懐かしさ」が成熟するには短いのではないか。それに「ルーズソックス」が懐かしいか? 「ガングロ」の「コギャル」文化が懐かしいか? まあ中には懐かしい人がいるだろうが、それは全世代の中ではごくわずかだろう。韓国版では、あの時代を共に生きた仲間たちは国民皆が懐かしいでしょう感が前提にされていたと思う。日本ではもうそんな感覚を持って思い出される時代はない。それぞれがバラバラに一部のサブカルチャーを懐かしむだけだ。

 大根仁監督(1968~)は主にテレビでドラマを作ってきて、2011年に「モテキ」で商業映画の監督としてデビューした。その後長編映画としては、「恋の渦」「バクマン。」「SCOOP!」「奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール」とコンスタントにウェルメイドな娯楽作を作り続けてきた。思えば全部見ているんだけど、ここで書いたことがない。面白いけどねえ…みたいな、傍から見れば何やってるんだろう的な映画ばかりじゃないか。「一部受け」の巨匠かもしれない。

 今度の「SUNYY」は「モテキ」と同じぐらいよく出来ていると思う。どの映画もそうだけど、「映画は編集」だということがよく判る。リズムよく進行するドラマは過去と現在を自在に行き交う。それは映画的快楽に満ちていて、そういう楽しみを味わうことは十分できる。映画はナミという女性の視点で進行する。韓国ではイム・ナミだったけど、日本では阿部奈美。現在が篠原涼子で、高校時代は広瀬すず。母の入院で面会に行ったら高校時代の親友がガンだったことを知る。あの頃のメンバー、一緒に踊った「サニー」の皆にもう一度会いたい。筋立ては同じである。

 サニーのメンバーは、病気の伊藤芹香が板谷由夏。他にも渡辺直美小池栄子が見つかるが、二人がなかなか見つからない。一人(ともさかりえ)はなんとか見つかるが、最後の一人は果たして…というのはすべて韓国版と同じ展開である。でも、どうも時間が20年しか経ってないのに、幸不幸の波が激しすぎる。それにあんなに好き放題やってたメンバーが、その後実社会は甘くありませんでしたというのは当たり前すぎないか。まあ、僕はその時代に高校教員で、茶髪などは「弾圧」側だったわけだから同情の念が湧かないのかも。

 それにしても、冒頭で広瀬すずは淡路島から転校してくるのだが、それは震災で父の仕事が無くなったからと説明される。ということは当時の東京はオウム真理教による地下鉄サリン事件の年だったわけだ。また「戦後50年」の年でもあった。それらの問題は今もなお過去として懐かしむテーマになり切ってないだろう。しかし映画はそのような社会的な側面は全く描かない。当然のこととして、作者の側が慎重に排除しているわけだろう。それが韓国版との一番大きな違いだろう。
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映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」

2018年08月02日 21時02分52秒 | 映画 (新作日本映画)
 「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」という映画は公開が少ないので見てない人が多いと思うけど、最近出色の青春映画だ。もともとは漫画家の押見修造がウェブマガジンに発表したマンガ作品だという。僕はそれは知らなかったけど、「吃音症」という映画ではほとんど描かれなかった障害を真っ向から描いている。「百円の恋」の足立紳による脚本を、撮影監督やミュージックビデオに携わってきた湯浅弘章監督が初めての長編商業映画として製作した。

 海辺にある高校の教室、入学式も終わってクラスメートの自己紹介が始まっている。大島志乃は朝から自己紹介の言葉を練習していたけれど、やはり自分の番になると言葉がうまく出て来ない。(入学式直後なのに出席番号順に座ってないのはおかしいし、中学時代から続いているらしいのに担任が事前に知らないようなのもおかしい。学校映画につきもののおかしさがやはりある。)授業でも答えられないし、休み時間も会話できないから、当然友だちもできない。

 そんな志乃が同じように一人でいる岡崎加代と話すようになる。加代の家にも付いていくが、加代はギターを持っていた。歌を作ったり、詩を書いているらしい。ぜひ聞かせてということになるが、ギターはいいけど歌が音痴だった。中学時代もそれでいじめられていたようだ。そんな加代は、自分がギターを弾くから志乃が歌ってという。志乃は歌なら大丈夫なのか? 初めは心配だったけど、案外歌ならちゃんと言葉が出てくるのだった。加代は「しのかよ」と名前を付けて文化祭に出ようという。夏は「路上ライブ」をしてみようという。

 そこに鈴木という浮きまくっている男子生徒も絡んできて、青春のドラマはどうなるのか。果たして文化祭には出られるの? そこらへんの展開は多少類型的だけど、ラストの文化祭シーンは感動的だ。何とか一歩を踏み出したい志乃なんだけど、一体どうなるんだろうか? 僕もいろんな生徒を見てきたけど、このような「吃音」は体験しなかった。調べてみても、原因も治療法もよく判らないようだ。そもそも「病気」なのか「障害」なのかもはっきりしない。でも志乃は家では話せているし、歌も歌えてるから、教室という空間に関わる問題である。

 最近の話かと思っていたら、誰もスマホを持ってなくて、街頭の電話を使ってる。挿入歌で見る限り、20世紀末頃の設定か。二人が歌う曲は「あの素晴しい愛をもう一度」(1971、加藤和彦・北山修)、「翼をください」(1971、赤い鳥)、「世界の終わり」(1996、thee michelle gun elephant)、「青空」(1989、THE BLUE HEARTS)の4つ。「翼をください」なんか、最初が「赤い鳥」なんて言われても今じゃ判らないかもしれない。最初の2曲は、僕には「思い出のヒット曲」だけど、作中の二人には「合唱コンクールで歌う歌」という感じだと思う。何にせよ気持ちよさそうに歌ってる。

 大島志乃役は南沙良で、誰だと思ったら三島由紀子監督「幼なわれらに生まれ」で、上の連れ子をやってた。どうも嫌な役で忘れていたけど、2002年生まれというまさに高校一年生の年齢で、難役に挑んでいる。岡崎加代役は蒔田彩珠で、読み方は「まきた・あじゅ」で「三度目の殺人」で福山雅治の娘役だったというけど覚えてない。2002年生まれ。男子の鈴木は萩原利久(りく)で、そう言えば「あゝ、荒野」他最近の映画で時々見ている。ホントの若手だけを使って、学校をうまく描いた。吃音の映画でもあるが、歌う喜びの映画でもある。東京では新宿武蔵野館のみで上映中。
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瀬々敬久監督の映画「菊とギロチン」

2018年08月01日 22時50分28秒 | 映画 (新作日本映画)
 瀬々敬久(ぜぜ・たかひさ、1960~)監督の大作「菊とギロチン」が上映されている。今年度屈指の問題作に間違いなく、早く見たかったけど、なにせ186分もあって時間が合わなかった。大正時代末期に実在したアナキスト系テロリスト集団ギロチン社」の面々が、当時実在した「女相撲」の一団と巡り合っていたら…。社会の底辺で生きる人々を奔放に描き出す渾身の作品。

 この発想は素晴らしいと思う。大正期のアナキスト群像のハチャメチャぶりはすごいし、「女相撲」というのは意表を突く。土俵の上を実力だけで生きる女たち。全くの空想ではなく、実際に1960年ぐらいまでは存在していたらしい。両者を結び付けるシナリオは面白いけど、実際の映像はどうだろうか。女性たちは生き生きとしているが、資金に困れば「リャク」(略奪)に走る中濱鐵東出昌大)、古田大次郎寛一郎)ら実在した人物たちはどうも今ひとつか。

 カメラは登場人物たちの焦燥を象徴するように激しく動き回る。同時代を生きる気分を盛り上げるが、少し動き過ぎか。結局はどっちも成功しなかった人々であり、見ていて辛い。物語としては、十勝川韓英恵)という朝鮮人、花菊木竜麻生=きりゅう・まい)という貧しい農村出身の二人が中心になる。十勝川は関東大震災時の朝鮮人虐殺をからくも逃れてきた。しかし在郷軍人の「自警団」に捕まり暴行を受けるが、ギロチン社の面々が助太刀して助け出す。

 花菊は夫の暴力を逃れてきたが、夫に連れ戻される。花菊に思いを寄せる古田が助けに行くが、体力でかなわない。そんなときに持っていた爆弾を使ってしまう。映画はこれらの出会いを、もうそうであるしかないような「底辺の連帯」として描く。今時にないような熱い志に貫かれた映画だ。ボロボロになりながらも、やっぱり相撲で生きていきたい花菊の心意気。木竜麻生という女優は要注目。「菊とギロチン」という「不敬なる題名」は、一応は「花菊とギロチン社」ということなのか。

 瀬々監督はかつて「ピンク映画の四天王」と言われた人である。その後一般映画に進出し、最近は「8年越しの花嫁」「友罪」など巧みな演出で人気映画をこなしている。代表作と言える「ヘヴンズ ストーリー」や「64」前後編など長大な映画を得意としている。今まではどっちかと言えば構成的にしっかりとした作品を作ってきたと思うが、「菊とギロチン」は流れゆくような一大叙事詩という感じ。長すぎると思うけど、こういう世界があるというのは見て欲しい。

 なお大杉栄一家虐殺事件を起こした当時の司令官、福田雅太郎は「戒厳令司令官」と言われているが、正式には「戒厳司令官」。映画にも出てくる和田久太郎に大杉の復讐で狙撃されたが未遂に終わった。(和田に関しては、、松下竜一「九さん伝」がある。)また自警団一味が十勝川に対して「天皇陛下の嫡子」と言ったように聞こえたけど、「赤子」の間違いだろう。嫡子だったら皇太子になっちゃう。この自警団の設定も史実というよりも、現代的関心から来るものに思えた。
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快作映画「カメラを止めるな!」

2018年07月12日 19時59分01秒 | 映画 (新作日本映画)
 「カメラを止めるな!」という新鋭監督の映画が面白いと評判になっている。実は先週も見に行ったんだけど、満員で入れなかった。新宿のケイズシネマという84席の小さな映画館で一日3回上映。口コミで広がって、早い時間に夜の回も満員になっている。やっと何とか一回目に見ることができた。なるほど、なるほど、これは確かに面白い。前半30分超はなんと「ワンカットのゾンビ映画」である。撮影場所の廃墟も面白く、疑問もありながら一気に見てしまう。でも、そこに映画の仕掛けがあり、終わったと思った映画が突然一月前に時間が戻る。

 「ゾンビ映画をワンカットで撮る」というのは、もともと新たに始まるテレビ「ゾンビチャンネル」の企画で、その「メイキング」が後半なのである。作られたメイキングの常として、危機に次ぐ危機が訪れるが現場の知恵と工夫でなんとかなる? いや、実はなんともならないところもあって、それが前半の映画でどうにも疑問になっていたところでもある。その「謎解き」が後半であって、いや裏じゃこうなってたのかというシナリオのうまさである。

 現実の俳優がいて、映画の中で俳優を演じる。その映画の中の俳優が映画の中で演じている。この三重のこんがらかった面白さ。だから、危機が起こって何とかする時に、「俳優の生の顔」が出るという設定だけど、それも実は演じているわけである。例えば、出演予定の俳優が交通事故に巻き込まれて来られない。そこでどうする、監督の奥さんの元女優がたまたま見に来ていた。ホンはもう100回ぐらい読んでいる、夫の仕事のホンを読むのが趣味なのだ。もう一つの趣味が「護身術」、これがおかしい。現場で熱くなりすぎる監督の娘、この設定も実におかしい。

 最初の「ゾンビ映画」の時はこういう人かなと思って見ていた俳優たちが、その後のメイキングになると印象が変わってくる。名演だと見えたものが、偶然だったりする。よく出来たセリフだと思ったものが、アドリブだったりする。それもまた事前に書かれていたんだろうから、なかなかアイディアである。最初は稚拙なシーンに見えたものが、実はどうして成り立っていたかが判るとちょっと感動である。こういうワン・アイディアで作られた映画として内田けんじ監督の「運命じゃない人」を思い出した。あるいはスティーヴン・スピルバーグの「激突!」なんかもあった。監督・脚本・編集は上田慎一郎(1984~)。今までに短編を中心に何本か撮っているが、どれも見ていない。
 今後渋谷のユーロスペースなどでも上映。
 (上映後のあいさつ)
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鄭義信の映画「焼肉ドラゴン」

2018年07月07日 23時53分33秒 | 映画 (新作日本映画)
 鄭義信(チョン・ウィジン)の初監督映画「焼肉ドラゴン」。1970年の大阪万博前後、「在日朝鮮人」の焼肉屋一家の物語を通して家族や歴史を描く。2008年に新国立劇場で上演されて大評判になった戯曲「焼肉ドラゴン」の作家本人による映画化である。僕はこの劇を見ていない。当時は夜の時間帯の勤務だから、見逃している劇が多い。評判を聞いてチケットを取ろうと思ったけど、土日は一杯だった。その後再演、再再演があったが、そんなにすぐは売り切れないだろうと油断していたら、あっという間に売り切れていた。だから今回初めて話を知ったのである。

 大阪空港近くの騒音がうるさい国有地に、在日朝鮮人の集落がああった。金龍吉は焼肉屋をやっていて、主人の名から「焼肉ドラゴン」と呼ばれていた。妻の高英順とともに4人の子どもを育てている。上の二人は父と前妻の間の子、3人目の娘は妻の連れ子、一番下の男の子、時生は二人の間の子だが、日本の私立学校でいじめられて不登校がちだ。金龍吉は戦争で片腕を失い、戦後は故郷の済州島に帰るつもりが「4・3事件」で帰れなくなった。同じく事件から逃げてきた妻と知り合い焼肉屋として働いてきたが、市からは国有地の立ち退きを求められていた。

 三人の娘といじめられる時生の人生が物語の中心。長女・静花は真木よう子、次女・梨花は井上真央、三女・美花は桜庭ななみとさすがに映画版になると豪華キャストである。劇はもともと日韓の協力で企画されていて、両親は韓国人俳優がキャスティングされていた。映画でも父はキム・サンホ、母はイ・ジョンウンという韓国の俳優が演じている。日本の映画で「朝鮮人」が明示されて出てくる映画がいくつかあるが、高く評価された行定勲監督「GO」の両親役は山崎努大竹しのぶだった。これでは映画的記憶にジャマされて、名演していてもマイノリティに見えない。

 その点、「焼肉ドラゴン」の両親はやっぱりどうしてもトツトツとした大阪弁になるから、「一世らしさ」を感じさせる。全体的にはセットを使いながら演劇性の強い演出になっている。長女をめぐって、大泉洋ハン・ドンギュが返杯を繰り返すシーン、あるいは三女の結婚をめぐって父が戦争以来の一代記を語り「働いて、働いた」と繰り返すシーン。長いワンショットで撮影される忘れがたい場面だが、映像で見せるというよりセリフの力、シチュエーションの力で圧倒する。

 そういうタイプの物語で、エネルギッシュなマイノリティの民族誌とも言える。ヤン・ソギルの原作を崔洋一が映画化した「血と骨」を思い出すが、あの物語では父親が「モンスター」だった。映画ではビートたけしの圧倒的な印象が忘れがたい。「焼肉ドラゴン」では父親の金龍吉が済州島生まれの一世としては異例なほど暴力的ではない。でも、時生に対しては「いじめられても負けるな」と強さを求めて悲劇を呼ぶ。「パッチギ」のような「暴力」がなく、政治的な争いも描かれない。韓国との国交正常化から数年、60年代末にはもっと総連(北)と民団(南)の激しい対立があったと思うが、そういうことは描かないということなんだろう。

 当時はまだ「在日」という言葉もそれほど使われなかった。(本国では「在日僑胞(チェイルキョッポ)が多少下に見る感じで使われていたが。)日本では戦前来の「チョーセンジン」と呼ばれることが多かった。時生の机にもそう書かれていた。つまりまだ「在日朝鮮・韓国人」などと呼ばれて、日本で生きていくことが自明視されるようになる「三世以後」ではない。そんな時代に娘三人がそれぞれの場所に散ってゆく。「コリア民族のディアスポラ」の物語である。娘たちのその後に思いをはせると気にかかることが多い。しかし、一生を働いてきた父は家を明け渡しながら、こんな日は明日を信じられると言って終わる。まあ映画になって多くの人が接しやすくなったのは良いことだ。僕は今では鄭義信の劇はすぐにチケットを取るようにしていて、今年も「赤道の下のマクベス」を見た。
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奪うこと奪われること-映画「万引き家族」をめぐって②

2018年06月26日 23時51分36秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画「万引き家族」は東京の「下町」を舞台にしているとよく言われる。本来の下町は江戸の商業地域、つまり日本橋や神田あたりのことである。近年になってどんどん言葉が広がり、今は東京23区の東部や南部の工業地域、住宅地帯まで指すことが多い。時代とともに言葉の意味も変わっていくけれど、それにしても千住品川は宿場町である。下町どころか江戸でもなかった。近代になって東京に組み込まれたが、そこは「場末」と言われて貧困地域のことだった。

 日本では古い一軒家や安アパートの近くに高級マンションが建ってたりする。はっきりしたスラム地域がない感じだが、今では「下町」という言葉は一種「貧困地域」の「言い換え用語」になっているんじゃないか。「花の咲いたプランターが道に並んでる」は「庭がない狭い家」を意味するはずだが、マスコミでは「街をきれいにする人情味あふれる下町」と表現される。まあ一事が万事、そんな感じ。最近は「川の手」という用語が使われることもあるが、同じことだ。

 最近東京のある中学校で性教育の授業が行われ、それに都議と都教委がイチャモンを付けるという「事件」があった。(このブログでも何回か記事を書いた。)都教委が問題視したのに対し、区教委は「貧困の連鎖を防ぐ」ことは地域の課題で問題ないと言った。その中学は「万引き家族」の舞台に近いあたりだ。僕はこの地域の中学、高校に20年以上勤務した。荒川堤防のすぐ下にある中学や名前にも荒川とか墨田川(川の名は隅田川だが)が付く高校に。

 この映画を見てると、心苦しいというかザワザワ胸騒ぎがするというか…。冒頭に一家の家が映し出されたときに、あっここだ、この家は行ったことがあると思ってしまった。不登校だった生徒を家庭訪問した家だ。いや、もちろん違う。あの家はアパートだったはずだ、一軒家ではなく。でも似てるな、まとっている空気が。なんというリアルな貧困描写。サッカーの大迫選手じゃないけど、「是枝監督、半端ないって」と言うしか言葉がない。「現代日本のリアル」を映し出している。

 以下、家族の事情に少し触れざるを得ない。「万引き家族」という題名と事前報道から、この家族は全員が働いていないのかと思っていたら違った。リリー・フランキーは建設現場で、安藤サクラはクリーニング屋で、松岡茉優は性風俗店で働いている。そしてリリー・フランキーは現場でケガして働けなくなったが労災は下りない。「労災」とは「労働者災害補償保険」のことで、保険だから事前に保険金を払ってなければ当然払われない。どういう雇用契約か判らないけど、自分でケガしたわけじゃないんだから、労災になると当初は本人も思っていた。その経緯を問いただすこともないが、彼は「奪われたもの」だった。万引きの常習で、彼は「奪うもの」でもあるけど。

 安藤サクラもクリーニング屋を解雇される。その経緯も理不尽なもので、店主から時給が高い二人のうちどっちかが辞めて欲しい、どっちが辞めるかは二人で決めてくれと言われる。これはベルギーのタルデンヌ兄弟の「サンドラの週末」と似た設定だけど、その映画と違って日本では労働者の連帯は描かれない。お互いに相手の弱点を言い合うが、柴田家に居ついた幼い女の子を相手が見ていて、その秘密をばらすと脅すので安藤サクラが辞めるしかない。だが退職金や失業保険という話は全然出て来ない。彼女もまた「奪うもの」にして「奪われたもの」として生きてきた。

 そして樹木希林演じる初枝もまた「奪われたもの」だった。だが彼女の場合は「夫を奪われた」らしい。夫が別の女性に心変わりしたらしいが、その事情は説明されないから判らない。松岡茉優が同居した事情も判らないけど、彼女は樹木希林の前夫の孫にあたるらしい。時々樹木希林は前夫と後妻の間の息子の家を訪れ、前夫の位牌に線香をあげる。それは理解できる心理とも言えるが、相手のうちでは来るたびに「心付け」を渡していて本音では迷惑している。事情は判らないけど、樹木希林の行動を「奪われたものが奪い返す」と見えなくもない。

 現代社会では多くの商品に囲まれて生きている。今さら自給自足もできないから仕方ないけど、この商品は貨幣と引き換えじゃないと入手できない。しかし彼らは「奪われたもの」だから、所有する貨幣が少ない。よって「奪われたものを奪い返す」ために万引きする。「店の商品は買われるまでは誰の所有物でもない」というへ理屈を子どもは言っている。それが本当なら堂々と持って帰れるはずだが、実はこそこそと隠して持ち出そうとしている。少なくとも「そんな悪いことじゃないけど、お店に見つかるとまずい」程度の考えは持っている。

 モノやサービスが商品として流通する社会では、本来商品であってはいけないものも「商品化」される。衣食住全部が商品だから、住んでる人間も商品に見られてくる。家や服には値段があるわけだから、家や服を見れば「いくらぐらいの人間」かが判るわけだ。出会いにも階級性があり、貧しいものには「性の商品化」を通してしかなかなか出会いがない。松岡茉優は自分の性を売り物にして出会いがあるが、どうやらリリー・フランキーと安藤サクラの出会いも性風俗だったらしいことが示唆されている。それどころかもっとすさまじい事情もあったことがラストで判る。

 どこにも「連帯」のきっかけさえ見つからない荒野を彼らの家族は生きている。連帯感がないわけじゃないのは、子どもたちと暮らしている事情から想像できる。でも社会的な連帯、あるいは福祉制度などへの期待はまるで感じられない。擬制的な「家族」だけしか信じるものがない。樹木希林が死んだあとで、葬式をせずに埋めてしまったことが、後で死体遺棄に問われる。でも警察に「捨てた」と言われた安藤サクラは「捨てたんじゃなくて拾った」と答えるのは、彼らの精神構造をよく示している。何物も信じない彼らは「家族」だけを信じている。

 映画内で「連帯」に近い感情を持っているのは、柄本明が演じる駄菓子屋の主人である。万引きした少年祥太に対して、万引きをとがめるのではなく「妹にはさせるなよ」と言うのである。荒野の中で一滴の水を与えられた少年は、そこから変わってゆく。彼ら家族は単なる「犯罪者」と言うより、意識の中では自分たち家族を救う「義賊」のつもりだったかもしれない。でも実は「仲間殺し」だった。彼らの住む町にある、経営もそんなに良くはないだろう店を困らせているだけである。

 連帯のかけらもない荒野の日本社会。僕らが生きている社会のリアルな認識だ。フランス映画「ティエリー・トグルドーの憂鬱」という映画があった。2015年カンヌ映画祭でヴァンサン・ランドンが男優賞を獲得した。ステファヌ・ブリゼ監督のその作品では、失業した男にようやく見つかった仕事はスーパーで万引きを監視する監視員だった。監視カメラをいくつかのテレビ画面で見ていて、怪しい人を見る。それどころか同僚が不正をしないかも監視する。それが「憂鬱」である。先に挙げた「サンドラの週末」と合わせて見る機会があれば、ヨーロッパの映画監督の問題意識は是枝監督と同じことが判る。だが描き方は正反対だ。そこに日本の絶望がある。
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映画「万引き家族」をめぐって①

2018年06月25日 23時15分01秒 | 映画 (新作日本映画)
 新作映画を順番に見ていって、そろそろ「万引き家族」も見ないと。是枝裕和監督(1962~)の2018年カンヌ映画祭パルムドール受賞作品。もうずいぶん前から、是枝監督はどんな映画でも自在に作ってしまえる映画的技量を獲得している。だから「面白くて考えさせる」映画になっているだろうとは、見る前に判る。その面白さを書いていってもいいんだけど、そうなると登場する家族に関して「ネタバラシ」することになってしまう。それを避けながら書いていきたい。

 ある家族が東京東部の小さな家に住んでいる。スカイツリーが見えるから、東京の東の方だと判る。もともと「親が死んでも届けずに、年金をもらい続けた詐欺事件」がシナリオのモチーフになったと監督は事前に語っている。その事件が起こったのは東京都足立区の北千住近くの荒川堤防ぞいだった。映画史的には小津安二郎「東京物語」や五所平之助「煙突の見える場所」などの名作の舞台となったあたりである。映画のロケもおおよそその近くで行われた。

 是枝監督の作品は、登場人物を裁かないで提示する。子どものネグレクトを扱った「誰も知らない」(2004)や病院で起こった子どもの取り違え事件を描いた「そして父になる」(2013)のようなカンヌで受賞した代表作でも、ひたすら事態を見つめている。2016年パルムドールの「私は、ダニエル・ブレイク」も同じように貧困問題をテーマにしていたけど、ケン・ローチ監督は明確にイギリスの政治に対して怒っている。オールド左翼の魂の怒りである。それに対して是枝監督は怒りの表出ではなく、見るものに観察を強いる映画を作り続けてきた。
 (カンヌの是枝監督)
 親切な説明はないから、画面とセリフに集中する必要がある。映画に最初に登場するのは、一見すると「父と子」の二人組がスーパーで万引きするシーンだ。その二人の真の関係はなかなかつかめない。判ってくるのはラスト近くになってからだ。他の「家族」も同様で、どういう関係か最初は呑み込みにくいけど、そうかそういうことだったのかと次第に判ってくる。「祖母」の柴田初枝が樹木希林。(写真だけ出てくる死んだ夫が山崎努なのは「モリのいる場所」と同じで笑える。)「父」の治がリリー・フランキー。その「妻」信代が安藤サクラ。「妹」亜紀が松岡茉優。是枝作品初登場の安藤サクラが、いつもうまいんだけど、とりわけ素晴らしく忘れがたい。

 それでも子役の存在にはかなわないだろう。祥太役の城桧吏(じょう・かいり)は一緒に万引きをしてきて、一人で勉強できない子どもが学校行くんでしょと思い込まされている。そこに少女が新たに加わる。そこからこの「家族」に変化が起きてくる。「ゆり」(じゅり)役の佐々木みゆをどうするか。虐待を受けてきたらしい「ゆり」を受け入れて、変容が始まる。大人は大人として生きていってもらうしかないけど、この二人の子どもはこの後どうなる? 監督は何も提示していないけど、観客はずっと気になり続けるだろう。それが物語の役割なんだと思う。

 外国から見ると、家族を描くから小津の影響かと言われるらしい。でもカッチリとした世界を作り続けた小津映画と子役を自在に動かす是枝映画はむしろ対極にあると思う。謎を残して終わる近年の是枝映画は、むしろ黒澤明の「羅生門」的。「万引き家族」ではストレートに進行してきた時間があるきっかけで反転して、登場人物が振り返り始める。それでも人間存在の奥に潜む謎は完全には解明されない。この構造は黒澤明の「生きる」なのではないか。現代の監督では家族を即興で撮っていくマイク・リーや謎めいた世界をただ提示するミヒャエル・ハネケを思い出す。

 カレーのソースに例えると、じっくりコトコト煮込んで玉ねぎはもちろんジャガイモも崩れて渾然一体となっている映画もある。一方で、素材そのままの魅力でジャガイモやニンジンがざく切りでごろごろしている映画もある。前者は熟成したソースになって、役者やテーマは後景になり映画そのものの印象が残る、後者は映画の筋は覚えてないのに、俳優たちの演じるシーンだけが印象に残ったりする。是枝監督は初期はゴロゴロ野菜の魅力で見せていたが、「奇跡」の頃からテーマや役者が一体となった映画も作ってきた、今回はその両者が絶妙の割合でブレンドされていて、全体のソースの味付けもうまいけど、俳優たちの顔や演技もゴロゴロと脳裏を駆け巡っている。間違いない傑作だ。万引きや地域性などの問題を書き残しているので、もう一回。
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深田晃司監督「海を駆ける」

2018年06月19日 22時45分17秒 | 映画 (新作日本映画)
 前作「淵に立つ」が今なお鮮烈な深田晃司監督(1980~)の新作「海を駆ける」が公開されている。余り情報がないままに見たんだけど、全編インドネシアのスマトラ島北部アチェでロケした作品だったことに驚いた。アチェと言えば長いこと独立運動が繰り広げられた。そのことも出てくるが、それ以上に2004年12月26日に起きたスマトラ島沖地震を思い出す人が多いだろう。2011.3.11まで、世界の人にとってはまず思い出す「ツナミ」だったに違いない。

 今は静かで美しい海が映し出されるが、冒頭で海の中から「謎の男」が現れる。日本人だからインドネシア人だか、それすら判らないけどどっちの言葉も理解できるらしい。その男を現地語で海を意味する「ラウ」を仮に名付けて世話をすることになる。そのラウをディーン・フジオカが演じているけど、セリフも少ないからなんだかよく判らない。その後次第にラウが奇跡(超常現象)を起こせるらしいことが描かれる。こうなると僕の手に負えなくなってくる。

 震災復興のNGOで働いている貴子(鶴田真由)の家にラウは引き取られる。彼女の家には息子のタカシ太賀)も住んでいて地元の大学に通っている。タカシの父はインドネシア人らしいが出て来ない。タカシは二重国籍だったが、成人した時にインドネシア国籍を選択したという。母とは日本語で話している。鶴田真由、太賀は前々作「ほとりの朔子」にも出ていた。そこに東京から姉の子サチコ阿部純子)も訪れる。アチェのどこかの写真を持っていて、父の遺骨をそこに散骨して欲しいというのが父の遺言だったらしい。

 日本語を話す3人に加えて、タカシの大学の友人クリス、クリスの幼なじみでジャーナリストを目指しているイルマが登場する。クリスは家が内陸にあり津波の影響はなかったが、イルマは家が流された。イルマの方が成績が良かったのに、父も独立運動で足をけがして大学へ行けない。イルマは明らかにムスリムで、クリスとは信仰が違うというからクリスはキリスト教徒なんだろう。この若者4人に間には色恋沙汰も起こって、それがなかなか面白い。夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという話が伏線になっている。(その話は一種の伝説らしいが。)

 そういう若者同士のエピソードと絡むようで、何だかよく判らないのがラウの話。現世的には「記憶喪失」の日本人らしいということになるが、身元は全然判らない。そして彼はあちこちで不思議な出来事を起こす。生命力を甦らせる力が彼にはあるのだろうか。それだけなら善き力だが、それだけでなく悪しき力をも持っているのだろうか。どうも僕には判らないんだけど、ラウが「海」と名付けられたように、その不思議な力は海に由来するのだろうか。海に消えた多くの生命の甦りなのだろうか。どうも判らないけど、アチェの風景も興味深く何だかいわく言い難いムードがある。

 「淵に立つ」ほどの現実を切り裂く力がない感じだけど、深田監督は見続ける意味がある。それに東南アジアに関心があるので、この物語の発想が興味深い。撮影の芹沢明子も素晴らしい。「岸辺の海」や「羊の木」の人で、深田監督とは「さようなら」で組んでいる。インドネシアの空気をうまく映し出している。日本の俳優では阿部純子(1993~)が印象深い。河瀨直美の「2つ目の窓」に吉永淳の名前で出てた人。高校生役で共演した村上虹郎はその後も活躍しているが、吉永淳はどうしたのかと思うと、慶応を出てニューヨークにも留学、今は本名で活動している。「狐狼の血」で薬剤師役をやっていたが、その時は気づかなかった。注目株である。
 (阿部純子)
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沖田修一監督「モリのいる場所」

2018年06月18日 22時10分38秒 | 映画 (新作日本映画)
 沖田修一監督脚本・監督の映画「モリのいる場所」は、超俗の画家と言われた熊谷守一(くまがい・もりかず)の日々を描いている。何しろ何十年も自宅の庭しか出なかったというから凄い。そして庭で虫や植物をじっと眺めて暮らし、抽象画のような虫の絵を描いた。その自宅はどこにあったかというと、豊島区要町なのである。池袋から地下鉄で一駅、今や住宅地のど真ん中だけど、ここに豊島区立熊谷守一美術館が建っている。

 淡々としたドキュメンタリーを見ている感じもする映画だが、熊谷守一本人は1977年に97歳で没している。だから俳優が演じている劇映画なんだけど、それは見ている人も皆判っている。だけどモリを演じる山崎努、その妻を演じる樹木希林、二人ともが仙境に入りつつある感じで、なんとも素晴らしい存在感である。演技力なんてものを軽く超越してしまった感じである。

 モリは一日中庭で何をしているのか。上の画像はアリを見ているところ。アリは左二本目の足から歩きだすということを発見したというんだけど、他の人には判らない。アリなんか見ていて面白いかと言えば、でもなんだか面白そうではある。他にもやりたいことがあるから自分はやらないけれど、昆虫観察は面白いだろう。小さな庭だけど、そこには宇宙に通じる秘密が隠されている。生き物の世界というのは、そういうもんだ。でも、普通はここまで極端にはならない。単に芸術家というだけでは解けない人間としての秘密もありそうである。

 モリの家には多くの人が訪ねてくる。それらの人々との交流をユーモラスに描きながら、映画は進んで行く。映画内で登場人物が深刻な対立におちいるわけではなく、日常とはちょっと違う環境にありながらもユーモラスに日常が進んで行く様を「観察」している。そういう作り方は、沖田監督の脚本・監督作品に共通してる。「南極料理人」「キツツキと雨」「滝を見にいく」「モヒカン故郷に帰る」など大体そんな感じ。「横道世之介」は吉田修一原作の力が大きく一番面白かったと思うが、「モリのいる場所」はまた違った感じの傑作だ。何といっても山崎努と樹木希林が忘れがたい。
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白石和彌監督「孤狼の血」

2018年05月19日 23時00分47秒 | 映画 (新作日本映画)
 柚月裕子(ゆづき・ゆうこ)の直木賞候補作「孤狼の血」(2015)が映画化された。最近好調の白石和彌監督の確かな演出手腕を楽しめるノワール映画になっている。白石監督は「ロマンポルノリブートプロジェクト」で「牝猫たち」を撮ったけど、今度の映画は「東映実録映画リブートプロジェクト」という感じ。(リブートは「再起動」。)もともと原作が東映実録映画へのオマージュで、ストーリーは基本的に原作の通りだが、映画向きに順番が多少変更されている。

 柚月裕子は1968年生まれだから、70年代半ばの実録映画を生で見ている世代じゃない。小説では「昭和63年」、つまり1988年の広島県呉原市という設定になっている。呉原は明らかに呉で、それだけで「仁義なき戦い」である。横山秀夫の「64」もそうだが、昭和最末期に物語を設定すれば何となく「まだ何でもありだった」感が出せるということか。映画の中では「ポケベル」は持ってるけど、「ケータイ」はない。皆が携帯電話と持ってると、犯罪も恋愛も様相が大きく変わる。

 やっぱりちょっと時代設定は無理がある気がする。暴力描写はむしろ激しくなっているかもしれない。実録映画は確かに殴ったり殴られたり、殺したり殺されたりしたけど、こんなに血や死体は出て来なかったと思う。たくさんのホラー映画を通過した「今の時点で作られた実録映画」なんだと思う。だからこそ、今度は広島県や呉市もちゃんとロケに協力して、ロケ地マップも作って観光振興をしてる。暴対法以後の今じゃ映画を見て現実の呉だと思い込む人もいないということか。

 物語は役所広司演じる大上(おおがみ)巡査部長と彼に付く広島大卒の新人、日岡(松坂桃李)の絡みで進んでゆく。呉原は尾谷組と加古村組の間で再び抗争の火ぶたが切られようとしていた。折しもサラ金の社員が行方不明になり、暴力団担当の大上は加古村組が関与しているとにらみ、拷問・放火・収賄など不法な手段を駆使して取り調べを進めてゆく。しかし、大上には14年前の暴力団員殺害という噂もあり、警察内部にも反発が強い。日岡にも隠された動機があったが…。そのカラクリを早くからばらしてしまうのはどうかと思うが、描写はエネルギッシュで映像もシャープ。人物たちは生き生きと動き回り飽きさせない。

 とても面白いんだけど、話自体は原作に由来する弱点がある。東映実録映画の複雑な抗争の絡み合いが少なく、女性をめぐるドロドロも少ない。大上と日岡の関係、日岡の「成長物語」になってる。黒澤明の「野良犬」や「赤ひげ」で、それはそれで面白いけれど、社会性や政治性が捨象されている。だからなるほどそうなるだろう的な落ち着き方になる。まあ、イマドキ東映実録映画を作るならこうするしかないか。十分楽しめるけど、それで終わっていいのかという話である。

 白石和彌監督は、2013年の「凶悪」で注目され、2016年の「日本で一番悪い奴ら」「牝猫たち」、2017年の「彼女がその名を知らない鳥たち」「サニー/32」、2018年に「孤狼の血」、続いて若松プロ、門脇麦、井浦新による「止められるか、俺たちを」と近年立て続けに注目作を撮っている。かつての深作欣二並みではないか。「サニー/32」を見逃しているが、どれも広義のノワールもの。好き嫌いはあると思うけど、要注目の人である。名前で見て損はしない監督だ。
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