映画『木の上の軍隊』が上映中。上映機会が少なくなっているが、なかなか興味深かったので簡単に紹介。もともとは井上ひさしが書きたかった戯曲だが、完成を見ずに亡くなった。広島の原爆をめぐっては有名な『父と暮らせば』があるが、長崎の原爆と沖縄戦もテーマに取り上げ、「戦後“命”の三部作」とする心づもりだったという。長崎に関しては、後に山田洋次監督が映画化した『母と暮らせば』(2015)となり、その後戯曲化されて2018年に「こまつ座」が上演した。一方、沖縄戦に関しては蓬莱竜太が井上の原案に基づき『木の上の軍隊』を執筆して、2013年に初演された。今回はその原案から平一紘が新たに脚本を書いて映画化した。
僕は2013年の舞台を見ていて、『こまつ座「木の上の軍隊」(井上ひさし原案、蓬莱竜太作)を見る』を書いた。それを読んで貰えばわかるだろうが、僕はその舞台がちょっと期待外れだった。というのも初演は藤原竜也、山西淳の二人の兵と別に、ガジュマルの精のような役を片平なぎさが演じていたのである。舞台には大きなガジュマルの樹が作られていて見事だったが、ほとんどがその上で進行する「二人芝居」だから工夫したのだろう。しかし、映画にして面白いんだろうかと事前には心配もあった。正直言ってあまり期待せずに見たのだが、見てみるとこれはむしろ映像向けの題材だったんじゃないかと思った。ロケが効いているのだ。
『木の上の軍隊』とは簡単に言えば、米軍の攻勢に生き残った二人の日本兵が木の上に逃げ込んで、負けたと知らずに敗戦後2年間も生き続けたという話である。沖縄本島西部の伊江島で起こった起こった実話で、その時日本兵が生き続けたガジュマルの樹も実在するという。舞台ではいくら手を掛けても実際のガジュマルは使えない。一方、映画ではロケしてガジュマルの樹の上に暮らすところを撮っている。もっともホンモノじゃなく、クレジットに「ガジュマル製作」と出ているぐらいだから、ホンモノの樹をベースに地元の造園業者が「基地」にふさわしく作り直してあるのではないか。でも現地にあるホンモノの樹であるのは確か。
しかし、一日二日ならともかく、一ヶ月二ヶ月ともなれば、水は雨水を利用するとしても、食料はどうしたんだろうかということになる。それは確かに難問で、実際に飢えに直面するのである。自分たちの持参分がなくなれば、夜に下りて死亡した日本兵の持ち物を探すことになる。その他、ソテツの実を工夫して食べたり…。樹上の二人は以前からの知り合いではなく、一人は地元出身の新兵(山田裕貴)で、もう一人は本土出身の上官(堤真一)である。上官のリクツではいずれ援軍が来るまで持ちこたえるのが役目だという。新兵は従うしかないが、あくまで「軍の論理」を振りかざす上官に付いていけない気持ちもある。
やがて食料あさりに出かけて米軍の食料を見つけてしまう。それは魅力的だが食べるべきか。やがて米軍のゴミ捨て場も見つける。そこは食料の宝庫だが、同時に怪しい写真雑誌なども捨ててある。次第に米軍に依存して生きていくことに慣れてしまうが、本人たちは「抵抗」だと思い込んでいる。ここらのシーンなども、飢えによる表情の変化、無精ひげが米軍のカミソリを見つけてひげ剃り出来てさっぱりする様子など、2時間ほどの舞台では難しいことも時間を掛けて撮影出来る映画の方が効果的に描ける。
映画になったことで、特に「上官」の論理が「食事」という現実で変容していく様が印象的に伝わったと思う。そのことで地元出身で「生きたい」思いが強くなる若者と「軍の論理」を捨てられない上官の対比が際立つ。脚本・監督を務めた平一紘の功績だと思う。この題材のもとになった実話の主はホームページに出ている。ガジュマルの樹上というところが、いかにも沖縄的で興味深いエピソードだ。しかし「沖縄戦」全体からすると例外的な話である。本島南部で繰り広げられた激戦、及び避難壕から住民が追い出されるなど「友軍の方が怖かった」と言われるような沖縄戦の最大の悲劇は出て来ない。他の映画等も見る必要がある。