goo blog サービス終了のお知らせ 

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『木の上の軍隊』、映像で伝える沖縄戦「命と軍の葛藤」

2025年08月12日 20時26分20秒 | 映画 (新作日本映画)

 映画『木の上の軍隊』が上映中。上映機会が少なくなっているが、なかなか興味深かったので簡単に紹介。もともとは井上ひさしが書きたかった戯曲だが、完成を見ずに亡くなった。広島の原爆をめぐっては有名な『父と暮らせば』があるが、長崎の原爆と沖縄戦もテーマに取り上げ、「戦後“命”の三部作」とする心づもりだったという。長崎に関しては、後に山田洋次監督が映画化した『母と暮らせば』(2015)となり、その後戯曲化されて2018年に「こまつ座」が上演した。一方、沖縄戦に関しては蓬莱竜太が井上の原案に基づき『木の上の軍隊』を執筆して、2013年に初演された。今回はその原案から平一紘が新たに脚本を書いて映画化した。

 僕は2013年の舞台を見ていて、『こまつ座「木の上の軍隊」(井上ひさし原案、蓬莱竜太作)を見る』を書いた。それを読んで貰えばわかるだろうが、僕はその舞台がちょっと期待外れだった。というのも初演は藤原竜也山西淳の二人の兵と別に、ガジュマルの精のような役を片平なぎさが演じていたのである。舞台には大きなガジュマルの樹が作られていて見事だったが、ほとんどがその上で進行する「二人芝居」だから工夫したのだろう。しかし、映画にして面白いんだろうかと事前には心配もあった。正直言ってあまり期待せずに見たのだが、見てみるとこれはむしろ映像向けの題材だったんじゃないかと思った。ロケが効いているのだ。

(伊江島)

 『木の上の軍隊』とは簡単に言えば、米軍の攻勢に生き残った二人の日本兵が木の上に逃げ込んで、負けたと知らずに敗戦後2年間も生き続けたという話である。沖縄本島西部の伊江島で起こった起こった実話で、その時日本兵が生き続けたガジュマルの樹も実在するという。舞台ではいくら手を掛けても実際のガジュマルは使えない。一方、映画ではロケしてガジュマルの樹の上に暮らすところを撮っている。もっともホンモノじゃなく、クレジットに「ガジュマル製作」と出ているぐらいだから、ホンモノの樹をベースに地元の造園業者が「基地」にふさわしく作り直してあるのではないか。でも現地にあるホンモノの樹であるのは確か。

(ガジュマルの樹上で)

 しかし、一日二日ならともかく、一ヶ月二ヶ月ともなれば、水は雨水を利用するとしても、食料はどうしたんだろうかということになる。それは確かに難問で、実際に飢えに直面するのである。自分たちの持参分がなくなれば、夜に下りて死亡した日本兵の持ち物を探すことになる。その他、ソテツの実を工夫して食べたり…。樹上の二人は以前からの知り合いではなく、一人は地元出身の新兵(山田裕貴)で、もう一人は本土出身の上官(堤真一)である。上官のリクツではいずれ援軍が来るまで持ちこたえるのが役目だという。新兵は従うしかないが、あくまで「軍の論理」を振りかざす上官に付いていけない気持ちもある。

(米軍のゴミ捨て場を見つける)

 やがて食料あさりに出かけて米軍の食料を見つけてしまう。それは魅力的だが食べるべきか。やがて米軍のゴミ捨て場も見つける。そこは食料の宝庫だが、同時に怪しい写真雑誌なども捨ててある。次第に米軍に依存して生きていくことに慣れてしまうが、本人たちは「抵抗」だと思い込んでいる。ここらのシーンなども、飢えによる表情の変化、無精ひげが米軍のカミソリを見つけてひげ剃り出来てさっぱりする様子など、2時間ほどの舞台では難しいことも時間を掛けて撮影出来る映画の方が効果的に描ける。

 映画になったことで、特に「上官」の論理が「食事」という現実で変容していく様が印象的に伝わったと思う。そのことで地元出身で「生きたい」思いが強くなる若者と「軍の論理」を捨てられない上官の対比が際立つ。脚本・監督を務めた平一紘の功績だと思う。この題材のもとになった実話の主はホームページに出ている。ガジュマルの樹上というところが、いかにも沖縄的で興味深いエピソードだ。しかし「沖縄戦」全体からすると例外的な話である。本島南部で繰り広げられた激戦、及び避難壕から住民が追い出されるなど「友軍の方が怖かった」と言われるような沖縄戦の最大の悲劇は出て来ない。他の映画等も見る必要がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奇跡の映画『よみがえる声』(朴壽南・麻衣監督)、隠された歴史を伝える旅

2025年08月09日 19時39分26秒 | 映画 (新作日本映画)

 すごい映画を見た。朴壽南(パク・スナム)、朴麻衣(パク・マイ)の母娘が作った『よみがえる声』というドキュメンタリー映画である。時々ドキュメンタリーからは規格外れの大傑作が現れることがある。(小川紳介監督の『ニッポン国古屋敷村』や原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』など。)この作品の驚きも、そういう映画を見たときの「こういうのがあったのか」的な感動に近い。しかし、それに止まらず近代日本の暗部をえぐる証言の数々…よくぞ撮り残してくれたと驚くしかない。必見の傑作。

 朴壽南(パク・スナム)と言われて、小松川事件を思い出すという人はもう相当の高齢だろう。1958年に起きた殺人事件の少年死刑囚、李珍雨(イ・チヌ)と文通したのが朴壽南だった。(当時は朴寿南とも表記。)大岡昇平など多くの文化人が減刑を求めたが、当時所属していた朝鮮総連からは「殺人犯支援」から手を引くよう指示され、組織を離れざるを得なかった。李からは姉と慕われ、親密なやり取りが続いた。李も獄中で自分を見つめ直したが、1962年に早くも執行されてしまった。朴がまとめた往復書簡集『罪と死と愛と』はベストセラーとなった。1979年には『李珍雨全書簡集』を刊行し、僕はその本に深く感動した記憶がある。

(編集する母娘)

 その後、朴壽南は広島の被爆朝鮮人など「忘れられた」人々を取材していたようだ。僕もジャーナリストとして活動していたのは知っていたが、やがて4本のドキュメンタリー映画を発表した。僕はそれらを見ていない。突然映画を作るなんて考えられないから、同姓同名の映画監督かと思っていたぐらいだ。映画館でほとんど上映されない自主上映の16ミリ映画なので、仕事をしているとなかなか見る機会がなかったのである。映画名を書いておくと、『もうひとつのヒロシマ』(1986)、『アリランのうた−オキナワからの証言』(1991)、『ぬちがふぅ(命果報)−玉砕場からの証言』(2012)、『沈黙−立ち上がる慰安婦』(2017)である。

(若い頃の壽南・麻衣)

 朴壽南の私的な事情など知る由もなかったが、今回の映画を見て結婚せずに二人の子をなしたと知った。(結婚制度に反逆しているのである。)神奈川県茅ヶ崎市で焼肉店を開き一人で子育てをしていくが、かき入れ時の8月になると店を臨時休業にしてしまう。広島に取材に行くためである。被爆した朝鮮人を探すものの当初は誰も名乗り出ない。やがて少しずつ取材できたものの、日本語が不自由なうえ、祖国を離れて長いから母語でもうまく表現出来ない。しかし、その苦難の人生は表情を見ればはっきりと伝わってくる。だったら映像で記録する方が効果的だと壽南は思い至る。こうして広島から、沖縄、筑豊、韓国へと映像の旅が始まった。

 その映像は先に挙げた4本の映画となって結実したが、まだ未公開の取材フィルムが山のように残されていた。それは16ミリフィルムで50時間分にもなるという。また録音テープは別になっていた。時間と共に劣化が進み、このままでは見られなくなってしまうと心配したが、1935年生まれで目も不自由となった壽南には取り組む力がない。それを見かねた娘の朴麻衣が乗り出して、デジタル化を進め再構成したのが、今回の『よみがえる声』という奇跡の映画なのである。148分もある長い作品だが、全く退屈せずに見続けてしまうのは、題材そのものの力であるとともに、朴壽南の人間としての迫力が素晴らしく圧倒されるのである。

(堤岩里教会虐殺の遺族)

 それを最も象徴するのは、三・一独立運動(1919年)時に起きた「堤岩里教会虐殺事件」の遺族への取材である。訪問時はもう70年近い昔となり、関係者もほぼ亡くなっていた。しかし、夫が虐殺された妻が存命と知り訪ねて行くが、やはりもう認知症状態で取材は無理と言われる。しかし、本人が突然チマチョゴリを着せてくれと言いだし、正装して当時の記憶を語り出したのである。この事件はキリスト教徒を標的にして教会を焼き討ちにしたもので、当時から欧米で大問題となった。日本軍も認めて一応軍法会議に付されている。(過失によるものとして無罪。)従って新事実というわけではないが、当事者の映像が存在したことに驚いた。

 韓国での取材が出来るようになると(長く「朝鮮」籍での訪韓は不可だった)、「在韓被爆者」への取材に訪れた。大邱(テグ)で訪れた被爆者の貧困ぶりはものすごい。韓国は70年代以後経済成長を遂げていくが、それでもこのような「極貧」が存在したのである。(「被爆者」と明かすと差別される上、ケロイドなどはハンセン病と間違われて差別されたこともあった。)そんな韓国取材中にテレビ番組に出演した映像が紹介されている。日本にもある「ワイドショー」みたいな番組で、司会者が尋ねた時の「未婚の母」朴壽南の迫力に圧倒される。韓国で「慰安婦」が名乗り出る前に、テレビで沖縄の「慰安婦」の話をしていたのも驚きだった。

(「軍艦島」を訪ねる)

 日本国内でも筑豊炭鉱など九州の「強制連行」朝鮮人を取材に行っている。特に長崎県の端島(はしま)炭鉱、つまり今や「世界遺産」の「軍艦島」で働かされた人を取材しているのは貴重だ。登録をめぐって韓国から抗議されても、日本国や長崎県が認めなくなっている「軍艦島」での苛酷な労働の日々を証言しているからだ。当事者が亡くなっても、映像には真実を証言し続ける力がある。この映画を見るまで知らなかったが、余りの苛酷さに逃げ出して溺れ死んだ人もあったという。対岸に流れ着いた遺体を(名前も判らぬまま)慰霊した「南越名(なんごしみょう)海難者無縁仏之碑」というものまで存在するのである。

 中国人労働者も多く犠牲となり、慰霊碑が建っているという。「軍艦島」が出てくるテレビ番組はかなり多いが、そういう側面は全く取り上げない。そもそも端島が「軍艦島」(のような外見)になったのは大正期以後なのに「明治日本の産業革命」遺産とするのは無理が多いことは、その当時に批判した。(「明治」に絞るなら足尾銅山と谷中村が不可欠だ。)僕は「軍艦島」は「原爆ドーム」と並ぶ「負の世界遺産」だろうと思っている。「歴史認識」という意味で、まさに「戦後80年」の夏に必見の映画である。

 朴壽南は「民族差別の告発者」であり、また「在日コリアン組織への反逆者」でもあるが、それ以上に結婚制度を含め「徹底して自由を生き抜いた」戦後日本の奇跡の反逆者なのである。そのホンモノの人間性は、小松川事件の被害者母との関わりで発揮される。被害者の母は関東大震災時にこの辺りでは多くの朝鮮人が殺されたと語る。李珍雨処刑には頼まれて被害者母を李の母のもとに連れて行き、二人の母親は手を取り合って泣いたというのである。そんなことが出来る人が他にいるだろうか。

 この映画を見た日(2025年8月8日)は、朴壽南朴麻衣両監督のトークがあった。司会はヤン・ヨンヒ監督(『かぞくのくに』など)で、ド迫力で「推し」ていると語っていた。絶対それ以上の価値があるからと2千円するパンフレットを必ず買うようにと言ったので、僕もつい買ってしまったが確かにそれだけの価値がある。壽南監督は車椅子だったが、今もすごい存在感。不思議な親子である。(なお、映像は自分で撮影したのではなく、撮影チームを組んで名カメラマン大津幸四郎などが担当している。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『黒川の女たち』、この夏必見のドキュメンタリー映画

2025年07月20日 21時42分45秒 | 映画 (新作日本映画)

 『黒川の女たち』というドキュメンタリー映画を見た。明日以後は参院選の話を書くと思うので、書き落とさないように簡単に紹介しておきたい。この映画は「戦争」について、深く考えさせる重大なテーマを扱っている。『ハマのドン』(未見)を作ったテレビ朝日の松原文枝監督が長年取材を重ねてまとめたもので、見ているうちに思わず襟を正して見ることになった。聞いたことはあったけれど詳しく知らなかった「ある満州移民団の女性たちの悲劇」をここまで真っ正面から描いたことに驚くしかない。

 ちょっと長くなるが、映画館のホームページにある紹介文をコピーしておきたい。

 80年前の戦時下、国策のもと実施された満蒙開拓により、中国はるか満洲の地に渡った開拓団。日本の敗戦が色濃くなる中、突如としてソ連軍が満洲に侵攻した。守ってくれるはずの関東軍の姿もなく満蒙開拓団は過酷な状況に追い込まれ、集団自決を選択した開拓団もあれば、逃げ続けた末に息絶えた人も多かった。そんな中、岐阜県から渡った黒川開拓団の人々は生きて日本に帰るために、敵であるソ連軍に助けを求めた。しかしその見返りは、数えで18 歳以上の女性たちによる接待だった。接待の意味すらわからないまま、女性たちは性の相手として差し出されたのだ。帰国後、女性たちを待っていたのは労いではなく、差別と偏見の目。口さがない誹謗中傷。同情から口を塞ぐ村の人々。込み上げる怒りと恐怖を抑え、身をひそめる女性たち。青春の時を過ごすはずだった行先は、多くの犠牲を出し今はどこにも存在しない国。身も心も傷を負った女性たちの声はかき消され、この事実は長年伏せられてきた。だが、黒川の女性たちは手を携えた。
したこと、されたこと、みてきたこと。幾重にも重なる加害の事実と、犠牲の史実を封印させないために――。

(松原文枝監督)

 つまり、この映画はソ連軍に対する「性接待」の被害者たちを描いているのである。題名の「黒川」は岐阜県加茂郡白川町にある地名で、戦前は黒川村だった。岐阜県南部にあって、1956年に合併して白川町になった。(世界遺産で知られる「白川郷」は、岐阜県北西部の大野郡白川村にあるので、混同に注意。僕も違いが判っていなかった。)戦前は全国で「満州開拓移民」が推進され、黒川村でも「分村」計画が進んで「満州開拓移民」が送り出された。しかし、行ってみれば「開拓」などではなく、現地の中国人住居を奪ってそこが日本人に与えられたのだった。ソ連との国境地帯に配置されたケースが多く、事実上軍事的な意味もあった。

(主人公として登場する人たち)

 「満州移民」の人たちは、(「満州国」防衛を担当するはずの)関東軍に見捨てられ引き揚げ時に大きな犠牲を出した。もともと日本の「満州」侵略に沿って「移民」したという「加害」の側面と、「集団自決」や「残留孤児」など大きな犠牲を払った「被害」の側面があることは70年代から指摘されてきた。しかし、僕の若い頃には「性接待」などということは全く聞かれなかった。どこの村にもあることではなかったと思うが、この出来事を知った時には驚くというよりは、「なるほど」と思うところもあった。

 そして、「戦後の方が辛かった」という現実が待っていた。長年にわたって「偏見」の目で見られ、タブーとされてきた。それが2018年に事実を将来に残す碑が故郷に建てられた。それに至るまでの「女たちの証言」をこの映画で見ることが出来る。「被害」を受けた人々が自ら語り始める。「なかったことにはできない」という心情が伝わってくる。そのうち映画前半では顔を出さなかった人も自らカメラの前で顔を出して語るようになっていく。そして、その勇気は孫世代にも伝わっていく。

 ところで当然といえば当然だが、この映画には「ソ連軍」が全く出て来ない。ソ連軍はドイツ戦線でも性暴力が頻発したと言われる。ソ連軍そのものの構造にも問題があると思うが、特に「日ソ戦争」に関してはやっとナチスを打ち破ったばかりなのに再び戦場に連れ出されたという不満があった。「暴力装置」としての軍隊には、国籍を超えて潜んでいる問題だろう。日本の「慰安婦問題」などもきちんと認識していかなければならない。「戦後80年」で戦争映画の上映も多い夏になるが、これは必見。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『この夏の星を見る』、原作と映画ーコロナ禍の青春を描く

2025年07月17日 21時43分35秒 | 映画 (新作日本映画)

 辻村深月の『この夏の空を見る』(2023)が角川文庫に入ったので読んでみた。映画にもなって、7月4日から上映中。しかし、上映館があまり多くなく、公開3週目にして早くも上映回数が激減している。この原作と映画は、出来栄え以前の問題として是非多くの人に知って欲しいので紹介しておきたい。2020年春、新型コロナウイルスによって全国の学校が突然休校になった。その年の部活動の全国大会は軒並み中止となり、修学旅行などの学校行事もほとんど実施出来なかった。そんな年にたまたま高校生だった「コロナ世代」は何を思い、何をしていたのか。その苦悩の日々を生き抜いた若者たちの姿がこの小説と映画の中に息づいている。

 中心的に描かれるのは、茨城県の「砂浦第三高校天文部である。運動部の活動は難しいし、文化部でも吹奏楽部や演劇部は「」を避けられない。そんな中で著者が注目したのが、屋外で行うことが必須の「天文部」なのである。普通部員数が多いとは思えないし、屋外なら「密」も避けやすい。モデルになったのは土浦三高だという.。全国に知人がいる名物先生がいて、その先生目当てに入学してきた2人の部員、溪本亜沙桜田ひより)と飯塚凛久水沢林太郎)が主人公格。その高校で「スターキャッチ・コンテスト」をやっていたのである。自分たちで天体望遠鏡を作り、課題に出た星を早く見つける競争である。

(主演の桜田ひより)

 その記事を見つけたのが、東京の「ひばり森中学」の理科部。(原作では渋谷区、映画では世田谷区。)安藤真宙黒川想矢)は小学校の友人が皆私立や中高一貫校に行ってしまって、気付いてみたら地元中学に進学した男子は一人だけ。サッカー部もなくなってしまい、鬱屈していたところに中井天音星乃あんな)に「理科部」に勧誘される。近くの御崎台高校にサッカークラブ時代の先輩がいて、今は物理部で宇宙線測定をしていると知り、理科部でもいいかなと思う。そしてスターキャッチ・コンテストをたまたま見つけて砂浦三高に電話する。その結果オンラインで今年も実施出来るんじゃないかということになっていく。

(東京で)

 もう一つ、どこかに参加して欲しいということで、修学旅行で行くはずだった長崎県を希望する。そこで五島列島の天文台に声を掛けると、天文台によく来ている高校生がいるという。武藤柊和田庵)と小山友悟蒼井旬)で、彼らは島の泉水高校に「留学」で来ていた。二人は家が旅館を休業しないため地元から非難されている佐々野円華中野有紗)を誘って天文台に行ってみる。円華は地元なのに島の天文台に行ったことがなかったが、星空の素晴らしさに魅せられる。本当は一番星が好きだった輿凌士萩原護)もいるのだが、春休みに東京の自宅に帰ったまま島に戻れなくなってしまった。しかし、輿は東京チームに参加出来ることになる。

(五島列島で)

 簡単に原作でも描かれる3チームを紹介したが、原作や映画を知らないと理解しにくいだろう。『国宝』では大胆に登場人物を整理して、吉沢亮、横浜流星二人の関係に絞り込んだ。しかし、『この夏の星を見る』の場合、どうしてもこの3チームが必要なので、整理できないのである。それぞれ「コンテストをやりたいと中学生が申し出る」「修学旅行で行くはずだった長崎の高校生に加わって欲しい」ということで、物語に欠かせないのである。その分映画としては新しい説明に時間を取られて、各パートの細かな人間関係に深入りしにくい。ただし、原作にはない「スターキャッチ・コンテスト」を映像で見せるのは興味深かった。

 (原作)

 他にも五島チームのメンバーに原作とは違う設定がある。映画化に当たって多少の差異は仕方ないが、この作品の場合全体としては同じように進行すると言えるだろう。その代わり、登場人物の心理が描かれにくい。またキャストに違和感があるケースも多く(例えば、2002年生まれの桜田ひよりは高校生と感じにくい)、どうも「原作の絵解き」感が抜けない。そういう問題もあるが、基本的な問題として「自作の望遠鏡で実際に木星や土星を見てみる」ことの感激が映像では伝わりにくいのである。そこが『国宝』の歌舞伎シーンと違うところで、原作で想像する方が面白いのである。その意味では今回は原作をまず読んで欲しいと思う。

(原作者辻村深月と桜田ひより)

 監督は山元環、脚本は森野マッシュという人で、二人とも長編劇映画は初めてらしい。実際の映像になることで、例えば五島列島の自然やコロナへの恐怖などはよく伝わる。一方で、茨城の場合など、原作の紆余曲折が省かれどんどん進むような感じになったと思う。もちろん映画には大きな役割があり、今後学校での上映などを進めて欲しいと思う。全国の学校をオンラインで結べば、コロナ禍でも素晴らしい部活動が出来たという着想は見事。実話じゃないのが残念で、これは原作者辻村深月の殊勲だろう。

 コロナ禍を描く映画に『フロントライン』があるが、また違った観点から「あの時代」を映像に留める試みである。僕がどうこう出来る問題じゃないわけだが、安倍内閣によって卒業式、入学式も難しくなったのは、当時から間違っていると考えていた。そんな年に彼らが何を出来たのか。この小説、映画はフィクションだけど、工夫すればいろいろなことが出来るというメッセージは、コロナに関わらず感動的だ。読んだり見たりすることで、コロナ禍を思い出して苦しいとも言えるが、「あの時代」を忘れてはいけないと思う。この夏、高校生や中学生には是非読んでみて欲しいし、映画も見て欲しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『「桐島です」』と『逃亡』、桐島聡をめぐる2本の映画

2025年07月12日 22時17分47秒 | 映画 (新作日本映画)

 高橋伴明監督の『「桐島です」』が公開された。桐島とは、2024年1月29日に亡くなった桐島聡のことである。1974年~75年に起きた東アジア反日武装戦線による爆弾事件に関わって指名手配されていた、あの桐島である。亡くなる数日前に病院に運ばれ、末期ガンと診断されていた。長く偽名で生きてきたが、最期になって自分が桐島聡であると告白して亡くなった。3月には足立正生監督の『逃走』も公開され、珍しいことに同じ題材での競作となった。昔は映画化権の決まりが緩く人気小説を2社が同時に製作するようなこともあった。今回は全く同じ事件を二人の監督が同時に別々に企画したという実にレアなケースである。

 高橋版では毎熊克也(1987~)が青年期から晩年まで演じて、なかなか見事な存在感を発揮している。足立版は青年期を杉田雷麟、壮年以後を古館寬治が演じ分けている。それが普通のキャスティングだと思うが、高橋版はよくも一人で演じきったものだ。東アジア反日武装戦線に関しては、かつて記録映画『狼をさがして』で触れているのでここでは省略する。その武装闘争や思想性をどのように考えるかはともかく、何にせよ桐島聡は一番末端にいたメンバーであり、闘争面においても理論面においても主導的だったわけではない。だから「爆弾事件で指名手配されながら捕まることなく逃げ切った」ことだけが彼の人生なのである。

(桐島の手配ポスター)

 長く見続けてきた手配ポスターは上記のようなもので、先の映画チラシと比べても実によく似ている。まあ映画はソックリさんを見せるのが目的じゃないけれど、ここまで似ていると若い時のデート場面など何か実際にあったような気がしてくる。(ちなみに映画『追憶』を見た後で、桐島は女性から「まだ学生運動続けてるの?」と言われて別れを告げられる。その相手の女性を演じた海空(みう)は高橋伴明、高橋惠子の孫だそうである。)各部隊の責任者、大道寺将司(狼)、斉藤和(大地の牙)、黒川芳正(さそり)の「会談」シーンなどもあり、あの時代の運動の「生硬」なリクツを耳にすると時代性を感じる。

 ただ1975年5月に主要メンバーの一斉逮捕があると、以後の展開は大体両作とも同じになる。逮捕を免れた「さそり」部隊の宇賀神寿一(うがじん・ひさいち)と桐島は別々に潜伏し、時々会って情報交換する約束を交わすが実際には会えなかった。そのため一人で神奈川県の土建会社に飛び込みで雇って貰い、近くのアパートに住み続けた。その会社は細かな履歴書などを要求せず、すぐに働いて欲しいと雇った。保険などはなく、給料はずっと現金で支給していたらしい。首都圏の片隅にそんな時代が封印されたエアポケットのような職場があったのである。そして社会の底辺から時代の変遷を見続けてきたわけである。

 時々は音楽演奏が出来るバーに偽名「内田」を名乗って飲みに行っていた。そこで時には女性と関わることもあり、上記画像のようにギター片手にデュエットすることもあった。それは高橋版のフィクションだろうが、実際にも似たような暮らしだったと報道された。足立版でも飲みに行ってダンスに興じるシーンがある。女性と仲良くなると「自分は人を幸せに出来ない人間だ」と告げて去って行く。高橋版では河島英五の「時代遅れ」(阿久悠作詞、森田公一作曲)という歌を北香那が歌うシーンがあり、歌詞が心に刺さる。「内田」がすっかり共感してギターを練習して一緒に歌うと告白されてしまう。名シーンだと思った。

(高橋伴明監督)

 高橋伴明監督の前作『夜明けまでバス停で』にも「爆弾」が出て来た。東アジア反日武装戦線の爆弾製造教本「腹腹時計」も出て来たから、今回『「桐島です」』を企画するのも当然か。僕は前作の設定が納得出来ずに、ここでは書かなかった。(ホームレス男性が昔の「黒ヘル」グループで、「腹腹時計」を隠し持っていたという設定は作りすぎだと思う。)高橋監督は連合赤軍事件を扱った『光の雨』(2001)もある。学生運動に参加して早稲田大学を除籍になった経歴もあるという。一方足立正生監督は自らパレスチナに赴き日本赤軍に参加し、現地で逮捕・収監後の2000年に日本に強制送還されたという経歴の持ち主である。

 二人とも「桐島聡の出現と死」には特別な思いをかき立てられたのは想像出来る。しかし、「よく逃げ切った」みたいな評価はどうなんだろうか。死刑・無期になるようなケースではない。宇賀神寿一は1982年に逮捕され、懲役18年の判決だった。桐島聡はそれと同じか、むしろ短い量刑だったと思われる。そういう場合は自ら出頭して「裁判闘争」「獄中闘争」を行うべきではないか。そういう気があるなら、社会復帰してから社会運動に参加することも可能だ。実際に宇賀神さんは「救援連絡センター」で活動している。ただ捕まらず頑張ったねというなら、それは横井庄一さんや小野田寛郎さんと何が違うんだろうか。

(足立正生監督と古館寬治)

 このように他者との関わりを極力断って生きている人を最近見たなと思ったら、『PERFECT DAYS』の役所広司だった。だけどあの映画の主人公は健康保険があっただろう。桐島は潜伏生活を続けていたが、一人で爆弾闘争(じゃなくても何かの闘い)をやっていたわけじゃない。ただ捕まらなかっただけだが、それがすごいという考えもあるかもしれない。死亡直後に「公安警察の敗北」と評した警察関係者もいたのは事実。しかし、それは僕は眉唾だと思っている。オウム逃走犯は全力で捜査して逮捕したではないか。オウム関係者を全員有罪にしないと、オウム死刑囚を執行できないからである。

 だから桐島の場合も警察が総力を挙げれば「発見」出来たはずである。桐島はそこまでする価値がない「末端」だった。むしろ「過激派」という存在があった「恐怖の時代」の記憶保存のため、いつまでも手配ポスターが貼られている役割を果たしていたと考えるべきではないのか。結局僕が2本の桐島映画に感じたのは「桐島、結局部活辞めなかったんだね」という感想。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『夏の砂の上』、長崎を舞台にした見事な人間ドラマ

2025年07月10日 20時22分54秒 | 映画 (新作日本映画)

 あまり大きな上映じゃないから気付いていない人もいるかと思うけれど、『夏の砂の上』という映画はとても見事な映画だ。松田正隆の傑作戯曲を玉田真也監督が映画化、というだけじゃ何だか判らないだろう。オダギリジョー高石あかりを中心に、松たか子満島ひかり森山直太朗光石研など豪華共演陣に驚くキャスティング。しかしスター性に頼った企画ではなく、舞台となる長崎の坂が非常に効果的で映像的な完成度が高い。見逃してはもったいない映画だと思う。

 紹介をコピーすると「息⼦を亡くした喪失感から⼈⽣の時間が⽌まり、妻に⾒限られた主⼈公と、妹が置いていった17歳の姪との突然の共同⽣活からはじまる物語。愛を失った男、愛を⾒限った⼥、愛を知らない少⼥...それぞれの痛みと向き合いながら、彼らは夏の砂のように乾き切った⼼に、⼩さな希望の芽を⾒つけていく――。」これだけじゃよく判らないが、冒頭で失業している男のもとを東京に住む妹が突然訪ねてきて、17歳の娘を預かって欲しいと置いていく。高校は行ってないらしく、坂下にあるスーパーでもうバイトを決めてきたという。坂道の上の方にある古い家は、眺めが素晴らしい。坂道や港は見事に長崎を映し出している。

 主人公の男がオダギリジョーで、まあいつものような存在感。過去と現在の状況は次第にセリフで説明される。姪の優子をやってるのが高石あかりで、殺し屋以外を初めて見たが次の朝ドラヒロインである。スーパーで働く大学生に声を掛けられ、迷惑かと思うと案外付いて行ってしまう。どこか捉えどころがないが、それは母親に振り回されてきた過去があるのだろうか。気後れせずに伯父さんにいろいろ聞くから、家族の状況が次第に見えてくる。クーラーが故障していて夏なのに扇風機だけなので見ていても暑い。

 部屋から見える造船所が倒産して、主人公は失業したらしい。しかし、昔の同僚はもう他の仕事を見つけて働き始めている。主人公は「過去」に囚われてなかなか一歩を踏み出せない。妻との関係も崩壊して別居状態で、その妻は元の同僚と親しくなっていると噂されている。その妻が誰かと思うと松たか子で、『ファースト・キス』であんなに若々しい感じだったのに全然違うのでビックリ。相手の同僚は森山直太朗で、意外な大物カップルである。オダギリジョーのパートと高石あかりのパートを交互に見せていくが、どこにも「生き辛さ」がいっぱいでどうなってしまうのかというときに、妹の満島ひかりが再登場して状況が動く。

 松田正隆は1994年に『海と日傘』で岸田国士戯曲賞を受賞、1999年の『夏の坂の上』は読売文学賞を受けている。黒木和雄監督の『美しい夏キリシマ』の脚本を手掛け、同じく黒木監督の『紙屋悦子の青春』の原作戯曲を書いている。今何をしているのかと思ったら、立教大学現代心理学部映像身体学科教授というので驚いた。監督の玉田真也は自身の劇団玉田企画で作・演出を担当、その後テレビや映画にも進出して、三浦透子主演の『そばかす』などがあるという。僕は初めて見たが、風景を見事にドラマに取り込んで人物ドラマを造形する演出力に感心した。「」をこれほど上手に生かした映画も珍しいのではないか。

 長崎県が舞台になった映画は多いが、五島列島とか雲仙などの映画も多い。長崎市の場合、どうしても原爆がテーマとなることが多い。この映画でもちょっとセリフに出て来るが、日常生活を描く映画は森崎東監督の『ペコロスの母に会いに行く』が思い浮かぶ。しかし、坂道が多く、坂上の方だと夏には渇水で水道が出なくなるなんて、この映画で気付いた。長崎の風景を詩的にとらえて人間ドラマに結びつけた作品で、大傑作とは言わないけれど妙に忘れがたい。河合優実の次は高石あかり。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『ルノワール』、揺れ動く思春期の生を見つめる秀作

2025年06月30日 21時25分19秒 | 映画 (新作日本映画)

 早川千絵監督の『ルノワール』が公開された。早川監督は長編映画デビュー作『PLAN75』がカンヌ映画祭「ある視点」部門新人監督賞特別表彰を受けて注目された。そして第2作の『ルノワール』は早くもカンヌ映画祭コンペティションに選ばれた。無冠に終わったが、今年の注目作に間違いない。地方都市(クレジットで岐阜で撮影されたと判る)に住む沖田フキ鈴木唯)は母親(石田ひかり)と父親(リリー・フランキー)と暮らすが、父親はいま入院中である。感受性豊かなフキはこの父の入院を通して、「大人の世界」に足を踏み入れていく。映画はその様子を1987年の「ある少女のひと夏」として提示する。

 冒頭がよく理解出来ないと思うと、それは夢だった。続いて学校で作文を朗読しているが、それは「みなしごになってみたい」という作文で、母親が学校に呼ばれてしまう。母は「勝手に親を殺すな」と叱るけど、フキにはほとんどこたえない。このフキを演じる鈴木唯(2013~)が実に見事で、驚くべき存在感で思春期の入口に佇む不安感を見せている。監督は影響を受けた映画として『ミツバチのささやき』『お引越し』『ヤンヤン夏の想い出』を挙げているが、特に相米慎二監督『お引越し』を思い出す作品。

(主人公を演じる鈴木唯)

 父が入院中だが、母は管理職になって多忙。父親はガンなので、特効薬を求めて怪しい療法に手を出したり、いろいろと大変だ。一人でいることが多いフキは、子どもの目で大人世界を探っている。マンションにいる女性(河合優実)と知り合うと、彼女の大変な話を聞く。英会話教室に通っていて、そこで知り合った友だちの家に行くと自分の家と全く違うのに驚くが、彼女も引っ越していく。そんな時に「伝言ダイアル」の存在を知り、つい電話してしまったりする。ちなみに「伝言ダイアル」は1986年から2016年までNTTが提供していたサービスで、固定電話からしか利用出来ない。「出会い系サイト」的に使われたケースも多かった。

(病床の父と)

 母もいろいろあることを娘は感じ取るが、忙しい母親とはなかなか話す時間もない。夏休みにキャンプファイアに行くとやはり楽しいけれど、家に帰るとふっと電話してつながった相手に会いに行ってしまったり。まさに揺れる少女の心をエピソードのつながりで、点描していく。題名はフランス印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールのことで、作中で主人公の少女フキが「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」を買って貰うエピソードがある。そこからこの映画も「印象派」的な作品とする論評もある。

(石田ひかりの母と)

 先に挙げた『お引越し』は、両親が離婚する家庭を娘の視点で描いた。一方『ルノワール』は「父の不在」を娘だけでなく周囲にも視野を広げて見つめる。ただ原作のある『お引越し』の方が物語的にはまとまっていて、『ルノワール』はエピソード羅列的になっている。どっちが上とは決められないが、僕はフキが揺れながらも、どう変貌していったか、もう少し知りたいと思った。映画は詩的な映像を提示して観客に想像して貰う作り方。『国宝』『フロントライン』の重量級の圧倒的な物語を見てしまうと、幾分淡彩に見えるのは否定できない。そこが観客動員にも影響しているかもしれない。(あまりヒットしてない感じ。)

(カンヌ映画祭で)

 前作『PLAN75』は興味深い映画だったが、ここでは紹介しなかった。高齢者の描き方に納得出来なかったのである。製作当時80歳を越えている倍賞千恵子を75歳役に起用していたが、まだまだ元気そうで設定に納得出来なかった。今回の『ルノワール』は洗練の度合いが上がって違和感なく見られるが、鈴木唯の存在感をどう生かすかという観点では、『お引越し』の田畑智子の方が印象に強い。才能ある監督であることは間違いないので、今度は原作ものか自作じゃない脚本で撮ってみて欲しい気がする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『中山教頭の人生テスト』、小学校のリアルを描く

2025年06月27日 21時45分09秒 | 映画 (新作日本映画)

 『中山教頭の人生テスト』という映画の紹介。渋い脇役が多い渋川清彦が本格主演した「学校映画」の佳作。上映が少なく別にいいやと思っていたが、墨田区にあるStrangerという小さな映画館でちょうど良い時間にやってるのを見つけた。ある意味この映画は『フロントライン』の反対の映画で、今の小学校のリアルを気味悪いぐらい伝えている。監督・脚本を務めた佐向大(さこう・だい)は以前に『教誨師』(2018、キネ旬ベストテン10位、大杉漣の遺作)を作った人。

 「教頭」と言うんだから、これは東京の映画ではない。(東京は全員「副校長」である。)舞台になるのは山梨県南部の富士川町で、「地方」だからノビノビした環境で小学生が生き生きと勉学に励んでいる、かと思うと最後まで見るとやはり全国どこも同じだった。ある小学校に勤める中山教頭渋川清彦)は校長試験を受けようとしているが、校長が推薦状を書いてくれない。登下校の児童がうるさいといつも苦情の電話を掛けてくる住民がいる。理科室の蛍光灯が切れて今日は用務員が休暇だから何とかしてくれとか、体育館の外部開放がダブル・ブッキングしているとか何でもかんでも「教頭」のところに持ち込まれる。

(中山教頭)

 5年1組には、いま大きな問題があった。担任の椎名先生高野志穂)が地域行事でちょっとトラブって、鷹森校長(石田えり)が担任を外す処置を取ったのである。校内に代われる教師がいなくて、新しく若い黒川先生を採用したらしい。この黒川の学級運営が厳格すぎて生徒も萎縮している。保護者からは早く椎名先生に戻して欲しいと何度も要望されるが、頑として認めない。その5年1組で「いじめ」「不登校」などのトラブルが発生して、校長が黒川を叱責すると今度は黒川先生が登校しなくなってしまった。そこで椎名先生を戻すかと思いきや、なぜか絶対認めない校長は中山教頭に臨時担任を命じたのである。

(教頭、椎名先生が児童の話を聞く)

 これはいかにもムチャである。ほとんど校長のパワハラ。そもそも冒頭の朝礼シーンで校長のあいさつを見た瞬間に、この校長には問題あるぞと僕は見抜いた。若い教師には「ルール絶対視」「ゼロ・トレランス」的な対応を取る人もいるかもしれない。しかし、臨時採用の若い教員(なんだと思うが)の学級運営には校長は気を配る必要があり、支援と指導を欠かしてはいけない。保護者から問題を指摘されたら、「授業観察」を行って適切な助言を行う必要がある。僕の見る限り黒川先生の授業は異常である。

(自転車で通う中山教頭)

 5年1組で男児の「ケンカ」があり、事情を聞いた子の父親が「我が子が疑われた」と乗り込んでくる。また別の児童の机からお菓子の包み紙が見つかる。その女児は母子家庭で今までも親が学校に非協力で大変だったが、その時は学校を出てそのまま不登校になった。中山教頭はますます多忙を極め、校長試験の勉強も出来ない。数年前に妻を亡くし、その時は事故の知らせを受けながら授業を優先してしまい、一人娘とは今もギクシャクしてしまう。その不登校女児はその後外部で問題を起こし、校長はある決断をする。周囲も驚くが、僕もこの処置は常識外れだと思った。校長のリーダーシップには問題がある。

 まあ何の問題もない良い学校は、ドキュメンタリー映画ならあるかもしれないが、劇映画である以上何らかの問題発生は予想通りである。題名からしても、映画内では教頭先生が大変な目にあうと予想できる。実はここに前校長、今は教育長(風間杜夫)が裏で暗躍していて、現校長をバカにして中山に早く校長になれ、俺がなんとかしてやるとけしかけている。そういう所は地方の教育事情かもしれない。中山の家庭事情をはさみながら、ついに椎名先生がこのクラスに潜む問題の根本を突きとめる。まさに子どもの世界は奥深く、なかなか大人からは見えないものである。それは教員の力量には無関係だと思うが、学校にも問題があった。

 映画というか、どうしても教員事情に関心が向いてしまう。僕は小学校教員の経験はないけれど、「組織としての学校はどうあるべきか」には共通性があると思う。あいさつを繰り返させるが、それは良いけれど自分もきちんと大声であいさつしなければ。児童・生徒にだけあいさつを求めるのは教師失格である。理科室で教頭が蛍光灯を取り替えているのに、授業を続けている黒川先生も不可解。若いんだから自分でやれよ。(ちなみに僕は見回り中に切れている蛍光灯があれば、自分で取り替えていた。)

 それにしても「良い子」には裏があることも多く、僕も手こずったことがある。20代、30代ぐらいだと、若いというだけで教師が子どもとすぐ仲良くなれる側面もあるが、子どもの世界を見抜くには経験不足のことがある。最初にこの映画は『フロントライン』と反対と書いた。新型コロナウイルスという未曾有の新事態に、今までと同様の対応では対処不可能な現実が生じ、それにいかに向かい合ったかが『フロントライン』という映画。一方、『中山教頭の人生テスト』はルールが確立されている学校という職場で、ルールだけでは対応出来ない事態が起こったときに「間違った」(法的には間違っていないが、実際は不可解)対応を取る。

 目の前の人間に真剣に向き合うことがまず何よりも大切だと改めて思った。しかしながら、映画の展開はやり過ぎで、全体的な完成度を犠牲にしている。「佳作」にとどまるかと思うので、多くの人に勧めるわけではない。ただ小学校に勤める人、小学生の子どもを持つ人、全般的に教育に関心を持つ人は見て損はないと思う。それにしても、全国どこも同じだなあと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『フロントライン』、学ぶこと多い「コロナ禍」実話の映画化

2025年06月26日 21時22分55秒 | 映画 (新作日本映画)

 2025年は最近にない日本映画の大豊作年になっている。完成度の高いオリジナル脚本の実写映画が多いのが素晴らしい。最近では『国宝』が大ヒットして、僕が書いた記事もずいぶん読まれているが、吉田修一の原作である。(文庫で2巻と長いけど、スラスラ読めるから是非読んで欲しい。)そんな中で、『フロントライン』(関根光才監督)も忘れちゃいけない。2020年2月に横浜港に接岸したクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号で起こっていた実話を丹念な取材で再現した映画だ。何だかもう思い出したくない気もする題材。自分でも見たくないような気もあったが、見逃さなくて良かったと思った。学ぶことが多い映画

 まあ大体の人はそれなりに覚えていると思うが、2019年暮れに中国・武漢で「謎の肺炎」が発生した。その後世界に広がっていくのだが、日本ではダイヤモンド・プリンセス号で船客の中に感染者が出たというニュースが初の事態だった。3千人もが乗る大クルーズ船で何が起こっていたのか。そして、患者の対応にあたるとともに、水際でウイルス流入を防ぐ役割を誰が担ったのか。当時は知っていたのかも知れないが、僕はもう初耳みたいなことが多く、初期対応に当たった「DMAT」の隊員の活躍に頭が下がった。「ディーマット」というのは、災害派遣医療チーム(Disaster Medical Assistance Team)のことである。

 神奈川県庁に集まった神奈川DMAT調整本部長の結城小栗旬)に厚労省官僚の立松松坂桃李)が出動をお願いする。「DMAT」の出動案件には災害や事故はあったが、感染症拡大は想定されていなかった。結城は当初難色を示すが、立松から「誰かにお願いするしかないんですよ」と言われて出動を決断する。「3・11」でも共に活動した仙道窪塚洋介)は船に乗り込んでリーダーシップを発揮する。また岐阜から参加の真田池松壮亮)は妻子を置いて参加したが、妻には絶対に自分のことを周囲に言うなという。この4人の男優の丁々発止が見どころで、近年にない「男のドラマ」。犯罪や政治じゃなくても、これほど濃密なドラマが作れる。

 次第に広がる感染者、長引くとともにコロナ以外でも疾患を持つ高齢者の不調が多くなっていく。船内の不満は高まるが、それらは今ではSNSで拡散されていく。マスコミは横浜港に集結し、船に出入りする人々の一挙手一投足を追いかける。そんな中で、あくまでも人命救助を最優先する結城と、ウイルスを国内に持ち込ませまいとする立松のせめぎ合いが激しくなる。この2人、つまり小栗旬と松坂桃李の演技合戦が凄い。人はなぜ医者になったか、なぜ官僚になったか、それぞれの生き方がぶつかり合い、やがて双方の理解も進んで行く。そこが最大の見どころで、福祉や教育など人と関わる職にある人は是非見るべきだ

(クルー役の森七菜)

 以上の人々には皆モデルがあり、取材を重ねて作られた。そのような「実話」を映画化したものだから、当然ながら日本社会の現実を反映して対策会議の出席者は男性ばかり。男性医師は子どもを妻に託してDMATに参加している。実話だから、どうしてもそうなってしまうのだが、そんな中で強い印象を残すのがクルーの羽鳥寛子森七菜)である。あるアメリカ人夫妻の対応にあたるが、これもモデルがあるという。是非映画で見て欲しいのでエピソードの内容は書かないが、一体どう決着するんだろうかとドキドキする。それだからこそラストの展開には感動するのである。雌伏数年、ついに「森七菜に助演女優賞を」と言える映画が現れた。

 この映画は「現場で医療に携わる人たちの努力」が印象的で、マスコミは批判的に描かれる。また政権内部の動き、医療界の動きなどは出て来ない。官僚は立松しか出て来ないので、全部彼がやっていたかのようだがそんなわけない。乗客やクルーも(当然だけど)印象的な数人しか出て来ない。当時は厚労省の対応など相当批判されたように思うけれど、前代未聞のパンデミックに際して準備不足の中、現場の努力で持ちこたえたという描き方である。僕はこの描き方がどこまで適切なものなのか判断出来ない。しかし、エンタメ映画として成立しつつ、実話の映画化をよくも成功させたものだと感心した。日本では珍しいと思う。

 企画・製作・脚本は増本淳で、元フジテレビのプロデューサーで今はフリーの脚本家だという。福島第一原発事故を扱ったNetflixの連続ドラマ『THE DAYS』(2023)を作っている。監督は『生きてるだけで、愛』の関根光才監督。実際のダイヤモンド・プリンセス号が撮影に使われたというネット記事もあったが詳細は知らない。明らかにセットじゃ出来ない映像が素晴らしい。

 たった5年前のことなのに、僕はずいぶん忘れていた。多くの人もそうだろう。世の中には「白」と「黒」の間のグレーの領域がかない多い。そういう現実にぶつかったとき、その人の本質が露わになる。医者じゃなくても、この映画を見ると「自分は何のために生きているのか」「何のために仕事をしているのか」と自問し、「初心忘るべからず」とつぶやくのではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『国宝』、原作(吉田修一)と映画(李相日監督)、どっちが面白い?

2025年06月12日 21時58分49秒 | 映画 (新作日本映画)

 映画『国宝』をさっそく見て来た。174分もある巨編だから、行ける時に行っておかないと機会を失うかもしれない。間違いなく今年を代表する一本だろうから、見過ごすわけにはいかない。吉田修一の長大な原作を李相日監督が見事に映像化していて、まあ評判だけのことはある。主人公立花喜久雄花井東一郎)役の吉沢亮が素晴らしく、特にラストの『鷺娘』(さぎむすめ)は見ごたえがある。対するに俊介花井半弥)の横浜流星の受けも見事で、二人のシーンは見ていて満足感がある。助演陣も素晴らしく、特に小野川万菊田中泯がやはり凄くて、師匠の妻役の寺島しのぶもさすが歌舞伎界出身ならではの存在感を発揮している。

 ということで確かにこの映画は満足出来る出来栄えだったと思うけれど、不満がないわけじゃない。それは原作にも言えることだが、「歌舞伎界」を描きながらその紹介を越えて「人間ドラマ」をどこまで深化させて描くかという問題。字で書かれた小説では想像するだけだった「歌舞伎の演技」を実写化することで、見た目の素晴らしさは確保出来る。原作と映画では演目に少し違いがあるが、それまあ映画化の宿命なので仕方ない。それにしても実際の歌舞伎シーンは美しく見映えがして、やはり映像はいいなと思う。しかし、『国宝』はシネマ歌舞伎じゃないんだから、歌舞伎シーンだけ素晴らしくてもダメである。

 吉田修一の小説は大体出身地の長崎が出てくるが、原作も映画も長崎に始まる。それが「任侠一家」の話なので、原作を読んだときはビックリした。歌舞伎の話かと思ってたらヤクザ小説だったのか? 原作ではもっと詳しく描かれて、そこに「謎」もある。父を殺された喜久雄少年は復讐を試みて失敗し(その中身は小説の方が面白い)、大阪歌舞伎の花井半二郎渡辺謙)のもとに預けられる。実は新年会の余興で、喜久雄は歌舞伎(『関の扉』)を踊っていて、その場に半二郎も呼ばれていた。1964年のことで、芸能界とヤクザ組織がまだズブズブだった時代の話。跡継ぎである喜久雄は若気の至りで早くも背中に入れ墨を入れていた。

(喜久雄と俊介『二人藤娘』)

 花井半二郎には息子俊介がいて、すでに花井半弥として舞台に立っていた。この時点では二人は子役がやっていて、喜久雄は黒川想矢(『怪物』)、俊介は越川敬達(『ぼくのお日さま』)。この二人も頑張っていて、ずいぶん長く出ている。いつ交代するのかと思う頃に、もう喜久雄も舞台に立っていて、時間がパッパッと進むのも映画の良いところ。最初は役にも恵まれないが、花井半二郎が事故にあって足に大ケガを負う。代役が必要になり、当然実子の半弥だろうと皆が思い込んでいたところ、半二郎は東一郎を代役に指名する。それが『曽根崎心中』のお初の役だった。この大逆転が以後の一大ドラマの起点となるのである。

 そこまでが前半で、時間的にもほぼ半分。ここまでは映画の方が面白いかもしれない。というのも原作は独特の語り口調で進んでいて、面白いけれどスピード感に欠ける。登場人物も多数いて、なかなか物語が進まないのである。それが映画では人物もエピソードもかなり整理されていて、主人公二人の葛藤に絞られ判りやすい。ところが原作のユルユルしたエピソード群は、後半で一挙に生きてきて面白くなる。一方映画では登場人物も絞ってしまったので、原作を先に読んでいるとちょっと残念なのである。

 後半に関しては、筋書きをあまり書いてしまっては面白みを削ぐだろう。ただし、俊介も喜久雄(その時点では半二郎を継いでいる)も「流謫」の日々がある。原作では舟橋聖一が歌舞伎化した『源氏物語』を二人が演じるシーンがあるが、その光源氏の須磨明石の章のように、歌舞伎界を離れた時期があるのだ。原作では俊介の「復活」はもっと劇的なエピソードがある。そして歌舞伎会社の竹野三浦貴大)の策謀により、喜久雄の出自(背中の入れ墨)や芸者に「隠し子」がいることなどが暴露される。その後、東京歌舞伎の吾妻千五郎中村鴈治郎)の娘彰子森七菜)と親の許さぬ結婚をして歌舞伎に出られなくなってしまう。

 原作ではその後「新派」に移ったり、彰子の活躍でパリで大評判になるなど面白いエピソードが満載なのである。そういうのをカットするのはやむを得ないだろうが、原作を知っていると残念。特に森七菜が全く出て来なくなるのもどうか。ラストに突然娘が現れるが、原作ではもっと面白い活躍をしているので、是非原作も読んで欲しい。そういうたくさんのエピソードがラストに向かって伏線を回収されていく。後半は物語的な意味では原作の方が面白いのではないか。映画は駆け足で筋をなぞる感じ。

 

 映画では喜久雄と俊介の演技をめぐる葛藤に絞られている。そこに関係ない話はほぼ出て来ない。これは奥寺佐渡子(『お引越し』や『学校の怪談』シリーズで知られる)の脚本の妙だろう。そこではっきりするのは「血筋か才能か」という問題である。それはほとんどの首相が「世襲」である国で、重大な問いなのである。また在日コリアンとして「日本の伝統」歌舞伎界を映画にしている監督自身にとっても切実な問いなんじゃないだろうか。結果的に『国宝』という題名になるわけだが、喜久雄は演技のために「悪魔」と取引する。すべてを歌舞伎に捧げて、自身も周囲の人物も決して幸福に出来なかったのかとも思う。

 李相日監督が吉田作品を映画化するのは『悪人』『怒り』に続く3回目。李監督は『フラガール』『悪人』で2度のベストワンを送り出した。原作は読みやすく面白いので、是非読んでみて欲しいと思う。ページ数は文庫で上下合わせて800頁を越えるが、そんなに長さは感じない。流れるように進む大エンタメだと思う。ただし、僕は小説も映画も『悪人』がベストだと思っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『金子差入店』ー「差入」をめぐる重層的な物語

2025年05月26日 21時57分16秒 | 映画 (新作日本映画)

 古川豪監督・脚本の『金子差入店』という映画が上映されている。見るかどうか迷っていたのだが、朝日新聞の映画評に「差入店」の存在を今まで知らなかったと出ていたので、そうだろうな、そういう人が多いだろうなと思って、見てみることにした。主役の丸山隆平が「差入店主」を熱演していて、その妻真木よう子もさすがにうまい。その他脇役陣が妙に豪華で、寺尾聰名取裕子に加え、根岸季衣岸谷五朗北村匠海らが熱演している。実生活では会いたくないような人物を怪演していて見ごたえがある。

 「金子差入店」 の金子真司丸山隆平)は実は訳あり人生で服役経験があった。今はおじ(寺尾聡)がやっていた差入店を継いでいるが、妻の美和子(真木よう子)は他でも働いているらしい。金子は「面会代行」もやっていて、面倒な被収容者と会う仕事が多い。そんな時周囲で事件が起き、金子たちも巻き込まれていく。また一切口を開かないまま毎日面会に来ては拒否されていた少女(川口真奈)とも関わりが出来る。母親(名取裕子)とは複雑な関係だし、ある事件の被疑者の母(根岸季衣)は無理難題を押しつけてくる。そんな苦難の日々をドラマティックに描くが、物語的には「都合の良い」(内容的には都合の悪い)展開が多い。

 「差入れ」(さしいれ)というのは一般用語で、合宿や研修会などに飲食物を持っていく時なども使っている。病院に入院した人に下着や必要品を持っていくのも「差入れ」と表現する。しかし、この映画で使われる「差入」は刑事施設に収容されている人に物品、現金などを入れることを指す。刑事施設にはおおよそ3種類あって、警察管轄の留置場(代用監獄)と法務省管轄の拘置所刑務所である。拘置所というのは主に刑が確定する前の裁判中(または裁判前)の人を勾留する場所である。(その他、死刑囚も拘置所に勾留されている。)刑務所は裁判で実刑が確定した人が懲役(または禁錮)刑に服する場所である。(少年事件は別。)

(金子差入店)

 刑務所は懲役刑を執行されている人がいる所なので、原則的に家族や身元引受人などしか面会が難しい。一方、拘置所には刑が確定する前の人、つまり「推定無罪」の扱いを受けるが「逃亡」「証拠隠滅」の恐れがあるとして身柄を拘束されている人がいる。原則的に誰でも面会、差入れ可能で、手紙なども自由に出せる。時々確定前の死刑囚と文通したり、有名な事件の被告人に現金が集まっているとかニュースになるが、ホントに誰でも出来るのである。この映画は逮捕・起訴され裁判前の被告人が出てくるので、「拘置所」の前にある店なのだろうと思う。(ただ地方では刑務所と拘置所が同居している施設もある。)

 この映画を見ると、つい差入店を通さないと差入れできないような気になるが、そんなことはなくて個人でも可能である。ただかなり制限が多いので(自殺防止の観点など)、差入店を通す方が便利なのである。また下着、お菓子や缶詰類などは自分で選ぶよりお任せの方が楽なのである。週刊誌や本なども選べるので、差入店を頼ることになる。スマホなどは持ち込めないので、家族との連絡は手紙しかない。だから、便せん、封筒、郵便切手の差入れも重要である。大体の家族は初めて逮捕、起訴されて、動揺しているから専門家が必要なのである。(もちろん覚醒剤などで何度も逮捕されて、家族も慣れてる場合もある。)

(面会する金子)

 この映画では金子が「面会代行」「手紙代読」などを特別料金でやっているが、そういうことが一般的かどうか、僕は知らない。被収容者は面会、差入を拒否することも多い(施設側が面会を認めないこともある)ので、代わりに差入屋が面会してくれれば楽だろう。でも僕はそういうケースは知らないので、なんとも言えない。金子は自分の体験から、特に入れ込んで特別サービスを充実させているんじゃないだろうか。この映画ではドラマは面会をめぐって起きるので、何だかそういう仕事みたいに思えるが、一般的には差入店は差入れだけをやっていると思う。(家族や弁護士じゃないのに、誰にでも面会希望を出すのは不自然な感じがした。)

(古川豪監督=右)

 僕は今まで刑務所に行ったことはないけれど(むろん、面会にということである)、東京拘置所にはかなり行ったことがある。売店もあるが、近くに差入店もあった。頼まれて差入れしたことが何度もある。現金や郵便切手などは手紙に同封することも可能なので、差入店を利用するのは菓子類が多かったと思う。(不自由な環境に長くいると、酒・タバコはもちろん無理なので、どうしても甘い物を求めるようになることが多い。)また週刊誌や本などもついでに入れることが多い。

 『金子差入店』は珍しい素材をよく映画化したと思うし、いろんな俳優を楽しむことも出来る。しかし、ドラマ的に「作りすぎ」なエピソードが多いので、次第に現実感が乏しくなる。また刑務官に関する設定には納得出来ない部分もあった。だが、こういう仕事があるということ、それは被収容者の「権利」でもあるが、同時に社会全体にとっても誰かが担当しなければならない仕事である。そのことを考えて欲しいという意味を込めて紹介しておきたい映画。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』、青春映画の傑作

2025年05月15日 20時11分14秒 | 映画 (新作日本映画)

 旅行に行く前に見た映画だが、書いてる余裕がなかった『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』。長すぎて名前が覚えられないが、『勝手に震えてろ』や『私をくいとめて』などで現代女性の青春を生き生きと描いた大九明子監督の新作で、とても心に刺さる青春映画の傑作である。今度の映画は萩原利久が主演する男性(男子大学生)映画になっているが、まあそれは僕にはどうでもよく、途中から出て来て突然消えてしまう女子大生、河合優実の相変わらずの絶好調ぶりを堪能出来る映画だ。大学が主要な舞台になっていて、関西大学が全面的に協力して主にキャンパスで撮影されている。今どきの学生気分を味わえる映画。

 何で関西大学かというと、この映画の原作は「キングオブコント2020年の優勝に輝き、熱狂的ファンも多いコント師ジャルジャルの福徳秀介が2020年に⼩説家デビューを果たした珠⽟の恋愛⼩説」だから。この福徳秀介(1983~)という人は2006年に関西大学文学部を卒業しているのである。関西大学と言っても関東の人間はよく知らないけど、そう言えば「関関同立」という言葉を聞いたことがある。どこにあるか調べると大阪府の吹田(すいた)市千里山キャンパスが中心で、そこに文学部があるとのことである。

 小西萩原利久)は関東出身で、祖母が亡くなりしばらくぶりに大学に戻ってきたばかり。周囲の人間関係になじめず、晴れてる日でも傘を差しているのが明らかに浮いていて奇異な感じ。大学の友人は山根(黒崎煌代)ぐらいしかいない。深夜に銭湯の清掃のアルバイトをしていて、風呂屋の親父(古田新太)や一緒に働いているさっちゃん伊東蒼)ぐらいしか話相手もいない。ところが学食で「一人ざる蕎麦」を食べている「お団子頭」の女子学生が気になるようになって、出席表を代わりに出してと依頼する時に「桜田花」(河合優実)という名前だと突きとめる。そして一人を恐れない桜田さんと何となく話せるようになっていく。

(萩原利久と河合優実)

 その後どうなるかは映画を見る楽しみを奪うので書かないけど、ラストに向けた「怒濤の展開」にはうなった。「変人どうし」の交際が順調に行くのかと思うと、もちろんそんなことはなかった。中程で伊東蒼の長い長い一人語りが出て来て、映画史に残るほど心に刺さる。この「サッチャン」は時々出町柳駅近くを歩いている姿がインサートされる。これは京都にある駅である。京阪電鉄の終点、叡山電鉄の始点で、詩仙堂に行くときに乗った記憶がある。調べてみると、近くに京都大学など幾つかの大学があるようだが、サッチャンは京大生なのか? 大学名は出て来ないが明らかに京都の大学に通学しているのだろう。今年の助演賞有力候補。

(伊東蒼)

 桜田さんがアルバイトしている喫茶店にいる犬(さくら)も頑張っている。見どころが多い映画だが、やっぱり河合優実だと思う。2024年の女優賞独占の活躍だったが、『ナミビアの砂漠』は設定が納得出来なくて書かなかった。今年も『悪い夏』のシングルマザー役で今までの殻を破る存在感だった。しかし、まだ学生役で通用するし、むしろ何か屈託のある不登校経験のある学生などが向いている。現実の関西大学でロケしているから、現代の青春の空気が伝わってくる。映画の展開を書けないのが残念だが、心打たれるものがあった。二人の若い女優を見るためだけでも見る意味があると思うけど、今まさに大学生ならどう見るんだろうか?

(犬のさくら)

 ただし、この題名は僕には納得出来なかった。「今日の空が一番好き」というのは、要するに晴れの日も雨の日もあるがその日の空が一番。つまり、健やかな日も病める日も、明るくその日を一番と思って生きるのが良いという人生に対する比喩だろう。でも人生は幼年から老年に向かって不可逆に進行するので、過ぎた日を思って感傷的になっても仕方ないと僕も思う。でも天候は必ず移り変わっていくものなので、大雨大風の台風の日の空よりも台風一過の晴れ渡った空の方が、やっぱり僕は好きだ。そして映画内で出てくる「恥ずかしくて好きと言えない時」の言い方もおかしい。好きな人には好きとはっきり言わなくちゃと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『片思い世界』、心の奥深く響く感動的な名作

2025年04月12日 20時31分43秒 | 映画 (新作日本映画)

 映画『片思い世界』は素晴らしい出来映えの感動作だ。今年の日本映画は年明けから傑作が多いけど、この映画が一番心に響く力を持っていると思う。あまり映画を見ない人がゴールデンウィークに一本見るならこれ!という映画だ。(その頃まで上映してるだろう。)映画の情報はいろいろと得られるが、この映画に関してはできるだけ事前情報なしで見た方が良いと思う。この映画の脚本には「ある特別な設定」があるけれど、ここでは映画内容には深入りせずに、周辺情報を中心に書いておきたい。

 『片思い世界』は坂元裕二の脚本、土井裕泰(のぶひろ)監督で『花束みたいな恋をした』のコンビ。坂元裕二は『怪物』でカンヌ映画祭脚本賞を受賞し、今年は『ファースト・キス』も手掛けた。まさに絶好調で、見事な世界観で深く心に届く設定を創造した。それは特に難解なものではなく、見ていれば「ああそうだったのか」と気付くだろう。広瀬すず(相楽美咲)杉咲花(片石優花)清原果耶(阿澄さくら)の3人が東京のどこかで暮らしている。仕事や大学に通っているが、彼女たちはどこか「普通」じゃない。それでもお互いに助け合って生きてきたのである。日本映画史上屈指の「シスターフッド映画」じゃないかと思う。

(主演の3人)

 時々過去の時間がインサートされ、そこでは子どもたちが合唱団にいる。この「児童合唱団」が映画世界の中心にあって、「何かが起こった」ことが次第に伝わってくる。3人はそれぞれ気になる人がいて、ある日美咲(広瀬すず)はバス内で高杉典真横浜流星)を見つける。昔合唱団の伴奏をしていて、天才的なピアニストになると思われながら、その後ピアノから離れてしまった。他の二人も気になる人がいて、それがどのように展開するかが映画の鍵になっていくのである。

(横浜流星)

 この映画の魅力は「合唱の力」である。予告編で流れているオリジナル合唱曲は「声は風」(作詞 = 明井千暁、作曲=大薮良多、山王堂ゆり亜、編曲=小林真人)という曲。是非今後も歌いつがれて欲しい名曲で、これは聞いて欲しいと思う。もう一曲子どもたちが歌っているのを3人が聞く曲がある。どこかで聞いた気がするけど、何という曲なんだろう? 調べてみると「夢の世界を」(作詞=芙龍明子、作曲=橋本祥路)という曲で、よく合唱コンクールで歌われる橋本祥路の代表作だという。橋本氏は教育芸術社の専属作曲家で、「翼をください」や「あの素晴らしい愛をもう一度」を合唱曲に編曲して中学校で歌えるようにした人だという。

(主演3人と土井監督)

 ラストは合唱コンクールになるけど、これは反則技だろうと思う涙無くして見れない名場面。もうこの時点では映画の設定が全部判明しているから、ただただ涙と感動のラストになる。歌を持ってこられたら泣くよ。「子どもと歌」の合わせ技なんだから。この映画に欠陥があるとしたら、余りにも良く出来すぎていて、映画内で感動が完結しちゃうことかもしれない。アートは作品世界に同化させるものより、何か違和感を残して終わる(例えば吉田大八監督『』)方が後々まで心に残る場合がある。

 広瀬すずは今年はすでに『ゆきてかへらぬ』の長谷川泰子役があり、さらに今後『遠い山なみの光』(カズオ・イシグロ原作、石川慶監督)、直木賞受賞作の映画化『宝島』(真藤順丈原作、大友啓史監督)が控えている。順当ならまず主演女優賞当確だろう。多くのテレビドラマ、映画を作って来た土井監督にとっても代表作になるんじゃないかと思う。映画内に灯台が出て来るが、これは犬吠埼灯台。他にもロケされているが東京近辺で撮影されたらしい。ラストの合唱会場は埼玉県入間市の武蔵野音大だという。見終わった瞬間からもう一度見たいと思わせる映画で、僕は「夢の世界を」や「声は風」を何度も聞いている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感動的な『35年目のラブレター』、夜間中学の大切さを伝える映画

2025年03月26日 21時55分00秒 | 映画 (新作日本映画)

 塚本連平監督『35年目のラブレター』を見て来た。ずいぶん宣伝してたから、内容は大体知っていた。見る前から予想出来るとおり、素直な作りで素直に感動を呼ぶ。なかなかキャストが頑張っているけれど、それだけだったら書かないかもしれない。しかし、書いておきたいメッセージが詰まった映画なのである。それは主人公が通うことになる「夜間中学」の大切さである。いま全国で夜間中学の設置・充実を求める動きがあり、多くの人がこの映画を通して夜間中学の大切さを知って欲しいなと思う。

 この映画には原作があり、それは小倉孝保の同名のノンフィクションである(講談社文庫)。実在の主人公、西畑保を取材した作品だが、作者がこの話を知ったのは笑福亭鉄瓶の「ノンフィクション落語」からだという。その落語は鉄瓶の師匠、笑福亭鶴瓶がテレビ番組で紹介した話が基になっていた。そういうつながりがあって、映画でも主人公西畑保を笑福亭鶴瓶が演じている。その優しい妻を原田知世が演じていて、ほぼ同世代の設定ながら実際は鶴瓶=1951生、原田=1967生なんだから、見る前には不釣り合いなんじゃないかと心配になった人も多いはず。しかし案に相違してなかなか似合っていたので、不思議!

(鶴瓶、原田夫妻)

 映画にもいろんな作風があり、あえて時間をバラバラにして難解にしているようなのもある。この映画はそういう作家映画ではなく、エンタメ映画の文法で作られている。しかし、主人公夫妻の歴史を説明する必要から、現在と過去を何度も行き来する。その程度なら現代人は基本的に混乱することなく、ああ主人公夫妻の過去なんだと納得出来るはずである。主人公西畑保は苦しい子ども時代を送り、小学校2年から学校に通えなかった。そのため文字を読めず、日々苦労が絶えない。そんな保は苦労して寿司職人として定職を得られた。そして働きぶりを見込まれて見合い話が持ち込まれ、断れなくなる。

(若き日の夫妻役)

 若き日の保を重岡大毅、妻を上白石萌音が演じて、とても良い。妻は「きょうこ」と何度も呼ばれているが、字が最後まで出て来ない。実は「皎子」という、ちょっと想像付かない(見たこともないし、変換に出て来ない)字だった。実在人物だからやむを得ないんだろう。どうして字が読めない保に結婚相手が見つかったのか。そして字が読めないことはどのように判明し、それを妻はどう受けとめたんだろう。それが映画の大きな見どころで、上白石萌音持ち味の温かな「受け」の演技が生きている。そして、保は二人の娘を育てあげ、寿司職人としても定年を迎えるまで勤め上げたのである。そして、人生の忘れ物に気付く。

(実在の西畑保夫妻)

 それが「文字を読めるようになりたい」ということで、近くに「夜間中学」というものがあると知ったのである。最初は臆するが、教師の谷山恵安田顕)に説明されて、通うようになったのである。(教師は自己紹介で「人生、谷あり山あり恵あり」と言っている。)そして入学した日の自己紹介で「クリスマスに妻にラブレターを書く」と宣言する。「目標」を作ったのだが、なかなか上達しない。勉強にも「方法」と「時間」が必要なのだ。何年も通ううちに、同級生は昔中学に行けなかった高齢者より、不登校や外国人が増えてくるのも世の中の変化を感じさせる。果たして保が妻にラブレターを書ける日は来るんだろうか?

(夜間中学、左=安田顕)

 西畑夫妻は奈良県に住んでいて、映画ではふんだんに奈良ロケが出てくる。奈良公園の鹿、猿沢池から望む奈良ホテルや五重塔、若草山などなど。奈良風景が観光としてちょっと出てくる映画は多いけど(例えば山田洋次監督が夜間中学を描いた『学校』、あるいは『男はつらいよ』第1作など)、こんなに奈良の風景を描いた映画も珍しいと思う。古くは田中絹代監督『月は上りぬ』、清水宏監督『大仏さまと子供たち』、近年では河瀬直美監督『沙羅双樹』などが思い浮かぶがそのぐらい。じゃあ、肝心の小高い中学はどこにあるのかと調べると、なんと東京都日野市大坂上中学というところでロケされたと日野市のサイトで宣伝していた。

(舞台挨拶、右端=塚本連平監督、その次=主題歌の秦基博)

 多くの人に見て欲しい映画だが、まあ「感涙の佳作」かな。作りが素直過ぎちゃうのである。そのため最後になってくると、少し突っ込んでみたくなる。中心になる人物に善人しか出て来ない。家族の生活を支える誇れる仕事、思いやり深い配偶者、しっかり育った子どもたち…って、こんな三拍子そろった人生は、現代の若者からすればうらやましくないか。もちろん苛酷な子ども時代、文字の読めない人生は辛いに決まってるんだけど…って思ったりするのである。なお夜間中学を描いた映画としては、前記『学校』の他、森康行監督の記録映画『こんばんは』(キネマ旬報文化映画ベストワン)がある。どちらも授業で使うと非常に受けがよく、皆で考えるのに向いた教材として価値がある。『35年目のラブレター』も学校での鑑賞を推奨。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お見事!『ファーストキス』、ラブコメファンタジーの傑作

2025年03月12日 20時32分41秒 | 映画 (新作日本映画)

 2月7日公開の映画『ファーストキス 1ST KISS』はひと月経っても大ヒット中。ヒット映画はそのうち見れば良いと思って見逃すことがある。見てもガッカリだと書かないこともあるけど、『ウィキッド』の前にこっちを見ようかと思って大正解。坂元裕二はさすがカンヌ映画祭受賞脚本家である。松村北斗も『夜明けのすべて』でキネマ旬報主演男優賞を取ったのは間違いではなかった。そして塚原あゆ子監督も日本アカデミー賞優秀監督賞受賞にふさわしい見事な演出。それにしても塚原あゆ子監督は昨年来『ラストマイル』『グランメゾン★パリ』『ファーストキス』と三連続大ヒットはエンタメ映画界、女性監督史上の快挙だ。

 映画の紹介をコピーすると、こんな話。「結婚して十五年目、事故で夫が死んだ。夫とは長く倦怠期で、不仲なままだった。残された妻は第二の人生を歩もうとしていた矢先、タイムトラベルする術を手に入れる。戻った過去には、彼女と出会う直前の夫の姿があった。出会った頃の若き日の夫を見て、彼女は思う。わたしはやっぱりこの人のことが好きだった。夫に再会した彼女はもう一度彼と恋に落ちる。そして思う。十五年後事故死してしまう彼を救わなくては――。」

(塚原あゆ子監督)

 もう少しだけ書いておくと、夫は硯駈(すずり・かける=松村北斗)で、妻は硯(旧姓高畠)カンナ(松たか子)。二人はもううまく行ってなく、寝室も別なら朝食まで別(夫はご飯、妻はパンを別の机で食べている)。ついに離婚届にサインして今日提出すると言って夫は仕事に出かけた。そして駅のホームからベビーカーが落ちたとき、助けようと線路に飛び降りて自分だけ轢かれて死んだ。彼の死は日本中に感動を与え、全国から手紙が殺到した。2024年6月のことである。

(脚本の坂元裕二)

 カンナはある日、仕事場に向かう途中で首都高で事故を避けようとして、違う車線に入り込む。そこを通っていくと異界に通じて、2009年に夫と知り合った日に戻ってしまった。首都高と言っても三宅坂トンネルで、トンネル(みたいなところ)を抜けると違う世界というのはよくある設定だ。だけど、タイムトラベルなんてあり得ないわけで、この設定面白そうですか? 何だかありふれたファンタジーっぽくて、期待薄に思うかもしれない。というか、僕も見る前はそう思っていたんだけど、この脚本は素晴らしく面白い。そして松たか子と松村北斗のコンビは、他の誰でも不可能なような奇跡を実現している。

(ロープウェーに乗る)

 カンナは若い夫に再び恋して、何とか「死なない未来」に改変出来ないか過去と現在を何度も行き来する。そこは学会を控えたリゾートホテルで、風景も素晴らしい。そして評判のかき氷を食べに行ったり、ロープウェーに乗りに行ったりする。(北八ヶ岳ロープウェーだという。)駈は古生物研究者で、教授(リリー・フランキー)の助手で来ている。教授の娘(吉岡里帆)も来ていて、駈に気がありそうだ。どうすればよいのか? ついに自分じゃなくて教授の娘と結婚させれば良いのかとまで思うが。この何度も何度も過去に戻って、現実改変の反復を試みるところが、コミカルで面白い。近年出色のラブコメの傑作。

(道を散歩する=諏訪市)

 夏の避暑地で繰り広げられる至極のラブストーリー。一面から見るとそういう映画だけど、ベースは「タイムトラベル」ものだから、ジャンル映画のルールは変えられない。「あの日に帰りたい」というのは、多くの人々の思いである。皆が皆、「若い日のあの頃」に戻りたいと思ったことがあるはず。子どもを亡くしたとか、悔いを残す人はなおさら。2011年3月10日とか、1945年8月5日とかに戻れたら多くの命を救えるかも…。そういう願望に基づく多くの小説、映画などが作られてきた。しかし、どんな「物語」でも何らかの障害が起こって「現実は変えられない」という結末に至ることになっているのである。

 だけど、この映画が感動的なのは、駈は死んだけど「自分は生きている」からである。現実世界はいくつもの違った世界が層になっていてミルフィーユみたいになっている。登場人物がそういうセリフを言っている。それが事実かどうか別にして、自分が変わることによって、これからの世界は変えていける。泣いて笑って、最後にそういうメッセージを貰える。エンタメ映画のお手本じゃないか。何と言っても脚本の世界観が素晴らしく、主演の二人も最高。松たか子の「美魔女」ぶりは見事。それに加えて、撮影の四宮秀俊も特記しておきたい。『ドライブ・マイ・カー』『』の撮影を担当した人である。

 (フルーツパーク富士屋ホテル)

 この映画の主要な舞台となったホテルはどこだろうか? 日光じゃないようだから、北軽井沢あたりかなと思ったら、富士山が見えたので違った。クレジットを見て山梨県の「フルーツパーク富士屋ホテル」だと判った。ロケ地を調べたサイトがあって、その他知りたい人は調べれば出てくる。「出会い」と「結婚」に関する金言名句も散りばめられていて、カップルで見てた人は泣いてる感じ。この映画はきっと他国でリメイクされるんじゃないだろうか。韓国やタイ、そしてハリウッド版を見てみたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする