尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『あんのこと』、この凄まじい現実を変えられるのか?

2024年06月16日 20時32分55秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画は見ていて楽しくなるものばかりではない。むしろ厳しい現実に見る方がひるんでしまうような映画も必要だ。最近では吉田恵輔監督の『ミッシング』が代表。吉田監督は2021年の『空白』で娘が事故で死んだ父親を描いた。それに対し、今度の映画は娘が行方不明になった母親を描く。この石原さとみが凄まじく、一見の価値がある。ただ途中から報道のあり方などに焦点が移っていき、肝心の行方不明(事故または事件)は解決を見ないまま終わる。沼津のロケが効果を上げていたが、この映画はここまで。

 ここでは主に入江悠監督の『あんのこと』を取り上げたい。河井優美主演で、内容のすごさもあって評判になっている。普通は「この映画はフィクションです」と出るのに、この映画は「実際に起きた事件に基づく」と最初に出るのである。新聞記事にインスパイアされて脚本が書かれたという。たった数年前のことなのに、忘れかけている「コロナ禍」の人々に与えた影響を伝える映画としても貴重。それにしても凄まじい現実に言葉を失う映画だ。

 紹介をコピーすると、「21歳の香川杏河合優実)は、ホステスの母(河井青葉)、足の不自由な祖母と、東京・赤羽の団地で暮らしている。杏は幼い頃から酔った母親に暴力を振るわれ、小学4年生時より不登校となり、十代半ばから売春を強いられるなど過酷な人生を送ってきた。」それが変わっていくきっかけは、「ある日、覚醒剤使用容疑で取り調べを受けた杏は、多々羅佐藤二朗)という妙な人懐こさを感じさせる刑事と出会う。多々羅は杏に薬物更生者の自助グループを紹介し、なんの見返りも求めず就職を支援する。大人を信用したことのない杏だったが、ありのままを受け入れてくれる多々羅に、次第に心を開いていく。」
(刑事役佐藤二朗と)
 警官としては異色すぎる「多々羅」には様々な知り合いがいるようだ。施設ではヨガを指導したりしている。そこに週刊誌記者の桐野稲垣吾郎)も訪れ、杏は大人に導かれて新しい自分を見つけられた。高齢者施設で働けるようになり、なじみの利用者もできる。小学校から行ってないというから、僕は夜間中学へ行ったらと思ったらやはり夜間中学を訪ねている。そこには外国人も多いが、一緒に数学を勉強している。杏は周りの助けを得て、立ち直れるのか。そこへ「週刊誌記者の桐野稲垣吾郎)は、「多々羅が薬物更生者の自助グループを私物化し、参加者の女性に関係を強いている」というリークを得て、慎重に取材を進めていた-。」
(佐藤二朗、河井優美、稲垣吾郎)
 こうして、「大人の世界」が揺らいでいくときに、世界で新型コロナウイルスのパンデミックが始まった。夜間中学も突然休校し、高齢者施設では非正規職員は自宅待機となった。今まで居場所だった飲食店も入れない。DV向けの避難施設にいた杏は、そこに閉じこもっていたら突然ノックされる。隣室の女性が子どもを押しつけて、どこかに消えてしまった。杏はなんとか子どもと遊び、食べるものを作る。しかし、今までそうだったように、いつも大事なときに母親が現れてすべてを壊すのである。河井青葉が演じる母親の壊れっぷりはものすごい。大体父親はどうなっているんだか。散らかりきった部屋もひどい。
(高齢者施設で働く)
 こうしてすべてを失った(と思った)杏には、生きていく力がもう残っていない。悲劇までを一直線に描く作品だが、完成度的には問題もあると思う。「現実」に規定され、想像力で羽ばたく展開じゃない。「虐待」と「コロナ禍」でどうしようもない現実を描くため、どうしてもこの凄まじい現実を変えられたとしたら何だったのかを考えてしまう。「行政」や「学校」は子どもを抱えた母親と接触する機会が多いが、家庭内部に介入するのが難しい。「強制力」を持った警察が登場するまで、杏を動かすことが出来なかった。しかし、その「強制力」は良いばかりではない。裏に暗い部分を秘めている。映画はそのことを示している。
(入江悠監督)
 入江悠(1979~)は2009年の『SR サイタマノラッパー』が注目され、『SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』(2010)、『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』(2011)、『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』(2012)と作ってきた。これらは大手作品ではないが、後で見たら非常に面白かった。その後、大手で『ジョーカー・ゲーム』(2015)、『22年目の告白 -私が殺人犯です-』(2017)、『ビジランテ』(2017)、『AI崩壊』(2020)など、何でもこなす器用さが持ち味。しかし、ここまで「社会派」的な作品は今までにはない。今回は自ら脚本も書き、力強い作品になっている。なかなか見るのが辛い映画だが、日本の現実を考える時に見ておくべき映画だ。
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映画『トノバン 音楽家加藤和彦とその時代』、♪あの素晴らしい愛をもう一度

2024年06月12日 22時36分31秒 | 映画 (新作日本映画)
 (6月11日の)夜に落語に行く前に映画を2本見たのだが、これは今では「暴挙」だったかも。でもどちらも内容に満足できたから後悔はしてない。最初が『トノバン 音楽家加藤和彦とその時代』という映画。やってるのを知らない人もいるかも知れないけど、これぞ「待ってました」と声を掛けたいような映画だ。中に出て来る高橋幸宏坂本龍一はすでに亡くなっている。作るにはギリギリの時期だったのである。と言っても加藤和彦って誰だという人もいるだろう。

 2009年10月17日、加藤和彦が軽井沢のホテルで自ら命を絶ったというニュースの衝撃は今も忘れてない。62歳だった。僕はちょっと前の8月28日に(今は無き)新宿厚生年金ホールで開かれた「イムジン河コンサート」で加藤和彦を見たばかりだったのである。変幻自在に音楽活動を行った加藤和彦に一体何があったのだろうか? 

 しかし、この映画はそれを追求する映画ではない。デビューから80年代までの音楽活動を証言やアーカイブ映像で振り返る映画である。外国にはこのような音楽ドキュメンタリー映画が多いのに、日本には何故ないのかと常々思っていた。日本では社会問題や「障害者」に長年密着取材したような記録映画が多い。それも大切だけど、こういう音楽映画ももっと見たい。相原裕美監督。題名の「トノバン」は加藤和彦の愛称で、イギリスの歌手ドノヴァンから来たという。
(加藤和彦)
 加藤和彦(1947~2009)の名前を知ったのはいつだか覚えてない。でもフォーク・クルセダーズの『帰ってきたヨッパライ』(1967)はよく覚えている。小学生だったけど、この奇想のコミックソングはレコード化されてよく売れた。日本初のミリオンセラー、つまり100万枚以上売れたという。ラジオでもいっぱい掛かった。小学生でも誰もが知ってたし、真似していた。

 その「フォークル」が、加藤和彦北山修(1946~)、はしだのりひこ(端田宣彦、1945~2017)の3人だと名前を覚えたのはいつなのか、今では思い出せないことである。一年限定でプロ活動をしたフォークルの、2枚目のシングルレコードが発売中止になった『イムジン河』、3枚目が『悲しくてやりきれない』、4枚目が『青年は荒野をめざす』。そして1968年10月17日にフォークル解散コンサートが行われた。(今気付いたけど、41年後の同じ日に加藤和彦の遺体が発見された。)
(フォーク・クルセダーズ)
 その後、多くの歌手に楽曲を提供しながら、自らも歌い続けた。その中で最大のヒットが1971年に北山修と歌った『あの素晴らしい愛をもう一度』だ。僕が中学教員になった80年代半ばには、生徒たちはこの歌を合唱コンクール用の歌と思っていた。普通に大ヒットした曲だったんだけど。そして1971年11月にサディスティック・ミカ・バンドを結成した。このバンドはイギリスで評価され、大きな反響を呼んだ。しかし、今までのようなシングルレコードのヒット曲と違って、内容的にも複雑で僕も今までよく知らなかった。バンド名の「ミカ」は加藤の妻だが、どういう人かよく知らない。存命だが映画には出て来ない。それなりの複雑な経過があることが示されるが、このミカ・バンドの時代の映像は凄く楽しいし、今見ても興味深い。
(サディスティック・ミカ・バンド)
 1975年にミカと破綻した後で、8歳年上の安井かずみ(1939~1994)と結婚した。70年代を代表する伝説的な作詞家である。小柳ルミ子の「わたしの城下町」や沢田研二の「危険なふたり」などの他、僕にとってはアグネス・チャンの「草原の輝き」や天地真理の「ちいさな恋」を作詞した人。竹内まりやの「不思議なピーチパイ」は二人が作詞、作曲している。二人による『ヨーロッパ三部作』は今映画で聞いても驚くほど魅力的だ。二人は時代を象徴するファッショナブルなカップルとして有名にもなった。加藤は美食家で自ら料理も作った。それらの様子は生き生きとして楽しい。

 だが安井かずみはガンに冒され、1994年に55歳で早世したのである。Wikipediaを見ると、1995年にはオペラ歌手の中丸三千繪と結婚した。そのことは覚えていなかったが、2000年に離婚している。中丸は存命だが映画には出て来ない。加藤はその後も様々な分野で活動していた。フォークルやサディスティック・ミカ・バンド(ミカじゃなく木村カエラだけど)を期間限定で再結成したり、スーパー歌舞伎も『ヤマトタケル』など何作も手掛けた。映画音楽でも『探偵物語』など何本も担当し、中でも井筒和幸『パッチギ!』(2005)は評判になった。この映画で「イムジン河」に再び脚光が当たったのである。2009年に開かれたコンサートでは、「イムジン河」はアジアの「イマジン」と言っていた。
(証言する北山修)
 多くの人が映画内で証言を寄せているが、中でも北山修は何度も出て来る。北山修は当初からのフォークルメンバーである。精神科医になるため学業に専念するのが、フォークル解散の理由でもあった。そして実際に日本を代表する精神科医となり、特にカウンセリング論の大家である。「あの素晴らしい愛をもう一度」の他、「」「戦争を知らない子供たち」「白い色は恋人の色」などの忘れられない歌詞も書いた。エッセイ『戦争を知らない子供たち』は時代を象徴するベストセラーになった。

 その後もつかず離れず、時には音楽活動を共にしてきた友人が「自死」したのである。精神科医としても、友人としても、痛恨という言葉では語りきれないだろう。幾つか追悼文を書いているが、加藤和彦を語る時に北山修を抜かすことはできない。だから何度も出て来るわけだが、それでも語り切れた感じはしない。人間の生と死は、そうそう簡単にまとめきれるものではない。僕も書いているうちに、何だか「悲しくて悲しくて とてもやりきれない」、「広い荒野にぽつんといるようで 涙が知らずにあふれてくるのさ」と口ずさんで悲しくなってきた。

 ところでこの前書いた代島治彦監督の『ゲバルトの杜』、その前作『きみが死んだあとに』が扱う60年代後半から70年代初頭は、ちょうど加藤和彦のフォークル、サディスティック・ミカ・バンド時代と重なっている。どっちがA面で、どっちがB面かはともかく、その両面を合わせ見ないとあの時代を理解出来ない。新左翼運動が高揚した同じ時に、「帰って来たヨッパライ」が大ヒットしたというのは、日本の大衆文化の健全さを示すものじゃないだろうか。(なお、大島渚監督の怪作映画『帰ってきたヨッパライ』にフォークルの若き三人の姿が留められている。)
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映画『ゲバルトの杜』、「内ゲバ」をいま振り返る意味

2024年06月10日 21時43分06秒 | 映画 (新作日本映画)
 代島治彦(だいしま・はるひこ)監督のドキュメンタリー映画『ゲバルトの杜~彼は早稲田で死んだ~』を見た。代島監督は『きみが死んだあとで』で60年代末の新左翼運動を取り上げた。その次に作ったのがこの作品で、題名を見れば判る人も多いと思うが、樋田毅彼は早稲田で死んだ』が扱った1972年の「川口君リンチ殺人事件」の映画である。これは「革マル派」の拠点校だった早稲田大学で、中核派活動家と疑われた学生・川口大三郎が学内でリンチされ死亡した事件である。事件経過や党派の説明は先の記事に譲り、映画を見て考えたことに絞りたい。

 ドキュメンタリー映画というと、対象人物(あるいは地域等)に長く密着取材して作られた映画が多い。今年の映画では『かづゑ的』(熊谷博子監督)や『戦雲(いくさふむ)』(三上智恵監督)などが典型。しかし、代島監督の前作が扱った「山崎博昭君事件」もそうだが、もう半世紀以上も前の出来事である。探せば当時の映像もかなりあり、証言可能な関係者も多いのだが、昔の事件という根本的な問題がある。特に今回のテーマ「内ゲバ」(新左翼党派間の暴力)は、それを知らない世代にはなかなか通じないのではないか。そこで今回の映画では早稲田大学出身の鴻上尚史が演出した「再現ドラマ」が冒頭で出てくる。
(再現ドラマ)
 NHKの番組「チコチャンに叱られる」の「多分こうだったんじゃないか劇場」みたいなものである。いや、もちろん内容が内容だけにもっと大真面目に作られている。それは見ていて辛いものではあるが、若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2008)という超弩級の映画ほどではない。その映画は上映中に出て行ってしまう客が異様に多かったが、今回はそんな人はいなかった。(実際当時を生きていた自分にとっても、連合赤軍によるリンチ殺人事件の衝撃の方が大きかった。)

 当時の事件関係者は逮捕・起訴され有罪になっているし、監禁・リンチの実態もおおよそ判っているんだろう。そう思いつつも、この再現ドラマという手法には幾分かの違和感を覚えた。現在の若者に当時の状況を説明するために、池上彰氏が招かれて講義している。またオーディションの様子や「メイキング映像」も出て来て、盛りだくさんの134分である。(前作は200分とさらに長いが。)だが若い役者たちが何を感じたのか、この映画に出て何か変容があったのかは語られない。若者からの「当時と比べて何が変わったか」という質問に、池上氏は「教室の椅子や机が固定された」と答えている。しかし、本当にそれしか言わなかったのだろうか。『日本左翼史』シリーズではもっと触れていたと思う。深く考えるための「題材」を外した感もするのである。

 僕はこの映画は長すぎると思ったけど、多くの若い世代に見て欲しいとは思う。テーマからして、そんなに大ヒットする映画じゃないだろうが、樋田氏の本を読む人よりは、映画を見る人の方が多いだろう。それでは今「内ゲバ」を振り返る意味は何だろうか。僕は2つあると思っている。一つは「非暴力抵抗は可能か」という問題である。例えばウクライナに対して、ロシアとの全面戦争は犠牲が多くなりすぎるから、武装抵抗はするべきではないと主張する人もいる。そこから類推すると、もし中国が台湾に侵攻した場合も、台湾民衆は「非暴力抵抗」に徹するべきだと言う人も出て来ると思われる。それをどう考えたら良いのか?

 当時の早稲田大学では革マル派の暴力支配への反発が強まり、新しい自治会が結成された。しかし、大学は新自治会を公認せず、やがて革マル派は暴力的対抗策を取ってくる。他大学の革マル派勢力も動員して、新自治会派学生を狙い撃ちしたのである。それに対し、新自治会に結集した学生たちの中にも「武装」は避けられないと判断する人が多くなっていった。そして、他大学も巻き込む内ゲバの本格化の中で、非暴力抵抗は挫折するに至る。単に半世紀前の一大学のキャンパスで起きたことだが、現実の国際環境の中で本当に戦争が始まった場合も、「非暴力など夢のまた夢」となって軍拡競争になってしまうのだろうか。
(当時の運動)
 もう一つは「組織の恐ろしさ」である。こんな政治運動(左右を問わず)に参加しなければ、暴力事件を起こすことはない。そう思う人もいるだろうし、現実に多くの若者が政治から遠ざかってしまった。しかし、それでは済まなかった。企業の中にも、学校の中にも、「暴力の芽」はあった。思い込みによって組織が暴走するとき、「個人の良心」で抵抗できる人は少ない。「暴力」を単に政治党派間に問題に留めるのではなく、また「肉体的暴力」に限定するのではなく、人間が生きる時にどこでもぶつかる問題ととらえる必要がある。そう考えた時、この映画で本当に再現ドラマにすべきだったのは「教授会」の方ではないか。

 それは題材的に難しいのかもしれないが。それでも大学構内で起きた刑事事件なんだから、大学当局に責任がある。先に見た『正義の行方』(飯塚事件を扱った映画で、今もユーロスペースで上映中)に、一番肝心な裁判官や法務大臣(死刑執行を命じた)の証言が出て来ないように、この映画でも当時の革マル派関係者や大学関係者は出て来ない。まあ学生は二十歳前後だから存命だが、教授には存命の人がいないかもしれない。それにしても、当時は刑事裁判にはなったが、民事裁判にはならなかった。今ならほぼ確実に、遺族が大学当局の責任を問う裁判を超したのではないだろうか。あるいは革マル派に「組織責任」を問うこともあったかもしれない。多くの人もまだ「被害者支援」の大切さを実感していなかった時代だった。
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映画『碁盤斬り』、格調高い運命ドラマ、草彅剛が名演

2024年06月01日 21時58分54秒 | 映画 (新作日本映画)
 『凶悪』『孤狼の血』などで知られる白石和彌監督の新作『碁盤斬り』は、最近の日本映画の中でも出色の出来だった。古典落語「柳田格之進」を基に話を発展させた白石監督初の時代劇。2時間を越えるが、常に緊張感が漂う画面が素晴らしい。草彅剛が演じる主人公柳田格之進に対し、敵役柴田兵庫斎藤工)が登場すると、人間を見つめるテーマ性がくっきりと浮かび上がってくる。このラスト近くの展開は落語にない部分らしい。脚本の加藤正人は自ら小説化(文春文庫)もしていて、貢献が大きい。

 柳田格之進はかつて彦根藩に仕えていたが、身に覚えのない罪を着せられ藩を追われた。妻も失い、今は江戸の裏長屋に娘お絹清原果耶)と暮らしている。その事情は後半になって明らかになるが、とにかく「冤罪被害者」でありながら卑屈にならず清廉潔白に生きている。碁が得意だが、碁を打つ時も真っ直ぐに碁を打つことを心がけ、賭け碁などはしない。草彅剛はこの主人公をまさに彷彿とさせる名演で、最初に見た時はその見事な生き方に敬愛の念を抱くだろう。同じように彼を敬愛したのが、質屋を営む萬屋源兵衛國村隼)だった。碁会所でふとしたことから知り合い、その高潔な碁風にひかれていったのである。
(格之進とお絹)
 裏長屋に浪人が娘とひっそり暮らすというのは、例えば2023年の『せかいのおきく』(阪本順治監督)と同じで、多くの時代劇に共通する定番設定だ。それなりの武士がそこまで落ちぶれるには、秘められた過去がある。そこは普通あまり突っ込んでは描かれないが、この映画では後半になってその部分に合ってくる。さて、格之進と源兵衛はよき碁友となり、月見の会に招かれることになる。この時萬屋で五十両が紛失するという事態が起き、格之進は部外者として疑いを掛けられる。武士に向かってあらぬ疑いを掛けるとは言語道断。同じ頃かつての冤罪の真相も判明し、父と娘は悲愴な決意をするのだが…。
(格之進と源兵衛)
 ところがこの辺りから、清廉な人格者と思っていた格之進の「もう一つの面」が見えてくる。あまりにも狷介(けんかい=頑固で自分の信じるところを固く守り、他人に心を開こうとしないこと)で融通が効かない。もちろん支配階級である武士が「正しさ」を貫くのは当然ではあるが、柴田兵庫は後に格之進に向かって言う。「賄(まいない)は世の習い」で、収入の低い下級武士にはやむを得ぬ習慣だった。格之進がそれをいちいち取り上げて上訴したために、何人もの武士の妻子が苦しむことになったと。
(柴田兵庫)
 「柴田兵庫」という人物を創ったことで、運命ドラマは格段に深くなったと思う。ここではラストには触れないことにする。実はこの落語は名前を知ってはいたが、聞いたことがない。長い話なので、演目が公表されるホール落語じゃないと演じる機会が少ない。だから僕はラストは知らずに見たわけだが、知ってても同じように見入ったと思う。一応想定通りに落ち着くのだが、格之進はまだ腑に落ちなかったようだ。映画を見ていて「こういう人」は時々いるなあと僕は思った。格之進のように「正しい人」「義を貫ける人」である。間違ってはいないが周囲にあつれきを生むのである。どう対応すれば良いのだろう。
(白石和彌監督)
 白石和彌監督は2018、2019年など一年に3作品も監督していた。コロナ禍でペースが落ちたようだが、何だか久しぶりに見た気がする。初めての時代劇はどこにも破綻なく一気に見られる。当時の碁盤などは日本棋院が全面的に協力して古風を再現しているという。それも見事。碁を打つシーンが多いが、碁のルールを知らなくても見られる。それは和田誠監督『麻雀放浪記』(阿佐田徹也原作)と同様だ。(そう言えば、怪作『麻雀放浪記2020』の監督は白石和彌だった。)なんと言っても草彅剛が『ミッドナイトスワン』を越える名演だった。「狷介」ぶりを見事に演じていて見ごたえがある。
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映画『マイスモールランド』と『遠いところ』、これが日本という国

2024年05月27日 21時52分57秒 | 映画 (新作日本映画)
 キネカ大森という映画館で「名画座」をやっている。3スクリーンある映画館の1つを「二本立て・自由席」にしているのである。今どき東京にもほとんどなくなったシステムである。そこで『遠いところ』(工藤将亮監督、2023、キネ旬29位)と『マイスモールランド』(川和田恵真監督、2022、キネ旬13位)をやっている(30日まで)。現時点でロードショー公開している映画じゃないけど、作られてから日が浅く内容的にも「新作」と考えて紹介しておきたい。

 どっちも見たいと思いつつ見逃した映画だった。キネマ旬報のベストテン号を見直したら、上記のような順位。つまりベストテンに入るほどの評価ではなかった。僕もその評価は大体同じで、弱いところもあると思った。しかし、社会的に貴重なテーマの「良心作」であり、「佳作」である。『マイスモールランド』から書くが、これは最近思わぬ形で一部で取り上げられている埼玉県川口市在住のクルド人をテーマにしている。父と3人の子で暮らしている(母は母国で死没)一家。主人公のチョーラク・サーリャ嵐莉菜)は、日本の高校に通う17歳の高校3年生。大学進学を目指していて、学校には友だちもいる。
(学校で)
 嵐莉菜(2004~)は優しい仕草に時々見せる鋭い眼差しが印象的。父はイラク、ロシアにルーツを持つ元イラン人(日本国籍)、母親は日本とドイツのハーフいう。本名はリナ・カーフィザデーだが、父親のアラシ・カーフィザデーから嵐という芸名にしてモデル活動をしている。この映画には実の父と妹、弟が同じ役で出演している。つまり出自的にはクルド人ではないわけだが、自分のアインデンティティに悩む生育歴を持つことは共通している。「ワールドカップでどこを応援するのと聞かれ、ホントは日本と答えたかったけど、いけないのかと思ってドイツって答えた」というセリフがあるが、実体験をセリフに取り入れたという。
(一家でラーメンを食べに行く)
 サーリャは小学校の教員が親切に対応してくれて、日本語も早く使えるようになった。一番年長だからクルド語も使えて、周囲の大人の通訳として重宝がられている。学校でも地域でも家庭でも良い子で、頑張ってきた。大学へ行きたいとコンビニでアルバイトを始めたが、それは川を渡った東京の店だった。そこで崎山聡太奥平大兼)というボーイフレンドも出来て充実した日々は突然暗転する。父親の難民申請が却下され、「仮放免」となったのである。働くことは出来ず、埼玉県以外に出るには許可がいる。ビザが不安定なので、大学への推薦もダメになる。それでも秘かに働いていた父親は、見つかって入管に収容されてしまう。
(難民申請が却下される)
 父親がいなくなり家賃を払うお金にも困ってくる。「パパ活」している同級生もいて、つい心も揺れる。そんな中、父親はある決断をするのだが…。映画は最後まで描かないけど、この一家は一体どうなったんだろう? 楽観的な見通しを安易に語ることは出来ない。クルド人の文化、あるいはムスリムの風習などがきめ細かく描かれ興味深い。川和田恵真監督(1991~)はイギリス人の父と日本人の母の間に生まれ、主人公のような悩みを抱いてきたという。2017年から企画された映画で、自ら小説化もしている。主人公がちょっと出来過ぎという気もするが、嵐莉菜の魅力を引き出す設定だ。

 もう一本の『遠いところ』は、沖縄の貧困問題を描いている。ホームページから引用すると、「一人当たりの県民所得が全国で最下位。子ども(17歳以下)の相対的貧困率は28.9%であり、非正規労働者の割合や、ひとり親世帯(母子・父子世帯)の比率でも全国1位(2022年5月公表「沖縄子ども調査」)。さらに、若年層(19歳以下)の出産率でも全国1位」という沖縄県。コザに住む新垣あおい花瀬琴音)は17歳ですでに2歳の子がいる。夫は働きたがらず、暴力も振るう。キャバクラで働いて生計を立てているが、未成年を雇っているとして警察に摘発されてしまう。自分の父は頼れず、母もいない。時々子どもを預ける祖母もいい顔をしない。
(「夜の街」で生きる)
 そうなると、さらに直接「フーゾク」で身を売る以外に道はあるのだろうか。そうして子どもを一人で放っていると、匿名で通報されてしまう。これでもか、これでもかと負の連鎖にはまるあおい。二人の出会いが描かれないが、どうしてこんな男と一緒にいるんだろう。定番的設定だが、「妻子」がいるのに働く気がない男。親になるには早すぎたのか。工藤将亮監督(1983~)は多くの監督の下で助監督を務め、『アイム・クレージー』『未曾有』に続く長編第3作だという。現実を提示するだけで、解決の方向性が見えないドラマだが、それが現実の日本ということだろう。

 『遠いところ』の花瀬心音は2002年生まれなので、撮影時20歳を越えていただろう。飲酒喫煙シーンもあるし、あからさまなセックスシーンもあるから、今は20歳以下では難しい。そのため学校で見せるわけにはいかない映画だが、『マイスモールランド』は学校で鑑賞するのに相応しい。もっとも「何でサーリャがこんな目に合うのか」と質問されても教員が困ってしまうだろうが。それに両作とも、「世の中はお金」であり「手っ取り早くお金を得るのはフーゾク」という「日本社会の現実」が描かれている。これが日本という国なのだ。
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濱口竜介監督『悪は存在しない』、ヴェネツィア銀獅子賞の評価は…

2024年05月14日 21時42分24秒 | 映画 (新作日本映画)
 『ドライブ・マイ・カー』で世界的に評価された濱口竜介監督の新作『悪は存在しない』(Evil Does Not Exist)。2023年のヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(審査員賞)を受賞した作品である。この受賞で濱口監督は世界三大映画祭と米国アカデミー賞すべてで受賞したことになった。『ハッピーアワー』(317分)、『ドライブ・マイ・カー』(179分)など長大な映画を作ることで知られる濱口監督だが、今度の映画は106分とずいぶん短い。長い映画が多くなってしまった現在では、むしろ少し長い中編の味わいである。だけど正直言えば、ラストの着地点の解釈が難しい。全く理解不能と言っても良い。

 この映画は非常に魅力的だと思う。退屈だという評もあるようだが、僕は退屈さは感じなかった。自然描写の美しさに圧倒された思いがする。だけど、どこか変だなとも思う。環境映像じゃなくて一応劇映画なんだから、自然描写的なシーンが余りにも長すぎてはおかしい。映画で人物同士の絡み合うドラマティックなシーンばかりでは見る者の緊張がほぐれない。小津の映画では銀座(だ思うけど)のバーの看板などをただ映すシーンが合間合間に挟まれて、絶妙なリズムを作っている。だけど『悪は存在しない』の風景シーンは異様に長い。しかも真下から木々を見上げた映像など抽象美の映像である。何だろう、これは?
(巧と花親子)
 一応ストーリーらしきものをコピーして紹介しておく。「長野県、水挽町。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。」「水挽町」は架空で、おおよそ長野県の富士見町、原村などでロケされたという。長野県の自然を背景に、「グランピング場」をめぐる地域の葛藤が一応主筋。
(芸能事務所のメンバーと巧)
 いろんな人が出て来るけど、結局村で「便利屋」をしているという安村巧と花という親子が中心になってくる。知っている俳優は一人も出て来ない。監督恒例の「棒読み」なのか、シロウトを使っているのか、それこそ村人のリアルなのか判らないけど、ところどころ聞き取れないぐらいの小声で人間関係も良く理解できない。そして巧はよく忘れる。花を迎えに行く時間を失念していることが多いし、グランピング場説明会に対し地元で事前に相談する日も忘れている。『ハッピーアワー』のワークショップ、『ドライブ・マイ・カー』の下読みの場面が面白かったように、今回の映画でもグランピング場建設説明会の場面が非常に面白い。
(ヴェネツィア国際映画祭で)
 その説明会終了後に建設企画会社の内部事情が描かれる。このようにして、グランピング場建設をめぐる「自然保護」という社会問題を描く映画なのだろうか。そんな展開になりそうな最終盤に、映画は突然不吉な方向に向かって転回し、何が起こっているのか判らないラストを迎える。果たして「悪は存在しない」という題名の意味は何だろう? ラストは「自然」の「悪意」ということか。いや、それでは「悪が存在する」ことになってしまう。あるいは人間同士には「悪は存在しない」が、「自然」はただ存在するだけということか。ラストを細かく書くことは控えたいが、ラストが理解不能で評価するのが難しい。それでも十分美しく、見る価値がある魅力的な映画だと思う。
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映画『正義の行方』、飯塚事件の真実を探る迫真作

2024年05月09日 22時02分40秒 | 映画 (新作日本映画)
 『死刑台のメロディ』を見たから、次に見るべきは『正義の行方』だ。渋谷のユーロスペースで上映している記録映画。もともとはNHKのBS1スペシャルで2022年に放映された「正義の行方~飯塚事件30年後の迷宮~」である。(文化庁芸術祭大賞ギャラクシー賞選奨受賞。)監督の木寺一孝(1965~)は、劇場公開された『“樹木希林”を生きる』(2019)の監督だった人。2023年にNHKを退職し、満を持して放つ超問題作。158分もある長い映画だが、全く時間を感じさせない。

 この映画は1992年に福岡県飯塚市で女児2人が殺害された事件飯塚事件)を扱っている。2年後に久間三千年(くま・みちとし)が逮捕され、一切の供述を拒んだが「状況証拠」の積み重ねで起訴された。被告・弁護側は無実を主張したが、1995年に福岡地裁で死刑判決が出され、福岡高裁でも維持、2006年9月に最高裁で確定した。そして2008年10月28日に死刑を執行された。その後、DNA鑑定や目撃証言の証拠価値を否定する新証拠をもとに再審請求を行った。再審請求は2014年3月に棄却され、2021年に最高裁で確定した。この棄却決定はDNA鑑定の価値を否定しながら、それ以外の証拠で有罪が維持出来るとしたものだった。
(木寺一孝監督)
 この映画は「冤罪」を扱う記録映画として、かつてなく深い取材を積み重ねている。ちょっと信じられないぐらい、捜査に加わった元警察官が取材に応じている。再審請求中の事件をテーマにした取材に捜査側が応じることは珍しい。それはNHKの力もあるかもしれないが、恐らく「死刑執行後の再審請求」は絶対に認められないとする当局の意向があるのではないか。いつもなら公務員の守秘義務をタテに沈黙する元捜査官たちが、皆一生懸命になって捜査の正しさ、有罪判決の正しさを力説している。これは本気でそう思い込んでいるんだろう。死刑判決を聞いて日本の司法に正義が生きていたと感動しているぐらいだ。
(取材に応じる元捜査官)
 事件捜査が時系列に沿って描かれているため、前半は捜査官や新聞記者の証言が多い。そのため有罪寄りの心証になるかもしれないが、後半は再審弁護団に密着することが多く疑問だらけの捜査だった印象になる。実は警官の中には直接証拠や自白は得られなかったが、「4つの状況証拠」(DNA型鑑定、目撃証言、血痕鑑定、繊維鑑定)が合わさって有罪の証拠価値は十分だと力説した人がいた。しかし、再審棄却決定ではDNA型鑑定の価値が否定された。だから、本来有罪の証拠は瓦解するはずだが、今度はDNA抜きでも有罪は揺るがないとなる。車の目撃証言も誘導の疑いが濃い。

 また地元紙の西日本新聞の記者が語っていることも非常に興味深い。同紙の記者は早くから久間氏が容疑者として目を付けられていることをつかみ、地元紙として他紙に抜かれたくないと積極的に有罪方向の記事を書いた。そのため取材の中心にいた記者は、死刑判決や再審棄却決定に対して「正直ホッとした」という感想を抱くまでになった。それは正直とも言えるけど、マスコミの対応として間違いだろう。DNA型鑑定を「有力証拠」と書いた記事を他紙に先んじて書いたが、その記事を取り消したのだろうか。後になって西日本新聞は飯塚事件の再検証を行い、それに携わった記者が最後に語ることが僕には納得出来るものだった。
(遺体発見現場近くの山道) 
 実は同じ地域で2年前にも女児行方不明事件が起こり、久間氏は「最後に見た人物」(自分の子どもの遊び友だちの妹だった)として疑われた過去があった。それだけで疑うのもどうかと思うが、捜査官によれば「(久間は)ジキルとハイド」だという。そう決めつければ、どんな人でも恐るべき少女殺害犯になり得る。その時は逮捕出来なかったが、2年後の事件で当初から警察は「見込み捜査」を行ったと考えられる。警察は久間氏の車を知ってから、車の目撃証言を調書にした。逮捕後には庭を掘り返したが、それは2年前の少女の遺体が見つかると踏んだのである。しかし出なかったので、ポリグラフの結果として捜索を行い「2年前の女児の服を見つけた」。(しかし、それは数年間雨風にさらされたとは思えないものだったという。)

 この映画の中で何人かの人々が「真実を知りたい」という。僕もまあ知れるなら知りたいとは思うけど、実は裁判は真実を知るための制度ではない。もう時間も経って新しいDNA鑑定も(足利事件や東電OL事件などのように)実施出来ない。そのことを誰もが知っていて、「真実が知りたい」というのはおかしい。刑事裁判の原則(再審でも同様)は「疑わしきは被告人の利益に」である。「状況証拠」が怪しげな物だと判明した現時点で、有罪の原判決を維持するのは正義に反する。そう僕は思うけれど、元警察官は「その後事件が起きてないのは久間が真犯人の証明」と語る。こういう発想は冤罪を作るものだ。

 もう一点、この事件は死刑制度の恐ろしさをまざまざと示している。「有罪か無罪か判断出来ない」では困る。100%の確率で検察側が有罪を立証出来なかったら、その事件は無罪にならなくてはならない。「51対49」ではマズいのだ。しかも死刑判決である。執行されてしまって、取り返しが付かない。布川事件、足利事件、東電OL事件、東大阪事件などの冤罪も恐ろしいが、無期懲役だったから再審で無罪になって自由の身となれた。世界にはイギリスのように「死刑執行の冤罪」発覚が死刑廃止のきっかけになった国もある。(逆に考えれば、死刑制度廃止の声が高まらないために、どんな新証拠があっても日本の裁判所は再審請求を棄却する可能性がある。)この映画は非常に多くの人に取材しているが、もう一人死刑執行を命じた森英介元法相の考えも聞きたいと思った。
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映画『カムイのうた』、アイヌ民族の文化を伝える感動作

2024年04月18日 22時33分17秒 | 映画 (新作日本映画)
 『カムイのうた』という映画を見た。この映画は近代のアイヌ民族の苦難と優れた文化を真っ正面から描いた作品である。北海道で先行公開された後、東京では1月末に公開された。その時から見たかったんだけど、上映時間が限定的で見られなかった。今回阿佐ヶ谷Morcという小さな映画館で見たんだけど、そこも今日が最終日。ホームページを丹念に探すと、今後も上映があるようだ。映画館以外でも自主上映や学校などでの上映があるかもしれない。どこかでやっていたら是非見て欲しい力作である。

 アイヌ民族の口承文芸「ユーカラ」を『アイヌ神謡集』に翻訳したと言えば、知里幸恵(ちり・ゆきえ 1903~1922)を思い出す。この映画は明らかに知里幸恵がモデルだが、名前は北里テルに変えている。アイヌ語を研究する学者は金田一京助じゃなくて、兼田教授。この映画を見ようという人の多くは知里、金田一の名を知ってる気もする。だがフィクション化したことで、テルに婚約者がいたり、兼田教授が人類学教室に乗り込んで「盗掘」を非難するなどのエピソードが可能になった。
(ムックリを吹くテル)
 アイヌ民族が登場する映画は少ないけれど、幾つかはある。武田泰淳原作の『森と湖のまつり』(1958、内田吐夢監督)、石森延男原作の『コタンの口笛』(1959、成瀬巳喜男監督)のように、微温的ではあるが一応民族差別を扱った映画もある。しかし、それらは50年代の製作時点を描いた作品である。福永壮志監督の『アイヌモシリ』(2020)も現代の話。劇映画で明治・大正期のアイヌ差別を本格的に描いた作品は初めてではないか。北海道の東川町が製作に協力し、北海道各地の美しい自然が印象的だ。ずいぶん昔の建物があるなと思ったが、札幌近郊の「北海道開拓の村」でロケされたようだ。
(テルに心を寄せる一三四)
 北里テルは道立女学校を受験するも成績優秀なのに落とされて、旭川区立女子職業学校に進学した。これは知里幸恵の実話である。映画では成績に基づき副級長に指名されるも、同級生から排斥されるシーンは心に刺さる。その頃、祖母のイヌイェマツに東京から兼田教授がユーカラ研究に訪れる。小さい頃から祖母から聞いていたテルも覚えていると言うと、兼田教授は是非にと聞きたがる。そして美しいユーカラを是非日本語に訳して欲しいと頼む。テルはその後一生懸命訳したノートを兼田のもとに送ると、上京して自分の家で勉強してはと言う。旭川から東京まで、長い長い旅をして、テルは東京へ行くのだった。
(兼田教授の家で)
 そういう展開はずべて知里幸恵の実話で、あの美しい「銀の滴(しずく)降る降るまわりに」(Sirokanipe Ranran Piskan シロカニペ ランラン ピㇱカン)の訳語が生まれた瞬間を描いている。心臓が弱かった知里幸恵は、その原稿が完成した日に亡くなった。わずか19歳だったが、それも実話である。僕は今まで『アイヌ神謡集』(岩波文庫)を読んで、この美しい言葉を知っていたが、どういうリズムで語られるのかは知らなかった。今回映像で聞くことが出来て感銘深い。才能に恵まれながら、差別と病苦に苦しめられた薄幸の「北里テル」の生涯が心に残る。
(監督と主演女優)
 この映画の監督・脚本を担当しているのは菅原浩志(1955~)で、誰かと思えば『ぼくらの七日間戦争』(1988)の監督だった人である。その後「ぼくら」シリーズを監督したり、『ほたるのほし』(2004)などの作品がある。2018年に全国公開された『写真甲子園 0.5秒の夏』を撮っていて、そこで東川町との関わりが出来たんだろう。主演のテルは吉田美月喜、恋人の一三四は望月歩、祖母が島田歌穂、兼田教授が加藤雅也、教授夫人が清水美砂。神(カムイ)と生きている先住民族の文化を知るためにも、多くの人にどこかで見て欲しい映画だった。
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記録映画『戦雲』(いくさふむ)、先島諸島の軍事基地化を追う

2024年04月01日 21時56分37秒 | 映画 (新作日本映画)
 『戦雲』(いくさふむ)というドキュメンタリー映画が公開された。三上智恵監督の作品なので、これは見ないといけない。三上監督は毎日放送、琉球朝日放送を経て独立、沖縄をテーマにドキュメンタリーを作り続けている。特に『標的の村』(2013)、『沖縄スパイ戦史』(2018)はキネマ旬報文化映画部門ベストワンを獲得した。これらの映画はちょっと遅れて見たので、記事としては書いてないと思う。しかし、大変スリリングで「面白い」(という表現は語弊があるかもしれないが)映画だった。

 今回の『戦雲』も沖縄を舞台にしているが、今まで沖縄本島や沖縄戦を扱っていたのに対し、南西諸島の中でも「先島」と呼ばれる島々、具体的には与那国島石垣島宮古島に続々と自衛隊の基地が作られた経過を追っている。8年間に渡り取材を積み重ねた映画で、大変な力作だ。反対派ばかりでなく、多くの人々に取材していて見ごたえがある。というか、事態をどう考えればよいのか、見る者に難問を突きつけてくる。内容的には「政治」「社会」などのカテゴリーで書くべきかもしれないが、映画だから映画館で見るしかない。東京ではポレポレ東中野で上映している。
(南西諸島地図)
 日本最西端、台湾に最も近い島である与那国(よなぐに)島に自衛隊が基地を作ろうとしているという話は新聞などで見た記憶がある。反対運動があり、島が大きく揺れたと報道されていたが、2016年に自衛隊の駐屯地が完成した。石垣島や宮古島でも自衛隊基地が増強され、弾薬庫やさらにミサイル基地まで計画されている。これらは東京でも折々に小さく報道されているが、地元の人々の声を含めきちんと取り上げられることは少ない。この間の変化を映像で見ると、この8年間であっという間に軍事化が進行したことが判る。もちろん、言葉で言えば「東アジアの安全保障環境」が悪化しつつあるという背景がある。だが、位置が近いというだけで人口も少ない島々に、これほど軍事基地を集中させるのは何故だろう。
(与那国島)
 住民からすれば、「基地があるから戦争に巻き込まれる」心配がある。中国軍がこれらの島々を軍事侵略するというのだろうか。「台湾有事」があったとして、ミサイル基地は攻撃の対象になりうる。基地も何もなければ、外国軍隊は素通りするだろう。特に占領して意味があるとも思えない。基地があって、住民が戦争に巻き込まれる恐れはないのか。それは自衛隊側も認識していて、その際の避難計画を練っているらしい。かつての伊豆大島の三原山噴火時の「全島避難」が前例として参照されている。住民説明会も開かれているのである。事態はそこまで切迫しているのだ。
(与那国馬)
 ところで、そういう風なことが起きているのだが、そこには反対運動だけがあるわけではない。基本的にそこにも「日常」がある。与那国島と宮古島は日本在来馬(全部で8種)の「与那国馬」と「宮古馬」がいるところだ。宮古馬は北部にある牧場でしか見られないので与那国馬もそうなのかと思ったら、基地の前の道を悠然と馬が歩いていたりしてビックリ。カジキマグロを追う漁師は、ある日カジキマグロの「角」(正確には前方に長く延びた上顎で、「吻」(ふん)というらしい)に足を刺されて大ケガをしてしまう。しかし、負けてたまるかと奮起しカジキマグロを捕まえると誓う。カジキマグロ漁に成功するかも大きな見どころ。
(集英社新書『戦雲』)
 冒頭で反対運動をしている山里節子さんの歌が流れる。「戦雲がまた湧き出てくるよ 恐ろしくて眠ろうにも眠れない」と始まる琉歌である。ここで恐れているのは、沖縄が再び(本土の)犠牲になるのかという気持ちだろう。自衛隊は初めからミサイル基地を作るとは言わなかった。駐屯地を作った後で、どんどん既成事実にしてしまう。宮古島の弾薬庫も初めは訓練はしないと言っていたらしいが、今は日々銃声が聞こえるらしい。しかし、反対運動に参加していた人が、次のシーンでは市議に当選したりしている。日々の日常と進行する軍事基地化、そして抗い続ける人々。是非多くの人に見て欲しいドキュメンタリー映画だ。
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熊谷博子監督『かづゑ的』、ハンセン病を生きた女性

2024年03月04日 20時05分23秒 | 映画 (新作日本映画)
 熊谷博子監督のドキュメンタリー映画『かづゑ的』が公開された。これはハンセン病療養所長島愛生園に住む90歳(撮影開始時点)の宮崎かづゑという女性を8年間追った映画である。ハンセン病に関するドキュメンタリー映画はずいぶんあって、僕もかなり見ている。しかし、その中でもこの映画は非常に大きなインパクトがあって、ベスト級の映画だと思う。東京ではポレポレ東中野とヒューマントラストシネマ有楽町で上映していて、家から電車一本の有楽町で見られるから早速見に行った。

 宮崎かづゑさんという人を僕は知らなかった。ハンセン病関係の本は結構読んできたはずだが、本を出したのが高齢になってからなのである。『長い道』(みすず書房、2012)、『私は一本の木』(みすず書房、2016)という2冊の本がある。それまで自治会運動や国賠訴訟などで活動してきた人ではない。詩や短歌などで知られた人でもなかった。若い頃から園誌「愛生」に随筆を書いていたようだが、全国に知られた人ではなかった。それが70代でパソコンを(手に障害があるので特殊な器具を使いながら)使うようになって、まとまった長い文章を書くようになったのである。そして、知人の紹介で熊谷監督はかづゑさんと会った。
(宮崎かづゑ)
 宮崎かづゑさんは10歳の時に入所して以来、80年間も療養所に住んでいる。戦後すぐに結婚した2歳年上の夫とともに暮らしてきた。映画は愛生園に暮らす二人をじっくり見つめていく。かづゑさんの覚悟は半端なく、入浴シーンまで撮影している。自ら望んだのである。そこまで自らをさらけ出して撮影しないと、「らい病」(ハンセン病の旧称)を理解して貰えないという。らい菌は温度が低いところを好むので、顔や手足など外気に接する部分に集まる。そのため指や足の感覚が失われたり、顔面に障害が残る。かづゑさんは義足で指もない。そんな姿を映像はとらえていく。人間の尊厳とは何か、見る者に迫ってくる場面だ。
(『長い道』)
 映画にはかづゑさんの「金言」が散りばめられている。「孤独ではない。うぬぼれさせていただいたら、ちゃんと生きたと思う。みんな受けとめて、私、逃げなかった。」「本当のらい患者の感情、飾っていない患者生活を残したいんです。らいだけに負けてなんかいませんよ。」「らいは神様が人間に最初からくっつけた病気。だったら私、光栄じゃないかと思って。」 多くのハッとする言葉が詰まっている。かづゑさんは若い頃に病状が重く、園内でも(病状が軽い患者から)差別されていたという。それでも図書室で本をよく読んでいた。故郷(岡山県)と園しか知らないけど、本の中では「地中海」に行けるのが救いだった。
(長島愛生園)
 長島は瀬戸内海にある岡山県の島で、そこに愛生園邑久(おく)光明園という二つの療養所が作られた。長く本土との橋もなかったが、1988年に通称「人間回復の橋」が架けられた。瀬戸内海の穏やかな風光が素晴らしいが、一度収容されたら逃げ出すこともかなわない孤島だったのである。愛生園は1930年に開園した初の国立療養所だが、タテマエとは別に患者にも厳しい作業が課せられていた。戦後になって特効薬も開発され、今は「元患者」なのだが、長い隔離と差別のために生涯を園で暮らす人が多い。

 映画では夫の故郷福岡県への里帰り事業(ソフトバンクの野球を見に行っている)や、岡山で行われた年末の「第九演奏会」に出掛けるシーンがある。今は健康が許せば、どこへでも行けるわけだが、その時にはもう高齢になっていた。昔は何千人もいた入所者も、今は百人程度。(2022年段階で、全国で927人となっている。)入所者の平均年齢は88歳を超えて、ハンセン病問題が最終局面に入っているのは間違いない。そんな時点で『かづゑ的』が公開される意義は大きい。ハンセン病問題を啓もう、告発する映画というより、紛れもなく「かづゑ的生き方」を多くの人に伝える「知恵と勇気の映画」だ。
(熊谷博子監督)
 熊谷博子監督(1951)は1989年にアフガニスタンを舞台にした『よみがえれカレーズ』を土本典昭と共同監督して注目された。この映画は『映画をつくる女性たち』(2004)とともに、国立映画アーカイブで回顧上映されている。(3.9に上映)。その後、『三池 終わらない炭鉱の物語』(2005)で注目を集め、『作兵衛さんと日本を掘る』(2019)も評判を呼んだ。社会的なテーマを扱いながらも、人間に迫るドキュメンタリー映画を作ってきた人である。なかなか見る機会も少ないかと思うけど、是非逃さずにどこかで見て欲しいなと思う。
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『夜明けのすべて』、三宅唱監督の「病友」映画

2024年02月23日 19時49分02秒 | 映画 (新作日本映画)
 瀬尾まいこ原作、三宅唱監督の『夜明けのすべて』はちょっと予想を裏切る映画だった。松村北斗×上白石萌音主演と宣伝しているけど、恋愛的要素が最後までゼロなのである。三宅唱監督がベストワンを獲得した『ケイコ 目を澄ませて』(2022)の次回作で、人気俳優を迎えて拡大公開されたが2週目、3週目とどんどん上映が減っている。だから「失敗作」や「作家性の高い映画」かなと思うと全然違うのである。確かに前作の岸井ゆきのほどの凄まじいエネルギーは今回の映画にはない。しかし、居場所を求める人々を温かく描く「小さな宝物映画」、かつ「病友映画」になっている。

 瀬尾まいこの小説はある時期までよく読んでいた。映画『幸福な食卓』(2007)を他の映画を見るついでに併映作品として見て(二本立て名画座だった)、なかなか良いじゃないかと思って原作も読んでみた。2005年に吉川英治文学賞新人賞を得た作品だが、僕はまだ作者の名を知らなかった。その時点で京都の中学校教員だったこともあって、応援するつもりで読み続けたのである。その後、作家専業になり『そして、バトンを渡された』(2018)で本屋大賞を受賞。すっかり人気作家になって、僕も少し飽きてきた感じもあって近年は読んでない。だから今度の映画も原作は読まずに見たのである。
(山添の髪を切る藤沢さん)
 画像のように若い女性が若い男性の髪を切るスチル写真を見ると、多分この二人は恋愛関係にあるか、少なくとも片思いなのかと想像すると思う。だけど、それが違うのである。藤沢美紗上白石萌音)は高校生の頃から、時々非常にイライラし体調不良になることがあった。それが「PMS」(月経前症候群)という病気で、その後大会社に就職したが適応できずにすぐに退社してしまった。その後栗田科学という小会社で働いている。そこに山添孝俊松村北斗)という青年が入社してくる。ある時彼が会社で異常な感じになって早退する。藤沢は追って行き「もしかしてパニック障害?」と聞く。

 そこから二人は時に助け合う「病友」になっていく。「病友」という言葉は一発で変換出来なかったけど、ハンセン病ではよく聞く言葉だ。その場合は同じ療養所に「隔離」されて、ともに人生を過ごすわけだから「病友」にならざるを得ない。今度の場合はお互いに職場で大変な思いをした過去がある。「生きづらさ」をともに抱えて、恋愛に至る状況にないんだと思う。藤沢はPMSを告げて「一緒に頑張ろう」と言うが、山添は二人の病気には違いが大きいと言う。藤沢は「病気にもランクがあるんだ」と思わず言う。この言葉はとても心に突き刺さる。病気を抱えた者同士が「しんどさ比べ」に陥っている。
(藤沢と山添)
 山添には「彼女」もいたが、電車も乗れなくなってしまった彼とは付き合っていくのが大変である。彼からすれば、日常生活への支障が大きいパニック障害に対し、月に一回であるPMSは大変さが違うと思ってしまうのだ。僕はパニック障害の生徒は知っているが、PMSは病名も知らなかった。映画は二人の病態を丁寧に描き、観客も大変さを理解していく。そして、もう一つ大切なのは彼らを受け入れている「栗田科学」という会社である。その社長(光石研)にも悲しい過去があったと判っていき、辛さを支え合う会社になったんだと判る。そういう場所の存在は、観客にとっても宝物を見つけた気持ちになる。

 Wikipediaを見ると、原作では会社名は「栗田金属」というらしい。それが映画では「栗田科学」に変更され、子ども向けの科学用品(顕微鏡や天体望遠鏡)などを作っていることになっている。そして年に一度、地域貢献活動として小学校の体育館を借りて移動プラネタリウムを実施する。山添と藤沢はその担当になって、解説原稿を一緒に作ることになった。かつてない「天体映画」でもあり、自分の子ども時代にも天体望遠鏡を見たなあと久しぶりに思い出した。この終わりの方の展開はとても心に沁みる。
(ベルリン映画祭の三宅監督)
 藤沢は父がいないらしく、母も病気らしい。彼女は医者にピルを使いたいと言うが、母親に血栓の既往歴があるからダメと言われるシーンがある。そのことと関係があるのかどうか、最後の方では入院している。二人は会社でいつも隣同士なんだから、「普通」なら「好きになっちゃう」もんじゃないか。しかし、この映画では最後まで「友人」で終わり、少しは恋愛要素が出て来るかなと思う(期待する?)観客の予想は裏切られる。そこで自分の「普通」感覚も問われる気がするのである。

 僕はこの映画は何だか良いものを見つけた気がして、宝物みたいな映画だなと思った。しかし、病気を自分事として感じられないと、届かない映画じゃないかとも思う。多分主演俳優を見に行った若者にはちょっと遠かったのかもしれない。三宅監督の演出は的確で、主演の二人の病気を違和感なく伝える。同時にいつも感心する月永雄太の撮影が素晴らしい。前作も担当して東京下町の女性ボクサーをドラマティックに映したが、今回の柔らかい映像も見事だ。こういう映画もあるんだなというか、こういう「男女の友情」やこういう会社も良いなと思ったりする「ほっこり映画」である。
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映画『風よ あらしよ 劇場版』、伊藤野枝の生涯を描く

2024年02月16日 22時31分29秒 | 映画 (新作日本映画)
 『風よ あらしよ 劇場版』という映画が一部映画館で上映されている。大々的な公開じゃないので、知らない人が多いと思う。でもこれは女性解放運動家の伊藤野枝の生涯を描く初めての映画なのである。大々的な公開じゃないのは、これが「劇場版」だからだろう。もともとは直木賞作家村山由佳の小説『風よ あらしよ』(2020)が原作で、テレビドラマ化されて2022年3月31日にNHK BS8Kで放送された。そして9月にNHK BSプレミアムとNHK BS4Kの「プレミアムドラマ」枠でも放送された。このデータはWikipediaに出ていたものだが、BSにもそんなにいろいろあるんだ。

 伊藤野枝(1895~1923)は地元福岡県で無理やり結婚させられそうになり、なんとか家出して東京へ行く。上野高等女学校で学び、英語教員の辻潤(1884~1944)から女性だけで作った雑誌『青鞜』(せいとう)が発刊されたことを知る。そして、青鞜社の主宰・平塚雷鳥(1886~1971)を訪ねて同志となる。また辻と同棲するが、辻は責任を取るとして学校を辞任した。二人はその後結婚し、子どもも生まれる。しかし、辻は正業に就かず、野枝は女性運動に奔走し、家庭はイザコザが絶えなくなる。これは社会運動史に関心がある人には非常に有名なエピソードで、正直言うと全部知っていた話である。
(辻潤)
 だけどよく考えたら今まで伊藤野枝の生涯を描く映画はなかった。吉田喜重監督の『エロス+虐殺』や深作欣二監督『華の乱』はあった。伊藤野枝の娘を描くドキュメンタリー映画である藤原智子監督『ルイズ』も作られた。また宮本研の『美しきものの伝説』や『ブルーストッキングの女たち』という戯曲は今も時々上演される。だがそれらは伊藤野枝が主人公ではない。まあ周囲の人物が面白すぎるから、群像劇にする方が興味深くなる。でも伊藤野枝のドラマティックな人生だって映像化されて良い。
(大杉と伊藤野枝)
 そして野枝はやがて無政府主義者の大杉栄(1886~1923)と知り合い、惹かれていく。夫の辻潤は社会問題に無関心で、正義感の強い野枝には物足りない。ついに二人は別れ、野枝は大杉のもとへと奔る。ところが「自由恋愛」を唱える大杉には、妻の保子に加え、新聞記者の神近市子という愛人もいたのだった。その(男から見た)「理想」生活は、神近市子が大杉を襲って傷を負わせた「日蔭茶屋事件」(1916年)で破綻した。事件後は大杉は野枝と共同生活を送り、二人の間には5人の子が生まれた。しかし、大杉と野枝は1923年の関東大震災後に憲兵隊によって虐殺されてしまう。
(大杉をめぐる女たち)
 キャストを見ると、伊藤野枝は吉高由里子、大杉栄は永山瑛太である。下の写真を見ると、かなり似ているんじゃないかと思う。まあ「そっくりさん」ショーを望んでいるわけじゃないが。辻潤は稲垣吾郎、平塚雷鳥は松下奈緒、神近市子が美波といったあたり。瑛太はこの後で、映画『福田村事件』でも虐殺されてしまうのはご苦労様である。演出の柳川強は、朝ドラを5本担当していて吉高由里子主演の『花子とアン』もその中にある。NHKスペシャル『最後の戦犯』『気骨の判決』など重要な作品を幾つも生み出してきた。脚本の矢島弘一ともども、中島京子原作の『やさしい猫』を担当した人でもある。
(伊藤野枝)(大杉栄)
 正直言うと僕はドラマとしてはサラッとし過ぎで、伊藤野枝がよく描かれすぎている気がした。野枝と辻潤の間には、もうひとり里子に出した子どもがいるが、全然出て来ないのもどうなのか。野枝が雷鳥から青鞜社を譲り受けるシーンも出来過ぎっぽいし、劇中の野枝は大理論家みたいに見える。殺された時点でまだ28歳の野枝は、運動家としても理論家としても未成熟だった。なお野枝は足尾鉱毒事件を全然知らないという。よくよく考えてみると川俣事件(被害民が東京へ押し出しを試みて警官隊と衝突した事件)は1900年、田中正造が明治天皇に「直訴」したのは1901年である。伊藤野枝はまだ幼少期で、遠い九州に住んでいたから知るはずがないのだ。なんだか僕らからすると明治大正期が皆一直線に見えてしまうけど。
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塚本晋也監督『ほかげ』、戦争の心の傷を描く傑作

2023年12月08日 22時21分21秒 | 映画 (新作日本映画)
 入院中は少し元気になるとヒマを持て余してテレビばかり見ていた。他にすることがないのである。そして楽しみにしていたのが、普段見てない「朝ドラ」だった。今やってる『ブギウギ』が面白いのである。主演の福来スズ子(笠置シズ子)役の趣里のはつらつとした演技が見事。足立紳が書いてる脚本も面白かった。と言いつつ帰って来たら見なくなっちゃったのだが。その趣里が全く違った感じで出ている映画が『ほかげ』だという話を昨日書く予定だった。訃報特集が一回延びてしまったため、今朝朝日新聞を見たら石飛徳樹記者が同じことを書いていた。まあ、別に後先を気にしているわけではないけれど。

 塚本晋也監督の『ほかげ』は2023年のヴェネツィア国際映画祭オリゾンティ部門に出品され、NETPAC賞(最優秀アジア映画賞)を受賞した。『野火』(2015)、『斬、』(2018)に続く戦争三部作とされる。もっとも『斬、』は幕末を舞台にした映画で、「戦場の人間」三部作と言うべきか。塚本監督とは相性が悪くて、今まであまり感心したことがないのだが、今回の『ほかげ』はとても感じるところがあった。今までにない戦争映画として非常に貴重だと思う。

 どこか不明だが、敗戦直後の日本である。主要登場人物は3人の大人と1人の少年。いずれも戦争の傷を深く負っている。最初に空襲でボロボロになったらしき居酒屋に女(趣里)がいる。役名も出て来ない。酒を持ってきてくれる男がいて、時々身体を売っているらしい。ほとんど言葉も表情もなく、暗い映像の中で「存在感」だけが残っている。やがてどういう事情があったか少し判ってくるが、戦争で家族を失ったのである。そして壊れてしまったのである。
(趣里)
 その店に復員してきた元兵士(河野宏紀)と恐らく空襲で親を失った少年(塚尾桜雅)が寄りつくようになる。復員兵は明日は金を作ってくると言いながら、作れないまま。少年は時々野菜を持ってくるが、どうも盗んでいるらしい。女は泥棒はダメだと言い渡すが、少年は止められない。3人は次第になじんできた感じもあったが、戦争で失われたものはあまりにも大きかった。復員兵は突如暴れ出すし、女も自分の中に閉じこもる。その時の趣里の目がすごくて今年の有力な演技賞候補だと思う。
(趣里と少年)
 中盤で描く視点が変わる。少年は女から追い出され、片手が不自由なテキ屋の男(森山未來)に付いていくことにする。男は何か目標があって出掛けることになる。何が目標なのか説明されないが、ある場所で少年は誰かを呼びに行かされる。それはかつての上官だったのである。上官は戦争犯罪を部下に押しつけて自分だけ帰国したのである。男は銃を取り出し、一つずつ「罪状」を語りながら上官を撃つ。彼の目的は上官を殺すことだったのだろうか。
(森山未來と少年)
 その後、男は少年に金を与え、少年は元の女のもとに帰ってくる。少年が自立出来る日は来るのだろうか。この映画はテーマも映像も非常に暗くて未来が見えない。構成も途中で分裂しているように思えるが、僕はそこも革新的だと思った。戦争で分裂した世界をまるごと映像にしているように感じたのである。「ほかげ」とは「火影」だろう。それは女の店の薄暗い照明であり、同時に「戦火の影」でもあるだろう。そして、その影は「心の傷」である。

 ベトナム戦争後のアメリカで「PTSD」が認識するされるまで、この問題は注目されなかった。日本映画でも、復員兵は『仁義なき戦い』など数多く描かれてきたし、体を売る女性も多くの映画で描かれた。しかし、いずれも「民衆のバイタリティ」みたいな展開が多い。この映画のようの「心の傷」を深く描いた映画は記憶にない。井伏鱒二『遙拝隊長』のエピソードを取り込んだ映画『本日休診』はあるが、それは一つのエピソードという扱いだった。今の時代にこの問題を描いた功績は大きいと思う。
(ヴェネツィア国際映画祭で)
 ほぼ同じ時代を扱った『ゴジラ-1.0』も公開されている。これは特撮など非常によく出来ていて、確かに面白く出来ている。この映画でも主人公は「心の傷」を抱えている。しかし、それは精神傷害ではないだろう。ラストは「生き抜く」方向で感動させる出来になっている。一方、『ほかげ』は暗いままで終わる。少年に未来を託したとも言えるだろうが、そう簡単でもないだろう。見た後に「感動」ではなく、ザラザラしたものを残し続ける。そこに心引かれ忘れがたいという映画だ。
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映画『花腐(くた)し』、荒井晴彦監督の新作はやはり素晴らしい

2023年11月28日 22時25分44秒 | 映画 (新作日本映画)
 『花腐し』(はなくたし)というのは、松浦寿輝(ひさき)の芥川賞受賞作である。(2000年上半期に、町田康『きれぎれ』とともに第123回芥川賞を受けた。)松浦寿輝は東大名誉教授のフランス文学者にして詩人・小説家という人である。僕もその受賞作しか読んでないけど、いやあ面白かったなあという記憶がある。そしてその記憶しかない。もう20年以上も前の作品が今度映画化された。日本一の名脚本家荒井晴彦の4作目の監督作品。相変わらず「過激」(?)な性描写も含みつつ、行き場のない疲れたような感覚に浸っている。しかし、それでいて腐食した日本を撃つ眼差しも確かだ。やはり傑作だと思う。

 冒頭で2012年と出る。原作は2000年に芥川賞を受けているんだから、震災直後に時間を移したのは映画の趣向である。ある男が葬儀に赴き参列を断られた。白黒映像である。次第に判ってくるが、ピンク映画の監督栩谷(くたに=綾野剛)と同棲していた女優桐岡祥子(きりおか・しょうこ=さとうほなみ)が、栩谷の親友の監督桑山と心中してしまった。「ピンク映画」(セックスシーン主眼の低予算映画でピンク映画専門館で上映していた)も斜陽の一途をたどっている。栩谷も5年映画を撮っていない。祥子との暮らしも行き詰まっていた。しかし、よりによって何故親友と心中したのか。
(栩谷と祥子の生活)
 上記画像はカラーだが、これも次第に判明するように、過去がカラー現在が白黒なのである。その逆は見たことがあるが、現在時点が色を失っているというのが作者の心情を象徴している。栩谷が祥子の家に転がり込んで始まった同棲だった。当然一人では家賃を払えず引き払うしかない。今も数ヶ月分を溜め込んでいる。家主に家賃を待ってくれと頼みに行き、代わりにアパートに居付く男の追い出しを頼まれてしまった。早く取り壊してマンションにしたいのに、一人何だかいつまでも動かない男がいるという。案外あんたみたいのが行く方が効果があるかもしれない。
(アパートを訪ねる)
 ある雨の日、栩谷は古びたアパートを訪ねる。何度も扉をたたいてやっと出て来た男が、伊関柄本佑)だった。彼は今まで追い出しに来たのと違うタイプの男に戸惑い、つい話を始めてしまう。栩谷が売れない映画監督なら、伊関は昔シナリオライターを目指した男だった。そこで業界の話、映画の話が始まり、やはり女の話に行き着く。伊関は20代の頃、女優を目指す女と付き合っていた過去がある。シナリオの話、映画や演劇の話、そして子どもが出来た時のこと。日々の生活の重みに負けていった日々。過去の映像がところどころでインサートされるので、観客には判る。二人が語っている女性は同一人物なのである。
(二人は語り合う)
 三人の主要人物がいるが、三人がそろうシーンは一つもない。祥子をはさんで、二人の男が右往左往するのである。その難役を見事にこなしたさとうほなみに驚いた。また先に『春画先生』で見たばかりの柄本佑は、どうにも正体がつかめないような男を再び演じて絶品。「花腐し」とは「卯の花くたし」のことで、「卯の花を腐らせるほどにしとしとと降り続く雨」だという。初夏の季語だというが、映画中の伊関は万葉集にある「春されば 卯の花腐(く)たし 我が越えし 妹(いも)が垣間は 荒れにけるかも」を引用している。「低木である卯の花の垣根を乗り越えながら通ったあの娘の家の垣根は今ではすっかり荒れてしまった」。
(伊関と祥子の生活)
 追憶と悔恨の心情が現在の二人とつながる。どこで道を間違えたのだろうか。今の腐った自分は、それでも生きていけるのか。折しも震災直後、日本は何故原発を廃止できないのか、ドイツは廃止したのに。あるいは沖縄の基地問題などもセリフで語られる。そのように現実批判をも取り込みながらも、基調は梅雨時のうっとうしい雨の中で語られる倦怠と悔悟である。これは「大人」の映画であり、全く若い人のための映画ではない。荒井晴彦監督は自分の出身(若松プロ)でもあるピンク映画界を舞台に使いながら、悔いても戻らぬ過去を見事に映像化している。撮影の川上皓市と新家子美穂も魅惑的な映像を映し出している。

 脚本は中野太と監督自身が書いている。荒井監督は『火口のふたり』(2019)以来の作品。『身も心も』(1997)、『この国の空』(2015)と荒井監督の作品を見てくると、共通点があるように思う。他の人が映画化しそうもない原作であること。また「過去」を自分の心の中でどう処理するべきかの物語である。こんな暗い映画を撮る人は他に思いつかない。若手の勢いもいいけれど、僕はこういう映画が好きなんだなと思った。
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映画『春画先生』(塩田明彦監督)を見る

2023年11月24日 20時34分50秒 | 映画 (新作日本映画)
 退院後に初めて見に行った映画が塩田明彦監督の『春画先生』だった。なかなか良く出来ていて面白かったが、これはどうなのかと思う設定もある。「映倫審査で区分【R15+】として指定を受け、商業映画として全国公開される作品としては、日本映画史上初、無修正での浮世絵春画描写が実現した」とうたう映画で、映画内に多くの「春画」が出て来る。この映画は、江戸時代までの日本人は性に対しておおらかな感性を持っていたが、明治政府の欧化政策により「春画」が弾圧されるようになったという史観で成立している。まあ大まかな認識としては、それで正しいんじゃないかと思う。

 神保町の古い喫茶店で働いている春野弓子北香那)は、ある日勤務中に地震が起きて立ち止まってしまう。その時客が見ていた春画の本に気付くと、興味があるなら一度訪ねてきなさいと名刺を渡された。その客が「春画先生」と呼ばれる芳賀一郎内野聖陽)で、あの人はちょっと危ない人と同僚から警告された。それでも、ある日家を訪ねてみるとお屋敷町にある古い建物で、どうしようかと迷いつつも意を決して呼び出しベルを押した。そこで見せられた春画に魅せられ、いつの間にか「内弟子」となって週二日働くことに。和服でなければならないなどの「謎ルール」に従って新しい日々が始まる。
(口を覆って秘蔵春画を見る)
 「春画マニア」は多いらしく、そのような集まりを通して「春画とは何か」を語りながら、同時に芳賀の人生も明らかになっていく。そしてどうなるんだろうという時に、編集者として「春画大全」を完成させたい辻村俊介柄本佑)が現れて映画世界をかき回す。この柄本佑が非常に印象的で、こういう俗っぽく騒がしい役柄が似合っているのではないか。そして、もう一人ここに重要な登場人物が現れる。それは伝説に包まれた先生の亡き妻である。写真でしか登場しない亡妻に今も深く囚われた先生は、新たに登場した内弟子・弓子の好意に気付きながらも応えることが出来ない。
(監督と主演メンバー)
 ところが金沢で開かれた春画鑑賞会で思わぬ人物が登場する。亡妻の双子の姉(にして、亡妻より先に先生の恋人だった)藤村一葉安達祐実)である。一人二役というか、片方は死んでいて写真しか出て来ないが、アメリカに行ってしまったはずが突如日本に舞い戻ったのである。そして映画の世界を暴力的なまでにかき回し、弓子の嫉妬心を煽る。この辺で物語は「春画」を越えて「変態コメディ」化して暴走を繰り返すが、やがて負けん気の強い弓子の意思が先生を圧倒するのである。春画の講釈とともに、二人の女性に引き回される「春画先生」を鮮やかに描いて映画は終着点に至る。
(北香那)
 この映画を成功させたのは弓子役の北香那だろう。2017年以来テレビや映画に出ているようだが、僕は知らなかった。この映画では全力投球でチャレンジしている。ふとした表情が魅力的だが、弓子は単に若いだけではなく「過去」があった。先生に対する気持ちが当初は理解しにくい。内野聖陽と北香那は実年齢で29歳差があり、年齢差を越えさせたものが春画というのはちょっと無理がある。だが、柄本佑や安達祐実の登場で暴走コメディとなっていくことで、観客も弓子の思いを応援するようになっていくのである。その意味で敵役としての安達祐実の鮮やかな存在感にも注目。あっと驚くシーンがいくつもある。
(安達祐実)
 塩田明彦監督(1961~)は黒沢清監督に就きながら自主的に作った長編映画『月光の囁き』と『どこまでもいこう』が1999年に公開されて注目された。思えば『月光の囁き』も「異常性欲」を扱った青春映画だった。その後『害虫』や『カナリア』など独自の映画を作ってきた。後者はオウム真理教を思わせるカルト宗教にいた若者を描いている。『黄泉がえり』『どろろ』などのヒット作もある。近年では小松菜奈、門脇麦主演の『さよならくちびる』(2019)が素晴らしかった。こうしてみると青春を描くことが多く、昨年の『麻紀のいる世界』も期待したが今ひとつだった。

 今回は監督自身が原作・脚本にもクレジットされている。むしろこういう作風の作品を作りたかったのかと思う。ただし、編集者辻村と弓子の最初の出会いなどには問題もあると思う。「先生」も「辻村」も策謀をめぐらし過ぎで、弓子がそれを受け入れてしまうほど先生や春画に入れ込んでいるのが判らないのである。それでもコメディとして完結していくので、ラストの着地点も笑って見過ごせるか。「春画」というものを毛嫌いしてない限り面白く見られると思う。
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