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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

日光湯元は雪の中

2012年11月30日 01時07分28秒 | 旅行(日光)
 27、28で日光に旅行。何度も行ってるけど、行けばそれなりに新しい発見がある。今どき行ったのは、露天風呂工事に伴う「訳ありプラン」というのを見つけたからだが、工事日程がずれて結局露天も入れた。でも雪が降ってて寒くて一回入っただけだった。この時期に行ったのは初めてだけど、雪が積もっているとは思ってなかった。真冬のスノー・シューに行ったことはあるけど、11月で降ってるんだ。中禅寺湖付近はほとんど関係なく、戦場ヶ原付近でパラパラ。奥日光の一番奥の湯元温泉に入ると急に大雪になって、さらに一番奥の「休暇村」付近は完全に積雪状態。いや、ビックリ。部屋から湯の湖が見えるが、こんな感じ。
 

 最近よく書いてるけど、家の真ん前がまだマンション工事中で、遅くなると車や工事材料が道に並んで自分の車を出せない。だから今回も7時半頃には家を出てしまう。代わりに高速は使わず、国道4号を北上。今は「道の駅」が整備されているが、栃木県下野市の「道の駅 しもつけ」は素晴らしい。オシャレなお店が入っていて、おみやげも多い。ここは南部の小山市の北あたりにあるが、国道を道の駅に向かうと「薬師寺」という交差点がある。ああ、ここら辺が下野の薬師寺かあと思っていたが、今どうなっているのかは知らなかった。今回パンフを見つけて行ってみた。下野(しもつけ)の国は、古代の東国仏教の中心である。東大寺と九州大宰府の観世音寺と並んで、天下の三戒壇が置かれたのが下野の薬師寺である。戒壇というのは、僧侶が出家するための戒律を授ける(授戒)する場所で、鑑真が日本に渡航してようやく設置された。ここの薬師寺は、もう一つ重大な歴史的事件があったところで、奈良時代の終わりごろ、例の道鏡が失脚して流されたところ。女帝称徳天皇の寵愛を受け、一時は皇位をうかがったとかいうあの道鏡ですね。ここで2年後に死んで、道鏡塚もある。(今回は行ってない。)薬師寺はその後焼失するが、大正時代に史蹟に指定され、現在一帯の整備がなされつつあり、「下野薬師寺歴史館」が開設されている。でも一帯は畑地帯。回廊が復元されているが、途中という感じ。
  (遠くにあるのが歴史館)

 日光では、日光山内の三重塔を見た。今、東照宮の五重塔の心柱が特別公開されている。スカイツリーの構造に行かされたとか言う技術で、ちょうどスカイツリーくらいの標高のところに立っている。これはこの前見たけれど、近くに別の塔があることは僕は気付かなかった。神橋を渡って東照宮方向に行かず、すぐ右にある「史跡探勝路」の「本宮神社」とあるところを上がっていく。そうすると四本龍寺というお寺扱いになるらしいが、塔が立っているのである。小さいけれど。地元の人以外はほとんど知らない穴場的な史跡と言える。なお車は近くの「小杉放菴記念日光美術館」に停めたが、ここでは今アイスホッケーの美という写真展をやってて無料なんだけど、これを見ると駐車料も無料になった。東照宮の辺りを歩いていたら、奥の駐車場に銅像を見つけた。東照宮を作った棟梁という甲良豊後守宗廣という人で、滋賀県甲良町というところの人。滋賀に記念館があるらしい。名前も知らなかった。
 
 
 翌日は赤沼駐車場に車を置いて、小田代が原まで1時間ほど歩く。寒いのでそこから低公害バスで帰る。このバスも今月いっぱいで今シーズンは終わり。道は雪が硬く凍り、普段より歩きやすい感じ。今ごろは雪も少なく、道が平らにならされている。最近クマの目撃が多いが、さすがにそれはなく、野鳥(シジュウカラなど)を見ただけ。日光ではよく鹿や猿を見るが今回はどちらも見なかった。湿原も完全に冬枯れで、これはこれで美しいし、葉がないから風景はよく見える。快調なハイキング。写真で有名な「小田代が原のハルニレ」、よく「貴婦人」と言われるが、今回は冬の姿。
  

 それでもう戻ることにする。御用邸公園そばの「たくみ庵」で蕎麦を食べ、宇都宮へ。ここで宇都宮美術館へ寄る。ここは行ったように思ったけど行ってなかった。宇都宮環状道路を曲がって帝京大学の先。ちょうど紅葉真っ盛りの広い公園が素晴らしい。が、少し寒い。雨や夏の日は辛いだろうなと思うくらい、駐車場から遠い。マグリットの作品を買ったことで開設の時に有名になったけど、見に行ってなかったのか。マグリット展は東京で何度か見てるから記憶が定かでなかった。今回は「マックス・エルンスト展」をやっていた。コレクション展はなかったので残念。エルンスト展は日本にある作品が多いのでビックリ。好きな人は東京から行く価値がある展覧会だった。近くに「長岡百穴」という、埼玉の吉見百穴みたいな古代の墓地があり、そこによって帰った。
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映画「ミステリーズ 運命のリスボン」

2012年11月29日 23時51分14秒 |  〃  (新作外国映画)
 長大な映画を今年は何本か見たけれど、フランス映画「ミステリーズ 運命のリスボン」も4時間26分の映画。なかなか行けなかったけれど、東京のロードショーは明日までなので、今日の夕方から見た。せっかく長いのをみたので書いておこうと思うけど、この映画は僕の好きなタイプの映画ではなかった。ただし、つまらないということはない。筋も面白く映像も美しい。舞台となる19世紀初頭のポルトガルでそのままロケしたような屋敷や風景が素晴らしい。でも、どうもあまり僕の中でヒットしないのは何故だろう。プログラムの中で古賀太氏が「どこかマノエル・ド・オリヴェイラやジョアン・セーザル・モンテイロ、ペドロ・コスタのような現代ポルトガル映画の香りがする。」と書いているのを読んで、そうだなと腑に落ちた。僕も何となく見ながらオリヴェイラみたいだなあと思っていた。僕はこれらの監督作品がどうもダメなのである。長いからかなあと思っていたけど、短い「ブロンド少女は過激に美しく」(オリヴェイラ)もダメだった。小説の語りをそのまま映像にしたようなスタイルがピンとこないのである。

 ラウル・ルイス(1941~2011)監督の最後の作品。100本以上の作品を作ったという、この監督。昨年亡くなったけれど、新聞に訃報も載らず、僕もよく知らなかった。「見出された時-『失われた時を求めて』より」や「クリムト」などの作品があると言うが、僕は見ていなかった。今年日仏学院で特集があったけれど、そこでも見ていない。元々チリの出身で、若くして活躍していたらしいが、1973年のCIAによるアジェンデ政権打倒クーデタ後にフランスに亡命した。フランスでたくさん作っているようだが、ほとんど公開されなかったので、僕は知らない。独自の表現で世界的評判になるまえに、実にたくさんの映画を作っているというのは昔の監督にはよくあった。ラウル・ルイスも途中で亡命して、生活のためにスター映画を量産していたのかもしれない。

 今回の「ミステリーズー運命のリスボン」という映画は、ポルトガルの19世紀の小説の映画化だという。そういう古風な文芸映画のムードが確かにある。ミステリーと言っても、犯罪が起こって犯人捜しというのではなく、血と運命にあやつられるまま恋と復讐があざなえる縄のごとく絡まりあっていく様を描いている。登場人物の出自の真相は何なのか、誰が誰の子で、誰と誰がどういう関係なのかが謎で、そういう話が何十年にわたり続いて行く。因果は巡る糸車という話で、マルキ・ド・サドの「恋の罪」という小説なんかもそういう感じで似ているなあと思った。背景はフランス革命とナポレオン戦争の時代。ポルトガルは直接は関係しないが、フランスに留学したり思想的に影響を受けたりしているので、関係が出てくる。時代としては波乱万丈である。

 身分制度は揺るぎ始めながら、まだまだ根強い。カトリック教会の力も強い。しかし、自由思想と恋愛という新しい時代も始まっている。ポルトガルでは新大陸の植民地ブラジルが独立しようという時代。ある孤児が修道院で教育を受けているが、姓も判らない、両親を知らないという状態でいじめられている。この子を心配する神父が実の母に合わせてくれ、いろいろ面倒を見てくれるが、この子もその神父も驚くべき運命のもとにあるのだった。という話が、複数の語りで視点を変えながら、紙芝居のような説明場面をはさんで、長大な物語を大河のように語っていく。何だか最後の頃になるとよく判らなくなってくるところもあるが、まあそういう映画。この前見た「演劇」も長かった。「カルロス」「ジョルダーニ家の人々」も長かった。けど、長い作品が公開されるのは、長いけど面白いからで、長くて長くて閉口したという映画は一本もない。でも肩や腰が疲れるし、お金も余計にかかる。短い映画でも値段は同じなので、あまり短いと損した気もするが、まあ2時間程度までがやはりいいなと思うよね。
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バハイ教とは何かー映画「庭師」のこと

2012年11月26日 01時44分31秒 |  〃  (新作外国映画)
もう午前1時なんだけど、レイトショーで映画を見て帰って来て一段落したところ。そのレイトで見たイランのモフセン・マフバルバフ監督久しぶりの作品「庭師」(The Gardener、2012)を東京フィルメックス映画祭でやっている。もう一回上映があって、12月1日(土)10時40分、有楽町朝日ホール(マリオンの上)。

 この映画を見たかったのは、これが「バハイ教」についての映画だからである。数年前に評判になったアーザル・ナフィーシーテヘランでロリータを読む」(Azar Nafisi、READING LOLITA IN TEHERAN、2003)という自伝を読むと、あまりにも非道なバハイ教徒への弾圧の様子が記されていて、一読すると忘れることはできない。イスラーム体制下のイランで、思想、宗教の自由がないことはもちろんよく知っているが、バハイ教徒の場合、親が死んでも墓をつくることさえできない。宗教弾圧という域を超えて、ちょっと日本の感覚では信じがたい。

 この「庭師」という映画は、イランの有名な監督であるモフセン・マフバルバフが長男とともに、イスラエルのハイファにあるバハイ教の世界本部を訪問したドキュメンタリー・タッチの映画である。しかし、作為と見られる場面もあり、親子で撮りあい議論が決裂し長男はエルサレムを撮りに行ってしまう。しかし、そういう彼らを撮っているカメラもあるのだから、演出的な部分だろうと思う。二人の違いは、親がバハイ教の平和の考えを評価するのに対し、子どもの方は宗教はすべて争いのもとになると主張することである。そんなこと言っていいのかな。冒頭で監督は信仰心がないことを告白しているし、イランで絶対認められないバハイ教を撮っている。しかも、仇敵のイスラエルに入国してハイファに行っている。勇気ある行為というのを超えて、イランに戻ることができるのか心配になる

 アッバス・キアロスタミやアミール・ナデリが日本で映画を作り、バフマン・ゴバディも今回上映されているトルコ・イラク映画を作っているように、もうイラン国内で映画を撮ることができないのかもしれない。それにしても大胆で、「反イスラム」行為と言われても弁明できないのではないかと心配してしまう。日本で見ている人はそこまでの危険な映画だと思わないかもしれない、穏やかな映画になっているけれど。

 映画の内容は、映画祭の解説のサイトを見るのが早い。「19世紀半ばにイランで創始された宗教、バハイ教世界平和を教義とし、他宗教への寛容といった特色を持つバハイ教は、イランでは布教を禁じられ、創始者バハオラがその生涯を終えたイスラエルのハイファにあるカルメル山に本部を構えている。モフセン・マフマルバフとその長男メイサムは、それぞれカメラを手にバハイ教の本部を訪れる。二人は世界各地から集まったバハイ教の信者たちにインタビューするのみならず、互いをカメラで撮りつつ、宗教について、また映画について、対話を重ねる。会話の中で次第に二人の世代的格差があらわになり、父に不満をぶつけたメイサムはひとりエルサレムへと向かう...。」
(ハイファのバハイ教本部)
 とまあ、そういう映画だけど、なんで「庭師」というかと言えば、この本部は美しい庭園になっていて世界中から庭園の庭師が来ている。パプア・ニューギニア、ルワンダ、アメリカから(白人と台湾人の間に生まれた青年である)。そしてモフセンは庭師に、さっきの親子喧嘩を聞いたよと言われ、でも息子さんは善人だと言われる。なんで判るのかと聞くと、「花が歓迎してる」と言われる。花が人間を見分けて、歓迎するんだそうで、彼にはそれがわかる。モフセンはビックリして庭師につき従い、カメラを植物のように植えて水をやったりする。それで「庭師」なんだけど、その美しい平和な庭園は素晴らしい感じではあるが、人間が手を入れて作った庭園を世界のモデルみたいに言われるのもどうかなあ。花はそれぞれ平和に個々で咲きそろう、これが理想らしいけれど。

 バハイ教はやはり一神教ではあって、イスラームにキリスト、ユダヤと言うだけではなく、諸宗教皆同じという考えで、シャカやゾロアスターも預言者として認めてるらしい各宗教いいとこどりで、平和や平等、教育の普及、偏見の除去、科学と宗教の調和、貧富の格差の緩和、アルコールや麻薬の禁止などを教義としているということだ。この教義はまあいい感じなんだけど、それは近代の目で見て人権の考え方に反していない部分が多いということだ。それを理性で納得できるわけだけど、それなら「理性信仰」があればよく、バハイ教信者になる意味はあるのかという気もする。つまり、自分で考えた結果として平和や平等は大事だなと思うからいいわけで、神様に言われて信仰として守っていくというのは何か違うのではないか。

 ここまでいいことをいっぱい言ってるんだったら、バハイ教だけあればいいような感じだけど、そこまで思ってしまえるんならバハイ教さえいらないということになるはずではないのか。神様は人間という不完全な生き物に、そんな合理的な信仰をのみ伝えたのだろうか。断食せよとか、死後に復活したとか、ムチャクチャを言うのが宗教というものだというところが大事なんではないか、などと思ったわけである。だからきっと全世界がバハイ教になったら、バハイ教が抑圧の道具にされるんではないか。そういう長男の考えに僕は近いかもしれない。

 さすがにイラン国内の弾圧は出てこないけれど、バハイ教の世界本部という不思議な場所を見ることができるという意味で、とても興味深い映画。イラン映画というより、宗教、思想、倫理などに関心がある人向けだと思うけど、見た価値は十分あった。マフバルバフ監督は娘二人と妻も映画を作る映画一家だけど、大統領選以後映画がなかった。このバハイ教の平和の教えが広まっていれば、イランも核兵器を作らないなどとずいぶん「危険な発言」をいっぱいしてて、日本で見てる分には大賛成の中身なんだけど、ホント監督一家が心配。
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ポール・セロ―のユーラシア大陸鉄道大冒険

2012年11月25日 00時53分15秒 | 〃 (外国文学)
 ポール・セロー(Paul Theroux、1941~)というアメリカ出身の作家がいる。僕が学生の頃、ユーラシア大陸の鉄道を乗りまわった「鉄道大バザール」(THE GREAT RAILWAY BAZAAR、1975)という本が大評判になった。鉄道ファンでもある作家の阿川弘之訳で1977年に出版され、新人作家の長大な紀行ものにも関わらず(日本が登場することもあって)、ずいぶん話題になった。でも、厚くて高い本だったから当時は読まず、文庫本も出たのだが買わなかった。今度講談社文芸文庫で再刊されたので、上下で1600円×2=3200円と単行本より高いくらいなんだけど、思い切って買ってしまった。合わせて650頁くらいになる。(ポール・セル―という名前で出されている。しかし、この人の本は「セロー」と書かれることの方が多いので、セローと書く。)

 ところで、このポールさんは21世紀になって、ほぼ同じ旅程を再訪することを思い立ち「センチメンタル・ジャーニー」に旅立った。最初の旅の時はベトナム戦争の影を旅していたが、2回目の旅はイラク戦争を背負う旅となった。日本も再訪している。この本が「ゴースト・トレインは東の星へ」(Ghost Train to the Eastern Star、2008)として出版され、2011年に西田英恵訳で翻訳された。上下2段組で560頁、3600円もする厚くて高い本。図書館で借りて読んだけど、読んでるうちに最初の方の国は忘れていってしまう。間に1冊別の本(「ふがいない僕は空を見た」)をはさんで、ここ2週間くらいずっと読み続けた。鉄道本だと思っては間違いで、鉄道を使って各国の民衆とも触れ合う本。鉄道から見た国際関係論みたいな感じで、2冊を読み比べると、この30年という月日を考えることになる。この素晴らしい読書体験は、是非アジアと鉄道と旅と文学が好きな人にお勧めしたい。(僕が思うに、今書いた順番でおススメで、アジアや鉄道ファンの方が、単なる文学好きより興味深いと思う。)
 
 この数年、セローの新刊本は一冊しか出ていないと思う。村上春樹訳で「村上春樹翻訳ライブラリー」に入っている「ワールズ・エンド(世界の果て)」という短編集である。どんな話かと思うと、ワールズ・エンドというのはロンドン郊外のバス停の名前なのである。この短編集はすごく面白くて、他にセローの本はないか探した。1986年にハリソン・フォード、リバー・フェニックス主演で映画化された「モスキート・コースト」の原作者がセローだったけれど、もう絶版になっていた。その他、アメリカ大陸や中国や地中海、アフリカなどを旅した本がいろいろあるようだけど、未翻訳が多い。だから最近の日本では、鉄道ファンよりも村上春樹ファンに知られていただろう。2回目の旅では、その村上春樹と会って「トーキョー・アンダーグラウンド」を回っている。この部分は必読である。

 アメリカ人で鉄道好きというのもなんか不思議な感じもするけど、ボストンの生まれで60年代に青春を送った世代なのである。大学を出た後、「平和部隊」に参加してアフリカのマラウイに行き、その後シンガポールの大学で英文学を教える仕事を見つけた。しかし、シンガポールの抑圧的な体制にそぐわず再任を拒否され、ロンドンで細々と作家をしていた。妻子を抱えた無名作家として追いつめられていたセローは、鉄道でロンドンからアジアを回ってみようと思いついたのである。

 最初の旅のルート。ロンドンを15時30分に起ってパリへ。オリエント急行で、スイス、イタリア、ユーゴスラビア、ブルガリアを経てトルコへ。続いてイランへ行って東北部のマシャド(メシェッド)まで鉄道で。飛行機でアフガニスタンへ行き、カイバル峠を鉄道で。パキスタン、インド、スリランカの大旅行。カルカッタからビルマのラングーンへ。ビルマ北東部まで鉄道へ。戻ってバンコクへ飛行機で。タイからラオス、マレーシア、シンガポールへ。南ベトナムへ飛行機で行き、ユエの鉄道へ。サイゴンから飛行機で東京へ行き、札幌、京都まで。横浜からナホトカへ船で行き、シベリア鉄道でソ連を横断、モスクワ、ワルシャワ、ベルリンを経てロンドンへ戻る。

 ちょっと細かく書いたので、世界地理に詳しくないと判りにくいと思うから、後で地図を載せておく。この30年でずいぶん変わってしまった。まずなくなってしまった国が、ユーゴスラビア、南ベトナム、ソ連と3つもある。政治体制がガラッと変わってしまったのが、旧ユーゴ諸国、ブルガリア、イラン、アフガニスタン、ラオス、ベトナムである。1979年のイスラム革命以後、アメリカはイランと断交したままだから、もはやセローはイランに入国できない。アフガニスタン、パキスタンもアメリカ国籍の人が旅行するのは危険な感じだから避けて通らざるを得ない。

 代わりに中央アジア諸国に鉄道で行けそうだ。ということで、二度目の旅は、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアを経てトルコへ。そこからグルジア、アゼルバイジャン。カスピ海を横断してトルクメニスタン、ウズベキスタンを経て、飛行機でインドへ。スリランカ、ミャンマー、タイ、マレーシア、シンガポール、カンボジア、ベトナム、中国(昆明だけ)を経て、日本へ。そしてロシアをシベリア鉄道で横断して帰る。それが今回のルートで、カンボジアが初めて。ベトナムはアメリカと戦争した国を訪ねることになる。戦争や歴史を考えるという点では、年齢を重ねたということもあり、今回の方が深い感じ。でも、最初の旅は「青春の旅」の勢いと「昔の匂い」がある。どっちがどっちとも言えないが、同じところを訪ねているところもあるので、「鉄道大バザール」を読んでから「ゴースト・トレイン」を読む方がいい。
 (左が1回目の旅)
 2回目の旅行は、セローが有名作家になったからか、いろいろな人に会っている。トルコでオルハン・パムク(ノーベル文学賞作家)、スリランカでA・C・クラーク、日本で村上春樹である。村上春樹の章は、合羽橋に行き、浅草の並木薮で蕎麦を食べ、ポルノショップに行く。東京大空襲や地下鉄サリン事件を論じながら。そしてメイド喫茶に行って、日本の男の性的欲望の構造を考察する。マンガその他を通して見えてくるものは日本男性として恥かしい感じがするが、一読の価値ある部分である。村上春樹がテレビにも出ずあまり顔を知られていないことで、こういうことができるのを知るのも面白い。しかし、それ以上に火星人みたいなアーサー・C・クラークの姿こそ忘れがたい。この「2001年宇宙の旅」の原作者として知られるSF作家は、後半生をスリランカで送ったことで有名だった。

 最初、オリエント急行のあまりのひどさに絶句する。今はパリへもトンネルで行けるし、津軽海峡もトンネル。(最初の旅は青函連絡船だった。)トルコの発展ぶりは目覚ましい。インドも大発展してバンガロールも訪れるが、人が多すぎる。タイやマレーシアも安定して発展している。ベトナムはアメリカ人が旅行して戦争の話もするが、実に印象的。一回目の旅は73年で「停戦協定」は結ばれたが、内戦が続いていた。もう大変な中を旅しながら国土の美しさに感動している。こういう美しい国だから、フランスが植民地化し、アメリカも出てきたのかと書いている。2度目の旅では素晴らしい経済発展ぶりで、人々の向上心に感心しながら旅している。一方、前回はとても入れなかったカンボジアでは、何年たってもポル・ポト時代の負の遺産が大きい。今も苦しむ様子が印象的である。

 変わっていないのはビルマで、国名だけミャンマーに変わったが、抑圧体制は不変。2005年当時の話である。会う人々皆が軍を嫌い、アウンサンスーチーを待ち望んでいる。北部のマンダレーから少し行った英国が開発した避暑地で、懐かしい再会がある。このビルマ、ミャンマーの章が一番感動的である。この本の出版後に劇的に変化したことがうれしい、一方、「中央アジアの北朝鮮」と言われていた、ニヤゾフ独裁下のトルクメニスタンの、バカバカしいほどの個人崇拝と独裁ぶりも描かれている。よく入国できたものだが、そんな作家という情報も持ってなかったんだろう。独裁者ニヤゾフはその後急死したので、貴重なドキュメントになった。

 日本では北海道を訪れ、稚内まで行って「稚内温泉童夢」に行っている。ここは僕も行ったけど、日本一の温泉という訳では全くない。他の温泉に是非連れて行きたくなった。マレーシアを鉄道で旅したこともあり、クアラ・ルンプール駅の素晴らしさは僕も知っている。行きたくなったのはスリランカ。最近は車で行ってしまうけど、寝台列車の旅もしたくなってきた。アジアの香辛料の匂い、日本の蕎麦も含めたヌードルの旅でもある。このスパイス臭がダメな人にはこの本は無理だが、全体に漂うアジアの香辛料のムードが懐かしいという人には、この本は忘れられない読書になるはずだ。
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J・M・クッツェーの文学と「遅い男」

2012年11月23日 00時03分01秒 | 〃 (外国文学)
 本や映画に関して自分の備忘のために何回か書いておきたい。書いておかないと忘れてしまうから。まずは昨年暮れに出た本で、ちょっと前に読んだJ・M・クッツェー「遅い男」(J.M.Coetzee Slow Man、早川書房)の話。小説を読みなれた人でないと推薦はできないけれど、大変な問題作で小説愛好家なら読んでおきたい本。ただ、クッツェ―は他に先に読んでおきたい本がある。特に「エリザベス・コステロ」という小説は、本作と密接な関連があり先に読んでおかないと著者のねらいがよく伝わらないだろう。

 そもそもクッツェ―とは何者かという人も多いと思うけど、2003年のノーベル文学賞を受賞した世界的な作家である。イギリスの有名な文学賞であるブッカー賞を2度受賞したことでも知られている。ノーベル賞を取った時点では国籍が「南アフリカ」とされていた。南アフリカ国籍でノーベル文学賞を受けた人には、ナディン・ゴーディマという女性作家がいる(1991年受賞)。ゴーディマもクッツェ―も反アパルトヘイトの言論で知られていて、僕もそういう関心で読んでいた。しかし、その後大傑作の「恥辱」という小説が、政権政党となったANCに批判されたこともあって、クッツェ―はオーストラリアに転居してしまった。民族的には1940年生まれのアフリカーナ―(数百年前から住みついて土着化しているオランダ系の人々で、アフリカーンス語を話す。アパルトヘイト体制を作った人々)なんだけど、英語で書いてきた。イギリス、アメリカに住んで、本当は米国市民権が欲しかったというが、ベトナム反戦運動に参加してふいにしたらしい。だから一貫して英語で表現してきた作家であり、南アフリカからオーストラリアに居を移しても、「亡命」とか「移民」とは言えない。今はアデレードに住んで、この小説もそこが舞台になっている。

 日本でも結構翻訳されていて、「夷狄を待ちながら」(1980、集英社文庫)、「マイケルK」(1983、ちくま文庫、ブッカー賞)、「恥辱」(1999、ハヤカワepi文庫、ブッカー賞)と3冊も文庫本が出ている。池澤夏樹編集の世界文学全集(河出)には「鉄の時代」(1990)が収録されている。他にも翻訳は出ているが僕は読んでいない。これらの作品を読んでみると、特に最初の2冊はどこの話かも判らない寓話的な話になっている。「夷狄を待ちながら」は、ある帝国の辺境の地で民政官を務める男の目を通して、その地へやってきた軍隊を描く。軍の拷問や強硬路線を批判する話とも読めるが、同時に「夷狄」を必要とする「帝国」の構造を寓話で描く作品とも言える。開高健の「流亡記」やベケット、別役実を思わせるような「不条理劇」という感じの作風。それは「マイケルK」も同じで、内戦が激化し母親を連れて故郷を目指す男の話である。これらは発表当時の南アフリカの厳しい言論状況を考えて、発禁にならないように寓話的に書いたと言う。が、それだけでもないだろう。クッツェ―は本質的に方法的な実験をする作家であり、寓話として世界を語る作家だと思う。だからアパルトヘイトという「政治的課題」が一段落しても、世界の構造としての暴力を描いているから古びていない

 アパルトヘイト体制下のケープタウンを一番描いているのは、「鉄の時代」だろう。ガンに侵された老女性がアメリカに住む娘にあてて書いた「遺書」を、いつのまにか家に住みついてしまう「ホームレス」に託すまで。「病気」と「暴力」を描きつつ、黒人少年への警察の暴力を告発する姿が印象的で、差別と暴力の構造を余すところなく描く。「恥辱」になると、もうアパルトヘイトは終わっている。白人で初老の大学教授が女子大生と性的関係を持ってしまい大学を解雇される。疎遠だった娘がいるのだが、彼女はさまざまな遍歴の結果、今は農業をやっていて、結局そこに転がり込む。その娘は黒人支配体制下で生きて行かなくてはならず、性暴力に見舞われ、どんどん変容していく。大変面白く、読みやすい風俗小説の趣もあるが、「性」「暴力」だけで読んでしまうと、この小説が持っている方法的な「毒」が見えにくい。ある男の「転落」を描きつつ、ここでも「暴力」が変える社会のありさまを寓話的に描いている。その黒人社会の中の「暴力」の描き方が、民族文化批判のように受け取られて、クッツェ―は南アフリカを離れた。しかし、たぶん彼はどこにいたときも「内的亡命者」として生きていたのではないかと思う。

 そしてノーベル賞を受け、オーストラリアに移った後の最初の作品が「エリザベス・コステロ」(2003)だけど、一体これは小説なのか。エリザベス・コステロなるオーストラリア女性の老作家が抱く様々な文学、哲学、社会評論がこの「小説」。架空作家だから「小説」と言えるが、中身は評論集と言った方がいいし、ほとんど彼自身の意見を書いているところもあるようだ。ただ本の中では、女性作家の意見という形で進行する。作家が自分の代わりのような人物を作品に登場させることはよくあるけど、性を変えて登場させるのは珍しいし、ほとんど論評だけというのも珍しい。

 そして「遅い男」。冒頭で交通事故。自転車に乗っていた初老の男が片足を失う。「突然の障害」という人生の転機がやってくる。離婚した妻はいるが、事故時点では独り身の自由を生きてきたけれど…。しかし「障害」が介護を必要とし、介護士が派遣されるようになる。なかなか小うるさい男で、文句が多いが、あるクロアチア人の女性が来るようになると、素晴らしさを「発見」し、次第にあらぬ欲望を覚えていく。夫と二人の子もいるというのに。クロアチアについて調べたり、ちょっと近づいたり、いろいろあって…。ここまででも、「障害」と「老い」と「性」を、「介護」という視点で描いた問題作で、「介護文学」とも言える。障害そのものが人間にとって異文化で、それをクロアチア女性が担うことによって、まさに異文化体験となる。ところがこの小説はそこに止まらない。突然小説内にエリザベス・コステロなる老女性作家が乱入してくる。前作の主人公である。この女性は「影の作者」なのだから、これは小説内に作家が入り込んでしまったというのに近い。しかし、作家そのものではないので、女性として男性主人公と相談し、物語の結論をつけていく。もちろん介護士が夫と離婚し主人公と結婚するというようなことはありえないだろう。だけど、なんか彼女の役に立ちたい。長男の私立学校進学を支援したい。それならいいのでは。でも夫は納得できない。ここに長男が登場する。これがまた傑作な登場人物で、現代世代の若さが老人世代の二人を圧倒してしまう。メチャクチャなんだか、思いやり深いのか。いい加減なんだか、計算高いのか。生き生きと現代青年の姿が描かれている。

 そういう「メタ小説」であると同時に、障害者と健常者、老人と若者、男と女、定住者と移民、など様々の「二項対立」が作品内で意味が変わっていく様子が描かれていく。「介護と老いと性」という「危険だけれども、安全なテーマ」が「脱構築」されてしまう。後半は議論が多くて、けっこううっとうしい作品でもあるけれど、小説の方法としてもテーマとしても、大変な問題作。小説が好きな人なら、名訳で読みやすいと思う。クロアチア移民の姿も印象的だが、特にどんどん適応していってオーストラリアの軍人になりたいと思っている長男が印象的である。重要な作家の重要な作品
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カリフォルニア・ドールズ

2012年11月21日 21時59分18秒 |  〃  (旧作外国映画)
 シアターN渋谷という映画館が12月2日で閉館する。昔ユーロスペースがあったところで、7年前にユーロスペースがBunnkamuraの近くに移転した後に、新たな名前で映画館をやっていた。そこの最後の番組の一本として、1981年のアメリカ映画、ロバート・アルドリッチ監督作品、「カリフォルニア・ドールズ」をやっている。なんでも音楽の著作権問題でDVDが発売されていないという。公開当時見て、ものすごく面白かった記憶があって、もう一度見てみたいと行ってきた。いやあ、面白い。昔の映画だから、多分知らない人の方が多いと思うけど、だまされたと思って見て欲しい映画。ただし、女子プロレスの映画なので、格闘シーン満載である。他人が映画の中で殴られているのも耐えられないというくらいの、身体共感能力豊かな「平和主義者」には辛いかもしれないが。そうでなかったら、痛快なアクション映画で素晴らしいロード・ムーヴィーを楽しめること請け合い。
 
 ロバート・アルドリッチ(1918~1983)という監督は、1954年の「ベラクルス」というアクション映画で知られるようになった。以後「攻撃」「何がジェーンに起こったか?」「特攻大作戦」などの映画を作った。戦争映画、西部劇、サイコ・サスペンスなどアクションを中心に多彩な娯楽映画を作った監督である。70年代になると、ホーボー(鉄道タダ乗りの放浪者)と鉄道警備員の闘いを描く「北国の帝王」(1973)、バート・レイノルズが囚人のアメリカン・フットボールチームを活躍させる「ロンゲスト・ヤード」(1974)などの忘れられない「男の闘い映画」を作った。今回同時にリバイバルされている「合衆国最後の日」(1976)も含めて、ほぼすべて男性アクション映画である。そういうアルドリッチの遺作になってしまったのが、この「カリフォルニア・ドールズ」(1981)で、82年のキネ旬ベストテン8位に選ばれた。唯一のベストテン入選であり、女性中心の映画という意味でも珍しい。

 スポーツ映画はアメリカで数多く作られている。ボクシングと野球が一番多い。もう枚挙にいとまないほどの名作が作られてきた。大体パターンは決まっていて、弱い球団、年老いたボクサーなんかが人間としてのプライドを掛けて最後の闘いに挑む。しかし、やられまくって、もうダウン(引退)寸前であるが、家族とか偏屈な名監督なんかの助言で、奇跡が起こるかもしれない。頑張れ!頑張れ!起これよ、奇跡! そして大体奇跡のような勝利が舞い込むわけである。判っているけど、演出と演技で迫真のスポーツシーンになると、見てる側も熱中してしまうし、驚くような技で逆転するのがカタルシスを呼ぶわけである。

 まあ、そういう意味では、この映画もスポーツ映画の定型に当てはまっている。ただし、女子プロレスというジャンルが珍しい。そしてマネージャー役の男性と3人組でアメリカ各地をおんぼろ車でドサ回りする。このマネージャーがピーター・フォーク。オペラを流しながら、小金を求めてさすらいの旅を続けながら、なんとか這い上がろうとする落ちぶれた男を大変印象的に演じている。正直言って、もう刑事コロンボと「ベルリン・天使の詩」しか覚えていなかったんだけど、この映画も記憶しておかないといけない。「誇り高き頑固者」を全身で演じている。

 ピーター・フォークがなんとかして取ってきた「トレドの虎」というチャンピオンとのノンタイトル・マッチ。敵地の試合なので当然負けるべきところ、「カリフォルニア・ドールズ」は本気出してアウェイで勝ってしまう。以後宿敵となった両者が合計3度闘う。泥んこになって裸になっちゃうアトラクションなんかに嫌々出ながら、だんだんレスラーの階段を上っていく「ドールズ」の二人。嫌味な興行師と泣く泣く付き合って「トレドの虎」とタイトルマッチ。雌雄を決する最後の決戦は、荒れに荒れ、もう残り一分、負けに決まってるんだけど…。この最後のプロレスシーンは、とても見応えがあって、興奮必至。

 ボクシング映画だと大体、八百長を持ちかけるギャング組織が敵役になるんだけど、この映画ではそれはない。まあ、プロレスは興行色が強く、いまさら八百長を仕掛けるようなものではないのかもしれない。女子プロレスには、八百長ではなくセクハラ。高校中退で今さら仕事するにも大した仕事はない。なんとか2人+男1人で、プロレスで頂上を目指すのだという、そのど根性。そして最後の闘いにかけた秘策とは…。これは紅白歌合戦かと思うシーンにボー然。観客はほとんどドールズの応援になってしまう。

 男のプロレス映画では、「レスラー」という名作映画が数年前にあった。韓国で作られた「力道山」も忘れがたい。女子大生のプロレス(学生だからプロじゃないけど)を扱った日活ロマンポルノ「美少女プロレス 失神10秒前」というのも今年見たけど…。またプロレスの記録映画も数多い。しかし、プロレス映画の最高傑作は「カリフォルニア・ドールズ」にとどめを指すと思う。これはスポーツ映画というジャンルではあるが、同時に「元気で頑張る女性映画」というジャンルの傑作でもある。「テルマ&ルイーズ」(1991)とか。あるいは「ビッグ・バッド・ママ」(1975)というトンデモナイ女性ギャング映画があった。「フライドグリーントマト」(1991)なんかも南部を生き抜く女性の強さが印象的だった。アメリカの大衆映画の中に脈々と続く、「元気な女たち」の映画というジャンルの一本でもあるだろう。面白くて元気になる映画を見たい人は是非。

 なお、「ロンゲスト・ヤード」も「午前10時の映画祭」でやっている。これからあちこちで見られる可能性があるが、是非見ておきたい傑作である。ちょっと「お下品」なとこもあるけど。「もう一度見てみたい」って、「ロンゲスト・ヤード」を公開の時に見た人はそれほど多いわけでもないでしょうに。よく「午前10時の映画祭」に入ったもんだ。誰か大ファンがいたのか。僕は大学に入ったばかりの時に、蓮見重彦さんの「映画表現論」を取ってしまった。立教大学に来ていたのである。蓮見氏は「ロンゲスト・ヤード」とドン・シーゲルの「ドラブル」を見に行くようにと指示を出した。まあアート映画ではなくて、この両作を見せたいというところに特徴があるが、学生がロードショーを見るのは大変である。なんで見せられたんだと思いながら見た記憶があるのが、「ロンゲスト・ヤード」である。面白かったですけど、名画座で見ればいいような気がしたのも事実である。これもスポーツ映画の代表作と言える。

 シアターN渋谷は、ユーロスペース時代というか、その前の「欧日協会」の時代から映画を見てきた。世界の珍しい映画を見ることが多かった。スイスの映画監督アラン・タネールの「ジョナスは2000年に25歳になる」「光年のかなた」の連続上映というのが思い出に残っている。ドイツの「鉛の時代」「秋のドイツ」もここで見た。ペドロ。アルモドバルの初期作品もここで知られていった。ヒットしたのは何と言っても「ゆきゆきて神軍」だろうか。80年代、90年代の名作、問題作の多くをこの場所で見た思い出の場所だったのだが。
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「政権交代」という新書本

2012年11月16日 23時47分15秒 | 〃 (さまざまな本)
 中公新書で、小林良彰「政権交代」という本が9月に出た。この本を紹介しながら、解散・総選挙を迎えた日本の政治を考えてみたい。


 2009年に自公連立政権が敗れて、民主党中心の内閣が誕生した。それは突然起こったわけではなく、それ以前の自民党政権を考えておかないと理解できない。どこまで振り返ってもキリがないが、この本ではとりあえず2005年の小泉政権の郵政民営化解散と自民圧勝から書き起こしている。今回初めて選挙権を得た若い世代は、まだ中学生だった頃のことである。大人でも首相が次々と変わったこの7年間、順番にその首相を言えない人がかなり多いのではないか。小泉から始まり、7人に及ぶ。一応書いておくと、小泉→安倍→福田康夫→麻生→鳩山由紀夫→菅→野田、となる。(福田と鳩山は、それぞれ父と祖父も首相だから、名前を書いておく。)

 この程度の問題がクリアーできない人、いやあ忘れちゃったなあというような人は、選挙前にこの本を読んでおいたほうがいい。そして、2009年からの3年間、これももう覚えていないという人もいるのではないかと思う。結構いろんなことがあったし、東日本大震災があって、なんだかそれ以前のことは大昔みたいな気がする人が多いだろう。この本を読んで思い出しておこう。(なお、39頁「総選挙では沖縄県の4つの小選挙区のすべてで自民党は敗退し、民主党が三議席、国民新党が一議席を獲得する。」と書いてあるが、間違いである。前段は正しいが、後半の民主は二議席。沖縄2区は社民党の照屋寛徳氏である。民主党の推薦であるが、明確に社民党所属である。なお、民主の玉城デニー、瑞慶覧長敏(ずけらん・ちょうびん)両代議士は民主を離党しているので、現在沖縄選出で与党にいるのは下地郵政民営化担当相(国民新党)だけである。このような基礎的データが校正でも治らないのは問題。)

 この間の3年間で民主党政権にとって最大の問題は、僕に言わせれば「沖縄の普天間基地問題」である。「最低でも県外」の鳩山首相の当初方針がもし実現していれば、2010参院選は鳩山首相で、社民党も政権内にいて迎えたことになる。民主党が勝利していたのではないか。「普天間問題」で鳩山首相の支持率が下がり、菅内閣に代わる。普天間問題で対米関係は「悪化」したとされ、マスコミは対米関係が心配であるという論調でキャンペーンをした。菅、野田内閣は「沖縄を犠牲にして、アメリカ従属を認める」という方針を取らざるを得なかった。この民主党政権における対米関係悪化、政権の不安定化こそが、それぞれの国の国内事情もありつつ、ロシアのメドヴェージェフ大統領(当時)の北方領土訪問、韓国の李明博大統領の竹島訪問、中国の尖閣問題強硬方針(今年というよりも、むしろ2010年秋の段階の)などを呼び込んでしまったのではないか。そして、それを受けて日本国内で「反民主政権」を主目的とした「ナショナリズム」が高まる。そういう中で、アメリカで石原都知事(当時)が尖閣諸島購入を打ち出した。都民の金で買おうという話を、東京で発信するのではなく、よりによってアメリカで行ったのである。このあたりの裏にあった事情は、まだ不明なことが多い。

 参院選で敗北し、民主党の独自政策は通らなくなってしまった。今自民党が「民主党はマニフェストを守らなかった」などと批判しているが、自民がジャマをしたのだから当然ではないかと思う。自民は「子ども手当」はいらないという方針なんだろうし、それで参院で反対したから通らない。自民党が「民主党はマニフェストを守らなかった」というのはおかしい。「わが党が民主党のマニフェスト実現を阻止した」というべきである。それがいいか、悪いかは国民の判断するところである。自民の協力がないと何も決まらない以上、民主と自民が一致できるテーマしか実現できない。それが「社会保障と税の一体改革」、つまりは消費税増税である。そういう国会構成にしてしまったのは、国民自らであって、国民の側が民主党に「失望した」とばかり言うのは僕には理解できない。この「決まらない国会」が大震災時であったということは、歴史的な不幸だった。僕は原子力規制委員会は、民主党当初案の方が良かったと思うし、それで2012年4月発足をするべきだった。(民主党案は環境庁の外局として規制庁を置くという方針だった。しかし、自民党は「菅首相が介入したから事故対応が遅れた」と主張して、「菅リスク」をなくせと「3条委員会」にせよと主張した。原発をずっと維持するならば、政府と距離を置いた独立委員会のほうがいい。しかし、原発の存廃を政策判断するのなら政府の中に置かないといけない。そういう委員会になったため、今大飯原発の再稼働を止めるのも(活断層問題をどう判断するかも)、逆に他の原発を再稼働するのも、どこがいつ判断するのか判らない。原発を持ちつづけたい自民党の策謀なんだろうと思う。)とにかく、もめるものは自民、公明案を丸のみするしかないまま、野田内閣が消費増税のためにのみ延命してきて、それもついに尽きてしまった。

 選挙戦については、また構図がはっきりしてから書きたいと思う。民主党は今の段階では離党、引退議員がいるため、民主から立候補しようという人が全員当選しても過半数にならない。まあ、今後もう少し各選挙区で決まっていくのだろうが、解散当日にこれでは「政権維持」を口にするのも恥ずかしい。安倍自民に「石原+橋下」では、困ったもんだと思うが、社民党の福島党首はこういう状況に待ったを掛けるのは社民の躍進だと言っていた。だったら、各選挙区で候補を立ててから言ってくれ。今後、維新・みんななどがどのような候補を立てるかによって変わっても来るだろうが、ちょうど一か月前になっても決まってない落下傘候補が、仮に党首人気や政策が受けたとしても当選できるものだろうか。05年の自民の「刺客」は確かに当選した人もいたけれど。今の段階では、前回落ちた自民候補がいるところは、自民が強いと考えられる。しかし、必ず自民・公明で過半数を取ると決まっているわけではない。今後の動向次第。ということで一端終わり。
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追悼・森光子

2012年11月15日 21時06分12秒 | 追悼
 上演2017回を数える舞台「放浪記」や人気テレビドラマ「時間ですよ」などで幅広く活躍、文化勲章、国民栄誉賞を受けた女優の森光子(もりみつこ)(本名・村上美津(むらかみみつ))さんが10日午後6時37分、肺炎による心不全のため、都内の病院で亡くなった。92歳だった。(読売新聞より)

 僕はテレビドラマをほとんど見てこなかったから、森光子さんのテレビでの仕事は語れない。ドラマの名前くらいは知ってるし、「3時のあなた」の司会も見たことはあったけど。コマーシャルもやっていた。そういう気取らない下町のおかみさん風のテレビ女優だと思っていた。芸歴の長い女優で、舞台「放浪記」を持ち役にしていることは後に知ったことである。

 嵐寛寿郎(鞍馬天狗で有名な時代劇俳優)の従妹だったということは今回初めて知った。その縁で戦前から映画に出ていて、戦時中は戦地慰問を行うというような経歴は、あまり大事ではない。60年代頃に東宝を中心に映画にもずいぶん出ていた。最近評価が高い鈴木英夫監督「その場所に女ありて」(62)にも出ている。「ビジネスガール」として銀座の広告会社で大活躍の司葉子。一方、その姉の森光子は「男にだらしない」タイプでお金が足りなくなると、銀座の会社に妹を訪ねてくる。そういうやっかい者の姉をそつなく演じている。司葉子の洋装を美しく撮り、高度成長下の銀座に働く女を取り上げるという映画だから、森光子は引き立て役。和装で性格的に弱いタイプである。当時はその程度のチョイ役俳優だったのかという感じである。

 やっぱり「放浪記」の素晴らしさ、これにつきるだろう。「放浪記」は映画にもなっている。成瀬巳喜男監督、高峰秀子主演。これは成瀬、高峰コンビのいくつもの傑作には及ばない。それは原作にも問題があると思う。原作は素晴らしい詩情をたたえた、若い女性の貧困との闘いの貴重なドキュメントでもあるけれど、名声と功名心にはやる青春の嫌味な部分も伝えている。身近にいたら、あまり付き合いたくない感じで、親切にしてあげても日記に悪口を書かれてしまうような恐れを感じる。そういう原作の嫌味な部分はむしろ高峰秀子がよく演じていると思う。舞台の森光子は、長い時間をかけて濾過されていった、「放浪記」の素晴らしい部分を凝縮して演じていた。脚色した菊田一夫の素晴らしさもある。日本の大衆演劇が達成した最高の作品と言ってもいいのではないか。

 森光子さんは文化勲章を2005年に受賞した。日本では伝統演劇(能・狂言・歌舞伎・文楽)の役者は何人も文化勲章を受けているが、新劇や大衆演劇の俳優はほとんど受賞していない。まあ新劇人はほとんど左翼だったから、お互い賞の対象外にしていたのだろう。杉村春子は対象になったけれど辞退している。他には森繁久弥と山田五十鈴がいるだけである。文化功労者にまず選ばれ、その中からいずれ文化勲章が選ばれるというシステムに今はなっている。ではその文化功労者に選ばれた俳優はと言えば、東山千栄子、水谷八重子、森繁久弥、杉村春子、山田五十鈴、森光子、高倉健、仲代達矢、吉永小百合、大滝秀治。たったこれだけなのである。今年、山田五十鈴、大滝秀治、森光子が亡くなった。いやあ高倉健や吉永小百合が選ばれていたのは失念していたが、仲代達矢ともども今後の健康と活躍を祈りたい。
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タル・ベーラの映画を見る

2012年11月13日 23時16分57秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ハンガリーの映画監督、タル・ベーラ(1955~)の特集を東京吉祥寺のバウスシアターでやってる。今年公開された「ニーチェの馬」は見ていたけれど、「ヴェルクマイスター・ハーモニー」(2000)と「倫敦から来た男」(2007)は見ていなかったので、この機会に見てみた。16日までやってるけど、別に勧めるつもりはなく、自分の備忘のために書いておく次第。

 ハンガリーはアジア式に姓を先に書くので、タルが姓、ベーラが名前である。で、このタル・ベーラ監督には、1994年に発表された「サタンタンゴ」という7時間超にもなる伝説的傑作がある。去年一度だけ「ぴあフィルムフェスティバル」で上映されたけど、その上映時間に恐れをなして見なかった。今年見た「ニーチェの馬」もとても特徴的な作品で、はっきり言って面白いとは言えないのだが、妙に忘れがたい作品だった。ベルリン映画祭銀熊賞を取っている。

 哲学者のニーチェは、1889年1月3日、イタリアのトリノの街角で御者に鞭打たれる馬を見て、馬を守ろうと近づき馬の首を抱きしめながら昏倒し、そのまま精神が崩壊してしまった。しかし、ニーチェはいいから、その馬はどうなったという映画。もちろんその馬が生きているわけはないから、タル・ベーラが勝手に考えて映像化したわけである。御者の男は娘との貧しい暮らし。荒野の一軒家で質素な食事を取る。寒風が吹き荒れ、ほとんど嵐になってくる。男と娘と馬の暮らしを映画はただ見つめる…。
(「ニーチェの馬」)
 というただ見つめるだけの映画で、画面は「そこにはただ風が吹いているだけ」である。白黒で、暗い画面がちっとも動かない。動かないと進まないので、もちろん動きはあるんだけど、非常に遅いし、何か19世紀ハンガリーの寒村にカメラを据え付けたような映画だった。これは一体なんだ。「ニーチェの馬」というけど、ニーチェの映画ではなく、馬の映画ですらない。難行苦行のような修行の2時間半

 そういうザラザラした、納得できないながら何か心に引っ掛かる映画を作ったタル・ベーラ。いつか他の映画も追いかけてみたいと思っていた。21世紀だって言うのに、白黒の映画しか作ってない。しかも以上の4つの作品しか出てこないし、これでもう映画を作らないとも言う。僕が1回見た限りでは「ヴェルクマイスター・ハーモニー」が一頭他を抜いた傑作のように思った。145分を37カットという、これはまた極端に長回しの映画で、画面は見つめるだけで動かない。動かないってことはないんだけど、実に静かにゆっくりと動いて行く。だから疲れているときっと寝る。

 時代は判らないが、戦車やヘリコプターは出てくる。ある地方の都市の広場に、クジラを見世物にするトラックがやってくる。それをきっかけに暴動が起き、人間関係が変容していく。という筋では判らない。何でクジラが来ると町がおかしくなるのか、さっぱり判らない。まあ象徴という意味で理解するしかないんだろうけど。この街の様子が、光と闇の映像で美しく描きだされる驚異の映像叙事詩。だけど物語的には、なんだかよく判らない。でもその長回しと町の夜の美しい映像は忘れられない。
(「ヴェルクマイスター・ハーモニー」)
 「倫敦から来た男」は、ジョルジュ・シムノン原作の港町の映画。だからハンガリーではない。フランスかベルギーか、フランス語の映画。そこでロンドンから来た男は行方不明になり、金がなくなる。偶然にその大金を入手した男が、人生を狂わせていく。光と影の白黒映像の美しさはこれが一番かもしれない。でも、長回し、静かな映像という点は他の映画と共通する。これは犯罪が出てくる「フィルム・ノワール」に入ると思うけれど、世界映画史上もっとも変わった犯罪映画ではないかと思う。犯罪、犯人、それをめぐるサスペンスを言うところにこの映画の焦点はない。犯罪をきっかけに変わっていく人間のありさまを、ただ見つめる、そういう映画。138分。夜のとばりを美しく表現する映像は、まさに語義通りの「黒い映画」(フィルム・ノワール)と言ってもいい。
(「倫敦から来た男」
 人間の顔だって、どんな美人の顔もただ見つめていれば、ほくろやシミ、しわが目についてくる。これらの映画でも、じっくりと人間を見つめる(人間だけでなく、すべての眼前にあるものを)ので、「世界の原形質」みたいなものが露出してくる地層を掘っている感じ。そういう原初的な感動がある。ただ普通の意味で面白いと言えるかは、かなり疑問である。タルコフスキーにならちゃんとあるストーリイやテーマが、タル・ベーラには見えにくい。「ミニマリズム映画」というべきか、「静かな映画」(「静かな演劇」に対応して)というべきか。まあアート映画に特別に関心がある人以外は見ない方がいいと思うけど、そういう世界を知りたい人は見て損はない。
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和田春樹「領土問題をどう解決するか」-領土問題としての沖縄

2012年11月09日 00時27分07秒 | 〃 (歴史の本)
 和田春樹氏の「領土問題をどう解決するか」(平凡社新書、2012.10)を読んで、前に書いた領土問題についての記事を大幅に考え直す必要があると思った。全面的に展開するには時間がかかるので、とりあえず自分が気付かずにいたことを書いておきたい。

 和田春樹氏はロシア(ソ連)現代史の研究者(東大教授)として有名だったけど、70年代に韓国民主化運動の連帯運動の責任者をしていた。そこから朝鮮・韓国現代史の研究に踏み込み、朝鮮戦争や金日成の研究も行ってきた。北方領土問題も古くから研究課題としている。90年代には、いわゆる「従軍慰安婦」問題に深く関わり、「アジア女性基金」の活動を担う一人となった。研究者を超える社会運動家として、左右を問わず論議を呼ぶことも多い。しかし著書や論文は「実証的歴史学」に基づくもので、主張の賛否とは別にして、反論するには実証的な批判でなければならない。

 和田氏の立場は、ソ連や韓国、北朝鮮、そして日本に対しても、その暗部を指摘する立場がはっきりしている。政治性もあるが、勇気ある言論活動を続けてきた。現代史家として、また韓国政治犯の救援運動家として、僕は70年代以来いつも気にかかる存在だった和田氏の北方領土論も前に読んだと思うが、細かい論点は忘れてしまった。改めて読んで思ったことがいくつかある。和田氏の主張は、かつて「日面ソ心」とまで某教授に悪罵を言われた。「昔なら決闘を挑むところ」と思ったとまで書いている。しかし決闘はできないから反論に全力を注いだという。
(和田春樹氏)
 そこで見えてきたのは、日本が放棄したクリル(千島)列島に、国後、択捉の2島が含まれていることは、敗戦直後の政府には了解されていたという事実である。この事実は同書を読む限り疑いようがない。しかし、だんだん日本政府の見解が変わっていく。吉田茂首相の答弁が変わるのである。アメリカの意向がその背景にある。つまり日本が2島を放棄することを認めるなら、ソ連も「平和条約締結時に、色丹、歯舞は返還する」と言ってるわけだから、鳩山一郎内閣時代に「2島返還」で平和条約が結ばれていた可能性があったのである。

 しかし、そうなってはアメリカが沖縄を支配していることの不当性が日本人に大きく見えてしまう。ソ連は返した、アメリカも返せ、ソ連とは仲良く出来る、アメリカはひどい、になる。60年代のベトナム戦争に沖縄の基地が果たした役割を考えると、アメリカは少なくとも60年代には沖縄を手放したくなかったということだ。だから、日本に対し、2島返還でまとまらないよう様々な工作をする。そのため、だんだん「4島返還論」が常識化していって、ソ連はひどいという世論が形成されていくという。そういう成り行きが書かれている。そして、北方領土や竹島に関して独自の主張を行う。その中身は賛成できない部分もあるのだが、とにかく読んでおくべき本だ。外務省のサイトを見ているだけでは、出てない(か、もしくは判りにくい)論点があるということである。

 この本を読んで一番思ったのは、「領土問題としての沖縄問題」という観点である。戦後長らく、日本人にとって、最大の領土問題は沖縄問題だった。1972年5月15日の「復帰」までは。ところが、アメリカが奄美、小笠原、沖縄と「返還」して行ったから、「アメリカとの間に領土問題はない」という気持ちになる。ソ連(ロシア)との間には「解決できない領土問題がある」という見方が常識になった。しかし、領土問題とは、大日本帝国が戦争に敗北したあとの領土の範囲を確定するということでだ。日本人のほとんどは、朝鮮独立、台湾や「満州」の利権(遼東半島の租借や満鉄線など)の中国返還に異存はない。本州、北海道、九州、四国と周辺の諸島で納得している。ただ、個別の具体論で、どこまでの島なのかで問題になっているだけである。

 沖縄、北方領土、竹島などは皆アメリカの戦後戦略と密接に関連していたし、今も関連している。(尖閣は沖縄の一部で、米国支配中は中国も台湾も領有権を主張していなかった。)我々は、「北方領土は領土問題」、沖縄の基地は「国内の問題」というカテゴリーだと思っている。国内には本土にも米軍基地があり騒音問題などがある。沖縄は「本土並み」になるはずだったし、「日本国憲法」の下に入ったのだから、日本国民としての基本的人権が認められなくてはならない。そういう主張を行うことによって、そもそも沖縄が領土問題だった記憶が薄れてしまった。しかし最近の米軍人の行動を見ても、米軍は「沖縄は自国民の血で獲得した実質的な領土」と考えているのではないか。そうでないとこれほど事件が頻発し続けるわけがない。

 今日本人に突きつけられているのは、領土問題というより、実は日本の戦後処理の問題と言うべきだ。その中には「慰安婦」問題や朝鮮人「BC級戦犯」問題、中国の遺棄毒ガス問題など未解決の様々な問題がある。一方、沖縄の基地問題も日本の「未完の戦後処理」の問題なのである。そう見れば、日本人の住民がいない竹島や尖閣(旧島民はいる)、北方領土(旧島民はかなりいる)と比べても、「今でも苦しんでいる国民が多数いる」という意味で、今なお「沖縄が最大の領土問題」と言えるのではないか。「未完の沖縄返還」という事態こそ、日本の最大の領土問題だという観点の重要性。僕が和田氏の本を読んで学んだ最大の点はそのことだった。
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映画「心中天網島」と文楽問題

2012年11月08日 01時06分48秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷の篠田正浩監督(1931~)特集上映で、篠田監督の初期作品をかなり見た。新しく篠田監督について思ったこともあるが、ここでは再見した傑作「心中天網島」について、大阪市の橋下徹市長の提起した文楽協会への補助金問題とも関連して書いておきたい。

 「心中天網島」(しんじゅうてんのあみじま)は、近松門左衛門が1720年に書いた人形浄瑠璃の傑作である。それを篠田正浩監督がATG1000万円映画として1969年に映画化した。実験的な作風、鋭い社会風刺、岩下志麻中村吉右衛門の名演で傑作となった。1969年キネマ旬報ベストワン岩下志麻が主演女優賞など、この年の映画賞で高く評価された。ATGは1960年代末に、当時でも低額の1000万円で映画製作に乗り出し、お金はないが自由を求める映画人が結集した。「心中天網島」はATG製作で初のベストワン作品となった。
 
 画面からは、まず篠田監督本人と脚本を担当した富岡多恵子が電話でしゃべる声が聞こえてくる。クレジットタイトルにかぶさっている。ここで早くも「実験的方法の作品」であることが示される。単なる過去の名作の映画化ではなく、明確に現代を見据えた企画であると監督自身が示す。セットは簡素な遊郭の一室で、いとこの前衛書家篠田桃紅が書いた書が装飾に使われている。美術は粟津潔、音楽だけでなく脚本にも武満徹がクレジットされている。武満徹は篠田作品の多くで音楽を担当したが、この映画は中でも素晴らしい。この名前を見るだけで、60年代日本のすぐれた若い才能が結集して作られた作品の熱気が伝わる。篠田監督の最高傑作である。

 紙屋の治兵衛が女房のおさんがありながら、紀伊國屋の遊女小春と馴染みになる。小春は治兵衛と心中約束をしているが、おさんから手紙を貰い身を引く決心をする。一方、小春をねらう恋敵・太兵衛は金の力にまかせて小春を我がものにしようとするが…。浮世の義理と金の重みに雁字がらめの人々の、意地と誤解がもつれにもつれ、世間体を考える人々の悪意に囲まれ、二人は悲劇に追い込まれていく。映画ならではの工夫として、小春とおさんを岩下志麻が一人二役で演じた。岩下志麻は実生活で篠田監督と夫婦であり、篠田映画のミューズを数多く演じたが、中でもこの二役は素晴らしい。治兵衛にとって小春とおさんが持つ意味、引き裂かれた心をまざまざと示す。小春が客として以上に持つ愛情、おさんの小春への義理立てがともに観客にストレートに伝わってくる。

 この映画では画面に「黒子」が出てくる。文楽(人形浄瑠璃)では、人形を操る人形遣いが「黒子」として観客に見える。一方、顔を出して人形を操る人形遣いもいる。ここが世界の人形劇の中でも独特な点である。人間が顔を出すと物語に入り込めないという橋下市長の感想があった。映画は俳優が演じているし、場の転換の時間もいらないから、本来「黒子」がいる必要はない。しかし、画面では黒子が歩き回り、俳優の浜村純が演じる黒子は顔も出す。

 この演出にはどういう意味があるのだろうか。一つは文楽という古典劇のムードを出す演出があるだろう。人間が演じる「人形浄瑠璃」である。しかし、それだけではない。登場人物の周りには、もっと大きな「世界」があり、ひとりの人間はその世界で割り振られた「運命という名の物語」を誰かに操られて演じている。つまり「黒子」は「運命」や「歴史」の具象化として、象徴的に存在していると感じられる。

 文楽を学生時代に見たときに「これほど人形が生きているように見えるのか」と思った記憶がある。人形遣いが見えるということも、むしろ自然な感じがした。(人形は誰かが操っているに決まってるんだから)。人形の演じる物語とその人形を操る人形遣いを同時に見るという構造は、自分の専門である日本近現代史を見ると、全く違和感がなかった。黒子は民衆の隠喩か、あるいは運命の悪意なのか。さて、ある時非常に疲れていた時に文楽を見に行った。その時は語りが眠気を誘い、ほとんど全部寝てしまった。だから忙しいときに見ると、また寝そうだと思ってその後長く見なかった。僕は橋下市長が見に行く必要はないと思う。忙しい市長が見ても、物語に入り込めないこともあるのは仕方ない。それは文楽の問題でも市長の問題でもない。

 僕はそれより近松門左衛門原作の映画化作品を見たらどうかと思う。映画なら家で好きな時に見られるし、途中で中断してもいい。生身の人間が演じるから、現代的なテーマ性がはっきりする。名作の映画化だから、文楽や歌舞伎に負けない魅力がある。脚本がしっかりしているから、監督も演出に集中しやすい。幾つか有名な作品を挙げると、
 1954 近松物語(溝口健二)
 1957 女殺油地獄(堀川弘通) 1992(五社英雄) 2009(坂上忍)
 1957 暴れん坊街道(内田吐夢)
 1959 浪花の恋の物語(内田吐夢)
 1958 夜の鼓(今井正)
 1978 曽根崎心中(増村保造)
 1986 鑓の権左(篠田正浩)
 まだあるが、特に溝口「近松物語」、増村「曽根崎心中」などは、この篠田監督の「心中天網島」に勝るとも劣らない名作であり、心打たれる傑作だ。

 これらの映画を見ると、近松門左衛門の偉大さがよく伝わる。人形で見ると、なんだか古風な物語で、義理人情に縛られた遊郭のお話に感じられるときもある。しかし、近松の神髄は、「愛と自由」であり、虐げられた女の解放である。痛烈な身分社会批判であり、金がすべての世の中への痛打である。身分と金と世間体に縛られ、自由に愛を貫き通せない人間の悲しみが全身に伝わってくる。「天下の台所」と言われた大坂の町人の自由を求める叫びである。

 表面的には身分社会への批判はあまり出ていない。それを書いたら幕政批判になってしまう。だから「ぜいたくな町人が金に飽かせて女を我が物にしようと画策することへの批判」といった「ぜいたく町人批判」という当時でも許される範囲の物語になっている。しかし、金で縛られた女の苦悩、金さえあれば解決できるのに工面できない苦悩、そこには「貨幣」という形で表現された人間の苦しみが描かれている。金力という権力批判であり、それがまかり通る不自由な身分社会への批判である。全く他人ごとではない。カネで苦悩する今の世の中に通じる、今も滅びないテーマではないか。

 近松門左衛門(1653~1725)は、シェークスピア(1564~1616)、モリエール(1622~1673)などより遅い生まれだが、やはり市民階級の勃興の中で国民的な劇作家として活躍した。このような劇作家を生み出したことは大阪の誇りである。しかし、時代とともに「古典」として大成してしまうと、「通しかわからない」ものになっていく。それは避けられないし、それを革新していくことも大切だが、もともとのできた当時の心を尊重することを忘れてはいけない。

 僕が橋下市長に違和感を持つのもそこである。大坂町人の心意気が表現された文学をどうして粗末にするのか。文学も演劇も歴史の流れの中で「制度化」されていくが、もとは能も歌舞伎も被差別民衆の生み出した芸能である。そのエネルギーをどう現代に生かすか。問題提起は大事だが、金を掛けずには何事も成し遂げられない。日本は自国の市場がそれなりに大きいから、平気で市場にまかせろなどという。自国のマーケットが小さい韓国で韓流ドラマが世界に売れるのは何故か。関西圏は韓国と同じ程度の経済規模がある。世界をリードする文化が出ないはずがない。その時に歴史的な文化の記憶が一番大事になる。「世界無形文化遺産」の文楽は、その時に一番大切なものではないか。「文化的戦略」がない日本を象徴するような出来事は残念だ。 
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父ちゃんのポーが聞こえる

2012年11月07日 00時27分00秒 |  〃  (旧作日本映画)
 昨日見た映画の話。ものすごく傑作ということでもなく、スルーしてもいいんだけど、まあ書いておこうかなという点がある。今や「追悼映画専門館」とでも言うべき、池袋の新文芸坐だが、山田五十鈴を追悼し、堀川弘通監督を追悼し、今は三回忌特集で「小林桂樹と池部良」。その後に大滝秀治、生誕80年のフランソワ・トリュフォーと続いていく。その小林桂樹特集で、1971年東宝作品石田勝心監督作品「父ちゃんのポーが聞こえる」。公開当時に佳作と評価され、僕もいつか見てみたいけど、難病ものだしなあと思っていた。その「いつか」が41年ぶりに訪れた。

 一言でいえば「難病映画」になるが、同時に「鉄道映画」でもある。難病映画としてはかなり知られているが、案外鉄道映画として知られていないので、そのことをまず書きたい。父ちゃんである小林桂樹は、北陸の蒸気機関車の運転手である。コンビを組む釜焚き(石炭をくべる仕事)は藤岡琢也で、両者とも名演。富山県高岡の話とされているが、撮影は七尾線の七尾駅と言うことだ。そのことは「映画:「父ちゃんのポーが聞える」と、 昭和48年9月の頃の七尾線」という「ぼんやりした放浪者」というブログに学んだ。映画に出てくる機関車などの情報が詳しい。日本国有鉄道の協力で出来ていて、蒸気機関車だけでなく、鉄道員の暮らしがリアルに描かれている。

 小林桂樹の父は、妻を亡くして男手で2人の娘を育てている。上の娘が嫁ぐことになり、親子三人の旅を計画する。娘が太平洋が見たいということで、千葉に行って、今はつぶれた「行川(なめかわ)アイランド」のフラミンゴショーを見る。2001年に閉園した施設の貴重な映像記録である。千葉の観光施設として、後に鴨川シーワールド、さらに東京ディズニーランドが開園し、だんだん斜陽化していった。
(行川アイランドのフラミンゴショー)
 姉が嫁ぎ、父は再婚し、新しい家庭になった頃から、次女則子(吉沢京子が懐かしい)の身体に異変が現れる。立っていられずよく転ぶのである。不注意ではなく、明らかに片足にマヒがあるらしい。やがて中学で授業を受けるのも大変になり、病院内の学級(こまどり学級)に移る。そこの先生が吉行和子で、僕は彼女のファンだからうれしい。病院でも長くなるが、なかなか診断もはっきりしないまま病状は重くなってくる。その間、絵を教えに来てくれるボランティアの青年(佐々木勝彦)と親しくなり、初潮も迎え、恋のような感情を持つ。青年たちの絵画展が大和高岡店で開かれ、車いすで見に行った後で、一緒に山の公園にドライブする。しかし、パン屋の彼は東京に修行に行き、面会にも来られなくなる。

 その頃、則子の診断がはっきりする。現在の医学では治らない「ハンチントン病」(当時はハンチントン舞踏病と言われた)である。これはネットで検索すると、今も治らないが、遺伝子が特定されたという。遺伝病で治療法が今もない。極めて珍しい難病である。則子は山の中の療養所に移らざるをえず、父ちゃんもなかなか見舞いにも行けない。しかし、近くを汽車の運転で通るので、その時に汽笛をポーと鳴らすと約束する。このあたりの機関車と汽笛と病床の則子の描写が泣かせるわけである。そのあと、汽車が踏切に停まったトラックと衝突、父ちゃんは大怪我を追う。「ポー」は同僚に引き継がれ、鳴らされるのだが、そのあと則子は…。

 則子は実在の人物で、松本則子が映画では杉本に変えられている。病床でつづった詩集が刊行され、その映画化。感動的で、特に小林桂樹が名演。こういう映画もあっていんだけど、僕は難病ものが苦手だ。大ヒットした「愛と死をみつめて」(1964)や「世界の中心で、愛を叫ぶ」(2001)、アメリカの「ある愛の詩」(1970、原題Love Story)などが有名。白血病が多いが、大体の病気は映画に出てくる。

 苦手と言うのは、難病を克服して今は元気という展開がないからだ。亡くなって追悼出版が評判になり映画化される。「お涙ちょうだい」的な描き方だからというよりも、展開が判っていることが問題なのだ。それでは難病ものは「忠臣蔵」になってしまう。筋を楽しむことができず、あれよあれよと上映時間内に悲劇になっていくのを見てるのは辛い。

 日本では戦争が終わって豊かになり、結核も治るようになり、いじめや犯罪はあるけれども、まあ生まれたら大体成人するのが当たり前になっている。戦前は乳幼児の死亡率が非常に高かったのが、今は子どもの死亡率が低い。だからこそ、若くして難病で不帰の人となる悲劇は、皆に大きな衝撃を与える。遺稿が残されていれば、けなげに治療に励み皆に感謝しながら、病気ゆえの感受性豊かな詩やエッセイを書いていることが多い。出版されると皆に感動を与える。自分の命も大切にして日々を一生懸命生きなければ…。平和な日本で最大のドラマは、家族の病気と死なのである。

 中国映画「サンザシの樹の下で」(チャン・イーモウ監督)も「文革もの」と思わせて最後は難病ものになる。それを見ると、難病映画が受ける経済段階があることがわかる。東京五輪の年に「愛と死を見つめて」がヒットしたように、北京五輪が終わった中国で難病映画がつくられたことは興味深い。

 もう一点、この「ポー」は、いくら田園地帯といえど全く人家がないわけでもないだろうから、「うるさいのではないか」。何しろ朝の5時50分である。危険を避ける意味ならともかく、このような「公私混同」で汽笛を鳴らしていいものなのか。今は何かにつけ「うるさい」という苦情を気にしないといけない時代だ。しかも労働者が勝手に行った行動で、今なら確実に「組合たたき」に使われるだろう。管理職の許可は取っていたのかと言う人が出てくるだろう。当時は誰もそう思わず、親の自然な情だから管理職を通さず同僚どうしで継いで行って、そのことを誰も疑わない。鉄道マンの美談と思われ、組合映画ではなく、国有鉄道協力の映画になるわけである。「いい時代だった」と改めて思う。(2019.11.20一部改稿)
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中津留章仁「欺瞞と戯言」という劇

2012年11月06日 01時28分58秒 | 演劇
 4日の日光ウォーク自体はそれほどハードではなかったんだけど、早朝から出て帰りは渋滞の日帰りドライブに完全にダウン。いつもは見てる「イ・サン」も見ないで寝てしまった。で、一日寝たら回復して、池袋新文芸坐で2本映画を見て、ハンセン病集会にちょっと資料を貰いに行って、その後下北沢の本多劇場へ。ここでやってる、トム・プロジェクト公演「欺瞞と戯言」(ぎまんとたわごと)を見る。(11日まで公演。)


 で、「行方不明の夫を探す妻。夫の友人たちの話から、その夫の知らない過去が次々と明らかになる。そして夫の行方は…」とチラシにあるけど、これは実際の舞台とだいぶ違った。作・演出の中津留章仁(1973~)はこの前「背水の孤島」を見た感想を記事に書いたけれど、原発事故に触発された作品を書いて大ブレークした若手。今回の「欺瞞と戯言」も、確かな構成力とセリフの凝集力、見事なセットと俳優の演技力を十分に味わえる作品になっている。しかし、話はかなり変で、それこそ「欺瞞と戯言」なので何が言いたいのかよく判らないとも言える。

 大体話が現代ではなく、昭和20年代頃と思われる設定。旧華族である滝川財閥の洋館、2階建てのセットが素晴らしい。登場人物は5人だけで、しかも皆外国人風の名前が付いてる。ある休日の午後、独身の社長(憲斗=真山章志)が組合長(檀安里=長谷川初範)と会う予定にしている。ところがそのあとで急にお見合い相手だった娘(西条可憐=岸田茜)が来るという。このお見合いを進めている叔父(譲二下條アトム)と兼斗の母親(麗羅竹下景子)がいろいろ口を出している。どうやら麗羅の夫で憲斗の父、前社長の先代はいないらしい。何でも3年前の滝川財閥恒例の正月の鹿狩りで行方不明になったらしい。そのため息子の憲斗が鉱山会社の社長になったが、経営はあまりうまく行ってないうえに、まだ大人になり切っていない部分があるようだ。華族出身者として「品格」が大事だが、旧華族でない可憐を嫁に迎えることは是か非か。そのような議論が進んでいる間に、妻を亡くしている叔父の譲二が、夫を事実上失っている麗羅と再婚したがっていること、一方組合長の檀は昔麗羅と愛し合った過去があり、社長と仲たがいして中東に飛ばされていたのが社長交代後、前社長夫人である麗羅の求めで帰国して、今は組合長であるということがわかってくる。そこへ、お見合い相手の娘が訪れる。皆自分の都合だけで、いろいろ主張する人物で、娘は「誰でもいいから好きだった男を忘れるための結婚」に踏みきろうとし、身分の差はなくしてみせると言う。憲斗は娘の義兄が銀行家なので、それを目当ての結婚をもくろむ。そのあとで、麗羅をめぐって、譲二と檀の争いが持ち上がり、あっと驚く展開で譲二がケガをする。そこまでが1場

 2場になると、麗羅と譲二が結婚し、可憐は妻になり妊娠中。憲斗社長は事業を拡大したが従業員の賃上げ要求には断固応じない。そんな中で可憐は事ごとに文句を言われ実家に帰ると宣言し、そこで急に産気づく。その夜交渉で組合長の檀が訪れ、怒った組合員は石を投げて洋館のガラスを割る。そんな中で人間の本質が露呈していく…。と言う筋立てで、これではよく判らないと思うが、階級と性をめぐる自由の議論が全体として展開されていくが、滝川一族は皆が自分を守るための「欺瞞と戯言」を言っている。嫁が産気づいても放っておいているトンデモナイ冷酷さで、結局「身分」が背景にある。労働者に対する蔑視もひどいものがある。そんな中で悩みながら暮らしてきた母親麗羅が、最後に驚くべき決断をする。これもよく判らないが、子どもを守るためには何でも母親はするものなのか。これはいずれ破たんすることが目に見えている。実際、譲二の人生は完全に破たんしてしまう。

 セリフも面白く、構成も大変に練られていて、とても面白い。だけど登場人物に感情移入できない。それはいいんだけど、なんだかどこで何が間違ったのか、よく判らない。明らかに最後は悲劇なんだけど、何だか見ている方が宙ぶらりんに放置されるような終わり方で、それが狙いと言えば狙いなんだろうけど。ではいったい何が問題だったのか。華族という昔の身分か資本家対労働者の問題か男と女という性差も大きい。新しい時代(トランジスタラジオと自動車の時代)と古い時代か。戦争を経験したものとそうでないものなのか。いろいろ触れられている。竹下景子演じる麗羅に至っては、湯川秀樹の親戚で原子力発電には反対だという主張まで入っている。あまりにもいろんな論点があるが、僕は「品格」ということを言う者ほど品格がないことがよく判った気がする。華族だったものとして、社長として、経営者として「品格」が大切という憲斗社長こそ「品格」に乏しいことが後半に暴露されていく。しかしそういう息子を育ててしまったのは母親が自由に生きなかった報いでもあると思えるが。階級的立場と恋愛が交錯し、複雑な人間関係を2階のセットで巧みに処理する手際は見応えがある。役者は皆うまいが、今やこういう劇のヒロインにピッタリの舞台女優となった竹下景子の存在感は抜群。下條アトムの嫌味な演技も素晴らしい。ただ、今の観客にただ「カゾク」と言って通じるだろうか。登場人物が皆名前が外国風なのは何なんだろうかと言う気もする。
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日光小倉山もみじウォーク

2012年11月06日 00時20分35秒 | 旅行(日光)
 3日に六本木高校の文化祭。去年は独立した一本の記事を書いて、来年も行くと書いている。だから今年も行かないと。でもだんだん知ってる生徒も教員も少なくなる。今年の出し物は教えてない生徒が多いので、まあ書くのはやめておきます。卒業生何人かと会う機会。去年は前日が新文芸坐落語会で立川談春らを聞いていた。今年は翌日4日が早起き。だから割合早く帰って、日が変わらないうちに寝ないと。

 4日は5時半ころに起きて、7時には車で出る。日光の自然観察会。日光湯元ビジターセンター主催の「小倉山もみじウォーク」。この時期日光は紅葉狩り客で大混雑。特にいろは坂は毎年大渋滞で、2時間くらいかかる。今回の企画はその大渋滞を避けて、日光市内の霧降方面の隠れたスポットとウォークしようという、スグレモノ企画。僕たち夫婦は日光が好きで、よくあちこち行ってるけど、この小倉山近辺はちゃんと歩いたことがない。いつもは節約のため浦和の東北道入口まで下を通っていくんだけど(というか、この前は宇都宮まで4号線で行ったけど)、今回は近くの首都高から高速に乗る。たった2つのインター区間しかないし、右合流だから嫌なんだけど。車はすいすい進み、9時10分頃には集合場所の「日光木彫りの里工芸センター」へ。ここ始めてなんだけど、日光彫などの実演販売がある無料施設で、入り口に「鳴龍」があった。面白い施設。空は朝から素晴らしい天気。

 午前中は小倉山に登り、午後は野鳥の森散策。小倉山は登り口が判りにくい。しかし簡単に登れて、展望はないけど面白い。少し急登気味のところもあるが、特に登りにくいことはない。途中に「熊剥ぎ」が何か所か見られた。駅から霧降大橋を渡ってそれほど遠い地区ではないが、熊がいるのである。最近奥日光の戦場ヶ原でハイカーが熊に襲われるという事故が起こったけど、こんな下にも熊がいるのか。熊は樹皮を足ではいで、甘皮を食べるのが大好きなのだという。登った小倉山と熊剥ぎの写真。
 

 紅葉は少し早い感じだったが、それでもところどころ素晴らしいものが見られた。
 

 今回のお昼は近くの食堂でと言うことだった。お蕎麦屋がいっぱいだったので、霧降の滝方面へ行く交差点から近い「る・みしぇる」で。スパゲッティもあるが、これが人気らしいフランスのブルターニュ地方の家庭料理、ガレット(蕎麦粉のクレープ)を食べてみた。写真は海老のクリーム煮とトマト、レタスのガレット。デザートのクレープとのセットもあり。それを頼んだが、どっちも美味しい。ガレット800円は量からするとちょっと物足りないが、味と珍しさは満足。


 午後は近くの小倉山野鳥の森。ただし鳥はあまり見られなかった。(少しは見た。ヤマドリが飛び立つのも見た。)出発前に「双眼鏡の使い方講座」。そんなもん知ってると思うと、初めて知ったことがある。双眼鏡は、両方のレンズの間に「焦点調節リング」がある。それで焦点を合わせてオシマイだと思っていたら、実は右のレンズが独立して動く。だからまず右目をつぶって、真ん中のリングで左目の焦点を合わせる。今度は左目をつぶって、右のレンズを回して右目の焦点を合わせる。そして最後に両目で見て、真ん中のリングで最終調整をする。これは知らなかったなあ。

 鳥がいない代わりにあたり一帯鹿糞だらけ。そして日光連山の山並みが素晴らしく見える。こんなに全部見えるのは珍しい。男体山なんか午後になると雲がかかることが多い。写真一番左が男体山、右が大真名子山、続いて女峰山の連峰。一応鹿の糞の写真も。
 

 最後に紙が配られ、今日を詠んで一句。まあ途中で言われていたが、ホントにやるのかよ。俳句を作るのは久しぶりだなあ。なんか急には思いつかず、あまり自己表現はしないで、月並みに。
 「蒼天に 紅葉の映える 小倉山」
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室謙二のリバイバル-新書⑤

2012年11月01日 00時23分11秒 | 〃 (さまざまな本)
 室謙二(むろ・けんじ、1946~)という人がいる。昔「思想の科学」という雑誌があって、その編集代表をしていた。60年代にはべ平連に参加し、米軍脱走兵を逃がす活動も行った。70年代にはあちこちで室さんの書いたものを読んだような気がする。「思想の科学」はわりとよく読んでいたし、読者会というのもあって時々参加していたから話も聞いたと思う。検索して見ると「旅行の仕方」、「アジア人の自画像」など、読んではないけど名前に記憶がある本を書いてた。85年には「踊る地平線」という本を出して評価された。これは丹下左膳の原作者として知られる林不忘、またの名を谷譲次、牧逸馬の三つのペンネームを使い分けた長谷川海太郎の評伝である。谷譲次はアメリカ放浪記を書いたときの名前だけど、それは実体験に基づいている。そして、室さんの実人生も、この海太郎みたいなことになっていた。

 そういえば、しばらく室謙二さんの名前を聞いていなかったなあと、去年新著「天皇とマッカーサーのどちらが偉い?」(岩波書店、2011)が出て思い出した。その本を読んだら、なんと室謙二はアメリカ人になっていた。住んでいるだけでなく、ユダヤ系アメリカ人女性と結婚して米国市民権を取って、日本国籍ではなくなっていた。そして今年の7月に岩波新書で「非アメリカを生きる-複数文化の国で」という本も出した。いやあ、長年日本の言論界を離れていた「室謙二」という人が急速にリバイバルしてきた。それも「アメリカ人」として。そういう生き方もあるのか。まあ頭では知ってるけど、外国に住んでも国籍は変えない人もいる。いずれ日本に帰ってくる人も多い。「こういう生き方もあるんだ」という感じ。
 
 でも「アメリカ人になりたい」というわけではなかったらしい。「ある人に会って、その人と暮らすためにここまで来てしてしまったのだよ」ということらしい。そして「アメリカで非アメリカ人として住む方が、日本で非日本人として住むより楽なように思えた。」と言う。うーん、そうなのかな。確かにそうかもしれない。前の著作は主に日本での人生を自伝的に、後の新書はアメリカの「非アメリカ人」を取り上げてエッセイ風にまとめている。とても自由な風が本の中を吹き抜けていて、読んで刺激された。内容を簡単に紹介しながら、いくつかの論点に触れてみたい。

 まず後者から。「最後のインディアンが見たアメリカ」として有名な「イシ」の生涯が最初。「ハンクとジャックはスペインに行く」はスペイン内戦で国際義勇軍に参加したアメリカ人。そして「マイルスはジャズを演奏しない」「ビートたちのブッダと鈴木老師」「ハムサンドを食べるユダヤ人」と続く。アメリカ国内のマイノリティを描きながら、「もう一つのアメリカ」を示していく。「北アメリカ最後の野生インディアン」と呼ばれて「イシ」と呼ばれた人は、「人類学者」クローバーに「発見」され、クローバー夫人の「イシ」と言う本で有名になった。その夫妻の娘がアーシュラ・K・ル=グウィンで、「そうやってイシは、ゲドとなっていまの若い世代に伝えられている。」

 スペイン内戦のときの国際義勇軍は、スターリンや他の多くの政治家にボロボロにされたけど、でも一身を犠牲にしてファシズムに立ち向かった「高貴な国際精神」は、僕にとって「永遠の英雄」だと思っている。アメリカの義勇軍はよく「リンカーン旅団」と言われたが、そういう名前の旅団は正式にはないらしい。理想主義なんて実現しない、純真な心だけではずるい連中に利用され犠牲にされるだけだ、という局面ばかり体験してきたけど、まだ1936年は理想を語れた。というか、選挙で選ばれた人民戦線を武力で倒そうとするフランコを公然と支援するヒトラーをここで止めなくては…という危機感と熱い想いは今も僕の心に共振するものがある。そうして、そう思った多くのアメリカ青年がスペインにおもむき、銃弾に倒れた。そこでアメリカ人が歌を作った。

 「ハラマの歌
 スペインにハラマと言う谷がある。
 人々はそこを忘れない。
 大勢の同志が山麓に倒れ、
 ハラマでは至るところに花が咲く。
 国際旅団はハラマに残り、
 自由のスペインを守る。
 彼らの山を守ろうと誓い、
 残忍非道なファシストを倒す。

 メロディは、「レッドリバー・バレー」(赤い河の谷間)。西部開拓時代の白人とインディアンの女性の恋を描いたアメリカのフォークソング。聞いてみれば誰でも思い当たる曲。何とも言えない懐かしく切ない想いがあふれてくるメロディである。そしてこの曲が、どういう経緯でか(本の中で追跡されている)中国で歌われているという。今も小学生の音楽で歌われているらしい。何でだろうと言うまでもない。これは「反ファシズム」の歌だ。中国は反ファシズム陣営で戦った国で、「抗日」「反日」というのはつまり「反ファシズム」のことなのだ。日本では「反日教育」は「拝外的ナショナリズムをあおる教育」としか思わない人が多いが、それは「本質においては違う」のだと思う。

 前著の方は9章まであるので全部は紹介しないが、戦後直後からの東京の様々が語られる。特に「レッド・ダイパー・ベイビーとして」「ここは江戸川アパート?」が面白かった。そして最後の「同世代の脱走」でベトナム戦争での脱走米兵救援活動が語られている。この問題は近年かなり語られているので、ここでは書かないことにする。簡単に一言言えば、戦争が嫌だと軍を逃げだした兵隊を日本の庶民が必死に匿って逃がし通した。「現代の英雄」ではないか。「日本民衆の誇り」である。これが判らない人がいる。ソ連大使館に接触しソ連経由でスウェーデンに逃亡させたことがある。ソ連崩壊後、そのソ連側記録を発掘し、「ソ連の手先だった」などと言う人がいるし、ネット上に書く人もいる。事態の本質はどうたったかは本書に詳しい。米ソとも、諜報機関と言えども官僚機関なのである。鵜呑みにしてはいけない。

 「レッド・ダイパー・ベイビー」(Red Diaper Baby)というのは、「赤いおむつの赤ちゃん」、親が共産党員、さらには左翼活動家の両親に育てられた子供のことを指す言葉らしい。普通に使う言葉ではなく、「隠語」というか「仲間内の言葉」に近いらしい。スパイ容疑で死刑を執行されたローゼンバーグ夫妻事件の子供たちの話で始めながら、室さんは自分の親のことを語っていく。自分も一種の「レッド・ダイパー・ベイビー」だったのだと。そういう人はけっこう多いのではないか。少し古くなったけど、10年ちょっと前には親が全共闘世代で子どもよりラディカル、ロックばっかり聞いて育ったような子どもが時々いた。日本で一番典型的なのは、父親が共産党代議士だった米原昶(いたる)の娘、米原万里(よねはら・まり 1950~2006)だろう。小学生のときに父の仕事でプラハに移り、共産党幹部の子ども専用のソ連政府が作ったソビエト学校でロシア語教育を受けた。この凄まじい体験を後に笑い飛ばすような痛快かつ痛切なノンフィクションにまとめた。そこまで行かなくても、小さな時代に「マイノリティ」として(例えば、戦争中に反戦的な言動をして監視されていた親とか、キリスト教の中でも少数グループの親とか)なんかに育てられた「誇りと傷」が、ある種のトラウマになっていると言う人もいるはずだ。親の主義や信仰を受け継いでくれる子どもばかりではないのだから。この問題を教えられたという意味は大きい。
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