真木悠介『気流の鳴る音』をめぐる3回目。この本は2回目で書いたドン・ファンの教えをめぐる叙述が大部分を占めている。その叙述は大変印象的だったんだけど、僕にはむしろ序の『「共同体」のかなたへ』がもっと心に残ったのである。そこでは現実の日本で試みられているコミューンについて述べられていた。主として山岸会(現・幸福会ヤマギシ会)と大倭紫陽花邑(おおやまとあじさいむら)である。山岸会はどこかで聞いたことがあったと思うけど、奈良にある紫陽花邑は全く聞いたこともなかった。
(ちくま学術文庫版『気流の鳴る音』)
ある心身障害者の行く末を案じた若い施設員が山岸会はどうかと思って野本三吉氏に紹介を頼んだという。(原書では身心障害者とあるが誤植だろう。著作集では心身になっている。)野本さんの名前は久しぶりだなと思った。70年代に横浜市の職員として寿生活館で寄場労働者の生活相談をしていた。社会福祉をめぐって活発な評論活動を行っていて、とても刺激だった。後、横浜市立大学教授、21世紀になって沖縄大学に転任し、2012年から14年に学長を務めたという。それは知らなかった。存命である。
しかし野本さんは、紫陽花邑の方がいいだろうと勧めたという。「山岸会は話し合いだからだめだと思った」と言うのである。「野本さんの直感は、本質的な問題を提起していると思う」と真木氏は書いている。「紫陽花邑のばあい、『感覚でスッと通じてしまう』と野本さんはいう。紫陽花邑を訪れたことがある人には、この感じがつかめると思う。この〈話合い〉と〈感覚〉という、共同性の存立の二つの様式、二つの契機の問題は、われわれのコミューン構想にとって、最も深い地層にまでその根を達する困難な問題を突きつけてくる。」(下線部は原文では傍点)
この大倭紫陽花邑には、その後何度も訪れることになった。FIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会が作ったハンセン病回復者宿泊施設「交流(むすび)の家」があるからだ。1980年にFIWC主催の日韓合同キャンプに参加したときに事前キャンプとして初めて訪れた。ここは大倭教という古神道の一種のような宗教の場所なのだが、いくつかの福祉施設が集中して存在する場所でもある。その邑を築いたのは矢追日聖(やおい・にっしょう、1911~1996)という人である。
(矢追日聖)
法主(ほっす)と呼ばれていた矢追日聖については、この本に非常に印象的なエピソードが書かれている。「交流の家」は多くの学生団体の集まり、キャンプなどにも使われていた。ある夜法主さんが眠っていると、木の悲鳴をききつけて胸さわぎがする。外に出てみると、学生たちがキャンプをしている一本の木が呼んでいる。そこに行ってみると、今巨大な釘が打ち込まれたところで、そこにキャンパーはロープを結ぼうとしている。法主さんは頭をさげて、これでは木が可哀想だから、枝にロープを巻きつけるやり方で固定してくれないかと学生たちにたのみ、学生たちもそれを了承する。それから眠ることができたという。こういう話をどう理解するべきか、僕には今ひとつ判らないけれど。
(紫陽花邑の一角)
山岸会と紫陽花邑に関しては、以下のような記述がある。長くなるが全文引用したい。
山岸会では〈ニギリメシとモチ〉ということをよく言う。ニギリメシでは、一粒一粒の米粒は独立したままで集合しているにすぎないのに対し、モチでは米粒そのものが融解して一体のものとなっている。他の「共同体」ではニギリメシの如く、「我執」(エゴ)をもったまま個人が連合しているだけなので、相克や矛盾を含むが、研鑽をとおしてエゴそのものを抜いている山岸会においては、モチの如くに矛盾もなく相克もない「一体社会」を実現するという趣旨である。
他方「紫陽花邑」という命名の趣旨は、あたかも紫陽花がその花をとおして、その彩りの変化のうちに花房としての美をみせるように、邑に住む者のひとりひとりが、それぞれの人となりに従って花開くことをとおして、おのずから集合としてのかがやきをも発揮しようとするものである。
二つの集団の自己規定は対照的だ。すなわち集団としてのあり方を性格づけるにあたって、山岸会では一体性を、紫陽花邑では多様性をまずみずからの心として置く。
このブログ(あるいは教員時代に時々出していた学級通信)が「紫陽花通信」と題されたのは、実にこの文章の直接的影響なのである。その意味でも僕に大きな影響を与えた本なのである。
僕の若い頃は山岸会の特講(ヤマギシズム特別講習研鑽会)に一度参加してみるという人も多かった。真木さんも、また次に書く宗教学者の島田裕巳さんも、著書で特講に参加した経験を書いている。僕の場合は、夏休みを利用して夫婦で1985年に参加したのである。何で特定できるかというと、僕はこの年に起きた日航機事故をリアルタイムで知らなかったからである。特講参加中は新聞もテレビも(ラジオも)禁止されるのである。(今ではどうなっているんだろうか。スマホなどを一切禁止しているのだろうか。)家に帰って、新聞やテレビが大騒ぎになっていて驚いたものだ。
(ヤマギシ会参加を呼びかけるチラシ)
ヤマギシ会に関しては、ウィキペディアに詳細な記述がある。そこには特講の様子も出ているが、基本的には公開されていないだろう。ほとんどの時間は参加者一同が車座になって、研鑽テーマを話し合うという形式である。しかし、結論的に向かうところは決まっていて、いわば「正解に達するため」、もっと言えば「山岸会に都合の良い方向になるまで」深夜に至る延々とした話合いが続く。最初は結構面白いんだけど、僕は途中で嫌になってしまった。山岸会では「夫唱婦随」が原則とされるが、それは「男性優位思想」だからではない。そうではなくて、山岸会創設者の山岸巳代蔵にさかのぼる農業の実践、特にニワトリ社会に人間社会のモデルがあるというのである。大真面目にそう言っているので、バカバカしくなってきた。
「怒りを抜く」研鑽でも、一人一人に「腹が立った体験」を思い出させる。どうしようもないDV夫かなんかには是非受けさせたいと思う。でも、わざわざ特講に参加するような「意識高い系」は、もともとそんなに怒りっぽくないはずだ。僕もなんか答えたはずだが、覚えていない。参加者も苦労して、何か腹がたった体験をひねり出していた。そうすると、進行役の担当者が大声を出して「何でそんなことで腹が立ったのか」と詰め寄ってくる。だから、そんなに怒ってないんだって。無理やり言わせてるだけでしょう。と言ってしまうと延々と続いて寝られなくなる。そうすると次第に一心同体化してくる参加者もいる。でも僕はどんどん醒めてくる。これは「カルト宗教」の手法だなと思う。
農業法人としては良い部分があるのかもしれない。だけど、とてもコミューンの最高形態にはならない。その後、社会問題になったこともある。「ヤマギシズム幸福学園」という教育施設を内部に作ったことで、「二世問題」が生じたのである。僕は人が熱狂しているときには醒めてしまう。「お金がいらない楽しい村」を掲げているが、「自我」がなければ「自由」が欲しいとも思わない。ある人にはユートピアかもしれないが、実際には「ディストピア」に見える人もいるわけだ。
(ちくま学術文庫版『気流の鳴る音』)
ある心身障害者の行く末を案じた若い施設員が山岸会はどうかと思って野本三吉氏に紹介を頼んだという。(原書では身心障害者とあるが誤植だろう。著作集では心身になっている。)野本さんの名前は久しぶりだなと思った。70年代に横浜市の職員として寿生活館で寄場労働者の生活相談をしていた。社会福祉をめぐって活発な評論活動を行っていて、とても刺激だった。後、横浜市立大学教授、21世紀になって沖縄大学に転任し、2012年から14年に学長を務めたという。それは知らなかった。存命である。
しかし野本さんは、紫陽花邑の方がいいだろうと勧めたという。「山岸会は話し合いだからだめだと思った」と言うのである。「野本さんの直感は、本質的な問題を提起していると思う」と真木氏は書いている。「紫陽花邑のばあい、『感覚でスッと通じてしまう』と野本さんはいう。紫陽花邑を訪れたことがある人には、この感じがつかめると思う。この〈話合い〉と〈感覚〉という、共同性の存立の二つの様式、二つの契機の問題は、われわれのコミューン構想にとって、最も深い地層にまでその根を達する困難な問題を突きつけてくる。」(下線部は原文では傍点)
この大倭紫陽花邑には、その後何度も訪れることになった。FIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会が作ったハンセン病回復者宿泊施設「交流(むすび)の家」があるからだ。1980年にFIWC主催の日韓合同キャンプに参加したときに事前キャンプとして初めて訪れた。ここは大倭教という古神道の一種のような宗教の場所なのだが、いくつかの福祉施設が集中して存在する場所でもある。その邑を築いたのは矢追日聖(やおい・にっしょう、1911~1996)という人である。
(矢追日聖)
法主(ほっす)と呼ばれていた矢追日聖については、この本に非常に印象的なエピソードが書かれている。「交流の家」は多くの学生団体の集まり、キャンプなどにも使われていた。ある夜法主さんが眠っていると、木の悲鳴をききつけて胸さわぎがする。外に出てみると、学生たちがキャンプをしている一本の木が呼んでいる。そこに行ってみると、今巨大な釘が打ち込まれたところで、そこにキャンパーはロープを結ぼうとしている。法主さんは頭をさげて、これでは木が可哀想だから、枝にロープを巻きつけるやり方で固定してくれないかと学生たちにたのみ、学生たちもそれを了承する。それから眠ることができたという。こういう話をどう理解するべきか、僕には今ひとつ判らないけれど。
(紫陽花邑の一角)
山岸会と紫陽花邑に関しては、以下のような記述がある。長くなるが全文引用したい。
山岸会では〈ニギリメシとモチ〉ということをよく言う。ニギリメシでは、一粒一粒の米粒は独立したままで集合しているにすぎないのに対し、モチでは米粒そのものが融解して一体のものとなっている。他の「共同体」ではニギリメシの如く、「我執」(エゴ)をもったまま個人が連合しているだけなので、相克や矛盾を含むが、研鑽をとおしてエゴそのものを抜いている山岸会においては、モチの如くに矛盾もなく相克もない「一体社会」を実現するという趣旨である。
他方「紫陽花邑」という命名の趣旨は、あたかも紫陽花がその花をとおして、その彩りの変化のうちに花房としての美をみせるように、邑に住む者のひとりひとりが、それぞれの人となりに従って花開くことをとおして、おのずから集合としてのかがやきをも発揮しようとするものである。
二つの集団の自己規定は対照的だ。すなわち集団としてのあり方を性格づけるにあたって、山岸会では一体性を、紫陽花邑では多様性をまずみずからの心として置く。
このブログ(あるいは教員時代に時々出していた学級通信)が「紫陽花通信」と題されたのは、実にこの文章の直接的影響なのである。その意味でも僕に大きな影響を与えた本なのである。
僕の若い頃は山岸会の特講(ヤマギシズム特別講習研鑽会)に一度参加してみるという人も多かった。真木さんも、また次に書く宗教学者の島田裕巳さんも、著書で特講に参加した経験を書いている。僕の場合は、夏休みを利用して夫婦で1985年に参加したのである。何で特定できるかというと、僕はこの年に起きた日航機事故をリアルタイムで知らなかったからである。特講参加中は新聞もテレビも(ラジオも)禁止されるのである。(今ではどうなっているんだろうか。スマホなどを一切禁止しているのだろうか。)家に帰って、新聞やテレビが大騒ぎになっていて驚いたものだ。
(ヤマギシ会参加を呼びかけるチラシ)
ヤマギシ会に関しては、ウィキペディアに詳細な記述がある。そこには特講の様子も出ているが、基本的には公開されていないだろう。ほとんどの時間は参加者一同が車座になって、研鑽テーマを話し合うという形式である。しかし、結論的に向かうところは決まっていて、いわば「正解に達するため」、もっと言えば「山岸会に都合の良い方向になるまで」深夜に至る延々とした話合いが続く。最初は結構面白いんだけど、僕は途中で嫌になってしまった。山岸会では「夫唱婦随」が原則とされるが、それは「男性優位思想」だからではない。そうではなくて、山岸会創設者の山岸巳代蔵にさかのぼる農業の実践、特にニワトリ社会に人間社会のモデルがあるというのである。大真面目にそう言っているので、バカバカしくなってきた。
「怒りを抜く」研鑽でも、一人一人に「腹が立った体験」を思い出させる。どうしようもないDV夫かなんかには是非受けさせたいと思う。でも、わざわざ特講に参加するような「意識高い系」は、もともとそんなに怒りっぽくないはずだ。僕もなんか答えたはずだが、覚えていない。参加者も苦労して、何か腹がたった体験をひねり出していた。そうすると、進行役の担当者が大声を出して「何でそんなことで腹が立ったのか」と詰め寄ってくる。だから、そんなに怒ってないんだって。無理やり言わせてるだけでしょう。と言ってしまうと延々と続いて寝られなくなる。そうすると次第に一心同体化してくる参加者もいる。でも僕はどんどん醒めてくる。これは「カルト宗教」の手法だなと思う。
農業法人としては良い部分があるのかもしれない。だけど、とてもコミューンの最高形態にはならない。その後、社会問題になったこともある。「ヤマギシズム幸福学園」という教育施設を内部に作ったことで、「二世問題」が生じたのである。僕は人が熱狂しているときには醒めてしまう。「お金がいらない楽しい村」を掲げているが、「自我」がなければ「自由」が欲しいとも思わない。ある人にはユートピアかもしれないが、実際には「ディストピア」に見える人もいるわけだ。