尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

山岸会と紫陽花邑ー真木悠介『気流の鳴る音』をめぐって③

2022年08月31日 22時31分52秒 | 〃 (さまざまな本)
 真木悠介気流の鳴る音』をめぐる3回目。この本は2回目で書いたドン・ファンの教えをめぐる叙述が大部分を占めている。その叙述は大変印象的だったんだけど、僕にはむしろ序の『「共同体」のかなたへ』がもっと心に残ったのである。そこでは現実の日本で試みられているコミューンについて述べられていた。主として山岸会(現・幸福会ヤマギシ会)と大倭紫陽花邑(おおやまとあじさいむら)である。山岸会はどこかで聞いたことがあったと思うけど、奈良にある紫陽花邑は全く聞いたこともなかった。
(ちくま学術文庫版『気流の鳴る音』)
 ある心身障害者の行く末を案じた若い施設員が山岸会はどうかと思って野本三吉氏に紹介を頼んだという。(原書では身心障害者とあるが誤植だろう。著作集では心身になっている。)野本さんの名前は久しぶりだなと思った。70年代に横浜市の職員として寿生活館で寄場労働者の生活相談をしていた。社会福祉をめぐって活発な評論活動を行っていて、とても刺激だった。後、横浜市立大学教授、21世紀になって沖縄大学に転任し、2012年から14年に学長を務めたという。それは知らなかった。存命である。

 しかし野本さんは、紫陽花邑の方がいいだろうと勧めたという。「山岸会は話し合いだからだめだと思った」と言うのである。「野本さんの直感は、本質的な問題を提起していると思う」と真木氏は書いている。「紫陽花邑のばあい、『感覚でスッと通じてしまう』と野本さんはいう。紫陽花邑を訪れたことがある人には、この感じがつかめると思う。この〈話合い〉と〈感覚〉という、共同性の存立の二つの様式、二つの契機の問題は、われわれのコミューン構想にとって、最も深い地層にまでその根を達する困難な問題を突きつけてくる。」(下線部は原文では傍点)

 この大倭紫陽花邑には、その後何度も訪れることになった。FIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会が作ったハンセン病回復者宿泊施設「交流(むすび)の家」があるからだ。1980年にFIWC主催の日韓合同キャンプに参加したときに事前キャンプとして初めて訪れた。ここは大倭教という古神道の一種のような宗教の場所なのだが、いくつかの福祉施設が集中して存在する場所でもある。その邑を築いたのは矢追日聖(やおい・にっしょう、1911~1996)という人である。
(矢追日聖)
 法主(ほっす)と呼ばれていた矢追日聖については、この本に非常に印象的なエピソードが書かれている。「交流の家」は多くの学生団体の集まり、キャンプなどにも使われていた。ある夜法主さんが眠っていると、木の悲鳴をききつけて胸さわぎがする。外に出てみると、学生たちがキャンプをしている一本の木が呼んでいる。そこに行ってみると、今巨大な釘が打ち込まれたところで、そこにキャンパーはロープを結ぼうとしている。法主さんは頭をさげて、これでは木が可哀想だから、枝にロープを巻きつけるやり方で固定してくれないかと学生たちにたのみ、学生たちもそれを了承する。それから眠ることができたという。こういう話をどう理解するべきか、僕には今ひとつ判らないけれど。
(紫陽花邑の一角)
 山岸会と紫陽花邑に関しては、以下のような記述がある。長くなるが全文引用したい。
 山岸会では〈ニギリメシとモチ〉ということをよく言う。ニギリメシでは、一粒一粒の米粒は独立したままで集合しているにすぎないのに対し、モチでは米粒そのものが融解して一体のものとなっている。他の「共同体」ではニギリメシの如く、「我執」(エゴ)をもったまま個人が連合しているだけなので、相克や矛盾を含むが、研鑽をとおしてエゴそのものを抜いている山岸会においては、モチの如くに矛盾もなく相克もない「一体社会」を実現するという趣旨である。
 他方「紫陽花邑」という命名の趣旨は、あたかも紫陽花がその花をとおして、その彩りの変化のうちに花房としての美をみせるように、邑に住む者のひとりひとりが、それぞれの人となりに従って花開くことをとおして、おのずから集合としてのかがやきをも発揮しようとするものである。
 二つの集団の自己規定は対照的だ。すなわち集団としてのあり方を性格づけるにあたって、山岸会では一体性を、紫陽花邑では多様性をまずみずからの心として置く。
 
 このブログ(あるいは教員時代に時々出していた学級通信)が「紫陽花通信」と題されたのは、実にこの文章の直接的影響なのである。その意味でも僕に大きな影響を与えた本なのである。

 僕の若い頃は山岸会特講(ヤマギシズム特別講習研鑽会)に一度参加してみるという人も多かった。真木さんも、また次に書く宗教学者の島田裕巳さんも、著書で特講に参加した経験を書いている。僕の場合は、夏休みを利用して夫婦で1985年に参加したのである。何で特定できるかというと、僕はこの年に起きた日航機事故をリアルタイムで知らなかったからである。特講参加中は新聞もテレビも(ラジオも)禁止されるのである。(今ではどうなっているんだろうか。スマホなどを一切禁止しているのだろうか。)家に帰って、新聞やテレビが大騒ぎになっていて驚いたものだ。
(ヤマギシ会参加を呼びかけるチラシ)
 ヤマギシ会に関しては、ウィキペディアに詳細な記述がある。そこには特講の様子も出ているが、基本的には公開されていないだろう。ほとんどの時間は参加者一同が車座になって、研鑽テーマを話し合うという形式である。しかし、結論的に向かうところは決まっていて、いわば「正解に達するため」、もっと言えば「山岸会に都合の良い方向になるまで」深夜に至る延々とした話合いが続く。最初は結構面白いんだけど、僕は途中で嫌になってしまった。山岸会では「夫唱婦随」が原則とされるが、それは「男性優位思想」だからではない。そうではなくて、山岸会創設者の山岸巳代蔵にさかのぼる農業の実践、特にニワトリ社会に人間社会のモデルがあるというのである。大真面目にそう言っているので、バカバカしくなってきた。

 「怒りを抜く」研鑽でも、一人一人に「腹が立った体験」を思い出させる。どうしようもないDV夫かなんかには是非受けさせたいと思う。でも、わざわざ特講に参加するような「意識高い系」は、もともとそんなに怒りっぽくないはずだ。僕もなんか答えたはずだが、覚えていない。参加者も苦労して、何か腹がたった体験をひねり出していた。そうすると、進行役の担当者が大声を出して「何でそんなことで腹が立ったのか」と詰め寄ってくる。だから、そんなに怒ってないんだって。無理やり言わせてるだけでしょう。と言ってしまうと延々と続いて寝られなくなる。そうすると次第に一心同体化してくる参加者もいる。でも僕はどんどん醒めてくる。これは「カルト宗教」の手法だなと思う。

 農業法人としては良い部分があるのかもしれない。だけど、とてもコミューンの最高形態にはならない。その後、社会問題になったこともある。「ヤマギシズム幸福学園」という教育施設を内部に作ったことで、「二世問題」が生じたのである。僕は人が熱狂しているときには醒めてしまう。「お金がいらない楽しい村」を掲げているが、「自我」がなければ「自由」が欲しいとも思わない。ある人にはユートピアかもしれないが、実際には「ディストピア」に見える人もいるわけだ。
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ドン・ファンの教えー真木悠介『気流の鳴る音』をめぐって②

2022年08月30日 23時17分47秒 | 〃 (さまざまな本)
 真木悠介気流の鳴る音』は、その大部分がカルロス・カスタネダドン・ファンシリーズの分析である。序章の中で、以下のようにこのシリーズが紹介される。注を抜き、段落分けを外して引用してみたい。
(ちくま文庫版『気流の鳴る音』)
 メキシコ北部に住むヤキ族のある老人の生きる世界を、人類学者カスタネダが四冊の本で紹介している。ドン・ファンというこの老人にカスタネダは十年ほども弟子入りしてインディアンの生き方を学ぶ。その教えの核の一つが「心のある道を歩む」ということだ。一冊目の本の扉のところに、美しいスペイン語の原文とともに、ドン・ファンの言葉が引用されている。
 ーわしにとっては、心のある道を歩むことだけだ。どんな道にせよ、心のある道をな。そういう道をわしは旅する。その道のりのすべてを歩みつくすことだけがただ一つの価値のある証しなのだよ。その道を息もつがずに、目を見ひらいてわしは旅する。

 見田氏がこの本を書いたとき、カスタネダは4冊の本しか書いてなかった。(日本語訳が出ていたのは3冊。)だから4冊で完結した世界のように論じられているが、実はその後カスタネダは7冊の本を書き続けた。ドン・ファンの世界はもう少し奥が深かったのだが、そのことは4回目で触れる。僕はカスタネダの本など全然知らなかったので、上記の文を読んで「そうか人類学者がドン・ファンという人を研究したんだ」という風に受け取った。カスタネダという人がどういう人なのか、その後いろいろ問題化する。「ドン・ファン」という人物にその後誰も会うことができず、非実在説まで出て来るようになった。その問題も4回目に回す。

 「ドン・ファン」(Don Juan)という名前も、その時は固有名詞の人名だと思っていた。まだ無知だったのである。モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』と同じ名前だし、最近の日本では「紀州のドン・ファン」なる人物が騒がれた。「ドン」は映画『ゴッドファーザー』で主人公役のマーロン・ブランドが、自分をドンと呼べと圧力を掛けるシーンが印象的だった。2月に読んだ『ドン・キホーテ』も「ドン」である。要するにスペイン語、イタリア語などで使われる尊称なのである。転じてマフィアなどのボスを指す場合に使われ、日本では「首領」にドンとフリガナを振ったりした。今も政界のドンなどと使われる。「ファン」は英語のジョン(聖書のヨハネ)だから、ジョン親分、ジョン親父ぐらいの感じだろう。本名とは思えない。

 ドン・ファンの教えを全部書く余裕はないし、その必要もないだろう。そんなことができるなら、『気流の鳴る音』という本の存在意義もない。しかし、一応簡単に本書の内容を追ってみたい。本書の目的が最初に確認されているが、「文化人類学上の知識をえたりすることではなく、われわれの生き方を構想し、解き放っておく機縁として、これらインディオの世界と出会うことにある。」(下線部は原文では傍点である。)しかし、ドン・ファン(及び盟友であるドン・ヘナロ)の言葉は体系的ではない。

 まず最初のⅠは「カラスの予言ー人間主義の彼岸」と題される。Ⅱは「「世界を止める」ー〈明晰の罠〉からの解放」、Ⅲは「「統御された愚」ー意志を意志する」、Ⅳは「「心のある道」ー〈意味への疎外〉からの解放」である。「明晰の罠」とか「意味への疎外」とか、それだけでは判りにくいが、同時に何となく通じるものがある。この4つを図示すると、以下のような4つの象限に先の4つが当てはまるとする。これはドン・ファンの教えそのものではなく、それを見田氏がまとめ直したのである。
(主題の空間)
 カスタネダは当初、人類学のフィールドワークとして薬用幻覚植物の知識を求めていた。ドン・ファンとは偶然バス停で会ったとされる。しかし、植物の知識の代価として支払いをするとカスタネダが申し出ると、ドン・ファンは「わしの時間に対しては…お前の時間で払って貰おう」と返答する。カスタネダにとって、知識はそれだけを切り取って利用できるものだが、ドン・ファンの世界では植物を知るとは植物と友だちになり生きる世界を共にすることである。ドン・ファンの世界は「擬人法以前」なのだ。

 題名となった『気流の鳴る音』とは、やがて幻覚性植物を使ったときに、同じく修行を受けたエリヒオの姿が「信じられぬほどのスピードで滑っているか飛んでいるかのような姿だった。(略)私は彼のまわりでひゅうひゅうと気流の鳴る音を感じた。」から来ている。カスタネダは「見た」のである。ここで「見る」(see)は「眺める」(look)と使い分けられているという。(島田裕巳の著書では「観る」と「見る」と使い分けられている。)ただ漫然と世界を眺めているだけの時点から、カスタネダは(薬物を使用して)「世界を(ほとんど)見た」段階に入ったのである。

 これはカスタネダにとって「大きな業績」になるので、フィールドワークの成果をノートに書き付けていた。それを見てドン・ファンと並ぶ呪術師であるドン・ヘナロが「頭で座った」。これは逆立ちしてあぐらをかくということだと思うけど、非常に印象的である。ドン・ヘナロがカスタネダのマネをしたのだという。著者によれば、これはマルクスのヘーゲル批判と思わせるが、マルクスはヘーゲル哲学が頭で立っていると言語的に批判したのに対し、ドン・ヘナロは「もうすこしラディカルに、批判のスタイル自体、身体性の水準でおこなっている。」この寸評も極めて印象的である。

 カスタネダが単に知識を得るだけではなく、「世界を見る」ことに進んで行くようになったときには、ドン・ファンは「お前はただ世界を止めたんだ」という。この「世界を止める」は自明のものと思われていたものを、いったん「判断中止」(エポケー)することだと著者は指摘する。それはマルクスが経済学で行ったことでもあり、フッサールの「現象学的判断中止」でもあるとされる。「自明の前提」を疑うこと。「双生児は鳥だ」とアフリカのヌアー族は考える。一見非合理的思考にしか見えないが、では預金が利子を生むという資本主義システムは合理的に説明出来るのか。

 ドン・ファンは、目指す理想の知者になるには4つの自然の敵があるという。それは「恐怖」「明晰」「」「老い」だという。「恐怖」と「老い」は確かに誰にとっても人生上の難問だろう。だけど「明晰」と「」は、本来人間にとって役立つものではないのか。それが敵とはどういうことか。書いていると終わらない。是非本書を読んで欲しいと思う。以後、印象的な章名を引用すると、「目の独裁」「しないこと」「意志は自分の裂け目をつくる」「自分の力から身を守る楯」「意志を意志する」…。

 そして最後に「心のある道」を見つけることになる。「「心のある道」による「老い」の克服とは、若年にもどることではなくて、「美しい道を静かに歩む」真実の〈老い〉であるに違いない。」本書には判りにくいところも多い。特に「ナワール」と「トナール」という概念は全く判らなかった(からここでは書かない。)僕は「判断中止」とか「心のある道」という考え方にとても共感したと思う。忘れていたけれど、ある意味「血肉化」したかもしれないと思う。誰かが熱狂しているときに、ちょっと違った面からものごとを見てみること。それは今まで特に意識しなかったけれど、本書で教えられたスタイルだったのかもしれない。
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真木悠介『気流の鳴る音』をめぐって①

2022年08月29日 22時29分22秒 | 〃 (さまざまな本)
 毎月見田宗介さんの本を読んでいくシリーズ、今回は『気流の鳴る音』を取り上げる。真木悠介名義になっているが、これは見田氏がコミューン論を書くときのペンネームだった。岩波書店から見田宗介著作集に続いて、真木悠介著作集全4巻も出ている。ただし、僕はそれを買っていない。収録された4作を全部単行本で持っていたからだ。真木悠介名義本はもっと出ていて、著作集未収録の本があるためでもある。そのため今回は1977年に刊行された初版本を読み直してみた。
(初版単行本の箱の写真)
 『気流の鳴る音』は多くの人に大きな影響を与えた。僕にとっても非常に大きな意味を持っていて、この本を読んだことで人生が変わったとも言える。だから一回では書き切れなくて、関連の島田裕巳カルロス・カスタネダ』(ちくま学術文庫)を含めて4回になる予定。そんな本は知らないし、関心もないという人も多いと思うけど、僕にとってはそのぐらいの重要性がある。今回初版本を読んだわけだが、文章の異同を調べたくなって、地元の図書館で著作集を借りて調べてみた。その結果は後で書くが、やはり時代性の制約がこの本にもあるんだなと感じることになった。

 最初に書誌的なデータを確認しておきたい。本書の4分の3を占める「気流の鳴る音」は、アメリカ先住民の世界観を紹介したカルロス・カスタネダドン・ファンシリーズの分析・紹介である。筑摩書房から出ていた総合雑誌「展望」の1976年9月、10月、11月号に掲載された。続く「旅のノートから」はメキシコ、ブラジル、インドを旅した紀行エッセイで、朝日新聞に1974年から76年に掲載された。そして最後の「交響するコミューン」は朝日新聞社の週刊誌「朝日ジャーナル」1973年1月5日号に掲載された。そして単行本の初版が出たのは、1977年5月30日付になっている。

 著作集の「定本解題」には以下のように書かれている。「1973年から76年の間、インドを、メキシコを、ブラジルを、ペルーを、ボリビアを歩いた。本体である「気流の鳴る音」は、この旅の最後の日に発想された。それ以前の生と、それ以後の生にわたしの生は分けられると思う。」見田さんは1937年8月生まれだから、それは40歳を目前にする頃だったのである。
(若い頃の著者)
 僕はこの本を新聞の書評で知って関心を持った。すぐに買って読んで、非常に感動した。そう思った人はとても多いようで、朝日新聞2022年7月27日夕刊文化欄には、この本が大きく紹介されていた。世田谷区下北沢には、同書から名を取った「気流舎」という古書店・カフェがあるという。その記事の筆者、太田啓之記者も東大で見田氏のゼミ合宿に参加していたという。「ヨガの瞑想、日本の整体、演劇のレッスンなど人間の身体性や他者との関係性に働きかける手法を通じて、『気流の鳴る音』で提唱した「われわれの自我の深部の異世界を解き放つこと」を現実に試みたていたと思われる。」

 ところで今回久しぶりに読んでみると、この本は結構難しいではないか。「展望」や「朝日ジャーナル」は当時としても硬い雑誌と思われていたが、一般的に入手しやすい媒体である。皆こんな難しいものを読んでいたのか。しかし、僕の記憶ではこの本は非常にクリアーな明晰性をたたえていて、特に難解だったという記憶はなかった。一つには、僕は当時大学生で人生で一番硬い文章を読み慣れていた時代だったからだろう。もう一つ、読書だって身体的活動なので、視力が昔より衰えてくると漢字が多い文章は読むスピードが落ちるのである。判ったつもりで若い頃は読み飛ばしていた文章に、今はつまずくことがある。(メガネは持っているけど、今も裸眼で本を読んでいるので、なおさら。)

 例えばこんな文章である。「マルクスは人間と対象的世界の関係を、所有の関係に一面化するような把握そのものを止揚する運動として、コミューン主義を構想している。」「マルクスがコミューン主義について述べた一節の全体の構成をみれば、そこでマルクスが、コミューン主義というものをたんに所有の平等や共有として把握するやり方を、いいかえれば、〈人間的な感覚や特性の解放〉抜きのコミューン主義というものを、どんなに明確に軽蔑していたかがわかる。」「われわれと他の人間や自然との関係において、根底的に価値があるのは、われわれがそれらを所有し、支配することではなくて、それらの人びとや自然とのかかわりのなかで、どのようにみずみずしい感動とゆたかな充足を体験しうるかということである。」(下線部は原文では傍点。)
(初版本の箱裏の写真)
 これは「交響するコミューン」の一部だが、中では難しくない方だろう。言いたいことは理解出来たと思う。特に1973年1月掲載、つまり連合赤軍事件の起こった72年末に発表された文章なので、既成左翼に止まらず「新左翼」に対してもマルクス理解の貧困を批判するという「時局的意義」もあったと思う。そういう時代的な認識の枠組は45年も経つと通じなくなってくる。今回読んで驚いたのは、今は使わない「差別語」がこんなに使われていたのかということだ。身体障害者と「差別語」という問題が本書内で出てくることもあって、いくつかの言葉は著作集版でも変更されていない。

 ではすべての文章が原文通り著作集に収録されているのか。気になって調べてみたら、注の入れ方が大きく変わり、一部省略されている。それは形式的な問題だが、内容的な大きな変更が多分2箇所あることが判った。一つは「交響するコミューン」の中で分裂したコミューンを論じているところ。もう一つはドン・ファンの教えとして「世界を止める」ことを論じた部分。その試みはフッサールやレヴィ=ストロース、マルクスらの現象学的・人類学的・経済学的な「判断停止」(エポケー)に通じると論じ、ブレヒトの「異化効果」、梅蘭芳らの京劇らを論じる。その後の文章。

 「パリ・コミューンや1917年革命をふくめて、すべての真の革命は民衆の身体性の次元における「世界を止める」契機をはらむが、「整風」から「文化大革命」に至る中国革命は、革命的な言説としての「風」(作風=スタイル)を一貫して問題化することによって、革命一般の内包するこの契機をこれまでの歴史の中では最も自覚的に追求しているといえよう。」この後に「1960年代後半以降のアメリカや西欧・日本における、「スタイルの政治学」ともいうべき新しい世代もまた、しぐさや生き方の水準における市民社会の「自明の」前提のいくつかをつきくずしてきた」と続いていく。(原文は作風のルビとしてスタイル。)

 1976年1月に中国の周恩来首相が亡くなり、9月に毛沢東共産党主席が死亡した。一月後の10月6日に毛沢東夫人の江青ら「四人組」が逮捕され、「文化大革命」は終焉に向かった。『気流の鳴る音」が書かれていた時代は、中国激動の時期に当たっていたのである。しかし、まだまだ文化大革命の驚くべき残虐性は世界に知られていなくて、中国革命に希望を見出す人びとがかなりいた時代である。僕だって、アメリカのベトナム戦争、ソ連のチェコ侵攻を批判する余り、中国に期待を掛ける部分がなかったとは言えない。しかし、今になると上記のような中国革命、さらに1917年革命(ロシア革命)の認識にはとても賛成出来るものではない。

 では、同じところが著作集ではどうなっているかと言うと、「「イマジン」(「想像してごらん」)というジョン・レノンの歌を生み出し、この歌がこだましつづける1970年代以降のアメリカ、ヨーロッパと日本の「新しい社会運動」の世代は、しぐさや生き方のスタイルとしての水準における市民社会の「自明の」前提のいくつかをつきくずしてきた」と変わっている。中国を含めて現実の「革命」はバッサリ切られて、代わりに「イマジン」になった。この曲は71年発表だから、60年代後半の運動も70年代以降に変えられてしまった。『気流の鳴る音』には、ちくま文庫版、ちくま学術文庫版もあって、いつ変わったのかは調べていないが、やはり見田さんも時代の認識の枠組を超えられなかった部分があるわけだなと思った次第である。
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インドネシア映画『復讐は私にまかせて』

2022年08月27日 22時44分08秒 |  〃  (新作外国映画)
 タイ映画『プアン 友だちと呼ばせて』を書いたばかりだが、インドネシア映画『復讐は私にまかせて』という映画も公開されている。ロカルノ映画祭金豹賞(最高賞)を受賞した作品で、ものすごく変で驚き。『プアン』はニューヨークのロケも印象的なオシャレ系青春映画で、韓国ドラマ的なドラマチック路線である。一方、『復讐は私にまかせて』はもっと土着的で独特の魅力を持った作品で、エンタメ系なのにどこか判りにくい。変テコすぎる設定にインドネシアの歴史が垣間見える作家性がある。監督・脚本のエドウィン(1978~)は、映画祭で上映されているが見るのは初めて。ジーパンみたいで名前だけはすぐ覚えた。

 1989年、ジャワ島バンドンのボジョンソアン地区の田園地帯。アジョ・カイル(マルティーノ・リオ)は命知らずのバイクレースのゲームに熱中している。ケンカの強さが知られ、悪名高い実業家レベの暗殺を頼まれる。そこで採石場に出掛けると、ボディガードが立ちはだかる。それがイトゥン(ラディア・シェリル)という伝統武術シラットの達人の女だった。悪人レベを何故守ると問うと、知らずに雇われたが雇われた以上闘うという。こうして採石場の荒涼たる光景の中で死闘が始まる。
(二人の死闘)
 どう見ても荒唐無稽な劇画調の始まりだが、両者ノックダウンの死闘を通して、イトゥンがアジョに運命的な一目惚れをしてしまう。イトゥンはラジオ番組でアジョに向けて何曲もリクエスト曲を贈る。しかし、アジョはなかなか応えない。実はアジョはケンカは強いんだけど、人には言いにくい(でも皆が知っている)悩みがあったのである。幼少時のトラウマから勃起不全(ED)で、娼婦と接しても勃たない。ますます荒唐無稽が極まる設定だが、イトゥンの恋心は暴走一途。アジョもついに押し切られて、情熱的なキスから一ヶ月後の結婚へ。しかし、イトゥンに横恋慕するブディは納得しない。
(幸せな結婚生活)
 あまりにも変な設定なんだけど、かくして性的に結ばれない結婚生活が始まる。そこで映画内の時間は昔に遡る。1983年の皆既日食の日、少年アジョと友だちのトケはある事件を目撃して、忘れられない出来事がトラウマになる。イトゥンは復讐を考えるが、情報を集めるためブディに接触して悲劇が起きる。そこから事態は迷走を始め、一時は二人とも獄中に。3年後、出獄してもアジョは長距離トラック運転手になって故郷には帰らない。そのトラックには謎の女性ジェリタが現れる。アジョとイトゥンは再会できるのか。そして復讐の行方はいかに…。
(エドウィン監督)
 最後の方になると、謎めいた展開にわけが分らない感じもある。「復讐は私にまかせて」というほど、明るい感じの展開ではない。画面は暗くザラついている。実は黒沢清監督『トウキョウソナタ』『岸辺の旅』などで知られる撮影監督芦沢明子が16ミリフィルムで撮っているのである。それをスキャンしてデジタルにするという手間を掛けて、独特の映像が作られている。編集はアピチャッポン・ウィーラセタクン映画を担当してきたタイのリー・チャータメーティクン。アジアの才能が結集して作られた作品だ。
(芦沢明子)
 この映画に一番似ているのは、タランティーノ監督のド迫力復讐バイオレンス映画だろう。そしてタランティーノにも影響を与えてきた香港カンフー映画や日本の昔の映画、「さそり」シリーズや『修羅雪姫』などである。しかし、それらの映画では「勃起不全のケンカ野郎」なんて、不可思議な存在は出て来ない。この設定こそ、マッチョなインドネシア社会への批判的まなざしなんだという。80年代のインドネシアでは、65年の「9・30事件」以後の共産党員大虐殺を起こした軍人たちが引退し始めた時期なんだろう。この映画でも悪徳実業家は大体「元軍人」である。スハルト政権の長期化の中で、腐敗が日常化していた。

 ここで注目されるのは「女性アクションスター」の系譜である。日本では60年代末に藤純子がスターになったが、本人はアクションスターではなかった。その後の梶芽衣子なども同様。初の女性アクションスターは、70年代中頃の志穂美悦子になる。今は若い人が名前を知らない長渕剛夫人だが、千葉真一のジャパンアクションクラブ出身という本格的アクションスターだった。結婚後は引退してしまった(ウィキペディアを見たら、「クセのある男なので専業主婦したい」という言葉が出ていた)が、女性映画の観点から再評価されるべきだ。「男社会の中で伝統武芸によって闘う女性」というジャンルの比較映像学的な検討が望まれる。非常に重要なテーマではないか。
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登別温泉の第一滝本館ー日本の温泉⑳

2022年08月26日 22時36分05秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 前回は鹿児島県・指宿温泉の「白水館」という大旅館を取り上げた。大旅館というつながりで、北海道・登別温泉第一滝本館を取り上げたい。ここはとても有名な温泉で、僕の世代だとザ・ドリフターズ版いい湯だな」の一番最初に「ここは北国 登別の湯」と歌われている。登別、草津、白浜、別府と続く一番初めである。この歌はもともと永六輔作詞、いずみたく作曲、デューク・エイセス歌の「にほんのうた」シリーズの一曲だった。京都の「女ひとり」、宮崎の「フェニックス・ハネムーン」なんかと同じ。元は群馬県の歌だから、草津、伊香保、万座、水上の4つが出てくる。ドリフ版で初めて全国ヴァージョンになった。
(第一滝本館の大浴場)
 なんて知ってたみたいに書いたけれど、実は今調べて知ったのである。そうか、この歌は二つの歌詞があったのか。その登別温泉だけど、江戸時代末には探検家松浦武四郎なども訪れ、知られるようになった。語源はアイヌ語の「ヌプル・ペツ」(水色の濃い川)とされる。湧出量1日1万トン、9種類の泉質から「温泉のデパート」と言われる北海道随一の温泉地として有名だ。しかし、僕が訪れたのは北海道の温泉の中では遅い方だった。北海道旅行は登山目的だったので、百名山にたくさん選ばれている道東、道央に行くことが多かった。だけどまあ、一度は登別にも行きたいと計画に入れた年がある。
(第一滝本館全景)
 その時はどの宿を予約するか調べて「第一滝本館」だなと思った。登別最初の旅館で、1888年に滝本金造という人が開いたという歴史ある宿である。少し大きすぎる気がしたが、何より良いなと思ったのは「泉質の多さ」である。登別温泉は9つの泉質があるというが、第一滝本館だけで、そのうちの5つに入れるのである。大浴場は「芒硝泉」で酸性度が一番高い。露天風呂は「硫黄泉」で、これも酸性度が高い。大浴場の中に、他の「酸性緑ばん泉」の緑の湯、アルカリ性の「重曹泉」、そして「食塩泉」の浴槽がある。
(重曹泉の浴))
 登別温泉には他に明礬泉、鉄泉、酸性鉄泉、ラジウム泉もあるというが、全部入るのは大変。一つの旅館に5つもまとまっているのは有り難い。全部入るのが大変なぐらいだ。そしてもう一つ、「地獄谷」と言われる温泉が噴出する源泉を大浴場から一望できるのである。箱根の大涌谷などと同じような風景である。しかし、多くの温泉では宿から歩いて見に行く。登別でも歩いて見られるけれど、同時にお風呂から見えるのがすごい。これは他の温泉にはないだろう。温泉なんだからお風呂が大事である。いろんな素晴らしいお風呂に入ったけれど、こんなに多彩な泉質を一軒の宿で経験できるところは稀だ。それに飲泉もできる。
(地獄谷を一望する)
 大旅館は宿泊費も高い。例えば1万円の宿に対して、2万円の宿に泊まったら、2倍の満足度を得られるだろうか。僕の経験だと、そうはいかない場合が多いと思う。大きい宿は客も多いから、客の扱いが雑になったり、料理も作り置きばかりになったりする。部屋の大きさだけは、確かに大旅館の方が広い。法師温泉鶴の湯温泉など、泉質は素晴らしいけど、狭いなあという部屋だった。しかし、部屋だけ広くても仕方ない。一般的な傾向では、大旅館も時々いいけど、小さくて安い宿の方が面白いことが多いと思う。でも第一滝本館の料理は満足だった。あれだけの大旅館なのに高いレベルを維持していたのは立派。
(のぼりべつクマ牧場)
 登別にはロープウェイで行く有名な「のぼりべつクマ牧場」がある。ヒグマを飼育するというとんでもない発想だけど、ここは行く価値あり。観光地のこの手の施設は不満足も旅情のうちと思うけど、ここは純粋に面白かった。というか、野生ではヒグマに会いたくないから、ここで見てスゴいなと思ってしまった。「マリンパーク・ニクス」という水族館にも行った。一時経営危機が伝えられたが、今も何とかやっているようである。登別は一度は行きたい温泉だが、高くても第一滝本館が良いと思う。
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岸田首相の「原発新増設」方針の大間違い

2022年08月25日 22時52分32秒 |  〃 (原発)
 コロナ感染中の岸田首相が「リモート会見」を行って、コロナ感染者の全数把握に関して都道府県の判断で止めることが出来るようにするとのこと。何だそれと各知事には不評のようだが、僕も一体何なんだろうと理解不能。それはちょっと置いといて、もう一つ原発に関して重大な方針変更を打ち出した。「岸田文雄首相は24日、首相官邸で開いた「GX(グリーントランスフォーメーション)実行会議」(議長・首相)で、次世代型原発の開発・建設や原発の運転期間延長について、「年末に具体的な結論を出せるよう検討を加速してほしい」と指示した。電力の中長期的な安定供給確保が狙い。正式決定すれば、2011年3月の東京電力福島第1原発事故以降、新増設などを凍結してきた政府方針の大きな転換となる。」
(方針変更を表明する岸田首相)
 僕はこれは実現不可能な暴論だと思う。今まで書いたことも多いが、改めて取り上げておきたい。今の時点で原発を新たに作るとして、それが稼働するのは一体いつのことだろう。もちろん来年、再来年ではなく、30年以上も先のことだろう。しかし、日本は人口がどんどん減っていく。1億人を割り、やがて8千万人台になると予測されている。21世紀後半の人口減に加え、節電技術などの進歩を加味して考えると、むしろ「電気が余る」状況が起きるのではないか。ダムを造ったものの、水需要の予測を誤り、利用されず負担のみ重くなっているケースは全国に数多い。その二の舞になることが予想される。
(まず新増設が予想される原発)
 何でこのような方針変更が打ち出されたのか。ロシアのウクライナ侵攻以来、世界の分断が進んでいる。「ウクライナで起こったことが東アジアで起こらないとは言えない。」政府首脳が何度もそのようなことを言っている。その事実認識自体も検討が必要だが、中国や「北朝鮮」の軍事力増強に問題があるのも確かだろう。しかし、中朝との軍事的緊張が高まる時に、「日本に原発をさらに増やす」という方針が僕には解せない。直接ミサイル攻撃などを受けなくても、日本の電力企業、各原発がサイバーテロにあって機能がマヒすることはないのか。ロシアはウクライナの発電所にサイバー攻撃を行った事実があるし、現在も原発を攻撃、占拠している。原発がサイバー攻撃を受ければ、ただ電気が停まるだけでは済まない。

 さらに「エネルギーの自給」に反していることもある。コロナ、ウクライナ問題で世界の流通網が混乱し、食料やエネルギーなどが値上がりしている。値上がりするだけならまだしも、2020年に中国からのマスク輸入が途絶えたように、日本に輸入出来なくなってしまえば大変なことになる。日本は化石燃料(原油、天然ガス、石炭)をほぼ輸入に頼っている。では原発の原料である「ウラン」は日本に出るのか。かつて鳥取県の人形峠などがウラン産地と騒がれたことがあるが、採算が取れるようなものではなかった。世界ではほぼオーストラリアカザフスタンカナダなどに集中している。
(ウラン産出国)
 直接原発の材料となる「濃縮ウラン」は、ほぼカナダアメリカフランスに負っている。カザフスタンはロシアの同盟国だが、カナダやオーストラリア、アメリカなどは日本への輸出を禁止するとは考えられない。一応そう思えるけれど、日本が核不拡散条約に反して核兵器を開発する動きを見せれば、直ちに禁輸されるだろう。またアメリカにトランプ政権のような自国最優先政権が成立した場合、同盟国だけど売らないということもありうる。永遠に米国追随を逃れられなくなる。それにそういう問題がなくても、記録的な円安の進行でウラン燃料も値上がりする。レアメタルであるウランは、今後値段がどんどん高くなっていくに決まっている。
(世界のウラン資源量分布)
 では、「エネルギーの自給」が可能な発電方法はあるのか。完全に自給するのは当面無理だと思うが、水力太陽光地熱風力潮力などが考えられる。ただ水力、風力、地熱発電なども自然破壊を伴う。それに原発や火力発電と同様に、大規模発電施設には災害やサイバー攻撃のリスクがある。水力発電用ダムが巨大地震で決壊すれば、原発事故に匹敵する大災害になる。太陽光、風力なども巨大台風などで損傷する危険性がある。災害大国日本では、大規模な発電施設を作るやり方を再考するべきだ。
 
 じゃあ、どうすれば良いか。小規模水力発電、太陽光発電などを「地産地消」的に設置することが、真の「防衛力強化」ではないか。第2次安倍政権以来の10年で、新エネルギー政策がすっかり停滞した。もしこの間、再生可能エネルギーの技術向上に注力していたら、現状は大分違ったのではないか。「電気という商品」は他の商品と全く異なっている。在庫を倉庫にしまっておくとか、冷凍保存するとかが出来ない。しかし、過去に比べればバッテリー技術は格段に進歩している。「電気自動車」というものが可能になったぐらいである。さらに生産から消費までの間に、つまり発電所から各家庭までの間に、送電線内で電気が減ってしまう。「送電技術の向上」でこの問題を少しでも解決するべきだ。

 それに節電技術の発展も合わせれば、とても新規原発など不要である。21世紀後半にはそうなるに違いない。ここで大事なことは政府が率先して新しい技術に投資していかなければ、それこそ諸外国に遅れを取るということだ。原発事故以後、もう10年を空費してしまった。今やることは、原発や化石燃料に頼らない電力に大胆にシフトさせていくことだと考えている。
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タイ映画『プアン 友だちと呼ばせて』

2022年08月24日 22時09分01秒 |  〃  (新作外国映画)
 東南アジアの大衆文化が日本に紹介される機会もかなり増えてきた。タイの映画ではアート系のアピチャッポン・ウィーラセタクンが一人気を吐いていた感じだが、最近はエンタメ系映画も日本で公開されるようになってきた。『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』(2017)という大規模なカンニングを描く映画は、日本でも2018年にヒットした。なかなか面白い映画だったけれど、内容的に好きになれなくてここでは書かなかった。その映画を作ったバズ・プーンピリヤ監督に、香港映画の巨匠ウォン・カーウァイが映画製作を持ち掛け製作総指揮を務めたのが、『プアン 友だちと呼ばせて』という映画だ。

 これはとても上手に作られた青春映画で、誰でも思い当たるような若き日の悔いを追体験させる手腕は見事。タイ各地とニューヨークを結ぶロケも魅力だし、ノスタルジックな音楽も心に沁みる。ある日、ニューヨークでバーを経営するボスのもとに、タイで暮らすウードから数年ぶりに電話があった。白血病で死期が近く、最後の頼みを聞いて欲しいという。過去に付き合っていた女性たちに返したいものがある、運転手を務めてくれないかというのである。バンコクに駆けつけてみると、ウードは見る影もなく痩せている。化学療法を拒否して死を待っているのである。
(左=ボス、右=ウード)
 ウードと過去の女性たちはニューヨークで知り合っていた。そのため映画は現在と過去が交錯しながら進むことになる。ボスとウードはニューヨークで一緒にバーを開く予定だったが、ウードは直前に故郷でダンススクールを開くというアリスと一緒に帰国してしまった。しかし、アリスとは破局してしまった。イサーン(東北部)のコラートで開いたダンススクールは、今も続いているのだろうか。次のヌーナーは今では人気女優となっている。今はドラマのロケ中で、そこに会いに行く。
(バズ・プーンピリヤ監督)
 ヌーナー役は『バッド・ジーニアス』でブレイクしたたオークベープ・チュティモンがやっている。ヌーナーはニューヨークでオーディションを受けたがったが、ウードが反対して別れたのだった。このようにニューヨークで起こった出来事が、ウードの過去と現在をつないでいる。続く写真家のルンが住むチェンマイまで出掛けて、一応ボスのミッションは終わったはずだった。ところが実はこの映画はここから始まると言っても良いのである。それまでボスの過去の人生は全然描かれなかった。ボスとウードはなんか昔からの友だちなんだぐらいの気持ちで見ていた。でも当然ながら二人にも過去があり、そこにはプリムという女性が大きく関わっていた。プリム役のヴィオーレット・ウォーティアは横浜生まれの歌手だという。
(ボスとプリム)
 映像美と懐古的な音楽によって、映画は心地よく進行するが、人間関係は苦いものがある。それを面白く見せていくのは脚本の力。ニューヨークやボスの故郷パタヤ海岸などのロケの中に、過去と現在を縦横に織り込んだ脚本が見事だった。ウォン・カーウァイが上手く脚本にアドバイスしたようだ。監督は自分の実人生も入れたという。題名の「プアン」というのは、「友人」という意味だという。「友だちと呼ばせて」という副題が効いている。何度もカクテルをシェイクするシーンが出てくるのも興味深い。是非、韓国で(男女を入れ替えて)リメイクして欲しい。タイ映画初めてという若い人に見て欲しい。
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「子ども家庭庁」、名称変更が必要ー「家庭」追加の実態調査を

2022年08月23日 22時35分41秒 | 政治
 菅義偉内閣で検討が進められ、岸田内閣に引き継がれた問題に「子ども庁設置」がある。それがいつの間にか「子ども家庭庁」を名前が変わって、2022年2月に設置法案が国会に提出された。6月に法案が成立して、2023年4月1日に発足する予定である。すでに80人体制で準備室が設置されている。元の名前の「子ども庁」に関して、僕は「子ども庁は要らない」(2021.5.10)を書いた。今も考えは変わらず、設置したからといって少子化の進行が止まるとか、子どもの虐待が減るなどとは考えていない。まあしかし、作るというなら、少しでも役立つ組織になれば意味もあるだろう。
(「子ども庁」に「家庭」が追加)
 今書くのは、子ども家庭庁の体制そのものではない。それも後で少し書くけど、「子ども」に「家庭」が加わった経緯の問題である。最初は「子ども庁」で進んでいたのに、岸田内閣になって自民党内保守派から「家庭」を追加する要求が出た。もともとの議論が「子どもファースト政策を」という発想だっただけに、その変更には批判も強かった。自分としては、そもそも子ども庁も不要だという意見を書いたから、改めてここでは書かなかったけれど、やっぱり自民党はなあと思った。

 子どもだけ突然に生まれるわけではないから、親の支援も大切だ。それは自明のことだが、ここで自民党内から出て来た「家庭」というのは、「正しい家庭」というイデオロギー的価値観が入っている。もちろん同性どうしの家庭などあってはならない。「夫婦同姓」の両親がそろった家族を指しているはずである。しかし、緊急に支援を必要としている「ヤング・ケアラー」や「被虐待児」などは、満ち足りた「家庭」に育っていないだろう。「家庭」を加えることで、どんな新しい政策が可能になるのか。

 そのように当時思っていたのだが、今回の「旧統一教会」問題の再燃で新たな問題が見えてきた。今では名前を「世界平和統一家庭連合」と変更を認められ、略称を「家庭連合」と称している。「家庭」という言葉に旧統一教会のイメージが付くことになってしまった。そして現実に名称変更に旧統一教会が関与したという疑惑も取り沙汰されている。例えば、兵庫県明石市の泉房穂市長は7月17日に、「『統一教会』が、自民党の議員に命令して「子ども庁」ではなく「子ども家庭庁」に変更させたとのこと。自民党が、子どもへの責任を、家庭に押し付け、子どもに冷たい政治を続けている背景には、『統一教会』の存在が大きいとも言われている。マスコミよ、きちんと事実を報道していただきたい」とツイッターに投稿したという。
(準備室発足に当たって野田聖子大臣が訓示)
 実際に「家庭連合」(旧統一教会)が「命令」したかは判らないけれど、自民党保守派が「家庭」を付け加えることを強硬に主張したのは間違いない。自民党の保守派と言われる議員は、ほぼ旧統一教会と深いつながりを持ってきたのだから、「命令」などしなくても思想傾向が一致していただろう。自民党はこの追加の経過を調査しなければならない。関係ないとされるだろうが、もはや「家庭」という言葉から「家庭連合」が連想されるという事実は消えない。まだ発足していないんだから、秋の臨時国会で「家庭」を削除することは可能である。少なくとも野党が一致して「家庭」削除法案を出すべきだ
(子ども家庭庁の組織)
 なお「子ども家庭庁」の組織は上記のようなものになる予定。事前に予想されたように、子ども政策で一番重要な教育に関する政策は文科省に残される。厚生労働省、内閣府の権限が移管されるが、これでどれだけ意味ある組織になるのか、僕には疑問が多い。まあ、そのことも数年後に再検討するべきだと思うが、取りあえず「家庭」を削除して発足すべきだろう。
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「嫌韓」と「過去の首相評価」、ねじれの様相ー国葬問題②

2022年08月22日 23時02分44秒 | 政治
 安倍元首相の国葬問題に関しては、左右両派にある種の「ねじれ」が生じているように思う。今までなら過剰なほどの攻撃性を持っていた「ネトウヨ」層が沈黙しているんだという。僕はいちいちネット上の様々な言説を追ってるわけじゃないから、詳しくは知らない。そもそもネット上の右翼にも関心がない。しかし、どうやら「旧統一教会」が韓国生まれの宗教で、問題が浮上するに連れて「反日宗教」などと言われていることと関係あるに違いないと思う。
(天宙平和連合が韓国で開いた集会)
 特に「天宙平和連合」という関連団体が韓国で安倍氏追悼集会を開いたことは、国葬賛成層に大きなショックを与えたのではないだろうか。安倍氏と旧統一教会に深いつながりがあったことがはっきりし、さらに韓国で追悼が行われたことで「逆効果」が生じた。安倍元首相は自民党内の右派として、中国、韓国との「歴史問題」で戦争責任を否認する立場に立っていた。一国の首相としては、やむなく最低限の線で認めたことがあったが、ほぼ過去に向き合わない姿勢で一貫した政治人生だった。

 深く考えずに言葉だけ強硬な姿勢が似ていたのだろう、安倍氏はいわゆる「ネトウヨ」層に強い支持があったはずだが、何のことはない。「韓国に日本人信者の浄財を貢ぐ手伝い」をしていたとは。そんな幻滅感があるのか、まだ心の整理をする時間もなく無視しているらしい。むしろ反安倍氏の立場、今まで「リベラル」的な立場になっていたはずの人が、安倍元首相を「反日宗教」に協力し「売国」とまで表現する人がいる。それも客観的な評価に問題がある。安倍元首相、あるいは自民党は「旧統一教会」勢力を利用したつもりだったのであり、利用されていたという意識は全くないだろう。

 岸元首相以来、「国際共産主義勢力から、皇室を守る」という「至上命題」のために、利用できる勢力はすべて利用するということである。旧統一教会の教義がどのようなものかなど、もっと大きな「大義」のためにはどうでもいい問題と考えるのである。そのような思考法は極めて偏っているし、非現実的な見方である。そして、その教団の信者の家庭で何が起ころうと二次的な問題とする。もちろん、社会問題になってしまえば、「お気の毒である」と言うだろう。しかし、公害事件が起きたら、苦しむ患者の立場に立つのではなく、公害企業の側に立って問題をもみ消そうとする。それが自民党の役割なのである。

 強いもののために有利な社会を作る。それが安倍氏だけでなく、世界の保守派の政治信条である。第2次安倍政権が発足した時に、安倍元首相は日本を世界の中で一番企業が活動しやすい国にすると発言した。経済発展のために必要な限りで、労働者の賃上げを求める姿勢を示したこともある。だけど、労働者に有利な労働法制を実現するわけではなかった。今回韓国の集会にはトランプ前米国大統領もビデオ演説を寄せていた。安倍氏が攻撃対象にされるきっかけとなった2021年の集会でトランプ氏も演説した。安倍氏はトランプがビデオ参加すると知って、自分の参加を容認したとされる。最後までトランプ追随だった。
(天宙平和連合でのトランプ氏の演説ビデオ)
 ところで、反国葬派に中には安倍元首相を批判する余り、これまで国葬、国民葬、内閣・自民党合同葬が行われた首相は、それなりにはっきりした業績があったと言う人もいる。これも「ねじれ」現象である。安倍元首相は退任後の時間が経ってないから、業績評価が定着してない。むしろ安保法制や国会答弁など「民主主義の破壊者」だったとする。一方で、吉田茂は「講和」、佐藤栄作は「沖縄返還」「ノーベル平和賞」というはっきりした業績があると言うのだ。さらに中曽根元首相でさえ「国鉄民営化」が業績だとする人がいて、全く驚いてしまった。時間が経つと、皆が忘れてしまうのだろうか。
(中曽根氏の群馬県民・高崎市民葬)
 佐藤栄作元首相は1972年に退任し、75年に急逝した。現職の衆議院議員だったから、安倍氏とは時間的にも立場的にも似ている。安倍氏以前の連続長期政権記録保持者だが、長すぎた政権末期の不人気を国民はまだ覚えていた。ノーベル平和賞も「非核三原則」が理由なんだから、佐藤元首相が受けるべき理由ではない。国民の多くは受賞に困惑するか、批判した。受賞は佐藤氏周辺のロビー活動が実っただけだろう。沖縄返還も業績といえば業績かもしれないが、当時も今も「苦い返還」である。基地を残したままの返還協定に野党は反対したのである。

 中曽根氏に至っては、「戦後政治の総決算」と称する21世紀の小泉、安倍政権につながる首相である。国鉄民営化とは戦後の労働運動を引っ張ってきた官公労の解体政策である。そして実際、厳しい弾圧にあった国労は壊滅させられ、以後はほぼ「闘う労働運動」が消えてしまった。ウソをついて衆参同日選に持ち込んだやり口も、ひどかった。「私がウソつきに見えますか」とまで言ったのである。忘れてしまった人が多いのか、中曽根氏は業績があったのに「合同葬」なのに、安倍氏が「国葬」はおかしいと言う人がいる。自民党の「大政治家」は皆似たようなものであり、たまたまその時点の政治状況が葬儀の方法を規定しているだけである。おかしいと言えば、全部おかしいけれど、選挙に勝って権力を握っている勢力が決めたわけだ。
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「国葬」に反対、しかし違憲違法論は無理であるー国葬問題①

2022年08月21日 22時56分29秒 | 政治
 安倍元首相の「国葬」が来る9月27日(火)に行われる予定である。そのように閣議決定され、諸外国にも通知したという。国民の間には賛否両論があるが、「旧統一教会問題」が騒がれるとともに反対論が多くなってきたようである。今までこの問題について書いてないけれど、基本的には少し揉めた方が良いと思っているので、しばらく放っておいた感じである。

 そろそろ一月前になってきたので、折りに触れて何回か書いておきたい。安倍元首相の国葬に賛成か、反対かとそこだけに絞って聞かれれば、僕は反対である。岸田首相は国葬を実施する理由として、4点を挙げていた。簡単に言えば①憲政史上最長の政権諸外国からの弔意選挙戦中の非業の死在任中の大きな業績というものだったと記憶する。①から③までは事実その通りに違いないが、④の業績評価の点は納得出来ない。僕は政策的にほぼすべての点で反対の立場だった。
(国葬反対デモ)
 ところで政策面以上に、無理に任期を延長して長期政権にしたことには今も納得出来ない。自民党総裁の任期は度々変更されてきたが、2003年からは1期3年、連続2期までとされていた。小泉純一郎総裁は、2001年から03年まで1期2年務め、2期目は03年から06年まで3年の合計5年務めた。05年の「郵政解散」で大勝し支持率も高かったので、特例で1年延長が検討されたが本人が辞退して退任した。その後継が第1次安倍晋三政権だが、1年で退任し2012年に復帰した。そのままでは2期務めても2018年に終わるはずである。しかし、2017年に「連続3期まで」に変更され「現職から適用」とした。その結果、2018年に安倍氏が自民党総裁に連続3選された。

 この「ルールを変えて、自分から適用」というのは、独裁者のやり方っぽい。今秋の中国共産党大会で習近平総書記が3選されると言われるのも同じやり方。ロシアのプーチン大統領も本来の任期は2024年までだったが、憲法を変えて任期はリセットされたと解釈することで、さらなる再選が可能になると言われている。(そのような解釈を取るように下院で提案したのは、かつて人類初の女性宇宙飛行士として「私はカモメ」と言ったテレシコワ下院議員だった。)まるで中ロに知恵を付けたようなもんだ。

 案の定、3選後の安倍政権では、権力の私物化のような事例が増えた。よく言われる「森友、加計、桜」問題もそうだけど、ほとんどまともに答えない国会答弁、野党が憲法に基づいて要求した臨時国会を無視して開かなかったことなど、後継政権にも引き継がれる悪影響を残した。「桜を見る会」問題では秘書が政治資金規正法で立件されたが、本人は不起訴となった。しかし、検察審査会にいくつかの件で申立された。2022年4月に申立された分(収支報告書の虚偽記載)はまだ判断が出ていなかった。政治資金規正法はある種の「形式犯」かもしれないが、未だ刑事訴追の可能性が残されていたのである。

 安倍内閣に「大きな業績」があったと評価する人でも、この終盤のふるまいには問題があったと認めるのではないか。その意味で「国葬」は大げさ過ぎて、初めから中曽根元首相と同じく「内閣・自民党合同葬」にしておくべきだった。もっとも反対派はそれでも反対だろうし、国葬を求める保守派こそ首相が気にする政権基盤である。政治的に「国葬」が選択されたことで、反対運動も激しくなった。僕は先頃書いたように、「無理しない」がモットーなので、この猛暑の中に反対デモをするような無理をする気はない。それに、僕も反対派ではあるものの、反対論の中にある違憲論、違法論には無理があると思っている。

 まあ僕が書くのもおかしいのだが、問題点を明確にするために書いておきたい。違憲、違法論にはそもそも無理があるものと、現在の最高裁の判例では受け入れられないものがある。違憲論では①政教分離に反する国会の議決に基づかない税金支出は違憲(第85条)③法の下の平等に反する思想及び良心の自由に反するといったあたりではないか。①は新聞投書にあったが、一般の葬儀ではなく無宗教の儀式だから違憲とは言えない。②も葬儀がいつあるかは事前に想定出来ないんだから、予備費を充てるのは違憲とは言えない。③④の問題になるが、今までに国葬1回(吉田茂)、国民葬1回(佐藤栄作)、内閣・自民党合同葬(中曽根、宮沢、小渕等)が行われてきた。これらすべてが憲法違反だったとするのは、ちょっと無理があるのではないか。
(中曽根元首相の内閣・自民党合同葬)
 もちろん全国民に黙祷を求めて、しない場合に罰則があるなどとなったら、それが「内心の自由」を侵害するのは間違いない。しかし、そんな法律が出来るわけない。内閣の「お願い」レベルなら、反対派には不快であっても、個々人の内面に踏み込むものではないとされるに違いない。国葬に弔意を求めるのが違憲だったら、例えば教育現場で卒業式に国歌を起立斉唱しなければならないという職務命令が合憲になっているはずがない。今の最高裁多数派の考え方では、国民に弔意を求めたとしても、具体的な自由の侵害には当たらないとされるだろう

 近年の選挙ごとに起こされる定数配分違憲訴訟も、昔は合憲とされていた。何度もチャレンジして違憲論が認められたので、今の最高裁が入れない考え方であっても、裁判を起こして問う意味はある。だけど、仮に国葬が完全に憲法違反だと考えたとしても、司法権に基づいて事前に止める手立てはない。というか、僕は一応そう考えている。今の法体系上、行政事件訴訟法に基づき税金支出差し止め訴訟が出来るかどうかは、かなり難しいと思われる。もともと民事執行法に基づく仮処分は、行政問題だから適用できない。税金の支出を差し止める訴訟が出来るなら、今まで憲法9条に基づく自衛隊予算の差し止め、辺野古埋め立て予算の差し止めなどという裁判がたくさん起きているはずである。

 ぼくはかつて「教員免許更新制による免許失効を事前に差し止め、公務員としての職を失わせない仮処分請求」という裁判が出来ないかと調べたことがある。専門家にも相談し、結局は出来ないという結論になった。裁判自体は出来るかもしれないが、失職を差し止めることは出来ない。民間人どうしの争いなら、緊急に国家が介入する必要性も起こるだろう。しかし、国権の最高機関である国会が決めた法律に基づいて行政権が発動される(はず)というタテマエから、事前に差し止める制度はほぼないに等しい。もちろん事後に国家賠償法に基づく違憲訴訟を起こすことは、可能である。それで足りると今の法体系ではなっているんだろう。

 長くなったので「違法論」は簡単に。戦前にあった「国葬令」は失効していて、国葬を行う法的根拠がないという意見を述べる人がかなりいる。一見もっともらしいけど、それを言うなら全国戦没者追悼式とか東日本大震災追悼式には、それぞれ法的根拠があるのか。そんなものはないだろう。安倍政権では「主権回復70周年」とか「明治150年式典」とか思いつきのような式典が行われた。それら全部が違法だったのか。その時は反対はしても、違法論を掲げて裁判はしてないだろう。国葬も要するに無宗教の「追悼する会」なんだから、閣議決定を以て開催可能とするのが常識的な法解釈だろう。

 僕は最初に書いたように、政策論的には国葬反対である。でも国葬が違憲だ違法だとあまり大上段から言うのは、結局実り少なく挫折感を与えるだけだと思っている。諸外国からの参列者が集まれば、やっぱりやった意味はあったのかもと「東京五輪」みたいに思う人もあるんじゃないか。旧統一教会問題も次の選挙までには一段落してしまい、そう言えば野党は国葬反対だったっけ、まあ何でも反対の人たちだからということになるんじゃないか。反対なら反対で、無理に違憲だ違法だなんて言わずとも、終盤の安倍政権を思い出せば国葬はどうもやり過ぎじゃないか程度でいいように思う。
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コロナ「第7波」で死者激増、行動制限なしで良いのか

2022年08月19日 22時53分49秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 新型コロナウイルス問題をずっと書いてない。2020年には、確かに他に考えるべきこともなかった。現在はウクライナ問題、物価高やエネルギー危機と地球環境問題、安倍元首相暗殺事件と旧統一協会問題などなど、考えるべきことが山積している。ニュースでもコロナは最初に出てこなくなった。そして3年ぶりに「行動制限なし」の夏を迎え、旅行者もかなり多かったようだ。

 しかし、その間に新型コロナウイルス感染者が激増している。今日(2022年8月19日)発表された新規感染者数は、全国で26万人を越えて過去最多を記録した。それなのにそれほど大騒ぎされていないのは、症状が軽い人、感染しても無症状の人が多いということなんだろう。芸能人やスポーツ選手の感染もたくさん報道されるが、ほとんどはちょっとすれば回復しているようである。

 それだけで済めばともかく、やはり少し遅れて死者数も激増して、過去最多レベルに近づいてきた。最初の頃と違って必ずしも「新型コロナウイルスによる肺炎」が死因ではないようだ。コロナ感染による肺炎は、ワクチン接種、治療薬や治療経験の積み重ねでかなり防げるようになった。しかし、これだけ感染者が多いと、どうしても高齢者や基礎疾患保有者にも広がっていき、腎臓、肝臓、心臓などが高熱で働かなくなってしまう。コロナ肺炎としては中等症なのに、亡くなるケースが多くなったという。
(死者数の推移、東京の場合)
 上記画像は東京都におけるコロナ死者数の推移である。2020年から通覧出来る全国データが見つからなかったので、東京都のサイトから作ることにした。第6波が今まで一番死者数が多かった。しかし、死者数は感染者数から少し遅れて増加するので、今後増加すると思われている。今までの感染者数は東京の場合を下記画像で示すことにする。2021年までは現在に比べると感染者数が一ケタ違った。確かにちょっと前まで、東京で千人を超えたというと大ニュースになっていた。両方のデータを見ると、以前は感染者数に比べて死者数が多かったことが判る。これだけ感染者が増えているんだから、死亡率は激減していることになる。
(発症日別の新規感染者数、東京の場合)
 もはやコロナは「単なる風邪」化してきたのだろうか。しかし、単なる風邪でも僕は引きたくないし、風邪を引いて発熱したら社会的活動は出来ない。つまり仕事を休まざるを得ない。諸外国ではもはや規制を完全に撤廃している国もあるし、入国に際して陰性証明等を必要としない国も多い。東アジアの国だけが厳格な規制を続けているのが実態だろう。日本でも「全数把握」を見直すという声も出て来ている。実態としては全数把握はもはや破綻しているのではないか。しかし、法的な分類が変わらない以上、全数把握を求めざるを得ない。この感染者数を見れば、医療施設の負担が大きすぎる。何らかの見直しは避けられないだろう。

 僕が今思っているのは、岸田内閣からのメッセージ不足である。「無策」と言っても良いかもしれない。安倍内閣では西村康稔経済再生相(現経産相)が「新型コロナ対策相」として、毎日のように顔を見ていた。菅内閣では河野太郎行政改革担当相(現デジタル相)が「ワクチン接種推進相」として発信していた。まあ西村氏や河野氏の顔を見るのも結構ストレスだったような気もするけど。では現在の第2次岸田改造内閣では、コロナ対策担当、ワクチン接種担当の大臣は誰なんだろうか。ちゃんと言える人は少ないと思う。いないんじゃないかと思ってる人も多いのではないか。

 いや、一応ちゃんといるのである。コロナ対策担当は山際大志郞経済再生相で、選挙中に「野党の人から来る話はわれわれ政府は何一つ聞かない。本当に生活を良くしたいと思うなら、自民党、与党の政治家を議員にしなくてはいけない」と、まさにホンネなんだろう暴言をした人物である。大臣に再任された後で、旧統一協会との関わりを認めた人でもある。ワクチン接種担当は、松野博一官房長官の兼務。いるのである。でも、何の存在感もない。そもそもコロナ対策で専門家の会議も開かなくなった。政府が行動制限をしないと決めてしまったが、それは専門家に諮って決めた対策ではない。それで良いのだろうか。

 この中で舞台芸術は大変なことになっている。例えば「ハリー・ポッター」が舞台化され話題になっているが、8月上旬はずっと休演である。また池袋の東京芸術劇場で行われるNODA・MAPの公演も7月分は中止となった。8月はやっているようだが、このように公演中止になる舞台が相次いでいる。人気公演は当然事前に売り切れているが、中止分は払い戻しすることになる。その莫大な負担に耐えきれない劇団が出ると言われている。もう舞台装置などは作ってしまった後で中止するんだから大変だ。今までは遅すぎる、少なすぎると言われつつ、何らかの助成金制度があった。今回は行政による行動制限がないから、補償の仕組みもないのである。

 全数把握を継続する、外国人の個人旅行は認めないという厳しい対策をする以上、日本国民に対しても何らかの行動制限が必要だったのではないか。政府は何も方針を出さず、民間は自由にして良いという中で、感染者は増えて医療機関がパンクする。飲食店も開けて良いと言われても、猛暑もあって客足は伸びないだろう。しかし、今回は補償がない。その方針の是非を国会で議論したのか。まだ第7波が見えなかった6月15日に国会を締めて、その後参院選後に3日だけ臨時国会を開いただけ。何の論戦も行われなかった。政府のコロナ方針を質す機会がないまま、第7波の厳しさにある。僕ならこうするという対策もないので、あまりコロナ問題を書きたくなかったんだけど、どうも岸田内閣の無策ぶりがひどいと思う。
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映画『アンデス、ふたりぼっち』、ペルーの「ポツンと一軒家」

2022年08月18日 20時51分26秒 |  〃  (新作外国映画)
 ペルーの『アンデス、ふたりぼっち』という映画が公開されている。南米の中でもブラジルやアルゼンチン、チリなどの映画は時々あるけど、ペルーは珍しい。しかし、ここでは書いてないけど、2021年には『名もなき歌』という映画があった。ペルー映画祭も行われたし、最近はちょっと活気があるようだ。『アンデス、ふたりぼっち』という映画は、アンデス山脈の5千mを越える高地に暮らす老夫婦の暮らしをじっくり見つめた映画で、思わずペルーの「ポツンと一軒家」かと思った。あまり詳しく知らずに見に行ったので、ドキュメンタリー映画かと思ってしまったのである。

 見ているうちに、これは劇映画だと判ってくる。ドキュメンタリーならもっと仕掛けがあるはずで、この淡々とした非情さは劇映画にしか出来ないと判るのである。きっと風景が素晴らしいだろうと期待したのだが、確かに素晴らしいと言えるかもしれないが、そこで現に暮らしていくには過酷すぎる。もうほとんど雲中の生活で、晴れることがほとんどない。いつもどんよりしていて、時には雷が鳴って雷雨となる。標高が高いから怖いなと思う。そんな中で、ウォルカパクシという二人が暮らしている。男子がいるということだが、家を捨てて町に住んでいる。86分の映画に、この二人の人間しか出てこないのである。
(ウォルカとパクシ)
 人間以外なら動物が出てくる。リャマ羊たちである。作物が出来るところではないから、生計は羊を飼って立ててきたのだろう。家は石造だが、屋根は茅葺きにしている。雨が漏れてきて、修理をしなくてはならない。老夫婦だけで大変だが、子どもはもう戻ってこない、自分たちは見捨てられたと覚悟している。しかし、電話もテレビもないような家で、インターネットどころか多分郵便配達も来ない。町へ出ても貧しい暮らしだろう息子からしたら、連絡する手段さえないのではないか。

 町まで行くのも遠いようで、なかなか行けない。マッチが切れかけて、買いに行こうとするがウォルカ老人は途中で倒れてしまう。夜になっても帰ってこないから、パクシが探しに来てようやく助け出す。このウォルカを演じるのは監督の実の祖父(ビセンテ・カタコラ)だという。妻のパクシは友人から推薦されたローサ・ニーナという映画も見たことがないシロウト。このキャストにホンモノらしさの秘密がある。マッチを買えなかったから、火を絶やさないように注意していたら、逆に火が強くなりすぎて火事になってしまう。その前には、キツネに襲われて羊たちが全滅する。不運がうち続く暮らしである。
(オスカル・カタコラ監督)
 この映画はペルー初の全編アイマラ語の映画だという。アイマラ語はボリビアとペルーでは公用語に指定されているというが、話者約200万という先住民の言語だ。アメリカ大陸の先住民は、ベーリング海を渡ったモンゴロイドだとされている。言語は判らないけど、風貌は日本人とも似ている。監督のオスカル・カタコラは1987年生まれの若い人で、この映画が第一回作品。しかし、何と2021年11月26日に第2作撮影中に死亡してしまったという。デビュー作にして遺作になったのである。
(リャマ)
 監督は小津安二郎や黒澤明の日本映画に大きな影響を受けたという。だからといって、人物をじっくり見つめると何でも小津だと評するのもどうかと思う。この映画は構図も凝っていて、ほとんど動かないカメラで撮られている。しかし、人物同士のドラマはないから、ドキュメンタリー・タッチという感じがする。実際、ここまで厳しい生活だと、世界を知る歓びより、見ていて苦しい暮らしをする大変さが先立ってしまう。なお、リャマが飼われているが、ラクダ科だという。グアナコから家畜化され、主に荷物運搬用に使うらしい。映画でもリャマに荷を積んで買い出しに行く。同じラクダ科のアルパカは毛を利用する家畜で、そこが違っている。ラクダ科だけどコブはない。このリャマの運命にも注目。

 面白いのかどうか判定が難しいが、こういう世界があるという知識もあって良いか。ペルーには首都リマ以外の地域を拠点とするシネ・レヒオナル(地域映画)があるという。この映画はその代表格らしく、米アカデミー賞のペルー代表に選ばれた。
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『優等生は探偵に向かない』、ピップ大いに悩むの巻

2022年08月17日 22時17分05秒 | 〃 (ミステリー)
 ホリー・ジャクソン優等生は探偵に向かない』(服部京子訳、創元推理文庫)が刊行された。昨年翻訳されて大評判になった前作『自由研究には向かない殺人』の続編である。この作品はイギリスの女子高生が探偵役になる小説で、フェアな謎解き、現代のSNSを駆使した推理、主人公の魅力など非常に素晴らしい小説だった。だから続編も早速読んだわけだが、全く期待を裏切らない傑作だ。邦訳だと「向かないシリーズ」という感じだが、原題は第1作が“A GOOD GIRL’S GUIDE TO MURDER”で、第2作が“GOOD GIRL,BAD BLOOD”なので、GOOD GIRLシリーズということになるだろうか。

 この作品は前作から引き続く設定になっている。最初の方で1作目の真相が明かされているから、1作目から読まないといけない。前作は女子高生ピップが学校の自由研究として、町の未解決事件を調べる話だった。事件と探偵役ピップの細かな設定は前作の記事を参照。1作目は「ピップ大いに頑張るの巻」とでもいう感じで、ピップは二人の死者にまつわる驚くべき真相を明らかにした。その結果、ケンブリッジ大学への推薦入学も決まり、全国的にも注目された。イングランドのスモールタウン、小説の舞台リトル・キルトンでは、前作で真相が明かされたアンディとサルの追悼会が開かれることになった。

 ところがその追悼会に出たまま、同級生コナー・レノルズの兄、ジェイミーが行方不明となる。今までに家出したこともある24歳、警察にも届けたが重大性を認めず捜査はしてくれない。しかし、突然スマホのやり取りも止まってしまい、コナーと母はいつもと違うと心配する。思いあまったコナーはピップに頼むことを思いつく。ピップは第1作事件に関するポッドキャストをやっているので、そこで情報を集めて欲しいというのである。ポッドキャストというのは米英の小説に時々出てくるけど、もともとはiPodなど携帯プレーヤーに音声データをアップして配信する仕組み。今では画像も配信できるというが、ピップは音声でやってるらしい。日本では聞かないけど、感じで言えば「人気YouTuber」というあたりか。
(原書)
 しかし、ピップは悩む。前作の最後で大変な目にあって、心配した母に二度と「探偵のまねごと」はしないと堅く約束させられたのである。だから、ピップはまず警察に捜査を督促に行くが、相手にされない。その後もまったくジェイミーとは連絡が取れず、家族が心配するのも無理はない。ピップしか頼れる人がないといわれ、「義を見てせざるは勇なきなり」と持ち前の正義感と義侠心から捜索に手を貸すことになる。まずはコナーと母から情報を集める。何故か父親は大事視してなくて相手にしてくれないけど。ジェイミーのパソコンを見たいのに、パスワードを何度試しても入れない。まずは写真入りのポスターを作ることにする。

 こうしてピップは再び捜査を始めてしまう。次第に明らかになるジェイミーの不審な行動。追悼会で彼は誰を見たのか。その夜、彼はどこに行ったのか。いろいろと判明するおかしな行動。最近のジェイミーには明らかにいつもと違う様子だったらしい。その原因には「ある女性」とのつながりがあったようだが、その人物の正体は何か。深まる謎の迷宮の中、時間だけがどんどん過ぎていく。しかし、ネット上で情報を集めることから、様々な誹謗中傷も殺到する。前作の事件で逮捕され起訴された裁判も思わぬ展開に。ついにピップは学校でも問題を起こしてしまう。
(2作を手にする作者ホリー・ジャクソン)
 そしてピップやコナーらはある夜「秘かな行動」に出るのだが…。ラストの急展開、思わぬ真相はピップに深い衝撃を与えるものだった。そこは読んで貰うとして、前作では「女子高生頑張る」という明朗青春ミステリーの趣が強かった。事件は数年前に起こっていて、問題は「真相は何か」に絞られる。新たな死者が出るケースではなかった。しかし、今回は同時進行の事件である。もしかしたらピップの間違いで、助かる命が失われるかもしれない。その緊張感があり、また予想外に深い真相の衝撃がある。言ってみれば「ピップ大いに悩むの巻」とでも言うべき一冊だ。

 もちろん夏バテ中でもスラスラ読める極上の小説で、530頁以上にもなるが長いという感じはまったくしない。(まあ前作を読んでない人はそっちからだから倍になるわけだが。)それを前提にして、ピップの周りでは何故こんなに事件が起きるのだろうか。シリーズ小説なんだから、そんなことを言っても仕方ないけど。でも、何やら映画『ダイ・ハード』シリーズのブルース・ウィリスみたいではないか。「世界で一番不運な女子高生」である。しかしながら、自由研究で未解決事件を扱う高校生なんて考えられるだろうか。そんな設定を支えるピップの性格は、かなり「面倒くさい人」なんだなとようやくはっきりしてきたと思う。ラヴィやカーラなど脇役陣も魅力的だが、今後ピップに幸せが訪れるんだろうかと心配だ。
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「夏バテは脳の疲れ」という話

2022年08月16日 22時59分26秒 | 自分の話&日記
 今日(2022年8月16日)は、またまた東京も「猛暑日」だった。35度以上ということである。そういう日は昔はほとんど無かったと思う。もちろん夏は暑かったけど、それは30度を超えるというような意味だった。今年は東北地方北部から北海道南部がずっと大雨が続いている。東京は6月末に梅雨明けしてしまい、猛烈に暑かった。7月に少し「梅雨の戻り」みたいな感じになったが、7月末からまた猛暑になった。予報によれば、35度を超えようというのは、今日が最後かもしれない。当たるかどうか。

 こうして猛暑が続くと、いつもの年だとテレビでは「高齢者の熱中症」を注意する呼びかけがあふれる。今年はコロナがあってずいぶん違っている。以前なら救急車で熱中症患者が運ばれたという数が報道されたが、今は「第7波」ということで、そもそも救急車を呼んでも入院できないという。熱中症もコロナ発熱も当初は見分けにくいと思うが、今年ほど暑ければ熱中症も多いはず。報道がない中で、一体どのくらいの患者が発生しているんだろうか。

 ところで、「高齢者の熱中症」というと、ニュースでよくこんなことを聞くことがある。「高齢者の方もガマンせずに冷房を適切に使用して下さい」。高齢者はガマン強いという思い込みである。年金生活者は生活を切り詰めなくてはならず、電気代も上がっているから節約して冷房を使わないという思い込みである。記事を書いている人は高齢者をあまり知らないんだと思う。もちろん節約している人もいるだろう。だけど、多くの高齢者、ここでいう高齢者とは90代に近いような場合だが、「暑さを感じていないから冷房を付けない」のである。家族が親切心で冷房を付けると、「寒いと言って切る」のである。

 冷房を切ってしまうような「超高齢者」は、もう暑さ寒さを自分で認識できないのである。暑くないと自分で思っても、それは温度センサーが狂っているわけで、体そのものは外気に合わせて体温を調節しないといけない。でも感じてないんだから、脳が体温を下げろと命令を下さない。じゃあ、そういう高齢者はどうすれば良いのか。家族がいればともかく、一人暮らしだと対策が思いつかない。取りあえず自分はそうじゃなく、ひたすら暑いから今年は冷房を付けて寝ている。

 ところで多くの人が「夏バテ」だあと思っているだろう。これだけ毎日暑ければ疲れるよと思うけど、その「夏バテ」って何だろう。夏には旅行をしたりして肉体的に疲れる。暑くて食欲がなくなって、エネルギー補給が足りなくなって疲れる、あるいは普段より「家族サービス」に気を遣って精神的に疲れる。暑くて寝苦しいから疲れる。などなどと思っている人も多いと思うけど、そうじゃないんだと朝日新聞土曜版(7月30日)に書いてあった。「体の疲れは脳の疲れから」というのである。
(夏バテの3要因)
 夏には大変なことが多い。暑さそのものが体温調整で大変である。何しろ最近は体温以上になったりする。体温を維持するために、汗をかいたりするが、それも脳が指令を出している。またどこかに出掛ければ、交通機関(自家用車も)は冷房している。インドア施設(美術館とか映画館など)も冷房している。町を歩くときは猛暑だから、その寒暖差に対して脳は体温調整に苦労するだろう。さらに紫外線も夏は強いから大変。日焼けもそうだけど、目から入って交感神経を刺激するんだという。
(交感神経と副交感神経)
 今書いた交感神経副交感神経とともに「自律神経」と呼ばれている。ここが体温調整を司っている。そして夏にはあまりにも体温微調整が大変すぎて、脳が疲れてしまう。普段だったら、寝ている間に休まるわけだが、夏は夜中も体温調整が必要だから、脳が休まるヒマが無い。そこでボンヤリしたり、生活リズムが狂ったり、疲労感を感じたりする。夏バテしたなあと思うわけである。

 そこでまた人間はうっかり頑張ってしまったりして、夏バテに負けぬよう、夜グッスリ眠れるよう、しっかり運動をしたりする。これはかえって自律神経に負担を掛けるという。運動中の体温調整はすごく微妙なので、運動も夏は春秋の半分ぐらいにした方が良いという。熱い長風呂も禁物。夏バテ克服のため、じっくり風呂に浸かって疲れを取ろうというのも、かえって熱中症みたいになってしまう。もちろん、体を冷やしたいと思って、アイスクリームやかき氷、キーンと冷えたビールなどの取り過ぎも良くない。

 じゃあ、何を食べれば良いのか。そういうことは調べればいろいろ書いてあるけど、要はバランス良くということで、嫌いな人が無理して納豆やレバーや小魚類とか食べなくてもいいと僕は思う。アイスだって、お酒やジャンクフードだって、多過ぎなければ気にしない。たまに食べると美味しいものは多い。余りに偏食は良くないし、好きなものばかりも良くないが、まあお菓子もお酒も世の中には必要だ。それに僕は頑張って出掛ける日も多い。好奇心をなくす方が怖いので、映画もいろいろ見に行く。けど、一日にいろいろは夏は無理だなあと最近は思う。まあ無理せずに。
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6代目円楽復帰の高座ー国立演芸場8月中席

2022年08月15日 22時02分48秒 | 落語(講談・浪曲)
 ブログを書いてもお金になるわけじゃないから、絶対に毎日書こうと決めているわけじゃない。でも、まあ出来るだけ書きたいとは思っている。本は毎日読んでるし、何かしらニュースはあるわけだから。文章を書くことは昔から好きで全然苦にならない。そして、書いてみて初めて自分はこう思っていたのかと気付くことがある。書いてみないと、自分の考えでもまとまらないのである。だから、大体2、3日分の書きたいテーマは心づもりしている。

 ところが今回は昨日は予想もしてなかった話題である。昨日ブログを書いた後で、いろいろなサイトを見ていて、突然明日は国立演芸場に行くと決めたのである。最近落語に行ってないから、そろそろ行きたいとは最近ずっと思っていた。でも猛暑の中、駅から離れた寄席に行きたくない。寝てしまいそうだし、4時間ぐらいあるから腰が痛くなる。さて、国立演芸場では病気療養中の6代目三遊亭円楽が講座に復帰という予定がマスコミでも報道された。当初の予定は3日間、11、14、20だけ。ネット販売で完売である。シニア割引は何とネット販売がないので、見送るしかないのである。
(円楽復帰の記者会見、11日の国立演芸場)
 ところが昨日になって、15日に円楽が追加で出ると告知されているではないかと気付いた。毎日チェックしていたわけではなく、昨日初めて知った。そしてチケットは余裕で空いてそうだった。だから行きたいなと思ったわけである。一度幕が下りて、上がったら机の後ろに座った円楽師匠。だから車いすかもしれないが不明。「生きてるか確認しに来たんでしょ」と言ってたけど、まさに図星。小三治や円丈のように、しばらく聞いてないなあと思ってるうちに訃報を聞くのはつらい。木久扇師匠からは、「NO高速」でゆっくりと言われたというが、何しろ脳梗塞なんだから左半身が不自由で大変。最初はマクラというより病状報告。

 こりゃあどうなるかと思ったら、歌丸師匠との釣りの思い出から「馬のす」という噺になった。しかし、はっきり言ってまだ言語不明瞭で、落語に不可欠なリズムと間が取れない。2年前の神田伯山真打披露の時に見た素晴らしい形態模写を見てるから、残念だけどやむを得ない。国立の8月中席は長く桂歌丸が圓朝の怪談噺をやっていた。僕も2回ぐらい聞いている。歌丸没後は芸術協会に加えて円楽など関係の深かった人がやっているようである。来年、再来年と少しでも元気を取り戻して出てくれることを期待したい。

 トリは桂米助で、今まで掛け違って実は初めて。ヨネスケとカタカナ表記でテレビに出ていたから、テレビタレントだと思っている人も多いだろう。全国各地の家庭で晩ご飯を食べる番組をやって「日本一の不法侵入者」と自分でも言っている。今日は桂竹丸から「トリの米助さんは他殺で死ぬ」と言われて大爆笑だった。21世紀になって、落語芸術協会理事、参事を務めていて、真打披露などにもよく出ている。マクラが面白くて、それで終わるのかと思ったら、「落語禁止法」という新作になった。落語が禁止され、禁酒法時代のアメリカみたいに闇の落語がはやるようになって、ギャングのように落語界で抗争が起きるというバカ噺。
(桂米助)
 大受けしたのは、真打昇進したばかりの春風亭昇也の「壺算」。師匠の昇太得意の古典落語だが、買い物がうまいと言うよりは詐欺の噺。「時そば」より手が込んでいるから、上手くやらないと聞いている方も混乱する。店主の方が混乱しないと成立しない噺なので、そこらへんの語り方が難しい。昇太より賑やかで、面白いかもしれない。ただ、瓶を「一荷(いっか)」「二荷(にか)」と話すのが普通なのに、どうも「にかい」と聞こえる。そもそも水瓶の数え方を僕は知らない。一個、二個で良いのでは。
(春風亭昇也)
 円楽の後に出て来て、前半のトリが桂竹丸。師匠の米丸の話など、内輪話が面白い。何度も聞いているけど、何度聞いても飽きない。どうも芸協で一番面白いのはこの人かも。落語界では10年ごとに大名人が死ぬと言って、20年前が古今亭志ん朝、10年前が立川談志、そして去年柳家小三治と名を挙げて、「談志師匠、ひどい人でしたねえ」とか寸評が大爆笑。だから10年後に自分が死ぬんじゃないかと笑わせる。いつまで元気な米丸師匠の話をしながら、米助は他殺じゃないかと言う。このあたりの緩急自在の内輪ネタが絶品である。僕は若手は別にして、ベテラン級ではとても面白くていつ聞いても損がない人だと思う。
(桂竹丸)
 俗曲の檜山うめ吉、好楽の弟子の三遊亭好の助、歌丸の弟子の桂歌助、曲芸ボンボン・ブラザーズなどが登場した。聞いてる噺が多くなってきて、それを楽しむ芸能だけど、よほど元気な人じゃないと真夏は眠くなるなあ。
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