尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

茨城小旅行、偕楽園にはまた行けず

2019年02月28日 22時44分50秒 |  〃 (温泉)
 茨城県へ小旅行。大子(だいご)温泉に泊ったので一応温泉旅行になるが、それより水戸の梅などを見に行こうかなという企画。梅だけならもう少し後の方がいいけど、ホテル奥久慈館という伊東園グループの宿に(妻の)誕生月割引で泊まるというお得企画。伊東園を家族で利用するのは初めて。それより日本三名園を、高校生で岡山後楽園、数年前に金沢兼六園を見たのに、一番近い水戸偕楽園を見てない。毎年梅の時期に行こうかなと思いつつ先延ばしになっていた。

 関東も晴が続いて乾燥する時期が終わり、最近は3日に一度ぐらい雨が少し降っている。それが今回は完全に2日目に当たってしまった。雨で寒い一日になってしまい、なんと今回も偕楽園は行かなかった。無理してみるほどの気はない。ちょっとばかり「車窓見学」したところ、まあ梅は咲いていて、雨でも見ている団体客がいた。今回の旅行で一番の大当たりは、一日目の昼食。時間的にお昼は水戸周辺で蕎麦屋を探した。旅行ではまず蕎麦。茨城は「常陸秋そば」が美味しい。

 今回見つけたのは、那珂市の木内酒造の蔵を利用した「酒+蕎麦 な嘉屋」という店。那珂インターから少し迷ったが、オシャレな感覚で気持ちいい店。もっともお酒は車で行ってるので飲めないのが残念だ。茨城県民のこよなく愛するという「けんちん蕎麦」を頼む。冷たい蕎麦を熱いけんちん汁で食べる。この「けんちん汁」が絶品で、野菜がとにかく美味い。(妻が頼んだ「ローズポークのつけ蕎麦」も美味しそうだった。)帰りに梅酒と発泡日本酒を買って行ったが、これも良かった。
   (「酒+蕎麦 な嘉屋」)
 28日は完全に雨だということで、水戸へ戻って弘道館を見ることにした。それなら水戸でお昼を食べた方がいいんだけど、さっきの店は木曜休みなのだ。弘道館は数年前に行ったとき震災後の修復工事中だった。水戸城三の丸に徳川斉昭によって建てられた藩校で、国の特別史跡。梅林もかなりあって、水戸の梅まつり会場の一つ。水戸は徳川御三家の一つだが、関東地方には大きな城が築かれず、水戸城と言われてもイメージがない人が多いだろう。天守閣はないながら、三階櫓などがあったが幕末の争乱と大戦の空襲でかなり焼けてしまった。
   
 弘道館では、正庁・至善堂・正門が当時のまま残されていて、国の重要文化財。正庁は中を見ることができるが、まあ似たような建物と大きな違いはないと思う。むしろ庭の梅が今の季節はうれしい。水戸城は「日本100名城」に選ばれているが、スタンプは弘道館に置かれている。弘道館の周りには神社など関連史跡があるが、再建されたもの。堀や土塁に囲まれた二の丸、三の丸には現在では高校や小学校が建てられている。最近テレビのロケなどでよく使われている「茨城県三の丸庁舎」もここにある。むしろ三の丸駐車場向かいにある「低区給水塔」(下の写真の最後)が面白い。中には入れないけど、1932年に建てられた登録文化財。
  
 ところで写真を撮ったのはここまでで、28日は一日雨で一枚も撮らなかった。弘道館からはひたすら北上して、道の駅に寄りながら奥久慈へ。ここら辺は面白いものが多く、ホントはもっとゆっくりしたいところ。「袋田の滝」は前に見たから、今回は二日目に近くまで行って雨で断念した。(昔、袋田温泉ホテル、今の「思い出浪漫館」に泊って、翌日水戸芸術館で「ク・ナウカ」の芝居を見たことがあった。)「ホテル奥久慈館」は温泉が塩素臭たっぷりの循環で残念だけど、食事は十分満足できた。365日同一料金、食事はバイキングの宿である。

 二日目はまず「道の駅常陸大宮」でゆっくり買い物。前日にチェックしておいたものをまとめ買い。すごく充実した道の駅で、美味しそうなものをつい買いすぎる。この地域はいろんなもの、奥久慈しゃも、奥久慈こんにゃく、いちご、卵…、地粉の乾麺もあるし、真っ黒なインゲン豆の甘納豆は珍しい。その後、徳川ミュージアムに行き、もう博物館や美術館はいいかという感じで、水戸市森林公園までドライブして、「森のシェーブル館」でコーヒー飲んでチーズを買う。それで一路帰るが、守谷サービスエリアでついどら焼きを買ってしまった。「土浦一高生が贈る青春の黒蜜きな粉れんこんもちどら焼き」って何だろうと思うよね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「美と破壊の女優 京マチ子」と京マチ子映画祭

2019年02月26日 23時14分05秒 |  〃  (旧作日本映画)
 筑摩選書で出たばかりの北村匡平美と破壊の女優 京マチ子」は映画女優論としても、戦後社会論としても大変優れた本だ。折しも角川シネマ有楽町で「京マチ子映画祭」が開催中で、連動した企画になっている。60年代までは日本映画界に「5社」と呼ばれた会社があった。松竹、東宝、東映、日活はそれなりに続いているが、大映は角川に買われて名前が完全になくなった。しかし角川は市川雷蔵若尾文子など大映が持っている古い映画で大々的な映画祭を開催している。京マチ子も戦後の大映が世界に誇った大女優である。

 この本を読むと、あるいは映画祭のラインナップを見ると、僕はその全部ではないけれどかなりの映画を見ているなと思う。でも自分でこのような本を書こうとは思ったことはない。日本の女優では、原節子田中絹代、あるいは高峰秀子山口淑子などが論じられることが多い。巨匠の映画を支えてきて、日本映画のイメージを作ってきた女優たちだ。「満州映画協会」の大スターからハリウッド女優に転身した山口淑子などは時代を考える意味で非常に興味深い存在だ。だけど、同じぐらい興味深い京マチ子は僕の問題意識に上ってこなかった。

 京マチ子は黒澤明の「羅生門」、つまりヴェネツィア映画祭グランプリにより日本映画で初めて世界に認められた作品に主演した。続いて溝口健二「雨月物語」でヴェネツィア映画祭銀獅子賞、衣笠貞之助「地獄門」でカンヌ映画祭グランプリと世界で評価された作品に主演して「グランプリ女優」と呼ばれた。もちろんそんなことは知っていたが、僕は今まで「羅生門」は黒澤、「雨月物語」は溝口と監督で見ることが多くて、「京マチ子の映画」として意識しなかった。

 OSK(大阪松竹歌劇団)のダンサーから大映にスカウトされて「肉体派ヴァンプ女優」として売り出される。世界的作品に出たことから、映画祭向けに企画された「名作」で日本を背負う役柄を演じる。非常に興味深いが、戦後の占領下での「肉体派」の役割、そして「グランプリ女優」に求められた所作。それらを著者はじっくりと論じてゆく。京マチ子の変幻自在な演技の裏にあったものは何か。京マチ子の顔だちや演技の分析は鋭く、社会史として大変すぐれた作品だと思う。

 しかし、「真実の京マチ子」の章を読むと、実像が大きく違うことに驚く。1924年生まれの京マチ子は90歳を超えて今も存命だけど、原節子のように神話化された女優にならなかった。スキャンダルもないまま、生涯独身を貫いている。スキャンダルによって、あるいは結婚相手や子どもによって記憶される女優もいるが、京マチ子は映画界の全盛期とともに(その後も舞台やテレビで活躍したけれど)、知名度も低くなってきたかもしれない。古い映画をよく見る人を除けば、若い人だと顔が思い浮かばない人が多いだろう。著者の北村匡平氏は、1982年生まれで東京工業大学准教授とある。世代的に直接知らない時代なのによく研究している。

 その後、文芸作品、国際的作品、演技派女優らと分析が続く。最後に山本富士子若尾文子と競演した「闘う女」を論じている。それらの映画、「夜の蝶」「女の勲章」「女系家族」などは昔はほとんど上映されなかったが、近年古い日本映画を専門的に上映する映画館が東京に出来て、僕も見ることができた。ものすごく面白いので驚いたが、これらの作品の京マチ子はもう貫禄たっぷりの役柄である。戦後の映画全盛期を駆け抜けた名女優の歩みをとことん追求した本。

 京マチ子映画祭は、1日5回上映で3月21日まで続く。会場の角川シネマ有楽町は、ビックカメラ有楽町店の8階だが、昔のそごうデパート。ここを舞台にしたヒット曲の映画化「有楽町で逢いましょう」も上映される。他社作品の「甘い汗」(1963)は女優賞独占の傑作だが上映がないのはやむを得ないか。大映作品では「あにいもうと」の上映がない他、本でも大きく取り扱われている「牝犬」「馬喰一代」「穴」「大阪の女」「夜の蝶」などの上映がないのが残念。「羅生門」「雨月物語」「赤線地帯」「鍵」などの名作の他、貴重な映画の上映が多い。

 この本を読んで、京マチ子が小津安二郎、溝口健二、成瀬己喜男、黒澤明の日本映画の4巨匠の映画にすべて出演した経験があった貴重な女優だと改めて気づかされた。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韓国映画「1987、ある闘いの真実」

2019年02月25日 22時41分39秒 |  〃  (新作外国映画)
 2018年に公開された韓国映画「1987、ある闘いの真実」は公開当時に見逃してしまった。公開規模も小さかったし、娯楽要素もたっぷりの「タクシー運転手」ほど評判にならなかった。しかしキネマ旬報ベストテン8位に入った。DVDもすでに出ているが、東京なら名画座でスクリーンで見られる。是非見たいと思っていたので、機会を逃さず行くことにした。(飯田橋のギンレイホールで3月8日まで、高田馬場の早稲田松竹で3月9日から15日。)
 
 民主化宣言から30年、まさに望まれた映画化だろうが、パク・クネ政権当時は製作が難しく崩壊後に製作に取り掛かったという。そのため韓国での公開は2017年12月27日とギリギリになってしまった。1987年当時の街並みはどこにも残っていなくて、大規模なオープンセットを建てたとか。(拷問警官を告発することになる明洞の聖堂は韓国民主運動史に名高いが、これは本物のロケが許されたという。)こうした努力による「ホンモノ感」が素晴らしい。

 僕は1980年に初めて韓国を訪れてハンセン病回復者定着村でキャンプした。その後で光州に寄った思い出がある。1987年にはもう就職していたが、民主化運動と翌年に控えたソウル五輪で大きく変わるだろう韓国のムードに触れたいと思って、夏休みに韓国を訪れた。(この時に韓国最高峰の済州島のハンラ山に登った。)ソウルの街の様子はまさに思い出の再現だった。ラスト近くになって、多数の学生・市民が街頭に出て、命を懸けて独裁政権を打倒し、自由と民主を実現する。しかし多くの犠牲もあった。そのシーンになると、もう涙が止まらない。

 しかし、これは全体としては「民主化運動」の映画という以上に、ソウル大生拷問致死事件をきっかけに起こった、生き残りを掛けた「警察権力の内部抗争」を描いた映画だろう。思想警察というものは体制を問わず、法も正義もなくひたすら強圧的にふるまう。その内部抗争はある意味で、韓国で営々と作られてきたギャング組織や政財界の闇を描くノワール映画と同じ構造である。

 警察内で「対共対策」の責任者をしているパク所長キム・ユンソク、拷問致死を疑って解剖なしの火葬を認めないチェ検事ハ・ジョンウ。韓国ノワールの傑作「チェイサー」の出演者がやっていて、その好演がこの映画の安定した面白さの源泉になっている。キム・ユンソクは青龍映画賞、百想芸術賞で主演男優賞を獲得した。悪役が印象的な映画は面白い。この映画では正義の民主運動家以上に、朝鮮戦争で北から逃れてきたパク所長の造形が強烈である。
 (ハ・ジョンウとキム・ユンソク)
 刑務所看守で民主化運動に協力しているハン・ビョンヨン、その姪でデモに巻き込まれる女子大生ヨニ、この二人だけが創作で、後は実在人物だという。思想警察が暴走して時には拷問まで行うことには、体制内部でも検察や刑務所では批判がある。表立っては「大統領の意向」を「忖度」し、あるいは「食事でもしろ」と付きだされる金の力で覆い隠されている。だけど、あくまでも真相を求め、人権と民主を求める人々の力によって、権力にひびが入っていくのである。

 力強いドラマを作り上げたのはチャン・ジュナン監督。「ファイ 悪魔に育てられた少年」(2013)という映画が日本でも公開されている。1970年生まれだから、この映画の時代には高校生として知っているはずだ。1987年1月に起こったパク・ジョンチョル(朴鐘哲)の拷問致死事件に関しては、ウィキペディアに詳しい記述がある。1987年の民主化運動は、それまでの長い苦難の道のりを経てのもので、野党政治家や宗教界、労働運動なども深い関わりがある。
 (チャン・ジュナン監督)
 映画を見ると、まるで学生たちだけで体制を倒したような感じも受けてしまうが、もちろんそうではない。民主化勢力も複雑だが、1988年にソウル五輪を控えていて、体制側もあくまでも弾圧を続けることはできなかった。大統領直接選挙を実現したが、その選挙では野党陣営から金泳三、金大中の二人が立ち、軍政の後継者ノ・テウ(慮泰愚)が当選してしまう。歴史は一直線では進まないが、それでも「自ら勝ち取った民主主義」を伝えて行こうという強い思いが伝わる。日本ではこういう映画が作れるだろうか。その前に世代を超えて伝える歴史を持っているだろうか。多くの人が自省しつつ刮目してみるべき映画。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「天国でまた会おう」「炎の色」-ピエール・ルメートルを読む

2019年02月23日 23時16分26秒 | 〃 (ミステリー)
 セザール賞5部門受賞というフランス映画「天国でまた会おう」がもうすぐ公開される。公開前に原作を読んでおきたい。持ってるんだから。原作はフランスでゴンクール賞を受賞したピエール・ルメートル天国でまた会おう」(ハヤカワ文庫)である。誰だっていうかもしれないが、以前に傑作ミステリー「その女アレックス」(文春文庫)について書いた人である。この小説は2014年に翻訳されて大評判になった。買ったまま読んでない文庫が多いので、この際全部読んでみよう。

 「その女アレックス」(2011)は、カミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズの第2作だった。その後に翻訳された「悲しみのイレーヌ」(2006)、「傷だらけのカミーユ」(2012)を今回読んだ。案外読みやすかったし、内容も面白かったけれど、この展開は何だろうと思う。「その女アレックス」は独立性が高いが、他の2作は関連性が高い。「悲しみのイレーヌ」は有名ミステリーの模倣犯を追うと思って読むと、途中で予測不能の展開になる。「傷だらけのカミーユ」も冒頭からアレレと思い続けることになる。真相はなるほどと思うが、こんな発想があるだろうか。

 単発ミステリーの「死のドレスを花婿に」(2009)は「その女アレックス」以前に翻訳されていたが、誰も注目しなかった。今は文春文庫に収録されているが、確かにこれを最初に読んで評価するのは難しい。そしてある意味、ルメートルの特徴を表している気もする。日本では最近「イヤミス」という言葉があるけれど、この本は典型的なイヤミス。読んでて実に嫌な気持ちになる。ここまで許しがたい設定をどうすれば思いつけるのかという感じ。実はヴェルーヴェン警部シリーズも、かなりイヤミス。残虐で読めないという人もいるだろう。しかし「イヤミス」たる由縁は残虐描写ではない。人間に潜む嫌らしさの面をこれでもかと描く作風にある。

 そのピエール・ルメートル(1951~)が2013年に発表した「天国でまた会おう」(Au revoir là-haut、平岡敬訳、2015年)は何とゴンクール賞を取ってしまった。ゴンクール賞は日本で言えば「純文学」の賞だから、ミステリー出身作家としては異例。「天国でまた会おう」は普通に言えばミステリーじゃやないけれど、波乱万丈のストーリイで登場人物の人生行路をジェットコースター的に描く大エンターテインメントである。ゴンクール賞としては異例だろうが、本人はデュマのような小説を目指しているらしい。19世紀の大小説は確かに波乱万丈である。

 第一次世界大戦の勃発から100年を目前に発表され、その意味でも注目された。第一次大戦の末期、もう休戦も近いと言われている段階で起きたある戦闘。その戦いに関わった二人の兵士と一人の上官。アルベール・マイヤールは上官アンリ・ドルネー=プラデルの不正に気付いてしまう。危うく生き埋めになりかかるが、兵士のエドゥアール・ペリクールに助けられる。しかし、その時砲弾がさく裂し、エドゥアールは顔の下半分を失ってしまう。アルベールはエドゥアールに恩義を感じ必死に看病するが、心を閉ざしたエドゥアールは修復手術も拒否し、自分は死んだことにして欲しいと頼む。死んだことになった弟の死体を姉のマドレーヌが掘り出しにやってきたが…。 

 そこから始まる人間関係と家族の思いが、戦後の1920年になって大規模な詐欺事件に発展する。あまりにも大胆、あまりにも壮大な発想の小説だが、人間の性格付けは決まっている。悪人は悪人で、善玉側もかなり突飛である。その意味で、この小説もある意味で「イヤミス」に近い。冒険小説、風俗小説とも言えるが、ジャンルミックスのエンタメ小説。すごく面白いけど、けっこう引っかかるシーンも多い。ゴンクール賞受賞小説って何か読んでるかなと調べたら、マルグリット・デュラスの「愛人」(ラマン)だけだった。

 2018年に続編「炎の色」(Couleurs de l'incendie)が発表され、年末には翻訳も刊行された。時代は1927年から1933年で、エドゥアールの姉マドレーヌが主人公になる。不幸な結婚を解消し子どもと生きていたが、大実業家の父の葬儀の日に悲劇が起きる。実業界、政界、マスコミなどの世界を縦横に語りながら、マドレーヌと子どものポールの運命のジェットコースターが物語られる。ミステリーではないけれど、ストーリイに一喜一憂するのが楽しみの小説なので、ここではとても書けない。壮絶なる復讐物語と言えるけれど、ここでも「イヤミス」的要素がある。人間観察に悪意があって、そこが面白い。両作とも非常に面白い。これは三部作で構想されているということで、次も待ち遠しい。19世紀的な大小説の復権を目指すピエール・ルメートルに注目。(「監禁面接」という長編だけまだ読んでない。)
 (ピエール・ルメートル)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「洗骨」、沖縄粟国島の葬送ドラマ

2019年02月22日 22時40分05秒 | 映画 (新作日本映画)
 「洗骨」(せんこつ)という映画がなかなか好評らしいので見ておこうと思った。面白くかつ厳粛な力作で、伝統と現代を考えさせる。「鈴木家の嘘」にも言えるが、深刻で重いテーマもコメディタッチでゆったりと語るところに、新しい語り口を感じる。脚本・監督は照屋年之(お笑い芸人ガレッジセールのゴリ)で、確かな才能を発揮していると思う。

 「洗骨」とは沖縄に昔からある葬送の風習で、琉球王家の墓も洗骨で葬られたという。今では沖縄本島ではほとんど見られなくなったが、沖縄の離島、奄美群島などには残っているとも言われる。死者は最初に風葬され、数年後に肉がなくなり骨だけになった頃に、家族の手で骨をきれいに洗って「この世」に別れを告げる。この映画は沖縄の粟国島(あぐにじま)で撮影された。那覇市の西北、船で2時間10分ほどの位置にある。「粟国の塩」が有名で、映画「ナビィの恋」の舞台でもある。島の西側に「あの世」があり、そこで風葬が行われる。

 4年前に母が死に、それ以前にだまされて事業に失敗した父親は全く無気力になってしまった。この父親、新城信綱を演じる奥田瑛二の存在感が半端じゃない。なんだか翁長前知事を思わせる風貌で、後半の風葬シーンになると俄然シャンとする。長男の新城剛(筒井道隆)は東京で働いて父の借金を返している。4年前は妻と子どもを連れてきたが、今回は彼ひとり。一方、名古屋で美容師をしている妹の新城優子(水崎綾女)は妊婦姿で帰郷する。未婚で母になると言っているが、島人は噂に余念ない。元気で一家を仕切っているのは、叔母の高安信子(大島蓉子)。
 (風葬シーン)
 前半はこれら家族の事情が様々に語られる。父と長男はいさかい、長男は妹を非難する。優子役の水崎綾女(みさき・あやめ、1989~)は出産間近の妊婦役で大活躍。最後には風葬シーンで産気づくという凄い設定に挑戦している。映画では河瀨直美監督の「光」に出ていたが、「洗骨」は20代最後の記念となるにふさわしい大力演。それにもまして大島蓉子の叔母が圧倒的でビックリした。男は頼りなく女は元気な一族なのである。沖縄の風土に合っているような感じ。
 (水崎綾女)
 前半のクライマックスは優子の男性問題だが、それは見る時の楽しみのために書かない。そして風葬になる。どうやって撮影したのか、まさかホンモノではないと思うけど、もう本当の死者の骨としか思えない描写。それに墓の中から見るシーンには驚いた。劇映画ではあるけれど、これほど厳粛なシーンも珍しい。それが突然、優子が産気づき転調する。ここは素晴らしいシーンではあるが、なんか釈然としない感じも残る。「風葬」はやはり「残すべき伝統」とばかりは言えないのではないか。どうもこの厳粛なる儀式に自信を持って参加できると言い切れる人も少ないのではないか。特に本土出身だとしたら。そこに臨月間近の女性が母とはいえ出る必要があるのか、などなど。ちょっと考え込んでしまうけど、力作には違いない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

利尻山、最北の百名山-日本の山②

2019年02月21日 22時39分26秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 日本で一番美しい山は何だろうか? 「美しい」の定義にもよるが、見て美しいというならやっぱり富士山だろうと答える人が多いだろう。確かに箱根や富士五湖辺りをハイキングしていて、富士山が見えてきたときの感激は素晴らしいものがある。でも子どもが直角みたいに富士山頂を描くのに対し、現実の富士山頂は案外鈍角である。「円錐形が美しい」と言うならば、日本各地には〇〇富士と呼ばれる山がいっぱいあって、「富士山より富士山みたいな山」もある。
 (利尻山)
 その中でも僕の一押しは、日本最北の百名山、北海道の利尻山(りしりざん、1721m)だ。アイヌ語の「リー・シリ」(高い島)から付けられたというが、島全体が成層火山からなる。一番利用されている登山口の鴛泊(おしどまり)のあたりは、町名も「利尻富士町」(1990年)にしてしまった。近年は温泉を掘り当て「利尻富士温泉」と呼んでいる。(ちなみに島西部の沓形は利尻町。)でも利尻山に登ると利尻山は見えないわけだから、見るという意味では麓の湖、そして何と言っても隣の礼文島(れぶんとう)にある「礼文林道」から見る利尻山が抜群に美しい。
 (礼文林道の向こうに利尻山)
 僕が利尻山に登ったのは、1993年の7月末である。何ではっきり言えるかというと、地元で「731部隊展」に関わっていた記憶が鮮明だからだ。直前の大事な時に10日間ほど抜けてしまった。この頃は毎年のように北海道を自分の車でドライブしていた。まだ学校が週休2日じゃなくて、土曜日に月2回か3回授業していた。公務員はもう週休2日になっていて、学校があった土曜分の休日は夏や冬の休みにまとめ取りできたのだ。その時はフェリーで苫小牧まで行き、さらに小樽から利尻島まで行く夜のフェリーに乗った。朝起きたら利尻山がくっきりと海に浮かんでいた。
(利尻山テレカ)
 さすがにそのまま登山したのではなく、その日は島一周観光の後で早めに宿に入ったと思う。よく晴れた日で、素晴らしく美しい風景に見とれてしまった。島の南にある「オタトマリ沼」からは沼の向こうに山が見える。仙法師御崎公園では海にアザラシがいたし、郷土資料館も興味深かった。北側にある「姫沼」では「逆さ利尻」が見事。泊った鴛泊の宿からは港も近く、夕陽がすごい。夕方に岬に登ると、海と夕陽の絶景。もう「すごい」「美しい」以外に言葉が出て来ない。利尻島は素晴らしいと思ったが、次に礼文島に行ったらもっと美しい島だったので驚いた。
 (オタトマリ沼から利尻山)
 次の日は朝早く起きて、登山口へ。三合目の野営場まで車で行ける。そこが230mぐらいなので、利尻山としては1721mだから、一日で1500mを上り下りするので、かなりきついコースではある。少し歩くと甘露泉がある。日本名水百選である。僕はずいぶん名水にも行ってるが、岩手の龍泉洞に並ぶ美味しい水だと思う。その後は、ひたすら4時間近く登りが続いた記憶がある。山頂は見えず、手前にある長官山という偽ピークがある。その少し先に無人の避難小屋がある。
 (姫沼から利尻山)
 そこまで急登が続いて大変だったが、小屋まで行けばもう後は近い。そうなんだけど、最後も大変だった。もう凄いガレ場なのだ。ガレ場というのは、岩がしっかりしてなくて砂で崩れているような所である。富士山型の独立峰は四方八方から風が吹きつけるから、山頂付近の崩壊がすごいことが多い。とにかく足が取られて登りにくいが、注意しながらゆっくり行くしかない。そのうち山頂に着いたが、山頂あまり覚えてないが礼文島が見えたと思う。(南陵は禁止で北稜に登ったはず。)

 なんだか体力的にもう登れなさそうな気がするが、この美しい島にはいつかまた行ってみたいもんだと思う。実は礼文島には21世紀になって、もう一回車で行ったことがある。その時は利尻はパスした。小樽からの航路はもうないと思う。今は稚内からフェリーで行くしかない。利尻島、礼文島は1965年に国立公園に指定されたが、1974年にサロベツ原野も追加指定され、「利尻礼文サロベツ国立公園」となっている。日本最北の国立公園で、サロベツの広大な風景も忘れがたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪市「校長評価に学力テスト反映」問題

2019年02月20日 22時22分15秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 大阪市吉村洋文市長が、学力テストの結果を教員の人事評価に反映させると2018年に言い出した。いろいろ検討を重ねた結果がまとまり、1月末に市教委が市総合教育会議に提示した。2019年度に試行し、2020年度から本格的に導入するという。全国の学力テストではなく、大阪独自テストを使用し、教員ではなく校長のみとする。大阪では小学3~6年生対象の「学力経年調査」と中学生対象の「チャレンジテスト」をやってるらしい。大阪の子どもたちはテスト漬けなんだ。
 (大阪市吉村市長)
 校長の人事評価学校予算の配分に反映させるが、その方法は複雑で面倒だから省略する。すべてを学力テストだけで決めるというほど単純ではないけれど、大きな方向として「学校間の競争を促す」制度として設計しているつもりなんだろう。この制度はもちろん機能しないし、むしろ逆効果になるだろう。いろいろな批判もあがっているし、トンデモナイ制度だと思う。

 「民間企業」が競争するのはいい。しかし「民間企業」はリストラ選別ができる。日産のゴーン前社長は大胆な工場閉鎖を断行した。ホンダもイギリスの工場を閉鎖するという。デパートやスーパーマーケットも地方に多い不採算店をどんどん閉鎖している。それらの方針は地方社会や従業員に大きな負担を強いるものだけど、経営方針上あるいは倫理上の問題はあるとしても企業には事業を選別する自由がある。そのうえで各企業間の自由競争がある。

 教育においても、「私立学校」は小中でも受験生を選抜できる。だから進学やスポーツなどで、優れた生徒を集めて競争して実績を挙げることもできる。一方、公立の小中学校は(東京のように一部で「学校選択制度」を義務教育段階で取り入れたとしても)、地域の生徒はすべて受け入れなければならない。「選別」が自由にできないのに、競争だけ強いられる。それでは必ず不満がたまって、学校の雰囲気が悪くなるのは目に見えている。

 今時「お前のような生徒は来なくてもいい」「テストの日だけでも休め」とか言ったら、いつ録画録音されているか判らない。表立ってはそういうことは言わないかもしれないが、テストによる競争政策が行われたら成績が悪い子どもは居心地が悪くなる。障害のボーダーにあるような子どもは、できるだけ特別支援学校に行って欲しいというムードが出てくる。そうなるに決まっていると思う。普通の感覚で見て、テストの成績で校長先生を評価するって「いじめ」じゃん

 それ以上に深刻だなあと思うのは、「トップを育てる」ことと「平均を上げる」ことの違いに鈍感なことだ。「走力」で考えてみる。例えば大阪の中学生が都道府県駅伝で活躍して欲しいと思う。その場合は、各学校のトップレベルの生徒を集めて、いろいろな方法で競わせることでタイムが向上するだろう。でも、「全国走力テスト」なんてものをやって、各学校の全生徒のタイムを平均して競うとしたら、どうだろう。走るのが速い生徒が頑張るだけじゃだめで、走力が中レベルの生徒の対策が必要だろう。また遅い生徒は家庭の生活環境などの問題も解決しないといけない。

 「全国学力テスト」の結果というのも、もともとは生徒一人ひとりの成績の平均である。それを上げるためには、「下を排除する」か、「真ん中から下の生徒を伸ばす」のが有効だ。もちろん成績上位の生徒が頑張るのもいい。それも大事だけど、100点が上限なんだから、90点の生徒は10点しか伸びしろがない。「できる子」に「100点めざそう」というのもいいけれど、平均点を伸ばすという目標からすれば、真ん中以下の生徒に注力しないといけない。60点の生徒には40点の伸びしろ、30点の生徒には70点伸びしろがあるじゃないか。

 だからテストの成績のいい学校に予算を配分するというのは、正しい政策ではなく逆効果になる可能性が高い。成績がいい学校はもっと良くなるかもしれないが、学校間格差が広がるだけである。むしろ平均点の低い学校にこそ予算を配分しないといけない。そこに集中して教員を加配するとか、教員以外の人材を活用して夜間・休日の補習教室を開くとか。さらに地域に課題がある場合も多いだろう。地域に開かれた学校を作り、「子ども食堂」や図書室、体育館などの開放地域ぐるみの教育力アップを図るなど。

 学力テストの成績にこだわること自体がおかしい。しかし、その結果に地域の課題が現れることもあるだろう。地域の課題を見つめることではなく、「校長の競争」で学力が上がるわけでもないし、むしろ校内で低学力生徒を排除するムードが出てくるなどの弊害が心配される。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「天才作家の妻ー40年目の真実ー」

2019年02月17日 22時43分49秒 |  〃  (新作外国映画)
 主演女優のグレン・クローズ(Glenn Close、1947~)がアカデミー賞主演女優賞最有力と言われている「天才作家の妻-40年目の真実」を見た。(先に発表されるゴールデングローブ賞では、ドラマ部門主演女優賞を獲得している。)仰々しい日本語題名だけど、原題はただの〝The Wife”。アメリカ人の作家夫婦の話でずっと英語で進行するが、スウェーデン、イギリス、アメリカの合作で、監督もスウェーデンのビョルン・ルンゲ(1961~)という人。一本も日本公開がなく、全然知らない。ノーベル賞の舞台裏を描く観光映画的な趣も強い。

 冒頭でノーベル財団から電話があり、ジョセフ・キャッスルマン(ジョナサン・プライス)が今年のノーベル文学賞に選ばれたと伝える。ジョセフは妻のジョーン・キャッスルマングレン・クローズ)とベッドの上で手を取り合って喜ぶ。90年代のクリントン時代という設定である。いくら何でも、あんなに無邪気にノーベル賞を喜ぶ作家がいるのかなと思うけど、まあいるのかもしれない。その後、ストックホルムの授賞式に夫婦と息子で出かける。(長女は出産間近で一緒に行けない。)そしてストックホルムでの儀式の模様。なんだかノーベル賞とスウェーデンの宣伝映画である。

 主演俳優だけで主に記憶される映画がある。アカデミー賞の主演俳優賞の映画には結構そういう映画が多い。「天才作家の妻」も主演女優賞以外の賞には全くノミネートされていない。まあ僕も作品賞や脚色賞にふさわしいとは思わなかった。作品的には「ウェルメイド」な出来になる。ただ妻役のグレン・クローズと、彼女の人生を通して「テクスチュアル・ハラスメント」(テクハラ)を考える意味がある。テクハラというのは、「女にはこんな論理的な文章は書けない」などとみなされて女性学者の論文が評価されないといったハラスメントのこと。

 この映画では夫妻を追うジャーナリストが登場して、「ノーベル賞作家の作品は実は妻が書いていたのではないか」という衝撃的な追及を行う。何もストックホルムまで出かけて授賞式間近の妻や息子に聞きまわらくてもいいんじゃないかと思う。しかし、まあそこがフィクションなわけで、ノーベル賞ウィークに事態が動かないと映画にならない。そこで映画は過去にさかのぼる。実はジョセフは若き大学教授で、妻子がいたのに作家を目指す学生のジョーンと愛し合うようになった。作家を目指す二人の前に、出版業界の壁は厚い。出版社で働くジョーンは、才能ある若いユダヤ系作家はうちにいないのかとつぶやく上司に、「一人知ってます」と声を挙げてしまう。

 50年代末から60年代初期という設定で、確かに女性作家の活躍はほとんどなかった時代だ。戦後のアメリカ文学ではソール・ベロー、サリンジャー、マラマッドなどユダヤ系作家が活躍していた。50年代末にはフィリップ・ロスがデビュー作「さようならコロンバス」でピュリッツァー賞を受賞した。出版社の目論見は「第二のロスを探せ」ということだろう。そこで夫が書き、妻が読んで不満を抱きリライトした。それが出版にこぎつけ評価された。その後の作品は判らないけど、少なくともデビュー作に関しては「野心的だが評価されていない若いカップル」の戦略としては、よく判る。

 だが「略奪愛」の夫はその後も「浮気」を繰り返した(らしい)。そのことに耐え続け、夫を愛しながらも「創作の秘密」には口を閉ざし続けた妻のジョーン。その複雑な人生行路を冬のストックホルムで演じたグレン・クローズはまさに圧巻。7回目のアカデミー賞ノミネートである。グレン・クローズは80年代の印象が強い。舞台やテレビで活躍して、82年の「ガープの世界」で映画初出演。主人公の強烈な母親を演じてアカデミー賞助演女優賞にノミネートされた。その後、「再会の町」「ナチュラル」で3年連続助演女優賞ノミネート。87年の「危険な情事」、89年の「危険な関係」で主演女優賞ノミネート。その後は2011年の「アルバート氏の人生」で主演女優賞にノミネートされている。
 (グレン・クローズ)
 2017年に日本で多くの医科大学での女性差別が明るみに出た。女子(及び過年度受験生等)の点数を一律に低くする措置が行われていた。また「女子はコミュニケーション能力が高い」というフシギな説明もされた。面接で男子は不利になるから女子には一律に低い点を付けるということだと思うが、こんな理解しがたい差別的な選抜が行われていたのである。こういうのを見ると「テクハラ」は現代日本で非常に重大な問題だと判る。この映画は娯楽映画として作られていて、「夫婦の秘密」としてミステリー的に描く。しかし、妻の名前で出版できたかどうかという、アメリカ出版界、さらに社会一般の差別的なまなざしこそ真に告発するべきものだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「自治体の4割が自衛隊に個人情報提供」

2019年02月15日 23時19分14秒 | 政治
 2月10日に行われた自民党大会で、安倍晋三総裁(首相)が「都道府県の6割が自衛隊員募集に非協力」という趣旨の発言をした。だから憲法改正が必要なんだと。このニュースを最初に聞いたときは、こういうことを平気で言っちゃう首相の感覚に改めて驚いた。47都道府県のほぼすべてが自民党系の知事だ。まあ、よく考えたら東京も大阪も「非自民」なんだけど、小池都知事なんか元防衛相である。自民党政権と「対立」している知事は沖縄の玉城知事ぐらいしか思い浮かばない。常識で考えれば、この数字はおかしいと感じるんじゃないだろうか。

 案の定、実は都道府県ではなくて市町村の問題なのだという。これだけで本来ならアウトだと思うが、まあこれは単純ミスということにしておこう。その後のマスコミ報道や国会質疑でだんだん判ってきたけど、市町村としても大間違いだった。首相の言う「4割」というのは、自衛隊に対し紙か電子媒体で対象者の名簿を提出している自治体だそうだ。それが36%(632自治体)。他の自治体のうち、約5割(53%、931自治体)は自衛隊に住民基本台帳の閲覧を認めている。自衛隊員が台帳を基に書き写しているという。それを「非協力」と安倍首相は今もなお主張している。
 
 そもそも自衛隊は何のために住民の情報を求めるのか。それは新規の隊員募集のためで、18歳と22歳の住所、氏名、生年月日、性別を市町村から入手している。それに基づき、対象者にダイレクトメールを送ったり、戸別訪問をしたりするという。ところで名簿提出も閲覧もしてない「残り1割」の自治体とは何だろう。全国の自治体は東京23区を含めて、1741ある。そのうち離島や山間部の自治体には、高校がないところが多い。高校生になる時にいったん地元を出なければならないのである。そういう小規模な自治体には18歳人口がいない(非常に少ない)わけだから、初めから自衛隊側も情報を求めていないらしい。それが残りの1割だろう。

 自衛官の採用ポスター掲示など募集業務に協力してない自治体は、全国で5つだという。(15日の岩屋防衛相答弁、2.15付東京新聞夕刊。)これは全国の自治体の0.3%程度で、この数字が正しい数字なのである。自衛隊が自治体に情報を求めることに関しては、自衛隊法住民基本台帳法に根拠がある。住民基本台帳法には以下のような条文がある。「国又は地方公共団体の機関は、法令で定める事務の遂行のために必要である場合には、市町村長に対し、当該市町村が備える住民基本台帳(中略)を当該国又は地方公共団体の機関の職員で当該国又は地方公共団体の機関が指定するものに閲覧させることを請求することができる。」(第11条)

 以上を見ると、自治体が自衛隊に閲覧させることは法的に認められているが、名簿等を提出する義務はない。国の「個人情報保護法」は民間事業者を対象にしていて、国や自治体に関しては対象外だ。だがそれぞれの自治体には、情報保護の条例等があるはずだ。恐らくはそれに基づき、名簿等の提出は行っていない。自衛隊が違憲かどうかには何の関係もない。自民党の改憲草案が認められて、自衛隊が「国防軍」になったとしても、出せないものは出せない。自衛隊に限らず、国や自治体の機関であっても、名前や住所を自治体が他に流していいわけがない。首相の主張を正しく言うなら「自治体の4割近くが、個人情報を自衛隊に渡している」のである。

 しかし、閲覧して書き写すのは、人口が多い政令指定都市の場合などは大変だろう。だから京都市などは「宛名シール」で対応しているという。自衛隊がシールを持ってきて、市が印字して渡す。名簿と違って、郵送に使ってしまえば残らない。コピーは取らない約束だそうだ。これは個人情報に配慮しつつ、自衛隊に協力するという市の意向なんだろうけど、何か本質的に間違っている気がする。それは「自衛隊が直接各家庭にダイレクトメールを送る」ということへの問題意識がないということである。どの国家機関、自治体だって、自衛隊以外にはそんなことをしてないだろう。

 自衛隊だって、生徒からすれば多くの就職先の一つだ。他の国家・地方の公務員、民間企業、大学などと一緒じゃないか。自民党政権が好きそうな「自由競争」で人材を集めるべきではないのか。それで集まらないというなら、その原因こそ考えないといけない。首相は「地方自治体から要請されれば自衛隊の諸君はただちに駆け付け、命を懸けて災害に立ち向かうにもかかわらずであります」と述べている。しかし、自衛隊は災害救助隊ではない。自衛隊の任務に災害救助は入ってない。それは首相も知ってるはずだ。自衛隊法を見れば一目瞭然である。災害派遣の根拠法規はどこにあるのか。関心のある人はネットで自衛隊法を検索して確かめて欲しい。

 僕は元高校教員として、高校卒業生に自衛隊に進んで欲しいとは思っていない。それは憲法違反だからとかそういう問題ではない。それは自衛隊という存在そのものをどう考えるかの問題である。それと「生徒の進路先」の判断は別だ。自衛隊にはいじめやパワハラの報道が多い。実際の訓練がカッコいいだけのはずがない。そういう意味で「ブラック企業」に近い。それに労働組合がない。教員や自治体職員には争議権はないけど、団結権はある。組合など無いに決まってる中小企業に就職する生徒もいるが、個人で地域の労組に入るのは自由だ。でも自衛官は法律で団結権が禁止されている。ヨーロッパには労組ではないが、それに近いものを認めている国もある。そういう改革こそまず必要ではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベルイマン監督の映画-映画芸術の極北

2019年02月14日 22時55分44秒 |  〃 (世界の映画監督)
 スウェーデンの映画監督、イングマール・ベルイマン(Ingmar Bergman、1918.7.14~2007.7.30)は2018年に生誕百年を迎え、日本でも大規模な特集上映が行われた。東京では恵比寿ガーデンシネマだったので、真夏で駅から遠く2作見ただけ。数年前に「三大傑作選」と称して「第七の封印」「野いちご」「処女の泉」のデジタル版が上映された。最近、池袋の新文芸坐で特集があり数作品を見直した。もともと若いころにほとんど見ているんだけど、改めて見ると考え方も変わる。上映素材があるんだから、またどこかで上映もあるだろう。まとめて感想を書いておきたい。
 (ベルイマン監督) 
 ベルイマンにはいくつもの大傑作があり、映画史上のトップ10に入るような映画監督だ。特に初期の「野いちご」「処女の泉」は改めて「ほとんど完璧な映画」だと思った。僕が最初に見たベルイマン映画は多分「野いちご」(1957)。ATGで不入りの映画があって、過去の名作上映に切り替わった時に見たと思う。長年の功績に対し名誉学位を受ける老人が、ストックホルムから車でルンドまで向かう。その一日を息子の妻や途中で会った若者たちなどを通して描く。夢のシーンなどシュールレアリスム的な描写も印象的。思えばまだ30代で「老い」に関する映画をよく作れたものだ。たった91分なんだけど、もすごく豊饒な映画体験に浸れる。1962年キネ旬ベストワン
 (野いちご)
 日本公開が逆になったけど、「処女の泉」(1960)も驚くような強さを持つ映画。黒澤明「羅生門」の影響があるというが、中世を舞台にするモノクロ映画という共通点はあるが「処女の泉」はもっと雄渾で神話的な映画だと思う。近代以前の「自力救済」の世の中を生きる人々を圧倒的な力強さで描いている。1961年キネ旬ベストワン。その前の「第七の封印」(1957)は、これも中世を舞台に十字軍から帰る騎士が死神と命を懸けたチェスをする。およそ今までの映画でテーマとされたことのないような「哲学的映画」だった。今回は見る時間がなかったんだけど、文句のつけようのない完成度の「野いちご」「処女の泉」に比べて、多少判りにくい点も逆に面白くて魅力的だと思う。
 (処女の泉)
 そういう難しい映画を作ったベルイマン監督だけど、最初からそんな傑作は撮れない。初期にはスウェーデン映画に多い、リアリズムをもとにユーモアや社会性を加えた青春映画をたくさん作っていた。今回初公開の「夏の遊び」、昨年映画アーカイブで上映された「牢獄」「道化師の夜」、日本でも公開された(僕は未見)「不良少女モニカ」「愛のレッスン」など。「夏の遊び」(1951)はいかにもスウェーデンらしい風土性と編集の妙、青春のほろ苦さを描いている。98分の映画で、ベルイマンの初期映画はほとんど90分内外。いかに今の映画が「長すぎる」かがよく判る。

 110分ある「夏の夜は三たび微笑む」(1955)は初期には珍しく長い。これはまたユーモアたっぷりの艶笑コメディで、すごく面白い。よく出来ていて、カンヌ映画祭で受賞してベルイマンが世界に知られるきっかけになったという。そういうユーモアは中期には影をひそめるが、本当はベルイマンの本質にあるんだと思う。1982年に作られた畢生の大作「ファニーとアレクサンデル」は311分もあって、今回は体力的に見逃したんだけど、公開時に見たときの記憶は圧倒的だ。ある一族の悲しみと喜びを描きつくしたような至福の映画で、一種の大らかなユーモアがあった。その後、映画はやりつくしたと語り、舞台やオペラ演出に専念する。もともとベルイマン映画は舞台劇的なところがあって、日本でも公開されたモーツァルトの「魔笛」(1975)のテレビ映画も素晴らしかった。

 ベルイマン映画は「映画芸術の極北」だと思ってきた。この「極北」とは「物事が極限にまで達したところ」と言った意味で使っているが、イメージ的に寒い感じがベルイマン映画にはある。舞台がスウェーデンだし、風景は寒々しい。それもあるんだけど、人々が悩み傷つき傷つけあうさまを冷徹に描き出す。そんな映画は他にあるだろうか。僕はフェリーニヴィスコンティのような豊饒さ、時にはゴチャゴチャするぐらい盛りだくさんの映画の方が好きだ。厳しく削り続けるような映画、カール・ドライヤーロベール・ブレッソンなどはそれまでにもあった。でもベルイマンのように、「神の沈黙」をテーマにしたり、家族の憎しみあいを描いた映画監督はいない。

 初めて見た「鏡の中にあるごとく」(1961)は孤島にやってきた家族を見つめる。作家の父は狂気にいたる娘を冷徹の描写するが、なかなかドラマ的で興味深かった。しかし、続く「冬の光」(1962)、「沈黙」(1963)になると、もう付いていけない。昔見たときはもっと熱中できたように思うが、特に「冬の光」など多神教的風土に生きるものとしてはなんでこんなに悩んでいるのとつい思ってしまった。「神の沈黙」三部作と呼び、形而上的なテーマ設定といい、極限まで切り詰められた人物描写といい、今からみれば驚くほどつまらない。ウッディ・アレンなどに多くの影響を与えたが、今じゃもういいんじゃないか。「仮面/ペルソナ」(1968)も同様。

 僕が最初に見た同時代のベルイマン映画は「叫びとささやき」(1972)。これは初のカラー映画で、世界の主要監督では黒澤明「どですかでん」(1970)と並んで最も遅いカラー映画だろう。しかし全編にわたって「」をイメージカラーとして、異様なまでの様式的映像に興奮したものだ。今回久方ぶりに見て、映像以上に姉妹間の愛憎に驚かされた。後期のベルイマン映画は家族の争いを描くものが多い。「ある結婚の風景」(1973)や「秋のソナタ」(1978)などベストテンに入選したが、夫婦、親子間のいさかいをここまで突き詰めては、見ている側も見るのが辛い。人間存在の本質に孤独があるのは確かだが、ここまで傷つけあうかと正直思う。「秋のソナタ」はイングリッド・バーグマンが主演で、確かに見ごたえはある。(今回は上映権切れ。)
 (叫びとささやき)
 まだ見ている映画はあるが、もう大体書いたからいいだろう。イングマール・ベルイマン(そもそもベルイマンじゃなくべリーマンに近いとも言うが。イングリッド・バーグマンと同じ姓だが、バーグマンは英語読み)は確かにすごい芸術家だと思う。見てないと映画史の話ができない監督だ。このようなテーマや作り方があるんだと世界に示した意義は大きい。今見るとつまらないのも多いなと思ったが、60年代には意味があったのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イ・チャンドン監督「バーニング 劇場版」

2019年02月12日 22時42分12秒 |  〃  (新作外国映画)
 韓国の巨匠イ・チャンドン監督の8年ぶりの新作「バーニング 劇場版」が公開中。これはNHKが村上春樹の短編をアジア各国で競作する企画の一つだったらしい。「バーニング」は村上春樹の初期短編「納屋を焼く」が基になっている。劇場版と呼ぶのは、テレビ版があるからで、NHKで年末に放映された。僕は少しだけ見ていたんだけど、その時にはイ・チャンドン監督や村上春樹の作品だとは何も知らなかった。テレビ版は95分で、劇場版は148分である。

 原作は1984年に刊行された「蛍・納屋を焼く・その他の短編」(新潮社)に収録されている。僕は初版を持っていて、買ってすぐ読んだと思う。もう35年も前になるから細部はすっかり忘れてしまったので、今回読み直してみた。「」は後に「ノルウェイの森」に発展する短編として知られる。一方、「納屋を焼く」はその後長編に書き直されなかった。しかし、村上春樹の短編というのは「世界を切り取った」感じが強く、小説の外にもっと物語が広がっている印象を持つことが多い。

 イ・チャンドンは原作を「現代の韓国」に移した他、登場人物の人物設定を変えている。しかし、最大の変更点は後半の展開で、原作が途中で終わっている話の先を描いている。また原作は「納屋を焼く」なのに対し、映画は「ビニールハウスを焼く」になっている。韓国だからか、時代の変化だからか。今の日本でも「納屋」と言われるよりも「ビニールハウス」と言う方が伝わるかもしれない。その「納屋を焼く」ということの象徴的意味は何だろうか。イ・チャンドンがこの映画で描いたのは、それが正しい解釈かどうかは別にして、すごい「深読み」を提示していると思う。

 作家を目指している若者イ・ジョンスユ・アイン)はある日、町で幼なじみのシン・ヘミ(チョン・ドンソ)に出会う。パントマイムを習っていて、ミカンを食べる動きを見せる。(これは原作にある。)アフリカへ行きたいと行って、その間の猫の世話を頼まれる(が猫は彼には姿を見せない)。突然アフリカから帰ってきて、向こうで知り合ったというベンスティーヴン・ユァン)と一緒に行動するようになる。ベンは貿易業だというが、非常に裕福らしく家も車も立派である。ジョンスはヘミに「ギャツビーだ」と言うが通じない。「韓国にはギャツビーが多すぎる」。

 ある日、近くまで来たと言ってベンとヘミが彼の故郷までやってくる。そこは38度線(軍事境界線)に近く「北」からの放送が聞こえる。ジョンスは父が村の役人に暴れて逮捕されているため、家に戻って牛の世話などをしなければならない。ヘミは昔井戸に落ちたというが、ジョンスは記憶にない。ベンがマリファナのタバコを勧めてくると、ヘミは眠くなってすぐに寝てしまう。その間にベンはジョンスに、自分は時々ビニールハウスを焼くと話す。次のビニールハウスは近くだと。

 原作では「僕」は31歳で結婚している。「彼女」は20歳で、どこかの結婚パーティで出会って友だちになった。「僕」はもう小説家になっていて、「彼」と「彼女」を「観察」する。映画ではジョンスとヘミは幼なじみだから年齢も同じ。再会して仲良くなり、性的関係も持つ。だからベンが登場して、ヘミとベンの関係はよく判らないけど(ベンは年長で、妻子もいるらしい)、ジョンスから見れば「三角関係」というか、嫉妬の感情を持つ。彼の家に来た日に、ヘミは裸で踊り、それをジョンスは非難してしまう。以後連絡が取れなくなり、ジョンスはベンを付け回す。サスペンス的な展開になる。

 もちろん原作を変えること自体は良くも悪くもない。それが本質的に意味があるかどうかだけである。「バーニング」は原作を現代に移すことで、若い世代の焦燥をあぶりだすことに成功していると思う。映像も美しく、スリリングな展開に目を奪われる。韓国は日本以上に「財閥」が強大で、格差感覚も大きいと思う。そんな社会を背景して、この映画では後半を創作した。それは原作の一つの読み方であるが、僕らにとって「より良い読み方」なのか。ラストは刺激的な展開で心を奪われるが、それが今の我々にとって「良い読み方」なのかは判断が分かれるだろう。

 イ・チャンドン(1954~)は、最近は「冬の小鳥」「私の少女」などのプロデューサーなどをして、監督は久しぶり。「グリーン・フィッシュ」「ペパーミント・キャンディ」「オアシス」(ヴェネツィア映画祭銀獅子賞)、「シークレット・サンシャイン」(カンヌ映画祭主演女優賞)、「ポエトリー アグネスの詩」(カンヌ映画祭脚本賞)に続く6作目である。この間ノ・テウ政権で文化観光部長官に就任した。作品数は少ないが、いずれも韓国を舞台に現代社会を鋭く追及する作品ばかりだ。社会性だけでなく、独自の詩情をたたえる作品性の高さが印象的。「バーニング」は最高傑作ではないと思うが、十分刺激的な作品。
(イ・チャンドン監督)
 映画に関係ないけど、久しぶりに原作を読み直して、80年代はケータイ(スマホ)がなかったんだなあと改めて思った。「めくらやなぎと眠る女」なんて題名自体が今では無理か。その短編では病院に看病に行って、タバコを食堂で吸えている。新潮社の「新刊案内」がはさまれていたけど、「ユーモアの感性光る青春のドラマをメルヘン世界に転化させた新文学」と紹介されていて驚いた。全然間違っているじゃない。青春メルヘンだと思われていたのか。「納屋を焼く」では主人公が近くの納屋をジョギングして見て回る。この頃から走っていたんだな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「鈴木家の嘘」、家族の「自殺」と向き合う

2019年02月11日 21時05分10秒 | 映画 (新作日本映画)
 2018年11月に「鈴木家の嘘」という映画が公開された。脚本・監督はこれが初監督の野尻克己(1974~)で、新人だから全然知らない。家族をめぐるコメディとして評判になったけれど、見逃していた。先日キネマ旬報のベストテン号が出たが、「鈴木家の嘘」は6位に入選していた。珍しく自分の評価とベストテンが近い年だったけれど、この映画だけ見逃していた。(他は見ているけど、「斬、」と「友罪」はブログに書かなかった。)調べて見ると、アップリンク吉祥寺や下高井戸シネマなどでいま上映しているとある。そこで下高井戸まで見に行くことにした。

 133分もある映画だが、脚本がよく出来ていて「いい映画を見たな」と思った。見た直後は「万引き家族」「菊とギロチン」の次あたりにしてもいいと思ったが、時間が経つと少し冷めてきた。これだけは書かないと話ができないが、「長男の自殺を母親に隠す話」である。引きこもっていた長男(加瀬亮)が死に、それを発見した母(原日出子)も倒れて意識を失う。その後回復したが、その頃の記憶が欠落した。父親(岸部一徳)と長女富美(木竜麻生)は真実を言い出しかねて、母の弟(大森南朋)がやってる仕事を手伝ってアルゼンチンに行ったことにしてしまった。

 2004年に日本でも公開されたドイツ映画「グッバイ、レーニン!」という映画があった。社会主義を信じていた母が意識不明となったが、8か月後に奇跡的に意識を取り戻した。しかし、その間にベルリンの壁は崩壊、ドイツは統一へ向かっていた。母にショックを与えないため、東ドイツがずっとあるように家族皆で演技を続ける。「鈴木家の嘘」も似た話かと思ったら、タッチがかなり違った。「グッバイ、レーニン!」はドイツ統一をめぐるコメディに徹しているが、「鈴木家の嘘」は冒頭で家族の一人が死んでしまう。隠す隠さないを超えて、父も妹も兄の「自殺」に向き合うしかない。日本映画のみならず、ここまで「自殺」を考えさせる映画も少ないと思う。

 それがアルゼンチンでエビの輸入に関わるって、突然驚くような発想になる。それも叔父さんが社長でいろんな仕事をしているという設定で、親戚に一人はいるお騒がせものが見事な存在感を発揮している。それでコメディとして進行していくんだけど、この映画は笑っているだけでは済まない。その「重さ」に見合うだけの「軽み」を登場人物が発揮しているから、なかなか見ごたえのある映画になっている。「菊とギロチン」で女相撲を披露した木竜麻生(きりゅう・まい)が素晴らしい頑張りで、大学で新体操をやってる女子大生を演じている。

 野尻克己監督は今まで「舟を編む」「テルマエ・ロマエ」「恋人たち」など話題作の助監督をしてきた。最近は新人監督がどんどん登場して、もう覚えられないぐらいだが、また一人自分で優れた脚本を書ける監督が登場した。しかし、家族を亡くした者の会とか、ソープランドをめぐるエピソードなど、どうも盛り込み過ぎの感もある。肝心の長男が「引きこもり」から「自殺」へ至る経緯は全く語られないので、どうも今ひとつ理解が難しい。まあ「引きこもり」や「自殺」を周りがどれだけ「理解」できるのかとも思う。いろんなことを考えさせる映画で、つらいシーンも多いけど見るべき映画。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斎藤美奈子「日本の同時代小説」を読む

2019年02月09日 22時46分29秒 | 本 (日本文学)
 新年になってからは溜まってたミステリー小説を読みふけっているけど、少し飽きたので違う本を。2018年11月に岩波新書から刊行された斎藤美奈子「日本の同時代小説」を読むことにした。斎藤美奈子(1956~)は、『妊娠小説』『紅一点論』など初期のものがすごく面白かった。ずっと読んでるわけではないが、最近の小説をいっぱい読んでる人には違いない。この本はいろんな評価があるようだけど、まずはこういう本は必要なんじゃないかと思った。 

 冒頭に出ているけど、中村光夫日本の近代小説』『日本の現代小説』という岩波新書がある。僕も若い時に読んで、すごく勉強になった。というか、作家や作品の名前と位置づけを知って、ブックガイドとして利用した。その後、そういう本がないから1960年代以後が書かれていない。そこでこの本の登場。ものすごく沢山の本が出てくる。昔と違って、今はエンターテインメント系、つまり直木賞作家にも触れないといけない。「ノンフィクション」として登場した作品も取り上げられている。こういうブックガイドがあると、若い世代の見通しが広くなるだろう。

 昔は作家のグルーピングが簡単だった。「私小説」とか「プロレタリア文学」とか。戦後文学もそれにならって、「戦後派」「第三の新人」「内向の世代」などと言われた。でも70年代以後は一人一派で、まとまってない。70年代後半に戦後生まれの男性作家の大爆発があったと書かれている。中上健次、村上龍、三田誠広、立松和平、村上春樹らで、名前は広く知られているし、僕も登場直後から読んでる人が多い。でも一人ひとり別で「派」にはならない。だから作家ごとにまとめるのは難しいので、作品ごとに論じるとしている。

 60年代、70年代なんかだと作品評価は定着しているし、「名作」なら大体読んでる。21世紀になると、有名なのは読んでるけれど、芥川賞候補レベルだと読んでないのが多い。21世紀の日本文学が、「戦争と格差社会」「ディストピアを超えて」と題されている。僕もこんなに「広義の戦争小説」が書かれていたかと驚いた。女性が子どもを産まないから少子化になったみたいなことを言う政治家にぜひ読ませたいと思った。日本の若い世代は戦争に駆り出されていたんだから、結婚も出産もできない。それはもちろん昔のような「戦争」ではない。でも若者たちは格差社会をギリギリで生き抜くしかなかったのかと暗澹たる思いがする。そこが一番の読みどころ。

 ただし、そういう話は小説論というよりも、小説のテーマを通して時代を読むみたいになる。「小説社会学」という感じだ。そういう風に考えると、落ちている問題がある。最大のものは「同時代小説」と銘打たれていること。70年代に安部公房大江健三郎を読んでいた若い世代(自分もそうだけど)は、同じようにATGで大島渚吉田喜重の映画を見ていた。あるいはつげ義春のマンガや唐十郎のテント芝居にも触れていた。それは「文学」じゃないから仕方ないとしても、谷川俊太郎大岡信も、別役実清水邦夫も出て来ない。「小説」だけで時代を語ることがもう無理な時代になっていたのである。「同時代小説」だけど、この本は「同時代文学」でも「同時代精神史」でもない。

 70年代後半に若い男性作家が続々と登場したけれど、若い女性作家の登場は80年代になる。その代表が山田詠美吉本ばなな。その後、芥川賞や直木賞に女性作家が続々と登場するようになる。言われてみると、確かに男女で小説家になるタイムラグがあったなと思う。でも僕は思うんだけど、70年代半ばには池田理代子竹宮恵子萩尾望都らの少女漫画家が評判になっていた。荒井(松任谷)由実中島みゆきらもデビューしていた。マンガや音楽の方が早かった。そこで思い出すのは、名前も全く触れられていないけど、評論家中島梓(1953~2009)が78年に栗本薫名義で書いたミステリー「ぼくらの時代」で江戸川乱歩賞を受賞したこと。その後長大なグイン・サーガを書いて早世した。いろんな意味で先駆者じゃなかったか。

 最後に出て来ない作家を簡単に。70年代は「戦後派」や「第三の新人」の集大成的作品が書かれたが、安岡章太郎庄野潤三も全く出ていない。堀田善衛も出て来ない。佐多稲子も戦前の「キャラメル工場から」が出てくるけど、70年代に書かれた「樹影」「時に佇つ」には触れない。最高齢作家の野上弥生子(1885~1995)の100歳の傑作「」(1985)も時代離れしすぎているからか出て来ない。三浦哲郎辻邦生加賀乙彦辻井喬色川武大日野啓三尾辻克彦(赤瀬川原平)野呂邦暢李恢成辺見庸目取真俊花村萬月などは全く出てない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「ジュリアン」、フランスのDVを描く

2019年02月08日 22時23分34秒 |  〃  (新作外国映画)
 フランス映画「ジュリアン」は、日本で言えば家庭裁判所みたいな場所で親権を争う元夫婦のシーンから始まる。母のミリアムは、二人の子どもと暮らしている。姉のジョゼフィーヌは18歳を超えているので、自分で決めていい。弟のジュリアンは11歳なので、父のアントワーヌ共同親権と面会権を求めている。ジュリアンは会いたくないと手紙を書いているんだけど、双方が弁護士を立てて言い分を主張する。裁判官は決定を一週間後に送ると言って終わる。

 日本だったら「母親の親権」になるんじゃないかと思う。離婚の理由がDVらしいし、子どもも会いたくないと言っている。日本でも「共同親権」の方がいいという意見もあるし、父親が子供に会いたいのは理解できる。映画を見ていると、次のシーンでアントワーヌがジュリアンに会いに来るので、面会が認められたことが判る。その理由は示されないが、はっきりとした暴力、傷害などが認められない段階では、多分フランスでは普通の判断なのではないかと思う。

 文字だけで読む時、つまり新聞記事や小説等で「暴力」「虐待」を読む場合、事案の真相がよく判らないことも多い。でも映画だと、まあフィクションではあるけれど、現実の人間の様子を観客が「解釈」できる。僕はチラシやポスターでジュリアンの顔を見て、これはなんなんだろうと思った。やっぱり本当に父と会うのを嫌がっている顔としか思えない。実際に面会の場面を見ると、暴力を振るわれるわけではないけど、言葉で問い詰められていってとてもつらい。

 ミリアムと子どもたちは住所も変えて、それをアントワーヌには教えない。(面会の時は親の家を利用する。)しかし、そのことに気付いた父はジュリアンを執拗に問い詰める。その様子が非常にリアルで怖い。学校での「指導」の場合もそうだけど、実際の暴力を伴わない場合でも、言葉で追い詰めていくことがもっと怖いこともあると思う。アントワーヌの方も親元に戻っていて、ジュリアンは父方の祖父母と食事したりする。そこでもアントワーヌが激高してしまい、親子ケンカになる。アントワーヌ本人にも問題があるが、その成育歴にも問題があったように思う。

 ラスト、驚くような「暴発」が待っているが、そこはあえて書かない。今後どうなるか、気になる。ジュリアンを通して描くので、そもそも父母はどうして結婚したのか、父の内面はどうなっているのかなどは語られない。そのためサスペンス映画みたいな展開になる。演出力は確かだが、事態の全体像を見せてくれるわけではない。脚本、監督はグザヴィエ・ルドラン(1979~)という新人監督で、これが初の長編。2017年のヴェネツィア映画祭銀獅子賞(監督賞)を受賞した。(この年のヴェネツィアは大豊作で、「スリー・ビルボード」が脚本賞、「判決、ふたつの希望」が男優賞だった。僕の評価では「ジュリアン」が両作より上なのは過大評価ではないか。) 

 外国映画でもDV(家庭内暴力)や児童虐待の映画が多くなったと思う。日本でも現実の事件として、毎年のように悲劇的なニュースが届く。虐待やDVは増えているのだろうか。それは精神疾患や発達障害の場合にも言えるが、実際に増えているという説と、社会的なアンテナが敏感になったため多く認知されているという説があると思う。どちらもあり得るだろうが、現在のような「グローバル化」「情報社会化」が進み、地域社会や会社、職能団体、労働組合などの包摂力が落ちている社会では、「家庭」が直接「世界」に向き合ってしまう

 「父が家族を守る」という価値観を保つ男性は、自分より弱い存在の妻や子どもを押さえつける。それが「外向的父親」の場合で、「内向的父親」の場合は自殺や失踪などになる。家庭崩壊の両極に狭間に、多くの破たんを抱えながら何とか続いている家庭がある。そう考えると、世界のあり方が大きく変わらない限り、DVや虐待は大きな問題であり続ける可能性が高いと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「バハールの涙」、ISと戦う女性部隊

2019年02月07日 22時10分17秒 |  〃  (新作外国映画)
 テーマ的に見ておきたいと思う映画があり、書くかどうか迷うんだけど紹介の意味で簡単に。どっちもフランス映画の「バハールの涙」と「ジュリアン」(「ジュリアン」は次回に)。大成功しているのかという不満もあるが、テーマが重い。「バハールの涙」はイラク北部でのIS(「イスラム国」)と戦うヤジディ教徒の女性部隊の日々を描く。フランス人の隻眼女性ジャーナリスト、マチルドの目から描かれている。だけど、ホントの戦闘シーンのはずがなく、本物の戦闘員がやってるわけでもない。劇映画として創作されているわけだが、それでも貴重な映画だ。
 
 ヤジディ教徒の悲劇は、2018年のノーベル平和賞を受賞したナディア・ムラドさんによって広く知られた。クルド自治区で平穏に暮らしていた弁護士のバハールは、ある日突然ISの襲撃を受け家族を奪われ「性奴隷」として売り買いされる。テレビで恩師が救出運動を続けていることを知り、なんとか連絡を付ける。「解放」はこのように行われたのか。そして子どもを取り戻すために、女たちの部隊を作るのである。彼女たちは失うものがなく、勇敢に戦う。ISは「女に殺されると天国に行けない」と思い込まされているから、この女性部隊を恐れている。

 戦闘シーンだけをとれば、もっと迫力のある映画はあるだろう。(例えば「プライベート・ライアン」「シン・レッド・ライン」「ダンケルク」など。)しかし、どんな映画だって銃弾はスクリーンのこちら側には飛んでこない。実際に舞台上で爆弾テロが起きて観客に被害が出るんだったら、誰もそんな芝居を見に行かない。その意味では、遠い異国で映画を見てどうなるのかとも思うが、でも見て判ることもある。例えば「沈黙」の重さ。音が消えた時ほど、危険が迫っているのだ。ISの「壊滅」も近いとされるが、ISを生み出したものがすぐに消えるわけではない。この映画はISと戦う側を描くので、ISそのもののことはよく判らない。

 女性部隊はクルド人部隊の一員として戦っているが、クルド人部隊は欧米軍の空襲を頼りにしている。女性軍は早く子どもたちを解放したいし、そのためには命を投げ出す覚悟がある。地雷が埋められて危険な地下道も、IS捕虜を先頭に歩かせて進んで行く。これは「捕虜」の扱いとしては問題があるだろうが、もはやそのようなレベルじゃないんだとも思う。皆の信頼熱いバハール隊長は、ゴルシフテ・ファラハニがやってる。全然気付かなかったけど、ジム・ジャームッシュの「パターソン」の妻だった人でイラン系。監督はエヴァ・ユッソンという人だが、全然知らない。「ジュリアン」は別に重大な問題を扱っているので、別に書きたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする