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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

半世紀ぶりに見た映画『砂の器』、それは「宿命」ではない

2025年04月27日 22時40分52秒 |  〃  (旧作日本映画)

 2025年は「昭和100年」ということで、丸の内TOEIで「昭和100年映画祭」というのをやってる。まあほぼ見てる映画ばかりなので今まで見てなかったけど、この前1974年の映画『砂の器』を半世紀ぶりに見て来た。松本清張原作、野村芳太郎監督の大作映画で、当時大ヒットしキネ旬ベストテン2位となった。(1位は熊井啓監督『サンダカン八番娼館 望郷』で、ベルリン映画祭女優賞、米アカデミー賞外国語映画賞ノミネートのこの作品こそ、内容的にも「昭和100年向き」だと思うけどなあ。)

 この映画は「ほぼリアルタイム」で見たと思う。公開当時は浪人時代で、お金的にも時間的にも新作映画はあまり見てないから、多分翌年に大学へ入った後で名画座(銀座並木座や池袋文芸地下など)で見たんだと思う。その時にはすごく違和感を感じて、僕は全く「感動」出来なかった。この映画は今も上映される機会が多いが、その後はどっちかというと避けて来た。

 今回見たのは、先に書いた金井美恵子の『目白雑録』の最後の巻で触れられていたからである。それは「佐村河内守」騒動について書かれた後で、佐村河内氏の音楽(交響曲第1番《HIROSHIMA》)から、『砂の器』内で作曲・演奏される『宿命』という曲を思い出したのである。疑似「ロマン派」風音楽の持つ通俗的人気を批判的に考察しているわけである。

 今回久しぶりに見てみると、ずいぶん間違って覚えてることも多かった。以下、原作や映画の内容に触れるが、まあよく知られているだけでなく、殺人事件の「犯人性」はすぐ示されているから問題ないだろう。冒頭は刑事二人が羽後亀田駅(秋田県)を訪れる場面で、その二人とは丹波哲郎森田健作。(登場人物名は面倒なので、基本的に俳優名で書く。)片方は大霊界に行ってしまい、もう片方は国会議員を経て千葉県知事になったなど昔の映画は「俳優の人生を知って見る楽しみ」がある。新進作曲家加藤剛を争う二人の女性、愛人の島田陽子と婚約者の山口果林は、それぞれ内田裕也と安部公房の「愛人」だったなと複雑な感慨を覚えた。

(丹波哲郎と森田健作)

 この映画を見て「感動」する人は今も多いようで、上映後には拍手が起こっていた。しかし、ミステリー的にも疑問だらけだし、物語構造自体に大問題がある。しかし、思った以上にあちこちロケしていて、有名な島根県亀嵩(かめだけ)以外にも本籍地の石川県山中温泉のさらに奥、さらに大阪新世界(通天閣の下)などにも行っている。ロケを通して50年前の日本の風景を見る楽しみはある。また有名な俳優がいっぱい出ているので、あれは誰、あの人は若かったななどと見る楽しみも大きい。

 ミステリー的な疑問というのは、まず愛人の島田陽子が「血染めのシャツ」の始末を頼まれて、それをバラバラに切って中央線の塩山付近の窓から捨てる。しかし、そんなことをする人はいないだろう。秘密の愛人で誰も知らないんだから、生ゴミに混ぜて捨てればよいし、夜誰も見てないときに川などに捨ててもよい。普通はそうすると思うが、またそれを新聞記者が見ていて「紙吹雪の女」というコラムを書いて、それを読んだ刑事がこれこそ血染めのシャツじゃないかと思う。もはや天文学的確率としか思えないが、それを執念で見つけ出しO型の血液を検出する、ってあり得なすぎてシラケる。仮に全部事実でも「証拠価値」はないだろう。

 また幼い頃の作曲家を知っていた恩人(なかなか出て来ないが、亀嵩で巡査をしていた緒形拳)が伊勢の映画館で前大蔵大臣(佐分利信)と一緒に写ってる作曲家の姿を見て、これは大人になった昔の少年と見抜く。そして、予定を変更して急きょ東京へ向かい、成功した彼に会おうと思う。これが全然理解不能で、幼い頃に特に音楽的才能を発揮していたわけでもない田舎の貧しい少年が、どうすれば新進作曲家・ピアニストになれるのか。まだ高校進学率も低かった時代に、どうすれば音楽教育を受けられたのか。そう思えば、まあ多少似ていたとしても「他人の空似」と思うのが通常人である。緒形拳演じる巡査は超能力者なんだろうか。

(子役)(演奏する加藤剛)

 上記画像の二人が子どもと大人の同一人物だと思えるか。まあある程度似てはいるけど、同じと見るのは無理だろう。この子役は春田和秀(1966~)という人で、その後『はだしのゲン涙の爆発』という映画で主人公を演じたが、今は芸能界を引退し自動車関連会社を経営しているとWikipediaに出ている。僕はこの子ども時代を見ていても、これが将来の加藤剛だとはどうしても思えないのである。まあ「明らかに違う」とまでは言わないけど、映画館の写真を見ただけで同じ人とは普通感じないと思う。子役だからということではなく、各地の放浪、空襲、戦後の音楽界での成功とあれば、風貌は大きく変わっているはずではないだろうか。

 これらの問題点は基本的には松本清張の原作に由来している。この原作を読まずに称賛(あるいは批判)している人が多いとして、金井美恵子は我慢して上下2巻の長い原作を読んでいる。僕も昔読んでるのだが、これは「トンデモ本」界に名高いミステリーで、特に映画化、ドラマ化では必ず割愛される「第二の殺人」の殺人方法が驚きなのである。まあ今後読む人の楽しみのため、そのトンデモ内容は書かないことにする。ミステリー的にはほぼ破綻作なのだが、そういう部分を捨て去って「父と子の宿命のドラマ」に作り直したのは、有名な脚本家橋本忍と共同脚本の山田洋次だった。その通俗的な手腕の見事さは勉強にはなる。

(緒形拳と加藤嘉)

 結局背景にあったのは、戦時中の日本でハンセン病(当時は「らい病」)を発病した父(加藤嘉)がいて、当時は「業病」と恐れられていたため妻は逃げてしまい、残された父子も郷里の石川県にいられなくなる。そのため「浮浪」生活を送ることになり、流れ流れて島根県にたどり着いたとき「親切な」巡査が村から追い出さず面倒を見る。そして調査の結果、父親は「隔離」と決められ、離島の療養所に送られる。(これは岡山県の長島で、本籍が石川県なので邑久光明園なのではないかと思う。)そして父子は泣く泣く別れ別れになり、子どもは緒形拳が育てるつもりがある日逃げ出してしまった。そして数十年、ついにその子を見つけた…。

 この悲しい放浪の日々と、いよいよ新進作曲家が犯人と目星が付き逮捕状請求をするための捜査会議(ほぼ丹波哲郎の独演会、隣に丹古母鬼馬二が座ってるのがおかしい)、そして前大蔵大臣が支援して開かれる新作ピアノ協奏曲「宿命」の演奏会(ピアノ独奏と指揮を加藤剛が兼ねる)が、それぞれ同時進行で描かれるラストがまあ圧巻なのである。ただし、丹波哲郎の独演が長すぎて会議とは思えず、また音楽のラフマニノフばりの甘い旋律(作曲は菅野光亮)が繰り返されてちょっと困ってしまう。しかし、一番の問題は放浪する父子の「美しい日本」の風景で、「ここで泣け」とばかりの情緒たっぷりの映像はかえって僕を冷静にさせてしまう。

 いよいよ逮捕状を手に演奏会に乗り込んだ丹波と森田。森田は演奏を聴いて「彼は父親に会いたくないんでしょうか」と問いかける。すると丹波は「今彼は父と会っている。音楽の中で」などと答えるのであるが、ここで僕は「イヨッ、大霊界!」と声を掛けたくなってしまった。何が音楽の中で父親と会ってるだよ、そんなことがあるわけないじゃないか。

 この映画を見たのは、自分が近現代日本の歴史を学びたいと思って大学へ進んだ頃である。その当時日本の戦争映画は、「戦争で引き裂かれる悲しい運命」を、まるで「天災」のように避けがたい運命として描く悲しいドラマが多いと指摘されていた。戦争は天災ではなく人間が起こすもので、実際には侵略戦争を起こしたのは日本の方だった。僕は「民衆の戦争責任」という問題意識を持っていたので、そういう戦争の描き方に批判的だった。『砂の器』を見た時に感じた違和感も恐らく似たようなものだったのではないか。問題の本質に目を向けさせず、登場人物の悲しい「宿命」に涙して終わってしまう日本の「エンタメ社会派」の限界。

 当時はまだハンセン病問題に詳しくなかった。マスコミでもほとんど報道されていなかった。僕が初めて日本のハンセン病療養所を訪れるのは、その数年後のことである。だけど、何かおかしいような気がしたのである。今見ればはっきり理解出来るが、「親切な」巡査緒形拳は「末端の国家権力」として「無らい県運動」を進める国の「隔離政策」に従っていたのである。戦時中にそれ以外は出来なかったとしても、子どもと一緒に療養所に行ったケースは多いし、母親を探し出すことも可能だろう。彼ら家族が故郷を追われたのも、日本国家が隔離政策を進めて「怖い病気」という宣伝を津々浦々で行ったからだ。決して「宿命」ではなかった

 最後に「ハンセン氏病は、医学の進歩により特効薬もあり、現在では完全に回復し、社会復帰は続いている。それを拒むものは、まだまだ根強く残っている非科学的な偏見と差別のみであり、戦前に発病した本浦千代吉(父親の名)のような患者は日本中どこにもいない」というような字幕が出る。これは全患協(全国ハンセン氏病患者協議会=現在は全国ハンセン病療養所入所者協議会)の強い要求で入れられたものである。もともとは製作中止を申し入れたのだが、すでに配役も決定し製作費が掛かっているとして拒否された。そこでやむなく社会的偏見を助長することのないよう、シナリオの検討などを行ったという。

 そのことは『全患協運動史』(1977)に詳しく書かれている。(そのちょっと前でFIWC関西委員会による「交流(むすび)の家」建設問題が取り上げられている。)ハンセン病者の「悲劇」を宿命として描き出すのは、僕は間違っていると思う。これは原作自体にある問題で、「イヤミス」作家松本清張の本質的な問題だ。『霧の旗』では冤罪で獄中死した兄の弁護を担当してくれなかったとして、妹が著名弁護士に執拗に絡んでくる。しかし、冤罪を起こしたのは警察、検察の間違った捜査であり、それを追認した裁判所の判決である。弁護士がいい加減だった事件はいっぱいあるけれど、「主犯」ではない。闘う相手を間違えている。

 それはノンフィクションの『日本の黒い霧』にも言えることで、清張ミステリーの特徴である。『砂の器』は確かに良く出来ている部分もあるけれど、クローズアップのカメラ操作が不自然なこと、さらにあり得ない偶然による捜査進展など面白みを削ぐ展開が続く。それでもラスト近くの演奏と美しい風景に涙できる人には「感動作」だろうが、僕はそういう時にこそ「観客に考えさせる」映画を作った大島渚や吉田喜重、今村昌平のような映画を上と評価するものである。

 なお、1974年は僕には藤田敏八監督、秋吉久美子主演の『赤ちょうちん』『妹』『バージンブルース』や神代辰巳監督『青春の蹉跌』の年だった。さらに黒木和雄監督『竜馬暗殺』、実相寺昭雄監督『あさきゆめみし』、田中登監督『㊙女郎めす市場』、原一男監督『極私的エロス・恋歌1974』のようなとんでもない問題作がいっぱいあった年だった。『砂の器』より断然面白かった。

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30年目の『Love Letter』、永遠の中山美穂に捧ぐ

2025年04月20日 20時22分16秒 |  〃  (旧作日本映画)

 1995年公開の岩井俊二監督『Love Letter』が4K版でリバイバル上映されている。2024年に中山美穂の急逝という信じがたいニュースを聞いた後、どこかで中山美穂追悼映画祭をやらないのかなと思っていたのだが、『Love Letter』の30年記念上映(4K版作成)企画が進んでいたとは知らなかった。この映画なくして追悼にならないから、他の企画は出来ないわけだ。映画の一番最後、クレジットが終わった後に、中山美穂への追悼(英語)が追加されているので、最後まで席を立たずに見なければならない。

 この映画の監督である岩井俊二のことは当初全く知らず、新しいところから才能が現れた感じがした。その後テレビ出身の映画監督は普通になっていくが、この時点では知名度がなく、僕も最初はマークしていなかった。しかし、評判を聞いて見てみると丁寧な描写、練り上げられた脚本、小樽ロケの魅力、適度なセンチメンタリズムが快く、何度か繰り返して見ている。(10年ぐらい見てないけど。)今見ても全く古びてなくて、この映画で中山美穂の魅力が永遠に残されたと思うと、見ていて何だか厳粛な気持ちが湧いてくる。東アジア各国で大ヒットし、今に至る小樽観光ブームを呼び起こしたことでも名高い。

(ロケ地は八ヶ岳)

 すべてが名シーンと言ってよいような映画だが、何と言っても心に残り続けるのはラスト近くの山に向かって中山美穂(渡辺博子)が「お元気ですか?」「私は元気です」と叫ぶシーンではないか。声出し可能上映会があれば参加したいぐらいである。もう古い映画なので、以下で内容に触れる(いわゆる「ネタバレ」)ことにするが、基本は「藤井樹」(ふじい・いつき)という同姓同名の生徒が小樽の中学の同じクラスにいたことから起こるドラマである。二人は性別が違い、(今の学校は男女とも「さん付け」だと聞くけれど)、ここでは「藤井樹さん」(酒井美紀)、「藤井樹くん」(柏原崇)と表記する。藤井くんは卒業直前に神戸に転校する。

 大人になった「藤井樹くん」はすでに2年前に冬山で亡くなっている。彼には婚約者渡辺博子中山美穂)がいて、三回忌のときに彼の実家に寄り母親(加賀まりこ)から中学の卒業アルバムを見せて貰う。(卒業時には転校していたので、集合写真の上方に特別に載っている。)その時卒アルに付いていた住所録を見て「藤井樹」の住所を腕にメモする。もちろん転校生の住所は掲載されないから、これは実は「藤井樹さん」のものだった。(前後が女子の名前になっているので、注目を。)当時は卒業生全員の住所が男女別名簿順でアルバムに載っていたのである。(自分の場合も、勤務校も同様。)今では考えられないことだろう。

(藤井樹さん=酒井美紀)

 渡辺博子は2年経ってもまだ心の整理がついていない。そこで届かないはずの手紙を「藤井樹くん」と思い込んだ住所に出してみる。それは「大人になった藤井樹さん」(中山美穂二役)に届いてしまうわけだが、今は小樽市立図書館に勤める藤井さんは、「変な手紙が来た」と同僚にこぼしながらも、つい「私も元気です」と返事を出す。これはあの世から届いた手紙なのか? 困惑する渡辺博子だが、今は樹の山仲間だったガラス工芸家秋葉豊川悦司)から思いを寄せられ、藤井を忘れかねつつ彼の求愛を受け入れている。そんな時、小樽のガラス工芸展の案内があり、秋葉は一緒に真相を探そうと渡辺博子を小樽に連れ出すのである。

(藤井樹さんの家=旧坂別邸)

 二人は「藤井くん」の住所(今は道路になっている)を見てから、もう真相が判明して「藤井さん」の家を訪ねる。それは「旧坂別邸」という家を借りてロケしたということだが、残念なことに2007年に焼失してしまった。(なお小樽ロケの情報を紹介するサイトは多い。神戸という設定の「故藤井樹」の家も小樽で撮影された。)結局は会えないで(昼間は図書館で仕事しているんだから当然だけど)、家の前で手紙を書いて投函する。それで終わるはずが、藤井樹さんは返事を出し、渡辺博子は「藤井樹くんの思い出を教えて欲しい」と書き送る。その気になれば思い出すもんだということで中学時代の思い出が描かれるが、後は映画の楽しみに。

(小樽ですれ違う時の渡辺博子)

 ここでちょっと違った観点からこの映画を見てみたい。今まで何度か書いているが、「同姓同名の生徒が同じクラスにいるのは不自然だ」という問題。僕は今まで3年の内1年だけ同じなんだと思い込んでいたが、今回見直したら「3年間同じクラス」だった。昔は2、3年時はクラス替えをしないことも多かったけど、そもそも複数クラスある学校でどういうクラス編成をしたのか。現実にクラス内でからかわれているし、教師も間違って答案を返している。「実害」が生じているのだ。まあ警察関係者は刑事ドラマを見て「あり得ない」と思ってるんだろうし、同じように教師は学園ドラマを見て「あり得ない」と思って見るのである。

 この問題は小規模校にすれば解決するし、同じ学年でも「違うクラスから図書委員に選ばれる」ことはあるだろう。僕はこういうことを書いて、この映画は現実性が薄いと批判しているのではない。教師から見て不自然な点があっても、それを忘れさせるほど面白く出来ている。例が適切じゃないかもしれないが、アメリカで昔たくさん作られた「西部劇」のほとんどは「先住民の描き方が不当」である。しかし、政治的に全く正しくない映画であっても、見ている時はそれを忘れて手に汗握る傑作は存在するのだ。

 その他細かいことを言い出せば不思議なことは多いのだが、まあ省略することにする。岩井俊二はこの後『スワロウテイル』、『四月物語』、『リリイ・シュシュのすべて』、『花とアリス』、『リップヴァンヴィンクルの花嫁』、『ラストレター』、『キリエのうた』などを作り続けているが、やっぱり長編デビュー作の『Love Letter』が最高傑作なんじゃないだろうか。キネ旬ベストテン3位、毎日映コンや日本アカデミー賞の優秀映画賞。どの賞も新藤兼人監督の『午後の遺言状』にトップをさらわれた。中山美穂はブルーリボン賞や報知映画賞の最優秀女優賞を取ったが、キネ旬などは『午後の遺言状』の杉村春子だったのは、時の運とはいえ残念だった。

 ところで今日見ていて、この物語の構造は「先に死んだもの小説」だなと思った。それは伊予原新青ノ果テ』を書いた時に思いついたのだが、夏目漱石『こゝろ』や大江健三郎、村上春樹などの多くの小説で使われた物語構造である。自分は昔から「腐れ縁」小説や映画(『浮雲』や『夫婦善哉』など)が好きなのだが、その変形なのである。つまり「思い切れない」心情が心に沁みるのである。なお撮影の篠田昇(1952~2004)は『花とアリス』までの岩井作品や相米慎二『ラブホテル』『夏の庭』、行定勲『世界の中心で、愛をさけぶ』を担当した人である。早世したが、都立白鴎高校の3期上の同窓生なので特記しておきたい。

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高峰秀子「生誕百年」と斎藤明美トークー木下恵介『風前の灯』を見る

2025年03月31日 21時45分55秒 |  〃  (旧作日本映画)

 また書く予定のなかった記事なのだが、3月30日に新文芸坐で木下恵介監督『風前の灯』(1957)という映画を見たのである。これは上映機会が少なく(松竹にすでにフィルムがなく国立映画アーカイブ所蔵のものだった)、見てなかった映画である。その映画のことは後で書くが、その後に斎藤明美氏のトークがあった。これがとても刺激的でちょっと記録しておきたいと思う。斎藤氏は高峰秀子松山善三夫妻の養女となった人で、高峰秀子に関する多くの著書、編著がある。2024年に生誕百年になった高峰秀子の記念事業を一年以上続けてきて、その日が最後という記念のトークショー。抽選会もあったけど当たらなかった。

(斎藤明美氏と高峰秀子生誕百年記念)

 斎藤氏はちょっと前にも新文芸坐でトークをしていて、その時に神田伯山が客として来ていたのだという。そしてトーク内容が昔の芸能界の裏話をあけすけに語っていたらしく、伯山先生はXに驚きを投稿したらしい。そのことで「少し物議を醸している」とトーク前に紹介があったのでビックリ。確かに斎藤氏の話はド迫力で、とにかく高峰秀子を知って欲しい、残していきたいとの気迫十分。そのことが「不気味」と評されることもあるらしいが、それは生前の高峰秀子を知らないからだという。

(高峰秀子)

 高峰秀子(1924~2010)は家事が一番好きで、早く引退したいと願いつつ、あまりの芸達者ゆえに多くの監督に愛された。5歳で子役デビューから半世紀の芸能生活を送ったが、本人はこういう記念事業が大嫌い。絶対イヤと言ったはずだが、多くの人に知らせたいあまりの生誕百年事業だったという。機嫌の良い時に「銀座カンカン娘」を歌ったり笠置シズ子のモノマネをしたという。そういうのを目撃できたのは自分の宝だと語る。芸能界事情は本人が実名で書いているから語って良いとのこと。ここで書けぬ話もあり、実に面白いトークだったのである。多くのエッセイがあるけれど、ほぼ読んでないので知らないことが多かった。

(撮影=大竹省二)

 生誕百年記念事業は知っていたけど、ほとんど見てる映画なので一度も見に来なかった。世代が違うから、高峰秀子とか原節子京マチ子などの女優は歴史上の人物という感じで、特にファンだとか思ったことはない。多くの名作で主演している女優だから、若い頃から名前は知っていた。というか、『恍惚の人』(1975)とか『衝動殺人 息子よ』(1979)などはリアルタイムで見てる。青春期に見るには鬱陶しすぎたけど、ベストテンに入ったから後追いで見たはずである。若い時から大好きだった成瀬巳喜男監督『浮雲』の印象が強く、忘れがたい女優だったのはもちろんである。ちょっと前に初めて原作を読んだ話は記事に書いた。

(高峰秀子)

 高峰秀子の出演映画について何回書いたかと調べてみたら、『浮雲』『煙突の見える場所』『流れる』『二十四の瞳』を書いていた。もちろんこの前書いたばかりの『ひき逃げ』もある。また『細雪』も第1回目の映画化に出ているから、三度の映画化を比較した時に書いている。だけど現在から見て、映画的にも高峰秀子の演技という意味でも、まず最初の4本が代表作だろう。他に挙げるとすれば『カルメン故郷に帰る』『稲妻』『』『女の園』『張り込み』などがまあ好きな映画。凄いけど好きじゃないのが『喜びも悲しみも幾年月』や『永遠の人』など。戦前の子役時代ではやはり『綴方教室』『』になるだろう。

(『風前の灯』、高峰と小林トシ子)

 高峰秀子を書きすぎたが、木下恵介監督『風前の灯』(1957)は実に変な映画だった。木下監督は作品が多すぎて、何を見てるか見てないかすぐには判らない。そんなバカなと言っている間は「まだ若い」。見始めたら何かこれ前に見てるぞと気付くことがたまにある。木下監督は特にA面、B面の違いが大きい。人気があってヒットもした有名作の後で、軽かったり風刺がキツすぎる小品を作った人である。灯台守夫婦を描いて主題歌も大ヒットした『喜びも悲しみも幾年月』の次に、同じ佐田啓二高峰秀子を夫婦役で作ったコメディが『風前の灯』である。監督は役柄が固定しないようにとあえてこの二人を配役したらしい。

(『風前の灯』、高峰と佐田啓二)

 前作と違って夫婦は仲が悪く、夫の義母(田村秋子)とはいさかいの日々。義母(夫の父の後妻)は溜め込んでいるという話で、それを狙う強盗団が見張っている。東京郊外農村の一軒家だが、朝から騒動だらけで一家には出入りが絶えない。強盗が入るに入れず見張ってるだけなのがおかしい。佐田啓二も高峰秀子もメガネを掛けていて、細かいことを家族で言い合ってる。今じゃないけれど当時は一間だけ貸すことも多く、その下宿娘が朝から畳を焦がす。高峰秀子の妹(小林トシ子)も金を借りに現れ、さらにもう一人の妹も。そこに謎の甥も現れて「てんやわんや」の大騒ぎ。まあ軽い風刺喜劇だけど芸達者が演じて楽しめた。

 登場人物が『喜びも悲しみも幾年月』のテーマ曲を歌ったり、義母が映画に行こうとして新聞を見て「○山節」なんとかって何て読むんだろうと言うのがおかしい。木下の次作(ベストワン)の深沢七郎作『楢山節考』のことである。こういう自己パロディが面白い。この映画は確かにまだ見てなかった。木下恵介はこういう受けないだろう映画を時々作るのが不可思議。

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映画『ひき逃げ』、成瀬巳喜男監督晩年の「イヤミス」

2025年03月20日 22時23分17秒 |  〃  (旧作日本映画)

 国立映画アーカイブの小ホールで、『横浜と映画』という小特集をやっている。その中に成瀬巳喜男監督の『ひき逃げ』(1966)が入っていた。いかにも横浜っぽい映画の中にあって、へえ、これも横浜の映画なのかと思った。見てないので、せっかくだから安い所で見ておくかと思った。結構今でも上映される機会が多いが、見てなかったのは設定が嫌いなのである。

(映画は白黒)

 夫を亡くした高峰秀子は一人で子どもを育てている。しかし、ある日その子がひき逃げ交通事故で死んでしまう。事故を起こしたのは自動車会社の重役夫人だが、夫の命令で無事故を続けていた運転手が身代わりで出頭する。高峰秀子は実は奥さんが運転していたという話を聞き込んで、警察に訴えるが相手にされない。そこで自ら名を変えて家政婦派遣所に登録して、その重役の家庭に潜り込む。自分は子を失ったのに、なんで加害者の子は無事なのか。子どもに復讐しようかとすら思うが、案外子どもに懐かれてしまう。夫人は実は不倫中の相手と乗っていたので真実を言えないのである。ね、イヤな話でしょう。で、どうなるか?

(高峰秀子と弟役の黒沢年男)

 成瀬巳喜男(1905~1969)は戦前から活躍してきた名匠だが、作品数が多くて見てないのが結構ある。(そもそも戦前の無声映画には失われた映画も多い。)『浮雲』『稲妻』『めし』『晩菊』など林芙美子原作の傑作で知られるが、晩年の『女の中にいる他人』『ひき逃げ』(以上1966年)、『乱れ雲』(1967)はどれも困ってしまう設定。前2作はいわゆる「イヤミス」だし、遺作の『乱れ雲』は交通事故の加害者(加山雄三)が被害者の妻(司葉子)に惹かれてしまうというドロドロのメロドラマ。まあ、きめ細かい演出手腕や撮影、照明、音楽などの技術面は非常に見ごたえがある。でも、何だこれという設定に困惑するのである。

(夫人=司葉子と愛人=中山仁)

 僕はこの映画を非常に優れた映画で、ぜひ見て欲しいという趣旨で書くのではない。今度シネマヴェーラ渋谷の成瀬巳喜男特集でも上映があるが、半世紀以上経つと自国の映画であってもこんなに「変」なのかという発見が興味深いのである。先に書いたイラン映画『聖なるイチジクの種』を見ると、イランのイスラム体制というものが実に不可解なことに改めて驚く。『ひき逃げ』で判明する60年代日本も、いわば「映画社会学」的な意味で発見が多かったのである。

 「横浜」映画という意味では、これは黒澤明監督『天国と地獄』と同じである。つまり高台に住み自動車を保有する富裕層とゴチャゴチャした川沿いに住む貧困層が対比される。ただ黒澤作品ほど、横浜の階級差は強調されない。確かに横浜でロケされているが、「交通戦争」に巻き込まれた庶民という60年代日本の普遍的な問題を扱っている。僕も今回の上映があるまで、横浜の映画だとは知らなかった。その上で、「運転者は誰か」「加害者と被害者」というミステリー的な設定で物語を作っている。

 以下具体的な展開を書くけれど、大昔の映画だからいいだろう。高峰秀子の母親は錯乱気味なので、会社弁護士がヤクザの弟(黒沢年男=現在の表記は年雄)と交渉して、示談金120万円で手を打つ。弁護士はこれで罰金で済むかもしれないという。まさか幼い子どものひき逃げ死亡事故で、罰金刑なんてありうるのか? と思うと、裁判シーンになって、何と罰金3万円に執行猶予まで付くのである。罰金刑に執行猶予はありうるのか? 僕は聞いたことがないので調べてみたが、制度上はあるようだが年に2,3件あるかないかだと書いてあった。特に子どものひき逃げは今なら実刑が確実だろう。当時はそんなものだったのか?

 妻の柿沼絹子(司葉子)は愛人がニューヨークに転勤になるので動揺していた。愛人小笠原(中山仁)はもうこれで終わりにしたいと言ってくる。一方、その頃高峰秀子(役名は伴内国子)は家政婦として潜り込もうと考えるが、いくら何でも「本人確認書類」(戸籍謄本など)は要らないの? こんな例は珍しいだろうが、「手癖が悪い」人だっているはずだ。本人確認書類と身元保証人ぐらいは必要なんじゃないか。あの頃はテキトーに名乗っても通用したんだろうか。

 さて、何とか潜入に成功し信用も勝ち取るが、その間にガスストーブの事故を装って夫人を殺そうとしたりする。それは別の家政婦に見つかって失敗するが、ある日一家の主人(小沢栄太郎)が会社の急用で夜に出社した日、もう一回忍び込む。そうしたら、すでに夫人と男の子は死んでるじゃないか! そして、それは殺人とみなされて、高峰秀子は逮捕されてしまう。新聞は大々的に書き立て、警察はひたすら自白を迫る。無実を主張する高峰秀子も、ついに錯乱して「私がやったことにすればいいんでしょう」と警察に屈服してしまい、自分でも犯人だと思い込んでしまう。しかし、何と「遺書」を夫が隠していたことが最後に判明する…。

 この警察の「自白偏重」も凄いものである。この映画が作られた1966年というのは、まさに袴田事件が発生した年だった。運転手が身代わりになった後で、高峰秀子は女が運転していたという近所の証言を聞いて、警察に再捜査を要望する。しかし、警察は「自首して出た者がいる」一辺倒で、「自白」こそ「証拠の王」なのである。少しきちんと証拠調べをしていれば、運転手が犯人だというのは疑わしいことが判るはずだ。例えば当日の運転距離を調べれば、どこへ行ったか詳しい説明が必要になる。もちろん今のようにどこにでも監視カメラがあるという時代ではないけれど、運転手の説明が不自然だと思うんじゃないか。

 この映画では警察捜査のひどさは問題視されない。そんなものだと皆が思っていたんだろう。今なら、仮に真犯人だとしても、こんな暴言、決めつけは許されないという強権的取り調べが行われている。さて、もう一つ夫の「犯人隠避」が問われないのも不思議。今ならひき逃げと同じぐらい大問題になって、社会的制裁を受けるだろう。子どもを道連れにしてしまうことも含めて、トンデモ展開にあ然。これは高峰秀子の夫である松山善三のオリジナルシナリオだが、今になると不思議なことばかり。

(交通事故年齢別被害者の推移)

 もう一つ凄いのは、子どもも信号がない交通ひんぱんな道路を渡っていることである。何で信号がないのか。とにかく凄い車の量なのである。当時だって、道路を渡ろうとする人がいる場合、一時停車するもんだと思うが。交通事故の年齢別被害者の推移が判るグラフを見ると、1960年代前半まで子どもの被害者が一番多かった。子ども数自体が今よりはるかに多かったし、車の方も飛ばしていた。当時は「交通戦争」と呼んでいた。信号も歩道もないんだから、ヒドイものである。すべてルールなき(整備されざる)時代だったのである。後に美化される高度成長期だが、実情はこんなにひどかったことを思い出した方がよい。

 この映画はこの年のベストテン13位になっている。10位が同じ成瀬監督の『女の中にいる他人』。これもイヤな話なんだけど、何でこんな「イヤミス」がこの時代に作られたのか。それを言えば、この年のベスト1は『白い巨塔』だったが、ミステリーじゃないけど、ドロドロの権力ドラマでイヤな話。そもそもこの時期は「イヤミスの帝王」松本清張が作品を量産していて、続々と映画化されていた時期である。高度成長の中で格差が拡大し、新時代に適応する人と取り残される人々の葛藤というテーマが共感を呼んだのだろう。清張作品もおおよそは恵まれないものの恨み辛みが事件の裏にある。イヤミス耐性がある人はチャレンジを。

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闘うヒロイン、女たちのアクション映画が量産された時代

2025年03月15日 22時34分18秒 |  〃  (旧作日本映画)

 アカデミー賞で作品賞など5冠を獲得した『ANORA アノーラ』のショーン・ベイカー監督が来日して、3月8日に舞台挨拶を行った。その時に梶芽衣子がサプライズで登場して花束贈呈を行った。なんと監督は主演女優のマイキー・マディソンに、役作りの参考にと梶芽衣子主演の『女囚701号 さそり』(1972)を渡したというのである。いや、それは映画を見たときには考えもしなかった。共通点はあるにしても、マイキー・マディソンは狭義の「アクション」で復讐しようとするわけじゃない。しかし、半世紀を超えて70年代日本の「闘うヒロイン」映画が21世紀のアメリカ映画にインパクトを与えたというのは興味深い。

(ショーン・ベイカー監督と梶芽衣子)

 梶芽衣子(1947~)は僕も昔からファンで、一度「トーク&ライブ」に行ったこともある。『梶芽衣子トーク&ライブ』に書いたが、ブログ開始半年程度で画像もない愛想のない記事を量産していた時期だった。日比谷図書館がリニューアルした時の記念で、梶芽衣子は神田出身、銀座でスカウトされたと東京都心部に縁が深いのである。元々は日活の俳優で、本名太田雅子でデビューした。60年代末の「日活ニューアクション」と呼ばれた『野良猫ロック』シリーズなどで活躍した。そのシリーズは大好きだけど、さすがに同時代に見たわけじゃない。梶芽衣子も東映映画の『さそり』シリーズでブレイクしたと言って良いだろう。

(『さそり』シリーズの梶芽衣子)

 伊藤俊也監督のデビュー作『女囚701号 さそり』は評判になって大ヒットし、監督は日本映画監督協会新人賞を受けた。この年藤純子が結婚して引退、東映は新しい女性スターとして梶芽衣子に目を付けたのである。1973年には東宝で藤田敏八監督の『修羅雪姫』も公開された。この映画はクエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』に深い影響を与えている。その当時映画ファン初心者だった者として、半世紀後にこんなことがあるとは予想もしなかった。僕も『さそり』シリーズは当時見たが、見たのは名画座。東映の映画館は高校生には金銭的にも雰囲気的にもハードルが高くて、ほとんど行ってないからだ。

(『修羅雪姫』)

 当時の日本映画には、「女性主人公のアクション映画」がいっぱいあった。世界映画史、大衆文化史の中でも珍しいんじゃないだろうか。世界中どこでも男性スターのアクション映画は無数に作られてきた。70年代頃のアメリカのシリーズ映画(『ダーティ・ハリー』『ロッキー』『ダイ・ハード』など)は皆男性スターの映画だった。最近でこそ『マッドマックス』シリーズや『キック・アス』など女性が主演したアクション映画もあるけれど、70年代には考えられない。インド映画も最近無数に公開されているが、その大部分は男性スターのアクション映画である。女性が活躍しているアクション映画はほぼないと思う。

 (藤純子の「緋牡丹博徒」)

 なぜ70年代日本映画に「闘うヒロイン」映画が量産されたのだろうか。日本社会、あるいは日本映画界で女性進出が世界に先駆けて進んでいたわけではもちろんない。日本社会ではむしろ女性の活躍が遅れていたし、今も遅れている。じゃあ何故だろう? 当時の外国映画では香港のキン・フー監督『侠女』ぐらいしかないというのに。直接的には藤純子の影響が大きいと思う。藤純子とその実父俊藤浩滋については、『おそめ』の記事で紹介したことがある。たまたま撮影を見に行ってスカウトされた藤純子は、60年代末には事実上高倉健、鶴田浩二に次ぐ第三のスターになっていた。藤純子の成功を見て、大映の江波杏子なども活躍した。

(江波杏子)

 しかし、藤純子、江波杏子の映画はは当時人気を誇っていた「任侠映画」だった。「ヤクザ」もギャングだとはいえ、任侠映画には独特のお約束があって海外では理解が難しいだろう。それに藤純子のアクションも、時代劇の殺陣(たて)と同様に「日本舞踊の様式美」である。映画を作っているスタッフも主に男性で、「ジェンダー平等意識」なんかなかっただろう。梶芽衣子のヒット作の原作も、『さそり』は篠原とおる、『修羅雪姫』は小池一夫上村一夫の劇画だった。それは女性の価値観を反映したものじゃない。しかし60年代末の反体制、反権力的な空気が濃厚に漂っていて、世界で受けた原因になったのではないか。

(杉本美樹『0課の女 赤い手錠』)

 1974年にはもう一つの忘れがたい「闘うヒロイン」映画が作られた。杉本美樹が主演した『0課の女 赤い手錠(わっぱ)』(野田幸男監督)である。杉本美樹は「日活ロマンポルノ」と張り合った「東映ポルノ」で活躍したというが、僕はこの映画が初めて。大好きな映画で何度か見ているが、いくら何でも演技がまずいと思いつつ、見てるうちにのめり込んでしまう。この映画も篠原とおるの劇画が原作である。さて、70年代頃から「少女漫画」が話題になっていくが、ジェンダーをめぐる漫画・劇画の歴史的研究も大事だろう。70年代半ばになると、様式的アクションを越えるスターも現れてきた。志穂美悦子である。

 (志穂美悦子)

 志穂美悦子は千葉真一が作った「ジャパン・アクション・クラブ」出身で、ホンモノのアクションスターだった。70年代はブルース・リーに始まる香港カンフー映画が世界でヒットし、日本でも女子プロレスがブームになっていた。もはや女性が体を張ってアクションをこなすのは、意外でも何でもなくなっていた。(しかし、まだそれらは「マトモ」とは思われず、端っこの文化だったと思うが。)ところで、これらを見ていたのは誰だろうか? 藤純子、梶芽衣子らの映画は主に男性ファンが見に来ることを目的に作られていた。実際、東映のアクション映画は(日活ロマンポルノほどじゃないとしても)女性観客が見に行くのは難しい。

 文学研究における「読者論」のような意味で、映画の「観客論」も大事になる。映画雑誌やファンクラブなどの分析が必要だろう。梶芽衣子が脚光を浴びたのをきっかけに、ちょっと70年代の「闘うヒロイン」映画をふり返ってみた。それは「男性」によって「男性観客」のために作られたものだったが、濃厚な反権力的意識に基づく「復讐」というテーマが今も世界に通じているんだろうと思う。しかし、映画を見直し、諸資料に当たって、きちんと調べる意欲はもうないので、若い大衆文化史研究者のために思いつきを書いてみた次第。こういう映画があって、現在の『ベイビー・ワルキューレ』シリーズなどが出て来たと思う。

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雷蔵の『ある殺し屋』に小林幸子が出ていた話ーニッポン・ノワールをめぐって

2025年02月15日 22時05分21秒 |  〃  (旧作日本映画)

 1月に「市川雷蔵映画祭」をやっていた。雷蔵は今も高い人気を誇り、時々特集上映が行われている。市川雷蔵(1931~1969)は60年代末に僅か37歳で亡くなったが、ファンの心に深く記憶されているだろう。歌舞伎界から映画に入り、大映を代表する時代劇スターとなった。同じく大映を支えた大スター、勝新太郎の『座頭市』シリーズが暑苦しい感じなのに対し、雷蔵はクールでニヒルな魅力が際立っている。「ニヒル」(虚無的)なんて言葉は最近聞かないけど、雷蔵にふさわしい。

 僕は昔から好きで、特に三隅研次監督の『斬る』などの映像美にしびれてきた。代表作『眠狂四郎シリーズ』は何しろ主人公が転びバテレンの子どもという設定(原作柴田錬三郎)で、ニヒリズムが全編を覆っている。ということで何本か見ようと思ったんだけど、まだ見てなかった歌舞伎原作の映画(『お嬢吉三』『弁天小僧』など)の他は、現代もの『ある殺し屋』(森一生監督)しか、見なかった。結局見てる映画を再見するのも時間的、金銭的についおっくうになってしまうのである。

 雷蔵は時代劇スターの印象が強いが、現代劇にも幾つか出ていて、洋服姿も決まっている。市川崑監督『炎上』(三島由紀夫『金閣寺』の映画化)や同じく三島原作の『』(三隅研次監督)など「文芸映画」にも良く出ている。(市川崑『破戒』や増村保造『華岡青洲の妻』も文芸映画の傑作。)一方エンタメ系現代劇としては、『陸軍中野学校』シリーズと『ある殺し屋』シリーズがある。どちらも現代を生きる眠狂四郎みたいなニヒルな主人公の非情な言動が心にグサッと刺さり、エンタメを越えている。

(雷蔵の「眠狂四郎シリーズ」)

 『ある殺し屋』シリーズと言っても、『ある殺し屋』『ある殺し屋の鍵』(どちらも1967年、森一生監督)しかないけれど、「ニッポン・ノワール」映画史上に輝く屈指の傑作である。今回久しぶりに見直したところ、成田三樹夫野川由美子の存在感が案外大きく、コミカルな描写もあって意外だった。記憶では完全に「非情な主人公」だけ描いていたように思い込んでいた。藤原審爾原作がそうなってるのかもしれない。それでも宮川一夫の撮影がいつものように見事で飽きさせない。傑作「ノワール映画」になっている。しかし、今回記事を書いているのは、この映画に小林幸子が出ていることを「発見」したからである。

(成田三樹夫、野川由美子と)

 前に見た時は全然気付かなかったが、この時は最初に出てくるクレジットに「小林幸子」をあるのを見つけた。年齢的にあの演歌歌手じゃなくて、同姓同名だろうなあと思った。しかしある場面で歌手の小林幸子っぽい出演者を見た気がした。ホントに本人? 調べてみると、小林幸子は1953年生まれである。映画は1967年公開なんだから、それでは14歳ではないか。しかし、Wikipediaには小林幸子出演と出ていたのである。役柄は雷蔵がやってる小料理屋の店員である。裏の仕事が「凄腕の殺し屋」である雷蔵の表の顔は料理屋の主人である。実際に魚をおろしているシーンがあって貴重。

(小林幸子と野川由美子)

 野川由美子が無銭飲食しているところを雷蔵が助け、懐いて付いて来てしまう。店員は私がやるからあんたは首と勝手に言い渡し、野川由美子は店に居付いてしまう。その時に追い出されるだけのチョイ役が小林幸子だった。Wikipediaを見ると、1964年に古賀政男事務所からデビューして、66年から68年までは日本テレビの『九ちゃん!』というヴァラエティ番組のレギュラーだった。『座頭市二段斬り』(1965)、『酔いどれ博士』(1966)という2本の勝新映画にも出ていた。

 そして3本目が『ある殺し屋』で、その次の『男はつらいよ 拝啓車寅次郎様』(1994)まで映画出演はない。小林幸子と言えば、1979年から2011年まで続いた紅白歌合戦連続出場における超豪華衣装ばかり思い出されるが、そんな子役時代があったわけである。60年代末期は高校進学率がようやく7割を越えた頃で、中卒で働いている店員はいっぱいいただろう。もっとも14歳では若すぎるが、まあそういう役どころではないかと思う。とても小さな役で今まで気付かなかったのも仕方ない。

 ところで「ノワール映画」というのは、本来アメリカのB級犯罪映画をフランスの批評家(監督デビュー前のトリュフォーなど)が名付けた映画史的背景がある。あまり定義を広げるのもどうかと思うが、世界的に「ノワール」(フランス語で黒)としか呼べないようなジャンル映画があるのは間違いない。ギャングやヤクザが出て来る映画は無数にあるが、『ゴッドファーザー』や『仁義なき戦い』は「ノワール」ではない。組織を描くことが主眼だからである。

 「ノワール」は「個人」に即して、その「犯罪」を非情に見つめるハードボイルド精神が真骨頂である。「ニッポン・ノワール」をあえて選ぶなら、『拳銃(コルト)は俺のパスポート』(野村孝監督)がベストじゃないかと思う。村川透監督、松田優作主演の『遊戯シリーズ』、そして『ある殺し屋』などが続く。喜劇で知られる瀬川昌治監督の東映映画『密告(たれこみ)』という知られざる名品もある。日活アクションや東宝アクションなどにも「ノワール」色が濃い映画が何本もある。(鈴木清順監督の『東京流れ者』や『殺しの烙印』は「ノワール映画のパロディ」的な映画で、「ノワール映画」そのものとは違う気がするが。)

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「反復」する人生、懐かしさの正体ー『男はつらいよ』考③

2025年01月23日 22時39分58秒 |  〃  (旧作日本映画)

 『男はつらいよ』シリーズを考えるシリーズ3回目(最後)。今回見送るつもりだった第9作『男はつらいよ 柴又慕情』(1972)もついつい再見してしまった。吉永小百合がマドンナ役になったこともあり、シリーズ屈指の人気作である。おいちゃん役の森川信が72年3月に死去して、松村達雄に代わったことでも重要。(松村は5作に出演して終わって、14作以後は最後まで下條正巳が演じた。)おいちゃんは亡くなったままという設定も考えたそうだが、結局代役を立てたのは「バカだねえ、あいつは」「ああ、やだやだ」と口走る人物が必要だったということだろう。

(『柴又慕情』)

 さて、喜劇とは「反復」である。チャップリンの時代から、コメディ映画ではセリフ、体技、シチュエーションなどで、主人公が同じようなことを繰り返すのがおかしかった。落語の登場人物も、自分の失敗を性懲りもなく繰り返す。それも次第にレベルアップ(レベルダウンというべきか)していくのがおかしいのである。『男はつらいよ』シリーズも、ベースはおなじことの反復で、寅さんが周囲の美女に惚れては失恋してまた旅に出る。展開が判っているのにおかしいのは、渥美清の演技と山田洋次の演出が洗練の極みに達していることが大きい。また周囲の脇役のアンサンブル演技も完成されていて見事というしかない。

(御前様の「バター」シーン)

 ギャグの幾つかは作品を超えて受け継がれている。有名なものでは「バター!」がある。第1作で御前様とその娘冬子に出会って、寅さんが写真を撮ろうとする。笠智衆が例によって堅物なので、「御前様笑ってくださいよ」と寅が口をはさむと、シャッターを切るときに御前様が「バター!」と言うのである。その時初代マドンナ光本幸子が実に上品に笑うのが印象的だ。写真の時に「チーズ」というのがいつ頃からか知らないけど、ある時期まで「欧米風」のことを「バタ臭い」と表現していた。バターが臭かったぐらいだから、チーズはもっと臭いとして食べられない人も多かった。まだ宅配ピザ屋などなかった時代である。

 バターとチーズを混同するのは、今じゃ通じないかもしれないが、70年代初期にはまだ同じように「臭い物」として同一視する人も多かった時代である。そのギャグを今度は寅さんが使うことになる。第1作ラストのさくらの結婚式、集合写真を撮るときに寅が「バター!」というので皆爆笑になる。ところでこのギャグが『柴又慕情』で再現される。吉永小百合たち3人組と北陸で一緒になって、記念写真を撮ろうとしたとき、寅さんが「バター!」と言うのである。3人とも笑い転げるのだが、有名作家の父と確執を抱えて旅に出ていた歌子(吉永小百合)があまりのおかしさに笑顔を取り戻して寅さんに感謝する展開になる。

(『柴又慕情』の「バター」シーン)

 「反復」という点では「音楽の力」も『男はつらいよ』シリーズを支えた重要な要素だ。作曲家山本直純(1932~2002)が全作を手掛けた。主題歌のメロディはほとんど全国民が知っているんじゃないだろうか。山本直純がいかにすごい人物だったかは、岩城宏之『森のうた』という本に描かれている。テレビ番組「オーケストラがやって来た!」の司会や森永チョコのCM(「大きいことはいいことだ」が流行語になった)などで当時は多くの人が顔を知っていた。主題歌のテーマは映画内で何度も流れるが、同時にもっと抒情的なメロディもここぞというシーンで何度も使われる。『ゴジラ』や『仁義なき戦い』シリーズを越えて、シリーズ映画史上一番耳に残るメロディじゃないだろうか。一度見るとつい口ずさんでしまうのである。

(山本直純)

 しかしながら、48作はさすがに多い。僕もあまりの「反復」ぶりに、最後の方はもう飽きてしまってほとんど見なかった。世の中には「盆と正月は寅さん」という人も多かった時代で、「安心して見られる映画は他にない」と言う人もいた。確かに東映実録映画や日活ロマンポルノと同時代の映画なのに、暴力シーンもセックスシーンもない。だから「家族で見に行ける」わけだけど、同時代の僕は「安心して見られる映画なんて映画じゃない」と思っていた。「危険な映画」こそ魅力的なのである。リアルタイムで安部公房や大江健三郎の新作を読み、大島渚や今村昌平、寺山修司らの映画を見ていたんだから当然だろう。

 なにゆえに、見なくてもまた寅さんが失恋すると判っている映画を見に行くのか。世界にはもっと面白い映画や演劇、音楽や美術がいっぱいあるじゃないか。それが「若い」ということだろうと今は思う。人生は「一回性」だからこそ、「反復」は嫌いだったのだ。だが年齢を重ねるにつれ、「反復」もまた面白いという気になってきた。そう思わない限り寄席なんて楽しめない。何度も通えば同じ落語を聴くことも多くなるし、色物の大神楽や奇術なんかほとんど同じである。それが楽しいのだ。

 思えば自分の人生も(誰の人生も)「反復」である。いや、もちろん毎日毎日は日々新たな一日なんだけど、それは「同じような一日」である。もちろんその日初めて見る映画もあるし、初めて読む本もある。だけど、長く生きていればそれは「昨日と同じような一日」なのである。仕事をしていれば、毎日新しく「働く喜び」を感じるわけがない。食事や家事・育児・介護なんかも、同じではないけれど「毎日が似ている」。そして自分もまた一日が積み重なって老いていく。「夜トイレに起きてしまう」とか「血圧が高くなってしまう」とか、そういう話は聞いていたけどやっぱり同じことが自分にも起こるのである。

 つまり自分の人生もまた「世界全体の反復の一部」だったのである。最初に『男はつらいよ』シリーズが終わったこの30年間をどう考えるかと書いた。僕は根が社会科教員なので、つい「グローバル化」とか「情報社会化」とか考えてしまう。もちろん、『男はつらいよ』シリーズには携帯電話が出て来ないし、柴又には外国人観光客がほとんどいない。この30年で世界も日本も大きく変わったけれど、自分の問題で言えば(あるいは誰にとっても)30年間で一番大きな出来事は「自分が30歳年をとった」ことだ。その結果、自分は「何者か」になって、「何事か」をしたわけである。

 僕が70年代にリアルタイムで、初期のシリーズ、特にリリー3部作の2本(「忘れな草」「相合い傘」)を見た頃、自分はまだ何者でもなかった。まあ「学生」も何者かではあるが、就職も結婚もしていなかった。それを逆に言えば、何者でもないことによって今とは別の自分になる可能性も存在していた。その可能性はもうないわけで、自分は何者かになってしまった。別に後悔するとかではないけれど、そういう風に人生の時間が進んで行ったのである。ところが『男はつらいよ』シリーズは、70年代、80年代を超えて続き、その間ずっと寅さんは何者にもならなかった。だからずっと出会った誰かを好きになっても許された。

 この「寅さんがいつまでも何者でもないこと」が懐かしいのである。もちろん画面には今では見られなくなった幾つもの風景が残されている。それも見るだけで懐かしいわけだが、その風景を寅さんが歩いてきてテーマ音楽が流れると、「パブロフの犬」のように自分がまだ何者でもなかった時代が自然に思い出されてくるのだ。それなりに一生懸命取り組んだこと、自分も家族(ペットも)若かった頃、好きになった人、失恋した人…「寅さん」が「反復」だからこそ、思い出してしまうわけだ。

(山田洋次監督)

 寅さんはどこにも「居場所がない」。柴又に帰っても、定着せずに旅に出る。時々定職に就こうとするが、やっぱり無理で辞めてしまう。いや、そういう人生を望むわけじゃないけれど、心の奥底に「自分の本当の居場所」を探し続けている人はいっぱいいるだろう。そのような「漂泊」の思いはどこから来たのだろうか。それは山田洋次監督の「引き揚げ体験」に原点があるのではないだろうか。山田監督は「外地」育ちではないが、戦時中に疎開していて戦後大連から帰還してきた。外地から引き揚げた体験は戦後日本に大きな影を落としてきた。安部公房の小説、別役実の演劇に描かれた「居場所がない」不安感。山田洋次が創作した「寅さん」の居場所なき絶えざる放浪も、また日本人の戦争体験による喪失感が生んだ「不条理文学」なのではないか。

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リリー3部作と「漂泊の魂」ー『男はつらいよ』シリーズ考②

2025年01月22日 22時38分58秒 |  〃  (旧作日本映画)

 『男はつらいよ』シリーズを考える2回目。今回第3作の『男はつらいよ フーテンの寅』を見たのだが、これはなかなか映画館で見る機会が少ない。僕も前に見ているとは思うが、細部はほぼ忘れていた。というのも山田洋次監督は正続2作で一端終わりと考えたようで、3作目はシナリオは書いたものの演出を森崎東監督に任せたのである。寅さん特集上映が企画されるときは山田監督作品が中心になり、一方森崎監督特集も時々あるけれど山田色が強いこの作品は除かれやすいのである。

 この映画は三重県の湯の山温泉が舞台になっている。おいちゃん、おばちゃんが久しぶりに骨休みで温泉に行くことになる。今頃寅はどこでなにしてるやら? やだよ、旅先で会っちゃったりしたら…なんて会話しながら旅館に入るとコタツが点いてない。フロントに電話すると飛んできたのが寅さんだった! という、当然そうなると予想通りの「悪夢の展開」。旅先で病気になった寅を親切に看病してくれた旅館の女将。寅さんはその女将新珠三千代に一目惚れして居付いてしまったのである。

 1928年生まれの渥美清に対し、新珠三千代は1930年生まれだから、年齢的には釣り合っている。当時50~60年代に映画各社で活躍した女優は映画界の衰退と年齢的問題で、舞台やテレビに活躍の場を移していた。新珠三千代は宝塚出身の美人で、テレビの『氷点』や『細うで繁盛記』で大人気だった人である。だから、観客が二人をある種の「身分違い」と認識するのは当然だ。片方は亭主に死に別れた美人女将、もう片方は定職もないテキ屋である。この恋もまたまた失恋に決まっている。

(ハイビスカスの花)

 シリーズのマドンナ役には多くの女優が出たが、当初のマドンナには3作目の新珠のような、年齢は釣り合うが設定と芸歴が釣り合わない「大女優」が多く出ている。若尾文子池内淳子八千草薫岸惠子京マチ子香川京子らで、当然結ばれるはずもない。一方、1973年8月公開の『男はつらいよ 寅次郎わすれな草』のマドンナ浅丘ルリ子(1940~)はちょっと違っていた。当初山田監督は北海道の酪農農家という役をオファーしたが、浅丘は自分の体格からそれは無理で、お化粧もせず牛の世話をする役は自分に合ってないと断ったという。そこで山田監督は再考して「さすらいの歌姫松岡リリー」という役に書き換えたのである。

 今回第25作『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』(1980)を再見したが、これはリリー3部作の3作目。(リリー出演作は4つあるが、最終作の『寅次郎紅の花』は設定が特別なので除く。)いま「さすらいの歌姫」なんてカッコよく表現してしまったが、実は地方のキャバレーを歌い歩くドサ回り歌手である。博がたまたまキャバレーの募集広告を小岩(江戸川区)に届けると、リリーに偶然出会う。帰ってから柴又の皆は「リリーさんみたいな人がお兄ちゃんと一緒になってくれていたら」と語り合う。と思うと突然リリーから沖縄で病気になって入院中という速達が来た。飛行機嫌いの寅も何とかすぐに駆けつけるのだが…。

(忘れな草)

 寅とリリーの関係は「身分違い」とは言えない。テキ屋とドサ回り歌手は、まあちょっと違うかも知れないが、本人どうしが好き合うなら周りも反対しないだろう。もちろん二人が幸福な結婚をして寅さんが定職に就いてしまったら、シリーズは終了である。エンタメシリーズの展開上も、またドル箱を失えない松竹の営業事情からも、寅さんとリリーは結ばれてはならない。しかし、それ以前の多くの作品では、明らかに「釣り合わない」ゆえに寅の懸想はまたも報われないと観客皆が予想出来た。しかし、その展開はリリー3部作では使えないのである。ではどういう事情、論理から二人は結ばれなかったのかを具体的に見てみたい。 

 『寅次郎忘れな草』(1973)の冒頭、網走で寅とリリーは出会ってお互いの浮草稼業を語り意気投合する。東京へ来たら柴又を訪ねておいでと別れた二人。実際にリリーはとらやを訪ねて歓迎される。ある夜リリーは酔っ払って柴又に現れ、寅さんに一緒に旅に出ようと誘うが、寅さんは一歩を踏み出せず、ここは堅気の家だから深夜は静かにとたしなめる。翌日リリーのアパートを訪ねるが、もうその時は引き払った後だった。その後とらやにハガキが着き、リリーは寿司職人と結ばれ店を持ったという。寅が訪ねると、リリーは「本当はこの人より寅さんが好きだった」と冗談のように言う。リリーの相手は毒蝮三太夫なんだから、こんなことを言っちゃ何だけど渥美清と結ばれていても全然おかしくないのである。

(相合い傘)

 僕だけでなく多くの人がシリーズ最高傑作と考える第15作『寅次郎相合い傘』(1975)。冒頭で離婚したリリーは再び柴又を訪ねるが、寅さんいなかった。その頃寅は「蒸発」中の会社役員船越英二と出会って北海道に渡る。北へ向かったリリーは函館でこの二人と出会い、三人の珍道中となる。しかし、船越の初恋の人を訪ねた後で寅とリリーは女の幸福をめぐって口げんかとなって、リリーは去って行く。柴又へ帰った寅だが、そこへリリーも来て仲直り。周囲もあの二人のケンカは夫婦げんかみたいという。ついにさくらはリリーに対し「お兄ちゃんの奥さんになってくれたら素敵」と発言するのである。それに対して、リリーは真剣な顔になって「いいわよ。あたしみたいな女でよかったら」と述べたのである。シリーズ屈指の名シーンだろう。

(浅丘ルリ子のリリー)

 ところが帰って来た寅さんは、それを「冗談だよな」と決めつける。そこでリリーも「冗談に決まってるじゃない」と返して去る。さくらは追いかけろと言うが、寅は二人は「渡り鳥」だという。漂泊者である寅とリリーは結ばれても幸福になれないだろうと示唆するのである。これはある意味正しい認識だと思う。第25作『寅次郎ハイビスカスの花』(1980)では病気になったリリーを沖縄に訪ねた後、退院した二人は同じ家に暮らして療養する。その後またケンカしてリリーは寅を置いて東京へ戻る。寅も戻ってきてリリーと再会する。沖縄じゃ幸せだったと言うリリーに、寅も「俺と所帯を持つか」とまで言うのだった。

 このように二人はほとんど結婚直前の関係にあった。だが、この二人が結ばれないのは寅さんが臆病だったということではなく、もちろんシリーズを続けさせるためでもない。二人が結婚していたとしても、その後幸福に添い遂げたとは思えない。きっとまたケンカして、寅さんは行商の旅に出て行ってしまうだろう。そういう性格設定になっているからだ。そのような「社会不適応者」としての寅さんに我々は惹かれるのだ。その孤独がリリーの存在によって、くっきりと浮かび上がる。リリーだって同じようなもので、やはりまた歌手に戻ったのではないか。リリーが登場したことで、物語の哀歓はグッと深くなったと思う。

 そして「思い合っていても結ばれない関係」という若い時にはよく理解出来なかった心理が、今はただただ懐かしく感じる。好きなら結婚しちゃえばいいじゃないかと昔は思ったが、その後の人生行路を経てそういうもんでもないと思うようになった。そして、居場所を求めてさすらいながら幸福がつかめそうになると自分から遠ざけてしまう寅さんが我が事のように思われるようになった。自分の中にも漂泊の魂があって、ここは自分の本当の居場所じゃないと語りかける。だが今いる場所で頑張り続けることでしか未来は開けない。そうやって年を重ねてきたけれど、年齢とともにますます寅さんとリリーの切なさが身に沁みるのだ。

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『男はつらいよ』第1作と「身分違いの恋」ー『男はつらいよ』シリーズ考①

2025年01月21日 22時20分06秒 |  〃  (旧作日本映画)

 2024年は『男はつらいよ』シリーズが始まって55年ということで、幾つかイヴェントも行われた。それには行ってないんだけど、2025年になって池袋・新文芸坐で4本上映しているので見てきた。(下の画像にあるクリアファイルをくれた。)今年最初に書いた記事で指摘したが、『男はつらいよ』シリーズ最終作が公開されたのは1995年12月だった。阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が起きたあの忘れがたき年は、『男はつらいよ』が終わった年でもあったということにはどんな意味があるんだろうか。僕はそのことをずっと考えている。そこで幾つか再見して感じたことを何回か書いてみたい。

(男はつらいよクリアファイル)

 まず『男はつらいよ』第1作(1969)を取り上げる。まあ第1作と言っても、それは映画版第1作ということである。よく知られているように、それ以前の1968年~69年にフジテレビで全26話のドラマが製作されていた。最終作で寅さんは奄美大島でハブに噛まれて死んでしまった。しかし、終了後に抗議の声が殺到し、それが映画化につながった。渥美清森川信(おいちゃん)は共通するが、さくらは長山藍子、博は井川比佐志、おばちゃんは杉山とく子だった。映画ではさくらは倍賞千恵子、博は前田吟、おばちゃんは三崎千恵子だった。さくらの倍賞千恵子は欠かすことが出来ないキャストとなったと言える。

(第1作)

 第1作を見るのは多分3回目。1970年代半ばに作られたシリーズ10番台に傑作が多くベスト級だと思ってきたが、改めて第1作を見るとこれも素晴らしい傑作だ。もちろん公開当時に見たのではなく、若い頃にどこかの名画座で見たんだろう。その後2019年の50年記念の時に見直したと思う。続けていっぱい見ると、このシリーズは皆同じじゃないかとつい思うんだけど、今回は「公開当時の2本立て再現」という不思議な企画である。だから『喜劇・深夜族』『祭りだお化けだ全員集合!』『思えば遠くへ来たもんだ』等の映画も見たのである。それぞれなかなか面白いけれど、映画の完成度は『男はつらいよ』第1作が飛び抜けている。

 帝釈天のお祭りの日、20年ぶりに寅さんが柴又に帰ってくる。そのお祝いで飲み過ぎて、おいちゃんは次の日二日酔いである。そのため予定されていた妹さくらのお見合いに行けない。さくらは丸の内にある大企業オリエンタル電機の「BG」(当時はOLをビジネスガールと呼び、セリフもそうなっている)で、重役の御曹司がさくらを見初めてお見合いとなったが、さくら本人は実は乗り気ではない。やむを得ずおいちゃんの代わりに寅さんが同行し、その結果無作法な言動を繰り返してしまう。(ここは何度見ても実におかしい傑作シーン。)そして、案の定お見合いは断られてしまうわけである。

(初代マドンナ光本幸子)

 家族が寅さんの所業を責めたてたので、寅はプイッと家を出ていってしまう。そして行方も知れず数ヶ月。突然御前様の娘、坪内冬子から団子屋にハガキが届く。親子で奈良を旅行していたら寅さんに偶然出会ったというのである。冬子を演じたのは光本幸子(みつもと・さちこ、1943~2013)で、若い頃から劇団新派や日本舞踊で活躍してきた人である。これが映画初出演で、結婚・育児で休業した期間が長かったこともあり(その復帰するも舞台が中心だった)、今では知らない人も多いだろう。とても存在感がある演技を披露していて、寅さんならずとも惹かれていってしまうのも無理はない。

 ということで寅は御前様親子にくっついて、そのまま柴又に帰ってきてしまった。その後は何かと用を作っては寺に顔を出す日々。柴又の人々は「寅の寺参り」と呼んでいるという。一方、その頃裏の印刷会社に勤める博がさくらに惹かれていた。しかし、戻ってきた寅さんは「職工風情に妹をやれるか」と暴言を吐き、会社の壁に「寅の暴言を許すな」と書かれる。似顔絵もあって笑える。結局すったもんだがあって寅と博の「川船の決闘」となる。一時は柴又を去ろうとしていた博をさくらが追っていき、帰って来たさくらは「私、博さんと結婚する」と宣言する。結婚式は有名な川魚料理屋「川甚」で行われることになった。

 このように『男はつらいよ』第1作は、「身分違いの恋」をめぐって展開される。妹さくらをめぐる「上司から来たお見合い」と「裏の印刷会社の労働者」、そして「寅さんと冬子さん」である。もちろん戦後日本には「身分」などないわけだが、実質的には「結婚をめぐる家の釣り合い意識」は残り続けた。そしてさくらに関しては、「本人どうしが好き合っていることが第一」という価値観が実現する。一方、寅さんの場合は「学歴も定職もない」男である。実際冬子は大学教授との縁談が進んでいて、これは「身分違い」というのとはちょっと違うけれど、寅さんにとって冬子が「高嶺の花」であることは観客皆が理解している。

(寅さんは家族の会話を聞いてしまう)

 「身分違いの恋」は古今東西を問わず大衆芸能の大きなテーマだった。近世日本の心中もの、あるいは泉鏡花の『婦系図』(おんなけいず)、あるいは洋画の『ローマの休日』など幾つもの物語に変奏されてきた。中でも日本では戦時中に作られた映画『無法松の一生』が思い出される。何度も映画化、舞台化された名作だが、そこでは人力車の車夫が高級軍人の未亡人に憧れてしまう。戦争中は許されない設定として検閲で大事なシーンが削除されてしまった。「車夫風情」が軍人の未亡人に懸想するなどあってはならないことだった。『男はつらいよ』はそういう定型的テーマのパロディとして成立している。

 寅さんを演じる渥美清(1928~1996)は浅草のコメディアン出身だが、その前に実際にテキ屋をしていたこともあったらしい。50年代末からテレビに出始めて、テレビ勃興期に大活躍していた。寅さんを演じる前にテレビを通して多くの人が知っていて、僕も見た記憶がある。その時は「おかしな顔」で売っていて、よく「ゲタ顔」と言われている。これは三枚目コメディアンにとって大切な資産である。しかし、『男はつらいよ』では無学なテキ屋という設定なので、教養ある美人に思いを寄せても実らないことになる。観客は皆渥美清の芸風を知っていて、実らぬ恋に身を焦がすのを見て面白がるのである。

 第一作で行われるさくらと博の結婚式はとても感動的だ。かつて衝突して家を飛び出た過去があり、博の親は来ないと言われていた。しかし、父親の諏訪飈一郎が夫婦で現れたのである。この名前が読めず皆困ってしまう。(「ひょういちろう」である。)志村喬が演じていて、北大名誉教授となっている。その後も8作目と22作目に登場し、なかなか重要な役を果たす。博の父の前に、帝釈天の御前様が寅の幼き日の所業をバラす祝辞を述べる。これは笠智衆が演じているから、小津映画を象徴する笠智衆、黒澤映画を象徴する志村喬がともにスピーチして、『男はつらいよ』船出を祝うという映画史的奇跡なのである。

 ところで、この「身分違い」問題は、リリーシリーズではどのように描かれていくのか。次に考えてみたい。

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『がんばっていきまっしょい』、原作と映画とアニメを比べると

2024年11月23日 22時51分23秒 |  〃  (旧作日本映画)

 最近アニメになって再び注目された『がんばっていきまっしょい』。1998年に公開された実写版映画を久しぶりに見たので、原作も含めて比べてみたい。池袋の新文芸坐の「アルタミラピクチャーズ31周年記念上映」という不思議な企画で、磯村一路(いそむら・いつみち)監督の『がんばっていきまっしょい』が上映された。監督に加えて、田中麗奈等出演女優4人のトークもあり、原作者(敷村良子)も来ていて豪華な顔ぶれに大満足。きっとすぐ満席になると見込んで、予約が可能になる一週間前午前0時過ぎにすぐ押さえた甲斐があった。(0時5分頃にすでに3分の1ほど埋まっていた。夕方に見たら、ほぼ満席だった。)

(1998年の映画)

 この映画は「部活映画」の最高峰だと思う。愛媛県の進学校に合格したもののやる気が湧かない主人公が、ボート部に入ろうと思う。しかし、ボート部に男子はいるものの女子部員はいなかった。そこで「作れば良い」と開き直って、新人戦までという条件で1年生4人を見つけてくる。最初は体力もなく、ボートも自分たちで運べない。実際に海に出てみれば、全く思うようには動かない。そういう様子を瀬戸内海の美しい景色の中に描き出す。学業の悩み、淡いロマンスなども織り込みながら、ついに新人戦がやって来て…。ボロ負けしたところで終わるはずが、「これでは止められんね」と皆の闘志に火が付くのだった。

 その後ビリは脱するものの、その後どこまで勝てるのか。原作、実写映画、アニメ映画で全部展開が違うので、今後接する人のため書かないことにする。この映画の素晴らしさは、瀬戸内海で実際に10代の俳優がボートを漕いでいるということにある。それは小説でもアニメでも不可能だ。当初のぎこちなさも含めて、「青春」という至上の瞬間が映像に封じ込められている。時間的な問題もあり、進路や恋愛など定番的設定は最少にして、ボートの練習や試合が中心となっている。体力、技量、健康問題など幾つもの困難を抱えながら、ここでは終われないと何とか頑張る。そのひたむきさが年齢を超えて訴えてくるのである。

 この映画は1998年のキネ旬ベストテン3位になった。小さな公開だったので高評価に驚いた。公開当時、設定をよく知らずに見に行って、すごく感動した記憶がある。監督はピンク映画出身で一般映画は少ない。女子ボート部を起ち上げる「悦ねえ」役の田中麗奈は本格初主演で、まだ無名だった。原作も知名度が低いし、ボート部経験者も少ないだろう。主要キャストで知名度があったのは、コーチになる中嶋朋子ぐらい。他に両親(森山良子、白竜)や校長(大杉漣)、また原作者が養護教諭でカメオ出演。Wikipediaによると、男子ボート部員に若き日の森山直太朗とバカリズムがいたんだそうだ。

 原作は松山市主催の第4回坊っちゃん文学賞(1995)の受賞作。この賞は中脇初枝(2回)、瀬尾まいこ(7回)が受賞している。著者の敷村良子(しきむら・よしこ、1961~)は松山東高校ボート部出身で、自身の体験を基にした青春小説である。(映画では伊予東高校、アニメでは三津東高校になっている。)2005年にドラマ化(主演鈴木杏)されたとき、原作小説が幻冬舎文庫に収録された。それを読むと、映画もいいけど小説はいっぱい書けていいなと思った。ホントのボート部は映画より活躍したのである。題名の「がんばっていきまっしょい」は始業式などで、生徒会長が声を出す掛け声。在校生は「しょい」と復唱する。ただし、ボート部ではそんなに使われず、原作では難しい「垂示(すいし)」というのを唱えている。

(敷村良子)

 原作では「豚神様」という皆が大切にしているマスコットが印象的だが、今日の監督の話によれば映画でも撮影したものの時間の問題で削ったという。残念。一番違うのは、コーチだろう。中嶋朋子のコーチは謎めいていて、道後温泉で偶然出会ったり、石手寺万灯会を教えたりする。原作ではOB夫妻が教えに来てくれるが、1月2日は毎年新年会で代々の部員が集結すると出ている。ところで実は作者は女子ボート部再興時のメンバーではなく、本当は後輩の部員なんだという。敷村良子さんは現在新潟県在住で、Wikipediaによると立教大学法学部を卒業した越智敏夫(新潟国際情報大学学長)という人が配偶者とのこと。

(2024年のアニメ)

 櫻木優平監督の劇場アニメ『がんばっていきまっしょい』は2024年10月25日に公開され、だいぶ上映回数が減ったけれど今も上映されている。これは原作、実写映画と大きく違っていて、時代が現代に変更されている。原作では1976年で、映画もそれに合わせて懐古的に作られているが、アニメでは皆がスマホを使っている。部員個々の設定も大きく違っていて、それはそれで面白いんだけど、原作や元の映画が好きな人には「何だかなあ」という感じも。また他校の部員とのあつれきや交流なども一番出て来る。部員も2年生だし、悦ねえの幼なじみで因縁深い「関野ブー」も変更されている。顧問の「渋じい」も他には出て来ない。

 別に同じである必要はなく、時代に応じて変えて行くのは当然だろう。しかし、瀬戸内海でボートの練習を繰り返すというベースはもちろん変わらない。その海の美しさはアニメならでは。事前に物語を知っていて、それを期待する人には満足出来るだろう。だけど、何か足りない気もしてしまうのは、実写版映画が好きだからだろうか。1976年という設定は自分の高校時代に一番近い。(大学2年生だった。)その意味での「あの頃」的な思いは、21世紀のスマホを持つ女子高生には持ちにくいのか。

(松山東高校)

 舞台となる松山東高校とは、旧制松山中学、つまり夏目漱石が赴任し『坊っちゃん』の舞台となった学校である。正岡子規の卒業校でもあり、他にも高浜虚子河東碧梧桐中村草田男石田波郷など俳句の巨星を輩出した。今も俳句甲子園の強豪校である。また大江健三郎の出身校で、伊丹十三と知り合った学校でもある。(伊丹はその後松山南高校に転学し、そこを卒業。)伊丹万作(十三の父)、伊藤大輔山本薩夫森一生など、なぜか映画監督の巨匠も多く輩出した。他の分野でも多くの人材を輩出した愛媛県の進学校で、そもそもは藩校明教館にさかのぼる。空襲を逃れて今も校内に建物があるという。

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映画『この星は、私の星じゃない』と上野千鶴子トーク

2024年09月17日 21時50分23秒 |  〃  (旧作日本映画)
 8月7日に亡くなった田中美津さんを主人公にしたドキュメンタリー映画『この星は、私の星じゃない』(吉峯美和監督)の追悼上映を見て来た。アップリンク吉祥寺。今日は上野千鶴子さんのトークがあって、きっとすぐ一杯になるだろうと思ってチケット発売開始直後にネット予約した。そうしたら会員にならないと前売り券を買えなくなっていて、その手続きをする間にもどんどん席が埋まっていた。観客には高齢女性も多く見られたが、知り合いに取って貰ったりしたようだった。

 映画は2019年に公開されたが、その時は渋谷ユーロスペースのモーニングショーだったので見なかった。今回見たらとても面白い記録映画で、田中美津という「社会運動家」「鍼灸師」の生き方を見事に映し出していた。主に3つの側面から描かれるが、それは「今までの人生」「鍼灸師としての生活(子どもとの関わりを含め)」「沖縄・辺野古」である。田中美津は日本の「ウーマンリブ」の「伝説的リーダー」として知られるが、その生育歴に幼児の「性被害」があった。そのことを撮影当時も考え続けている。一方、沖縄で轢殺された女児の写真に衝撃を受け、辺野古への基地移転反対運動に通うようになる。沖縄へ通い「自分ももうすぐニライカナイへ行く」と語るのである。そのような姿が等身大で浮かび上がる。
(田中美津)
 一方で鍼灸師としての活動も描かれている。上野千鶴子も患者だと言っていたが、非常に実力のある鍼灸師だがとても辛い治療だという。「長鍼」を使っていて、見ていても痛そうだし患者さんも痛いと言ってる。だが上野さんによれば劇的に効くらしい。田中美津はリブ運動に行き詰まりを感じ、1975年にメキシコに出掛けたまま4年間帰って来なかった。その間に恋に落ち子どもが生まれたが、パートナーとは別れて帰国して、鍼灸学校に通ったのである。その子ども(男性)は40歳前後になっているが、映画撮影期間に鍼灸師の資格を取ったことが出て来る。家庭の領域が記録されているのは貴重だし、人間の諸相を考えさせられる。
(上野千鶴子)
 上野千鶴子さんは1948年生まれ、田中美津さんは1943年生まれで、5歳の差がある。100年後の人から見れば「同時代の女性運動家」に見えるだろうけど、戦争と高度成長、60年代反乱の激動の時代にあっては、この5年の違いは大きい。上野さんは京都大学に通ったので、まさに「大学反乱」の真っ最中である。しかし、大学へ行ってない田中美津さんは60年代初頭にはもう働き始めているたである。「ウーマンリブ」創世記には上野千鶴子はまだ学生なので関わっていない。しかし「後から来た者」の「特権」で、上野千鶴子は「日本のウーマンリブは、1970年10月21日(国際反戦デー)の女だけのデモで、田中美津が書いたチラシ「便所からの解放」を配布した時を以て始まる」と規定した。外来思想ではなく、日本の現実から出て来たとみなすのである。

 もっとも上野さんによれば、「田中さんは嫌な人」だという。田中美津いわく、「お尻をなでてくる男」がいたとして、「ウーマンリブは顔をたたき返す」「フェミニズムはそれってセクハラですよと言う」と言ったらしい。まあ、何となく言いたいことは判る気がするけど。そして上野千鶴子さんは吉峯監督にも聞きたいことがあるという。沖縄へ通うようになって、「聖地」と言われる久高島を訪れガイドを務める人から話を聞く。その時のガイドの言葉は上野さんによれば、ありきたりのもので「田中さんは霊的に筋が良い」とかは誰にでも言ってるに違いないという。そういう場面が必要なのかと問うのだが、監督は実はその時田中美津さんは説明を聞きながら寝てしまった、それが面白くて映像を残したというのである。

 僕も寝てるのかなと思ったが、上野さんは深く沈み込んで熟考していると捉えたらしい。やはり聞いてみるべきだと語っていたが、しかし田中さんが「せいふぁうたき(斎場御嶽)」も訪ねているし、久高島も訪れている。沖縄にスピリチュアルな関心を抱いていたのも確かだろう。そういう方向性と「鍼灸師」として「身体」に関心を寄せたことはつながっているのか。まあ、きちんとメモを取らず聞いていただけだが、「田中美津」という人間の魅力とフシギが後世に遺されて良かったなと思った。どのカテゴリーにするか迷ったが一応「旧作日本映画」にしておきたい。
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「生誕百年記念シネアスト安部公房」と岩崎加根子トークショー

2024年08月22日 22時49分02秒 |  〃  (旧作日本映画)
 戦後日本を代表する国際的作家安部公房(あべ・こうぼう)は、2024年が生誕百年に当たる。ノーベル文学賞確実と言われながら、1993年に68歳で急死して以来30年以上が過ぎてしまった。今年は様々な企画もあるようだが、現在シネマヴェーラ渋谷で「生誕百年記念 シネアスト安部公房」という映画特集をやっている。この前高橋惠子浅田美代子のトークを聞きに行ったところだが、今日は俳優座のベテラン女優岩崎加根子のトークショーがあるのでまた行ってきた。
(安部公房)
 安部公房の本名は「きみふさ」と読ませるらしいが、大体皆「こーぼー」と発音していた。戦後文学の中でも独自の異端的な作風だったが、『砂の女』『他人の顔』『燃えつきた地図』などミステリアスな作品が世界的に評価された。僕は代表的な作品を高校時代に読んでしまい、大きな影響を受けた。主要作を収録した「新潮日本文学」の他に、文庫に入っていた『』『第四間氷期』などSF的作風の作品も面白かった。『箱男』『密会』『方船さくら丸』などは刊行当時にハードカバーで読んでいる。しかし、次第に作品を発表しなくなり気付いたら新聞に訃報が載っていた。

 そんな安部公房が70年代には演劇に熱中していたことは、今ではあまり記憶されていないかもしれない。もともと60年代に主要作品が勅使河原宏監督によって映画化され、安部も脚本に参加している。それらの映画は前に勅使河原監督特集で見たときにまとめて書いた。(『砂の女』は別にそれだけで書いている。)それ以前にラジオドラマやテレビドラマの脚本を書くこともあった。そして50年代末からは新劇に向けて戯曲を書くようになった。そして1973年には、「安部公房スタジオ」を起ち上げた。井川比佐志田中邦衛仲代達矢山口果林などが参加し、堤清二の支援を受けて西武劇場(現PARCO劇場)で上演した。
(岩崎加根子)
 そのきっかけは今日聞いた岩崎加根子(1832~)によると、60年代末に俳優座で『どれい狩り』が上演された時の経験にある。上演はありがたいがどうしても千田是也の演出した世界になってしまう。「意味」をはく奪して肉体のみが演じる世界を演出したいということだろう。そのため紀伊國屋の企画として安部公房演出で『棒になった男』の上演が行われた。この戯曲は「」「時の崖」「棒になった男」の三作品が集まったもので、岩崎加根子は市原悦子とともに「」に出た。鞄に何が入っているか二人で延々と話し続けるような作品だったらしい。聞き手の鳥羽耕司氏によると、これは安部公房の見た夢の戯曲化らしい。
 
 岩崎加根子は独特の安部演出に腰を痛めてしまったが、安部は東京帝大医学部卒(Wikipediaによれば国家試験を受けない条件付きで卒業単位を認定されたという)で東大病院にいた同級生のところに行かされたという。胸に一本注射を打たれたら腰痛が消えたという。安部公房は俳優座との関係が深く、俳優座養成所を桐朋学園短期大学(現・桐朋学園芸術短期大学)に移管するときも安部があっせんしたという。(1966年に桐朋短大に「芸術科(音楽専攻・演劇専攻)」を設置し、俳優座養成所を廃止した。安部公房や千田是也が教員として加わった。)安部公房スタジオに仲代、井川、田中など俳優座出身者が多いのもそれが理由だろう。

 岩崎は安部公房スタジオには参加していないが、当時の体験者として非常に興味深い出来事を幾つも語った。例えば山口果林が朝ドラ『繭子ひとり』(1971)に選ばれたとき、岩崎に電話してきてNHKテレビに出たら演技がおかしくならないか、反対するべきかと相談したらしい。岩崎も困ってしまって、本人がしっかりしてれば良いんじゃないか、本人の希望次第などと答えたらしい。安部もそうか本人次第かなどと反応したらしい。朝ドラに出ることで知名度が高まるのは間違いない。60年代には樫山文枝日色ともゑ、70年代だと大竹しのぶなどその後舞台で活躍を続けた女優も輩出しているから、確かに本人次第だ。
(『仔象は死んだ』)
 ところで今日上映された『仔象は死んだ』は79年にアメリカで上演され大評判を呼んだ作品の映像化である。1980年に製作されたもので、安部公房が監督、脚本、音楽を担当している。音楽というのは自分でシンセサイザーを演奏しているのである。また美術を安部真知(夫人)を担当している。映画は舞台の記録かと思うと少し違って、カメラが動いて時には劇場外に出ていく。安部公房スタジオは当初は普通に演劇らしい、つまりセリフが意味を持つ不条理劇をやっていたが、次第にパフォーマンスというか「舞踏」のようなものになったという。『仔象は死んだ』にはセリフもあるが、ほぼ意味のつながりがない。一面の大きな白いシーツの下、または上で俳優が床運動みたいに動き回る。これが70年代の「前衛文化」だという感じ。
(『詩人の生涯』)
 その前にアニメ『詩人の生涯』(1974)と『時の崖』(1971)も見た。『詩人の生涯』は安部公房脚本、川本喜八郎演出の切り絵風アニメで、シュールレアリズム的な描写と社会派的テーマが融合した作品。『時の崖』は先に書いた『棒になった男』の中の一編で、井川比佐志の一人芝居と言ってもよい。負けていくボクサーの心象風景をひたすら井川のシャドーボクシングと一人語りで描き出す。安部公房監督作品。映像作品として見た場合は、『仔象は死んだ』も『時の崖』も資料映像的な感じ。

 だけどこれらの作品は70年代文化史に欠かせないピースだと思う。有名作家の中でここまで演劇に関わった人もいないだろう。またある種堤清二を中心にした「セゾン文化」を記録した意味もある。僕は高校生から大学の時期で、安部公房スタジオというのがあるのは知っていたが見たことはない。何だかよく判らないけれど、こういうものに観客が集まっていた時代があった。岩崎加根子は細かいことは忘れたといいながら今も元気で、今秋に『慟哭のリア』の主演公演が控えている。
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映画『あした輝く』と浅田美代子トークショー、戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭

2024年08月12日 22時02分27秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷の「戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」、今日は1974年の『あした輝く』(山根成之監督)と主演の浅田美代子のトークショーに行ってきた。実は前日に原作者の漫画家里中満智子のトークもあったのだけど、やはり浅田美代子の方が聞きたい。まあ猛暑の中二日連続は体力的にきついし。浅田美代子も言ってたけど、戦争を描く映画はいっぱいあるのに何でこの映画が選ばれたんだろうという感じはした。でも半世紀前の普通の「アイドル映画」が戦争をどう描いていたかという意味で興味深い。

 この映画は初めて見たが、公開当時に映画は知っていた。里中満智子原作の漫画の映画化で、前年(1973年)テレビ『時間ですよ』でデビューした浅田美代子が主演したんだから話題作である。浅田美代子は劇中歌「赤い風船」も大ヒットして、大注目のタレントだった。監督の山根成之(やまね・しげゆき)は、当時『同棲時代』『愛と誠』など青春映画の話題作を連発していた。しかし、今回見てみると突っ込みどころいっぱいの「アイドル映画」で、何だこれは的な展開が続く。

 確かに「この映画を何でやるか」的な感じである。時は敗戦直後の「満州国」。関東軍は民間人を置いて撤退してしまい、引き揚げ時に多くの犠牲を出した。ソ連軍の攻撃に加え、現地中国人の襲撃も受け、後に「残留孤児」問題が起きる。しかし、映画では「満州国」の本質は追求しない。主人公今日子(浅田美代子)は奉天の夏樹医院の「お嬢様」で、加賀中尉(沖雅也)に言い寄られているが、衛生兵速水香(志垣太郎)を好きになる。運命的に結ばれ、速水は民間人保護のためとして今日子らの引き揚げに同行する。今日子の父は途中で死に、香は後を託される。その時、今日子は香の子を宿していた、っていつそうなったの?
(今日子と香)
 2022年に亡くなった志垣太郎はこんなにカッコよかったのか。恋敵の沖雅也は1983年に31歳で自殺した俳優である。その後、帰還船の中で今日子は流産するが、同行していた女学校の教員、緑川先生(田島令子)が出産後に亡くなり、その子を引き受ける。速水の実家(九十九里)に赴くと、助産師の母親(津島恵子)は子どもを香との子どもと思い込む。子どもは「今日子と香」から「今日香」にしようと香が言うが、今日じゃなくあしたが輝いて欲しいから「あすか」にしようと今日子が言った。これが題名になるが、その後ソ連軍に連行され生きているかも不明な香を今日子は義母とあすかと一緒に待ち続ける。
(里中満智子)
 その向日性が浅田美代子の持ち味と合っていて、都合のいい展開に納得してしまうわけである。「引き揚げ」もの、「シベリア」ものはかなりあるが、この映画は戦争映画という意味では特に書くこともない。ただ半世紀前のアイドル映画では、戦争が背景として成立していたのが興味深い。今では時間が経ちすぎて「歴史映画」になってしまう。半世紀前は「戦後29年」ということで、若い世代からしても「戦争は父母の時代の話」だった。一家の成り立ちを振り返れば、そこには当然戦争という歴史が出て来る。そういう時代性を背景にして、愛の物語が成り立っている。山根演出はまさに「少女漫画」の実写化という感じで撮っていて面白かった。
(浅田美代子=現在)
 浅田美代子さんは最近も良くテレビで見るが、いつまでも元気で活躍して欲しい。この映画のことは船酔いしたことが最大の思い出だという。乗馬のシーンがあるが、自分じゃないという話。それはそうだろうなと思って見ていた。テレビと映画の違い、樹木希林さんの話など興味深い。しかし、それ以上に犬の保護活動を通じて、猛暑が続く中で犬を外で飼ってはいけない、猛暑の昼間に散歩させてはいけない。自分は夜10時過ぎに毎日行ってるとのこと。諸外国ではペットショップ自体が無くなりつつある。ペットショップだと売れ残る犬が出て来るからという話に考えさせられた。共同通信の立花珠樹さんの司会。
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映画『花物語』と高橋惠子トークショー、戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭

2024年08月10日 22時48分18秒 |  〃  (旧作日本映画)
 第13回を迎える「戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」が今年は渋谷のシネマヴェーラ渋谷(ユーロスペースのあるビル4階)で始まった。今までは見てる映画が多くて行ってない年が多いが、今年は「家族たちの戦争」をテーマにほとんど見てない映画が並ぶ。しかもトークショーが幾つも企画されている。今日は公開時に見ているんだけど、非常に上映機会が少ない『花物語』(堀川弘通監督、1989)を再見してきた。主演の高橋惠子のトーク付きである。

 千葉県の房総半島南部は南房総国定公園に指定されている景勝地域である。普通の観光地の人気シーズンは夏や春秋なんだけど、ここは2月頃に一番観光客が訪れる。花の栽培が盛んな地域で、お花畑が一面に咲き乱れ向こうに海が映える。その時期に南房総をドライブしたことがあるが、素晴らしい景色だった。中でも外房南部の和田町(現・南房総市)あたりは花栽培が戦前から盛んな地域として知られていた。ところが戦時中はその花栽培が禁止されたのである。「食糧増産」が国の旗印で、すべての田畑は食糧生産に当てるべきだというタテマエである。この地域は海に近く、野菜や米の生産には向かず、花に向いた土地なのに。
(花束を受ける高橋惠子)
 枝原ハマ高橋惠子)は花栽培にずっと取り組んできた。それには理由があることが後に判るが、ハマはなかなか花栽培を止めなかった。主な畑は野菜に転換したが、小さな一つの畑だけは何とか見逃して欲しいと言う。しかし、「お上」の意向を受けた村の当局者は、それを許さない。長男は学校で「非国民の子」といじめられ、母には出来ないからと自らの手で残された花を摘み取ってしまう。それでも「畑じゃない場所」なら良いだろうと小規模で花を作り続けたが…。漁師の夫(蟹江敬三)は再度召集され、長男は予科練に応募して去る。疎開児童やノモンハン帰りの時計屋(石橋蓮司)など複数の目で村人たちを活写していく。
(堀川弘通監督)
 僕はこの映画を公開当時に見ているんだけど、そういう人は少ないと思う。公開自体が小規模だったし、確かすぐに終わってしまった。それでも見たかったのは、実は田宮虎彦(1911~1988)の原作『』が好きだったのである。田宮虎彦は今では忘れられた作家だろうが、かつて文学全集がいっぱい出ていた時代にはよく1巻、または半巻を当てられていた。『足摺岬』『銀心中』『異母兄弟』など映画化された作品も多い。『落城』『霧の中』などの気品ある歴史小説も好きだった。僕の若い時期にすでに読まれなくなっていたが、持っていた全集で読んでみたら気に入ったのである。その田宮虎彦の映画化だから見たかった。
(田宮虎彦)
 堀川弘通監督(1916~2012)は黒澤明監督に師事したことで知られ、『評伝 黒澤明』(2001)という本もある。『あすなろ物語』(1955)で監督にデビューし、『裸の大将』『黒い画集 あるサラリーマンの証言』などの代表作がある。東宝からフリーになってから作った作品には戦争を扱った映画が多い。他には『ムッちゃんの詩』(1985、今回の映画祭で上映あり)や『エイジアン・ブルー 浮島丸サコン』(1995)がある。Wikipediaには「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めていたと出ていて、晩年に戦争を描いたことと関連するのかもしれない。素直に感動させる映画が持ち味で、『花物語』も同様。

 およそ花栽培を禁止するなど、現在の感覚からは全く理解出来ない。常識的に考えて、戦死者に手向ける花は不要だったのか。この映画では、いつも非国民と罵っていた隣人が訪ねてくるシーンが印象深い。二人の男子が戦死し、もう一人も戦地にある。口では皆お国に捧げると言ってるが、秘かに三男の無事を祈願している。その子が目を失って帰還してきて、見舞いに行ったら「故郷の花が見たい」と言ったのである。もう花を作っているのは村中でハマだけになっていたので、頭を下げて花をくれないかという。そして「花は口では食べられないが、心の食べ物かもしれない」と言うのである。この「心の食べ物」という言葉に込めた思いが深い。
(長男役の八神徳幸=現在)
 高橋惠子(1955~)は僕と同じ年の生まれ(学年は一つ上)で、デビュー時の「関根惠子」時代から気になっていた。増村保造監督の『遊び』(1971)はとても印象的で、関根惠子も輝いていた。なかなか波乱の俳優人生だったが、『TATTOO〈刺青〉あり』(1982)出演後に監督の高橋伴明と結婚し高橋姓を名乗るようになった。この映画は和田町で2ヶ月ロケして作られ、今も現地の人と交流があるという。会場には長男役の八神徳幸(やがみ・のりゆき)も来ていて、昔のことを詳しく覚えていた。今は何しているのかと問われ、今も役者だという。確かにWikipediaにも項目があり、あまり大きな役ではないがテレビや映画にも出ている。本人も言ってたが通販番組が多いようだ。

 この映画が上映される機会はなかなかない。今回は16日まで映画祭があり、その中でまだ何回か上映がある。(時間はまちまちなので、ホームページで確認を。)今回の上映を機に再評価されると良い映画だと思う。今までDVD化されてないとのことで、今後のソフト化、配信なども期待したい。戦時下の日常がどんどんおかしくなっていく様子が判ると思う。南房総の早春を彩る美しい花々、そこにも悲劇の現代史があった。忘れてはいけない歴史の教訓だ。
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独立プロ映画『村八分』と戦後民主主義

2024年02月24日 22時03分52秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷でやってる「日本の映画音楽Ⅱ 伊福部昭・木下忠司」という特集で、古い日本映画を少し見ている。特に映画音楽というより、二度と見られなそうな珍しい映画が結構多いのである。僕の場合、映画史的に重要な作品や巨匠の代表作なんかは大体見終わっていて、好きな映画をまた見ることもあるけど、それよりは「昔の日本」を発見する目的が大きい。

 ロケされていると、昔の風景が意図せず映し込まれていて発見が多い。また、ストーリーやテーマを今になって見直すと、時代の変化(パラダイム変換)を発見することもある。最近見た『遠い一本の道』で、「左翼労働組合」の「闘争」が性別役割を前提にした「主婦が内職しないで済む賃金」を獲得目標にしていたと驚いたのはその一例である。

 今回記録しておきたいのは、1953年に作られた『村八分』という映画で、現代史に関心がある人にはある程度知られている1952年の「静岡県上野村村八分事件」を映画化したものである。近代映画協会製作、北星配給という「独立プロ」作品。日本では50年代を中心に大手映画会社で作れない社会的テーマに果敢にチャレンジする独立プロ作品が多数作られた。貧困や差別と闘う「民主主義映画」は、世界映画史上でも重要な作品群として「発見」する必要がある。(上映は終了したが、DVDが出ている。)

 1952年に行われた参院選補欠選挙が今や開票の時を迎えている。朝陽新聞社の支局前では各候補の得票状況を時々刻々と書き換えている。多数の人々が支局前に集まって開票状況を見つめている。この風景が今ではもはや珍しい。「翌日開票」で昼間開票しているのである。その時、支局に届いた手紙に気付いた人がいる。読んでみると、自分の村では「投票券」を有力者が集めて回って「不正選挙」が行われているという投書だった。差出人は「野田村」の高橋満江という女子高生である。野田村の担当は吉原通信局で、連絡を受けた本多記者(山村聡)が早速自転車で現地に出掛ける。

 村人は堅く口を閉ざしているが、投書をした女子高生を高校に訪ねて不正の様子を詳しく取材する。直接知っているわけではなかったが、母親のところに有力者が当日村を出ている父親の分の投票権を集めに来たという。母親はおかしいと思って断ったが、実は2年前の参院選の時も同じようなことがあった。取材の様子が知れ渡り皆心配するが、村長や県議など有力者は何も言うなと命じる。やがて大きく報道されると、警察が動き出し罰金刑になる者も出て来て村は大揺れになった。元はといえば原因は高橋満江だとして、村人は高橋家と付き合わないように取り決める。満江は孤立して教師に相談するが…。
(香山先生=乙羽信子は家庭訪問する)
 主人公の高橋満江を演じたのは、これがデビューの中原早苗(1935~2012)。その後日活に入社して多くの青春映画に出た。大体は石原裕次郎をめぐって主演女優(浅丘ルリ子や芦川いづみなど)と争う敵役だった。結局は敗れるわけだが、明るい持ち味で演じていた。64年にフリーとなって東映映画によく出るようになり、65年に深作欣二監督と結婚した。東映では大体悪い方の親分の情婦みたいな役が多い。貴重な脇役で、僕は中原早苗が出ているのを見ると嬉しくなる。
(中原早苗)
 新藤兼人脚本、宮島義勇撮影、伊福部昭音楽という豪華なスタッフ。今回は伊福部昭特集で選ばれているが、特に代表作というわけでもないだろう。『ゴジラ』のテーマで知られている作曲家で、荘重な音楽を付けている。監督の今泉善珠(いまいずみ・よしたま、1914~1970)を知らなかったので、1976年キネマ旬報社刊の『日本映画監督全集』を見たら載っていた。戦前は記録映画を作っていたが、戦後に新藤兼人監督『原爆の子』の助監督を務めて、この作品で劇映画の監督に昇進した。しかし、次作『燃える上海』以後は東映教育映画部で児童向け教育映画を主に作ったという。不遇な子どもたちを温かい目で描く作品が多く、『青年の虹』が文部省特選になったという。ところで、この本には監督の住所と電話番号が明記されているのには驚いた。
(大きく報道された)
 展開がストレートで、映画の完成度的には佳作レベルだろう。作られた1953年は日本映画史上最高の豊作年で、小津の『東京物語』が2位、溝口の『雨月物語』が3位。世界映画史に残る両作品を押えたのは今井正の『にごりえ』で、今井作品は『ひめゆりの塔』も7位に入った。他にも『煙突の見える場所』(五所平之助)や『日本の悲劇』(木下恵介)など傑作揃いで、『村八分』には一点も入っていない。僕もそれはやむを得ない結果だろうと思う。社会史的価値で残る作品なのである。

 事件が起きたのは静岡県上野村で、1959年に富士宮市と合併して消滅した。日蓮正宗の本山、大石寺(たいせきじ)のあるところである。映画でも富士山が真っ正面に見えているから、付近でロケしている。まだ馬で畑を耕しているのが驚き。前近代から続く共同体が生きているような村である。補欠選挙は1950年当選の平岡市三の死去に伴って行われた。占領が終了し公職追放が解けた石黒忠篤元農相が立候補して当選した。「農政の神様」と言われた人で、近衛内閣で農相を務めていた。

 朝陽新聞は朝日新聞で、高橋満江の実名は石川皐月である。実は2年前の参院選でも不正があり、おかしいと思った石川は当時在学していた上野中学新聞に替え玉投票を告発する文章を投稿した。それが掲載された後に村で批判され、中学は配布した新聞を全部回収して焼却処分にしたという。その後、富士宮高校に進学していた石川は今度は朝日新聞に投書したのである。「村八分」事件も大きく報道され、法務局や日弁連人権擁護委員会も調査に訪れる。映画では馬を貸してくれないから高橋家では人力で耕作するしかない。満江と妹も学校を休んで働くことになる。しかし、高橋家には全国から応援の手紙が寄せられる。
(石川皐月のその後)
 そして高校では「臨時生徒大会」が開催される。驚くのはその時に教員は職員室で仕事しているのである。大会は生徒だけで運営されており、皆が挙手して整然と議論している。今じゃ教員なしで生徒大会が出来る高校などあるのだろうか。最低でも生活指導部の生徒会担当教員は出席するんじゃないだろうか。それはともかく、ここでは村の秩序を乱す行為はおかしいという意見を述べる生徒もいるのだ。しかし、最終的には「正しいこと」を主張した者が迫害されることはおかしいという結論になり、皆で高橋家を支援しようと自転車で駆けつけるところで終わりとなる。

 石川皐月は当時「不正をみても黙っているのが村を愛する道でしょうか」と述べていた。母親が投票券を渡さなかったのも、戦後になって女性が投票出来るようになった選挙権の大切さを実感していたからだろう。「昭和」が遅れていたというのではなく、戦争で得た民主主義を守るために闘った人がいて、その上に現在があるのである。後に石川皐月は1953年に『村八分の記―少女と真実』を理論社から刊行した。そして「婦人民主クラブ」事務局長(加瀬皐月名義)として活動し続けた。今も存命である。
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