尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

独立プロ映画『村八分』と戦後民主主義

2024年02月24日 22時03分52秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷でやってる「日本の映画音楽Ⅱ 伊福部昭・木下忠司」という特集で、古い日本映画を少し見ている。特に映画音楽というより、二度と見られなそうな珍しい映画が結構多いのである。僕の場合、映画史的に重要な作品や巨匠の代表作なんかは大体見終わっていて、好きな映画をまた見ることもあるけど、それよりは「昔の日本」を発見する目的が大きい。

 ロケされていると、昔の風景が意図せず映し込まれていて発見が多い。また、ストーリーやテーマを今になって見直すと、時代の変化(パラダイム変換)を発見することもある。最近見た『遠い一本の道』で、「左翼労働組合」の「闘争」が性別役割を前提にした「主婦が内職しないで済む賃金」を獲得目標にしていたと驚いたのはその一例である。

 今回記録しておきたいのは、1953年に作られた『村八分』という映画で、現代史に関心がある人にはある程度知られている1952年の「静岡県上野村村八分事件」を映画化したものである。近代映画協会製作、北星配給という「独立プロ」作品。日本では50年代を中心に大手映画会社で作れない社会的テーマに果敢にチャレンジする独立プロ作品が多数作られた。貧困や差別と闘う「民主主義映画」は、世界映画史上でも重要な作品群として「発見」する必要がある。(上映は終了したが、DVDが出ている。)

 1952年に行われた参院選補欠選挙が今や開票の時を迎えている。朝陽新聞社の支局前では各候補の得票状況を時々刻々と書き換えている。多数の人々が支局前に集まって開票状況を見つめている。この風景が今ではもはや珍しい。「翌日開票」で昼間開票しているのである。その時、支局に届いた手紙に気付いた人がいる。読んでみると、自分の村では「投票券」を有力者が集めて回って「不正選挙」が行われているという投書だった。差出人は「野田村」の高橋満江という女子高生である。野田村の担当は吉原通信局で、連絡を受けた本多記者(山村聡)が早速自転車で現地に出掛ける。

 村人は堅く口を閉ざしているが、投書をした女子高生を高校に訪ねて不正の様子を詳しく取材する。直接知っているわけではなかったが、母親のところに有力者が当日村を出ている父親の分の投票権を集めに来たという。母親はおかしいと思って断ったが、実は2年前の参院選の時も同じようなことがあった。取材の様子が知れ渡り皆心配するが、村長や県議など有力者は何も言うなと命じる。やがて大きく報道されると、警察が動き出し罰金刑になる者も出て来て村は大揺れになった。元はといえば原因は高橋満江だとして、村人は高橋家と付き合わないように取り決める。満江は孤立して教師に相談するが…。
(香山先生=乙羽信子は家庭訪問する)
 主人公の高橋満江を演じたのは、これがデビューの中原早苗(1935~2012)。その後日活に入社して多くの青春映画に出た。大体は石原裕次郎をめぐって主演女優(浅丘ルリ子や芦川いづみなど)と争う敵役だった。結局は敗れるわけだが、明るい持ち味で演じていた。64年にフリーとなって東映映画によく出るようになり、65年に深作欣二監督と結婚した。東映では大体悪い方の親分の情婦みたいな役が多い。貴重な脇役で、僕は中原早苗が出ているのを見ると嬉しくなる。
(中原早苗)
 新藤兼人脚本、宮島義勇撮影、伊福部昭音楽という豪華なスタッフ。今回は伊福部昭特集で選ばれているが、特に代表作というわけでもないだろう。『ゴジラ』のテーマで知られている作曲家で、荘重な音楽を付けている。監督の今泉善珠(いまいずみ・よしたま、1914~1970)を知らなかったので、1976年キネマ旬報社刊の『日本映画監督全集』を見たら載っていた。戦前は記録映画を作っていたが、戦後に新藤兼人監督『原爆の子』の助監督を務めて、この作品で劇映画の監督に昇進した。しかし、次作『燃える上海』以後は東映教育映画部で児童向け教育映画を主に作ったという。不遇な子どもたちを温かい目で描く作品が多く、『青年の虹』が文部省特選になったという。ところで、この本には監督の住所と電話番号が明記されているのには驚いた。
(大きく報道された)
 展開がストレートで、映画の完成度的には佳作レベルだろう。作られた1953年は日本映画史上最高の豊作年で、小津の『東京物語』が2位、溝口の『雨月物語』が3位。世界映画史に残る両作品を押えたのは今井正の『にごりえ』で、今井作品は『ひめゆりの塔』も7位に入った。他にも『煙突の見える場所』(五所平之助)や『日本の悲劇』(木下恵介)など傑作揃いで、『村八分』には一点も入っていない。僕もそれはやむを得ない結果だろうと思う。社会史的価値で残る作品なのである。

 事件が起きたのは静岡県上野村で、1959年に富士宮市と合併して消滅した。日蓮正宗の本山、大石寺(たいせきじ)のあるところである。映画でも富士山が真っ正面に見えているから、付近でロケしている。まだ馬で畑を耕しているのが驚き。前近代から続く共同体が生きているような村である。補欠選挙は1950年当選の平岡市三の死去に伴って行われた。占領が終了し公職追放が解けた石黒忠篤元農相が立候補して当選した。「農政の神様」と言われた人で、近衛内閣で農相を務めていた。

 朝陽新聞は朝日新聞で、高橋満江の実名は石川皐月である。実は2年前の参院選でも不正があり、おかしいと思った石川は当時在学していた上野中学新聞に替え玉投票を告発する文章を投稿した。それが掲載された後に村で批判され、中学は配布した新聞を全部回収して焼却処分にしたという。その後、富士宮高校に進学していた石川は今度は朝日新聞に投書したのである。「村八分」事件も大きく報道され、法務局や日弁連人権擁護委員会も調査に訪れる。映画では馬を貸してくれないから高橋家では人力で耕作するしかない。満江と妹も学校を休んで働くことになる。しかし、高橋家には全国から応援の手紙が寄せられる。
(石川皐月のその後)
 そして高校では「臨時生徒大会」が開催される。驚くのはその時に教員は職員室で仕事しているのである。大会は生徒だけで運営されており、皆が挙手して整然と議論している。今じゃ教員なしで生徒大会が出来る高校などあるのだろうか。最低でも生活指導部の生徒会担当教員は出席するんじゃないだろうか。それはともかく、ここでは村の秩序を乱す行為はおかしいという意見を述べる生徒もいるのだ。しかし、最終的には「正しいこと」を主張した者が迫害されることはおかしいという結論になり、皆で高橋家を支援しようと自転車で駆けつけるところで終わりとなる。

 石川皐月は当時「不正をみても黙っているのが村を愛する道でしょうか」と述べていた。母親が投票券を渡さなかったのも、戦後になって女性が投票出来るようになった選挙権の大切さを実感していたからだろう。「昭和」が遅れていたというのではなく、戦争で得た民主主義を守るために闘った人がいて、その上に現在があるのである。後に石川皐月は1953年に『村八分の記―少女と真実』を理論社から刊行した。そして「婦人民主クラブ」事務局長(加瀬皐月名義)として活動し続けた。今も存命である。
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左幸子監督『遠い一本の道』(1977)、感慨覚える国労映画

2024年02月11日 22時19分23秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立映画アーカイブで『日本の女性映画人(2)――1970-1980年代』という特集上映が始まった。有名な映画なら同時代に見てる映画も多いが、久しぶりに見直す意味もあるので(それに見てない映画もあるし)、何本か見ようと思っている。2月10日に左幸子監督『遠い一本の道』を再見したので、今回はそのまとめ。非常に複雑な感慨を覚えた映画で、公開当時に見ているが見直す意味が大きかった。もう一回、16日(金)19時に上映があるので紹介しておきたい。

 今回の特集趣旨の「女性映画人」という観点からすると、『遠い一本の道』は女性監督作品で初めてベストテンに入選した映画である。キネマ旬報ベストテンを基準にすると、1977年の第10位に入選している。同じ年に宮城まり子監督『ねむの木の詩がきこえる』が7位に入っているが、これはドキュメンタリー映画なので劇映画としては史上初である。その次は20年後の1997年の河瀬直美監督『萌の朱雀』(10位)なので、映画史的に非常に先駆的なのである。

 『遠い一本の道』は国労(国鉄労働組合)と左プロの合作で、日本の左派独立プロ映画の中でももっとも組合色が強い映画だろう。左幸子(ひだり・さちこ 1930~2001)は1977年に羽仁進監督と離婚して、その頃は社会党左派的な色彩を強めていた。元夫の両親羽仁説子、五郎が左派言論人として知られていたのに、子どもの羽仁進は非政治的だった。それに対して左幸子が政治的になったのは因縁を感じた。今は忘れられた感もあるが、今村昌平監督『にっぽん昆虫記』でベルリン映画祭女優賞を受賞した。これは日本の女優が三大映画祭で受賞した最初で、もっと評価されるべき女優だと思う。

 映画は国労の全面的協力のもと、有名な劇作家宮本研の脚本を左幸子が製作、監督、主演して作られた。北海道を舞台に、70年代の「マル生運動」さなかの揺れる国鉄労働者を描いている。ところどころはドキュメンタリー的に撮影されていて、記録映像的にも貴重。主人公滝ノ上市蔵井川比佐志)は、保線職員である。鉄道映画は数多いが運転士や車掌、あるいは駅長などが取り上げられることが多く、保線職員を描く映画は他にないのでは? 戦時中に高小卒で就職し、そのまま勤続30年を迎えた。その表彰式が札幌で行われる日から映画は始まる。恐らく実際の映像で式典が進み、職員は夫婦同伴で表彰される。
(保線労働の様子)
 映画の舞台は追分駅で、札幌の東にあって室蘭本線と石勝線が分岐する地点である。北海道に多かった鉄道に依存した町で、勤続式典は重大事だ。滝ノ上の妻里子左幸子)は和服を新調して、久しぶりの札幌行きを楽しみにしている。ウキウキする妻とどこか無愛想な夫の様子をバスのバックミラーに映る姿で見せる。その夜は家でお祝いをするが、そこに札幌のデパートで働く娘由紀市毛良枝)が恋人の佐多長塚京三)と現れる。この機会に夫に承知させようという里子のアイディアだったが、市蔵は怒って追い返しちゃぶ台をひっくり返してしまう。
(表彰式に向かうバスの中)
 里子は夫を大切にしているが、自分のように結婚するまで顔も見たことがなかった結婚を娘にさせたくないのである。しかし職場で悩み多い市蔵は時々怒りを里子にぶつける。試験を受けても落ちるばかりで、一生保線職員で終わるのか。仕事に誇りを持ちつつも、当局は「合理化」を進めて、現場職員の経験よりも機械導入に熱心である。このままではどんどん人員削減になりそうで、それを防ぐためには皆が組合に団結して闘う必要がある。市蔵はそう思っているが、薄給のため里子は内職せざるを得ない。国労の家族会も要求をぶつけるが、その中で「内職せずに食べていけるように、夫の給料をもっと上げて欲しい」と言う。
(市蔵と里子)
 今から見ると、左翼労働組合の主張が「妻が家庭で主婦に専念出来るだけの給与を夫に支払え」というのは不可解である。当時赤字を抱えていた国鉄で、大々的な給料増が実現する可能性はなかっただろう。しかし、ストがあれば妻も家族会に団結し、闘争中の夫たちのためにおにぎりを作るのが当然のこととされる。子どももそれを見ていて、「お母さんはストの手伝いでおにぎりを作ってる時が一番生き生きしている」と言う。「性別分業」は全く疑いの対象ではなく、むしろ「金持ち階級のように、われわれ貧困階級も夫が働き妻が家庭を守る暮らしが可能になる社会」が左翼の目標だったのだ。

 このように左派労働組合のジェンダー意識が意図せず記録されているのが貴重なのである。そのような「国鉄労働者一家」的な共同体的労働を当局は解体したいと思っている。全国あらゆる職場で進行していた「職能給」的な給与体系にしたいのである。そのためには労働者を「階級的労働組合」から「労使協調的労働組合」に誘導していく必要がある。そこで70年代初期に、当局挙げて国労からの脱退、鉄労(第二組合)への加入を管理職自身が強引に勧めて回る「生産性向上運動」(マル生運動)が起こった。さすがにそれは問題化して、「組織的な不当労働行為」として当局側が謝罪せざるを得なくなった。

 その当時のギスギスした職場環境、マル生運動の実態が、この映画には残されている。他にない貴重な映画だと思う。マル生運動を「粉砕」した国労などは、1975年にストライキ権を求めて「スト権スト」に突入した。里子たちももちろん支援のため、おにぎりを作っていた。そして、そのスト権ストに敗北し、国鉄労働運動は転機を迎える。国鉄内の組合運動は複雑に分かれていて、ここで細かく説明する余裕も知識もない。ただ、この映画が作られて10年後の1987年には、国鉄が分割民営化されてしまうとは、映画製作時には誰も思ってなかっただろう。そして「国労」そのものが激しい弾圧にあうことになる。それは国家的不当労働行為とも言え、僕は今でも納得していないが、やはり国鉄労働運動も問題を抱えていたことが映画で理解出来る。
(「軍艦島」)
 さて、もう一つこの映画が貴重なことは、長崎県の「軍艦島」(端島)の当時の貴重な映像が残されているのである。娘由紀はやはり佐多と結婚することになり(市蔵はひそかに佐多の職場の林業を見に行っている)、佐多の両親がいる長崎で挙式することになる。佐多は端島が閉山した後、夕張炭鉱に移ったがそこも不況のため夕張の林野庁で働いていた。「ひかりは西へ」と国鉄は新幹線の博多延伸を宣伝していた。一度新幹線に乗りたかった里子は夫と博多まで新幹線で行く。結婚式翌日に、佐多は本当の生まれ故郷「軍艦島」に案内するのである。当時も無人だが、まだ個人的な訪問、あるいは映画撮影も可能だったのか。

 そこで見た昔の学校の様子、朽ち果てた炭鉱アパートの現状を見て、皆は大きなショックを受ける。労働者はいつも使い捨てなんだという歴史を突きつける。山田洋次監督『家族』(1970)は長崎から北海道へと延々と家族が移り住む様子を描いたが、この映画は逆に北海道から長崎へ映像が替わる。しかし、働く庶民に冷厳な日本社会という構図は同じだろう。僕は当時見て、テーマとメッセージに感動出来たと思うが、今見るとやはり古かったかな、これでは負けるなとも思った。数多い左派独立プロ映画の最後尾に位置する映画で、それが女性監督初のベストテン入選映画でもあったのは興味深い。長塚京三、市毛良枝が若いのも驚き。
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映画『新雪』と『火の鳥』ー井上梅次と月丘夢路夫妻の映画

2023年11月03日 22時24分34秒 |  〃  (旧作日本映画)
 女優月丘夢路(1921~2017)と監督井上梅次(1923~2010)夫妻の特集が国立映画アーカイブで開催されている。7階の展示室で「月丘夢路 井上梅次 100年祭」が展示され、同時に大ホールで二人の映画が上映されている。この二人は長く映画に関わったが、一番の活躍時期は1950年代から60年代前半ぐらいだった。井上監督は日活や大映などで多くの映画を作ったが、すべてが娯楽作品である。ビデオもDVDもない時代には、見る機会がほとんどなかった。近年昔の映画を上映する映画館が作られ、井上作品を見る機会も増えて来たが、それが非常に面白いのである。まさに「映画の職人」という感じ。

 一方、月丘夢路は名前が示すように、宝塚出身。1937年に宝塚音楽歌劇学校に入学し、第27期生となった。これは越路吹雪乙羽信子と同じである。戦時中から映画に主演し、1943年に正式に退団した。在学中から大変な美人とうたわれ、いじめられるほどだったとウィキペディアに出ている。娘役で人気を博し、宝塚百年(2014年)に作られた『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人に選ばれている。と言うようなことは調べて知ったことで、僕が映画を見るようになった70年代には映画やテレビでもう脇役だった。そんなすごい美人女優で大人気だったなどということは、映画史的知識としてしか知らないことである。

 今回初めて1942年の大ヒット作『新雪』(五所平之助監督)を見たが、月丘夢路の素晴らしい魅力に驚いた。僕はこの映画を母親が好きだったと聞いていて一度見たいと思っていた。しかし、フィルムがないとされて、長く見られなかった。ソ連崩壊後にロシアで短縮版が発見され、今回見たのはそれだろう。オリジナル124分のところ84分になっている。しかし、基本的なストーリーは理解可能。この映画は灰田勝彦が歌ったテーマ曲がヒットしたことでも知られる。「新雪」と言っても山奥の話ではなく、汚れなき純粋さといった意味なんだろう。大阪出身の作家藤澤恒夫が朝日新聞に連載した小説が原作で、連載中に太平洋戦争が勃発した。
(『新雪』の月丘夢路)
 戦時下の阪急線御影駅(神戸市)付近が舞台になっている。「国民学校」教師の蓑和田良太水島道太郎)と隣組の女医片山千代月丘夢路)を中心に周囲の人物を描いている。チラシには蓑和田が「進歩的な教育理念を掲げる国民学校の教師」と紹介されているが、国民学校と改称されたので「皇国民錬成」に力を入れるべしというような「進歩的」である。しかし、子ども好きで木登りを勧めるような型破りの「快男児」。一方片山千代も当時は珍しい女性眼科医で、戦時色が濃いながらも六甲山麓の爽やかな青春映画になっている。神戸の高羽国民学校で夏休みにロケされたが、この学校は阪神淡路大震災後に建て直されている。
(映画『火の鳥』、映画は白黒)
 その前に『火の鳥』(1956年)を見た。井上監督、月丘主演映画で、月丘が新劇の大スター生島エミを貫禄で熱演している。伊藤整の原作(1953年)の映画化で、当時の大ベストセラーだった。戦前から詩人、小説家として知られた伊藤整は、1950年にD・H・ロレンス『チャタレー夫人の恋人』を翻訳したところ、わいせつ文書として起訴されて有名になった。エッセイ『女性に関する十二章』も売れて、50年代初期に伊藤整ブームが起こった。英文学者で純文学作家の伊藤整が売れたというのは、今では信じられない。今では忘れられた感があるが、非常に重要な作家だった。
(伊藤整)
 バラ座の人気女優生島エミは情熱のまま生きてきた。父が英国人のハーフで、日本人の父から生まれた異父姉(山岡久乃)と大きな洋館で暮らしている。作家志望の杉山(三橋達也)を捨て、今は劇団を主宰する演出家の先生と愛人関係にある。「伯父ワーニャ」の打ち上げで、映画会社からあいさつされ心が揺れる。劇団は生島の人気で持っているが、劇団内には嫉妬もあり、新しいものにチャレンジしたいエミは映画界からのオファーに応じたい気持ちもある。だが先生は映画は娯楽重視で、我々が目指す芸術としては不足だと言う。そこら辺の映画と新劇の描き方が興味深く、打ち上げでロシア民謡で踊るのも「新劇」的。
(「伯父ワーニャ」を演じる月丘夢路)
 映画『火の鳥』に出演が決まると、相手役にニューフェースの長沼敬一仲代達矢)を抜てきする。これは実際に俳優座公演『幽霊』を見た月丘夢路が監督に進言したという。仲代達矢の本格的映画出演第一作で、若い頃の姿を見られる貴重な映画。海岸の船影で濃厚なキスをする場面を演じている。そこからエミは長沼を可愛がるようになり恋愛に発展、舞台公演の初日をすっぽかしてマスコミで大きく騒がれる。しかし、長沼は砂川闘争(を連想させる左翼運動)に参加して逮捕され、映画会社はクビになった。そこで在学中の大学劇団に戻り、その公演に生島エミに出て欲しいと頼む。

 このように当時の映画演劇界の裏を見せてくれ風俗映画としても興味深い。新劇から来たエミに「北原君の誕生パーティー」で皆に紹介しようという場面があり、北原三枝のパーティーになる。長門裕之と芦川いづみが踊ったりして、非常に貴重な場面になっている。そういう裏話的シーンが面白く、「情熱の女」を描くというテーマは今からすると中途半端かもしれない。だけど様々な意味で映画史的に貴重な存在だ。実は去年昔の映画を特集上映するシネマヴェーラ渋谷で月丘夢路や井上梅次監督の特集が行われた。月丘特集は何本か見て『火の鳥』もその時見るつもりだったが、母親が突然入院してしまって不可能になった。一年越しに見ることが出来て宿題を片付けた感じがする。

 井上梅次監督は60年代以後香港に招かれ、10本以上監督している。その中から『香港ノクターン』という映画が上映されるのも興味深い。ところでこの人には問題もあって、80年代に作られた一番最後の2本は統一協会や勝共連合が関わった映画なのである。月丘夢路もその頃よくやっていた「一和の高麗人参茶」のテレビCMに出ていたという。そうか、あれが月丘夢路だったのか。広島出身で近年は『ひろしま』(1953)の教師役が再評価されているが、そういうこともあったのである。この前見た『君の名は』でも後宮春樹の姉役で3本とも出ていたから、昔はホントに人気があったのだろう。
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『君の名は』三部作を見るー疑問だらけのすれ違いドラマ

2023年10月25日 22時23分09秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターで、菊田一夫原作の映画特集をやっている。「「君の名は」公開70周年記念」とうたっていて、その『君の名は』3部作をこの機会に見た。今まで「総集編」を見たことはあるが、もとの3本の映画は見たことがなかった。2時間超あるから、合わせて6時間を越える。今回は一週ごとに一部ずつやってたから、何とか見に行けた。今でも見られる「すれ違い」メロドラマの古典だが、設定には疑問も多い。菊田一夫(1908~1973)は日本の商業演劇、ミュージカルの発展に忘れられない人で、多くの舞台脚本を書いた。今回は他にも興味深い作品が上映されているが、時間の関係上見なかった。
(映画はモノクロ)
 『君の名は』は元々はNHKのラジオドラマである。(テレビ放送開始は翌1953年。)1952年4月10日に始まり、1954年4月8日まで続いた。毎週木曜日20時30分から21時までの30分間で、計98回。(このデータはWikipediaに拠る。)「番組が始まる頃には女湯が空になる」という伝説がある。(当時は家に内湯がある人はほとんどなく、多くが銭湯を利用していた。)松竹で映画化され、1953年9月15日に第1部、同年12月1日に第2部が公開され大ヒット。同年の配給収入トップ2となった。第3部は1954年4月27日に公開され、同年の配給収入1位。合わせて観客動員数3千万人という超大ヒットである。
(菊田一夫)
 物語は1945年(昭和20年)5月24日に始まった。東京大空襲と言えば、10万人が犠牲になったと言われる3月10日が知られるが、その時は東京東部が中心だった。その後も空襲は続き、中でも5月25日は皇居や首相官邸が焼けた山手大空襲として知られる。ただ死者は3651人で、3月に比べて少なくなっている。この間に疎開が進んだり、密集が少ない地域性によるだろう。一方、その前日の5月24日にも罹災者22万を出す空襲があった。空襲地の詳しいことは知らないが、銀座・有楽町付近はこの日に爆撃されたのだろう。今回初めて気付いたが、この日はちょうど僕が生まれた日の10年前ではないか。

 後に後宮春樹(あとみや・はるき)と氏家真知子(うじいえ・まちこ)と判明する二人の男女は、この日たまたま銀座周辺にいて、一緒に避難する。翌朝名前を聞こうとするが、また空襲警報が鳴ったので、生きていたら半年後に同じ数寄屋橋(すきやばし)で会おうと約束して別れたのだった。数寄屋橋は江戸城外濠に架かっていた橋で、関東大震災後の1929年に石造になった。真ん前に大きな日本劇場(日劇)があり、有名な東京風景だったという。1958年に高速道路が上を通ることになり外濠は埋め立てられた。その後しか知らないから、実際の橋が見られるのは貴重である。
(昔の数寄屋橋)
 このドラマ、映画は大ヒットしたが、角川春樹(1942~)、村上春樹(1949~)はそれ以前に生まれているので、「春樹」という名前はその影響じゃない。1973年の金大中氏拉致事件時の駐韓国大使は後宮虎郎という人だったが、「うしろく」という読みだった。「あとみや」なんて読み方があるのか。佐田啓二(1926~1964)が演じたが、今は中井貴一の父と言わないと通じない。37歳で自動車事故のため亡くなり、前年に亡くなった「小津に呼ばれた」などと言われた。小津安二郎、木下恵介、小林正樹など名匠の作品で忘れられない存在感を残している。昔の映画を見ている人には親しい存在だ。

 岸惠子(1932~)は、1951年にデビューして鶴田浩二や佐田啓二の相手役をしていた(鶴田浩二と噂になったが松竹が別れさせたとWikipediaにある)が、本格的な大スターになったのは『君の名は』だろう。時々見せる氷の表情が魅力的で、21歳とは思えない。以下の画像にあるストールの巻き方は、「真知子巻き」として今も名が残る。北海道ロケで寒かったから、私物を使ったというが、今見るとまるでヒジャブみたいな感じがする。この後、1957年にフランスのイヴ・シャンピ監督と結婚して一人娘が生まれるも、1975年に離婚。その間も日本の映画には断続的に出演し、『雪国』『おとうと』『怪談』『細雪』など文芸映画で名演した。僕は若い頃に見た『約束』(斉藤耕一監督、1972)の女囚役が忘れられない。小説やエッセイも高く評価されている。
(岸惠子と佐田啓二)
 ま、そういう俳優情報は別にして、この二人はその時東京で何をしていたのか。男はほとんど軍隊に行ってた時代だ。その後の仕事を見ても理系とは思えない後宮が何故東京にいたかが不思議。真知子は約束の前日におじに連れられて佐渡に帰らざるを得ず、数寄屋橋に行けない。東京育ちならともかく、佐渡に同級生・綾(淡島千景)がいるんだから、佐渡育ちなのである。それなら何故疎開しないのか不思議。おじは強圧的人物で帰りたくないんだろうけど、命には換えられない。健康な男女が東京都心でウロウロしていること自体が不思議で、その背景事情は全く説明されない。

 名前も判らないでは探しようもないが、それはエンタメの特性から判明する。一方、佐渡で真知子には縁談が持ち込まれる。中央官庁に勤めているというかなり恵まれた縁談で、おじの強要で断りにくい。おば(望月優子)は長く圧政に苦しんできて真知子に同情的だが、やむなく見合いに進む。その相手が浜口勝則川喜多雄二、1923~2011)で、主要人物の配役は皆判るのにこの人だけ知らない。元は歯医者だそうで、スカウトされて50年代には結構多くの映画に出ている。60年代に引退して歯科医に戻ったそうだ。浜口はすぐ結婚とは言わない、東京へ行って一緒にその人を探してみようと誘う。そして、実際に姉(月丘夢路)が住む三重県鳥羽に帰ったと聞いて探しに行く。しかし、すれ違いで会えない。そして、真知子は浜口の親切にほだされ、結婚を承諾する。
(川喜多雄二)
 すれ違いの筋を延々と書いても仕方ないから止める。第1部は佐渡の尖閣湾、第2部は北海道の美幌と摩周湖、第3部は雲仙、阿蘇と全国観光めぐりになっているのも、この種の映画の定番設定。第2部では真知子が北海道まで行き、後宮に会おうとする。第3部では後宮が雲仙まで真知子を訪ねてくる。飛行機ですぐ行ける時代じゃなく、ご苦労様という感じ。夫婦関係は一度妊娠するも流産し、その後は悪化する一方。それは「嫁姑関係」に問題がある。父を失い母と暮らしてきた浜口は、妻より母を大事にし、何事も母に仕えることを第一とする。その母は息子を失うことを恐れ、流産しても温かい言葉ひとつ掛けない。佐渡から来たおばが第2部でズバッと言い返すが、さすが望月優子の名演で胸のつかえが取れる。日本社会の家父長制の伝統、家族主義に苦しむ女性という構図は戦後的テーマである。

 第3部では離婚調停から、刑事告訴(!)もという展開に至るが、泥沼の愛憎の中、二人はあくまでも清くありたいと望む。浜口も次官の娘と付き合うようになったが、その娘は結婚したら母親とは別居が条件と言い渡す。姑も今さら真知子の方が良かったと気付き、雲仙まで謝りに来るが病気で倒れる。まあ、すったもんだがずっと続くが、ようやっと最後に病床の真知子に離婚届にサインして浜口が会いに来る。どうして、こんなことになってしまったのか。二人は語り合うが、誰も悪くなかった、仕方なかったと真知子は語る。結局、戦争と同じである。ひとりひとりは皆いい人で、責任はない。やむを得ず揉めることになってしまったけど、と言うのである。これが『君の名は』が受け入れられた真の原因ではないかと思う。

 もう一つ、今は2人のすれ違いという主筋を書いたが、結構多くの人物が出て来て副筋の物語がある。そこでも不幸な人々がいかに幸せになれるかがテーマとなり、何故か皆が幸せになっていく。だが、そのように多くの関係人物のドラマがあることで、主筋、副筋、風景的シーンが絡みあいドラマチックに進行するのである。そこが上手く編集されていて、やはりエンタメ作品は(当然脚本、俳優、演出を前提として)、編集が重要だなと強く思った。編集を担当したのは、女性映画人のパイオニアの一人として知られる杉原よ志である。スタッフ、キャストの大半は亡くなっているが、存命なのは岸惠子北原三枝(石原裕次郎夫人)ぐらいか。監督は多くの娯楽作品を松竹で作った大庭秀雄で安定感がある。
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天地真理を見に、『真理ちゃん映画祭り2』へ

2023年10月15日 22時44分56秒 |  〃  (旧作日本映画)
 雨の中、池袋HUMAXシネマズ シネマ1で開かれた『真理ちゃん映画祭り2』に行ってきた。6千円もするけど、もう8月に予約していたのである。「真理ちゃん」というのは、天地真理(あまち・まり、1951~)のことで、そう言われても判らない人もいるかもしれない。1971年にデビューして、70年代中頃まで絶大な人気を誇った歌手で、出演映画も何本かある。今回は『愛ってなんだろ』(1973)、『虹をわたって』(1972)の映画2本の上映の他、テレビ番組の歌映像上映、タブレット純×佐藤利明のトークショーもあった。しかし、そういうことより、天地真理本人の舞台あいさつがあったのだ。これは逃せない。
 
 実はそこまで大ファンだったわけではない。探してみたら、シングルレコードは72年の大ヒット曲「ひとりじゃないの」しか持ってない。アグネス・チャンやキャンディーズより少ない。そもそもアイドル系歌謡曲はそんなに持ってなくて、サイモン&ガーファンクルやザ・ビートルズ、あるいはモーツァルトやバッハなどのクラシック、ジャズなど雑多なLPレコードを聴いていた。それでも71年秋に「水色の恋」でデビューした天地真理はよく聞いた。媒体はラジオである。テレビは一家に一台で、夜遅くまで見るわけにいかない。高校生が受験勉強するときの友はラジオの深夜放送だった。だから、当時のヒット曲は詳しいのである。
(「ひとりじゃないの」ジャケット)
 まず最初に舞台あいさつ。今日は『愛ってなんだろ』で共演した森田健作とともに天地真理が登壇した。森田健作前千葉県知事は要らないんだけど、さすがに元政治家だけにうまく誉めるのに感心した。本人はさすがに年は取っているが、今も魅力的。ちょっと体調が心配な感じもあるが、今まで何度も苦境を乗り越えてきた人だ。今は娘と孫もいて、ファンクラブは娘さんが手伝っている。今日はどうせ「じいさん」ばかりだろうと思っていたら、まあベースはそうなんだけど、案外女性客が多い。3割か4割はいた。若い人もいないわけではない。広く愛された歌手だったんだなあと思った。

 当時のテレビ番組「真理ちゃんシリーズ」から、歌の映像が流された。「アイドルの名を冠したバラエティのルーツ」とチラシにある。木曜夜19時だとあるが、僕はその番組を見ていない。家では主にNHKニュースを見る時間だったんだと思う。ここで聴ける当時の歌は非常に素晴らしい。デビュー当時のキャッチフレーズが「あなたの心の隣にいるソニーの白雪姫」だった。「白雪姫」と言われるような白が似合う衣装に、澄み切った歌声が響き渡る。実は国立音大附属高の声楽家卒で、ジョーン・バエズや森山良子に憧れていた。その後、ヤマハ附属ミュージックスクールで学んでプロを目指していた。天地真理は、60年代までの「大スター」性、70年代以後の親しみやすい「アイドル」性、それに60年代末のフォーク系歌手のそれぞれのイメージをまとっていた。

 歌声の素晴らしさとテレビ『時間ですよ』でデビューした親しみやすさが天地真理の持ち味だった。この位置づけに関しては、タブレット純(歌手・芸人)と佐藤利明(娯楽映画研究家)の対談が刺激的だった。一番面白かったのは実はこのトークショー。佐藤さんはとにかく詳しくて、天地真理の最初の映画は本名斎藤真理名義でクレジットされた『めまい』(斉藤耕一監督)だという話に驚いた。書きたいことは多いが、僕が一番驚いたこと。幼い佐藤氏は足立区北東部の花畑団地に住んでいて、最初に買ったLPレコードは竹ノ塚駅前のレコード屋で買った天地真理だった。そこは多分僕が「ひとりじゃないの」を買った店だ。
(タブレット純)(佐藤利明)
 広瀬襄監督の『愛ってなんだろ』は天地真理の歌を全面的に見せるための歌謡映画で、映画的には物足りない。共演が森田健作だが、この人気青春スターを使いながら、二人は恋人にならない。天地真理はおもちゃ会社の社員で、同僚と歌のグループを作っている。いろいろあって、森田が作詞作曲した(設定の)「若葉の季節」をテレビで歌う。そこら辺が初々しい魅力で(ファンには)見応えがある。脇役の小松政夫、田中邦衛、佐藤蛾次郎、尾藤イサオ、谷啓など強力な布陣を楽しめる。来年3月に初DVD化。
(映画『愛ってなんだろ』)
 それに比べれば『虹をわたって』はずっと面白い。喜劇の名手前田陽一監督の作品で、横浜の水上生活者と山手のお嬢様の交流を描いている。前に銀座シネパトスで見ているが、今回の方が面白く見られた。萩原健一沢田研二が天地真理の相手役で出て来るから豪華なものである。萩原健一は実際に天地真理を乗せて車を運転しているし、沢田研二は天地真理とヨットに乗る。他にも有島一郎、なべおさみ、岸部シロー、日色ともゑ、左時枝など共演が見事なのは当時の映画に共通している。天地真理をあえて下層世界に投げ込んで働かせるという趣向が生きている。
(映画『虹をわたって』)
 休憩込みで5時間半ほどの長丁場。値段もそれなりで疲れたけど、やはり行って良かったなあと思って帰ってこられた一日だった。「2」というから、「1」があったはずだが、それは全然知らなかった。二人のトークショーは盛り上がって、他でまたやりましょうと言っていた。それは是非行きたいな。
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映画『若者たち』と60年代の「希望」のゆくえ

2023年08月06日 22時38分35秒 |  〃  (旧作日本映画)
 一昨日になるが、国立映画アーカイブで『若者たち』(1968)を見た。それ自体なら、今改めて書くまでもないんだけど、『十八歳、海へ』を見て、さらに山上徹也被告に関する本を読んだ。それらを通して、「希望」が時代とともに移り変わっていった様子がうかがえる。『若者たち』は僕以上の年代の人ならテーマ曲(藤田敏雄作詞、佐藤勝作曲)を歌えるだろう。(その後教科書に載ったり、21世紀に再ドラマ化されたので、若い世代も知ってるのかもしれない。)
(『若者たち』)
 もともとはフジテレビで放送されたドラマだった。1966年に放送され、大きな評判となったという。しかし、9月23日放送予定の回が「在日朝鮮人」差別を扱っていたため、放映が中止されてしまいドラマも終了した。そこで俳優座が中心となって、映画化したわけである。テレビ版で親のない5人家族を演じた、上から田中邦衛橋本功山本圭佐藤オリエ松山省二がそのまま映画にも出演した。テレビでも担当していた森川時久が監督を務め、5人一家の絶妙なアンサンブルが映画でも生かされている。森川監督、田中邦衛、山本圭がこの2年内に相次いで亡くなり、今回はその追悼上映になる。
(森川時久監督)
 この映画は評判を呼んで、『若者はゆく』(1969年)、『若者の旗』(1970)と製作されて三部作となった。キネ旬ベストテンを調べてみると、第1作は(67年の)15位、第2作は12位、第3作は21位になっている。昔はよく自主上映されていたが、最近はあまり映画館でもやられていないと思う。(配信があるかどうかは知らない。)僕は学生の頃に三鷹オスカー(確か)という映画館まで三部作一挙上映を見に行った記憶がある。70年代後半に見ても、すでにちょっと時代離れしたモノクロ映画になっていた。3本続けて見ると同じパターンの繰り返しに驚く。労働者の田中邦衛が大声で怒鳴って、大学生の山本圭が冷静に正論でやり込める。

 両親ともになく、長兄、次兄は働いて弟の進学を助けている。三男は学生だが、四男は浪人中。長女の佐藤オリエ(この家は佐藤家なので、役名と本名が同じ)は家事を担当していたが、いろいろ不満を溜め込んでいて、ある日家出して働き始める。5人の子どもたちはともに深く信頼し合っているが、現実社会の貧困や差別に直面して大げんかが起きるのである。そうすると、上記画像のようにちゃぶ台で食べているので、「ちゃぶ台返し」になる。僕はちゃぶ台で食べていた幼少時代を経験しているが、70年代後半にはもうテーブルで食べている家が多かった。五人も兄妹がいる家庭も周りにはなかった。

 冒頭からテーマ曲が何回も流れる。歌ったのはサ・ブロードサイド・フォーというグループで、これは黒澤明監督の長男黒澤久雄がやっていた。ただし、僕は同時代的にドラマや歌を知ってたわけではない。歌詞を書くと1番は「君の行く道は 果てしなく遠い だのに なぜ 歯を食いしばり 君は行くのか そんなにしてまで」である。2番を抜かして3番は「君の行く道は 希望へとつづく 空にまた 陽が昇るとき 若者はまた 歩き始める」となる。
(第2部『若者はゆく』)
 作詞の藤田敏雄(1928~2000)を調べてみると、日本のミュージカル草創期に労音で多くのミュージカルを創作した人で、「題名のない音楽会」の企画構成、「世界歌謡祭」の総監督なども務めた人物だった。興味深いことに、岸洋子が歌った「希望」も作詞している。「希望という名の あなたをたずねて 遠い国へと また旅に出る」と始まるドラマティックな短調の曲である。なんで「希望」がこんなに暗いメロディーなんだろう。「若者たち」でも「君の行く道は希望へとつづく」と歌われた。

 この時代の「希望」とはどんなものだったのだろう。今「格差社会」と言うが、明らかに60年代の日本の方がはるかに貧困を抱えていた。それを言えば、戦前の日本はもっともっと大きな格差があったのである。だが、それが当たり前であると人々が思っていた時には、自分たちがひどい格差社会に生きているとは思わない。一方、60年代は「高度成長」のさなかで、少しずつでも人々が暮らしが良くなると信じられた時代だった。また「社会主義の理想」が生きていて、人々が連帯することで世の中をよくしていけるのだと信じた人が多かった。『若者たち』三部作も基本的にはそういう流れの中にある。
(第3部『若者の旗』)
 現実社会には多くの困難や矛盾があるけれど、それは「自然現象」ではなく人間が作り出したものである以上、やはり人間の手によって変えてゆくことができるはずだ。それがこの映画で山本圭たちが強く主張していることである。現実社会の中で厳しい「学歴差別」に直面する田中邦衛は、そのような理想論をすぐには受け入れられない。頭では理解出来ても、どこかうさんくさく感じてしまうのだろう。だが、より良い暮らしのために頑張るんだという向日性は映画のベースにある。それがこのテーマ曲に現れている。

 その後の日本では、70年代後半から80年代にかけて「一億総中流」と呼ばれる時代がやってきた。それはもともと「幻想」だったと思うけれど、幻想ではあれ自らを中流と思える暮らしを手に入れた。テレビや冷蔵庫だけでなく、自動車やクーラーも不可能ではないというアメリカのテレビドラマに出て来るような暮らしに日本人も手が届いた。それなのに、それが実現したときに「自分」が何者だか判らなくなる。それが70年代後半の若者の気分だろう。だから中上健次原作の『十八歳、海へ』の登場人物のように「心中ごっこ」をする青春になる。

 その時代に生まれた「ロスジェネ世代」(山上徹也被告もそのひとり)からすれば、自分たちの生きてきた中で日本が上向きだった時代などなかった。格差は昔の方が大きかったし、生活水準も昔より上なのに、自分たちには「希望がない」と思う。それは「一度は持っていたものを失った」という無念や苦しさのためだろうか。もう人々が連帯して闘うことなど、誰も信じなくなってしまった。20世紀最後の年(2000年)に刊行された村上龍希望の国のエクソダス』では、主人公に「日本には何でもあるが、希望だけがない」と語らせている。まさにそういう中で、われわれは21世紀を生きているのだ。
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藤田敏八監督『十八歳、海へ』(1979)について

2023年08月03日 23時22分54秒 |  〃  (旧作日本映画)
 今日は読んだ本について書く心づもりだったが、最後の方が読み終わってないので次回回し。で、まあ休んでもいんだけど、昨日見た昔の映画について書いておきたい。上野でマティス展を見た後、地下鉄銀座線上野広小路駅まで歩いて京橋まで行った。国立映画アーカイブで藤田敏八監督『十八歳、海へ』という1979年の映画を見るためで、これが3時からだからその前に展覧会に行ったわけ。勘違いされないように最初に書いて置くけど、別にこの映画が傑作だというわけじゃない。むしろガッカリ感が強い。だが、キャストやスタッフのその後、映画の時代背景、原作の中上健次など、映画以外が面白かったのである。

 今回は「逝ける映画人を偲んで 2021-2022」という特集で、追悼対象は製作の結城良煕と脚本の渡辺千明という人である。どちらも知らなかったが、渡辺はこれがデビュー作という。ウィキペディアを見ると、その後の映画脚本は少なく、むしろ日本映画学校で教えたり、小津安二郎の共同脚本家として知られる野田高梧の別荘にあった『蓼科日記』を刊行した業績がある人らしい。この映画は大島渚映画の脚本家だった田村孟と渡辺千明が脚本にクレジットされている。
(主演の3人)
 冒頭は予備校の夏季講習の結果発表で、全員の順位が張り出されている。当時はそんなこともあったか。僕はよく覚えてないけれど、そうだったかもしれない。中学なんかでも成績を張り出すことは普通にあった時代だ。そこで1位になったのが、釧路から来ている有島佳(ありしま・けい)という女子。男どもは「おお、女が1位か」とか言ってる、そんな時代である。ビリになったのが、桑田敦天(くわた・あつお)で、桑田は有島を探して、一緒に出掛けないかという。ビリとトップなら面白いとか言って。桑田を演じているのは永島敏行で、『サード』『遠雷』など70年代後半の日本映画で輝いていた。
(近年の永島敏行)
 で、肝心の有島佳は誰だ? うーん、誰だっけとちょっと考えて、パッと名前を思い出した。森下愛子じゃないか。永島、森下は『サード』のコンビである。その後も東映映画などに出ていたが、むしろ80年代にはテレビで活躍していた。そして、1986年に吉田拓郎の「第三夫人」になっちゃった。いや、イスラム教じゃないんだから、3人目という意味だけど。まあ、今度は添い遂げるみたいだから、傍の者があれこれ言うこともないだろう。ウィキペディアを見ると、拓郎のオールナイトニッポンに呼ばれたとき、森下愛子も警戒して竹田かほりと一緒にやってきたと出ている。竹田かほりは『桃尻娘』の主役で、甲斐バンドの甲斐よしひろと結婚して引退した人。森下は根岸吉太郎監督と噂されていたが、結局吉田拓郎と結婚したと出ていた。
(近年の森下愛子)
 先の二人は鎌倉の海へ行って、男は女にモーションをかけている。そこへバイクがやってきて、バイク集団とのケンカになる。因縁を付けられているのは、同じ予備校生の森本英介。これは小林薫で、状況劇場のメンバーだったが映画に出始めた頃。クレジットに新人とあって、感慨深い。森本はケンカではなく、懐に石を詰め込んで海に入る競争をしようという。そのエピソードが終わって、もう明け方も近い頃、今度は森下愛子が永島敏行に同じように「自殺ごっこ」をしようと持ち掛ける。これが全く判らないのである。そこまでヒリヒリした追いつめられた青春という描写がない。それでいて、この二人は「心中ごっこ」を繰り返すのである。

 そこが伝わらないと、単なる風俗映画になってしまう。そして、実際にこの映画は時代を象徴するような青春映画にはなれなかった。一応キネ旬ベストテン18位になってるけど、あまり面白くない。監督の藤田敏八は70年代前半には忘れがたい青春映画を作っていた。『八月の濡れた砂』(1971)、『赤い鳥逃げた?』(1973)、『赤ちょうちん』『』(1974)などだが、1978年の『帰らざる日々』を最後に、どうもパッとしなくなった。角川映画の『スローなブギにしてくれ』(1981)など、どこが悪いとも言いがたいがズレてる感が強い。これは70年代前半を代表する神代辰巳、深作欣二などにも言えることで、それぞれ作風を変えたり低迷したりした。これは時代の方が変わったからだと思う。とらえどころがない時代が来たのである。
(藤田敏八監督)
 この映画の主人公たちは全く理解出来ない。「自殺」をこれほど遊びのようにとらえても良いのか。永島も森下も健康的な身体をしていて、「心中ごっご」が腑に落ちない。そんなに人生がイヤで、模試で全国トップになれるのか。腑に落ちないと言えば、有島佳の姉、有島悠が小林薫と付き合ってしまう。悠を演じているのが誰か判らなかったが、島村佳江という人だった。『竹山ひとり旅』などに出ていて当時は知っていたかもしれない。調べてみると、この人は藤間紫の息子文彦と結婚して、息子が藤間翔、娘が三代目藤間紫なのである。藤間紫は先代猿之助の二番目の妻だが、いろいろな映画にも出ていた。実に色っぽくて、どうも「好きにならずにいられない」といったタイプなのである。
(島村佳江)
 森本英介はホテルサンルート東京で働いていて、ロケで使われている。ただし、今はサンルート東京というホテルはなくて、どこだったかは判らない。上京した医者の父がこんなところで働くのは辞めろといって、ホテルがクビにしてしまうのもすごい。ワケあり家庭だったようだが、細かい説明はなく、箱根のホテル(小涌園)を取ったから来なさいと父が英介に言う。英介はそれを有島と桑田に譲ってしまう。そこら辺の展開は強引そのもので、映画なら許される「偶然性」を遙かに超えている。まあ、全部書いても仕方ないけど、中上健次の原作はどうなってるんだろう。紀州ものは大体読んでたけど、他の小説は読み落としが多い。この原作も読んでない。中上健次原作の映画は『火まつり』『赫い髪の女』など傑作が多いが、これは中で一番下の失敗作。だけど、自分の若い時代がロケの中に残されてるから懐かしい。
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映画『恋する女たち』(大森一樹監督、1986年)の面白さ

2023年03月05日 22時43分36秒 |  〃  (旧作日本映画)
 氷室冴子原作、大森一樹監督の『恋する女たち』(1986)という映画が好きで、その面白さの理由を自分でもよく表現できないので、書いてみることにした。現在、神保町シアターで「アイドル映画と作家主義ー80年代アイドル映画白書」という特集上映で大林宣彦監督の『時をかける少女』『さびしんぼう』などとともにこの映画も上映されている。80年代は仕事が忙しくて公開時は見逃したのだが、10年ぐらい前に初めて見たらとても面白かった。今回が3回目で、何回見ても面白い。

 主演は当時歌やコマーシャルで人気だった斉藤由貴で、前年の1985年末に相米慎二監督『雪の断章ー情熱ー』に主演していて、この『恋する女たち』が2度目の主演になる。斉藤由貴は日本映画アカデミー賞主演女優賞を受賞するなど好評で、続いて『トットチャンネル』『「さよなら」の女たち』と大森監督の斉藤由貴三部作が作られた。1986年のキネマ旬報ベストテン7位に入っていて、これは大森監督にとって代表作『ヒポクラテスたち』とともにただ2作だけの入選になっている。

 原作は当時集英社コバルトシリーズで、絶大な人気を誇っていた氷室冴子。80年代に「ラノベ」の「少女小説」を確立させた作家で、当時女子中高生などに人気があった。その後、平安時代を舞台にした「なんて素敵にジャパネスク」で知られたが、2008年に51歳で亡くなっている。原作の舞台は北海道だというが、映画はそれを金沢に移して魅力的なロケをしている。兼六園などの名所ではなく、何気ない川沿いの道や野球場、美術館なんかが素晴らしい。金沢を舞台にした映画の中でも一番魅力的だと思う。

 この金沢の魅力も成功の大きな理由になっているが、それより出て来る高校生役の俳優が生き生きと演じているのが一番だろう。原作と主演女優が決まっていた「アイドル映画」だが、監督の人選が難航していたという。大森監督は当時『ゴジラvsビオランテ』(1989)の脚本が行き詰まっていて、こっちを先に受けることになった。大森監督は直前に吉川晃司三部作(『すかんぴんウォーク』『ユー・ガッタ・チャンス』『テイク・イット・イージー』)を撮り終わったところで、男優と女優は違ってもアイドル映画の作法は熟知していだろう。実際、流れるように物語が進行する見事な語り口に乗せられて見終わる。

 冒頭で黒服を着た女子高生3人が葬式写真を持っているから、何だろうと思う。しかし、それは江波緑子高井麻巳子)がなんかショックなことがあると、自分の死亡通知を他の二人に送ってよこし、皆で「葬儀」を執り行うものだった。すでに3回目で、白い十字架を地面に差している。このアホらしい自意識過剰の少女趣味に付き合っているのが、吉岡多佳子斉藤由貴)と志摩汀子相楽ハル子)で、映画はこの3人の恋模様の推移を描いていく。高校生なんだから勉強もあるわけだし、部活や進路はどうしたと思う。でも親や教師はほぼ出て来なくて、一般のクラスメートも出てこない。このおとぎ話的設定こそ成功の最大要因だ。
(ラストシーン。左から高井、相楽、斉藤)
 ちなみに、高井麻巳子は「おニャン子クラブ」のアイドルで、その後秋元康と結婚して芸能界は引退している。相楽ハル(晴)子はテレビドラマに出ていて、これが映画初出演。後に阪本順治監督デビューの『どついたるねん』で高く評価されキネ旬助演女優賞を受けた。現在はアメリカ人と結婚してハワイ在住だという。3人とも超絶的美少女ではなく、斉藤由貴もふて腐れ顔なども多くてコメディエンヌとして評価された。この絶妙なアンサンブルが魅力的なのである。

 たかが女子高生が「恋する女たち」なんておかしいけど、緑子、汀子のお相手は年上の設定になっている。普通に同級生に憧れているのは多佳子だけで、若き日の柳葉敏郎演じる野球部員沓掛勝にお熱。柳葉はすでに25歳で高校生役は少しキツいが、一生懸命野球をしていて、いかにも若い。しかし、彼には中学時代からの恋人がいて、他校生ながら試合に応援に来ている。美術館や映画館前でなぜか沓掛と出会ってしまうのに、多佳子の気持ちは全然気付いて貰えない。逆に下級生の神崎基志菅原薫)に見つめられ告白されてしまう。中学時代に姉の比呂子原田喜和子)が家庭教師をしていて、姉への憧れが妹を発見させたらしい。菅原薫は菅原文太の長男だが、小田急線電車にはねられて31歳で亡くなった。
(柳葉敏郎と斉藤由貴)
 傑作なのは美術部の大江絹子で、勉強をサボったため留年した設定。演じているのは小林聡美で、例によって怪演している。斉藤由貴はまだセリフ回しがキツい感じがあるが、比べると小林聡美の演技は圧倒的にうまいと思う。でも多佳子が絹子に圧倒されるという設定のシーンだから気にならない。お互い授業をサボったり、好き勝手にやってるところが面白い。絹子は絵ばかり描いている生徒だが、多佳子がお気に入りで今度ヌードを描かせろなんて迫っている。この小林聡美が出ていることで、映画はピリッとしまっている。やはり脇役こそ重要だと思う。
(小林聡美と斉藤由貴)
 多佳子、比呂子姉妹は温泉宿の娘で、親が観光協会長をしているから観光協会の2階に住めるという。学校に行くために二人暮らしをしているという都合のいい設定である。二人の親がやってるという「辰口温泉まつさき」は実在の宿で、映画では斉藤由貴が掛け流しの風呂に入っている。比呂子は大学卒業後は家に帰って女将を継ぐという約束を守って、見合いをするという。しかし、実は…という展開がある。年上には年上の事情があり、やはり高校生は高校生同士で海辺で野点をするというラスト。このラストが実に美しくて魅惑的。ドローンを使ったかのような空中撮影が見事だ。

 結局何が面白いのかなと思うと、巧みな脚本と演出でジャンル映画としての高い完成度を見せていることだなと思った。野村孝監督『拳銃(コルト)は俺のパスポート』や加藤泰監督『明治侠客伝 三代目襲名』などを何度見ても面白く見られるのと同じではないか。どういうジャンルかと言えば、『少女アイドル映画』ということだが、全体にあるガーリーな趣味がうまく生きている。自分と違う世界であっても、ジャンル映画は完成度次第で面白く楽しめるわけである。
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清水宏監督「明日は日本晴れ」、敗戦3年目のバス映画

2022年05月05日 22時36分20秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立映画アーカイブで「発掘された映画たち2022」という特集上映を行っている。非常に貴重な映画が「発掘」されているが、このレベルの映画まで全部見ていると他のことが出来ない。しかし、清水宏監督の戦後第2作「明日は日本晴れ」(1948)は是非見ておきたいと思った。公開以来、ほとんど知られることなく、74年ぶりの上映である。独立プロ「えくらん社」の第1回作品で、東宝で配給された。しかし、何故か松竹から16ミリフィルムが発見されたという。戦前に所属して関係の深かった松竹だからだろうか。松竹作品でもないのに、松竹のホームページの「作品データベース」に記載があるのも不思議。

 清水監督には「有りがたうさん」(1936)という映画がある。伊豆を走るバスの運転手(上原謙)は乗客に「ありがとう」と声を掛けることから「ありがとうさん」と呼ばれている。ただその様子を淡々と映すだけのロード・ムーヴィーなんだけど、乗客には身売りされていく娘もいるし、街道を日本に働きに来た朝鮮人労働者たちも歩いている。ほのぼのとしたムードの中に、日本のさまざまな状況が写し取られている。「明日は日本晴れ」は清水監督が再び描いたバスと運転手の映画である。
(「明日は日本晴れ」)
 たった65分の映画で、特に深いドラマも起こらない。それは清水監督の多くの映画と同様だけど、この映画が特徴的なのは、バスが2回故障して立ち止まることである。恐らく敗戦後の日本では、実際にボロバスが多くて故障が多かったんだろう。1回目は何とか動き出すが、2度目はついに立往生。峠まで皆で押してゆき、そこで救助を待つことになる。町は遠くて救援を呼ぶことが出来ない。向こう側からもバスが来るので、そのバスに救援車を送ってくれるように頼むしかない。あるいはもう歩いてしまうか、通りかかったトラックの木材の上に乗せて貰うか。それとも逆のバスに乗って出発地に戻るか。その間の様子を描くだけだが、そこから戦後3年目の日本が見えてくる。

 客の中には闇屋もいれば、戦傷者もいる。目が見えない按摩(日守新一)もいる。按摩は目が見えないのに、乗客の人数、性別などを当てる。後で判るが、失明したのは満州事変の戦傷だった。実際に戦争で片足を失った御庄正一(清水監督の前作「蜂の巣の子供たち」で浮浪児の元締め役で出演していた)も出ている。バスには戦死した部下の墓参を続けている元将官もいる。その事を知って、戦傷者の御庄が怒り出す。それも当然だろうが、運転手は何とか止めようとする。乗客同士のケンカを止める立場だが、それだけではなく運転手(水島道太郎)は「もう戦争のことは忘れよう」と思って生きているのである。

 若い女性車掌(三谷幸子)は運転手の「清(せい)さん」に気があるようだ。しかし、乗客に若い女性がいて、都会帰りの様子が皆の気になっている。実はその女性は清さんのなじみだったらしい。どうやら事情があったようだが、戦時中に「徴用」されたら、病気の家族を養えないために、「徴用逃れ」で都会に出て働き始めたらしい。子どもを産んだが、死んでしまって墓にいれるために帰郷したのである。清さんには東京に出てきて欲しい、何とか自分が面倒を見るという。清さんは「五体満足」で復員出来たが、やはり戦争の哀しみを抱えている。

 皆が「あのバカげた戦争」「いまいましい戦争」と呼んで、戦争を呪っている。戦争に人生を狂わせられた悲しみと怒りを抱えている。普段は隠しているが、バスが故障して待っているだけというような時に、そんな思いも出て来る。しかし、題名は「明日は日本晴れ」だ。若い世代には人生への希望も芽生えている。峠から見る風景は絶景である。新しい時代への希望を託すような題名。監督がよく撮影した伊豆かと思うと、松竹データベースには京都で撮影したと出ている。名手杉山公平によるオール・ロケである。杉山は前衛無声映画の傑作、衣笠貞之助「狂った一頁」「十字路」以来の長いキャリアがあり、戦後に衣笠監督の「地獄門」でカンヌ映画祭グランプリを受賞した。

 主演の水島道太郎は日活や東映でギャングのボスやヤクザを何作も演じていた。日活の「丹下左膳」が代表作とウィキペディアに出ている。按摩役の日守新一は戦前の松竹映画で多くの映画で名脇役を演じた。中でも小津安二郎「一人息子」の息子役で知られる。戦後では先に見た黒澤明監督「生きる」で、のらりくらりしている同僚たちの中で課長を評価する正論を葬儀の場でぶつ部下役で知られる。他の俳優は知らないんだけど、シロウトも多くキャスティングしているという。
(清水宏監督)
 清水宏(1903~1966)は戦前の松竹で小津安二郎と並ぶ巨匠とされていた。しかし、次第にスタジオ撮影に飽き足らなくなって、子どもたちの情景をロケで撮るような映画を作って評価された。戦後になると、自ら戦災孤児を多数引き取って暮らし、その様子をもとに「蜂の巣の子供たち」シリーズを3作作った。一時は忘れられていた感じだが、その自由で既成の映画文法に捕われない作風が近年再評価されている。ある意味、「ヌーヴェルヴァーグ」以前に「映画=万年筆論」を日本で実践していたような監督だ。「明日は日本晴れ」は「有りがたうさん」に及ばないとは思ったが、敗戦後の人々の心情を今に残す貴重なフィルムだった。

 「バス映画」は結構多く、ちょっと小論を書こうかと思ったが、長くなったので名前だけ。戦前には同じ清水監督の「暁の合唱」(1941)、「秀子の車掌さん」(成瀬巳喜男、1941)があった。戦後では鈴木清順「8時間の恐怖」は、雪で列車が不通となりギャングがバスに乗ってくる。五所平之助が田宮虎彦原作を映画化した「雲がちぎれる時」(1961)、中島貞夫監督の超絶アクション「狂った野獣」(1976、渡瀬恒彦がバスを暴走させ、本人がノー・スタントで転倒させている)、青山真治監督「EUREKA」(2001)などが思い浮かぶが、まだあるかもしれない。外国映画では、最近のジム・ジャームッシュ「パターソン」が良かったな。もちろん、ヤン・デ・ボン「スピード」も凄かった。
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「七人の侍」、「!」と「?」の超大作ー黒澤明を見る④

2022年04月25日 23時05分20秒 |  〃  (旧作日本映画)
 黒澤明を見るシリーズ4回目(最後)は、いよいよ最長の「問題作」、「七人の侍」(1954)である。見るのは多分4回目だと思う。つい2年前に国立映画アーカイブの三船敏郎生誕100年特集で見たんだけど、その時はコロナ禍でチケットが事前発売の指定席制になっていた。パソコンなら席を選べることをよく知らず、適当に買ったら前の方の席だった。3時間以上ずっと上を向いて首が疲れた記憶しかなくて、もう一度4K版で見たかった。「生きる」と「七人の侍」は僕の若い頃はなかなか上映されなくて、どっちも名画座ではなくロードショーで見た記憶がある。京橋にあったテアトル東京という巨大映画館で見たのが最初だと思う。

 今は日本で「日本映画ベストテン」投票などをすると、「七人の侍」が1位になることが多い。しかし、1954年当時のキネ旬1位は木下恵介監督の「二十四の瞳」だった。2位も木下の「女の園」で、「七人の侍」は3位だった。これはまあ、歴史的な意味合いからいって、僕もこの年の1位は「二十四の瞳」なんじゃないかと思う。ところで、自分は歴史専攻だったから、「七人の侍」には最初から違和感が強かった。この映画は凄いなあと思えるようになったのは割と最近のことで、やっぱり非常に優れていて、面白いのは間違いない。違和感の方は後回しにして、面白さ、凄さの部分から考えたい。
(七人の侍)
 野武士たちに襲われる村があって、村人が「サムライ」を雇って野武士を撃退しようと考える。要するにそれだけの物語だが、襲撃と撃退のシーンが圧倒的である。それは黒澤監督が時間を掛けて撮影したということであり、伝説的なエピソードが多々語り継がれている。まるでどこか実際にある村でロケしたような感じに見えるが、そんな都合の良い村はロケハンで発見出来なかった。全景を見せるシーンもあって、それは伊豆北部の丹那あたりで撮ったというが、後は各地で撮影して一つの村のようにつなげたのである。俳優たちもほとんどが軍隊体験のある世代だけに、「サムライ」の身体性を身にまとっている。今の若い世代が戦争映画や時代劇に出て来るときの身体的違和感を感じないのである。

 「七人の侍」というんだから、もちろん7人いるわけである。7人の主要人物を描き分けるのは大変なはずだが、この映画では実に上手に性格や年齢などが設定されている。若い人だと名前は知らないかもしれないが、知らなくても顔で見分けられるだろう。7人をリクルートする場面が全体の3分の1ぐらいあって、そこが長いという人が時々いる。でも大人になるに連れ、このリクルートしていくところが面白くなってきた。本当はもっともっと見たいぐらいである。最初にリーダーになる勘兵衛志村喬)を口説き落とす。要するに「義を見てせざるは勇なきなり」ということだろう。参謀役、孤高の剣客、陽気な男、昔の部下と集めて、後は慕ってくる若者と、何だかよく判らない「菊千代」(三船敏郎)で7人。この絶妙な組み合わせは、同種の物語の原型となったと言えるだろう。それにしても前作「生きる」に続く、志村喬の存在感の深さ。(澤地久枝による評伝「男ありて」がある。)
(志村喬の勘兵衛)
 ところで中でも非常に重大なのか、三船敏郎演じる「菊千代」である。カギを付けたのは、本名じゃないからで、偽系図を見せて武士だと名乗るが、実は農民出身なのである。それも親を早く戦乱で失った「戦災孤児」だったことが示唆される。言うまでもなく、製作時点では大空襲による戦災孤児を誰もが思い浮かべただろう。その後自力で生き抜いてきて、村へ行ったら(映画内の表現で言えば)、「百姓に対しては侍」「侍に対しては百姓」という「両義的」存在として振る舞う。谷川雁的に言えば「工作者」であり、山口昌男的に言えば「トリックスター」でもある。子どもたちにも懐かれ、村人の物真似をして笑わせる。単に農民と武士の両義性だけでなく、大人と子どもの両義性をも生きている。

 三船敏郎は東宝ニューフェースとして俳優となって人気を得た。世界に知られた大スターだったけど、今では知らない人が結構いる。「酔いどれ天使」「野良犬」では志村喬の下に立っている。「七人の侍」でも志村喬がリーダーだから、その下には違いないが、かなり独自性が強くなっている。次の「生きものの記録」「蜘蛛巣城」では三船がはっきりとした主演で、志村喬が助演。次の「どん底」になると、三船は出ているが志村喬は出ていない。三船敏郎を知った時にはすでに大スターで、「男は黙ってサッポロビール」というコマーシャルをやっていた。寡黙で近づきがたい大スターで、僕も敬遠していた。しかし、後に「東京の恋人」などのコミカルな演技も素晴らしいと知った。晩年に演じた熊井啓監督の「千利休」や「深い河」は素晴らしかった。
(三船敏郎と志村喬)
 「」(素晴らしい)を書いてると終わらないから、そろそろ「」(おかしいな)の方を。今見ると、このような村は中世史の研究の進展により、あり得ないだろう。そもそもこの物語は1587年に設定されているという。これは四方田犬彦『七人の侍』と現代」(岩波新書、2010)に出ているが、今回再読してみた。三船演じる「菊千代」の偽系図を見て、じゃあ菊千代は今13歳なのかとからかわれるシーンがある。「菊千代」は文字が読めないことが示唆されている。この生年から計算すると、1587年になる。すでに豊臣秀吉の関白就任は2年前、全国統一目前だった。それを考えると、野武士たち(映画内では「野伏せ」)も、一方の七人側も、信長・秀吉の統一戦争に敗れた側の武士だったため、志を得ないまま日を送っていたと想定出来る。

 四方田犬彦前掲書では、中世史研究として藤木久志先生の「刀狩」「雑兵たちの戦場」の2冊が挙げられている。わずか2冊だったのか。僕は大学時代に藤木先生の講義を聞いているから、「七人の侍」に違和感があったのである。中世史研究の進展によって新たに得られた知見をもとに、「七人の侍」の武士や農民の描き方をあれこれ批判するのは「ヤボ」だと言われるかもしれない。僕もそう思うが、若い頃はどうしてもそう見えたということである。この映画に出て来る村のあり方は、惣村の実態から相当にかけ離れている。それはまあ良いのだが、全体に「近代から見た近世的な意識」を感じてしまうのである。

 兵農分離以前なのに、農民と武士の身分差を強調するのはその代表。娘しかいない万蔵という農民が、娘が若い侍と恋仲になると、「傷物にされた」と怒る。そんな処女性に拘る中世農民がいるのか。婿を取らなければ祖先祭祀が出来ないんだから、むしろ良い婿を捕まえたと勝四郎木村功)に土着することを迫るのが本当だろう。それより何より、一番大きな問題は「宗教の不在」である。いや、ラストに亡くなった侍の墓所が出て来るわけだが、村の葬送はどうなっているのか。村に神社があるはずだが、どこにあるんだろうか。決戦前にはそこに集まって「一揆を結ぶ」はずだが、そんな様子は全くない。そもそも侍を雇うかどうかも、神に伺いを立てるはずである。何しろ足利6代将軍がくじ引きで選ばれた時代である。くじは神慮ということである。重大事なんだから、村の神社で長老がくじを引くはずだ。要するに近世以後の「世俗的な村」に近いということに違和感を持つわけだ。

 まあ、そんなことは問題にせず、メキシコやブラジルのことだと思って楽しめば良いとも言える。実際黒澤の目論見は「西部劇を越える時代劇を作る」ことにあった。実際に、リメイクは西部劇になった。ただし、「七人の侍」を初めて見た頃には、ハリウッド製の特撮を駆使したアクション大作がいっぱい作られていた。比べて見るとカラーで作られたSFやホラー大作の方が面白かったのである。「七人の侍」を楽しむためには、今では映画史的な知識が多少なりとも必要なんじゃないだろうか。七人を演じた俳優たちはどんな人かなどは知っていた方が断然面白い。四方田書で指摘するように、志村喬は死んだと思っていた加東大介と再会したが、小津「秋刀魚の味」でも笠智衆の上官と戦後になって再会する。木村功は大人気スターだったが早く亡くなって、妻が書いた回想記がベストセラーになった。中でも素晴らしいのが寡黙な剣士を演じた宮口精二である。
(宮口精二)
 宮口精二(1913~1985)は戦前から文学座に所属した俳優だが、今では「七人の侍」で一番記憶されるだろう。他にも映画出演は数多く、他の映画では寡黙な剣士ではなくコミカルな役柄も上手である。「あいつと私」では有名美容家の頼りない夫を演じて笑える。「張り込み」では東京から佐賀まで張り込みに行くし、「古都」では京都の呉服問屋の主人で岩下志麻の育て親。「日本のいちばん長い日」では東郷茂徳外相…、などなど50年代、60年代の古い映画を見るとき、宮口精二の名前を楽しみに見るようになった。「七人の侍」を見るまで全然知らなかったが、こういう「助演」で映画を見る楽しみを教えてくれた人でもある。
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「生きる」、今も深き感動を与える傑作ー黒澤明を見る③

2022年04月24日 22時43分55秒 |  〃  (旧作日本映画)
 黒澤明を見るシリーズ3回目は「生きる」である。この順番は今回見直した順で書いてるだけ、単に番組編成の問題。「生きる」は1952年に公開され、キネマ旬報ベストテンで1位になった。キネ旬ベストワンは「酔いどれ天使」「生きる」「赤ひげ」だけである。僕は昔から「生きる」が黒澤映画の中では一番好きで、何回か見ている。今回久しぶりに見直しても、圧倒的な感動に心揺さぶられる名作だと思った。公園のブランコで志村喬が「ゴンドラの唄」を歌うラストは世界映画史上屈指の感動シーンだ。

 黒澤映画にはあまり複雑な筋書きはなくて、ある意味「図式的」に進行するものが多い。だからかつては黒澤には「思想がない」などと批判されていた。「生きる」もストーリーを一言で表せる映画と言えるが、その構成が素晴らしい。黒澤作品はシナリオを共同製作するのが慣例で、この映画は黒澤明橋本忍小國英雄の脚本である。ある役所の小役人がガンになって、自分の人生を振り返る。生きる楽しみが全くなく、ただ「ミイラ」のように生きてきた30年。死を意識して初めて、「何か」を求め始めるのである。そしてクリスマスの東京を巡り歩く。そして最後に「何かを作ること」が大切なんだと気付く。

 そこから映画は主人公渡邊勘治志村喬)の葬儀になる。後半が列席した役所の吏員による回想という構成が独創的なのである。これがすべて時間通りに進行していたら、感動がここまで深くはなっていないと思う。この映画は主人公の市民課長志村喬の鬼気迫る演技に負うところが大きい。だが改めて4K画面で見てみると、演技を支える撮影中井朝一)、美術松山崇)、照明森茂)などの素晴らしい技量に感服した。冒頭に「東宝設立20年記念作品」と出る。東宝争議以後、黒澤は「静かなる決闘」から5本を大映、新東宝、松竹で製作した。久しぶりの東宝映画で、黒澤作品を多く担当するスタッフがそろったのである。

 主人公はガンを宣告されたわけではない。当時は本人に告知しなかった。それでも家族も呼ばないのは当時としてもおかしいのではないか。待合室で同席した患者(渡辺篤)が「軽い胃潰瘍と言われたら胃ガンだよ」などと脅かしていて、診断の場面で「軽い胃潰瘍です」と言われる。脚本の妙だが、これで本人がガンと思い込む。今と違って当時は自覚症状を覚えて診察した段階では、「死刑宣告」に近かったのだろう。そのまま放っておかれるんだから、いくら何でもおかしいけど。しかし、この映画ではナレーションが多用され、観客が「神」の位置にいる。実際に胃がんであることを観客は先に知らされるから、違和感がないのである。観客が何でも知っていて人物の動きを見ているのは、普通は興をそぐと思うが「生きる」ではそれが感動を呼ぶ。

 それは何でだろうか。「人生いかに生きるべきか」という普遍的な問いをとことん問い詰めているからだろう。住民の要望をたらい回しにするお役所仕事、ガンの発病に怯えきった主人公、主人公が苦悩を素直に打ち明けられない親子関係、すべて戯画化が過ぎるように描かれる。だから主人公は30年間無遅刻無欠勤の職場を突然休んで、毎日「どこか」へ出掛ける。たまたま知り合った「無頼派作家」(伊藤雄之助)に連れ回されて夜の町を彷徨う。そして辞表にサインを貰うために自宅まで来た女職員、小田切とよ小田切みき)を連れ回すようになる。この小田切みき(1930~2006)が圧倒的に素晴らしいわけである。戦前から子役だったと言うが、この時は俳優座養成所の一年生で、渡辺美佐子が同期だったとトークで言っていた。安井昌二(「ビルマの竪琴」に主演し、その後新派で活躍)と結婚し、娘が四方晴美だったとは今回調べて知った。
(小田切みきと志村喬)
 この小田切みきから、主人公は「何かを作ること」の大切さに気付かされる。しかし、息子夫婦はそれを若い愛人が出来たのかと思い込む。主人公は市民課長として、揉めている児童公園を作ることを人生最後の仕事にしようと決意する。しかし、それらの経緯はすべてが葬儀の場の回想から、主人公がガンだったことを知っている観客が心の中で作り上げるストーリーである。主人公の決意表明などはどこにも描かれず、回想によっていかに課長が一生懸命だったことが語られるだけである。その語り口が上手いのである。だから観客が自分で「誰にも死期を悟られないようにしながら、ひたすら公園作りを進めた」心の内を察するのである。

 そこで思う。我々は自分の人生で何か「公園を作ったか」ということを。何か「公園を作る」ような人生を自分も送らなければならないと深く思い知らされる。自分の人生の中で自分なりの公園作りを始めるのに遅すぎることはない。ガン治療や公務員のあり方などが全然違ってしまった現在にあっても、なお「人生には何の意味があるのか」という問いは永遠である。この映画では「ゴンドラの唄」が3回ほど流れる。当時のこととして歌の名前も紹介されないが、吉井勇作詞、中山晋平作曲の1915年の歌である。「いのち短し 恋せよ乙女」で始まる歌は、今では「生きる」で使われたことで知られているだろう。心の底から絞り出すような志村喬の歌声を聞くとき、人は自分の人生を思い返して涙なしでは見られない。
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「赤ひげ」、素晴らしき助演女優たちー黒澤明を見る②

2022年04月23日 23時02分46秒 |  〃  (旧作日本映画)
 「隠し砦の三悪人」と一緒に「赤ひげ」も書くつもりだったけど、ちょっと疲れてしまった。こうやって書いてると、事前の予定と違って4回も黒澤明を書くことになってしまうが、まあいいか。「赤ひげ」(1965)は30本になる全黒澤作品のうちで、23作目の作品になる。ここまで順調に作り続けていた黒澤明だが、次は1970年の「どですかでん」、その次はソ連で作った「デルス・ウザーラ」(1975)、さらに「影武者」(1985)、「」(1990)と5年ごとにしか作れない時代になる。

 「赤ひげ」は山本周五郎の「赤ひげ診療譚」を原作にしたヒューマン・ドラマで、1965年に大ヒットした。ヴェネツィア映画祭男優賞(三船敏郎)を獲得し、キネマ旬報ベストワンになった。(ちなみにベストテン2位は市川崑監督の「東京オリンピック」だった。)上映時間が185分もある大作で、これは「七人の侍」の207分に次ぐ長さである。(「影武者」も180分あって、3時間になるのはこの3作。)昔見ているけれど、それ以来だから何十年ぶりにある。時々黒澤特集でやっているけれど、長いから時間が取れなかった。それと僕はこの映画が好きじゃなかったので、あまり見直したいと思わなかった。
(三船敏郎演じる「赤ひげ」先生)
 僕が昔見て好きになれなかったのは、三船敏郎演じる「赤ひげ」があまりにも偉そうで、高圧的に加山雄三に接する威圧感が半端なく、見ている自分まで「」を感じて嫌だったのである。翌1966年のベストワン作品、山本薩夫監督「白い巨塔」も嫌いだった。病院内で医師たちのドロドロした思惑がぶつかり合い、この映画イヤだなあ、何が面白いのと若い時分には思ったのである。しかし、「白い巨塔」を10年ぐらい前に見直したら、やっぱりこれは面白いし優れた映画だなと思った。同じように、「赤ひげ」も今見れば面白いし感動的な映画だった。でも、やはり好きじゃないなと思う。

 三船敏郎は1920年生まれだから(1997年死去)、公開時点で45歳である。えっ、そんな若かったのか。今じゃ40代半ばにこれほど重厚感を与える俳優はいないだろう。見ている自分の方も年を取ってしまい、とっくに赤ひげ先生より年上になっている。ああいう高圧的な先生にも人生で出会ったこともあるが、何とか付き合い方も判ってきた。そして「偉そう」には違いないが、「実際に偉いんだから仕方ない」とも思えるようになった。「偉そう感」には有難みがあって、貧しい病人なら赤ひげが大丈夫と言うだけで安心できるだろう。上に立つ人、例えば教師には時には偉そうにしてみせる演技が必要だというぐらいの知恵も付いた。

 しかし、偉大な師匠と成長する弟子という基本的な物語の構造は、やはり僕は好きではない。加山雄三演じる若き医師、保本登は長崎に遊学して帰ってみたら、御殿医の娘だった婚約者は他の男に嫁いでいた。気がふさいでやる気もないのを見て、小石川養生所を訪ねて見ろと言われる。来てみたら、責任者の新出去定(赤ひげ)からここで働くことように申し渡され、全く不服である。お目見え医になれるつもりで江戸に戻ったら、貧民の相手とは話が違いすぎる。という始まりだが、展開は見なくても予想できる。それにこの決め方はやはり良くない。「自己決定権」を全く無視している。保本だって、すぐに将軍や大名を見る前に「初任者研修」がいるんだと説明されれば納得出来ただろう。
(加山雄三と二木てるみ)
 しかし、保本をめぐる何人もの助演女優陣が素晴らしいのである。まず「狂女」の香川京子がすごくて、そのお付き女中の団令子もなかなか良い。松竹から桑野みゆきが悲しい運命の女を演じ、娼家の主人杉村春子はいつものように強烈。極めつけがそこで病気になったところを赤ひげと保本に助けられた「おとよ」(二木てるみ)である。この悲しい運命の少女を凄い目をして演じている。子役として「警察日記」などで活躍し、16歳で出演した「赤ひげ」でブルーリボン賞助演女優賞を獲得した。1949年生まれで、テレビで活躍していたのも知らない世代が多くなっただろう。もう70歳を越えているが、永遠に「赤ひげ」で語られるだろう。
(内藤洋子の「まさえ」)
 婚約者の裏切りにあって、女性を信じられなくなった保本だが、次第次第に多くの不幸な人々と魂の接触をしていくうちに、心も開かれてくる。そして何度も訪れて協力してくれる、かつての婚約者の妹である「まさえ」との縁談を受け入れることになった。その内祝言の席で、保本は自分と一緒になると、貧しい生涯を送ることになるがそれでも良いかと問う。もはや御殿医ではなく、小石川で働き続ける気持ちになっている。そのまさえを清楚に演じているのが内藤洋子。1970年に二十歳で結婚して芸能界を引退したので、今では知らない人も多いだろう。喜多嶋舞の母である。テレビの「氷点」の陽子で人気を得た他、60年代後半の東宝青春映画を支えた女優の一人だった。この前恩地日出夫監督「あこがれ」を再見したが、とても良かった。
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「隠し砦の三悪人」、三船敏郎のアクションの凄さー黒澤明を見る①

2022年04月22日 22時55分59秒 |  〃  (旧作日本映画)
 池袋の新文芸坐が2ヶ月半の休館を経て、先週からリニューアルオープンした。4Kレーザー上映可能な設備を名画座として初めて導入したという。よく「4Kデジタル修復版 当館は2K上映になります」なんて、ロードショー館でも書いてある。それを考えると、新文芸坐はすごい。前の文芸坐(地下にあった文芸地下)から合わせて数えれば、多分一番行ってる映画館だろう。そしてオープン記念に「4Kで蘇る黒澤明」というと特集上映をやっている。全部じゃないけど、少し見に行ってみよう。
(黒澤明監督)
 黒澤明(1910~1998)はもちろん全部の映画を見ている。何本かは2回、3回と見ているのだが、それはずいぶん昔のことだ。デジタル修復版を見てるのは、大映で作った「羅生門」ぐらいである。主に黒澤作品を製作した東宝は、なかなかデジタル版を作らなかった。最近TOHOシネマズの「午前10時の映画祭」の上映作品に黒澤映画が入るようになったが、まだ見てなかった。

 僕の若い頃は黒澤明は日本で一番有名で優れた映画監督だと思われていた。今は小津安二郎の方が上という評価ではないかと思う。黒澤明は何しろ「羅生門」で初めてヴェネツィア映画祭グランプリを獲得して、世界に日本映画を知らしめた。「荒野の七人」や「荒野の用心棒」など外国でリメイクされることもあった。そんな日本映画は当時は他になかった。一方の小津は70年代になるまで外国には紹介されず、外国人には理解されない(だろう)日本ローカルの巨匠という扱いだったのである。

 黒澤明は時代劇も多く、戦時中のデビュー作「姿三四郎」以来、アクション映画が多かった。だから外国でも理解されやすかったという面はあるだろう。しかし、今になっては代表作の多くが「モノクロ映画の時代劇」というのは、若い人にはつらいかもしれない。今では特撮を駆使した大々的なアクション映画がいっぱいあって、昔っぽい感じがしてしまう。僕もしばらく見てない映画が多いが、今4Kで見直すとどんな感想を持つだろうか。実は僕は黒澤明は確かに凄いとは思うけれど、あまり好きな映画監督ではない。その理由はおいおい書いていくけど、まずは1958年の「隠し砦の三悪人」から。

 「隠し砦の三悪人」は初めてシネマスコープで製作された大作時代劇で、そのワイドスクリーンの使い方の素晴らしさは見事だ。ベルリン映画祭監督賞、国際映画批評家連盟賞を獲得し、キネマ旬報ベストテンで2位になった。メッセージ性、社会性を訴える映画ではなく、純然たる娯楽大作。その意味で「用心棒」「椿三十郎」に続く映画だけど、僕はこの映画が一番面白いと昔見た時に思ったものだ。ジョージ・ルーカスの「スターウォーズ」に大きな影響を与えたことでも非常に有名だ。

 見るのは多分3回目だが、2回目に見た時は疲れていて集中できなかった。記憶にあったほど、面白くないように感じたのである。今回見ても、冒頭部分、敗残の農民千秋実藤原鎌足が戦地を彷徨うシーンが長すぎると思った。話を知っていれば、早く姫を連れて「敵中突破」してくれと思う。もう正体を知っているので、先が見たいと思う。「三悪人」という題名もどうかと思う。全然悪人じゃないので。それより当時の時代劇にありがちなことだが、戦国時代としてどうなのよという突っ込みどころが多い。結局、この映画はあえて敵国に紛れ込んで、味方のいる隣国に逃げ込もうというアイディアに尽きるのである。

 そこで敵中に入ると、凄いシーンがいっぱいある。特に有名なのが、三船敏郎が馬に乗ったまま敵を切り伏せる場面。一気に撮影したアクションの素晴らしさに驚く。また敵側の知人、藤田進と槍で一騎打ちする場面の壮絶なアクションもうならされる。「山名の火祭り」のシーンも素晴らしい。三船敏郎と姫が「秋月」で、敵が「山名」である。秋月は敗れるが、重臣と姫が隠し砦に潜んでいる。軍資金は金を薪の中に仕込んである。いかに敵の領地を突破していくか。この素晴らしいアイディアの脚本は、菊島隆三小国英雄橋本忍黒澤明がクレジットされている。

 娯楽アクション大作だから、特に気にせず見てしまうが、戦国時代史としてみるならば、納得できない点も多い。一番問題なのは、秋月には一人娘しかいなくて、先代が男のように育てたというところ。姫は新人の上原美佐が演じたが、まあそんなに上手くなくても良い役だから、セリフなどは良いとする。しかし、上原美佐本人は1937年生まれで、すでに20歳を超えている。戦国時代とすれば、もう政略結婚の婚期を逃しつつある。味方の陣営もあるんだから、そこから養子を取って早く結婚させて若君をもうけて貰わないと跡継ぎがなくなるではないか。まあ妙齢の姫君を連れて逃げるというのが、面白いということだろう。

 金塊に「秋月」の三日月マークがついているのも変だけど、こんなに資金があるなら何故もっと鉄砲などを整備しなかったのかも謎。今頃持って逃げているが、不思議である。その他、筋書きではいろいろ不思議があるが、それもこれも細かいことを言わなければ、話を面白くするために作られているわけである。戦国時代を舞台にした黒澤映画は「七人の侍」「蜘蛛巣城」や「影武者」「」がある。いずれも戦国時代は「舞台」として選ばれただけで、あまり歴史的に合っているかは気にしないのがいい。

 今になると、その壮大なアクションによって記憶される伝説的映画ということになる。4K修復版は、もしかしたら公開当時より綺麗なんじゃないかと思うようなクリアーな画面だった。
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映画「青幻記」と高橋アキトークショー

2022年04月03日 22時51分10秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷でやってる「日本の映画音楽家Ⅰ 武満徹」特集で、成島東一郎監督の「青幻記 遠い日の母は美しく」(1973)の上映とピアニスト高橋アキさんのトークショーがあった。僕はこの映画が公開時から大好きで、最近上映機会がほとんどないけど、是非もう一回見たいと思ってきた。また高橋アキさんも昔からファンなので楽しみ。どこにあったフィルムか判らないけど、ものすごく美しい状態で完全に映像世界に魅了された。今も心の奥深くに届く「母恋い」映画の名作だ。

 鹿児島県奄美諸島の沖永良部島(おきのえらぶじま)が舞台になっている。そこで生まれた作家一色次郎(1916~1988)の太宰治賞受賞作「青幻記」(1967)の映画化。冒頭に船で島に着いたところから、海の青さが素晴らしい。映像美がハンパないのは、名カメラマン成島東一郎が自ら製作、脚本、監督、撮影を担当しているから当然だ。原作に惚れ込んだ成島が、公開の当てもなく製作プロを作って自主製作した映画なのである。1973年に公開されて、キネ旬ベストテン3位となった。
(沖永良部島の地図)
 成島東一郎は松竹で60年代の名作を多く撮影した人で、吉田喜重監督「秋津温泉」、中村登監督「古都」「夜の片鱗」「紀ノ川」などを撮った。その後、ATGで篠田正浩「心中天網島」、大島渚「儀式」とベストワン映画を撮影して高く評価された。その成島東一郎の生涯ただ一本の監督作品が「青幻記」で、それだけに渾身の思いの詰まった名作になっている。この映画の後では大島渚監督「戦場のメリークリスマス」の撮影監督をしている。
(冒頭の島への帰郷場面)
 大山稔田村高廣)は36年ぶりに鹿児島市に戻ってきた。幼い頃に住んでいたが、その後苦労を重ねて生きてきた。その日は思い出の土地をめぐり、次に母の生まれ故郷、沖永良部島に向かう。その間に昔の場面が交互に挟み込まれるが、母さわ賀来敦子)は苦難の人生を送った人だった。美貌を見そめられ島から鹿児島に嫁いだが、子を産んだ後で夫が病死して実家に戻された。しかし、その時子どもの稔は跡取りとして祖父(伊藤雄之助)の下に残され、妾のたか(山岡久乃)に疎まれている。さわは何とかもう一回子どものそばで暮らしたいと意に染まぬ再婚をして町に戻って来た。

 この物語は昭和の初め頃を舞台にしているが、当時は結核などで早くなくなる人が多かった。家制度があって、親権を争うまでもなく、子どもは家長のもとで暮らすものだった。だから、この映画のように母と子が別れ別れになることも多く、当時の大衆文化には「母もの」と呼ばれるジャンルがあったぐらいである。悲しく別れた親子が巡り会うが、子(あるいは母)は身分違いとなっていて、素直に感情を表わすことも許されない。親子は心で泣きながら別れていくが、その時母はもう二度と生きては会えぬ重い病にかかっていた…。と言ったような話が戦後10年近くまで量産されてきた。
(満月の夜に舞う母)
 母は二度目の夫に捨てられ島に戻るが、その時すでに病にかかっていた。最後の別れに港に連れてこられた稔は、そのまま母と共に島に付いて行ってしまった。船の中でも一人隔離されている母と逢うこともままならない。やっと帰った島でも遠い実家まで、助けられながら何とか親子でたどり着く。そこでは祖母(原泉)が一人で住んでいた。大人になって島に戻った稔は当時を知る鶴禎(かくてい=藤原鎌足)に出会って、母の思い出を聞く。島に戻ってから、満月の夜に舞う母の何と美しかったことか。それは少年の稔も良く覚えているのだった。このシーン(上記画像)は本当に美しく、夢幻的世界を奇跡的に描き出している。
(漁に行く母と子)
 そしてある日、母と魚取りに行って悲劇が起きる。しかし、死をまだ理解出来ない稔は泣くこともなく、人はそれを気丈と呼ぶが、実は二度と母に会えないことも判っていなかったのである。その後、祖父も死に稔は苦労を重ねて育ったらしいが、そこは描かれない。ともかく戦争が終わって何年も経ち、ようやく母の墓に戻って来ることが叶ったのである。早く両親に死に別れた稔の「母恋い」の慟哭に見るものの心も揺さぶられる。戦争と貧困の時代には多かった悲劇だが、あまりにも美しい海と空を背景にして幻想的に描かれる。沖縄や奄美を舞台にした映画は多いが、中でもこの映画は美しく感動的だ。
(高橋アキトーク。聞き手=高橋俊夫) 
 映画音楽の武満徹は一般的には「現代音楽家」と思われているだろう。ものすごく多数の映画音楽を手掛けているが、そこでも随分実験している。昨年勅使河原宏監督特集で「おとし穴」を上映した時に、高橋アキさんの兄、作曲家の高橋悠治のトークがあったが、そっちはかなり実験的、前衛的音楽である。一方で武満には稀代のメロディメーカーという側面もあって、幾つもの映画で美しいテーマソングを作っている。「青幻記」でも美しい抒情的なメロディが印象的で、毎日映画コンクール音楽賞を受けた。

 高橋アキさんも「青幻記」を再見したかったと言っていた。若い頃からの武満との関わり、映画音楽の研究もしていた音楽研究者の夫秋山邦晴さんのことなど、いろいろな話が出て来た。僕は秋山さんが主宰したエリック・サティの連続演奏会に何回か行っている。そこで弾く高橋アキさんのサティが大好きで、今もCDをよく聞いている。サティのCDを何枚か持っているが、一番しっくりくる。僕は特に音楽に詳しいわけでもなく、出て来た人名もよく判らないものもあったが、とても充実したトークショーだった。

 原作者の一色次郎は今ではほとんど忘れられているが、戦前から作家活動をしていて、戦後に2回直木賞候補になった。「青幻記」で太宰賞を受けたときは、すでに50歳を越えていた。父親が冤罪で獄死していて、そのことを訴える本もある。死刑廃止運動にも関わっていた。また映画で母を熱演した賀来敦子(かく・あつこ)は大島渚監督「儀式」のヒロインで、従兄弟同士の中村敦夫と河原崎健三に運命的に関わる律子役が印象的だった。重要な役で出た映画はこの2本しかなく、どのような事情か知らないけれど、「青幻記」一本で永遠に美しき面影が残された。
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映画「細雪」、3本の映画を比べて見る

2022年03月31日 23時00分18秒 |  〃  (旧作日本映画)
 谷崎潤一郎原作「細雪」は今までに3回映画化されている。以下の3つの作品である。
1950年 新東宝 阿部豊監督 145分 キネマ旬報ベストテン第9位
1959年 大映 島耕二監督 105分 
1983年 東宝 市川崑監督 140分 キネマ旬報ベストテン第2位 アジア太平洋映画祭作品賞、監督賞

 この3本を神保町シアターで見たので、それも一週間以上前のことになるけど、何とか3月中にまとめ。もう上映もしてないし、誰にも無関係ながら自分の備忘という意味である。3本全部前に見ていて、随分しばらくぶりに見直したことになる。今までは原作を読んでなかったので、今度原作を読んでみたところ、なるほどなあと思うことが多かった。長大な原作をたった2時間ほどの映画にまとめなければならない。映画製作にはお金も時間も掛かるから、ある程度は女優中心に「商業映画」として成立させなくてはならない。そこでどこをどう切り取り、どう入れ替えるか。シナリオの勉強になる。

 では、どのように女優中心になっているか。蒔岡家の四人姉妹を上からキャストを紹介すると、以下の通り。
花井蘭子・轟由起子・山根寿子・高峰秀子
轟由起子・京マチ子・山本富士子・叶順子
岸恵子・佐久間良子・吉永小百合・古手川祐子

 第一作のキャストは今ではもう判らないかもしれない。当時としても山根寿子より、4女の高峰秀子の方が大スターである。一方、②③の山本富士子吉永小百合は、誰もが認める大女優。だから①は「こいさん」(妙子)が中心になり、②③は三女雪子が中心になる感じがする。原作は雪子の方が重要だと思うが、最初の映画化で四女妙子の奔放な恋愛が強調されたのは、時代の影響が大きいと思う。高峰秀子だからという以上に、敗戦と占領という時代相が反映されていると考えられる。
(1950年の「細雪」、左から高峰・山根・轟・花井)
 簡単に各作品に触れていきたい。①は原作完結後すぐの映画化で、これだけがモノクロ映画になっている。それだけに今見ると、ロケなどにまだ敗戦直後の貧しさが見える。しかし、驚くべきことに原作のクライマックスとも言える「阪神間大水害」が描かれるのは①だけなのである。映画では特撮を駆使しているが、今となってはちょっとしんどい。それでも「完全映画化」に一番近いのは①なのである。ただ和服や花見シーンがカラーじゃないのは、やはり寂しい。雪子の山根寿子は戦前から活躍した女優で、50年代末日活の石坂洋次郎作品によく出ていた。電話にも出られずモジモジして縁談を断られる感じは一番出ているかな。
(阿部豊監督)
 ①の監督阿部豊(1895~1977)は無声映画時代から長く活躍した監督で、1926年の「足にさはつた女」がキネマ旬報の日本映画ベストテンの最初の1位になった。その前にハリウッドに行って俳優として活躍し、映画技術を学んで日本に戻った。最初の頃は「ジャック」名で活動していて昔の文献には「ジアツキ阿部」なんて出ている。戦時中には「燃える大空」「あの旗を撃て」などの戦争映画を作った。ものすごく作品数が多いが、戦後は東宝、新東宝、日活で娯楽映画を量産している。「細雪」は戦後唯一のベストテン入選。特に悪くもないのだが、まあ全体的に評価すれば9位は妥当なところか。
(1959年の「細雪」)
 1959年の②は大映製作で、驚くべきことに原作を製作当時の1959年に変えている。その結果、当時の町並みなどをロケ撮影することが出来るので、貴重ではある。冒頭では啓ぼんがこいさんを車で送ってくるし、次女の幸子は自らカレーライスを作ると腕を振るっている。次女京マチ子と三女山本富士子は、大映を支えた看板女優で、「夜の蝶」ではバーのマダムの壮絶な争いを演じた。当然「細雪」でも山本富士子の縁談が話の中心になる。しかし、山本富士子が結婚出来ないなんておかしいので、かつてまとまった縁談があったのだが、デートするその日に交通事故死した過去がトラウマかになって、30を過ぎたとされる。そんなバカなという感じだが、山本富士子との縁談を断る男がいるはずがないので、そんな設定を作ったのである。
(島耕二監督)
 島耕二監督(1901~1986)は戦前の日活映画を支えた俳優だったが、39年から監督に転身した。「風の又三郎」(1940)、「次郎物語」(1941)が高く評価された。映画史的に残るのもこの2本。戦後は「幻の馬」(1955)が一番かと思うが、「銀座カンカン娘」「有楽町で逢いましょう」「情熱の詩人啄木」など多くの作品がある。「細雪」は可もなし不可もなしか。
(1983年の「細雪」)
 1983年の③は明らかに一番優れている。映画的には脚本と撮影、照明などの技術が洗練の極みに達していて、四人姉妹に配する長女の夫が伊丹十三、次女の夫が石坂浩二と安定感がある。ただし、原作を読んでいると、実に驚くべき改変をしていてビックリ。②は時代そのものを変えたから他は気にならないが、③は本家の東京移転を最後に持って行っている。だから途中までの映画化かというと、三女雪子の縁談は最後まで描いているのである。原作では本家と一緒に雪子も上京するのに対し、③では縁談が決まった雪子は本家を見送る側である。しかも、そのお相手の華族の次男(原作は庶子なのだが、映画はただ次男とする)が、元阪神タイガースの江本なので唖然とする。そして驚くべきことに、次女幸子の夫(石坂浩二)が雪子(吉永小百合)に思いを寄せているという設定である。いや、これは面白いけど無茶でしょう。

 そもそも冒頭の豪華な花見シーンだが、原作では本家は加わらない。しかし、映画では長女岸惠子も参加して四人姉妹の豪華絢爛たる花見シーンになる。何だか映画に影響されてしまっていたが、原作を読んだら全然違うので驚き。さらに凄いのは、「こいさん」(四女妙子)が啓ぼんを振ってカメラマンの板倉に思いを寄せるきっかけの「大水害」がない。特撮がないのではなく、セリフにもないのである。これも時代を正確に再現する意味では無茶だろう。自立して生きている板倉の方が、母親頼りの啓ぼんより立派というのは、現代人の感覚だ。階級的にこれほど格差がある相手に好意を寄せるには、生命の危機を助けて貰ったという設定は不可欠のはずである。しかし、こう変えたことで現代映画になったことは間違いない。脚色の手腕である。

 ちなみに啓ぼんと板倉のキャストを比べると。
①啓ぼん=田中春男、板倉=田崎潤 ②啓ぼん=川崎敬三、板倉=根上淳 ③啓ぼん=桂小米朝(現米團治)、板倉=岸部一徳 原作のイメージには①が合っている。
(市川崑監督)
 市川崑(1915~2008)は、さすが巨匠の風格である。長生きしたので、訃報では「犬神家の一族」「細雪」などが代表作などと書かれてしまった。真の代表作は50年代から60年代初期の大映で作った「野火」「おとうと」「破戒」などだろう。50年代初期に東宝で作ったコメディ、1961年の「黒い十人の女」などブラックユーモアも再評価されつつある。角川で横溝作品を映画化して大ヒットしたというのは、おまけというべきだろう。
コメント (1)
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