2025年は「昭和100年」ということで、丸の内TOEIで「昭和100年映画祭」というのをやってる。まあほぼ見てる映画ばかりなので今まで見てなかったけど、この前1974年の映画『砂の器』を半世紀ぶりに見て来た。松本清張原作、野村芳太郎監督の大作映画で、当時大ヒットしキネ旬ベストテン2位となった。(1位は熊井啓監督『サンダカン八番娼館 望郷』で、ベルリン映画祭女優賞、米アカデミー賞外国語映画賞ノミネートのこの作品こそ、内容的にも「昭和100年向き」だと思うけどなあ。)
この映画は「ほぼリアルタイム」で見たと思う。公開当時は浪人時代で、お金的にも時間的にも新作映画はあまり見てないから、多分翌年に大学へ入った後で名画座(銀座並木座や池袋文芸地下など)で見たんだと思う。その時にはすごく違和感を感じて、僕は全く「感動」出来なかった。この映画は今も上映される機会が多いが、その後はどっちかというと避けて来た。
今回見たのは、先に書いた金井美恵子の『目白雑録』の最後の巻で触れられていたからである。それは「佐村河内守」騒動について書かれた後で、佐村河内氏の音楽(交響曲第1番《HIROSHIMA》)から、『砂の器』内で作曲・演奏される『宿命』という曲を思い出したのである。疑似「ロマン派」風音楽の持つ通俗的人気を批判的に考察しているわけである。
今回久しぶりに見てみると、ずいぶん間違って覚えてることも多かった。以下、原作や映画の内容に触れるが、まあよく知られているだけでなく、殺人事件の「犯人性」はすぐ示されているから問題ないだろう。冒頭は刑事二人が羽後亀田駅(秋田県)を訪れる場面で、その二人とは丹波哲郎と森田健作。(登場人物名は面倒なので、基本的に俳優名で書く。)片方は大霊界に行ってしまい、もう片方は国会議員を経て千葉県知事になったなど昔の映画は「俳優の人生を知って見る楽しみ」がある。新進作曲家加藤剛を争う二人の女性、愛人の島田陽子と婚約者の山口果林は、それぞれ内田裕也と安部公房の「愛人」だったなと複雑な感慨を覚えた。
この映画を見て「感動」する人は今も多いようで、上映後には拍手が起こっていた。しかし、ミステリー的にも疑問だらけだし、物語構造自体に大問題がある。しかし、思った以上にあちこちロケしていて、有名な島根県亀嵩(かめだけ)以外にも本籍地の石川県山中温泉のさらに奥、さらに大阪新世界(通天閣の下)などにも行っている。ロケを通して50年前の日本の風景を見る楽しみはある。また有名な俳優がいっぱい出ているので、あれは誰、あの人は若かったななどと見る楽しみも大きい。
ミステリー的な疑問というのは、まず愛人の島田陽子が「血染めのシャツ」の始末を頼まれて、それをバラバラに切って中央線の塩山付近の窓から捨てる。しかし、そんなことをする人はいないだろう。秘密の愛人で誰も知らないんだから、生ゴミに混ぜて捨てればよいし、夜誰も見てないときに川などに捨ててもよい。普通はそうすると思うが、またそれを新聞記者が見ていて「紙吹雪の女」というコラムを書いて、それを読んだ刑事がこれこそ血染めのシャツじゃないかと思う。もはや天文学的確率としか思えないが、それを執念で見つけ出しO型の血液を検出する、ってあり得なすぎてシラケる。仮に全部事実でも「証拠価値」はないだろう。
また幼い頃の作曲家を知っていた恩人(なかなか出て来ないが、亀嵩で巡査をしていた緒形拳)が伊勢の映画館で前大蔵大臣(佐分利信)と一緒に写ってる作曲家の姿を見て、これは大人になった昔の少年と見抜く。そして、予定を変更して急きょ東京へ向かい、成功した彼に会おうと思う。これが全然理解不能で、幼い頃に特に音楽的才能を発揮していたわけでもない田舎の貧しい少年が、どうすれば新進作曲家・ピアニストになれるのか。まだ高校進学率も低かった時代に、どうすれば音楽教育を受けられたのか。そう思えば、まあ多少似ていたとしても「他人の空似」と思うのが通常人である。緒形拳演じる巡査は超能力者なんだろうか。
上記画像の二人が子どもと大人の同一人物だと思えるか。まあある程度似てはいるけど、同じと見るのは無理だろう。この子役は春田和秀(1966~)という人で、その後『はだしのゲン涙の爆発』という映画で主人公を演じたが、今は芸能界を引退し自動車関連会社を経営しているとWikipediaに出ている。僕はこの子ども時代を見ていても、これが将来の加藤剛だとはどうしても思えないのである。まあ「明らかに違う」とまでは言わないけど、映画館の写真を見ただけで同じ人とは普通感じないと思う。子役だからということではなく、各地の放浪、空襲、戦後の音楽界での成功とあれば、風貌は大きく変わっているはずではないだろうか。
これらの問題点は基本的には松本清張の原作に由来している。この原作を読まずに称賛(あるいは批判)している人が多いとして、金井美恵子は我慢して上下2巻の長い原作を読んでいる。僕も昔読んでるのだが、これは「トンデモ本」界に名高いミステリーで、特に映画化、ドラマ化では必ず割愛される「第二の殺人」の殺人方法が驚きなのである。まあ今後読む人の楽しみのため、そのトンデモ内容は書かないことにする。ミステリー的にはほぼ破綻作なのだが、そういう部分を捨て去って「父と子の宿命のドラマ」に作り直したのは、有名な脚本家橋本忍と共同脚本の山田洋次だった。その通俗的な手腕の見事さは勉強にはなる。
結局背景にあったのは、戦時中の日本でハンセン病(当時は「らい病」)を発病した父(加藤嘉)がいて、当時は「業病」と恐れられていたため妻は逃げてしまい、残された父子も郷里の石川県にいられなくなる。そのため「浮浪」生活を送ることになり、流れ流れて島根県にたどり着いたとき「親切な」巡査が村から追い出さず面倒を見る。そして調査の結果、父親は「隔離」と決められ、離島の療養所に送られる。(これは岡山県の長島で、本籍が石川県なので邑久光明園なのではないかと思う。)そして父子は泣く泣く別れ別れになり、子どもは緒形拳が育てるつもりがある日逃げ出してしまった。そして数十年、ついにその子を見つけた…。
この悲しい放浪の日々と、いよいよ新進作曲家が犯人と目星が付き逮捕状請求をするための捜査会議(ほぼ丹波哲郎の独演会、隣に丹古母鬼馬二が座ってるのがおかしい)、そして前大蔵大臣が支援して開かれる新作ピアノ協奏曲「宿命」の演奏会(ピアノ独奏と指揮を加藤剛が兼ねる)が、それぞれ同時進行で描かれるラストがまあ圧巻なのである。ただし、丹波哲郎の独演が長すぎて会議とは思えず、また音楽のラフマニノフばりの甘い旋律(作曲は菅野光亮)が繰り返されてちょっと困ってしまう。しかし、一番の問題は放浪する父子の「美しい日本」の風景で、「ここで泣け」とばかりの情緒たっぷりの映像はかえって僕を冷静にさせてしまう。
いよいよ逮捕状を手に演奏会に乗り込んだ丹波と森田。森田は演奏を聴いて「彼は父親に会いたくないんでしょうか」と問いかける。すると丹波は「今彼は父と会っている。音楽の中で」などと答えるのであるが、ここで僕は「イヨッ、大霊界!」と声を掛けたくなってしまった。何が音楽の中で父親と会ってるだよ、そんなことがあるわけないじゃないか。
この映画を見たのは、自分が近現代日本の歴史を学びたいと思って大学へ進んだ頃である。その当時日本の戦争映画は、「戦争で引き裂かれる悲しい運命」を、まるで「天災」のように避けがたい運命として描く悲しいドラマが多いと指摘されていた。戦争は天災ではなく人間が起こすもので、実際には侵略戦争を起こしたのは日本の方だった。僕は「民衆の戦争責任」という問題意識を持っていたので、そういう戦争の描き方に批判的だった。『砂の器』を見た時に感じた違和感も恐らく似たようなものだったのではないか。問題の本質に目を向けさせず、登場人物の悲しい「宿命」に涙して終わってしまう日本の「エンタメ社会派」の限界。
当時はまだハンセン病問題に詳しくなかった。マスコミでもほとんど報道されていなかった。僕が初めて日本のハンセン病療養所を訪れるのは、その数年後のことである。だけど、何かおかしいような気がしたのである。今見ればはっきり理解出来るが、「親切な」巡査緒形拳は「末端の国家権力」として「無らい県運動」を進める国の「隔離政策」に従っていたのである。戦時中にそれ以外は出来なかったとしても、子どもと一緒に療養所に行ったケースは多いし、母親を探し出すことも可能だろう。彼ら家族が故郷を追われたのも、日本国家が隔離政策を進めて「怖い病気」という宣伝を津々浦々で行ったからだ。決して「宿命」ではなかった。
最後に「ハンセン氏病は、医学の進歩により特効薬もあり、現在では完全に回復し、社会復帰は続いている。それを拒むものは、まだまだ根強く残っている非科学的な偏見と差別のみであり、戦前に発病した本浦千代吉(父親の名)のような患者は日本中どこにもいない」というような字幕が出る。これは全患協(全国ハンセン氏病患者協議会=現在は全国ハンセン病療養所入所者協議会)の強い要求で入れられたものである。もともとは製作中止を申し入れたのだが、すでに配役も決定し製作費が掛かっているとして拒否された。そこでやむなく社会的偏見を助長することのないよう、シナリオの検討などを行ったという。
そのことは『全患協運動史』(1977)に詳しく書かれている。(そのちょっと前でFIWC関西委員会による「交流(むすび)の家」建設問題が取り上げられている。)ハンセン病者の「悲劇」を宿命として描き出すのは、僕は間違っていると思う。これは原作自体にある問題で、「イヤミス」作家松本清張の本質的な問題だ。『霧の旗』では冤罪で獄中死した兄の弁護を担当してくれなかったとして、妹が著名弁護士に執拗に絡んでくる。しかし、冤罪を起こしたのは警察、検察の間違った捜査であり、それを追認した裁判所の判決である。弁護士がいい加減だった事件はいっぱいあるけれど、「主犯」ではない。闘う相手を間違えている。
それはノンフィクションの『日本の黒い霧』にも言えることで、清張ミステリーの特徴である。『砂の器』は確かに良く出来ている部分もあるけれど、クローズアップのカメラ操作が不自然なこと、さらにあり得ない偶然による捜査進展など面白みを削ぐ展開が続く。それでもラスト近くの演奏と美しい風景に涙できる人には「感動作」だろうが、僕はそういう時にこそ「観客に考えさせる」映画を作った大島渚や吉田喜重、今村昌平のような映画を上と評価するものである。
なお、1974年は僕には藤田敏八監督、秋吉久美子主演の『赤ちょうちん』『妹』『バージンブルース』や神代辰巳監督『青春の蹉跌』の年だった。さらに黒木和雄監督『竜馬暗殺』、実相寺昭雄監督『あさきゆめみし』、田中登監督『㊙女郎めす市場』、原一男監督『極私的エロス・恋歌1974』のようなとんでもない問題作がいっぱいあった年だった。『砂の器』より断然面白かった。