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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

六本木高校でのお仕事④

2012年03月31日 00時45分50秒 |  〃 (教育問題一般)
 どこの学校でもいろいろな問題が起こり振り回されることがある。しかし教師の日常は、とりあえず時間割通りの授業をすることである。どちらもここでは語らない。要するにそれらはどこの学校でもあることであって、「六本木高校でのお仕事」とは思い返していないわけである。開設当初の「チャレンジスクール」の仕組み作りこそが書いてもいいかなということである。

 六つ目。「短期集中講座を3回に分けた」。これは自分では、ホームランではないけど三遊間を抜けたと思っている提案。教員の個性を生かした様々なテーマで集中講座を設定して単位認定するという「総合研究」という科目を設置している。僕が来た年は、夏休み前と冬休み前で5日と4日に分けて開講していた。一日4単位時間×9日で36時間なので、一日だけ3時間の日を作る。そうすると法定の35単位時間の授業を行うことになる。(「単位時間」というのは要するに「授業時間」のことで、おおむね50分か45分。六本木では45分。)僕の提案はそれを夏と冬以外に、前期と後期の間の期間にも設置し3回に分けようということで、承認されて開校3年目以後は3回で続いている。変更のキモは、夏を11時間とすることで、夏期間全休の生徒でも、秋冬に全部出れば単位が取れるようになったことである。でも5日間連続は教員にも結構大変だった。「長期集中しすぎ講座」では生徒も飽きてくる。なお、僕は3年間、視聴覚室で「映画研究」をやり、とても楽しかった。でも安易に取る生徒も多くなったので、2年間歴史探訪や社会科見学と称して外部見学講座を作った。これがまた面白かった。僕はこの短期集中講座での生徒との交流が面白かったので、「人権」の次に好きな科目かな。続いてほしい。

 七つ目。「地域研究の後半を個人研究にした」。1期生が2年の時に、「総合的な学習の時間」として「地域研究」という授業が作られた。その時点では2期生(1年)の担任だからタッチしていないが、まずこの授業構想がヒットだと思う。学校のすぐ近くに、全国に知られた「麻布十番商店街」や「六本木ヒルズ」がある。そのような地の利を生かし、生徒がグループに分かれて麻布十番の様々な商店を訪問してインタビューし、模造紙にまとめるとともに発表会を行う。「総合学習」だから、これをクリアーしないと卒業できない。不登校で引きこもりがちの生徒も多い中で、地域の協力を得ながらもう6年続けている。これはもっと注目されていいのではないか。グループ作り、礼儀指導など事前指導も結構大変なのだが、2期生の発表会を見て僕は感心したですね。

 で、その時の担当だったんだけど、1年目は後半もグループ研究だったけど、2年目からは後半を個人研究で行うことを提案した。生徒を見ていて、グループだと積極的な生徒に頼ってしまう場合が多いと感じたので、後半は個人の責任を追及してみたかった。また2年目からは、前年度に落とした上級年次の生徒が参加してくるわけでグループ作りが難しくなるという問題もあった。個人研究用のテーマ届出用紙やテーマ例などの書式は今でも僕が作ったものが原型になってるようである。(誰か大胆に変えてよ。)やってみて、やはりいい加減なレポートもあるけど、素晴らしいものが沢山出てきた。4期生でも担当したけれど、いいレポートは多いと思う。ところで、授業の中身もだけど、この時の担当者(ほとんどが2期生の担任)で行った毎週の会議が(負担ではあるけれど)、とても面白かった。どういう形にしていくか、まだ形が決まってない中でああだこうだ議論をして、生徒を伸ばす工夫を皆で考えていく。「垂直伝達型」ではない「水平型」会議の意義を感じさせられた

 八つ目。「修学旅行の担当として」。九つ目。「遠足で横浜へ行った」。校外学習は2期生の経験はあまり継続されていないかな。僕は遠足担当ではなかったけど、2年次から横浜はどうだと言っていた。車いすの生徒がいて、移動しやすくてたくさん見学できるところという発想である。でも2年目は「お台場で科学未来館を見て潮風公園でバーベキュー」になった。これはとても良かった。3年で「横浜で見学、中華街でバイキング」。この時に「新聞博物館」を取り入れたところに僕の意見が入っていて、それは前任校で夏の自主研修で行っていたのである。ところで、2期生の遠足は朝昼夜の各部を時間ごとに分けず、一緒に集めて一緒に食べるというのが大きな特徴で、ここが実はキーである。つまりバラバラな生徒なりに同期生意識を育てるという趣旨である。

 それは修学旅行も同じ。僕は自分の学年の宿泊行事は全部担当してきたから、当然六本木でも担当するつもりだった。大変ではあるけれど、僕は学校のすべての仕事の中で宿泊行事が一番好きなのである。でも精神的、身体的に長期の旅行が大変そうな生徒もいるために関西への2泊旅行となっている。もっとも修学旅行は難しいという意見も当初はかなりあったので、実施できているのは1期生の生徒の強い希望が大きい。2回目の旅行は京都2泊、真ん中が自由行動、最終日に「京扇子作り体験」をして清水寺、皆で湯豆腐を食べて帰るということにした。やはり全員で体験学習したり食べるのを入れたのである。裏ではけっこう大変だったりもしたが、生徒理解には意味があったし、やはり修学旅行という行事は意味があるんだと思う。

 十番目。もうあまり順番は関係ないんだけど、「文化祭で体育館ステージを初めて使う」。僕は生徒部ではないので文化祭そのものの企画責任者ではない。文化祭はクラス参加ではなく部活と有志という枠組みでやっているので、企画そのもので書くことも少ない。(毎年何か関わっているわけだが、そういう単なる思い出ではなく、「仕組みを作った」ことを書く趣旨なので。)1年目の文化祭は体育館を使わず、校舎だけで行ったということである。(僕は知らないが。ちなみに体育館は道の向こう側にあり空中の渡り廊下で校舎とつながっている。)2年目にして体育館解禁となった。その時に演劇部顧問として初めて誰もよく知らなかった照明装置を使ったのである。緞帳の鍵なんかも初めはどこにあるか判らなかった。体育館を始業式やなんかで使うようになるのは、その後のこと。最初僕が赴任したときは、各部ごとに視聴覚室で始業式を行っていた。だから3回始業式をやったのである。もっともその時は1期生だけしかいないわけだが。でスポットライトやフットライトを探し出してくるところから始まった。前の城南高校時代の設備自体はかなりそろっていたのである。数年間誰も触れてなかっただけで。この時は担任していた生徒がMCを担当して体育館の舞台発表も成功した。ダンス部なんかプロ級というよりプロそのものがいたので感心した。

 ということで、仕組み面で考えた10個なんだけど、どうも書いて行くうちに「補遺」がいることに気づいた。六本木高校のお仕事といったら、A勤B勤問題や、二人担任制に触れないわけにはいかないことを思い出した。さらに毎日続く夕休み会議などにも。これらは僕にどうこう出来る問題ではないんだけど。ま、とりあえずこんなことをしてきたのかなと一年経ってのまとめ。
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六本木高校でのお仕事③

2012年03月30日 01時20分15秒 |  〃 (教育問題一般)
 年度内に書いてしまいたいので、もう一本。授業の話である。生徒から見れば、教師は授業や部活動であるだろうけど、教員として見ればそうではない。というか、若い時は教員もそうかもしれないが、だんだん授業は「ルーティン・ワーク」(決まりきった日常の仕事)になってくる。いや、だから手を抜いてるということではないんだけど、例えば歴史の教員が日本史の授業をするときに、毎年そんなに違っては逆におかしい。教科書は同じなんだから。しかし生徒は毎年違うので、行事指導や生活指導は毎年かなり違うのである

 そして、学校と言うところは「見えない学力」を育てるところである。授業そのものも大事だが、特別活動や清掃なども同じように、というかむしろそっちは今は家庭でもなかなかやらないんだから、そっちの方が大事かもしれない。だから授業以上に、修学旅行や文化祭など大行事の企画運営案作成といった裏仕事の方が面白いのである。時間割の案を作る人がいて時間割ができる。部活顧問の案を作る人がいて顧問が決まる。修学旅行実施案を作る人がいて初めて旅行に出発できる。生活指導の案を作る人がいて生徒の問題行動があっても一致して指導に当たれる。あらゆる仕事がみんなそうであると思うけど、表で見える仕事を準備する「裏の仕事」があるわけだ。教員歴が長くなるにつれ、そういう仕事が多くなってくるし、面白くもなってくる。

 で、四つ目。「人権」という授業を作った。授業そのものの前に、そういう授業を企画したという仕事が自分には大きい。これは赴任した年に考えて、翌年から実施した。学校としては3年目。つまり1期生が3年となり、卒業する生徒が出る年。必履修科目を取り終った生徒向けに、社会科系(だけでなく全教科で)の上級科目をおく必要が出てくる。本来、世界史、日本史、地理には「B」科目という週4時間科目がある。進学校で置いているB科目ではなく、本校では週2時間の「A」科目のみを置いている。しかし、完全単位制ですべて2時間連続授業なので、「B」科目をおいても取らせ方が難しい。教員としても同じ年に両方やったりするのは負担が大きい。だから社会科系の独自科目を設定する(都教委に「学校設定科目」の申請を行う)という方法を取ったわけである。(なお、4年目から「歴史探訪」という科目も開設した。)

 僕が考えたのは、自分が担当することを前提に、生徒の実態にあった「考える授業」ができる科目ということである。不登校、中退生徒の学校ということで、(何も考えていないような生徒もまあいるけど)、むしろ社会的関心がある生徒はなまじの中堅校よりも多いのではないかという感じがした。しかし自分から外へ出て行く行動力がなかなか発揮できない。ではゲストを呼んで一緒に考えるというスタイルしかない。しかも大学を目指すという生徒が多いようだったけど、一般受験は無理そうで推薦制度を利用することになりそうだった。だから面接や作文で「高校時代に学んだこと」として語れるような授業を作ってあげたいと思った。(実際面接などで話に出たケースも聞いてるので、作ったことは無駄ではなかった。)

 では何をやるか。とりあえずずっと関心を持ってきたハンセン病を語ればいいと思って、1年目は1学期間ハンセン病。2年目は戦争のお勉強。差別、戦争、貧困をバランスよく取り上げればいいと思ったけど、なかなかそれは難しかった。本当は生徒間討論、ロールプレイなどができればいいと思い、到達点は参加生徒で人権の朗読劇を作るということを考えていたのだけど、2年やってそれは無理だと判った。生徒がバラバラに取ってくるので難しいのである。だから3年目くらいからは、「生徒のアタマとココロを刺激するレッスン」みたいな感じで教員主導でいいやと思ってやってきた。1年目は10人ちょっとで、少し宣伝したので2年目からは30人くらいになって、うれしい反面外部訪問が難しくなった。でも毎年(5年目の自分が担当できない2011年度も含め)、なかなか面白いメンバーが集まり自分なりに達成感はある。

 取り上げたテーマは、濃淡あるが、ハンセン病、在日朝鮮・韓国人、冤罪、死刑制度、ホームレス問題、差別、アイヌ民族、戦争、アパルトヘイト、などかな。ハンセン病問題では森元美代治さんに5年間お話頂いた。布川事件の桜井昌司さんのお話も生徒の反響が大きかった。他にも多くの人をお呼びすることができた。単発で「ぼくは12歳」のCDを聞いたり(ちなみに作家高史明の子息で、小学生で自死した岡真史の詩を中山千夏がうたったレコードがあり、それがCD化されている)、大分の中学校で養護教諭として人権の授業をしていた故山田泉さんの追悼授業をしたこともあった。アパルトヘイトはワールドカップ南アフリカ大会の最中のことで、本校には「国際理解」という科目もあるので国際的な課題はあまり取り上げなかった。ええと、あの問題を忘れているじゃないかって。それは別立てで取り上げる。

 5つ目。「人権」の授業で、性的マイノリティの問題を考えたこと。僕が当初「人権」の授業を構想した時には、性的マイノリティの問題のことはあまり頭になかった。前任の夜間定時制でGID(性同一性障害)を自認する生徒に出会っていたが、それほど詳しいわけではなかった。ところがその問題を取りあげてくれという当事者がいたのである。そこで語れる人を求めて、同性愛の牧師として行動している平良愛香さんのことを紹介されて授業をお願いした。さらに性同一性障害に関して、虎井まさ衛さんや上川あやさん(世田谷区議)をお呼びした年がある。他の人権の外部講師の時は大体そうなんだけど、他の教員にも情報を提供して一緒に聞いてもらったこともある。今思うと、それこそが自主研修である。生徒の中にもこの問題が聞きたくて「人権」を取ったという例が結構ある。芸能活動をしている生徒も多く、身近な問題と思っている生徒もいるのである。

 なんでこの問題だけ、別立てにしたのか。それは制服もない単位制高校である六本木高校に、他の高校を中退したり、他の高校から転学して入学した性同一性障害の生徒を複数知っているからである。僕はこの問題の大きさを後からますます感じるようになった。全日制高校では生きにくいことが、それは多かっただろうと思う。制服を着用するということだけでも。ある種、単位制定時制のよさは、そのようなマイノリティの生徒を受け入れられるという点にあるのではないかと、僕は思うようになった。そして、他の先生にも情報を提供することによって、多少なりとも校内での理解に役立てたのかもしれないと考えることにしている。だから授業そのものというよりも、もう少し別の観点で僕の関わった仕事だと思っているのである。
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六本木高校でのお仕事②

2012年03月29日 21時39分46秒 |  〃 (教育問題一般)
 六本木高校では担任以外の校務分掌はずっと教務部だった。希望は常に一任だから別にいいんですけど。墨田川高校定時制で、突然校内事情で教務主任を発令されるまで、実は教務の経験はほとんどなかった。別になんだって全体の中の仕事なので、どこでもいいと思うんだけど、本当を言うと生活指導の生徒会や文化祭担当が好きかなあ。最後の10年くらいはずっと教務に釘付けで、そこはちょっと、ね。

 2番目に書くことは、だから教務関係になる。「履修指導に仮登録制度を作った」。これは多分、六本木時代に一番考えたことだと思う。六本木高校は大学みたいな完全単位制高校だから、生徒が自分で科目を希望して登録する。(まあ登録作業自体は担任が管理用コンピュータで行うわけだけど。)時間割を秋に作ってしまい、1月に示して登録作業を始める。その時点では教員の異動も決まってないから、どの授業を誰が担当するかは教師にも判らないのである。(判っていても生徒には伝えないけれど。)

 最初の2年くらいは生徒が少ないからよかったんだけど、だんだんいろいろな問題が出てきた。中学不登校生徒が急に全員来られるわけはなく、やはり高校でも通えない生徒はかなり多い。そうすると、それを取らないと卒業できないという「必履修科目」を希望する生徒が年々ふくれあがってくる。一方、六本木独自の「特色科目」というものも多いのだが、施設の都合で履修できる生徒が限られる。そういう場合、当該年度の「出席率」で落とすことになっているのだが、何人希望し誰が落ちるかが事前には判らないから、指導が難しい。落ちた後で他の科目に回ろうと思っても、その時はそちらも満杯ということもある。一方、ほとんど来ないような生徒もいるのだが、それらの生徒も呼んで登録しなければならない。

 ということで、僕が担当として考えたのは、出席率が50%を超える生徒だけを対象にして、最初に「仮登録」をさせてみるということだった。詳しい点は他にもあるけれど、一番の眼目はそこ。それで翌年度の特色授業の希望状況を見てみるとともに、希望が集中した必履修科目などは「2クラス開講」にするなどの手を打てる。特色科目を友達と希望して、片方が落とされてしまい登録できた生徒も来なくなるというようなことも、仮登録状況をうまく使えば減らせる。仮登録を変える必要がない生徒は大体はそのままで良いので、出席率が低い生徒には後から大体の傾向を見て空いている授業に誘導していける。というようなことを考え提案し、各年次等で議論しそれでやってみた。以後も続いているので、おおよその方向としてはかなりの改善だったのではないかと思う。ただ、履修登録にやりかたにベストはなく、生徒実態によりあった方策がないか考えていくことが大事だと思う。

 三つ目は「5・6年次の他部履修制限の緩和問題」。4年の学年主任としての仕事。誰もよく判ってなかった「5年、6年で卒業を目指す生徒の問題」が担任4年目になって、自分の中で大きな問題として浮上してきた。3分の1程度の生徒が3年で卒業し、大学進学や行事、部活動等で活躍する生徒は大体3卒が多い。だから教員の目は「3卒生徒」に向きやすい。正規の年限である4年を超えて6年まで在籍できるが、それらの生徒のことは数も少なくあまり意識されない。自分だって3年までは3卒生徒の進路しか頭になかった。今は、右目で3卒生徒を、左目で6年までいる生徒を見ることで、複眼的に理解していくことが大事なのではないかと思っている。なぜなら、「チャレンジスクール」という高校は、何よりも中学不登校生徒に高卒資格を与えることが最大の存在意義だと思うから。案外進学実績が良かったり、検定や部活動で活躍できる生徒が出てきたのは喜ばしいけれど、6年かかって卒業できた生徒がいるということも、教師としては大切にしたいと思うのである。

 本来僕が望んでいたことは、「転部制度」だった。卒業生が出た後は、朝や夜が大変な生徒は昼間部に集めてまとめて行くやりかたもあるのではないか。しかし、システム上の問題もあるので、それはやめて事実上の転部にあたる授業の他部履修制限の緩和の方で考えた。これはかなり慎重論があったけれど、「試行」ということでかなり頑張ってやらせてもらった。僕が大事に思うことは、この制度を使うかどうかではなく、生徒の生活実態も変わっていく中で生徒実態に合わせた指導のあり方もあって良いのではないかということである。あくまでも「生徒実態の理解」が先になければおかしいと思う。単に5年、6年はどこを取ってもいいという話ではなく。5年となると在校中に成人である。4年かけて卒業もできず、退学、転学もしない生徒はそれなりの事情がある。5年で30人、6年で10人位だろうと思う。うち卒業可能性が残るのは半数程度。後は辞める決心がつかないか、病気などで長くなっている生徒。後者は出来るだけ支援してあげたい。多分人生で一番高卒に近づく瞬間なのだから。高卒認定試験を受けて上級学校に進める生徒は高校をバイパスしても構わないけど。実際に2部中心に取らせて卒業できた生徒は数人いる。数は少ないけれども、考えて見た意味はあったかなと思っている。(この項続く。)
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六本木高校でのお仕事①

2012年03月28日 23時12分38秒 |  〃 (教育問題一般)
 教育に関しては現場感覚とずれた言説が横行していると教師のほとんどは思っているだろう。では自分で発信すればいいと言うかもしれないが、現職だと多忙だったり制約があったりする。それに教師の楽しさやつらさは生徒の固有名詞抜きでは伝わらないことが多い。もちろんそういうことはここでも書かないけれど、ちょっと六本木高校での仕事のことを書いてみようかなと思った。退職して1年近くたち、前の学校の話を書く期間もそろそろ終わりにしたいと思うし。六本木高校の場合は特殊性が多く、生徒を語ること以外でも語れることが多いのである。

 去年辞める前に「最後の授業」と名付けて生徒や卒業生には伝えたいことを語る機会があった。(それはこのブログにも書いた。昨年3月のところを探してください。)でも教師の仕事に関しては語る機会がなかった。実は少し思い返していたんだけど、送別会みたいな場ででも言おうかなと思っているうち震災でそういうもの自体がなくなってしまった。ブログでも、教員免許更新制に関する一般論はずいぶん書いたけど、あのころの気持ちとしては津波被害や原発事故のことが大きくて、教師としての自分を振り返って伝えるというような気持ちにはならなかったのである。

 大体の高校で思い出話を語ると言えば、「修学旅行の担当として北海道旅行を成功させた」とか「クラスの文化祭でお化け屋敷を成功させた」とか、そういうことになるだろう。でも六本木高校に開設二年目で赴任した時は、「そもそも本校で修学旅行を実施すべきか」とか「文化祭は有志参加でいいか、クラスではどう指導するべきか」などの議論を行っていた。開設当初の「チャレンジスクール」として、生徒理解を深める研修も多かったし、精神的に不安定な生徒もかなり見られたと思う。すべては手探りで、生徒実態を理解しながら授業、行事、部活動などのあり方を初歩から議論して作り上げていったわけである

 今いる生徒はあまり感じないと思うし、最近異動してきた教員にも伝わってない部分もあるのかと思うけど、そういう「神話時代」みたいな時もあったわけである。もっとも本当に大変だったのは、教員数も少なかった開設1年目らしい。二年目で教員数が倍増した時に赴任したので、ちょうど様々なルールや授業のあり方が整備されていくときに参加することになった。六本木には特別な授業が沢山あるけれど、それらも誰かが中心になって設定し、カリキュラムを整備していったものである。例えば「福祉活動」「ボランティア活動」「生活実践」「地域研究」「産業社会と人間」といった全員に登録を義務付けている科目があるが、それらの科目でやることも、誰かの教員が主導的に作り上げていった歴史がある。

 僕のやっていた「人権」という科目なども、そういう意味では僕が生徒にふさわしいものをと考えて作って続いてきたものである。別にそれを変えてはいけないなどという風には思わない。生徒実態も学校に求められるものも少しずつ変わっていくと思うし。開設10年目に向け変えるべきところがあれば変えていって欲しいと思うし、現に変わっていったものもある。対外的に大きなものとしては「入選時の作文のあり方」がある。また「学校外の学修」(検定等を単位認定する仕組み)を、何かの科目の増加単位にしていたのを、それだけで単位認定することに変更した。(これだけではよく判らないと思うけど。)また行事としては「スポーツ・フェスティバル」が新設された。こういうのも、まあ全員で議論したんだけど、やはり主導する人がいたから変わっていったということだと思う。

 さて、僕が思っている一番の仕事は、たぶん多くの人には意外なのではないかと思うけど、「2期生文集を作ったこと」である。これはその後、3.4.5期と続いてきたので、ぜひ続いて行って欲しいなあと思っている。今は生徒のお金で印刷して全教員に配布することができなくなったので、まだ見たことがない人もいると思うけど、3年卒業生が出るときにそういうものを作っているのである。多くの学校では(自分が勤務した中学や全日制高校では)、卒業時に「卒業アルバム」があった。しかし、六本木高校は生徒数も少ないし、そもそも一緒に入った生徒が一緒には卒業していかない。卒業生だけのアルバムを作っても知らない生徒ばかりになるし、卒業が決まるのも3月になってしまう。ということで、卒業時に生徒の思いを残すものが作りにくいのである。でも、入学式以来、各年次の始業式や行事などで撮りためた写真はかなりあった。(「写真」という授業もあるのである。)それらをなんとか生徒に還元できる方法はないかなあと僕はずっと思っていたのである。

 六本木高校のような完全な単位制高校でも、生徒の基盤にあってまた一番友人となるのは、同じ時期に入って勉強した同期生だと思う。3年卒の生徒が出た後で文集を作っても意味ないから、卒業しない生徒も含めて、3卒の時期に文集を作るしかない。そう思っていたので、年次会(「学年」ではなく「年次」と呼んでいるので、学年会ではなく年次会)で提案したところ、大方の賛同をえて卒業行事全体の活動の中で進んで行くことになったのである。ただし文集の編集そのものにはタッチしていない。でも、今の文集の形式には、僕の今までの経験が生きている。最初に勤務した松江二中でも、高校で最初の荒川商業(全)でも、アルバム以外に卒業文集を作ってきた。というより、松二では何かというと行事終了後とかに作文を書かせて文集にしてきた。それから学んだことが大きいのである。一方、高校ではそういうのは無理かと思っていたら、作ろうという声があって各学年で作ることができた。その後僕は生徒会担当になって生徒会誌を編集したのだが、そこでは冒頭に行事等の写真を載せるカラーページを作った。それが直接には、六本木の文集の体裁に生きているのである。

 墨田川高校(定)に異動したら、さすがにここでは文集を作るということは難しそうな感じがしたが、卒業アルバムはなんとか作っていた。20人も生徒がいないから業者には頼れないので、卒業担任が手作りしていた。これにはちょっとびっくりしたが、生徒にとって思い出に残るものを作って残すということは大切だなあと感じたものだった。自分の学年では生徒や教員の顔写真、学校の様子などをデジカメで撮り、行事の写真などはスキャナーで取り込んで、パソコンで制作してみた。やればそれなりに形の整ったものができるものだ。夜間定時制でも作ったんだから、僕は最初から六本木の生徒でも作っておきたかったのである。

 これらの文集、アルバム等の経験、作った思いが、六本木の「2期生文集」には生きているのだということを僕は伝えておきたいのである。特に、一番素晴らしかった91年3月の松江二中卒業生。彼らが作った文集が六本木の編集委員にも好評で、これみたいなものを作ろうということになった。その文集の中からいくつか気に入ったものをコピーして、「文例見本」の書き方例のプリントが作られ配布された。そうして、僕が参考にしてほしいと渡した過去の生徒の努力が、今も六本木高校の文集の中で生きているのである。僕はそういう喜び、学校を超えて生徒の思いが伝わっていくという喜びが教師にはあるんだということをここで初めて学んだのである

 今年も卒業式が終わった後で、みんなが文集の後ろの方の白紙に一言を書きあっていた。やはりそういうものが必要なんだと思う。そういう様子を見ていて、今までの生徒との関わりが今も生きて伝わっていることが僕はうれしかった。だから、僕は敢えて自分の遺した仕事の第一に「二期生文集」作成を提案したことをあげたいと思う。(この項続く。)
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卒業式と歌-卒業式⑥

2012年03月26日 23時54分38秒 |  〃 (教師論)
 卒業式に関する話を終わりにしたい。自分の経験した卒業式についても書こうかなと思ったけど、生徒の具体的なケースが書けないからやめる。大体、卒業式そのものは宿泊行事や文化祭に比べれば面白くないし、スリリングでもない。

 最後は「歌」の話で、「卒業の思い出の曲」のことでもあるし、「国旗国歌問題」でもある。僕が今まで書いてきたのは、卒業式に関して「現場感覚」とずれた言動が多すぎると思うからだ。特に大阪府で生じた事態。東京の事態もおかしいが、それは知事が任命した教育委員のイデオロギーに発する問題だと思ってる。つまり戦後ずっと続いてきた「教育をめぐる左右対立」の枠組みで理解できる。一方、大阪では「教員も命令で動く存在」「命令したものが守られないのはマネジメントの問題」という言われ方をした。この発想に見られる、教育というものに関する浅薄な理解には呆然とする。学習指導要領には「国歌を斉唱する」と書いてあるわけで、校長としてみれば式次第に入れないわけにはいかないという立場である。だけど、「先生方の中にもいろいろな考えがあり、そこからも生徒は社会や人生について学んでほしい」くらいのことを校長が言えなくてどうするんだろう。社会の中から「包容力」が失われてしまったのか。それを憂うべきは、むしろ「保守主義者」の方のはずである。

 しかし、僕は国歌斉唱に際して不起立で通そうと思ったことは実はないのである。あんまり起て、起てと職務命令まで出すから、かえって反発したくなる気持ちは僕にもある。でも、「謝恩の日」や「卒業生を出すということ」で書いたように、卒業式というものは生徒にとっても教員にとっても大きな意味を持った日である。その本質の中では、国歌にどう対処するかというのは、あまり大きな意味を持つ問題とは思えない。いや、そうではないと、歌わせたい側も、反対する側も言うかもしれないが、僕は学校というものが生きて働いて意味を持っている現場においては、国歌が自分にとって死活的に大切な問題とは思えなかった。

 高校の卒業式が終わると、まあ東京では会おうと思えば大体はすぐ会えるけど、地方では大都市へ進学、就職する生徒が多い。全国では半数近い生徒が高校が最終学歴となる。学校を怨みに思って出て行く生徒も中にはいるのかもしれないが、大多数の生徒はその学校で会った友達や先生に感謝して去っていくのだと思う。そしてその思い出が今後の厳しい実社会で挫折しそうになった時の支えになるわけである。毎日のように卒業後も学校に遊びに来る生徒もいるが、大部分はほとんど来ないし、来れない。関係がうまくいった生徒ばかりではないけど、最後に何か声を掛けたい。卒業アルバムに一言書いてほしいとやってくる生徒がいれば、何か書いてあげたい。不起立でもただ処分されるだけならまだいいけど、当日すぐに「事情聴取」があり、続いて都教委に呼び出される。それが面倒くさい。生徒との最後の日をジャマされたくない。そんなにうまくいってなかった生徒でも、「高いお金を親が出してくれたんだから、専門学校ちゃんと行けよ」とか「取ってくれた会社に縁があったんだから、3年間は頑張ろうよ」とか言っておきたい。それでなんとかなると思ってるわけではないけど。僕の言葉にそんな力はないし、学校だって会社だって辞めて正解みたいなとんでもない所はいっぱいある。でも、まあそういうことである。

 ぼくがそう思うのは、地域に密着した中学から始まって、単位制定時制高校に終わったという自分の教員経験によるところも大きいと思う。劇作家の永井愛さんに「歌わせたい男たち」という傑作があった。永井さんのお芝居は僕は大好きでよく見るけど、中でもこの作品は評価が高かった。僕も面白いと思うし、中で提出されている問題はとても大事だと思う。でも(このことは前にも少し書いたんだけど)、この劇の中で議論している教員のあり方に僕はあまりリアリティを感じられなかった。その先生は卒業生の担任なんだけど、音楽の講師の先生が君が代の伴奏をしないように保健室で説得を続ける。そのドラマが面白いんだけど、でもこの先生は卒業式の日だというのに、クラスの心配をしていない。僕が思うに、よほどの進学校で生徒がちゃんとした格好で時間通りに登校するのを疑っていないとしか思えない。僕が経験した学校では、卒業生が全員そろったことがない。まあ夜間定時制高校の時だけは、5分前にそろったけど、入学式に30人以上いたのが卒業式には半数になっていた。一方、服装や頭髪のルールがある学校では、異装や頭髪の違反がないかも頭が痛かった。荒れていた時期にとんでもない服装(いわゆる「ツッパリ」風)の生徒がいた年もあって、そういう時にどうする、こうするという事前の指導や教員間の共通理解が大変だった。そういう問題が出てこないと、僕には卒業式のリアリティが感じられないのである。だからこそ、僕の経験した学校では、卒業できた生徒の喜びも、卒業までお世話した教員の喜びも大きかった。君が代問題も、賛成、反対どっちであれ意見を言うような人は大卒で進学高校出身なんでしょうね、やっと卒業できた定時制高校の生徒の気持ちは判りますかと、僕なんかは言ってみたいのである。

 さて国歌問題そのものに戻って。最近は「強制するのは問題」という意見が結構ある。僕もそれはその通りだと思う。99年の国旗国歌法制定時の野中官房長官の答弁では「強制するものではない」と明確にされていた。約束違反である。当時、民主党は党議拘束をはずして採決に臨んだ。また委員会審議では、民主党から国歌部分をはずして「国旗法」とする修正案が出ている。当時はとても多くの人から、国歌が「君が代」でいいのかという議論があった。成立して10年以上たって若い人には記憶がないかもしれないが、けっして国民的共感があったわけではないのである。僕が思うに、国歌斉唱と学習指導要領にある以上、(いくら指導要領は「最低基準」とその後言われるようになったとはいえ)式次第から外すのは今では大変だろう。でも、式次第の中に「国歌斉唱」とあれば学習指導要領通りである。それ以上の措置は必要ない。むしろ弊害が大きい。

 でも、それで終わらない。本来は「君が代が国歌でいいのか」ということをちゃんと議論していかなければいけない。君が代はやはり「大日本帝国の国歌」であり、「日本国」の国歌というには歌詞内容も歴史的経緯も問題が多すぎる。それに仮に君が代を変えることに抵抗が大きいとしても、スポーツ競技向けの「第二国歌」があってもいいのではないかと思う。もっと奮い立たせるようなリズムとメロディと歌詞が欲しいと言ったらおかしいだろうか。

 だから僕は国歌自体を考えていくことが大事だと思うけど、それはそれとして国歌が別だったら卒業式で歌っていいのかというと、僕はそれにも疑問がある。まあ国立の学校は違うかもしれないが。僕は厳粛な式というもの自体は否定しない。もっとアットホームな「祝う会」があってもいいではないかというのは賛成だけど、卒業証書授与のときにパフォーマンスしたり爆竹ならしたり生徒が席をたってケータイで写真撮りまくるなどということはいけない。だけど一番大事な証書授与の前が「国歌」でいいのかとは思う。「日本の大部分」(琉球王国と蝦夷地を除き)は、古墳時代頃から大きな文化的な共通性があって、革命で現体制ができてそれを再確認していかないと国家的統合が危ういというような国ではない。何も学校で国歌を歌って国民的アイデンティティを確認させる必要は少ない。むしろその学校に対する帰属意識を再確認して、自分の出て行く学校をふり返ることが一番大切。それは校歌が本来は一番のはずである。高校では音楽が全員必修ではないから校歌をちゃんと覚えないまま卒業まで来るということがある。それはおかしいでしょ。

 だから僕はまず最初に全員で「校歌」、最後に全員で「式歌」というのがもっとも望ましいと思うのである。「式歌」というのは、まあ全員で別れに際して歌う歌で、伝統的には「蛍の光」か「仰げば尊し」だろう。「仰げば尊し」は名曲だけど歌詞が双方ともこそばゆいし、歌詞に問題もあるからやらない学校が今は多いだろう。でもまあムードはあるよね。最近は「旅立ちの日に」という名曲が生まれた。だからこの曲が式歌化していくのが全国で多いのではないかと思う。でも秩父の先生が作ったので、山の方の感じが強く、大都市の学校や海辺の学校では今一つ歌詞にリアリティがない。誰かが歌詞の別ヴァージョンを作ってくれるといいなと思う。

 そしてそこにもう一つ、卒業生だけで歌う「卒業生の歌」があるといいなと思う。アンジェラ・アキの「手紙」とか森山直太朗の「さくら」とか。これは卒業生の最後の表現活動である。僕にとっては、91年松江二中の思い出があまりにも鮮烈なので、もし歌えるなら「大地讃頌」が一番いいと思う。それが歌える学年であるといいなと思うけど、高校ではなかなか無理かなあと思う。全員でやる音楽の授業がないんだから。だけど、卒業生、在校生の「生きる力」を育て、高校を出る生徒に思い出を作るという意味で卒業式という行事をデザインしていくと、君が代なんかそもそも式になくていいのだと思う。学習指導要領自体を実態にあったものに変えて行く必要があるし、そもそも文部科学省の告示に過ぎなくて国会の議決も経ていないものが金科玉条のごとく語られることもおかしい。
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記念品は岩波新書だった-卒業式⑤

2012年03月25日 23時46分57秒 |  〃 (教師論)
 卒業式の話題も大体終わったかなと思ったら、「卒業記念品」のことがあったので、簡単に。大体僕らの時代は、高校卒業時にハンコをもらったもんだ。ずっと使わせてもらった。もっとも「もらった」と言ってもプレゼントではなく、今思えば親が出したお金が戻ってきただけなわけだが。また卒業生の名前で学校にテントとか緞帳などを新調するということも昔はよくあった。「第○○次卒業生寄贈」と書いてあるような物品である。これもよく考えれば、本来は公費で対応するべきものだということになるだろう。

 僕の関わった学校では、最後の頃はもう卒業記念品というものが特にはなかった。今でも全日制進学高校ではあるのだろうか。ハンコの広告が学校に送られてくるから、今でも作るところはあるんだろう。(大体山梨県の業者である。)不況と言われる時代が長く続き、「私費会計」にも監査が入るようになって、できるだけ少額にする、すぐに返金するという風になってきた。六本木高校のような単位制定時制ではそもそも、入学した生徒がバラバラに卒業することが前提になっているから、「卒業対策費」を集金しにくいという事情が大きい。また在校生から卒業生に花を贈ったりすることも今はできない。(本人に還元されるものしか私費では支出できない。)そういう原則も厳格すぎればちょっと淋しい。卒業する生徒や転勤する先生に、在校生として花を贈るなどというのは、みんなから集めたお金のもっとも正しい遣いかたではないか。

 91年の松江二中での卒業式では卒業記念品があった。学校へ残すものもあったし、自分たちの思い出の品もあった。そしてそれを教員だけで決めるのではなく、あるいは学級委員会あたりで決めるのではなく、生徒自らが決めて行った。自治意識を高める生徒会活動の活発化を進めてきた集大成として、生徒と教員で原案を作って、「学年総会」を開いて決めたのである。もっともこの総会が活発過ぎて原案が否決されてしまうという結果になってしまうのだが。(原案は「最後の行事である合唱コンクールのテープ」。それに対し、すぐに使える「テレホンカードやオレンジカード」がいいという修正案が通ってしまった。でもテープを残したいという女子リーダー層の強い希望もあって、結局は学年PTAの援助を得てテープも作ったのだった。)

 自分の高校時代には、ハンコの他に(きっとお金が余ったんだと思うけど)、担任団からの記念品があった。僕は事前に聞いていた記憶があるので、たぶん生徒会役員だったから相談みたいな話を聞く機会があったのかと思う。詳しいことは忘れてしまったけれど、結局本にしようというアイディアが先生から出た。各担任が1冊お勧めの岩波新書を選び、そこに生徒会推薦で早乙女勝元「東京大空襲」を加える。早乙女さんは高2の時の文化祭で講演に呼んだという縁があったのである。8クラスあったので、計9冊の中から各自希望の一冊を選んで、それをプレゼントとするというのである。これは今思うと、すごい傑作な企画ですね。でも、僕が何を選んだかはもう忘れてしまったんだけど。

 夏休みの宿題に新書を読むというのがあったのも覚えている。僕は今も新書をよく読んでる。歴史関係だけでなく、各分野に幅広く目を通すことは大事だと思ってきた。ここでも最近新書の書評を書いているが、今日は島田裕巳「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」 (幻冬舎新書)を読んでて、終わったので大村敦志「民法改正を考える」(岩波新書)を読み始めた。こういう風に新書を読むようになったのは、きっかけとしては高校時代の刺激だったのではないかと思うのである。
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「高校紛争 1969-1970」という本

2012年03月23日 01時25分31秒 | 〃 (さまざまな本)
 小林哲夫「高校紛争」は、2012年2月の中公新書新刊である。2月新刊は充実していて、先に書いた「物語近現代ギリシャの歴史」の他に、成田龍一「近現代日本史と歴史学」も面白かった。歴史学や歴史教育プロパーの人向けだと思うので、ここでは詳しくは触れない。戦後歴史学のあゆみを3期に分け、「書き換えられてきた歴史」を分析している。僕は大体2期とある頃(60年代末から70年代)に学生だったから、その頃の本はほとんど読んでいる。最近の本になると、知らないのは少ないけれど、読んでない本が多い。。

 「高校紛争」という本は、「語られなかったもう一つの闘争」とあり、冒頭「忘れ去られた歴史がある」と書かれている。実は僕は忘れたことはないし、いずれ自分でも追及してみたいテーマだった。しかし、この本によって、ほぼ「高校紛争」というテーマの概説は書かれたと言ってよい。遺されたエピソードはまだたくさんあると思うけど、おおよそこの本で大体伝わるだろう。

 帯の裏にある紹介文。「1960年代後半から70年代初め、高校生が学校や社会に激しく異を唱えた。集会やデモを行うのみならず、卒業式を妨害し、学校をバリケード封鎖し、機動隊に火炎ビンを投じた。高校生は何を要求し、いかに闘ったのか。資料を渉猟し、多くの関係者の証言を集めることで浮かび上がる、紛争の実像。北海道から沖縄まで、紛争の源流から活動家のその後の人生までを一望する、高校紛争の決定版。」

 目次を見ると大体中身が判るので、引用してみる。(小見出しは省略。)
第1章 1969年10月21日、都立青山高校
 1 高校がマヒした日 2 時代に翻弄された高校
第2章 紛争の源流を探る
 1 1950年代の喧騒 2 60年安保の覚醒
第3章 社会への反抗、学校への抵抗
 1 羽田、王子、佐世保 2 初めての校長室占拠 3 卒業式闘争
第4章 高校生は何を問うたか
 1 生活指導、校則 2 教育制度 3 学校運営、政策 4 政治課題
第5章 活動家の実像
 1 社会問題としての高校紛争 2 活動家の苦悩 3 革命家をめざした高校生たち 
 4 バリケード封鎖の風景
第6章 紛争重症校列伝
 1 エリート校の問題提起 2 負のスパイラル 3 長期化 4 戦争の間近で 5 女子と紛争
 6 実業高校 7 稀なる勝利
第7章 紛争はどう伝えられたか
 1 沈静化へ 2 その後の活動家たち 3 学校は変わったか

 僕がこのテーマに関心を持っていたのは、紛争当時に中学生だったからだ。生々しい同時代史である。大学の学生運動は遠かったけど、自分が行くかもしれない高校のことは関心を持たざるを得なかった。具体的には、都立上野高校である。ここへは結局行ってない。当時は学校群制度で、群を受験し合格校は抽選で決まる。不思議な制度ではあった。これが「都立凋落」を招いたと今では諸悪の根源視されている。僕も抽選で高校が決まるというのはいくら何でもちょっと、と思うけど、実際その制度で合格した以上、あまり悪く言われるのも感じが良くない。群ようこ「都立桃耳高校」にあるように、抽選で決まったはずなのになんとなく各校の伝統的カラーが生き残るのである。僕は第5学区の52群を受けて、白鴎高校に振り分けられた。

 上野高校に行きたかったのは、上野が紛争勝利校で、定期テスト廃止自主ゼミ開設など素晴らしいと思えた改革がなされていたからだ。僕は当時から小説や映画に没頭していた。1970年公開の「イージーライダー」や「ウッドストック」「明日に向って撃て!」などは皆ロードショーで見た。「自由」に憧れたのである。上野高校で実施された自主ゼミのテーマが109頁に載っている。いわく「丸山真男の『日本思想』」「カミュ『異邦人』における極限状況の設定」「ルソー『エミール』」「梅本克己『現代思想入門』」「ヘーゲル『精神現象学』」「フッサール『現象学』」「パリコミューン」「アルカリ金属およびアルカリ土金属」「核酸の化学」と列挙されている。

 この驚くべき高度なテーマ設定。これに当時の高校生はついてこられたのである。僕も行きたかったし、やりたかった。と同時にこの試みがいずれ潰えていくのも、また必然だったのだろうと思う。ここまで10代で問題意識が高揚したのも、60年代末期の一時的な現象だろうと思うから。でも、僕が六本木高校で作った「人権」という授業で本当にやりたかったことは、こういうことだったと思う。歴史を隔てて遙かなる残照がかすかに残り続けるのである。
 
 さすがに中学生は何もできないと思っていたら、都心の名門、麹町中で「中学全共闘」を名乗っていたのが、現世田谷区長保坂展人である。僕と同じ年で高校に拒まれた生徒が二人いた。内申書に闘争歴を書かれて落とされた保坂展人と埼玉県立浦和高校から血友病で体育の授業ができないとして落とされた大西赤人(作家大西巨人の子どもで、本人もショートショートを書いて作家活動をした)の二人である。僕はそのことを忘れないようにしたいとずっと心の奥で思ってきた。

 今思うと、高校生どころか大学生だって、革命を語るなんてチャンチャラおかしい。世界のことも自分のこともまるで判ってない。紛争の中にも「ジェンダー格差」はあったし、障がい者や被差別生徒のことは問題意識にもない。愛も知らずに世界を語るなんて。しかし、それだけでは当時の気持ちが伝わらない。大津波の映像を見て、自分に何かできることはないかと思わなかったか。原発爆発の映像を見て、日本のシステムを変えなければいけないと思わなかったか。2011年に高校生をやっていたら、みんな何かしら考え心動かされたのではないか。同じなのである。テレビや新聞でベトナム戦争の映像を毎日見て育った。日本では公害問題が深刻化し、日本政府はアメリカ政府や公害企業の味方をしていた。自分たちも何かできないのかと多くの人は思っていた。学校の勉強は現実に関わらないし、校則は厳しく生活は不満だらけ。何も起こらないわけはない。

 そしてそこに大学生の党派が持ち込まれる。このあたりは、多少の予備知識を必要とするかもしれない。さすがに年少の僕には全く知らない世界だった。知らないと言えば、50年代の出来事も全く知らないことばかり。高知では勤評反対を教師と生徒が共同でやっていた。これぞ忘れ去られた歴史だろう。また沖縄の「琉球政府立」の高校のことも出てくる。これは当時の本土には伝わらなかった。教師と一体になった反米軍、本土復帰闘争である。以後も現在に至るまで、沖縄の訴えでは高校生が大きな役割を果たし続けているのは承知のとおりである。

 高校紛争というのは、気持ちはよく判るんだけど、犠牲が大きく、思い出したくない人も多いだろうと察せられる。大学を辞めても、辞めさせられても、高卒の資格はある。通信教育で大学の勉強をすることは後でいくらでもできるだろう。しかし、高校の段階で「今の大学教育は本当の教育ではない」という信念を持ってしまったらどうだろう。あるいは紛争のために逮捕、起訴され高校は退学になった生徒も多い。中卒でいいではないか、とは現実には言えない場合が多いだろう。中卒で労働者となり革命家になると言われても…ということである。

 盛岡第一高校では、卒業式の校長式辞の前に「校長、あなたは真の教育者か もっと生徒に近づけ」「人間性無視の教育は御免だ 事なかれ主義を捨てろ」という垂れ幕が下がったとある。(82頁)言っちゃなんだけど、今でもこういう垂れ幕を下げたい校長はけっこういるんではないか。これは学校としては認められないかもしれないが、「痛快事」というべきではないか。一方、卒業式の答辞、送辞にこのようなものがあったと紹介されている。(83、84頁)「テスト、テスト、テストの教育。私たちはそのレールにのせられ人間でないどころか、生きものであることも忘れさせられてしまいます。」(大阪、清水谷の送辞)、「入学した時から鎖につながれ、その中に埋没した。教師は知識を切り売りし、受験以外には無関心な生徒を作ったのである。」(石川、金沢泉丘の答辞)、「先生に人間と人間のふれあいを求めたがついになかった。」(大阪、寝屋川の答辞)

 これらは今も心に響くのではないか。教育に対する大切な問いかけになっているのではないか。歴史を顧みるとはそういうことだ。もちろん当時の高校生がいくら頑張っても、政治を大きく変えることはできない。でも試みは後世の人間が志を受け継ぐことで生かしていける。僕はそういう大切な問いかけとしてこの本を受け取った。多くの若い人、教育関係者も目を通して欲しい。
 
 どんな学校が出てくるか知りたい人も多いだろうから、ちょっと書き抜いてみた。答辞は「合法的行為」だから抜かす。バリケード封鎖などが起こったか、計画されたような高校だけ。東京が圧倒的に多く、知ってる学校が多いので先に書。後は北から順番に。本書登場順。校名は当時のまま。

東京
(都立)青山、九段、武蔵丘、北園、上野、小山台、四商、西、駒場、城南、石神井、都立大附属、志村、江北、北、日比谷、葛西工業、世田谷工業、烏山工業、練馬工業、小石川、立川、新宿、竹台 (私立)武蔵、高輪、駒場東邦、桐朋、明治学院、麻布、東京農大一、女子学院(国立)教育大駒場、学芸大附属
北海道 小樽潮陵、江別、札幌南、夕張、札幌開成 岩手 盛岡第一、釜石商業 宮城 宮城第一女子、仙台第一、第二女子、第三女子 山形 山形南 福島 磐城、磐城女子
茨城 水海道第一、水戸第一 栃木 宇都宮女子 埼玉 浦和第一女子、浦和、川越 千葉 東邦、市川学園、東葛飾、千葉
神奈川 希望ヶ丘、栄光学園、平塚江南、川崎、慶應義塾、多摩、横浜翠嵐、横浜緑ヶ丘
山梨 甲府第一 新潟 新潟 長野 長野、上田染谷丘、須坂 静岡 掛川西、沼津工業 愛知 東邦、旭丘
京都 鴨沂、同志社、日吉ケ丘、桂、京都教育大附属、洛陽工業、堀川 奈良 奈良女子大附属 兵庫 葺合、須磨、灘
大阪 大手前、市岡、茨木、阪南、東淀川、生野、登美丘、大阪教育大付属池田、淀川工業、住吉商業、四条畷
岡山 津山 広島 広島皆実、修道、広島女学院、広島工業 鳥取 由良育英、米子東、赤碕 愛媛 愛光 高知 追手前、土佐 福岡 小倉、宗像 長崎 佐世保北 大分 大分上野丘 熊本 熊本 沖縄 首里、前原
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卒業生を出すということ-卒業式④

2012年03月22日 22時10分42秒 |  〃 (教師論)
 教師にとって「卒業生を出す」とはどういうことだろうか?考えてみたいのは、そのことだ。入学式があり新入生が入ってくる。やがて授業が始まり、特別活動(行事や部活動等)も本格化してくる。そしてテストがあり評価がある。事件が起こったり、様々な事情で学校が続かない生徒も出てくる。毎年のほぼ決まったカレンダーの繰り返しである。耕し、種をまき、剪定し、収穫し、出荷する。農の営みに、それは似ているかもしれない。すべての素晴らしいこと、辛いことは通り過ぎてゆき、最後に「卒業」が来る

 学校は通り過ぎるところで、やがては上級学校を経て「実社会」に出て行く。その意味で「進路」が学校の本質である。ただし、いわゆるいい学校、いい会社にどれだけ入れるかという「競争」が学校の本質ではない。その「出口指導」、「狭い意味での進路指導」ももちろん大切である。でも、世の中は競争だ、学校ももっと競争を激しくせよ、教員も競争だ、授業も競争だみたいなことを言う人が最近は結構いる。それが正しいとは思えない。世の中はそんな強い人ばかりではない。実社会の競争は必ずしもフェアな戦いばかりではない。学校で身につけた力でフェアに戦って勝てる場合だけではない。負けた人の心の拠り所はどこにあるのだろうか。それは一冊の本かもしれないし、心を打つ一曲かもしれない。でも多くの人にとって、行事や部活動で経験した「連帯の記憶」が大きな力になっているのではないか。いや、行事や部活とか言わなくても、学校時代の友人との他愛ないおしゃべり、その大切さこそが「学校」が人生にとって占める一番大きいものではないのか。

 そのような学校の本質的機能を弱めてはいけない。今、競争重視、進路実績偏重の広がりとともに、学校の担ってきた大切な役割が弱められているのではないか。それは大変な事態をもたらすのではないか。僕が今言う「進路」とは、そのような「場」を育て、生徒とともに学校を作っていくことを意味している。つまり近年よく言われる「生き方指導としての進路指導」である。本人の自己認識の深化、社会認識の確立がないと、就職か進学か、大学か専門学校か、文系か理系か、推薦入学(AO等)か一般受験かなども決めようがない。そしてHR活動や行事、部活動などを通して、教員側も生徒理解を深め、学力だけでない本人の特質をつかんでいく。それを通して、保護者を含め、本人も納得のいく進路先を決めて行くわけである。大事なのは「狭義の進路指導」をするためには、広い意味での進路指導、「生き方指導」が必要だということだ。

 だから教師にとっては、学級担任として生徒の進路に関わること、そのために生徒理解を深めることがもっとも大事だと思うし、他のどの仕事にもましてやりがいがある。僕にとっては少なくともそうだった。もちろん授業で接した生徒が一番多いわけだけど、何十年も教師をしていると、卒業時の学年しか覚えてないことが多い。「卒業生を出す」ということが何といっても大きなことだからである。(ちょっと別の話になるが、僕が「民間人校長」という制度に違和感を持つのもその点である。学校経営というだけなら教員でなくてもいいかもしれないが、生徒からすれば今まで一度も卒業生を送り出したことがない人が校長先生だというのでは、何かと不安もあるのではないかと思うのである。)

 鳥取にホスピス「野の花診療所」を開いている医者、エッセイストの徳永進さんという人がいる。FIWC(フレンズ国際労働キャンプ)の先輩であり、ハンセン病に関する素晴らしい本「隔離」の著者でもある。1997年に「らい予防法廃止一周年記念集会」を僕が責任者になって開催した時にも、講演をお願いし圧倒的な感動で場内を包んだ。その徳永さんが医者の仕事、時に「新規外来のやりがい」についてこんなことを書いている。講談社ノンフィクション賞を得た「死の中の笑み」という本である。「自分が初めて診断することで、そのことによってその患者さんが今まで過ごしてきた日常生活が今後どうなっていくか、ということを展望できる面白さだと思う。そこに希望があるにしろ悲しみがあるにしろ、ぼくら医療者はその緊張を支えとして仕事を続けている。」これは学校の教員に限らず、人を相手に仕事をしている人には多かれ少なかれあてはまる名言ではないか。

 つまり、学級担任は学習や生活指導を通し、また行事、保護者面談などを通して生徒を理解していく。そして進路希望を聞き、生徒にとってふさわしいか、高すぎないか、もっと頑張れるのではないかなどを展望し、本人とともに微調整をしていき、一緒に考えていく。そして生徒は思いのほか活躍したり、途中で大きく変わったり、時には裏切られたりしながら、進路が決まっていく。そして卒業の日を迎える。その日のために今までの苦労があったので、担任としても一番うれしい日であるのはもちろんだけど、教員からすればそれも一つの通過点であり、新年度の人事がありすぐに新入生の対応へと気持ちは移っていく。日々「新しい患者」が外来に来るのである。そういう教師としての一つの到達の日であり、同時にまた通り過ぎる一瞬であるというのが「卒業式」というものであると思う。

 「生き方指導としての進路指導」と書いたけれど、これは学校側から見た言葉である。生徒からすれば、日々の人間関係や学習活動はいろいろ複雑で毎日が試行錯誤である。そんな中で「生き方」などというものを教師が大上段から教えることなどできない。だから「指導」というよりも「伝わる」ものなのではないかと思う。教師が持っている授業や部活動の知識や技術や経験、これを生徒が感じ取るのである。だから「伝わらない人」もいるし、同じ人間としては馬が合うとか合わないとかもあるのは当然で、どうもお互いの理解がうまくいかない場合もある。自分の生徒時代を思い出しても、学校の対応がなんだか納得できない場面はいっぱいあった。教師も様々だった。しかし、この「教師の多様性」が今になると人生勉強になったと思う。教師を一様にしようとするのは、だから全くの愚策で、現在の教育行政は将来に禍根を残さなければいいなと痛感する。

 上級学校に進学しても、就職しても、人生はまだまだ続く。「生き方」という意味では、人生の最後の日まで自分なりの試みや変化がある。学校の同窓会なんかも、何十年もたって皆が高齢になってからの方がよく開かれたりする。だから学校の役割というものを、短期的に測ってはいけない。株式会社じゃないんだから、「今期の営業実績」みたいにして、○○大合格何人などと言うのは教育の本質ではない。いやとりあえず進路実績という情報も公開されるのは当然だけど、それで「学校力」「教師力」を測ってしまうのは間違っている。教育は超長期的な営みであることを行政が理解しないで、短期的な目標を押し付けたら学校は間違った道を歩むことになる。

 卒業して何年もたってから、本を読んだら「恩人に手紙を書こう」とあったので、もう普段字も書かないんだけど僕に手紙を書いてみましたという卒業生がいた。班ノートに別の生徒への返事として書いたことが、他の生徒に大きな力を与えていたと卒業してから聞いたこともある。どちらも精一杯お世話したという中で起こったことではない。これが面白い、恐ろしいところで、何気ない一言、ちょっとした言動が生徒の力になっていることがある。それは自分の人生を思い出してもわかる。授業で教わったことを忘れても、教師の人生そのもの、趣味や生き方からこそ大きな影響を受けてきたんだと思う。だけど、それは裏返していえば、何気ない言動が生徒を傷つけていたことも同じくらいあることを暗示しているだろう。別に抗議するほどのことでもないけど、「この先生では」と思うことは僕も何度もあった。そういうことも含めて、だから最後には教師の人間としての力が試されてしまう
 
 そういうのが「卒業」というものであると思う。だから「卒業式」という日が終わっても、生徒の心の中で学校は終わっていない。何十年も生きていて、心の拠り所になり、担任なり誰かの言葉が支えになっている。だけど実人生の中では、どこかでケリをつけるしかない。儀式を行って一端中締めとするが、卒業式を終えても「卒業」という期間はもっと長いのである。そしてそういう生徒に関わったということが、「卒業生を出す」ということで、教師にとっては一番の仕事なんだろうと思う。
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六本木高校の卒業式

2012年03月22日 00時45分09秒 | 自分の話&日記
 第5回都立六本木高校卒業式。もう5回目である。今年は何人卒業できているだろうか。受付で名簿を見せてもらうと、予想外に載っていない生徒がいる。逆に予想してないのによくぞ卒業したなあという生徒もいないではない。80名ちょっとの卒業生のうち、知ってる生徒が70名ほど。いや、数えると知ってる生徒ばかりで、やはりお祝いに来ないわけにはいかない。

 実は20日に、国立のライブハウスで六本木高校演劇部3年生が中心になって呼びかけた高校生の演劇フェスティバルがあった。(「平成演劇デモクラシー」と名前を付けておこなった。)自分たちでどこまでできるかが大切だから、僕は全然どこにも書かなかった。三つの団体が参加して、三者三様で面白かったと思うが、企画運営面では「ああすれば、こうすれば」もあるかもしれない。まあ、本人たちが楽しそうに演じていたのでそれでいいのだろうけど。僕は朝遅くてもいいので少し片付けを手伝ったが、最後までいると国立では終電がなくなる。案の定日付を超えて帰る。

 で、お昼過ぎには、六本木高校。ということで、僕にとって六本木高校での仕事はどういう意味があったのかなあとちょっと考えている。ここは前は城南高校だった。それは敬愛する映画監督の吉田喜重氏などが卒業した高校だったが、近隣の夜間定時制高校と一緒に統合されて「チャレンジスクール」(三部制単位制の定時制総合学科高校)になった。今年で開校7年目。三部制だが「他部履修」ができるので、定時制だが3年で卒業できる。4年が正規の年限だが、5年、6年目まで在籍できる。開校1年目、2年目は卒業式というもの自体がなかった。3年目にして3年卒業生が出た。で、2011年に1期生が6年目に到達した。2012年は開校7年目で、2~5期生が卒業の対象ということになる

 不登校や高校中退生徒を主な対象にするという学校。特色ある授業を多く置き、他校と違う様々な特徴がある。でも最初の頃は、これらの生徒が本当に卒業できるか、卒業は出来るとしてどのような進路があるのかということを試行錯誤しながら進めていたと思う。進路を一緒に頑張って多様な成果が出てきて、やっと迎えた卒業式。でもクラスメートの中には4年以後を目指す生徒もいる。そういう中で、2回目の卒業式は、実は僕が担任として経験した中で一番感動的な卒業式だった。(松江二中の91年卒業式の感動ももちろん大きいんだけど。)高齢の生徒や外国籍の生徒など4人もの生徒が答辞を読んだ。これが感動的で、僕も泣かされてしまった。しかし、だんだんそういう創設期の感動も遠くなってきた感じもする。

 で、今年は6年で卒業できたのは3人だった。これで2期生は最後である。異動してきてすぐに2期生の担任に入り、ずっと2期生を担任していたが、結局卒業まで到達したのは90名強ではないか。1期生も大体同じ。毎年3年で50数名、4年で20数名程度。5、6年で10名というあたり。4年生からは、前期末で「半期卒業」できるという不思議な制度があるので、その生徒も入れると、90数名ということになる。ただし、通信制に転学してもう卒業している生徒もいる。高卒認定制度を利用して大学や専門学校へ進学した生徒もかなりいる。そういうあり方も含めれば100名を超えることになるだろう。

 こういう学校があるのがいいのか、どうなのか。他の学校が変わるべきなのではないか。アメリカではすべての高校が単位制なんだから。そういう考え方もあると思う。全日制や私立高校が変わらずに、夜間定時制を大量につぶして「チャレンジ」にするのが本当にいいのかは僕には判断できない。でも、六本木高校にいるとわかるのは、この学校を「居場所」として必要としている生徒が確実にいるということだ
 
 そうした中で卒業式となる。しかし、全員ではない。卒業生が全員そろった年はないと思う。それは生徒実態から仕方ないことなのだろうか。これもよく判らない。在校生送辞、卒業生答辞、いずれも心がこもっていて良かったと思う。(ちなみに3年生の答辞は若狭明美さん。)今年は歌の場面で卒業生が前に出てきて「YEIL」という歌を歌った。その後、校歌。校歌というものは、その学校の生徒と教員しか知らない。大切にしたいものですね。うーん、こういう話題はいろいろ書きにくいので、この辺で切って、もう一回もっと一般的な感じで「卒業生を出すこと」について考えて見たい。
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卒業式の時期と大阪のある卒業式-卒業式③

2012年03月19日 23時23分19秒 |  〃 (教師論)
 大阪府立高校で17人の教員が国家斉唱時に不起立だったとして、9日に戒告処分が発令された。このニュースを聞いて、「エっ、大阪はもう終わっちゃったんだ」というのが最初の感想だった。卒業式の日取りのことである。2月中には終わってるらしい。東京では、2月中の卒業式は許されない。年間行事計画が都教委に受理されない。今年の卒業式一覧を見ると、1日から23日に及んでいる。全日制普通科高校は大体10日前後が多い。職業高校ではひとケタの日付が多い感じ。でもさすがに大体は終わっていて、この段階で終わっていないのは6校である。春分の日に卒業式を行う学校もある。

 まだ終わってないところは「単位制高校」だからである。学年制高校なら、進学校はもちろん夜間定時制高校でも2月上旬には授業を終えてしまう。早めに年間の成績を出して卒業の可否を判断するためである。でも、完全な単位制高校では、各年次の生徒が混ざって授業を受けている。卒業予定生徒と1年が一緒に受けている授業がある。卒業生だけ早めに終えることができない。卒業生を3月にテストするんじゃいくらなんでも遅すぎるということで、なんとか工夫を考えて見たけれど、どうもうまくできない。「単位制」というのは、不登校生徒が学校になじんでいくにはふさわしいけれど、世の中にはこれが絶対という仕組みはないものだ。他の学校の生徒がもう授業がない期間に、よりによって不登校生徒向けの高校が生徒を延々と登校させ続けなければならない。

 高校を出ると、就職や進学で実家を離れて下宿する人も多い。また、職場によっては4月1日入社までに自動車免許を取っておいてほしいという会社もある。早生まれだと夏休みには教習所に通えないから、冬休みから2月、3月に取得することになる。それどころか、3月中に入社式をやってしまうとか、研修と称して実質働かせてしまう会社も多い。そういえば、プロ野球の高卒ルーキーなんかも、2月中にキャンプインしている。本来は3月31日までが年度だから、卒業式を終えても学校の指導はありうる期間に働かせていいのか。でもアルバイトすると思えば同じなわけだけど。こういう社会実態があるので、特に大都市に進学、就職する生徒が多い学校では早めに卒業式を終えるんだろう。東京が2月中の卒業式をやらないのも、ほとんどの生徒が自宅から進学、就職するという現実によるのだと思う。

 さて、大阪の事態だけど、いろいろの派生事態が起こった。例えば、大阪府議会議員の西田薫(維新の会)という人が母校の卒業式に参列して、不起立教員を目撃、来賓挨拶で生徒に向け、「皆さん、ごめんなさい」と発言し、自分のブログに「残念な卒業式」という記事を掲載した。これに対し、生徒や保護者と思われる人から「おめでとうの言葉もないなんて。非常識な挨拶だ」といったコメントが殺到した。この件は一部で報道されたが、知らない人も多いと思うので簡単に紹介しておく。

 本人のブログでは、「いつもなら『卒業生の皆さん、卒業おめでとう~』っと大きな声で一言話しますが、本日は『皆さん、ごめんなさい』。『社会の常識、社会のルールを教えるのも学校なのに、そのルールうを守れない教員がいることをお詫びします。ほんとうにごめんなさい。』と…。」と書かれている。

 これに対して現在1000件以上のコメントがあるのできちんと読んでいられないが、最初の方にある「卒業生」と名乗るコメント。一部省略。行を詰めた。
 「この度は、私たちの卒業式にご来賓賜りまして誠にありがとうございました。ただ、申し訳ございませんがはっきり言わせていただきます。あの場での「ごめんなさい」という挨拶。なぜ、あそこであのような自己主張をされたのですか?いくら条例で決まっているからとはいえ、あたしたち卒業生におめでとうの挨拶もなしなのですね。

 まず第一に、昨日の卒業式での主役はあたしたち卒業生です。たくさんの方々に感謝して抱えきれない思い出を持ってとても良い学校だったと胸を張って言い切れます。その最後の最後の思い出となる卒業式を、あのような形で雰囲気をぶち壊したのは西田さん、あなたです。

 答辞をきちんと聞いていただけたでしょうか。あの答辞は、私たち生徒自身で考え出来上がったものです。あれを聞いても、私たち生徒が、どれだけ先生方に感謝しているか、どれだけ学校の友達や先生すべての方を大好きなのか、西田さんには、伝わっていなかったのですね。とても残念です。(後略)」

 一方、「保護者」のコメント
 「今日の卒業式に参加した保護者です。こんな失礼な挨拶をされた人を見たのは、初めてです。あなたの意見は、式後、校長に言えばいいのではありませんか。

卒業生は三年間、先生方にお世話になり、今日感謝の気持ちでいっぱいだったと思います。充実した学校生活を送れたのではないでしょうか。答辞での卒業生の涙でも明らかです。

あなたは、子供たちの三年間、先生たちほど関わったのですか。「皆さん、ごめんなさい」とあなたに謝っていただく筋合いはありません。(中略)子供たちを直接教育された人を公の場で辱めていいんですか。祝いの席で言うべき言葉だったのでしょうか。」

 PTAからの正式な抗議があったようだが、その後ブログには「卒業生の皆さんへ」と題する文章を書いている。それよりも「不起立はマネジメントの問題」などという発想とまったく無関係に、学校が教師と生徒の「協働」によって生き生きと活発に活動している様子がよく伝わるではないか。これが全国のほとんどの高校の実際の姿だと思う。それは前回書いたように、卒業式が「謝恩の日」として生徒の心の中で昔以上に大きな意味を持っている現実を証している。こういう「教師と生徒の協働性」というものこそ、今まさに崩されていこうとしているものである。学校現場のジャマばかりする教育行政によって。
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「謝恩の日」-卒業式②

2012年03月19日 00時12分14秒 |  〃 (教師論)
 卒業式というもの、あるいは学校そのものも時代とともに少しずつ意味が変わっていく。僕が最後にいた単位制高校では、生徒がバラバラに卒業していく。原則4年の定時制だが、3分の1くらいの生徒は3年で卒業して大学などへ主に推薦制度を利用して進学する。4年で出られず、5年、6年と掛けて卒業する生徒もいる。ついに卒業まで至らず、退学、転学していく生徒も多い。ほとんどの生徒が中学不登校、高校中退経験生徒で、単位制で1科目ずつ積み上げて行って卒業に到達する。全日制の進学校などと全然違う、「卒業の重み」というものを僕は教員生活最後で痛感することになった。

 教師は卒業式の日に卒業生や保護者から「お世話になりました」と挨拶をうける。どの学校の卒業担任の時もまあ確かに「お世話した」のは間違いないが、5年、6年かかった生徒などは、確かに自分でも「お世話しました!」と言いたい感じがする。このような「教師に感謝の意を伝える日」というのが、卒業式の持つ機能の一つだけど、最近では特に東京ではこの側面が強まっているのではないか。僕が生徒だった頃は、それほど教師にお世話になったという感じを持たなかった。高校も大学も「一般受験」という形式しかなかった。大学の説明会などというものもなかった。(もちろん都立高校にあるわけない。)高校卒業後は「大学浪人」なので、卒業式の日に教師に格別の謝恩の気持ちがあるわけない。受けたいところを受けて受かったり落ちたりするだけで、書類を作ってもらう以外には進路指導は特にない。むしろ授業で刺激を受けた先生への感謝の気持ちの方が大きかった。

 昔は卒業式という日は、「クラスメートに最後に会える日」という「クラス解体式」という性格が強かった。自分の中学の時はなかなか団結力があるクラスだったので、式後にお別れ会を開いたり、よく集まったりした。2年から3年になるときにクラス替えがなかったので、2年間の思い出があった。(大卒後に赴任した新採教員が担任で、卒業をもって退職して英国留学をするという事情も大きかった。)しかし今時の高校生は今後も会いそうな友人なら全員、携帯電話にアドレスが登録してある。やがて仕事や勉強が忙しくなってしまうけど、最初のうちは一斉メールで来れる人を集めて「ミニ同窓会」をよくやってる。昔は一人ひとり家に電話したことを思えば、大きな変化である。

 今は進学指導が複雑怪奇で、特に推薦で進学を考える生徒などは「担任のお世話」になる度合いが昔の比ではないと思う。就職などは昔も学校の世話という側面が強かったけど、今のような「就職氷河期」が続くと就職希望生徒と担任、進路部は、ハローワークの担当者も加えて、いわば「同志関係」で闘っている感じになってくる。今年は特に被災地の就職希望生徒などは本当に大変だったと思うけど、報道等で見ても教員側の苦労も例年に数倍して大変だっただろう。生徒の方でも大変感謝しているに違いない。今は進学も就職も情報はほとんどWEB上で公開される。だから家でインターネットを見られる生徒は自分でここに決めましたというケースもあるけど、家で見られない生徒は大変である。学校の進路部やパソコン室あっての進路活動なのである。そういうような事情があるので、推薦進学生徒や就職生徒にとって「学校にお世話になった感」は昔よりもはるかに大きいわけである。進学実績を競うことばかりが重要視される風潮が強い昨今、「学校は死んだ」などという人もいるけど、そういう人は現実が見えていない。日本の高校生の半分以上は、推薦で進学したり学校あっせんで就職しているのである。

 卒業式に関して昔と違う事情が他にもある。昔はクラスメイトが全員そろうのは二度とないという感じだったけど、一方教師にはいつでも母校を訪れれば会えるという感じを持っていた。もちろん昔も異動や退職はあったわけだけど、多くの先生は10年以上はいた。いられた。いわゆる「強制異動」制度そのものがなかった時代である。だから実際文化祭に行けば大体の先生に会えたし、数年後に教育実習で母校の高校に通った時も教えてもらった先生がたくさん残っていた。そういう先生を中心に飲み会を設定してくれたりしたものだった。今は、4月に行くと担任の先生には会えない確率が昔よりはるかに高い。卒業させてすぐの異動は今も少ないかもしれないが、教えてもらった先生のかなりが転勤する可能性は高い。卒業式では異動が発表にならない。20日過ぎに卒業式があるような高校では、卒業式後に先生と話しておかないともう二度と会えない可能性もある。

 別に会わなくてもいい、年賀状であいさつをすればいいと思うかもしれない。でも、今ではPTA会員名簿というものが作れない。(大体PTA自体が全員参加ではない。)生徒名簿というものを校内で作成することもできない。クラスごとに担任が作ることはあるが、生徒には配布できないし、教員も家には持ち帰れない。生徒の住所は「S1情報」(セキュリティ重要度第一位の情報)で校外持ち出し禁止である。校外行事の時だけ、持ち出し簿に書いて管理職の承認を受ける。だから生徒からの年賀状というものも、昔に比べてめっきり減ってしまったのである。担任の住所が判らないのだから。(それでも「年賀状出したいから教えて」という生徒はいるので年賀状ゼロにはならない。)この情報管理がどれだけ文面通り行われているかは知らないけど、僕は「もう家から保護者に電話しなくていい」という指令だと受け止めて、規定通りやっていた。でも担任が家から生徒宅に電話できなくていいんだろうか。バカらしいほど厳しくて、震災でも連絡網がなかったりしたので少し見直したかもしれない。

 ということで、卒業式という日が生徒どうしの別れの日であるとともに、教師に謝恩の意を伝える日という意味が昔より大きくなってきたと僕は思っているのである。卒業式後に暴れるなんて昔の話で、今は親子でやってきて教師に感謝して一緒に写真を撮って帰る。
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卒業証書の作り方-卒業式①

2012年03月18日 01時11分02秒 |  〃 (教師論)
 大震災関連で「ガレキ問題」「自衛隊評価」について書こうかなと思ってたけど、社説みたいな話を時期を逸して書いても仕方ないからやめます。で、しばらく「卒業式」について、いろいろと。え、卒業式の話題も時期遅れでは、という人もいるかもしれないけど、そうではないです。最後の学校だった六本木など単位制の高校では大体これから。もちろん小中もこれから。僕の経験による卒業式シーズンは20日前後という気持ちなわけ。この「時期の問題」はまた別に書きます。

 今日は、「卒業証書の作り方」。なんでかというと、東京でそれで「事故」が起こったから。17日の東京新聞朝刊に「校長印なく卒業証書無効 都立忍岡高、父母らに謝罪 作り直し郵送へ」という記事が載ってました。都教委のホームページを見ると、16日付で「都立高等学校における卒業証書に関わる事故について」という文書が。この「卒業証書」というものは、僕はもらった後で一度も見たことがない。普通二度と使わないでしょ。まあ破った記憶もないから、どこかにはあると思うけど。都のHPには「すぐに卒業証書を必要とする場合には個別に対応する」などと書いてあるけど、必要とする人はいないはず。いるのは「卒業証明書」の方です。卒業したことが証明されればいいのであって、あんな大きな証書を見せろという大学や企業があるわけないよね。

 で、ほとんどの人は卒業証書がどうやって作られているか知らないと思うので、少し紹介しておこうかなと思ったわけ。「卒業証書」の紙そのもの(と「卒業証書フォルダー」)は、(都立高校では)都教委から来ます。何枚いると申請します。外国籍生徒の場合、西暦を選べます。(日本籍では選べないのがおかしいのではないか。)定時制高校だと「学び直し」の生徒がいることがあるので、生年が「昭和」の場合がある。よって、「平成」「昭和」「西暦」各何枚と申請するわけです。

 そうやって厚紙に基本条項(「本校所定の全教育課程を修了したことを証する 東京都立○○高等学校長 ○×△□)とか書いてあるわけです。この下に校長公印が押されるわけです。それ以外に「卒業証書」の横にもっと大きな「学校印」、上に「割印」と三つ押します。その前に。卒業生が確定しなければ作りようがありません。進学校なら何の問題もないでしょうが、中堅以下の高校だと成績不振や出席不足で卒業できない生徒が出ます。卒業生が確定して初めて証書作りになります。でも、中には「追試」「課題」をクリアできれば、卒業が追認されるという生徒がいるときも。待ってると証書が作れません。そういう時は作るだけ作っておいて、「卒業生番号」を最後に回すことにすると思います。
 
 押印の前に、まず個人情報を書き入れなくてはなりません。「氏名」「生年月日」「卒業生番号」ですね。これは担任が書いているわけではありません。そんな恐ろしいことはできません。ちゃんと「筆耕料」が公費で予算化を認められています。大体は書道の講師の先生だと思います。芸術科の中に「音楽」「美術」「工芸」「書道」とあるのですが、書道は講座数、生徒数の関係で大体は非常勤講師にお願いすることになります。その先生に証書の名前書きを依頼することが多いでしょう。もちろん校内、特に担任の中に能書家がいれば書いてもらうこともあるかも。でもそれだとタダだし、今はあまりないと思う。

 そうして押印の段階になるのは、10日から一週間前頃。都立高校の入選前後の空いてる時間を使って押印作業をするわけです。僕にとっては、ものすごく面白い仕事ではないけど嫌いではない、という仕事でしょうか。面白くないない部分は、その後ほとんど役に立つわけではないのにハンコの押し方などの決まりが面倒くさいから。曲がっていたら嫌な感じを持つ生徒もいるだろうし、けっこう気を遣うわけです。でも嫌いじゃないのは、いよいよ学年団の最後の仕事、一年間の大団円という気分の仕事だからですね。基本、同じことの繰り返しの肉体作業。リズムに乗れば楽しくないこともない。ハンコそのものは、経営企画室(事務室)にあります。公印は基本的に校長か室長しか押さないものだけど、証書作りだけは担任がやるしかないので、今は公印持ち出し簿みたいなのがあると思います。先ほどの「事故」の件は、本来この段階で気付いていないとおかしいと思います。そして「位置合わせ機」みたいなものに乗せて押していくわけです。もっともこの「位置合わせ機」というのは六本木で初めて使ったんだけど。別に担任がクラスの生徒を押すということではないので、誰が押したかはアトランダム。
 
 その前に「卒業生台帳」作りがあります。本来はこちらが重要で、永遠に残る卒業の証明。卒業生をその年の生徒番号順に書き並べた書類。これは学級担任が書きます。多少字が下手でも内部だけの書類だし、生年月日とかの情報は担任しか判らない。その台帳で卒業生に順番を振ります。それが卒業生番号になり、卒業証書の番号となります。で、台帳と証書を「割印」するわけです。最後に押印が終わった証書を乾かす。どこか誰も来ない部屋に並べてカギを掛けておくことが多いでしょう。こうしてやっと出来上がり。追認生徒が出たら、番号を最後にして同じ作業。

 今回の誤押印問題は、それ自体は生徒・保護者には「言われるまで感づかない」(言われてもピンと来ない)問題だと思います。生徒にすれば、「どっちでもいいよ」という話。学校印は押してあるんだから、それでいいんじゃないかという気もします。細かい話をすれば、卒業を認定したのは誰かという問題。「校長」です。「学校」や「教育委員会」ではありません。だから校長名の下に「校長印」がないとまずいわけ。「生徒にすれば、どっちでもいい話」だと思うけれども、教師とすれば「プロ的には信じがたい」話だと思います。ただし、校長印にも二つあって「公印」と「私印」、その「公印」の方です。「東京都立○○高等学校長」とハンコ特有の読めない文字で書いてあるものです。普通読めないから、読まない。よってどっちでもいいと僕が言ったわけ。「私印」は普通のハンコで、つまり鈴木校長なら「鈴木」とあるもの。「生徒指導要録」という大事な記録に押すハンコは私印。

 こうやって、卒業式の準備がウラで粛々と進んで行くわけです。最後に、乾いた証書を確認して順番に並べ、金庫にしまい当日を待ちます。難読人名にポストイットでルビを振ったりもするかな。途中でミスを見つけるとどうなるかとか、いろいろエピソードもあるけどやめておきましょう。「ケータイ大喜利」見てたら時間が遅くなってしまったな。とにかく、こういう裏仕事があるんだということを、ちょっと都立高の「事故」をきっかけに書いてみました。
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追悼・吉本隆明

2012年03月16日 23時50分04秒 | 追悼
 戦後日本の思想界に大きな影響を与え、安保反対や全共闘運動に揺れた1960年代に「反逆する若者たち」のカリスマ的存在だった詩人・評論家吉本隆明(よしもと・たかあき)さんが、16日午前2時13分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。87歳だった。(朝日新聞)

 追悼するほど読んでないけれど、重要な存在ではあったので、そういう人は書いておきたいなと思う。ずいぶん長く生きたように思っていたけれど、まだ80代だったのだな。60年安保の時にブントと行動をともにして逮捕までされた。総括として書いた「擬制の終焉」で既成左翼、特に日本共産党を激しく批判し、新左翼の教組的存在となった。「自立の思想」を唱えて、そのころの若者にとってはマルクスやサルトルなみの思想家と思われた。多くの人が「共同幻想論」などをかかえていたが、わかったとは思えない。(吉本をかかえて歩いていた人は本当にたくさん見た。)

 高校時代だったと思うけど、何かの全集に入っていた「転向論」を読んで全く歯が立たなかった。大学時代に講談社の「現代の文学」に入っていた「共同幻想論」を読んで、これも少し読んで判らないのでやめた。でもこの時に「転向論」を再読したら、実によくわかった。こういう意味だったのか。「問題意識」がないと何も判らないのである。その後、「共同幻想論」や「言語美」なんかが角川文庫に入ったときがあって、これも買ってあるけど、まあそのままである。同時代的には、81年の「最後の親鸞」まではかなり注目していたけど、82年に「反核異論」を出したのを見て読まなくいいという気になったのである。

 「転向論」(1958)というのは、戦前の共産党幹部が共産党批判声明を出して「転向」した問題を扱う。一貫して「転向」せずに「獄中18年」を過ごし戦後釈放された「非転向幹部」もいて、当時は思想や党派は違っても、かれらを「英雄視」していた時代である。しかし、吉本は日本的現実に屈服し「日本主義者」として右翼活動家になってしまった元幹部と、日本的現実に目を閉ざし外国の理論に閉じこもることで「非転向」を貫くことは、思想のあり方としては同じなのだというテーゼを出している。日本的現実に真っ向から立ち向かわずに、屈服するのと断罪するのは同じ思考回路であると。そして、中野重治の「転向」後の小説などに、日本的現実と向かい合う苦悩を読み取り、そこに可能性を評価している。僕は浪人時代に、中野重治の「村の家」を初め、「歌のわかれ」「むらぎも」「梨の花」などを読んで大変感動した。そのことがあったので、この中野評価へいたる論理が納得できる思いがした。この論文のロジック、現実と向かい合わずに、全面屈服するのと全面断罪するのは同じだという発想は、その後の僕に大きな影響を与えてきた。基本的には今も大賛成。

 でも、そういうことなら、80年代以降の消費社会の全面擁護などが判らない。まあ、ちゃんと読んでもこなかったけど。日本の大衆を全面的に信じる、などということは僕にはとてもできない。日本だろうと、どこだろうと、大衆だろうと知識人だろうと。それと池袋にあった芳林堂でときどき「試行」を見ていたが、あの罵倒の激しさはかなわないなという感じだった。

 ところで、でも、僕は昔、詩をよく読んでいて、50年代の詩は素晴らしいと思っている。ととえば…
ぼくが罪を忘れないうちに
 僕はかきとめておこう 世界が
 毒をのんで苦もんしている季節に
 僕が犯した罪のことを ふつうよりも
 すこしやさしく きみが
 ぼくを非難できるような 言葉で (以下省略)

異数の世界へおりていく
 異数の世界へおりていく かれは名残り
 おしげである
 のこされた世界の少女と
 ささいな生活の秘密をわかちあわなかったこと 
 なお欲望のひとかけらが
 ゆたかなパンの香りや 他人の
 へりくだった敬礼
 にかわる時の快感をしらなかったことに (以下省略)

涙が涸れる
 きょうから ぼくらは泣かない
 きのうまでのように もう世界は
 うつくしくもなくなったから そうして
 針のようなことばをあつめて 悲惨な
 出来ごとを生活のなかからみつけ
 つき刺す (以下省略)

 50年代に書かれた、このような「硬質の叙情」はそれまでの日本の言語表現にはなかった。今でもヒリヒリと胸を刺す言葉の群れである。なんだか原発事故の詩のようでもある。
 特に「涙が涸れる」の中の「とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ」とか、
小さな群への挨拶」の中の「あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ」「昨日までかなしかった 昨日までうれしかったひとびとよ」「ぼくはでてゆく 冬の圧力の真むこうへ ひとりつきりでは耐えられないから たくさんのひととてをつなぐというのは嘘だから」「ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる ぼくの肉体はほとんど過酷に耐えられる 僕がたおれたらひとつの直接性がたおれる」などのフレーズが大好きだった。

 その「小さな群への挨拶」のラスト
 だから ちいさなやさしい群よ
 みんなひとつひとつの貌よ 
 さようなら
コメント (1)
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「3・10」と「3・11」(東京大空襲と東日本大震災)

2012年03月16日 00時21分19秒 |  〃 (歴史・地理)
 「3・11」に関連していくつか書きたいなという気持ちと、静かにしていたいなという気持ちの両方があったまま、新聞を見直した記事を書いただけで終わっている。実は月火で書くつもりだったけど、パソコンさえ見れない状態だったので。本当は「卒業式」について、大阪の事態も含めて考えてみたいと思ってるんだけど、その前にやはり書いてしまいたい。

 3月10日に「東京大空襲・戦災資料センター」が開催した「東京大空襲を語り継ぐつどい 東京大空襲・戦災資料センター 開館10周年」という集会に参加した。とてもたくさんの人が参加していて、知人もいたのではないかと思うけど会えなかった。僕が前に紹介したことがある立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長の安斎育郎さんの講演があった。これが予想通りとても面白かった。当日の体験談は各紙東京東部版に載っていたので読んだ方もいるかと思う。

 勤務地が六本木だった5年間を除き、3月10日はとても身近な日だった。一日に10万人が亡くなったとされる「東京大空襲」の日である。(これは東日本大震災どころか、広島、長崎、沖縄戦のどの日よりも「一日で失われた人命」としては多いのである。その前の1923.9.1よりも多い。)今は「東京都平和の日」とされている。東京東部が集中的に空爆され、焼け残った東京西部は5月25日の大空襲の被害が大きかった。だから東京東部の学校の方が意識や関心が高いかもしれない。六本木の前の墨田川高校定時制では高齢の生徒がいて大空襲の体験者だった。授業で話を聞いたことがある。「東京大空襲」の著者で資料センター館長の早乙女勝元さんも、墨田川高校定時制の出身である。高校の最寄駅の東武線東向島(昔の「玉ノ井」)の隣が「鐘ヶ淵」駅で「鐘ヶ淵紡績」つまり「カネボウ」(粉飾決算でつぶれて化粧品のブランド名だけ花王に買われて残った)のあったところである。そこ(紡績工場)に母親が勤労奉仕で行っていた。工場は空襲で焼けて、下町に住んでいた友人は何人か亡くなった。死んだ友人から空襲後に着いたハガキがあった。という話を小さい頃から聞いている。

 そういうことがあった日だけど、去年は自分の問題もあり、10日と11日の連続に意識が向かなかった。今後は次に東京を大地震が起こるときまで、「10日」と「11日」が続くという3月が毎年訪れるのである。

 さてここで特に書いておきたいと思ったことが3つある。
 一つは「平和博物館」のことである。「東京大空襲訴訟原告団」のホームページで、犠牲者氏名記録を呼びかけている。これは本来行政がやることではないか。実際大阪では「ピースおおさか(大阪国際平和センター)」に「刻(とき)の庭(にわ)」という犠牲者名を刻した施設がある。沖縄の「平和の礎(いしじ)」のようなところである。(つぶされないでしょうね、ここ。)ところが東京ではない。というか、こういう平和博物館はもう出来ているはずだった。これだけの被害を受け、「戦争を始めて今は平和国家となった国」の首都に「平和博物館」がなくていいのか。作って欲しいという声はずっとあり、作ることになり、計画が進んでいた。99年にその計画は「凍結」された。99年に何があったか。言うまでもないだろう。「あの人」が知事に当選したのである。

 二つ目。空襲被害に補償を求める訴訟が起こされている。くわしくは前記ホームページで。一審敗訴で、控訴審判決が4月25日午後3時に予定されている。僕はこのことをちょっと検索していて、某「知恵袋」サイトで「今頃裁判なんて」という意見を見つけた。戦争被害は「全国民が受忍するべきもの」と最高裁判決があるはず、というのである。(それは確か。)しかし、「外地引き揚げを体験した母に聞いても、今さら裁判なんてと言ってました」とか書いてあった。僕が不思議に思うのはこの「母の話」である。多分書いた人は単なる無知なんだと思うし、母親も昔のことで忘れてしまっているのかもしれないけど、「外地引き揚げ者には1967年に補償立法がなされている」のである。多分多くの人は聞いたことがないかもしれないけど、「引揚者に対する特別交付金支給法」である。それは十分なものではなかったかもしれないが、このように自分はもらっておいて空襲被害者だけはもらうなとは言えないだろう。こういうのは「現代史健忘症」とでもいうべきか。戦争被害はいろいろあるが、本来は「銃後」で非戦闘員だった市民がなぜ大規模な空襲を受けなくてはならなかったのか。(もっとも最初に大規模な市民爆撃を開始したのは、イタリア、ドイツ、日本であったのは間違いないが。)空襲被害者は戦後なんの補償措置も受けていないのである。

 三つ目。そのことを考えると、先の集会で安斎さんが最後に述べたことを紹介する。「3・10」と「3・11」をつなぐもの。それは「国のあり方」を考え直していかなければいけないということだ。その前に「水戸黄門症候群」「鉄腕アトム症候群」という話をした。これは僕も授業でよく話したが、安斎さんの話は面白かった。つまり、日本の時代劇は皆「この紋所が」「この桜吹雪が」とか言って、「よきオカミ」が解決してしまう。民が自ら解決しない。オカミが解決してくれるのを待つのである。子供向けアニメも同じ。アトムもドラえもんも「ヒーロー」で解決能力が最初からある。子供から大人までこういうのをずっと見て暮らしてきた。それでは民主主義にならない。「主体形成型」の「平和教育」をして行かなくてはいけない、という話。

 国のあり方を問い続ける。これは昨日見た「パーマ屋スミレ」の南果歩演じた女性である。他にも何人も知ってるけど、とりあえず。東京大空襲に関しては、18日(日)のNHKスペシャル「東京大空襲 583枚の未公開写真」(9時から)の放送がある。
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パーマ屋スミレ

2012年03月14日 22時13分43秒 | 演劇
 今週はギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスの追悼上映で長い映画をいっぱい見る心積もりでいたら、月曜朝に突然具合がわるくなった。セキとかクシャミ一切なく、発熱と腹の調子。一晩寝てもなかなか熱が下がらず38度台後半、医者に行ったけどインフルエンザではない。何か腹にくるウィルスに突然襲来されたらしい。解熱剤を服用しても今日には何とかしたいのは、「パーマ屋スミレ」のチケットを買っていたから。


 ということで、新国立劇場の鄭義信(チョン・ウィジン)作・演出の「パーマ屋スミレ」。心打たれる傑作。鄭義信が新国立で書き続けてきた「在日の戦後史」シリーズ。実はあの大評判だった(再演もされた)「焼肉ドラゴン」も多忙で見逃してしまった。(ヒマが作れると判った時はチケットが売り切れということが多い。)今回の劇は、1965年の九州北部の炭鉱地帯、有明海の見える「アリラン峠」で暮らす在日朝鮮人の「三人姉妹」の物語。「在日の物語」でもあるけれど、この劇は「炭鉱夫の物語」というべき展開になる。モデルは明らかに、三井三池炭鉱の大争議の後の、63年の三川鉱の炭塵爆発とCO事故である。プログラムの年表によれば、死者458人。CO中毒患者839人。

 家族には、朝鮮籍の者、韓国籍の者(65年に「日韓条約」)、日本国籍を取った者もいる。「北」をめざす者(当時は「北の祖国へ帰る」と表現された)もいる。そういう「在日」の苦難も語られるけれど、途中からCO事故の影が大きくなる。長女根岸季衣)は第一組合の支部長の内縁の妻。次女南果歩)は集落で床屋をしているが夢はやがてパーマ屋を開くこと。名前も決めている。「パーマ屋スミレ」である。松重豊)は炭鉱で働くが事故の救出に向かい中毒患者になる。三女は日本人の夫がCO中毒で働けないが、第二組合に移って仕事をもらおうとしたがうまく働けずに解雇され追いつめられていく。こうして書くと暗い話のように感じられるかもしれないが、「長女の子」と現在の大人になって昔を回顧する「長女の子」を狂言回しで舞台に登場させる(同一人物の子供時代と大人が一緒に舞台に登場する。大人の方は、ほら、この後出てくるのが当時の私ですというように観客に語りかける)という仕掛けで、笑いあり、涙ありのすぐれた舞台になっている。

 そして、日本の中で、「在日」が、「石炭」が、「第一組合」が、「CO中毒患者」がと、切捨てされていく「犠牲のシステム」(©高橋哲哉)があぶりだされていく。「一つの事故でどんなに多くの人の人生がどれほど変えられてしまったか」。ラスト近くのセリフに、万感がこもる。誰もが、福島第一原発の事故を想起しないわけにはいかない。と同時に、忘れてはいけない多くの事故があり、忘れ去ってきているという事実も。

 その中で救いとも感じられるのが、今もなおアリラン峠で生き抜いているとされる次女須美である。組合を敵に回してもあくまでもCO中毒訴訟をやりぬくために、他の家族が去った後も居続けたのである。凛とした毅然たる女性の生き方を南果歩が自在に演じている。松重豊とのやり取りも良く出来ている。やはり「闘う女」ヒロインというのは、感動が深いです。僕は南果歩という人は、「伽耶子のために」(1984年。李恢成原作。小栗康平監督)のデビュー時からファン。舞台でも見てる。自ら在日であると公表しているようだけど、この劇の出来は大変素晴らしいと思いました。

 ぴあ等のチケットは売り切れているようですが、朝10時からZ席(1500円)販売。電話予約不可。
 ところでプログラムを読んだら、アングラ演劇の演出家、流山児祥がこの地域(熊本北部の炭鉱地帯・荒尾)だと出ていた。宮崎滔天記念館の隣の床屋が母の実家だとある。え、去年行ったぞ、そこ。と思って写真見たけど、記念館しか撮ってなかったです。当たり前。日本にとって「石炭」の持つ歴史的意味はとても大きいけど、最近かなり語られるようになってきて、大事なことだと思う。ただし、第一組合と第二組合の対立というのは、もう少し解説がないと判らない人が多いかもしれない。(なんだか全然中身を知らずにチケットを買ってしまい、中身がこんなに重いとはと言っている人の声を聞いた。)

 書いてる最中に千葉の方で地震、結構揺れた。サッカー五輪予選最終戦中継が途切れた。いつの間にか点が入っていたではないか。7時前には東北沖で地震、津波注意報。多いですねえ。
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