尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「悪夢のような」小泉進次郎首相、誕生?ー自民党総裁選②

2024年08月24日 22時13分05秒 | 政治
 2024年自民党総裁選について、今年になってから2回書いている。岸田首相に解散・総選挙に踏み切る力はなく、9月の総裁選までは延命するだろうが再選は無理。そこまでは誰でも予測可能だが、じゃあその後は誰が新総裁になるのか。3月13日の『それで岸田内閣は結局どうなるのかーやはり9月に辞職か?』では上川陽子外相を一番手に予想していた。6月27日の『「石破首相」の可能性はあるかー2024自民党総裁選はどうなるか?』では、これまで議員票が集まらないため当選は無理と考えていた石破茂氏の可能性も出て来たのではないかと書いた。どっちでも小泉進次郎議員のことには触れてない。

 ところがどうやら小泉進次郎元環境大臣が総裁選に出馬すると報道されている。僕が今秋に小泉政権を予想しなかったのは、さすがにそこまで「身の程知らず」とは思わなかったからである。小泉氏は人気も知名度も高いが、まだ環境相しか経験していない。その時もどうも理解できない言動が見られた。河野太郎氏が高圧的で丁寧に説明をしないのと似ているが、小泉進次郎氏には説明するだけの言語能力が不足しているのようなときが多かった。単なる「世襲」を越えた4代目にもなると、こういう人物が出て来るのかと僕なんかは思ってしまう。
(出馬予定の小泉進次郎氏)
 小泉進次郎氏は前回河野太郎氏を支援し、「小石河連合」と呼ばれた。だから、今回もし出馬せず石破氏か河野氏の応援に回っても何の不思議もない。その結果誰が当選したとしても、選挙応援の顔が欲しい次期政権では重要閣僚、または党三役に就任できるのではないか。一方いくら小泉進次郎首相でも次の選挙は厳しいと予想される。そんな「修羅場」はベテランに任せ、問題を起こすことが多かった「安倍チルドレン」を「精選」して、重要閣僚をこなした後で総理の座を目指しても年齢的には全然遅くない。

 僕は自分の常識でそう考えていたわけである。しかし、自分の常識を越えた人たちがやはり自民党にはいるのだ。小泉進次郎氏を「勘違い」させているのは、菅義偉前首相である。菅氏が官房長官あるいは首相だったときの国会答弁、記者会見なども、何だかよくわからないことを言っていた。言ってる内容に賛成、反対という前に、言ってることが理路整然としていないのである。そういう菅氏だからこそ、同じ自民党神奈川県連というだけでなく、小泉進次郎氏とは「似たもの同士」なのかもしれない。
(総裁選出馬を取り沙汰される人々)
 しかし、同じ神奈川と言えば河野太郎氏も神奈川県連所属である。だが前回は支援した河野氏が今も麻生派を脱退しないのが菅氏には不満なんだという。確かにそれは僕もどうかと思うが、麻生副総裁も「派内の河野が出れば推すのが筋」という理由で茂木幹事長の支援要請を断ったらしい。派閥が解散したと言っても、実は皆旧派閥単位で動いている人が多い。そうじゃない人がいると目立つけど、河野氏からすれば「あえて麻生派を脱退する理由がない」ということか。あるいは父親の河野洋平が創設したグループなんだから、自分こそルーツなんだという意識かもしれない。麻生派内にも様々な考えがあって、河野氏以外の支援に回っている人もいるようだが、それでも推薦人確保には派閥も有効と考えているのだろう。

 そのため菅氏は他の候補を求めて、自分に近い小泉進次郎氏を支援するようだ。政策なども菅氏のグループがまとめているらしい。菅氏も小泉氏も「無派閥」だが、「選挙互助会」の派閥なんて小泉進次郎には必要ない。落ちる心配がないから誰かの下で「雑巾掛け」する意味もない。菅氏も「派閥の弊害」を真剣に考えていたら、自民党最大派閥だった「安倍派」の安倍元首相を支えた意味がわからない。僕は菅氏を「無派閥」と見るのは間違いだと考えている。確かに派閥化はしなかったが、菅氏は関係が深い議員と「勉強会」などを組織してきた。事実上「菅派のトップ」と考えた方が正確だと思う。

 総裁選が始まれば、各マスコミでも討論会などが開かれるだろうが、そこで小泉氏が何を語るだろうか。「失言」あるいは「不適切発言」が出て来て急失速する可能性もないではない。だが何とか無難に乗り切れば、党員票を集めて2位には入って来る可能性が高い。そうなると当選可能性が高く、「小泉進次郎政権」誕生の可能性を考えておかないといけない。でもそれって「悪夢のような」(©安倍晋三)ものではないだろうか。ホントに有権者は「セクシー」な小泉進次郎政権を歓迎してしまうんだろうか。

 それとも21世紀に二度目の小泉政権は、カール・マルクスの言う「歴史は繰り返す。 一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)となるのだろうか。父親は「自民党をぶっ壊す」と言って大勝利した。次男のもとで本当に壊れるのかもしれないが、それならそれで歴史的意味があるというべきか。
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岸田首相はなぜ辞めるのか、「現象」ではなく「本質」をー自民党総裁選①

2024年08月23日 22時03分53秒 | 政治
 アメリカ大統領選の民主党副大統領候補になったミネソタ州知事のティム・ウォルズはとても興味深い人物だ。そのことはまた別に書きたいと思うけど、この人は公立高校の社会科教員だった。演説では「公立学校の教師を甘く見るな」と語っていた。全くその通り。専門は地理だというが、社会の様々な問題について生徒に語る機会も多かっただろう。

 日本では9月に与党第一党の自由民主党、野党第一党の立憲民主党でともにトップを選ぶ選挙が予定されている。そして、現職自民党総裁の岸田文雄首相は総裁選に立候補しないと明らかにした。そのこと自体は別に驚くことではなく誰でも判っていたわけだが、表明したのが8月14日だったのにはちょっと驚いた。翌日に「全国戦没者追悼式」を控えているので、その前日にもうすぐ辞めると言うのは(「英霊」や「天皇」に対して)「不敬」にあたるなどと「右翼」が反発するかもしれないじゃないか。
(岸田首相が不出馬表明)
 しかし、自民党は「パンドラの箱」を開けたようになってしまい、そんな懸念をするまでもないようだ。困ったのは「不出馬表明」はお盆休み明けと予想して夏休みを予定していた政治部記者だろう。もしかしたらマスコミへの嫌がらせだったのかもしれない。まあ大部分の社は予定稿を準備していただろうが。そのマスコミは自民党総裁選に予想以上の候補が出そうということで「祭状態」になっている。そしてそれを批判する人もいつものようにいる。

 だけど、自民党総裁選とは「事実上の次期首相選び」なんだから、マスコミ報道が過熱するのも当然だと思う。問題はそこではなく、その報道が「国民が真に知るべきこと」を伝えないことだ。候補者は全員自民党議員なんだから、もともと全国民の平均より右である。その中で競い合うから、「保守度アピール」になりやすい。そこで「全国民」を代表して、「選択的夫婦別姓制度」や「原発」への考え方などを記者こそが鋭く聞かなければいけない。

 その総裁選の行方は次に考えるとして、「岸田首相は何で辞めるのか?」。そんなことは判りきっていると言わず、子どもたちに聞かれたら親や教師は何て答えればよいのか? 恐らくつい「支持率が低い」とか「裏金問題」、「物価高」とか、または「次の選挙が近いから」などと答えるだろう。しかし、それらは「現象」である。マスコミは現象ばかり追いかけるが、大事なのは「本質」である。それこそ教師が生徒に提示するべきものだろう。
(広島で配布された号外)
 じゃあ、その「本質」とは何だろうか。日本の政治制度は日本国憲法によって「議会制民主主義」と決まっている。また「三権分立」の原則で、立法と行政は別になる。総理大臣は国会で指名されるので、支持率が低いとは「次の選挙で党の候補者が減って総理大臣指名選挙で負ける」恐れがある。様々な問題があったとしても、それでも国民の支持率が高い政権なら倒れない。そんなことは当たり前のことだけど、突然聞かれたら、「日本は民主主義の国だから」と答えられるだろうか。
  
 今年は世界のいろいろな国で選挙が行われた。イギリスでは政権交代が起こったし、インドや南アフリカでは政権は変わらないものの予想外に苦戦した。フランスは大統領制だから議会の権限は限定的だが、大統領派の与党が敗北した。韓国も同様である。それぞれ固有の事情があるが、ウクライナ、ガザ以後の世界的な物価高によって、どこの国のトップも厳しい状況にある。

 日本でも今後一年間に衆院選参院選が相次ぐ。支持率が低い首相では困ると自民党議員は考える。それは日本が「普通選挙」を行っているからだ。ロシアの大統領選も今年行われたが、候補者は自由に立候補出来なかった。中国は一党独裁だから、中国共産党大会で選ばれた総書記が国家のトップを兼ねる。国民全員が参加する「普通選挙」は行われない。サウジアラビアでは国会そのものがなく、国王が権力を握っている。(事実上は高齢の国王に代わって皇太子が実権を振るっている。)

 世界には様々な政治制度があるが、「議会制民主主義」は絶対のものだろうか。それは「価値観」の範囲になるので、いろいろな考えがあり得る。国会議員が選挙を気にして政権支持率に一喜一憂するため、人気取りに走ったり長い目で政治を行えなくなる欠陥があるとよく言われる。「独裁」的な国の方が国民の人気を気にせず思い切った政治が出来るという考えは大昔から存在した。だけど、民主主義を取っているからこそ、政治家が国民の声を気にするのである。

 選挙で当選するには知名度の高い候補の方が圧倒的に有利だから、「世襲政治家」が多くなる。自民党総裁選には10人以上が立候補意欲を見せているというが、その中で親や祖父が政治家じゃなかった人は2、3人しかいない。そういうような弊害も出てくるけれど、今のところ「議会制民主主義」以外の政治制度は考えられない。その良い部分を国民が認識していないと制度を生かすことが出来ない。そうなると「民主主義はマイナスが多い」というような意見が出て来る。国民は自民党、立憲民主党のトップがどう選ばれるか、注視する必要がある。と、まずはタテマエから。
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「生誕百年記念シネアスト安部公房」と岩崎加根子トークショー

2024年08月22日 22時49分02秒 |  〃  (旧作日本映画)
 戦後日本を代表する国際的作家安部公房(あべ・こうぼう)は、2024年が生誕百年に当たる。ノーベル文学賞確実と言われながら、1993年に68歳で急死して以来30年以上が過ぎてしまった。今年は様々な企画もあるようだが、現在シネマヴェーラ渋谷で「生誕百年記念 シネアスト安部公房」という映画特集をやっている。この前高橋惠子浅田美代子のトークを聞きに行ったところだが、今日は俳優座のベテラン女優岩崎加根子のトークショーがあるのでまた行ってきた。
(安部公房)
 安部公房の本名は「きみふさ」と読ませるらしいが、大体皆「こーぼー」と発音していた。戦後文学の中でも独自の異端的な作風だったが、『砂の女』『他人の顔』『燃えつきた地図』などミステリアスな作品が世界的に評価された。僕は代表的な作品を高校時代に読んでしまい、大きな影響を受けた。主要作を収録した「新潮日本文学」の他に、文庫に入っていた『』『第四間氷期』などSF的作風の作品も面白かった。『箱男』『密会』『方船さくら丸』などは刊行当時にハードカバーで読んでいる。しかし、次第に作品を発表しなくなり気付いたら新聞に訃報が載っていた。

 そんな安部公房が70年代には演劇に熱中していたことは、今ではあまり記憶されていないかもしれない。もともと60年代に主要作品が勅使河原宏監督によって映画化され、安部も脚本に参加している。それらの映画は前に勅使河原監督特集で見たときにまとめて書いた。(『砂の女』は別にそれだけで書いている。)それ以前にラジオドラマやテレビドラマの脚本を書くこともあった。そして50年代末からは新劇に向けて戯曲を書くようになった。そして1973年には、「安部公房スタジオ」を起ち上げた。井川比佐志田中邦衛仲代達矢山口果林などが参加し、堤清二の支援を受けて西武劇場(現PARCO劇場)で上演した。
(岩崎加根子)
 そのきっかけは今日聞いた岩崎加根子(1832~)によると、60年代末に俳優座で『どれい狩り』が上演された時の経験にある。上演はありがたいがどうしても千田是也の演出した世界になってしまう。「意味」をはく奪して肉体のみが演じる世界を演出したいということだろう。そのため紀伊國屋の企画として安部公房演出で『棒になった男』の上演が行われた。この戯曲は「」「時の崖」「棒になった男」の三作品が集まったもので、岩崎加根子は市原悦子とともに「」に出た。鞄に何が入っているか二人で延々と話し続けるような作品だったらしい。聞き手の鳥羽耕司氏によると、これは安部公房の見た夢の戯曲化らしい。
 
 岩崎加根子は独特の安部演出に腰を痛めてしまったが、安部は東京帝大医学部卒(Wikipediaによれば国家試験を受けない条件付きで卒業単位を認定されたという)で東大病院にいた同級生のところに行かされたという。胸に一本注射を打たれたら腰痛が消えたという。安部公房は俳優座との関係が深く、俳優座養成所を桐朋学園短期大学(現・桐朋学園芸術短期大学)に移管するときも安部があっせんしたという。(1966年に桐朋短大に「芸術科(音楽専攻・演劇専攻)」を設置し、俳優座養成所を廃止した。安部公房や千田是也が教員として加わった。)安部公房スタジオに仲代、井川、田中など俳優座出身者が多いのもそれが理由だろう。

 岩崎は安部公房スタジオには参加していないが、当時の体験者として非常に興味深い出来事を幾つも語った。例えば山口果林が朝ドラ『繭子ひとり』(1971)に選ばれたとき、岩崎に電話してきてNHKテレビに出たら演技がおかしくならないか、反対するべきかと相談したらしい。岩崎も困ってしまって、本人がしっかりしてれば良いんじゃないか、本人の希望次第などと答えたらしい。安部もそうか本人次第かなどと反応したらしい。朝ドラに出ることで知名度が高まるのは間違いない。60年代には樫山文枝日色ともゑ、70年代だと大竹しのぶなどその後舞台で活躍を続けた女優も輩出しているから、確かに本人次第だ。
(『仔象は死んだ』)
 ところで今日上映された『仔象は死んだ』は79年にアメリカで上演され大評判を呼んだ作品の映像化である。1980年に製作されたもので、安部公房が監督、脚本、音楽を担当している。音楽というのは自分でシンセサイザーを演奏しているのである。また美術を安部真知(夫人)を担当している。映画は舞台の記録かと思うと少し違って、カメラが動いて時には劇場外に出ていく。安部公房スタジオは当初は普通に演劇らしい、つまりセリフが意味を持つ不条理劇をやっていたが、次第にパフォーマンスというか「舞踏」のようなものになったという。『仔象は死んだ』にはセリフもあるが、ほぼ意味のつながりがない。一面の大きな白いシーツの下、または上で俳優が床運動みたいに動き回る。これが70年代の「前衛文化」だという感じ。
(『詩人の生涯』)
 その前にアニメ『詩人の生涯』(1974)と『時の崖』(1971)も見た。『詩人の生涯』は安部公房脚本、川本喜八郎演出の切り絵風アニメで、シュールレアリズム的な描写と社会派的テーマが融合した作品。『時の崖』は先に書いた『棒になった男』の中の一編で、井川比佐志の一人芝居と言ってもよい。負けていくボクサーの心象風景をひたすら井川のシャドーボクシングと一人語りで描き出す。安部公房監督作品。映像作品として見た場合は、『仔象は死んだ』も『時の崖』も資料映像的な感じ。

 だけどこれらの作品は70年代文化史に欠かせないピースだと思う。有名作家の中でここまで演劇に関わった人もいないだろう。またある種堤清二を中心にした「セゾン文化」を記録した意味もある。僕は高校生から大学の時期で、安部公房スタジオというのがあるのは知っていたが見たことはない。何だかよく判らないけれど、こういうものに観客が集まっていた時代があった。岩崎加根子は細かいことは忘れたといいながら今も元気で、今秋に『慟哭のリア』の主演公演が控えている。
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『緋の河』、〈カルーセル麻紀〉の子ども時代に迫るー桜木紫乃を読む③

2024年08月21日 22時17分49秒 |  〃 (震災)
 桜木紫乃を読むシリーズ3回目で最後。今回は主に『緋の河』(2019、新潮文庫)を取り上げるが、その前に読み終わったばかりの『』をちょっと。講談社文庫の桜木作品連続刊行の最後。これは桜木作品には珍しく、釧路ではなく根室を舞台にしている。釧路以上に寒い環境で展開される三姉妹の物語だが、途中であれよあれよと怒濤の展開でヤクザ小説、または政治小説になっていくのでビックリ。非常に面白かったが、冒頭で根室を代表する水産会社の次女がよりによって中学卒業後に芸者になってしまう。

 長女は政界進出をめざす運輸会社の長男に嫁ぎ、次女が花街に行ってしまい、結果的に三女は自分が犠牲になって婿取りをして家を守ると決意する。最初が花街で始まるのでそういう話かと思うと、どんどん変容していくのが面白い。昭和30年代の根室では北方領土をめぐってきな臭い動きが絶えない。そこら辺も面白いが、もし読むなら解説は後にした方がよい。最後の展開がバラされているので。それは別にして、子どもが三人いれば一人は親の期待から外れて生きるものなのだ。

 そのことが実話に基づきフィクション化されているのが、『緋の河』である。これは釧路に生まれたカルーセル麻紀(1942~)の人生にインスパイアされた小説である。刊行当時話題になったので、文庫になったら読みたいと思っていたが2022年に新潮文庫に入ったのに気付いていなかった。今回桜木作品をまとめ読みしようと思って調べたら、とっくに文庫になっていた。文庫で600頁を越える長い小説だが、それでも22歳までしか達せず、その後のことは『孤蝶の城』(2022)という続編があるがまだ読んでない。

 カルーセル麻紀(作中では「カーニバル真子」)は元祖「性転換タレント」である。まだ子どもだった自分は、そういうことが可能なのかと驚いたものだ。その前にテレビ番組によく出ていたが、まだLGBTなんて概念もなく「男だけど女として生きる」という生き方があると示した人である。もっとも世間的にはどこか「怪しい」感じも匂っていたと思う。ともかく1970年代前半にはある程度の年齢の人は全員が知っていたと思う。当時は「ジェンダー・アイデンティティ」なんて考えはなく、世の中には生まれながらの「男」「女」しかないと僕も思っていた。
(カルーセル麻紀)
 そのカルーセル麻紀は釧路に生まれたので、桜木紫乃はぜひ自分で小説に書きたいと思っていたという。戦時中の生まれで出生名が「徹男」と付けられたのは、厳格な父の「米英と徹底的に戦う男」という意味らしい。小説では「秀男」となっているが、幼いときから女児のように思っていた。周りは姉のお下がりを着せられたからで、いずれ「治る」と思っていたようだが、いつまで経っても体は華奢なままだった。自分のことも「あちし」(「わたし」と言えず)と呼ぶ弱々しい「少年」は、学校に上がると格好のいじめの標的である。そのためいつも強いものを見つけて守って貰った。親や教師も本人が弱いからだと思われていた。

 そんな彼は中学では初めて「友人」を見つけた。何とか中学を卒業し高校へ行ったが、そこでは丸刈りが校則で「頭髪検査」があった。演劇部で女性役をするからと何とか目こぼしされていたが、ついに教頭が来て無理やりバリカンで刈られた。それをきっかけに教師に啖呵を叩きつけて退学した。そのまま家出して東京をめざすも無理と判って札幌で下りて、何とかゲイバーにたどり着く。そういう場所があると子ども時代に教えられていたのである。
(カルーセル麻紀の若い頃)
 その後は「ショービジネス」の小説となっていく。札幌から東京へ出て行き、さらに大阪へ行く。その間に多くの男性遍歴もあるが、もともと客商売に向いていた。度胸もあるし、話もうまい。10代にして夜の世界で人気者となる。その後、単にゲイバーでショーをするだけではなく、本格的に舞台に出るチャンスがめぐってくる。しかし、そこでは女優のわがままが目に余る。ついに若輩の真子が啖呵を切る。このように2度の「啖呵」シーンがとても印象的だ。カルーセル麻紀に同じような場面もあったんだろうが、桜木紫乃の小説家としての力量が示されている。
(『霧』)
 『緋の河』は今度テレビに出られるというところで終わっている。その後は続編で。誰にも認められないと思って生きる「秀男」だが、ただ姉だけが味方になってくれる。ずっと親の期待を背負って生きていた姉が、ラスト近くで大きく変わっていく。そこも読みどころだ。性別違和(性同一性障害)の子どもの心理をここまで書き込んだ小説はあまりないと思う。これは「釧路小説」とは言えないが、やはり釧路という町が背景にあって成立している。もっともこの時代、大阪では釧路の位置を知ってる人などほとんどいないのだが。とにかく桜木紫乃の小説は面白いのでお薦め。
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『ラブレス』『家族じまい』、「家族」の過酷な歴史ー桜木紫乃を読む②

2024年08月20日 22時19分58秒 | 本 (日本文学)
 桜木紫乃の直木賞受賞作『ホテル・ローヤル』(2013)、あるいはその前に書かれたミステリー風の作品『硝子の葦』(2010)には、釧路湿原を望む場所に建つ「ラブホテル」が出て来る。両作品に共通の人物は登場せず独立した作品だが、「ホテル・ローヤル」という名前が共通する。昔『ホテル・ローヤル』を読んだときは、ただフィクションに付けられた架空の名前だと思っていた。しかし、実はこれは作者の実家だった。15歳の時、父親がラブホテル経営に乗りだし、湿原を望む郊外に作ってそこそこ繁盛したらしい。桜木紫乃は仕事の手伝いをしていたというから驚く。

 桜木紫乃は「新官能派」などと呼ばれたらしいが、その小説に出て来る性描写は渇いている。そういう生育をすれば、「愛」や「性」に過大な期待を持てなくなるだろう。道東の寒々しい風景描写の中で、人々は結ばれたり別れたりするが、どこにも湿った思い入れがない。過酷な人生を歩む主人公が多いが、孤独で厳しい人生行路も桜木紫乃の読後感を涼しくさせている。

 小説に出て来る登場人物には思いやりを持って暮らす家族などほとんどなく、天涯孤独な人も多い。普通ならそういう設定は難しいのだが、戦争直後の北海道には開拓農家北方領土からの引揚者が多く、また主産業の炭鉱には全国から労働者が集まった。どこの出身なのかよく判らない謎に満ちた人物が出て来ても、昔の北海道は妙にリアルな環境なのである。

 桜木紫乃が初めて大きく評価されたのは長編小説『ラブレス』(2011、新潮文庫)だった。直木賞や吉川英治文学新人賞の候補になるとともに、島清(しませ)恋愛文学賞を受賞した。女性どうしのいとこの話から始まって、その親たちの姉妹の長い人生が語られていく。道東の開拓農家に生まれた極貧の姉妹は全く異なった人生を歩む。姉は途中で旅芸人に一座に飛び込み、妹は地元で理容師になる道を選ぶ。ちなみに桜木紫乃の父親はホテル経営の前には床屋をしていて、作品に床屋が出て来ることも多い。

 さらに驚くべきは姉妹の母親の苦難で、くだらない男どもに翻弄されながら戦後を生きてきた。姉百合江が握りしめていた謎の位牌とは何か。今は阿寒湖や川湯温泉の方まで合併して釧路市になっているが、そのような釧路近郊も描きながら壮大な家族の戦後史が語られる。謎を追うミステリー的な部分もあるが、まずは姉妹を通して描き出される過酷な戦後民衆史に言葉をのむ。1970年の山田洋次監督の映画『家族』では閉山した炭鉱から新天地を求めて、長崎から道東まではるばると旅をする家族が描かれた。70年頃まではそういう「幻想」があったわけだが、現実は過酷だった。非常に見事な代表作の一つだと思う。

 もう一つ、『家族じまい』(2020、集英社文庫)は中央公論文芸賞を受賞した作品。釧路に住む老夫婦には二人の娘があるが、一人は札幌近郊、もう一人は函館と実家から遠くに住んでいる。そして横暴だった父が元気で、母の方がボケて来ているらしい。そんな家族をめぐるアレコレが語られる。長女は父と距離を置いて生きてきたが、その生き方に批判的だった妹は二世代住宅を建てて父母と同居しても良いらしい。しかし、実現した「理想の暮らし」に父親が黙って従っていられるか。

 「横暴な父」あるいは「無理解な父」というのも桜木作品の定番的設定である。現実に床屋をやめてラブホテル経営を始めるような、「家族巻き込み型」の山師的父親だったらしい。そして1970年代ぐらいまでは、そうそう理解ある父親なんていなかったのも確かだろう。特に女性の場合、大学進学を認めないとか、結婚相手を自由に選べないなどよくある話だった。それでも北の大地の極貧の父親たちの横暴は迫力が違う。そんな家族の中で生き抜いた女性も大変だった。

 「家族」への幻想など飛び散ってもおかしくない。そんな冷徹な世界を行きている女性の小説は、何も釧路が舞台だからというだけでなく、読んでいて夏の猛暑も少しは涼しくなるというものだ。他にも多くの作品があるわけだが、ハードボイルド的な『ブルース』『ブルースRed』、第一作品集『氷平線』なども釧路や周辺を舞台にしながら、どこか渇いた人間たちが出て来る。本質的に「冷涼」なのが桜木作品の特徴だ。
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追悼・高石ともやー「フォークソング」の原点を歌い続けた人

2024年08月19日 22時32分09秒 | 追悼
 「フォークシンガー」の高石ともやさんが亡くなった。8月17日死去、82歳。スマホのニュースで見て驚いた。もちろん82歳の男性が亡くなっても驚くようなニュースじゃない。しかし、僕は2023年12月に行われた「年忘れコンサート」に行っていた。そこでは声量など特に衰えを感じさせなかった。この年忘れコンサートに僕は40年以上毎年夫婦で行っている。2022年だけは母親が入院中で危ないと言われていたので、チケットは持っていたが行けなかった。そのまま終わりだと嫌だなと思ってたら、2023年に行けた。そして元気なら2024年もあるのかなと思っていた。

 「高石ともや」という名前は、昔は受験期になると「受験生ブルース」がラジオで流れていたから覚えたんだと思う。大学に入ったらそこは高石ともやの卒業した大学で、当時はクリスマス行事で高石ともやとザ・ナターシャセブンのコンサートが行われていた。まあ、そういうことで同窓生なんだと知ったわけである。その後、いろいろ経緯があるのだが、妻もファンだということで東京で毎年末にあるコンサートに行くようになった。当初は有楽町の読売ホールでやってたが、その後亀戸のカメリアホールに変わった。時間も昔は平日の夜だったが、次第に土曜日の昼間になった。仕事をしてたときも、何とか都合を付けて毎年行ってきた。
(CD「高石友也ベストコレクション」)
 年忘れコンサートには、ある時期まで著名なゲストが出ていた。谷川俊太郎永六輔灰谷健次郎などは特に思い出にある。新内の岡本文弥もそこで聞いた。同じ「フォークシンガー」と言われる中川五郎遠藤賢司などもゲストで来たことがある。コンサートでは毎年のように歌われる「」「私の子どもたちへ」「想い出の赤いヤッケ」など定番の名曲も良いけれど、それ以上に一年を振り返る歌やトークが楽しみだった。東日本大震災の後で、被災地に行って感じたこと、それが心に響く。社会の移り変わり、世界の問題、著名人の訃報…いちいち感じ方に共感出来るのである。
(75歳でホノルルマラソン連続完走40年の日。2016年12月。)
 本当に凄いと思うのは、毎年12月上旬に行われるホノルルマラソンに参加していたことだ。走り終えて、戻ってすぐにコンサート。本当に丈夫そうで、80歳を超えても声量はしっかりしていた。ある時期からマラソンを始めて、市民ランナーとして有名になった。日本初のトライアスロン大会で優勝しているので、単なる「市民ランナー」を越えているし、「君はランナー」という曲も作っている。多くのマラソン大会に招かれ、走るとともに歌ってきた。有森裕子の言葉で知られる「自分をほめてあげたい」はもともと高石ともやさんの言葉だった。そして妻に先立たれてから10年以上も元気で活動を続けたのは本当にすごいと思う。
(CD「陽気に行こう」107ソングブックCD版)
 思い出はいっぱいあるが、少し音楽的に振り返っておきたい。高石ともや(当初は「高石友也」と表記していた)は「関西フォークの旗手」と呼ばれた。もともとは1941年12月9日(日米開戦翌日)に北海道雨竜町で生まれた。本名は「尻石」だから、これで歌手活動は出来ない。大学で東京に出たが、歌手活動は関西で始めた。その経過はなかなか波瀾万丈なのだが、ここでは省略する。「フォークソング」は要するに「民謡」だが、60年代にはアメリカのジョーン・バエズなどの「反戦フォーク」のイメージが強い。日本でも反戦集会などで歌う人が出てきて、その走りが高石友也岡林友康だった。
(CD「高石ともやのファミリー・フォーク12曲集」)
 ここで興味深いのは、高石友也の名前を使って「高石音楽事務所」が作られ、高石友也も岡林信康もそこに所属したのである。岡林が作って二人で歌った「友よ」は60年代の抵抗歌として金字塔だと思う。またザ・フォーク・クルセダーズや高田渡、五つの赤い風船など皆ここに所属して音楽活動を行ったのである。しかし、70年代になると高石ともやはアメリカに「フォークの原点」を求めて旅立つ。ピート・シーガーなどに学びつつ、さらにブルーグラスなどアメリカの「草の根」の音楽に触れて帰国した。そして福井県名田庄村(現おおい町)に住み、ザ・ナターシャー・セブンを結成した。(グループ名は住んでいた村から。)

 そしてアメリカの歌を原語でコピーするのではなく、きちんと日本語訳を付け日本の歌として歌ったのである。また日本の民謡も歌うなど、独特の歌作りを行った。107曲をレコードにした「107ソングブック」は高く評価され、1979年の日本レコード大賞企画賞を受賞した。しかし、1980年に木田高介(元ジャックス)が脱退、直後に事故死、1982年にはマネージャーの榊原詩朗がホテル・ニュージャパンの火事で亡くなる。それらをきっかけにしてグループ活動が難しくなっていった。以後はほぼ高石ともやはソロで活動する。普通の意味での歌手と言うより、ランナーや市民活動の中で歌い続けるスタイルを一貫させてきた。

 僕には歌手という以上に、個人的思い出がいっぱいあって語りきれない。授業で紹介した歌もあるし、辛いときに口ずさんでいる歌もある。何を書いて良いのかわからないが、取りあえず訃報を聞いて書いた次第。
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涼しくなれる釧路小説ー桜木紫乃を読む①

2024年08月18日 21時50分36秒 | 本 (日本文学)
 東京はほぼ毎日猛暑日が続いている。台風が接近した8月16日(金)だけは別だが、他の日は35度に届かなくてもそれに近い。もういい加減猛暑には飽きてしまって、マジメ系テーマを書く気が失せている。そこで最近読んでる桜木紫乃(1965~、さくらぎ・しの)の本について数回書きたい。何しろ読むだけで涼しくなれる小説なのである。桜木紫乃は北海道釧路(くしろ)市に生まれ育ち、作品の舞台も主に釧路である。今は同じ北海道でも札幌に近い江別市居住というが、釧路を舞台にした『ホテル・ローヤル』(2013)で、同年に直木賞を受けた。その後も釧路で展開する小説を書き続け、釧路市の観光大使にもなっている。
(桜木紫乃)
 釧路と言えば夏でも涼しい土地柄で知られる。今年の最高気温を調べてみたら、8月10日に29.1度になっているが30度越えは一日もない。ここ3日間では、16日が23.3度、17日が20.8度、18日が21度になっている。この気候を生かして近年は釧路に夏長期滞在する旅行プランが人気だ。何で涼しいかというと、寒流(親潮)の影響が大きい。また夏は海から吹く風で「海霧」が発生する。昔釧路に行った時、帰りの飛行機が濃霧で欠航したことがある。もっとも釧路でも年に何日かは30度近くになるが、道東地方では宿に冷房がないことが多くて困る。(下に釧路の地図を示しておく。)
(釧路の位置)
 今回読んでみたのは、講談社文庫が4ヶ月連続で桜木紫乃の旧作を文庫化しているのがきっかけ。僕も知らなかった釧路を舞台にしたミステリーが刊行された。「北海道警釧路方面本部」シリーズだそうである。もっとも2作しかないけれど、どちらも女性刑事の苦闘を描くことが共通する。第一作『凍原』(2009)の帯には「女が刑事として生きるには、あまりにも冷たい街」と出ている。人間関係の希薄さもあるが、この「冷たい街」とは現実に冷涼な日々が続くことを指している。
(『凍原』)
 第二作『氷の轍』(2016)もそうだが、まず題名が寒々しい。そして内容も同じく寒いのである。出張で札幌や青森県の八戸まで出掛けるシーンがあるが、気候が違って暑いという描写が印象的。それに対して事件現場である釧路は、釧路湿原や海の描写も多い。それらが事件そのものや刑事、事件関係者の設定に不可欠になっている。そして読んでいていかにも冷涼な街の様子が浮かび上がり、こっちの気分も涼しくなる。漁業と炭鉱の町だった釧路は、戦後になっても外からやって来た人が多く、生まれ育ちもよく判らない人が有力者になっている。そんな特質がミステリーに向いている。
(『氷の轍』)
 「犯人当て」としてはどっちもちょっと薄味かもしれないが、寒々しい風景描写が心に残る小説である。出来映えからすると短編集『起終点(ターミナル)駅』(2012)が心に残った。表題作は篠原哲雄監督によって映画化され、2015年に公開された。その映画は遅れて見て、なかなか面白かった。佐藤浩市、尾野真千子、本田翼などが出ていて、やはり釧路が舞台。元裁判官の佐藤浩市は今は釧路で官選の刑事事件しかやらない弁護士になっている。そうなった理由は何故か。そこに本田翼演じる女性の覚醒剤事件を担当することになって…。本田翼がなかなか良くて忘れがたい。今回原作を読んでみたら映画はほぼ原作と同じだった。
(『起終点駅』)
 文庫の帯には「始まりも終わりも、みなひとり」とある。当たり前と言えば当たり前なんだけど、桜木紫乃の登場人物は皆孤独で道東の荒涼たる風景に似合う人ばかり。新聞記者を主人公にした「海鳥の行方」「たたかいにやぶれて咲けよ」も見事。『ホテル・ローヤル』も連作短編集だったが、桜木紫乃は基本的に短編向きかも。忘れがたき風景や人間関係を点描することが特徴である。もちろん直木賞作家なんだから、エンタメ系のすぐ読める小説である。しかし、それらの小説はほぼ釧路周辺で展開する孤独な人間の道行なのである。読んでると気持ちも涼しくなるが、それは高原の避暑地の涼しさとは違う。夏も荒涼たる道東の涼しさなのである。なお、釧路で鶏の唐揚げを「ザンギ」と呼ぶと映画を見て初めて知った。原作でも主人公がザンギを作っている。
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「スポーツウォッシング」をどう考えるかーパリ五輪③

2024年08月16日 22時20分16秒 | 社会(世の中の出来事)
 東京は毎日猛暑が続くが、今日は久しぶりに30度に届かなかった。台風7号の接近によるものだが、週初めから週末は台風に警戒と言われ、東京・名古屋間の新幹線が計画運休するなどした。そこで今週は昨日まで猛暑の中を頑張って出掛けて、今日は休むことにした。ところが自宅周辺は雨風ともに大したことなく(というかほとんど雨も降らず)、何だという感じの一日だった。

 もう一回パリ五輪関係の記事を書いておきたい。今度は「スポーツウォッシング」(sportswashing)についてである。僕はこの言葉を今回初めて聞いたのだが、Wikipediaに項目があって2015年にアゼルバイジャンで行われたヨーロッパ選手権の時に初めて使われたという。ヨーロッパ選手権というのは「アジア大会」のヨーロッパ版で、そういうのがあるわけだ。

 日本では2023年11月に集英社新書から西村章スポーツウォッシング なぜ<勇気と感動>は利用されるのか』という本が出ていることが判った。西村章氏(1964~)は主に二輪ロードレースを取材してきたスポーツジャーナリストで、2010年に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞、2011年に第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞したと出ている。
(『スポーツウォッシング』)
 僕はその本を知らなかったが、内容を簡単に紹介すると、「「為政者に都合の悪い政治や社会の歪みをスポーツを利用して覆い隠す行為」として、2020東京オリンピックの頃から日本でも注目され始めたスポーツウォッシング。スポーツはなぜ”悪事の洗濯”に利用されるのか。その歴史やメカニズムをひもとき、識者への取材を通して考察したところ、スポーツに対する我々の認識が類型的で旧態依然としていることが原因の一端だと見えてきた。洪水のように連日報じられるスポーツニュース。我々は知らないうちに”洗濯”の渦の中に巻き込まれている!」と書かれている。

 オリンピックやサッカーのワールドカップはあまりにも巨大な商業的イヴェントとなり、参加国のナショナリズム高揚のための仕組みになっているという批判はこれまでにもあった。競技数が増えすぎてオリンピックを開催できる国は限られて来ている。昔開催したことがあるストックホルムやヘルシンキ、アムステルダムなどではもはや難しい。アジア、アフリカの国々でも開催可能な都市は幾つもないだろう。そういう議論は前からあったと思うが、「悪事の洗濯」というのは新しい視点かなと思う。

 そもそもオリンピックは「アマチュア選手の祭典」として始まったわけだが、今は完全にプロ選手の争いになっている。もともと五輪競技だったサッカーなどはともかく、ゴルフやテニスなどプロ競技として確固たる存在感のある競技まで実施されるようになった。もっと大きな大会を転戦している選手たちにとって、オリンピックはどの程度の重みがあるのだろうか。(男子サッカーの場合、五輪では「23歳以下」という条件を付けている。)プロリーグがない競技でも、プロとなって活動してる選手が多くなった。
(スポーツウォッシングによって毀損されるもの)
 そうなると選手や競技団体も自分たちの生活がかかっている。政府は補助金を出して選手強化を図り、選手たちは「結果」を求められる。その結果(メダル)を獲得することで、国民は選手たちを「英雄」としてもてはやし、メディアも選手たちの動向を詳しく報道する。そのため、本来追求されるべき物事がなかったことにされる。東京やパリでもそういう部分がいっぱいあったが、北京の夏冬の五輪、あるいはソチ冬季五輪2018年のワールドカップロシア大会などはまさに「スポーツウォッシング」だった。

 そのことは忘れないようにしないといけないと思う。だが「スポーツウォッシング」だから「オリンピックは見ない」、「ナショナリズム高揚の装置」だから「ワールドカップは見ない」とまで言うと、僕はちょっとどうかなと思う。オリンピックほど巨大ではないかもしれないが、およそあらゆるスポーツ大会には似たような側面がある。プロ野球や高校野球も見ないのだろうか。それは単にスポーツ観戦に関心がないというだけなのではないのか。

 スポーツ以外の音楽、映画などでも巨大な市場が形成されている。これらの分野では作者の政治的主張を盛り込んだ作品も存在しているが、それはアート市場の片隅で許容されるだけだ。主にヒットしているものは(特に日本では)「現実逃避」的なものが多い。そして、そういう「大衆娯楽」的なものを一切拒否して生きることは不可能である。8月はマジメに戦争を考えるべき時で、戦争ドキュメント番組は見ても良いけど、他のテレビ番組は見ちゃいけないなんてことになったら、それこそ「戦前と同じ」である。

 僕はオリンピックを(見られる時間にやってる限りにおいて)見たけれど、それは他の番組より面白いからだ。世界最高レベルの選手の争いがナマでやってるんだから、面白くないはずがない。日本では団体球技の人気が高いが、サッカー、バレーボール、バスケットボールなど誰でも学校でやったことがある。卓球やバドミントンも同様だろう。ルールは少しずつ変わっていくが、基本は不変。これらの競技が全世界で行われているのは、要するに面白いのである。

 オリンピックは地上波テレビ放送で見た人が多いらしい。インターネットですべての競技が見られたが、ただスイッチを入れれば良いテレビの方が便利だ。そして付けるとアナウンサーや解説者が絶叫してたりしてうるさい。日本のスポーツ中継は概して騒音レベルである。だけど、僕は聞いてないから良いのである。コマーシャルと同様に耳が自動的にシャットアウトしてしまう。

 「スポーツウォッシング」という概念は、他分野にも応用出来る。例えば「万博」もウォッシング装置だろう。重要な考え方だが、オリンピックや他のスポーツ中継を面白いと思う人は、見れば良い。好きなものを見る自由は手放せない。
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ロシアの五輪復帰には時間が必要、ロシア「排除」は二重基準かーパリ五輪②

2024年08月14日 22時40分04秒 | 社会(世の中の出来事)
 パリ五輪では、「AIN」(中立国)という選手がいた。「個人資格の中立選手」として、ロシアとベラルーシからドーピングなどの条件をクリアーした選手が出場出来る仕組みである。15人出場してメダルは5個獲得したが、国別ランキングには登場しない。(獲得種目は金=トランポリン男子、銀=トランポリン女子、ローイング・男子シングルスカル、テニス女子ダブルス、銅=重量挙げ男子108キロ級。)出場選手が少なかったのは、ロシア国内で「参加するな」的な心理的圧力があったためだろう。具体的なことは判らないが、事実上プーチン政権や「特別軍事作戦」を支持するかどうかの「踏み絵」になったと思われる。ロシア国内ではテレビ放映もなかったとのことで、五輪の存在は消された。

 そんな中で、パリ五輪中のエピソードとして「北京冬季五輪のフィギュアスケート団体」のメダル授与式があった。元々は金=ROC銀=アメリカ銅=日本だった。ROCはロシアオリンピック委員会のこと。しかし、ロシアのワリエワ選手のドーピング問題で、金メダルは取り消された。そこで銀と銅が繰り上がることになり、パリで授与式が行われたわけである。日本チームはすでに引退した宇野昌磨はスイスのアイスショーと重なり不参加だったが、他の選手たちがパリに集まった。下の写真は毎日新聞社のサイトにあるものだが、余りに素晴らしいので使わせて貰った。(右から 坂本花織、樋口新葉、鍵山優真、木原龍一、三浦璃来、小松原美里さん、小松原尊=トロカデロ広場で2024年8月7日、玉城達郎撮影)

 ところで、ロシアが「排除」されたのに対し、イスラエルが参加出来たのは「二重基準」だという批判があった。(イスラエルは金=1、銀=5、銅=1の計7個のメダルを獲得。)ウクライナとガザで戦争が続く中で、国連安保理の米ロの対応は「二重基準」と言われても当然だろう。まあ「国益第一」という意味では、どっちも同じ基準というべきかもしれないが。その事は今までも書いてきたが、オリンピックの対応はどう考えるべきだろうか。しかし、そこで考えるべきことは「ロシアは東京五輪にも参加出来なかった」という事実だ。ロシア選手は確かに参加していた。ただし「ROC」として参加が許容されたのである。
(東京五輪ではROCとして入場)
 「二重基準」だと批判する人はそのことに触れない。ロシアは今までも「オリンピック精神に反する」行動が見られ、「ロシア」という国としては参加を認められていなかった。金メダルを獲得してもロシア国旗は掲げられず、国歌の代わりにチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」が流された。そのような経過を考えると、ロシアがウクライナに侵攻したまま通常の対応をすることはIOCとしても当然出来ないだろう。団体競技の予選にロシアの参加は認められず、従って参加資格を得られない。
(ロシアオリンピック委員会の旗)
 一方、イスラエルは当然のこととしてガザ戦争以前に団体競技予選に参加していた。男子サッカーのU21欧州選手権が2023年6月に行われ、イングランドが優勝、スペインが準優勝、イスラエルとウクライナが4強だった。(イスラエルはヨーロッパ協会所属である。)ヨーロッパ出場枠は開催国フランスを除き3か国で、スペイン、イスラエル、ウクライナに与えられた。(イングランドが出てないのは、「五輪加盟国」ではないということか。)このようにすでに獲得していた出場権は、スポーツ界内部の不祥事以外では取り消されないだろう。この参加を取り消さないのは「二重基準」なのか。

 イスラエルがガザでいかに非道なことをしていても、それを言い出せばそもそもはハマスのテロ攻撃をどう考えるべきかと反問されるだろう。ハマス幹部も戦争犯罪を犯したと国際刑事裁判所も認めている。ではパレスチナの参加も認めないのか。パレスチナはメダルには届かなかったものの8人の選手を派遣している。パレスチナの参加は当然だし、イスラエルの参加も選手の権利だと思う。一方、ロシアの選手はドーピング問題が完全解決しない限り、今後も参加は難しい。(ベラルーシの参加は認めるべきだろう。)

 ロシアのドーピングは軍や諜報機関、ひいては政権上層部が関わっていると思われる。世界中のすべての五輪選手は厳しいドーピング検査をクリアーして試合に臨んでいる。検体を国家機関が関わってすり替えてしまうなんてことをするのはロシアだけだろう。(いや、中国でも組織的ドーピングが行われているとアメリカは非難しているが、今のところ公式的には証明されていない。)2028年ロス五輪は米国開催だから、ロシアもアメリカも妥協しにくい。今後の開催国はイタリア(冬)、米国、フランス(冬)、オーストラリア、米国(冬)と「西側」主要国が連続する。ウクライナ戦争がいつ和平に至るか判断が難しいが、戦争が終わっていたとしても、ロシアはすぐには参加出来ないだろう。ロシア選手団の本格復帰までは相当の時間がかかると思う。
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タヒチ島と男子リレー予選問題ーパリ五輪①

2024年08月13日 22時55分10秒 | 社会(世の中の出来事)
 パリ五輪第33回夏季オリンピック競技大会)が7月26日~8月11日に行われた。終わってしまえばあっという間で、僕は見たり見なかったり。日本選手は金メダル20個を獲得し、米中に続く第3位となった。しかし、圧倒的にメダルに縁がなかった選手が多いわけだし、メダル数にこだわる気もない。最後にレスリングで大量に金メダルを取り「海外五輪史上最高」と言われるが、僕にはむしろ金メダル確実と言われながら一回戦で敗れた須崎優衣(女子レスリング)に、連覇の難しさを感じて感慨があった。

 足立区出身の女子レスリング68キロ級尾崎野之香は、一回戦をわずか32秒で「10対0」のテクニカルフォール勝ちして圧倒的に強さを印象付けた。しかし、2回戦では得意技を封じられ、キルギスのメーリム・ジュマナザロワに8対6で敗退した。この選手は決勝まで進出して銀メダルだった。その結果、尾崎選手は翌日の敗者復活戦に回ることが出来、勝ち進んで銅メダルを獲得した。須崎選手も結局銅メダルを獲得出来て(それまでの経過はいろいろとあったが)、まあ良かった。

 日本選手の話はいくらも出来るが、若い女子選手の名前が読めないなあと毎回感じる。読めないというか、漢字と合ってない読み方をさせるわけである。昔からそういう生徒は結構いたけれど。女子サッカー選手には、結構「○子」という名前の人が多いのが新鮮な感じ。男子自転車BMXフリースタイルの中村輪夢(りむ)とかセーリングの飯束潮吹(いいづか・しぶき)とか、命名から将来を予測させる名を付ける場合もある。ま、他人が口を挟む問題でもないだろうが。

 ところで、今回のパリ五輪であまり問われなかったことを書いておきたい。一つはサーフィンをタヒチ島で行ったことである。選手村が借り上げた豪華船だったこともあって、そういうのもありじゃない的な報道が多かったと思う。前回銀メダルの五十嵐カノア選手がメダルに届かず、サーフィンの報道は少なかった。しかし、タヒチ島はフランス領ポリネシアという植民地である。独立運動もあって、「国連非独立地域」に指定されている地域である。
(サーフィンの選手村)
 さらに「フランス領ポリネシア」というと、フランスが核実験を行ったムルロア環礁が含まれている。隣接地域と言っても良い。ちょうど8月にやってる五輪なのに、日本のメディアが全くそこに触れないのが不思議だ。フランスは植民地の独立が遅れていて、ニューカレドニアで問題化しているのは周知のこと。世界で今もこれほど植民地を保有している国はない。国内でも植民地主義の清算が遅れている。僕にはタヒチで五輪をやるのは無神経に見える。内陸のパリじゃ出来ないが、東京五輪では千葉県だったようにノルマンディーなど本国で可能な場所はいくらでもあるだろう。(ムルロア環礁はツアモク諸島南部にある。)
 (タヒチの地図)
 もう一つ、陸上男子400メートルリレー(100×4リレー)の予選結果を見て、これは何だと思った。全体的に柔道団体や男子バスケットボールの日本・フランス戦など、これはどうもと思う審判の判断が見られた。しかし、陸上のリレー予選ほど極端な「フランス有利」はないと思う。まず、予選は2組に分かれ、各組上位3チームは順位で決勝に進出する。残り2チームはタイム順で上位2チームが進出する。では、予選の順番を見てみたい。(下線=決勝進出)

 予選A組 ①米国南アフリカ英国日本イタリア⑥オーストラリア⑦ナイジェリア(38秒20)⑧オランダ(38秒48)
 予選B組 ①中国38秒24)②フランス(38秒34)③カナダ④ジャマイカ⑤ドイツ⑥ブラジル⑦リベリア 失格=ガーナ

 ジャマイカにバトンミスがあり、決勝進出出来なかったのは予想外だろう。それにしても、予選B組トップの中国ですら、A組なら8位である。まあ周囲を見て、タイムをセーブしたのかもしれないが。純粋にタイム順で選ぶなら、フランスは9位だから入らなかった。日本はタイムで救われたが、オーストラリア、ナイジェリアはタイムで中国を上回ったのに予選敗退となったのである。
(男子400メートルリレー決勝)
 決勝の結果は、①カナダ(37秒50)②南アフリカ③英国④イタリア⑤日本(37秒78)⑥フランス⑦中国 失格=米国
 何とアメリカが失格してしまい、B組3位だったカナダが優勝という意外すぎる結果になった。それにしても、2~5位は予選A組からだった。アメリカが失格しなければ、当然上位だっただろう。開催国がシードされるのはあり得ることかも知れないが、これはちょっと極端過ぎるのではないか。
 
 400メートルリレーほど極端ではないけれど、1600メートル(400×4)リレーも似たような感じ。
 予選A組 ①ボツワナ英国米国日本(2分59秒48)⑤ザンビア(3分00秒08)⑥ドイツ⑦ポーランド⑧トリニダード・トバゴ
 予選B組 ①フランス(2分59秒53)②ベルギーイタリア④インド⑤ブラジル⑥スペイン⑦南アフリカ 失格=ナイジェリア

 フランスは予選A組4位の日本より遅いタイムなのに、B組1位になったのである。何でこうなるの的な疑問を感じないか。なお、南アフリカは予選最下位なのに、審判判断で決勝進出となった。詳細は知らないが、何か理由があったのだろう。
 結局、決勝はどうなったか?
 ①米国②ボツワナ③英国④ベルギー⑤南アフリカ⑥日本⑦イタリア⑧ザンビア⑨フランス

 何だかこの組分けには、フランスへの「忖度」を感じずにいられない。どうも不可解だし、フランスってこういうことをするんだとつい思ってしまうんだが。
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映画『あした輝く』と浅田美代子トークショー、戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭

2024年08月12日 22時02分27秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷の「戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」、今日は1974年の『あした輝く』(山根成之監督)と主演の浅田美代子のトークショーに行ってきた。実は前日に原作者の漫画家里中満智子のトークもあったのだけど、やはり浅田美代子の方が聞きたい。まあ猛暑の中二日連続は体力的にきついし。浅田美代子も言ってたけど、戦争を描く映画はいっぱいあるのに何でこの映画が選ばれたんだろうという感じはした。でも半世紀前の普通の「アイドル映画」が戦争をどう描いていたかという意味で興味深い。

 この映画は初めて見たが、公開当時に映画は知っていた。里中満智子原作の漫画の映画化で、前年(1973年)テレビ『時間ですよ』でデビューした浅田美代子が主演したんだから話題作である。浅田美代子は劇中歌「赤い風船」も大ヒットして、大注目のタレントだった。監督の山根成之(やまね・しげゆき)は、当時『同棲時代』『愛と誠』など青春映画の話題作を連発していた。しかし、今回見てみると突っ込みどころいっぱいの「アイドル映画」で、何だこれは的な展開が続く。

 確かに「この映画を何でやるか」的な感じである。時は敗戦直後の「満州国」。関東軍は民間人を置いて撤退してしまい、引き揚げ時に多くの犠牲を出した。ソ連軍の攻撃に加え、現地中国人の襲撃も受け、後に「残留孤児」問題が起きる。しかし、映画では「満州国」の本質は追求しない。主人公今日子(浅田美代子)は奉天の夏樹医院の「お嬢様」で、加賀中尉(沖雅也)に言い寄られているが、衛生兵速水香(志垣太郎)を好きになる。運命的に結ばれ、速水は民間人保護のためとして今日子らの引き揚げに同行する。今日子の父は途中で死に、香は後を託される。その時、今日子は香の子を宿していた、っていつそうなったの?
(今日子と香)
 2022年に亡くなった志垣太郎はこんなにカッコよかったのか。恋敵の沖雅也は1983年に31歳で自殺した俳優である。その後、帰還船の中で今日子は流産するが、同行していた女学校の教員、緑川先生(田島令子)が出産後に亡くなり、その子を引き受ける。速水の実家(九十九里)に赴くと、助産師の母親(津島恵子)は子どもを香との子どもと思い込む。子どもは「今日子と香」から「今日香」にしようと香が言うが、今日じゃなくあしたが輝いて欲しいから「あすか」にしようと今日子が言った。これが題名になるが、その後ソ連軍に連行され生きているかも不明な香を今日子は義母とあすかと一緒に待ち続ける。
(里中満智子)
 その向日性が浅田美代子の持ち味と合っていて、都合のいい展開に納得してしまうわけである。「引き揚げ」もの、「シベリア」ものはかなりあるが、この映画は戦争映画という意味では特に書くこともない。ただ半世紀前のアイドル映画では、戦争が背景として成立していたのが興味深い。今では時間が経ちすぎて「歴史映画」になってしまう。半世紀前は「戦後29年」ということで、若い世代からしても「戦争は父母の時代の話」だった。一家の成り立ちを振り返れば、そこには当然戦争という歴史が出て来る。そういう時代性を背景にして、愛の物語が成り立っている。山根演出はまさに「少女漫画」の実写化という感じで撮っていて面白かった。
(浅田美代子=現在)
 浅田美代子さんは最近も良くテレビで見るが、いつまでも元気で活躍して欲しい。この映画のことは船酔いしたことが最大の思い出だという。乗馬のシーンがあるが、自分じゃないという話。それはそうだろうなと思って見ていた。テレビと映画の違い、樹木希林さんの話など興味深い。しかし、それ以上に犬の保護活動を通じて、猛暑が続く中で犬を外で飼ってはいけない、猛暑の昼間に散歩させてはいけない。自分は夜10時過ぎに毎日行ってるとのこと。諸外国ではペットショップ自体が無くなりつつある。ペットショップだと売れ残る犬が出て来るからという話に考えさせられた。共同通信の立花珠樹さんの司会。
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映画『花物語』と高橋惠子トークショー、戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭

2024年08月10日 22時48分18秒 |  〃  (旧作日本映画)
 第13回を迎える「戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」が今年は渋谷のシネマヴェーラ渋谷(ユーロスペースのあるビル4階)で始まった。今までは見てる映画が多くて行ってない年が多いが、今年は「家族たちの戦争」をテーマにほとんど見てない映画が並ぶ。しかもトークショーが幾つも企画されている。今日は公開時に見ているんだけど、非常に上映機会が少ない『花物語』(堀川弘通監督、1989)を再見してきた。主演の高橋惠子のトーク付きである。

 千葉県の房総半島南部は南房総国定公園に指定されている景勝地域である。普通の観光地の人気シーズンは夏や春秋なんだけど、ここは2月頃に一番観光客が訪れる。花の栽培が盛んな地域で、お花畑が一面に咲き乱れ向こうに海が映える。その時期に南房総をドライブしたことがあるが、素晴らしい景色だった。中でも外房南部の和田町(現・南房総市)あたりは花栽培が戦前から盛んな地域として知られていた。ところが戦時中はその花栽培が禁止されたのである。「食糧増産」が国の旗印で、すべての田畑は食糧生産に当てるべきだというタテマエである。この地域は海に近く、野菜や米の生産には向かず、花に向いた土地なのに。
(花束を受ける高橋惠子)
 枝原ハマ高橋惠子)は花栽培にずっと取り組んできた。それには理由があることが後に判るが、ハマはなかなか花栽培を止めなかった。主な畑は野菜に転換したが、小さな一つの畑だけは何とか見逃して欲しいと言う。しかし、「お上」の意向を受けた村の当局者は、それを許さない。長男は学校で「非国民の子」といじめられ、母には出来ないからと自らの手で残された花を摘み取ってしまう。それでも「畑じゃない場所」なら良いだろうと小規模で花を作り続けたが…。漁師の夫(蟹江敬三)は再度召集され、長男は予科練に応募して去る。疎開児童やノモンハン帰りの時計屋(石橋蓮司)など複数の目で村人たちを活写していく。
(堀川弘通監督)
 僕はこの映画を公開当時に見ているんだけど、そういう人は少ないと思う。公開自体が小規模だったし、確かすぐに終わってしまった。それでも見たかったのは、実は田宮虎彦(1911~1988)の原作『』が好きだったのである。田宮虎彦は今では忘れられた作家だろうが、かつて文学全集がいっぱい出ていた時代にはよく1巻、または半巻を当てられていた。『足摺岬』『銀心中』『異母兄弟』など映画化された作品も多い。『落城』『霧の中』などの気品ある歴史小説も好きだった。僕の若い時期にすでに読まれなくなっていたが、持っていた全集で読んでみたら気に入ったのである。その田宮虎彦の映画化だから見たかった。
(田宮虎彦)
 堀川弘通監督(1916~2012)は黒澤明監督に師事したことで知られ、『評伝 黒澤明』(2001)という本もある。『あすなろ物語』(1955)で監督にデビューし、『裸の大将』『黒い画集 あるサラリーマンの証言』などの代表作がある。東宝からフリーになってから作った作品には戦争を扱った映画が多い。他には『ムッちゃんの詩』(1985、今回の映画祭で上映あり)や『エイジアン・ブルー 浮島丸サコン』(1995)がある。Wikipediaには「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めていたと出ていて、晩年に戦争を描いたことと関連するのかもしれない。素直に感動させる映画が持ち味で、『花物語』も同様。

 およそ花栽培を禁止するなど、現在の感覚からは全く理解出来ない。常識的に考えて、戦死者に手向ける花は不要だったのか。この映画では、いつも非国民と罵っていた隣人が訪ねてくるシーンが印象深い。二人の男子が戦死し、もう一人も戦地にある。口では皆お国に捧げると言ってるが、秘かに三男の無事を祈願している。その子が目を失って帰還してきて、見舞いに行ったら「故郷の花が見たい」と言ったのである。もう花を作っているのは村中でハマだけになっていたので、頭を下げて花をくれないかという。そして「花は口では食べられないが、心の食べ物かもしれない」と言うのである。この「心の食べ物」という言葉に込めた思いが深い。
(長男役の八神徳幸=現在)
 高橋惠子(1955~)は僕と同じ年の生まれ(学年は一つ上)で、デビュー時の「関根惠子」時代から気になっていた。増村保造監督の『遊び』(1971)はとても印象的で、関根惠子も輝いていた。なかなか波乱の俳優人生だったが、『TATTOO〈刺青〉あり』(1982)出演後に監督の高橋伴明と結婚し高橋姓を名乗るようになった。この映画は和田町で2ヶ月ロケして作られ、今も現地の人と交流があるという。会場には長男役の八神徳幸(やがみ・のりゆき)も来ていて、昔のことを詳しく覚えていた。今は何しているのかと問われ、今も役者だという。確かにWikipediaにも項目があり、あまり大きな役ではないがテレビや映画にも出ている。本人も言ってたが通販番組が多いようだ。

 この映画が上映される機会はなかなかない。今回は16日まで映画祭があり、その中でまだ何回か上映がある。(時間はまちまちなので、ホームページで確認を。)今回の上映を機に再評価されると良い映画だと思う。今までDVD化されてないとのことで、今後のソフト化、配信なども期待したい。戦時下の日常がどんどんおかしくなっていく様子が判ると思う。南房総の早春を彩る美しい花々、そこにも悲劇の現代史があった。忘れてはいけない歴史の教訓だ。
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台湾映画『流麻溝十五号』、50年代の政治犯収容所を描く

2024年08月09日 22時25分07秒 |  〃  (新作外国映画)
 『流麻溝十五号』という台湾映画をやっている。台湾映画といえば以前は巨匠の問題作が多かったが、最近はエンタメ系青春映画なんかの方が多い気がする。そんな中でこの映画は50年代の「白色テロ」時代の政治犯収容所を正面から扱っているので、見てみたかった。監督は女性の周美玲(ゼロ・チョウ)という人で、映画も主に女性の「政治犯」を扱っている。描き方は主要な3人を中心に男性「政治犯」や看守側、地元の人々なども出て来る。ちょっと感傷的な作りになっていて完成度的には不満も残るが、かつて描かれなかった暗黒の現代史をテーマにした作品だ。

 題名の「流麻溝」というのは地名だという。「新生訓導処」(思想改造及び再教育のための収容所)があった場所である。それは台湾島東南の「緑島」に1951年から1965年まで置かれていた。一時期には2000人もの人々が収容されていたという。また「緑州山荘国防部緑島感訓監獄」(政治犯の監獄)も同島に1972年から1989年まで存在した。今は島は観光地として開発され、施設の跡は「人権記念公園」になっている。このように「過去」を忘却しないところに台湾の姿勢がうかがえる。
(緑島の位置)
 日本の植民地だった台湾は日本の敗戦後、「中華民国」に返還され国民党が権力を握った。しかし、強権的統治が民衆の反感を買い、1947年2月28日に軍が民衆デモに発砲した「二・二八事件」が起きた。その時代を描いたのがホウ・シャオシェン監督の『悲情城市』(1991)である。1947年から1987年まで40年間に及んで戒厳令が布かれ、その間3000~4000名の人々が理由なく殺害されたとされる。また多くの人が「思想改造」のために収容所に送られ「反共」教育を強制された。この映画を見ても、多くの人々は「政治犯」というような実態はほとんどなく、自分でも何が問題になったか理解出来ない「冤罪」だった。
(女性収容者の人々)
 収容所の中でも、人々は情報を求めて新聞を回し読みしている。また不当な措置には団結して闘ったりもする。しかし、大部分は所側の要求に応じるか、拒否するかを問われる苦痛の日々だった。当局の求めに応じないと家族とのやり取りも不可能になる。一方、大陸に家族を残している人も多く、「反共の闘士」と宣伝材料になるのは危険が大きい。収容者は時には看守の理解出来ない日本語で意思疏通を図っている。(そこは現代の俳優なので、日本語の発音はたどたどしいが。)男女で惹かれ合うこともあれば、収容所のトップから性的関係を要求されている人もいる。島そのものの風景は美しいのだが、そこには恐怖の日々がある。
(収容所内部)
 そこへ蒋経国(蒋介石の長男で、1978年から1988年に総統)が視察にやってくることになった。収容所では有志を募って反共の舞踊劇を作ることになった。皆一生懸命取り組んだのだが、その結果は? この時代は「密告」で多くの人が囚われたが、その収容所の中でも密告は付きものだった。リーダー格の看護師、絵がうまい高校生、そして自ら「共産党」と自首したダンスが上手な女性の真意と運命は…。自由な思想を持つことすら許されなかった時代に、囚われの島で起きた悲劇。拷問なども出て来るが、割と見やすく作られている。台湾では「過去」となり、「忘れてはいけない」対象になっているということなんだろう。
(周美玲)
 台湾の負った複雑な現代史を知る意味で、この映画の存在を是非心に留めておいて欲しいと思う。ただ台湾内外で映画賞などには縁がなく、それはやむを得ないと思う。別に悪いわけじゃないんだけど、重厚感に乏しい。テーマ的にも現代台湾では危険性がなくなったということかと思う。しかし、この映画は中国で上映出来ないだろう。国共内戦の相手側(蒋介石政権)の非人道性を暴く映画なんだから、本来は中国が歓迎しても良いはずだ。でも、この映画の眼目は「思想の自由」であり、中国で上映するには危険である。登場人物は「台湾に自治があれば」と言っていて、中国からすれば「台湾独立派」の宣伝と見えるだろう。それにしても、蒋介石も毛沢東に勝るとも劣らぬ残虐な独裁者だったことがよく判る映画だった。
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キム・ミンギ、ロバート・タウン、シェリー・デュヴァル他ー2024年7月の訃報②

2024年08月08日 22時24分55秒 | 追悼
 2024年7月の訃報特集。外国と1回目で書けなかった国内の訃報。まず韓国のシンガーソングライター、劇作家、俳優のキム・ミンギ(金敏基)が21日に死去、73歳。誰だと言われるかもしれないが、韓国現代史に大きな影響力を持った人である。70年代以後の韓国民主化運動を象徴する歌とされる「朝露」を作った人。「朝露」初め彼の歌は独裁政権下では禁止曲に指定されていた。2003年の金大中の葬儀では集まった人々が期せずして「朝露」の歌声が響いたと言われる。91年にソウル大学路に小劇場を開き、そこから多くの歌手や俳優を輩出した。特に94年初演のミュージカル『地下鉄1号線』は世界的にヒットした。僕は李政美(イ・ジョンミ)さんが「朝露」を原語と訳詞で歌ったCDを持っているけど、今回探し出せなかった。
(キム・ミンギ)
 アメリカの脚本家ロバート・タウンが1日死去、89歳。1974年の『チャイナタウン』(ロマン・ポランスキー監督)でアカデミー脚本賞を受賞した。この映画で身勝手な父を演じていたのが映画監督のジョン・ヒューストンである。他にも『さらば冬のかもめ』『シャンプー』『グレイストーク』でアカデミー賞にノミネートされた。テレビで『ナポレオン・ソロ』などを書いた後で、ロジャー・コーマンの低予算映画の脚本を書くようになり、クレジットされていないものの『ゴッドファーザー』にも参加したという。その後監督にも進出したが成功しなかった。他に『チャイナタウン』の続編『黄昏のチャイナタウン』(1989、ジャック・ニコルソン監督)や『ミッション・インポッシブル』などがある。
(ロバート・タウン)
 アメリカの女優シェリー・デュヴァルが7月11日死去、73歳。アルトマン監督の『三人の女』(77)でカンヌ映画祭女優賞を受けた。初期にはアルトマン監督作品の出演が多く、独特の風貌が作風に合ってすぐに名前を覚えてしまった。『BIRD★SHT』『ギャンブラー』『ボウイ&キーチ』『ナッシュビル』などである。その後スタンリー・キューブリックの『シャイニング』(80)で夫に恐怖して絶叫する妻役で知られた。同年のアルトマン監督『ポパイ』のオリーブ役など大作にも出た。90年代以後はテレビドラマの出演が多くなり、2002年に引退。僕は初期のアルトマン作品が好きなので忘れられない女優である。
(シェリー・デュヴァル)
 小説家ではアルバニアのイスマイル・カダレが1日死去、88歳。日本では知名度が低いが、第1回ブッカー国際賞やエルサレム賞などを受けていて、ノーベル文学賞候補と言われていた。アルバニア労働党一党独裁時代には発禁とされ、弾圧を受けた。そのような不条理な体験を原体験にした作品で知られている。日本では『夢宮殿』『砕かれた四月』『死者の軍隊の将軍』などが邦訳されている。またアイルランドの作家エドナ・オブライエンが27日死去、93歳。女性を主題にした作品が評価され、日本でも『カントリー・ガール』『みどりの瞳』『八月はいじわるな月』『愛に傷ついて』などが翻訳されている。
(イスマイル・カダレ)(エドナ・オブライエン)
 アメリカの映画プロデューサー、ジョン・ランドー(5日死去、63歳)は、『タイタニック』の製作者だった。アメリカのビデオ・アートの第一人者、ビル・ヴィオラ(12日死去、73歳)は日本に滞在して禅などの影響も受けた。世界文化賞受賞。アメリカの女優シャナン・ドハーティ(13日死去、53歳)は『大草原の小さな家』の子役で活躍、その後『ビバリーヒルズ白書』のブレンダ役で人気を得た。ベトナムの最高指導者、ベトナム共産党書記長グエン・フー・チョンが19日死去した。80歳。2011年に書記長となり、15年に初の訪米、日本との関係強化を図った。国内では統制を強化し、国家主席2人、国会議長を解任している。それだけの実力者であっても、もう僕はベトナム指導者の名前を覚えていなかった。31日にハマスの最高指導者、イスマイル・ハニヤがイランで殺害された。62歳。これは「イスラエルの国家テロ」というべきだが、ここで書く対象とは異なるだろう。
(グエン・フー・チョン)
 日本ではフリーアナウンサーの押阪忍(6月29日死去、89歳)、陶造形作家で笠間に工房を構えた伊藤公象(いとう・こうしょう、6日死去、92歳)、漫才師「大瀬ゆめじ・うたじ」で活躍し、13年に解散後はピン芸人で活動した大瀬うたじ(6日死去、76歳)、浪曲師で故国本武春の母だった国本晴美(6日死去、86歳)、劇作家、演出家で劇団「少年王者館」主宰の天野天涯(7日死去、64歳)、プロゴルファーで上田桃子や古閑美保らを育てるとともに、マンガの原作者として『風の大地』などが人気となった坂田信弘(22日死去、76歳)、特定のたんぱく質分解酵素「プロテアソーム」の発見者で文化功労者、田中啓二(23日死去、75歳)、91年から1期大阪府知事を務めた中川和雄(29日死去、97歳)、政治家で衆議院議員6期、参議院議員2期、郵政相を務めた渡辺秀央(31日死去、90歳)。この人は自民党、新進党、自由党、民主党、改革クラブ(新党改革)と移った。それよりミャンマー軍部と深いつながりがあることで知られ、日本ミャンマー協会を設立し会長となった。軍事クーデター以後も関わりを持ち続け政界引退後も影響力を持っていた。
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徳田虎雄、湯浅譲二、小原乃梨子、原田奈翁雄、山田宗睦他ー2024年7月の訃報①

2024年08月07日 23時02分58秒 | 落語(講談・浪曲)
 2024年7月の訃報1回目は国内の訃報。最初は徳田虎雄。7月10日死去、86歳。医療法人徳洲会を一代にして築き、衆議院議員を4期務めた。奄美諸島の徳之島出身で、弟が緊急治療を受けられず急死したことから医師を志した。大阪大学医学部を卒業後、1975年に「命だけは平等だ」の理念を掲げて徳洲会を設立。全国に70以上の病院があり、関連施設400を誇る日本最大の医療法人に発展させた。政界を志すが医師会と対立していたため自民党に入党できず、1983年、1986年に奄美群島区から無所属で落選。当時奄美は全国唯一の「一人区」だった。1990年に初当選。93年は一人区が解消され鹿児島1区、96年からは鹿児島2区で2回当選。しかし、21世紀初頭に筋萎縮性側索硬化症 (ALS)を患い、2005年の選挙に出ず次男毅が地盤を継いだ。2012年の選挙後に徳田陣営の選挙違反事件が発覚し、家族も逮捕された。虎雄は病気のため逮捕されず、事実上その後は社会的活動を引退していた。
(徳田虎雄)
 作曲家の湯浅譲二が7月21日死去、94歳。51年に慶大医学部を退学して音楽に専念、芸術家集団「実験工房」に参加した。音楽を「音響エネルギーの運動」ととらえてスケールの大きな作品を数多く発表し世界的に知られた。現代音楽のことはよく知らないけど、朝ドラや大河ドラマの作曲も手掛けている。『藍より青く』(73)のテーマ曲「耳をすませてごらん」(歌・本田路津子)を作曲した人。また映画音楽では『薔薇の葬列』『お葬式』などの傑作を手掛けた。文化功労者。現代音楽の賞として権威がある尾高賞を5度受賞した。最初が1973年で、最後が2024年だった。まさに半世紀に及ぶ活躍だった。
(湯浅譲二)
 声優の小原乃梨子(おはら・のりこ)が7月12日に死去、88歳。ラジオドラマの子役として活動を始め、やがて洋画の吹き替えやアニメの声優として活躍した。テレビや映画で「ドラえもん」ののび太役を1979年から2005年まで担当したことで知られる。アニメでは「アルプスの少女ハイジ」のペーター、「未来少年コナン」のコナンなど。洋画ではクラウディア・カルディナーレ、ブジッド・バルドー、ジェーン・フォンダ、シャーリー・マクレーンなどを担当することが多かった。役柄に何となく共通性がある。
(小原乃梨子)
 芸能界の訃報が多かったが、漫才トリオ「かしまし娘」の次女、正司照枝が8日死去、91歳。長女歌江は今年1月に死去、三女花江は存命。賑やかな歌謡漫才で人気を得て、66年に第1回上方漫才大賞。歌手の園まりが26日死去、80歳。60年代半ばに中尾ミエ、伊東ゆかりと「三人娘」を結成して人気を得た。ソロで「愛は惜しみなく」「夢は夜ひらく」がヒットした。63年から68年まで紅白歌合戦に出場。映画『夢は夜ひらく』などに主演している。
(正司照枝)(園まり)
 俳優では浜畑賢吉が2日死去、81歳。若い頃からテレビの大河ドラマなどで活躍していたので早くから名前と顔は覚えた。しかし、この人は劇団四季で多くのミュージカルに出た人である。特に『コーラスライン』では79年以来800回主演を演じた。94年に退団後は『ラ・マンチャの男』『マイ・フェア・レディ』などに出た他、2004年に大阪芸術大学教授となり舞台芸術学科長を務めた。また中村靖日が10日死去、51歳。90年代から市川準監督の映画に出演し、2005年の内田けんじ監督『運命じゃない人』に主演して注目された。テレビでも活躍し『ゲゲゲの女房』などに出演した。また50年代、60年代に東映時代劇でお姫様役で人気があった丘さとみが4月24日に死去した。88歳。片岡千恵蔵、中村錦之助などの相手役だった。その後はテレビでも活躍した。
(浜畑賢吉)(中村靖日)(丘さとみ)
 元広島カープ監督の阿南準郎(あなん・じゅんろう)が30日死去、86歳。プロ野球の広島、近鉄でプレーし70年に引退。好守備の内野手だったが、通算本塁打34本と選手成績は大したことがない。その後近鉄コーチを経て、広島のコーチとして75年の初優勝に貢献。86年に監督となり優勝した。88年まで3年間すべてAクラスで、山本浩二監督につないだ。監督通算203勝163敗24分け。監督退任後は球団本部長などを務めた。
(阿南準郎)
 径(こみち)書房を創業した原田奈翁雄(はらだ・なおお)が6日死去、96歳。筑摩書房の伝説的編集者で、「展望」「終末から」の編集長を務めた。78年の倒産を機に退職して、80年に径書房を創業し、山代巴、上野英信らの本を出版した。ここから出た本としては、山代巴『囚われの女たち』(全10巻)、『長崎市長への7300通の手紙』、石牟礼道子『十六夜橋』、吉岡紗千子『ロックよ、静かに流れよ』などがある。原田はやがて退社して雑誌「ひとりから」を創刊したが、今も径書房は残っている。顔写真が見つからないので、著書を代わりに。忘れられない出版社だが、訃報は小さかった。
(原田奈翁雄)
 哲学者の山田宗睦(やまだ・むねむつ)が6月17日に死去していた。99歳。ここまで長寿だと、正直存在を忘れられてしまう。ある時期、「敗戦」を忘却しないためとして鶴見俊輔、安田武と三人で8月に丸刈りにすることを続けていた。それで名前を知ったのが、この人が一番知られているのは、65年のベストセラー『危険な思想家』だろう。訃報でも触れられているが、要するに60年代半ばに起こった「保守回帰」を批判し、老大家を初めとして三島由紀夫、石原慎太郎、江藤淳などを批判したのである。江藤淳などは「安全な思想家」など不要だと言い放ったらしいが。僕はその時代は知らないので読んでもいない。70年以後は古代史や神話研究の本が多く、『道の思想史』『日本神話の研究』などを著した。また「日本書紀」の翻訳も出している。
(山田宗睦)
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