尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

カタルーニャ映画「悲しみに、こんにちは」

2018年08月15日 21時17分12秒 |  〃  (新作外国映画)
 8月15日に「沖縄スパイ戦史」というドキュメンタリー映画を見に行ったところ、いっぱいそうで諦めた。いろいろと調べて、渋谷のユーロスペースでやってる「悲しみに、こんにちは」なら時間も大丈夫そうなのでそれを見たので、その感想。この映画のことを最初に知った時、今頃サガンのリメイクか? と思ってしまったのだが、よく見ると「悲しみに、」だった。この映画はスペイン映画だけど、多分「カタルーニャ映画」なんだと思う。学校の「国語」はカタラン語(カタルーニャ語)というセリフがある。僕にはセリフの言語は聞き分けられないけど、舞台はカタルーニャ。

 1993年、バルセロナ。両親を共に亡くした6歳のフリダは叔母一家に引き取られて、カタルーニャでも田舎の農村に住むことになる。そこには叔父、叔母とともに4歳の従妹アナがいる。この両親の死因は明らかにエイズで、まだ治療法もない不治の病視されて怖れられていた時代である。ただし、細かな事情は説明されない。両親のことだけでなく、大人のさまざまな事情は一切語られず、ただひたすらフリダの視点で世界を捉えている。

 だから劇映画というより、実際の子どもたちのドキュメンタリ-を見ている感じがするほどだ。まあすぐれた子ども映画はみんなそうだ。子どもはまだ自我を持たず、演技力を発揮して誰かになり切っているわけじゃない。この映画は女性監督カルラ・シモン(1986~)の長編デビュー作で、実話に基づいているという。自分の体験に基づいているとするならば、「子どもの目」で世界を語りたいというのはよく判る。大人の目で見れば、叔母も叔父も親切で分け隔てなく接しているように思う。姉を失って、その子を引き取るのも大変だ。

 でも、フリダからすれば、突然田舎に追いやられ母はいない。小さなアナは慕ってくれるが、接し方もうまく判らない。都会と違う田舎の自然の中では遊び方も違う。時々祖父母が会いに来てくれると、どうしても甘く接してしまう。洋の東西を問わず、孫には甘くなる。フリダからすると、時には厳しくもある叔父叔母には嫌われていると思い込み、夜中に幼い「家出」するシーンは心に残る。フリダ目線で進行するから、最初はよく判らないけど、だんだんフリダに感情移入するのである。悲しみに出会っても、このように生きていくのだ。

 とにかくフリダを演じるライア・アルティガスが超絶的に可愛い。アナも可愛いけど、フリダのちょっとしたしぐさが素晴らしい。かつてヴィクトル・エリセの「ミツバチのささやき」に出たアナ・トレントも素晴らしかったけど、今度のライアはもっと可愛い。もうイングリッド・バーグマン並みだ。すごい美人女優になることを期待したい。監督の目論見から、案外社会性はなくて、ひたすら子どもの世界を描き出すことに専念している。ベルリン映画祭で新人監督賞などを受賞。
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「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」

2018年08月14日 20時51分35秒 |  〃  (新作外国映画)
 世界的に大ヒットしたヴィム・ヴェンダースの音楽ドキュメンタリー映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(1999)以来、早くも20年近くが経った。その映画はアメリカのミュージシャン、ライ・クーダーがキューバで出会った老ミュージシャンたちと演奏したバンド「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」の活動を追ったものである。もともと1997年にCDアルバムが大評判となりワールドツァーも行われた。しかし、その時のメンバーも寄る年波には勝てない。今度の「アディオス」は昔の貴重な映像も使って、もはや二度と現実には聴くことのできない彼らの音楽を永遠に残すものだ。

 今度の映画は、前の映画あるいは音楽に関心がないと十分には楽しめないとは思う。でも逆に「ブエナ・ビスタ」ファンには何ともありがたい貴重な映画だ。僕も20世紀末には相当にはまった方である。「キューバの歌姫」オマーラ・ポルトゥオンドが来日した時に聞きに行ったぐらいだ。もともとはキューバ音楽のことなど何も知らず、ヴェンダースの映画だから見とくか程度の気持ちだった。けっこうのんびりしてるし、まあこんなものか程度の感想だったんだけど、同行の妻が良かったと言ってCDを買ってきた。家でずっと聞いてたらはまってしまった。

 キューバ革命(1959)直前のキューバはバティスタ政権の独裁下にあった。アメリカ資本と結託し、多くの歓楽施設が作られた50年代こそ「キューバ音楽の全盛期」だという。しかしミュージシャンたちの多くは貧しい黒人やハーフで、差別にも苦しんできた。今回の映画の中でオマーラはポツンと言う。何で世界中でこんなに受けるんだろう黒人奴隷の苦しみから生まれたものなのに。今回の映画を見ると、前の映画以上にキューバ音楽の苦難の歴史が心に刻まれる。

 キューバは60年代は「革命の聖地」だったけど、やがて「現代から取り残された秘境」めいた場所になっていた。そんなキューバでライ・クーダーが見出したのは、音楽から長年遠ざかっていた高齢ミュージシャンたちの素晴らしさだった。コンパイ・セグンド(1907~2003)はバンド参加時点ですでに90歳。ずっと葉巻を吸い続け、ある時は葉巻職人として生きてきた。それでも素晴らしい歌声を披露して聴くものを驚かせた。あるいはイブライム・フェレール(1927~2005)は昔はソロを任せられず音楽から遠ざかったのに、その素晴らしい歌声は変わらなかった。このバンドに参加して、初めてソロとして歌って世界的な人気者になった。
 (オマーラとイブライム)
 オマーラ・ポルトゥオンド(1930~)は例外的にずっと活躍してきたが、かつては女性4人組に姉とともに参加していた。当時の映像が映画に出てくるが、ソロではなかった。革命後、姉は子どもたちをフロリダに逃がそうとして、結局自分も付いていくことになった。一人になったオマーラはソロで活動するしかなくなった。もともと黒人男性と白人女性の間に生まれ、多くの苦労をしてきた。そんなオマーラたちが招かれてホワイトハウスで公演することになった。オマーラと同じハーフであるオバマ大統領の新キューバ政策によって実現したのだ。

 そのようにアメリカとキューバの関係は前回の映画から大きく変化した。しかし、その間に多くのメンバーが亡くなった。オマーラは今もなお活躍しているが、もう87歳である。そう考えると、世紀末に始まった「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」というプロジェクトもこれでオシマイか。(なおクラブ名は、戦前に大人気だった黒人専用のダンスクラブから取られている。)そう思いながら見るせいか、至福の時間を過ごした。今回はヴィム・ヴェンダースは製作総指揮に回り、監督はドキュメンタリー作家のルーシー・ウォーカー(「ヴィック・ムニーズ ごみアートの奇跡」でアカデミー賞ノミネート)が務めた。キューバの風景や街並みも懐かしい。なぜか懐かしい彼らの音楽にふさわしい。
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今につながる日本軍の精神構造

2018年08月13日 21時57分31秒 |  〃 (歴史・地理)
 「日本人兵士」「餓死した英霊たち」と2冊続けて読むと、多くの人はその無責任で身勝手な戦争指導に呆れ果てるだろう。と同時に、そのような日本軍のあり方は昨今の日本社会をみると、今も変わらず続いているのではないだろうか。歴史に学ぶことなき社会は、同じことを繰り返して衰亡していくのではないか。どうしてもそんなことを考えてしまう。

 インパール作戦大陸打通作戦などは、軍事作戦として明らかにおかしい。その詳細は先の本で読んでもらうとして、ニューギニア作戦などはマトモな地図もなしに作戦が命令された。日本軍上層の作戦を立てた人たちは、「マトモ」だったのか。「バカ」なんじゃないかとさえ思ってしまうけど、もちろん彼らは陸軍大学校を優秀な成績で卒業したエリートなのである。では彼らはアメリカやソ連などのスパイであり、わざわざ日本軍が不利になるように仕組んでいたのか。

 そんなことさえ考えたくなるが、もちろんそうではない。同じことは現代の中央官僚にも言える。財務省の福田前事務次官のセクハラ問題をみると、なぜこの人が中央官庁のトップにまで出世できたのか不思議だ。あるいは佐川前国税庁長官の理財局長当時の国会答弁や文書改ざんなどをみると、財務官僚はホントに優秀なのか、わざと野党に有利なように仕組んでいるのかなどと勘ぐってしまいたくもなる。でも、もちろんそんなことはなく、問題はむしろ彼らが「優秀」であり、「大真面目」であることにある。「優秀」の意味が間違っているのである。

原発問題=後は野となれ山となれ
 太平洋の島々では多くの戦場で日本軍兵士が取り残され餓死せざるを得なかった。米軍の火力が圧倒的で移動も早かったからではない。すでに支配権が失われていて兵器も食糧も運び込めないのに、兵士だけは無理やり送り込むことを続けたのである。
 
 このように何の対策も講ずることなく、「後は野となれ山となれ」とただ継続するのは、原発やダム等に共通している。原発を稼働させれば必ず核廃棄物が出るわけだが、その処理をどうするかを放っておいて、ただ作り続けてきた。大事故後も世論に反して原発が維持されている。
教育政策=補給無視の難題押しつけ
 特に21世紀に入ってから、何の検証もない思いつき的政策が「現場無視」で上から降りてくることが続いている。「教員免許更新制」はその代表で、実施が決まった段階ではどこで何をするのか、文科省でも確たるイメージを持っていなかった。結局は大学等で行う「講習」を教員個々が自費で受講することになったが、当初は態勢が全然整ってなかった。

 「小学校の英語教育」や「道徳の教科化」も同様で、どこかで思いつかれた政策がどんどん実施される。現場負担が増えるのに、そのための手立てをしないまま進行する。「兵站軽視」は旧軍だけではなく、日本の教育政策につきものである。専門的な英語教育を受けて来なかった小学校教員が担当して、英語力が本当に伸びるのだろうか。そういった検討はされないのである。

 極めつけは小学校の新学習指導要領である。「やるべき学習時間」がその週の学習時間を上回ってしまった。学校現場の工夫で、朝や放課後を利用したり、夏休みを減らすとか授業時間を分割すればやれるという。ほとんど「インパール作戦」化してきたというべきか。無理難題を現場に押し付けて平然としているのである。
スポーツ界のパワハラ=「精神力」神話で合理的思考を無視
 スポーツ界にはびこるパワハラ体質は、今年明るみに出た問題だけでもずいぶん多い。それぞれ問題は多少違うが、スポーツ界に非合理的な暴力体質がはびこる側面があるのは確かだろう。それらは意識しているかどうかに関わらず、戦前の旧制中学校などに現役軍人が配属され「軍事教練」が行われたことと関係が深い。

 そもそも戦前の軍隊では戦場での勝敗を左右するのは「精神力」だという現実無視の思い込みがあった。そのため兵器の研究を怠り、明治38年に開発された「三八式歩兵銃」が正式装備というありさまだった。最近五輪や世界大会などで活躍している選手たちを見ると、海外留学で大きく成長したり、海外から指導者を呼んで成功したケースが多い。それなのに、今も「最後は大和魂で頑張れ」などと時代錯誤的なことを言う指導者が後を絶たない。
責任を取らない人事=旧軍から続く無責任体質
 旧軍、特に第二次大戦中の陸軍参謀本部の人事は疑問が多い。実際に作戦を立案した人々が、その作戦が失敗しても検証もなく責任も取らない。現場で指揮することもあるが、いつの間にかまた中央に戻る。今の日本でも、そのような人事は中央官庁だけでなく、裁判所や企業などどこにでもある。政策を作った人が現場で苦労することなく、失敗しても責任を問われない。

 それでも冒頭にあげた財務省の福田氏や佐川氏は辞任しなければならなかった。しかし、これほどの問題が続けて起こった組織の長である麻生財務相は辞めないままだ。今までに数多くの「失言」を繰り返した来た麻生氏だが、副総理という立場もあり辞めさせると政権基盤を弱くするからなのか、一向に責任を問われない。今回はさすがに辞任は避けられないかと思ったが、結局辞めていない。部下には責任があるが、最高のトップは責任を問われない。そんな組織の士気がどうなるか。安倍政権は旧軍に似ているということなのかもしれないが、余りにもひどすぎる。
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藤原彰「餓死した英霊たち」を読む

2018年08月11日 22時56分25秒 |  〃 (歴史・地理)
 吉田裕「日本軍兵士」に続いて、藤原彰餓死(うえじに)した英霊たち」(ちくま学芸文庫)を読んだ。原著は2001年に青木書店から出版されて、大きな反響を呼んだ。これはさすがに当時読んだと思うが、例によって探し出せない。1100円もするけど、藤原先生の文庫本だから買ってしまうかと思った。「日本軍兵士」の抜群の読みやすさに比べると、学術書と一般書の中間ぐらいでやっぱり時間はかかる。それでも「日本軍兵士」を読んだ人は是非こちらにもチャレンジして欲しい。

 この本の内容は書名の通りである。第二次世界大戦における日本の戦没者数は約310万とされる。これは日本政府の調査に基づく公式の数となっている。このうち、軍人軍属の死者が230万外地での民間人死者が30万内地での民間人死者が50万となっている。この軍人の戦没者のほとんどは、食糧が尽きたことによる餓死や栄養失調による戦病死(事実上の餓死)だった。そのことを多くの死者が出た戦場を検討して証明した本である。その合計はおおよそ140万人に達し全体の軍人戦死者の中で6割ともなる。さらに「日本軍兵士」によれば、海没死者が35万人もいた。戦死と言っても、敵軍の銃弾によって死んだ者の方が圧倒的に少ないのである。

 ガダルカナル島(餓島と呼ばれた)、ニューギニア戦、インパール作戦、フィリピン戦線、中国戦線の大陸打通作戦…。一つ一つの戦場における悲惨な様相は今までにも多くの本が書かれてきた。それらを読むと、確かに戦争は悲惨であり、かくも大きな犠牲が出たのかと厳粛な思いにかられる。だけど、それらの戦場での死者のありようを分析し、合算して示したのは初めてだったと思う。その結果、およそ軍隊と称するには異様なまでの「餓死した兵隊」という実態が浮かび上がった。この本の結論は大きな衝撃を与えたものだ。

 もちろん敵弾で死ねばいいというわけではない。ガダルカナル戦では米軍が上陸し制空権を完全に掌握した後で、何度も部隊を送り込んでは全滅した。最初の一木支隊に始まり、数度に及ぶ十分な火器を備えた米軍に銃剣で突撃する日本軍。そもそも米軍が制空権を持つ中で、重火器や食糧を運び込むことができない。そんな軍隊が準備十分な米軍に向かって行っても何の戦果も挙げられない。最初から判るだろうに、それを一度ならまだしも何度も繰り返す。読んでいて、そのあまりにも愚なる戦争指導に誰しも腹が立って仕方ないだろう。ポートモレスビー攻略戦インパール作戦などでも繰り返される愚挙の数々を書いてると終わらない。是非本書で確認して欲しい。

 そもそも著者の藤原彰氏は当時の中国戦線の経験者だった。1922年に生まれ、府立六中(現新宿高校)を経て、陸軍士官学校に入学。1941年に卒業後、陸軍少尉として「支那駐屯歩兵第三連隊」に配属された。中国では大陸打通作戦という壮大なる愚挙に参加している。普通の中学を出て士官学校へ行ったこと自体、軍内では出世コースではなかった。幼年学校からの純粋培養組でないと出世できない仕組みの意味は後半で考察されている。敗戦後に東大史学科に入りなおして近現代史を研究した。そのような体験を持つ著者ならではの本である。
 
 第二章「何が大量死をもたらしたか」で追及されるのは、「補給無視の作戦計画」「兵站無視の作戦指導」「作戦参謀の独善指導」である。兵站(へいたん)とは、前線部隊を支援する軍事物資や食糧などの補給、兵員の移動などの総称で、英語ではロジスティックス(Logistics)。これがなければ戦かえないはずが、日本軍では前線兵士の「精神力」で勝てるとされていたから、兵站は軽視された。補給を担当する「輜重兵」(しちょうへい)などは、そもそも兵の最下等とされ差別された。

 さらに第三章「日本軍隊の特質」では「精神主義への過信」「兵士の人権」「兵站部門の軽視」「幹部教育の偏向」「降伏の禁止と玉砕の強制」が分析されている。米軍は日本軍がいたすべての島を攻略したわけではなかった。重要地点を確保したら、次の作戦に移るので飛ばされる島が出てくる。制海権が失われているから、そういう島へはもう食糧の補給ができない。サンゴ礁の島では自給もできず、降伏は禁止されているから餓死するしかなかった。

 現代史に関心がある人には知られていることだが、このような愚なる戦争指導には特定の人物が関わっている。特に田中新一服部卓四郎辻政信の作戦課コンビは、ノモンハン事件で大敗北を喫したのに、いつのまにか復権し何度も何度も馬鹿げた強硬策を押し付けて日本兵の大量死をもたらした。読んでいて、多くの人が義憤にかられるだろう。日本軍がこれほど愚劣な組織だったことを全国民が知るべきだ

 この本は読んだはずなのに、細かい中身を忘れていた。最近読んだ「武士の日本史」だって、細かいことはもう忘れているほどで、17年も前の本なら仕方ない。でも「後方を担った馬の犠牲」の箇所で読んだことを思い出した。欧米ではすでにトラック輸送が主になっていたのに、日本軍は馬による輸送に頼っていた。戦地に連れていかれた軍馬の数は100万頭にも及ぶという。そしてその馬たちは、兵と違ってただの一頭たりとも復員できなかった。これほどの馬を農村から挑発したことによる農村の疲弊も大きかった。馬の犠牲も忘れてはいけない。(なお、題名の「英霊」は明治の新興宗教「靖国神社」の特定用語だから、本来はカッコを付けるべきだ。)
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吉田裕「日本軍兵士」を読む

2018年08月10日 22時59分45秒 |  〃 (歴史・地理)
 吉田裕(よしだ・ゆたか、1954~)氏の中公新書「日本軍兵士」は2017年12月に出た本で、何でもかなり売れてるらしい。最近近現代史の本は、一応買ってもすぐには読まないことが多い。知ってることが多いし、知らないことは細かすぎる。むしろ自分の専門じゃない中世史や世界各国の歴史の方を読んでしまう。でも、ようやくこの本を読んだことで、アジア太平洋戦争の歴史は今に通じる問題だと改めて感じた。少し続けて考えてみたい。

 吉田さんの本が中公新書で出るのか。岩波新書なら「昭和天皇の終戦史」「日本の軍隊」「シリーズ日本近現代史 アジア・太平洋戦争」と3冊もある。これらの本も別にそんなに難しい本じゃないけど、今回の「日本軍兵士」を読んで、とてもわかりやすいので驚いた。史料の引用にあたって、仮名遣いはもちろんだけど、カタカナをひらがなに改めている。それだけでもずいぶん読みやすい。そして「面白い」というとちょっと違うかもしれないが、日本を考えるときの知的好奇心が刺激される。必読の本だと思う。中公から出て今までと違う読者層にも届くとよい。

 日本軍兵士の死者には戦病死や広い意味での餓死が多いことは、今までにも取り上げられてきた。この本でも当然触れられているが、今までに考えたことがない視点も多い。例えば軍内の歯科医の問題である。あるいは戦場で広がる水虫。虫歯や水虫で苦しんだ経験は多くの人にあるだろう。でも「死に至る病」ではないから、あまり戦争と関連付けて考えた人はいないだろう。

 日本軍は兵站、補給を軽視したから、食料などは現地の人々から調達することを前提にした作戦行動が多かった。それが戦争犯罪を生む原因となる。トラックも少ないから、広大な中国大陸やニューギニア、ビルマなどを徒歩で行軍する。ベストセラーになって映画化もされた火野葦平「土と兵隊」なんか、ひたすら歩きだけのような記録である。そういうことはよく言われていたわけだが、ただひたすら歩く戦場ではちゃんと食べて歯を磨くこともできない

 それがいかに戦力を落とすか。考えてみればすぐに判る。栄養も取れなくなり、体力も落ちて来る。今じゃ歯が痛ければすぐに歯医者に行けるから、何カ月も歯をちゃんと磨かずに無理を続けるとどうなるかを思いつかない。欧米の軍隊ではそれに気付いて軍隊内の歯科医制度があったが、日本軍では歯科医の整備が遅れていた。また無理な行軍を続ければ、足も蒸れて水虫になってしまう。元外務大臣の園田直は戦場でかかった水虫に戦後も長く悩まされ続けたというエピソードが出てくる。今まで気づかなかったので、虫歯や水虫を書いたけど、もちろんそれよりずっと深刻な多くの問題が出てくる。全部書いてられないので目次を紹介しておく。

 序章  アジア・太平洋戦争の長期化
 第1章 死にゆく兵士たちー絶望的抗戦期の実態Ⅰ
     1 膨大な戦病死と餓死
     2 戦局悪化のなかの戦病死と特攻
     3 自殺と戦場での「処置」
 第2章 身体から見た戦争ー絶望的抗戦期の実態Ⅱ
     1 兵士の体格・体力の低下
     2 遅れる軍の対応ー栄養不良と排除
     3 病む兵士の心ー恐怖・疲労・罪悪感
     4 被服・装備の劣悪化 
 第3章 無惨な死、その歴史的背景
     1 異常な軍事思想
     2 日本軍の根本的欠陥
     3 後発の近代国家ー資本主義の後進性
 終章  深く刻まれた「戦争の傷跡」     

 戦争末期に大量の徴兵が必要になり、そのため体格的な面だけでなく、知的なレベルでも従来は軍に取られなかった層も入ってきた。軍では軍人勅諭などの暗唱が必須だが、それもできないとなれば私的制裁の対象となりやすい。また当時は「戦争神経症」と呼ばれた心を病む兵士も多かった。「障がい者と戦争」というのは重大なテーマだ。兵隊に対しては「兵力増強剤」と呼ばれた覚醒剤、商品名ヒロポンも多く使われた。戦後社会で覚醒剤が広がるのは軍から始まるというのも大事な視点だ。軍服軍靴の驚くべき劣化という問題も大事な指摘だ。

 日本軍、あるいは日本社会に根強い人権無視が横行していたことを、特に「身体」という観点から例証している。詳しくない人には、こんなことがあったのかと衝撃も受けるだろう。この認識から正しい戦争観を身に付けないと、未来の日本の道筋を誤るだろう。著者の吉田裕氏は東大卒業後、一橋大学大学院で、近代日本の軍事史を切り開いた現代史家藤原彰氏に学んだ。その後一橋大学で長く教え、2018年に定年退職、一橋大学名誉教授。その藤原彰氏の「餓死した英霊たち」がちくま学芸文庫に入ったので、読み返してみた。次はその本について。
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2018年7月の訃報②-石坂公成、流政之、常田富士男等

2018年08月09日 22時11分54秒 | 追悼
 国際的な免疫学者である石坂公成(いしざか・きみしげ)が亡くなった。1925~2018.7.6、92歳。この人は世界で初めてアレルギー反応の仕組みを解明した人である。1962年に夫妻で渡米して共に研究を続け、1966年にアレルギーを起こす抗体「免疫グロブリンE」(IgE)の発見を夫婦両名の名で発表した。僕が石坂氏の名前を知っているのは、70年代以後毎年のように「ノーベル医学生理学賞の有力候補」と言われ続けたからだ。ノーベル賞は受賞できなかったけれど、石坂氏乃発見以後、アレルギーの治療法は大きく進み、ぜんそくの死者は大きく減ったという。花粉症や食物アレルギーの簡易検査キットもできた。人類に大きな貢献をした人だと思う。
 (石坂公成氏)
 彫刻家の流政之(ながれ・まさゆき)が死去。7月7日没、95歳。長崎生まれで、戦争中は零戦のパイロットだったという。敗戦後に独学で彫刻を学び、石を使った大きな彫刻で世界的に有名になった。世界的知名度で知られて、僕もそういう人として知った。世界貿易センタービルの前に作った「雲の砦」は、テロでも奇跡的に無傷だったが救助活動の妨げになるとして撤去された。今は北海道立近代美術館に半分の大きさで再現されているという。1975年に帰国し、香川県高松市の工房で政策を続けていた。アメリカや日本各地に多くの彫刻を残している。
  (雲の砦)
 俳優の常田富士男(ときた・ふじお)が、7月18日に死去、81歳。1975年から94年まで「まんが日本昔ばなし」の語り手を務めた。そうか、これで一番知られているのか。僕の大学時代以後だから全然見てない。僕が知ってるのは、独特の風貌で巨匠の映画監督に重用されたことだ。では何が代表作かと言われると、脇役ばかりだから挙げにくい。でも黒澤明「赤ひげ」「」、市川崑「股旅」「細雪」、今村昌平「楢山節考」「うなぎ」などの名作がある。宮崎駿「天空の城ラピュタ」でも声優をした。テレビドラマにもたくさん出ていたから、顔と名前は大体の人が知ってた。

 日本銀行第27代総裁松下康雄が7月20日に死去、92歳。大蔵次官を2年間務めた後、太陽神戸銀行に入り頭取の時に三井銀行と合併して「さくら銀行」を誕生させた。1994年に三重野康の後を受けて日銀総裁に就任。ちょうどバブル崩壊後の金融恐慌(97年の山一證券などの破たん)時の総裁だったが、1998年に大蔵省接待汚職事件で4年で辞任した。松下総裁時代の98年4月に日銀法改正で日銀の独立性が高まった。松下氏と言えば思い出すのは、旧制一高時代の友人として、2002年に小柴正俊さんがノーベル物理学賞を取った時に、上田耕一郎共産党副委員長とともに祝宴の場を設けたという話である。共産党の指導者、日銀のトップ、ノーベル賞学者がともに一高の寮にいた。そういう時代もあったのである。
 (松下康雄氏)
 民主党政権で環境相、復興担当相などを務めた松本龍が死去。7月21日、67歳。社会党から衆議院議員の当選、民主党結党に参加して計7回当選した。「部落解放の父」松本治一郎が祖父と報じられているが、間違いではないが直系ではない。治一郎は生涯結婚せず運動に全力を注ぎ、甥の英一を養子とした。松本龍はその松本英一元参議院議員の子である。2010年9月に菅直人改造内閣に環境相及び防災担当相として入閣した。「3・11」後に復興担当となり、東北視察時の言動が問題化して7月に辞任した。その印象ばかり強いけれど、一年近く環境相を務め生物多様性条約締約国会議の議長をしたりしている。辞任後に「軽度の躁状態」で入院したので、あの時の不可解な言動も病気の影響があったのかと思う。2012年の選挙で落選し次の選挙に出ず引退。

 7月の訃報で一番驚いたのは、カザフスタンのフィギュアスケート選手、デニス・テンが強盗に殺されたというニュースだ。7月19日、25歳。ソチ五輪で銅メダルを獲得した。金は羽生結弦。競技順はだいぶ早かったけど、後走の選手が続々と失敗しメダル圏内に残った。テン選手と知らずに車からミラーを盗もうとしてもみ合いになり刺したということらしい。そんな悲劇があるのか。

・建築学、住居学の早川和男が死去。日本住宅公団、建設省を経て神戸大学教授となった。「居住学」を唱え「住まいは人権」として多くの本も出している。長年教えていた神戸で1995年に震災が起き、神戸市の行政を失策と批判した。岩波新書「居住福祉」他多くの一般書もあり、反骨の学者として知られた。訃報の扱いが小さすぎると思う。
・元プロ野球選手、監督の穴吹義男が死去。7月31日没、85歳。中央大学から1955年に南海ホークスに入団。その時に各球団の獲得競争が激化し大金が動いたとされる。それが「あなた買います」という小説になり、佐田啓二主演、小林正樹監督で映画化された。1956年の開幕戦で新人としてサヨナラホームランを放った。僕はさすがにこの時代のことは知らない。僕が知っているのは、大阪にあった南海ホークスで監督をしたということだ。(南海は今のソフトバンクの前身。)
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桂歌丸と浅利慶太-2018年7月の訃報①

2018年08月08日 23時06分47秒 | 追悼
 オウム問題はまだ続くけど、毎日書くのは大変なので後回しにしようと思う。7月の訃報特集もそろそろ書かないと、忘れてしまいそう。100歳を迎えた版画家の浜田知明と脚本家の橋本忍の追悼は別に書いた。二人とも生涯の業績を振り返る回顧展の開催を望みたい。

 まず桂歌丸浅利慶太について。二人ともすごく大きな訃報だったが、僕には「功罪半ば」とは言わないが、功だけじゃなかったと思う。落語家で落語芸術協会会長桂歌丸、本名椎名巌は1936年8月14日に生まれ、2018年7月2日に亡くなった。享年81歳。2016年5月まで日本テレビの落語番組「笑点」の司会者をしていたから、多分全国民が名前と顔を知っていた。司会者になったのは2006年のことだが、なんだかもうずーっと笑点の司会者だったような気がしてくる。

 桂歌丸は、例年8月の国立演芸場中席でトリを取っていた。そこで三遊亭圓朝の長大な演目を復活させていた。結局それが落語家としての集大成的なものとなった。僕も何度か聞いているけど、面白いと言えば面白いんだけど、よく判らないと言えば判らない。圓朝そのものに脈絡がないところがあって、それを歌丸がある程度整理し、さらに演じる前に最低限の解説をしていた。そうしないと判らないし、時間の制約もあって整理が必要なのである。「真景累ヶ淵」は楽しめたが、「塩原多助一代記」は現代では少々無理かなという感じでついウトウトしてしまった。

 僕が一番記憶に残っているのは、新宿末廣亭で演じていた時にお客さんが具合が悪くなった時のことだ。落語を中断し、お客に声をかけ、裏方を呼んで外へ連れて行ってもらった。「どこまでやったっけ」などと言いつつ、「上からお客さんの健康に気を配るのも落語家の仕事なんです」などと言って、笑いと拍手を受けていた。そういう様子を見ると、落語家としてはメリハリに乏しいところがあったと思うけど、なんだかほのぼのとしてくるのである。

 でも「笑点」ばかりが落語の話題になるような、大喜利が落語だと若い人が思い込むような状況を作ったのはどうなんだろと思う。まあ「寅さん」みたいな「偉大なるマンネリ」も世の中には必要だ。でも自分が会長を務める芸協の将来を託すべき春風亭昇太を「笑点」メンバーにして、次の司会者にしたのはどうなんだろう。なんだか落語界全体にとってもったいなかったような気もするし、いや昇太の知名度を全国区にしたのは芸協にとってベストだったような気もする。でもテレビで見る昇太は、それまで見てきた面白さの半分もないと思う。

 若い時の写真を見ると、こんなだったなあと懐かしくなる。ほぼずっと笑点メンバーだったから、先代三遊亭円楽と並んで番組のイメージを作った。少し前に映画「博多っ子純情」を見直したら歌丸さんが出てるんでビックリした。そうだったか。師匠(二度目だけど)の桂米丸がまだ時々高座に出ているというのに先に歌丸が亡くなるとは。

 浅利慶太は「演出家」で「劇団四季創設者」と報じられた。1933年3月16日~2018年7月13日、85歳。劇団四季と言えば、僕が名前を知った時にはアヌイやジロドゥなどのフランス演劇をやっている芸術的な劇団だった。あれミュージカルもやるんだと思ったのは、「ジーザス・クライスト・スーパー・スター」をロックミュージカルとしてやったころで、調べてみると1973年で演目名が少し違った。今じゃ、落語と言えば笑点だと思ってる人と同じぐらい、観劇体験は修学旅行で見た四季のミュージカルだけという人がいるだろう。

 新劇が芸術性か社会性かはともかく、芝居で食えないのは当たり前だった。昔は映画、その後はテレビで売れない限り、アルバイトで食いつなぐしかなかった。そんなところに「株式会社」としての劇団を成立させ、全国各地に専用の劇場を持ち、何年もロングランするという演劇モデルを成功させた。これが功績でなくて何だという感じもするけど、僕は正直言ってあまり関心がなかった。売れてるものも大事だが、本当にすごいことをやってる演劇や映画がそんなにヒットするのか。

 「李香蘭」は満州映画協会の大人気女優、戦後は日米で活躍し参議院議員になった山口淑子の数奇なる人生をミュージカル化したものである。「戦争を語り継ぐ」ことを掲げ、中国でも公演も行った。ということで、歴史教員である僕もこれは見に行った。確かにこういうものも大事だとは思うけど、正直言って期待外れだったなと思う。知ってる話、誰でも受け入れ可能なストーリイなんじゃないか。そんな感じを受けたのである。いや、知らないと言われれば、そういう人もいるわけだから、それでいいと思う。でもオリジナルのミュージカルも作ったのに、誰もが知るような有名な歌は生まれなかった。

 つまり「演出家」であり「経営者」として成功したけど、それが僕の見たい演劇ではないと思ってきた。浅利慶太は中曽根=レーガン会談を「演出」したり、長野冬季五輪の開会式を「演出」した。つまり、演出家というのはそのような「国家的儀式」に関わるものという意味を包含していたのである。「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根内閣は、21世紀の小泉内閣、安倍内閣の「先駆者」である。今の日本の悪いところは中曽根時代にさかのぼることが多い。そんな総理と「お友だち」だった演劇人を僕がほとんど見てないのは当然というべきか。
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オカルトと神秘体験-オウム事件考④

2018年08月07日 23時21分57秒 | 社会(世の中の出来事)
 オウム真理教を生み出した時代とはどんなものだったか。それを「オカルト」と「神秘体験」という視点から考えてみたい。オウム真理教に入信した人には、オウム真理教の「神秘体験」を語る人が多かったと思う。70年代後半から80年代にかけては、世の中でオカルトブームが起こったり、「精神世界」への関心が強かった。今振り返って、そのことをどう考えればいいのだろうか。

 60年代末から70年代初めは、世界的に「政治の季節」だった。日本でも若い世代が「革命」をめざして街頭に出て行った。デモが過激化し機動隊と衝突するのは日常の風景だった。それがあっという間にしぼんでしまう。僕の印象では連合赤軍の「山岳ベース事件」(多くの同志を「総括」と称して殺害した)の衝撃が大きかった。また「革マル派」と「中核派」の「内ゲバ」(という名の殺し合い)が続いていたことも大きい。その時代の冷え冷えとした空気はよく覚えている。

 60年代の革命運動は観念的な「言語重視」で「身体性軽視」の傾向が強かった。だから運動がどんどん過激化すると、多くのメンバーがついていけなくなる。革命の季節が去ってみると、自分たちが社会の現実を何も判ってなかったと気づく。「頭」で理解しようとしていただけだったと感じる。だから70年代中ごろから、「身体性」や「精神性」に関心が高まるのは当然だった。柳田国男の民俗学に関心が持ったり、有機農業を始めたり、「第三世界」に関心を寄せたり、ヨガや太極拳を極めたり…。僕の身近なところでもあった80年代の心象風景だ。

 そんな中に「オカルトブーム」や「新宗教」も地続きに存在していたと思う。「オカルトブーム」は近代史の中で時々起きたが、この時は「ユリ・ゲラー」なる「超能力者」がテレビで人気になったり、「ノストラダムスの大予言」を本気で信じて1999年で世界は滅びると思い込んだりした。今になってみると、テレビ番組で「超能力でスプーンを曲げる」実演をやったりしたのは信じられない。今なら放送倫理上問題ではないのかと言われるだろう。今じゃ、多くのスプーン曲げ少年も「トリック」だったとされるている。でもその頃はマトモに信じた子どもたちが翌日の教室で話題にしたりした。

 今思えば、「超能力があるか、ないか」を議論しても意味がなかった。スプーンを念力で曲げても、世界は変わらない。だから「念力」があったとしても、スプーンを曲げる程度にしか働かない弱い力だと言えばよかった。本当に超能力があるならば、暴走する自動車を停めるぐらいできないと。麻原彰晃の名前を初めて聞いたのは、多分80年代後半に「空中浮遊」ができるという話だったと思う。奇跡だと思った人もいたらしいが、人間が空中に浮くわけがない。だから、この写真もトリックでなければ、座禅でいう「結跏趺坐」、ヨガでいう「アーサナ」(蓮華坐)の修行をしていて、身体が揺れ動く運動が起こったのだろう。つまり野口整体でいう「活元運動」だと当時思った。
 (画像検索で出てきた空中浮遊)
 僕も若いころは「身体の解放」に関心があった。野口体操(野口整体ではない)には2年ぐらい夫婦で行った。皆で太極拳をやったり、演出家の竹内敏晴さんのレッスンもした。田中泯の主宰していた身体気象研究所に行ったことも確かあった。だから「活元」という身体の自動運動という概念を知っていた。(僕は観念や言語の支配力が強いからか、あまり活元が出ないけど。)

 70年代以後のもう一つのブームは「新宗教」だった。オウム以前に一番問題化していたのは、「統一協会」(世界基督教統一神霊協会)だ。霊感商法が問題化していたが、1992年には信者どうしの「合同結婚式」に桜田淳子が参加して話題となった。(桜田淳子は、森昌子、山口百恵とともに70年代に「中三トリオ」と言われ人気を集めた。)「カルト宗教」「マインド・コントロール」「脱洗脳」などの言葉は、オウム事件以前に統一協会に関して使われていた。統一協会の教祖は韓国人の文鮮明で、勝共連合という反共組織と同根で、自民党右派の政治家と深いつながりがあった。

 あるいは仏教の法華系新宗教「霊友会」はその名も「いんなあとりっぷ」と題する雑誌を大量に発行し、有名人が多く寄稿して若い世代にも読まれていた。石原慎太郎と深いつながりがあった。キリスト教系の「エホバの証人」も輸血拒否などで問題化していたし、ヒンドゥー教系の「ハレ・クリシュナ」は独特の原色の衣装でパンフを配布していた。だから、オウム真理教だけが特に怪しい存在ではなかった。いかがわしい、うさん臭い宗教は山のようにあったし、今もある。

 だが特に「高度成長からバブル経済とその破綻」の時代には「神秘体験」や「奇跡」のようなものを求める心があったのではないか。それらの宗教の多くは「陰謀論」や「反共意識」を強く持っていた。オウム真理教や統一協会もそうだが、当時の「生長の家」メンバーは、今の日本会議の主要メンバーだ。オウムとほぼ同時に出発した「幸福の科学」(1986年結成)が作った「幸福実現党」も極右的な主張を掲げている。

 オウム事件後に「身体性の解放」をめざす試みが消えてしまった時に、「陰謀論」にまみれた精神の荒野が出現した。その理由はオウム真理教の「違法」な面だけが摘発され、「陰謀論的世界観」の方は残ったからだろう。今は「身体性」という課題自体が見えなくなった。皆が一人ひとり孤立化してしまう。あるいは高いお金をかけて習うものとしてのヨガになった。どうすればいいのかは判らないけど、もう少しこの問題を続ける。
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オウム真理教が選挙に出たころ-オウム事件考③

2018年08月06日 22時48分44秒 | 社会(世の中の出来事)
 オウム真理教に関するさまざまの問題を頑張って書いてしまおうと思う。いや、また中断するかもしれない。猛暑で脳内も溶けかかっている気がするし。でも、当時のことを知らない人が多くなってきて、改めて書いておく意味があると思ったのである。

 オウム真理教は1989年に坂本弁護士一家殺害事件を起こしていたが、そのことは1995年までは「噂」でしかなかった。1990年にオウム真理教の面々は「真理党」を結成して衆議院選挙に立候補した。今思えば「殺人集団」が選挙に出ていたわけだ。この時の政局は、前年の1989年7月の参院選で土井たか子委員長の社会党が躍進し与野党が逆転した。1990年2月18日の衆院選では自民党が過半数を取れるかが焦点だった。(前回1986年衆参同日選の300議席超からは減ったけど、自民党が275議席を獲得して政権を維持した。海部俊樹内閣。)

 そんな政治情勢の中で、「真理党」は惨敗する。当然だろう。何の政治基盤もなく、突然選挙に出て勝てるわけがない。確かに創価学会を支持基盤にした公明党もあったわけだが、教団の勢力が全然違う。それに公明党はまずは地方選挙から出発し、国政には参議院から進出した。もともと創価学会は在家信者の集まりだから、地方選挙に出る意味がある。一方、「出家」信者ばかりのオウム真理教は地域に基盤がなかった。そこで「ショーコー、ショーコー」などと歌い踊る奇妙な選挙運動を展開した。検索したら写真が出てきたので以下に。

 この選挙活動を見たと思う。テレビで見ただけかなとも思ったけど、1990年にはテレビを持たない暮らしをしていた。だから、きっとどこかで遭遇したこともあったのだろう。当時自分の選挙区では誰か出ていたのかと思って調べてみた。当時はよく「中選挙区」と言われる時代だったが、長年住んでいた東京10区では新実智光が出ていて、たった205票だった。いくら複数当選できる制度だったとしても、同時に岐部哲也も出て139票だった。と調べたところで、その時は千葉だったと思いだした。住んでいた市川市は千葉4区で、何とこっちには遠藤誠一が出て、508票だった。

 教祖の麻原彰晃はどこに出ていたのかと言えば、旧東京4区である。自治体で言えば、渋谷区、中野区、杉並区。ここでは東京ということで候補も乱立し、ビリではなかった。1783票取った。一応の知名度はあり、どこにでも面白がって入れる人がいるということだろう。トップは自民党の粕谷茂で78,114票。続いてこのとき無所属で立候補した石原伸晃が73,939票。さらに自民の高橋一郎、社会党推薦の無所属・外口玉子、社会党の沖田正人、ここまでが当選。

 次点は共産党の松本善明で61,311票。その次が公明党の大久保直彦で、58,863票。二人とも全国的な知名度がある政治家だったが、自社の争いに沈んだ。松本は次回の選挙でカムバックし、大久保はその前に92年の参院選で当選した。続いて、社会民主連合の岩附茂、29,333票。進歩党の田中良、11,508票。現在の杉並区長である。スポーツ平和党の細木久慶、4,830票。日高達夫、藤原和秀、そして麻原彰晃。まだ下に4人いる。昔はずいぶん出ていたものだ。

 しかし、それは麻原だけのことで、東京5区で出た上祐史浩は310票。東京8区で出た村井秀夫はたった72票。神奈川3区で出た中川智正は1,445票を取っているが、ダントツでビリだった。全部を調べたわけじゃないけど、首都圏を中心に立候補したんだろう。そしてそのほとんど、麻原以外はもう圧倒的に引き離されて最下位である。せめて麻原ぐらいはもう少し取るかと思っていたんだろうが、選挙はそう甘いものじゃない。というか、立候補してるということは知られていたが、選挙運動を見て異様に思った人が多いんだと思う

 選挙に行く人はそれなりの支持政党、あるいは支持をお願いされた候補者を持っているわけだから、訳の分からない選挙運動をしても票は入らない。しかし、それに止まらず、「このグループはおかしい」と直感したのである。それが多くの人の実感だったと思う。だから、1995年にオウム真理教事件の大捜査が始まった時に、これは冤罪ではないかなどと誰も思わなかった。僕も思わなかった。何でもかんでも、オウムと関係あれば誰でも逮捕しちゃう「微罪逮捕」は行き過ぎだと思った。でも、やはり坂本弁護士も松本サリンもオウムだったかと思った。それは選挙で見たうさん臭さを多くの人が覚えていたということだと思う。
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やっぱり凄かった!竹本健治「涙香迷宮」

2018年08月05日 22時09分16秒 | 〃 (ミステリー)
 あんまり暑くて外出する気もなくなる。前日に続いて重い記事を書く元気を失せてしまったので、最近読んだまま書いてなかった竹本健治「涙香迷宮」のことを書いておきたい。この小説は2016年の「このミス」1位で、ミステリー界で大評判になった本である。なかなか厚くて買ってなかったんだけど、早くも講談社文庫に入ったので買ってしまった。「空前絶後の謎解き!」と帯にあるが、まったくその通りの大胆不敵な暗号ミステリーである。殺人事件の犯人当てなどを超越した「日本語」そのものと戯れ遊ぶ小説で、ミステリーファン以外の読者を待ち望んでる本だ。

 竹本健治(1954~)は実は初めて読んだ。「匣の中の失楽」や「ウロボロスの偽書」などは持っているが、ポストモダンとか奇想とか難しそうで本も分厚いからつい後回しになった。「囲碁殺人事件」「将棋殺人事件」「トランプ殺人事件」の「ゲーム三部作」でも有名だが、ゲームに関心がないので読んでない。それらの小説では、18歳で本因坊となった天才囲碁棋士・牧場智久が探偵役を務めているという。この「涙香迷宮」も同様で、今回はある意味で「連珠殺人事件」である。

 題名の「涙香」(るいこう)は、近代史に有名な黒岩涙香(1862~1920)のこと。「るいこう」で一発変換できないので困るが、今の知名度的にはそんなものか。明治の大新聞、「萬朝報」(よろずちょうほう)の創刊者である。幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三らが論説委員として日露非戦論を展開した。しかし高まる開戦論の中で、萬朝報も非戦論から開戦論に転向し、幸徳らは退社した。

 その話は日露戦争に関してよく出てくるが、黒岩涙香の本領はむしろ「萬朝報」の販促として大衆文化振興を図ったことにある。最近話題の「競技かるた」のルールを統一したり、囲碁将棋欄を作ったのもこの人。スキャンダルをどんどん報道したり、外国の翻案小説をいっぱい載せたのも涙香の手腕である。「モンテクリスト伯」を「巌窟王」、「レ・ミゼラブル」を「ああ無情」と訳したのは涙香だった。ミステリーの翻案も多く、日本の探偵小説の祖とされている。

 涙香の話で長くなっているが、黒岩涙香の実人生の方が面白いぐらいなのである。この小説に直接関係する「いろは歌」や「連珠」を盛んにしたのも涙香の仕事。連珠(れんじゅ)というのは、あの「五目並べ」のことである。ルールを統一し、連珠という偉そうな名前を付けて、囲碁将棋に匹敵する競技に育てるつもりだった。「いろは歌」というのは、「いろはにほへと」である。日本語の文字にある音を一回ずつ組み合わせて意味のある詩にまとめる。「ゐ」と「ゑ」を入れ、昔はなかった「ん」を加えると、48字になる。これは12×4だから、7音+5音の詩句を4つ並べると48になる。そういう風に整理したのが涙香だという。

 ある旅館で碁石が散らばっている中で殺されていた死体が発見される。その事件と別に、黒岩涙香の知られざる別荘跡が茨城県の北部、龍神大吊橋があるあたりで発見された。この別荘を調査しようと、牧場智久を含む数人が難路を出かけてゆく。そこで起きる謎の事件、そして近づく台風の中で孤立し、と一応お約束の展開が待っているが…。でも、この小説に限って言えば、そういう伝統的謎解きよりも涙香別荘で見つかった48首のいろは歌、そこに秘められた暗号のすごさが読みどころ。もちろん作中では涙香が作ったとされるが、実際は作者本人が作っているわけである。

 48文字を一つずつ最初の言葉にして作られたいろは歌。「ん」で始まる歌なんかどう作るのだろう。そして、その中で見つかった暗号いろは歌。それは解けるのか。どうしてもパズル的になってしまう、この手の暗号ものを超えて、日本語の言語としての豊かな可能性に目が見ひらかされる。英語でもアルファベットすべてを使った言葉遊びもあるというが、作りづらい。子音だけの文字はなく、子音と母音が結びついて文字になっているから、これほどの「いろは歌」が作れる。こういうこともできるのかという小説そのものとは別の感動があった。
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真犯人隠ぺい? 今市事件のトンデモ判決

2018年08月04日 23時31分54秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 東京高裁で8月3日に「栃木女児殺害事件」(「今市事件」)の控訴審判決があった。「原判決を破棄。被告人を無期懲役に処する。」という、不可思議極まる判決だった。控訴審が自白に寄りかかり過ぎた一審判決を破棄するのは当然だが、その後で自判して有罪にしていいのか。控訴審判決はあまりにもおかしいと考えるので、ここでまとまって書いておきたい。

 控訴審では、殺人事件で一番重大な殺害時間と殺害場所に関して重大な訴因変更があった。殺害時間が「被害者が行方不明になってから、遺体が発見されるまでのいつか」、殺害場所が「栃木県か茨城県またはその周辺」って、冗談としか思えない。これじゃ、そもそも起訴できたかどうかも怪しい。「自白」に基づいた検察の立証活動は破たんした。それならば「証拠不十分」で、「疑わしきは被告人の利益に」ではないのか。刑事裁判としておかしいのではないか。

 一審段階では長時間の取り調べ中の録画をもとに「自白に信用性がある」と認定した。自白だけで有罪にするのは憲法違反であると僕はその時に批判した。今回「自白画像で有罪認定はできない」と判断したのは、当然正しい。しかし、この一審判決に対して弁護側は反証を続けてきたわけで、その結果検察側は訴因変更に追い込まれた。ところが、裁判所が訴因変更を受け入れ、状況証拠でも有罪認定できるというんだったら、一体被告・弁護側はどういう反証を行えばいいのか。試合開始後のルール変更じゃないのか。

 「被告人が母親に送った手紙」を有罪認定に使った判断も危険である。手紙で捜査側も知らなかった「秘密の暴露」があるなら別だが、「今回、自分で引き起こした事件、本当にごめんなさい。まちがった選択をしてしまった」という内容は、どうにでも解釈できるものだ。今までにも友人や家族、同房者への手紙などが有罪証拠に使われたことが何度もある。証拠がないときに、こういうことを言うのである。1970年の「大森勧銀事件」では、知人に対して事件を起こしたのは自分だと吹聴していた人が逮捕・起訴された。(一審無期懲役、2審で無罪、最高裁で無罪確定。)

 そもそも「母親への手紙」も「一種の自白」であり、それだけでは有罪証拠にしてはいけない。自由な環境で書いたものではなく、獄中で書かされたものだ。お前が人殺しになって親が泣いてるぞ、一言お詫びの手紙を書けなどと言われるわけだ。獄中で精神的にも支配されているから、家族相手でも自由には書けない。今度の手紙も直接的には犯行には何も触れず、「まちがった選択」は「自白を強要された」とも取れる。むしろ「無罪心証」と評価出来るものではないか。

 弁護側はビニールテープに被告以外のDNA型が検出され、真犯人のものだと反証した。この鑑定に対し、裁判官は「捜査官に由来する可能性」として証拠価値を認めなかった。確かに裁判所の判断も一般論としてはあり得ることだが、この事件では違うと思う。実は捜査段階で、まさに捜査官のDNA型が検出されていた。それを犯人のものだと追いかけていたら、実はミウチのものだった。捜査中の不手際で付いてしまったのである。

 だからテープのDNAも捜査官のものと思うかもしれない。しかしその当時、証拠物に触った可能性のある捜査官のDNA型の鑑定を行ったはずだ。そうじゃないと、実際に捜査官のものだったと判らない。だから未提出の捜査官鑑定書を確認すれば、テープのDNAも捜査官のものと検察側は証明できる。それを行っていない以上、この事件に関してはテープに付いたDNAは確かに真犯人の可能性が高いと思う。テープは普通個別に包装されているから、お店の人のものということもないだろう。(なお、問題の捜査官はアリバイがあったから犯人ではない。)

 この事件に関しては多くの未提出証拠が存在する。「捜査官のDNA鑑定結果」もそうだし、「取り調べテープの全容」もある。さらに「Nシステムの設置場所」が大問題。被告人が疑われたのは、遺体遺棄時間に宇都宮から深夜に出て早朝に帰る車が確認されたからだ。ここで疑問なのは、「深夜に出ていく車」は被害者(生死は不明だが)を乗せているわけだから、絶対に警察の目に触れてはいけないのに、なぜNシステムがる大きな通りを通ったのかである。

 もちろん、そんなシステムの存在は意識しなかっただけかもしれない。しかし、それならなぜ前日の「犯行へ向かう道」がNシステムで検知されなかったのか。被害少女は「自白」ではその日に見かけたことになっている。その日の車は犯罪を犯すと知らずに出かけたのである。その日こそNシステムで捕捉できないとおかしい。だが当時のNシステムの設置場所と捜査状況は公表されていない。だから、何故犯行日のドライブが証明できないのかも判らない。

 僕も「誘拐」「死体遺棄」双方の行き帰り4回全部で被告の車が確認できたのなら、それはかなり強力な「状況証拠」になると思う。でも一番大事な犯行日の方が行きも帰りも出てこないのは不自然である。以下は想像で書くことだが、多分栃木県には他県に先がけて多くのNシステムが整備されていたと思う。「那須御用邸」があるから、警察庁も優先して整備したはずだ。そして日光も関東最大の国際的観光地であり、「旧田母沢御用邸記念公園」がある。警備の対象にはなってるはずで、日光付近には多くのNシステムがあったに決まってる。証拠を開示するべきだ。

 今市事件が起きた2005年12月1日の直前に、別の誘拐殺人事件が起こっていた。11月22日に広島市安芸区で小学校一年の女児が殺害された事件である。犯人はペルー人だった。当時から僕が思ったのは「今市事件は広島事件に刺激されたものではないか」ということだ。そしてさらに言えば、「またあの犯人なのではないか」ということである。その時点では足利事件の菅家正和さんの無実は晴らされてはいなかった。しかし、栃木・群馬県で未解決の誘拐事件が多発していることは一部で知られていた。今は清水潔「殺人犯はここにいる」で知られる。足利・太田あたりから近いとまでは言えないが、車なら1時間もかからない。

 なんだか今回の判決のあまりにも不自然な事実認定を見ると、単なる誤判というレベルを超えて、事件の真相をあえて隠すべき国家的理由があるのではないかとまで勘ぐってしまうのだ。思えば6月11日、袴田事件における東京高裁の再審破棄決定も理由付けが不自然でおかしかった。だけど、今になって考えてみると、死刑再審が6月に認められていたらどうだったろう。オウム真理教事件の再審請求中の死刑囚は執行が難しかったのではないか。東京高裁はそのような「国家的要請」に応えたのではないだろうか。東京高裁の「忖度」判決があるのではないか。
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見るだけで楽しい「日本百銘菓」

2018年08月03日 23時09分41秒 | 〃 (さまざまな本)
 NHK出版新書から出たばかりの中尾隆之「日本百銘菓」という本の紹介である。こういう本まで書いてると、他のことが書けない。オウム問題もまだ途中なんだけど、でも夜も映画を見てきて時間がない。そういう時のために是非書きたいと思っていた。題名通り、日本全国からこれぞというお菓子を選んだという本。「これらの銘菓を食べずして、日本という国は語れない-。」

 僕はこの手の本が大好きで、元祖の深田久弥「日本百名山」(ちょうど半分の50まで登ったところで止まってしまった)から始まり、温泉とか城とかいろいろと読んでる。自分じゃ知らないものがずいぶん入っていて楽しい。この本はお菓子だけあって、写真を見ているだけで楽しくなる。著者の中尾氏は1942年生まれの旅行作家で、町並み、鉄道、温泉などの紀行も手掛けてきたが、中でも全国の銘菓5000種以上を訪ね歩いてきた。その中から100銘菓を厳選したのである。 

 僕もお菓子は大好きだ。というか「辛党」でもあり、ホントの辛い物好き(昔はブラックペパーを持参していた)だし、お酒も好きだ。でも周りに酒好きがいないから、酒を買う楽しみがない。お菓子なら一緒に楽しめるからお菓子の方がよく買うわけである。日本のあちこちを旅行すると、各地においしい酒がある。それは泊った宿で飲んで、お土産はお菓子やジャムや海産物などになる。それがまた伝統の銘菓だったり、楽しい新工夫だったり…。城下町、宿場町、門前町、温泉、どこでも海山川の名産を使った銘菓がある。それが日本の豊かさだと思うが、読めばわかるが一度は途切れたお店もある。お菓子を残していくのも大変なのである。

 お土産品を重視した選定になっているから、誰もがいくつかは食べているはず。高そうな和菓子ばかりだと、ちょっと敬遠したくなる。でもこの本には、「白い恋人」も「萩の月」も「もみじまんじゅう」も「赤福」も…入ってる。「うなぎパイ」や「鳩サブレ―」や「東京ばな奈」まである。ちなみに東京人は「東京ばな奈」をほとんど食べたことがない。有名だから選んだわけじゃないことは本文を読めば判る。虎屋から羊羹じゃなくて、酒饅頭を選んでいるあたりに新味がある。

 僕の大好きなものとしては、うさぎやの「どら焼き」、帯広の六花亭「マルセイバターサンド」、松山の「一六タルト」、四万温泉の花豆の濡れ甘納豆が選ばれているので、納得感がある。最後にあえて言えば、お土産という観点を重視したことで、その場で食べる菓子、あるいは持ち運びできない生菓子が非常に少ない。わざわざ食べに行く価値のある絶品のケーキ、なんてものもあるわけだから、是非選んで欲しかった。和菓子でも「あんみつ」がないが、お土産向きじゃないからか。
 上野・うさぎやのどら焼き
 ホテルのお菓子というのも選んでいいと思う。箱根富士屋ホテルのアップルパイ赤倉観光ホテルのフルーツケーキ(これが僕のベスト)なんかは日本を代表するスイーツだと思う。フランス語だから外国から来たかと思うと、実は日本人考案の「モンブラン」なども日本を代表するお菓子じゃないか。持ち運びに不便なのは確かだが。栗という意味では長野県の小布施の栗菓子もぜひ入れて欲しかった。中津川の栗きんとんは美味しいけど、入手が難しいから。そして一度食べたいと思うのがいくつもあるが、函館の「はこだて大三坂」、松江の「カステラ羊羹」。
  (前=大三坂、後=カステラ羊羹)
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映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」

2018年08月02日 21時02分52秒 | 映画 (新作日本映画)
 「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」という映画は公開が少ないので見てない人が多いと思うけど、最近出色の青春映画だ。もともとは漫画家の押見修造がウェブマガジンに発表したマンガ作品だという。僕はそれは知らなかったけど、「吃音症」という映画ではほとんど描かれなかった障害を真っ向から描いている。「百円の恋」の足立紳による脚本を、撮影監督やミュージックビデオに携わってきた湯浅弘章監督が初めての長編商業映画として製作した。

 海辺にある高校の教室、入学式も終わってクラスメートの自己紹介が始まっている。大島志乃は朝から自己紹介の言葉を練習していたけれど、やはり自分の番になると言葉がうまく出て来ない。(入学式直後なのに出席番号順に座ってないのはおかしいし、中学時代から続いているらしいのに担任が事前に知らないようなのもおかしい。学校映画につきもののおかしさがやはりある。)授業でも答えられないし、休み時間も会話できないから、当然友だちもできない。

 そんな志乃が同じように一人でいる岡崎加代と話すようになる。加代の家にも付いていくが、加代はギターを持っていた。歌を作ったり、詩を書いているらしい。ぜひ聞かせてということになるが、ギターはいいけど歌が音痴だった。中学時代もそれでいじめられていたようだ。そんな加代は、自分がギターを弾くから志乃が歌ってという。志乃は歌なら大丈夫なのか? 初めは心配だったけど、案外歌ならちゃんと言葉が出てくるのだった。加代は「しのかよ」と名前を付けて文化祭に出ようという。夏は「路上ライブ」をしてみようという。

 そこに鈴木という浮きまくっている男子生徒も絡んできて、青春のドラマはどうなるのか。果たして文化祭には出られるの? そこらへんの展開は多少類型的だけど、ラストの文化祭シーンは感動的だ。何とか一歩を踏み出したい志乃なんだけど、一体どうなるんだろうか? 僕もいろんな生徒を見てきたけど、このような「吃音」は体験しなかった。調べてみても、原因も治療法もよく判らないようだ。そもそも「病気」なのか「障害」なのかもはっきりしない。でも志乃は家では話せているし、歌も歌えてるから、教室という空間に関わる問題である。

 最近の話かと思っていたら、誰もスマホを持ってなくて、街頭の電話を使ってる。挿入歌で見る限り、20世紀末頃の設定か。二人が歌う曲は「あの素晴しい愛をもう一度」(1971、加藤和彦・北山修)、「翼をください」(1971、赤い鳥)、「世界の終わり」(1996、thee michelle gun elephant)、「青空」(1989、THE BLUE HEARTS)の4つ。「翼をください」なんか、最初が「赤い鳥」なんて言われても今じゃ判らないかもしれない。最初の2曲は、僕には「思い出のヒット曲」だけど、作中の二人には「合唱コンクールで歌う歌」という感じだと思う。何にせよ気持ちよさそうに歌ってる。

 大島志乃役は南沙良で、誰だと思ったら三島由紀子監督「幼なわれらに生まれ」で、上の連れ子をやってた。どうも嫌な役で忘れていたけど、2002年生まれというまさに高校一年生の年齢で、難役に挑んでいる。岡崎加代役は蒔田彩珠で、読み方は「まきた・あじゅ」で「三度目の殺人」で福山雅治の娘役だったというけど覚えてない。2002年生まれ。男子の鈴木は萩原利久(りく)で、そう言えば「あゝ、荒野」他最近の映画で時々見ている。ホントの若手だけを使って、学校をうまく描いた。吃音の映画でもあるが、歌う喜びの映画でもある。東京では新宿武蔵野館のみで上映中。
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瀬々敬久監督の映画「菊とギロチン」

2018年08月01日 22時50分28秒 | 映画 (新作日本映画)
 瀬々敬久(ぜぜ・たかひさ、1960~)監督の大作「菊とギロチン」が上映されている。今年度屈指の問題作に間違いなく、早く見たかったけど、なにせ186分もあって時間が合わなかった。大正時代末期に実在したアナキスト系テロリスト集団ギロチン社」の面々が、当時実在した「女相撲」の一団と巡り合っていたら…。社会の底辺で生きる人々を奔放に描き出す渾身の作品。

 この発想は素晴らしいと思う。大正期のアナキスト群像のハチャメチャぶりはすごいし、「女相撲」というのは意表を突く。土俵の上を実力だけで生きる女たち。全くの空想ではなく、実際に1960年ぐらいまでは存在していたらしい。両者を結び付けるシナリオは面白いけど、実際の映像はどうだろうか。女性たちは生き生きとしているが、資金に困れば「リャク」(略奪)に走る中濱鐵東出昌大)、古田大次郎寛一郎)ら実在した人物たちはどうも今ひとつか。

 カメラは登場人物たちの焦燥を象徴するように激しく動き回る。同時代を生きる気分を盛り上げるが、少し動き過ぎか。結局はどっちも成功しなかった人々であり、見ていて辛い。物語としては、十勝川韓英恵)という朝鮮人、花菊木竜麻生=きりゅう・まい)という貧しい農村出身の二人が中心になる。十勝川は関東大震災時の朝鮮人虐殺をからくも逃れてきた。しかし在郷軍人の「自警団」に捕まり暴行を受けるが、ギロチン社の面々が助太刀して助け出す。

 花菊は夫の暴力を逃れてきたが、夫に連れ戻される。花菊に思いを寄せる古田が助けに行くが、体力でかなわない。そんなときに持っていた爆弾を使ってしまう。映画はこれらの出会いを、もうそうであるしかないような「底辺の連帯」として描く。今時にないような熱い志に貫かれた映画だ。ボロボロになりながらも、やっぱり相撲で生きていきたい花菊の心意気。木竜麻生という女優は要注目。「菊とギロチン」という「不敬なる題名」は、一応は「花菊とギロチン社」ということなのか。

 瀬々監督はかつて「ピンク映画の四天王」と言われた人である。その後一般映画に進出し、最近は「8年越しの花嫁」「友罪」など巧みな演出で人気映画をこなしている。代表作と言える「ヘヴンズ ストーリー」や「64」前後編など長大な映画を得意としている。今まではどっちかと言えば構成的にしっかりとした作品を作ってきたと思うが、「菊とギロチン」は流れゆくような一大叙事詩という感じ。長すぎると思うけど、こういう世界があるというのは見て欲しい。

 なお大杉栄一家虐殺事件を起こした当時の司令官、福田雅太郎は「戒厳令司令官」と言われているが、正式には「戒厳司令官」。映画にも出てくる和田久太郎に大杉の復讐で狙撃されたが未遂に終わった。(和田に関しては、、松下竜一「九さん伝」がある。)また自警団一味が十勝川に対して「天皇陛下の嫡子」と言ったように聞こえたけど、「赤子」の間違いだろう。嫡子だったら皇太子になっちゃう。この自警団の設定も史実というよりも、現代的関心から来るものに思えた。
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オウム事件の「真相究明」とは-オウム事件考②

2018年07月31日 23時36分30秒 | 社会(世の中の出来事)
 オウム真理教事件の死刑執行があり、これで「真相解明されず」といった論調で報道するマスコミもあった。それ以前に「麻原彰晃の死刑執行の前に、治療して真相を語らせるべきだ」という呼びかけもされていた。この問題をどう考えたらいいのだろうか。

 僕は「執行ではなく治療」という考え方には無理があると思っていた。だから、このブログでもそういう主張はしていない。ただ僕は麻原彰晃が「心神喪失」状態にあったのではないかという疑いは強く持っていて、だから死刑の執行ができる状態だったのか、法務省はしっかりと説明するべきだとは思っている。もともと刑事裁判の目的は「真相究明」ではなく、「刑事責任の有無」を決めることである。法務省の役割は確定判決の執行(死刑だけでなく、懲役や禁錮確定者の刑務所収容、罰金を払えないものの労役場収容など)である。しかし「裁判幻想」があって、多くの事件で「裁判で真相は究明されなかった」と報道される。もう決まり文句になっている。

 死刑囚といえど、執行されるまでは病気になったら治療されなけれなならない。しかし、刑務当局の立場からすれば、それは「ちゃんと執行するために、元気でいてもらわないといけない」ということである。治療の目的が「死刑を執行するため」というのでは、医療とは本質的に相容れないのではないか。拘置所には多くの治療が必要な死刑囚がいる。連合赤軍事件の永田洋子も、連続企業爆破事件の大道寺将司も獄中で死んだ。冤罪を訴え続けた帝銀事件の平沢貞通、牟礼事件の佐藤誠、波崎事件の富山常喜、名張事件の奥西勝、三崎事件の荒井政男、みな雪冤ならず獄中で死んだ。ざっと数えてみれば、21世紀になって29人もの死刑囚が獄中で病死している。

 このように「死に至る病」でさえ満足に治療されていない現状がある。どうせ死刑にするんだから、病死してくれた方が手間がかからない…と思っているかどうか、それはタテマエ上は適切な治療をしているとは言うが現実には怪しい。と同時に全体的に犯罪においても「高齢化」が進行しており、死刑囚も高齢になれば長年の拘置が心身をむしばむことも理解できる。長年にわたって執行されていない死刑囚もいるが、共犯者や再審請求だけでなく事実上執行できない精神状態になっている者もいるのではないか。死刑囚に限らない獄中の劣悪な処遇を見るとき、「麻原を治療する」ことよりも他にもっと緊急に医療が必要な人がいる可能性の方が高い。

 それに精神医療の現状を見れば、仮に麻原彰晃を無条件で病院に移し丁寧な医療措置を施しても、では何か語りだすという想定は難しい。袴田さんのケースを見ればそう思う。肝臓や腎臓などの病気の多くと同様に、精神の病も一生抱えていく場合の方が多いと思う。ところで「心神喪失」という刑法、刑訴法に規定される用語も、精神医学的にはなんだかよく判らない。病状名でそういう言葉は使わない。法精神医学の中の独自概念になっている。

 「自分で悪いことだと判っていて、あえて犯罪を選択した」という「近代的自我」を前提にして、だから罰するというのが近代的法制度である。だから病気で判断力が失われていた場合は、その行為の責任を問えないという論理になる。死刑執行の場合も同様で、本人が悪いことをしたと理解していなければ、死刑を執行する目的を達せられないと考えるわけだ。その論理自体を再検討する必要もあるかもしれないが、とりあえずはそういう理解になる。

 ところで、麻原彰晃はいつから心を閉ざした状態なのか。一審段階では語る気ならいくらでも語れたはずだ。弟子たちが「離反」していった後で、何を思ったのか。それは宗教学的、あるいは心理学的というか、興味深いことには違いない。麻原彰晃が語らなかったことであり、語らせたかったことでもある。だけど、ただ犯罪の立証という意味では、おおよそのことは判っているのではないか。大幹部だった村井秀夫が刺殺されたことで、幾分不明なことはある。細かなことで争いもあり、再審を申し立てている者もいた。だけど、坂本弁護士、松本サリン、地下鉄サリンの三大事件の実行犯は全部明確に判明している。事実認定としては大きな問題はないと思う。

 もちろん弟子たちがどんな気持ちで付いていったのか。そこにはいまだよく判らない面も多い。そういうところは今後も考えて行かないといけない。それと僕が思うのは、なぜ坂本弁護士事件の際に捜査が尽くされなかったかである。せめてその時点で終わっていれば、サリン製造ということにはならず、オウム側の人間も含めて死ななくてよかった人が多数いた。だけど安倍政権によると、「森友学園関係の公文書が改ざんされた動機ははっきりとは判らない」んだそうだ。麻生財務相は「それがわかりゃ苦労せん」とか言ってた。そんなのは誰でも判ると思うけど、そんなことさえ「真相究明」できない政府に、オウム事件の「真相究明」など出来るはずもない。

 よく言われていることだけ書くことにする。1985年から86年にかけて、東京都町田市に住む日本共産党国際部長緒方靖夫宅の電話が盗聴されていたという事件があった。後に判ったことは、これが神奈川県警警備部公安第一課による組織的な不法行為だった。ところで「オウム真理教被害者の会」を作っていた坂本弁護士は「横浜法律事務所」に所属していた。この事務所は自由法曹団に属していて、左派的な立場で労働問題にも取り組んでいた。盗聴事件でも神奈川県警の不法行為を厳しく指弾していた。

 横浜市磯子区に住んでいた坂本弁護士事件は、神奈川県警の担当になるが、このように県警と対立関係にある弁護士の「失踪」事件であり、だから捜査を「手抜き」したのではないか。少なくとも「逃げている」「内ゲバだ」などの風説を警察がマスコミに言っていたらしい。宗教団体がこのように残酷な犯罪を起こすとはなかなか想像できなかったかもしれないが、このような背景を考えると神奈川県警の大失態こそが一番究明されるべき問題ではないか。

 なお10年後の1999年、神奈川県警で警察官による覚せい剤使用事件が起きる。問題はそこにではなく、「隠ぺい工作」があったことである。そして「不祥事隠ぺいマニュアル」が各署に配布されていたという驚くべき真相が明るみに出た。そこでは「不祥事を出来るだけ公表しない」方針が通達されていた。この事件では空前絶後の県警本部長辞任、逮捕、有罪確定という出来事が起こった。この前後神奈川県警では多くの不祥事が頻発している。80年代からの「隠さねばならないこと」の積み重ねが組織をいかに腐らせるかがよく判る。若い人だと知らない人も多いかと思い、あえて書いておく次第。
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