尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

キューポラと洋館ー川口散歩

2019年11月10日 22時50分00秒 | 東京関東散歩
 埼玉県川口市を散歩してきた。JRがやってる「駅からハイキング」に「学生駅ハイ」という企画があって、川村学園女子大学観光文化学科の学生が企画した「川口の歴史と文化に触れる」である。川口と言えば、どうしても「キューポラのある街」を思い出す。今はもう鋳物産業の町じゃないのは知ってるけど、一度は行ってみたいと思っていた。予約不要で、9時~11時に受付。まあ無理する気はなかったけど、何しろ休暇村とムーミンでバイキング3連続。少し歩きたいと思ったわけだが、帰ってスマホを見ると、2万7千歩も歩いてたのはビックリ。

 川口は京浜東北線で埼玉県最初の駅である。東京都北区の赤羽駅の次。案外近いんだけど、降りたのは初めて。2011年に鳩ヶ谷市を合併して、人口は59万人もある。政令指定都市以外では船橋市に次いで第二位だという。駅前の商業施設が「キュポ・ラ」、駅前広場が「キュポ・ラ広場」と名前に歴史を留めている。駅前にキューポラのモニュメントがある。キューポラ(cupola)というのは、鉄を溶かして液状にする溶解炉のことで、かつては屋根から突き出る姿が川口のシンボルと言われた。戦争直後には川口が日本の三分の一を占めた。「働く歓び」という鋳物労働者の彫像もある。
  
 川口の鋳物は、国立競技場の聖火台に使われた。1958年の第3回アジア大会に使われたもので、川口鋳物の代表作と言われた。鈴木万之助・文吾親子(完成品は文吾の作)が製造。1964年の東京オリンピックでも使われた。その聖火台が駅前に展示されている。国立競技場の建て替えに伴って、東北各地を回った後、2020年春まで置かれているという。鋳物産業は70年代が最盛期で、その後激減している。しかし、残っている会社もあって、日曜休みで見られなかったが、今回のコースに「日本唯一のベーゴマ製造」の「日三鋳造所」もあった。ここで作ってはいないが、ベーゴマ資料室がある。
  
 駅前から10分ほどで南へ行って川口神社がある。川口の総鎮守であり、鋳物の神とされる金山彦命も祀っている。鳥居の裏にも鋳物工業繁栄の印が残されている。
 
 神社から少し歩いて「母子父子福祉センター」へ。ここは「旧鋳物問屋鍋平別邸」として国登録の有形文化財に指定されている。こういうところは気がつかずに通り過ぎてしまいやすい。企画地図があってこそ行く場所だ。普段は公開していない場所で、見学には事前連絡が必要。古い建物もあるらしいが、現在の姿になったのは1941年頃という。洋館に和室があり、離れも付いている。庭園も見事で、ちょっと前のお金持ちの家の風情がよく残っている。鋳物産業の繁栄を今に伝える貴重な文化財。
   
 それから川口市立文化財センターへ。施設だから写真は載せない。川口市の歴史について、とても勉強になった。実は僕の住んでる足立区と川口市は隣同士である。横どうしの交通がないから、行かないだけ。「赤山街道」という道が近くにあるんだけど、どういう意味か知らなかった。ここで初めて由来が判った。その後延々と荒川土手を歩いて工場地帯を下に見る。

 「大泉工場」というところでマルシェをやってたが、ちょっと見て通り過ぎてしまった。先ほど調べたら、この工場は実に面白いところらしくて、残念。また延々と歩き、「デイジー本店」でパンを買う。美味しそうなパンがいっぱいだが、食べ過ぎると来た目的を失う。かなり飽きてきたので地図のコースを離れてショートカット。ぶらぶら歩いていると、なかなか面白い民家が多い。最後に埼玉高速鉄道川口元郷駅近くの「旧田中家住宅」へ。ここはすごい。「君は旧田中家住宅を知っていたか?
   
 「旧田中家住宅」なんて言うと古民家みたいだけど、実は埼玉を代表する洋館建築。2018年12月に国の重要文化財に指定された。近代の重文は、未来の国宝だ。上の写真は最初の3枚が、国道122号の反対側から撮影。国道に面しているのである。外観は壮麗な洋館だが、中には和室と庭園がある。建てたのは4代目田中徳兵衛で、1923年に洋館が完成した。和館は1934年の増築。
   
 中はまあ普通の洋館建築なんだけど、なんと3階まである。東京の洋館は2階建てだ。そして3階まで開放している。周りは道路とマンションばかりだけど、庭を上から見られる。もともと田中家は農家だったが、明治初期に2代目が麦麹味噌を始めて「上田一」(じょうたいち)のブランドで全国で販売したという。4代目は埼玉味噌醸造組合長に就任、県会議員から貴族院議員になった。これが多くの客を接待する洋館を建てさせた動機なんだろう。だから自分用に和館が必要になる。
   
 最初の2枚が3階にある大広間。一番上に案内されて、客も驚いただろう。後の2枚は1階奥の和室棟。こういうところもないと、当時の日本人は暮らせない。そこから地泉回遊式の庭園が見渡せる。東京間近の国道沿いに、これほどの建築が公開されていたとは。ここの不思議な面白さは一見の価値がある。全然知らなかったけど、今日一番の収穫だった。
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滝口悠生の小説を読む

2019年11月09日 22時07分17秒 | 本 (日本文学)
 滝口悠生の小説を読んで、すごく面白かった。近年の芥川賞受賞作家だが、まず名前は「たきぐち・ゆうしょう」である。1982年10月18日生まれ。文庫本には「東京生まれ」とあるが、ウィキペディアを見るとそれは八丈島。でも一歳半で埼玉県入間市に移り、埼玉県立所沢高校卒業、早稲田大学第二文学部退学と出ている。父親は「古文教師」と不思議な表現になっているが、都立高校の国語教員かなんかなのだろうか。今までに5冊の短編集と一冊の長編「高架線」が刊行されている。

 3つの短編集が文庫化されていて、その3冊を読んだ。僕は芥川賞作品ぐらいは読んでおきたいと思っている。昔は単行本で買ってたけど、読まないうちに数年経って文庫化されたりする。読んでない本はいっぱいあるから、待ってればいいと思うようになった。最近、山下澄人しんせかい」が文庫に入って、第157回(2017年7月)の沼田真佑影裏」まで文庫に入っている。

 滝口悠生は「死んでいない者」(2015)で、154回芥川賞(2015年下半期)を受けた。本谷有希子異類婚姻譚」と同時受賞。その前回が羽田圭介スクラップ・アンド・ビルド」と又吉直樹火花」。その次が村田沙耶香コンビニ人間」だった。この5人の中では、滝口悠生が一番地味というか、知られてないんじゃないかと思う。でも読んだらすごく面白くて、他の文庫本も読んでみようと思った。

 「死んでいない者」(文春文庫)という題名は、「死んでしまって、もういない者」と「まだ死んでいなくて、生きている者」という両義的な解釈ができる。どっちなんだろうと思ったら、読んでみたら両方の意味がそのまま描かれていた。ある高齢男性が死んで、通夜と葬儀に多くの家族・知人が集まる。子ども、孫、ひ孫世代までいる。故人には子どもが5人いて、孫は10人にもなる。ある世代には、このぐらいの子どもがいたもんだった。孫の一人(女)は外国人と結婚したので、通夜の席には夫のダニエルと3歳の男児も来ている。東京から遠くない農村地帯で、葬儀会場は地区の公民館を使う。
「生きていない者」
 そんな感じで始まるので、最初は人名が判らない。家系図を載せてくれと思うが、そのうちあまり気にならなくなる。「楡家の人々」のような、家族をもとに社会と時代を描き出す本格小説じゃないのである。葬儀を舞台にして、人間の記憶を考える短編なのである。180ページほどしかないけど、読後感はすごく大きな世界に触れた感じがする。家族が多いから、登場人物も多くて視点がどんどん変わる。最初はなじめないが、そういうもんだと思って次第になれてくる。故人の妻は亡くなっているが、子どもや孫は生きている。しかし、中には「行方不明」や「引きこもり」で不在の者もいる。
(滝口悠生)
 もう高齢の大往生だから、その場に哀しみはない。それそれが人生を思い出すような場である。年長者が朝まで棺を見守ることになり、その前に皆で近くの温泉施設に行く。ダニエルも誘われていき、初めて湯あたりする。「外国人の義理の息子」という立場のダニエルの思いが語られる。

 孫の一人は中学から不登校になるが、理由が親にも判らない。いろいろあって、最後は祖父の家に行って物置で暮らしていた。時々は祖父の食事を作ったりもしていた。そのことは親は知らないけど、実は10歳離れた妹は時々携帯電話で連絡を取っていた。葬儀に来なかった兄に電話すると、通夜振る舞いの残りを持ってきてと頼まれる。年の近い世代が集まって、祖父の家に行く。特に事件も起こらないシーンの中に、自分にもそんな場面があったような気がしてくる。故人が友人たちと行っていた近くのスナックのママ(と思われる)を主人公にした「夜曲」が併載。そこで彼らは「時の流れに身をまかせ」を歌っていた。若い世代には誰の歌かも判らないけど、曲は伝わっていた。

 特に大きな「事件」が小説の中で起こるわけでもないのに、何となく自分の人生も思い起こしてしまう「死んでいない者」。それより取っつきやすいのが、一つ前の小説「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」(2015、新潮文庫)だろう。「青春小説」の枠組みで書かれている。最初はなんだか判りにくいが、どうも大学生がバイクで東北へ行って事故を起こす。無事だったけど、それが2001年。その時「房子」はアメリカへ行っていて、行方不明。この房子の正体が判った頃から、小説は俄然面白くなってくる。ちょっと普通の常識では許されないような関係である。今は2015年、東北で会った人々の消息を尋ねる。この小説は「9・11」と「3・11」が小説で重要な日付として出てくる。

(ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス)
 東北をバイクで旅する道中を描きながら、過去と現在を往復している。映画を撮ると言って大学へも行かなかった友人のこと。ずっと合っていたんだけど、結局映画は完成せず、最近は会うことも少ない。30過ぎれば、それなりの自分の生活があって、誰も若い日の友人と会う時間がなくなる。「房子」が消えた後、大学生協のバイトで知った先輩に恋してしまう。その頃ジミ・ヘンドリックスを真似てギターの練習をしていた。ある日、野外でギター練習中に先輩の彼女に会ってしまうシーンは忘れがたい。

 「ジミヘン」の前の著者2冊目の短編集が「愛と人生」(2015、講談社文庫)で、野間文芸新人賞を受けた。野間賞は芥川、三島と並ぶ新人三賞の一つで、これで新人と認められたと言える。帯に『「男はつらいよ」の世界が小説になった』と出ている。一体何なのかと思ったら、本当に寅さん世界の登場人物が自分の思いを語っているのだった。こんな不思議な小説は読んだ記憶がないような感じ。作品設定が不思議なのはいくらも読んでるが、これは誰もが知る「男はつらいよ」、つまりは脚本の山田洋次作品の二次的解釈のような世界である。
「愛と人生」
 特に不思議なのは、さくらと博の息子である満男は「満男」と書かれるのに、「美保純」が役者の名で出てくること。美保純の役名は「あけみ」で、裏の印刷屋のタコ社長の娘である。そんな人が出てたのかと思う人もいるだろうが、1984年の第33作「夜霧にむせぶ寅次郎」から1987年の第39作「寅次郎物語」まで準レギュラーで出ていたという。僕はその頃の作品はほとんど見ていないので、全然知らない。小説中に「美保純が」とか出てくるのが実におかしい。

 「寅次郎物語」にはテキ屋の父が死んで「寅次郎を訪ねろ」と言われた子どもが出てくる。その子の内面にも入っていく。「テキ屋」は「敵屋」だと思い込んでいたとか。エンタメ作品の寅さん世界を「純文学」してみましたというような趣向で、けっして読みやすい小説じゃないけど、そのフシギ感は触れてみる価値がある。「かまち」と「泥棒」という短編が併載されている。落語や山田かまちが語られる不思議な感触の作品。若い世代の作家として、今後も注目していきたい人だ。
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ムーミンバレーパーク

2019年11月08日 22時53分22秒 | 東京関東散歩
 仕事の旅行で「ムーミンバレーパーク」に行った。今まで仕事の旅行は記事に書いてないけど、出来たばかりの「ムーミンバレーパーク」には興味ある人もいるかと思う。僕の関わってきた「地域生活支援センター」の旅行だけど、それは細かく書かない。自分の旅行じゃないから、あまり写真を撮ってない。それに僕は「ムーミン」を全然知らない。読んでもいないし、(アニメを)見てもいない。どうもこれはかなり珍しいらしいけど、ホントに知らないのである。それを前提に。

 前日は「休暇村奥武蔵」に泊まった。そこから「ムーミンバレーパーク」に送ってもらえるプランがある。日帰りで行く時は、西武池袋線飯能(はんのう)駅から直通バスがたくさん出ていて、10分ぐらい。かなり混んでて、どうも似たような障害者団体の行事も多いようだった。テーマパークというと、ディズニーランドとかUSJとか駅直近だけど、ここはバスを降りてから、さらにずいぶん歩く。もともと宮沢湖という人造湖(ダム)があって、西武が動物園や遊園地をやっていた。今は別施設の温泉施設以外はすべて撤去され、ムーミンバレーパークのみになった。2019年3月に開業したばかりである。
   
 3枚目の写真のような道を歩いて、お店やレストランなどの建物を通り過ぎ、ようやく入り口。2枚目のような門が立ち並ぶ。行く途中に案内板があった。よく見ると、「ヘルシンキ 7781㎞」とある。
  
 入り口から入ってすぐ、湖に突き出て「水浴び小屋」が建っている。「物語に何度も出てくる重要な場所」なんだそうだ。中には入れないが、様子は見られる。よく晴れていて宮沢湖もキレイ。
   
 水浴び小屋から少し歩くと、メインの「ムーミン谷エリア」になる。最初の写真の左側にある大きな丸い屋根が「エンマの劇場」。1日3回ムーミンのアトラクション(横からだけど2枚目写真)がある。野外劇場なので雨の日は無理かな。多くの施設はアトラクションを見るときに入場料と別に料金が発生するが「エンマの劇場」は無料。青い塔のような建物は「ムーミン屋敷」。ここはウェブで見ると面白そうなんだけど、30分のガイドツァー(1000円)なので、今回は時間が取れなかった。
 
 見たのは「リトルミィのプレイスポット」と「海のオーケストラ号」。前者の写真は撮らなかった。上の写真の建物は「海のオーケストラ号」で、2枚目の写真は中へ入る前の部屋にあったもの。このアトラクションはなかなか面白かったけど、ちょっと水が降りすぎかな。
   
 ムーミン谷の奥に「コケムス」がある。ここは食堂や売店もあるけど、2階3階はムーミン世界に関する展示がジオラマ等でなされている。「フォトスポット満載」と出ている。家族友人で行くときは使える写真が撮れそう。最後の写真はムーミン谷のジオラマを上から撮ったもの。
   
 食事の後で戻ってさらに奥の「おさびし山エリア」へ行く。えっ、これだけという感じで、なるほど「おさびし」状態。最初が「灯台」で、次がどん詰まりにある「スナフキンのテント」。その周りに木の椅子があって、スナフキンの言葉が書いてある。拡大して読んでみてください。
  
 「休暇村奥武蔵」は西武秩父線吾野駅から送迎がある。案外大きな道のそばだが、裏に出れば高麗川が流れている。ログハウス棟もある。夜のバイキングはなかなか美味しかった。新館は屋上に出られて、朝行ったらこんな風景が見られた。温泉じゃないのが残念。
  
 行き帰りに西武の新しい特急「ラビュー」に乗った。こんな感じの窓の大きな車両。まあ飯能までじゃ景色を見る意味もほとんどないけれど。ところで、宿の夜の食事にも、ムーミンバレーパークのレストラン棟の昼のバイキングにも、「ヤンソンさんの誘惑」という料理が出ていた。食べてみると、なんだか単なるポテトグラタンみたいなんだけど、トーベ・ヤンソンさんに関係するの? と帰ってから妻に話したら、そういえばカツ代さんの本に出てたかもという。小林カツ代さんの「じゃがいも大好き」に出てるじゃないか。これはムーミンとはなんの関係もなく、スウェーデンでよく食べられていた料理だそうだ。基本は「アンチョビとジャガイモのキャセロール」。(ウィキペディア参照。)
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金田正一、上田薫等ー2019年10月の訃報③

2019年11月06日 23時23分22秒 | 追悼
 日本プロ野球史上、最高レベルの投手だった金田正一(かねだ・まさいち)が死去した。1933年8月1日~2019年10月6日、86歳。破格の記録ホルダーで、勝利数が400勝というのは、今では考えられない数だが、同時に298敗という最多敗戦投手という記録もある。どちらも2位は米田哲也で、350勝285敗。通算奪三振4490という記録も持つ。あまりにもすごい記録で、誰も抜くことが出来ないだろう。その他投手としてのいくつもの記録を持つが、完全試合1回(1957年8月21日)、ノーヒットノーラン1回(1951年9月5日、18歳35日という最年少記録)も達成していてどっちも1対0の試合だった。

 どこのチームにいたかというと、国鉄スワローズである。国鉄が直接持ってはいけなかったようで、一応外郭団体が親会社だった。2リーグ制になって、国鉄のノンプロ選手がどんどん引き抜かれるので、それなら自分で球団を持とうということだったらしい。1949年から1964年までが国鉄で、その後産経新聞が所有し(一時はサンケイ・アトムズといった)、1970年からヤクルトが親会社となって1975年に名前をスワローズに戻した。金田は高校3年生だった1950年に、夏の甲子園予選敗退後に退学して、プロに入団した。この入団経緯も空前絶後だろう。その年は8勝12敗。

 その翌年の1951年に22勝して、以来1964年まで14年連続で20勝以上している。それなのに、その間最多勝利は3回しかなかった。1955年など29勝もしているのに。じゃあ誰が最多勝利かというと、巨人の大友工、広島の長谷川良平という投手が30勝しているのだった。時代が違うと言えばそれまでだが、よくそんなことがあったものだ。僕は今データを調べて書いている。自分の誕生前後のことは記憶にない。だけど沢村栄治スタルヒンなどと違って、後の金田はテレビで何度も見ている。そして国鉄は弱小で金田がいくら勝っても、1961年の3位が最高で、後はBクラスなのだった。

 やはり野球選手としては優勝がしたいだろう。金田は1964年末に巨人へ移籍した。1965年から1969年まで5年間所属して、45勝している。僕は小学生ながら、なんで弱いチームを見捨てて強いチームに行くんだと義憤を感じた。相撲でも優勝を重ねる大鵬が好きじゃなく、ちょっと弱い方のファンだった。しかし、「国鉄」は翌年から「サンケイスワローズ」になる。経営委譲をめぐる産経のやり方を見て移籍したとウィキペディアには出ている。自分の思いは間違っていたのかも。

 引退後は1973年~79年、1990年~91年にロッテの監督を務め、1974年に日本一となった。いろいろと話題を呼ぶ言動が多く、引退後も有名人だった。マスコミは全く触れてないけど、誰もが知るように、元々「朝鮮人」で、後に日本の国籍を取得した。「在日韓国人」とウィキペディアには書いてあるが、日韓国交樹立は1965年なんだから、国鉄で活躍していたときは「朝鮮籍」である。(「朝鮮籍」というのは、旧植民地出身者の日本国籍を勅令で奪ったあとの「記号」である。)「在日」という表現もずっと後で生まれたもので、当時はただ「朝鮮人」と呼んだ。大人たちは差別的なイメージもあっただろうが、僕たちは張本勲金田を見て朝鮮人はすごいなと思っていた。なお、実弟で東映、ロッテ、広島で活躍した投手、金田留広はほぼ一年前の2018年10月2日に死去している。

文化人類学者原ひろ子が死去。10月7日没、85歳。「極北のインディアン」「ヘヤー・インディアンとその世界」などで知られている。カナダ北部の先住民を主な研究対象にしていた。それらの見地をもとに、後にはジェンダー研究を中心として家族や育児について多くの発言をした。
・元衆院議員の長谷百合子が死去。10月13日没、72歳。学生運動に参加し、お茶の水女子大を中退。その後に新宿ゴールデン街でバーを開き、評論活動も行った。その経歴が注目され1989年の衆院選に社会党から立候補、土井たか子委員長時代の「マドンナブーム」に乗って当選した。結局、一回務めただけに終わったが。「ベレー帽」で有名で、国会内でも着用を求めてもめたことがある。
 (前=原ひろ子、後=長谷百合子)
ジンジャー・ベイカー、6日没、80歳。「クリーム」のドラマー
森川万智子、6日没、72歳。フリーライターで韓国人元慰安婦、文玉珠さんの聞き書きをまとめた。
吉川貴久、12日没、83歳。ローマ、東京五輪で2大会続けて射撃で銅メダルを獲得。
高木護、16日没、92歳。詩人。「放浪の詩人」として知られ「野垂れ死に考」「人夫考」など。
吾妻ひでお、13日没、69歳。漫画家、「不条理日記」「失踪日記」など。
大野玄妙、25日没、71歳。法隆寺第129世住職。
吉田博美、26日没、70歳。自民党前参議院幹事長。今年7月の参院選に立候補せず引退した。
松沢哲成、9月22日没、79歳。日本近現代思想史、東京女子大名誉教授。
福岡翼、4月20日没、79歳。芸能リポーターだが、僕には映画評論家の印象が強かった。

 さて、写真が見当たらないのだが、最後に上田薫氏の訃報を書いておきたい。10月1日没、99歳。教育学者で、都留文科大元学長を1984年から1990年まで務めた。上田薫著作集全15巻、上田薫社会科著作集全5巻がある。戦後の社会科教育、道徳教育などの分野で教育哲学を論じた。

 元都留文科大学長と報道されるのは当然だが、その前は立教大学、さらにその前は東京教育大学に勤務していた。僕は上田薫先生の講義を大学時代に受講している。先月来、僕が受講した先生方の訃報が続き、僕はかなりショックだ。何で取ったかというと、僕の興味関心の分野だったからでもあるけれど、それ以上に僕の父親の旧制武蔵中学時代の同級生なのである。同級生と言っても、上田氏の方が少し年上である。そのことを聞いていたので、一度受けてみたいと思っていた。正直内容は覚えてないんだけど、それは違和感を持つような内容じゃなかったと言うことなんだろう。

 なんで東京教育大から立教へ移ったかというと、筑波大への改組に反対したからである。「筑波闘争」なんて言っても、もう覚えている人は少ないだろう。僕は家永三郎氏の「東京教育大学文学部」(1978)という本を読んで、上田先生が反対派だったと知った。この本はどこかで再刊して欲しい本だ。筑波大というのは、単なる移転ではなく、「教授会自治」をなくして「学長独裁」に道を開くものだった。自然科学系のノーベル賞受賞者が出るたびに「昭和の遺産だ」という声が出る。つまり、それは大学のあり方が「筑波化」されていった結果であり、自民党教育行政のもくろみ通りになってきたわけだ。
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山谷初男、川又昂、西岡善信-2019年10月の訃報②

2019年11月05日 22時43分41秒 | 追悼
 八千草薫さんや和田誠さんの他にも、映画関係者の訃報があったのでまとめて書いておきたい。まず、俳優の山谷初男(やまたに・はつお)。10月31日没、85歳。秋田の角館出身で、実家は旅館「やまや」をやっている。元は舞台俳優だが、60年代末から若松プロや日活ロマンポルノなどにものすごくたくさん出ていた。だから、そういう「異能」の俳優のようなイメージがあるんだけど、訃報ではテレビで知られた人のように出ていて、そんなにテレビに出てたんだと思った。

 蜷川幸雄演出の舞台などにも多数出ているから、もしかしたらナマで見てるのかもしれないが覚えてない。出演映画を見ても、「赫い髪の女」「ツィゴイネルワイゼン」「火宅の人」など、僕が好きで何度も見てる映画がいっぱいあるけど、山谷初男がどんな役だったかよく思い出せない。だからこそ、俳優二人だけの「異常性愛」映画「胎児が密猟する時」(1966、若松孝二監督」が思い出される。何しろ役名が丸木戸定男というんだからすごい。林美雄がやってたラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」によく出てきて歌っていたような気がする。若い頃よく見た映画を思い出す俳優。

 映画の技術系スタッフはあまり注目されないが、かつての日本映画を支えた二人の人物が亡くなった。まず、撮影監督川又昂(かわまた・たかし)、10月5日没、93歳。1945年に松竹に入社して、戦後の小津作品では助手を務めている。「晩春」「麦秋」「東京物語」などで、1958年の「彼岸花」まで続いている。(撮影監督は厚田雄春。)1959年に昇格して、主に野村芳太郎監督と大島渚監督の映画を担当した。大島の「青春残酷物語」「太陽の墓場」「日本の夜と霧」をすべて撮影した。「日本の夜と霧」はともかく、「青春残酷物語」の成功は撮影にも負っている。
(川又昂)
 野村監督は清張原作の大作で知られるが、60年代を通して様々な娯楽映画を量産していた。ラブコメでもミステリーでも何でもござれで、それらの映画を川又の撮影が支えている。「ゼロの焦点」「左ききの狙撃者・東京湾」「拝啓天皇陛下様」などは撮影の功績が大きい。そして「砂の器」「八つ墓村」「鬼畜」などの代表作を撮る。そして最高の達成は、モノクロで撮った今村昌平の「黒い雨」となる。川又昂が見つめた戦後社会を追うと、それが日本の戦後史に重なる。そのような重要な映画人だった。

 西岡善信は主に大映映画美術を担当した人である。10月11日没、97歳。撮影以上に美術に注目して映画を見る人は少ないだろう。でも時代劇などで壮大なセットを作り上げるのは美術監督なのである。マスコミの訃報でまず「地獄門」と出ている。カンヌ映画祭グランプリを受賞した時代劇だが、その美術は伊藤熹朔である。まだ助手だったのかと思う。しかし、「炎上」(「金閣寺」の映画化、1958年)では西岡の名前になっている。若尾文子主演の「越前竹人形」や「華岡青洲の妻」なども担当した。忘れがたい映像世界が西岡の作り上げたものだ。
(西岡善信)
 それらの業績は大きいが、この人の最高の仕事はそこではない。市川崑や増村保造と組んで素晴らしい仕事を続けてきた大映という会社が1971年に倒産してしまったのだ。その時に西岡が社長となって株式会社「映像京都」を作って、大映の優れた技術スタッフが四散しないようにしたのである。1972年の市川崑監督のテレビ映画「木枯らし紋次郎」に始まり、70年代以後のテレビ時代劇の多くがここで撮影された。そして「鬼龍院花子の生涯」「陽暉楼」「利休」「忠臣蔵四谷怪談」などの壮大なセットを西岡が作り上げた。映画の成功に西岡の美術が大きく貢献したのは間違いない。
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八千草薫と緒方貞子ー2019年10月の訃報①

2019年11月04日 23時12分27秒 | 追悼
 2019年10月は重要な訃報が多かった。月末になって、八千草薫緒方貞子の逝去が伝えられた。どちらも特別に一回書いてもいいかとも思ったけど、もうすぐ月が変わるからまとめて書けばいいかなと思った。

 二人の生没年を書いてみると、以下のようになる。
 八千草薫 1931.1.6~2019.10.24 88歳
 緒方貞子 1927.9.16~2019.10.22 92歳
 二人には特に関連したところはないように思えるが、どちらもほぼ同じ時代を生きて人生の終わり近くまで活躍を続けた。訃報が伝えられた時も、非常に大きく報道された。マスコミで報じられたときには、葬儀は近親者で営まれていた。(最近はそういうことが多い。)この二人の一番大きな共通性は「身長」かもしれない。二人とも150㎝強で、今では小柄な印象がする。しかし、かつての日本女性はほとんど同じぐらいで、心身ともに頑丈なことに誇りを持っていた。
(八千草薫)
 八千草薫の話は多分一度聞いてると思う。どこだったか忘れてしまったけど。その時の印象として、年齢を感じさせない美人だったこととすごく小柄だなと思ったことを覚えている。元は宝塚女優で、第34期生になる。これは1946年入学、47年卒業で、戦後初の入学世代になる。同期に淀かほる、35期に寿美花代、36期に有馬稲子がいた。宝塚では1952年に「源氏物語」の若紫で人気を得たとウィキペディアにある。在籍中から映画に出ていて、「宮本武蔵」や「蝶々夫人」で人気を得た。
(若い頃の八千草薫)
 「宮本武蔵」(1954、稲垣浩監督)は米国アカデミー賞の外国語映画賞を受けた名作で、当時大ヒットした。内田吐夢監督の宮本武蔵5部作が作られ、それ以前の稲垣版が忘れられている。この映画で「お通」を演じた八千草薫の可憐さはちょっと忘れがたい。イタリアで撮った「蝶々夫人」も見た記憶があるが、こちらも八千草薫が素晴らしい。宝塚だから東宝でスターになったのは当然に思えるけど、他社と契約した人の方が多い。女性映画が少ない東宝は不利だったかもしれないが、1957年に19歳年上の谷口千吉監督と結婚したのは東宝だったから。そして2007年の夫の死まで添い遂げた。

 その後、映画、舞台、テレビで長く活躍を続けた。テレビの「岸辺のアルバム」(1977)が有名だが、僕は見てなかったから判らない。初期の映画では「ガス人間第一号」がいいなと思う。中期では寺山修司の「田園に死す」、晩年は「ディア・ドクター」。どうしても「お姫様」的な役柄を求められ続けて、晩年になってようやく「素」で演じるような役がオファーされた感じだ。だから21世紀になって、多くの演技賞を受けることになった。大阪出身、父が早く死んで恵まれない環境で、自分の才能で生き抜いた。

 緒方貞子は、戦前の首相犬養毅のひ孫とよく書かれる。その通りだけど、旧姓は中村である。犬養の娘が犬養内閣の外相を務めた芳沢謙吉と結婚し、さらにその娘が外交官中村豊一と結婚した。中村はほとんど知られていないが、親に付いて貞子も米国や中国で小学5年生まで過ごした。つまり「帰国子女」である。普通の家庭とは違うが、爵位を持つような特権階級ではなく、だから学問で身を立てたわけである。女性として外国の大学で博士課程まで修了したのは、50年代初期には珍しい。
(緒方貞子)
 緒方性を名乗るのは、日銀理事等を歴任した緒方四十郎と結婚したから。この人は緒方竹虎の三男である。緒方竹虎といっても、もはや誰ですかという感じだろうが、戦前は朝日新聞主筆、戦中戦後に政治家として活躍した。吉田茂内閣総辞職後、自由党総裁の地位にあったから、「保守合同」で自由民主党が出来たときに総裁の最有力候補だった。1956年1月28日に急死しなかったら、50年代後半に首相になっていた可能性は非常に大きいだろう。(その場合、岸信介内閣はなかったかもしれない。)緒方竹虎が首相になっていたら、「嫁」の貞子の人生も変わっていたかもしれない。

 緒方貞子は国連難民高等弁務官を務めた印象ばかり強いけれど、もともとの政治学者としての業績が忘れられている。国際基督教大学に勤務し学者として終わるはずのところ、1976年に国連公使となって、国連との関わりが生まれた。その後のことはよく知られているが、日本が「大国」として国連への関与を求められるとき、女性としていくつもの人道問題に関わることになった。それは何故か、僕はよく知らない。クリスチャンであること曾祖父が軍部クーデタで殺害されたことと関わっているのかもしれない。母の従姉妹である犬養道子も似たような人生を歩んでいる。どこか共通する文化的環境があったんだと思う。

 僕は緒方貞子さんの講演などを聞いたことがない。そういうものがあったのかどうかも知らない。表記は違うものの同じ「おがた」であり、「緒形拳」の没後は一番有名な「おがた」だった。実は尾形光琳を見に行ったことがないんだけど、なんかちょっと避けてしまうんだな。犬養道子は読んでたけれど。だから立派でありつつ、限界もあったかと思うが、あまりちゃんと考えたことがない。
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清澄庭園ー東京の庭園③

2019年11月02日 23時24分55秒 | 東京関東散歩
 東京の庭園を訪ねる散歩、3回目は清澄庭園(きよすみていえん)。今までの向島百花園と旧古河庭園は、行ってから書くまでしばらく放っておいた。10月に31日あるうち、東京はなんと25日も雨が降ったという。だからあまり散歩する気になれなかった。10月下旬にようやく晴れ渡り、映画館や劇場が大好きな僕も町へ出たくなる。この地域は以前は駅から遠かったが、都営地下鉄大江戸線(2000年)、東京メトロ半蔵門線(2003年)の清澄白河駅が開業して、行きやすい地区になった。
   
 清澄庭園は上の写真で判るように、典型的な「池泉回遊式庭園」である。今は「清澄公園」として無料開放されている西側地域も、元々は同じだった。江戸時代には紀伊國屋文左衛門の屋敷だったが、大名庭園となり明治になって荒廃したという。その土地を三菱の岩崎家が買い取り、従業員慰安や接待のために整備した。一時はコンドル設計の大きな洋館もあったが、関東大震災で焼失してしまった。そして三菱が東京市に西半分を寄贈して、1932年に開園した。そのような経緯から、六義園や小石川後楽園に比べて面積も半分ぐらいだ。また国指定名勝ではなく東京都指定名勝に止まっている。   
   
 行った日は最近になく快晴で風もなく、もう水面は鏡のような感じ。この庭園はちょっと奥まった地点もあるが、ベースとしては大きな池をグルッと歩道があるだけのシンプルな構造になっている。だから写真を撮っても、同じような写真ばかりになってしまう。でも水面と松の風景が美しく、見応えがある。駅から近くて行きやすいし、僕も久しぶりに行って堪能できた。建物としては、「大正記念館」と「涼亭」がある。涼亭は池に面して張り出して美しいが、貸し出し施設のためただの客は入れない。 
   
 先の3枚の写真を拡大すれば、見えてくるのが涼亭。1909年建造で、都選定歴史的建造物。ただ1985年に全面的に改築されたという。最後の写真は大正記念館。戦災で焼失し、1953年に再建され、さらに1989年に全面改築されたという。なんで「大正記念」かというと、もとは大正天皇の葬儀に際して、参列者が並ぶ葬場殿と移築したから。どちらも集会などで借りられる。
   
 清澄白河駅A3出口を出て、徒歩3分とある。しかし信号を渡らないいけないので、もっと待つ感じ。案内表示は多いから迷うことはないだろう。上の最初が入り口。大きな通りではなく、少し入ったところに出入り口がある。最初は池が見えないが、すぐ見えてくる。後はずっと回るだけ。池は鴨がいて、冬は確かもっと多いと思う。駅からこんな近くに大きな池があるのにビックリするような場所だ。
   
 涼亭の近くに門があって、広場がある。菖蒲田があって、季節にはキレイなんじゃないか。ここに松尾芭蕉の「古池や」の句碑があった。この庭園の池を詠んだ句ではないが、実は近くに芭蕉の庵があった。少し行ったところに「芭蕉記念館」もある。案外東京の人も知らないけど、蛙が飛び込んだ古池は深川にあったのである。「奥の細道」もそこから旅立った。それを記念して句碑が建てられた。

 上に載せた写真、自分でも同じ写真を載せてるんじゃないかと心配。基本的に同じような光景が広がる庭園なのである。ただ池と空の風景は、晴れていれば気分がいい。この近くには「深川江戸資料館」など江戸情緒も残る。そもそも清澄白河の「白河」は白河藩主松平定信のことで、近くには墓も残っている。一方で東京都現代美術館もあって、近年はギャラリーがいっぱい出来てアートの街になっている。最近は「第三世代コーヒー」の聖地とも言われる。東京有数の観光スポットになりつつある地域で、芭蕉記念館などはまた別に近々散歩したいなと思っている。
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延期の力学、英語民間試験問題

2019年11月01日 23時16分17秒 |  〃 (教育行政)
 11月1日、萩生田文科相英語民間試験の導入を延期すると発表した。僕は10月29日付で「延期幻想を持つべきでない」と書いた。では、どうして見込みが違って延期が決定されたのか。以下で僕の分析を示しておきたい。まず第一は、10月31日に河井克行法相が辞任したことだ。その日発売の「週刊文春」に、7月の参院選広島選挙区で当選した河合法相の妻、河合案里陣営に選挙違反があったと報じられた。前日にウェブ版の週刊文春に報じられた時点で問題視され、翌日の朝には辞表を提出した。普通は「これからよく調査する」とか言って一週間ぐらい経ってしまうもんだ。
(延期を発表する萩生田文科相)
 この河合法相辞任がもう少し遅かったら、「すでにID申請が始まっている」というロジックで止められない可能性が高くなっていたところだ。(11月1日から民間試験のためのID申請が始まる予定になっていた。)本当にギリギリのところで、延期が決まったことになる。歴史にはこのような「偶然」が突然事態を動かすことが時々起こる。今回は民間試験の導入自体に大きな問題があり、少なくとも柴山前文科相の段階で止めているべきだった。この決定は複雑な政治的思惑が絡んでなされたもので、間違っても「われわれの声が届いた」的な幻想を持つべきではない。

 河合法相問題で国会の審議も止まってしまった。今後野党側が延期法案審議を求めてその上で英語民間試験問題がもめて混乱が広がった場合、今度は萩生田文科相の責任問題に広がってゆく。安倍政権としては「辞任三連発」だけは避けたい。そうなったら皆が「第一次安倍政権を思い出す」と言い始める。所詮は菅(官房長官)の子分である菅原一秀(経産相)や河合克之(法相)と違って、萩生田は安倍直属であり、加計問題のまさに当事者である。だからこそ文科省に送りこんだわけで、その辞任は政権を直撃し加計問題を再燃させかねない。英語民間試験なんか安倍政権にとっては二の次であり、要するに大事なのは「萩生田文科相を守る」ことなのだ。

 僕は延期を主張していたから、今の段階であっても「延期自体は強行実施するよりは良い」と考える。文科省を信じて頑張っていた学校が梯子を外されたという意見もあるが、決まったら従わざるを得ないが、そもそも文科省の教育政策を信じることが間違いだ。今までも教育行政は行き当たりばったりが続いてきて、およそまともな教育関係者なら本気で信じ込んだりしない。文部官僚の信用が地に落ちたとも言うが、それこ今後の教育には望ましいことである。

 ただ考えておくべきことは、「検定そのものは意味がある」のである。英語の「話す力」重視は今後も続いてゆく。大学へ入っても英語の勉強は続く。高校時代に英語をきちんと修得していないと、大学に入っても苦労することになる。英語に限らず、今は様々な検定が存在し、推薦入試などで有利に使える。特に英語は今までも外部検定が重視されているから、英語の諸検定に向けて頑張ることは必要なことだ。問題はその結果だけを大学の合否判定に使うことである。これは本質的に改善不可能で、制度設計そのものに無理があるのだ。

 ところで、政治家にとって「今の最大関心事」はなんだろうか。「台風被害の復旧」「日米貿易摩擦」「日韓問題」なんかではないだろう。「東京五輪」でも「憲法改正」でもないだろうと思う。じゃあ何かというと、「ポスト安倍」とその前にあると想定される「解散・総選挙」である。もう街頭ではポスターや演説が目立ち始めている。衆議院議員4年の任期がほぼ半分終わり、政局的にはいつ解散があってもおかしくない時期に入っている。野党の準備が整わないうちに不意打ちをすることが好きな安倍首相としては、本来「いま」も想定にあっただろうと思っている。

 秋には台風が相次ぎ、東日本各地に甚大な被害が生じた。しかし、それは見通せないことで、台風がほとんど来ない年もあった。もし台風がなかったとすれば、そこには「ラグビー・ワールドカップ」と「即位の礼」だけがある。ラグビーの結果は予想できないが、この日程を見たら選挙したくならないだろうか。ただし前回のように「臨時国会冒頭解散」はできない。10月4日召集だったが、そこで解散すると「即位の礼」に引っかかる。現実には9月の台風15号の千葉県の大被害で選挙の可能性が消えた。

 となると、解散・総選挙は2020年である。安倍首相の自民党総裁としての任期は、2021年9月までだ。2021年になると、任期満了色が強まり安倍政権自体も「終わり」感が出てきかねない。そこで今一番予想されているのは、2020年の東京五輪、パラリンピック終了後である。パラリンピック終了は9月6日。そこから9月末の国連総会、その頃予想される内閣改造を考えると、2017年のような10月10日公示、22日投票という日程は無理だ。2020年はオリ・パラで政治日程も後押しになる。

 となると、11月か12月の選挙が予想されてくる。そうなると、早生まれの生徒を除き、ほとんどの高校3年生に選挙権が生じているのである。まさに当事者の地方の高校3年生、その親がどういう投票行動をするだろうか。その時は棄権せず、延期を主張した野党側に一票を投じるのではないか。そして改めて萩生田発言が選挙戦に持ち出される。地方の有権者はどう判断するだろうか。地元の高校生に不利益が生じる教育政策を推し進めた政党に批判が集まるのではないか。おそらく今回の延期判断の底流には、そのような「地方選出政治家」の選挙への不安があったのではないかと思う。
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映画「楽園」、日本社会に突きつける刃

2019年10月31日 22時42分17秒 | 映画 (新作日本映画)
 吉田修一原作(「犯罪小説集」)、瀬々敬久脚本、監督の「楽園」は興行的には苦戦しているようだ。綾野剛杉咲花佐藤浩市ら出演者の知名度もあってシネコンで拡大公開されていたが、3週目からはほとんど朝か夜の上映になってしまう。1週目は興収ランキング10位に入ったが、2週目は外れている。これは早く見た方がいいかなと思って駆けつけたんだけど、なるほどこれは苦戦するかなという傑作だった。日本社会が見たくないものを突きつけてくるから、避けたくなるんだろう。

 瀬々監督は近年「犯罪」をテーマにじっくり人間を描く問題作を連発している。4時間半を超える超大作「ヘヴンズ ストーリー」や横山秀夫原作の「64」前後編などに続いて、2018年には「菊とギロチン」「友罪と2本がキネ旬ベストテンに入った。大正時代のテロリスト群像を描く「菊とギロチン」は、テロリストと交流する女相撲のバイタリティもあって見応えがあった。しかし「友罪」の方は設定上どうしても陰うつな感じが拭えず、正直どうも好きになれなかった。

 新作の「楽園」は吉田修一の短編を瀬々監督が組み合わせて脚色している。吉田修一作品はずいぶん映画化されているが、「悪人」「さよなら渓谷」「怒り」など犯罪をテーマとする重厚な映画が思い出される。今回の「楽園」は従来の映画にも増して、社会を描くという意味合いが強い。舞台になっているのは、長野県北部飯山市周辺である。そこで12年前に起こった少女行方不明事件。直前まで一緒だった少女(杉咲花)、疑われる外国出身の青年(綾野剛)、親の介護で田舎に戻って養蜂をする(佐藤浩市)らを通して、閉鎖的、排他的な「世間」に暮らす不幸があぶり出されていく。
(杉咲花)
 映画は過去と現在を巧みにつなぎ合わせ、「謎」を描いている。結局明かされないこともあるし、ここでストーリーには触れないことにする。時間軸が交差する中で、「田舎の風景」に奥深いミステリーが隠されている。「ジョーカー」も確かに暗い映画なんだけど、こっちは大ヒットしている。よく出来ているし、人に勧めたくなる要素が詰まってる。そういうことが大きいだろうが、それと同時に「ジョーカー」は迫害される側を描写していることもある。「迫害する」側は記号的な描き方を超えていない。迫害する側の内面は出て来ないから、見ていて居心地がそんなに悪くはない。
(綾野剛)
 「楽園」は迫害されるものだけでなく、迫害するものも描いている。さらにもっと言えば、迫害者はあなたであり私であると突きつけている。他人に「呪い」を掛け、他人の幸せをねたみ、出る杭を打って暮らす人々が出てくる。「自由」は自ら考えなくてはいけないから望まない。むしろ「付和雷同」で生きていたいと思う状況が描かれる。これが日本の現実であって、一地方の問題ではない。

 僕が思うに、「自ら不幸になりたいと強く望む人」ほど最強の人はない。ちょっと違った目で見れば、もっと生き生きとした暮らしが近くにあるのに、今さら自分を変えたくないばかりに「不幸」を甘受して生きる。それはおかしいと声を挙げる人を、むしろ迫害して「一緒に不幸になれ」と強制する。これが日本というシステムを変えなくてはと何十年も言われてきたのに、何も変わらなかった原因なのか。沈みゆく国とともに、一緒に沈んでいけばいいと思う人々が権力を握っている。

 そんな映画を見たくないと思うのも判る。だがテーマ的な問題を除いても、この映画は見応えがある作品になっている。特に助演俳優陣の豪華さは見逃せない。少女の祖父を演じる柄本明は特に素晴らしい。他に村上虹郎片岡礼子黒沢あすからもいい。女優陣は誰だろうという感じだったけれど。それにしても、心を閉ざしてしまった少女、紡(つむぎ)を演じた杉咲花が一番心に残る。来年は連続テレビ小説主演も決まり、ますますの活躍が期待される。撮影や照明も見事。瀬々敬久監督作品の中でも、完成度は高いと思う。2時間を超えているが、どこかで見て欲しい映画。
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旧古河庭園ー東京の庭園②

2019年10月30日 22時41分24秒 | 東京関東散歩
 東京の庭園を訪ねるミニ散歩、2回目は旧古河庭園。ここは前にも書いたけれど、それは大分前のことだ。今回は前に行ったところも順番に訪ねたい。旧古河庭園は「バラと洋館」で知られていて、東京有数の「インスタ映え」スポットとして有名だろう。山手線駒込駅から北へ15分程度。南へ行くと六義園(りくぎえん)がある。駒込駅は豊島区、六義園は文京区、旧古河庭園は北区になる。
   
 10月の東京は晴天が少なく、2回行ったんだけど曇りの日だった。建物をつい撮りたくなってしまうが、どう撮っても実物の魅力には遠い感じだ。この地はもともと明治の政治家陸奥宗光(むつ・むねみつ、日清戦争時の外相)の別宅だった。陸奥の次男潤吉が古河財閥創始者の古河市兵衛の養子となって、この地は古河家所有となる。潤吉が若くして亡くなり、遅く生まれた市兵衛の実子古河虎之助が古河財閥3代目を継いだ。この虎之助が今の洋館を作った当主である。
   
 設計したのは、かの有名なジョサイア・コンドル。1911年に竣工し、1917年(大正7年)に完成した。コンドル設計の建築は、東京には「ニコライ堂」や「旧岩崎邸」がある。いずれも壮麗な建築だが、一番美しいのは旧古河邸じゃないだろうか。洋館の中では喫茶をやっているが、けっこう高い。時間を決めて内部見学も出来るというので、今回初めて参加してみた。洋館の中に2階には和室もある。不思議な空間を見るのも面白いけど、写真禁止で1時間の解説付き800円。まあ無理に見なくてもいいかな。
   
 ここは春秋に「バラフェスティバル」があり、晩秋に紅葉の時期に催しがある。庭園に入ると、洋館とその前の洋風庭園に目を奪われてしまうんだけど、内部見学のためには正面玄関(上の写真初めの2枚)に行く必要がある。そこからグルッと裏まで回れるんだと初めて知った。横から見るとまた違った感じだ。それが上の写真の3枚目。ただし、館には近づけない。最後の写真は洋風庭園。そこではバラが何十種類も咲いている。時期が少しずつずれていて、11月でも咲いてるらしい。花の種類は面倒なので書かない。ホームページを見れば載っている。バラフェス最中はバラのシューアイスを売ってた。
  
 旧古河庭園には日本庭園もある。本館完成2年後の1919年に出来たもので、京都の有名な庭師だった小川治兵衛による。洋風庭園と合わせて国指定の名勝となっている。洋館が一番高く、そこから少し下がって洋風庭園。多摩地区から続く武蔵野台地の一番東のあたりで、明治の金持ちは高台にお屋敷を築いた。その下に日本庭園があり、池がある。台地から下がる崖の部分に湧水があり、それも東京西部によくある地形だ。その水と段差をうまく生かした庭園になっている。
   
 これから日本庭園が一番美しくなる季節を迎える。古河虎之助は関東大震災では洋館を被災者に開放したという。その後子どもを失って心境の変化もあり、ここから転居した。洋館は古河財閥の迎賓館として使われ、戦後は連合軍に接収、古河家は財産税を払うために国に物納した。そして都立庭園として整備、公開されるわけだ。昔の日本映画を見ると、時々この洋館がロケに使われている。大島渚「日本春歌考」、蔵原惟善「何か面白いことないか」の他、名前をわすれちゃったけどギャング映画かなんかで悪党の首領が住んでいたところが「あっ、あそこだ」と思った記憶がある。
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英語民間試験問題、その後とこれから

2019年10月29日 23時10分17秒 |  〃 (教育行政)
 2020年度からの大学入試に、英語で「民間試験」を使用する問題は先に2回書いた。「延期しかない英語民間試験」(2019.9.19)と「私立は予定通り実施を要望」(2019.9.19)である。それからもう一月半経っているので、続報を書いておきたい。僕が書いても仕方ないんだけど、なんだか見続ける責任もあるような気がするので。それに皆が知るように少しは展開があったので。

 まず最初は「萩生田発言」だ。10月24日夜のBSフジの番組内で、住む場所や家庭の経済状況によって不公平が生じないかという質問に、萩生田氏は「『あいつ予備校通っててずるい』というのと同じ」などと反論。高3で受けた2回までの成績が大学に提供されることを踏まえ、生徒の境遇により本番までの受験回数に差が出るのを認めた上で、「身の丈に合わせて、2回をきちんと選んで勝負してがんばってもらえば」と述べたものである。この発言は28日に至って謝罪と撤回に追い込まれた。
(発言を撤回する萩生田文科相)
 しかし、ここで重要なのは「発言は撤回したが、民間テスト導入は方針通り」だということだ。「説明が不十分」だったり、「誤解を与えかねない」発言だとして撤回はしても、一番重要な英語民間試験は延期する気はないのである。文科相発言のあった24日、開会中の臨時国会に野党会派が「延期法案」を提出した。しかし、僕は野党やマスコミの反対、延期論に一片の幻想も持ってはいない。全国の校長先生たちが延期を要望している。じゃあ、延期しましょうと言うほど簡単には進まない。延期法案を野党が出したことにより、むしろ一種の「政争化」してしまうことが心配だ。

 「萩生田発言」は、言わないことにしているホンネをうっかり言ってしまっただけで、もともとの文科省のねらいが「格差」拡大にあることを示している。民間試験を利用する以上、格差が広がるのは避けられない。公立高の校長は延期を要望したが、先に書いたように私立学校は導入賛成である。今までの教育行政をみれば、どっちが影響力が強いか、考えるまでもない。「生徒を実験台にしていいのか」「一生に一度、二度の大学入試で、不透明な改革を実施していいのか」。教員免許更新制を見れば判るように、文科省はまさに「実験台」にすることをためらわない。別になんとも思ってないのである。

 先日の発表によれば、全国の大学の7割が何らかの形で民間試験を利用するという。もっとも一部の学部のみ利用する大学もあり、一体どのぐらいの生徒に影響があるのか不明だ。「3割の大学は利用しない」わけだが、これが多いのか少ないのかも判らない。該当の高校生は、今の2年生だ。高校2年の2学期の時点で、受験希望の大学の学部まで決まってるんだろうか。大学ごとにあまりにも複雑で、英検なら英検を受けろと言われれば、まあ頑張る気になるかもしれないが、各種いろいろあって選ぶのは難しい。しかし、僕は延期幻想は持たずに取りあえず申し込むべきだと考える。

 むろん僕は延期論というか、そもそも反対論である。今後も延期論は止まないだろう。しかし、野党も大事だが、地方の保守層を取り込まない限り政権は動かない。離島、山間部などを抱える都道府県議会で、延期の請願が相次ぐなどの事態が起きるかどうか。あるいは教員、高校生ら数万人が文科省を取り巻く大集会が続くとか。でも僕はフランスじゃない日本では起きえないだろうと思っている。

 もともとは「日本の英語教育に問題があるから、英会話が出来ない」。「英会話が出来ないから、日本は国際的な発信力が乏しくなる」「その結果、歴史認識問題などで中国や韓国に後れを取ってしまう」などという完全にトンチンカンな「英会話能力重視論」が保守政治家には多い。なんのために英会話を重視するのか。外国人と議論出来るようにするためなのに、日本国内では結局「議論せずに押しつける」のである。これでは英語の話す力を伸ばそうとしているように見えて、実は「疑問を持たずに言われたとおりやれ」というメッセージになっている。

 まあ大学希望者自体が全体の半数である。その中で有名大学にチャレンジする受験生も全体の一部だ。そういうエリート層の英会話力が本当に延びたらどうなるか。このバカバカしい国を捨ててしまうだろう。「頭脳流出」に有効な政策だったということになるんだろう。ところで、遠隔地で受験機会が得にくいケースは指摘されている。しかし、高校卒業程度認定試験合格者(つまり高校には通ってない生徒)への情報提供はどうなるんだろう。また聴覚障害者、視覚障害者に加え、会話能力の障害(様々なケースが考えられる)など「障害を持つ生徒」の場合、どうすればいいんだろうか。僕は今までに聞いたことがないんだけど。今までは各大学や大学入試センターで個別の配慮があったと思うのだが。
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「ジョーカー」、見逃し禁止の「問題作」

2019年10月28日 21時01分20秒 |  〃  (新作外国映画)
 トッド・フィリップス監督、ホアキン・フェニックス主演の「ジョーカー」は、「バットマン」シリーズの悪役ジョーカーの「それ以前」を描く映画である。「アメコミ」(アメリカン・コミックス)映画は数あれど、ほとんどはヒーローの活躍を描くアクション大作で、この映画のようにヴェネツィア映画祭金獅子賞を得るほど作品的に評価された映画は珍しい。ホントに三大映画祭のグランプリに値するのかなと思ったけれど、これは傑作だ。しかし、傑作という言葉以上に「問題作」であり、見逃し禁止の重要作品。

 近年ヴェネツィア映画祭には翌年のアカデミー賞レースの主要作品が集まるようになっている。5月のカンヌが最重要映画祭とされるが、9月のヴェネツィアにはアカデミー賞ねらいの米国作品が集まるようになった。2017年は「シェイプ・オブ・ウォーター」、2018年は「ローマ/POMA」が金獅子賞を取った。それを考えても、「ジョーカー」もアカデミー賞の主要部門にいくつもノミネートされることは確実だ。別に賞レースを先取りするわけじゃなく、これは時代を象徴するような重要作だ。

 僕らが映画(あるいはアート一般)にまず求めるものは何か。「お気に入りの俳優が見られればそれでいい」という人もいるだろう。でも大方の人にとって、映画代も値上がりしたことだし、値段に見合うだけの満足度、つまり出来映え(完成度)がないと損した気分になる。全部の映画が満足できるはずもなく、損も勉強のうちなんだけど、それにしても見る価値ある出来じゃないと困る。この「ジョーカー」はいろいろ突っ込みたいところもあるけれど、まずは「とてもよく出来ている」のだ。面白いし、脚本も演技も撮影も優れている。個人映画っぽいチープさの押しつけはなく、ウェルメイドな技術に感服する。特に編集リズムが素晴らしく、どこでも滞留せずに一気に見られる。

 「バットマン」シリーズを知らなくても大丈夫。「バットマン」は出て来ないんだし、むしろ一般映画として見る方がいいかもしれない。だけど、主人公が多くの人に支えられてハッピーエンドになる展開は封じられている。だから一応は「ジャンル映画」の文法で作られている。ジョーカーの描き方も、1989年の「バットマン」のジャック・ニコルソンはともかく、2008年の「ダークナイト」のヒース・レジャーは知っていたほうがいいかもしれない。ヒース・レジャーは映画撮影後に急死し、死後にアカデミー賞助演男優賞を受けたことでも有名。「ダークナイト」はクリストファー・ノーラン監督の「ダークナイトトリロジー」と呼ばれる3部作の2作目。僕はノーラン監督と相性が悪く、暗い展開が好きになれない。

 そういう暗さは「ジョーカー」も同じで、相当気持ち悪い。15歳以下禁止になってるけど、大人でも好きになれない人は多いだろう。あまりデート向きではない。しかし、この映画が突きつけてくる問題が大きいから、現代を生きるものとして見入ってしまうのである。ストーリーは特に書く必要はないだろう。主人公アーサー・フレックは脳神経障害で、不意に笑いが止まらなくなる病を持っている。コメディアンを目指す彼が、様々なシーンで排除されていって、生育歴の秘密も明かされ、ついに悪の「ジョーカー」を名乗るようになるまでを描いている。
(トッド・フィリップス監督)
 その過程は同情するべき点もあるけれど、それだけではいけない。僕の見るところ、一番も問題は「社会の分断」とか「競争社会」ではなく、明らかに「銃社会」だ。銃が簡単に入手できる社会だからこその、ジョーカー誕生である。犯罪自体はその気になればできるわけだが、一気に殺人へ飛躍するのは前提に銃の存在がある。そして映画は、その前提を疑っていない。これは大問題だろう。アメリカ以外の国では、様々な社会問題は共通しながらも、殺人へのハードルがこんなに低くはない。

 もう一つは「精神疾患」や「虐待」の問題で、貧困の背景にその問題がある。実は日本でも同じような状況があるように思う。論点としてもっと考えないといけない。映画では背景事情みたいな感じだが、貧困や分断以上に大問題だろう。監督のトッド・フィリップス(1970~)は絶品のドタバタ喜劇「ハングオーバー」シリーズでブレイクした。あのシリーズは確かによく出来ていて、メチャクチャおかしいけど、やがてこれほどの重大作を作るという感じはなかった。しかし見事な演出である。脚本や製作にもクレジットされているから、単なる雇われ監督じゃなくて、作家の映画なんだと思う。
(ホアキン・フェニックス)
 主演のホアキン・フェニックスはノリノリの熱演で、オスカーのノミネートは確実。今までに「グラディエーター」で助演賞、「ウォーク・ザ・ライン」と「ザ・マスター」で主演賞とアカデミー賞には3回ノミネートされている。早世した兄のリヴァー・フェニックスも「旅立ちの時」で助演賞にノミネートされていた。俳優一家と知られるフェニックス一家に、初のアカデミー賞がもたらされることを僕は希望したい。
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大山(だいせん)-日本の山⑩

2019年10月26日 22時48分51秒 |  〃 (日本の山)
 西日本の山を取り上げている。四国の石鎚山、九州の開聞岳に続き、中国地方の最高峰、大山(だいせん)に登った思い出。東京周辺だと、国定公園に指定されている神奈川県の大山おおやま)が知られていて、「だいせん」という読み方が判らない人がいる。鳥取県西部の旧国名「伯耆」(ほうき)を付けて「伯耆大山」と呼ぶことも多い。西の方から見て「伯耆富士」とも呼ばれる。

 中国地方は南北を中国山地が分けているが、風化が進んで高さがあまりない。火山の大山三瓶山(さんべやま)は独立峰だけど、やはりそんなに高くない。だから、日本百名山には大山しか選ばれていない。最高峰は剣ヶ峰の1729mだが、そこへ行く道は崩壊が激しく、もう長いこと立ち入り禁止になっている。普通は弥山(みせん)まで登って登頂としている。1709mである。

 鳥取県や島根県などの山陰地方は東京から遠いから、今までに3回行っただけ。ずいぶん行きたいところを残している。大山に登ったのは90年代半ば頃の秋だったと思う。飛行機で米子空港へ行ってレンタカーを借りた。境港などを見て、その日のうちに大山直下へ。そこには中世を通じて大勢力を誇った大山寺がある。明治維新で衰退したものの、その後復興して宿坊もたくさんある。今は普通の旅館みたいになっていて、旅行会社で予約できた。宿坊に泊ったのは、ここだけ。別に修行みたいなことをするわけじゃなく、ホントに普通に泊っただけ。

 一番よく登られているのは、大山寺直下から直登してゆく夏山登山道だ。登山口で約800m。標高差900mほどを3時間半ほどで登る。ところで、行くときは富士山型に見えていた大山が、裏の登り口からみると全然違う。まるで上高地から見る穗高岳である。こんな立派な山だったのか。磐梯山のように、周辺から見ると見え方が全然違う山は多い。富士の裏側が穗高って、こんな山は他にない。
(登山口方面から)
 直登だけど案外登りやすく、2時間ほどで6合目避難小屋へ。詳しいことは忘れてしまったけど、案内を見ると5合目ぐらいで森林限界とある。それからが急登で、大変だなと思いつつ登ってゆくと8合目付近で緩やかになる。お花畑が続く中を気持ちよく歩いていると、もう弥山頂上は近い。8合目からは木道が整備されていて、展望も素晴らしい。頂上につくと、剣ヶ峰までのルートがあった。通行止めのロープをまたいで行くことはしないけど、行ってる人もいたな。
(山頂付近)
 帰り道は戻るだけ。その日は米子の皆生(かいけ)温泉に泊る。翌日は松江へ向かってあちこちを回る。高校生の時に中国地方一周をしてるので、それ以来だ。松江の温泉宿はとても良かった。翌日は出雲大社日御碕などを回って戻った。また行きたい地域だし、大山にも行きたいな。
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「ビラヴド」ートニ・モリスンを読む③

2019年10月25日 22時26分58秒 | 〃 (外国文学)
 ノーベル文学賞を受賞したアメリカの黒人女性作家トニ・モリスン。訃報をきっかけに、持っていた文庫本を読み始めて4冊目。「青い眼が欲しい」「スーラ」「ソロモンの歌」の次が「ビラヴド」(Beloved、1988)である。もっとも、実はその間に「タール・ベイビー」(1981、「誘惑者たちの島」の邦題で訳されたこともある)があるが、これは文庫化されてないのでスルーすることにする。

 「ビラヴド」は代表的傑作とされ、ピュリッツァー賞文芸部門を受賞した。今はハヤカワ文庫epiに入っているが、その前に集英社文庫に入っていた。吉田廸子訳。僕は1998年刊の集英社文庫を読んだ。20年も前になるのか。文庫本の帯には、映画化され1999年に公開予定と明記されている。でも実際には未公開でビデオ発売されただけだった。「羊たちの沈黙」のジョナサン・デミが監督し、オプラ・ウィンフリーが主演している。それだけでも見たい感じだが、当時の映画賞レースでもほとんど話題にならなかった。どう考えても映画化は無理そうな題材なので、出来映えに問題があったのか。

 「ビラヴド」は、正直言って僕は「参りました」という読後感だった。すごい傑作で敬服したという意味じゃない。全然判らなくて、読みづらい。大変すぎて参ったという意味である。500ページ強の本で、10日間ぐらい掛かった。読めども読めども進まない。エンタメ系じゃない、外国の本格文学は時間が掛かることが多い。最近だと「ボヴァリー夫人」がそうだったけど、あれは描写が細かすぎて進まないだけで、意味は十分に判る。「ビラヴド」は判らないのだ。いや、最後まで行くと判ることは判る。それでも判ったという感覚が持てない。傑作だとは思ったけど。

 怪奇、幻想、SF小説など、いくつも読んでいるから、小説内がどんな設定でも構わない。人が空を飛ぶなら、そういう設定だと思って楽しんで読める。人が死んで蘇るなら、そういう設定と決めてくれれば理解はできる。この小説でも似たようなことがあるが、それは現実か幻想か、ある人にだけ見えるのか。本当かウソか全然判らない。アメリカ黒人は、もともと先住していたわけじゃなくて、奴隷としてアフリカ大陸から連れてこられたわけだが、奴隷制度はもちろん今では完全な悪である。書くまでもない前提だ。だから、奴隷制度の残酷さを歴史的、社会的に描き出すなら、それは理解可能だ。

 「ビラヴド」に先立って、1983年にピュリッツァー賞を受賞したアリス・ウォーカー「カラーパープル」という小説があった。スピルバーグによって映画化され、オプラ・ウィンフリーがアカデミー賞助演女優賞にノミネートされた。(ウーピー・ゴールドバーグのデビュー作で、同じくノミネートされた。)アリス・ウォーカーはフェミニズム作家として知られ、「カラーパープル」は黒人社会内部の女性差別を告発した。過酷な運命を生きる黒人女性を描き衝撃を与えたが、「物語」的な文法上には理解しにくい点はなかった。だからスピルバーグが映画に出来たんだろう。僕もストレートに感情移入できた。

 「ビラヴド」はあまりにも時間軸が錯綜し、何が事実で何が幻想なのかも判りにくい。だがそれは単なるレトリックではなくて、奴隷制を生きる中で身体的にも精神的にもズタズタにされた登場人物の語りなのだ。僕には判りにくかったけれど、訳者の解説を読むとアメリカでは「自分たちの物語」として熱狂的に受容されたことが判る。今までの小説と同じく、ここでも複数の人物の視点で語られる。いずれも一人称で、どんどん語る人物が変わってゆくので、読む方は混乱する。登場人物が忘れていること、語りたくないことは出て来ない。だから読者にも何が何だか判らない。

 一応筋らしいことを書いておくと、ケンタッキー州にあった「スウィートホーム農園」は、周囲に比べて人道的な扱いをされていた。そこに来た14歳の黒人女性セテをめぐる5人の奴隷男性たち。セテはハーレと結ばれ、子どもも生まれる。そういう過去があった。当たり前に思えるが、他の農園では女奴隷は白人農園主の所有物で、子どもを産まされたりした。子どもは農園主の財産として売られるわけだ。農園主が亡くなった後で、未亡人は妹の夫(義弟)を呼び寄せるが、義弟の経営方針は違っていた。農園再建のため奴隷は売り払い、親子を引き離すことをためらわないタイプだった。

 そういう過去が理解出来るのは終わり近くになってから。そして集団で逃走することが計画された。当時は北部へ逃れるルートが作られていた。しかし計画はうまく行かなかった。追い詰められたセテに悲劇が起こる。それは現実に会った事件がモデルなんだというが、捕まる前に母親が我が子を手に掛けたということらしい。亡くなった娘が「ビラヴド」と呼ばれる。今はオハイオ州で孤立して生きるセテと娘のデンヴァーの元に、農園で一緒だった「ポールD」が現れる。三人でサーカスを見に行った夜、家に戻るとビラヴドを名乗る娘が突然現れた。彼女は何者か、最後まで判らない。

 黒人社会にある霊的な感覚がこの小説の背景にあるらしい。歌ったり踊ったりする文化の中で、ようやく最後の最後、第3部になって娘のデンヴァーに自立の可能性が生まれる。助けを求めること。それによって、セテを孤立したままにしていた黒人コミュニティが変容してゆく。しかし、筋を整理してしまうと、図式的な物語になってしまう。この小説は複雑な語りの構造を持ち、独特の文化的背景を前提にしている。なかなか外部の人間には理解しにくいと思う。あえて読まなくていいと思うが、こういう作品が評価されノーベル文学賞につながったという知識はあってもいいかも。
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運休間近、上野動物園のモノレール

2019年10月24日 22時46分34秒 | 東京関東散歩
 上野動物園にはずいぶん行ってない。東園と西園を結ぶモノレール10月31日をもって運休するというので、行ってみようかと思った。(上野で「真実」を見る予定だったので。)思い出が詰まってるわけじゃない。恐らく初めてだと思う。子どもの頃は覚えてないけど。家から遠くないから、上野動物園には何度も家族や遠足などで行ってるはず。でも乗ったのは「お猿の電車」(おサル電車)だ。1948年から1974年まで存在したアトラクションで、サルが先頭車に乗って動く電車。そんなものがあったのだ。
   
 上野動物園と言えば、パンダにズラッと並んでると思うだろう。でも今は違う。平日のお昼時はパンダはスイスイ進むのに対し、モノレールは20分待ちぐらい。所要1分30秒で、150円。正直言って、大人なら乗らずに歩いた方が早いし節約。だから今までは「いそっぷ橋」を歩いて渡った記憶がある。これは日本初の「モノレール」(懸垂式鉄道)で、正式名称は「東京都交通局上野懸垂線」。公道をまたぐため、動物園の施設じゃなくて東京都交通局が運転する路線なのである。都営地下鉄や都バス、都電、日暮里・舎人ライナーと並ぶ、ちゃんとした交通機関だったとは。いや、知らなかった。

 上野動物園に一番行ったのは、学生時代だ。上野は高校・大学時代にずっと通学に使っていた。ヒマなとき、元気ないときには、動物園に行ったり、国立博物館で仏像を見たりしていた。心が落ち着くんだよね。動物園だと特に「サル山」。面白くて飽きなかった。人間界を見ているような気がして、自分を振り返ることもある。今回久しぶりに見て、そんなには面白くなかった。時間がいくらでもあると思っていた青春期と違うんだろう。今じゃ旅行で何度も見て、ニホンザルなんか全然珍しくない。ドライブ中に出てきても、今じゃ止まることもない。今回はてっぺんで見渡しているサルが良かった。
   
 ジャイアントパンダも見た。実は初めて。一応見たんだけど、どんどん通り過ぎるからよく判らない。拡大すれば、写真に写ってはいる。(下の一枚目。)子どものシャンシャンだと思う。周りでそう言ってた。父親のリーリーも出てたけど、隠れていて写真に撮れてない。どうしてもうまく写らない動物がいる。そもそも出てないとか、遠くにいたり、動いてるとか、他の客がジャマだとか。そんな中で、ゼニガタアザラシは良く撮れていた。3枚目は動物の慰霊碑。あまり意識してなかった。
  
 モノレールで西園に行くと、コビトカバが2頭いた。何でも「ジャイアントパンダ」「コビトカバ」「オカピ」が三大珍獣なんだという。オカピも近くにいて、お尻だけちょっと見えた。全体は遠くの木陰に隠れて見えなかった。さて、コビトカバだけど、これかあ、と思ったのは小川洋子「ミーナの行進」を読んだからだ。ものすごく面白い小説で、これを読んだらコビトカバを見たくなるから。(最初の2枚。)3枚目はタテガミオオカミ。最後はバーバリーシープで、彫刻みたいに動かなかった。
   
 小さい頃は動物学者になりたかった。動物を見て歩くのは大好きだけど、美術館と同じく自分で動いていくのが今じゃけっこう面倒。それに日本の動物はかなり野生で見てるから、わざわざ動物園に行かなくてもいいかなあ。最後に上野動物園で一番の文化財だけど、すごく空いてる場所。それは寛永寺五重塔。東照宮のすぐ近くにあるが、何故か動物園の敷地内にあって、入園料を払わないと近づけない。重要文化財指定で、歴史散歩で見たい場所だが、動物園の入園料を払ってそれだけ見るのもなあ。一方、動物園目当ての親子連れや外国人客はほとんど近寄らないので、隠れたスポットとも言える。写真はあちこちから撮ったものだけど、全然判らないですね。
   
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