尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「9月入学」は「コロナ・レガシー」なのか?-「9月入学論」への疑問②

2020年04月30日 16時57分59秒 |  〃 (教育行政)
 「[『9月入学』論への4つの疑問」という記事を書いた。これは「実務的」的な困難さを指摘する意味で書いたんだけど、 世の中には「9月入学、それもいいのでは」みたいな感想がけっこうあるようだ。安倍首相も国会で「前広で議論していく」なんて答弁した。「前広」(まえびろ)って何だ? 聞いたことないけど、一発変換できるから元からあるのか。ある種の「永田町用語」なんだろう。

 全国の知事の中には「コロナ・レガシー」などという言葉を使って「9月入学」を推進する人までいる。今多くの大学生が「学費を払えない」「アルバイトが無くなった」「帰省もできない」という状況に追い込まれている。一部調査によると、退学せざるを得ないと考えている人も2割に上るとか。今緊急に対策を考えるべき教育問題は、そちらじゃないのか。図書館も閉まっていて勉強も出来ないのに、大学のある都市部から故郷に帰ってくるなとまで言われているのである。
(知事たちの主張を紹介するテレビ番組)
 何でも安倍首相は「緊急事態宣言」を大幅に延長する意向とか。思い起こしてみれば、3月には緊急事態宣言は不要といい、宣言に踏み切った時も7都府県に絞って、当初は休業要請は2週間様子を見てとか言っていた。それが最終的には全国に緊急事態を宣言せざるを得なくなり、今度はそれもまた大幅に伸びるという。初めから短距離走とは思ってないけど、それにしてもハーフマラソンかと思って走っていたら、突然フルマラソンに変更すると言われ、もしかしたら100キロマラソンになるのかも…となっては安倍内閣の対策が厳しく問われるべきところだ。

 ところが突然の「9月入学」論議。今はますます大変になる自営業などへの支援策に専念するべき時期なんじゃないだろうか。大体「コロナ・レガシー」って、それは本来オリンピックだったはずだ。「人類がウイルスとの戦いに勝った証」とか言ってたじゃないか。コロナウイルスが案外長引く、年末からまた広がるといった観測も多くなり、果たしてオリンピックは実施できるのかという意見も多くなってきたように思う。僕は今回の首相の「前広発言」はうすうす五輪中止を覚悟し始めた「証」なのではないかと思う。「北朝鮮のミサイル」みたいな、議論を他にそらす論点を必要とし始めたのである。

 それはともかく、ニュースなどで見ている限り、一番重要な「義務教育開始年齢を遅らせるのか」を指摘する声がない。遅らせないんだったら、4月から8月生まれの子どもを小学校に受け入れなければならない。それが「義務教育」の意味である。幼稚園はその年だけ、特別に早期卒園させるしかない。私立幼稚園の経営にも影響しそうだが、幼稚園は義務じゃないんだからやむを得ない。そうしない限り、義務教育の開始を5ヶ月遅らせることになる。「幼稚園の義務化」という議論もあるが、それでも初等教育の開始を遅らせることには変わりない。

 議論していけばポシャるに決まってる「9月入学」だと思ってるが、世の中には倒錯した議論が横行している。学年が会計年度をまたぐことになるから、「会計年度を変える必要がある」などという意見もあった。会計年度は教育のためにあるわけじゃない。国家の制度設計全てを変更することになるから、会計年度を変えるなんてすぐに出来るはずがない。準備期間は少なく見積もっても5年必要だろう。まだ実社会に出ていない高校生だったら、実務的論点に見落としがあっても仕方ないが、世の中のリーダーである首相や知事などがすぐに出来るはずもない議論をしたがるのは困ったもんだ。
 
 そもそも「欧米の入学時期に合わせる」という発想に問題がある。「世界標準」だとか「留学しやすい」とか言っても、要するに今の大学4年生(普通の4年生大学の場合)、高校3年生(全日制高校の場合)の「卒業を4ヶ月延ばす」(卒業式を3月から7月に変更するとして)ということである。その間の授業料や生活費は誰が負担するんだろう。大学生どころか、高校生にも退学せざるを得ない人が出てくるのは予想される。「留学に都合がいい」というのは「エリートの発想」であって、現実には「早く社会に出て働かないといけない」という大学生、高校生の方がずっと多いはずだ。

 与野党ともに政治家はほぼ大学卒であって、留学経験も豊富な人が多い。官僚やマスコミ関係者も同様だと思うが、それは国民の実態を反映していない。国民の半数は大学へ行かないし、大学へ行っても大部分は留学はしないだろう。もっと留学した方がいいという議論は出来るが、国費で全額面倒を見るならともかく、経済的に無理な人が多いだろう。多額の奨学金を背負って、アルバイトしながら学費を工面している学生には、留学の都合よりも早く卒業出来る方が優先するに決まってる。

 いつもは「日本スゴイ」「日本第一」みたいに言ってる政治家たちが、突然「欧米に合わせよ」などと言い始めたのも奇怪である。その欧米も学校は休校しているわけだが、欧米では入学時期を変えるのか。変えずにやっていけるんなら、そっちのやり方を「欧米に合わせる」でもいいはずだ。入学時期だけ「欧米に合わせる」んじゃなくて、「全ての高校を単位制にする」とか「義務教育でも落第制度を設ける」とか内容面、質的な面で合わせることを議論する方がずっと有益だ。
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「9月入学」論への4つの疑問

2020年04月28日 20時37分04秒 |  〃 (教育行政)
 全国のほとんどの学校が新型コロナウイルス休校を強いられている。最初に緊急事態宣言が出された7都府県の場合、入学式も出来ないままになっている学校が多い。そこでこの際「9月入学に移行してはどうか」という意見が出てきた。教育行政や国会議員だけでなく、教員や生徒の一部にも賛同する意見があるらしい。検討するのはいいけれど、僕はこれはなかなか難しいと考えている。

 ただし、完全に単位制である大学の場合はまた別で、前後期制の前期・後期を入れ替えれば可能だろう。欧米諸国に合わせれば留学の便がよくなるのは間違いないので、考えてもいいと思う。人によって単位取得状況によって秋卒業だけでなく、3年半または4年半かけて春卒業という選択肢も出来る。しかし、初中等教育の場合は、問題が山積していると考えている。
(「選択肢の一つ」と述べる萩生田文科相)
 9月入学が難しい理由は幾つもあるが、まずその第1は「議論が出来ない」という「形式的理由」。学校は単に学習の場というだけでなく、保護者就職先の経済界塾・予備校等の民間教育産業行事・部活等の関係業界など多くのステークホルダー(利害関係者)がある。国民全員が学校に通った経験があるから、情緒面も含めて議論百出になるだろう。本来それらの意見を丁寧に聞いて判断すべきだが、今は会議そのものが開けない。時間の関係で、中央教育審議会への諮問・答申も難しい。そんなことはどうでもいいのかも知れないが、政治主導で拙速に決めてしまっていいことなのか

 第2は「4月から8月生まれの子どもたちをどうするか」である。多分多くの人は「9月入学」と言われたら、4月入学の生徒たちがそのまま9月入学になると思うだろう。中学や高校の場合は当面そうなるわけだが、小学校の場合はどうするんだろう学校教育法には「保護者は、子の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満十二歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校、義務教育学校の前期課程又は特別支援学校の小学部に就学させる義務を負う。」(第17条)だから、4月から8月生まれの子どもたち(細かくいえば4月2日~9月1日生まれ)は、小学校に入学させなければならない。保護者には行かせる義務がある。
(9月入学を検討する国民民主党)
 今年は特例で4月入学予定の子どもだけ受け入れたとしても、来年からは「1学期生まれの子どもたち」を小学校に受け入れる必要がある。幼稚園は義務じゃないんだし、「同年代集団」(年度末には同じ年齢になる)を維持するためにはその方がいい。子どもたちの発達は日々進んでいくわけで、初等教育を始める年齢を遅らせるという政策は疑問だ。わざわざ法改正してまですることじゃない。

 だがそうなると、ある年の小学1年生の数が4割ぐらい増大することになる。それが学年進行で上の学年に移行していく。その分、一学年のクラス増、教員増が必要だが、その膨大な予算増加は可能なんだろうか。全国ほとんどの学校で1クラス、または2クラス増えるから、その担任分の教員増になるのである。また、その学年の生徒たちは、受験・就職が難しくなるだろう。それをわざわざ望む生徒・親はいないだろうが、じゃあ、法律を改正して、小学生の定義を「満六歳五ヶ月」と変更するべきなのか。

 第3は「学校予算が学年途中で途切れる」ことである。公立学校は地方自治体が設置しているが、地方自治体は4月から3月が「会計年度」である。そっちは変わらないわけだから、学年途中で会計年度が変わることになる。これでは計画的な学校経営は難しくなってしまう。予算は年間計画に基づき執行されるわけで、例えばオンライン授業を進めるICT機器整備などは、額が大きいから事前に計画されている。(景気対策特別事業とかいって、突然予算が下りてくることもあるが。)9月入学になれば、当然学校の人事異動も9月1日付になる。誰が翌年に残るか全然判らない段階で、学年開始直後に翌年(4月から次学年の3月まで)の予算請求を書くのはとても困難だ。

 第4は「私立学校への補助金増」である。世界的に感染者増で学校が閉鎖されている。学校で集団発生が発生したことは少ない(あることはある)が、学校は自営業者と違って補償を求められないから閉めやすいんだという。生徒も保護者も学校に単なる利潤目的で行くわけではない。「学校に在籍する」ことが意味を持つんだから、授業がないだけで政府に補償を求める不利益が生じたとは言いにくい。(完全に単位制で、学費も高額な大学は別。)公立学校の教員も公務員だから、身分は保証される。

 しかし、私立学校の場合はどうだろう。私立学校にも今では多くの公費が投じられている。私立高校の学費も多くの都道府県では(全部かどうかは知らない)公費で補助されている。(所得制限はある。)しかし、来年の9月にならないと次の新入生(新学生)が入ってこない。公費の補助は「学年ごと」だろうから、来年4月から9月までの私立学校(大学から小学校まですべて)は生徒の学費分が入ってこないことになる。それでも教員の人件費や施設運営費はかかる。それを特別に公費で補填しない限り、経営的に行き詰まる私立学校も出てくるんじゃないか。

 以上が主な理由だが、財政上の困難が大きい。お金の問題だからよほのメリットがあれば何とか工夫するべきだろうが、そこまでのメリットはあるだろうか。その他、多くの問題も起こってくる。例えば、公務員が60歳定年とすると(近年定年延長も検討されている)、教員の場合は学年途中ではなく「学年末で60歳」の人が定年退職になる。だから誕生日によっては、ほとんど61歳まで勤める。しかし、9月入学に変わると、4月から8月に誕生日が来る教員は今年8月で突然定年なんだろうか。今年は特例が認められるかもしれないが、やがて変更されるのか。人生設計に大きく影響する。

 今年の学校生活はコロナウイルスにより大きな影響をうけてしまった。学習面もだが、今後夏休みも短縮され、出来なくなる学校行事も多いだろう。春の選抜野球や夏のインターハイも中止になってしまった。今後もいろんな行事が中止になるだろう。あまりにも可哀想だと誰もが思っている。9月入学に変更することで、もっと余裕を持った学校生活が可能になる。小学校入学が5ヶ月遅れたとしても、大学生にもなれば浪人、留年、社会人入学などは珍しくもないから何とかなるとも言える。

 しかし、学校の本質は単に教科学習にだけあるのではない。行事を精選しながらも、充実した共同体験を積み重ねることで、今年の学校生活も有意義なものに出来ると思う。実際に1学期が全部休校にでもなれば別だが、今のところ残された期間をいかに有意義なもののするかを考えた方がいいと思う。もちろん、入学試験、就職試験などは大胆な配慮が必要だ。(それにしても「大学入試への英語民間試験導入」を潰しておいて本当に良かった。)
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アントン・チェーホフ、知恵豊富ーチェーホフを読む②

2020年04月27日 23時04分43秒 | 〃 (外国文学)
 チェーホフ全集を一冊ずつ毎月読もうと思ったんだけど、何しろ文庫とは思えぬ分厚さばかりで手に取りにくい。でもチェーホフには短編集もある。ごく初期のコントのような作品が「チェーホフ・ユモレスカ」としてまとまっている。これは「新チェーホフ・ユモレスカ」も入れると、全4冊になるから時間が掛かる。その前に河出文庫に浦雅春訳で「馬のような名字」という本が出ているのに気付いた。318頁に全18編だから、一編はすごく短い。代表的短編という意味では少し漏れもあるが、どれも傑作だ。
(「馬のような名字」)
 「チェーホフは知恵豊富」というダジャレを思いついた。まあ誰かが書いていそうなフレーズだけど、実際困難な人生を生き抜くときにチェーホフの「知恵」はすごく役立つと思う。チェーホフ自身が非常に大変な人生を送った人である。16歳の時に一家が破産して夜逃げしたが、チェーホフ一人は故郷のタガンログに残って中学を卒業してモスクワ大学医学部に入学したのである。

 学費を稼ぐため、アントンは多くの雑誌にコントを書きまくった。それはユーモラスというか、ブラックユーモアというべきものが多い。頭の中には思いついたおかしな話がいっぱい詰まっていたようだ。卒業して医者になっても書き続けたが、まるで医者が患者を観察するような作風である。そして「作家の使命は問題の解決にあるのではなく、問題を正しく提示することにある」と書いているそうだ。

 ある手紙の中でチェーホフは次のように書いていると訳者解説にある。「あなたは私の客観主義を善や悪に対する無関心であるとか、理想や思想の欠如だといって非難される。あなたは私に、馬泥棒を描くのなら、馬を盗むのはよくないと言わせたいのでしょう。しかし、そんなことは私が言い出さなくても、とうに知れたことです。彼らを裁くのは判事にまかせておけばいい。私の仕事は彼らがどんな人間かを示して見せるだけです。」これがチェーホフの世界なのである。

 「世界を提示する」ことで、よく耳をすませてみれば「人間の可笑しさ」「人間の悲しさ」が聞こえてくる。あやふやな情報で簡単に決めつけて、世の中に呪いの言葉を吐き散らすような現代世界にあって、チェーホフを読む意味はそこにある。ただし、ある程度じっくり向き合わないと聞き取れない時もあるだろう。そのじっくりした時間を現代生活でも作りにくい。しかし、今のような「巣ごもり生活」には「チェーホフという知恵豊富な世界」は薬になる。そう思ってチェーホフを買っておいたのだ。

 「馬のような名字」はほぼコントと言っていいが、他にも「カメレオン」「太っちょとやせっぽち」など切なくなるほど可笑しい。一方「悪ふざけ」「恐怖(私の友人の話)」などは、その人の悪さで天下一品である。ここまでひどい話も書けるのだ。「ふさぎの虫」「ワーニカ」「ロスチャイルドのバイオリン」は哀切が身に沁みる。「箱に入った男」は「変人」を描いてほとんど現代小説である。チェーホフの短編には、まるで現代人のような「変人」がたくさん出てくる。ずいぶん多くの人生を観察したのである。

 「かわいい人」はチェーホフの最も有名な短編の一つだが、解説を読んで初めて判った感じがする。出会った男に影響されてしまう女性の一生。「ある往診での出来事」「いいなずけ」も見事な短編で、このような作品を書けるチェーホフの素晴らしさに感嘆する。最後に「結婚披露宴」「創立記念日」という二つのドタバタ戯曲を収録。このどんちゃん騒ぎもまたチェーホフの本質である。

 チェーホフは「」の「外国」(ロシア)の「純文学」である。「現代」の「自国」(日本)の「エンターテインメント」が一番読みやすいわけで、その意味では案外読みにくいところも多い。でも「知恵豊富」な滋味にひたっているのである。すごく短い短編も多いから、どこかで是非。
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「義侠」の人、泉水博の人生-2020年3月の訃報④

2020年04月26日 23時00分45秒 | 追悼
 2020年3月27日に泉水博(せんすい・ひろし)が死去した。岐阜刑務所で22日に倒れているのを発見され、病院に搬送されたが27日に死亡したとウィキペディアに出ている。名前を知らない人もいるだろうが、ある世代の人には非常に強い印象を残していると思う。「ダッカ事件」(1977年9月28日に起きた日本赤軍による日航機ハイジャック)で乗客解放のための「釈放要求者リスト」に載り、「超法規的」に出国した人である。その後、1986年6月7日にフィリピンで逮捕され、旅券法違反で有罪となった。
(ウェブ上の記事から)
 泉水博はいわゆる「活動家」ではない。強盗殺人罪無期懲役刑を受けていた「一般刑事犯」だった。それがどうして釈放要求に載ったか。この時はもう一人仁平映(にへい・あきら)という刑事犯もいて、どうして選ばれたのか当時から気になっていた。フィリピンで逮捕当時は非常にひどく報道され、「赤軍の脱落者」で堕落した生活を送っていたなどとマスコミは書き飛ばした。
(ダッカ事件当時)
 その泉水博という人の実像を広く世に知らせたのは、松下竜一怒りていう、逃亡には非ず」(1993)だった。松下竜一(1937~2004)は大分県中津に住んで、環境権裁判などを起こした骨太のノンフィクション作家である。僕は松下さんの発行するミニコミ「草の根通信」を長く購読していて、松下さんの本はほぼ読んでいた。その事は主著「砦に拠る」が舞台化されたときに「『砦』という芝居、松下竜一さんのこと」に書いた。もちろん「怒りていう、逃亡に非ず」もすぐに読んで感銘を受けた。その後「松下竜一、その仕事」という全30巻の全集が河出書房から出版され、それも全部持ってるから出たときに読み返した。ずいぶん忘れているので、今回は「その仕事」版をまた読み直した。だから3回読んでいる。
(「怒りていう、逃亡には非ず」)
 松下氏は多くの市民運動に関わりながら、1975年に連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線の中心的メンバー、大道寺将司を描く「狼煙を見よ」も書いている。そのためかどうか、1988年1月29日に警視庁によって泉水博など「旅券法違反」に関わる家宅捜索を受けた。(後に家宅捜索は違法として国家賠償裁判を起こして、勝訴した。)その時まで「泉水博」という人は意識していなかったのである。そして頼まれて泉水に関わる中で、自分と泉水はほぼ同年代と知る。松下竜一は1937年2月15日生まれで、泉水は1937年3月10日生まれなのである。もっとも本人は戸籍上の記載に疑いも持っていて、だからかどうかウィキペディアには生年月日が記載されていていない。

 本に沿って彼の生涯を事細かく書いていると終わらないので絞って書く。貧窮の中に育ち、10歳上の兄も一匹狼のヤクザ的に生きていた。泉水博も幼い頃から様々な仕事をするが、テキ屋になって義理人情に篤い生き方を学んだ。その後キャバレーのボーイ時代に、誘われて重役夫人を襲い、強盗に加担するが共犯者が殺人を犯してしまう。共犯者は裁判前に自殺してしまい、泉水が手助けしたという共犯者の調書が採用されたという。本人は別の部屋にいたというが、主犯の分まで負わされたのか、強盗殺人の従犯で無期懲役の重刑となった。1960年のことである。

 千葉刑務所で服役中は模範囚で、1975年には仮釈放も目前だった。しかし、3月22日に泉水博は同囚の獄中医療の不備を訴えるために単独で決起した。医務官のウソが重なり、獄中者の権利も守られず、このままで無期囚の命が危ないとして、看守を襲って人質に取ろうとしたのである。実際には失敗して、看守に対する傷害罪で終わるが、これがサンケイ新聞(現産経新聞)にスクープされた。松下著によれば、著名な民族運動家の野村秋介が千葉刑にいて刑期終了目前だった。野村が世に伝える約束だったという。この「決起」により泉水は旭川刑務所に送られ、獄中の等級は最下級に落とされた。

 この事件が彼の人生を変えた。遠くアラブの地まで伝わって、釈放リストに名を連ねたのである。泉水は旭川で突然深夜に呼び出され、「究極の選択」を迫られた。もう日本には帰れない可能性が高いが、自分が行かなければ人質が殺されるかもしれない。日本赤軍がどんな組織か、思想的問題も全く判らないが、拒否していいものか。9人のリスト中、3人が拒否したのだが、そのことも知らされなかった。人質との交換要員と思わされ、一人でも死者が出たら後悔すると考え出国を認めたのである。それを「そんなにシャバに出たいのか」と法務官僚は「上から目線」で決めつけ、「遁刑」と決めつけた。しかし、まさに「怒りていう、逃亡には非ず」なのだ。

 その後のアラブやフィリピンでどのような暮らしを送ったかは、先の本に出てきて興味深いが省略する。日本に戻され長く沈黙を守ったが、旅券法違反の裁判の様子も省略する。同書に出てくる「勾留理由開示公判」の兄の陳述は、涙なくして読めない。泉水博も兄も学歴もなく底辺で生きてきた人物だが、国家の偽りを鋭く見抜く感性を持っていたのである。兄の陳述を涙を拭いながら聞いていたという泉水博の姿は印象的である。結局、旅券法違反は1995年に懲役2年の実刑が確定した。

 その後、泉水博はまず「逃亡」前の無期懲役刑を受けなければならなかった。そして仮に無期懲役囚として仮釈放が近づいたとしても、その後に「懲役2年」の旅券法違反事件が待っているのである。これは複数の刑期がある場合、重い刑から執行するという慣例によるという。ところで4月8日の東京新聞「編集局南端日誌」によると、2016年に泉水は「順変」義務付け請求訴訟を起こしていたという。「順変」とは刑の執行順序のことで、旅券法違反を先にという請求である。2010年には当時の岐阜刑務所長が仮釈放を考えて順変を申請して却下されたという。訴訟も敗訴したが、最後まで闘っていたのだ。

 泉水博は日本の庶民の中に流れる「義侠」を体現したような人生を送った。自分の仮釈放を犠牲にして他の囚人のために訴え出ることは、普通は出来るものじゃない。ハイジャック事件でも赤軍派に対し、何度も早く人質を解放するように求めていた。パレスチナゲリラの間でも人気者で、歌がうまかったという。松下さんの本を読み返すのが遅くなってしまったが、是非一度読んで欲しい本だ。赤軍派コマンドなどという決めつけでなく、この義侠の人のことを心に留めておきたいと思う。(なおこの本に出てくる多くの人のその後を知りたいと思い検索したところ、多くの死者とともに苛酷な現実を突きつけられるような事実が多かった。ここでは省略する。)
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乗鞍岳、一番簡単な3千メートル峰ー日本の山⑯

2020年04月24日 20時47分53秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 北アルプス(飛騨山脈)南端に位置する乗鞍岳(のりくらだけ)は、日本で一番簡単に登れる3千メートル峰で、多くの人に親しまれている。標高は3026mで日本19位、日本百名山に選ばれている山では11位にあたる。ちょうど長野県と岐阜県の境目で、太平洋と日本海の分水嶺上の最高点である。何で「一番簡単」なのかというと、登山口の畳平(2702m)まで車で行けるからだ。いくら3千メートルを超えるといっても、標高差300メートルだったら案外楽に登れるわけである。
 
 乗鞍岳に登ったのは90年代半ば頃だと思う。2003年から「乗鞍岳スカイライン」(1949年開通、畳平と平湯温泉)や「乗鞍岳エコーライン」(1964年開通、畳平と乗鞍高原)はマイカー規制をしていて、バスかタクシーじゃないと畳平まで入れない。しかし、その前は自分の車で2700m地点までドライブして登れたのである。二度と出来ない素晴らしいドライブ体験で、壮大な山岳美の中をグイグイ進んでいったのは忘れられない。真夏の素晴らしく晴れ渡った午前中で、これぞ夏山という一日だった。
(畳平から乗鞍岳を望む)
 畳平は広大な駐車場があって、山小屋なども集まっている。そこから「肩ノ小屋」までは車も通れる道で、もう楽々と歩ける道になっている。それは東京大学宇宙線研究所乗鞍観測所があるからで、そこがいい目印になる。もう一つ国立天文台乗鞍コロナ観測所というのもあった。今は名前が変わっているらしいが、もちろんウイルスを研究してるんじゃなくて、日本の太陽コロナ観測の拠点だったのである。観測所への道を横に見て、ダラダラ歩いて40分ぐらい。ここまでは登山いうほどじゃない。山頂目指す人が遠くに見えて、少しずつ山頂が近づいてくる。

 乗鞍岳は幾つもの頂上がある山だが、普通は最高峰の剣が峰を目指す。肩ノ小屋から登山道らしくなり、50分ぐらいで山頂に立つ。けっこうガレているが、道はちゃんとしているので迷うこともない。展望もいいから楽しい。朝早くからバスが通っていて、ご来光を目指すのもいいらしいけど、下に幾つもある温泉に泊まってると昼に登ることになる。時間的には上り下り合わせても3時間程度だから、それで十分だ。しかしまあ高山だから天候の急変は心配だから、やはり午前には登頂しないとまずい。
(乗鞍岳テレカ)
 周辺には温泉がたくさんあって、確かこの時は奈川温泉に泊まって登り、翌日は白骨温泉に泊まったと思う。下りてすぐの乗鞍温泉には小さな宿がたくさんあるし、立ち寄り湯もある。「湯けむり館」は素晴らしかった。乗鞍高原の一番高いところに休暇村乗鞍高原もあって、温泉は循環だけど部屋や食事がいいから家族連れには最適。上高地安曇野も近く、観光プランを立てやすい。

 夏の猛暑を逃れるには格好で、登山しなくても楽しめる場所が多い。美味しい蕎麦屋もたくさんあるし、僕の好きな名水も多い。普通は登山靴が必須だが、乗鞍は運動靴でも登れる3千メートル級。最高峰が3千以下という国も多い中、こんな楽しい山は多くの人に経験して欲しい。今は山にも来ないでという時期だが、夏には多くの人で賑わって欲しいなと願う。
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「原油が史上初のマイナス価格」の意味と影響を考える

2020年04月23日 22時34分11秒 |  〃  (国際問題)
 原油価格がマイナスになったというニュースが流れた。ちょっとビックリしてしまうが、詳しく調べてみると、これはニューヨークの先物市場の価格だった。「週明け20日の米ニューヨーク商業取引所で、原油価格の指標となる米国産WTI原油の先物価格(5月物)が1バレル=マイナス37・63ドルで取引を終えた。原油価格がマイナスに陥ったのは史上初めて。」(朝日新聞ウェブ版)

 「先物取引」というのは、価格が変動する商品・有価証券などについて、未来のある時点の売買を保証する取引である。まあ、それでは何だかよく判らないと思うが、僕もやったことはないのでよく知らないのである。歴史的には、オランダのチューリップ先物取引が最初だとか、常設の先物市場は大坂の堂島米会所が世界初だとか言われている。

 未来の価格は判らないのに、何でこんな取引があるのか。投機のように思うかもしれないが、これは「リスクヘッジ」が目的である。後には確かに商品相場で大もうけしたりするようになるが、そもそもは今年の米が豊作か凶作か判らないから、反対側に保険をかけておくわけだ。もちろん時代の流れとともに投機目的が増え、日本でも昔は「黒いダイヤ」「赤いダイヤ」とか言われた。何だか判らないと思うが、石炭と小豆の相場のことである。今も多くの投資ファンドが先物市場に投資している。

 投資ファンドが先物をやるのは、その商品が欲しいわけじゃない。値上がりしたところで売り抜けるのが目的である。しかし「先物」とは言え、これは本来商品取引である。売らない限り、その取引の期限が来たら現物を引き取ることになる。今回は5月引き渡しの先物取引で、決済に時間が掛かる関係で、4月21日時点で売ってない限り現物を引き取らないといけないルールだったという。金なんかは現物でもいいかもしれないが、原油なんか現物で貰ってもどうしようもない。倉庫を借りれば置いておけるってものじゃない。お金を払っても専門業者に売ってしまいたいと投資ファンドは思ったわけである。

 このニュースは、だから実際の原油がマイナス価格になってしまったというものじゃなかった。実際、翌日からの「6月渡し」は15ドルぐらいの値が付いている。しかし、それでも昨年は60ドル前後、数年前は100ドル前後を付けていたから、大幅安が続いているのは間違いない。もちろん、それは新型コロナウイルスによる世界的経済失速によるものである。経済活動全体が大きく減少しているが、特に航空機需要が無くなってジェット燃料が余っているのが大きいらしい。

 原油そのものは精製して様々なものに使われる。毎日スーパーやコンビニに商品が補充されているのも、流通業界で働く人がトラックで運んでいるからで、その燃料は石油由来だ。マスクの大部分を占める不織布も、大体はポリプロピレンで出来ていて元は石油精製の副産物から作られている。毎日お世話になっている原油だけど、世界でも最も重要な戦略物資になっている。今回は原油原産国の協調減産が不調に終わったので、ある程度原油価格の暴落も予想されていた。
(原油生産国のグラフ)
 今後、原油価格の暴落が世界各国の経済だけでなく、政治にも大きな影響を与えていくと思われる。まずはアメリカ合衆国だが、シェールオイル増産により2010年代に入って世界最大の原油生産国となった。これは油分を含む頁岩を掘削して精製するものだが、なかなか生産が大変で原価も高い。値下がりが長引くと持ちこたえられない会社が出てくると言われている。それがアメリカ発の金融恐慌をもたらすかもと心配されていて、秋の大統領選もあるから注目していかないといけない。

 ロシアは原油高の時代に「ソ連崩壊」以後の経済不振から立ち直りつつあると言われたが、近年の原油安で経済不振が続いている。今後もこの水準で原油安が続くと、プーチン政権への不満が膨らんでいくと思われる。サウジアラビアはなかなか減産に踏み切らなかったが、今度はさすがに減産するようだ。アラブ唯一のG20参加国の理由でもある原油が、こんなに安くなってしまっては、イエメン内戦関与やイラン敵視政策にも影響するだろう。また世界でも珍しい絶対王政にも揺らぎが生じる可能性もある。その他、イラクイランベネズエラなど問題を抱えた国が多く、極端な原油安が政治危機、体制危機にもつながるかもしれない。

 日本からすると、とかく「原油が安ければ、その方がいいじゃない」と思いやすい。電気代が下がったり、ガソリン・軽油が下がれば、流通経費やお店や工場の固定費がずいぶん助かる。もちろん今はガソリンが安くても、観光にも行けないんだけど、まあ安い方がいいだろうと思ってしまいがちだ。しかし、ここまでの水準だと石油元売り会社が困るだろうし、地方では「命の綱」とも言えるガソリンスタンドが立ち行かなくなる。原油安から始まる世界恐慌が起これば、単にウイルスが終息すれば経済は元に戻るだろうという希望も絶たれてしまう。安すぎるのも大問題なのである。
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予想以上に多い(?)感染者数ー新型コロナウイルス問題

2020年04月22日 17時48分14秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 日本ではPCR検査数が少なすぎて実態を表していないという批判がずっとあった。それは間違いないと思うが、そのことを証明するように「変死者に感染者が多い」という報道があった。5都県で11人に上るという。路上で倒れて死亡していた人を調べたら感染していたケースは僕の住んでいる区だ。一人暮らしだったらしいから、誰にも相談できず受診もしなかったのか。感染源も判らないだろう。
(「変死者」に感染が多いというテレビ報道)
 これは検査数だけの問題ではない。国立感染症研究所は4月20日に「濃厚接触者の定義」を変更した。従来は患者が「発症した日以降」としていたのを、「発症2日前」に早めた。これは以前の記事で紹介したように、発症前に感染するという研究に基づくものだろう。こうなると、発症してないんだから、行動を自粛出来ない段階で他人にうつすことになる。そして案外発症しなかったり、軽症で済む人も多いらしいから、市中には予想以上に感染者が多いのではないかという観測が多くなってきた。

 そのため「抗体検査」を行って、実際にどのぐらいの人が抗体を持っているかを調査しようという動きが各国で起こっている。ニューヨーク州でも無差別に抽出した住民の抗体検査が始まった。スタンフォード大学の調査が報道されているが、カリフォルニア州サンタクララ郡の3300名の住民に対して、抗体検査を行ったところ、50名が陽性だったという。郡の人口に換算すると、48000から81000人の感染者がサンタクララ郡にいることになるらしい。PCR検査で報告されている感染者数の50~85倍である。誤差はあるだろうが、この数字を単純に日本に当てはめると、50万人の感染者がいることになる。
(ニューヨーク州の抗体検査)
 自治体で日本で感染者が一番多いのが東京都である。そこで毎日の感染者数が大きく報道される。見てみると、多少減って「最悪期」は脱したかという感じがしないでもない。しかし、検査数が増えてないんだから、これはまやかしの数字だ。実際には医療につながらない多くの感染者がいると考えられる。「爆発的感染」までには行ってないかもしれないが、「高止まり」が続いている。5月6日まで出されている「緊急事態宣言」も延長されるという観測が強い。

 今年は花見も出来なかった。ゴールデンウィークも旅行できない。デパートも映画館もやっていない。仕方ないのは判っている。ガマンもしないといけないだろうが、どこまで続くぬかるみぞ。東京新聞のコラム「筆洗」で小津安二郎監督の「彼岸花」のセリフを紹介していた。田中絹代の妻が佐分利信の夫に、戦争中のことを振り返って言う。「戦争は厭(いや)だったけれど、時々あの時のことがふっと懐かしくなることがあるの。あなた、ない?」「私はよかった。あんなに親子四人でひとつになれたことなかったもの」。何年か経って、こんな風に振り返る日も訪れるんだろうか?
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「一律10万円」、自民党議員も受け取るべきである

2020年04月21日 22時51分36秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 ちょっと新型コロナウイルス問題に戻って。政府は「一人当たり一律10万円給付」を決めた。一度閣議決定まで行った補正予算を引っ込めて組み直すことになった。政界の常識では「メンツ丸つぶれ」だが、まあ「異常事態」だからそれは追求しない。しかし、どうせこうなるんだったら、元々の本予算を組み替えていたら、それは大英断と評価されていただろうと思う。日本ではちょうど年度代わりに当たったこともあるが、予算案成立、特措法成立、補正予算編成とおよそ一ヶ月以上をムダにした。

 僕は4月4日に『「世帯」か、「個人」かー新型コロナウイルスの緊急経済対策』を書いて、「世帯ごと」給付案を批判した。それを考えると、「一人当たり一律」は一応評価出来るが、結局給付方法そのものは「世帯ごと」になるようだ。これではまた問題も起こるかと思うが、給付の時間を考えると仕方ないかもしれない。当初、首相が「すべての国民に」と述べたことから、定住外国人に給付されないのではという批判もあった。僕は前例に則って制度設計されるだろうと思ったから、あえて論評しなかった。
(「10万円」給付の仕組み)
 ところで、この「10万円給付金」を閣僚は受け取らないという。自民党議員も受け取らない方向で調整しているという。(「10万円給付、閣僚は受け取らず 自民の国会議員も調整」朝日新聞ウェブ版)これは多くの人が当然視しているかと思うが、僕はおかしいと思う。そのことはほとんど誰も言ってないようだから、ここで書いておきたい。僕は自民党議員も「10万円」を受け取るべきだと思う。ただし、受け取らないのが絶対的な間違いとは言わない。そこらあたりのことを詳しく説明したい。

 閣僚あるいは自民党議員が受け取らないというのは、要するに「歳費が支給されるので、生活に困ってないんだから、受け取るな」という「国民感情」を気にしてるんだろう。しかし、その時点ですでに勘違いがある。敢えて言えば「欺されかかっている」とさえ思う。3月9日付で「大胆な緊急経済政策が必要だー新型コロナウイルス問題」を書いた。そして「緊急経済対策」を予算案を組み替えても早期に実施するべきだと書いた。4月4日付記事の副題は「新型コロナウイルスの緊急経済対策」である。「一人10万円給付」はウイルス問題で急激に落ち込んだ経済を支えるための経済対策なのである。

 首相は3月1日に「今回の感染拡大によって経済的な影響を受けた事業者や、政府の要請を受けてイベントや営業等を中止した事業者については、それぞれが直面する課題について、その声を直接伺う仕組みを作り、強力な資金繰り支援を始め、地域経済に与える影響に配慮し、しっかりと対策を講じます」と述べた。これは今自分が3月9日に書いた記事から引用した。細かい日付などはもう忘れていたが、確かに首相は地方任せなんかじゃなくて「イベントや営業等を中止した事業者」に対する「しっかりした対策」を約束したのである。それは「一律10万円」のことではない。勘違いしている人がいると思うが、今ホントに困っている事業者への対策は別に緊急に講じなくてはならない。

 それは「約束」だったのである。「一律10万円」は元々「困っている人向け」ではないのだ。そこを勘違いさせてしまうのが、「困ってない人は受け取るな」論だ。世の中にはいろんな人がいて、野党が要求して安倍内閣も受け入れたんだから、安倍支持者は辞退せよとか言ってる人もいる。一方、首相の大英断を批判するだけの安倍批判者は受け取るなという人もいる。「公務員」は恵まれてるんだから受け取るなと煽動する人もいる。大変な現場で働いている保健所や公立病院のスタッフに辞退せよというのか。大体誰がどこに勤めているか、いちいち調べて確認してたら時間が掛かりすぎる。だから「一律」なんだから、みんな受け取ればいいのである。
(こんな書類が送られてくる)
 大体政府や自民党幹部の言ってることを聞いていると、「私=お金をあげる人」「国民=お金をもらう人」といった感覚を感じてしまう。国会議員は国民の代表なんだから、国民一律に10万円と決めたんなら受け取ればいいのである。そしてそれを「寄付」するなりして、有効に生かせばいい。ただ自民党議員のことだから、「寄付」と言っても医療機関じゃなくて、選挙区の自治体に「ふるさと納税」したりしかねない。それも「寄付」ではあるが、「公職選挙法」違反っぽい。自民党が一度全員分集めるのも面倒だから、最初から止めとく方が賢明かもしれない。

 10万円を辞退すれば、その分少額とは言え赤字国債を少なく出来る。そうも言えるだろうが、10万円を消費すればその分落ち込んだ経済を支えることが出来る。いま特に困ってる業界は、飲食店旅館や旅行社などの観光業界ライブハウスや演劇、音楽、ミニシアターなどの芸術・芸能業界ではないか。とすると10万円を貰っても、すぐには応援できないかもしれない。しかし、他にもお店は大体困ってるだろうし、世の中の経済を回すためには皆が好きなように消費すればいいんじゃないか。

 貯金しちゃいけないわけでもないが、出来れば少しでも誰かの役に立つように生かしたいと思う人が多いと思う。よほどの大金持ちなら別かもしれないが、みんなが受け取って生かしていけばいい。それを「誰それは受け取るな」「私は受け取らない」とか言い出すと、人々の間に分断をもたらすことになる。そういう言い方は止めるようにしたい。(それに自民党議員であっても、家族はまた別の事情もあるだろうから、家族分は受け取るべきだ。)
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ちくま新書「中世史講義【戦乱編】」を読む

2020年04月20日 22時18分51秒 |  〃 (歴史・地理)
 ちくま新書の新刊で高橋典幸編「中世史講義【戦乱編】」が出た。まあ買わなくてもいいと思いつつ、つい買ってしまい、すぐに読まなくてもいいのにすぐ読んでしまった本。一般の人が読む必要があるか判らないけど、世の中に厄介な問題が多すぎて、毎日一生懸命記事を書くのも大変なので、歴史の話。ちょうど一年ぐらい前に『ちくま新書「古代史講義」「中世史講義」』を書いた。その続編に当たるような本で、古代史でも【戦乱編】を読んだけど感想は書かなかった。

 この本には以下の戦乱が取り上げられている。保元・平治の乱治承・寿永の乱承久の乱文永・弘安の役南北朝の内乱永享の乱享徳の乱応仁の乱明応の政変西国の戦国争乱東国の戦国争乱石山合戦豊臣秀吉の統一戦争文禄・慶長の役の14講の最後に総論がある。

 「治承・寿永の乱」というのは「源平の戦い」、「文永・弘安の役」は「元寇」のこと。知らないとすれば、「永享(えいきょう)の乱」と「享徳(きょうとく)の乱」だろうが、どっちも室町時代に鎌倉に置かれた「鎌倉公方」をめぐる争乱。「明応の政変」だけはちょっと他と違い、室町幕府の将軍を廃位した政変だが、今はここから戦国時代が始まる契機となったと評価される。「石山合戦」は浄土真宗の総本山、石山本願寺と織田信長の長い闘い。「文禄・慶長の役」は豊臣秀吉の朝鮮侵略のことである。

 1156年の「保元の乱」から日本は「武者の世」になったと天台座主を務めた摂関家出身の慈円は「愚管抄」で述べた。しかし、保元の乱は動員数数百名の争乱で、争乱の内容も王権争奪の下働きである。そこから400年たって、武士は全国を統一し、さらに大陸征服を目論むまでになる。その間の400年のドラマは、「軍記物」で世に伝わり、今も大河ドラマなどで日本人に親しまれている。しかし、実際のところ、「歴史学」ではこれらの戦乱はどう描かれているのか。この本は論文集ほど難しくなく、それぞれの戦乱を簡潔に押さえていく。新書本だから各所論は短いけれど、なかなか含蓄に富んで面白い。

 細かく書いていると終わらないので、興味深かったことをいくつか。まず「承久の乱」だが、近年後鳥羽上皇は鎌倉幕府の打倒ではなく、執権北条義時の排除を求めただけという説がけっこう多い。しかし、事実上の将軍である北条政子を敵と名指すわけには(女性だから)出来ないので義時追討を掲げたが、やはり幕府打倒を考えていたとする。確かに東国武士が一挙にまとまった理由として、その方が判りやすいだろう。

 また「南北朝の内乱」では鎌倉時代に始まる王権分裂が、長い戦乱を経て室町幕府による統一に落ち着くまでがテキパキと語られる。背景に荘園支配をめぐる武士たちの争いがあり、最終的には「半済令」によって勝ち残った武士たちが寺社本所領の半分を獲得する権利を承認された。つまり、大寺社や貴族たちの所領を武士が奪い取ったわけである。

 「永享の乱」「享徳の乱」はどっちも関東の内乱だが、歴史的に鎌倉公方は室町将軍に敵意を持つことが多かった。それを執権上杉氏がいさめるというのが通例で、その「公方」「執権」関係は戦国の関東にも長く影響を与えた。伊豆から小田原に進攻した伊勢氏は、鎌倉時代の執権だった北条に名乗りを変える。北条氏に追われた上杉氏は越後に逃れて、長尾景虎に上杉姓を譲渡する。これが上杉謙信だが、このように関東の戦国が重視されてきていることが本書でも理解出来る。

 最後に「文禄・慶長の役」だが、なんだか秀吉が最後に錯乱したかに思いがちだが、実は大真面目に明までの進攻を考えていたという。明の冊封を受けていた朝鮮が「明攻撃」に参加するはずもないが、秀吉の脳裏では「朝鮮侵略」は通過手段だったのである。秀吉を欺しながらすすめた講和交渉が破綻し、その後に再征した「慶長の役」は今度は朝鮮南部の占領を目標とする悲惨な侵略戦争になった。この戦争によって、統一権力は全国的な軍事動員体制を確立した。世界の三分の一に達するまで銀を増産し、強制連行した朝鮮人陶工によって後の大輸出品になる陶磁器生産が可能になった。日本史と世界史を変えた戦争だったのである。

 最後に「総論」では中世が厳しい「自力救済」の社会だったことが説明される。当時も「訴訟」に訴えることは多いのだが、たとえ勝っても現在のような「強制執行」とか「仮処分」などはやってくれない。だから武士たちは自らの実力で所領を守らないといけない。時代の進展とともに、人口も生産力を増えてゆき、全国各地で所領争いが頻発する。南北朝のように、天皇家も二つに分かれ、足利氏も分裂すると、日本中でどっちかが反対側について戦乱が長引く。戦国時代でも、「西国の戦国争乱」で説明される毛利氏と尼子氏の争乱では間に立つ地域の勢力は強い方に付くことを繰り返す。そして生き残った武士たちによって近世社会が築かれたわけである。
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のん最高、映画「星屑の町」

2020年04月19日 22時27分39秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画館も閉鎖されて新作映画を見られない。今調べてみたら、このブログでは日本映画は3月23日の「三島由紀夫vs東大全共闘」、外国映画は3月24日の「ジュディ 虹の彼方へ」が最後だった。その後も平日はやってた時期は時々見に行ったが、「三密」どころかガラガラだった。もっとも僕が見る映画はコロナウイルスに関わらず大体空いている。ウイルス問題ばかりだと飽きるから、いずれ書いておきたいと思っていた「星屑の町」を書いておきたい。ひたすら「ただ楽しい映画」だ。

 「星屑の町」はもとは舞台作品。水谷龍二脚本、ラサール石井らの出演で、1994年の初演から2019年のアンコール公演まで全7作が作られてきたという。僕は舞台版を見てないので判らないけど、地方回りの売れない昭和歌謡グループ「山田修とハローナイツ」を描くという基本は同じ。ラサール石井に加えて、でんでん小宮孝泰渡辺哲らのハローナイツのメンバーは全部同じだというからすごい。映画版はゲストに「のん」を迎えて、のんの歌とスターぶりがたっぷり楽しめる。素晴らしい。
(新曲「シャボン玉」を歌う)
 のん(能年玲奈)はしばらく実写映画にも出られなかった。「海月姫」以来6年ぶりだというが、鮮やかな存在感が見事。のん演じる久間部愛は岩手県久慈市(山の方)で母がやってるカラオケスナックを手伝っているが、歌手を目指して上京し夢破れて帰郷した過去がある。そこに「山田修とハローナイツ」なる地方周りが主な仕事の「昭和歌謡」グループがやってくる。山田修の出身地なので青年団が呼んだのである。そして愛はある思いもあって、是非メンバーに入れてくれと押しかける。

 夜のカラオケでの安請け合いを信じて、愛は公演会場の廃校になった小学校にやってくる。そして、入れてくれ、いやそれはのすったもんだのアンサンブルが楽しい。じゃあ、まあオーディションでもやってみるかと言うと、「新宿の女」(藤圭子)を弾き語りで熱唱。案外行けるかもというところで、今度は祖父の久間部六造にまつわるホラー話。深遠なテーマがあるわけじゃなくて、ひたすら楽しく進行するのがこの時期には嬉しい。「前座」のキティ戸田恵子)も聞かせるが、「ハローナイツ」の「昭和歌謡」が懐かしいのである。愛が入ったあとの「恋の季節」が最高。
(「新宿の女」を弾き語り」
 岩手県で青年団が主催公演と言えば、かつての山田洋次監督の映画「同胞」(はらから、1975)が思い浮かぶ。時代が半世紀近く違うしタッチが全く違う。今詳しく書く気はないけれど、大真面目がすでに時代遅れ感があった「同胞」に対し、「星屑の町」はエンタメに徹するのがいい。監督は杉山泰一で「のようなもの のようなもの」「トモシビ銚子電鉄6.4kmの軌跡」に続く3作目。音楽は宮原慶太で、映画内でいかにも「60年代風」の「シャボン玉」を作曲している。この曲をのんが白いワンピースを着て歌うシーンは本当に幸せになれる。

 今は全国どこでも休館だから見られないが、やがて再開されるかDVDになったときに見て欲しい映画。YouTubeには「しゃぼん玉」を歌うシーンがアップされていて、リンク先をクリックして是非聞いてください。テアトル新宿の公開記念トークや岩手県での記念上映会などもアップされている。予告編も楽しくてて、つい何度も見てしまう。「のん」が出てきて歌ってると気持ちが明るくなる。
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発症直前に感染力が最高?ー「新型コロナウイルス」の特性(4.18段階)

2020年04月18日 22時48分13秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 「新型コロナウイルス」について、最初はものすごく危険なウイルスだと思わなかった。実際に、多くの人は感染しても軽症で済んでいるようだ。その意味では「軽い風邪」とみなしても、全く間違いではないと思う。しかし、世界の経済活動は急ブレーキがかかってしまい、全世界で大混乱が起こっている。欧米諸国ではたくさんの死者が出て医療崩壊が起こっている。「先進国」の意外な脆弱性を見せつけられた感じだ。それを追求するのも大切だが、そもそものウイルスをどう評価するべきか、現段階でいくつかの指摘をまとめておきたい。

 まず中国で流行したウイルスと欧米のウイルスは同じものなのか。ウイルスは構造が簡単なため、変異も大きいとされる。これに関して「新型コロナは3タイプ」という報道があった(朝日新聞4.10夕刊他)。検索すれば記事が出てくる。独英の研究チームが160人分のウイルス遺伝子を分析した結果、Aタイプ=コウモリから見つかったウイルスに最も似た群。広東省の住民や日本人、武漢滞在歴のある米国人から見つかった。Bタイプ=Aから別れて、武漢を含む中国や周辺国に多い。Cタイプ=Bタイプに由来し、フランス、イタリア、スウェーデン、米国、ブラジルなどだが中国では未発見。
(3タイプを示すという図表)
 画像は論文に掲載されたものだというが、僕にはよく理解出来ない。この分析が正しいかどうかの評価も出来ないが、やはり欧米では「欧米で流行しやすいタイプ」だったのかもしれない。ただし、民族ごとに感染しやすさに違いがあるかどうかも判らない。この問題については、今後もっと研究が進んでいくのを待ちたいと思う。さて、もう一つ非常に注目すべき研究が山中伸弥氏のホームページ「山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信」に掲載されていた。このサイトは時々チェックすべき。

 「感染力は発症直前が最強か」(4.17)という重大な指摘。中国の広州第8人民病院の報告だという。「最初の感染者の発症日と2次感染者の発症日の間隔は、平均5.8日であった。一方、感染してから発症するまでの潜伏期は、平均5.2日と報告されている。この2つの数値の差は、2次感染者の多くは、最初の感染者が発症する直前(平均0.7日前)に感染したと推定される。」山中教授のコメントは「SARSは発症後7日目くらいが感染力のピークであり、発症者を隔離することにより2次感染を防ぐことが出来る。新型コロナウイルスは、発症前に感染力のピークがあるとすると、発症者の発見と隔離のみでは感染の封じ込めは出来ない。社会的距離の徹底が重要である。」

 発症しなければ、自分が感染しているかが判らないし、行動の自粛(仕事に行かずに家で休養する等)も出来ない。発症前に感染力が一番強いというなら、自分が感染したかもと疑問を持つ以前に誰か他人にうつしているのである。これでは一度爆発的に感染拡大が始まったら、なかなか止められないはずである。これはどういうことかと考えて見ると、「新型」であることとそれほど強力な「毒性」を持っていないということの複合だと思う。強力な「毒性」(細胞に入り込んでウイルスを複製する強さ)を持っていれば、新型だから免疫がないにせよ、もっと強力な「抵抗」を示してもいいと思う。

 風邪をひいたり、インフルエンザにかかると、普通はのどが痛み発熱する。その発熱こそが体の「抵抗」である。のどの炎症が起こって痛みが激しいのも、そこでウイルスと体の免疫機能が戦っている証だ。上気道の「のど」で抵抗して、本丸である奥の肺に敵が侵入しないように防御している。今回の報道では、発熱もそれほどではなく、のどの痛みなども見られないのに、肺炎症状になるという例もあるらしい。関所である「のど」が通過されてしまうのである。のどに炎症が起きれば、咳やくしゃみで排出しようとするから、発症後の方が感染力が強くなるはずだ。

 今回の新型は同じコロナウイルスでも、SARS、MERSのような「横綱級」ではない。だから少し安心していたのだが、なんというか「小兵力士」だからこそ存分に暴れ回っているという感じか。のどをやすやすと通過して、他の症状を出さないのに肺炎に至るという「トロイの馬」方式である。まあウイルスには知恵も感情もないけれど、もっと強力で致死率も高かったSARS、MERSが討ち死にしたので、今度は計略を使ってコロナウイルスを世界中に「繁栄」させることに成功したとでも言うべきか。

 もう一つ、他の病気で死んだ後で検査して感染が明らかになるというケースも報告されている。検査が足りないと言うよりも、ここでは「日和見(ひよりみ)感染」のようなことも想定可能かもしれない。日和見感染というのは、体の免疫力が衰えると体内にあったウイルスが活発化するヘルペスみたいなケースである。中国ではコロナウイルス肺炎と並行して肺炎球菌の肺炎も進行する事例があったという。もともと「基礎疾患があると悪化する」と言われていた。我々はそれを「基礎疾患」があって免疫力が弱いと新型ウイルスに対する抵抗力が弱くなると理解したと思う。しかし、コロナで弱った体に元々の疾患が悪さをして、そっちで死に至るということもあるのかもしれない。

 今のところ、研究は「今までにある薬の有効性」に集中していると思う。だが同時に新型コロナウイルスそのものの基礎研究も今後どんどん進んでいくだろう。とにかく前代未聞のウイルス禍であって、今までの常識があてにならない。発症前に感染させると言われても自分では防ぎにくい。ほとんど発症しないケースもあるようだし、潜伏期間も長いから自分が絶対に感染者じゃないという証明も出来ない。思った以上に「長い闘い」になるという観測も増えている。日本では味覚嗅覚の異常が広く見られている。その理由も判らない。人それぞれ、国それぞれで免疫にも違いがあるということかもしれない。
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石弘之「感染症の世界史」を読む

2020年04月17日 22時29分34秒 | 〃 (さまざまな本)
 これもしばらく最後かと思って、ちょっと前に「巣ごもり用」に本を何冊か買った。大型書店では「病気」に関する本が特集されていて、歴史系の本としては中公文庫のウィリアム・H・マクニール「疫病と世界史」(上下)が一番詳しそうだった。しかし、2巻あって長いし一冊が1320円もするので敬遠。代わりに石弘之感染症の世界史」(角川ソフィア文庫、1080円)を買うことにした。こっちもけっこう高いけど、「緊急重版」とあるし「新型ウイルスの発生は本書で警告されていた」という帯の宣伝が効いた。

 著者を最初に紹介すると、元朝日新聞編集委員で世界の環境問題について報道して多くの本を書いていた。「世界環境報告」(1988)や「酸性雨」(1992)などの岩波新書はずいぶん授業のネタ本として使わせて貰った。その後どうしているんだろうと検索すると、朝日を早期退職後に東大教授やザンビア大使なんかを歴任していたとは知らなかった。その後も環境史的な著書を多く書いている。兄は元税調会長の故・石弘光だが、弟の石和久が医師(順天堂大学名誉教授)で性感染症の著書もあるそうで、そんなことも感染症に関心を持つ理由かもしれない。

 最初に帯の「警告」について。確かに終章の「今後、感染症との激戦が予想される地域は?」のトップに「感染症の巣窟になりうる中国」と書かれている。その章の最後は「世界の高齢化と感染症」である。こう見ると「本書で警告されていた」とも言いたくなるだろうが、「アフリカ開発が招く感染症」「熱帯林に潜む新たなウイルス」という話の方がずっと長い。つまり、今回は中国由来だったが、次にいつ「エボラ出血熱」のようなアフリカ由来の強烈な感染症が現れるか、油断できないということだ。

 さすがにSARS(重症急性呼吸器症候群)、MERS(中東呼吸器症候群)に続き、再び新しいコロナウイルスが現れるだろうとまでは予言されてはいない。むしろ「新型インフルエンザ」出現の恐怖の方が印象的だ。「スペイン風邪」は新型インフルエンザだったらしいが、今後もいつ現れるか判ったものではない。日本政府が「アビガン」を大量に備蓄していたのも、新型インフルエンザに備えてのことだった。もし新型インフルエンザが出現したら、その恐怖と影響は新型コロナウイルスを遙かにしのぐ強烈なものになるだろう。僕らはそのことをいつも頭に入れておかないといけない。

 ところで「インフルエンサー」(Influencer)という言葉がある。ウェブ上での「影響力の強い人」のことだ。乃木坂46の曲名でもあり、レコード大賞を受賞した。(「レコード」じゃなくなってもレコード大賞なんだね。)この言葉を始めて聞いたとき、なんかインフルエンザみたいだなあと思った人も多いと思う。そうしたら、やっぱり語源は同じだった。1504年にイタリアでインフルエンザ(と思われる病)が流行し、冬になると毎年のように流行する季節性から、「天体の運行」や「寒さ」の「影響」で起きると考えられたという。イタリアで「影響」は「インフルエンツァ」(iufluennza)で、1742年に英訳されて「インフルエンザ」と呼ばれるようになったという。なるほど、やっぱり同じ言葉だったのか。

 この本で印象的なことは、人間と細菌、ウイルスは切っても切れない関係があるということだ。ウイルスは人間の遺伝子にも入り込んで「共生」してきた。動物も同様で、人間と動物の深い関係からも、ウイルスは常に新しくバージョンアップされて人間に影響を与える。悲観的に聞こえるかもしれないが、それが人間の歴史だったのだ。そして日本は感染症対策で決して「先進国」とは言えない現実も示されている。新型コロナウイルスに関する「BCG仮説」によって日本の対策が十分だったと思っている人もいるだろう。しかし、はしか風疹結核などで世界に遅れている現実が示されている。

 人類は「天然痘」という歴史を変えてきたような大感染症を完全に終息させた。自分の若い頃は、まだ「種痘」があったのである。この偉大な成功を目にして、自分もどこか「いつか人類は感染症を克服できる」みたいな思い込みがなかったとは言えない。そのことを強烈に思い知る本だった。「そんな甘いもんやおまへんのや」(「帰ってきた酔っ払い」風に。)
 最後に目次を紹介して終わりにしたい。(原著は2014年、文庫化は2017年)
まえがきー「幸運な先祖」の子孫たち
序章 エボラ出血熱とデング熱ー突発的流行の衝撃
第一部 20万年の地球環境史と感染症
 第一章 人類と病気の果てしない軍拡競争史
 第二章 環境変化が招いた感染症
 第三章 人類の移動と病気の拡散
第二部 人類と共存するウイルスと細菌
 第四章 ピロリ菌は敵か味方かー胃がんの原因をめぐって
 第五章 寄生虫が人を操る?ー猫とトキソプラズマ原虫
 第六章 性交渉とウイルスの関係ーセックスががんの原因になる?
 第七章 八種類あるヘルペスウイルスー感染者は世界で一億人
 第八章 世界で増殖するインフルエンザー過密社会に適応したウイルス
 第九章 エイズ感染は100年前からー増え続ける日本での患者数
第三部 日本列島史と感染症の現状
 第十章 ハシカを侮る後進国・日本
 第十一章 風疹の流行を止められない日本
 第十二章 縄文人が持ち込んだ成人T細胞白血病
 第十三章 弥生人が持ち込んだ結核 
終章 今後、感染症との激戦が予想される地域は?
あとがきー病気の環境史への挑戦 
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「今そこにある」医療崩壊ー世界比較で医師が少ない日本

2020年04月16日 23時17分25秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 政府は「緊急事態宣言」を全国に広げると発表した。当時のブログでは愛知県や京都府を除外するのはおかしいと書いたが案の定だ。また政府は「世帯ごとに30万円給付」という緊急経済対策を打ち出し、国会で「全体で事業規模108兆円、GDP(国内総生産)の2割に当たる対策は世界的にも最大級だ」などと豪語していた。それが一転、「国民一人当たり10万円支給」に変わるという。「世界最大級」はどうしたんだ? こんなに「朝令暮改」が相次ぐとホントどうなってるのと思う。こういう批判が出て、こうせざるを得なくなるという想像力が働かないのだろうか。

 日本でも新型コロナウイルス感染者数が増え続け、「医療崩壊」が近い、いや始まっているという報道が多くなってきた。昔謀略小説をよく書いたトム・クランシーに「今そこにある危機」(1989)という小説があった。ハリソン・フォード主演で映画化もされたが、なんだかその題名を思い出してしまった。原題を調べると「Clear and Present Danger」という。この「Present Danger」が日本の病院にも迫っているという。自分では医療現場を実感で知ることが出来ないが多くの報道が危機的状況を示している。
(横倉医師会長の発言)
 報道によれば日本全国の感染者は9千名を超えたという。大都市ばかりではなく、地方でも感染者数が急拡大しているのは事実である。クルーズ船関係者を含めると死者も200名を越えた。しかし、死者が3万を超えたアメリカ2万を超えたイタリアに比べて、まだ相当少ない段階にある。それでも「医療崩壊」してしまうんだろうか。そこには新型コロナウイルス独自の問題だけに止まらず、特殊日本的な課題がそこに現れていると思う。

 まず「院内感染」が非常に多い。福祉施設も含めて報道されたものは全国で幾つになるんだろうか。特に最初に大きく問題化した東京都台東区の永寿総合病院のケースでは、なんと163人が感染し、入院患者20人が死亡している。この死者はウイルス感染肺炎で入院したわけではない。他の病気で入院していて、今は感染防止のため面会も出来ないまま、突然院内感染したと言われ、数日後に突然亡くなって最期も看取れないまま遺骨だけが届くのである。また永寿総合病院から、コロナウイルス感染者じゃない患者が慶応大学病院に転院したことから、そちらにも院内感染が及んでしまった。

 何でそんなことが起きたのか。ウイルスの特徴は別に考えることにしたいが、このような院内感染が各地で起きたことにより、患者を受け入れ可能な病院がどんどん減っていく。救急搬送されても受け入れられず、「たらい回し」される事態がすでに起こっているという。コロナウイルス患者が受け入れられないだけでなく、他の病気の患者のケアに回せる人的余裕も失われつつあるんだと思う。千葉の障がい者施設で起こった集団発生では、朝も全員検温していればもっと早く察知できたのではないかと思うが、人員的にそこまで手が回らなかったとニュースで聞いた。医療や福祉の現場では、もともと待遇も不十分なのに重労働が続き慢性的に人手不足だったのではないだろうか

 発熱をしても検査が受けられないという声も多い。「PCR検査」Polymerase Chain Reaction(ポリメラーゼ連鎖反応)は病原体のDNAを増幅させることによって検査する方法で、時間も人材も必要だ。(ポリメラーゼはDNA鎖を合成する酵素だそうだが、複雑なので僕には説明不能。ポリメラーゼ連鎖反応で検索すれば説明が出てくる。チェーン・リアクションで「連鎖反応」である。)

 意図的に検査させないという憶測もあるが、少なくとも首相自らが1万人、2万人と数値目標を挙げても目立った改善がないんだから、いつものように「現場無視の数値目標」なんだと思っている。保健所も手一杯、病院も受け入れ不能、若い患者はどうせ自宅療養しかないから検査は後回し。これなら熱が下げれば、クビにならないように仕事(アルバイト)に行く若い世代がいても責められない。

 医療者の世界比較を探してみると、やはり案の定、医師も看護師も日本は低かった。看護師はまだしも、医師の数は明らかに少ない。教育にかける予算が世界先進国の中で日本が非常に少ないことは教育界では知られている。だから多分そうだろうと思うんだけど、やっぱり医師の数が少なかった。その中で最前線で重労働を担っているんだから、医療従事者は本当に大変だ。「感謝」ではなく、「差別」を医療従事者に投げかける人が多くいる日本という国に驚き、悲しみ、怒りを感じている。
(人口当たり医師、看護師数の世界比較)
 我々にすぐ出来ることが何かあるか。特に緊急に出来ることは、まあSNS上などで感謝のメッセージを広げることもいいと思うけど、それ以上に今僕たちは他の病気やケガにならないことだと思う。好きで病気になるわけじゃないから、心筋梗塞や脳梗塞に突然なったら仕方ない。しかし防げることも多い。季節的にも、手洗い等をみんなしているから食中毒は少ないと思う。でも家で食べることが多いから、油断していると期限切れのものを食べて中毒することもあり得る。それ以上にケガである。家はけっこう危険な場所で転倒などがよく起こっている。宅配を頼むことが多いと、急いで出ようとして転倒することもある。注意すれば防げることで救急車を呼ばないように、みんなで気をつけたい。
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多和田葉子の「ベルリン通信」よりー新型コロナウイルス問題

2020年04月15日 21時03分16秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 最近世界的に評価が高くなっているベルリン在住の作家、多和田葉子に関して昨年二つの記事を書いた。「多和田葉子、高瀬アキの「晩秋のカバレット2019」」と「多和田葉子の小説を読む」である。その多和田葉子は時々朝日新聞に「ベルリン通信」という文章を書いている。4月14日付で掲載された記事はとても教えられることが多かったので、抜粋して紹介してみたい。
(多和田葉子)
 それは「理性へ 彼女は静かに訴える」と題されている。彼女とはアンゲラ・メルケル首相のことである。表題は本人が付けたものかどうか判らないけれど、新型コロナウイルス問題に揺れるドイツの状況を冷静にリポートして考えさせるところが多い。まず「飲食店も文化施設もすべて閉まっている今の生活は異常事態だ。家にこもっているせいか時間の流れが滞り、もう何か月もこの状態がつづいているような錯覚が時々起こる。」とある。

 そして、日本が夏に五輪を実施する気でいた頃、すでにドイツは「感染の広まる速度を遅らせることに重点を当てた対策が取られ始めた。」「(イタリアなどと)同じ失敗を繰り返さないためには社会生活を規制するしかない」「ドイツ人の甘えのない現実主義に感心してしまった。」というのである。

 「もう一つ感心したのは「高齢者や病人などの弱者を守る」という目標が常に強調されていたことだった。症状が重くなるのは主に高齢者だったので、若くて健康な人ならば軽い症状だけで済むと信じられていたせいか、三月下旬になってもまだベルリンの若者の多くはパーティに明け暮れていた。(中略)「弱者のために」という呼びかけにベルリンの若い人たちも徐々に応じ始めた。ドイツ人は個人の行動の自由を規制されることには敏感だが、メディアを通して短期間に集中的に議論が交わされ、情報が行き渡ったおかげか、みんなが納得するスピードがほぼ一致していた。(中略)コロナ危機が去った後に民主主義感覚が麻痺しているのでは困る。独裁政治は時にウイルス以上に多くの死者を出す。」

 「ライブハウスもジャズ喫茶もこのままでは潰れてしまう。個人経営のヨガ教室も理髪店も同じ心配を始めた。その不安に答えるように、国の予算が赤字になるのは承知の上で補助金を出す、とメルケル首相が発表した。零細企業は雇用者に払う給料の一部と家賃を肩代わりしてもらえる。フリーの俳優、演奏家、朗読会の謝礼を主な収入源にしている作家などは、蓄えがなくなって生活が苦しくなった場合は申請すればすぐに九千ユーロの補助金をもらえる、と書かれた手紙が組合から来た。わたし自身は補助金をもらう気はないが、文化が大切にされていることを実感するだけで気持ちが明るくなった。」

 「興味深いのは、ポピュリストたちが大幅に支持者を失ったことだ。彼らは以前、移民こそが国を蝕むウイルスであるかのような演説を行ってきたが、本物のウイルスが発生した今、ウイルスの危険性を否定するだけで現実的な対応のできない極右政党は支持者数を減らしている。(中略)今度の危機では住宅環境に恵まれない難民などを守ろうという雰囲気がベルリン全体に広がっている。」

 「テレビを通して視聴者に語りかけるメルケル首相には、国民を駆り立てるカリスマ性のようなものはほとんど感じられない。世界の政治家にナルシストが増え続ける中、貴重な存在だと思う。新たに生じた重い課題を背負い、深い疲れを感じさせる顔で、残力をふりしぼり、理性の最大公約数に語りかけていた。」 多和田葉子の書くメルケル首相のふるまいには、何か非常に深い大切なことがあると思う。世界に増える「ナルシスト政治家」とは誰と誰と誰…を指すだろう。

 全文は検索すれば朝日新聞の有料記事サイトで読める。(無料登録可能。)この「ベルリン通信」を読むと、文化を守るために即効的な対策がすぐに取られるドイツの状況が信じられないぐらい新鮮に見える。日本にいるだけでは、日本の異常さが判らない。それとウイルス対策としての外出自粛などは、「弱者のために」という社会連帯が強調されていることも印象的だ。これが日本には乏しい。「危険だから身を守れ」ということだけを強調するから、何と医療従事者に差別が生じ、心ない言葉をかける人までいるという見下げ果てた社会になっている。

 理性的に語りかけるのではなく、危機をあおりたてるような政治家ばかり見てきたから、今さら「連帯」などと言われても誰も信用しないかもしれない。安易に戦後の日独を比較するのは意味がないと思っているが、それにしても日本とドイツの戦後の歩みを感慨深く思い返すしかない。単に新型コロナウイルスの問題ではなく、戦争責任に目を閉ざし、「自己責任」と言い続けてきたことの帰結がここにある。(引用中のゴチック部分は引用者による。)
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今こそ「生存権」を確認し、「防衛」の意味を考える

2020年04月13日 22時38分00秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、安倍首相が4月7日(火)に「緊急事態宣言」を発した。ところが、その後様々な事業に対する休業要請が遅れた。政府と東京都の調整が遅れたとかで、ようやく10日になって発表された。これには多くの人が疑問を持っただろうが、特に早期に休業を決めた百貨店について、経産省が大手4社のトップを呼んで非難したというのには呆れてしまった。政府は「デパ地下」を開けて欲しかったらしいが、それは霞が関の官僚の都合なんだろうか。デパ地下が開いてれば便利かもしれないが、都心に多くの従業員や業者が行き来しなければならない。

 当然のこととして「休業要請」と「補償」はセットで発表されると思っていたら、それも違った。国家的な制度は作らないらしい。要請するのは都道府県知事だから、国は放っておくのだろうか。東京都はそれでも補償措置を作ったが、麻生財務相など「東京は金があるから」などと高みの見物である。日本という国家はどうなっているんだろうか。補償なくては生きるために店を開けなければならないという人も出てくるだろう。当然考えてあるだろうことが、全然詰められていないのだ。

 そんな中で多くの自営業者の悲鳴があがっている。多くの店がつぶれかねない。音楽、演劇、落語などの関係者、ライブハウスやミニシアターなども長引く「自粛」に困り果てている。そうしたら、夜の外出自粛要請で「接待を伴う」仕事も大変だそうで、「風俗業界」で働く女性が困っているという。子どもがいるシングルマザーはもともと貧困を強いられ大変なことが多い。他に働ける場も少なく、学校も休校になる中で困るだろうが、「休業補償」というとその業態を保護するのかと批判もある。

 このような事態を考えるとき、今こそ「日本国憲法第25条」の条文を思い出すべきではないか。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する
 この条項でうたわれた権利を「生存権」と呼んでいる。どのような人であれ、すべて「生存権」を有しているという規定である。ここで言われているのは、仕事内容や「損害額」に関わらず「健康で文化的な最低限度の生活」が保証されるということだ。そのため「生活保護」という制度があるわけだが、今回は病気や障害で働けないわけではない。働く場も働く気もあったのに、突然のウイルス蔓延で職場を臨時的に閉じている。この臨時的突発事態に対しては、頭を柔らかくして臨時的な措置を講じるべきだ。

 憲法25条には「第2項」もある。今まであまり強調されなかったと思う。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
 「社会福祉」と「社会保障」は、覚えてないかもしれないが中学社会科(公民的分野)や高校の現代社会などで触れられている。今までそこは一応授業でも触れていたかと思うんだけど、「公衆衛生」は意識しなかった。戦争直後のまだ衛生状態が悪いときには意味があったかもしれないが、現代日本ではほとんど意味がないように思っていた。それは間違いだった。今もまだ、今後もずっと「公衆衛生の向上及び増進」は社会福祉、社会保障と同様に重視していかないといけないのだった。

 「全国保健所長会」のホームページを見ると、保健所数の推移は下のグラフのようになっている。そのグラフで判る限りのデータで言えば、1992年度には852か所の保健所があった。2019年度には472か所に激減しているのである。大規模な自治体合併などもあったが、要するに「行政改革」「公務員削減」の名の下に減らされていったのだ。その間、「防衛費」は増え続けて生きた。「イージスアショア」(陸上配備型ミサイル迎撃システム)などそもそも「日本を守る」ためのものではない。真に「日本を守る」ことに税金を使うため、大胆に「不要不急」の防衛費の削減が必要だ。アメリカ製兵器に巨額を支払うのはまさに「不急」ではないのか。
(保健所数の推移)
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