尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

オウム事件を考える②

2011年11月30日 23時37分22秒 | 社会(世の中の出来事)
 今日はオウム裁判の問題点を中心に。僕は死刑廃止論者だが、今回はその問題を書きたいわけではない。前回の記事で紹介した「日本脱カルト協会」のサイトを見ると、「麻原彰晃以外の12名の死刑判決に反対する」という内容の文書が載っている。

 そこでは、この事件の理解として「12名のいずれもが、松本死刑囚と同人が作ったシステムの中で、睡眠不足、栄養不足そして情報不足の中、それまで各人がもっていたビリーフシステムを、巧妙な心理操作の上で「グル=最終解脱者真理の御魂最聖麻原彰晃尊師に絶対的に服従する」「グルの指示で人を殺すのは救済活動であり、良いことだ」などと、入れ替えられたうえでの事件だったということであった。」と書いている。そこで「一連のオウム裁判は、破壊的カルト集団が犯した事件に対する審理として、殆ど世界で初めての裁判であり、世界中が注目してきたことである。かようなとき、12名に対して命を奪う死刑を言い渡し、さらに執行することは、日本の司法と司法行政が破壊的カルト集団の本質を理解していないことを世界に示すものとなってしまうものであり、日本の歴史に重大な禍根を残す。」という判断となる。また同協会によれば、この裁判ではマインドコントロールの問題が正面から取り上げられなかったという。オウム裁判では、あまりにも事件が多岐にわたるため、これ以上の裁判長期化を避けるため、公訴事実をしぼった。そのためLSDや覚醒剤の密造を裁かなかったことが背景にあるのではないかという。

 カルト教団の犯罪に対し、国家的な調査や対応がなかったのは確かである。本来なら捜査の問題点など国会でも総力をあげて調査すべきだったのだが。(さすがに今回、原発事故の調査委員会は国会に設置されたが。)「マインド・コントロール」という言葉は当時の「流行語」となり、誰もが知っていた言葉だが、刑事裁判では取り上げられなかった。刑事裁判というもの自体が、「自分で判断できる能力」を持つ者を裁くという前提がある。だから、起訴した被告人は、検察側からすると、皆責任能力を持つのである。(起訴前に精神鑑定で異常が認められれば起訴できない。従って起訴した以上は、被告人は「正常な判断能力」を持つと主張する。)地下鉄サリン事件の実行犯を起訴しない、できないという判断は当時できなかっただろうから、裁判は「責任能力を持つ人間の共謀による犯行」として進行した。

 それは果たして正しかったのだろうかと僕は思ってきた。地下鉄サリン事件はオウム真理教による「共謀共同正犯」が成り立つとされた。そして、首謀者、サリン製造者、調整役、実行犯は「死刑」、送迎役は「無期懲役」となっている。(ただし千代田線事件の実行犯林郁夫は自首を認められ無期懲役、送迎役の新実智光は坂本弁護士、松本サリン事件の実行犯でもあり死刑と逆転しているが。)普通の銀行強盗かなんかだったら、銀行に押し入った実行犯と車を運転するだけの送迎役では、確かに「刑事責任」に差があることが多いだろう。しかし、地下鉄サリン事件では実行犯か送迎役かは本人の能力差や「やる気」によったわけではないだろう。歴戦の強者、新実が地下鉄サリンでは送迎役なのは、誰が決めたか知らないが、首謀者が決めたことであるだろう。本人が決めたわけではなく、「役割」として遂行したという事件の場合、実行犯とほう助犯という区分は成り立つのだろうか?

 一方、丸の内線池袋行の事件では、唯一死者が出なかった。だからこの路線だけの事件だったら、殺人未遂罪にしか問えない。しかし、他の路線で死者が出たということで、「共同正犯」の理論により、丸の内線池袋行電車の実行犯、横山真人は死刑、送迎役の外崎清隆は無期懲役である。死者が出なかったのはたまたまであり、この事件全体としては同じ構図だから、実行犯の刑事責任が重いというのは確かだが、「一人ひとりがそれぞれ犯した犯罪を裁く」ということなら、死者が出なかった実行犯は殺人未遂罪なのではないかという気もする。「共謀共同正犯」という法理論が難しい。オウム事件において、命令的に行われたことに「共謀」を問うことに違和感が残るというべきか。「共謀共同正犯」理論に基づき、坂本弁護士事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件の実行犯、サリン製造者は死刑と決められていて、裁判は長い儀式だったという感じがしてしまう。

 もう一つ、麻原裁判が途中で終わってしまったことが禍根を残した。かつてない事件であり、事態であったので、ルールを墨守することで良かったのか。心神喪失者は死刑執行ができないことが刑事訴訟法で決められている。麻原の状況が把握できないままで終わったことはそこに影響してくる。「詐病」という人もあり、「精神疾患」という人もあり、「拘禁反応」という人もある。僕は判断する材料がない。多くの人は、教祖が何も語らないままに裁判が終わったことに納得できていない。しかし、それでも麻原を教祖と仰ぐ人もいる。このまま謎を抱えたまま死刑執行することがあれば、時間が経てば「殉教者」視する人が出てくるのは間違いないと思う。国家権力が強権的に裁判を打ち切り、教祖の命を奪ったと思い込む人々である。時間が経って当時のことを知らない人が出て来れば、何でもありうるのだ。僕は麻原彰晃という人物は、事件を何も語らなかった「ただのひと」として、終身拘禁され続けるというのがその身にふさわしいと考えているのだが。

 政治的な背景がある事件も、宗教的な背景がある事件も、事件としてはただの刑事事件というのは確かであるが、やはりただ裁判をやって厳罰にすればいいという社会では奥行きが狭まる感じがする。カルト犯罪にどのように対処すべきかという点から考えると、あまり重要なものが残らなかった裁判だろう。もちろん裁判はそういう役割とは違うことも確かだが。

 「オウムは危険」、だから危険そうな新興宗教や危険そうな政治団体には関わらない、自分の主張はどうせ通らないから主張しないし、心の解放は求めない。ガマンできる限りは一人でガマンし、できなくなったら一人で辞める。そういう社会になってしまった気がする。
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オウム事件を考える①

2011年11月30日 00時24分48秒 | 社会(世の中の出来事)
 オウム真理教の様々な裁判が一応終結した。一応と書くのは、まだ「判決訂正」申し立て中なので正式には判決が確定していないということもあるが、まあこれは形式的なものである。もう一つ、「共犯者」が逃亡中なので、これから裁判がないとは言えない。マスコミが「裁判終結」とあまり言うので、もしかしたらもう逃亡中の容疑者は捕まることがないという秘密情報でもあるのかもしれないが。

 シアター・イメージフォーラムという映画館で、11.30~12.8に「ポーランド・アニメーション映画祭」という催しがある。そのチラシが今手元にあるのだが、こんな言葉が書いてある。
 我々に
 別世界は
 必要ない。
 必要なのは
 鏡だ。

 僕がオウムについて言いたいことはほぼこれに尽きている気がする。

 オウム真理教事件は日本にとって非常に大きな事件だったが、僕たちの社会はそれにどう対応したのだろうか。世界は80年代末に「冷戦終結」という新時代に入ったが、東アジアだけは「北朝鮮」「台湾」問題が解決せず、冷戦構造が完全には解消していない。そこに、オウム事件が起こり、アメリカや他の国が「9.11」で直面することになる「異なる価値観を持つ集団と対決するためには、我々の社会も自由を放棄するのが当然だ」という主張が、世界に先駆けて実現されてしまった。

 僕はそのように考えている。オウムこそが、21世紀に入っての小泉現象をもたらした。「白か、黒か」という決めつけの社会が現出してしまったのだ。オウムを葬るために、社会全体がオウム化した。だから、オウムを生み出した根っこの部分はそのまま残っている。(そういう社会の中で、「教員免許更新制」も発想されるし、「10.23通達」や「大阪府教育基本条例」も出てくるのだと僕は思っている。)

 95年は1.17に阪神大震災が起こった。阪神高速道路が倒壊するという情景を見て、ありえないことが起こったと皆思った。そこから、本当は「もし他で起こったら原発は大丈夫か」という運動が広がるべきだったのだが、原発のみならず他の社会運動が皆力を失ったのは、経済不況の影響も大きいが、オウム真理教事件の負の影響が大きいと思う。70年代の政治的な運動が壊滅したあとに、身体の解放、自然食、フェミニズムなどの運動が広がった。しかし、当初「ヨガ」の集団を標榜した「オウム」の事件により、「皆で集まって自分たちが生きやすくなるようにする」という文化がつぶれてしまった

 以後のグローバリズムの中で、日本の若い世代は「裸で狼の群れの中に」投げ込まれてしまった。他の国ではデモやストライキが起こったのに、日本では企業のなすがままになってしまった。「連帯の文化」が消えてしまったのである。若い世代は「鏡」を求めずに、自ら「別世界」に逃げ込んで、自分だけを守ることに必死になった。そして自分を守れない場合は、外に訴えるのではなく、自らと自らの周囲の人々を傷つけてしまうことを選ぶ。そういう時代をオウムが用意したと思うのだが、無論どう応えるかは僕ら全体の責任だったわけだし、日本社会の余裕のなさが露呈したのだと思っている。

 なお、オウム真理教を受け継ぐアレフは足立区に集結しているそうだが、これは小菅の東京拘置所に近い場所という意味があるだろう。団体規制法(無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律)の団体指定は、まだ継続されなければならないと考えている。(これは地元ですから。)
 大学等での「脱カルト」教育も必要ではないか。日本脱カルト協会のサイトがある。裁判の具体的な話は明日。
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「もしイタ」を見てきて

2011年11月27日 21時20分57秒 | 演劇
 青森中央高校演劇部の「もしイタ」気仙沼公演を見てきました。「もしイタ」では判らないと思います。「もし高校野球の女子マネージャーが青森の『イタコ』を呼んだら」という高校演劇です。青森中央高校は演劇で知られた学校で、この10年間で2度の日本一になっています。顧問の畑澤聖悟さんは、最近見た劇団民藝の「カミサマの恋」を書いたプロの劇作家でもあり、劇団活動もしています。今回の「もしイタ」も畑澤作品で、今年の青森大会で最優秀賞を取り東北大会へ出場することになっています。それを自分たちでバスに乗って被災地を訪れ無料で公演して回るという「被災地公演プロジェクト」。この週末は、26日の1:30に気仙沼、17:30に大船渡、27日1:00に釜石という3連続公演で、すごいエネルギー、「高校生パワー」でそれだけでもすごいですね。
 
 僕が知ったのは、畑澤さんの劇団「渡辺源四郎商店」のホームページを見たからです。当初気仙沼公演は高校の文化祭で行うとされていたこともあり、是非見たいと思いました。誰が見てもいいとは思うけど、あまり遠くからたくさんの人が行くのもどうかなと思ったので、ブログでは紹介しませんでした。最初は前日から行って春に行った唐桑を再訪したいなどとも思ったのですが、金曜日にイラン映画を見たいということで、結局土曜日に早起きして車を飛ばすことにしました。見た後で海の方を少し見て、頑張って日帰りで帰ってきました。東北道は朝から結構車が多いのにビックリ。前に行ったときは福島に入るとずいぶん高速道がガタガタでしたが、今はかなり修復されていました。30分ほど前に、迷うことなく会場の中学に到着。門にパンフが貼ってあります。前のグラウンドには仮設住宅が並んでいます。中学の多目的室にはステンドグラスがあってきれいな会場でした。椅子を並べて、全部で100人程度だったでしょうか。
   
 会場が明るいですが、これでできます。舞台じゃなくても、照明や音響や大道具がなくても、少し広い場所があればどこでもできる劇。自分たちでどこにでも行って上演できる劇。音響効果は全部自分の声で出す。演劇部員27名、みんなで走り回り、作り上げる「笑いあり、涙ありの60分」。あの震災の後で、大津波や原発事故を前にして、発するべき言葉はあるのか。文学や音楽や映画や演劇は、何か発信することは出来るのか。多くの表現者は悩み、迷い、考え続けていると思います。半年以上たち、少しずつ表現も現れていますが、成功しているのかどうか。そんな中で、この高校生の演劇プロジェクト、正直って「やられた」という思いがしました。演劇には、舞台も大道具も音響装置もいらない、自分たちの身体と声さえあれば表現できる。この自由な発想。今、自分たちが元気に活躍することがそのまま被災地とつながるメッセージになるという、素晴らしいプロジェクトです。

 ある高校の野球部。去年はぼろ負けした弱い高校で、皆やる気のかけらもない。そこに訳あって2年になって入部した女子マネージャーが一人で頑張る。最初8人しかいないから試合にも出られないけど、被災地から転校してきた元野球部の生徒を誘い、コーチも呼んでくる。ところが、このコーチは、なんとイタコの老婆だった。イタコの授ける秘策で、果たして地区大会を勝ち抜けるか。という、「もしドラ」のパロディですが、実に驚くべき荒唐無稽な発想で、笑える。イタコという青森のイメージをうまく生かし、確かに笑えて泣けました。イタコの使い方もうまく、最後はわかっていても泣ける展開で、観客の皆さんも感動していたようです。内容もですが、このような劇を作り所せましと駆け回る高校生の姿そのものが「演劇の本質」を伝えている気がしました。

 畑澤さんのブログから少し引用します。
 「青森中央高校演劇部は震災以来、演劇を学ぶ者として、また、東北に暮らす高校生として、何をするべきかずっと考えてきました。」
 「高校演劇部にとって年間最大のイベントである地区大会を終えた9月中旬、部員全員で話し合いを持ちました。その中で今度こそ自分たちが被災地の人たちのために何かやろう、と全員一致で決定しました。わたしたちのやれることはやはり演劇であろうと考えます。今まで学んだことを生かす、というだけではありません。演劇によって幸福を味わわせてもらっている私たちは、演劇で他の誰かに幸福になっていただく努力をしなければならないと思うのです。」
 「本作は執筆の段階から意図的にすべての舞台効果を排除して制作されています。すなわち舞台には一切の舞台装置や置き道具がなく、役者は一切の小道具を用いず、照明・音響効果も使いません。これは被災地での上演を想定したもので、つまり体育館や集会所、グランドなどある程度の広さのある場所ならば照明設備や音響設備、暗幕などがなくても上演できます。仕込みやリハーサルの時間を必要とせず、より被災地のニーズに合わせることが可能になっています。」
 「本作には『舞台効果がない』と書きましたが、それは機材を必要とする電気的効果のことです。27人の高校生(演劇部員全員)が舞台狭しと駆け回るこの舞台では、全員が劇中歌を歌い、全員がBGMを口三味線でハミングし、効果音さえも役者が声で発します。劇中に野球の試合の場面がありますが、その際の観客の歓声、応援団やチアリーダーの声援、バットがボールを捕らえる打撃音など、全ての音響効果が役者の肉声のみで表現されます。このように躍動する高校生の姿をお見せすることによって、元気をお届けしたいと考えています。」

 このような活動を行っている高校生がいるということ自体が感動的で、それ自体が演劇だと思います。僕はこの文章と、発想に深く感動しました。今年の日本は「そもそも」を考える日々だったと思うのですが、そもそも「演劇」(=人間の劇的なるふるまい)とは何かということを考えさせられる劇ではないかとも思います。今後、12.14日夜に、岩手県久慈市で公演がありますが、遠いし平日だし他からはちょっと行けませんね。これは東京で見ても仕方ないですね。現地まで行くということを含めての演劇体験でしょう。もし、今後もあるようでしたら、紹介したいと思います。

 ということで、みなさんご苦労様でした。ありがとうございます。劇中はさすがに写真を遠慮したので、終わった後で皆が挨拶しているところ。最後に気仙沼の有名になってしまった津波で乗り上げた船。陸から撮っているので何だかわからないですが。
  
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ジャファール・パナヒ監督のこと

2011年11月25日 22時43分36秒 |  〃 (世界の映画監督)
 東京フィルメックスという映画祭を今やっていて、その招待作品で「ジャファール・パナヒ、モジタバ・ ミルタマスブ」の二人の名前がクレジットされているイラン映画「これは映画ではない」を見た。「これは映画ではない」というタイトルの映画。でも、映画ではないかと言われるかもしれないが、ここには二つの意味がある。

 ジャファール・パナヒは、2009年のイラン大統領選でムサヴィ候補を支持し反体制派の立場で映像を撮った。そのことで、「反体制の宣伝活動に携わった」などとしてテヘラン革命裁判所から禁錮6年の判決を言い渡され、監督活動や外国への渡航を20年にわたって禁じられたという人物である。その後、保釈され、その間に作られたのがこの映画。従って「映画は撮れない」ので、友人の記録映画監督を招いて自分を撮ってもらう。自分は監督していないので「これは映画ではない」。もう一つ、監督活動や出国と並び、脚本執筆も禁止された。そこで自分が前に書いて映画化が許可されなかったシナリオを読む。「脚本を読むことは禁止されていないと思う。」で、本当は映画化されるべきだったが未だに映像化されていない世界が朗読と自作解説で示されるところを記録する。従って「これは映画ではない。」

 ジャファール・パナヒという監督は、95年に「白い風船」でデビュー。これはカンヌ映画祭新人監督賞。アッバス・キアロスタミが脚本を書いた。2000年の「チャドルと生きる」はヴェネツィア映画祭金獅子賞。日本では2002年に公開され、9.11以後のアフガニスタン戦争との関係で大きな反響を呼んだ。2006年の「オフサイド・ガールズ」はベルリン映画祭審査員グランプリ。つまり三大映画祭制覇という監督なのである。この映画は、イランでは女性がサッカーを見られないということを世界に示した。どうしても見たいと男装してサッカー場に潜り込もうとする女子学生を描いたこの映画は、もちろんイランでは上映禁止である。ちなみになぜサッカー場に女性が入れないかと言うと、「男が汚い言葉で野次を飛ばすような風紀が悪い場所から女性を保護する必要がある」という理由かららしい。それなら男の入場をこそ禁止して、女だけで見れば解決すると思うけど。

 こういう世界的に注目されている映画監督が、撮影した映画の中身のことで(撮影禁止、上映禁止と言った行政処分ではなく)、禁錮刑と言う刑事処分を科されようとしている。ちょっと他の国では聞いたことがない。戦時中の日本で記録映画監督の亀井文夫が治安維持法に問われた。ソ連や文革中の中国でも弾圧や粛清はあったが、映画撮影そのもので罰せられた例は少ないのではないか。そういう恐ろしいできごとを世界に示す映画として、これは見てみたかった。弁護士への電話、スマートフォンで撮った映像、飼っているイグアナの映像(部屋の中で放し飼いにしている)、ごみ処理にきた男性のインタビュー(美術の大学院生)などのなかで、先ほど書いたような過去のシナリオを読むシーンが長い。テレビには東日本大震災の映像(南三陸町の大津波の様子)が突然映し出されて、心を突かれる。イラン暦では新年が3月21日に始まるそうだ。日本が津波と原発事故で衝撃を受けていた時、イランは年末年始だった。若者たちは爆竹を持って町へ出て騒ぐらしい。テヘランの町は騒然としている。「これは映画ではない」ので、筋らしい筋もないが、とても興味深い映像体験だった。

 この映画は、26日(土)10時半からもう一回上映がある。(有楽町マリオンの朝日ホール)今紹介しても遅いんでしょうけど。国際的な支援、注目が重要だと弁護士も電話で言っていた。今年のベルリン映画祭の審査員に招かれていたが、出国は認められなかった。様々な方法で支援することができないかと思う。まずはこの映画がもっと上映されるといいのではと思う
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ヘニング・マンケル「背後の足音」

2011年11月25日 02時48分54秒 | 〃 (ミステリー)
 スウェーデンのミステリーの大傑作背後の足音」。創元推理文庫上下2巻、計850頁。今、読了。もう1時半である。今週は夜に3回出かけて帰りが遅い。昨夜も演劇を見たが、あまり成功しているとは思えなかった。それで遅い日が多かったが、ここ数日は夜もこの本にかかり切り。新書とミステリーは生ものなので、できれば翌年に持ち越したくないと思って、頑張って読書中。で、お勧めしない映画や演劇は書かないことにしているが、この本は面白い上に考えさせられて、是非深夜に書きたくなった。

 スウェーデンでは、「ミレニアム」という大傑作が世界的に大ベストセラーになったが、その前に20世紀末にヘニング・マンケルクルト・ヴァランダー刑事シリーズがあった。そのさらに前には、「マルティン・ベック」シリーズもあった。皆、社会派的な色彩がある。ヴァランダーのシリーズは、日本では10年以上遅れで出されていて、今度の作品は7作目。それでも1997年までしか訳されていない。残りが90年代に2冊、10年おいた2009年に10年ぶりの新作が出たらしい。その間にもノン・シリーズやヴァランダーの娘が警官になる作品があるとのことで、順に訳されていくようだ。マンケルの作品は、創元文庫で2冊上下で出ている4作品がとりわけ傑作。ヴァランダーものの「目くらましの道」「五番目の女」「背後の足音」とノンシリーズの「タンゴステップ」である。しかし、シリーズ物は結構私的な事情や感想が多いので、できれば順番に読みたいところ。と思うと、初期の「リガの犬たち」や「白い雌ライオン」が長い上に、叙述もなかなかしんどくて読み進まない。ソ連支配下のバルト諸国(ラトビア)事情や、南アフリカのアパルトヘイト問題など、90年代初期には世界的な大問題で誰もが関心を持ったが、今では一応の「解決」を見たテーマを扱っていることもある。この初期作品で挫折する人も多いようだけど、そこを通り越すとすごい作品にめぐり合う。

 ヘニング・マンケルと言う人は、ミステリー作家として名前を覚えたが、それだけの人物ではない。ただ者ではない人だとだんだん気付いて行った。まずは日本でも翻訳がある児童文学作家。それもアフリカ南部モザンビークの地雷問題を扱っている。現在すぐに入手できるのは、産経児童出版文化賞を受賞した「炎の秘密」だけだが、他にも翻訳がある。では、どうしてモザンビークなのかというと、きっかけは知らないが、モザンビークで劇場を作りそこで演劇活動を長く続けてきたという人なのだ。アフリカでの文化支援活動である。そこから進んで、今では世界的な人権活動家で、イスラエルが封鎖したガザ地区への支援船計画にコミットして自分も乗船していた。イスラエルに拿捕されて、国外追放された中に入っていたという。一方、若い時から演劇や映画に関わっていたためだと思うが、98年にはスウェーデンの世界的な映画監督イングマル・ベルイマンの娘と結婚している。今はベルイマンの生涯を描くドラマを製作中だそうである。こういう公私ともに波乱万丈そのものという人生を歩んできた。

 でも、世界的に話題となり賞も取り映像化もされて一番有名なマンケルの業績と言えば、クルト・ヴァランダーシリーズの作者ということになるだろう。僕は今回の作品が一番面白かったけど、「目くらましの道」の方が傑作かもしれない。もし、同時代的に紹介されていたら、もっと大評判になっていただろう。一方、今回の作品は、何か犯罪の造形、主人公のつぶやきなどが今の日本に合っている。クルト50歳、辞めたいときもあったけれど、たぶん定年までやるだろう主人公。妻が去り、父が死に、リガの恋人ともうまく行かず、娘とたまに電話するくらいの人生。さらに今回は血糖値が高く、健康不安をかかえての不眠不休の捜査である。スウェーデンといったら、あるいはフィンランドやノルウェイなども、安定した社会保障と教育の国として日本人は理想みたいに思うが、ノルウェイの乱射事件を思い出すまでもなく、実際は難しい課題を抱えているようだ。というか課題を抱えていない国はない。ナチス・ドイツやソ連共産主義への「前線国家」だったスウェーデンの現代史は「ミレニアム」を読むとよく判る。しかも女性差別(家父長制)や移民への憎悪なども強い。監視社会化や官僚主義なども強まっていて、日本でも他人ごとではない問題意識に貫かれている。そういう社会派的な問題関心を下地にしたうえでの、警察捜査小説の醍醐味を味わえる展開となっている。ミステリーだから筋立ては一切書かないが、とにかく面白かった。

 最後にある主人公の感慨。(というかもちろん作者の社会意識。)
 「このままきっと世の中はますます悪くなっていくだろう。もっと多くの放浪者が、もっと多くの世の中に必要とされていないと感じる若者たちが増えるだろう。社会は鉄格子と鍵に象徴されるようになるだろう。/警察官の仕事はただ一つだけだ。この流れに抵抗することだ。両腕を開いて、全力でこの破壊的な力に抵抗することだ。(中略)スウェーデン人の間で分裂がいま起きているのだ。必要とされる人々と不必要とされる人々。ここで警察官はむずかしい選択をしなければならない。社会の深いところにある土台に亀裂が入りはじめているにもかかわらず、表面の秩序を保つ職務を果たすのか。/すべてがむずかしくなるだろう。残りの十年は大変なものになると覚悟しなければならない。」
 まるで今の日本のことを言ってるとしか思えない。「警察官」というところも、「教育」「社会福祉」などと置き換えても通用する。この言葉を紹介したかった。単なるミステリーではないですね。
 ヘニング・マンケルの公式ホームページがある。英語です。
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談志が死んだ

2011年11月23日 23時31分58秒 | 追悼
 「談志が死んだ」(回文)。まあ、これはもうみんな思いついているだろうけど。僕は談志を聞いたことがない。伝説的な天才なんだろうけど、参議院議員だった時代の印象が消えないのである。71年の参院選全国区に無所属で出て、50位で当選した。その全国区とは日本全国で50人を選ぶという世界に例のない超「大選挙区制」だったわけだが、「残酷区」とか言われて比例代表区に変更された。しかし、当選後すぐに自民党に入党。75年に沖縄開発庁の政務次官に起用された。しかし、沖縄海洋博の視察で酔って記者会見をして批判を浴び(政務と酒とどっちが大事かと聞かれて、酒だと答えた)、国会を欠席して寄席に出たりして、ついに一月ほどで辞任、自民党も離党した。

 その後、1983年に落語協会の真打ち昇格問題で、会長であり師匠である小さんと対立して、協会を脱退、落語立川流を旗揚げするわけだが、そのことは僕が書くことでもない。60年代にテレビで活躍していた落語家や漫才師がたくさんいた。「テレビの黄金時代」である。志ん朝は落語に戻り、講談の一龍斉貞鳳や漫才の横山ノックは政治家になった。談志は「笑点」の初代司会者で「笑点」の発想者らしい。談志降板後、てんぷくトリオの三波伸介が司会者になり、急死を受けて回答者の圓楽に変わった。てんぷくトリオも伊東四朗しか残っていない。みんな死んじゃうね。談志が71年に参院に出たのも、要するにテレビに出てたから皆顔と名前を知ってたのである。田英夫、安西愛子、望月優子とその時の全国区上位は皆テレビで知られていた人である。3年前の68年に石原慎太郎、青島幸男、横山ノックらが全国区で当選してタレント候補と言われていた。

 死去の報は弟子にも知らせず、家族で密葬したということである。立川流も志の輔以下、素晴らしい弟子を育てた。そこがすごい。いや、談志のことをあまり書くつもりはなかったんだけど、つい長くなってるから、これで一本にする。落語そのものについても、そのうちまとめてもっと書きたいと思っている。(この間、西岡参院議長はあまり追悼する気はなかったけれど、劇作家の斎藤憐、推理作家の土屋隆夫、「面白半分」発行人の佐藤嘉尚などの各氏の追悼を書ければと思っていた。なかなかヒマがないけど、いつかまとめて書く機会を作りたい。)
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梶芽衣子トーク&ライブ

2011年11月23日 00時05分21秒 | 自分の話&日記
 昨夜は日比谷図書文化館で、梶芽衣子のトーク&ライブ。これ、最高でしたね。ここ数年で一番面白いトークショー。もっとも昔の梶芽衣子の映画をみていないと面白くないと思うけど。梶芽衣子、本名太田雅子は神田の生まれで、日比谷公園でアイスクリームを食べながら散歩中にスカウトされたという。当時は日活本社が日比谷にあり、上部は日活ホテルになっていた。今のペニンシュラ・ホテルのところで、裕次郎・北原三枝の結婚式をやったとか、いろんな日活映画のロケに使われたとか、映画の本によく出てくる。ということで、梶芽衣子は日比谷に縁があり、都立日比谷図書館が千代田区立日比谷図書文化館にリニューアルされた記念の公演である。

 まあ、還暦をとうに過ぎたというのに、かくも元気ではつらつとしてビックリ。数日前に階段から落ちて怪我したということだったけど。だから目元を保護するサングラス、黒づくめの服装に真紅のハンカチが胸元にあり、素晴らしい。あの「さそり」シリーズの衣装も自分で考えたそうだが、衣装も演技の一環というライフスタイルを貫いている。お酒は全く受け付けない体質だそうだが、トークはざっくばらんでとても面白く、さそりの無言スタイルの印象とは全然違う。タランティーノの「キル・ビル」で梶芽衣子の歌が流れるが、タランティーノの来日時の契約には「梶芽衣子に会わせる」が入っていたそうで、帝国ホテルにいったら、30分間握手した手を離されなかったとか。70年の「反逆のメロディ」で原田芳雄と共演するが、それは沢田監督が日活以外の俳優を探していて、梶芽衣子がテレビで見た原田を推薦したのだという。

 梶芽衣子の特集がこの夏に銀座シネパトスというところであって、全部は見てないけれど数本を見た。さそりシリーズも何本か見直したし、「無宿」(やどなし)とか「修羅雪姫」も見たが、代表作の「曽根崎心中」も33年ぶりに見た。増村保造監督のATG作品だが、これで主演女優賞を総なめした宇崎竜童が黒メガネを取って時代劇に挑み、二人の破局的な恋の道行が圧倒的な情感で描かれる。近松はいつまでも新しいと思ったが、この原作さがしの苦労は大変だったという。増村監督と梶芽衣子で撮ることだけ決まっていて、松本清張や黒岩重吾やいろいろ読みふけり、ようやく決まったが、完全主義の監督に冬の撮影に辛さ。モントリオール映画祭で受賞した後、ニューヨークで上映したら、宇崎竜童のロック調の音楽が「どうして音楽だけ、われわれのものを使うのか」と質問されたとか。当時見た実感では、大ヒット中のダウンタウン・ブギウギ・バンドの宇崎が素顔で熱演して、さらに現代調音楽をつけたことがとても新鮮で成功していた。今年31年ぶりに歌を吹き込みCDを出したが、それは宇崎竜童の曲ばかり。ではこの間親密だったかというと、撮影最終日以後全く会うこともなく、今回突然電話したのだとか。

 梶芽衣子の芸名になる前に、本名で「夜霧よ今夜もありがとう」などに出ていた。今見ると、太田雅子時代から僕は好きで、日活ニューアクションの「野良猫ロック」シリーズなど本当に大好き。ただ同時代的に見たのは「さそり」シリーズから。あの冷たく鋭い目つきの黒づくめの造形が、連合赤軍事件以後の「内ゲバ」に明け暮れた「鉛の時代」の心象を形作っている。最後の歌が「怨み節」。愉快なトークと「怨み節」が聞けて幸せな一夜でした。
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渡部謙一「東京の『教育改革』は何をもたらしたか」

2011年11月21日 00時31分26秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 本の紹介。渡部謙一東京の『教育改革』は何をもたらしたか」(高文研、1800円)。著者は1998年に都立久留米高校校長となり、2004年に定年退職。その後、大学の非常勤講師などをしながら、「東京の教育を考える校長・教頭経験者の会」を立ち上げて発言を続けている。

 この本は今年9月に出て、新聞で見てすぐに買ったが、しばらく読む気になれなかった。著者は2004年に退職しているので、内容的にはごく近年のことより、21世紀初頭のことが中心になっている。しかも校長だった人なので、今さら読んでも仕方ないかなと思った。しかし、読んでみるとやはり、あの時期、つまり21世紀初頭の東京の教育行政が大きく変わった時代を振り返ることは大事だなと思った。しかも、それを現場教員からというより、管理職の側で見たことを伝えるのは、非常に大切だと思う。その頃、まだ東京を対岸の火事と見ていた日本各地で、強権的な教員管理体制を導入し学校現場の力を削ごうとする動きが広まっている。それを東京は防げなかったが、情報を発信して全国に伝えることは意味はあるだろう。こういうふうになっていくのだと。管理職を目指す人が少ないなどというのは、これを読めば納得できるだろう。というか、それでも受ける人がいるのが不思議。

 20世紀にはまだ教員でなかった若い世代は、教師の仕事はこんなものだと思い込んで生きて行ってしまいかねない。生徒も親もどんどん入れ替わるので、ちょっと前のことも忘れられていく。だから、この本は、いろいろな人に読んで欲しいとは思うけど、特に若い世代が、大学や地域の図書館でリクエストして是非読んでみて欲しい。都立高校の図書室では買えるかどうか判らないけれど。

 現職の都立高校教員は正直言って、読むと辛くなるので読まない方がいいかもしれない。思い出したくないことをいろいろ思い出してしまうと思う。完全に負けきって、もう言われる通り働いていくしかないと諦めたのに、やけぼっくいに空気を送り込むような読書体験になる。新しい知見はあまりなく(校長どうしのことなどは知らなかったことがあるが)、全体の流れはもう知っている。自己申告書が導入され、授業観察が始まり、10.23通達に至るわけである。あのころは最初は毎年ごとだったが、だんだん毎月毎月、やがては毎週毎週のようにとんでもない新方針が伝えられた。「処分」を受けた経験はない僕でさえ、監査、監査で自己防衛を求められた嫌な時代のことが集中的によみがえり、心臓がドキドキしてしまい、この本は都立の教員にとっては健康に悪いよと思ってしまった。でも、同時に、こういう中で働いてきたということを、生徒や保護者にも知って欲しいとも思った。

 この本の中身に触れる前に少し書いておきたいことがある。僕は辞めてから東京の教育状況も書いて行きたいと思っていたけれど、ほとんど書いていない。震災、原発問題があるし、僕には当面更新制をめぐって発信する必要もあった。しかし、それだけではない。しばらく都教委のことは忘れたいという気分だったのである。多くの教員が早く辞めたいと思っている「ブラック企業」をやっと逃れられたという気持ちが強い。しかし、もう半年以上たち、少しずつ東京の実情も書いて行きたい。マスコミはイデオロギー対立的な場合は取り上げるけれど、職場の日常に潜む権力性の取材はほとんどしない。ところで、その時にはこの書の中にも少し触れられているが、それまでの高校の教育にあった「我々の側」の弱点をきちんと見つめて考えていくことが非常に大切なことではないかと思っている。

 この本について何点か。この著者は教育に関してきちんとした考えを持ち、自ら発信してきた人である。このような校長には僕は会わなかった。この本の学校作りのところはとても役に立つと思う。勤務する久留米高校が統廃合の対象になったときに、すでに地域の中に開かれた組織をつくり発信を始めていた。東京では「学校運営連絡協議会」が各校に作られていくが、それを先取りしていた。その先見性はしかし役に立たない。サッカーで全国大会出場経験のある久留米高校も、様々な条件を抱えていて統廃合の対象校とされる。それに対し、地域や同窓生の反対運動が高まった。校内でもPTA主催で都教委からの説明会があったという。そこで都の計画に批判が集中する。しかし、都側は最後に「私たちの意は理解されたものと思います」と言うのである。時間をかけて「理解していない」ことをあれだけ発言したのに。これが都教委のいつもの手口である。僕は教科書問題で都教委への要請行動に出席したことがある。また、教務主任として研修会や説明会にも参加した。そういう時もいつも同じ。主義主張で対立しているような問題だけではなく、あらゆる問題で論点をずらすような答弁しかしない。そういう場所に出てくる人も、教育畑ではなく、突然他局から異動させられたばかりのこともあるらしい。

 ということで、隣の清瀬北高校と統廃合されてできた東久留米総合高校に著者は一回も行っていないという。普通は元校長は開校式典などに招待されるはずだが、都教委は来賓リストを点検して、都教委批判を行う人間の招待を取り消させる。信じがたいことだが、そういうことがある。三鷹高校の土肥元校長も、都教委相手の裁判をやっているので来賓に呼ばれない。そのような「小人物性」は、いかにも現都知事のもとで起こることらしいと言えば、そうなのだが。

 ある時、著者はこんな「処分」にあう。校長の業績評価を教員の給与に連動させる制度が始まる。そのとんでもなさはさておき、校長の「評価者訓練」が午前中に行われた。12時頃終わり、午後からは新設校の計画委員会があり、校長、教頭、事務長の出席が求められている。しかし、そうなると学校に管理職がいなくなるから、著者は午後の会は欠席して学校に戻ることにして昼食を取って1時半ごろ学校に着いた。ところがこの日、定時制教員の出勤監査が入り、1時に都教委の役人が来ていたのである。しかし、管理職が誰もいないので監査ができなかった。そこで都教委は「管理職が誰もいなかったのは何故だ」と大声で怒りだし、「何かあったらどうするんだ」と著者を「厳重注意処分」にするのである。都教委からの、午前午後の参加を求める書類を見せても「それはそちらの内部事情」と訳の分からないことを言われたという。こういう風に、都教委に言われた通りやっていても処分を受けることがあるのである。こういうことはあの頃時々あって、僕は「カフカの世界」だと思っていた。著者は役人も本来はいい人のはずと書くが、僕はそれはここまで行くと違うと思う。こういうことをする都教委の人々は、僕の考える人間の世界にはいない。ゆえに「都教委はエイリアン」と僕は言っている。そいうエイリアンの生態がよく判る本である。(業績評価や10.23通達については細かく触れる余裕がない。かなり知られてもいるので、校長からみてどうだったか、是非直接この本で読んでほしい。)
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鈴木清順トークショーと映画

2011年11月19日 23時51分09秒 |  〃  (日本の映画監督)
 渋谷のシネマヴェーラ渋谷で、鈴木清順の特集上映。今日は、鈴木清順監督宍戸錠のトークショーも行われた。1923年生まれ、関東大震災の起こった年に生まれた鈴木清順は、車椅子で登場した。ちょうど10歳下の宍戸錠は、ニューヨークの日活百年プレ企画(来年が日活百年)であいさつしてきたという話。真っ赤なネクタイで登場した。ジョーがいろいろ聞くけど、清順監督はすっとぼけて答える。この劇場で初めて経験した満員立ち見で、通路に座って一本見た後なので、疲れて眠くなったな。

 鈴木清順は、僕にとって長く幻の伝説的な映画監督だった。1967年に撮った「殺しの烙印」が日活の堀久作社長の逆鱗に触れ、「わからない映画を作ってもらっては困る」とクビにされてしまったのだ。1968年4月のこと。自主上映組織のシネクラブ研究会が日活に過去の清順作品の貸し出しを求めたが、日活は拒否して過去の作品も見られなくなった。デモも起こり、映画監督や批評家有志が「鈴木清順問題共闘会議」を結成、裁判闘争に発展した。その頃、フランスでは「五月革命」が起こり、カンヌ映画祭はゴダールやトリュフォーによって「粉砕」された。これは知っていても、同じころ日本に「清順共闘」があったことは忘れられているのではないか。
(「殺しの烙印」)
 鈴木清順は1977年まで10年間新作が作れなかった。過去の作品も70年代初めは名画座での上映ができなかった。しかし、日活が貸し出しを再開すると、70年代後半の名画座では清順ブームが起こり、その面白さ、色彩美学、独自の無国籍的ムードが圧倒的に受けた。僕も銀座並木座や池袋の文芸地下で何度も見た。60年代半ばに作ったアクション映画は時代を突き抜けて面白い。「刺青一代」「けんかえれじい」「東京流れ者」などの大傑作の他、「肉体の門」「春婦伝」なども見直したい。50年代の初期作品には見てないのも多いので見てみたい。

 問題の「殺しの烙印」は、殺し屋ナンバー1の座をめぐる奇想天外な争いという変な映画で、確かに判らない人には判らないような映画。宍戸錠の殺し屋が、何よりご飯の炊ける匂いが大好きという、飛んでる発想がすごい。日本映画史上に残る変な映画には違いない。映画史上の鈴木清順は、1980年に作った「ツィゴイネルワイゼン」、1981年の「陽炎座」という大傑作を作ったことで記憶される。しかし、この作品と「夢二」は今回は上映されず、来年早々ニュープリントで公開されるらしい。何度見ても判ったような判らないような夢の世界の大傑作映画である。

 今日見た「野獣の青春」は、不思議な映画美術の魅力たっぷりで、清順ワールドが開花した映画。前に見ているが、ストーリー展開も面白いし、アクションの魅力もある。しかし、それより細部にこだわる映画美術や小道具、色彩感覚などのが不思議世界が魅惑的なのである。「すべてが狂ってる」は日活の60年前後に多い、若さの暴走をジャズに乗せて送る青春映画。川地民夫が主演していることなど、蔵原惟繕((これよし)の「狂熱の季節」にムードが似ている。とても面白かった。
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「真の目的」を「邪推」する-教員免許更新制再考⑨

2011年11月18日 20時54分34秒 |  〃 (教員免許更新制)
 これから書くことは実証できないことである。「陰謀史観」みたいなのは嫌いだけど、ある程度「大きな絵の構図」も必要だから、こんなことを考えてみたという話。

 日本の高度成長を支え、今や高齢化社会を迎えた「ぶ厚い中間層」。自分の家しか資産がなくて中産階級というのは本来はおかしいが、日本ではそれでもほとんどの階層が「中流意識」を持ったのである。日本では「高級紙」という新聞形態がなく、読売や朝日が1千万部くらい読まれてきた。識字率はほぼ100%。選挙では「自書」(候補者の名前を有権者が自分で書く)式が当たり前。大企業だけでなく、中小企業や自営が元気で、「職人」が大切にされる。

 しかし、このような社会は、もはや行き詰まった。グローバリズムの中で生き残るには、高い人件費、皆が持ち家を望むから高い地代、高学歴でも英語も使えない人材。これらを抱えていては日本は生き残れない。もう「中間層」はいらない。一部のエリートと、使われて働く「派遣の非正規社員」がいればいい。だから、「エリート教育」を進めると同時に、あとはそんなに頑張らず「言われて働く」下層労働者だけを育てることが今後の日本の教育目標となる。

 ここまでは、実際にそう考えている人がいる。大阪府の教育基本条例に関して、「格差を広げなくてはいけない」と堂々と公言している。東京でも、進学指導を進める高校と、そうではない高校をはっきり分けて予算配分も差別化する政策が進められてきた。教育格差を広げると言うと、そんなことに賛成する人がいるのかと思うかもしれないが、「受験の自由度を高めて、保護者の選択の自由を拡大する」「結果として格差は広がるかもしれない」と言う。昔は居住する学区以外の普通科高校は受けられなかったが、今はどこでも受けられるようになったところが多い。自分の子供が頑張って学力が上がれば、隣の学区の有名校に行けるかもしれない。だから、格差拡大政策と言っても、自分の子供には有利に働く(と信じたい)ので、保護者は支持してしまう。

 ところで、このような教育の能力主義的再編に反対してきたのが教員組合だった。教員組合を「左翼」であり「革命教育」を進めてきたというような誇大妄想的な右翼反対派もいるが、教員組合のスローガンは民衆レベルの平和主義に適合的なものである。戦前の国家主義的教育への復古をたくらむ勢力が一定の力を持っていたので、「自由」「平等」「平和」と言った「民主主義的教育」のスローガンが一般市民の支持も受けやすかったのである。それに対し、文部省(当時)は組合とイデオロギー的に対決しながら、「教育の質の向上」においては共通の土俵も形成されていたとも言える。しかし、そのような「教育の55年体制」はもはやずいぶん昔の話である。

 新自由主義的な教育を進めようとするときに、一番反対すべき教員組合はもうほとんど力を持っていない。地方では一部にはかなり大きな力が残るところもあるが、日教組(連合加盟)と全教(全労連加盟)を合わせても組織率は3分の1程度。右派の全日教連なども合わせて4割をようやく超える。(文科省調査)従って、非組合員が多数派なので、もう当局側の思うような教育政策がどんどん進められるはずである。そして実際、成績率の導入、組織のピラミッド化など東京を先頭にしてどんどん実現していった。だから教育の外堀は埋めたのであるが、それでも教育の中身そのものがなかなか変わらない。当たり前である。初中等教育段階でやるべきこと、育てるべき学力や社会性が急に変わるわけがない。それでいいのである。だが、「彼ら」(誰だか知らないが)はここで気づいた。組合を弾圧するだけでは足りなかったのである。非組合員教師こそ「平等教育」の担い手だったのだ。

 考えてみれば当然である。少数派になっても組合に加盟する教師の方が、むしろ変化を求める教師である。非組合員の教師は、イデオロギー的には組合に賛同しないかもしれないが、教育実践においては、組合員以上に「集団主義的」であり「平等主義的」だったのだ。組合に加盟して権利要求をしないからといって、能力主義に賛成なのではない。むしろ組合に入るような目立つことを避けるくらいだから、生徒にも「みんなで頑張る」「一人で目立たない」指導をするのである。

 だから組合に踏絵を踏ませるような、国旗国歌の強制などだけでは教育を変えることができない。どうしても全教員の身分を揺さぶる政策が必要とされる理由がここにある。非組合員の教師は、国歌斉唱時にもともと起立しているわけだから、いくらその点のペナルティを厳しくしても影響がない。しかし、免許更新制は、放っておくと失職だからどんな教員にも皆「踏絵」となるのである。その意味では、更新制導入をもくろんだ人々は、初めは大学での講習ではなく、教育委員会による強制的な研修を考えていたと思う。実際の法律制定時に、最後の最後で大学での講習になったけれど、それは教育委員会だけでは大量の対象者を扱えないということがはっきりしたからだろう。実際各大学で行われている講習の数を考えると、他の研修を夏にたくさん行っている教育委員会では無理だった。その結果、大学では、ある程度自由な講習を受けることができて、当初の目論見からすれば予想外なのではないか。

 それでも「合格」して「自分で更新手続きする」ことは残されている。これなどは簡便化が可能なはずなのに、自分で更新に行かなくてはいけない。何故だろうか。それはこの時に、「自分の免許は後10年」「生活のためにまた更新しなくてはならない」と確認させるためだと思う。せっかく自費で講習を受け更新した免許である。生活のためにやむを得ず受けたわけである。管理職になっていれば免除されたのである。後は、管理職になって行政の言うとおりの教育政策を進めるか、生活のために行政に従うか、の二者択一になってしまうのではないか。これこそが、組合の活動を制限することでは得られなかった、教育現場を変えて行くための前提条件なのだ、と自分では考えてみたのだけれど。
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「再審」の「最新情報」

2011年11月17日 23時04分58秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 1980年という年は、自分にとって、とてもいろいろな出来事があった忘れられない年。その年に最高裁で死刑判決が確定してしまったのが、静岡県清水市(現・静岡市)で起こった袴田事件である。僕はこの最高裁判決を傍聴している。最高裁判決と言うのは、実にぶっきらぼうなもので、結論だけ言って裁判官は引っ込んでしまう。「本件上告を棄却する」の一言を聞くだけで、理由を言わない。被告人も出廷しない。

 冤罪事件と言っても、いろいろあって「一度聞いた(読んだ、見た)だけで、これは絶対冤罪と思う度」というのが高い事件と、それほどでもない事件があるのは確かである。でも、この袴田事件というのは、すでに死刑から再審無罪が確定している、同じ静岡の島田事件と同じくらい、一度読んだだけで「これはおかしいでしょう」という事件だった。何しろ、裁判途中で「犯行当時の着衣」が変更されてしまったのである。味噌会社の事件で、裁判中に味噌蔵から血染めのズボンが発見され、改めてそれが犯行時のズボンとされたが、法廷ではかせてみると足に入らない。味噌に浸かって縮んだということにされた。それで「自白」はどうなんだというと、検事が取った一通を除き、後は全部証拠にならないとされた。それなのに有罪で死刑。どうしてそんな判決になったのかは、最近になってわかったわけである。一審の裁判官の一人は、この事件は絶対に無実だと確信したのだが、他の二人が最後まで有罪を維持した。その裁判官は、その後裁判官を続けられず退官、何十年立って「合議の秘密」を明かした。その話は、昨年「BOX 袴田事件 命とは」という映画になり公開された。

 袴田事件の取り調べテープが存在するということだ。しかし、検察側はそれを「開示しない」と言っているということだ。おかしいでしょう。税金で作ったテープだ。すべての証拠を出せと言いたい。多くの事件で、証拠開示が再審開始への決定的なきっかけとなった。この袴田事件に関しては、19日に集会がある。

 さて、今日の新聞によれば、9月中にも決定が出ると言われていた、福井女子中学生殺人事件の再審請求の決定日時が決まった。11月30日、午前9時半である。この事件は一審無罪なので、福井の事件だが、決定は名古屋高裁金沢支部で出る。この事件はおかしな「証拠」で起訴されたが、さすがに一審では無罪となった。その後、東京の集会に来た被告人の話を聞いたことがある。ところが、高裁で引っくり返った。今回は、裁判中に出ていなかった証拠がずいぶん開示されたというから、再審開始決定が期待される

 ところで、10日に三鷹事件第二次再審請求がなされた。三鷹事件と言うのは、1949年に起こった、下山事件、松川事件と並ぶ国鉄の3大怪事件と言われるものである。共産党員被告9人と非党員の運転手竹内景助が起訴された。一審で鈴木忠五裁判長は、共産党員の共同謀議は「空中楼閣」と批判して党員被告は無罪、竹内のみ情状をくんで無期懲役とした。2審では書面審理のみで、共産党員被告の無罪は維持したものの、竹内被告を死刑に変更した。最高裁でももめにもめて、結局弁論を開かないまま竹内の死刑を維持した。15人の裁判官中、死刑に反対が7人で、一票差の死刑と言われた。事件内容以前に、この「弁論も聞かずに書面審理だけで、被告人の弁明も聞かず顔も見ずに、無期から死刑に変更するのは許されるのか」というのが批判されたので、以後最高裁はすべての死刑事件で弁論を開く慣例ができた。もうすぐオウム真理教事件の最後の最高裁判決があるが、もう上告棄却(死刑判決維持)に決まってると言ってもいいけれど、弁論は開かれ弁護側の主張(検察側もだが)を聞いたわけである。

 そういう意味で三鷹事件というのは、戦後の裁判史上で有名な事件なのだが、当時は共産党員被告の救援が中心となり、竹内のことがおろそかになった面も否定できない。竹内の供述が変転を重ねたこともあって、それをどう理解すべきかいろいろな考えがあった。結局、竹内も無実を主張して再審を請求したものの、1967年に脳腫瘍で拘置所内で死んで、再審は終わりになっていた。それが近年三鷹事件を取り上げる本やテレビ番組で無実の主張が取り上げられ、家族による再審請求に結びついた。戦後史の中で数奇な道をたどった事件であり、この再審請求の道筋も見続けて行きたい。それは9月に書いた菊池事件(藤本事件)にも大きな示唆を与える再審請求ではないかと思うのである。
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「しいのみ学園」-映画に見る昔の学校①

2011年11月17日 00時22分38秒 |  〃  (旧作日本映画)
 昨日見た映画の話。清水宏監督作品、1955年、新東宝作品「しいのみ学園」である。僕は古い日本映画をよく見る。これは国立近代美術館フィルムセンターの香川京子特集で見た。障害児教育に身をささげる教師役の香川京子はとても清楚で美しく、忘れがたい。代表作の一つだなあと思った。

 この映画のモデルはどこかなと調べて驚いた。「しいのみ学園」というのは、当時のベストセラーで実話の映画化だということだ。著者の山本三郎は当時福岡学芸大学教授だったが、自分の子供が小児マヒのためいじめられているのを見て、自分で学校を作ろうと考えた。それが「しいのみ学園」で、「養護学校」の始まりのような位置にあるという。この山本三郎氏は、その後曻地三郎(しょうち・さぶろう、1906~2013)と姓が変わった。福祉界では有名な人らしいのだが、僕は全然知らなかった。「しいのみ学園」は、1978年の「養護学校義務化」に伴い、知的障害児通園施設となり続いている。
(曻地三郎)
 「しいのみ学園」のある場所は福岡市南区で、発足当時は田園地帯だったらしい。映画では山の中になっているので、どこでロケをしたのかなと調べると、清水監督のよく使う伊豆だということだ。伊豆長岡あたり。富士山がよく見えるところだが、原作が福岡だから映らないように撮ったという。

 僕は小児マヒの子供がほとんど見捨てられたようになっていたのに驚いた。家で邪魔者にされ岡山から捨てられるように連れてこられた子供がいる。その子は体が弱く歌も歌えない。しかし、だんだんみんなに溶け込んでいき、ハイキングの時に香川京子の先生に促されて、初めて学園の歌を歌えるようになる。本人もそれがうれしく、父親に手紙を書きたいと言い出す。それを聞いて、香川京子は他の子にも親への手紙を書かせることを思いつく。そのことを園長役の宇野重吉に報告すると、宇野重吉が「子供の教育法は、子供が教えてくれるね」と、とても心に響く美しいコメントを返す。この言葉一つを聞くだけで、この映画を見た価値があった。

 学校でのいじめのひどさにも驚いた。野球の仲間に入れてあげない。グローブもミットもないからと言われて、宇野重吉の父親が買ってあげる。しかし、買った道具は使われてしまうのに仲間には入れてくれない。父がうちのグローブやミットを使っているなら、仲間に入れてあげてと言う。じゃあ、やめよと野球をしていた全員が、足を引きずるマネをしながら引き揚げて行く。これがなんで学校で大問題にならないのか。この映画が作られヒットしたのだから、障害児への同情は皆持っていたわけだが、学校での「人権教育」という概念がなかった時代なのだろう。そういう時代の子供たちの様子がよく判る。また、映画の主題歌(学園の歌)も当時ヒットし、学校でも歌われたということだ。探すと聞けるサイトもあった。しかし、何だか短調の暗い感じの曲。そういうところも、なんだか昔風の感じだった。

 清水宏監督は松竹で戦前から活躍してきた長い経歴の監督で、一時期田中絹代と結婚していた。しかし、小津安二郎や溝口健二のようなかっちりしたドラマ世界を構築することが不得手というか嫌いというか、シネマ・エッセイみたいな映画ばかりを作った。だから映画史では二流扱いされてきたけれど、近年は再評価の声が高い。戦争映画や恋愛映画が撮れない代わり、子供を主人公にした天衣無縫な映画がうまく、坪田譲治の映画化「風の中の子供」「子供の四季」がベストテンに入った。戦後も戦災孤児を自分で引き取って作った「蜂の巣の子供たち」が有名。

 そういう監督なんだけど、「ありがたうさん」という伊豆のバス運転手を描いたロードムービーが一番ではないか。誰にでも「ありがとう」と声かける運転手を描くあいさつ運動映画のように見せて、朝鮮人労働者は出てくるし娘の身売り問題も出てくる。ドキュメンタリー・ドラマと言った手法で、60年代のヌーベルバーグを先取りしたような映画をいくつも作り、世界的に再評価が進んでいる。しかし、どの映画にも共通するのは、「子供へのまなざし」。自分も子供みたいな人だったのではないかと思うが、子供をありのままに、あざとい演技をさせずに描いて、ほのぼのシンミリさせるという映画をいっぱい作った。不思議な映画監督である。(2020.3.31一部改稿)
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「講習」「研修」は役に立たない-教員免許更新制再考⑧

2011年11月16日 00時15分26秒 |  〃 (教員免許更新制)
 僕は今までにずいぶん教育委員会の研修を受けたけど、役に立ったかという観点から振り返ると、ほとんどは役立たなかった。ああ、時間の無駄だなあ、この時間を返して欲しいなあと思うことが多かった。実務的な説明会(例えば進路指導主任として出席したハローワークとの打ち合わせなど)は、もちろん別である。これは他の職業でもほとんど同じなのではないかと思う。事務手続きの説明会や技術講習会などはすぐに役立つが、一般的な「研修」は行政のアリバイ的な面も強く(例えば、人権とかセクハラ防止とか安全指導とか。一応やってますというニュアンスがどうしても漂う)、まあ誰かが出てたということが大事なんだろうなあと思う。

 更新制での「講習」も、どうしてもそういう面が強くなると思う。たまたま自分の課題にちょうど応えてくれる講習を受けられたという人もいるだろうけど、大部分の人はそうではないだろう。なんでそう言い切れるかというと、校種、免許の違いを無視して、全部集めて行うからだ。それを知らない人がまだいるけど、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、特別支援学校、中等教育学校(中高一貫校)、公立、私立、国立、全日制高校、定時制高校、通信制高校…、いろんな学校がある中で、年齢が共通するというだけで、バラバラに集めても共通の課題があるわけがない。だって、団地の小学校の養護教諭、視覚障害の特別支援学校教員、通信制高校の数学教員…、同じ教員と言っても、抱えている課題はずいぶん違うはずである。もちろん、自分の仕事にすぐ役立つことばかりが大切なわけではない。「講習」はジワジワ効いてくる漢方薬みたいなもので、それはそれで意味があるのだという意見もあるだろう。もちろん、それは僕も認めているので、僕も「10年研修」なんかで大学での講習を取り入れるのはいいんじゃないか、と書いている。でも、そのように「遅効」的な講習であっても、それを受けないと、免許が失効するという仕組みが判らないわけだ。

 今、教育界で一番大きな出来事は何か。それは間違いなく「新カリ対応」だ。21世紀初頭に実施された学習指導要領が、早くも改定された。それは「学力低下」(それ自体が疑問なんだけど)への対応などで大きな変更が必要とされたからである。学習指導要領の改定に合わせて、各学校は教科目の時間数を変更しなくてはならない。それを「新カリ」とよく言っている。(カリはカリキュラムの略。)小学校はすでに今年度から実施中学校は来年度から。高校は再来年度から(高校でも数学と理科は来年度から。)なお、幼稚園は平成21年度から実施済で、特別支援は各段階で準用。(ついでに書くと、学年制定時制高校は4年間あるので、現行カリ対応の教科書を4年間発行してくれないと困る。全日制が3年で卒業し終わると、教科書発行をやめちゃう会社があまりにも多い。)この新カリで小学校では、英語教育が導入された。これはとんでもない大変化。全然教わってこなかったことを教えなければいけない。たまたま高校の地理歴史、公民では変化がなかったが、多くの学校では新カリの検討や対応策が話し合われているだろう。今は各学校、各教科で行内研修をたくさん行うべき時だ。そういう時に、なんで10年にいっぺん「教育の最新事情」を大学に聞きに行かなくては、失職するのだろうか。全員いますぐ「教育の最新事情」を理解しなければならない時なのに。

 本当に教育を良くしようという考え方のもとに更新制が計画されたのだったら、校種や教科をバラバラにして、何でもいいから空いている講習を受ければいいという制度にするはずがない。あまり細分化もできないかもしれないが、少なくとも高校は高校とか、社会科(高校は地歴と公民)は社会科、幼稚園教諭どうしとか養護教諭どうしとか、そういうようなもっと役に立ちそうな枠組みを作るのではないだろうか。僕が言いたいのは、現行制度では効果が疑問なのに、なぜそれを受けないと失職するのかという、その1点。世の中におかしな制度、不条理は多いのでいちいち異議申し立てしていては身が持たない。だから、失職するという仕組みでなく、単に講習を義務付けされただけだったら多分受けていた。失職とまで言われたから、納得できなくなったのである。この現在の仕組みを維持する以上、この講習を受けなかっただけで、免許が失効し、自動的に失職するという仕組みは全く理解できない。
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そもそも「失職」とは何か-教員免許更新制再考⑦

2011年11月14日 23時18分19秒 |  〃 (教員免許更新制)
 更新制問題も長くなってきたけれど、自分の中で問題が広がってしまい、もうしばらく書いて行きたい。そこで前回の⑥なんだけど、熊本で起こったことを紹介して、「真面目に勤務していても、突然失職するというあってはならないことが現に起こった」ことを報告した。このことは非常に大切なことなので、今後も言っていきたいと思うけれど、問題はそこに止まらない。では、マジメに働いていない問題教員なるものがいたとして、その場合は「失職」してもいいのだろうか。それはおかしいというのが今日のテーマで、この制度の根幹について論じておきたい。

 こういうことを書くと、「問題教員を教壇に立たせて良いのか」などと揚げ足を取る人がいる。そうではなくて、マジメだろうが問題があろうが、正規だろうが非正規だろうが、公務員だろうが民間企業だろうが、「突然、クビになる」ということがあってはならないということが言いたいのである。「問題がある職員」を辞めさせたいというなら、それなりに手順を踏んで進めなくてはならない。現実に、法的な問題を起こし懲戒規定によって解雇される教員がいる。また、「指導力不足教員」の指定を受けた教員の中には、最終的に研修の成果が乏しいとして諭旨免職になる教員もいる。中には、その処分をめぐって裁判を起こして、勝訴して復職できた人もいる。

 いつも不思議に思うのは、更新制賛成などと言う人がいて「問題教員を教壇に立たせるな」などということである。更新制というのは、何度も書くけど、大学で座学を受ければいいので生徒と人間関係を作れないような教員でもクリアーできる。離島やへき地の教員や夏休み、土日も部活指導で忙しい教員など、大変な中を頑張る教員こそいい迷惑という不思議な制度である。「問題教員を辞めさせろ」と思うんだったら、なぜその目的に合うような制度を提唱しないのだろうか。本当に不思議。

 そして、その講習を自費で受け、合格して、自分で更新手続きをしないと「失職」する。ここには、どこにも「処分」がない。従って、処分取り消しの裁判ができない。問題を起こしたり指導力不足だったりすれば、ちゃんと処分してくれるから、不満だったら人事委員会に不服を申し立て、その次には裁判所に行政訴訟を申し立てることができる。通るかどうかは別にして。もし、更新講習を受けなかったというだけで懲戒解雇になったんだったら、訴訟をすれば明らかに解雇権の濫用になるのではないか。でも、突然、免許が失効して、公務員の地位もなくなる。(ついでに言えば、失職は退職ではないので、退職金は出ないと僕は言われた。)

 教員は、教員免許がなくても公務員ではないのか。学校には教員免許のない職員もいる。教員免許がなくなるとしても、事務や用務の仕事をできてもいいはずである。本人がそれを望むかどうかは別にして。あるいは教科を持たずに不登校生徒の対応や生活指導、部活動指導員などでもいい。しかし、それはできない。教員は教員免許と公務員の地位が密接に関係していて教員の地位を失うと公務員の身分も喪失するという最高裁判決があるのだ。(「旭川学テ訴訟」。ちゃんとそういう裁判をした人が前にいるのだ。)これは公立学校の場合。私立学校は違う。実際に熊本では、前に紹介した新聞記事によれば、「私立学校の3人については、免許が復活したり、無免許だが補助教員として働いたりして、すでに教職に戻っている」とのことである。これは驚くべき「官民格差」だ。私立では失職しなかったらしいのである。

 この制度はおかしいと思い、講習を受けなかったために、今持っている教員免許が失効してしまう。では、それは問題ではないかと裁判を起こそうとすれば、それもできない。「教員免許失効差し止めの仮処分」を求める訴訟は出来ない。それは行政事件訴訟法の第44条に、「行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為については、民事保全法に規定する仮処分をすることができない。」と明記されているからである。この「失職」というのは、「処分」ではないので処分不当の裁判はできず、しかし「その他公権力の行使」にはなるので、仮処分申請もできない。要するに、熊本県での事例のように「特例措置」を当局側で講じる以外に救済の方法はない。公立学校の場合は。私立は違う。この制度自体の根幹が、いかに恐ろしい発想で出来ているのかがよく判る。これ、放っておくと絶対他の公的資格にも広がると思うんだけど。(もちろん、制度自体が憲法違反という、今の最高裁では絶対勝つはずのない論点で訴訟することはできる。)
 なんでこんな制度を作ってしまったんだろうか。そのことはまた今度。
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上野・古市トークショー

2011年11月13日 23時59分36秒 | 自分の話&日記
 10月24日付の記事で取り上げた、光文社新書の「上野先生、勝手に死なれちゃ困ります」。この対談集を出した、上野千鶴子、古市憲寿両人を呼んでのトークショーが、新宿紀伊國屋ホールで行われました。僕も知ったのが遅くて「天皇ごっこ」を見た日に、たまたま紀伊國屋書店に寄った日のこと。宣伝するヒマもなかったんですが、日曜の夜でまだまだ席は空いていました。現在ホールは、ラッパ屋という劇団が「ハズバンズ&ワイブズ」という劇を上演中。日曜夜の公演のない時間帯に、家庭の一室風セットをそのままにしての対談。なんだか居間の世間話みたいで面白かったです。

 あの本には古市家の家族が結構出て来てるけど、「家庭争議」は起きなかったか?上野さんから、そんな心配から始まりました。父親は本が出れば、活字世代でうれしいらしい。母と妹は自分が出てくるところにマーカーで印つけて、その分の印税を寄こせという反応だったと笑わせました。焼肉一回分くらいらしい。あの本は、「団塊世代」の「製造物責任」(こういう子供を育ててしまった)を問うというか、説明していく感じで進んで行きます。でも、「あの本の後半で少し変わったかと思ったら、なんだか元に戻ってる」とのことで、上野センセイは「自分の製造物責任もあるのか」と。それと言うのも、古市クンは「どうしたらいんですかね?」ということばかりで、「結局、フクシマも他人事だった」というような発言が続々。

 これは戦略的発言であるかもしれないけど、若い世代の「生のリアリティの薄さ」がよく伝わりました。上野さんの言うことは、団塊世代はストック形成はしたので、それを再フロー化すれば、次の世代には財産は残せないけど、死んでいくまでなんとかなる。問題は次の世代、ということで、そう言われても「上野先生、どうしたらいいですか?」。それは「あなたの世代が考えること」。

 若い世代は「原発事故にも怒らないのか?」。それでは困るな。僕が書き続けているのも、「怒るべきことに怒れなくては困るでしょ」ということです。でも、上野さんに言わせると、若い世代は怒らないのではなく、対象が外の社会にではなく、自分の内側へ向かっていく。自傷行為や摂食障害などという形で、怒りが自分に向けて発現される。これが、20年におよぶ「ネオリベ」(新自由主義)にさらされ「自己責任」を内面化させられた子供たちの姿だということでした。

 僕は「リスカ少女」を何十人と知っているわけですが、見田宗介先生や上野千鶴子さんが「自傷行為」をアイデンティティとの関わりで論じるのに多少の違和感を感じるものです。でも、ここで言われたことの大きな方向性は正しいように思いました。と同時に僕が思うのは、たぶん会場には大学を出たか今行ってる人がほとんどだったのではないでしょうか。しかし、世の半分の人は大学へは行きません。就職したりフリーターになったり、その前に不登校で高校も辞めて行く人も多いです。そういう若い世代のことが脳裏にあるでしょうか。僕が六本木高校の「人権」の授業で見てきたことで言えば、今の子供たちの「生の実感のなさ」は共通しているように思います。でも実際に冤罪に陥れられたり、ハンセン病で療養所で暮らさざるを得なかったり、ホームレスの体験があったりした人の話は、ちゃんと聞くし心のこもった感想を書く。僕はだから、若い世代の心に届く言葉を前の世代が送ってこなかったという面も大きいように思ってます

 大人がきちんと怒る、さらには泣く笑うということも大事なんじゃないでしょうか。「泣く人とともに泣き、笑う人ともに笑いなさい。」(パウロの言葉。)僕はこの言葉をよく「卒業アルバム」などに書きます。うーん、だから今年はこれほど今「泣く人」がいるのを判っているときに、他人事みたいには言えないかな。
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