尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

アキ・カウリスマキ監督「希望のかなた」が描く難民問題

2017年12月31日 22時50分44秒 |  〃  (新作外国映画)
 シネマヴェーラ渋谷でやってるヒッチコック特集で「ロープ」を見たあと、つい最近見た「私は告白する」はパスして、ユーロスペースでアキ・カウリスマキ監督の「希望のかなた」を見た。2017年に見た最後の映画だが、現代性とユーモアを兼ね備えた名作だった。難民問題をテーマにするが、いつもと同じように静かでオフビートな作品で、心に刺さるような感動がある。ベルリン映画祭銀熊賞。

 フィンランドの名匠アキ・カウリスマキ(1957~)は、僕のもっとも好きな映画監督の一人だけど、最近は作品が少なく、今まで書いてないと思う。前作「ル・アーヴルの靴みがき」(2011)はフランスを舞台に難民問題を描いたが、「フランク・キャプラ的」とまで言われた「心暖まるラスト」が待っていた。でも、自国以外でそんなにハート・ウォーミングでいいのかな、いくら何でも難民問題はもっとビターな現実があるんじゃないのかと思った。(キャプラは大恐慌時代のハリウッドでウェルメイドなコメディをいっぱい作った巨匠で、人間性への信頼をベースにした感動的な映画を作った。)
 (アキ・カウリスマキ監督)
 今回は当初は「港町3部作」だったらしいが、結局「難民3部作」になるという。ヘルシンキの港周辺で、シリア人カーリドと食堂の人々の思わぬ出会いを描く。この映画では、密航して来た難民とともに、孤独な初老の男の人生が交互に出てくる。一体どうクロスするのかと思うと、男が場末の食堂を買ってオーナーになる。そこへ難民と認定されなかったカーリドが現れ、彼らはカーリドに職場を提供することになる。いつものカウリスマキ映画のように、不器用で世渡りのヘタそうな人々ばっかり出てくるが、とても自然にカーリドを受け入れてしまう。

 カーリドはシリア北部の町アレッポで家族をミサイルで失った。政府軍か反政府軍か、アメリカかロシアか、ヒズボラかISか、どこが撃ったミサイルだか判らないけど、帰ったら妹以外の家族が全滅していた。外出していて難を逃れたカーリドと妹は、ともに国外に逃れてヨーロッパを転々としながら、ハンガリーで襲撃され妹を見失う。ポーランドのグダンスク港で襲われ、船に乗ったらフィンランドに着いた。カーリドを演じたシェルワン・ハジ(1985~)は実際にシリア人だが、ダマスカスの演劇学校を出たあと、フィンランド人と結婚して内戦の始まる前の2010年に来ていた。素晴らしい存在感。
 (机左がカーリド)
 このお店を買ったものの、流行ってないから何とかしたい。今は何が受けるんだ。それはスシだろうと、本を買ってきて見様見真似でスシを作るというシーンもある。ワサビを大量に魚の上に乗せるところなんか大笑いできる。アキ・カウリスマキ監督は何度も日本に来ていて、ひいきの寿司屋もあるというから、もちろんちゃんと知っていてやってる。そんな中で、カーリドを襲う極右(「フィンランド解放軍」を背中に書いてある)もいる。そして妹は見つかるのか、常にカーリドは気に掛けている。
 (皆ではっぴを着てスシ屋に)
 そんな日々はいくらでも劇的に語れるだろうけど、いつものカウリスマキの「ミニマリズム」で描かれている。俳優は感情をあらわにせず、大げさな身振りをしない。セリフもカメラもぶっきらぼうで、説明的なシーンは少なく、どんどん進んでいく。フィンランドの俳優たちも、いつものように全然美男美女ではない人ばかりが選ばれている。そんなカウリスマキ映画が久しぶりでうれしい。

 思えば、「レニングラード・ボーイズ・ゴー・アメリカ」に抱腹絶倒し、「マッチ工場の少女」にしみじみしたのも、1990年前後だろうか。「浮き雲」や「過去のない男」など「敗者」に寄り添った映画を作って来た。だから、難民に冷たいヨーロッパに幻滅し、怒りを覚えている。インタビューではジャン・ルノワールの「大いなる幻影」に言及し、映画にそんな力はないけど世界を変えたいと語る。この映画を見ただけでは世界は変わらないけど、そんな監督の映画があることは伝えたいと思う。

 村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」でフィンランドに行く場面がある。主人公はフィンランドっていったら、シベリウスとマリメッコとノキア、そしてアキ・カウリスマキしか知らないと語る。村上春樹のエッセイにもカウリスマキが出てくるが、レイモンド・カーヴァーのような「ミニマリズム」系だから好みなのも判る。カウリスマキ映画には日本がよく出てくる。「ラヴィ・ド・ボエーム」のラストに「雪の降る街を」が流れた時にはビックリしたけど、「過去のない男」でもクレイジーケンバンドの曲が使われた。今度も日本の曲も出てくる。いつものように犬も出てくる。
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入江悠監督「ビジランテ」

2017年12月30日 21時11分23秒 | 映画 (新作日本映画)
 年末になって映画の新作旧作を見て回っているが、入江悠監督の「ビジランテ」は迫力があって見どころも多い。日本の地方都市に根強い暴力と腐敗を背景に、三兄弟の相克をここまでやるかと暴き出す。血と暴力描写が嫌な人には向かないけど、入江監督の才気を存分に味わえる出来だ。

 入江悠(1979~)は映画ロケによく使う埼玉県深谷市に育ち、日大芸術学部卒業後に個人で映画を作って来た。2009年の「SR サイタマノラッパー」が面白いと評判になり各地で上映され、日本映画監督協会新人賞も受賞した。その後、「SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム」「SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」と作られたけど、僕のこのシリーズをごく最近になってようやく見た。こんな面白い映画をどうしてもっと早く見なかったのかと後悔したけど、題名で敬遠していた。(東京東部と埼玉県は圓丈の落語にあるようにビミョーな関係にあるので。)

 2015年の「ジョーカーゲーム」、2016年の「太陽」とだんだん話題の映画を手掛けるようになり、2017年には「22年目の告白 -私が殺人犯です-」を大ヒットさせた。このように今ではメジャーの商業映画でも成功しているんだけど、「ビジランテ」はどっちかというと監督の作品性を打ち出した映画である。好き嫌い、訳が判る判らないを見るものに問うけど、全編力強い緊張感があって忘れがたい。

 冒頭に真夜中の月明かりの下、幼い三兄弟が川を渡って逃げていく。追いかけるのは父親で、子どもたちは母の死後に父の暴力を逃れようとしている。しかし、父は追いつき、下の二人は連れ戻されるが、長男は振り切って逃げていく。そこで30年後になると、葬式の場面。その父が死んだらしい。父は有力者だったらしく、次男が市議会議員になっている。その市ではアウトレットモール計画が進行中で、そのためには父が持っていた土地が絶対に必要。市の有力者は次男に対し、あの土地はお前が必ず相続せよと命じる。というとこに、30年ぶりに長男が戻ってくる。

 その長男が大森南朋、次男の市議会議員が鈴木浩介、三男は桐谷健太で暴力団の下でデリヘル店長をしている。長男はなぜか遺産独り占めの公正証書を持っているが、多額の借金を背負っているらしく、得体が知れない。こうして肝心の土地が長男出現で入手できなくなり、市政の裏側で暴力装置が動き出す。そんな設定で、市の暗部にうごめく欲望が噴出する。

 題名の「ビジランテ」とは何だろうか。Vigilanteとは「自警団」のことで、作品中ではその町の伝統を受け継ぐ自警団組織が出てくる。今は市議会議員の次男が会長をしている。「最近は外国人犯罪が増えている」として自警団に入る若者もいる。モール予定地付近には中国人が集住していて、あつれきもあるようだ。自警団が巡回していて、中国人ともめ大きな衝突になっていく。

 こういう風に、排外意識と暴力、腐敗が交錯する地方都市の中で、三兄弟はどう生きていくか。粗暴なようで謎めいた長男、自分を殺して生きていく次男、下請けの汚れ仕事をしながらも心優しい三男。これが地方都市の実態だというわけではないだろう。韓国映画に「アシュラ」という傑作犯罪映画があったが、そこでも市長と暴力が結びついている。でも、まあ実態というよりも映画的な設定だろう。それでも「閉塞感」が伝わり、なんとなく「いやな予感」がする。

 そりゃまあ、面白く見てりゃいいとも言えるけど、最近こういう「暴力」を描く映画が多いような気がする。若い監督には日本社会がそう見えているのか。映画の出来としては、とてもよく出来ていると思う。入江監督は「物語る才能」があるんじゃないか。一度見始めると止められない面白さがある。それは前作「22年目の告白」にも言えるが、僕は「ビジランテ」の作家性にひかれるものがある。東京ではテアトル新宿で上映中。
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漱石文学の読み方+漱石山房記念館-漱石を読む⑩

2017年12月29日 23時23分46秒 | 本 (日本文学)
 2017年は文庫版の夏目漱石全集を読み切ろうと思って、9巻の「明暗」まで読んできた。何とか最後の10巻を読みたいと思いつつ、どうも大変そう。自分で決めたことだから何とか年内に読み切ろうと取り組んだけど、案の定2週間ぐらいかかってしまった。何が悲しくて、こんな面倒な本を読んでるんだろうと自分でも思ったけど、一応評論や講演まで読み切った。それを書く前に、どうせなら今年開館した「新宿区立漱石山房記念館」にも行ってみようかと年内最後の開館日、28日に訪れた。
   
 場所は新宿区の早稲田南町、東京メトロ東西線早稲田駅から10分ほど、今まで「漱石公園」となっていたところに隣接している。前に早稲田散歩で紹介したこともある場所だが、漱石の生誕地と没地は(少し離れているけど)早稲田である。そこに建てられたわけだが、ここにあった「漱石山房」を再現したという部屋がある。それがメイン展示(写真撮影不可)で、まあそれほど大きくない。300円の価値があるかどうかは微妙な感じだが、漱石がここで死んだのは間違いないから一度行く意味はある。
   
 地下鉄を出ると、早稲田通りを大学と反対方向へ行く。「漱石山房通り」とある道を見つければ、後はずっと道なりに進むだけ。途中に「新宿区立早稲田小学校」がある。震災後に建てられた復興建築で、思わず見とれてしまう立派な小学校である。中へ入れないし、全景を撮れるような場所もないんだけど、東京にいくつか残る歴史的な学校建築だ。しばらく行くと「漱石山房記念館」が見えてくるけど、ガラス張りの建物でちょっとビックリ。カフェも付いてて、そこへは入場料無しで入れる。

 さて、全集第10巻だけど、まず「小品」がある。「文鳥」「夢十夜」「ケーベル先生」など定評のあるものがけっこうある。「こんな夢を見た」で始まる「夢十夜」は、近年評価もされているが案外面白いものが少ない。「永日小品」という小さなものが集まった作品も同様。一番いいのは晩年のエッセイ「硝子戸の中」だった。1915年1月、2月に新聞に連載された。漱石が死ぬのは、翌1916年の12月だから、もう晩年である。日常の様々な出来事が軽いタッチで描かれ、ファンならずとも面白いと思う。

 今じゃつまらないとしか言えないのは、評論の「文芸の哲学的基礎」とか「創作家の態度」で、100頁ぐらいあるのでウンザリする。言葉が難しいわけじゃないけど、漱石一流の持って回った言い回しが判りづらい。それにバルザックやディケンズなんかじゃ、今の小説論としては物足りない。カフカ、ジョイス、プルーストなんかが出てこないのは当然だが、英文学専門だからトルストイやドストエフスキーもほとんど出てこない。日本の古典も出てこない。まあ漱石研究者以外は読まなくていい。

 講演はそれより面白いけど、昔読んだ時感激した「現代日本の開化」があまり面白くなかった。趣旨が今では有名になり過ぎてしまったかも。近代日本の文明開化は「外発的」であり、「内発的」な開化が必要だと論じる。この「内発」「外発」は漱石が言い出した言葉で、思想史上に定着した。1911年の講演で、明治末期にすでに論じていたことに意義がある。学習院で講演した「私の個人主義」が一番面白い。1915年のもので、学習院というエリートに向けて、「個性」の確立を言うとともに、自己と他者の尊重、金力・権力への戒めなどを説く。その姿勢に漱石の真骨頂があると思った。

 僕は今まで、漱石では「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」「三四郎」「こころ」しか読んでなかった。だから、この機会に全部読もうと思ったんだけど、読んでみたらつまらないものが多かった。結局、特に近代文学に関心が深い人を除けば、一般的な教養としては先の5つで構わない気がする。でも、今でも「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「道草」「明暗」といった後期の大作群も文庫に入って読まれ続けている。それは何故だろうか。第一は、口語体の読みやすい文章だからだろう。

 今では大分古めかしい感じがしてしまうけど、一葉、鴎外、鏡花なんかを思い比べれば、ずっと読みやすい。漢語の表現が難しいだけで、中身的には伝わる。それと都市知識人の小説だという点。そして、マジメな人生小説だという点。背後には「文明批評家としての漱石」がいる。森鴎外や島崎藤村などもそうだけど、良かれ悪しかれ近代日本を背負って文学を書いている。そこに現代人にとっても、考えなければいけない問題が出てくる。

 ただし、明治の急激な近代化の中で、欧米のような近代小説を書くのは難しい。表面は近代化しても、心の中は江戸時代みたいな人ばかりでは、「個性」を持った人間どうしの葛藤を描く近代文学にならない。だから、実際の日本人の生活実態よりも、ちょっと不可思議な物語になりがちである。それに議論しすぎだったり、生活に幅がなくて人物の魅力に乏しい。最近書かれている小説がいかに上手かよく判る。様々なタイプの人間が実際の多数存在しているから、面白い展開を書きやすい。

 漱石後期の小説のテーマには、「姦通」あるいはそれに類したものが多い。だが自己告白衝動のようなものは感じないから、あくまでもテーマとして選ばれていると思う。産業や政治、法律などの観点からはともかく、文芸という観点からは明治の欧米化により「恋愛」が解禁されたことが一番大きい。江戸時代にも当然恋愛的なものはあるわけだが、基本的な道徳としては「身分」によって結婚も制度化されていた。現代だってある程度はそうなんだけど、一応近代の原則では個人の問題になる。

 欧米の倫理観では「神の前に永遠の愛を誓う」のが正しい結婚であり、男女が清らかな愛を育むことは当然である。もちろん欧米だって、そう単純じゃないだろうが、一応「恋愛」が社会的に公認され小説のテーマとして認められる。日本じゃ頭では理解できても現実は難しい。テーマとしては「許されざる恋愛」の方が重大なので、日本の近代小説(だけじゃなく欧米でも)、「姦通」と「身分違いの愛」が無数に描かれた。実際の多くの文士が実生活で「身分違いの愛」や「姦通」を実践したぐらいだ。

 漱石の小説もその一つだと思うが、漱石の主人公は悩む。悩みを超えて、身も心も捧げてしまう愛の喜びはそこにはなく、実社会の道徳との関係で悩む主人公が多い。これは日本の「世間」構造にとらわれているからだ。つまり、漱石を通して、近代日本の知識人が欧米的自立ができず、日本の「世間」に呑み込まれていく道筋が描かれる。それが今も意味があると思う人には価値がある。だが、すべての人は時代の制約を免れず、女性と植民地に関する描写は問い返される必要があるだろう。
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衆議院の「7条解散」は憲法違反

2017年12月28日 22時57分16秒 |  〃  (選挙)
 部活に関する考え方を大きく変えたと先に書いたけれど、他にもう一つ今年になって大きく考え方を変えた問題がある。それは「憲法7条に基づいて衆議院を解散すること」の是非である。後で詳しく書くけど、首相が有利な時期を見計らって解散をすることを、僕はこれまで「そんなもの」だと思っていた。数えてみたら、今まで15回の衆議院選挙で投票してきたが、このうち任期満了が1回不信任案可決が2回である。他は全部「7条解散」だから、なんとなく「そんなもの」だと思うわけである。

 7条解散というのは、日本国憲法第7条に「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。」とあり、その三に「衆議院を解散すること。」とあることに基づく解散である。その前の4条で、天皇は「国政に関する権能を有しない」とされ、3条では「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」とされる。

 だから、天皇が自分で衆議院を解散しちゃえというのはダメだけど、内閣総理大臣が「解散するべきです」と「助言」したら、天皇は解散するしかない。天皇には政治的な権能がないわけだから、臨時国会で審議もしないで冒頭解散するっておかしいんじゃないですか、解散は認めませんなどと言うわけにはいかない。内閣の「助言と承認」により、衆議院を解散するしかない、と僕も思っていた。それがいいか悪いかとは別問題として、今の憲法の解釈としてはそうなるんだろうなということである。

 ところが、この解釈は間違いだというのが片山善博氏(早大大学院教授、元鳥取県知事、元総務大臣)の違憲論である。東京新聞11月27日夕刊に掲載された、片山氏の「ご都合主義の衆院解散 憲法を素直に読み、限定を」という所論を読んで、僕も完全に説得された。確かに明示的には7条解散は否定されてはいないと思う。だが、憲法の解釈としては「7条解散は想定されていなかった」と考えるのが正しいのではないか。今年になって考え方を変えたのである。

 そのことを説明するとちょっと面倒くさいんだけど、まあ一応きちんと書くことにする。まず、天皇の国事行為を定めた7条の前の、憲法6条から。そこでは「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。」そして「2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。」とある。これはものすごく重要で、絶対覚えていないといけない決まりだ。

 ところで、なんでこんな決まりがあるのだろうか。普通の大臣は、「内閣総理大臣は、国務大臣を任命する」(68条)。最高裁の裁判官は「(前略)その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。」(79条)ということで、どっちも内閣が責任を持っている。戦前の大日本帝国憲法では、総理大臣は天皇が選ぶことになっていた。まあ天皇が自分で決めるというよりも、元老や重臣で決めていたわけだが、条文上では天皇の権限とされていた。

 現行憲法では、内閣総理大臣は国会の指名、最高裁長官は内閣の指名である。それならそのまま決まりでいいじゃないか。それをあえて「天皇の任命」にしているのは、天皇が「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(1条)だから、国家として重要な総理大臣と最高裁長官の「権威付け」を図るために「天皇任命」になっていると考えられる。天皇は政治的な権能は持たないけど、象徴という「権威」はあると思われているから、このような決まりになるのだと考えられる。

 さて、7条にある「天皇の国事行為」は以下の通り。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること
二 国会を召集すること
三 衆議院を解散すること。
四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること
七 栄典を授与すること。
八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること
九 外国の大使及び公使を接受すること。
十 儀式を行ふこと。 

 この中に六の「大赦、特赦、減刑…」は、憲法73条で、内閣の権限として「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。」が挙げられている。内閣が決めるんだけど、それを天皇が「権威付け」するわけである。一番最初にある「憲法改正、法律、政令及び条約」の公布に関しても、それぞれが憲法の他の条文で定められている。例えば、法律に関しては59条で「特定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。」とある。法律は国会で決まるわけだが、公布にあたっては天皇の名で行うことで「権威付け」している。

 憲法改正についても「各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」となっている。当たり前のことだけど、天皇が、あるいは内閣が勝手に憲法改正を公布することはできない。安倍首相が「憲法9条に自衛隊を明記する」と憲法を改正して欲しいと天皇に「助言」しても、これは天皇が承認できない。

 栄典授与、外国大使・公使の接受、儀式などは憲法の他の条文に書かれていないけど、これは当然のこととして「権威付け」である。栄典に関しては、憲法制定当時は軍人等の勲章は停止されていたから書いてないのではないかと思う。その後、勲章が復活するが、もちろん内閣が決定している。このように、「天皇がするべきこと」はおおむね憲法の他の条文に書かれていて、それを「権威付け」するためにのみ天皇が関与することになっている。

 そういう中に、憲法7条の「三」の衆議院解散がある。そうすると、これも憲法の他の条文に書かれていることの「権威付け」だと考えるのが自然だ。憲法69条には「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。」とある。衆議院で内閣不信任案が可決された場合、内閣が衆議院の解散を決断する場合である。これ以外に衆議院が解散されるケースは憲法に書いてない

 だから憲法を素直に解釈すると、内閣不信任案が可決され衆議院が解散されるとき、その解散・総選挙を「権威付け」するために天皇が出てくると見る方が自然だ。ちょっと面倒なことを書いてきたけど、要するに憲法7条をタテにして「天皇に助言して解散する」は脱憲法的手段だということだ。僕はそう思うようになったわけである。衆院議員の任期は4年もあるのに、首相が解散権をもてあそび、任期の半分も過ぎれば議員がソワソワし始めるというのは確かにおかしい。

 与党が圧倒的多数だったのに、今年ことさらに選挙をする意味はない。多額の国税を費やして選挙をやったのは、私的結社である自民党総裁選に対する個人的な野望のためだろう。イギリスでは選挙は基本的に任期満了でやるように法律で決めた。しかし、2017年には任期前に総選挙を実施している。それは首相が表明し、国会が同意した場合に特例で解散できるとなっているからである。だから、最低でも法律で「国会の同意ある場合は衆議院を解散できる」という決めない限り「7条解散」はおかしい。そう思うようになったわけである。
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チャペック兄弟、犬と猫の本-チャペックを読む①

2017年12月27日 22時34分07秒 | 〃 (外国文学)
 先に書いたように、11月から12月にかけてはチェコ映画をずいぶん見ていた。個人的な事情で見逃した作品も多いけれど、カンヌ映画祭監督賞の「すべての善良なる同胞」など非常に重要な作品を見られた。せっかくだから、この機会にチェコ文学を読もうかと思ったが、なかなか時間が取れない。チェコ文学って、そんなにあるのかと思うかもしれないが、結構いっぱい訳されている。プラハに住んだけどドイツ語で書いたフランツ・カフカ、今はフランス語で書いてるミラン・クンデラなんかもいるわけだが、やっぱりまずはチャペックでしょ。来年は戌年なんだし、ということで。
(ダーシェンカ原本)
 カレル・チャペック(1890~1938)と言えば、とても多方面で活躍したチェコスロヴァキアの作家である。特に「ロボット」という言葉を最初に作ったことで有名。SFの「山椒魚戦争」や「ロボット」は岩波文庫に入っている。それと中公文庫でロングセラーの「園芸家十二カ月」や児童文学の「長い長いお医者さんの話」(岩波少年文庫)なんかも知られている。そして、かつて新潮文庫で出ていた「ダーシェンカ」という愛犬をめぐるエッセイを読んだ人もいるかもしれない。

 チャペックは1938年12月25日、つまり1939年3月のドイツによるチェコ併合の直前、ミュンヘン会談の少し後に48歳で惜しくも亡くなっている。自由を求めた反ナチス運動家でもあったチャペックは、ナチスにマークされていた。侵攻したドイツ軍はチャペックを拘束しようと家に向かったが、死亡していたことを知らなかったという話だ。しかし、それは弟のカレルのこと。兄のヨゼフはチェコを代表するキュビズムの画家だったが、ナチスに拘束され収容所から戻らなかった。

 カレル・チャペックの死後、犬や猫について書いたエッセイは「チャペックの犬と猫のお話」にまとめられた。河出文庫に入っていて、今も読まれている。この本には「ダーシェンカ」の部分も全部入っている。冒頭には写真がいっぱい載っていて、とても素晴らしい。そして同じく河出文庫に「チャペックのこいぬとこねこは愉快な仲間」という本も出ていて、そういう本もあるのかと買ってあった。当然カレルの本だと思って買ったんだけど、今回よく見てみれば兄のヨゼフ・チャペックの本じゃないか。著者によるイラストもいっぱい載っている。どっちも犬や猫が好きな人には絶対おすすめ。
 
 ヨゼフの本から書くと、これは子ども向けの絵本。子犬と子猫が仲良く一緒に住んでいる。子どもたちも仲良く、ありえない世界なんだけど、それが楽しい。犬と猫ががなぜかお金も少し持っていて買い物に行ったりもする。クリスマスケーキを作ろうとして、ありったけのものを詰め込んで、猫は大好きなネズミのくん製もいっぱいいれたりする。それで子どもたちをもてなそうとするんだけど、そこへ野良犬が匂いにひかれて…。といった面白いファンタジーで子どもも大人も楽しめる楽しい児童文学。
(カレル・チャペック)
 一方、カレルの本はお得意のユーモア・エッセイ。大部分が犬の話だけど、猫も飼っていて最後の方に出てくるプドレンカの話はけっこう強烈。とにかく多産系の猫ちゃんなのである。犬の方はミンダとかイリスとか、なによりダーシェンカの話。普通は内容のオリジナル性が大切だけど、これは「あるある本」で、犬や猫を飼った人には「それってある」「これもある」の連続である。それが楽しいし、全世界共通なんだなあと思ってうれしくなる。そんなステキな本。
(プドレンカ)
 今じゃ雌犬、雌猫を飼う人は、避妊手術をすることも多いだろう。でも、80年以上も昔のことで、そんなことはしない。日本でも大体の犬は放し飼いだった時代だが、ヨーロッパはもともと室内で靴を脱ぐ習慣がないから、犬も自由に家の中で飼われている。チャペックもマッチング・シーズン(発情期)には気を付けてるんだけど、なぜかどこかで妊娠してしまう。そういう苦労がつきない。

 「ちょっとばかりの排外主義」という短い章もある。それはイングランドやフランスやスペインやデンマークなんかの犬はチェコでも人気があるが、チェコ独自の犬がいないのが寂しいというのである。世界との友好を唱えるチャペックだけど、同時にオーストリア帝国からの独立を求めたナショナリストでもあった。この気持ちは僕にはよく判る気がする。日本には秋田犬柴犬がいる。長野県の川上村のみにいる川上犬なんか素晴らしい。犬はずっと人間の友だちだったから、その地域の風土にあった性質になって行ったと思う。チェコ犬が欲しいと思うチャペックにも共感する。
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部活はそもそも残業なのだろうか-部活動を考える②

2017年12月26日 23時40分01秒 |  〃 (教育問題一般)
 「部活はそもそも残業なのだろうか」とタイトルに書いた。もちろん法律的には部活指導は残業に入らない。そんなことぐらい、もちろん知っている。中沢篤史さんの「そろそろ、部活のこれからを話しませんか」によると、残業代を払えという裁判をして最高裁まで争って退けられた判例が紹介されている。(その裁判は僕も知らなかった。)部活指導の大変さを訴えている人の中には、「残業時間の上限を定めて欲しい」という人もいるようだけど、そういう問い方では問題は解決しないだろう。

 一応法的な解説をしておくと、「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」(給特法)で、教員は一律に4%の給与加算を受けることになっている。その代わり、時間外勤務手当及び休日勤務手当は支給しない。だから教員に関する残業命令は基本的にはないわけだが、政令で特別な4ケースに関しては命令できるとされている。①校外実習など実習②修学旅行など学校行事③職員会議④非常災害 である。この法律ができた理由は今は省略する。

 しかし、そういう法律的な解釈は別にして、現場教員は「一種の残業」としてやっているという意識が強いと思う。部活動は教育課程外で、ある種ボランティア的な活動だと言いながら、部活動には「指導」が入ってくる。技術指導をどこまでするか、できるかは別にして、部活内部の人間関係がもめた時、教員が何もしないわけにもいかない。大会参加や練習試合など対外活動をするなら、教員がいないとできない。部活はボランティアだから大会引率はしないとは言えないだろう。

 部活顧問を決定するには、生活指導部で希望調査をして調整するだろう。その後に職員会議に顧問一覧表が出され、校長から(正式文書が出る学校はほとんどないと思うけど)「委嘱」される。確かに「職務命令」が出されたとまでは言えないかもしれないけど、事実上「職務」だと受け取るしかない。授業する教科は当然決まっているわけだけど、学級担任や校務分掌、部活顧問に関しては、誰が何をするかは決まっていない。どんなに校長独裁になっても、一応何らかの希望を聞くだろう。そうやって決まっていく以上、「校務」の一環として理解してしまうのは当然だ。

 教員時代の僕もずっとそういう風に理解していたと思う。部活に熱心な教員ではないけど、一応部活顧問は「職務」なんだと思っていた。教師は「特別な教育公務員」なんだと当時は管理職も教えていたように思う。だから、生徒がいるときは対応するのが当然。生徒が問題を起こせば、遅くまで指導に当たる。生活があるわけで、限界はもちろんある。でも、部活終了時間は決まっているんだから、その時間ぐらいまでは残っても当たり前。その代わり、生徒がいない時は「柔軟」な勤務になってよい。テスト期間で生徒がいなければ、教員も「自宅採点」でいい。夏休みで授業がない時は、「自宅研修」できる。そんな風に管理職も思ってたと思うし、自分も何となく思ってたわけである。

 そういう考え方は今は完全に教育行政によって否定された。そんな「特権」みたいなものは、勤務時間の縛りが厳しくなって認められない。国旗国歌問題で「処分」された教員が起こした裁判では、最高裁で処分内容には一定の限度があるとされた。しかし、基本的な認識としては、教員も単なる公務員だから、所属長の職務命令に従うしかない存在だとされている。それどころか、教員免許更新制によって、事実上「10年任期の公務員」に格下げされてしまったと言えるだろう。

 そんな情勢の下、最近部活問題に関する自分の考えを大きく変えた。「部活は残業にならない」ということである。そもそも残業とはなんだろうか。「本務」(本来の業務)が勤務時間内に終了しないために、管理職から命令されて行う時間外勤務のことだろう。主に「繁忙期」には避けられない。(日常的に残業があるなら、それは雇用者側に責任がある。)学校でも、定期テスト前に試験問題を作る試験後に採点して成績を付けるなどは、本務中の本務だから「残業」しても当然だろう。

 これに対して、「部活動」は授業や行事などの延長ではない。校内の教育課程でも、それぞれ別のものになっている。そして、教員も勤務時間はおよそ8時間(東京では7時間45分)しかない。休憩時間は45分だから、学校に拘束される時間は8時間45分(東京都立は8時間30分)である。朝は8時15分から勤務開始だとするなら、勤務時間は17時には終わってしまう。(勤務開始前に「ボランティア」として「あいさつ運動」などをやってる学校も多いだろう。)部活が夕方5時で終わる中学はないだろうから、一日の勤務時間内には絶対に終わらない。

 学校の勤務時間は学校ごとに多少違う。また部活の終了時間も学校ごとに違う。でも、教員の勤務時間内にすべて終わるという学校は基本的にはないと思う。土日の活動の問題もあるし、そっちの方が負担が大きい。だから、一日に30分や1時間の延長があるのは、あまり気にしない人が多いだろう。どうせ授業準備や会議などがあるのである。僕もそうだった。土日に出てくるのが毎週じゃいやだが、大会前なんかは時にはやむを得ない。でも毎日の活動は、教師としては出たくても多忙で出られない日が多いけど、生徒が自主的に活動できる時間的保証はある程度してやりたいと思っていた。

 だけど、よくよく考えてみれば、一日の勤務時間内に絶対に終わらないと当初から判っている勤務形態は、それ自体おかしいではないか。それなら、労働基準法に特別に規定がないとおかしい。あるいは完全なボランティアと考えて、一切の部活手当も出さない代わりに、事故などの責任も負わない。技術指導をしたい教員は、自分の責任で行う。あるいは、部活顧問を担当する教員は、学級担任から外れて、勤務開始時間を遅くするとか。他にも考えられるが、もっと実現性のありそうなことを考えないといけない。だけど、休養日を作るとか、土日は教員外の指導員に任せるなどではない、教員勤務の本質に即した根源的な解決法を考えないといけない。もう少しこの問題は年明けに書きたい。
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「好きの搾取」の部活動-部活を考える①

2017年12月24日 22時04分30秒 |  〃 (教育問題一般)
 部活動のあり方を考えていくと何回書いてもキリがないぐらいになる。とりあえず「問題整理」「問題提起」として2回ほど書いて、じゃあどうするというのは年明けに回したいと思う。まず、どうしても最初に書いておかないといけないのは、教員の中でも特に中学教員の超過労働が激しすぎて、「過労死ライン」を大きく上回っていることである。そのデータは異常としかいいようがない。

 「過労死ライン」とは月の時間外労働が80時間を超える場合を指す。週当たり60時間を超えると、このラインに達する。2016年度の文科省調査によると、この時間を超えているのは小学校で33.5%、中学校で57.7%にまで達している。東京都の場合、この全国ラインを超えている。11月に発表された「東京都公立学校教員勤務実態調査の集計について」を見るとよく判る。

 その調査によると、週60時間以上の勤務をしているのは、小学校教員が37.7%、中学校教員が68.2%、高校教員が31.9%、特別支援学校教員が43.5%となっている。また副校長は特別支援で86.7%、小学校84.6%、中学校78.6%、高校58.3%になっている。これは実感として、30年前に僕が中学校に勤務していた時からほとんど同じだったように思う。地域密着で部活動を行わなくてはいけない中学は、とにかく多忙を極めるのである。

 最近は教育改革、授業改善の動きが激しすぎて、今までの授業ではやっていけなくなったり、校内研修や校外研修が多すぎるのも大問題。だが、それ以上に少子化の影響が特に大きいのではないかと思う。若くて元気な独身男性が新採で何人も来れば、何となく部活顧問も決まってしまうだろう。でも少子化で学級数が減ると教員も減る。部活顧問が異動しても、後任が補充されないことも多い。

 それなら学校の部活も減らせばいいわけだが、そういう風にすぐは減らせない。サッカーは11人、野球は9人必要だから、それ以下になると試合に出られないはず。ある時期までは一学年で15人ぐらい入部して、レギュラーになるのも大変だった部活も、生徒が減ると難しくなる。でも、1年から3年まで合わせて9人いれば、なんとか試合に出られるじゃないかとなる。あるいは試合の時だけ他の部活から借りて来るとか。そして来年たくさん入部するかもしれないと言われてしまうと、急に廃部にはしにくい。そうやって、教員は減っても部活は減らない。

 そうなると今までは「副顧問」だった教師が「正顧問」にならざるを得ないことも起きる。全員が部活顧問になるというタテマエの下、顧問は引き受けられないけど「副顧問」ならという教員もいる。正顧問が出張や休暇のとき、あるいは試合引率の時などは副顧問の出番だが、土日の活動などでは基本的には行かないでよかった。家庭の事情でそれ以上はできないという教員でも、今度は時には家族を犠牲にして部活顧問をせざるを得ない。そんな教員の「悲鳴」が聞こえてくるわけである。

 それなら「顧問」を断ればいいじゃないかとも言える。だけど、それはなかなか現実には難しいだろう。教員の評価にも関わるが、そういうことではなく「生徒に頼まれれば断れない」ということだ。そして「好きで部活をやってる教員」も一定数いる以上、校内で問題提起するのも勇気がいる。生活指導部で顧問案を作るのも苦労だろうが、前例踏襲に走りやすい。運動部ならまだしも誰か引き受けようがあるが、吹奏楽や合唱など音楽系で実績がある学校で、音楽教員がいなくなると非常に大変だ。音楽教員は女性が多く、産育休を取った代替教員では対応できない。

 それでも何とか誰かが犠牲になって、部活が続いていることが多い。それをどうすればいいか。そもそも問題をどう捉えればいいのか。そう思い続けてきたけど、なかなか表現にしようもなかったんだけど、今年の初めにいい言葉を聞いた。「好きの搾取」である。人気ドラマのセリフで使われた「好きの搾取」っていう言葉、部活動にこそ一番当てはまるんじゃないだろうか。誰が誰を搾取しているのかは、なかなか見極めが難しい。でも、総額いくらぐらいの「搾取額」になるかは大体判る。

 それは前回書いた中澤篤史著「そろそろ、部活のこれからを話しませんか」の本に出ている。部活指導を全部地域の外部指導に切り替えるとどうなるか。そうすることの是非はともかく、「数十億円」がかかると書かれている(137頁)。数十億で済むかどうか知らないけど、少なくともそのぐらいにはなるらしい。教育予算が減らされ続けたので、もうそういう数字を聞くだけで、絶対ムリだと教員は考えがちだ。でも本来はその分が教員の「ほぼ無償労働」(一応多少の手当は出る)で手当てされているわけだ。これが「好きの搾取」の代償ということになる。本来は大きな社会問題になるはずではないのか。
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2冊の「部活本」-これからの部活動のために

2017年12月23日 23時12分14秒 |  〃 (教育問題一般)
 2017年も残り少なくなってきて、ぜひとも今年中に読んでおきたい本を読まないと。前から日本の学校、教育を考えるときに、「部活動の再検討」がどうしても必要だと思っていはいた。でもこの問題はあまりにも複雑に絡み合っている。大阪市の桜宮高校の体罰問題が大問題になったころ、僕も「体罰」などに関して書いているが、「部活動のあいまいな領域」と題して書いたぐらいである。

 部活動に関して書かれた一般的な本も今まで見たことがないんだけど、今年は2冊もあった。本当はもっとあるらしいけれど、僕が実際に手に取ったのは、中澤篤史「そろそろ、部活のこれからを話しませんか」(大月書店、「部活」のところが赤字なのは実際の本の通り)と島沢優子「部活があぶない」(講談社現代新書)である。どっちも読みやすい本で、これからの議論の前提となる。部活に関わらざるを得ない中学、高校の教員はもちろん、親や行政関係者など幅広く読まれて欲しい本。
 
 島沢著「部活があぶない」から紹介するが、読んで題名の通りの本。島沢氏は桜宮高校事件などを追いかけてきたフリーライターで、著者紹介を見ると筑波大女子バスケット部で大学選手権優勝、その後日刊スポーツ記者を務めたとある。「事件事故が多発し、児童虐待化する部活を徹底ルポ」と帯に出ている。実際にごく最近群馬県の高校で、陸上部のハンマー投げがサッカー部員にあたって死亡する事故が起きたばかり。春には栃木県の高校登山部が雪崩に巻き込まれて8人が死亡する大事故が起きた。体罰やいじめなんかじゃなくても、死亡するケースが起きるのだ。

 この本を読むと、それ以上に深刻な「事件」を含め、様々な悲劇的事例がたくさん出てくる。海外では柔道で死亡事故などどこでも起こっていない。日本では何件もの柔道による死亡事故が起きている。それはなぜか? まさに「ブラック部活」というしかない事例がレポートされている。そしてそれは「教師にとってもブラックな部活」なのである。それだけではなく、最終章では「ブラック」にならない指導例がいくつか紹介されている。まず教員と保護者が緊急に読んでおく本だろう。

 中澤著も読みやすいけど、部活動の歴史や海外の事例紹介なども豊富で、この問題を考えるときに必読の本になっている。著者は早稲田大学スポーツ科学学術院准教授で、「運動部活動の戦後と現在-なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか」(2014、青弓社)という大著の研究書もあるらしい。でも専門書を読むのも大変だし、そもそもその本の存在を知らなかった。そういう研究を踏まえて、一般読者向けに書かれたのが、「そろそろ、部活のこれからを話しませんか」である。

 この本を読んで思い出したけど、「部活動」という言葉自体がそんな古いものではない。僕の中学時代には「クラブ活動」だった。高校は独特で昔から「班活動」と言ってるところだったから「クラブ」も「部」もなかった。(慣習では言ってたような気もするけど。)僕が高校を卒業したのは1974年で、1978年に教育実習を母校でやった時には「必修クラブ」というのがあった。僕が中学に勤務した80年代にも「必修クラブ」があった。時間割に組まれているクラブと差別化するため「部活動」と呼ばれた。

 そうだ、そうだと思いだしたわけである。そんなもの(必修クラブ)があるなんて想像も出来ない世代からすると、大昔から「部活」だったと思うかもしれない。80年代には全国の中学で「校内暴力」が吹き荒れ、「学校再建」の中で「部活全入」などの動きも出てくる。しかし、僕にとっては「部活動」はもともと「クラブ活動」として生徒の自主的な要素の大きなものだったというのは実感でもある。

 教育課程の問題は細かくなるからここでは省略する。この本でも、生徒の生命、教員の生活を守るために、現在の大変な状況と今後の展望が書かれている。しかし、そういう部分は島沢著でも書かれているし、マスコミでも最近はよく取り上げられている。中澤著は実際の中学でのフィールドワークに基づく「部活の存廃をめぐる闘い」が非常に面白い。高校は生徒数が多く、従って教員数も多いけど、中学は学級数が少子化で減ると教員減が部活の存廃に関わる。そういう実態は中学教員以外、あまり知られていないと思う。多くの人に読んで欲しい部分。(僕も学校の対応には疑問。)

 もう一つ、海外の事例で「アメリカでは部活参加が特権と考えられている」というのが非常に大事な指摘だと思った。日本だったら、その学校の生徒である以上、部活参加は基本的に拒めないと思われているだろう。「君には部活より勉強が優先だ」なんて、とても言えない。アメリカ映画なんかでも、アメリカンフットボールなど高校の名誉を掛けた試合が出てくる。そういう「部活」は全員参加じゃなく、ちゃんと「トライアウト」で選抜される。「少数エリート」の特権活動なのである。なるほど、そうだったのか。この問題は日本でも大切ではないか。授業や学校生活はいい加減なのに、部活動だけのために登校するような生徒がけっこう多いと思う。それはやはりおかしいのである。

 という具合に、いろいろな問題がいっぱい出てきて紹介しきれない。コラムもたくさんあって、著者の体験や部活漫画の紹介などもある。全国の高校で、学校図書館にそろえて欲しい。残された問題として、「学校推薦の問題」と「生徒会活動との関わり」があると思う。全国の中学生は半分以上が一度は私立や公立の推薦制度を利用するんじゃないか。高校生でも、就職生徒はもちろん、大学でも推薦制度が複雑に出来ていて利用する生徒が多い。「学校推薦」の場合、学力は調査書で判るが「より広い人間性」を見るとされる。「部活」で成果をあげたとか、部長などを務めたと書きたいわけである。生徒会との関わりは今は省略。今後の部活を考えるときに前提として読んでいるべき本だろう。
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フランソワ・オゾン監督の傑作「婚約者の友人」

2017年12月22日 23時54分39秒 |  〃  (新作外国映画)
 東京はじめ各地でロードショー上映が終わってしまったんだけど、フランソワ・オゾン監督の「婚約者の友人」が素晴らしい傑作だったので簡単に書き残しておきたい。東京ではシネスイッチ銀座の上映が終わった後で、新宿のシネマカリテで22日まで上映された。終わる直前の21日に見たんだけど、見逃さなくて良かった。今後もいくつか上映もあるようだが、是非大きなスクリーンで見たい映画。

 1919年、ドイツ。第一次世界大戦が終わった直後で、人々はまだ戦争の傷を負って生きている。ある小さな町に住むアンナは、戦死した婚約者のフランツの墓に参ったとき、もう一人別の墓参者がいると知った。管理人に聞いてみると、フランス人だという。フランツはパリに留学したこともあるから、その時の友人が来てくれたのだろうか。敵味方と分かれたから、ひっそりと参ってくれているのか。アンナはホテルを訪ねて、そのフランス人、アドリアンへの手紙を託した。

 アンナはフランツの両親とともに、今も婚約者の父の医院を手伝いながら暮らしていた。存命ならば秋には挙式の予定だった。そんなところに「フランツの友人」が現れるが、彼は敵国のフランス人である。心穏やかではないが、それでもフランツの思い出を語るうちに心が和んでいくのだった。という筋立てが、ここまではモノクロで語られる。今は亡きフランツをめぐって、人々の心も沈み込んでいて色彩がないのを象徴するように。このモノクロ映像が圧倒的に美しくて、画面に見入ってしまう。

 ところが、アンナとアドリアンの心が少しづつ通じ合うようになると、ところどころがカラー画面になる。特に町を出てちょっとピクニックの感じで遠出する場面。鎌倉の釈迦堂切通し(鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」に出てきたところ)のようなところを通ると、そこに小さな湖が広がっている。なんと美しいシーンなんだろうか。しかし、この頃から、一体この映画は何が描きたいのだろうかという思いも出てくる。敵と味方は許しあえるということか。一体アドリアンは何者なのだろう

 ということで、一種ミステリー的な展開もあるので、その後の展開は書かないけど、「真相」とアンナの選択、アドリアンのゆくえが判らず、ついにフランスまで訪ねるアンナ。そして…? ここで描かれるのは、国家が国民に「殺人」を強制する戦争の恐ろしさである。人々は愛する者が敵に殺されたと考える。しかし、その「敵」も命じられて戦争に赴いただけなのだ。命令した国家を問わずに、多くの人は敵国への憎しみに「救い」を求めてしまう。

 今はドイツとフランスは友好国である。でも、1870年の普仏戦争から、第一次世界大戦、第二次世界大戦と70年間に3回も大戦争を経験した歴史がある。第一次大戦直後を描くこの映画では、ドイツではフランスを憎み、フランスでは国家主義が高まる様子が見事に描かれている。この映画が訴えるものは明らかだ。この憎しみの連鎖は今に通じる。「許し」はどのように可能なのか。

 芸術的な香気の高さテーマの切実さ語り口のうまさ、どれも素晴らしい。特に画面の美しさに目が離せない。アンナを演じるのは、パウラ・ベーアというドイツの女優。ヴェネツィア映画祭で新人俳優賞を受賞した印象的な名演。アドリアンはピエール・ニネで、「イヴ・サンローラン」で主役を演じた。

 監督はフランソワ・オゾン(1967~)で、新作を見るのは久しぶり。「まぼろし」(2000)や「8人の女たち」(2002)などで、新しいフランス映画の旗手という感がしたものだが、最近は何があったっけ。調べれば「危険なプロット」(2012)、「17歳」(2013)、「彼は秘密の女友だち」(2014)など、そういえばそんな映画があったなという感じで撮っている。日本でも公開されているわけだが、あまり印象になく僕も見ていない。だからうっかり見逃すところだったけど、「婚約者の友人」は傑作だと思う。
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映画「否定と肯定」、歴史修正主義と戦う

2017年12月21日 21時25分29秒 |  〃  (新作外国映画)
 「否定と肯定」という映画が公開されている。(東京では日比谷のシャンテ・シネのみ。)名前だけじゃ何の映画だかよく判らないけど、これはホロコースト否定論者(歴史修正主義者)との裁判闘争を描いた法廷ドラマなのである。「フェイクニュース」などという言葉が流行る今の時代、まさに見るべき映画だ。見始めると面白くて画面にくぎ付けになる。とてもウェルメイドな傑作だ。

 アメリカ、アトランタのエモリー大学に勤めるデボラ・E・リップシュタットは、ホロコーストに関する著作「ホロコーストの真実」で、歴史修正主義者のデイヴィッド・アーヴィングを厳しく批判した。彼女の講演会にアーヴィングが現れ、聴衆の前で挑発したこともある。そして、アーヴィングは彼女を名誉棄損でイギリス王立裁判所に訴えた。ユダヤ系の女性歴史学者であるリップシュタットは、示談を勧める声もあったけれど、敢然と受けて立つことにした。完全な実話の映画化。

 ところで、この映画で判るのは英米の裁判の大きな差。イギリスの名誉棄損裁判では「被告側の挙証責任がある」というのだ。デボラは思わず「推定無罪はないの」と聞くが、ないと言われる。彼女が頼んだ弁護士は有能と言われ、ダイアナ妃の離婚裁判を担当したという。法廷に立ってくれるのかと思うと、「事務弁護士だから法廷には出ない」という。代わりにまた別の法廷弁護士がいるのである。その複雑な制度には戸惑う。そして訴訟戦術上、デボラ本人やホロコーストの生存者は法廷に立たない方がいいと言う。その戦術に反発し、戸惑いながら、裁判は進行していく。

 リップシュタット役は、「ナイロビの蜂」でアカデミー賞助演女優賞のレイチェル・ワイズ。熱情的で使命感に燃えた若い学者が、法廷戦術でただ黙って座っていなければならないという難役を見事に演じている。敵役のアーヴィングは、ティモシー・スポールで、マイク・リー監督作品によく出ている。有名な画家を描く「ターナー」でタイトルロールを演じてカンヌ映画祭で男優賞を取った。監督はミック・ジョンソンで、誰だという感じだけど「ボディガード」の監督で、その後はテレビのドキュメンタリーでも活躍してきたという。脚本のデヴィッド・ヘアは「愛を読む人」(原作「朗読者」)を書いた人。

 今の日本にも歴史修正主義者がたくさんいる。他人事ではない映画だ。ここで判ることは、ホロコースト否定が「歴史研究」を装いながら見、実は「差別主義者」だという事実である。非常に細かなことを取り上げて、間違いだ間違いだと事挙げする。そして「否定論」というものと「肯定論」というものがあり、それは「考え方の相違」だという相対論に持ち込む。しかし、実は事実をねつ造し、史料を改ざんする。その背景に差別感情が潜んでいる。そのことをまざまざと証明している。

 アーヴィングも法廷で差別主義者と非難され、その後インタビューされた時、自分は差別主義者じゃない、事務所ではジャマイカ系なんかも雇っていると答えている。そして「みんないい胸しているよ」と付け加えたシーンが印象に残る。レイシスト(人種差別主義者)じゃないことを言いたくて、セクシスト(性差別主義者)であることを自ら暴露してしまった。そして、裁判で敗訴した後でも、「判決をよく読むと、自分は負けていない」と言い張っている。そこらへんも日本の歴史修正主義者と同じだ。

 何度批判され、論破されても、自分たちの小サークル内では、自分が正しいと言い張る。実証研究を読まない人の中には信じてしまう人もいる。そういう思考回路も世界共通なんだなあと判る。そういう意味で、この映画は非常に興味深い。でも難しい映画では全然なくって、非常によく出来た面白い映画を見たなという思いが残る。この映画ではアウシュヴィッツでもロケされているが、中の場面はセットを作っている。ぜひ多くの人に見て欲しい映画だ。
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写真家田原桂一「光合成with田中泯」

2017年12月19日 20時44分34秒 | アート
 写真家の田原桂一(たはら・けいいち、1951~2017)がヨーロッパや日本で「舞踏家」の田中泯を撮った「光合成 with 田中泯」という展覧会を原美術館でやっている。新聞の紹介で見て、ものすごく印象的な写真だと思った。24日までなので、もう終わってしまうから見に行った。

 田原桂一と言われても、僕は写真のことはほとんど知らない。今年の6月6日に亡くなって、訃報は見たと思うけど印象に残っていない。田原桂一の写真も今回初めて見たと思う。ヨーロッパの「光」に衝撃を受けて写真を始め、「光」にこだわって建築とのコラボを世界中で作った。田中泯とのコラボは、1978年から1980年にかけて行われた「光と身体」についてのフォトセッションだと書いてある。

 チラシを見ると、パリ、ローマ、ニューヨーク、アイスランド、ボルドー、東京、九十九里浜、秋川渓谷などで、「異なった光や大気や季節の中で、ダンサーの身体がどのように反応していくのか、あるいはただ単に人間の皮膚が神経がその触手を光の中にどのようにのばして行くのか。」上の写真の画像が出てきたので載せておきたいけど、これはフランスのボルドーに残された旧ドイツ軍のUボート基地だという。環境もすごいが、そこに立ち尽くす田中泯の身体の力もすごい。

 なぜかその後ずっと忘れられていたけど、2016年に写真集にまとめられた。その後、フォトセッションも再開されたという。展覧会としては、日本初公開となる写真展。田中泯の肉体を大自然の中で撮ったモノクロの迫力が凄まじい。驚くべき写真だと思う。現代日本のもっともすぐれた「表現者」である田中泯の若き日の姿を永遠にとどめたという意味でも絶対に見逃せない。

 田中泯(1945~)はずっと昔から名前は知っていた。八王子に「身体気象研究所」があった時代に訪ねたこともある。様々な公演を見たことはないんだけど、2002年の山田洋次監督の映画「たそがれ清兵衛」での圧倒的な存在感に圧倒された。その後は「俳優」としての活動も多いことは知られている。犬童一心監督の「メゾン・ド・ヒミコ」の、ゲイのための老人ホームを作った役がすごかった。

 原美術館は品川の御殿山にあって、駅から遠いから行くのも大変。僕は二度目である。最近は混雑が嫌で、「草間彌生展」も「運慶展」も行かなかった。今日は誰もいないところで見られたから良かった。東ガスや日航の会長を務めた原邦造の邸宅だったというところで、1938年建造の家をそのまま美術館にしている。「御殿山」というのは江戸時代から有名な山で、お台場建造でずいぶん削られたという。1862年の英国公使館焼き討ち事件が起こった場所でもある。行く途中にある「八ツ山」には三菱の「開東閣」(旧岩崎家高輪別邸)があるが、関係者以外立ち入り禁止。
 (原美術館)
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スピーキングテストに見る都教委の「原理主義」

2017年12月18日 23時24分37秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 東京都教育委員会が都立高校の入学者選抜で、英語のスピーキング能力を測るテストを導入する方針を決めた。各新聞に出ていると思うが、都教委のHPでは14日付で「『東京都立高等学校入学者選抜英語検査改善検討委員会報告書』について」という文書が掲載されている。この問題をどう考えるべきだろうか。僕は都教委の「原理主義的体質」を見事に表していると思うのである。

 まず「原理主義」(fundamentalism)という表現を説明しておきたい。もともとはキリスト教の一派で「聖書に戻れ」と主張するような人々を「キリスト教原理主義」と呼んだ。それがイスラム教にも援用されて、「イスラム教原理主義」と欧米で使われることが多くなった。しかし、イスラム社会では使わない言葉だという。イスラム教では、もともと「コーラン」(クルアーン)に従うのが当たり前で、「イスラム教原理主義」と表現するのはおかしいからである。

 このように「原理主義」とは、宗教や思想に関して使われることが多い。だけど、「市場経済原理主義」のように、「原理原則」に固執してものごとを考える人々に対しても使われることがある。そのような目で見れば、世の中にはけっこう「原理主義者」がいっぱいいる。右とか左とか、性別や年齢などに関わらず、「現場の現実」に目を閉ざし、自分の信じるタテマエを主張し続ける人々である。

 ところで、そういう人々の「原理原則」とは、実は「一番大きな原理」ではなく、「自分たちが思い込んだ小さな問題」であることが多い。キリスト教の中には、輸血を否定する人もいる。イスラム教の中には、女性はスカーフを被らなければいけないと主張する人もいる。そういうことが経典に明示されているんだったら、全員がそう理解するはずだ。でも、実際は「自分たちがそのように解釈した」というだけのことに固執していることが多い。イエスやムハンマドはそんなことを望んだのか。

 都教委の場合は、「学習指導要領原理主義」だと思う。学習指導要領は文部科学大臣の告示に過ぎないけど、これを金科玉条にして奉る。「10・23通達」で「国旗国歌の(教員への)強制」を打ち出したときも、学習指導要領に則って儀式を運営することが重要とされた。学習指導要領よりも、何よりも一番上位の縛りであるはずの日本国憲法に照らして、「思想・信条の自由」や「表現の自由」に抵触するんじゃないかなどとは問わない。だから、原理主義なのである。

 やっと今回の問題の英語スピーキングテストの問題に入る。都教委の文書を読んでわかるのは、「学習指導要領原理主義」以外の何物でもない。入選では「学習指導要領で定められた範囲で学力を測る」としている。学習指導要領では、英語は「4つの能力」(読む、書く、聞く、話す)を育てるとしている。しかし、今までは「3つの能力」しか測っていなかった。で、いろんな問題はあるけれど、今後「話す力」を測るテストを導入する検討を始めるというのである。

 これを聞いて、僕はなんでそんなことをするんだろと疑問に思った。いいんだよ、3つの力を測るだけで。いや、もちろんできるんならスピーキングテストをやってもいい。でも、入選で一番大事なことは何だろうか。それは「公平性」(受ける生徒にとって、平等に力を測定してもらえる)である。そして、次に「迅速性」だろう。これは採点する側の事情だが、ベストなテストを作っても永遠に採点しているわけにはいかない。一週間で合格発表までのすべての作業を完了しないといけない。

 常識で考えれば、この一番大切な「公平性」をスピーキングテストでできるとは思えない。どうするんだろうか。それは「英語検定」なんかでも同様である。だから、都教委もそのような民間の外部テストと連携するようなことを言っている。でも、高校の入選を高校の英語教員以外が担当してもいいのだろうか。あれほど「個人情報」をうるさく言う都教委である。都立高の入試に使うテストを民間で事前にやってしまうなんてありうるのか。じゃあ、都立高校の英語教員だけでできるとも思えない。

 そもそも「学習指導要領」にそんなにこだわるのが判らない。学習指導要領で中学生が学ぶべきとされているのは、何も英語のスピーキングだけではない。国語だって「話すこと・聞くこと」を育成すると書いてある。何で国語ではスピーキングどころか、ヒヤリングテストも行わないのだろうか。理科では「観察・実験」と何回も書いてある。どうして理科のテストで実験をさせないのだろうか。

 それに大体、音楽、美術、保健体育、技術・家庭だってあるわけだが、テストしなくていいのだろうか。そんなのできるわけがないというかもしれない。確かに体育や美術の実技を全面的にやることはできないだろう。でもそれらの教科だって知識も必要なんだし、ペーパーテストなら実施できる。実際、何十年も前になるけど、これらのテストをやってた時期もあるのである。

 という風に考えていくと、そもそもそれほど学習指導要領に書かれている学力をきちんと測定しなくちゃいけないんだったら、なんで推薦入試があるんだということになる。学力テストは全然やらないで、作文と面接で選んじゃうのである。そういうのも少しはあってもいいじゃないかと思うかもしれないが、そんなレベルではない人数を推薦で選んでいる。2017年で見てみると、推薦で9,007人一次試験で32,030人(全日制のみ)が合格している。ちなみに、一次試験の受検生はおよそ4万5千人。(なお、2次試験、分割後期では886人が合格した。)

 つまり、4人に1人ぐらいは学力試験なしで都立高校に入っている。それをなくして全員学力試験で取るというんなら、スピーキングテストも意味があるかもしれない。でも、実際は難関大学進学を目指す進学指導重点校の日比谷高や西高だって、64人も推薦で取っているのである。(普通科、特に進学重点校は推薦入試はいらないでしょ。)

 僕が思うに、中学3年生なんだから、読む、書く、聞く能力が高ければ、おおよそ話す力だって高いのではないか。「帰国子女」といった特別ケースを除けば、高校段階で問題が起きるほどスピーキング力の差はないのではないか。多少あっても、高校入学後に育てていけばいいじゃないか。不登校だったり、障害がある生徒も、最初は全日制高校を受けてみたいと思う生徒がかなりいる。落ちてからでも、夜間定時制や通信制の二次試験を受けることはできるのだから。(最初にそれらが埋まってしまうことは事実上ないので。)だけど、そのような生徒にも当然、事前のスピーキングテストを中学側で受けさせないといけなくなる。ものすごい現場の負担増である。

 ところで、このテストはいつやるんだろうか? 現場の忙しさを考えると、1月半ば以後はもう無理だろう。中学は都立の推薦指導や私立高入試を控え、高校はセンター試験対応や推薦入試がある。だったら12月にでもやるんだろうか。その段階では都立の推薦の結果は誰にも判らない。国立や私立難関高を目指す生徒も、受かるかどうかわからないんだから、都立のすべり止めの出願をしておく。だから、私立の推薦がすでに決まっている生徒を除けば、事実上すべての生徒が事前のスピーキングテストを受けないといけなくなる。なんだか釈然としない。
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素晴らしきチェコ映画の世界

2017年12月17日 22時39分48秒 |  〃  (旧作外国映画)
 今年は「日本におけるチェコ文化年」ということで、フィルムセンターで「チェコ映画の全貌」が開かれている。初期の無声映画から、60年代の「チェコ・ヌーヴェルヴァーグ」まで多くの映画を上映している。(24日まで。)「全貌」というには、89年のビロード革命以後の作品がないのは残念だけど、かつてない規模の上映企画である。11月にはシアター・イメージフォーラムで「チェコスロヴァキア・ヌーヴェルヴァーグ」特集上映も行われた。すでに相当数を見たのでまとめておきたい。

 チェコ映画といえば、なんといってもまずはアニメ映画だろう。人形劇の世界的巨匠イジー・トルンカ、特撮を使って冒険と郷愁の世界を作り出すカレル・ゼマンなど今も日本ではよく上映されている。(カレル・ゼマンの「悪魔の発明」は1959年のキネ旬ベストテンで10位に入っている。チェコ映画唯一のベストテン入選映画。)近年でもヤン・シュヴァンクマイエルという巨匠がいる。チェコ・アニメは時々どこかで特集上映が行われるほど日本で人気だけど、今回は劇映画が中心なので除外。

 チェコ映画が世界的に一番注目されたのは、1960年代半ばごろである。後にそれが「チェコ・ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれるようになった。アメリカのアカデミー賞外国語映画賞では、65年「大通りの商店」、66年に「ブロンドの恋」、67年に「厳重に監視された列車」、68年に「火事だよ!カワイ子ちゃん」と4年連続でノミネートされ、65年と67年には受賞している。受賞できなかった2作はいずれもミロシュ・フォアマン監督。後にアメリカで「カッコーの巣の上で」や「アマデウス」を撮った。

 僕はチェコ映画を今までかなり見てきた。もともと「プラハの春」やヴェラ・チャスラフスカ以来の関心があって、機会があれば見逃さないようにしてきた。日本でも公開された巨匠としては、イジー・メンツェル(1938~)がいる。チェコ事件後も国を離れず、85年に作った「スイート・スイート・ビレッジ」はアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。シャンテ・シネで公開され、僕は大変に感動したものだ。アカデミー賞を取った「厳重に監視された列車」がメンツェル作品。一度見てるけど、フィルムセンターで見直した。ナチス時代の田舎の駅を舞台に、性に悩む青年を描く傑作。他に、89年以前は公開できなかった「つながれたヒバリ」や、フラバル原作の「英国王給仕人に乾杯!」(2007)がある。
 (厳重に監視された列車)
 チェコ・ヌーヴェルヴァーグ作品で、当時の日本で唯一公開されたのが、ヤン・ニェメツ(1936~2016)の「夜のダイヤモンド」(1964)だろう。68年にATGで公開されている。これは今回フィルムセンターで上映されるので、24日に見たいと思っている。イメージフォーラムでは「パーティーと招待客」「愛の殉教者たち」が上映された。特に「パーティーと招待客」(1966)は、「チェコの恐るべき子供」と呼ばれたニェメツの面目躍如たる傑作だった。田舎のピクニックが、いつのまにか訳の分からない全体主義の恐怖に変わっていく。まさにカフカ的な世界。当局ににらまれた作品だ。
 (パーティーと招待客」) 
 この時代のチェコ映画を見ると、60年代半ばから68年の「プラハの春」につながる文化革命が起こっていたと判る。自由な精神が脱ソ連式社会主義へ結びつき、ソ連によって押しつぶされた。その後外国へ逃れた映画関係者が多いが、国内で沈黙せざるを得なくなった人も多い。今日見た「新入りの死刑執行人のための事件」(1970)の監督パヴェル・ユラーチェク(1935~1989)も映画人としてのキャリアが閉ざされたという。これは「ガリヴァー旅行記」に材を取った大傑作だった。バルニバービとラピュタという二つの国に紛れこんだ不条理体験を描くが、映像的にもシャープで、素晴らしかった。何が何だか判らない映画とも言えるけど、当局ににらまれたんだから風刺は通じたのである。

 もう一本「アデルハイト」(1970)も興味深い。ズテーテン地方と言えば、ミュンヘン協定でドイツに割譲された辺境地方である。歴史の教員なら誰もが名前は知ってるが、じゃあ、どんなところかと言われれば知らないだろう。この映画はそのズテーテン地方を舞台に、ドイツ敗北後に逆にチェコスロヴァキアに戻った時代を描いている。戦時中はイギリスのチェコ軍にいた中尉が戻ってきて、ドイツ人の邸宅を管理する。ドイツ人がユダヤ人から取り上げた屋敷は、ナチ戦犯が住んでいた。その娘が今は家政婦となり、閉鎖された環境の中で言葉の通じない二人に何が起きるか。当時の世相や雰囲気を巧みに描いている。ズテーテンはものすごい山の中だった。

 今後の上映も期待大。チェコ映画史上の最重要作に選ばれたという中世の史劇「マルケータ・ラザロヴァー」(1967、フランチシェク・ヴラーチル監督、ヴラーチクは「鳩」「アデルハイト」と3本選ばれている。)ヴォイチェフ・ヤスニーがカンヌ映画祭監督賞を得ながら「国内永久上映禁止」になった「すべての善良なる同胞」など見逃せない映画が残っている。すでに見た「厳重に監視された列車」や「新入りの死刑執行人のための事件」も2回目の上映がある。ハシェク原作の兵士シュベイクものも上映された。チャペック原作の「クラカチット」は原爆を扱っている。そのようなチェコ映画は長い歴史を通じて、抵抗と諧謔を描いてきた。真正面から反逆するよりも風刺や不条理劇が多いのも面白い。
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高石ともや年忘れコンサート2017

2017年12月16日 22時22分20秒 | アート
 今年も高石ともや年忘れコンサートの時期になった。書いてない年もあるけれど、僕は毎年夫婦で通っている。もう30年以上。昔は有楽町のよみうりホールだったけど、10年ぐらい前から亀戸カメリアホール。東京での山手線の東だから外れの方になるけど、僕にはかえって便利になった。

 周りを見渡すと、同じように毎年来ているような老夫婦がいっぱい。僕は若い方だろう。60年代末からフォークシンガーとして活躍している高石ともやだけど、もう76歳。いまだにホノルルマラソンを完走してから、年忘れコンサートである。もう41年目になるという。高石ともやは立教大学中退で、70年代後半には毎年立教大学のクリスマス行事でコンサートをやっていた。その頃からよく聞いていたけど、こうして年忘れコンサートに来るのが恒例になるとは想像できなかった。

 今年は大きな変化があったわけじゃない。去年は長年京都の宵々山コンサートを一緒に作って来た永六輔さんが亡くなった。一方、甲子園に高石ともやが校歌を作ったクラーク国際高校が北海道北代表で出場したとか、ホノルルマラソン40年皆走の話など、話題が豊富だった。今年はそこまで大きな話題はないけど、芥川賞作家玄侑宗久さんと語り合った話が面白かった。玄侑宗久師とはなぜか話題があう。それも道理、高田渡の家に泊まり込んだ間柄なんだという。そこで教えられたのが、肩に力が入っている歌はよくない、「鼻歌気分でHappyフォーク」がこれからの歌手活動のテーマ。

 僕が特に今年書こうかと思ったのは、毎年歌っている一年のまとめ。一年を振り返って思ったことを歌に乗せて語る。特にプロテストソングじゃないわけだけど、どうも毎年毎年時代のきな臭さへの風刺が多くなる。今年はどうしても10月に突然行われた選挙の話が出る。小池都知事が「排除します」といって自分が「排除」された。ここで思い出すのは、といって鶴見俊輔さんの思い出。「排除」しないで「思想の科学研究会」を続けてきた、フォークソングも続けるのが大事と励まされた話。

 安倍首相のことは、茨木のり子さんの詩を引用。「言葉が多すぎる というより 言葉らしきものが多すぎる というより 言葉と言えるほどのものが無い」(「賑々しきなかの」という詩の一部。)しかし、「言葉らしきものが多すぎる」とは安倍首相の発言を評するに最もふさわしい表現じゃないか。「女性が輝く社会」「一億総活躍」「人づくり革命」と挙げて、まさにこの表現以外にあり得ない感じ。特に「人づくり」は長い年月をかかるもので、「革命」で突然変えるもんじゃないという言葉に共感した。

 いつも珍しい曲と定番ソングを織り交ぜている。今年の最後は「陽気に行こう」。かつてのナターシャー・セブンの「107ソングブック」の一枚目のLPの題名だった。アメリカの伝統ソング「Keep On The Sunny Side」に日本語訳詞を付けた。「喜びの朝もある 涙の夜もある 長い人生なら さあ陽気に行こう」と歌って終わる。(まあアンコール曲があったけど。)いろいろ絶望的にもなる時代だけど、しぶとくやって行こうと年末に毎年気持ちを切り替える「年忘れコンサート」。高石さんも妻に先立たれて一人暮らし6年目。観客層も含めて、いつまであるのか、行けるのかと思いつつ、まだまだ続けば自分たちも頑張っていきたいなと思う。
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「彼女がその名を知らない鳥たち」とイヤミス映画

2017年12月15日 22時45分35秒 | 映画 (新作日本映画)
 昨日見た沼田まほかる原作の映画「彼女がその名を知らない鳥たち」がロングランされている。今年度の映画賞が早くも発表され始めたが、報知映画賞や横浜映画祭の主演女優賞はこの映画で蒼井優が獲得した。去年の「オーバーフェンス」もそうだったけど、蒼井優は「危ない女」を演じるときの方が輝いている。この映画も一体この女は何者なのかというサスペンスが素晴らしい。

 沼田まほかるは今年「ユリゴコロ」も映画化された。そっちは原作を読んでるので映画は見てない。「彼女がその名を知らない鳥たち」は読んでないので、筋書きは知らないで見た。後半で基本的構図は見えてくるけど、それでもラストは意表を突く。ストーリーよりも、主人公の「痛さ」を描く映画だから、最後まで目を離せない。冒頭から「クレーマー」めいた行為を続ける十和子蒼井優)が実に嫌な感じで出てくる。部屋は散らかり放題だし。そこに「同居人」の陣治阿部サダヲ)が出てきて、風采も上がらない感じなのに十和子に甲斐甲斐しく尽くしている。

 このカップルは一体どうなっているんだ? と映画は謎を出しておいて、現在と過去をパズルのように行き来しながら二人をめぐる人々を追っていく。十和子は壊れた時計にクレームを付けて、デパートの店員水島松坂桃李)と知り合う。十和子は水島に夢中になり帰りも遅くなるので、陣治は心配して探し回る。翌日、心配した姉が現れ、昔の交際相手黒崎(竹野内豊)とまた会っているんじゃないかと追及する。陣治と違って黒崎はいい男だったといつも思い出す十和子だったが、陣治はなぜか黒崎と会ってることは絶対にないという。

 この黒崎とは何者かという謎が出てくるとともに、水島の周りにも奇怪な出来事が相次ぐようになり…。一体何が起こっているのか。ホントはもっと書いてしまいたいけど、これ以上のストーリーはもちろん書けない。この映画はかなりよく出来ているけど、それは登場人物を細かく的確に描き分けた白石和彌監督の手腕だろう。「凶悪」「日本で一番悪い奴ら」など犯罪映画に才能を見せてきたが、今回もシャープな映像で謎めいた女と男を印象的に見つめている。来年の「孤狼の血」も期待大。

 沼田まほかるは、ちょっと「イヤミス」とは違う作風だと思うが、この映画に関しては主人公の「十和子」が「嫌な女」「イタイ女」として造形されているから、「イヤミス」に近いだろう。その意味では後味もよろしくはない。人間の複雑な心理を描写していくと同時に、複数の人物をモザイク状に積み上げていく。その結果、社会のひずみを一心で背負うかのような、解決しようもない悩みに直面する人物が描かれる。最近はどうもそういう映画がかなり多いように思う。

 大森立嗣監督の「」は三浦しをん原作で、普通の意味のミステリーじゃないけど、25年の時を隔てた犯罪を描いている。井浦新と瑛太の関係性は後味が悪いとしか言いようがない。面白くはあるんだけど、ここで書く気にならなかった。同様に相当の力作だとは思うけど、三島有紀子監督「幼な子われらに生まれ」も見ていてつらくなる。僕は暗い映画は好きな方なんだけど、嫌な人間関係は正直見たくないなあと思う。「幼な子われらに生まれ」は別に悪い人が出てくるというんじゃなく、人間それぞれのすれ違いが見事に描かれていた。

 嫌な映画、嫌な小説が何故存在するのか。誰も読みたくないだろう。と思うと、世の中には相当ある。というか、ミステリーは大体殺人などの犯罪が出てくる。後味がいいわけがないはずで、人は嫌な話が好きなんだろうと思う。離婚騒動などをテレビが追い回すのもそのため。相撲協会の騒動も同様だろう。その奥には金銭欲、性欲、名誉欲、権力欲など「欲望」が潜んでいる。この「欲望」のギラギラに人は引き付けられる。そして日本には、イヤミスの帝王、松本清張がいた。

 松本清張(1909~1992)は没後四半世紀が経つが、今も読まれている。そのかなりが、今で言う「イヤミス」だ。何度も映画化、テレビドラマ化されたし、近年になってもドラマ化される。その魅力は日本の底辺に潜む「悪意」のすごさ、面白さだろう。僕が思うに、世界最凶のイヤミス映画は山田洋次監督の「霧の旗」だと思う。冤罪で獄中死した兄の仇を打とうと、ちゃんと弁護してくれなかった有力弁護士に妹の倍賞千恵子が付きまとう。実に怖い。弁護士も良くなかったかもしれないけど、弁護士だけでは冤罪は成立しない。熱心に弁護しても有罪になった冤罪事件の方がずっと多い。恨むなら、警察、検察、裁判官が先ではないか。その筋違いが怖いし、見るものを嫌にさせるわけである。
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