2025年4月の集英社新書のラインナップは魅力的で、何を買うか迷ったけど結局『沖縄戦』じゃなくて、古賀太氏の『ヌーヴェル・ヴァーグ 世界の映画を変えた革命』を買ってしまった。単に映画の本だというだけではなく、自分の若いときに一番刺激的だったゴダールやトリュフォーなどの話を今の目で考えてみたかったのだ。読んでみると、フランスだけでなく世界中の60年代、70年代の映画を紹介しているので驚き。「ヌーヴェル・ヴァーグ」はフランス語で「新しい波」という意味なんだから、それぞれの国の映画史の流れの中で「新しい」動きが出て来れば、それを「ヌーヴェル・ヴァーグ」と呼んでも良いのかもしれない。
著者の古賀太氏は日大藝術学部映画学科教授で、その前は朝日新聞の文化事業部でイタリア新作映画祭など多くの企画を担当していたという。有楽町朝日ホールで開催されたルノワール映画祭など、自分も見に行ってる企画をやってた人なのか。名前は聞いたことがあったが、ちゃんと読むのは初めて。文章は判りやすいが、何しろ800本の映画を紹介するという本なので、見てないのも多い。まあ僕は「作家主義」というだけでなく、社会科教師として世界の様々な国の映画を積極的に見るようにしてきたから話には付いていける。一般的には「世界映画百科事典」みたいに利用して好きなところだけ読めばいいんじゃないか。
高校生の頃に佐藤忠男氏の『ヌーベルバーグ以後 自由をめざす映画』(中公新書、1971)という本を読んで、非常に大きな刺激を受けた。しかし、その頃の日本ではジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーぐらいしか、フランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」系監督の映画が公開されていなかった。エリック・ロメールやジャック・リヴェットなどの重要な監督は80年代のミニシアターブームまで公開されなかった。50年代末に『いとこ同志』などで注目されたクロード・シャブロルはその後ミステリー映画を中心に作っていたが、その作品もほとんど公開されなかった。従って佐藤氏の本もゴダールなどを中心に叙述されていたと思う。
その頃ゴダールは集団で「革命の映画」を連発していた。映画を語る時も政治や革命を考える必要があった時代である。しかし、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの様々な作家が紹介された今では、ジャック・ロジエみたいに「自由」をまさに「物語からの解放」としてとらえた監督もいたと理解出来る。独自性が強い監督の作品は紹介が遅れたけど、映画製作の自由を実現したのが「ヌーヴェル・ヴァーグ」だと思う。映画は製作に多額の資本が必要だし、その製作費回収にも映画館というシステムが必要になる。だから世界中で映画会社が商業的にペイすることを優先した、人気俳優が演じる通俗的テーマの映画がたくさん作られてきた。
商業映画に飽き足らずに「文学作品」の映画化を行う監督もいたが、そういう「文芸映画」は「文学の絵解き」に止まることが多かった。フランスには19世紀以後、世界的に重要な作品がいっぱい書かれたから『赤と黒』、『居酒屋』、『肉体の悪魔』など多くの文芸映画が作られた。それらの映画を若き映画批評家トリュフォーは大胆不敵に批判して「フランス映画の墓堀人」と呼ばれ毛嫌いされた。しかし、トリュフォーが自分で映画を作り始めてみれば、自分の人生や趣味を見事に映像化していて、映画のテーマはどこにでもあったことが判る。自分で好きなように作れば良いのである。それが「作家主義」だったのだと僕は思う。
エリック・ロメールの映画は外国の映画祭で受賞したというニュースばかり届いて、なかなか実際に見ることが適わなかった。しかし、公開されてみればほとんどが「ヴァカンス映画」だった。夏の海辺で男女が出会ったり別れたり、友だち同士が小さな「冒険」をしたりする。内容的に大したことがないのに(実際日本のベストテンには選ばれなかった)、愛や別離の瞬間を見事にとらえて何故か忘れがたい魅力に満ちている。ゴダールが「革命」に固執してかえって映像の自由を失っていた時代に、やはり自由に映画を作り続けていた監督たちがいたのである。アラン・レネ、アニエス・ヴァルダなど「左岸派」も同様である。
日本の「松竹ヌーヴェルヴァーグ」は会社の映画だったから、その意味では本来の「自由な映画」ではない。ただ松竹が企画に迷って自由に作れたところはある。それ以後会社と対立して退社した監督たちが、大島渚の「創造社」、吉田喜重の「現代映画社」など自分の独自な映画製作を可能にする「独立プロ」を作ったことが映画史的に重要だと思う。その意味で岩波映画(記録映画会社)を中心に、独自の記録映画から劇映画製作に乗り出した羽仁進が取り上げられていないのが不思議だ。また「ピンク映画」という限界を逆手に取って「自由な映画」を作り続けた若松孝二も重要だ。この二人は日本の「ヌーヴェル・ヴァーグ」に落とせない。
一方、旧ソ連、ポーランド、中国など「社会主義」(というか一党独裁体制)の国々に現れた新しい映画も取り上げている。しかし、アンジェイ・ワイダやアンドレイ・タルコフスキーなどは偉大な映画監督なのはもちろんだけど、「ヌーヴェル・ヴァーグ」として理解するのはどうなんだろうか? これらの国では自由に映画を作る「独立プロ」を作ることは不可能だった。国営映画社の「検閲」や党官僚の無理解と闘いながら、「外貨獲得」などを武器に映画製作を何とか継続してきた。映画の魅力に満ちてはいるけれど、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の軽やかさではなく、テーマ的にも形式的にも「重々しい映画」が多かった。
僕はワイダやタルコフスキーは、20世紀後半に現れた世界的巨匠、イタリアのルキノ・ヴィスコンティやフェデリコ・フェリーニ、スウェーデンのイングマル・ベルイマン、日本の黒澤明、インドのサタジット・レイなどと同格に論じるべき監督じゃないかと思う。それが僕の考えで、特に固執するわけじゃないんだけど、「ヌーヴェル・ヴァーグ」といえば何よりも「(形式的に)自由な映画」だと思うのである。その意味ではスマホで自由に映像を撮れる現代社会の先駆者だ。また政府に映画製作を禁止されながら、『これは映画ではない』などの作品を連発してきたイランのジャファル・パナヒこそ、ヌーヴェル・ヴァーグ精神の後継者だと思う。