尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「ブンガク」に目覚めた頃、「除名」された作家たちーわが左翼論⑤

2023年04月30日 22時18分39秒 | 自分の話&日記
 「わが左翼論」の続きだが、今回と次回は番外で、自分の若い頃の話である。内容的には「非左翼論」という方が近いかもしれない。僕は中学生の頃から、本や映画に接してきた。中学一年の夏頃に突然「文学少年」になったのである。まあ、自意識の目覚めみたいなもんだろう。小学生時代にも、「小学○年生」みたいな雑誌の付録で『坊ちゃん』を読んだりしたと思う。

 面白かった記憶があるが、それで終わりである。ただ面白い本を読んだというだけのことだ。ところが中学一年の夏に芥川龍之介を読んだ。学校で紹介販売していた旺文社文庫だったと思う。判りやすい『』『芋粥』『蜘蛛の糸』などから始め、面白いから『河童』『歯車』『或阿呆の一生』と最晩年のものまで読み進んだ。それで世の中には「ブンガク」があると気付いた。

 この「ブンガク」というのは、功利性(成績が良くなるとか)とは全く関係なく、むしろ「自分」や「世界」に関わって「譲れないもの」だった。そこでさらに読み進みたかったが、当時は「ヤング・アダルト」的な本がなかった。高い本は買えないし、町の本屋には新潮文庫と角川文庫しかなかった。(岩波文庫は普通の本屋にはなく、講談社文庫、集英社文庫、文春文庫などはまだ無かったのである。)文庫には、戦後の「大家」と言われる作家、例えば丹羽文雄とか石川達三などがいっぱい入っていた。

 それらの本はちょっと古い感じがしたから、もっと新しい作家の本を買いたいと思った。当時はまだ文庫には定評ある純文学作品が収録されるものという意識が強かった。それが三島由紀夫安部公房大江健三郎などだった。半世紀前に死んだ三島とつい最近死んだ大江では、全然違う世代のように思われるかもしれない。だけど、70年に自衛隊に乱入したとき三島は45歳だった。僕はその前から読んでいて、ノーベル賞有力な若手作家と言われていたのである。

 何にでも興味を持つタチなので、中学2年の夏に「毛主席語録」を読んでみたことがある。当時中国の映像で、みんなが持っていた赤い小さな本である。読んでみたら、意外なことに革命への熱い呼びかけを感じられず、統制ばかりを説く自由のない押しつけ的な内容だった。最初に素直に読むと、そう思うはずである。僕はすでに「文学少年」だったから、毛沢東に圧倒されずに「左翼党派性」に違和感を持ってしまったのである。

 高校時代になって、もっといろいろな作家を読むようになった。三島は事件以後、何となく敬遠するようになったが、主な傑作は中学時代に読んでいた。前から良く読んでいた井上靖の歴史小説に加えて、遠藤周作も良く読んだ。だがなんと言ってもたくさん読んで、影響もされたのは、安部公房大江健三郎だった。当時世界最先端と言っても良い文学者だったのだから、若い僕が魅惑されたのも当然だろう。
(安部公房)
 そこから近代文学者をさかのぼって読んで行くようになった。高校だけでなく浪人時代も読んでいた。受験勉強するより小説読んでいたかもしれない。志賀直哉の『暗夜行路』を読んだのも、浪人時代だった気がする。中野重治佐多稲子野間宏椎名麟三武田泰淳などを大学前半までに読んでいた。ところで、この中で安部公房中野重治佐多稲子野間宏日本共産党を除名された作家である。別にそんなことは文学性に関係はない。中野重治が書いた素晴らしい詩の数々は、日本文学史に残り続ける。
(中野重治)
 だが当時は、今じゃ信じられないだろうが、「誰それはトロツキスト」だとか言ってる人がいたのである。トロツキストとはスターリンに追放、暗殺されたトロツキーを支持することを指すはずだが、そんなことを考えて使ったわけではなく、もはや共産党系の人が使う悪罵の常套句だったのだろう。共産党は除名、離党された人を認めなかった。今はどうか知らないけれど、元ソ連大統領のゴルバチョフの訃報を赤旗は報じなかったそうである。当時からソ連のペレストロイカを批判していたんだそうだが、やはり触れちゃマズいものがあるんだろうか。

 共産党系の「多喜二・百合子賞」というのがあったけど(1969年から2005年まで)、受賞作家をWikipediaで見るとほぼ知らない作家ばかりである。まあ、僕は数人(松田解子、江口渙、霜田正次、あるいはハンセン病作家だった冬敏之など)は知っているけど、一般的な知名度は除名された作家の方が高いだろう。だからどうだというのではなく、僕は自分の読む本は自分で決めたい。「禁書」を指示されたくない。何にしても「党派」というのは面倒だ。それが「プチブル」的な感性だろうと、自分は「自由」を手放したくないなあと思ったわけである。続いて映画の話を。
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「自公」+「維国」で、問題法案がどんどん通るー入管法、原発、マイナ保険証

2023年04月28日 21時47分17秒 | 政治
 過去を振り返っている間に、現状がどんどん悪くなっている。4月は全国で「統一地方選挙」が行われたが、ここでは何も書かなかった。自分の居住地が(東北三県=岩手、宮城、福島や沖縄県を除き)何の選挙もないところなので、選挙気分が出ないのである。そして5月になると、区長選、区議選があるので、あちこちでビラまきをする人が増えてきた。

 統一地方選では、全国的に「維新」が増加したことが目に付いた。(そのためかどうか「参政党」は予想ほどは議席を獲得できなかった。)では「維新」が増えたことで、日本が変わるのだろうか。いま国会では内閣提出法案に与党(自民党公明党)だけでなく、そこに日本維新の会、さらに国民民主党が加わって、問題法案がどんどん可決されている。

 もともと、この両党は「準与党」あるいは「与党願望が強い党」であることは承知している。現在、与党の中でも自民党は一党だけで衆参両党の過半数を持っている。それに公明党が加わるわけだから、本来政府提出法案は成立してするはずである。そこにあえて「維新」「国民」が加わる意味は何だろうか。「与党だけでごり押ししたわけではない」というポーズに協力しているのだろう。

 かくして4月28日に「入管法改正案」(出入国管理及び難民認定法及び日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法の一部を改正する法律案)が大きな反対を押し切って、衆院法務委員会で可決された。維新と立憲民主党は、自民、公明とともに修正協議を続けていた。立民は難民認定のための第三者機関の設置を求め、与党は「付則」に検討を盛り込むことにした。しかし、付則が実現したためしはないとして立民は反対に回った。
 
 この対応は完全に正しい。「付則が実現したことはない」という認識は全くその通りだ。維新が賛成に回った修正とは、「難民認定担当職員への研修規定創設」とか「申請者の本国情勢に関する情勢調査」「難民の専門知識を持つ職員の育成」とか、それ今さら書き加えて何か効果あるんですかと思うようなものだ。もちろん、その修正は「ないよりマシ」かもしれないけど、今までだってタテマエとしては行われていただろう。今後も「研修」「調査」「育成」が本当に人権重視のものになると保証できるのだろうか。

 続いて「原発を60年超運転することを可能にする」法案。これは幾つもの法案をまとめた、いわゆる「束ね法案」として提出された。だから法案の名前だけ見ていると、中身が全然判らない。問題ある「原子炉等規制法改正案」なのに、全体として「GX(グリーントランスフォーメーション)脱炭素電源法案」になっている。「脱炭素法」とか言われたら、それは良いとうっかり賛成しかねない。しかし、福島第一原発事故後の「原発は40年まで」としたものを完全に転換したのである。
 
 この法案は27日に衆議院を通過して、参議院に送られた。なんで「60年に延ばすのが問題なのか」はここでは書かない。常識的な感性があれば心配になるはずである。もちろん何年経ったから事故がすぐ起きるというものではない。だが、時間が経つほどに経年劣化が進むのは間違いない。「何か起こったら」の結果があまりにも大問題なのだから、「念には念を入れる」というのが事故後の多くの国民の考え方だったはずだ。ドイツでは脱原発に踏み切ったではないか。この法案も自公+維新、国民で成立した。

 続いて「マイナ保険証」法案。本当は「保険証廃止法案」と呼ぶべきだろう。これも「行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律等の一部を改正する法律案」という。これじゃ判らない。マイナ保険証問題は今まで何度も書いてきた。この法案も衆議院で自民、公明、維新、国民等の賛成多数で4月27日に衆議院で可決され、参議院に送られた。
 
 これは「保険証」の大転換である。マイナカードがどうのという問題ではない。今までマイナカードは任意と言ってきたし、情報流出の危険性を否定出来ない。そういう問題ももちろんあるけれど、マイナカードを申請しただけでは保険証が付いてくるわけではない。マイナカードそのものも「申請」が必要だが、その後自分で保険証を設定しないといけない。マイナカードがない場合は「資格確認書」を申し込まないと行けない。何にしても、「送られてきた保険証」から、「自分で申請する保険証」への歴史的大転換である。議員たちはパソコンもスマホもない人がたくさんいるということを知らないのだろうか。

 日本学術会議の会員選出をめぐる改悪案は直前に撤回された。しかし、今の3法案だけでも、国民生活に大きな変化をもたらす重大な「悪法」だ。3法案すべて、自民、公明、維新、国民民主の賛成多数である。反対したのは「立憲民主党・無所属; 日本共産党; れいわ新選組」だけだ。僕はこの3党に言いたいこと、疑問に思っていることがいっぱいあるけれど、少なくともこれらの悪法に加担していないことは正しいと評価出来る。でも、何でもっと統一地方選でこの悪法阻止を訴えて闘わなかったのか。

 しかし、まだ参議院がある。昔の冤罪映画のように「まだ最高裁がある」と言える時代じゃない。だけど、インターネットという現代の新しい武器もある。大型連休中に世論が大きく盛り上がることを祈って、緊急に書いておく必要を感じた次第。
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『晴風万里』、刺激の多い入門編ー見田宗介著作集を読む⑩

2023年04月27日 22時39分38秒 | 〃 (さまざまな本)
 「見田宗介著作集」を一月一冊ずつずっと読んできた。全10巻だから、10回目の今回で終わりである。もっとも「真木悠介著作集」が残っているから、このシリーズはもう少し続く。今回は第Ⅹ巻の『晴風万里』で、著作集最終巻。短編集と題されているが、もちろん「短編小説」の意味ではない。エッセイや書評など短文を収録している。その他に大論文に発展しなかった「小論文」的な論考も多く集まっている。この構成から僕は最後に読む本と思って取っておいたが、実は入門編に最適な本だった。多くの思考の種の中から、自分が関心を持ったところをじっくり考えて行けば良い。初読の人はこれから読むのを勧めたい。

 題名になっている「晴風万里」は、整体の創始者である野口晴哉(のぐち・はるちか、1911~1976)を紹介した短文集である。これは非常に面白い文章で、含蓄が深い。野口晴哉には一般的には「超能力」のような逸話が多く、それを授業で紹介すると学生たちは星占いや血液型占いはどうですかと聞いてくるという。しかし、そういう扱いをするべきものではないと考え、思想としてとらえ直すのがこの文章である。著者の「身体性」への関心も経緯も語られていて興味深い。1975年の「国際婦人年」の時、当時メキシコの大学で教えていた著者のもとへ田中美津さんが訪れた。その時に初めて整体という名前を聞いたのだという。
(野口晴哉)
 その話も面白いのだが、僕が一番興味深かったのは野口晴哉の「体癖」論を絵画に中に探る「アートの人間学」である。ムンクやルノワール、ゴーギャン、そしてルネサンスの巨匠たちの絵を見ながら、描かれた女性たちの身体性を論じていく。例えば「モナ・リザ」を例にとって、モナ・リザの笑いが「見える人と見えない人がいる」という。モナ・リザの笑いが見える人はこの世のすべての動きに対して美しいと感じることができるというのである。どこまで決定的に言えるかは別にして、カラー図版もあるので非常に興味深くいろいろと考えさせられる文章だ。是非ムンクやゴーギャンなどの箇所を読んでみて欲しいと思う。

 書評は70年代初期に書かれたもので、公害告発のノンフィクションと思われていた石牟礼道子だが、『苦海浄土』『天の魚』や『流民の都』の価値を正しく評価して論じている。また永山則夫無知の涙』や、ライヒ性道徳の出現』、ディー・ブラウンわが魂を聖地に埋めよ』など70年代に非常に評判になった本が入っている。『無知の涙』は永山による「第六の銃弾」だと書いている。ディー・ブラウンの本はネイティヴ・アメリカンの歴史を描いて当時のアメリカでベストセラーになった。僕は持っているけど、未だに読んでない。今は入手出来るのだろうか。

 80年代に書かれた山尾三省聖老人』は朝日ジャーナルに掲載され、その当時に読んで影響を受けた。山尾三省(1938~2001)も没後20年を経て、名前を知らない人が多くなっていると思う。コミューン「部族」の活動家として知られ、その後インド、ネパール等を巡礼したのち、屋久島に定住して農業を始めた。肩書きとしては「詩人」になるだろうが、一般的な意味での詩人としてではなく、ある種の自然哲学、宗教家というような側面もあった。題名の「聖老人」は屋久島の縄文杉のことで、言い得て妙と言う表現だ。僕もちょっと忘れていたが、昔良く読んだなあと思いだした。西荻窪のプラサード書店で朗読を聞いたこともあった。
(山尾三省)
 面白いエピソードは数多いが、例えばこんな話が出ている。幼いころ食事の席で「いただきます」はだれに言うのと聞いたという。「ご飯を作ってくれたお母さんに」というのが父の説。「お米を作ってくれるお百姓さんに」というのが祖母の説。しばらく討論があって、結局「お百姓さん、お米屋さん、お母さんから、戦地で戦っている兵隊さんまで、みんなに対して」ということで落ち着いたという。そんなことを聞く子どもも変だが、そんな議論をする家庭もずいぶん変わっている。そういうところから見田宗介という人が生まれたのだった。

 めんどくさい文章も入っているけど、それは読み飛ばせば良い。実に多くのエピソードが散りばめられているので、自分の面白いところだけ探せば良いと思う。それは多分「社会学」をはみ出してしまうかと思うが、そこにこそ著者の真骨頂がある。
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戦後社会運動の流れをどう評価するかーわが左翼論④

2023年04月26日 23時14分42秒 | 自分の話&日記
 「わが左翼論」というカテゴリーを外れるかと思うが、「戦後社会運動史」の中で「左翼党派論」を考えてみたい。大きな視野で見ると、「左翼」(「右翼」も同様だが)の革命運動は、社会変革を目指す民衆運動の一つの表れである。

 日本史の教科書では、大正半ばに社会運動が高まったと出て来る。第一次世界大戦終結後の世界情勢、日本国内の産業革命の進展などを受け、日本でも民衆の動きが活発になったのである。1919年の新婦人協会に始まり、1021年の日本労働総同盟、1922年の全国水平社日本農民組合などの結成と続き、同年の日本共産党(第一次)結成もその文脈で書かれる。

 労働運動農民運動はその後、幾度も分裂を繰り返し、戦時中には逼塞状態に追い込まれる。戦後になって復活するが、その後また社会党系、共産党系などに分裂していく。農民運動は当初は小作料引き下げなどの要求が多かったが、農地改革で運動の前提が変わってしまった。その後作られていく農業協同組合は自民党の支持基盤となっていく。しかし、社会主義を目指す一部農民による農民組合運動は、分裂を経ながら今も続いているようである。

 戦後の社会運動を概観しておくと、労働運動が活発化するとともに、戦後になって参政権を得た女性運動も盛んになった。特に平和運動を女性団体が担ったことが多い。また日本社会で特別な重みを持つ部落解放運動も再出発した。戦後に生まれた重要な運動として、原水爆禁止運動や数多くの裁判支援運動の盛り上がりを指摘できる。代表的な裁判に冤罪救援の松川裁判や、生活保護規定の違憲性を提起した朝日訴訟などがある。しかし、1950年代段階ではやはり政党が関わった運動が多かった。
(「人間裁判」と呼ばれた朝日訴訟支援デモ)
 60年代になると安保闘争や中ソ論争などを受け、政治的な対立が社会運動にも波及していく。原水禁運動や部落解放同盟の分裂など、非常に複雑な経過をたどってきた問題である。『日本左翼史』では労働運動以外の社会運動に触れられていないが、多くの国民を「左翼」から遠ざけたのは、このような運動体の分裂が大きく影響したと思う。80年代末に労働運動が「連合」と「全労連」系に分かれ、日教組は連合に加盟した。それに伴い、91年に共産党系の「全教」が結成された。この分裂だけが原因じゃないだろうが、その後教員組合の組織率はどんどん低下していった。教員の労働条件悪化につながったと思う。

 一方で、60年代半ばになると、政党系を離れた「市民運動」や「住民運動」が起こる。特に重要なのが、1965年のベトナム戦争激化に伴って結成された「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)である。当初は「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」と称したが、すぐに「文化団体」が外れた。作家小田実(おだ・まこと)や哲学者鶴見俊輔が呼びかけたもので、多くの無党派市民が参加した。しかし、事務局長の吉川勇一など共産党除名者が多く関わっていて、共産党系からも保守系からも警戒された。
(ベ平連デモ)
 ベ平連の呼びかけに応じて、アメリカ兵が脱走してきたという出来事があった。その脱走兵をどのように国外へ逃がせば良いのか。当初は北海道からソ連へ行き、最終的にスウェーデンに逃げる方法を計画した。その時にソ連大使館と協力し、ソ連の援助を受けたことから、ベ平連は左翼だという記述がネット上には見られる。しかし、他にどのような方法があったのか。兵営に戻って戦争に行けと言うのか。米軍脱走兵を匿い通して何人も国外脱出に成功したのは、戦後民衆運動史の重要な達成だと僕は考えている。だがスパイが潜り込んで、この方法は放棄せざるを得なくなった。今もし北方領土を通してウクライナ戦争に反対するロシア兵が逃げてきたら…と考えれば判るだろう。全力で匿うのが当然だ。

 60年代の高度成長で、全国に公害問題が起きてくる。それに対して全国で住民運動が起こった。水俣病が代表だが、1973年に裁判で勝訴判決が出た後に原告団が上京し、会社側に謝罪を求めた。「」のむしろ旗を掲げた患者や支援者が都内あちこちで座り込みを続けた。その「異様」な姿こそ、単に社会正義を求めるだけではない、近代そのものへの異議申立てのように思えた。他にも成田空港反対運動のように、新左翼党派が関わって長く激しい闘争が続いた運動もある。これら関係する被害住民自らが起ち上がったとき、従来の政党系運動は存在意義が問われるようになった。
(「怨」を掲げた水俣病の運動)
 女性運動では、1955年に開催された第1回日本母親大会には多くの団体が結集したが、次第に参加団体が共産党系が多くなり、「新日本婦人の会」「日本婦人団体連合会」などが中心となった、(この二つの重要な女性運動団体が、今も「婦人」を冠して活動しているのは謎というしかない。)社会党系や保守系の女性団体も存在するが、戦後社会で女性の権利を向上させてきたのは数多くの裁判闘争や地道な労働運動である。産休制度もただで与えられたものではない。日教組婦人部の長い闘いがあって、産前産後に代替教員を措置する制度を認めさせた。
(日産自動車裁判)
 裁判では「日産自動車裁判」が代表である。男は55歳、女は50歳と定年年齢に差があることを「法の下の平等」に反するとして提訴したもので、1981年の最高裁判決で民法の公序良俗に反するとして男女別定年制は違法とされた。今では考えられないような差別が多くの所に存在していた時代である。その時に「新憲法」を信じて裁判に訴えた人、その人々を支えた弁護団と支援者があって、多くの判例を勝ち取ってきたのである。他の裁判には触れないけど、多くのケースは「権利はただではない」ことを教えてくれる。戦後民衆運動史のもっとも感動的なシーンは、これら裁判闘争の中にあると思う。

 党派から見れば、大衆運動は左翼党派の周辺にあって、党の指導を受けるべき存在かもしれない。だが、もっと大きな視野で見るとき、正義と平等を求める幅広い民衆運動の広がりがあって、「左翼」党派という存在もその一角にあるものだろう。
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身体性の諸問題ーわが左翼論③

2023年04月25日 23時14分46秒 | 自分の話&日記
 「左翼論」シリーズはまだ途中なので、再開して少し続けることにする。いま振り返るとと、60年代末の学生運動は実に不思議なものだった。20歳そこそこで「世界革命」を呼びかけるなど、「世間」を知らないからこそ出来ることだ。どうして、そのような身の程知らずの言動が可能だったのだろう。それを「思想性」や「党派性」で考察することも大事だけど、僕はもっと違った観点が成り立つと思う。「大学紛争」のような若者反乱は世界的、同時的に起こったが、それは何故だろう。その一つの理由は「ベビーブーマー世代」が学生になっていたことだ。

 日本では「団塊の世代」と呼ばれたベビーブーム世代は、一教室に60人ぐらい詰め込まれた教育を受けてきた。入った大学でも同じように満杯の大教室授業が多く、もともと不満が鬱積していた。今はペットや実験動物でも適正な密度を保っていないと動物虐待と言われてしまう。日大では不正経理が発覚したが、それはきっかけに過ぎず、もともと発火しそうな状況があった。しかも、当時は大学進学率の男女差が激しかった。女子大もあるから、それ以外の大きな大学に女子は珍しかったのである。
(大学進学率の男女差)
 これほど若い男が多い集団というのは、帝国陸海軍や大手重工業の工場ではあったかもしれないが、歴史上非常に珍しい状況だろう。若年男性は一番体力があり、しかも職業や家庭などをまだ持ってない人が多い。従って「失うもの」が少なく、思想的に先鋭になったり、暴力的な攻撃性が強くなる。このような「身体的な条件」は全世界共通だった。

 このような「世代論」的な考察は、それだけでは全体を説明出来ないだろうが、前提として押えておく必要がある。そして、「先進国」ではかつてない高度経済成長を迎えていた。次々と新しい電化製品が誕生し、人類史になかった消費社会が誕生しつつあった。だが多くの若い世代はその消費を享楽的に受容したのではなく(いや、そういう人々も多かったけど)、この新しい社会には「自分の居場所がない」と感じたのである。

 次々に新しい商品が生まれ消費されていく。自分たちは労働者として、大企業の一つの歯車となって、新商品の開発、販売に翻弄される人生が待っている。それは「自分が無い」という世界である。マルクスの(ヘーゲルから受け継がれた)用語では「疎外」ということだ。70年代にあれほど使われた「疎外」という言葉を最近めっきり聞かなくなった。そして「AIをどう使うべきか」などと議論している。「自分というものは単なる歯車なんだろうか」なんていう感性は消え去ってしまったのだろうか。

 そのような身体感覚上の違和感が世界若者同時反乱の基調に存在したと思う。だけど、そのような反乱青年たち自身の身体もまた無意識的に旧来の身体性をまとっていた。「性別役割意識」はその代表的なものだ。左翼党派内でも女性活動家は従属的位置を強いられていたという証言は数多い。革命を呼号する男性活動家の実態に失望したという声もたくさん残されている。『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か』(カトリーン・マルサル著、河出書房新社)という本がある。それにちなんで言えば、「安田講堂に立てこもった学生たちは何を食べていたのか」という問題があるはずだ。

 僕はそこら辺の事情は同時代的には知らないけれど、騒然たる時代が去った後に「身体」への関心が高まったのは見ている。自分の身体的解放があってこその革命だろうという思いは理解出来る。社会党や共産党、あるいは労働組合などの幹部にも、外では「左翼的言辞」を使っているが、家に帰ると「家父長」になって家族に抑圧的だった人が多くいるという証言もまた多い。革命党を支持していても、身体的には「反革命」だったわけである。

 70年代半ば以降、整体・ヨガ・鍼灸・東洋医学などへの関心が高まる。また有機農業・菜食主義・フェア・トレードなども広がる。革命を待つのではなく、アジア、アフリカとの直接的交流を深めていく動きも始まっていく。また、日本の民衆を知らずに「革命」を論じても成功するはずないということで、柳田国男の民俗学も注目された。日本土着の中から解放への可能性を探るという問題意識も芽生える。今までマルクスだ、サルトルだと外来思想を振り回していたことへの自省でもある。
(柳田国男)
 柳田国男(1875~1962)は1975年に生誕百年を迎えた。東京のデパートで開かれた「柳田国男生誕百年展」に行ったことを覚えている。大学一年生だったのだが、僕が一番柳田を読んでいた頃だと思う。70年代半ばの柳田ブームのことは時々書いているが、それには個人的理由もある。受験勉強をするということで、奥日光の宿に籠っていた時がある。73年の夏だけど、その時に参考書以外に持って行ったのがドストエフスキー柳田国男だった。その夏に、高校で日本史の担当だった北見俊夫先生が柳田国男賞を受賞したのである。宿でラジオを聞いていたら、教わってる先生の名前が出て来たので驚いたもんだ。

 見田宗介(真木悠介)さんの講座に通った時も、柳田国男明治大正史世相篇』を読む企画だった。柳田学でいう「常民」は、マルクス主義でも色川大吉氏の「民衆史」とも違う。だが日本社会を何百年も支えてきた「常民」を知らずに、日本を理解することはあり得ないと思っていた。後に網野善彦氏は柳田の「稲作中心史観」を批判して、「非農業民」の重要性を指摘した。佐藤優氏は『日本左翼史』の中で網野善彦を「講座派」の系譜に入れているが、それは学問内容からすると事実と違うと思う。
(野口三千三)
 僕自身も世界を変えることよりも、まず「自分を変えたい」と思っていた。自分の「身体性」をもっと解放したいと多くの人が思っていただろう。「内なる変革」への願いから、いろいろなレッスンなどに参加した。特に強い印象を残しているのは、結婚して少ししてから夫婦で通った「野口体操」だった。野口三千三(みちぞう)氏が始めた独自の身体運動である。新宿の朝日カルチャーセンターに2年ぐらい通った。野口三千三という人は、本当に桁外れの人物で、僕が今までに会った一番すごい人だ。

 もっともいくら通っても、自分の身体が完全に解放されるはずがない。生徒に余分なことを言ったり、逆に言うべきことを上手く伝えられないことは、いくらもあった。「解き放たれる」というのは本当に難しい。生き方として解放された身体を生きるということは、社会変革以上に重大なことだと思っている。社会をいくら変えても、その社会を担う人たちが抑圧された精神を持ち続けていたら、何にもならない。
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映画『AIR/エア』、ナイキがジョーダンを獲得するまで

2023年04月24日 22時21分49秒 |  〃  (新作外国映画)
 アメリカ映画『AIR/エア』が面白かった。マット・デイモン主演、ベン・アフレック監督、出演の実録再現映画。「ナイキ」のバスケットボール用シューズ「エア・ジョーダン」販売までのエピソードを映画化したものである。僕はバスケに詳しくなく、マイケル・ジョーダンの名前ぐらいは知ってるけど、ナイキから出ているこのシューズのことも知らなかった。でもバスケを知らないぐらいの人の方が楽しめる映画かもしれない。ベースは「冴えない男たちの一発逆転」物語なのだから。

 1984年、ロス五輪のあった年。陸上競技ではナイキのシューズで金メダルを取った選手が何人もいた。でもアメリカじゃ五輪よりバスケが人気。だがバスケットボール部門は危機にあった。CEOのフィル・ナイトベン・アフレック)は、ソニー・ヴァッカロマット・デイモン)に立て直しを命じるが…。ソニーはかつて高校生のオールスター戦を初めて企画したんだと言ってるけど、今は他のメーカーも乗り出してきて、ナイキは危機にあった。
(マット・デイモン)
 これで想像出来ると思うけど、どうにもパッとしない追い込まれた男たちの逆転はあるかというストーリーである。今までに何度も見た感じがする。ただ有名な俳優もキャスティングしたハリウッド映画だから、やってみました、出来ませんでしたの結末になるはずがない。「エア・ジョーダン」を知っていて見る人は、要するに成功すると判って見るわけである。そこが脚本と監督の手腕で、大会社の内情をじっくり描きこんでいる。ナイキを立ち上げた時の初心を忘れ、株主に追求されないことを優先してるんじゃないか。こう言えば、これが日本の企業、あるいは社会にも通じる話と理解出来るだろう。
(ベン・アフレック)
 ソニーはいっぱいビデオを見る。要するにスター選手に履いて貰えれば良いのである。では次のスターって誰だ? そしてあるとき、高校生のマイケル・ジョーダンだと気付く。だけど、マイケル・ジョーダンが好きなのはアディダス。ベンツをくれるという約束もあるらしい。電話もするなと言われている。ナイキは論外で検討の対象にもならず、電話もするなと言われている。電話がダメなら会いに行こうと、ノースカロライナ州まで飛んでレンタカーを借りて直接家まで行く。まず父親を見つけるが、母親が鍵を握る。

 このジョーダンの母親を演じるヴィオラ・デイヴィスが素晴らしい。ベン・アフレックマット・デイモンは、二人で書いた『グッド・ウィル・ハンティング』(1997)でアカデミー賞脚本賞を獲得している。またベン・アフレックが監督した『アルゴ』(2012)は作品賞を受賞している。でも二人は演技部門では受賞していない。それに対し、ヴィオラ・デイヴィスは『フェンス』(2016)でアカデミー助演女優賞を受賞したのである。そんな映画は見てないという人が多いだろう。デンゼル・ワシントンが有名戯曲を映画化した作品だが、日本では正式公開されなかった。ソニーは母親を説得できるか。
(ジョーダンの母に会いに行く)
 何とか食い込んで、プレゼンの機会が与えられるところまでは行った。ジョーダン親子はドイツまでアディダスの条件を聞きに行く。さすがマイケル・ジョーダンとはいえ、高校生がそこまでするのか。我々はマイケル・ジョーダンがバスケ界を越えた大スターになったことを知っている。しかし、実際にプロに入って活躍出来るとは決まってない。ケガで活躍出来ない選手など山のようにいる。日本のプロ野球ドラフト1位指名の選手でも、名を残すのは一握りである。だから、最後は「確信」と「決断」なのである。スポーツシューズだけの話ではない。ソニーの雄弁に学ぶものは多い。
(エア・ジョーダン)
 ベン・アフレックとマット・デイモンは自ら製作も兼ねている。このような企業をめぐる人間ドラマは日本にもいっぱいあるはずだ。是非世界に通じる映画化を企画したらどうだろう。経済戦略としても有意義じゃないかと思うけど。俳優も自らリスクを負って、自分が納得できる企画に投資する人が増えてくるといいなと思う。

 なお、僕は知らなかったのだがナイキ(Nike)は日本と深い縁があった。ナイキを立ち上げたフィル・ナイトは、スタンフォード大経営大学院で「日本の運動靴は、日本のカメラがドイツのカメラにしたことをドイツの運動靴に対しても成し遂げ得るか」という論文を書いた。そして神戸でオニヅカ・タイガーを見つけ、1962年に彼の心意気に感じた鬼塚社長からアメリカの独占販売権を得た。このオニヅカ・タイガーが今のアシックス。やがて商品開発にも加わるが、輸送や発注トラブルが絶えず独立を考えるようになった。そして1971年にオニヅカとの関係を解消し、1972年から独自製品を発売するようになったという。きっと有名な話なんだろうけど、僕は今回Wikipediaを見て初めて知った。
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最新の徳川家康像を探るー黒田基樹氏の本を読む

2023年04月23日 23時29分52秒 |  〃 (歴史・地理)
 大河ドラマを見なくなって、もう何十年も経つ。自分も幼き頃は大河ドラマで歴史ファンになったようなものである。でも大学生頃からはほとんど見てない。実際に「歴史学」を学ぶようになってしまったから、今さら戦国や幕末のドラマを見ても違和感を感じる部分が多い。それでも大河ドラマをきっかけに、関連人物の研究が進んで新書などで刊行されることが多い。この「大河特需」は研究者にも歴史マニアにもありがたいものじゃないだろうか。

 今年は徳川家康だから、家康本が並んでいる。その中で関東戦国史をずいぶん読んできた黒田基樹氏の『徳川家康の最新研究』(朝日新書)を見つけたので思わず買ってしまった。3月30日付の本で、時に大きな書店に行くとこういう本を見つけられる。早速読んだんだけど、最近では一番面白かった本だ。やっぱり歴史系の本が好きなのである。近現代は読む側に「価値観」が問われるけど、戦国時代はそこまで考えなくても良いから気が楽だ。
(『徳川家康の最新研究』)
 帯には「忍耐の人ではなく、ありえない強運の持ち主だった!」と書かれている。それはその通りだろう。各章を紹介すると、「今川家における立場」「三河統一と戦国大名化」「織田信長との関係の在り方」「三方原合戦の真実」「大岡弥四郎事件と長篠合戦」「築山殿・信康事件の真相」「天正壬午の乱における立場」「羽柴秀吉への従属の経緯」「羽柴政権における立場」「関ヶ原合戦後の『天下人』化」の全10章。最晩年の豊臣氏滅亡に至る問題は触れられていない。

 よく知らないだろう言葉を解説しておくと、「大岡弥四郎事件」というのは、長篠合戦(1575)の直前に岡崎町奉行の一人だった大岡弥四郎が、武田軍を城内に引き入れる謀反を企んだが事前に発覚して防いだという事件だという。僕も初耳だったが、当時家康は浜松城を本拠としていて、岡崎城は1571年に成人した長男信康が城主となった。この陰謀は単に大岡一人のものではなく、信康家臣団中枢につながるものだった可能性が高い。武田勝頼は結果的に滅亡したので、何だか弱将だったイメージがある。しかし、信玄没後も広大な領国を長く維持して、当時は東三河に侵攻を計っていた。勝頼の評価は最近かなり高くなってきた。

 1582年に武田家は滅亡する。家康は3月10日に甲府に着いたが、本能寺の変が起こったのは6月2日。武田滅亡後に家康は駿河を与えられたが、甲斐・信濃・上野の旧武田領は織田政権の支配が安定しないうちに崩壊し、その結果、徳川、北条、上杉、また信濃の国衆などが実力本位で争った。それが「天正壬午の乱」で、この名称も近年になって定着したものなので僕は知らなかった。当時の焦点は織田政権の後継の行方である。研究者も中央政界の動向に目が行っていて、地方の事情は軽視されていた。結局、甲斐・信濃は徳川、上野は北条が切り取り次第となって決着した。
(『徳川家康と今川氏真』)
 その後、黒田氏の新著『徳川家康と今川氏真』(朝日選書)が出た。4月25日付だから、まさに最新の本だ。これは名前通り、今川氏真(いまがわ・うじざね、1538~1615)との長い関係をていねいに追求し、今までにない史実を豊富に指摘している。前書と合わせて、今川家との関係を見ておきたい。今までは徳川家康は忍耐、辛抱の人生で、まず幼少期に父が死んで、今川家の人質にされたと出て来る。それも一時は間違って織田家に送られたという話もあった。それはどうやら間違いらしいが、今川家に送られ駿府(今の静岡市)に住んでいたのは確かである。しかし、それは人質という性格のものではなかったらしい。

 今川家従属の国衆は原則として駿府在住が求められ、家康も特に扱いがひどかったわけではない。むしろ一門の重臣関口家の娘(築山殿)と結婚を許され、一門衆扱いされていたらしい。1560年の桶狭間の戦い今川義元が敗死して、すぐに家康は従属関係を解消し信長と同盟したというのも間違い。織田・徳川の清洲同盟は翌1561年のことである。当初はまだ今川家に従っていたのだが、次第に独立志向を強くしていき、三河(愛知県東部)の統一を目指し始める。1563年に名前を改め、今川義元から一字を貰った「元康」から「家康」とした。これが今川との公式的な手切れだろう。

 当時の関東情勢のベースは「甲相駿三国同盟」だった。武田信玄北条氏康今川義元の間で相互の婚姻関係を結び、1554年から1567年まで継続された。しかし、義元死後に武田信玄は駿河を狙う素振りを示した。1567年に信玄は嫡子義信を幽閉し、義信は後に自害する。真相はよく判らないが、今川義元の娘と結婚していた義信の親今川路線が父と対立したものだと言われている。実妹がないがしろにされた今川氏真は、怒って同盟を破棄していわゆる「塩止め」に踏み切った。この氏真の妹・貞春尼は後に家康の三男、秀忠(二代目将軍)の上臈(じょうろう=女性家老・後見役)を長く務めた。これはこの本で初めて紹介された新事実で、徳川、今川の秘められた深い関係を明かしている。

 もうかなり長くなっているので、その後のことは簡単に。結局、武田軍は駿河を制圧し、さらに家康支配下の遠江(とおとうみ=静岡県西部)、三河にも攻撃の手を伸ばす。今川氏真は妻の実家である北条氏のもとに身を寄せて再起を目指した。その後、上杉と同盟していた北条氏が武田と再同盟すると、氏真は一家で家康の元に移った。家康は織田信長に従っていて、織田は父義元の仇敵である。しかし、現に旧領池の駿河を支配しているのが武田氏である以上、武田氏と戦っている家康と協力するしか今川家再興はないと覚悟したのだろう。家康としても旧領主を担ぐことは有利となる。氏真は一城を与えられ、武田滅亡後には氏真に駿河半国を与えるよう家康は信長に進言したという。だが信長は今川勢の力を評価せず、駿河全国を家康領とした。
(黒田基樹氏)
 ここにおいて戦国大名としての今川家は完全に没落した。しかし、秀忠との関係を軸にして徳川と今川の関係は続いた。今川家の中央(朝廷や幕府)とのつながりは徳川家にも必要だった。江戸時代になっても、今川家は高家として生き残っていった。高家とは吉良家が有名だが、朝廷関係の儀式などを担当する名家である。

 ところで、家康最大の幸運は武田信玄が行軍中に陣没(1573年)したことだろう。戦国時代のいろんな本を読んでいて、とにかく武田信玄は強かったと思う。どうにも好きにはなれない点が多いけど、とにかく信玄が生きていれば、徳川家の滅亡もあり得なくはなかったと思う。だからこそ、徳川家の中にも武田の調略に応じるものも出て来る。家康が妻と長男を殺害した有名な「築山殿始末」は、今までの小説や映画などでは信長に命じられて苦悩の内に「お家のため」に家康も踏み切ったのだとされてきた。しかし、黒田氏の本では、そういう性格のものとは言えないと書かれている。築山殿には実際に武田家との関係があったらしい。

 黒田基樹氏(1965~)は実に多くの一般向け著作を書いている。特に関東の戦国大名の研究が多く、特に後北条氏研究の第一人者。そこから進んで最近は武田氏、今川氏、徳川氏なども対象にしている。駿河台大学教授だが、それはどこにあるのかと思ったら埼玉県飯能市だった。お茶の水の駿台予備校をやってる駿台学園が開いた大学である。
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永青文庫と肥後細川庭園を見る

2023年04月22日 19時53分41秒 | 東京関東散歩
 「永青文庫」でやってる「揃い踏み 細川の名刀たち ―永青文庫の国宝登場―」(5.7まで)を見てきた。熊本藩細川家下屋敷だったところにある美術館である。細川家に伝わる美術品や書物などを収蔵し、国宝が8点もあるところ。行くのは初めて。直線距離ではそんなに遠くないけど、東京は東西方向の交通網が少ないので、案外行きにくいのである。近くにある椿山荘鳩山会館東京カテドラル大聖堂なども一度も行ったことがない。地下鉄有楽町線江戸川橋駅徒歩15分と駅からちょっとある。

 この駅は「江戸川橋」の名前から江戸川区にあるように思っている人が案外いるけど、実は文京区である。ここで言う「江戸川」とは神田川のことである。神田川沿いの江戸川公園をしばらく歩いて行く。4月なのに夏の陽射しのような一日で、もう疲れたなあと思う頃に、その名も恐ろしげな「胸突坂」という急坂があり、登り切った所に永青文庫がひょっと出て来る。
 
 今は「事前予約制」だというので時間指定で予約して行ったが、何だ当日券も売ってるじゃないか。だだ最近は「刀剣女子」が増えているから、休日は予約しないとマズいかも。その日は空いてたけれど、それでも若い女性が結構多かった。「永青文庫」の「」は細川家の菩提寺である永源庵から、「」は細川藤孝(幽斎)の居城・青龍寺城から採られた。1950年に16代当主細川護立(1883~1970)によって設立され、命名も護立による。趣のある洋館建築で、4階から見る。中は写真不可。
(生駒光忠)(古今伝授の太刀)(展示室)
 そこで検索して画像を探してみた。国宝指定4刀の内、短刀が2つなので大きいのは上掲の2つ。僕は細川家伝来の刀だと思い込んでいたが、実は細川護立の収集品だった。若い頃に病気をして、療養中に日本刀に目覚めたらしい。「生駒光忠」は鎌倉時代の名工、備前長船光忠作で江戸時代初期の大名生駒家に伝来した。「古今伝授の太刀」は鎌倉時代初期に豊後の行平(ゆきひら)によって作られたもの。1600年の関ヶ原合戦時に、細川幽斎が籠る田辺城を西軍が攻撃したが、幽斎が唯一の「古今伝授」(こきんでんじゅ=古今和歌集の奥義を伝えること)継承者だったため、断絶を恐れた朝廷が介入して講和が成立した。その御礼に幽斎が勅使烏丸光広に贈ったもので、明治以後烏丸家から中山家へ移って競売になり、その後護立が買い取ったという。

 他にも重要文化財、重要美術品の逸品が多数展示されている。しかし、短刀になると僕はよく判らない。ましてや「」(つば)とか「」(こうがい)になると、モノが小さくなって判別も難しい。それを言えば、長い刀は判るのかというと、確かに国宝級になると何となく判る気がする。昔、熱田神宮宝物館で見た信長の刀は素晴らしかった。(熱田神宮所蔵じゃないから何か特別展をやってたんだろう。)特に刀に関心はないけれど、国立博物館などで何回も見ている。もともと「人殺しの道具」として作られたわけだが、金属工芸品としての機能美は紛れもない。優れた刀は何となく感じるものがある。

 永青文庫から直接「肥後細川庭園」に下りていけるようになっていた。この辺りは「目白台」の一角になり、昔田中角栄宅があった近くでもある。2017年まで「新江戸川公園」と呼ばれていたが、改修工事に伴い名称を公募して「肥後細川庭園」となった。細川家の下屋敷になったのは幕末時代で、明治以後に本邸が置かれた。従って江戸時代にさかのぼる大名庭園ではなく、近代に整備された庭園である。しかし、非常に立派な池泉回遊式庭園なので驚いた。
    
 永青文庫が高台にあり、庭園は神田川沿いにある。だからどんどん坂道を下りることになるが、最初は樹木の中で次第に全景が見えてくる。池が大きくて、なかなかの絶景だ。結婚写真を撮影している人がいたぐらい。
   
 江戸川橋公園から永青文庫に胸突坂を上る途中に、「関口芭蕉庵」がある。松尾芭蕉は江戸に来た時に、まず神田川分水工事の現場監督のような仕事に就いた。伊賀を支配する藤堂家に工事が命じられたのである。このことは嵐山光三郎の芭蕉本によく取り上げられている。その時芭蕉が住んでいたのが「関口芭蕉庵」だというが、もちろん当時のものではない。中は碑がいくつも立っているが、説明板やチラシが何もないのに驚いた。そんな施設は見たことがない。隣に水神神社があった。
(関口芭蕉庵) (胸突坂登り口)(胸突坂)
 永青文庫に行く前の江戸川公園神田川の写真を少し。僕はこの辺は初めてで、なかなかムードが良い緑が広がっていた。でも案外神田川が悪臭なので驚いた。都心のど真ん中で、こんな感じなんだ。行ったのは夏を思わせる暑い日で新緑がまぶしかった。
   
 神田川は井の頭公園に発して、両国橋脇で隅田川に合流する。江戸時代には上流が神田上水と呼ばれ、中流が江戸川と呼ばれていた。江戸時代に何度も改修が行われ、江戸城の外濠にもなっていた。御茶ノ水駅真ん前では急峻な渓谷風になっているが、新宿区から文京区辺りは大きなドブ川という感じ。かぐや姫の「神田川」の映画化(出目昌伸監督)よりも、黒沢清監督の『神田川淫乱戦争』を思い出してしまうのだった。
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唯物史観と真理の独占ーわが左翼論②

2023年04月20日 22時18分56秒 | 自分の話&日記
 社会主義的な歴史観として「唯物史観」(唯物論的歴史観)がある。僕は歴史を専攻したわけだから、この「唯物史観」をどう考えるべきかは若い頃には大きな問題だった。エンゲルスは有名な『空想から科学へ』という著作で、それ以前の社会主義を「空想的社会主義」と決めつけ、唯物史観は「科学的社会主義」だと主張した。この「科学的」というキーワードが圧倒的な「説得力」もしくは「呪縛力」をもたらしたわけである。

 唯物史観によれば、人類史は「原始的共産社会」→「奴隷制社会」→「封建制社会」→「資本主義社会」→「社会主義社会」→「共産主義社会」へと進歩していく。それを「マルクスが科学的に証明した」というのである。これを本気で信じていた人が昔はたくさんいた。かつて勤務先の高校で、過去の生徒会誌をいっぱい発掘して読んでみたことがある。そうしたら、60年代の会誌に「世界は社会主義へと移り変わっていくと証明された」なんて世界史教員が書いていた。ホントにそういう人がいたんだね。
(唯物史観に見る歴史発展の図式)
 左翼系組織の側は「科学的に証明されている」から一緒に参加しようとと説得する。(これをオルグという。)あたかもこちらが未だに天動説で、何とか地動説を認めさせようというような情熱である。しかし、僕は思っていたのだが、やがて共産主義社会になると証明されているんなら、僕がどうしようが関係ないだろう。共産主義社会が実現するまで「果報は寝て待て」で良いじゃないか。そういう疑問をもらしたところ、やはり早くから組織に入って活動していた方が革命後に高い地位で活躍できるとか言われた。何だ結局世俗的な動機なのか。本気でそう思っていた人は、その後どういう人生を送ったのだろう。

 このように「」あるいは「指導者」が「科学的」の名の下に「真理」を独占する構造になっていたことが、世界の左翼運動の弊害になってきたと思う。マルクス主義では「宗教はアヘン」と言いながら、自らも宗教組織みたいになっていったのもそこに理由があるだろう。左翼党派間の論争のほとんどは、世界の現実の深い分析から起こるものではなく、どっちが「マルクスの証明した真理にいかに近いか」を競い合うものだった。党内の批判者に行われた「査問」も、宗教における「異端審問」に似ていた。左翼組織から行われたオルグも、事実上は「科学的真理にひれ伏せ」という「折伏」みたいなものだった。
(マルクス)
 僕はこの発展段階論は昔から信じたことがない。ロシアや中国(のような資本主義発展の遅れた社会)で社会主義革命が起きたことを説明出来ない理論じゃないか。それに中国など「封建制」をうまく当てはめられない国も多い。そもそも当時は欧米や中国ぐらいしか歴史研究の対象にはなっていなかった。イスラム社会アフリカなど、マルクスもちゃんと知らなかっただろうし、日本の歴史学者も知らなかった。イスラム帝国やオスマン帝国の実態などほとんど知らずに、西欧社会から作られた空想的モデルだった。マルクス主義もまた「空想的社会主義」だったのではないだろうか。

 ところで唯物史観にはそれ以外にも特徴が幾つかある。「下部構造が上部構造を規定する」というのは有名である。下部構造は生産様式、経済構造のことで、上部構造は政治や思想などである。これを教条的に信じ込むと問題だと思うが、世の中の大きな見方としては一定の有効性があると思う。「衣食足りて礼節を知る」という言葉もあるように、個人の人生も国家のありかたも、経済的な条件に制約されるだろう。昨今の日本共産党の「民主集中制」をめぐる議論というのも、要するに下部構造が変化しているのに上部構造である党組織が変化していないことから生じていると理解可能である。
(下部構造と上部構造)
 もっとも「下から上」だけを考えてはいけない。今ではそんなことを言ってる人はいないだろう。「上から下」への逆規定もあるわけで、その相互関係の不可思議が歴史の醍醐味だ。むしろ上部構造のはずのイデオロギーや宗教こそが、各国の政治・経済を左右するのが21世紀の世界である。だから「階級闘争が歴史を動かす」という唯物史観の定理も限定的に理解している。「階級闘争」も重要だけど、同時に民族や宗教も歴史を変える重要な要素だ。そして、現実の歴史は「偶然」にも大きく左右される。ということで、マルクスの歴史理論は今でも必読だけど、それにとらわれず接する必要がある。
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「左翼」ではなく、「反右翼」ーわが左翼論①

2023年04月19日 22時42分33秒 | 自分の話&日記
 何回も書いた戦後左翼史論をもう少し。結局、池上彰・佐藤優氏の本は自分の体験を交えながら振り返っているところが面白いのである。両氏の本に挑んだ大塚氏の本でも、自らの体験や思いが語られる。だんだん自分のことも書くべきかと思ってきたわけである。そこで何回か書くことにした。もっとも僕には語るほどの「左翼」体験はない。それどころか、厳密に言えば「左翼」だったことは一度も無い。だけど、「左派」的なスタンスに立ったことはある。それは何故か。
(一般的な政党の左右)
 「左翼」「右翼」は、いわば数直線上の概念である。基準点をどこに置くかで、相対的に左右が変わってくる。僕より右にいる人には僕が左に見える。しかし、僕より左にいる人からは僕は右ということになって、批判されたことも多いのである。根本の「数直線的世界理解」で良いのかという問題もあるが、それは一応置いておく。問題は「基準点」をどこに取るかということを先に決めなければ、議論が先に進まないといいうことなのである。

 戦後日本ではごく僅かの期間を除いて、自由民主党が権力の座にある。(自民党結成前も、後に合同する自由党、民主党の政権が長かった。)だから、日本の現状は良くも悪くも自民党に一番大きな政治的責任がある。「戦後教育は左翼が支配してきた」などと「妄想」をたくましくする人もいるけど、現実は逆である。戦後日本の教育は、自民党と文部省(現・文部科学省)に大きな責任がある。教育現場で長く働いてきて、文部省(文科省)のトップダウン的な「改革」に振り回された。

 2006年の第一次安倍政権による「教育基本法改正」「教員免許更新制」がその頂点だが、僕はもちろん大反対だった。自民党政権に反対する人はみな左翼だというようなレベルの人から、左翼と思われても僕は何とも思わない。僕は左翼じゃないけど、間違いなく「反右翼」なのである。近代日本では「右翼」が支配して悲惨な戦争が起こった。戦後の右派もその歴史を直視しない。日本では「右派」(狭義の「右翼」だけでなく、宗教右派を含む)の危険性に反対することが大切だと思っているのだ。
(教育基本法改正反対反対デモ)
 取り上げた本では、「左翼党派」の盛衰、思想性、内情が取り上げられている。このように「左翼」を党派中心に語ること自体がどうなんだろうと思う。実際に「左翼党派」に加盟した人はごく僅かだろう。僕もそうだし、そもそもどこかの政党の忠実な支持者だったことが一度も無いのである。僕をどこかの党の支持者だと思っている人もいるかもしれないけど、実際は「意志的な無党派票」でしかない。常に政治状況を考えて「戦略的投票」をしているだけである。

 いや昔の社会党や民主党、今なら立憲民主党なり共産党なり…に投票したことならある。でも本当に支持していた人に入れたことなど、多分2回しかない。1980年の参院選全国区(当時)の中山千夏さん(革新自由連合=当選)と2001年参院選比例区の森元美代治さん(民主党=落選)である。森元さんはハンセン病療養所多磨全生園の元自治会長で、個人的知り合い。党派の問題ではなく、ハンセン病元患者が選挙に出たら支援しないわけにいかない。後は情勢を見て入れている。選挙をサボったことはない。社会科教員が選挙に行かないようになったら、亡国の兆しありだろう。

 僕は別にそのことを誇っているわけではない。大塚さんは阪神ファンだと書いているが、僕はプロ野球をよく見ていた子どもの頃にさかのぼっても、特にファンだった球団がなかった。毎年巨人が優勝するんじゃ面白くないなあと思ってはいた。これは歌手や俳優でも同じ。いいなと思った人なら何人もいるし、ずいぶんレコードも持っている。だけどファンクラブに入ろうなんて思ったことはない。誰の追っかけもしたことがない。そこまで入れ込めない。まあ趣味のレベルなら、それでもいいだろう。

 問題は政治や思想なんかである。僕が政治にも関心を持って新聞を読み始めた頃、それは1967年、68年頃だけど、ベトナム戦争チェコ事件があった。チェコ事件というのは、「人間の顔をした社会主義」を目指したチェコの自由化(「プラハの春」)を、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍が侵攻して押しつぶした事件である。1968年8月に起こり、僕は非常なショックを受けた。ベトナム戦争だけを見て「ソ連は平和勢力」なのかと思っていたからだ。それ以後はもっと慎重にニュースを見るようになった。
(プラハに侵攻したソ連の戦車)
 僕は「政治少年」ではなく、文学や映画に関心を持つようになっていく。それは本来の性分でもあるだろうが、時代の反映でもあったと思う。60年代末の大学闘争最盛期に大学生だったら、どういう行動を取ったかは自分でも判らない。だから、当時どういう立場を取った人でも、僕にはその行動を批判したりすることは出来ない。僕は72年の連合赤軍事件(リンチ殺人事件やあさま山荘事件)以後の寒々とした雰囲気を覚えているわけである。僕は何かを信じるのも、信じたフリをするのも嫌だ。そう思ってきただけである。だから左翼じゃないけど、戦略的スタンスとしての「反右翼」なのである。
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上野鈴本演芸場4月中席ー小朝、小満ん、文蔵を聴く

2023年04月18日 22時31分15秒 | 落語(講談・浪曲)
 三軒茶屋や下北沢は遠いからお芝居を見なくなり、代わりに30分で行ける浅草上野の寄席に行きたいと思うようになってきた。最近落語協会ばかり行ってるから、国立演芸場で落語芸術協会の小遊三を聴こうかとも思った。だけど、久しぶりに上野の鈴本演芸場に行くことにした。トリは春風亭小朝だが、小朝のブログに時々早く行って仲入り前の「柳家小満ん」を聴いてると書いてあって、何だか聴きたくなってきたのである。コロナ後に鈴本へ行くのは初めて。12時半開始で、16時には終わってしまう。

 浅草演芸ホールでは前座が11時40分頃から始まり、トリが終わるのは16時40分頃になる。鈴本はずいぶん短くしたのである。楽とは言える(椅子も浅草より大分楽)。でも一人の持ち時間が少なくなって、色物などすごく短い。漫才のロケット団や音楽ののだゆきなど、お気に入りでいつも満足してる人が今日は短くて満足出来なかった。最近大活躍の蝶花楼桃花も「味噌豆」をさっさと話して終わってしまった。何事も善し悪しだなあと思う。

 寄席ではどうしてもところどころで寝てしまうが、今日は割と好みのいなせ家半七でウトウトしたのは不覚だった。お目当ての柳家小満んは、最初は昭和の大名人桂文楽に入門したが亡くなったため、柳家小さん門下に移籍して1975年に真打昇進。1942年生まれだから、もう81歳という大ベテランである。小朝によれば「百人に一人がわかればいいという師匠ならではのクスグリと、千人に一人が感じとってくれたらいいというワードセンス」だそうである。今日は「夢の酒」という演目で、若旦那と大旦那が同じ夢の中に入る不思議な噺。淡々と演じながらも、不思議な味わいがあった。
(柳家小満ん)
 最近よく聴くことが多い柳家さん喬だが、今日は「そば清」という不思議な噺。蕎麦の大食いで賭けをする男の不思議な結末をさらっと演じて終わってしまう。春風亭一之輔は休演で、代演は橘家文蔵だった。この人はなかなかいかつい体格をしているが、滑稽な泥棒を演じる「置泥」。泥棒に入った家に逆にお金を置いてきてしまう。今日一番聴き応えがあったかも。
(橘家文蔵)
 定席にはトリの落語家の弟子たちがいっぱい出て来る。師匠の柳朝死後に移籍した人(春風亭勢朝、いなせ家半七)を除き、小朝の一番弟子は橘家圓太郎という人で、小朝より6歳下の60歳である。Wikipediaには、東京マラソンを完走してそのまま鈴本演芸場に直行したことがあると出ていた。演目は「桃太郎」で、子どもを寝つけようと父親が桃太郎を話すと、理屈っぽい子どもが反論する。これも面白く聞けた。二番弟子の五明楼玉の輔は、ライオンの皮を被って見世物になる「動物園」。これは何度も聴いてると面白さが減る噺だなあ。
(橘家圓太郎)
 トリの春風亭小朝は「忠臣蔵」で、誰でも知ってる噺をうんちくを交えながら語る。と、吉良上野介が案外悪者じゃなく思えてくるという趣向。吉良は麻生太郎だとかくすぐりを入れながら語っていく。まあ、面白いけど、知ってるわけだしなあ。寄席へ行ったら一応記録と備忘のために書いておく次第。そろそろ寄席よりホール落語へ行くべきだなあ。先月の「桃組」が面白すぎたので、今日はそこまでの満足がなかった。でも、まあ出来るだけ月に一回は落語へ行きたい。
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『少女は卒業しない』、原作と映画ー「学校映画」の不思議

2023年04月17日 22時43分40秒 | 映画 (新作日本映画)
 朝井リョウ原作の『少女は卒業しない』という映画を見たのは、もう一月ぐらい前になる。かつて『カランコエの花』を作った中川駿監督の初の長編映画。どうも学校に関して不思議な設定が幾つもあって、原作を読んで確かめてみようと思った。案外手強い本で時間が掛かり、その間に卒業シーズンもロードショー上映も終わってしまった。まあ、今後も各地で上映はあるし、書きたいのは「学校映画」という理由だから書いてみたい。

 映画は4人の女子高生を描いている。それぞれのエピソードを時間的にバラバラにして、そのピースを並行して配置する。だから最初はよく判らないけど、最後になってピースがはまって「なるほど、そうだったのか」となる。ちょっとミステリー的な作りでもあるので、あまり筋を書かないことにする。4人の中でも、生徒会長でもないのに答辞を読むことになる「山城まなみ」のエピソードが長く、河井優美初主演とうたっている。2022年も『PLAN75』『ある男』など好調が続いていたが、これを主演というのは無理があるだろう。原作を読んだら、まなみが答辞を読むという話は全然出て来なかった。
(料理部長だったまなみ)
 そもそも原作は7話まであって、全然出て来ないエピソードに驚くようなものが多かった。この高校は進学校で、生徒会長の田所君なんか現役で東大に合格した。答辞は当然田所君がやるんだろう。映画にあるのは、男女バスケ部の「禁断の部長同士の交際」の行方、図書館の先生に憧れる作田さん、ヴィジュアル系バンドの森崎に密かに憧れている軽音部長、そして料理部のまなみと交際相手の駿の4つのエピソードである。それぞれのエピソードを若手男女俳優が演じて、卒業式間近の感傷的なムードを盛り上げる。演出や編集、音楽も巧みで、なかなかの佳作だった。

 ところで原作を読んだら、4つの話全部が原作とかなり違っていてビックリした。別に映画が原作通りである必要はなく、もちろんそれは全然構わない。しかし、僕には「どうして」と思うシーンが幾つもあった。例えば、バスケ部の部長同士が久しぶりに会って屋上で花火をする。今どき生徒だけで屋上に出られる学校なんてあるのか。原作を読むと、屋上に行くのは別の二人。退学してダンスで芸能活動をしている男子がいて、卒業式当日に幼なじみを誘って東棟の屋上へ行く。この学校は四角形(ロの字型)になっているが、東棟はボロでもう使われてない。誰も行かなくなっていて、強く蹴ると屋上の鍵が外れて出られるという設定だった。

 学校を舞台にした映画は、主にロケすることになる。教室や職員室だけセットを組むこともあるが、校庭の向こうに数階建て(高校は5階まで、中学は4階まで、小学校は3階までが原則)のセットを作る予算などないだろう。だから大体は夏休みなどを使ってロケすることになる。この映画のロケ地を調べると、山梨県上野原市立旧島田中学校で撮ったと出ていた。旧というのは、すでに閉校になって他の施設になっているからである。作田さんのエピソードで、図書室がやけに小さいなと思ったが、それは中学校でロケしたからだった。原作も映画も「廃校」と呼んでいるが、学校の場合「閉校」と呼ぶ。それもおかしいなと思った。

 時々芸能人が何年も経ってから大学受験して話題になることがある。大学の出願資格は「高校卒業または卒業見込み」だから、「卒業証明書」を出身高校で発行してもらったはずだ。時間が経ってもそういうことがあるから、高校を「廃校」にするわけにはいかない。どこか別の高校に書類を移管して、そこで発行を続けるわけである。もっとおかしいのは、その高校が「廃校」になって「卒業式翌日から解体作業が始まる」というのである。無くなる学校に下級生がいて、最後の軽音部の公演に詰めかけるというのも不可解。閉校になるということは、新入生が募集停止になるということで、最後の卒業生は下級生がいないはずである。
(原作本=集英社文庫)
 これは原作を読まなくちゃと思ったのである。そうしたら、「翌日から解体」は原作にある設定で、だからこそ生徒会がアンケートして「3月25日」に卒業式を動かしたというのである。では在校生の終業式は前日だったのか。翌日から解体という設定で、皆が特別に感傷的な雰囲気になっている。だが、教師はどこに出勤すれば良いのだろうか。教師は3月26日も(土日じゃなければ)勤務日である。次の学校に異動の辞令が出るのは、4月1日だろう。冒頭に「山梨県立」と出るんだから。それに卒業式後に軽音部の公演をしてるから、放送や照明の設備が体育館に残っている。それはいつ搬出するんだろう?

 まあ、別にどうでも良い話である。僕も別にこだわって書いているわけじゃない。ただ、NHKの大河ドラマなんかだと歴史家がアドバイザーになる。単なる時代劇じゃなく、歴史上の事実に基づくドラマである以上、基本的な史実に基づく必要があると思われている。一方、学校を舞台にする小説、ドラマ、映画などの場合、そういう人がいないからだろうか、どうも変な設定が多いのである。もちろんあり得ないような設定を楽しむ恋愛、アクションドラマの場合はどうでも良い。学校で殺人があろうが、教師がゾンビであろうが構わない。でもある程度リアルな学校映画の場合、誰かアドバイザーを付けるべきではないか。

 僕は一番驚いたのは、とても好きで優れた映画なんだけど、岩井俊二監督の『Love Letter』である。これは小樽の中学校の2年4組に、全く同姓同名の生徒がいたという設定だった。それも「藤井樹」という名前の男子と女子である。おかしいでしょ。いくら何でも、クラス分けで別にするよ。4組まであるんだから。それがクラス分けというものである。学校というか、教師をバカにしてるんだろうか。まあ、そういうことを気にせずに見られる傑作ではある。だけど、北海道なんだから、ちょっと山の方かなんかで学年一クラスしかなかったという設定にすれば、先の問題は解消するじゃないか。学校映画にはそういうことが多いのである。
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映画『生きる LIVING』、カズオ・イシグロの脚色は?

2023年04月16日 22時35分19秒 |  〃  (新作外国映画)
 黒澤明監督の名作『生きる』(1952)がイギリスでリメイクされた。それもノーベル賞作家カズオ・イシグロが脚色して、米アカデミー賞脚色賞ノミネートというのである。それは一体どんな映画になっているのだろうか。3月31日公開だったが、予想通りあまりヒットしていないようだ。上映時間がどんどん減らされているから、関心のある人は早めに見ておくべきだろう。

 僕には見応えがあったが、もともと原作映画が好きなのである。今じゃ日本でも黒澤映画を見てない人が多いだろう。カズオ・イシグロはもともと黒澤映画が好きだったが、もし主人公を志村喬ではなく笠智衆が演じていたらどうだったろうと思ったらしい。そういうことは日本の映画ファンは考えない。東宝映画に松竹の俳優が出るはずがないからだ。(もちろん小津映画のように、多少の貸し借りは行われたが。)そして、イギリスにはビル・ナイがいるじゃないかと思いついたという。主人公を演じたビル・ナイも米アカデミー賞主演男優賞ノミネートの名演を見せている。

 ストーリーは基本的に同一で、黒澤明橋本忍小国英雄によるもともとの脚本がいかに優れていたかが判る。時代は1953年のロンドンである。(原作公開の翌年だけど、一年違う理由は不明。)同じように公園建設を求める住民たちが、市役所でたらい回しされている。ビル・ナイ演じるウィリアムズは、ただ役人の仕事を無難に務め一生を送ってきた。そして検査を受けてガンを宣告された。(原作と違って、今度の映画でははっきりと宣告される。そこに日英の違いがある。)そして、退職を考えている女性職員に刺激を受けて、人生を考え直す。基本的なテーマ設定は、国と時代を超えて今も通じるものだった。
(ラストシーン)
 黒澤映画ではラストで志村喬がブランコに乗りながら「ゴンドラの唄」を歌う。映画史上屈指の感動シーンである。今度の映画ではどうなってるんだろう。期待と不安があるけれど、途中でビル・ナイがスコットランド民謡「ナナカマドの木」を歌い上げるシーンがあって、これかと思った。そして、ラストでその歌をブランコに乗って歌うのである。イシグロは元の映画の歌詞「命短し」があまりにピッタリすぎると思っていたらしい。そこで妻がスコットランド人という設定で、その歌にしたという。カズオ・イシグロがその歌を知ったのも、スコットランド出身の妻経由だった。懐かしく、美しいメロディは一度聞いたら忘れられない。
(マーガレットに会うウィリアムズ)
 退職を考えている女性職員マーガレットはエイミー・ルー・ウッドという人がやっている。舞台で認められ、テレビや映画に出ているというが、外国ではほぼ無名。2020年に「ワーニャ叔父さん」のソーニャ役で大きく評価されたと出ていた。実に自然で、黒澤映画の小田切みきに劣らぬ名演だ。マーガレットは皆にあだ名を付けているが、ウィリアムズは「ミスター・ゾンビ」である。原作では「ミイラ」だった。ゾンビ映画って50年代にあったのかと思って調べたら、30~40年代に作られ始めていた。なるほどそっちの方が合ってるか。原作と違うのは、ラストで彼女が若手吏員と恋するようになる設定。
(イシグロとビル・ナイ)
 二つの映画がどう違うかという「比較映画社会学」的観点から見ると、冒頭が汽車の場面である。官僚は皆ちょっと郊外に住んで、朝鉄道でロンドンに通っている。山高帽を被った紳士たちが駅に集まる。黒澤映画はもちろん白黒だから、駅や風景の美しいシーンは見事に感じる。原作と同じく、主人公は途中で死んで皆が彼は死期を知っていたのかと議論する。葬式後に飲んでくだを巻くのは、確かに英国風ではないだろう。今回の映画では、汽車の中で皆が論議することになる。だが、原作にあった助役(中村伸郎)とヤクザをめぐる政治的動き、新聞記者の取材などがバッサリ切られた。それも一つのやり方で、美しい映画になってる。だが俗なる視点も含みこんだ元の映画の方が深いような気がする。

 監督のオリヴァー・ハーマナスは1983年に南アフリカで生まれた。今までにカンヌ映画祭やヴェネツィア映画祭で上映された作品を作っているが、日本公開は初めて。『生きる LIVING』が5作目のようだ。日本映画をイギリスに変えて映画化するわけだから、イギリス以外の視点を持つ監督に任せた方が良いという判断だという。なかなか健闘していると思うが、この作品だけでは評価は難しい。50年代を再現した映画だから、全体的に古風な趣がある。若い人向けじゃないかもしれない。でもじっくり人生を考える映画は気持ちがいい。まあ黒澤映画を先に見て欲しいと思うけど。
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「内ゲバ」があった「冬の時代」ー大塚茂樹『「日本左翼史』に挑む」を読む③

2023年04月15日 22時32分51秒 | 〃 (さまざまな本)
 「内ゲバ」について書いておきたい。池上彰・佐藤優氏の本にも、大塚氏の本にも「内ゲバ」の話が出て来る。どっちの本も(特に大塚氏の本は)、「内ゲバ」問題が中心的なテーマではない。ただ70年代~80年代に学生時代を過ごした世代には、この問題を避けて通れない。もっとも僕の人生は、自分や知人に関係者はいないので「内ゲバ」に触れなくても語ることが出来る。それにしても戦後左翼運動史を考える時に、一度は触れないわけにいかないテーマだろう。(「内ゲバ」に関する重要な本には、立花隆中核vs革マル』や樋田毅彼は早稲田で死んだ』などがある。)

 ところで「内ゲバ」と言っても、今じゃ説明が必要だろう。ある意味普通名詞になったとも言えるけど、もともとは新左翼党派間の暴力事件に使われた用語である。「ゲバルト」(Gewalt)はドイツ語で「暴力」のことで、当時は「ゲバ」と略して「ゲバ棒」などと使われていた。僕は直接知らないけど、マスコミではよく使ってたから理解出来る世代である。「中核派」と「革マル派」は、もともと同じ「革命的共産主義者同盟」(革共同)から分裂した組織だから、外部の者から見れば「内輪もめ」に見える。だから「内ゲバ」と呼ばれたということだろう。
(警視庁ホームページの「革マル派」の問題)
 池上氏は1950年生まれで、慶応大学日吉キャンパスで中核派にも革マル派にもオルグされたと語っている。慶応は中核派が押さえていたのだが、知人を通して革マル派からも話を聞いてくれと言われたという。革マル派は内ゲバで人を殺しているから嫌だと言ったら、「革命の理想のために人を殺すのは許される」と言われたという。後にNHK記者になり社会部の警察庁を担当していた時に、凄惨な内ゲバ殺人の現場を取材している。それが1980年10月に大田区洗足池図書館前で、革マル派5人が中核派に襲撃され殺害された事件である。Wikipediaで「内ゲバ」を調べると年表が出ているが、一件5名の死者は最多とある。
(大田区事件を報じる新聞の画像)
 一方、大塚氏は1976年に早稲田大学第一文学部に入学した。「筆者の世代では、もう学生運動の時代は終わったとみなす人が大半だった」。しかし大塚氏は「まともな学生運動なら参加したい」との思いから入学直後に民青に入った。「唯一の懸念は、筆者の学んだ大学と学部である。」早稲田で革マル派の影響力が強いのは周知のことで、72年末には「川口大三郎事件」が起きている。中核派と誤認された学生を革マル派がリンチして殺害した事件である。

 大塚氏は「革マル派の暴力支配に抗して、無党派の学生として敢然と闘い続けた「ヒダさん」の名前は入学直後に耳にしていた」という。(そのヒダさんが、先に紹介した『彼は早稲田で死んだ』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した樋田毅氏である。卒業後に朝日新聞記者になり、退職後にその本を書いた。)この事件は学内に非常に大きな影響を与えたが、社会に与えたショックも大きかった。大塚氏は学部入学式の後で「革マルと民青の二人の活動家が激しい論争をしていた」のを見た。「多人数で拉致されないかと不安とともに見つめていた」。幸いにも76年以降は状況が変わりつつあったという。
(当時の革マル派機関誌「解放」。見出しにある「ブクロ派」とは革マルが中核を呼ぶときの蔑称)
 自分のことをちょっと書いておくと、一年間の浪人を経て、1975年に立教大学に入学した。その時点ではもはや学生運動などどこにもない。だけど、学内にも社会一般にも「内ゲバ」の暗い影が覆っていた時代だった。僕も池袋周辺で内ゲバがあったとかで、大学近辺を歩いている「学生風」通行人を警官が軒並み職質している場面に何回か遭遇した。学生証の提示を求められたが、拒否出来る雰囲気ではなかった。学内には特に騒然たる場面はなかったが、革マル派が活動していたのは覚えている。だが大学当局は自治会を認めず、その結果なのだろうが在学中に一度も大学祭を経験しなかった。

 当時の大学の多くでは、「自治会」を特定セクト(党派)が握っていた。最近では「全学連」と「全共闘」を知らないと言われる。「全学連」は「全日本学生自治会総連合」のことで、全学生加盟の「学生自治会」があったのである。戦後ずっと共産党系が主導権を握っていたが、60年安保を前にした1959年6月に「ブント」(共産主義者同盟)が主導権を握ることに成功した。60年安保後にブントが分裂し、以後「全学連」は四分五裂していく。その詳しい歴史に今僕は関心ないが、例えば「早稲田は革マル派」というのは、この学生自治会のヘゲモニーを革マル派が握っているということである。
(当時の中核派機関誌「前進」)
 何で大学がセクト間で争奪戦の対象となって、どこどこ大学は○○派、どこどこ大学は××派などとなったのか。それは「自治会費」を大学が代理徴収していて、執行部を握ると自治会費を自派で使えたからだ。いま思うと、これはとんでもないことだろう。今はPTAも全員参加じゃないとされる時代である。個々人の加盟意思の確認なしで自治会費を一括徴収するなど、あり得ないことだろう。自派で自治会費を押えるとは、つまりそこには「横領」や「背任」に問われるべき事案があったはずである。当時はそんなものかと思っていたし、保守派や企業も含めていい加減な会計処理は珍しくなかった。「総会屋」が存在した時代である。

 この時代には他国でも過激な左翼党派が存在した。イタリアの「赤い旅団」はモロ元首相を誘拐して殺害、ドイツの「バーダー・マインホフ」グループはドイツ経営者連盟会長シュライヒャーを誘拐して殺害した。そんなことをしても社会は変わらないし、逆に厳しい弾圧をもたらしただけだった。これらの事件はその後映画化され、僕も見たことがある。日本でも若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』などがある。ここでも「日独伊」かと思いつつ、これらの暗く、痛ましく、重苦しい映画を頑張って見た。しかし、よく考えてみればドイツ、イタリアは「支配者側」の人物に対する事件である。それを肯定するわけではなけど、日本で起こったのが「仲間殺し」だったのは何故だろう。

 これは新左翼党派以外の日本人も考えてみるべき問題ではないのか。もしかしたらダシール・ハメット血の収穫』というか、むしろ黒澤明用心棒』に影響された警察当局の策謀なのかもしれない。新左翼党派内に警察のスパイがいたとしてもおかしくはない。それはともかく、対立党派どうしが殺しあいに熱中して急激に影響力を無くしていったのである。佐藤優氏の表現によれば、60年代末には新左翼党派に加盟するのは「暴走族に入る程度」だったが、70年代半ば以降は「暴力団の盃を受ける=完全に市民社会から外れる」レベルになったと言っている。いや、その通りだったと思う。

 僕は「内ゲバ」の暴力性だけを考えても答えは出て来ないと思う。朝日新聞(4月9日付)には「スポーツ指導者の暴力」という大きな特集記事がある。あれだけ問題化し、中には刑事事件になって人生を棒に振った人までいるというのに、今でも暴力や罵声がたくさん報道されている。「胸ぐらつかみ殴打」「周囲の教員も見て見ぬふり」「罵声浴び続け吐き気」などと見出しにある。職場でのパワハラも数多い。日本社会の底の方にはずっと激しい暴力が潜んで来たと言うべきではないか。
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共産党へ渾身の提言ー大塚茂樹『「日本左翼史」に挑む』を読む②

2023年04月13日 23時19分33秒 | 〃 (さまざまな本)
 大塚茂樹氏の『「日本左翼史」に挑む』を読む2回目。この本を読んで驚いたのは、大塚氏の人生に共産党関係者との幾重にもつながる深い縁があったことである。共産党系で活動したことは知っていたが、このような関係(親族の葬儀に共産党幹部が参列するといったような)があったことは知らなかった。(具体的内容はここでは書かない。)奥付に「1968年に小学生として、ベトナム反戦運動、沖縄問題への関心で社会運動に参加」とある。恐ろしく早熟な少年である。「以後、運動の現場を離れることなく現在に至る」という。半世紀を超えて、社会運動を見てきたわけである。
(大塚茂樹氏)
 それは当然共産党系の運動だと思うが、大学時代には民青に加盟したとは書かれている。その後党員にはならなかったが、党内外の様々な人々との関わり、希望と苦悩の入り交じった青春が語られる。ずいぶんいろいろな人に会ってきたことに驚かされた。特に原水禁運動での体験は強烈だ。1963年に「部分的核実験停止条約」の評価をめぐって、原水禁運動は社会党系、共産党系に分裂した。その後、統一大会が開かれた時代があるが、84年には開催が危ぶまれた。その経緯に関しては、大塚著を読んで欲しい。そもそも「『ヒロシマ・ノート』に記されている原水協のセクト主義に賛同したことはない」と書かれている。

 池上彰・佐藤優氏の本では、特に佐藤氏が共産党は「暴力革命」を完全には放棄しておらず、公安調査庁の監視は必要だとしている。しかし、大塚氏はそれを不当だとする。僕も大塚氏が正しいと思うが、そもそも佐藤氏は「理論重視」であり、現場感覚から少しズレている面がある。共産党には組織論などで「レーニン主義」を完全に清算していないという判断はありうる。だが、それは文面上の「教条主義」というか、訓詁主義的な問題である。今は暴力革命を目指す組織を秘密裏に結成出来る時代ではない。共産党の支持層も高齢化していて、「若者よ体を鍛えておけ」(昔共産党でよく歌われた歌の歌詞)と歌える状況じゃないだろう。もちろんそれは自民党もよく知っているはずだ。

 そのように「日本左翼史」を批判する一方、共産党の「暗部」も鋭く指摘する。実際に会った幹部の印象なども交えながら、興味深いエピソードが連続する。党の路線に盲従したりせず、党外の支持者として自立して考えてきたということか。92年の結婚式を祝う会で、「国際学生連盟の歌」を歌い、野間宏暗い絵』の一節を両親に贈る言葉にしたと出ている(232ページ)。この取り合わせに著者のスタンスが表れているのかもしれない。党を除名された野間氏の言葉を取り上げるのは、勇気が必要だったのではないか。結局、大塚氏と共産党との関係を表わすなら、「論語」をもじって「支持して同ぜず」なのかもしれない。

 現在、日本共産党が揺れている。いや、揺れてないのかもしれないが、少なくとも共産党に関心を持つような「ネット左翼論壇」は今年になってずっと大揺れだ。統一地方選挙前半が終わって、共産党は「一人負け」とも言われている。今まで「牙城」と呼ばれていた京都府でも、京都府議選では12議席から9議席へ3減、京都市議選では18議席から14議席へ4減だった。まあ、「維新」だけは万々歳だろうが、他の党はどこも揺れているだろう。共産党はそれでも府議選は「維新」と並んで第2党、市議選は単独で第2党なんだから、「反共攻撃の中、よく持ちこたえたと言うかもしれない。

 京都が特に注目されたのは、『シン・日本共産党宣言 ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由』(文春新書)を刊行した松竹伸幸氏、『志位和夫委員長への手紙―日本共産党の新生を願って―』(かもがわ出版)を刊行した鈴木元氏が京都府委員会に所属していたからだ。両氏は「分派活動」として共産党を除名された。その影響が京都でどのように現れるかが注目されていた。大塚氏の本は2023年3月25日発行だが、「2023年2月6日に、党首公選制を求めた松竹伸幸氏の除名が発表された」の記述がある。
(記者会見する松竹氏)
 大塚氏は「今からでも除名を白紙に戻す勇気」を求めている。それだけでなく、広範な党の改革を求めている。党機関誌で実名を挙げて批判してくれて良いから、幅広い議論をして欲しいという。何故共産党にそこまで求めるのか。それは「戦争前夜」かと思わせる現時点で、共産党が魅力を失い続ける存在であってはならないという思いからだろう。僕もその気持ちには共感するところが多い。先に袴田事件再審決定の記事を書いたが、東京地裁前に集結した人の中には(共産党系の)日本国民救援会の人が多かった。冤罪から救えというのに何党支持も関係ないが、他党には今もこれだけ動員できる大衆運動団体はないだろう。
(松竹氏除名問題で語る志位委員長)
 ホントに多くの論点があり、とても書き切れない。自分の共産党論などは改めて別に書きたいと思う。この本の中に、党首の公選規程がないのは共産党と公明党だと書いてあった。いや、言われてみればその通りだ。ところで僕は長く学校現場で働いてきたから判っているけど、「地域」にあるのは創価学会共産党だけである。もちろん自民党系の人もいるが、自民党組織があるんじゃなくて「自分党」があるだけ。昔の社会党や民主党などに投票している保護者はいっぱいいただろうが、地域の中で活動している人は見たことない。(東京でも多摩地区はちょっと違うかもしれない。「市民派」が活動している地域もあるだろう。)

 そして、共産党や創価学会(当然公明党支持だろう)の人は、大体「いい人」なのである。ごく普通に平和を求めているし、学校にも協力的。だから学校行事的には一緒に仲良くやりたいと思っていたが、そうか、この両組織は党首公選制がないのか。しかし、そういうところが日本の「地域」には適合しているのかなどと考えてしまった。
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