尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

王希天と中国人虐殺-関東大震災時の虐殺事件②

2017年08月31日 18時24分36秒 |  〃 (歴史・地理)
 震災時の虐殺事件第2回。今回は中国人虐殺事件。これも余り知られていない。仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』(青木書店)が震災70周年の1993年に出ていたが、その本は読んでなかった。仁木ふみ子(1928~2010)は、大分県の高校教師から日教組の婦人部長を務めた人。中国語ができるらしく上海で労働運動を調べていて事件を知った。そして、外交資料館をあたりながら、現場の江東区大島(おおじま)に住んで調査を続けた。

 仁木さんの本を読むまでに、中国人が多数虐殺されたこと、中国人の代表王希天が虐殺されたことは知っていた。しかし、問題を本質をきちんと理解していなかった。それまでは震災の混乱の中で「自警団」による「朝鮮人虐殺」が起こり、排外的民衆によるアジアへの蔑視から中国人虐殺も起きたと思っていた。また、誰が虐殺されたかなど特定できないだろうと思っていた。ところで驚くべし、名前が判っていたのである。もちろん全員ではないが、大島で虐殺された人々はかなり名が判るのだ。前記著書に資料として、500人強の名が列挙されている。

 いまや、朝鮮人虐殺と中国人虐殺と日本人(沖縄県民を含む)虐殺という3つの集団虐殺があり、また大杉栄(ら)と南葛労働運動家(亀戸事件)と王希天の3つの社会運動家の虐殺と多くの未遂事件があったと言うべきだ。大島にいた中国人虐殺事件と王希天虐殺事件は、関わりはありながらも別の事件なのである。そのことにも驚くが、この事件に関しては日本政府の隠ぺい工作が完全に解明されている。それほどの事件なのに、まだまだ知られていると言えないのも驚きである。

 当時の「外国人労働者」はどうなっていたのか。朝鮮は植民地だから、総督府の圧制で日本に労働力として流入したのは判る。一方、中国は独立国。当時中国人労働者、というか外国人労働者は原則自由だったのだ。日本はカリフォルニアの日本移民排斥を人種差別と批判していた。日本商人が中国へ行けるようにするためにも、相互主義で中国人も自由だった。しかし、日本まで集団で働きにくる外国人は、中国南部から世界に出て行った「華僑」しかいない。

 このとき来ていたのはほとんど浙江省温州(うんしゅう。上海の南方)から来た人々だった。伝手をたよって同郷の人々がやってきて、東京市内に住めず(留学生以外は禁止だったらしい)、府下の南葛飾郡大島町に集住していた。(東京府東京市が15区だった時代。)この地帯は川(運河)が縦横に走り、当時は船便をいかして産業革命の先端だった。中国人労働者は工場で石炭の荷下ろしなどの肉体労働をしていた。不況になると日本人労働者と競合し、衝突事件も多数起こっていた。政府は23年になると労働禁止職を指定し、退去命令を出したり、「上陸時の見せ金制度」を作った。その時の退去労働者の名まで、現在判るのである。こうして政府は中国人労働者の制限政策へ代わった。
 
 突然退去命令が出されては労働者が困る。賃金の不払いや雇い主の暴力など多くの問題を見かねて、労働者の町大島の真ん中に、1922年9月に僑日共済会を設立したのが王希天である。王は1896年に東北の長春で生まれ、1915年の悪名高い「21か条要求」の年に「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と日本に留学した。その後学生運動のリーダーとなり、1919年の五四運動の時は東京で運動に参加、田中義一陸相に招待されて会ったが節を曲げず、以来警視庁の尾行がついていた。日本でキリスト教に入信し、留学生や日本のキリスト教関係者(特に救世軍の山室軍平)、社会運動家に大きな信望があった。共済会は中国人の救済のため多くの会社に掛け合い、王希天は地元の労働ブローカーに憎まれ、亀戸署にも目を付けられていた
(現在の中国で「革命烈士」となった王希天)
 9月1日当日、大島には60数軒の中国人宿舎があり、千数百人の中国人がいた。亀戸、大島は全焼はしないが、工場には類焼したものも多い。深川方面からの避難者が多数いて中川土手で野宿していた。2日、戒厳令が出て、軍隊が展開する。(総武線の北は近衛師団習志野騎兵連隊、南は第一師団野戦銃砲連隊。)3日、軍隊が大島を取り囲み、朝から虐殺を開始した。昼頃が一番ひどく、国へ帰してやると言い174名を連れ出し、広場で軍を中心に警察、民衆と共に虐殺した。生き残りが1人いたのである。(現在の都営地下鉄新宿線東大島駅前付近。)現地の警察、民衆も加担しているので、中国人と朝鮮人の誤認はありえない

 中国人がいなくなった住居は民衆に略奪された。何の事はない、「朝鮮人暴動」ではなく、日本人が略奪したのである。この「民衆」とは誰か? 薪割り、とび口、日本刀を持ってきて虐殺した人々は誰か。地元民は顔見知りで、そこまでできない。近くの町の日本人労働ブローカー、すなわち「手配師」、その暴力組織員たちであろうというのが仁木説である。これは現在の山谷などの状況を見るとうなづける。彼らは以前から中国人労働者と衝突を繰り返していた。

 政府はこの事件の隠蔽を決め、刑事を派遣して住民を黙らせ、報道を規制した。朝鮮人の場合は「自警団の暴走」として多少の裁判を行なったが、中国人のこの事件は全く隠された。政府内部にもその方針に批判的だった者がいた。その人が中国の要求など関連文書を、目立たぬように分散して保管した。60年以上後に、仁木さんが発見できたのは、そのためである。

 (細かい話になるが、隠す方針を決めた実務者は臨時震災救護事務局警備部だという。その委員は内務省警保局長後藤文夫、陸軍省軍務局長畑英太郎、海軍省軍務局長大角岑生、外務省情報局長広田弘毅、陸軍少将阿部信行らである。昭和史に関心を持つ人なら、知ってる名前が多いはず。将来の首相、内相、海相らがよってたかって隠蔽したのである。なお、畑英太郎は、元帥畑俊六の兄で、宇垣陸相時代の陸軍次官。1930年に死亡したが、やはり大物。)
 
 一方、王希天は神田に住んでいて、まずは留学生の救援にあたっていた。大島に入ったのは9日で、だから中国人労働者虐殺とは全く別なのである。大島に来て虐殺を知り、死体の身元を調べていた王は、9日夕に亀戸署に連行され、以後行方不明となる。中国政府からの調査依頼にも、一貫して行方不明で押し通した。政府はご丁寧にも各道府県に「行方不明人調査」の通牒を出し、真に受けて捜査して「該当人は立ち寄った形跡なし」と回答した県もあるという。

 もちろん政府は真相を知っていたが、隠ぺいしていたのである。その真相が解明されたのは、当時の兵士が必死に守った日記(渋を塗って腹巻に隠して常時持ち歩き、没収と検閲を免れた)を、死ぬ前に王の遺族に伝えたいと半世紀を経て公開したからである。当時、朝鮮人、中国人は千葉県習志野の俘虜収容所に収容して「保護」する方針だったが、12日に習志野へ行くといって連れ出された王希天は、事実上の軍命令で逆井橋(中川にかかる橋。首都高小松川線の下の所)に来た所で虐殺されたのである。亀戸署管内の活動家として目をつけられていて、公然たる国家テロにあったと理解すべきだ。(狭義の「中国人虐殺事件」ではない。)

 この王希天という人物は、まだ27歳という若さだったが、当時の証言を見ると、相当の人物である。被害者の現地温州を調査した仁木氏によれば、今も王の活躍は語り伝えられている。生きていれば世界史的重要人物となったことは疑いない。王は中国で周恩来の同窓だったことがあり、日本に留学する周に影響を与えた。東京で一緒に撮った写真もあるのである。パリに留学した周とも文通が続いていたらしい。王は出身地の東北に妻子があり、遺児は文化大革命中、(王家は富商の出身だったらしいが)周恩来の保護で生き延びた。また、東北出身のため張学良の友人で、学良からは日本政府に問い合わせがあった。王希天は周恩来と張学良の友人だったのである。

 「関東大震災で虐殺された中国人を追悼する会」は、現在虐殺の犠牲者のほとんどを出した温州の奥地の山地に、教育援助をする「中国山地教育を支援する会」として続いている。歴史の検証から国際協力へ。日本のNPOの歩みの一つのあり方かなと思う。(この事件に関しては、岩波現代文庫に、田原洋『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』(2014)がある。原著は1982年に出た本だというが、未読。)
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福田村事件-関東大震災時の虐殺事件①

2017年08月30日 21時32分18秒 |  〃 (歴史・地理)
 関東大震災では地震による倒壊や火災などによる多数の死者の他に、さまざまな虐殺事件が起きた。それが関東大震災の恐ろしさである。東京近辺にまた大地震が起こったら、悪質なデマや不寛容で世の中が一変してしまうことはあり得る。まさかまた大規模な虐殺事件が起きるとは思わないけど、災害に伴う「社会の分断」をいかに防ぐかは大事な問題だ。

 僕が関東大震災について一番調べていたのは、もうずいぶん前のことになる。震災80年にあたる2003年ごろにずいぶん震災研究本を読んだ。当時は震災で大きな被害を受けた東京都墨田区の定時制高校に勤務していた。生徒に身近な教材を取り上げる意味合いが大きかった。そのころ発信してた個人的メールマガジンに当時の勉強結果が残っている。その後ほとんど調べなおしていないんだけど、当時の文章をまとめておきたい。

 まず、千葉県の福田村(現・野田市)で起きた「福田村事件」。今もなお、多くの人が知らないままだと思う。香川県から行商に来ていた日本人15名が襲撃された。日本人が虐殺されたのかと驚く人もいるかと思うが、朝鮮人と間違われて殺された人は相当数いた。「日本語の発音」で民族を判別しようとしたことが多かったので、聴覚障害者や吃音者が疑われやすかった。後に劇団俳優座を結成した千田是也(せんだ・これや)は「千駄ヶ谷で朝鮮人と間違われた」体験から芸名を付けたという。

 この事件は、発生以来真相が明るみに出ないまま、歴史の闇に埋もれていた。21世紀になって、犠牲者の地元香川県観音寺市付近で、真相究明の盛り上がりがあり、2003年に事件の起こった千葉県野田市に追悼の碑が建てられた。野田市三ツ堀の円福寺境内にある。(写真)

 現在千葉県野田市に属す福田村とその隣りの田中村(現在、柏市)は、利根川と江戸川を結ぶ「利根運河」(明治21年開削)により分けられたが、元々一体の地域だった。震災時には、「自警団」が組織され、「不逞鮮人」(ふていせんじん=当時の朝鮮人に対する差別用語。独立運動をするのは「不逞」という意味)に対する「警戒」を行なっていた。ここで「朝鮮人と間違われて殺された」日本人がいた。当時、自警団員に対する裁判が行なわれ、新聞報道もなされたが、犠牲者は何人で、どこの人だったか、詳しいことは知られないままだった。

 千葉県で朝鮮人虐殺の調査を進めるグループが、野田で起きた事件の犠牲者はどうも香川県出身らしいという情報をつかんだ。その情報が香川県の高校で日本史を教える石井雍大に伝わった。1983年のこと。以来、石井氏はあちこちに情報を求め、翌年犠牲者の親戚に出会い、位牌を見る事が出来た。おどろく事に、位牌の裏には「千葉県ニ於テ震災に遭シ三堀渡船場ニテ惨亡ス」と書かれていたのである。また、なんと6歳、4歳、2歳という幼児の位牌もあった。

 こうして初めて犠牲者の名がわかったが、まだ犠牲者のすべてはわからない。さらに追跡をすすめるうち、1986年になり、からくも難を逃れた生存者(事件当時21歳)が存命であることがわかり、連絡がついた。そして、当時検事からの要請で書いた手記も出てきた。これはその生存者が妻にも一言も話さず(事件の数年後に結婚)、半世紀も秘蔵していたものだ。また、その人から、もう一人当時14歳だった生存者がいることを知らされた。この二人の証言が貴重な事実を明るみに出した。

 これにより、犠牲者9人、生存者6名、計15名(内4名が幼児)の全体像がわかった。彼らは行商人だった。香川県の被差別部落の生まれで、差別の中、地元で生業がなく、薬の行商で身をたてていた。富山の薬売りは、置き薬方式つまり薬を置いていって翌年使った分の代金を回収し薬を補充するが、香川では資本がなく、売り切り方式で関東を回っていたのだという。

 当時は野田にいたが(野田はキッコーマンの地元で行商に向いていた)、震災で5日間足止めを食い、このままではということで、6日になって茨城方面に向かうことにした。みなで利根川にある三堀の渡しという所へ向かった。10時頃(と思われるが)、渡しの近くにある香取神社で休んだが、このとき商店の床机に9人しかすわれず、6人は神社の鳥居で休んだ。その差は30メートル位というが、これが運命を分けたのである。

 渡しは交通の要所だから、自警団がいた。讃岐弁で渡し守と交渉する様子を聞いて「鮮人ではないか」と人が集まってきた。もちろん日本人だと抗議し、納得する人もいたが、だんだん人が集まり暴徒化していった。鉄砲を持ち出している人もいて、川に投げ込んでしまえということになり、川へ投げられた。対岸へ泳ぐ人がいたが船で追いかけて惨殺した。こうして幼児も川へ投げ込まれ、そのまま溺死して死体も上がらないという惨事が起こったのである。

 残りの6人も、その頃捕らえられ、体を針金でしばられ、「君が代」を歌ったりさせられていた。(朝鮮人ではないかを調べるため、君が代や教育勅語を知ってるかを聞いた。)生きた心地もしなかったうち、急を聞いて駆けつけた巡査が止めて身柄を引き取り、からくも一命を取りとめたのである。

 様々な虐殺事件がその後明るみに出て、国際問題になる事を心配した政府は自警団員を裁判にかけた。自警団による事件のいくつかが裁判となったが、朝鮮人虐殺はきわめて軽い刑となり、日本人に対する事件はより重い刑となった。この福田村・田中村事件は「騒擾殺人」で8名が裁かれ、最長で懲役10年の判決となった。これは震災関係の最長の判決だが、大正から昭和への代替わりの恩赦で、1927年2月には全員釈放釈されている。田中村は村で裁判費用を負担し、有罪者の一人が後に村長になった。自警団という村のために行なったことで、村ぐるみで罪の意識がなかったのである。(福田村は資料を残さず不明。)

 一体、いくら震災当時とはいえ、数日たった9月6日に、幼児もいる日本人を「朝鮮人と間違えて殺す」というようなことがなぜ起こるのだろうか? 本当に日本人と気付かなかったのだろうか? 「朝鮮人と思っていた」のか「日本人と思ったが怪しい一行だと思った」のか。そのあたりは永遠にわからないが、当時の農村の「よそ者」への偏見、行商人への差別の目が事件を起こしたのである。そうでなければ、地元で犠牲者への謝罪等があっただろう。この事件が地元で隠され続けて来た事自体が、差別構造が温存されてきた事を意味する。その意味で、部落差別が悲劇の背景にあった。

 当時香川と千葉は遠く、生存者や犠牲者の遺族も「千葉の人は鬼だ。近づきたくない」と事件を心に秘めてきた。事件から60年以上たち、ようやく真相が明かされた。香川では「千葉福田村事件真相調査会」が出来、それに対応し、野田に「福田村事件を心に刻む会」が出来た。80周年の2003年に、ようやく追悼碑が建立された。しかし、地元の意識変革、さらに事件や犠牲者の地元だけでなく、全国に伝えていくことには課題が残る。震災関係で最長の判決が出た事件、部落差別に関係して9人もが殺された事件が知られずに来たことは非常に重大な問題だ。

*この事件に関しては、2013年に辻野弥生『福田村事件 ――関東大震災・知られざる悲劇』(崙書房、2013年7月)が出ているが、僕は読んでいない。その著者の辻野氏に江戸川大学隈本ゼミが取材した記録もネット上にアップされている。福田村事件で検索すると、それらの情報が出てくる。
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小池都知事の「どっちも」論批判-関東大震災認識を問う

2017年08月29日 23時09分26秒 |  〃 (歴史・地理)
 少し前に書いた、小池百合子都知事が関東大震災時の朝鮮人虐殺追悼集会への追悼文を断ったという問題。これは非常に大きな問題をはらんでいると思うので、ここで考えてみたい。僕は東京生まれで東京育ち、東京の中学、高校で歴史を教えてきた。当然、関東大震災には関心を持ち、授業でも何度も取り上げてきた。東京東部の勤務が多かったので、まさに生徒にとって身近な問題である。

 そういう意味で、関東大震災を次の世代にも語り継いでいくのが大切なことだと思ってきた。1923年の出来事だから、もう94年も前になる。だんだん関東大震災100年が近くなる。もう直接経験した人はほとんどいないだろう。そうなると、当時は誰でも知っていた事でも、全然知らない人が出てくる。それが「デマ」を生む素地につながっていく。

 小池知事の対応に関しては、8月25日の定例記者会見で質問に答えている。それは「小池知事「知事の部屋」/記者会見(平成29年8月25日)」で見ることができる。なかなかこの問題に触れないのだが、質問の後半で共同通信、朝日新聞、ジャパンタイムズ、東京新聞の記者が立て続けに質問した。言っていることは大体同じなので、最後の東京新聞記者への答弁を引用する。

 基本的に関東大震災という大変大きな災害があり、そして、それに付随した形で、関連した形でお亡くなりになった方々っていうのは、国籍を問わず多かったと思っております。その意味で3月そして9月の大法要ということについては、全ての方々に対しての慰霊を行っていくという点については変わりがないわけでございます。
これまで毎年出していたということについては、そういう見方もあるだろうと思いますけれども、私は今回は、全ての方々への法要を行っていきたいという意味から、今回特別な形での追悼文を提出をするということは控えさせていただいたということでございます。多くの方々が被害に遭いました。
以上です。(以上、引用)

 さらに、その前の朝日新聞記者との問答を引用すると、
【記者】そういう民族差別ってものが背景にあるような形で起きた不幸な悲劇について、特別にその追悼の文、追悼の辞を述べる、送るということについて、ここには何かしら特別な意味というのは見出されないですか。
【知事】そこで民族差別という観点というよりは、私はそういう災害で亡くなられた方々、災害の被害、さまざまな被害によって亡くなられた方々に対しての慰霊をしていくべきだと思っております。

 この記者会見の答えによって、小池知事の発想がかなり明確になったのではないか。それは「どっちもどっち論」と似ている。この場合は、事件があった、犠牲者がいることは否定しない。だけど、それは今となっては「どっちも同等に追悼する」とされる。加害者と被害者、天災と人災の区別があらかじめ取り払われている。そのことによって、加害者の問題が隠され、「人災」が免責される

 このような議論の立て方をする人が世界には多数いる。トランプ米大統領は、「白人至上主義者」に対する抗議運動に対して、衝突になると「どっちもどっち」と評した。世界の大多数の指導者、特に虐殺事件を歴史上に問われる国のトップは、大体そういうことを言う。アルメニア人虐殺事件に対するトルコのエルドアン大統領の対応などもそうだろう。

 日本でも、東日本大震災に関して、大津波で亡くなった人と原発事故で今も避難生活を余儀なくされている人を同等に扱うことはできない。さらに、ため池が決壊したり、建物の天井が崩落したり、さまざまの出来事で犠牲になった人がいる。「皆同じ大地震の犠牲者」には違いないが、それぞれのケースで責任の度合いが違い、同じように考えることはできない。(津波の犠牲者の場合も、避難指示が適切なら犠牲にならずに済んだ場合もある。)

 同じようなことは、靖国神社の「戦犯合祀問題」も同様。戦犯裁判をどう考えるかは別にして、指導者だった人と徴兵された兵士だった人を同等に考えることはできない。「非常に大きな歴史の目」で見れば「同じく戦争の犠牲者」だと言えるかもしれないし、靖国神社は日本国内の一宗教法人だから、国家としてはあれこれ言えない。だけど、日本政府高官が参拝すれば、日本は受け入れた裁判結果を蒸し返すのかという疑問が発生するのは避けられない。

 応仁の乱や関ヶ原の戦いなんかだったら、今では「どっちもどっち」で済むだろう。国内で問題になってないのだから。でも150年を近く迎える戊辰戦争になると、まだまだ済んでいるとはいえない。会津の人は薩長に対して今でも複雑な思いを持っているだろう。国内でもそうなんだから、日本と朝鮮半島の間では16世紀末の豊臣秀吉の侵略戦争も終わったとは言えない。

 当然のこととして、94年前の関東大震災に関しても、地震やそれに伴う火災で亡くなった人と、その時に起こった虐殺事件で殺された人とを一緒にはできない。「そういう災害で亡くなられた方々、災害の被害、さまざまな被害によって亡くなられた方々」とすべて一緒にしてしまうことは、虐殺事件の加害責任をウヤムヤにすることにつながる。もちろんそのことを判らないはずがない。それが目的だと自覚していることがうかがわれる。

 これは全く間違ったメッセージになる。2016年7月に行われ、小池氏が当選した都知事選。増田寛也や鳥越俊太郎の他の候補は得票が少なかった。ジャーナリストの上杉隆が17万9千票を得て4位。その次が桜井誠114,171票で、5位。その次がマック赤坂の5万票だから、この桜井票は決して少ないとは言えない。桜井誠という人は、「ヘイトスピーチ」を続けてきた「在特会」のリーダーだから、これは大問題である。そういう候補に投票する人が東京で10万人以上いるのである。

 だから、次に東京で大地震が起こった時も、デマを発散する人がいる。阪神淡路大震災でも、東日本大震災でも、熊本地震でもあったんだから、もちろん東京で地震が起きたら同じようなことがある。東京には多数の外国人が居住している。どういうことが起きるか、少しでも想像力があれば、何事につけ「デマが人々を引き裂いた悲劇を東京では二度と起こさない」と発信するのが東京のリーダーの務めではないか。自分で怖くないんだろうか。ヘイトスピーチをする人に10万票集まる都市のリーダーだということが。そこでパラリンピックを開くのだということが。

 今後数回続けて、関東大震災時の様々な虐殺事件を考えてみたいと思う。
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北朝鮮ミサイル問題、簡単に-北朝鮮問題⑧

2017年08月29日 21時00分32秒 |  〃  (国際問題)
 他のことを書きたいので、北朝鮮問題ミサイル発射問題を簡単に。29日の午前6時直前ごろに中距離弾道ミサイルが発射されたらしい。北海道南端をかすめて襟裳岬の東方1180キロの海上に落ちたという。あっという間に(6時5分から7分頃)に日本上空を通過していったのに、日本では「Jアラート」なるミサイル警戒警報を出して大騒ぎした。まあ予想されたことだが、無意味な空騒ぎだ。

 僕はこのブログで以下のように書いている。
・北朝鮮のミサイル実験はいずれ行われるだろう。作ったものは実験して確かめないと使えない。(中略)ミサイルだって、作った以上、実際に撃って確かめないと判らない技術的問題があるだろう。作ったら、発射実験はしてみたいに決まってる。
 だが、それがグアム島周辺海域かどうかは僕は疑問。標的地点を明かして、米軍に迎撃されたりすれば、米国技術の大宣伝になっちゃう。他に撃てば、元の標的が判らないんだから、作戦成功と言える。ということで、ミサイルや核兵器の実験はいつでもあり得るが、それで戦争にはなりにくい。(8.20)
・もし発射されたなら、それは「何ごともなく日本上空を通り過ぎて行く」可能性が圧倒的に高いはずである。(8.15)

 「ミサイル発射実験」はいつでも行われる可能性があるが、それはグアム島周辺ではない地点に向けて発射され、日本上空を通り過ぎて行くだろう。ということだから、書いた通りなんだけど、それは誇るほどのことでもなく、誰でも判ることだろう。僕だって判ってるんだから、もちろん米政府や米軍も、日本政府だってそうなると思っていたはずである。

 今さら驚いたリ怒ったりしているのは、そういうふりをしているんだろう。それは職責上やむを得ないかと思うけど、「かつてない暴挙」などと言うのはおかしい。日本領土をかすめるミサイル発射は今までもあり、今回が5度目だという。列島を横断した時もあるのに、今回は領土の真上は非常に少ない。「ある程度、日本へ配慮したコース」だったという方が正しいのではないかと思う。

 もちろん国連安保理決議違反のミサイル開発は認められないが、それはそれとして、北朝鮮がミサイルを開発しようと思ったら、発射の実験をもっと行わないといけない。それは位置的に日本の領土領海をかすめないでは、なかなか難しい。他のコースだと途中に島があるから、今回のような北太平洋方向に発射するという実験は今後も起こり得ると思っておく必要がある。

 それにしても、実は「日本上空」と書いたけど、多分「大気圏外」である。だから、「日本の領空」とはいいがたい。領空の定義は定まっていないけど、まあ大気圏内というのが多いと思う。宇宙にはアメリカやほかの各国の偵察衛星が飛んでいるが、日本を撮影しても「領空違反」ということはないだろう。実際、どうしようもないんだし。

 まあ、僕の考えでは、当面金正恩政権が核兵器やミサイルの開発を断念するのはありえない。だから、今後も発射実験や核実験は行われる。しかし、それは日本を標的にしたものではないし、日本に誤って墜落するということもない。だから、ミサイル防衛システムのPAC3などを配備したり、訓練を行ったりする必要もない。冷静に対処していかないと、アメリカの「北朝鮮危機ビジネス」に多額の税金をつぎ込むだけになってしまう。
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辺見庸・目取真俊の対談「沖縄と国家」

2017年08月28日 22時39分44秒 | 〃 (さまざまな本)
 辺見庸目取真俊の対談「沖縄と国家」(角川新書)が出た。2017年3月に共同通信の配信用記事のために対談したものをまとめた本。最近読んだ記憶がないぐらいに、苛烈にして奥深い感じの対談になっている。題名通り、「沖縄」と「国家」に関して縦横に語りあっている。注も丁寧につけられているから誰でも読めるけど、「本土」に住むわれわれ問うまなざしは厳しい。覚悟して読むべし。

 ところで、この二人を知らない人もいると思うから簡単に。辺見庸(へんみ・よう 1944~)も目取真俊(1960~)も、どちらも芥川賞を取った小説家である。辺見庸は共同通信の記者だったが、1991年7月に「自動起床装置」で105回芥川賞を受賞した。その後、「もの食う人びと」で講談社ノンフィクション賞を受賞。詩でも中原中也賞、高見順賞を受けているなど活躍している。だけど、近年は右傾化する日本社会への根底的な批判を行う評論作品が多い。

 目取真俊は、1997年7月に「水滴」で117回芥川賞を受けた。沖縄出身で沖縄を主題にした作品で受賞したのは、大城立裕、東峰夫、又吉栄喜に次いで4人目。一貫して沖縄戦や沖縄の風土を背景にした作品を発表してきたが、近年は辺野古や高江の基地反対運動に直接関わって、ブログ「海鳴りの島から」で日々の様子を発信している。これは毎日必見のブログ。

 僕は芥川賞作品ぐらいは読みたいと思っているので、「自動起床装置」も「水滴」も読んでいる。辺見庸はなんだかノンフィクションや評論の印象の方が強いんだけど、目取真俊の作品は本当に独特で「日本語文学」を豊かにする可能性を持ったものだと思う。本人も貴重な50代を反対運動に取られるのは苦痛だと言っているけど、目の前にある国家権力の横暴を見過ごせない。そういう日々の大変さを押して発信されているブログは心して読まないといけない。

 しかし、まあこんな対談者紹介なんかいらない本なんだと思う。表紙にはこうある。「沖縄という傷口から噴き出す、むき出しの国家暴力」「基地問題の根底に横たわるこの国の欺瞞を、戦う二人の作家が仮借ない言葉で告発する」。裏表紙には「だれも傍観者、忘却者であってはならぬ」ともある。このような言葉に接して、目をつぶって見なかったことにするか、それともこういう言説は敵だと思うか。いや、これは是非読まなければいけない本だろうと考えるのか。

 そこに人として問われる瞬間がある。目取真氏はこういう。「本土」で「憲法を守れ」という集会をやってるよりも、辺野古に来てトイレ送迎の運転手をして欲しいと。具体的にいま、日本の国家家力の暴力的意思が辺野古で発動されている。それを止めたいと思う人々が集まって権力と対峙している。「平和運動」をしている人なら、そこに来るべきなのではないか。確かに仮借ない言葉である。

 沖縄の歴史、今までの経過も語られている。基地問題天皇制の問題沖縄戦の記憶、非常に重大なことが語られている。むしろ「無関心だった人」や「右派的な人」こそが、読んでどう感じるかはともかくとして接してみるべき本だと思う。いや、「左派」や「リベラル」も同じなんだけど、僕は「感度のいい人」「感度の鈍い人」は、そういう政治的な立場とあまり関係ないと思っている。

 読んで楽しいという本ではないけど、娯楽のためじゃない読書もしないといけない。確かにこういう本ばかり続けて読むのは大変だ。でも年に何回かはこういう本を自覚的に読んだ方がいい。4回にわたる対談をまとめた本だから、文章としては読みやすくて何の問題もない。それより、今の日本の中で非常に孤絶した場所から発せられた言葉には、人を引き付ける強い魅力がある。僕はその魅力に、イマドキの軽い言葉にはない磁場を感じて引き付けられるのである。
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「赤ちょうちん」「妹」と秋吉久美子トークショー

2017年08月27日 20時27分06秒 |  〃  (旧作日本映画)
 新文芸座で藤田敏八監督の特集上映。藤田敏八(ふじた・としや 1932~1997)は日活最末期の青春映画をたくさん撮っていて、若いころ僕が大好きだった監督だ。8月29日が没後20年目となる。大学時代には「八月の濡れた砂」(1971)を何度も見たと思う。最近はなかなか上映がなく、鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」に出た俳優という印象の方が強いかも。今回は貴重な機会だが、全部見る時間は取れなさそうで残念!
 (藤田敏八監督=愛称パキさん)
 今日は1974年の「赤ちょうちん」と「」の上映後、主演の秋吉久美子のトークショーがあった。秋吉久美子(1954~)は「旅の重さ」(1972)のオーディションで次点になり、チョイ役で出演した。(主演に選ばれたのは高橋洋子で、この前「北陸代理戦争」のトークを聞いた。)その後、松本俊夫監督の「十六歳の戦争」に出演したが公開が遅れ、「赤ちょうちん」が最初に公開された主演映画になった。3月終わりのことで、高校卒業直後に上野の映画館で見た。同時代の青春映画として、実に新鮮で感動して、「」「バージンブルース」の秋吉久美子3部作は全部見た。

 浪人中の僕の最大のミューズだったが、1歳年上ながら、今も当時そのままに見えるぐらい若々しい。見た目ばかりではなく、知的な資質、記憶力なども全くそのまま。トークショーは驚くほど楽しい時間だった。「赤ちょうちん」は「南こうせつとかぐや姫」の「神田川」の次のシングルレコード。大ヒットした「神田川」の映画化権が東宝に取られ、日活は「赤ちょうちん」を映画化した。「神田川」は出目昌伸監督、関根恵子、草刈正雄で映画化されて、東宝風の甘いメロドラマになった。作品的には「赤ちょうちん」の方がずっと上で、キネマ旬報ベストテン9位になっている。(「妹」が10位と2作入選した。)
 
 「赤ちょうちん」は「自分なりの東京物語」だとキネマ旬報で監督が言っていた。その意味が公開時にはよく判らなかった。当時の自分はまだ実家しか知らず、東京各地の微妙な違いが判らない。数年前に再見して、やっと少し判った気がした。それでも今日見ると、細部をかなり忘れている。久米政行(高岡健二)と幸枝(秋吉久美子)が出会って一緒に住み始める。アパートが取り壊しになり引っ越すが、その後も諸事情でいっぱい引っ越しを重ねる。基本的にはその5回の引っ越しを描いた映画である。

 2回目に住んだ幡ヶ谷は火葬場に近くて静かすぎ、3回目の新宿柏木町は神田川沿いで、幸枝は妊娠する。4回目の東京近郊のアパートで子育てをするが、大家の悠木千帆(樹木希林)に意地悪され、5回目は破格に安い葛飾区の家を借りるが、そこはいわくつきだった。もともと「鳥電感」というアレルギー持ちだった幸枝だが、だんだん心を病み、完全に狂ってしまって鶏をムシャムシャ食べる壮絶なシーンになる。そして、幸枝は入院して、政行だけが子どもと引っ越してゆく。

 ストーリーを追うだけでは、この映画の魅力は伝わらない。子どもが生まれた時に22歳だった政行、同棲当時は天草から行方不明の兄を訪ねてきた17歳だった幸枝。この若いカップルが、友人や地域の人々と交流しながら、自分の場所を見つけていけるか。監督から「うまくなるなよ」と言われたという秋吉久美子の、演技のような地のような「独特の存在感」。美人というより、どこにもいそうで、同時にいなさそうなムードが新鮮だったのだ。(客観的な評価は僕にはできない。)

 「赤ちょうちん」の脚本は、中島丈博桃井章(桃井かおりの兄)だが、そのさすらいゆく構成は中島丈博的だと思う。「赤ちょうちん」のヒットで、次のシングル曲「妹」がすぐに映画化された。「妹」と次の「バージンブルース」は内田栄一が脚本を書いている。やはり内田的な世界だなあと思った。公開以来の再見だが、全く忘れていた。清純な青春映画のように思っていたら、全然意味不明の独特な映画だった。ミステリアスとも言える作品で、「赤ちょうちん」以上に、単に名前をヒット曲に借りただけという感じ。

 早稲田で「毎日食堂」をやってた両親はすでになく、秋夫(林隆三)は「毎日食堂」と書かれたトラックで運送屋をしている。そこへ鎌倉で男と同棲していた妹・ねり(秋吉久美子)が転がりこんでくる。相手の耕三は全然出てこない、というかねりが殺したのかもしれない。兄・耕三が行方不明だと妹が探しに来る。どうも真相が判るような判らないような。人物が錯綜するけど、兄の妹への愛情がどうなるか。兄をめぐる女性も複数いるし、どうなるのかよく判らない。

 しかし、まあそれでいいのであって、そのストーリーの判らなさのために、秋吉久美子の「不思議少女」ぶりが一層際立つ。古いものがなくなり(「毎日食堂」は日活内のセットだったが、最後に取り壊される)、なんだか時代が変わる予感の街。そんな時代の空気を秋吉久美子の肉体が象徴している。(本人が語ったところでは、全編「ノーブラ」だったという。あまり意識しないけど。)

 その後、野坂昭如が歌っていた「バージンブルース」を同じコンビで映画化した。ほとんど上映の機会がないが、万引き少女団の秋吉久美子が、郷里の岡山をさすらう。前衛劇団に紛れたり、長門裕之の中年男がくっついてきたりと、僕はなかなか面白かった。だが同じ年に3本も撮っては、評価が低くなってしまう。3作合わせて、70年代半ばを漂うように演じた秋吉久美子は、今見てもその辺で生きているような気がする。そういう女優はその頃に初めて現れたのだった。
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東映映画「従軍慰安婦」(1974)を見る

2017年08月26日 18時25分06秒 |  〃  (旧作日本映画)
 1974年に作られた東映(東撮)の映画「従軍慰安婦」がシネマヴェーラ渋谷で上映されている。26日には主演した女優、中島ゆたかのトークも行われ、立ち見の盛況だった。この映画は長年見ることができないものだった。ウィキペディアに項目があるが、東映にもフィルムがないと書いてある。今回はシネマヴェーラ渋谷側の尽力で、ニュープリントが作られた。大変貴重な機会で見逃せない。

 東映はちょうど任侠映画から実録映画に移り変わった時期だったが、もともとなんでも企画する会社である。今回のシネマヴェーラ渋谷は「東映女優祭り」と銘打ち、男優の印象が強い東映で作られた女優の映画を発掘している。佐久間良子が主演する文芸名作映画は当時から評価されていたが、それ以外にもいろいろ上映されている。(僕は「四畳半物語 娼婦しの」などの初期の三田佳子が非常に素晴らしいと前から思っている。是非見て欲しい映画。)

 ところで、「従軍慰安婦」だけど、石井輝男脚本、鷹森立一監督で作られた群像劇で、当時のプログラムピクチャーの実力をよく示す「なかなかよく作られた女性映画」だった。朝鮮人慰安婦(と明示されないけど、誰でも判る)は一人いるが、ほとんどは日本人娼婦の話で、戦前来何十本と作られてきた「娼婦映画」の定型を踏まえている。貧しさから親に売られ、女衒(ぜげん)を父さんと呼ぶようになる。娼家でだんだんなじんでいくが、親切な先輩もあれば、娼婦どうしのケンカもある。

 というような構造は大体どの映画でも同様だけど、この映画は後半から「戦争映画」になる。時代は昭和13年(1938年)。日中戦争が泥沼化していき、徐州作戦から武漢攻撃と奥地へ「皇軍」が進むに連れ、女たちも前線に送られる。明日の命も知れない男たちを、国策として「慰安」する女たち。中島ゆたか演じる秋子は、故郷に好きな男がいたが家が貧乏で売られてきた。もう二度と会えないと思っていた男だが、軍隊が博多に来た時に見かける。先輩娼婦の親切で会って気持ちを確かめあう。

 男も女も戦地に送られ、秋子はもう会えないだろうと思うが、そこは娯楽映画だから当然また会えると観客も判っている。激戦下に再会し、前回は結ばれなかった彼らも、今度は体でも結ばれるが、そこに敵襲が…。銃弾の不足する中、慰安婦たちも兵とともに戦い、そして倒れていく。まあ、そのような構成は田村泰次郎原作、鈴木清順監督の傑作「春婦伝」なんかと共通している。

 この映画は同時公開予定だった映画が製作中止になって、正式な公開がほとんどなされなかったという。中島本人も、初号試写を見ていないかったので、浅草で母とともに見たと語っていた。併映は網走番外地かなんかで、ほとんど観客もいなかったという。1974年だったら、僕も当時から名前ぐらい知っていても良いはずだが、全然気づかなった。(その後、このテーマへの関心から、こういう映画があるということは知っていた。)そんなようにして、幻になってしまった映画なのである。

 もともと脚本を書いた石井輝男が監督する予定だったらしい。監督した鷹森立一は「夜の歌謡」シリーズなどを手掛け、「キイハンター」「Gメン’75」などテレビもたくさん撮った人。映画は脚本通りだと言うが、顔ぶれで判るように、社会派問題作を作る気などはなからない。「戦争秘話」の娯楽映画ということになる。助演陣は達者で、三原葉子の恰幅のいい先輩娼婦、緑魔子の母を恨みながら病気を隠して働く姿など印象的。いい加減な性病検査をする軍医役の由利徹に場内爆笑。

 ところで、この映画の題名「従軍慰安婦」だけど、この問題にくわしい人なら予想できるだろうが、1973年に出た作家、千田夏光(せんだ・かこう 1924~2000)の「従軍慰安婦」が原作となっている。映画では「当時の政府は彼女たちを『従軍慰安婦』と呼んだ」と冒頭すぐにナレーションされるが、「従軍慰安婦」という用語は千田氏の本で作られた造語である。まだ固定した歴史的用語は確立していないと思うが、今は「日本軍慰安婦」という表現が多いのではないかと思う。

 「慰安婦」にも様々なタイプがあったことが判っていて、この映画のような「日本人娼婦主体で、軍とともに移動して前線の街に設置される」というのは、必ずしも普遍的なものではない。本来は中国戦線の軍紀弛緩による性犯罪の多発から発した問題だし、植民地女性(主に朝鮮人)が多かったことも当時から周知の事だ。だが、戦後の「慰安婦映画」では、そのことは触れられないことが多い。

 侵略戦争を最底辺で支えた女性たちの姿は、ずっと正面から描かれなかった。ベトナム戦争を経て、70年代になったころから、日本人の植民地支配や女性差別が意識されはじめる。慰安婦へのまなざしも、そのような文脈で70年代半ばころから語られはじめた。しかし、千田氏の本も資料的な厳密さには多少問題があるし、原作も映画も全体としては時代的制約を逃れていない。(なお、70年代前半には山崎朋子「サンダカン八番娼館」や森崎和江「からゆきさん」など、南方に売られた日本人娼婦の問題が意識されていた。同じころに千田氏の本や金一勉「天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦」などが出た。70年代半ばには「慰安婦問題」は大きな問題と意識され始めていたのである。)

 この映画を見る限りでは、確かに「従軍慰安婦」としか呼べないような「活躍」ぶりなんだけど、それも含めて時代性を感じる。しかし、日本のプログラム・ピクチャーがどのように戦争を(あるいは慰安婦を)描いてきたかは、それ自体が重要なテーマである。非常に貴重な機会だから、関心のある人は見ておくべきだ。
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「核の傘」と核禁条約-北朝鮮問題⑦

2017年08月24日 21時21分09秒 |  〃  (国際問題)
 もう「北朝鮮問題」を少し離れてしまうけど、「核の傘」問題を考えてみたい。日本は日米安保条約で、日本防衛を米軍に頼っている(ことになっている)。日米安保の持つ意味は、時とともに変わってきたけど、米国は当初から核兵器を持っていて、日本は「戦力を保持しない」。その意味もどんどん変わってきたが、日本には核兵器がないことは今後も変わらないだろう。

 そこで、「中国の海洋進出や北朝鮮の核・ミサイル開発が進み、日本をめぐる安全保障環境が激変した」現在にあっては、米国の核兵器によって日本が守られているという「現状認識」が成立する。それをアメリカの「核の傘」と呼び、日本やヨーロッパ各国は「アメリカの核の傘のもとにある」と表現する。ところで、この現状認識は正しいのだろうかと僕は前から疑問だ。

 日本は「非核三原則」を持ち、核兵器を「もたず、つくらず、もちこませず」ということを原則としている。「もちこませず」というのは、米軍の核兵器であっても日本の領土領海内には持ち込ませないということである。それが本当のことかどうか、確認のしようがないが、今までに限りなく怪しいという情報はかなりあった。米軍はどこであれ、世界全体で核配備の状況は明らかにしないという方針なので、だからもちろん「日本国内にはないことになっている」けど、確認はしない。

 この状況を、「日本はアメリカの核の傘のもとにある」と言えるのだろうか?  「核の傘」というのは、核兵器があれば相手から核兵器で攻撃もされないだろう(核兵器で報復されるから)ということだ。でも、日本は非核三原則により日本国内には核兵器はない(ことになっている)じゃあ、日本は「核の傘」の下にないじゃないか。「核の傘」理論を信じているならば、日本は米軍の核兵器を日本国内に配備してもらわないとおかしくないか。「もちこませず」を非核三原則から抜けばいいわけだ。

 だが、現実問題として、日本に日米安保条約があるから核兵器で攻撃されないというのは正しい認識なのだろうか。 世界では第二次世界大戦終結以後にも、ずいぶんたくさんの戦争や武力衝突があった。核兵器を持っている国が関わることも多かったけど、核兵器は一回も使われていない。その代り、核兵器に劣らないぐらい破壊力の強い爆弾がいくつも開発されて使われた。

 核兵器はそのあまりにも凄まじい破壊エネルギーと後の時代にも及ぶ放射線の影響のために、実戦では使われない兵器になってしまった。だけど「象徴的な意味はある」と考えるかどうかは人さまざまかもしれないが。北朝鮮がミサイルに核兵器を搭載できる能力を開発したとしても、北朝鮮だって使えないだろう。北は何をするか判らない国だから、日本に対して核兵器の先制攻撃を行うに違いないと思い込んでいる人もいるかもしれないが、もう少しリアルな議論をしないといけない。

 前にも書いたけど、北朝鮮のミサイルが怖いと日米の合同演習を繰り返せば、ミサイルの前にオスプレイが墜落するかもしれない。確率的にはそっちの方がずいぶん高いだろう。北朝鮮が核兵器を実戦で使えるほどに開発するのはかなり大変だと思うし、仮にできても米軍を超えることなどはありえない。だから、その大切な核兵器を先制攻撃なんかで使ってしまうことはない。何しろ北側には米軍のミサイル防衛システムはないんだから、米軍の発射するミサイルを防ぐことはできない。米軍も核兵器なんか使う必要はなく、通常のミサイル攻撃で北朝鮮指導部を壊滅できる。

 だから、日本も「核の傘」神話を脱却する必要がある。北朝鮮は米中ロの核兵器保有国に囲まれている。中ロは米軍の核に対抗して自国の核兵器で北を守る意思はないだろうから、北は孤立して攻撃される恐怖を脱するために、核開発を進めたくなるだろう。だけど、このままではお互いにとってダメである。得るものがない。それは実際には機能していない「核の傘」神話に頼っているからだ

 むしろ率先して、日本が核兵器禁止条約に加盟するべきではないか。アジアでは東南アジア諸国は加盟している。日本が加盟しなければ、韓国や北朝鮮が加盟することはできない。むしろ、朝鮮半島が統一されても、統一韓国が「北の核」を引き継ぎかねない。日本が加盟する意味は非常に大きく、さまざまな意味があると思う。アメリカを「忖度」するのではなく、現実のリアルな認識として、今後数十年を見据えて考えていけば、国益的にも核禁条約への加盟は重要な意味を持つだろう。
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小池都知事、関東大震災の朝鮮人犠牲者追悼文を断る

2017年08月24日 13時01分35秒 |  〃 (歴史・地理)
 24日付東京新聞は、一面トップに「小池都知事 追悼文断る」という記事を掲載している。1923年9月1日の関東大震災に際して、東京を初め関東各県で朝鮮人(及び中国人や日本人)の虐殺事件が起こった。都立の慰霊堂がある都立横網町公園には朝鮮人犠牲者の追悼碑が作られている。その碑の前で、例年9月1日に追悼式が開かれ、石原慎太郎氏を含め、ずっと都知事の追悼文が送られていたという。昨年は小池知事も送っている。それが今年なぜ送らなくなったのか。

 実は今年3月の都議会で、自民党の古賀俊昭議員がこの問題を取り上げていた。近年、関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定するような「歴史修正主義者」が現れてきた。古賀氏は極右的な主張で知られてきた人で、それらの主張に沿うように「知事が歴史をゆがめる行為に加担することになりかねず、追悼の辞の発信を再考すべきだ」と述べていた。(この間の経緯に関しては、澤藤藤一郎氏の7月5日付のブログ記事「小池都知事に問います。あなたは「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」への追悼文奉呈を辞めるつもりではないでしようね。」を参照。)

 7月の都議選で「都民ファーストの会」が圧勝したわけだけど、その後の小池都知事や「都民ファーストの会」には疑問が多い。(まあ予想されたことだけど。)「都民ファーストの会」で当選した都議は、各マスコミの取材に全く答えないという。失言を恐れているようだけど、野田数代表は「民間では当たり前」と答えている。でも都議会議員は民間ではない。一人ひとりが「都民の代表」なんだから、(単なる採決時の要員として会社に採用された社員じゃないんだから)、取材には答える義務がある。

 案の定、議長などを選出する臨時都議会が開かれると、築地・豊洲の市場問題を審議する特別委員会の設置が否定された。これなどは「早くも都民ファーストという看板を下ろした」と言われても仕方ないだろう。今回の追悼文拒否の問題も、まさか小池都知事がそんなバカなことをするとは思わなかったので、今までは書いていなかった。3月の都議会では、「今後につきましては、私自身がよく目を通した上で、適切に判断をいたします。」と答えている。だから、「よく目を通した」「適切な判断」ということになる。これは都知事としては、「大変不適切な判断」というしかない。

 なぜなら、2020年の東京五輪を控えて、小池氏自身が「ダイバーシティ」(多様性を意味するdiversityと都市のcityを掛けている)を東京が目指す目標としている。現に多くの外国人が暮らし、今後も多くの外国人を東京は受け入れる。そういう東京で、かつて大きな虐殺事件が起きた。それを認識し記憶し続けることが、再発を防止する前提になる。それなのに、都知事が右派系議員の排外的な要求に沿うような対応をしたら、「日本は外国人に配慮がない」というメッセージになる。

 ところで、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件そのものは疑いようのない、誰もが知っていることだけど、虐殺者数にはいろんな説がある。それは当然のことだろう。大きな一つのできごとではなく、バラバラに各地で起こったことだから、どうやっても総合するのは難しい。さらに当時の政府が自ら調査することなく、民間の調査を妨害したからである。各地の「自警団」による虐殺が多いが、流言飛語をあおったのは警察当局なんだから、これは「権力犯罪」である。今も昔も、洋の東西を問わず、(森友、加計問題のように)、調べられる権限を持った政府は調査せず、権力犯罪は隠されるのである。

 そんな中で、いくつかの民間調査がある。自分の部屋もグチャグチャなんだけど、姜徳相「関東大震災」(1975、中公新書)が出てきたので、巻末史料を紹介しておけたい。まず第一に「金承学調査」がある。金承学は上海にあった臨時政府系の「独立新聞」の社長で、ひそかに東京に来て留学生10数名とともに秋から冬にかけて調査した。その合計が関東6県で6415名となっている。この調査は警察の妨害にあいながら、相当にきちんと行われたようである。それは警察側資料で監視した様子が残されているので判る。これが犠牲者6千名説になるんだと思う。

 他に、東大教授吉野作造が、10月末まで調査した記録によれば、長野県まで含めて2711名。右翼結社黒竜会による調査では、722名。この黒竜会調査というのは、政府が体裁を取り繕うためにいくつかの自警団を裁判にかけたため、「国策に協力したのに怪しからん」と調査したものだという。なお、司法省調査では243名になっているが、犠牲者の家族が納得せず、当時の朝鮮総督府が調査して、832名となり弔慰金を払った。この司法省調査の数は、はるか後の韓国の光州事件(1980)や中国の天安門事件(1989)時を思わせる数字だ。権力犯罪を権力側が「調査」すると、大体この程度に収めておくかという数字として似た範囲になるんだろう。

 もはや細かな確実な数字は確定不能だろうが、不自由な中をできるだけ調査して6千名以上の数のなっていることはそれなりの意味がある。警察の干渉無しに調査できれば、むしろもっと大きくなったというべきだろう。もちろん虐殺そのものは、当時の日本政府でさえ認めているわけで、否定のしようがない問題である。都知事としては、例年の例文を踏襲しなければいけないということではないけれど、今からでも「自分の言葉」できちんと追悼するというのが大事なんじゃないだろうか。石原、猪瀬でさえ行っていたことを小池知事がやらないというのでは困るだろう。
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映画「海辺の生と死」-島尾ミホ、戦争と愛の神話

2017年08月22日 22時47分57秒 | 映画 (新作日本映画)
 島尾ミホと夫の島尾敏雄のいくつかの短編をもとにした映画「海辺の生と死」が公開されている。25日までなので何とか時間を作って見に行った。(新宿のテアトル新宿)文学的知識を前提にするところもあるけど、なんといっても主演トエ役の満島ひかりが圧倒的で、それだけでも見る価値あり。

 いま「文学的知識」と書いたのは、これは後に有名な作家となる島尾敏雄(1917~1986)の戦時中の実話だからである。彼は九州帝大の東洋史の学生だったが、召集されて鹿児島県奄美群島加計呂麻(かけろま)島に、「震洋」特攻隊長として配属された。全く無意味な兵器による死を目前にし、彼は島の有力者の娘で国民学校の教師をしていたミホと知り合い、激しい恋愛に陥る。

 以上のところが映画化された部分だけど、結局進撃命令が下る前に敗戦を迎え、敏雄は生き残った。奄美群島は米軍の占領下におかれ、その厳しい時代にミホは「密航」して本土に渡り、二人は結婚する。子どももできるが、新進作家として認められつつあった敏雄が「不倫」をしたことで、ミホは心を病んだ。その体験を敏雄は「死の棘」として作品化して作家として評価された。

 「死の棘」連作は1977年に完結し、戦後文学の代表作と言われる。小栗康平監督が1990年に映画化し、カンヌ映画祭グランプリを獲得した。だから「海辺の生と死」は映画「死の棘」の前日譚ということになるけど、この映画を見るときにはそこまで知らないでも見られるだろう。でも原作を読んでる人は、以上のような道筋を承知してみることになる。

 この映画は全編にわたって、戦時中であるという強い緊張感に満ちている。あまりカットを割ることなく、風景の中で展開されるドラマを静かに見ているシーンが多い。特にミホ(役名トエ=満島ひかり)と敏雄(役名朔中尉=永山絢斗)が二人で演じる場面が長く、見るものに深い印象を残す。(何やらこの二人には実際の交際もあるということだし。)朔中尉は軍人らしからぬ静かな読書家で、その優男ぶりをうまく演じている。本を借りに、島の有力者を訪れたことで二人は知りあう。

 僕は満島ひかり(1985.11.30~)という女優は、多くの人がそうだったように「愛のむきだし」で覚えた。その後、映画、テレビ、舞台で大活躍が続いているが、特に大ファンということでもないので、ルーツなどの情報は知らなかった。この映画のパンフを見ると、鹿児島生まれ、沖縄育ちだが、奄美にルーツがあるという。映画の中で島唄を歌っているが、なにやら自然な感じがすると思ったら、キャスト・スタッフの中で唯一の奄美関係者だった。南島の自然の中で、自然信仰的な文化を生きているミホを全身で演じている。若い時期の集大成で、代表作になるのではないか。

 撮影や音楽も印象的だが、素晴らしいのは風景そのもの。実際の話は加計呂麻島だが、もう当時の家は残ってなくて、奄美大島各地で撮った。現地で作ったセットもあるが、トエの家なども実際のものを使ってるという。加計呂麻島は奄美大島のすぐ南にある島だが、集落ごとに言葉も微妙に違うらしい。奄美大島でも南北でかなり違うと書いてある。そこで敏雄・ミホ夫妻の子どもである写真家島尾伸三氏が協力して伝授した独特なイントネーションを満島ひかりが自在に操っている。

 僕は「死の棘」が出た時に単行本で読んだが、その時に戦争文学「出発は遂に訪れず」「島の果て」なども読んだ。鮮烈な印象を受けたが、その時点では島尾ミホ(1919~2007)の本は読んでない。(「海辺の生と死」は1974年に出ている。現在は中公文庫。)だから、男の立場からこの物語を読んだわけだが、そうすると「いつ死ぬとも判らない戦時中の愛の神話」に見える。だが、「隊長が島の有力者の娘を愛人にした」とみなされる面もあるだろう。島の側からすれば、圧倒的な権力を持って現れた「軍人」が島の娘を奪っていった物語である。そういう「読み直し」がこの映画でもある。

 でも大平ミホは島に隠れ住む「箱入り娘」ではなく、もともと鹿児島で生まれ、実父の姉夫婦の養女になって加計呂麻島に住んだ。その後東京に出て、目黒の日出高等女学校を卒業し東京で勤めた。体調を崩して退職し、当時の婚約者のいた朝鮮に住み、やがて加計呂麻島に移った。養母が亡くなった後に1944年11月に国民学校の代用教員になり、12月になって島尾敏雄が駐屯してきた。ちょっとビックリするが、長年の教員でないばかりか、ずっと島にいたわけでもない。なんと東京の女学校卒業だったのである。このような経緯を知ると、軍人と一緒になって島を出るのも不思議ではない。

 この映画を見ると、島で自然と共に生きる人々、彼らを翻弄する戦争という悲劇に、二度と戦争はいけないという思いになる。と同時に、戦争が終われば日常が戻る。戦時に芽生えた緊張感の中の「愛の神話」は、そのままでは生き延びられない。その時、もう一つの「病む妻を抱えて生きる」という「神話」が作られる。昨年、島尾ミホを描いた大部のノンフィクション、梯久美子の「狂うひと」が出た。この映画にも梯氏が関わって、監修をしている。

 監督・脚本の越川道夫(1965~)は、どういう人だろうという感じだが、監督は「アレノ」(2016)に続く2作目。1997年に映画配給会社「スローラーナー」を設立、その後プロデューサーとして、「トニー滝谷」「海炭市叙景」「ゲゲゲの女房」「かぞくのくに」などの話題作を作ってきたという。独特の映像感覚と演出ぶりに注目。奄美の自然と唄が忘れられないが、人により好き好きもあると思う。そもそも原作の二人を知ってるかどうかにも影響されると思う。でもこういう映画は僕は好きだ。けっこう長いが、もう一回見たい映画。脇役としてはトエの父、津嘉山正種もいいけど、隊長とトエを結ぶ「イル・ポスティーノ」(郵便屋)の大坪を演じた井之脇海がとても良い。
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北朝鮮の人権問題-北朝鮮情勢⑥

2017年08月21日 22時58分03秒 |  〃  (国際問題)
 「北朝鮮問題」で残されたテーマをいくつか。今まで「北朝鮮の大量破壊兵器開発」を中心に書いてきた。それは大切な問題だが、それ以上に重大とも言えるのが、北朝鮮国内の人権状況である。それは何となく「怖い国」として知られていても、くわしいことはほとんど知らない人が多いだろう。

 国際人権組織「アムネスティ・インターナショナル」では全世界各国の人権状況をレポートしている。日本支部のサイトにも全世界の状況が掲載されている。そこの「朝鮮民主主義人民共和国」を見てみるとおおよそのことが判る。そこでは小項目として、「移動の自由」「海外派遣労働者の権利」「恣意的な逮捕と拘禁」「表現の自由」「強制失踪」などが挙げられている。

 一番最後の「強制失踪」は日本などの拉致問題を指す。海外派遣労働者の問題などは、僕を含めてほとんど意識していないのではないか。しかし、なんといっても深刻なのは、12万人近くの人々が政治犯収容所に拘禁されていたということだろう。人権問題が存在しない天国のような国は世界のどこにもないけど、北朝鮮の人権状況は世界最悪レベルだ。政府が崩壊したり、テロリスト勢力が力を持っているために人権状況が悪化している国は他にもいろいろある。だが、北朝鮮では「政府がそれなりに有効に支配している」ことが問題なのである。

 人権問題では、今までの歴史を見ると、大きな変動が起こるためには二つの前提がある。一つは「それが問題だと多くの人の共通認識がある」。もう一つは「人権が侵された被害者が外へ向かって声を挙げる」。例えば、「セクハラ」という問題は、ある時期までは「そういうものだ」と何となく思われていたが、「セクシャル・ハラスメント」という概念が出来ると、そうか、あの嫌な思いは「セクハラ」だったんだと自己認識できる。最近では「部活動での体罰」などもそう。そういうもんなんだと多くの人が何となく思っている場合には、それは問題として意識されない。

 どんな問題も、最初に声を挙げておかしいと訴える人がいる。冤罪問題なども、無実の罪に問われた人が、「私は無実です」と訴えるところから救援運動が始まる。無実なんだったら、やってないというに決まってると思うかもしれない。でも今までの冤罪問題を見ると、無罪主張をしない人もいるのである。近年では「富山冤罪事件」などが代表。無実の人が有罪となり、服役して出所した後に、真犯人が現れ自白した。真犯人は有罪となり、冤罪の人は再審で無罪となった。

 だけど、なんで裁判の段階で無罪の主張をしなかったのだろう。それは様々の原因が指摘されているが、警察も検察も真実の追及を怠り、脅迫的な取り調べを行い、もう誰も信じられなくなったということが大きいと思う。僕が70年代頃に世界の問題に関心を持った時に、韓国やソ連の政治犯の問題は大きく取り上げられていた。そのとき、中国や北朝鮮の政治犯は知らなかった。では、それらの国にはいないのかというと、実際は声を挙げられる状況にはなかったのだと今になれば判る。

 中国は「改革開放」を経て外国との往来も相当に自由になり、今も情報統制は厳しいが、それでも自由を求めて闘っている人々の存在を知ることができた。でも、北朝鮮の場合はそのような「自由を求めて闘う人」(フリーダム・ファイター)の存在は知らない。今まで一人もいない。厳しい弾圧が自由な市民活動をまったく許さない段階にあると思われる。それでも少しづつ外国状況などは伝わるもので、中国の延辺朝鮮族自治州などを通して、ある程度韓国の情報も伝わっているかもしれない。

 でも、「自国には問題がある」「正義を求めて声を挙げることで改善できる」という発想が許されない社会では、まず「世の中はそんなもの」と思う。問題設定そのものがないので、ではどうするという発想も出てこない。そういう「無実だけど、諦めてしまって無罪主張ができない」段階に、現在の北朝鮮社会はあると思われる。じゃあ、どうすればいいのか、僕にははっきり言って判らない。

 政府に圧力をかければ解決できるという幻想は持てない。「止まない雨はない」と僕は信じているが、まだまだこの苦難は続くだろう。外部から戦争を仕掛けて政権を打倒すればいいと思う人もいるだろうが、それはさらなる悲劇をもたらすだけだ。日本人拉致被害者がどれだけ存在しているか、僕には全くわからないけど、そのような人々を含めて政治犯収容所は解放される前に「処置」されかねない。ぞれでも、と僕は思う。朝鮮労働党の様々な犯罪行為(拉致問題や金正男暗殺事件などを含め)は、やがて統一されたのちに「国際法廷」で裁かれるべきだと。カンボジアやボスニアのような国際法廷が必要だと思う。
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戦争にはならないはずだが-北朝鮮問題⑤

2017年08月20日 23時03分41秒 |  〃  (国際問題)
 家族がケガをして家事が忙しい。映画なんかに行ける時間もないから、その間に国際情勢を書いちゃおうかと思ったけど、時間と気持ちに余裕がない。まとまったことを調べて書くゆとりがないから、残された問題をさっさと書いてしまいたい。要するに、多くの人の最大関心事は「戦争になるのか」ということだろう。冷静に分析すれば「戦争になる可能性は限りなく低い」ということである。

 かつて、1981年6月7日に、イスラエルがイラクの原子炉を爆撃したことがある。当時のイラク・フセイン政権が原子力発電所を建設することに対し、イスラエルはアラブ諸国の核開発につながる国家的危機とみなし「自衛権」の発動として空爆を実施した。イスラエルはイラクと国境を接していないから、ヨルダンとサウジアラビアの領空を侵犯していった。この事態に対し、国連安保理はイスラエルを非難する決議を採択した。イラク戦争でフセイン政権が崩壊した今となっては「昔話」かもしれないが。

 北朝鮮とすれば、この事態が一番避けたい事態である。そのような空爆が国際法違反かどうかは別にして、サッサと核やミサイルの開発基地を米軍がたたいてしまえば、北朝鮮問題は終わるとも言える。でもそうならないように相手も考えている。地下に作ったり、中朝国境の奥深いようなところなどに作ってるという話だ。この間のミサイル発射も国内のあちこちでやっている。もうすでに90年代の危機において、そのような「限定的空爆は不可能」とされている。

 米軍が時々あちこちを空爆、あるいはミサイル攻撃するニュースが聞かれるが、アフガニスタンとかスーダンとかシリアなどは、米軍に対する反撃能力がない。だが、北朝鮮には反撃能力がある。何も長距離ミサイルは必要なく、韓国にある米軍基地、あるいは韓国軍を攻撃することは今すぐできる。そのような攻撃能力を米軍側がすべて先制攻撃することは不可能である。

 米軍だって戦争したいわけではないだろう。世界のどこでも戦争してないんなら、「軍の存在価値」のために戦争を望む軍人がいないとも言えないが、中東の米軍はいまもなお戦争に関わっている。「二正面作戦」なんか愚の骨頂だ。軍人だから、命令されれば戦うと答えるだろうが、戦略的には本格的攻撃作戦は不可だろう。

 中国も習近平体制二期目の党大会を秋に控え、米朝軍事衝突がいま起きては困るだろう。北朝鮮がどんなに困り者であっても、習近平時代に朝鮮半島全域が米国の勢力圏に入ることは絶対に阻止したい。もし起こったら「外交的失点」とみなされかねない。習近平政権はもしかしたら3期目が絶対ないとはいえないかもしれないが、とりあえず2期目の最後の年、次の次の党大会が開かれる2022年までは戦争を望まない。その年は2022年北京冬季五輪の年でもある。

 韓国は北崩壊を引き受ける余裕がないし、もちろん北朝鮮指導部も本格戦争になったら今度は米軍に負けて体制変換が起きると判っているだろう。米国は北朝鮮のミサイル危機をきっかけに、韓国や日本に対ミサイル防空システムを売りつけている。常識で考えれば、米国もいま「北朝鮮問題」が消滅してしまえば大損になるから、早期の北朝鮮崩壊は望んでいないはずだ。

 という風に関連国がすべて戦争が起きないことで利益を得るんだから、常識では戦争にならない。でも…はあり得る。今までの歴史を振り返れば、第一次世界大戦、日中戦争、ヴェトナム戦争、イラク戦争…。こんなはずじゃなかったのに」の連続で、いつの間にか大戦争になっていた。関係者がみな「なんでこうなるの?」と思うような展開になってしまった。

 そういうことは今回も起こり得る。それは朝鮮半島だけではない。インド・パキスタン、イエメン、ロシアとウクライナなどでもあり得るだろう。ヴェトナム戦争では、後に謀略と判った「トンキン湾事件」という「米軍が攻撃された」と報道された事件が大軍派遣のきっかけとなった。本当の偶発事件か、もしくはどこかの国の陰謀か、とにかくなんらかの「米軍に対する攻撃」が起これば、トランプ大統領は、あるいはほかのどの大統領であれ、直ちに反撃を命じるだろう。

 そういう偶発事件が起こらないようにすることが大切だ。もし起こっても、周辺国の努力で「単なる偶発事件」レベルに留めるようにする。そういうことが大切だ。今までも38度線周辺では、何度かそのような「偶発事件」は起きたことがある。だから、今度起きても大事態にはしないようにできるはずだ。

 だけど、北朝鮮のミサイル実験はいずれ行われるだろう。作ったものは実験して確かめないと使えない。新薬だって、自動運転車だって、実験だけでOKにはならない。治験や公道での実験を経ないと、使い物になるかどうかが判らない。ミサイルだって、作った以上、実際に撃って確かめないと判らない技術的問題があるだろう。作ったら、発射実験はしてみたいに決まってる

 だが、それがグアム島周辺海域かどうかは僕は疑問。標的地点を明かして、米軍に迎撃されたりすれば、米国技術の大宣伝になっちゃう。他に撃てば、元の標的が判らないんだから、作戦成功と言える。ということで、ミサイルや核兵器の実験はいつでもあり得るが、それで戦争にはなりにくい。じゃあ、現状維持かというと、そういうことになる。つまらない結論だけど、このような状況がしばらく続くのだと思っている。
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中国は北朝鮮を抑えられるのか-北朝鮮情勢④

2017年08月18日 23時45分26秒 |  〃  (国際問題)
 アメリカのトランプ大統領は、当初は北朝鮮問題への対処を中国に期待するようなことを言っていた。選挙戦中は中国を不公正な貿易をしていると非難していたのに、当選したら「北朝鮮問題で頑張っているいいヤツ」みたいないい方に変わった。(ところで、あの有名な「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」帽も中国製だというから笑える。)そこで「100日」の期限を設けたが、それはも過ぎてトランプも苛立っているらしい。でも100日で解決するわけがないじゃないか

 それでも安保理決議による「経済制裁」を中国はかつてより厳しく実施し始めているという。それで本当に北朝鮮を抑制することができるのだろうか。それは難しいというのが僕の判断である。もちろん中国が厳格に経済制裁を実施することになれば、経済的に北朝鮮は大きな影響を受けることだろう。しかし、それが核兵器や長距離弾道ミサイルの開発をやめさせる効果を持つかどうか。

 もともと朝鮮労働党は、戦前来の社会主義運動の「統一戦線」のようにして成立した。北朝鮮の建国は1948年9月9日である。大韓民国はそれに先立って、1948年8月15日に建国を宣言した。一概には言えないけど、この日付で判るように、「分断」には北以上に南の責任も大きい。それに、この段階では「北朝鮮労働党」と言っていたのである。その後、1949年6月30日に「南朝鮮労働党」と合併して現在の「朝鮮労働党」が成立した。現在の北朝鮮で一党独裁体制を敷く政党である。

 1950年6月25日に北朝鮮は韓国に侵攻して「朝鮮戦争」を起こす。それは「祖国解放戦争」であり、南朝鮮人民は歓呼して人民軍を迎え、南の「かいらい政権」を倒すはずだった。でも実際はそうならなかった。一時は韓国軍をプサン周辺に追い詰めるが、マッカーサーが「国連軍」を率いて仁川上陸作戦を成功させると、北朝鮮軍は一挙に敗走する。北朝鮮軍が鴨緑江沿いにまで追い詰められたとき、建国間もない中華人民共和国が「人民義勇軍」を投入した。そこで持ち直した北朝鮮軍と国連軍は38度線をはさんでこう着状態になり、1953年に休戦協定が結ばれた。

 この朝鮮戦争については、ソ連崩壊後に研究が進み、金日成の提案を毛沢東とスターリンが承認して始まったことが証明された。当時の「社会主義陣営」ではソ連のスターリンが権威的に支配していたが、中国革命後に東アジアの革命に関しては中国共産党の権威を認めていた。(地上軍を派遣した中国だけでなく、ソ連の空軍も参加していたことが判っている。)こういう経過を見れば、北朝鮮という国が今もあるのは、「中朝の血の絆」によると言われるのも理由があることになる。

 このような経過を表面的に見れば、北朝鮮は「反日」「反米」の国だということになる。日本の帝国主義支配を金日成が打ち破り、アメリカの介入も金日成が退けた。(それに類する誇大妄想的プロパガンダを国内向けには行っている。)北朝鮮の金日成主席が唱えた「主体(チュチェ)思想」は帝国主義的支配を受けた世界の多くの民族に訴える部分がある。(「主体思想」とは「人間が全ての事の主人であり、全てを決める」という、「マルクス・レーニン主義を我が国の現実に創造的に適用した」ものである。おいおい、マジかよという感じだが。金日成はだから人類史上の偉人になる。)

 しかし、現実に「主体思想」の持っていた意味はちょっと違うと思う。それは朝鮮労働党内部で、金日成派(満州派)の支配を確立し、個人崇拝を完成させるためのレトリックである。朝鮮労働党の歴史は、他の共産圏の支配政党と同じく、暗く陰惨な弾圧と粛清の歴史である。まず、南朝鮮労働党派が「アメリカのスパイ」として粛清され、さらに「ソ連派」「中国派」「国内パルチザン派(甲山派)と次々に粛清されていった。そこら辺をあまり詳しく書く必要もないと思う。ソ連や中国の党内抗争以上に知られていないだろうが、北朝鮮こそ最も陰惨な党内抗争が行われてきたのである。

 それは金日成後継をめぐり、金正日が勝利していく過程でもあっただろう。今はもう「三代目襲名」の時代だから、金正日後継なんか当然すぎる感じだが、70年代後半までは「社会主義国家で権力が世襲されるなんておかしなことが起こるわけがない」と多くの人が思っていた。まさかまさかの連続で、し烈な抗争を経て金正日が後継者となった。その時に「外国党」の影響を受ける勢力は淘汰されていった。「主体思想」の真の意味は、「ソ連や中国は後継問題でガタガタ言うな」だろう。

 表面的には中国やロシアとの友好関係を言うかもしれないが、戦時中の日本のような国家である北朝鮮指導部に「聞く耳」があるとは思えない。昔は中国の「残置諜者」(スリーパー)がいたと思うが、時代が変わってどこまで影響力があるだろうか。ただ「脱北者」が延辺朝鮮族自治州にたくさん流れ込んでいる。中国が北朝鮮の内部事情を相当詳細に承知しているのは確かだろう。だが、朝鮮党中央にはっきりした影響力を持っているかは疑問だ。

 中国は北朝鮮の早期の崩壊を望んでいないアメリカのトランプ政権との完全な関係悪化も望んでいない。経済制裁をテコにもう少し影響力を発揮しようとしている。でも、それは「聞き流す」という対応をされるのではないか。公然とした対立関係になることは双方が望んでいないと思うが、もうお互いに信頼関係は無くなっているだろう。そういう関係で何ができるか。あまり期待はできないという風に僕は思う。よく「北朝鮮は崩壊する」という人がいるが、そんなことを言う人が出てきてからもずっと続いている。追い詰められ孤立しても、まだまだ「大量破壊兵器の開発に賭ける」のではないか。
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北朝鮮の「成功体験」と「失敗体験」-北朝鮮問題③

2017年08月17日 21時17分20秒 |  〃  (国際問題)
 北朝鮮指導部、というか「部」と呼べるものがあるのかどうか、「首領様」がいるだけかもしれないけど、一体何を考えてアメリカに対する挑発的言動を繰り広げているのだろうか。世界の多くの人々は、軍事力では間違いなく世界最強である米軍をいたずらに挑発する「北」が理解できない。

 そのあたりの問題は、僕は以下のように考えている。北朝鮮としては、「敵」に対し宥和的に出た時に獲得できたものよりも、「敵」に対し挑発的に行動した時に獲得できたものの方が大きい。そういう風に世界を認識しているんじゃないか。もちろんその際の「世界を見る目」は、朝鮮労働党の独裁、もっと言えば「金王朝」の永続という観点から考えたものである。

 中国指導部は北朝鮮に経済の「改革開放」を求めてきたとされる。経済状態の改善という観点、あるいは「民生向上」という意味では、むろんいずれの時点下でもっと「開放」が避けられないだろう。中国は自国の「成功体験」から「改革開放」を勧めてくる。でも「分断国家」である北朝鮮としては、南の韓国と同じような経済体制を取り、同じように世界との自由な往来を認めてしまえば、そもそも「北朝鮮の存在意味」がなくなってしまうではないか。

 もちろんそれで良くて、北が経済改革を進めて行って、やがてそれが緩やかな連携から「統一」へと進んで行ければ一番いい。世界の大部分の人はそれでいいと思うけど、北朝鮮指導部だけはそれを認められないだろう。韓国主導の「統一」を認めないならば、改革開放にも限度があるのは当然だと思っているだろう。何とか生き延びるためには、むしろ「鎖国」「軍事大国化」の方が効果的と思っているだろう。それが歴史的に確認されていると認識しているんじゃないか。

 初代の金日成主席の時代には、フィクションではあれ「建国の父」としての正当性を有していた(と思われていた)。(金日成の抗日戦争は、現実にパルチザン活動はあったけれど、それが「祖国を解放した」わけではない。現実は「満州国」からソ連に逃れ、ソ連軍とともに北朝鮮に乗り込んでいったわけで、祖国解放神話のほとんどは後の時代に作られたフィクションである。)

 だが、金正日(キム・ジョンイル)、金正恩(キム・ジョンウン)の時代には、「革命の血」を受け継ぐというだけではダメで、やはり「実績」がいるんだと思う。そして、金正日時代には、金大中を受け入れて初の南北首脳会談が開かれた。限定的ではあれ、開城工業団地や金剛山への韓国からの観光事業などが行われたのだから、北朝鮮も韓国からの資金が欲しいことは欲しかったんだろう。でもそれらの事業は限定的に過ぎ、北朝鮮に大きなインパクトを与えなかった。

 2002年には日本の小泉首相を受け入れ、過去の拉致問題を「盲動主義」があったと認め、被害者の日本訪問を認めた。大量破壊兵器の開発を中止する「日朝ピョンヤン宣言」も出された。それに対して日本は経済援助を与えることになったはずだが、実際にはそうならなかった。拉致事件被害者の死亡報告が異常に多いことに日本中が衝撃を受け、北朝鮮への非難が沸騰した。それは理解できるけれど、北側からすれば、「譲歩したのに制裁された」非常に苦い教訓になってるんじゃないか。

 一方、1994年にIAEA(国際原子力機関)の査察受け入れをめぐって「朝鮮半島危機」が起こり、クリントン政権による空爆が計画された時点では、最終的に「米朝枠組み合意」が結ばれた。北側はNPT条約に留まり、プルトニウムが生産できる黒鉛炉などは軽水炉に置き換え、その間は重油を提供する。使用済み核燃料は廃棄するというもので、KEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)が作られた。だがその後も北朝鮮の核開発は止まず、結局KEDOは2005年末に清算された。

 これは国際社会から見ると「失敗体験」以外の何物でもない。「瀬戸際外交」の結果、口先で核兵器開発断念を約束し、NPT(核不拡散条約)にも留まることになった。だけど、現実には「重油」だけタダ取りされたようなものである。でもそれを逆に見れば、「瀬戸際外交」こそが自分では失うものなく得るものだけがあったという「成功体験」をもたらした

 この過去20年ほどの経過を見てみれば、自分の側から譲歩して行っても、かえって非難され、さらなる譲歩を求められるだけである。一方、北側の大量破壊兵器開発が本気であることを示せば示すほど、一番の「敵」であるアメリカも本気で対応せざるを得ない。アメリカ国民は外国への関心などたいして持ってないし、ヨーロッパや中東情勢の方が遥かに重大な関心があるだろう。でもこの間の「挑発」の繰り返しによって、米国民の関心も急速に高まっているらしい。

 やはり今の挑発路線こそが効果的だ、成果を挙げているとキム・ジョンウン政権は見ているだろう。そして、その挑発路線によって、例えば日本の自衛隊はアメリカの地上配備型イージスシステム「イージスアショア」ってのを導入する方針だという。このような「対北朝鮮ミサイルビジネス」はぼう大な利権を産む。今さらミサイル開発をやめられては困る人々がたくさんいるということである。こうやって、事実上の相互依存関係が出来ていき、それぞれ挑発を繰り返すことにより、世界的な注目を浴びる。北朝鮮も米国トランプ大統領も、今回の事態で「得点」を得ている。
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映画「歓びのトスカーナ」に見るイタリアの精神医療

2017年08月16日 21時58分57秒 |  〃  (新作外国映画)
 イタリア映画「歓びのトスカーナ」が公開されている。(東京ではシネスイッチ銀座で25日まで。)イタリアのアカデミー賞にあたるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で、2017年の作品、監督、主演女優、美術。ヘアスタイリストの5部門で受賞した。題名だけ見ると、イタリアの美しい風景の中で恋愛模様を描く映画のように思うかもしれない。僕もそう思い込んでいて見るのが遅れたけど、実はイタリアの精神医療の状況を描いた映画である。女性映画としても非常に充実している。

 イタリアでは1978年に「バザリア法」が成立して精神病院が廃止された。「人生、ここにあり」(2008)という映画が、病院が廃止され自立していく様を描いていたことは記憶に新しい。今回はトスカーナ地方の美しい丘にある「グループホーム」が舞台になる。主役のベアトリーチェは最初から態度が大きく、このお城のような建物は自分の敷地に建てたようなことを言うから、スタッフなのか理事長みたいな存在かと思うと、だんだん判るけど明らかに虚言癖の躁病患者で、周囲を巻き込むタイプ。

 そこに小柄でタトゥーがいっぱいのドナテッラが見るからに危なそうな感じで現れる。ベアトリーチェは最初は自分が医者に成りすまして接しているが、化けの皮がはがれてもドナテッラに付きまとう。もう他に誰も相手にしてくれないマイペースのベアトリーチェは、新参者に付きまとうしかない。そして、二人はともに外部の作業に派遣されてお金ももらえるようになる。施設への帰りのバスが遅れたある日、二人はちょうど来た路線バスに勝手に乗り込んでしまう。

 ドナテッラはちょっと外出したつもりだったけど、ベアトリーチェに引っ張られるように「自由の旅」が始まってしまう。昔「テルマ&ルイーズ」という映画があったけど、この映画は「精神疾患版テルマ&ルイーズ」といった趣になっていく。(まあ、「犯罪」は無銭飲食レベルだけど。)お互いに薬が必要だし、周辺の人間関係はグチャグチャ。施設側は必至に探し回るし、最初はこれでいいんかという気もしてしまう。やっぱりもっと厳重に外出禁止にしないといけないんじゃないか…。

 だけど、ドナテッラの家庭事情がだんだん明らかになり、その「うつ病」的、「摂食障害」的な病態の裏に、恵まれない家庭環境や人間不信があることが判ってくる。彼女はバーで働いているときに、妻子ある店長と関係を持って妊娠したが、簡単に捨てられる。子どもは認知されず、バーも解雇された。絶望して子どもと自殺を図るが助けられ、養育できないとされ子どもは養子に送られた。といった事情が判ってくるに連れ、ベアトリーチェはドナテッラに子どもと会わせたいと思うようになる。

 その様子を見続けているうちに、あんなに自分勝手に見えたベアトリーチェが、自分に誠実で自由に生きているように思えてくる。イタリア中部のトスカーナ地方(州都はフィレンツェだが、映画の舞台はもっと海に近い地帯)を車で行き来する一種のロード・ムーヴィーで、その自由さがたまらなく魅力的に見えてくる。難しい事情を抱えながら生きている人々が輝いて見えてくる。

 ドナテッラは映画の最後の頃に、一時「司法精神病院」に収容される。ここは触法行為のあった精神病患者を収容する施設で、病院閉鎖後も残ったという。だが、すごいことにそれも2015年に閉鎖が決定され、2017年に司法精神病院は実際になくなったのだという。イタリアの精神医療改革はそこまで行くのかと日本との違いに驚くしかない。

 監督は「人間の値打ち」でダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞を受賞したパオロ・ヴィルズィ。脚本をヴィルズィと女性監督のフランチェスカ・アルキブジが書いている。ベアトリーチェを演じたヴァレリア・ブルーニ・テデスキが素晴らしい。この人は「アスファルト」に出ていたが、フランス映画によく出ている。サルコジ夫人のカーラ・ブルーニの姉だという。ドナテッラのミカエラ・ラマッツォッティも、「こういう人いるいる」感にあふれている。内容的にも面白く、イタリアの精神医療のあり方も参考になる。

 イタリア映画は大好きで、今年になってからも「おとなの事情」「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」「甘き人生」など重要作品を見ているが、今ひとつ納得できなかった。今回の「歓びのトスカーナ」が僕には一番面白かった。原題は直訳すると「狂気の快楽」だそうで、これでは公開できないと思うがもう少し内容に沿った題名の方が良かった。「北朝鮮問題」はまだ続くけど、見た映画の話を先に。
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