若い頃から世界のいろいろな小説を読のが好きだった。世界中に好きな作家がいるわけだけど、じゃあ、誰が一番好きなんだろうというとなかなか決められない。それでも挙げてみると、イタリアのチェーザレ・パヴェーゼ(Cesare Pavese、1908~1950)になるかもしれない。一般的には誰だと言われるかもしれない。昔晶文社から何冊か翻訳され、その後何冊か岩波文庫に入った。河島英昭個人全訳の「パヴェーゼ文学集成」全6巻が岩波書店から出ていて、僕は全部買っている。それを最近読み始めている。
パヴェーゼの代表作の一つ、『美しい夏』が映画化されて、今夏に日本で公開される。この機会を逃すと読む機会を失うかと思って、それをきっかけに読み始めたわけである。一冊がかなり重くて、持ち運ぶのが大変なんだけど、頑張って持ち歩いている。パヴェーゼはイタリア北西部のトリノ近郊に生まれて、トリノ大学に学んでトリノで活動した。トリノ周辺の丘陵地帯を舞台にした詩的、神話的な青春の輝きを文章に留めた。時代的にムッソリーニのファシズム時代で、その青春は政治との関わりを避けらなれかった。主要な作品は戦後になって発表され、大きく評価され始めた直後の1950年に謎の自殺を遂げた。まさに伝説の作家である。
トリノはイタリアの反ファシズム運動の中心地で、1934年に弾圧が起こった。パヴェーゼはどちらかというと非政治的人間だが、『文化』(クルトゥール)という雑誌の編集長を務めていて、1935年5月に逮捕されてしまった。自分では何の嫌疑もあるはずがないと信じていたようだが、結局南イタリアへの流刑となった。その背景にはいろいろ複雑な経緯があったらしいことが解説で判るが、その時の経験を書いたのが最初の作品『流刑』(るけい)である。1938年11月に書き始め、1939年4月に書き終わった。しかし、もちろんファシズム体制下で刊行できるはずもなく、1948年に『丘の中の家』と共に『鶏が鳴く前に』の総題で刊行された。
『流刑』は北部イタリアで育った人間が南部の貧しいイタリアを瑞々しい詩情で描いた記録である。小説になっているけど、基本は事実でイタリア半島最南端のブランカレオーネにはパヴェーゼが住んだ家などが残されている。訳者は訪ねて関係者を取材していて、写真も掲載されている。刑期3年が宣告されていて、手錠を掛けられて駅に着いたときには住民が集まった。やがて人間関係ができてきて、家の周辺の散歩なども許される。飲み友だちや家に隠れる女性たち、住民の中の様々な矛盾、女性との関係、素晴らしい自然描写。見事な作品で、作者の苦境が身に沁みる。発表の当てもなくファシズム独裁下に書かれた名作だ。
予定より早く終わった流刑後にトリノに戻り、教師などをして生きていく。父は早く亡くなり、母も亡くなったので、姉の元で暮らしていたようだ。そして戦争が始まり、1943年にムッソリーニが失脚して次のバドリオ政権が休戦を申し出る。それに対しヒトラーが介入してムッソリーニを救出し、北部にドイツと協力するサロ共和国が作られた。南部からは米英軍が進攻し、北部では様々な立場のパルチザンが抵抗運動を始め悲惨な内戦が始まった。その時代を描くのが『丘の上の家』である。
イギリス軍の空襲でトリノも被害を受け、教師をしていた主人公は都心を離れて丘の家に隠れ住む。そんな戦時下に主人公は昔の女性と巡り会う。彼女は子どもを連れているが、年齢からすると自分の子かもしれないと想像する。別れの悔恨と日々の暮らし、昔の彼女は今やパルチザンの協力者となっていた。ある日、ドイツ軍が急襲して多くの人が逮捕されて行方不明となる。教会に匿って貰うことになるが…という激動のイタリア現代史を記録した記録になっている。
両作合わせて、『鶏が鳴く前に』と題されたのは、日本人にはよく判らないけれど、新約聖書のペテロの挿話が基にある。イエスは予言した、ペテロは自分を知らないと鶏が鳴く前に3度否認するだろうと。ここには「裏切り」という意味が隠されている。『流刑』と『丘の中の家』は時代的にもテーマ的にもずいぶんかけ離れた内容である。しかし、パヴェーゼにとってはどちらも「裏切り」が想起されるのだろうが、それははっきりとは書かれていない。パヴェーゼ個人史の深い理解なしには掴めない。
パヴェーゼの日記は公刊されているが、あまりにも伏せられた部分が多く、原文も見られないと訳者は語っている。原文を見たいと望んだが断られている。そのため日記はまだ訳せる状況ではないと判断していて、邦訳はない。未だ公表できない「裏切り」があるのかもしれない。イタリア現代史の悲劇を背景にした作品だが、日本の戦争文学にあるように「最も善き人々は帰って来なかった」という深い思いが作品を覆っている。政治と無関係に暮らす『流刑』の貧しい庶民たちが脳裏に焼き付て離れない。
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