尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

最初で最後の「第三舞台」

2011年12月30日 22時39分50秒 | 演劇
 鴻上尚史の「第三舞台」の封印解除&解散公演「深呼吸する惑星が各地で公演中です。東京の紀伊國屋ホールで始まり、大阪、横浜で今年は終わり。来年早々、東京のサンシャイン劇場、15日の福岡公演が千秋楽となります。その日の公演は、全国各地の映画館でライブ・ビューイングされるそうです。3300円。上映劇場とチケットは、ホームページで見て下さい。

 鴻上尚史(こうかみ・しょうじ)はすごく人気があって、今の若い人にもファンが大勢いると思うけど、実は僕は「第三舞台」は初めて。紀伊國屋は取れなくて、昨日横浜まで行って来ました。まあ、紀伊國屋ホールは418人のキャパシティに比べ、神奈川芸術劇場は大きくて1300人ということだから、取れるはずです。年末だからかもしれないけど、空いてたもんね。でも、ファンと思しき人々がいっぱいで、熱気があった。終わった後で、あれほど多くの人がアンケートを書いてた舞台も珍しい。演技のアンサンブルも良かったけど、内輪受けみたいな展開もあったんでしょうね。

 内容はSF仕立てなので書きません。(昔はSFをよく読んだけど、今は割と苦手。)ここで書きたいのは、なんで第三舞台が初めてなのかという話。第三舞台に限らず、野田秀樹など80年代に活躍を始めた舞台はほとんど見てません。映画は後追いできるから少しずつ追いかけてるけど、やはり80年代後半にはベストテン級でも見落としが結構あります。理由は簡単で、83年に就職して結婚したからです。今のように、パソコンでチケットぴあの会員になって、予約を申し込んでおくという方法などなかった頃です。人気チケットを取るのは、カネよりもヒマが必要だったのです。ということで、僕と同年代の劇作家(野田秀樹は同年、鴻上尚史は3つ下)はあまり見てないわけです。僕が一番影響を受けたのは、高校、大学のころに一番活躍していた人々で、例えば作家なら大江健三郎、安部公房、映画なら大島渚、吉田喜重、劇作家なら井上ひさし、別役実などということになり、生まれ年からは20年ほど年上の世代となります。そういうタイム・ラグと言うのがどの世代にもあるんじゃないでしょうか。

 あのころは、若くて、勤め始めたばかりで、結婚したばかりで、カネもなく、ヒマもなかった。おまけに勤めた学校が荒れるということがあり、再建のために力をつかった。結婚した時に、テレビ要らないよねということになったのでテレビも持たなかった。だから日航機事故も天安門事件もベルリンの壁崩壊も湾岸戦争もテレビでは知らない。ドラマやヒット曲やスポーツ中継も80年代は記憶から抜けてる。そんな、カネもなく、ヒマもなく、学校も荒れて、大変だった時期なんだけど、戻れるんだったらあの頃に戻りたい。他の時代に戻っても同じことをするだけだろうけど、あの時期ならやり方によっては後の自分が違っただろう。懐かしいというよりも、一番学んだ時期なんだと思う。一番失敗した時期でもあるのかもしれないが。

 「深呼吸する惑星」のパンフを見てて、なんだか回顧的な気分になったので、自分の80年代を思い出してしまった。もう少し下の年代の人には、また違う感想があるんだろうな。舞台の話自体が、昔と今、昔の過ちと今どう向き合うか、みたいなテーマだったこともあるだろう。

 横浜に行くのは久しぶりだけど、思ったより近かった。その後、渋谷に出てユーロスペースで、「東京ドリフター」を見た。2011年5月27日、東京各地で前野健太という歌手が歌って歩く姿を撮った松江哲明のドキュメンタリー映画。面白いけど、同時によくわからない映画だった。震災、節電下の東京の街が記録に留められている。
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拉致と原発

2011年12月29日 01時08分57秒 |  〃 (原発)
 2002年の小泉訪朝により、「北朝鮮」が拉致事件を認めてから来年でもう10年。普天間返還問題と同じようにこの問題も先行きが見えないまま時間だけがたっていく。前から一度「拉致と原発」という題で書きたいと思ってきた。一つには、今年出た本の中でも極めつけに面白いと思う、蓮池透「私が愛した東京電力(かもがわ出版、1500円)という本の存在がある。著者は、拉致被害者蓮池薫さんの実兄で、02年当時は「拉致被害者家族会事務局長」だったことは多くの人が記憶しているだろう。その後、家族会の中で意見の対立があり除名されるに至ったが、独自の立場で言論活動を続けている。

 というようなことは知っていても、蓮池透さんが1977年から2009年まで東京電力社員であり、東京理科大卒業後、入社してすぐに福島第一原発に勤務していたというようなことは今回の事故が起こるまでは誰も無関心だっただろう。その後本店勤務、再び福島勤務を経て、核燃料リサイクルの仕事に携わった。吉田昌郎前福島第一原発所長と一緒に働いた経験もある。総被曝量が人体に影響があるとされる100ミリシーベルトに達している人である。今回の事故を受けていろいろな人が発言をしているが、東電内部で原発の技術者をしていた人が直接書いた本はこれだけである。多分しばらく今後も出ない。東電社内の様子など興味深い記述が多いが、出来れば直接読んでほしい。東電社員がどうしても規格はずれにならないような「優等生タイプ」の採用が多くなる一方で、「行っちゃった人」(つまり精神的に不安定な行動が見られる人)も少なからずいるという部分が納得できた。学校の世界と同じだなと思う。

 さて、蓮池透さんの本のこともあるけれど、それ以前に僕はあることに気づいた。拉致事件にも様々な様相があるが、77年の宇出津(うしづ)事件(久米裕さん)と横田めぐみさん事件を先駆けとして、日本から直接アベックを拉致するという凶悪な事件は78年に集中している。つまり、地村保志さん・濱本富貴恵さん夫妻(福井県小浜)、蓮池薫さん・奥土祐木子さん夫妻(新潟県柏崎)、北側が死亡としている市川修一さん、増元るみ子さん(鹿児島県吹上浜)、曽我ひとみ・ミヨシさん親子(新潟県佐渡)である。「李恩恵」とされる田口八重子さんも78年だが、事情がよくわからない。つまり、この事件を見ていて気づくことは、工作員が拉致を実行した地点が原発設置場所の近くであることが多いという事実なのである。

 蓮池夫妻の柏崎は、東電刈羽柏崎原発。地村夫妻の小浜は、直接的には原発はないものの日本一の原発集中地域である若狭湾沿岸のど真ん中にある。小浜以外の周辺市町には皆あるといってよい状態である。市川・増元さんの吹上浜を少し北上すると九州電力川内原発。石川県宇出津は能登半島の富山湾側だが、日本海側にある北陸電力志賀原発は遠くない。突発的に生じた可能性が高い新潟市内の横田めぐみさん事件、曽我さん親子の佐渡を除き、原発に近いところで拉致事件が起こっているではないか。(佐渡は朝鮮半島には近いが、島だから原発を作っても電力を持ってくることができない。)拉致事件当時は原発が稼働以前のところがほとんどである。だから、北工作員が原発を標的にしていたのではなどと言いたいわけではない。そういうことではなく、「原発立地の適地」は、同時に「日本人拉致の適地」でもあり、つまりは人口過疎のさびしき場所だったということなんだろうと思う。

 戦後社会において、見捨てられてきたものの象徴が「原発」と「拉致」の中に見えてくる。もう一つ、そこに「普天間」を置く必要があるだろう。このトライアングルの中に、戦後日本の欺瞞とねじれが隠されている

 野田首相が宣言した「原発事故の収束」には批判が多い。何をもって収束とすべきは、僕にはよくわからない。冷温停止と言っても1号機なんか30度代で温度が低すぎる。燃料棒はメルトダウンして格納容器には全くないと思われるから、核燃料も何もない場所を測っているだけだという意見もある。いろいろなことがまだよく判っていない。本当に危険な事故が、多くの人の決死の努力でなんとかこれ以上の最悪の惨事にはならずに年を越せそうだということは言えそうだが。

 原発事故のことは、6月の東電総会までにいろいろ考えたけれど、畑違いでわからないことが多い。僕の関心からすると、どうしても戦後社会史、戦後思想史の中で考えていくことになる。書き切れずに残っていることは多いが、とりあえず「拉致」「普天間」「原発」を総合的に見る、という視点を提出しておく。
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大地が震えた日

2011年12月27日 21時40分32秒 |  〃 (震災)
 東日本大震災は、首都圏に住んでいる多くの人にとって、人生で経験した一番大きな揺れだったと思う。僕は新潟地震(64年)、宮城県沖地震(78年)など相当大きかった記憶があるが、今回は全くレベルが違う長い長い揺れだった。大津波と原発事故があり、まずそのことを思い浮かべる2011年暮れだと思うが、その前に地震そのもの、大地の震えがあった。

 95年の阪神大震災では多くの家屋が倒壊し多数の死者が出た。阪神高速も倒壊するという驚くべき映像を目の当たりにした。中国四川省では学校が倒壊し、ハイチでは大統領府が倒壊した。直前にあったニュージーランド南島の地震でもクライストチャーチのビルが崩壊し、語学校に通っていた日本人28人が亡くなるという被害があった。今回の地震ではどうだったろうか。確かに大きな津波が襲ったわけだが、その前の揺れそのもので学校やビルが倒れるということはなかった。95年の経験を生かした耐震基準の見直しが生きたのだと思うし、公共工事の手抜きなどはなかったのだと思う。このことはとても大事だと思う。確かに大きな津波が大被害をもたらし、未曽有の原発事故が起きた。でも95年の経験を生かしたように、11年の悲しみも今後に生かしていかなくてはならない

 しかし、地震そのものの被害がなかったわけではない。原発事故も、本体の格納容器などはともかく、地下の配管などは地震で損傷している可能性が高いという説もある。あと何十年もしないと現場に近づけず、当否の検証ができないのだが。そして、多くの人が忘れているだろう、大きな被害もその時起こった。

 福島県須賀川市の藤沼ダム崩壊である。河北新報の記事を参照。1949年建設のダムで、死者・行方不明8名、家屋全壊・流出19戸の大被害を出した。このようなダム崩壊事故は世界でも1930年以来だと記事にある。今、この出来事の検証が大変重要であると思う。八ッ場ダム建設の前に、地震と噴火の大災害を免れない日本で、ダム崩壊事故の教訓を生かさなくてはならない。次の地震のことを考えるとき、東海、西日本の大津波対策や原発事故の危険性を考えるのは当然だが、内陸部でもダム崩壊というようなことがありうるのである。

 また、明治に起こった日本最初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件が、今回の震災でまた被害をもたらした。足尾銅山で使用された土砂が、地震によって堆積場からあふれて渡良瀬川に流れだし、環境基準の2倍の鉛を検出したのである。このこともあまり知られていないだろう。(僕も最近知った。)このように、環境破壊と言う出来事は100年単位では収まらないのである。原発の放射性廃棄物だけの問題ではない。このような現実をきちんと知っておかなければならない。

 震災からしばらくの間は、津波の恐ろしい映像、原発の水素爆発、計画停電、いつまでも来ない電車のダイヤの乱れなど、緊張と恐怖と衝撃が社会を覆っていた。しかし、同時に、この苦難をともに乗り越えようという強い連帯の願いも社会全体に満ちていた。非日常の時期がいつまでも続くものではなく、非日常も日常になってしまう。どんな理不尽な出来事も慣れていってしまう。また、そうではなくては困る。でも、だからと言って、忘れてしまっていいわけではないし、あの恐怖や緊張の日々をそう簡単に忘れられるものではない。年末になってもまだ3千人以上の行方不明者がいる。2万人近い人々の命が一度に奪われた。日本で一日で多くの命が失われた日としては、1945年8月9日以来なのではないか。そして、原発事故により数万の人々が自宅を追われ避難生活で越年する。これも戦争以来のことだろう。これを、東京大空襲の国家賠償を求める裁判で政府側が主張するように、「不運なこと」「国民それぞれが負うべきもの」としてはならないだろうと思う。 
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「普天間基地」という問題

2011年12月25日 00時28分44秒 | 社会(世の中の出来事)
 今年読んだ本で、いずれ紹介するつもりで機会が遅れたのが、前泊博盛「沖縄と米軍基地(角川ONEテーマ21)という本。新書で判りやすい。「なぜ国家は『抑止力』などというウソをつき続けるのか?」著者は琉球新報編集委員を経て、現在沖縄国際大学教授。1960年生まれ。沖縄国際大学というのは、例の2004年8月13日午後2時過ぎに起きた、普天間基地のヘリコプター墜落事故の現場となった大学である。この事故は奇跡的に人的被害がなかったので、「本土」では覚えていない人が多いのが実態なのだが、本当に危険な事故だった。

 この本で知ったこと。ウィキリークスの暴露だから、日米ともに政府は肯定どころか否定もしないわけだが、こういうことがあった。普天間基地の海兵隊の定員は1万8千人。そのうち、8千人をグアムに移転し、その費用は日本が持つ。家族の費用も。そして残りの1万を辺野古に移すということになる。ところが海兵隊はすでに定員を大きく割り込んでいて、1万3千人ほどしか普天間にいないらしい。だからグアムに移転するのは3千人にしかならない。しかし、日米政府は数字を水増しして8千人移転ということで予算をたてているというのである。これは「詐欺」ではないか。政策の間違いである以上に、刑法上の詐欺罪を構成すると思う。ブッシュ政権と自民党政権で起こった問題である。

 「普天間基地の問題」は、考えてもらちが明かないデッドロックに乗り上げてしまった感が強く、日本の政治の根源に触れざるを得ないためか、「敬遠」されている気がする。民主党政権が自分で問題を大きくして自分で転んだので、民主党は忘れたいし、他党は「それ見たことか」と思って、中央政界で本気で取り組む人がほとんどいない。今年、日米で「メア国務省日本部長発言」「田中沖縄防衛局長発言」というのが起きた。どちらも本人は「そういう発言はしていない」と言ってるらしいが、それは本質的な問題ではないと思う。日米ともに民主主義国家のはずで、国会で政治家が行う発言で政治が進むはずだが、沖縄問題に関してはそうではないという現実を示している。オモテで進まない現実を、携わる官僚がウラで「ホンネ・トーク」してしまうという構造があるのである。ではオモテの発言の玄葉外相の「踏まれても蹴られても、誠心誠意、沖縄の皆さんに向き合っていく」という報道インタビューは「不適切発言」ではないのだろうか。「踏んでいる」のは「本土の日本政府」の方であり、「踏まれても蹴られても」基地の直下で暮らしているのが沖縄県民である。「米軍基地は必要」→「沖縄は基地を受け入れるべき」→「辺野古移転に反対するのはわがまま」→「沖縄のわがままに、政府の方が、踏まれてる、蹴られてる」という認識がなければ、こういう発言にはならないだろう。「踏んでる側」は「足を踏まれた側の痛みに気づかない」ということなのである。

 もし「最低でも県外」というマニフェストが現実化していたら、鳩山政権が今も続いていたし、社民党も閣内にいた。参議院選挙も民主党が勝利していただろうし、郵政見直し法案や労働者派遣法改正は成立し、場合によっては「教員免許更新制廃止法案」も成立していたかもしれない。

 そういう節目の問題が「普天間」だったわけで、日本政治の分水嶺となったのである。だから、どうして普天間基地の返還が進まないかを皆が真剣に考えなくてはならない。しかし、時間が経つと若い人は昔のことを知らないままになる。95年の「少女暴行事件」を知らない人も本土にはいるだろう。(一川防衛相も「くわしく知らない」らしいけど。)橋本政権で決まったSACO(日米特別行動委員会=Special Actions Committee on Okinawa)最終報告で、普天間基地の移設方針(無条件返還ではなく)が打ち出されたのは1996年のことである。以来15年、全然進んでいないではないか。この間、住宅地のど真ん中にあって危険な普天間基地では訓練が続き、現に2004年には事故が起きた。次に起きたら、政治の不作為責任が問われるし、「日米安保の存在意義」が問われる。「保守派」と言われる人ほど、真剣に取り組まなくてはおかしい。

 常識的に考えるなら、普天間基地は、「現状で固定」「警察力を行使しても辺野古移転を強行する」「国外移転を強く求める」以外にない。県外移転を引き受けるところはない。それを実現できるほど強力な政治力も持つ内閣や知事はここしばらく現れるはずがない。しかし、辺野古移転もできない。国民が現在普通に使っている成田でさえ、あれだけの犠牲を払い、国交省も強制収用は今後の公共事業ではないことになった。「日本を守るための米軍」のために国民の中から死傷者を出すことは出来ない。そんなことを進める力がある政権も登場しない。だから、このままでは「現状で固定」になってしまう。それでいいのか。それでいいのかとみんなが問うしかない。そうすると「国外移転」を進めるというのが、実は一番現実味があるのではないかと思う

 米海兵隊が全部いなくなったら、中国軍(中国共産党の人民解放軍)が尖閣諸島に上陸する、とマジメに主張している人がいるらしい。そういう人には、日米安保は抑止力にならないのか、日米安保廃棄論なのかと聞き返したい。大体そんなことが起きるとは思えないのだが、もし起きても海兵隊が即時に戦闘態勢にはいるわけではないから、グアムでもオーストラリアでも同じだろう。僕には、「世界最大の米軍にさえ国益を主張し基地を国外移転させた日本」に対し、中国が「尖閣に上陸する」などという挑発を行うことは考えられない。その時の国内外の政治・経済へのデメリットがいかに大きなものになるか、どんな軍内強硬派だってわかるだろう。「普天間」をめぐって右往左往する様子を見てるから、日本は強く出れば揺れる国だと思われてしまうのだ。しかし、この辺の感覚が、アメリカ追従を国是と思い込んでるらしい外務省や防衛省の官僚には通じないのかもしれない。
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東京都の「小1クラス替え」問題

2011年12月22日 23時35分28秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 今年も残り少なくなってきて、今年書いておきたいと思った問題を書いておきたいと思う。まず、「東京の教育」をいろいろ書いているが、今年5月に東京の小学校でこんなことが起こった

 朝日新聞4.28付「5月 またクラス替え 「35人学級」法改正に対応遅れ」という記事が出た。都教委の発表は、5月2日付の「小学校1年生の35人学級編制の実施に伴う東京都公立小学校の対応について」で見ることができる。

 4月15日付で「義務教育標準法」(公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律)が改正され、小学校1年のみ「40人学級」から「35人学級」に上限を引き下げた。教育界長年の懸案が政権交代でようやく実現したのである。ただし、「ねじれ国会」と「東日本大震災」で成立が年度をまたいでしまった。4月に新入生が入ってくることは判っているのだから、国会の対応は全く困ったもんである。でもって、だから全国でクラス替えがあったというのならわかるのだが、実はクラス替えがあったのは東京都だけであった。

 どうしてそういうことになるのか。小学1年生が学校に入ってようやく担任や同級生に慣れ始めたころに、クラス替えを行う。これが好ましいことではないと誰でもわかる。全国同じなら仕方ないが、なぜ東京の小学校だけそういうことが起こったのか。実は他の道府県では、法改正を見越してあらかじめ35人でクラス編成をしていたのである。その場合、もし法改正が実現しなかったら、クラスを多くした分の教員の人件費を都で全額負担することになる。しかし、全額負担すればいいだけではないか。オリンピックを誘致するとかいう金があるんだから出せないことはないだろう。

 この問題は前史がある。義務教育教員の人件費を国庫負担する制度ができたきっかけは、「人間の壁」の佐教組事件であることは先に触れた。そのため、各都道府県で自由にクラス人数を決めては困るので、国で標準数を決めることになったわけである。当初の1958年には50人、64年に45人、80年に40人と少しずつ減ってきたが、そのまま30年間変わらなかった。しかし、2003年の法改正で地方が独自の標準を決めることが認められた。ただし、増員分は地方負担ということで。この措置を受けて、特に秋田、山形などから少人数学級が実現していった。そして、東京以外のすべての道府県で少人数学級を実施していたのである。一体、東京都の教育予算の付け方はどうなっているんだろうか。その後、2009年から東京でも少し少人数になり、今年度初めは38人だったという。

 こういうう風に、もともと都教委は少人数教育に不熱心だったのだ。だから全国で35人への法改正を見越してクラス編成をしたのに、東京だけ金はあるのに「予算が」どうたらこうたら言って、小学1年生に犠牲を強いたのである。小学校は都全体で1309あるようだが、そのうち69校、75学級でクラス替えをした。また、111学級がクラス替えはしないで担任の複数配置などで対応した。(クラス増ではなく、そういう対応も可能な法改正になっている。)

 実は昨年度も似たような問題が起こった。夜間定時制高校をつぶし過ぎて、行き場のない中卒者が大量に出てしまった。(いずれそうなると皆思っていたのだが。)その時、都教委は定時制高校に臨時学級増を行い、臨時に追加募集をした。しかし、教員増は行わなかったので、現場で上級学年を合クラスしたりしたのである。とにかく、先を見越して対応を事前に練っておくということができない。それで問題が起きると、生徒と現場教員にしわ寄せする。そしてそのことを謝罪できない。学年途中でクラス替えをしたのに、自分の問題と捉えられずに、「法律が改正されたので」の一言で済ませられると思ってる。なぜ、「生徒、保護者の皆様へ」という文章がないのだろうか。そういう都教委が「道徳教育」「奉仕」「こころの東京革命」とか語るのである。みんな、あほらし、と思うわけである。

 この問題は教員の問題をシリーズで取り上げる際に書くつもりだったが、訃報を書いてたりすると越年しそうなので今日書いてしまう。なお、この「35人学級」は「学年進行」するべき問題である。つまり、来年からは小学校1、2年生が35人になるはずなのに、財政難を理由に法改正ではない対応を検討しているようだ。それはおかしい。民主党政権の数少ない「実現した公約」の一つなんだから、きちんと対応して欲しい。なお、35人学級というと「クラスの生徒が35人」と誤解する人がいるが、そうではなく、「36人になるとクラスを分ける」という基準の数のことである。
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追悼・森田芳光監督

2011年12月21日 21時50分28秒 |  〃  (日本の映画監督)
 映画監督の森田芳光が急死した。新聞記事から一部引用。「家族ゲーム」「失楽園」など、現代における家族や男女のありようをユニークな視点で表現した映画監督の森田芳光(もりた・よしみつ)さんが20日夜、急性肝不全のため東京都内の病院で死去した。61歳だった。
(森田芳光)
 作品的には「家族ゲーム」と「失楽園」なのか。「家族ゲーム」は、ATG(アートシアターギルド)が新作日本映画を作った最後の頃の傑作。キネマ旬報が2009年に発表した「映画人が選ぶオールタイムベストテン」の日本映画部門10位に選出された。1983年作品。あまり期待しないで見たら、驚くべき傑作だった。横一列で食べるシーンの鮮烈なイメージは忘れられない人が多いだろう。まさに「家族」という「ゲーム」を予見的に描いた。松田優作の家庭教師像は当時としてはぶっ飛んでいた。映像美や社会的テーマではなく、人間関係の描き方の独自なイメージで新味を出すというのは、その後は映画、演劇、小説などでごく普通の発想になる。
(「家族ゲーム」)
 85年の「それから」(夏目漱石原作)も傑作。藤谷美和子が大変そうだったが、漱石をいまどきどう描くのかと思ったら「それから」は明治の「家族ゲーム」だった。85年のベストワン作品。漱石の映画化でベストテン入りした唯一の映画だ。(「坊ちゃん」、「猫」、「三四郎」、「こころ」皆映画化されている。「こころ」は市川崑と新藤兼人で2回も映画化されたが、映画としては消化不良。)森田芳光は、早世した松田優作の代表作を残したことが大きい。(松田優作は「遊戯」シリーズや「ブラック・レイン」があるけれども、シリアスドラマの傑作「家族ゲーム」「それから」の2本があることは大きい。)
(「それから」)
 70年代に自主映画で8ミリの「水蒸気急行」や「ライブイン茅ヶ崎」が評判を呼び、81年に「の・ようなもの」で商業的な長編映画デビュー。そういう人が70年代後半から出てきた。例えば大森一樹や石井聡互(最近改名して岳龍)なども同じ。今はデジタルビデオで作って「PFF」(ぴあフィルムフェスティバル)に出品するが、70年代は8ミリで学生映画を作っていた人が多い。森田芳光は1950年生まれの団塊世代で、日大芸術学部で紛争経験もあるらしいが、大学で映画作りを始めている。その後、東京飯田橋の名画座「ギンレイホール」でアルバイトしながら自主映画を作っていた(らしい)。

 2本のベストワン作品で信用されたのか、有名原作の映画化をずいぶんオファーされた。「キッチン」「失楽園」「黒い家」「模倣犯」などなど。どれも一定の出来ではあるものの、あまり成功していない。「失楽園」はあまり自己主張せずヒットするように作ったので面白く見られた、「模倣犯」などは明らかに失敗している。「阿修羅のごとく」(向田邦子原作)や「間宮兄弟」(江國香織原作)はうまく作られ好感の持てる出来だった。存命中の最後の公開作「武士の家計簿」もそう。しかし、この「うまく出来ていて、好感が持てる」を、最後の頃は「持ち味」にしてしまった感じがする。それでいいのかなと思っていたのも事実。あの80年代半ばの輝きは戻って来なかったのかもしれない。遺作として来年公開予定の「僕達急行A列車で行こう」が残されている。
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映画「人間の壁」-映画に見る昔の学校③

2011年12月21日 00時49分59秒 |  〃  (旧作日本映画)
 フィルムセンターの香川京子特集で「人間の壁」を見た。1959年、山本薩夫監督。山本プロ作品。当時大きな問題になった、佐賀県の教員組合の大争議、いわゆる「佐教組事件」をモデルにした石川達三原作のベストセラーの映画化である。59年キネマ旬報ベストテン6位。山本監督作品は、4位にも「荷車の歌」が入選している。1位は今井正の「キクとイサム」、2位市川崑「野火」、3位今村昌平「にあんちゃん」、5位小林正樹「人間の条件第1、2部」。社会派、戦争映画の名作オンパレードである。皆今見てもどれも優れた作品である。映画が社会批評として同時代に生きていた時代だった。

 小学校の教師である志野田ふみ子(香川京子)は、子供に慕われ熱心に仕事をする教師だが、ある日校長に呼ばれ退職勧告を受ける。「共働きの先生」から辞めて欲しいと言うのである。その小学校からは、もう一人、もう少し年齢の高い女性も勧告を受けた。二人とも生活面からも、仕事への情熱の面からも辞めたくないと訴える。ところで、志野田の夫は共働きと言っても教組の専従(元は中学)で、校長は「共産党の秘密党員では」とまで言う。家に帰ると、先に帰っていた夫は「メシはまだか」という態度である。夫婦の心はすでに離れ始めている。(この夫は結局単なる出世主義者で、委員長とうまく行かず、委員長選に出馬して落選。離婚して、東京に出て反組合派の陣営に走る。)

 当時の佐賀県では災害もあって財政が厳しく、その対策として教育へのしわ寄せが起こった。最初は45歳以上の教師全員の退職勧告、養護教諭や事務職員の全廃という提案だったらしい。あまりにもすごいし、学校教育法違反である。これに対し、全教員を「4割、3割、3割」に割り振って、計画的に年休を取得して抗議集会に参加するという「年休闘争」が起こった。それが「佐教組事件」。この事件の影響により、教員の定数増や義務教育費国庫負担制度などが整備されていった。このような意義を持つ「佐教組事件」が、劇映画として残されている意味は大きい。左翼独立プロの社会派リアリズムの底力を十分に味わうことができる。

 この映画(小説)は、学校を舞台にしているが、教育の映画というより、労働運動の映画である。日本を戦前に戻そうとする反動的な保守勢力との闘いの映画である。途中から政治的な性格がはっきりしてきて、山本映画の特徴である登場人物の性格の描き分けが見えてくる。そうした群像劇としての面白さはあるが、今見ると人物の図式的な描き方が劇をつまらなくしている。その幣を免れているのが宇野重吉の演じる「沢田先生」だが、沢田先生については最後に触れたい。 

 学校を舞台にした映画では、学校の様子が不自然な映画が多い。しかし、この映画の職員室の雰囲気はとてもリアル。退職勧告を受けて、組合員の教師が集まりを持つ。この「職場会」はいかにもありそうなリアルさだ。ほとんど全教員が組合に加入している時代で、「非組」ゼロなんだろう。でも、だからこそと言うべきか、職場会では組合の問題として取り組むかという、大前提のところで意思決定ができない。結局、教師と言っても人様々。教員ごとの学級指導の様子も特徴的に描き分けられている。

 50年代という時代を反映して、今見ると多くのことを感じざるを得ない。例えば、生徒数の多さ。団塊世代が小学校にいた時代である。50人、60人が普通だった。教科書は「無償化」以前なので自分で買わなければいけない。教師の重要な仕事が、お金集め。教科書無償を求める運動がいかに切実な問題だったかがよく判る。また、職場にも、家庭内や社会全般にも「セクハラ」が横行している。当時の問題は「学校で、自由や権利を教えるな」という勢力が地方政治を握っていた時代なのだ。

 また、教師と言えば「薄給」という時代である。戦後に中学まで義務教育となり、ベビーブームがあった。教師は全く足りず、「デモシカ先生」という言葉さえあった。「教師でもなるか」「教師しかなれない」である。この地位の低さと、戦前の教育が戦争を防げず生徒を戦争で死なせたことへの反省(「教え子を再び戦場に送るな」)が組合加入率の高さとなっていた。その後、教師の給与は1971年成立の「給特法」(国立及び公立の義務教育諸学校の教育職員の給与に関する特別措置法)で、他の公務員より優遇された。(その代わり、残業代が出ない。)もちろん、この法律の真のねらいは「日教組対策」である。法律で教育職だけ優遇され、組合加入率が下がっていくことになる。
 
 さて、ある日、掃除をしていた子供たちが、小児マヒで足が悪い生徒の様子をマネしてからかっている。その様を目撃した沢田先生(宇野重吉)は、大声で生徒を叱り飛ばし、その際生徒を突き飛ばしてしまう。生徒は机にぶつかり、机が乱れる。生徒たちはうなだれ、先生に言われて反省する。最後は納得して帰っていく。大きなケガをした様子は感じられない。しかし、この「事件」が問題化する。「暴力教師を許すな」という動きになってしまう。保守派は政治家を呼んできて集会まで開く。しかし、集会後に志野田先生が沢田を訪ねると、沢田はもう辞めると語る。

 この場面を最初に見て思ったのは、障害児への差別が根強い現実である。沢田先生はその差別の様子をみて、人間的な怒りから生徒を叱る。そして、生徒の心を変える。力のある、誠実な教師なのである。この「障害児への差別」を問題視して、「学校に組織的な人権教育がなかった」ことを批判するならわかる。しかし、事態は沢田先生を「暴力先生」として糾弾する方向に進んでしまう。それに対し、職場も無力である。本質が全く理解されない。この描写には大変驚いた。行政や保守勢力が言う「指導力不足教員」とは、「指導力の優れた教員」であることが多いという事実だ。「指導力の優れた教員」を排除するために、ちょっとした出来事をもとに「指導力不足教員」に仕立てるのである。

 石川達三は社会派娯楽作家として、ものすごく多くの小説を書き映画化された。最後の頃はうるさい爺さん化してうっとうしい作品が多い。山本監督も最後は「白い巨塔」「あゝ野麦峠」「華麗なる一族」「戦争と人間」三部作など、大作路線をヒットさせた。当時全部見ているが、ヒット大作嫌いなので、あまり評価しなかった。山本監督は50年代から60年代半ばの独立プロ時代が一番いい仕事をした。「人間の壁」はそういう時代を代表する一本だが、時代の条件の違いが大きい。今見ると教育を考える映画というより、時代劇化したかもしれない。 

 同年の「にあんちゃん」も佐賀の炭鉱を舞台にいている。前年の松本清張原作、野村芳太郎監督の傑作「張り込み」も佐賀県。(しかし、最後の温泉場面は熊本でロケ。)最近は傑作「悪人」や「佐賀のがばいばあちゃん」などが佐賀県映画である。「にあんちゃん」の原作は「在日」少女の日記である。この映画でも、炭鉱をクビになり海辺の穴に住み貧困のため学校に来られない「カナヤマ」君が出てくるが、恐らく通名が「金山」である在日朝鮮人の金君を暗示していると思う。(2020.5.27一部改稿)
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キム・ジョンイル(金正日)の死去

2011年12月20日 02時00分41秒 |  〃  (国際問題)
 一回に3つ記事を書くのは初めてだが、やはり深夜になっても書いておきたい。「北朝鮮」のキム・ジョンイル総書記が死去した。69歳。ハヴェルのような引退した人物ではないが、健康面に問題があることは判っていたわけで、遠からず避けられなかった死である。17日午前8時半に死去と朝鮮中央通信が伝えている。19日正午の特別放送で報じられた。僕は出かけていたのでその時点では知らず、夕方「夕刊紙」の大見出しで知ったけど、夕刊紙だと下に「説」とあるようなこともあるので半信半疑。携帯のニュースで確認したら、やはり事実だった。

 僕がすぐに思ったのは二つある。一つは、前日の18日に日韓首脳会談があった。「従軍慰安婦問題」にかなり時間を割いたと報道では伝えている。発表まで2日あったけれど、この最大級の情報は伝わっていなかったのだろうか。知っていても情報源を守るために知らないふりして大統領が訪日することはあるかもしれないけど、よくわからない。個人の死は2日程度なら隠しやすいとは思うけど、やはり「カーテン」の向こう側で、これだけの情報が洩れなかった。中国にはいつ伝えたのか。そういうことが一つ。

 もう一つ、金正日は「裁かれずに終わった」ということである。本来は、国際法廷なり、国際刑事裁判所で裁かれるべき問題があった。父親の金日成(キム・イルソン)は事前に知らなかった可能性もあると思うが、大韓航空機の爆破とか、ラングーン事件とか、日本人初め多くの拉致事件について、金正日が直接の責任者であるのは疑えない。少なくとも、韓国の映画監督、申相玉(シン・サンオク)と妻の女優、崔銀姫(チェ・ウニ)の拉致指令は金正日の直接指示であると僕は思っている。

 短期的には、三男のキム・ジョンウンを中心に集団指導体制のようにして続いて行く。2012年は6か国協議の参加国中、米ロ韓で大統領選挙があり、ロシアはともかく、米韓は来年は選挙一色とならざるを得ない。中国も胡錦濤が引退して、ほぼ習近平体制になるだろう年である。日本も総選挙、政権交代含みとなり、「北」も「服喪」期間となる。核やミサイル、拉致問題が急速に好転するという期待は持てない。冷静に見るとそうなる。しかし、そう言ってるだけでは知恵が足りない。そこでいかに状況を動かすかを考えなくてはいけない。しかし、日本の政治は、震災復興、原発事故、税と社会保障の一体改革だけで精一杯で、国際的に新しいアイディアを出す力量があるとは思えないのが実情。

 中国は「北朝鮮」を必要としている。ソ連は東欧に自由を与えて、共産党一党体制が崩壊してしまった。この失敗例を中国共産党指導部は忘れていない。朝鮮半島の統一とは、つまり中朝国境にまで米軍が来るということだから、朝鮮戦争の「血で結ばれた」中朝の「友好の絆」は軍内保守派としては絶対に認められないところだと思う。「血であがなった」北朝鮮への影響力をむざむざ「アメリカ帝国主義」に明け渡すことはできない。このように、米中の「緩衝地帯」としてのみ「北朝鮮の存在価値」があるというのが、実際のところではないか。従って、中期的にも北朝鮮の混乱は避けたいというのが、中国の念願であると思う。

 しかし、中国の政治的、経済的成熟とともに、やがて「朝鮮半島問題の最終解決」も起こってくることだろう。(「最終解決」は「韓国を中心にした半島統一」以外に考えられない。)それはそんなに遠くない可能性も視野に入れておかなくてはならない。そして、東アジアで一定の平和構築のリーダーシップを果たすための、政治的想像力を日本人も養っておかなくてはいけない。アメリカと中国ですべて決められてしまい、日本は過去の植民地支配の清算(「北」の国民に対しては済んでいない)のために金だけ出せということでは困ると僕は思っている。
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追悼・ヴァツラフ・ハヴェル

2011年12月20日 01時07分39秒 | 追悼
 チェコスロヴァキア最後の大統領、チェコ共和国初代大統領、89年のビロード革命の指導者にして、反体制派劇作家であった文人政治家、ヴァツラフ・ハヴェルが亡くなった。75歳。

 この人のことはいくつかのことを簡単に書いておくことにしたい。今日はもう一人の死者についても書きたいので。チェコスロヴァキアとビロード革命のことは何回か触れてきた。特に、ベラ・チャスラフスカの勇気ある人生を参照。

 病気であることは報道で知っていたので驚きは少ない。共産主義時代の弾圧もあったろうけど、へヴィー・スモーカーで肺がんで死んだんだから、タバコの害が一番ではないかと思う。昔は反体制派の活動家は皆タバコを吸っていた。洋の東西を問わず、だろう。今は、「市民運動」は「環境保護運動」と近縁性が強いので、禁煙でないと肩身が狭いだろうが。

 クリントン元米大統領が任期中に、特に敬意を持って遇した他国の国家元首が3人いるという。ハヴェルと金大中とネルソン・マンデラだという。理由は書くまでもないだろう。ネルソン・マンデラの長寿を祈る。

 ビロード革命の後、「ハヴェルをお城へ」のスローガンがプラハにあふれた。「お城」というのは、大統領府である「プラハ城」。こうして民衆によって、大統領にかつぎだされてしまったわけだが、それでいいんだろうかと思わないではなかった。案外堅実に政治運営をしていたと思うけど。チェコとスロヴァキアが平和裏に「分離」できたのも、ハヴェルが最高指導者だったからではないか。

 ハヴェルは「反体制劇作家」と言われるわけだが、その劇を見た人は少ないだろう。日本でも何回かの上演はある。僕は1982年の文学座アトリエ公演「プラハ1975」を見たはずである。調べると、今や大演出家の鵜山仁による訳・演出で行われている。金もないのに何故見られたかというと、チケットがあたるいうのに応募したらペア券が当選したから。まあ、「無名のチェコ作家の劇」に平日夜の希望は少なかっただろう。この時は一緒に行く女友達がいなかった。(アトリエ公演は指定席ではないから一人で行っても良かったんだけど。就職、結婚の一年前。)で、男の友人に声を掛けたんだけど、会場で知人のカップルにあって「何だ、尾形君、○○君と見に来てるんだ」と言われた。それだけ覚えてて、劇の内容をすっかり忘れてしまった。ま、そんなものか。

 チェコの現代史でもっとも重要で、もっとも大切な人の死。でも、政治の話ではなく、どんな劇を書いていたかということが知りたいな。
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高石ともや年忘れコンサート、30年

2011年12月19日 23時56分28秒 | 自分の話&日記
 日本のフォークソングの草分け、高石ともやさんの「年忘れコンサート」に行って来ました。今年は例年になくチケットが取りにくかったけど、なんとか取れて良かったな。実はこのコンサートは毎年夫婦で行くことが恒例になっていて、30年近く行き続けてきたのです。その間、職場の忘年会の幹事の年に同日に当たったり、定時制の夜の勤務のため遅れて行った年もあるけど、とにかく毎年行ってます。特に今年は、東日本大震災の年であることに加え、震災の直前(3.8)に長年闘病中だった夫人が亡くなった年でもあります。(奥さんのことはここ数年コンサートで闘病の事情が語られていました。)

 今月9日で70歳。相変わらずホノルルマラソンの連続出場中で、今年も5時間を切り4時間49分21秒で完走したそうです。すごいね。大学は立教なんですが、学生時代立川談志の「追っかけ」だったそうで、「現代落語論」の発売日、一番に楽屋口に並びサインをもらったそうです。また、家族で近鉄ファンで、負け試合を見た後、出待ちしていたら西本監督がブスッと通り過ぎた後で、戻ってきてともやさんの娘さんだけ握手してくれたそうです。談志、西本監督と故人の話が多くなってきました。

 ゲストはなぎら健壱でさすがにトークがうまい。フォークソングに関する「うんちく本」がとても面白いんだけど、日本フォーク史の生き証人として今日もいろいろ語っていました。60年代末の熱い季節が終わると、行き詰った高石ともやはアメリカに渡り、ブルーグラスなどアメリカ土着の音楽に触れ日本に戻って音楽活動を再開した。そして「高石ともやとナターシャー7」を結成して、「107 SONG book」を作りました。レコード10枚に及ぶ力作です。そこにあるカーター・ファミリー(30年代アメリカのカントリー音楽の有名バンド)の曲を今回はずいぶんたくさん取り上げていました。

 僕もレコードとCDと両方で持ってるけど、全く忘れていたような歌。例えば、「海に向って」というカーター・ファミリーの曲。訳詩は笠木透。このような歌があったのか。「3.11」のための歌のよう。

 *わたしはひとり海に向って
  立っているのです
  海の風に吹かれながら
  立ちつくしているのです

1.こわれる 世界を
  止めようもありません
  何が 私に
  できると いうのでしょうか
 (*くりかえし)

2.あふれる 想いを
  止めようもありません
  わかって いるのに
  どうにも できないのです
 (*くりかえし)
 
3.流れる 涙を
  止めようもありません
  それでも それでも
  精一杯 生きたいのです

 あるいは、やはり笠木透が詞を書いた、「わが大地のうた」。まるで、福島に生き続ける歌のように聞けてしまいます。(これはユーチューブで聞けます。)

 ともやさんも、石巻、気仙沼、大槌を回ったそうですが、気仙沼では「演歌もやって」と言われて「港町ブルース」を歌って、2番の「港 宮古 釜石 気仙沼」の部分、皆想いがあふれて「気仙沼」と歌えなかったという話。今年はやはり震災、原発事故の年でした。
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春桜亭円紫を聴く

2011年12月17日 23時54分24秒 | 落語(講談・浪曲)
 一番好きな落語家である春桜亭円紫師匠を聴きに行きました。
 ということで、判らない人はもう読まなくてもいいようなもんですが、それでは不親切過ぎますね。でも「円紫ファン」は世に多いから、けっこう通じるのかもしれません。

 「春桜亭円紫」は、もちろん実在の落語家ではありません。作家北村薫の覆面デビュー作、「空飛ぶ馬」で登場した登場人物で、「円紫さんと私」シリーズ5作に出てくるキャラクターですね。ちなみに、北村さんは(川内優輝さんの話で書いた)春日部高校卒業で母校の国語教師でした。89年に「空飛ぶ馬」を発表し、「このミス」(「このミステリーがすごい!」)2位になりました。1位は原の「私が殺した少女」で、「奇想、天を動かす」(島田荘司)、「エトロフ発緊急電」(佐々木譲)と続いています。すごい豊作年。その当時は個人情報が判らず、朝日新聞が活躍する女性作家の一人に入れていました。女子大生「私」は春日部方面に住んでいることになっていますが、渋谷に出るときに「上野で乗り換え」と言ってるのが時代を感じさせます。(2003年に、東京メトロ半蔵門線が東武線に乗り入れを開始してからは、それで行く人が多いでしょう。)北村薫は、一番面白い円紫シリーズではなく、次に面白い「時と人三部作」(スキップ、ターン、リセット)でもなく、ようやくベッキーさんシリーズの最終作「鷺と雪」で2009年に直木賞を受賞しました。

 という架空の落語家をなんで聴けるのか。それは、実在の落語家、柳家三三(さんざ)が、「空飛ぶ馬」を語り、円紫風に(?)落語を演じるという素晴らしい企画があったから。今回2回目。北村薫とのトークもあり。来年5月、6月、7月にも「夜の蝉」シリーズをやるそうです。(チケットは3.3発売)原作の朗読ではなく、それでは長くなるので、ホンを書いてそれをやってるそうです。円紫さんの趣向で落語をやるのが面白く、最後のトークがもっと面白い。でも、あんなに面白かった「日常の謎」ミステリー自体がなんだか慣れてしまった感じもちょっとする。みんな北村薫の影響だったわけですが…。

 「このミス」などが出る前から、年末はミステリーを読むことが多く、今年もミステリーモードに入ってます。最近はあまり読んでなかったんだけど。私立高校に動物の死体を持ってきた少年が、転学した後で刺傷事件を起こすという事件がありました。「前兆と判っていたら対処できたかも」などというコメントがあった。おいおい神戸の事件を忘れたかと思ったけど、つまらない研修するよりミステリーを読みましょう。事件に関してのお勧め新作は、ジャック・カーリイ「ブラッド・ブラザー」(文春文庫)です。落語とミステリー、これが教師の研修に一番役立つと思います。
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自己申告書②-シリーズ東京の教育

2011年12月15日 21時32分13秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 「自己申告書」というか、教員の「人事考課制度」について、続き。こういう問題については、よく「民間ではやってる」という言い方をする人がいる。僕は全国の民間企業の事情は知らないが、それは違うのではないかと思っている。こういうと、すぐに「教育の本質」論に行っちゃう人もいる。「教育労働はそもそも短期的な業績評価になじまない」とか。それはそうだと僕も思うけど、でも「目標を立てる」「自己評価する」ことに意味がないとは言えない。

 公務員の世界では、とかく前例踏襲、冒険は避けるということになりやすい。学校にもそういうところはある。「利益」という形で、すぐに見える成果がないので、同じことをやり続けて時代とずれていても気づかない。本来は、そういう「官僚主義」「事なかれ主義」を脱するために、「情報公開」や「業績評価」があったはずである。ところが、そこがお役所。「情報公開」制度ができると、管理職からは「情報公開に備えて、職員会議録は細かく書かずに結論だけ書くように」などと言われる。「自己申告書」も、管理職から「自己評価しやすい目標を設定するように」と言われる。複数校で複数の管理職から同じように言われたので、全都的な対応なのではないかと思う。これではかえって「事なかれ主義」を助長するようなものである。

 民間企業では、営業活動を差し置いて営業報告書を出すことが自己目的化することはないだろう。だが、お役所の世界では「民間にならう」が自己目的化して、「紙の上で何か新味を出す」ことが業務の改善以上に大事になってしまうのである。「目標」が「わかりやすい授業を展開する」、「方法」が「ICT機器(電子黒板)などを活用する」、「最終申告」では「授業を工夫してわかりやすい授業を展開した」と紙に書く(パソコンを打つ)だけなら、こんな文書を量産することに何の意味もないだろう。

 多分、民間と大きく違うことが2点ある。まず、評価対象者の数。企業では、常識的な配置数で各部課が存在し、それぞれ上司が評価者となるはずだが、学校の場合は評価者が校長しかいない。小規模の小中ならともかく、全定併置の高校の場合、事務職員を含めて100名ぐらいいる。校長が一人で全員を正しく評価できるはずがない。そんなに全員の仕事ぶりを熟知できるものではない。それは教員が生徒を評価する場合だって同じなんだけど、だからこそ成績評価ではテストの点数が大きな意味を持つわけである。教師にはそんなものがないから、どうやって評価するのか。もめることがあるのも当然。

 もう一つ、企業では一人の社員は持ち場の仕事に関して目標設定すればいいはずで、営業職なのに人事や製品開発や総務の評価改善まで書かないといけないということはないだろう。一方、教師は授業以外に、生活指導、進路指導、特別活動指導、研修、学校経営への関与なんかを全部やらないといけないことになっていて、だからあの小さい紙にチョコチョコといろいろなことを少しずつ書き込む「懐石料理型」の申告書になってしまうのである。

 官僚主義の改善として民間の手法を導入する、なんてなれば、かえって官僚主義が激化するというのが、この「自己申告書」なんだと思う。パラドックス(逆説)という程のことでもなく、そうなることは誰でも判っていた。でも、導入する方の都庁の役人も同じような申告書を書いてるわけで、何か新しいことを導入する、それを改善すると毎年書き続けざるをえない。困ったね。

 僕は何にもない時代が一番良かったとは思わない。変化の激しい時代に、同じことをやってるだけではダメだと思う。学校の側にも、説明責任の不足など多くの問題があった。だけど、あんな小さな紙にチョコチョコ書くだけをお互いにやり合ってても、特にいいことは生じないだろう。教師に求められていることは「メイン・ディッシュの味付け」なんだと思うから、「懐石料理型」の申告書はやめたほうがいい。そして、そんなのをもとに給料に連動する業績評価を行うというような無意味なことはやめるべきだ。
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外務省「人間の鎖」とカーペンターズの話

2011年12月14日 21時43分51秒 | 自分の話&日記
 「従軍慰安婦」問題に関して、韓国で日本大使館前の「水曜デモ」が行われてきた。1000回になった記念で、日本でも「外務省を取り囲む人間の鎖」が呼びかけられた。寒い冬の日で、事前の予報では雨だったし、どうしようかなとも思ったけど、平日で寒いと人がいないかもと思い出かけてきた。案外たくさんの人が集まり、僕はちょっと遅れたのでもう鎖は出来ていたけど、ゼッケンや旗を見るとずいぶんいろいろな所から様々な人が集まっていたように感じた。

 それより驚いたのが、「右翼」というか、特にいわゆる「在特会」(「在日特権を許さない市民の会」と言う不思議な名前の会)がたくさん来ていたこと。ごく普通の「市民」にしか見えない人々がトンデモ・プラカードを持ってる。まあ、道の向こう側で警官の列にさえぎられていたけれど。「我々は目の前で『人間の鎖』を許してしまった。この屈辱を忘れてはいけない。」この後もっとすごいことを叫んでいたけれど、書くをはばかる。別に在特会が許すとか許さないという問題ではないでしょ。憲法で認められた表現の自由なんだから。写真を両方撮ったけれど、掲載するのはやめておきます。ところで、ニュースでは韓国大使館前にできたという「記念碑」のことは報じていたが、日本での行動もあったことを伝えない。

 昨日の夜、「ア・ソング・フォー・ユー」という芝居を新国立劇場で見た。18日まで。川平慈英、春野寿美礼、尾藤イサオ、上條恒彦、杜けあき、大和田美帆らの豪華メンバーで、カーペンターズのコンサートをやってるような舞台で、これでいいのかな、楽しいけど、という感じもした。1974年の福生、横田基地前。米軍人の集まるバーに、川平が乗り込み反戦ロックを歌わせてくれと言う。そこでは春野ら三人組でカーペンターズを歌うグループが受けている。川平は「カーペンターズなんて軟弱な音楽は認めない」と言う。この後、様々な恋模様と背景にあるベトナム戦争をからめながら、話が進んで行く。

 カーペンターズなんて「メッセージもない、美しいメロディだけが売り物のグループ」という感じは、当時の僕も持っていた。今になってみると、「カーペンターズは特別」である。カーペンターズはいつでも聞ける。今は主に運転中の車で疲れているときに聞く。日本語の歌はダメ、激しいロックもダメ、クラシックもダメ、っていうくらい疲れてる時にも、カーペンターズは心に沁みる。これ、ほめてるんだろうか。自分でもわからない。でも、カーペンターズなら、どんな時でも聞けるんだよね。

 だから、政治の季節が無残に終わった70年代半ばに、カーペンターズがヒットしたのは納得できる。と同時に、これでいいのか、問題意識を持ちつづけなければならないと思っていた「遅れてきた青年」だった僕が、当時はカーペンターズを遠くに見ていたのも納得できる気がする。ジャニス・ジョップリンが好きなのに、カーペンターズなんて聞けるか、みたいな気分。でも、「ラブ&ピース」は遠くにある戦争に反対するだけではダメだった。日常の中で、想像力を持ちつづけ寛容の力を信じることが大切だった。だけれども、肝心の問題では「どちらかの立場」に立つことを恐れてはいけないとも強く思う。

 オウム、9.11、3.11の後で、寛容の精神を思い出すこと。でも、外務省前で道の向こう側にいた人々も、カーペンターズはいいよねと言ってるかもしれない。美しいメロディは誰にでも癒しを与えてしまうのかもしれない。

 カーペンターズでは、「雨の日と月曜日は」「愛にさよならを」などが曲としては好き。ビートルズの曲はビートルズでいい感じ。一番好きなのは「トップ・オブ・ザ・ワールド」かも知れないなと思う。こんなに弾むように明るい恋の歌は、なかったな。高校時代のヒット曲。「such a feeling」は僕の人生に何回あったんだろうか。歌詞を聞いてて、少し判るけど判らないところも多い、ってのが英語の勉強にいいですね。 
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自己申告書①-シリーズ東京の教育

2011年12月12日 23時37分31秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 今年の漢字が「」と発表された。始まったのが95年で、最初が「震」、中越地震の年(04年)が「災」なんだそうだ。しかし、被災地の学校では不登校の中学生が大幅に増加しているとNHKのニュースで言っていた。家族や家を失いながら、他の学校に転校してもなかなかなじめずに子供が不登校になり、親も自分の生活で精一杯で子供を支えきれない様子が映し出されていた。

 そんなときに、学校からますます「絆」を失わせるのが、大阪の教育基本条例案である。相対評価で教員を評価し、下位が続くと免職だという。これでは教師が学校で頑張る意味が変わってしまう仕事を頑張って成果が上がると他の教員の職を奪うことになってしまうではないか。教員の「絆」はどこにある?

 しかし、「東京」が「大阪」を論評することはできない。石原都知事を4回も当選させる都民が、大阪ダブル選の結果をあれこれ言っても説得力がないと思うから、僕は何も書かなかった。教育政策に関しても、競争と選別の教育を全国に先がけて進めてきたのが都教委である。

 まず、管理職の中で「都教委の評価によってボーナスに差をつける」ところから始まり、やがて2000年4月から全教職員に「勤務評定」(人事考課制度)が導入された。この時はSABCDの5段階評価だった。その後、2006年から校長による査定結果が給与そのものに連動するようになった。その時からABCDの4段階評価になっている。つまり真ん中にあたる評価がない。A評価になると昔の「特昇」で、Bは通常の昇給、Cで昔の「昇給3か月延伸」、Dで昔の「昇給6か月延伸」だったと思う。最後のころは、関係ないのでよく覚えてない。(「主任教諭」制度導入以後、主任に応募しなかったため、「教諭」の最高号俸以上だった自分は「現給保障」で、どう頑張ろうが昇給がなくなった。)

 全国的にここまでやっているところは少ないはずである。他はどうなっているのかな。異動や「業績評価」制度の問題を抜きにして、東京の教育は語れない。教員は知ってるけど発信できない。

 ということで、ここに「自己申告書」というものを示しておきたい。関係ないから最後の2年は不提出。最後の年の途中のもの。僕は適当に文章を書き連ねるのが得意な方なので(このブログを書き続けていることに明らかなように)、それほど苦にしなかったし、文章も直されなかった。「自己申告」なんだから、文章を直すのはおかしいと思うけど。おかしなことを書いた人は評価を下げるだけかと思うと、都教委に最終提出する前に校長のチェックが入る。文章を書くのが苦手な人は、とても大変そうだった。今後ますます、自己申告書や研修等の文章をまとめるのが教師の最大の仕事になっていくから、子供を教えるのが好きとか、一緒に部活をやりたいなどの理由で教師になると後悔するだろう。


 表裏があり、表は完全に個人情報なのでここでは示さない。異動カードが付いている。昔は異動希望のカードは別だったが、「自己申告書不提出」戦術は「異動希望者と扱う」ために、くっつけられてしまった。こんな人事査定制度は認めない、と突っ張ると、翌年は強制的に転勤である。そういう先生は何人もいた。ここで示すのは、パソコン作成書式を家に送れた時代があったからで、今はできない。その後キャリアプラン(研修の計画)等も加わり、さらに複雑化しているらしい。都庁にあるコンピュータにアクセスして、そこに保存してある自己申告書を取り出して作成するしかない。自分のパソコンには保存できないようになってしまったということだ。個人情報なんか(住所とか)、毎年同じなんだからコピー&ペーストすれば早いのに、それができない設定になっているという話だけど、ホント?さらにその都庁のシステムが9時~21時までしか稼働せず、それ以前・以後は使えないらしい。定時制勤務の教師は授業の後では使えないではないか。ま、それはともかく、こういうものを毎年書くようになったのが21世紀の東京の学校。これで学校がよくなったのか。そう思っている現場教員は誰もいないと思うけど。
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「異動要綱」のヒミツーシリーズ東京の教育

2011年12月11日 23時37分45秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 東京の学校事務に関わる問題はもっとあるけど、少し時間をさかのぼり、21世紀初めに起こったもろもろのことを書きたい。この時代は、働いていた者としては「現場無視」が極端になり「現場力を弱める」が目的化していった時代という実感がある。特に、「異動要綱」の問題などは、大きく報道されることもないので、知らない人が多いと思う。最近、都立高校を卒業して数年すれば知らない教員ばかりって感じている卒業生が多いと思う。そのヒミツを。

 サラリーマンとして働いている人なら、民間企業でも公務員でも、転勤が人生の一大事であり、最大の関心事だろう。特に、海外、へき地勤務が避けられない職場では、結婚、育児、住宅購入、介護などを考え合わせ、いつ転勤するかを常に考えている。もちろん思った通りにはいかないが。教員の場合、「異動要綱」で決まっているが、現行のものは2003年に改定された。都教委の議事録にその時の議論が載っている。「平成15年7月10日」の議事録である。組合の反対論への反論などが載っている。他の場所での発言から、大部分は米長邦雄教育委員(日本将棋連盟会長)のものと思われる。

 ここで都立高校の場合、原則4年~6年で異動というルールとなった。新規採用教諭は4年。それまでは新採6年、その他は10年だった。なお、米長氏はこのルールは「校長が決められる」が主眼で「1年でも出せる」「6年以上でもいさせられる」「校長の権限強化が真意」というような発言をあちこちでしてる。しかし、これはおかしい。そういう権限を校長が持ったとしても、1年で強制的に異動させるほどの人はほとんどなく、6年以上いさせることができるとしても本人が異動希望すれば出ることになる。もうみんな6年しかいられないと思ってるから、「その学校で骨を埋める」つもりで勤務する人がいなくなってくる。ようやく地域になれたころに異動になるなら、4年や5年で異動しようという人も多くなる。どんどん学校の教師が異動する。しかし、そうなることは目に見えていたし、それが目的なのである。

 どうしてこういう「改悪」が行われたたのかと言うと、校長中心の学校作りを進めようとしても、校長は2年か3年で異動する。10年もいる古い教員が、本校はこうしてきたと言えば校長も従わざるを得なくなりがち。教員はどんどん異動させる、校長が異動の権限を握る、そうやって校長中心の学校にするという発想なのである。しかし、それならば校長自身が長くいればいいではないか。校長も代わるし、教員も代わるでは、長く地域の事情に通じた教員がいなくなるではないか。

 この「異動年限の短さ」は他府県の人に話すとびっくりされる。他では大体、今も10年までいられるところが多いと思う。3年たったら異動対象で6年目までに異動する、なんてそんな仕組みのところは他にはないだろう。

 僕は「学校は生徒が進路を決めて卒業していくところ」だと思っている。授業や行事や部活は通り過ぎていく過程で、最後に進路、卒業がある。高卒認定試験に合格して大学に入学する手もあるが、多くは高校を出て大学や専門学校や会社に行く。ここ半世紀くらい、ほとんどの日本人がそうしてる。学校は、よくも悪くも「進路」なのである。教員は、だから「卒業生を出す」ということが最大の仕事。ところが、新採4年では(今は初任者研修が大変で1年目に担任に入らないことが多いので)、4学年まである定時制課程では卒業までいられない。全日制で新採以外の場合でも、1回担任をすれば続けて担任しない限り、同じ学校で2回の担任はない。(中学は続けて担任することが多いが、高校では特に職業科などでは教員配置数の関係で担任に続けて入ることは少ない。)同じ学校で2回以上卒業生を出すことができなくなったのである。そうなれば、1回卒業生を出したら、6年までいないで異動しようと考えることになってしまう。その学校で前に進学や就職の指導をした教員が誰もいない学年ばかりになる

 それが都教委のめざす学校なのか。僕はこの異動要綱の改革を見て、都教委は学校を良くすることに何の関心もないということが本当に判った。以後は、もう撤退戦をいかに闘うかの問題になった。
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