尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

現代日本の葬送儀礼の激変ー国葬ではなく「国民追悼会」へ

2022年09月30日 23時01分00秒 | 社会(世の中の出来事)
 「国葬」問題は政治的に起こったので、政治問題として考えるのは当然だろう。だけど、そういう問題は多くの人が書いているので、ここではちょっと違った観点から考えてみたいと思う。それは「葬儀とは何か」であり、現代日本では急速に「葬送儀礼が変化している」という問題だ。3年近く続くパンデミックにより、葬式も大きく変わった。というか、基本的に「冠婚葬祭」が無くなった。まあ絶対ではないけれど、多くの人を集める儀式というものが敬遠されるようになった。

 しかし、そこに「遺体」がある以上、何かをしなければならない。何もしなければ犯罪になってしまう。だから「近親者だけで葬儀を営む」ことになり、相当の有名人でも家族葬が終わってから公表されることが多くなった。その代わりに「後日お別れの会を開く予定」とされることもある。先月の訃報からピックアップしてみると、森英恵稲盛和夫古谷一行各氏など「お別れの会」をやると書かれている。(三宅一生氏は葬儀、お別れの会ともにやらないと出ているが。)

 実際に9月29日にさいとうたかを氏のお別れの会が帝国ホテルで開かれたというニュースがあった。『ゴルゴ13』の作者である。2021年9月24日に亡くなったので、約1年後の会だった。また作家、元東京都知事の石原慎太郎氏のお別れの会は、6月9日に渋谷のセルリアンタワー東急ホテルで行われた。亡くなったのは2月1日だったから、4ヶ月後という開催は現在では早い方だろう。この会を検索すると、実は安倍元首相が発起人を務めていたことが判る。参列者は5千人と出ている。何と安倍首相「国葬」の4300人より多いではないか。しかし、ホテルに5千人が座れる大ホールはないだろう。これは献花だけに訪れた人も含んでいるんだと思う。
 (前=さいとうたかお、後=石原慎太郎のお別れの会)
 この二つの会の会場を見ると、大体似ていると思う。「国葬」も同様だけど、もっと大掛かりである。それは今回の「国葬」が実はその本質が「お別れの会」だったということだろう。我々の身近な場合、葬儀の多くは仏教式で行われる。そしてほとんどの場合は会場に遺体が安置されている。安倍氏の場合も、「家族葬」が増上寺で営まれた。公開の場での犯罪で亡くなったし、現役の公人だから、秘密にしておけるものではない。だから、この家族葬にも国会議員は参加していた。通夜も行われ、著名人が焼香に訪れている。一般人も献花出来る場が設定され、全部で2500人ほどが参加したという。野党からも参加していた。
(増上寺前に棺が到着)
 これだけの規模の実質的葬儀が行われていた以上、改めて「国葬」を開く意味がどこにあったのか。三権の長がこぞって弔辞を読み、重々しく献花をする。全部終わるのに、4、5時間掛かる。それじゃ、欠席する人も多くなる。よくその場で倒れる「二次災害」が起きなかったものだ。もはや時代に合ってない儀式だったのである。どこかのホテルで簡素に行えば、もっと早く出来ただろう。仏式で葬儀を行った以上、もはや「故安倍晋三」は存在しない。「戒名」になっているはず。四十九日法要が終われば納骨するのが本来の形なのに、「国葬」のために遺骨が自宅にある。おかしなことだらけである。

 一方で、新聞を見ると「家族で葬儀を営んだ」あるいは「近親者で営む」と出ている訃報も多い。中井久夫市田ひろみ三遊亭金翁各氏などである。マスコミで訃報が報じられる有名人なら、かつては新聞に葬儀の日時と場所が掲載されていた。仕事上の関係者の親などの訃報を見たら、駆けつけるわけである。まあ、それは政財界にそれなりの知人がいる人の場合だけど。でも、その告知を見て、関係者以外が葬儀に参列することも可能だったのである。故阿奈井文彦さんに著名人の葬式を訪ね歩いた「アホウドリ、葬式にゆく」(1976)という本があるぐらいだ。

 この「家族葬」方式はコロナ禍で促進されたが、恐らく元に戻らないだろう。安倍晋三氏のような現役でかつ公衆の面前で死亡したようなレアケースを除き。何故なら高齢化がどんどん進むからである。超有名人ならともかく、一般人の場合、仕事を引退して20年、30年経てば、家族以外に葬儀に参列する知人も少なくなる。本人が90代、あるいは100歳越えとなれば、子どもが先に亡くなることも多い。残された家族も大きな葬儀をやりたくない。現役バリバリの子どもがいるということが、今までの通夜、通夜振る舞い、翌日の葬儀、火葬という続く一連の葬送儀礼の前提条件である。大都市では皆が参列する葬儀は少なくなるだろう。

 そういう大きな葬送儀礼の変容に沿ってなかったことも、「国葬」への違和感につながったのではないか。それでも著名人は時々が亡くなるわけである。「お別れの会」をやって欲しいという声が出る人はあるわけだ。そういう会を国が設定することは許されるか。国家が関わることではないとも言える。現に石原慎太郎氏の場合、国家が関わらずに出来たのだから。しかし、「ノーベル賞」「国民栄誉賞」などを受けるような人の場合、簡素な形なら「国営お別れの会」があっても許されるかもしれない。例えば緒方貞子氏や中村哲氏などはその候補だったのではないか。
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「国葬分断」の本質を考えるー世界各国共通の「両極化」

2022年09月29日 22時34分11秒 | 政治
 安倍元首相の「国葬」問題の続き。昨日はミステリー(アンソニー・ホロヴィッツ『殺しへのライン』)が終盤に入っていて、そっちを優先してしまった。さて、世論調査では国葬反対が大きく上回っていたが、献花に訪れる人もまた多かった。このような国論の「分断」を見て、「岸田首相にはていねいな説明が求められる」とか言ってる人がいるけど、僕はそういう言論は要注意だと思う。国葬の是非と言っても、安倍元首相の評価が「分断」されている以上、いくら説明されても反対は反対に違いない。
(国葬反対デモ)
 「法的な根拠がない」というのは間違いないけど、これも困ったなという感じ。民主党政権だってずいぶん「閣議決定」で政治をやっていた。自分たちがいずれ政権を取るんだという心構えでいたら、行政権の行使範囲をあまり狭めない方が良いのではないか。「法的根拠」という問題設定は、僕には苦い感慨が浮かぶ。かつて「国旗国歌法」がなかった頃を思い出してしまうのである。

 学校の卒業式・入学式で「国歌を斉唱するものとする」という学習指導要領に対し、「法的に国歌は制定されていない」という反対論があった。というか、教員組合ではそう主張していたし、その時点では僕もそう思っていた。しかし、1999年に「国旗国歌法」が制定されてしまった。(当時は自民、自由、公明の3党連立政権。旧民主党は党議拘束を外して採決に臨んだ。)当時の小渕首相や野中官房長官は国民に強制するものではないと言ったが、教育現場ではまさに「強制」された。だから「国葬法」が制定されて、国会で議決して国葬が決まったりすれば、「弔意を強制するものではない」と言って作られても、国権の最高機関が決めたんだから全国民が弔意を示せと言い出す人が出て来るのである。
(献花に訪れる人々)
 僕が思うに、このような「国論の分断状況」は世界の多くの国で起こっている。アメリカのドナルド・トランプ前大統領をめぐる分断はその最大のものである。イギリスでは数年前にEUからの離脱をめぐって国民投票があり、僅差で離脱派が勝利した。フランスでは大統領選に極右のマリーヌ・ルペンが2回続けて決選投票に進出している。現職のマクロンは支持率が低く、左派のメランション候補が決戦に残るという観測もあった。それでは困ると思った他の保守政党支持者がマクロンに入れたことで、決戦はマクロン対ルペンになった。しかし、フランスでは左右に分断された状況は際立っている。

 イタリアはつい最近の選挙で、いよいよ極右出身のジョルジャ・メローニが初の女性首相になりそうだ。ブラジルのボアソナロ大統領も極右政治家で、いつも物議を醸す言動をしている。トルコのエルドアン大統領はイスラム教政党所属の宗教右派色が濃い。今回の国葬に参列したインドのモディ首相はヒンドゥー至上主義政党出身で、反イスラム色が強い。エルドアンとモディはイスラム教に対して正反対だけど、それぞれの「民族文化」の宗教的伝統を強調する「宗教右派」である。
(インドのモディ首相)
 トランプも伝統的な「キリスト教福音派」などの「主教右派」だった。安倍元首相が個人的に深い友好関係を築いた各国首脳には、このように宗教右派が多いのが特徴である。それは安倍氏が「神道政治連盟」や「国際勝共連合」などの右派系宗教組織と深い関係を持っていたこととも関わりがあるだろう。このように見て行くと、安倍氏の国葬をめぐる「分断」は世界で起こっている「分断」の一つの表れで、中では穏当なものだと理解される。国葬に反対するデモは自由に出来るし、一方で献花台への長い列に並ぶことも自由に出来る。問題は何故世界の多くの国でこのような「分断」が起きるのかということだ。
(トランプ前大統領と安倍元首相)
 その問題は大きすぎて今は完全な理解が難しい。「分断」が見える国の方がまだましで、国内で反政権世論を自由に表明出来ないロシアや中国の方がもっと深い問題があるだろう。見えないだけで、ロシアや中国でも深層には「分断」があるとも考えられる。何か「世界史的転換期」に当たっているんだろうけど、一国的には「民主的選挙」で決する仕組みを多くで取っている。そうすると「伝統的保守」を越えた極右的、排他的主張をする人が登場する。それだけ大きな変革の時代にいるんだと思う。

 ただ、ドイツでは極右の「ドイツのための選択肢」、左派の「左派党」は政権枠組から外されている。そのため中道右派の「キリスト教民主同盟」と中道左派の「社会民主党」をはさんで、「自由民主党」「緑の党」がどちらに付くかで連立枠組が作られる。2党を足しても過半数にならないときは、2大政党による「大連立」になる。それが一番良いかどうかは決めがたいけれど、とにかくそういう仕組みになっている。これは戦前のナチス、戦後の東独社会主義のどちらにも拒否感があるということだろう。

 なんでドイツ以外では、そのような「穏健」な政治にならないのか。それを解明するのは、今はちょっと手に余る。ただ、「分断はいけない」などと言っていれば良いという問題じゃないということを確認しておきたい。世界的な変化の日本における現れなのであって、安倍政権こそは「世界で最も早く出現した宗教右派政権」という観点で考えなくてはいけない。
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「名ばかり国葬」の前日と当日、菅前首相の弔辞でわかったこと

2022年09月27日 22時31分49秒 | 政治
 「国葬」の前日に、北の丸公園の国立近代美術館に行った。そこから新宿に出て、ケイズシネマでブニュエルの『昇天峠』を見ようと思った。では、どう行くべきか。地下鉄東西線竹橋駅から東京メトロだけで新宿に行くには、かなり大回りしないといけない。そこで、公園を少し歩いて、武道館から田安門を通って九段下駅から都営地下鉄新宿線経由なら新宿三丁目まで3駅である。では当日は近づけない日本武道館の写真でも撮っておこうかと思った。

 武道館の様子は映像や写真でたくさん報道されるから、まず田安門の写真を載せておきたい。「皇居」というけど、そこは本来「江戸城」である。そして、江戸城には多くの門がある。(外郭25棟、内郭11棟、城内87棟だそうである。)もちろん「皇居」に直結した門(半蔵門など)は一般人は通れない。しかし、普通に通れる門がかなりあって、それも江戸時代に作られたまま残っている門があることは案外忘れられているのではないか。

 中でも重要文化財に指定されている門が桜田門(外桜田門)、田安門清水門の3つである。桜田門外の変で有名な桜田門が当時のまま残されているのを知らない人がいる。田安門清水門も、徳川御三卿の田安家、清水家の由来となった門である。日本武道館には九段下駅下車で、田安門を通るのが一番近いだろう。そこで田安門の石垣には黒白の幕が張りめぐらされて、門外に受付用のテントが設置されていた。重要文化財に幕を張って良いのか。まあ、良いんだろう。クリストみたいなアートもあるんだし。
 
 前日の武道館には「故安倍晋三国葬儀場」と大書された看板が掛かっていた。そもそも武道館は「武道行事」に使われるべき施設だが、もうコンサート会場、あるいは大学の入学式会場という印象が強くなっている。ネットで調べると、前々日の25日には「第8回全国空手道選手権大会」が行われていた。従って、「国葬」準備は前日に突貫でやるしかなかったのである。
 
 本来「国葬」というのは、全国民こぞって追悼する儀式のはずである。学校は休みになり、歌舞音曲も慎むということは今回は全くなかった。地方自治体がどう対応するべきかの通達もなかった。「国民一人一人に弔意の表明を強制するものではない」と岸田首相は何度も言っていた。それじゃあ「国葬」にする意味もない感じだが、反対派は反対してていいから、税金使って「国葬」という名前でやらしてくれという感じか。と言うことで、国民の日常はほとんど平常通りだったのではないか。
(反対集会)(献花する人々)
 僕も全く「平常」で、というのは仕事と完全に被っていたので、リアルタイムでは全然見てない。ヒマだったとしても、もちろん見てなかっただろうけど。後でニュースを見ると、反対集会にも多くの人が集まっていたようだが、献花台にも長蛇の列だったようだ。どっちが多いと比べるべき問題でもないだろうが、この「分断」をどう考えるべきか。改めて別に書きたいと思う。
(「友人代表」の弔辞)
 帰りの電車でスマホを見たら、「友人代表」の菅義偉前首相の「感動的」な弔辞が全文載っていた。読んで驚いたのだが、これは「友人代表」の言葉ではない。言ってみれば「部下代表」の言葉である。(「友人代表」にふさわしいのは、きっと加計孝太郎氏なんじゃないか。米国留学時代から知り合いらしいし。)

 「TPP交渉に入るのを、私はできれば時間をかけたほうがいいという立場でした。総理は「タイミングを失してはならない。やるなら早いほうがいい」という意見で、どちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです
 一歩後退すると勢いを失う。前進してこそ活路が開けると思っていたのでしょう。総理、あなたの判断はいつも正しかった。」

 しかし、そうして交渉したTPPからは、トランプ政権になってアメリカが脱退してしまう。バイデン政権になっても復帰していない。アメリカの抜けたTPPになってしまった。何のためのTPPなのか。「歴史が証明済み」なのではないか。そういう前提になる政治認識もどうかと思うが、「総理、あなたの判断はいつも正しかった」という官房長官で良いのかと強く思う。だから政権末期に森友、加計、桜を見る会と連続して「権力の私物化」が起こったのではないか。もっとも身近にいて、諫言すべき人が「総理はいつも正しい」と思っているんだから、どうしようもないのである。
 
 そして、こう続く。「安倍総理。日本国は、あなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ、特定秘密保護法一連の平和安全法制改正組織犯罪処罰法など、難しかった法案をすべて成立させることができました。
 どのひとつを欠いても、我が国の安全は確固たるものにはならない。あなたの信念、そして決意に、私たちはとこしえの感謝をささげるものです。」

 世界が正反対に見えているのである。安倍元首相に「とこしえの感謝を捧げる」べき「私たち」に、僕は含まれていない。多くの人が「排除」されている。恐ろしいのは、菅氏がどう見ても本気で言っていることである。「我が国の安全」は語っても、人権や正義は語らない。「国家」は語っても、一人一人の人間の苦しみを語らない。見えていない。そういう「部下」が全国にたくさんいて、「安倍政治」を支えてきたのだろう。
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ゲルハルト・リヒター展を見るーわけが判らないけど面白い

2022年09月26日 22時10分19秒 | アート
 東京国立近代美術館で開催中(10月2日まで)のゲルハルト・リヒター展を今日(2022年9月26日、月曜日)見てきた。国立美術館や博物館は、祝日ではない月曜日は本来休館である。しかし、明日(9月27日)に近くで「あれ」が行われるので、今週だけ特例で月曜開館、火曜休館に変更されたのである。実は土曜日に行ってみたんだけど、予約してない人は大分待つようで断念した。その代わり、月曜開館というので、今回はウェブ予約をして出掛けていったわけである。

 ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter, 1932年2月9日~) は、ウィキペディアを見ると「現在、世界で最も注目を浴びる重要な芸術家のひとりであり、若者にも人気があり、「ドイツ最高峰の画家」と呼ばれている」とのことである。しかし、僕はこの人の名前を映画『ある画家の数奇なる運命』を見るまで知らなかった。この映画は2020年に日本で公開され、僕は非常に感銘深く見た。米アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた作品である。『善き人のためのソナタ』という傑作を作ったフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督作品。3時間超の長い映画で、日本でももっと高く評価されて欲しい映画だ。
(ゲルハルト・リヒター)
 ナチスが政権を取る前年に生まれ、ナチス時代、旧東ドイツの「社会主義政権」を生きた後、「ベルリンの壁」建設直前に「西ドイツ」に移動して、デュッセルドルフでヨーゼフ・ボイスについて美術を学んだ。映画には名前は出てこないけど、教授のモデルはボイスだと知って、そう言えば昔ヨーゼフ・ボイス展を見たことを思いだした。映画では新聞や雑誌の写真をもとにした「フォト・ペインティング」を創出するまでを描いているが、その後もどんどん「アートの限界」に挑むような試みを続けている。完全に「現代アート」の世界だから、判るような判らないような、いや全然判らないといった方が正直な作品群ばかり。
 (「ビルケナウ」シリーズ)
 それを代表するのが、日本初公開の大作『ビルケナウ』である。幅2メートル、高さ2.6メートルの作品4点で構成される巨大な抽象画で、名前はナチスの強制収容所である。これはビルケナウで撮影された写真をもとにしているというんだけど、その上に黒や白、赤の絵の具が塗り重ねられ、下の写真を意識することは出来ない。このシリーズが分散しないように、作者は「リヒター財団」を作りベルリンの国立美術館に貸与しているとのことである。この前見た香月泰男のシベリア・シリーズも全然シベリア感がなかったが、この「ビルケナウ」シリーズも僕はよく判らない。
(「アブストラクト・ペインティング」)
 展示室の相当部分を占めるのが、「アブストラクト・ペインティング」である。70年代後半から作られたもので、上掲写真のような絵がたくさんある。一つ一つが大きいので、嫌でも目立つのである。そして判るかと言えば、「ある意味では判る」。つまり、メチャクチャ子どもが絵の具を塗りたくっているのではなく、明らかに「作品」なのである。そして全部が面白いのではなく、成功の度合いが違っている。幾つも見ているうちに、何となく感じるのである。そして僕にはそれ以上は何も言えない。
 (「ストリップ」シリーズ)
 面白いのは、ひたすら細い色が横長につながっている「ストリップ」シリーズである。どうやって描くんだろうと思うと、2011年から始められたデジタルプリントだそうである。ほとんど目まいがしてしまうような抽象的な世界だけど、実はすべて1980年に制作された「アブストラクト・ペインティング」に由来するんだという。絵をスキャンした画像を縦に二等分し続けて、幅0.3ミリの色の帯を作り、その帯を横方向にコピーしてつないでいく。そういう風にして制作されたというから、これが「絵画」と言えるのかも微妙だ。しかし、まさに「アートを見た」としか言いようのない感慨を残すのである。

 他にも「フォト・ペインティング」「グレイ・ペインティング」「カラーチャート」「アラジン」など多種多様な手法で作られた作品が多数展示されている。どの順番で見るべきだというのはなく、どう見ても良いということらしい。「アラジン」というのは、一種のガラス絵だということだが、幻想的なムードになるため「アラジン」という命名をしたということだ。そんな中に「ガラスと鏡」もある。「何か」を描いているものを「絵画」と呼ぶならば、これは何も描かれない。例えば一面グレーの鏡になっていて、そこには観客が映り込む。自分の姿を見ても「アート」なのか。何だかアート限界を超えているような気もする。

 ともかく、アートとは何かと考えてしまうような展覧会だった。そんなことを考えなくてもいいのかもしれない。でも、ただ見ていても理解を超越する作品があるのも事実。2200円を出す価値があるのかと悩む人もいるだろう。常設展も見られるから、何度も見ているけど駆け足で回った。2階にもリヒターの作品も展示されている。ドイツの現代画家の作品が幾つか展示されているが、もうどれがリヒター作品かすぐに判った。4階の「ハイライト」展示室には、特に有名な近代日本の作品が集まっている。岸田劉生道路と土手と塀(切通之写生)」(重要文化財)とか安井曾太郎金蓉」など、もう何十回も見ているけどホッとしたのも事実。
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『近代化日本の精神構造』ー見田宗介著作集を読む③

2022年09月25日 20時44分18秒 | 〃 (さまざまな本)
 毎月一回見田宗介真木悠介)氏の本を読んでいくシリーズ。前回は真木名義の『気流の鳴る音』を5回も書いてしまった。その最後で宮沢賢治に触れたので、本当は『宮沢賢治』にチャレンジするつもりだったんだけど、長くて大変そうだから後回し。まず見田宗介著作集「Ⅲ」の『近代化日本の精神構造』を読むことにした。1960年代半ばに書かれた論文集で、いずれも明治期の日本を対象にしている。論文だから難しいとも言えるが、基本的には歴史が対象なのでスラスラ読めるのである。そういう名前の本はなく、論文集などに収録されたままになっていたものである。

 論文名と発表年・媒体を紹介しておきたい。
①「明治維新の社会心理学」(「思想の科学」1965年10月号、1967年『今日の社会心理学』第6巻所収)
②「文明開化の社会心理学」(「展望」1965年12月号、上記論文の続きとして、同じ本に所収)
③「明治体制の価値体系と信念体系」(1972年「尾高邦雄教授還暦記念論文集」第3巻所収)
④「「立身出世主義」の構造」(「潮」1967年11月号、『現代日本の心情と論理』所収)

 今となっては、史料的な限界もあって、やはり古い感じがしてしまう。しかし、「社会心理学」が歴史学、あるいは政治思想史などとどう違うのか、観点の違いが書かれていて興味深かった。もっとも読んでる側にとっては、ほとんど違いはないように感じる。例えば、最初の論文の冒頭には、「維新を推進したさまざまなグループ内部や、グループ間での人間関係のダイナミックス」は「興味深い課題ではあるが、本論文のテーマではない」とされる。この論文のテーマは「維新にたいする民衆の対応様式の諸類型を分析することをとおして、近代化日本の民衆の生き方の原型を追求することにある。」

 ①論文は主に当時の新聞などを通して分析していくが、その後民衆自身の原史料が大量に発掘されている。そのこともあるが、「諸類型を分析」することに主眼が置かれたことにより、同じように民衆思想史的な研究であっても「歴史学」とはずいぶん違うなという気がした。少なくとも僕はこういう論文があることを初めて知った。歴史系の論文で引用されたことはあまりないのではないか。維新後に起こった農民一揆の分析もなされているが、どうもそれこそ類型的な限界を感じてしまった。

 最後の方で「ある社会の支配的な価値規範にたいする、民衆の対応としては、いうまでもなく、ロバート・マートン(1910~2003)のものが名高い」と書かれている。「いうまでもなく」なんて言われても、歴史系の人で知ってる人はほとんどいないだろう。それは「反抗型」「同調型」「改変型」「儀礼型」「逃避型」の5類型らしい。こういう風に整理されると判りやすいと思うけど、自分の関心方向とはちょっと違う。なお、ロバート・キング・マートンは、タルコット・パーソンズと並ぶ機能主義の社会学者だという。息子の経済学者ロバート・コックス・マートンが、1997年のノーベル経済学賞を受賞している。
(二宮金次郎像)
 ③論文は「国定教科書」のご苦労さん的内容分析。④論文は近代日本の「立身出世主義」を取り上げて分析したもの。「西欧近代の主導精神がプロテスタンティズムにあったということは、よく知られている。(略)それでは日本近代の主導精神は何であったか。日本における明治以来の急速な「近代化」過程において、内面的、主体的な推進力を用意したものは何であったか。それは日本の立身出世主義であったと私は答える。」

 その具体的な現れが、「仰げば尊し」の「身を立て名を挙げ」であり、全国の小学校に建てられた二宮金次郎像だった。この「金次郎主義」は人々を競争におい立て、国家興隆の推進力になるが、体制の矛盾を見えなくさせる。その立身出世主義の「構造的特質」「体制的機能」「内在的矛盾」を類型化していく。まあ、現在からみると驚くような指摘はないけれど、まとまってはいると思う。これが「社会学」の書き方かと思ったけど、僕はこれでは「歴史の息吹」が感じられずに不満が残る。まあ著者本人にもそういう思いがあって、普通の社会学者からはみ出て『気流の鳴る音』などコミューン論に踏み込んで行ったのだろう。
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青森県の蔦温泉ーお湯・自然・歴史「三位一体」の極上名湯ー日本の温泉㉑

2022年09月23日 22時27分06秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 「日本の温泉」シリーズは2年間書く予定で、もうあと僅か。今までは「こんな知られざる名湯(名旅館)がある」みたいなスタンスで書いてきた。残り少ない中で、どこを取り上げようかといろいろ思い浮かべた時、青森県の蔦(つた)温泉という名前が脳裏に浮かんできた。八甲田山周辺にある湯で、近くには有名な酸ヶ湯温泉もある。(酸ヶ湯が経営する八甲田ホテルという完全に洋風の素晴らしいホテルもある。泉質は別。)そこから秋田県、岩手県北部にかけては名湯が集中し、八幡平周辺の御生掛(ごしょがけ)温泉や強酸性でガンも治ると言われる玉川温泉など忘れがたい。
(蔦温泉久安の湯)
 でも蔦温泉ほど「ああ、素晴らしいお湯だった」「素晴らしい自然だった」と賛嘆する温泉は数少ないと思う。まあ温泉好きなら、名前は誰でも知ってるようなところだから、今まで書き残してしまった。いろいろ泊まりたいから、八甲田にはまた行ってるけど蔦温泉には一度しか泊まっていない。それは十和田、八甲田を最初に訪れた時だから、もう何十年も前になる。まだ車を持ってない頃で、東北新幹線も盛岡が終点だった時代である。盛岡から青森まで在来線の特急、青森駅から国鉄バスで蔦温泉まで一本で行けた。(国鉄バスだから民営化前である。)目の前に大正時代に建てられた壮麗な宿が見えたら感激した。
(旅館前景)
 何しろお湯が素晴らしい。先ほど写真を載せた「久安の湯」は、最近よく言われる「足元湧出泉」である。日本全国に幾つもない、お風呂の下からお湯が湧き出ているという極上の湯なのである。泉質はナトリウム・カルシウム-硫酸塩・炭酸水素塩・塩化物泉(低張性中性高温泉)とホームページに出ている。透明の湯で、泉温は44.5度とそれほど高くないが、何しろ足元から出ているからちょっと熱いかもしれない。蔦の森の湧水で調節しているという。久安の湯は男女別時間制。他に男女別の「泉響の湯」(作家井上靖の命名)と貸切風呂がある。
(貸切風呂)
 蔦温泉はブナの森の中に建つ一軒宿で、周辺はすべて大自然という素晴らしさ。七つの沼に囲まれ、「蔦七沼めぐり」の遊歩道がある。このハイキングは宿泊者なら誰もが行くだろう。1時間程度で一周出来るコースになっている。紅葉の季節の素晴らしさは、今では「マイカー規制」をするほど知られてきたらしい。僕が行ったのは夏だったから観光客はいたけれど、混雑というほどではなかった。写真を探してみると、以下のようなものが見つかったので、余りに素晴らしいので借用します。
 
 蔦温泉は歴史的なエピソードがいっぱいある宿だ。旅館の前には大町桂月(1869~1925)の銅像がある。明治期の文人で、「君死にたまふことなかれ」を発表した与謝野晶子を「乱臣賊子」と罵倒した嫌なヤツである。美文調と教訓臭という、今となっては時代に取り残された人物だが、終生旅と酒を愛して諸国を放浪した。特に気に入った蔦温泉には住み込んで、本籍まで移してここで死んだ。北海道の「層雲峡」、「羽衣の滝」に名を付け、青森県の「奥入瀬渓流」を全国に知らしめた。なかなかセンスはあるんだけど、時代の国粋的風潮を疑うことが出来ない小文豪だった。蔦温泉に資料室があり、多分見たと思うけど全く覚えてない。
(大町桂月像)
 宿のホームページには、1967年東宝映画、成瀬巳喜男監督の遺作『乱れ雲』のロケが行われたことが出ている。加山雄三、司葉子主演で、交通事故の加害者と被害者の妻が青森で巡り会うという話である。二人は蔦温泉で結ばれてしまうが、話がどうも納得出来ずに僕は一回しか見てない。でも確かに蔦温泉の建物が出て来る。また吉田拓郎のヒット曲「旅の宿」は作詞家の岡本おさみがここに泊まって「別館客室のイメージをもとに一篇の詩をしたためました」と出ている。最近ではアントニオ猪木がここを気に入り、一族の墓を建てたという。すでに亡妻(倍賞美津子の次の次の4人目の奥さんで、2019年死去)の納骨を済ませているという。

 という風になかなか豊富なエピソードがある宿だが、ホームページに何故か出てこないのが『火宅の人』である。檀一雄畢生の大傑作である超絶不倫小説『火宅の人』は、1955年から折々に書き継がれて1975年に完結した。檀一雄は1976年1月2日に亡くなったので、まさに遺作となり、没後に読売文学賞、日本文学大賞を受賞した。その後、テレビドラマ化され、1986年には深作欣二監督の映画も公開された。ちゃんと映画のロケも蔦温泉で行われているのに、全然触れられていない。作家が新劇女優と蔦温泉で最初に結ばれてしまうのがまずいのか。その相手役女優はテレビでも映画でも原田美枝子がやっていた。映画の妻はいしだあゆみで、女優賞独占。しかし映画は原作にない松坂慶子とさすらってしまうのは、まさに「火宅」を生きる深作監督の反映だった。
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E・H・カー『歴史とは何か 新版』(近藤和彦訳)を読む

2022年09月22日 23時37分18秒 |  〃 (歴史・地理)
 E・H・カー歴史とは何か 新版』(What is History?、岩波書店、2022)を、つい読みたくなって買ってしまった。買った以上は読まないともったいない。で、読んだんだけど、相当後悔した。本体価格2400円、370頁を越える本を、いまさら僕が読まなくても良かったと思う。いつもはそういう本はスルーするんだけど、この本に関しては考えるべき点が多いので、書き留めておきたい。この『歴史とは何か』という本は、1962年に清水幾太郎訳で岩波新書から出版された。もう非常に有名なベストセラーで、70年代ぐらいまでは歴史を学ぼうとする学生なら大体読んでいると思う。僕ももちろん読んで、大影響を受けた本である。

 それが新しく訳し直された。訳者の近藤和彦氏は、元大洋ホエールズの野球選手じゃなくって、イギリス史が専門の歴史学者である。岩波新書に『イギリス史10講』があるが読んでいない。著者のカーは生前に第2版を出そうとして、未完に終わったという。その草稿も掲載されている。さらに自伝や詳細な補注まで付いていて、詳しすぎるから注はもう読まなかった。これはもともと6回に渡る講演の記録で、カーはところどころでくだけた表現、内輪受け的なエピソードを披露している。近藤氏はそこで原文にはない、[]という文字まで入れている。テレビの視聴者参加番組で、観客に拍手を求める合図をしている感じ。ここが笑いどころですよって示すとは、実に斬新な訳だと事前には思ったけれど、読むとやり過ぎ感も感じるところだ。

 著者のE・H・カー(1892~1982)は、『危機の二十年』(岩波文庫)や大部のロシア革命史3部作(『ボリシェヴィキ革命』『一国社会主義』『ロシア革命の考察』で、みすず書房から分厚い本が6冊出ている)で知られる。すべてE・H・カーとなっているが、イニシャル部分は「エドワード・ハレット」だと今回知った。元はイギリスの外交官で、ソ連寄りと見られて次第に居づらくなったらしい。1936年に辞任して外交を論じるが、戦時中は情報省に務めた。戦後は研究者として人生を送ったが、年譜を見ると女性問題でずいぶん苦労したことが判る。ずっとロシア革命史を研究した人である。

 つまり、E・H・カーは日本で普通の意味で言われる「歴史学者」とちょっと違っていた。何しろ1950年代に1917年のロシア革命を研究しているのだから、日本の感覚だとまだ歴史ではない。今で言えば、80年代、90年代の問題である。日本で言えば、中曽根政権から小泉政権あたりまでを研究対象にする。世界ではレーガン政権とかイラン・イスラム革命、湾岸戦争からイラク戦争などである。日本では「政治学」とか「国際関係論」などと呼ばれて、法学部に置かれることが多いだろう。「歴史学科」にも現代史はあるけれど、まだ高度成長期あたりまでしか扱わないことが多いのではないか。そのことは読んだ当時は全く意識しなかった。僕にとって「ロシア革命」は歴史以外に何物でもなかったからである。
(E・H・カー)
 昔読んだときにどこに影響されたのだろうか。それは以下のような部分だった。今回の訳文で言えば、「歴史とは、歴史家とその事実とのあいだの相互作用の絶えまないプロセスであり、現在と過去とのあいだの終わりのない対話なのです。」「過去は現在の光に照らされて初めて知覚されるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できるようになるのです。」

 つまり「すべての歴史は「現代史」である」のだ。これが判るか判らないかで、単なる歴史マニア(歴史上の「事実」のコレクター)か歴史研究者かが分かれるだろう。今まで教えた中でも、歴史が好きという生徒はかなりいた。中には織田信長の誕生日はいつかなどと聞いてくるのもいる。そんなものを知るわけがない。知りたければスマホでWikipediaを検索すれば済む。(天文3年5月12日〈1534年6月23日〉だった。)そんな些事はどうでもいいから、「織田政権の日本史における意義を論ぜよ」などと聞き返したいところだが、もちろん「人を見て法を説け」である。いやあ、すごいねえ、そんなことまで知ってるんだ、先生も知らなかったよと答えておくわけである。
(岩波新書版『歴史とは何か』)
 前回の訳者の清水幾太郎は、刊行当時は「進歩的文化人」の代表格と見られていただろう。60年安保の時、雑誌「世界」に「今こそ国会へ」という論文(というか檄文)を書いた人である。しかし、僕の時代には文春から出ていた保守系誌「諸君!」で日本核武装論を論じる右派になっていた。戦時中は戦争を鼓舞していたから、2度「転向」した人である。それはともかく、訳文自体は判りやすかったと思う。でも、多分高校生から大学生で読んだはずだが、こんな難しい本がホントに判ったのかと疑問に思う。判らないところは飛ばして読んで、判ったところだけ記憶出来るのも若さの特権だ。

 歴史は「確定された事実」の集積だとする詰まらない実証歴史学者がいっぱいいた。一方で、歴史は「下部構造に規定された上部構造の変革という階級闘争」だとするマルクス主義者がいた。カーは両者と違う見方を示しながら、「歴史は偶然か必然か」「歴史は個人が変えられるのか」「歴史は進歩しているのか」などを論じていく。これらは今でも考えるべきテーマだと思うが、扱う人物が古すぎる。ヘーゲルマルクスフロイトはいいが、モムゼン、マイネッケ、ギボンなら名前を知ってるけど、他にもう忘れられた歴史家がいっぱい出て来る。

 しかし、当たり前だけど、ハンナ・アーレントミシェル・フーコーフランツ・ファノンウォーラーステインなどは出てこない。フェミニズムやアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの歴史研究の動向も出てこない。ロシア革命は視野に入っていたが、すでに起こっていたアジア、アフリカの独立革命は論じられていない。もちろん、当時の段階でうっかり毛沢東スカルノナセルなどを論じていたら、今では読むに値しない本になっていたかもしれない。

 でも「あらゆる歴史は現代史である」なんて、僕には今さら当たり前すぎる。今「歴史とは何か」を問うならば、僕にとっては隣接諸学との関連性を考えることなしには済まない。文化人類学、民俗学、社会学、考古学、地理学、経済学、社会心理学、宗教学などなど。また従来の「歴史」から疎外された人々をどのように「私たちの歴史」に組み込んでいくかも大問題。僕の若い頃には映画史そのものが「学問」の対象ではなかった。今では映画史の中で隠されてきた「女性映画人」の役割が研究されている。まあ、そういう問題である。

 「歴史とは何か」という問いそのものに、バイアスがあった。「同性愛者にとって、歴史とは何か」「ハンセン病患者にとって、歴史とは何か」「琉球王国にとって歴史とは何か」…様々なヴァリエーションがある。それが今になって判ってきたことで、もう僕にはカーの本は役立たない。しかし、これほど立派な翻訳もないし、初学者には一度は挑むべき本ではないかと思う。
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映画「注目すべき人々との出会い」、久々の上映を見て

2022年09月21日 23時07分00秒 |  〃  (旧作外国映画)
 2022年7月2日に亡くなったピーター・ブルックの追悼文(「ピーター・ブルックの逝去を悼むーイギリスの演出家、映画監督」)で、僕は以下のように書いた。「僕がまた見てみたいブルックの映画がある。それがグルジェフの原作をもとにした『注目すべき人々との出会い』(1979)という映画である。」ところが、新宿のケイズシネマで行われている「奇想天外映画祭」のプログラムにこの映画が入っているではないか。6回しか上映がないので、早速今日見に行ってきた。
(『注目すべき人々との出会い』当時のチラシ)
 『注目すべき人々との出会い』(Meetings with Remarkable Men)は、1979年に製作、1982年7月日本公開。全編英語なので、今見ると違和感を感じてしまう。思想家グルジェフ(1866~1949)の自伝的著述の映画化である。グルジェフはギリシャ系の父とアルメニア系の母との間に、現在のアルメニア(当時はロシア帝国領)に生まれた。冒頭で少年グルジェフらが谷間の円形劇場に集まっている。ペルシャやコーカサスからやって来た楽人たちがが、20年に1度、谷間の岩にヴァイブレーションを与え、こだまさせた者が勝者となる競争が始まったのである。もっとも説明がなく、今調べて、そうだったのかと判った。
 
 学校時代の「決闘騒ぎ」などを経て、人生の意義とは何かと問う少年グルジェフは、やがて「自分探し」の旅に出る。紀元前2500年に起源を朔る秘密教団、サルムングの記述を見つけ、そこに真実があるのではないかと考える。やがて教団を知る導師がエジプトにいると知り、船で働きながらエジプトまで出掛ける。そこで同じく人生の悩みを抱える旧知のルボヴェドスキー公爵(テレンス・スタンプ)と出会う。しかし、導師と公爵は彼を置いて、ブハラ(ウズベキスタン)に行ってしまった。グルジェフはゴビ砂漠を探検して幻の都を探す一団に参加するが、大きな砂嵐に巻き込まれて、全てを失ってしまう。
(ピーター・ブルック)
 やがてブハラにたどり着いた彼は、そこで再び教団を探し始める。導師の居場所を見つけ、どうにか秘密の場所を教えて貰えることになる。秘密を誓ってから目隠しをして馬に乗って、危険な山道を行く。ようやく着いたと思うと、谷間に掛かる恐ろしい橋を何とか渡りきる。その先を行くと、彼方に壮麗な城郭が見えてくるのだった。そこへ行くと、別れたきりのルボヴェドスキー公爵がいて、舞踏に明け暮れる教団の様子を案内してくれる。この「神聖舞踏」を目の当たりにして、彼の精神的彷徨が終わるのだった。
(神聖舞踏を行う人々)
 70年代、80年代には「精神世界」への関心が高かった。「気流の鳴る音」で紹介したドン・ファンシリーズなども、そういう中で広く読まれた。グルジェフもそういう流れで注目されたが、今回見るとラストの舞踏が余り面白くない。「舞踏」に大きな意味を見出すのは判る気がするが、シュタイナーの「オイリュトミー」の方が見ていて美しい。性別に分かれて舞踏していて、男の方の踊りはどうも変な気がする。そんなところも、今ではグルジェフが知られなくなった理由かもしれない。ブルックは『グルジェフ-神聖舞踏』(1984)というドキュメンタリーも作っているので、そっちも見てみたい。

 この映画は舞踏シーンはイギリスで撮影された以外は、アフガニスタンでロケされたと出ている。(今の情報は英語版ウィキペディアだが、エジプトのシーンはどうなんだろう。ピラミッドが見えているが。)谷間や砂嵐など、なるほどという感じである。アフガニスタンは、1979年12月にソ連が侵攻し、長い内戦が始まる。それ以前もゴタゴタしていたが、外国ロケを受け入れる余地はあったのだろう。ソ連、タリバン、アメリカ、タリバンともう外国映画がロケできる国ではなくなってしまった。その意味でも重要な映画かもしれない。デジタル版ではなく、公開時のフィルムだと思う。
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「旧統一教会」と「有識者」の関係も追求するべきだ

2022年09月20日 22時36分39秒 | 政治
 エリザベス女王の国葬に当たって、イギリスと国交を持つ国の中でシリアベネズエラアフガニスタンミャンマーロシアベラルーシ招待されなかったという話である。日本政府はまさかミャンマー軍事政権を招待していないだろうな。かつて昭和天皇の「大喪の礼」で軍事政権のミャンマーを招待した過去がある。軍事政権に通じている有力者がいるから、日本政府はそのぐらいやりかねないと思う。そういうことも追求しておかないといけない。

 さて、本来「安倍国葬」には是非とも出席すべきだと思う人物がいる。それは誰かと言えば、ロシアのプーチン大統領である。しかし、さすがに日本政府もロシアとベラルーシは招待しないという方針だという。しかし、プーチンこそは安倍氏の遺影に向かって「欺して申し訳なかった」と詫びるべきだ。「北方領土を返す気もないのに、日本の経済協力だけ得ようと、返す素振りだけしていて済まなかった」と言うべきである。もっとも安倍氏の方も「ウラジーミル、お互い様だからいいんだよ。こっちも返ってこないと判っていて、長期政権のために国民を欺していたんだから」と言うかもしれないが。

 欠席者は時々報告があるけど、政治家以外の出席者は誰なんだろうか。政府や首相個人の様々な審議会、懇談会などの委員を務めた「有識者」は、当然「招待枠」に入っているんじゃないかと思う。何しろ6千人規模ということだから、各界から相当呼ばないといけない。ところで、そういう「有識者」にも様々いるけれど、何が「有識」なんだか知ったかぶりを振りかざす「無知識人」も多い。今自民党の国会議員には、一応「旧統一教会との関わりを「点検」している(ことになっている)。それは大切だが、同時に僕は「旧統一教会系諸団体」と密接な関係を持ってきた有力文化人も追求するべきではないかと思う。

 もちろん、それらの人々は「公職」には就いていない(人が多い)。だが、安倍政権(というか、21世紀の自民党政権)は、「私的諮問機関」などというものを作って、そこに「御用文化人」を押し込んで、政権に都合の良い方針を答申させるというやり方を多用してきた。そういう時に出てくる名前は大体決まっている。五輪組織委の「みなし公務員」じゃないけど、そういう「有識者」はただの一般人ではない。名前も知らなかった自民党若手議員なんかより、ずっと国家的に重大な役割を果たしてきた。

 旧統一教会と一体化している「国際勝共連合」系の新聞「世界日報」の「世日クラブ」で講演をしたような人物はやはり関係があるとするべきだろう。世界日報の取材を受けただけでも、関係があったと言われている。それを思えば、世界日報社で講演をするのは「重大な関係」である。検索すると櫻井よしこ氏の講演チラシが出て来る。「日本よ、勁き国となれ」という講演は、「世日クラブ30周年記念」だと出ている。もう10年も前だから、このクラブは40年も続いている。講演会の様子を合わせて掲載しておく。
 
 八木秀次氏も講演をしているが、そのことは「自民党、LGBT問題で八木秀次氏の意見を聞く会」(2022.8.1)で紹介しておいた。八木氏は「新しい歴史教科書をつくる会」「日本教育再生機構」とずっと安倍晋三氏とともに活動してきた。教科書問題に関わりを持っていた自分としては、この20数年関心を持たざるを得なかった人物である。第2次安倍内閣では「教育再生実行会議」の委員に指名された。旧統一教会と親密な「有識者」が現実の教育行政に影響を与えてきたのである。
 
 その他、中西輝政西岡力島田洋一、そして例の小川榮太郎などの名前も出て来るようである。マスコミは旧統一教会系メディアと深い関係を持っていた人物を調査して公表するべきだ。そしてそれらの人物は、今後政府の審議会委員などには任命しないという方針を打ち出すべきである。自民党も各議員が関係を持たないというだけでなく、関係の深かった「有識者」を党内の会議には招かないようにするべきだ。「統一教会」問題は、自民党の偏った家族政策の背後にカルト宗教組織の影響力があったらしいという問題なのである。今こそ、「文化人」と「旧統一教会」の関係を追求しなければならない。
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「安倍国葬」をめぐってー反対論多数ながら、出欠をめぐるあれこれ

2022年09月19日 22時53分43秒 | 政治
 安倍晋三元首相の「国葬」が近づいて来た。世論調査では反対論が圧倒している結果が多い。内閣支持率も下がり続けている。国葬、旧統一協会問題だけでなく、円安に伴う物価高など様々な要因があると思う。ただし、このまま倒閣の危機になると決めつけるのは早計だろう。国政選挙がしばらくなく、自民党総裁選も再来年である。統一地方選は来年4月だが、今は選挙時期がずれた知事選が多いし、与野党激突型もほぼないだろう。総理大臣を辞めさせる仕組みはないから、来年の広島サミットまでは、支持率がいくら下がっても辞めない。その後反転して上昇するかどうかは知らないけど。

 ところで国葬が9月末になったのは、武道館がそこしか空いてなかったかららしい。その前にエリザベス女王の葬儀が入るとは、誰も予測出来なかった。「元首」の葬儀には元首が参じるから、大統領制の国からも大統領が集まった。その点、「元総理大臣」は弱くなる。ところで、この国葬に参列するには招待状がいるとのこと。何で送られてきたんだろう、出ません、いや出席などとSNSで報告する人が今はいる。そこで画像を探してみると以下のようなものである。
  
 そうすると、葬儀に参列するかどうかをわざわざ報告するのはおかしいという声も出てくる。しかし、この「国葬」は家族葬ではない。税金で挙行する国家的儀式である。だから招待状が送られてくるような「重要人物」は、むしろ自身の出欠とその理由を国民に報告する義務があると思う。「正論」で反論すれば、そういうことになるだろう。でも「感情論」に「正論」で立ち向かっても、「正論」の方が負けてしまうのである。「公」の場面では「正論」を言えても、私的空間(ウェブ空間は本来「私的」とは言えないが、私的と思い込んでいる人は多い)では隠微な感情論がはびこることになる。

 大規模な「国葬」反対デモも行われたが、何しろ何回も選挙に勝ってきた元首相である。今は黙っている「隠れファン」が相当いると思った方がいい。内閣支持率も下がったのを見て、自公政権を土俵際まで追いつめた気になって、うっかりやり過ぎ的言動が出てくると、世論もあっという間に「たたかれすぎてかわいそう」と反転するかもしれない。そのことを重々承知して、というか「階級的警戒心」を忘れずに慎重に行動しないといけない。反転して「反対派たたき」をしたいと狙っているメディアは沢山ある。
(国葬反対デモ、9月19日)
 右派雑誌は軒並み安倍礼賛特集を出した。やはり今でも売れるのである。例えば「月刊Hanada」は「追悼大特集 安倍総理を忘れない!」を2冊も出している。「萩生田光一(政調会長) 【慟哭の独占手記】 われ安倍イズムの継承者たらん」なんて記事が堂々と出ている。また雑誌「WiLL」も毎号のように安倍氏の写真を表紙にしている。最新号では「安倍元総理の遺言に〝聞く耳〟はないのか 裏切りの岸田政権 櫻井よしこ/門田隆将」と岸田首相を攻撃している。「旧統一教会―ズブズブなのは朝日・毎日ではないか 朝香 豊」というちょっと理解しがたい記事もある。
 
 そして産経新聞の「正論」も2ヶ月連続で追悼特集を組んでいて、「安倍晋三の遺志を継げ」とのこと。「救世主か 松陰の生まれ変わり か 八木秀次」というスゴいのが載っている。八木氏は「「反アベ」の狂気ここに極まれり」だそうである。産経はともかく、やはり「安倍本」が売れる素地があって出しているんだろう。そして、この超右翼人士たちは岸田首相が「安倍離れ」しないかと気をもんでいる。今までは「保守票」を安倍氏が押さえていた。今後は下手すると、「維新」や「参政党」に流れる保守票が出てくるかもしれない。だから、大々的に国葬を実施せよという右翼を内閣は無視できない。「国葬」を止めたって、反対派が自民党に入れるわけではない。だから、少し中道層が離れても、岸田首相は国葬を止めない。

 岸田内閣は「国葬儀」と呼んでいるが、吉田茂の時も同様である。その後、内閣が主張する「法的根拠」が明らかになった。「内閣府設置法」の「内閣府の設置並びに任務及び所掌事務」のうち、「三十三 国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること」だとされた。これは「法的根拠」というより、国家的儀式に関する事務は内閣府が担当するというだけの規定である。しかし、まあ「国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事」が存在するという前提がなければ、このような規定は必要ない。それは当然「行政権の範囲」だということなんだろう。

 これが「法的根拠」になるのかと言えば、不十分ではあるだろう。「正論」を言えば、国会を開いて議論し、必要な予算は補正予算を組むべきだろう。しかし、開いてみても衆参ともに与党が圧倒しているから、ほとんど議論もなく「可決」されて終わるだろう。それが判っているから、面倒なことは止めてしまう。かつての吉田茂の時は野党第一党の社会党の内諾を得て進めたというが、もうその頃と政治構造が違ってしまった。中曽根内閣の「戦後政治の総決算」に始まり、小泉内閣も「選挙に勝てばそれで良し」で郵政民営化を進めた。それは民主党政権時代も同じで、「マニフェストを掲げて選挙に勝った」を錦の御旗にした。

 そういう流れがあって、第2次安倍政権以来の「暴走」があるのである。その流れは現在の日本の憲法体制では、司法権によっては覆せない。「「国葬」に反対、しかし違憲違法論は無理である」で書いたように、裁判に訴えたケースも、そもそも訴訟に適さないという判断が相次いでいる。それは事前に予想できることで、司法権によって内閣の行政権に基づく儀式を事前に差し止めることはできない。現行憲法の常識的な解釈ではそうなるはずである。それが嫌なら、憲法を改正するしかない。

 とにかく「正論」(産経の言う「正論」ではなく、憲法と民主主義の原則に立つ本当の「正論」)だけで立ち向かえる時代ではないという認識を忘れてはいけない。「正論」で攻めると、感情のレベルで反撃される。それは中国やロシアなどとの交渉でも同じだろう。「安倍氏」と「自民党」の「敵失」から生まれた政治状況を、とことん有利に利用するためにはどうするべきか。単なる儀式の可不可に止まらず、よく考えて行かなければ行かない。
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ジャン=ポール・ベルモンドの映画を見逃すな!

2022年09月18日 23時10分32秒 |  〃  (旧作外国映画)
 フランスの映画俳優ジャン=ポール・ベルモンド(1933~2021)と言えば、先頃亡くなったジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』ぐらいしか、長いこと見られなかった。しかし、2年前から「ジャン=ポール・ベルモンド傑作選」が行われ、現在3回目が新宿武蔵野館で上映されている。半世紀以上前の映画だから、今見ると中にはもう古いなというのもある。でも体を張った壮絶アクションが今も色あせない超絶エンタメ映画がいっぱいあって見応え十分だ。

 ジャン=ポール・ベルモンド傑作選では今のところ20本が上映されている。名前だけ挙げておくと、第1期が『大盗賊』『大頭脳』『恐怖に襲われた街』『危険を買う男』『オー!』『ムッシュとマドモアゼル』『警部』『プロフェッショナル』の8本。第2期が『リオの男』『カトマンズの男』『相続人』『エースの中のエース』『アマゾンの男』の5本。今やってる第3期が『勝負(カタ)をつけろ』『冬の猿』『華麗なる大泥棒』『ラ・スクムーン』『薔薇のスタビスキー』『ベルモンドの怪盗二十面相』『パリ警視J』の7本。ゴチックにしたのが現時点で見ている映画。

 お気に入りのロベール・アンリコ監督『オー!』とか、世界的に大ヒットした『リオの男』など、大期待してみた割りにはイマイチ感が強く、今まで記事には書かなかった。でも3回目の今回は充実したプログラムになっているので、少し紹介したい。やはり監督は大事だなと思ったが、アンリ・ヴェルヌイユ(Henri Verneuil、1920~2002)の作品が面白い。『ヘッドライト』『地下室のメロディ』などで知られた名匠である。70年代以後はほぼアクション映画専門で未公開作品も多い。第1期でやった『恐怖に襲われた街』(1975)も面白かった。連続殺人鬼を追ってパリを駆け回る敏腕刑事。ちょっと無理な展開かなとも思うが、アクションがすごい。

 しかし、アクションの素晴らしさでは、今やってる『華麗なる大泥棒』(1971)が図抜けている。アテネで宝石泥棒を企むベルモンド一味。それに目を付けた悪徳警官オマー・シャリフ。冒頭の金庫の錠開け、中程のすさまじいカーチェイス、バスからトラックに移って砂利山を落下するシーン、すごすぎる。これを見るとジャッキー・チェンの『ポリス・ストーリー/香港国際警察』は明らかにこの作品の影響を受けている。アメリカ映画『ブリット』(1968)のカーチェイス(サンフランシスコ)よりスゴい。アクション監督レミー・ジュリアンという人の設計が素晴らしい。007なども担当し、二人の息子も世界的に活躍中。
 (『華麗なる大泥棒』)
 同じくヴェルヌイユ監督のモノクロ作『冬の猿』(1962)は心に沁みる名作。ジャン・ギャバンとの唯一の共演である。実はこの映画は池袋の文芸坐であった特集上映で見たことがある。人生でもう一回見られるとは思ってなかった。ノルマンディーの港町で旅館を営むギャバンはいつも酔っ払っている。でも、戦時下の空襲中、無事に戦後まで生き延びられたら酒を断つと神に誓った。戦後は酒を出さない安宿になってしまったが、そこにベルモンドが泊まりに来る。屈託を抱えた二人にいつか心が通っていくが…。冬空の花火、ベルモンドの心の秘密、犯罪映画ではなく、切ない映画の傑作。
(『冬の猿』)
 二度見られて嬉しいのは、アラン・レネ監督『薔薇のスタビスキー』(1974)も同様。『二十四時間の情事』(ヒロシマ、モナムール)、『去年マリエンバートで』のあのアラン・レネとは思えない判りやすい映画。フランス現代史に有名な(と言うんだけど)、1930年代初頭にフランス政界を揺るがしたスタビスキー事件を描く。タイトル・ロールのベルモンドと愛人のアニー・デュプレーが魅力的。衣装をサン=ローランが担当していて、見応えがある。凝りに凝った30年代の懐古的ムードに心奪われるけど、次第に編集や音楽のリズムが気になってきた。結局、監督が主人公を好きになれなかったのではないか。
(『薔薇のスタビスキー』)
 興味深いの『勝負(カタ)をつけろ』(1961)と『ラ・スクムーン』(1972)で、同じ話である。実際に獄中にいたギャング出身の作家ジョゼ・ジョヴァンニの原作。ジョヴァンニは作家を経て、映画監督にもなって沢山の映画を作った。『ラ・スクムーン』は最初の映画化に不満が残って、自分でリメイクしたらしい。『勝負をつけろ』はジャン・ベッケル(『穴』『モンパルナスの灯』などの名匠ジャック・ベッケルの息子)の初監督作品。「死神」と呼ばれたギャングの生涯を描いている。友人を救いに自分も獄に入り、戦後には一緒に地雷除去作業に携わる。(刑期短縮を条件に危険な作業への応募を刑務所が呼びかけた。)『ラ・スクムーン』は友人の妹役がクラウディア・カルディナーレと超豪華。でも派手さがない前作『勝負をつけろ』の方が僕は好きかな。
(『ラ・スクムーン』)
 『ムッシュとマドモアゼル』『エースの中のエース』も面白かったけど、もう省略。昔のヨーロッパ映画はアート系巨匠の特集上映はあっても、娯楽作はほぼ見られなかった。最近は事情がずいぶん違ってきて、デジタル修復されて蘇った旧作が上映されるようになった。今年の夏には「ロミー・シュナイダー映画祭」があり、来週末からは「クロード・ミレール映画祭」まであるので驚いてしまう。誰だって感じだが、ロミー・シュナイダーはアラン・ドロンの恋人だった有名女優。クロード・ミレールは僕も知らなかったが、「なまいきシャルロット」などの監督である。見てると時間もお金も大変だけど、フランス語を聞いてるだけで楽しい。
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『早すぎた男 南部陽一郎物語』を読むー理系本の傑作

2022年09月17日 20時42分48秒 | 〃 (さまざまな本)
 講談社BLUE BACKSから2021年10月に出た中島彰著『早すぎた男 南部陽一郎物語』は素晴らしく面白い本だった。2008年にノーベル物理学賞を受賞した、あの南部陽一郎博士の評伝である。物理学の専門業績に関しても理解しやすく書かれている。しかし、もちろん判らないところは判らない。読んでる間は判ったつもりになっているけど、読み終わると忘れている。まあ「自発的対称性の破れ」や「量子色力学」を僕のブログで理解しようと思う人もいないだろう。

 この本はホントにものすごく面白い読書体験で、最近読んだ新書の中で一番充実していた。書評を読んですぐに買ったんだけど、何しろ畑違いだから一年近く放っておいた。でも『ウクライナ現代史』や『日本共産党』よりも面白かったのである。理系本でも新書ぐらいなら時々読みたい。知らない世界が興味深いし、頭の体操になる。その際、学者が書くよりも、科学分野の専門ライターが書く方がずっと判りやすいことが多い。この本の著者の中島彰(1954~)氏も肩書きが「サイエンス作家」になっている。東大工学部卒業後、日本経済新聞社に入社して、科学技術担当編集委員、『日経先端技術』などを担当した。講談社ブルーバックスから『「青色」に挑んだ男たち』『現代素粒子物語』『現代免疫物語』3部作などを書いている。

 南部陽一郎(1921~2015)は2021年が生誕百年で、この本もそれに合わせて刊行された。東京で生まれたが、関東大震災で被災して父の故郷の福井市に帰って育った。父親は家業の仏壇屋を継ぐのを嫌って上京し、帰郷後も英語教員をしたという。福井中学から、東京の一高、東京帝大理学部物理学科に進学した。すでに令名を馳せていた湯川秀樹に憧れたが、東大には素粒子物理学の講座はなかったのである。そこまでは調べていなかった。戦時中で繰り上げ卒業し、陸軍の技術研究所に召集されたが、宝塚の研究所で智恵子夫人と知り合った。夫人側の「一目惚れ」で、戦争中に結婚しているのである。

 敗戦後に東大に戻ったが、住宅事情が悪く一人で教室に泊まり込む日々。湯川秀樹に次ぎ日本で2人目にノーベル賞を受けた朝永振一郎(ともなが・しんいちろう)のゼミ(東京文理科大、後の東京教育大、筑波大)に参加したりした。その頃、1949年に湯川秀樹がノーベル賞を受賞した。翌1950年、大阪市大助教授に招かれ、豊中市(大阪府)の妻の実家から通えるようになった。63頁に貴重な写真が掲載されている。京都大学の基礎物理学研究所設立準備室のメンバーを撮った写真で、湯川、朝永に加え、坂田昌一伏見康治武谷三男らに混じって南部も入っている。日本物理学界のそうそうたるメンバーがそろって壮観だ。
(2008年にノーベル物理学賞を受けた南部、シカゴ大学で)
 1952年にアメリカのプリンストン高等研究所に留学した。そこにはアインシュタインがいて、日本で南部が翻訳した『晩年に想う』にサインをもらったりしている。しかし、そこにはなじむことが出来ず、2年後にシカゴ大学に拾われるように移った。そこでBCS理論と言われる超伝導に関する理論から、やがて「自発的対称性の破れ」理論を提唱する。しかし、新理論の内容を論文に書く前に学会で明かして、他の研究者に先に論文を書かれてしまったという。そのため一時は自発的対称性の破れで現れる粒子を「ゴールドストーン粒子」と呼ばれてしまったが、今は南部の功績が認められ「南部ゴールドストーン粒子」と呼ぶという。
(自発的対称性の破れ)
 南部陽一郎は「自発的対称性の破れ」「量子色力学」「ひも理論」など、その後の物理学に大きな影響を与える理論を次々と生み出した。しかし、それらの内容は僕の手に余るから判ったようなことは書かない。本の中ではちゃんと説明されていて、とても判りやすい。読んでるときに悩んで立ち止まることはまずない。しかし、南部理論に基づいた研究が次々とノーベル賞を取る中で、「予言者」「魔法使い」とも呼ばれた南部はノーベル賞に遠かった。難解すぎてスウェーデン王立アカデミーがなかなか真価を理解出来なかったとも言われる。だが南部理論から生まれたヒッグス粒子の存在証明が取り沙汰されるようになって、ついに2008年にノーベル物理学賞を受賞した。日本の益川敏英小林誠と共同受賞だった。
(ノーベル賞授賞式、左から小林、益川、化学賞の下村脩)
 しかし、その時には妻の体調が悪く、授賞式は欠席することになった。この受賞に至るまでには、南部陽一郎論文集をまとめてくれた江口徹(東大名誉教授)、西島和彦(東大、京大名誉教授、文化勲章)の貢献が大きいという。南部の人柄、特にシカゴで夫妻に歓待された研究者のエピソードが多く出て来る。一見、順風のような研究者人生だけど、よく見れば多くの挫折や紆余曲折があった。そして「南部ゴールドストーン粒子」の正体こそ、湯川秀樹が存在を予言したパイ中間子だとされている。日本物理学史上に輝く巨人である二人は深い縁で結ばれていたのである。最高に面白かった理系本。

 なお、外国の理系本ではイギリスのサイモン・シン(1964~)が最高。もともとケンブリッジで物理学の博士号を取得したが、BBCのプロデューサーになった。有名な『フェルマーの最終定理』(新潮文庫)も最初はテレビ番組だった。その後『暗号解読』『宇宙創生』『数学者たちの楽園』、及び共著の『代替医療解剖』がある。全部は読んでないけど、『フェルマーの最終定理』の圧倒的な面白さは忘れられない。『代替医療解剖』は鍼やホメオパシーを論じた本で、読んでおいた方がいい。
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中北浩爾『日本共産党』を読むー「民主集中性」をどう考えるか

2022年09月15日 22時57分16秒 | 政治
 猛暑の頃はミステリーで涼んでいたんだけど、『気流の鳴る音』以後はもっと硬い本を片付けようかという感じ。と言っても読まずに残っている専門書に挑む気まではなく、まずは溜め込んだ新書の処理。2022年は「日本共産党結党100年」ということになっている。ちょうど合わせたように5月に中公新書から中北浩爾日本共産党 「革命」を夢見た100年』が出た。波乱の100年だけに、400頁もあって新書らしからぬ厚さである。戦前の「秘密結社」時代から現在の野党共闘まで論じているので、やむを得ない。でも読みやすく判りやすい。共産党に関しては、読む前に様々な評価が付きまとうと思うが、まずは公平なスタンスで書かれた本だろう。

 著者の中北浩爾氏は、1968年生まれの政治学者で、一橋大学大学院社会学研究科教授。東大を卒業後、東大、大阪市大、立教大を経て、2011年から現職と出ている。近年一般書の刊行が多く、名前は僕も知っていた。今までは自民党の研究が中心で、『自民党ー「一強」の構造』(2017、中公新書)、『自公政権とは何か』(2019、ちくま新書)などがあるが、読んでなかった。著者は自公政権を論じた後に、では野党の連合政権は可能か、日本共産党はどう考えているのかというような問題意識から、戦前にさかのぼって共産党の研究を始めたようである。歴史的視野から現在まで見通した本で、データも豊富。
(中北浩爾氏)
 今はどうだか知らないが、僕の世代だと(特に歴史を専攻するとなれば)、「共産主義(あるいは共産党)をどう考えるか」は避けて通れない問題だった。もちろん『共産党宣言』や『空想から科学へ』ぐらいは大体の人が読んでただろう。(この「大体」の分母は全国民ではなく、文系大学生だが。)しかし、自分の思い出や考えから書いていると、ものすごく長くなってしまう。ここは本を中心にして、論点をいくつかに絞って書くことにしたい。

 この本を読んだ最初の感想は「懐かしさ」だった。戦前の社会運動史は研究テーマそのものではなかったけれど、関心はずっとあって良く読んでいた。70年代ぐらいまでなら、この本に出てくる出来事はほぼ知っている。だから懐かしかったのである。最初に今年は日本共産党結党100年「ということになっている」と書いたが、僕は「第一次共産党」は今の共産党に直接つながるという評価は出来ないと考えている。弾圧されて壊滅したというではなく、中心人物の多くが後の共産党史に関わって来ない。むしろ戦後の日本社会党左派につながる人々が多い。だから、名前だけで「結党100年」ということに意味はないと思う。

 もう一つ、序章で「ユーロ・コミュニズム」が論じられているのも懐かしかった。今ではこの言葉自体を知らないだろう。ソ連を批判して、西欧独自の「社会主義への道」を追求したイタリア、フランス、スペインなどの共産党のあり方を指す。フランス共産党は結局ソ連寄りに回帰し、左派の中の小党派になってしまった。イタリア共産党は社会民主主義に転じて、党名も「左派民主党」、さらに「民主党」に変えて、政権を担ったこともある。日本共産党はソ連・中国を批判し「議会主義」を取るなど西欧諸党と似たような問題意識を持っていた。しかし、社会民主主義は採用せず、党名も変えなかった。一番大きいのはイタリア党がNATOを認めたのに対し、日本では日米安保条約を廃棄する方針を堅持したことである。このような差がどうして生まれたかは興味深い。

 戦前の日本共産党は、「コミンテルン日本支部」である。「コミンテルン」は「共産主義インターナショナル」で、とっくの昔(1943年)に解散しているのに、未だに「国際共産党の陰謀」などと言う人がいる。綱領(「27年テーゼ」とか「32年テーゼ」など)も国外指導部から「与えられた」ものだった。しかし、僕はそれをナショナリズム的な立場からおかしいという立場は取らない。当時は「世界革命」を目指していたんだし、「世界で初めて社会主義国家を建設した」ソ連の威信は大きかった。しかし、自国の革命への道も自分で決められないで、革命を語るなどおこがましい。その後、獄中で「転向」が相次いだのも当然だろう。だが、その獄中でも「非転向を貫いた」人がいたのである。侵略戦争の無惨な敗北の後、出獄した人々の存在がいかに輝いて見えたか。そのことへの想像力を持つことも必要だ。その代表が「獄中18年」の徳田球一志賀義雄である。
(徳田球一)
 日本共産党史を彩る多くの人々から、最重要の「トップ10」を選ぶとすれば誰になるだろう。まず間違いなくトップは宮本顕治で、2位が徳田球一だと思う。3位は野坂参三、4位が不破哲三かなと考える。その後は人により違ってくるだろうが、志位和夫志賀義雄袴田里見伊藤律らは、好悪、評価レベルは別にして、10人の中に入って来るように思う。存命の不破、志位を除き、この中で死亡時に党籍を保持していたのは、宮本と徳田だけである。徳田球一は「50年問題」で党が分裂したときに、地下に潜って秘かに中国に逃れ、1953年に北京で死んだ。その後、家父長制的指導を糾弾され党史では否定されているが、死後に除名などは出来ない。(妻の徳田たつは除名されているが。)
(宮本顕治)
 「50年問題」を書き出すと長くなるから止める。聞いたこともないという人は、この本を読まないだろう。「分裂」から、党を再建し、ソ連、中国との対立を「自主独立」路線で乗り切ったのは、宮本顕治の功績である。評価はともかく、作家宮本百合子の夫である元文芸評論家・宮本顕治が、現在に至る「国会に一定の議席を有する政党」を作り上げたのは間違いない。しかし、党の路線をめぐる争いの中で、多くの元同志が去って行った。「官僚的」などの批判が強い。また元々は路線を異にした不破哲三上田耕一郎兄弟を重用し、古参党員の不満が強かったとも言われる。だが、二人の理論家がいてこそ、今の共産党があるのも間違いない。

 その中で路線問題としては「日本の革命をどう進めるか」という最大の論点で、二段階路線、アメリカからの独立をずっと主張してきたことの是非がある。その問題は大きすぎるのでパスして、もう一つ「民主集中制」をどう考えるかを簡単に。これは「みんなで決めたことはみんなで守る」、どの党にも必要なことだなどと言うことが多い。しかし、武力による暴力革命を綱領で放棄した以上、国会議員選挙をどう勝ち抜くか、党内で自由闊達な議論が出来なければおかしいのではないか。「みんなで決める」ためには、党内外の自由な言論活動、結社の自由がなければならない。

 党内で「分派」が出来てはまずいというのは、「敵」との暴力的対決を控えている場合だろう。党内で公然と「分派」を作って指導部引き下ろし運動を行える自由民主党の方が、国民的なエネルギーを結集できているのである。現行憲法制定時に、ただ一党本格的に反対した共産党も、いまや「護憲」の党である。であるならば、国民すべてが保持する言論、結社の自由が党員だけに認められないという、そのような党のありかたには疑問を覚える。他にもたくさんの論点があるが、特に共産党に関心がないという人も、「歴史ファン」を自認するならば読んでおく必要がある。評価の問題以前に、多くの事実を知っておくことが大事だろう。
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ジャン=リュック・ゴダールを送るー「映画の革命」と「革命の映画」

2022年09月14日 22時46分40秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard、1930~2022)の訃報が届いた。91歳。パリで生まれたが、両親ともにスイスに縁があり、晩年はジュネーヴに住んでいた。スイスは「安楽死」(医師処方の薬物による自殺)が合法化されていて、生活に支障を来す複数の病気を抱えていたゴダールは、その制度を利用したという。これには非常に驚いた。
 (ゴダール監督、若い頃と壮年期)
 ゴダールは50年代末にフランスで起こった「映画の革命」、「ヌーヴェル・ヴァーグ」(新しい波)を代表する映画監督だから、日本でも大きく報道されている。その頃に同じく「新しい波」に乗っていた監督もどんどん亡くなっている。早く84年に亡くなったトリュフォーは別としても、2014年にアラン・レネ、16年にジャック・リヴェット、2019年にアニエス・ヴァルダが亡くなり、次はゴダールの順番だというのは判っていた。最後の映画は2018年の『イメージの本』で、晩年まで映画を作り続けていた。もはや映画祭やベストテンなどと関わらないシネマ・エッセイ的な境地の作品だと思った。

 70年代初期に映画に関心を持ち始めた僕にとっては、ゴダールという名前は神話的な重みを持っている。しかし、その時代を知らない若い世代には、ゴダールと言っても特に感慨はないようである。60年代の映画を今見直しても、なんでそんなに受けたのかよく判らない人が多いのではないか。ゴダールは結局、世界的な激動の時代、若者が革命を熱く語り合った時代の映画だった。日本で言えば大島渚がある程度近いかもしれない。「映画芸術」としてではなく、もちろん娯楽的関心でもないのである。 

 僕が映画を見始めた頃には、ゴダールの新作は見られなかった。「商業映画」は作っていなかったからである。そこで60年代の旧作を見ることになる。僕が最初に見たのは、1970年にATGで『アルファヴィル』(1965)がやっと公開された時で、その時に『気狂いピエロ』(1965)が同時上映された。僕はSF『アルファヴィル』より『気狂いピエロ』が圧倒的に面白かった。ほとんどノックアウトされたと言ってもいい。そのことは『ゴダールの「気狂いピエロ」について』(2019.12.22)で書いた。

 ゴダールは『勝手にしやがれ』(1960)で語られることが多い。「息せき切って」ぐらいの意味だという原題に、よくも素晴らしい邦題を付けたものだ。(それはトリュフォーの「400回の殴打」を『大人は判ってくれない』と付けたセンスにも言える。英語をそのままカタカナにした題名しかない今とは全く違うのである。)この映画は「映画の革命」と言われる。90分の映画だが、もともとはもっと長く、カットを求められた。その時ゴダールは、観客に判りやすいように編集するという常識に抗して、それぞれのシーンから少しずつカットしたのである。その結果、つながりはブツブツと途切れるけれど、見事なリズム感が生まれた。何度か見ているが、最初に見た時より何回か見た後の方がずっと面白い。不思議な映画である。

 60年代初期の映画としては、映像社会学的な『女と男のいる舗道』(1962)やモラヴィアの原作、ブリジット・バルドー主演の『軽蔑』(1963)も面白いと思うけど、日本での公開がなぜか遅れた『はなればなれに』(1964)が一番面白いのではないだろうか。ゴダール本人は「不思議の国のアリス・ミーツ・フランツ・カフカ」と言ってるらしい。日本公開が2001年だったのは驚きだ。アンナ・カリーナと2人の男がルーブル美術館を走り抜けるシーンは映画史上最高レベルの素晴らしさ。
(『はなればなれに』)(『軽蔑』)
 60年後半になると、政治的な方向性が強くなる。中では週末の大渋滞に巻き込まれた夫婦の地獄めぐりの一週間を描く『ウイークエンド』(1967)が衝撃的だったが、最近見てないので今見るとどうだろうか。この映画は日本では69年のベストテンで4位に入っている。これはゴダール史上の最高だった。ちょっと書いておくと、『勝手にしやがれ』(60年8位)、『女と男のいる舗道』(63年5位)、『軽蔑』(64年7位)、『気狂いピエロ』(67年5位)、『男性・女性』(68年7位)、そして『ウイークエンド』である。いかに60年代の映画作家だったかが判る。ゴダール映画に投票しない批評家もいっぱいいたから、ベストテン下位が多い。
(『ウイークエンド』)
 そして68年5月がやって来る。「五月革命」でフランス中が騒然とする中で、ゴダールやトリュフォーらはカンヌ映画祭で労働者・学生に連帯を表明して映画祭粉砕を宣言する。この年のカンヌ映画祭は中止された。その後、ゴダールは「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成して、ハリウッド的映画に訣別する。商業映画に回帰したトリュフォーとはこの時に絶縁した。従ってこの時期のゴダール映画は商業的な映画ではないけれど、日本ではほとんどが公開されている。『東風』(1970)、『イタリアにおける闘争』(1970)などである。「映画の革命」を越えて、ゴダールは「革命の映画」に踏み込んだのである。

 『東風』という題名も今では解説がいるだろう。当時文化大革命中の中国はソ連を修正主義と非難して、革命の風は東から吹くと世界に呼びかけていた。この題名から想像出来るように、当時ジャン=ポール・サルトルがそうだったように、ゴダールもマオイスト(毛沢東主義者)に近づいていた。これは農民による革命という意味ではなく、労働者の直接行動による革命という程度の意味だと思う。そこで革命に向けたマニフェストのような「映画」を作ったのである。ご丁寧にもゴダールにも革命にも無関心ではいられない僕はちゃんと見に行った。その結果、こんなつまらない映画はないと思った。映像あっての映画だが、これらのゴダール作品は「言語」による革命の呼びかけに覆われていた。それなら本を読む方がもっと判るというもんだ。

 そしてゴダールも商業映画に復帰した。でも今度は全部は見なかった。確かシネヴィヴァン六本木の開幕映画だった『パッション』(1982)なんか、ちゃんと見に行ったもんだけど、全く訳が判らないというか、つまらないのにビックリした。いや、通常の映画に囚われている自分の方が間違っているのか。でも、その後何本か見たゴダールの新作も同じような感じだった。結局、アンナ・カリーナを愛していた時代がもっとも輝いていたのである。2019年にアンナ・カリーナが亡くなった時には『女優アンナ・カリーナを思い出して』を書いた。ゴダールの女性との関係は四方田犬彦ゴダールと女たち』(講談社現代新書)が詳しい。この本のことは『ゴダールー映画と革命と愛と』で紹介している。
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キース・ヴァン・ドンゲン展を見るーフォーヴィズムからレザネフォル

2022年09月13日 22時27分15秒 | アート
 パナソニック汐留美術館に「キース・ヴァン・ドンゲン展」を見に行った。26日までだから(水曜休み)、早く行かない。日時予約制が面倒だが、近くで映画を見た後に寄ることにした。日時予約は15分刻み、日時のみ予約で、チケットは窓口で買うというのにちょっと驚いた。映画館だとクレジットカード決済で、チケットを買うのが一般的だけど。

 キース・ヴァン・ドンゲン(Kees Van Dongen、1877~1968)と言われても、何となくどこかで聞いたような気もするけどレベル。日本では44年ぶりの本格的展覧会だそうだけど、前回の記憶は全くない。オランダに生まれて、パリで活躍した20世紀前半の画家である。強烈な色彩でフォーヴィズムの一員となった画家だという。フォーヴィズムと言えば、マティスルオーヴラマンクなどを思い出すが、キース・ヴァン・ドンゲンは今見ると強烈と言うほどの印象はない。むしろ美しい色彩で描かれた女性や風景が懐かしい感じがする。「泰西名画」の香りである。チラシにある絵《楽しみ》(1914年)はフォーヴィズム時代の代表作。
(キース・ヴァン・ドンゲン)
 キース・ヴァン・ドンゲンはロッテルダム近くで醸造業を営む家に生まれ、ロッテルダムの美術学校に通った。その時に最初の妻ジュリアナと出会っている。1899年にパリに移住して、新聞や雑誌のイラストを仕事にした。1901年にジュリアナを呼び寄せて結婚、長男は早世したが、1905年に娘のドリー(本名はオーガスタ)が生まれた。その後、次第に画風がフォーヴィズムに近づき、評判を高めていく。1910年にはピカソに誘われて、モンマルトルの共同アトリエ兼アパートとして有名な「洗濯船」に引っ越している。ここは20世紀美術界の「トキワ荘」みたいなところで、多くの画家、詩人が住んでいた。1908年には(当時認められていなかった)アンリ・ルソーを讃える夜会をピカソが開いたことで知られる。
(《私の子供とその母》1905年)
 1914年の第一次大戦直前にロッテルダムに帰郷していたため、そのままパリに戻れなくなってしまった。1918年の終戦後にパリに戻るが、妻との関係は破綻して1921年に離婚している。そしてヴァン・ドンゲンは肖像画家として人気を得ていく。それは素晴らしい出来映えだと思うけど、同じような絵が多くて次第に飽きてくるのも事実。パリやドーヴィル(ノルマンディーの海浜リゾート)の首飾りや指輪をした裕福な女性が愁いを秘めた眼差しで佇んでいる。それはまさに「レザルフォル」Les Années folles、狂乱の時代)を象徴している。アメリカでは「狂乱の20年代」(Roaring Twenties)と言われた時代である。
《女曲馬師(または エドメ・デイヴィス嬢)1920~25》《ドゥルイイー指揮官夫人の肖像、1926》
 パナソニック汐留美術館はジョルジュ・ルオーを収蔵していて、ルオー展示室があった。それを見ると、やはりルオーの方がスゴいと思ってしまう。結局、狂乱の時代に飲まれてしまったか。この時代にパリで活躍した画家は沢山見てきたわけだが、この人は真の一流とまでは言えないかなと見ているうちに思ってきた。でもフランスの風景や人物を見ることが快感なのである。それが「魅惑の巴里」というもんなんだろう。前半は赤が多く、後半の絵は緑を多く使っている。キレイだという意味で、見応えはあった。

 見たい展覧会は多いけど、見逃すことが多い。人気の展覧会だと混んでるのが嫌だったのである。フェルメールが日本に来るたびに行ってた時期があるが、「真珠の耳飾りの少女」の展覧会は、「真珠の耳飾りの少女を見る多くの人々の後頭部」という絵柄として僕の中で記憶されている。しかし、最近はコロナ禍で案外空いてて、美術館は狙い目かなという気がする。調べるとシニア割引のあるところも多いし。次はゲルハルト・リヒター展に行かなくては。
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