尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「アベノミクス」をどう考えるか①-参院選③

2016年06月30日 23時09分14秒 |  〃  (安倍政権論)
 僕は参院選の争点は「憲法」だと書いた。その通りだと思うけど、だからと言って、改憲や安保法制の「危険性」だけ訴えていても、勝てないと思っている。「政権が隠す争点」を暴くのも大事だが、「政権が掲げる争点」の欺瞞も論じていかないといけない。今も安倍内閣の支持率は高い。「アベノミクス」への期待も残っている。「失敗」だという野党の主張もかなり支持があるようになってきたが、まだまだ期待があるのである。じゃあ、絶対に成功すると確信しているかというと、そうでもないだろう。

 でも、「野党に対案がない」と思われている。熊本の地震やイギリスのEU離脱など、いろいろあってなかなか成功が見えてこない。だけど、もうすぐ東京五輪もあるし、そのころにはだいぶ成功が見てきているのではないか。いや、そう信じたい。という風に、「俺はまだ本気を出してないだけ」と呪文のように唱えて、日本経済には本来すごいものがあるんだと信仰告白しているのが、現在の経済政策ではないか。本当に、日本経済の現状と今後はどう考えるべきなんだろうか

 僕には正直言って、よく判らない。判るわけない。世界の経済学者だって、消費税をどうするかで意見が分かれた。バブル経済崩壊以後、日本経済をどう理解すべきかで、多くの経済学者の見解が全然かみ合わなかった。今はデフレ脱却が叫ばれているが、そもそも日本経済がデフレなのかどうかも、長いこと決着がつかなかった。そんな問題を僕が完全に判るわけがない。多くの人もそうだろう。「競馬必勝法」なんていうのと同じで、もしそんなものがあったら公開せずに自分で儲けるはずなのだ。世界経済、日本経済のゆくえも、誰もはっきりと予測することはできない。

 ところで、以上のことは非常に大事なことだ。本来断言できないようなことを断定的に語る。そこにはトリックがある。トリックがあるということをわかっておくことが大事だ。まず、「データはどこを基準にするか」という問題。2009年に民主党政権ができた。2008年にリーマンショックが起き、世界経済が大きな混乱に見舞われた。そのような経済大混乱こそが、自民党ではなく民主党に期待を寄せた大きな要因だろう。そして、2011年に東日本大震災が起きた。工場なども被災し大きな損害を受けたし、原発事故で原発が停止し火力発電のための資源輸入が増えた。

 安倍首相は「民主党政権時代から、自分の政権になって経済が大きく回復したではないか」といった主張をよく使う。それが本当なのかも検証の必要があるが、本当だとしても「それが何を意味するか」はよく考えないといけない。本来資本主義経済は「景気の波」があるわけで、国家の政策やグローバル化で昔ほど「教科書通り」の動きはしないと思うが、リーマンショックや大震災は一時的なものだから、数年後に回復していくのは自然なことだろう。どのくらいが「安倍政権の政策」によるものであり、どのくらいが自然な景気回復によるものかは、判断が難しい。

 ではいくつかのデータを調べてみたい。いっぱい書くと長くなりすぎるから、一回目は「税収」と「株価」を取り上げる。税収に関しては、安倍首相は「アベノミクスによって、税収は21兆円増えた」と大宣伝している。だけど、自分が総理として消費税を3%アップしたんだから、税収が増えるのは当たり前だ。2013年の消費税収は10.8兆円、2015年の消費税収は17.1兆円とあるから、6兆円強は税率アップによるものである。今の数字は、財務省のHPにあるグラフから取ったもので、以下に示しておく。(なお、首相の言う21兆円は中央と地方を合わせた数字だが、以下のグラフは国の税収のみ。)

 このグラフを見ると、税収が一番多かったのは、1990年。バブル経済さなかに加え、消費税が新たに作られた(税率3%)直後で、税収は約60兆円あった。翌1991年も大体同じ。その後バブル崩壊で税収が減り始め、増減はあるものの98年の消費税率アップを機に失速が始まる。いったん回復するが、実は小泉内閣時代の2002年、03年頃が40兆円台と最低を記録した。少しづつ回復し2007年に51兆円と50兆円台を回復した。第一次安倍政権の時代である。

 翌2008年にリーマンショックが起き、税収が極端に落ちる。2008年が44.3兆円、09年はなんと38.7兆円である。その年が民主党政権誕生の年である。民主党政権の時に、財源がなくてマニフェストが実現できないと言われた。それはマニフェストがおかしいと言われ続けているが、とんでもない税収減の年に政権を引き継がなくてはならなかったという「特殊事情」があったのである。そして、以後はずっと毎年税収が増えている。つまり、民主党政権で増え、自民党政権に戻って増えた。年末まで大体は野田政権だった2012年は43.9兆円。以後、安倍政権になり、47、54、56.4と増えている。増えているけど、消費税アップ分を除けば、第一次安倍政権時代と同じである。

 これは「アベノミクスで企業の業績がアップし、税収が増えた」という通念に反した事実ではないか。リーマンショックによる税収減が回復してきた軌道にあるところに、消費税をアップしたから、税収が多くなったというだけではないかと思える。ここ10年では一番経済が厳しかった民主党政権時代と比べると、確かに増えた増えたと思うけれど、実はようやく10年前の自分の政権の時代に戻っただけなのである。どこと比べるかが大事ということだ。

 次は「株価」。まあやむを得ないから「日経平均」を使う。株価は上がり下がりがあり、これもどこを取るかで変わってくるけど、資料の都合で「年末の終値」で見る。まあ、大体の目安としては使えるのではないか。本日、2016年6月30日の終値は、15,575.92円。今はイギリス問題で下がった局面だから、この数字でいいかも問題だが、とりあえず今日書いてるので。

 これは民主党政権の2011年の「8,455.35」円よりずいぶん高い。それは事実だが、この年は震災があった。リーマンショックの2008年の「8,859.56」円から、2010年の菅政権時代の「10,228.92」円まで、民主党政権で1400円アップしている。それは何も民主党政権が成功したというのではなく、一時的な混乱が収束していったということだろう。2013年は「16,291.31」円、2014年は「17,450.77」円、2015年は「19,033.71」で、確かに高くなった。そして、それが今も続いているならば、少なくとも株価は上がっていると言えるわけだが、安倍首相も昨今の株価低迷でさすがに話題にしないようである。

 第一次安倍政権時代の2006年はどうだろうか。それは「17,225.83」円だった。前の政権時代より、選挙戦中の今の方が低いのだから、あまり触れたくないだろう。この間の株価上昇のかなりの部分は、外国人投資家に買いが多かったことよるものである。円の為替レートは、80円から120円ぐらいまで、大幅な円安を記録していた。つまり、外国人投資家にとっては、日本株は大幅に安くなっていた。そして、円安により企業業績がアップし、配当も増えたが、その分は国内投資家にももちろん入るが、外国人投資家にも入る。そして、そろそろアベノミクスに見切りをつけて、まだ高値のうちに売り払ってしまう。結局、この間の「株高」というのは、日本企業の利益を外国に流出させただけではないか。

 こうして、税収と株価を見ても、リーマンショック後の民主党政権時代と比べるのがおかしいと思う。安倍首相はアベノミクスの成果だと言い張るわけだが、実は第一次安倍政権時代と比べれば、せいぜい同じ程度である。それが事実である。では、他の指標はどうだろうか。
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「村上春樹とイラストレーター」展

2016年06月29日 22時53分53秒 | アート
 東京の「ちひろ美術館」で、「村上春樹とイラストレーター」という展覧会をやっている。8月7日まで。見たのは先週なんだけど、村上春樹のまだ読んでない最近の本を読んでから書くつもりでいた。ところが、小川洋子も少し残しているのに、突然「獅子文六」ブームになってしまった。書きそびれそうなので、展覧会だけ先に紹介。(7月2日の「日曜美術館」アートシーンでも紹介される由。)
 
 村上春樹の本の表紙、挿絵、絵本などを担当したイラストレーター、佐々木マキ大橋歩和田誠安西水丸の原画をいっぱい展示した展覧会である。「村上主義者」(村上春樹は「ハルキスト」ではなく、「村上主義者」と言って欲しいと書いてる)なら、見た瞬間にワーーと(心の中で)歓声を上げてしまうような好企画。現代を代表するようなイラストレーターばかりだから、村上春樹のファンでなくても興味深いとは思うけど、やはり読んでる人向きなのかな。

 2階の展示室から見るようになっている。2階に上がると、佐々木マキ大橋歩の展示。佐々木マキはデビュー作「風の歌を聴け」の表紙を描いた人である。チラシの絵がそれ。初期三部作をすべて手掛けたが、村上春樹が依頼したという。所蔵も著者本人になっている。今まで表紙だけをしげしげと眺めたことがなかったけど、よく見るといろいろ描かれているんだなあ。原画と印刷では、色具合が微妙に違っていて、そういう違いを味わうのも楽しい。佐々木マキ(1946~)は、60年代末には「ガロ」に前衛漫画を描いていた。村上春樹は当時からのファンだったという。その後、絵本「羊男のクリスマス」や童話「ふしぎな図書館」で共同作業を行うことになる。展覧会では初期三部作の原画とともに、「羊男のクリスマス」の原画がズラッと出ている。いやあ、圧巻。

 大橋歩は「アンアン」で3回にわたって連載された「村上ラヂオ」のイラストである。モノクロで小さいので、なるほどと思いながら、1階へ降りる。書いてなかったけど、館内にはこの4人だけでなく、もともとの「いわさきちひろ」の絵もいっぱい展示してある。それらも見ながら、今度は和田誠安西水丸。この二人は青山近辺で個人的にもよく合うとエッセイに出てくる。そういう仲の良さ、趣味の共通性が根底にある楽しい世界。安西水丸の本名「渡辺昇」(ワタナベ・ノボル)が、村上春樹の小説の登場人物になども出てくることで有名である。作家デビュー以前の、ジャズバー経営者時代からの友人だということだ。2014年に急逝したが、さまざまのイラストが思い出を呼び起こす。

 ところで今回の最大の収穫は和田誠だった。昔、「倫敦巴里」というパロディ画文集に抱腹絶倒した思い出がある。のちに映画監督にもなったし、最近ではフィルムセンターのミュージカル映画ポスター展で解説していた。ごく最近、上野樹里の義父になった。というのはどうでもいいけど、共通の趣味であるジャズに関する楽しい本の数々に、イラストを寄せている。それが中心と思っていたら、他にとんでもない仕事があったのである。それは「村上春樹全仕事」の表紙である。長年のファンは単行本で読んでいるし、若い人は文庫で読む。だから、よほどのファンでない限り、「全仕事」を買ったりしていないと思う。僕もあまり意識していなかったけど、今まで2期にわたって刊行されていて、その表紙を和田誠が描いている。ということは、一番村上ワールドを描いているのは、和田誠だったとも言えるのだ。その表紙原画が多数出ている。もちろんジャズミュージシャンの肖像も楽しい。 

 「ちひろ美術館」というのは、言うまでもなく「いわさきちひろ」の個人美術館である。いわさきちひろ(1918~1974)は、子どもを描いた童画タッチの水彩画で知られているが、あんまり関心はなくて、今まで行ったことはなかった。どっか「あっちの方」にあるなあとしか思ってなかった。東京の東側の方に住んでいると、個人美術館は大体東京の西の方にあるなあという感覚になる。同じ東京と言えど、家から1時間半ぐらいかかるから、時々フラッと行くというような場所ではない。

 調べてみると、西武新宿線上井草駅から歩くのが近い。西武池袋線石神井公園駅からバスで行くというのもあるけど、上井草からの方が近そうだ。家から3回乗り換えて西武新宿線に乗って、さらに準急から一駅前で乗り換え。都合4回も乗り換えたけど、畑もあるような郊外ムードも残る地域だった。案内は多いので間違えない。非常に素晴らしい美術館で、今まで地方で何回か訪れた地方の美術館、文学館を思い出す。小さいけれど、休める場所が多くていい。またカフェで、美味しそうなケーキなどが出ていて、つい寄り道した。「風の歌を聴け」にある「ホットケーキのコカコーラ掛け」も限定数量で出している。まあ、そっちはいいなという感じだけど。なお、7月10日まで、村上春樹の本を持参すると、100円引き。

 村上春樹を一番大切に読んでいた時期は、僕には終わったかもしれない。それでも翻訳を含めて、同時代で一番読んできた作家である。「誤解」して読まない人がかなりいるのは残念。しかし、小川洋子や辻原登などと同じく、「物語」を必要とする人には確実に届く世界である。そうじゃない人が無理に読む必要はないだろう。ただし、村上春樹の主人公は「闘わない」などと、つまらない読み間違いをしている人もいる。そういう人には、80年代以後の世界で「巻き込まれずに世界と向き合う」主人公をこれほど描いて、世界中に勇気を与えてきた作家は他に何人もいないではないかと言いたい。ノーベル賞を取るかどうかなどは僕にはどうでもいい。「物語」に関心がない人でも「アンダーグラウンド」は現代日本で最も重要な本だから、ぜひ読んでおくべきだろう。
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映画「64 ロクヨン」

2016年06月28日 21時57分05秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画「64 ロクヨン」の後編をやっと見たので、前後編まとめて取り上げる。原作は横山秀夫の大傑作で、2012年に刊行されてミステリーのベストテンなどを独占した。同じ年に宮部みゆき「ソロモンの偽証」も刊行されているが、そちらは2位。多くは「64」を上位にした。「ソロモンの偽証」は昨年映画化されたが、ロードショーで見逃した。「64」は見ておこうと思ったわけである。

 原作に関しては、2012年末に「大傑作、横山秀夫『64』」を書いたので、細かいストーリイなどはそちらを参照して欲しい。この原作は2015年にNHKでドラマ化された。それも面白かったと思うけど、映画も傑作というべき出来になっている。映画の方がやはり迫力はあるように思う。主人公三上広報官は、ドラマではピエール瀧だったが、映画では佐藤浩市。チラシでもど真ん中に顔が出ているが、年齢を重ねて、よく見れば父親とそっくりではないか。演技賞に恵まれていないが、「64」は有力な主演男優賞候補になるだろう。重厚な存在感は見事だ。

 「64」という題名は、7日間しかなかった「昭和64年」を指す。昭和天皇の最後の一週間に起こった、ある誘拐事件。今も解決できずに、県警にとって忘れがたい悪夢となっている。「64」と内部で呼ばれている事件は、時効を翌年に控えた年に動き始める。県警内部の隠ぺい、県警とマスコミ、被害者と加害者などを複合的に描き出す巨編である。民主党政権時代に、殺人事件の時効は撤廃されたが、それ以前は15年だった。そうすると、2003年のできごとということになる。場所は群馬県で、横山秀夫が実際に新聞記者をしていた場所である。名前が変えられている場合を含め、横山作品の舞台はいつも群馬県。ロケは群馬県や栃木県で行われているが、北関東の風土的なムードが生かされている。

 チラシには16人の顔が載っているが、三上の妻の夏川結衣、広報室の部下である榮倉奈々の二人を除き、全部男。警察上層部がいかに男性社会かということでもある。もちろん新聞記者などには女性もいるし、様々な設定で女優が出ている。だけど、圧倒的に男の印象が強い。しかし、彼らは子どもを失っていたり、職場でさまざまな屈託を重ねたりして、「心に傷を持つ男たち」が多い。地位と権力で身をよろって、傷を直視できない男たちもいるが、三上はやがて自らの傷に立ち向かっていく。
 
 そのためには、映画化におけるラストの改変が重要である。映画が原作と同じである必要はないが、というか映画化に際して変わることの方多いけど、この改変はどうだろうか。ミステリーファンには賛否があると思うし、僕も納得できないところもある。だが映像で語るしかない映画としては、主人公の心の中の思いがよく表されていたと思う。監督は瀬々敬久(ぜぜ・たかひさ 1960~)で、かつてピンク映画で「ピンク四天王」と呼ばれた。その時代の映画は見ていないが、2010年に「ヘヴンズ ストーリー」という4時間38分にも及ぶ巨編を発表した。ベルリン映画祭で国際批評家連盟賞を受賞し、その年のキネ旬3位になった。あの映画も、「殺人事件によって心に傷を持つ人々」の複雑な絡み合いを描いていた。だけど、僕にはよく捉えられないぐらい錯綜していた。

 「64」は、考えてみれば、「現実世界を描いたヘヴンズストーリー」である。全然ヘヴンじゃないけれど。もちろん「64」だって小説なわけだが、設定が現実世界の複雑な傷つけあいを描いている。被害者は単に被害者に留まらず、権力者の中にも葛藤がある。夫と妻、親と子、上司と部下、様々な「立場」の違いを描き分け、ある社会の諸相を描き出す。その脚本は、監督本人と、久松真一が担当し、脚本協力として井土紀州がクレジットされている。久松真一は知らなかったが、テレビで横山作品のシリーズを担当していた。井土紀州(いづち・きしゅう)は本名だというが、注目すべき監督、脚本を作り続けている人。時々レイトショーなんかでやってるけど、見たことはない。とても優れた脚本だと思う。前後編だから、合計すると「ヘヴンズ ストーリー」を超える大河映画だが、ぜひとも見るべき作品だろう。

 広報室の部下は、係長が綾野剛で、最近出すぎとも言うべき活躍。どうも2016年は間違いなく綾野剛の年である。もう一人の男は誰かと思うと、金井勇太。「学校Ⅳ」で悩んでた少年もこんなに大きくなったのか。女性の部下・美雲は榮倉奈々だが、大柄な体が役柄にあっている。とてもいいと思う。全体に俳優がいいと思うが、被害者の父役の永瀬正敏(1966~)ももうすぐ50である。映画ではもっと老けメイクしていると思うが、1983年の「ションベンライダー」では中学生だったわけだから、お互いに年とるわけですねと思ってしまった。
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大昔のアメリカ映画を見る-ジョージ・キューカーなど

2016年06月26日 23時08分10秒 |  〃  (旧作外国映画)
 参院選の話は断続的に書くことにして、本や映画の話を随時。新作映画も見てるけど、それよりまずは昔のアメリカ映画の話。まあ、「昔」と言っても「E.T.」とか「ガープの世界」なんかも「一世代」(30年)以上前の映画になっちゃうけど、もっともっと前、僕もリアルタイムでは知らない50年代以前のモノクロ映画である。戦前から占領期ごろの名作ヨーロッパ映画は、ほとんどが川喜多長政・かしこ夫妻の東和映画が配給して、フィルムセンターに映画が残っている。ずいぶん特集をやっているから大体見たと思う。一方、古いアメリカ映画はなかなか見られないから、深夜のテレビ放映が貴重だった。

 若いころに劇場で見られたのは、リバイバル上映された「ローマの休日」とか「カサブランカ」ぐらいで、他にはあまりなかった。その後、ミニシアター時代になると、ジョン・フォードヒッチコックの特集をしてくれるところも出てきたし、マルクス兄弟プレストン・スタージェスニコラス・レイなんかの特集上映まで行われた。ビデオやDVDを丹念に探せば大体見られる時代になったけれど、やはり映画はスクリーンで見たいと思えば、古いアメリカ映画が抜けていることが多い。

 そんな渇を癒す存在が渋谷に10年前にできたシネマヴェーラ渋谷である。自分のところで字幕を付けたデジタル素材で様々な昔の映画を上映してきた。もっとも僕のところからは結構遠いので、他に行きたいところがあると、つい億劫になる。それでもアメリカのフィルムノワール特集などずいぶん楽しんだ。しばらく行ってなかったんだけど、今やってる「ジョージ・キューカーとハリウッド女性映画の時代」特集は、見てないものが多くて通っている。一週目は全作品を見たんだけど、疲れてしまうから少しセーブして見ないといけない。

 ジョージ・キューカー(1899~1983)というのは、「マイ・フェア・レディ」(1964)でアカデミー監督賞を得た人だが、後はジュディ・ガーランド主演で有名な「スター誕生」(1953)ぐらいしか見てない。戦前から長い経歴があり、「フィラデルフィア物語」(1940)でジェームズ・スチュアートに、「ガス燈」(1944)でイングリッド・バーグマンにアカデミー主演賞をもたらした。そのことは知っていたけど、見たことはなかった。「ガス燈」はちょっと「レベッカ」みたいな心理サスペンスもので、バーグマンの心理描写が見どころ。もっとも夫役のシャルル・ボワイエも印象的だし、的確な役作りを指示するキューカーの職人芸も見どころ。もう上映は終わっているが、今後の「フィラデルフィア物語」が楽しみ。

 もっとも一週目で一番驚いたのは、「女たち」(1939)という映画で、何しろ画面上に女優しか出てこない。もちろん会話の中には男も出てくるが、スクリーンには女優のみ。犬もメス犬しか使ってないという徹底ぶり。もっともわが日本映画にも、一年早く1938年東宝作品、石田民三監督「花ちりぬ」という女優しか出てこない名作がある。でも、これは声では男も出てきたと思うので、「女たち」の方が徹底している。それに場所が「エステサロン」みたいなところで、噂好きのネイリストが「不倫」情報をばらまいて、上流階級の女性たちがすったもんだの大騒動という大傑作。いやあ、世界にはとんでもない映画がまだ隠されているんだなあと思った。キャサリン・ヘップバーンスペンサー・トレイシーという私生活でも「コンビ」(ただし、未婚の「不倫」関係だったが)だった二人の「アダム氏とマダム」(1949)も滅法面白かった。監督は違うが(ジョージ・スティーヴンス)同じコンビの「女性№1」(1942)もおかしい。もっともこれは前に見ていたが。野球場のシーンやラストのケーキ作りは抱腹絶倒。

 こういう「昔のアメリカ映画」を見ると、僕はつい思ってしまうことがある。同時代的には戦争を知らない世代だけど、まだまだ戦争の記憶が残る時代に育ったし、専攻が近現代史だということもあるんだろうけど、「こんな国と日本は戦争をしたのかよ」と思うのである。家はでかいし、特に大金持ちでもないのに、みんなが車や家電製品を持っているではないか。製作年代を見れば判るが、それらの映画は戦時中や戦後すぐに作られている。なんとまあ、豊かさのレベルが違っていたことだろう。自動車や家電製品に関しては、今は別に驚きもないけれど、それでも住環境だけはマネができない。まあ、それはやっぱり金持ちの家で、貧民はもっと小さな家に住んでいたんだとは思うが。

 今日見た「三人の妻への手紙」(1949)も素晴らしかった。これも初めてである。1950年のキネ旬ベストテン3位。1位が「自転車泥棒」の年で、「情婦マノン」に次ぐ3位。「無防備都市」や「赤い靴」より上で、これは過大評価なのではないかと今まで思っていたが、いやはや、もすごく面白くてこれも大傑作だった。監督はジョセフ・L・マンキウィッツ(1909~1993)で、アカデミー監督賞、脚本賞を同時に得た。翌年の「イヴの総て」も監督賞、脚色賞を得ている。2年続けて監督賞を受賞したのは、「怒りの葡萄」(1940)「わが谷は緑なりき」(1941)のジョン・フォード、そして昨年と今年のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ(「バードマン」と「レヴェナント」)の3人がいるだけである。

 そりゃあ、「イヴの総て」(All About Eve)の方が大傑作だとは思う。これは群を抜いた映画史的大傑作だし、演劇界バックステージもの、新人女優出世物語の最高傑作、基本中の基本である。だけど、「三人の妻への手紙」(A Letter to Three Wives)の語り口のうまさ、脚本のうまさはなんという技量だろう。同時にアメリカの小都市の雰囲気をつかんで社会映画的な面白さもある。ニューヨーク近郊の小都市。5月の第二土曜、3人の仲良しがボランティアで子供会のピクニックに付きそう。そこにアディ・ロスからの手紙が着くと、そこには「あなたたちの夫の誰かと駆け落ちします」と書いてある。アディというのは、町の伝説の美女で、3人の夫はみな若いころから何かの関わりがあった。初めてのキスの相手だったり、憧れの相手だったり。3人はいずれも、自分の夫がアディと駆け落ちしたのではないかと疑心暗鬼になりつつも…。

 このアディという女性がナレーションだけで写真も出てこない。物語の中心にいながら、姿を見せないという脚本がすごい。3人の妻たちはみな事情がある。一人はラジオ作家で成功しながら教師の夫と必ずしもうまく言ってない。一人は戦地でめぐりあって結婚したものに、夫の地元に溶け込めていないと感じている。もう一人は貧しい家庭でデパート店員になり社長と結婚したが、愛情で結ばれていないと思い込んでいる。みなが夫の真の愛情は、「あの伝説のアディ・ロス」に向けられているのではと思うわけである。時間をさかのぼりながら、うまく説明していく脚本作法は、古いけれども、物語的に面白い。アディという女性の過去はあまり語られないが、アメリカの青春映画によくあるような「ハイスクール・クイーン」だったんだろう。付き合いたくて男が群れを成しているような存在である。

 一体誰が駆け落ち相手かという「謎」と同時に、アメリカ社会のありようも描いていく。何しろ家が大きいし、パーティが多い。夫婦で行くパーティなんて、日本じゃ冠婚葬祭しかないと思う。そういうときも外部の店を使うし、自分の家には人を招けるほどのスペースがない。ボランティアもあるし、教師の給料は安い。この頃はまだラジオの時代で、だけどもう三人の夫の一人、カーク・ダグラスはラジオが人を愚かにするというような批判をしている。その後、テレビのことを大宅壮一が「一億総白痴化」と呼び、スマホやパソコンの時代になればもっと安直な知の時代が来ている。もう電車に乗っても本を読んでるのは、自分ひとりぐらいというような時代になってしまった。しかし、それはアメリカではラジオの時代から言われていたのか。

 今後この特集では、ベティ・デイヴィスがオスカーを得た「黒蘭の女」が珍しい。他にも「女相続人」「終着駅」などの他、先に触れた「フィラデルフィア物語」などを上映。またキネカ大森では7月2日から、ワーナー映画の特集として、「カサブランカ」「理由なき反抗」「ダイヤルMを廻せ」「俺たちに明日はない」「スケアクロウ」「ガープの世界」などの上映が予定されている。機会を丹念に探せば結構あるもので、やっぱり昔のハリウッド映画ほど面白くできているものはないので、見ておく価値がある。最近のSFやヒーロー映画よりずっと面白い。新作の話も書くつもりで始めたのだが、古い映画で長くなってしまった。それにしても、と改めて思う。こんなに豊かな国と戦争をするなんて、どうなっていたんだ。
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イギリスEU離脱の衝撃

2016年06月24日 23時19分23秒 |  〃  (国際問題)
 イギリス(UK=グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)で行われたEU(ヨーロッパ連合)からの離脱をめぐって6月23日に行われた国民投票で、「離脱」(leave)が「残留」(remain)を上回った。衝撃は大きい。そろそろ参院選の話と思っていたが、今日はこの問題を書いておきたい。

 前々から「離脱」派が優勢と伝えられ、世界的に株安、通貨不安が起きていた。そのさなかに、コックス下院議員殺害事件という悲劇が起き、残留派が巻き直したという報道もなされていた。当日の予測も僅差ながら残留有利というもので、それだけに世界に衝撃が走った。票差が思ったより大きい
 離脱=17,410,742 (約51.9%)
 残留=16,141,241 (約48.1%)

 地域別の結果を見ておくと、
  ロンドン=残留59.9% スコットランド=残留62%、北アイルランド=残留55.8% なのに対し
  ロンドン以外のイングランド=離脱57%、ウェールズ=離脱52.5%
 人口が多いイングランドの票で決定したことが判る。スコットランドは完全に残留優位で、再び独立論議が起きることは避けられない。ロンドン圏は残留が多かったが、マスコミ等もロンドン世論に影響されて、イングランドの「田舎の庶民」の民意を読み切れなかったのではないだろうか。

 すでに世界の株式市場は大変動が起こり、日本市場も「リーマンショック以上の下落」を記録した。「世界はリーマンショック級の経済危機前夜にある」とサミットで「喝破」した、わが安倍首相はさぞや「予言的中」を誇っているのだろうか。もちろん、そうではないだろう。「リーマン級」は一種のレトリックであって、ほんとにリーマン級危機が起きた時には自民党は政権から転落したわけである。「円安、株高」で「アベノミクス」を成功と称してきた首相にとって、まさに選挙戦中に「予言的中」になるのは好ましくないだろう。選挙が終わる前に何とか一段落してほしいと思っているはずだ。

 しかしながら、日本では内閣の対応も、ニュースの解説も、ほとんど経済問題に終始している。それでいいのだろうか。なぜならEU(欧州連合)とは、一種の「哲学的実験」であり、「世界の希望」でもあったからである。70年間に3回の戦争が起きた、ドイツとフランス。「冷戦下」という状況もありながら、そのような「過去」を断ち切るために、そして米ソのはざまで存在感を失わないために、フランス、イタリア、ベネルクス3国と当時の西ドイツが経済協力をスタートさせていった。以来、60年ほどが経ち、当初は「鉄のカーテン」(ソ連圏)の彼方にあった東欧の国々もEUに迎え入れてきた。イギリスを含めて28か国。確かに多いし、矛盾を抱えた存在である。難しい問題を抱えながらも、強い方から抜けていっていいのだろうか。

 EUは単なる経済協力団体ではない。「価値観を共有する共同体」である。価値観というのは、自由、民主主義、平等、人権といったものである。だから、離脱派の主張も「移民」受け入れの問題が中心になっていた。確かに拡大されたEUレベルで考えると、EUを離脱した方がいいという「庶民感情」もありうるだろう。だけど、今回の結果が世界で「反移民」「反人権」を掲げる人々の背中を押すのは間違いない。具体的な名前を挙げるとすると、ドナルド・トランプマリー・ルペンのような人々である。「なんという愚かな一票を投じてしまったのか」と歴史の中で裁かれるかもしれないではないか。

 またEU内の各国にある反EU感情も抑えられなくなる可能性がある。ただ、僕もEU拡大を急ぎすぎたのではないかという危惧は感じていた。2004年にポーランド、チェコ、ハンガリー、バルト3国など10か国が一挙に新加盟を認められた。これが急すぎたかもしれない。この中にはスロヴェニアも入っていて、初の旧ユーゴ構成国である。スロヴェニアは地理的、歴史的に「中央ヨーロッパ」に入るかもしれないが、それならと他の国も希望を持つのも当然だ。そして、2007年にルーマニアとブルガリア、2013年にクロアチアが加盟を認められた。経済的な発展段階から、早すぎた政治的決定だという批判はあるだろう。そうすると、セルビアやボスニアも続きたいと思うし、やがてはウクライナも加盟できるのではと希望(あるいはロシアには反感)を与えたのかと思う。

 それらの新規加盟国は、右派や権威主義荻政治家が政権を握っている国が多い。加盟までは社会民主党などが人権などの改革を行うが、加盟後すると今度は厳しい経済政策などに反感が強まり、右派政権に変わるといったことがよく起こる。ポーランドやハンガリーはそんな状況ではないかと思う。Euも今のままでは、なかなか先行きが怪しい。内部の民衆的基盤が崩れてしまいかねない危機にあると言ってよい。イギリスの国民投票はその最初の例であり、今後のスペインやフランスの選挙でも似たようなことが起こってくると覚悟しないといけない。

 日本でも「ヨーロッパでさえこうなんだから」と語る人もいっぱい出てくるだろう。ヨーロッパ連合でさえうまくいかない現実を見れば、「アジア共同体」など夢のまた夢。アジアの「価値観を共有しない国」との付き合いは、よくよく考えないといけないんだ…。とそんなことを語る人がますます増えるんだろう。イギリスは島国、日本も島国。イギリスがヨーロッパから離れるように、日本も中国文明とは一線を画し、「米英日」協力こそ生き残る道だと主張するわけである。日本人は、イギリスが島国でヨーロッパとは少し違う「海洋文明」だから発展したなどという発想が大好きである。でも、安易な比較は禁物だろう。近隣アジア諸国との関係を日本は断ち切れない。中国や東南アジアの経済市場としての発展は、これからもしばらくは続く。文化的な独自性も今後どんどん現れてくると思わないといけない。
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石原都政に「実績」はあったか-都政と都知事を考える③

2016年06月23日 23時17分54秒 | 政治
 4期目の途中で辞任した石原慎太郎(1932~)は、1999年から2012年まで東京都知事を務めた。石原は1975年にも立候補し、美濃部亮吉に敗れていた。1968年に参議院全国区に立候補し300万票を獲得し当選、1972年に衆議院議員に鞍替え当選した。都知事選後に再度衆議院に戻り、合計8期。その間、環境庁長官、運輸大臣を務め、1989年の参院選に自民党が大敗した後の総裁選に立候補したこともある。1995年に勤続25年表彰の場で突然議員辞職を表明して、議員を引退した。
(辞任表明する石原都知事)
 1999年は青島幸男知事が再選を目指すなら有利と言われていたが、突然2期目に立候補しないと表明した。自民党は元国連事務次長の明石康を立てたが4位で落選。次点は亡くなったばかりの鳩山邦夫、3位が舛添要一だった。最後の最後に立候補を表明したのが石原慎太郎だったが、先に述べたように「事実上の政界引退」をしていたから、誰も25%を取れずに再選挙ではないかと言われていた。やってみたら石原が30%を獲得して当選となったが、それでもたった3割の得票だったのである。もし決戦投票制度があり、鳩山邦夫が当選していたら、日本はどうなっていただろうか。

 都知事になるまでと知事選の経緯を簡単に書いておいた。案外こういうことは忘れてしまうものだから。作家として、あるいは国会議員や閣僚としての活動を書いていると、終わらなくなるので省略。このように石原知事は「知名度」と「経歴」はあるが、都議会に支持会派はなく、有権者の支持も万全ではなかったのである。その後、テレビ受けする「パフォーマンス」を繰り広げたり、トップダウンで新政策を打ち出していく。本人の資質もあるだろうが、「国」を仮想敵に見立てて都民世論に訴えるという戦略を取ったんだろうと思う。(2期目以降は、事実上自民が支持に回るようになる。しかし、最後まで正式な推薦はどの党からも受けなかった。)
(石原都知事当選のとき)
 石原知事には「暴言」や「差別発言」が山のようにあった。また石原知事によって選ばれた教育委員の顔ぶれは、どう見ても「偏向」していた。「保守派」さえほとんどいなくて、各界でタカ派と呼ばれていたり、改憲派として知られる「極右」的な人ばかりが選任されていた。それらのことも書きだせばいくらでも書けるが、長くなるからこれも省略したい。ここでは「銀行税」と「新銀行東京」の問題を中心に書いておきたい。テレビの舛添問題報道を見ていたら、「石原は実績があった」と言う人が多くてビックリした。ディーゼル車規制問題はともかく、銀行税や新銀行を「実績」と思い込んでいる人がいるのだ。知らないということは恐ろしいと改めて思った次第。

 「新銀行東京」から書くと、これは東京都が1千億円を出資して2005年に作った銀行である。でも、新設したと思っている人が多いと思うけど、「BNPパリパ信託銀行」を公有化して作られたものである。当時は中小企業への大銀行の「貸し渋り」が問題化していた。だから無担保で中小企業を支援できる銀行を作ろうと石原知事が言い出したのである。トップダウンの典型で、さすがに都庁官僚も頭を痛めたに違いない。これは発想がムチャである。「中小企業支援策の拡充」はいいけど、銀行は地方自治体がやることではないだろう。やったら不正融資や焦げ付きの温床となるだろうし、現にそうなった。

 そういう銀行があるらしいとは知っていても、都民のほとんどは具体的には見たこともないだろう。都市銀行のように駅前に支店があるわけでもないし、ATMで振り込んだりすることもできない。全国銀行協会からも銀行扱いされてなくて、接続されていない。(現時点では、セブン銀行やゆうちょ銀行など一部ではATMで取引可能。)そして、都が出資しているにもかかわらず、都税を納める先にもなっていない。なんでも石原宏高の選挙区の中小企業への融資が多いという情報もあって、存在自体が「怪しい」感じである。名前もおかしい。「新銀行東京」とか「首都大学東京」とか、普通は銀行だぞ、大学だぞと名乗るところ、順序が逆で「東京」が強調されている。「オレサマ」意識を感じる命名だ。

 新銀行東京は当初から赤字が続き、2008年には「400億円の追加出資」が必要になった。政府やマスコミの多くも(普段は石原支持の読売や産経も)銀行清算を求め、大もめにもめた挙句、自民、公明の賛成で都議会は通過した。2010年代に入って、単年度決算は黒字の年もあるようになったが、膨大な出資金はどうなっているのか。2015年になって、新銀行東京は「東京TYフィナンシャルグループ」との経営統合交渉を進めることになった。とみん銀行と八千代銀行が統合したグループである。2016年4月に、正式に新銀行東京は「株式交換」で東京TYフィナンシャルグループの100%子会社になった。東京都は経営から撤退し、都民の出資金も生きてくる可能性が出てきたのかもしれない。新銀行東京は石原の実績ではなく石原の失政であり、その行き先を決めたのは「舛添の実績」と言うべきだ。

 「銀行税」とは、一定規模以上の大手銀行に対し3%の外形標準課税を課すというものである。当時は長期の不況が続き、地方財政は危機に陥っていた。職員給与の臨時削減措置があったのはこの頃だろうか。一方、「銀行はもうけすぎ」との声が高く、新財源を探していた都は銀行を狙い撃ちにしたわけである。これは「その後の経過を知らない人」から、今でも「石原知事の快挙」などと言われる。だけど、当初から僕は「なんで銀行だけなのか」「無理があるのでは」と感じていた。案の定、銀行側は「公平の原則」に反するとして、東京地裁に提訴したのである。

 一審東京地裁は都側の敗訴だった。銀行税は地方税法に違反し、すでに徴収した725億円を返還せよという判決だった。都側は控訴したものの、東京高裁も都側の主張を退けた。もっとも「銀行に課税」という点は違法とはせず、税率が高すぎるのが不公平とした。都はさらに最高裁に上告したが、その後「和解」になったので、多くの都民の印象には残っていないのではないか。和解により、東京都は税率が高すぎるという点を認めて、3%から0.9%に引き下げた。その税率を当初から適用するということで、3173億円の税収のうち、2344億円を銀行側に返金した。そして、そのうち、123億円は加算金である。つまり、取りすぎた分に対する利息である。強引に進めたことによって、都民は支払う必要のない金を払わざるを得なくなったのである。どこが実績なのか

 ここで考えるべきことは、「弱い者への差別」だけではなく、「強いもの」に対しても「法の下の平等」は適用されるという当たり前のことである。「公平性」「中立性」の観点から、当初からおかしかったのである。「税金の取り方をどう決めるか」がもともと民主主義の始まりである。「取られる側」の納得なしに「人気取り」のようなことで始めてしまったのが間違いだった。これは「差別への目」を日ごろから磨いていれば、ちょっと無理かなと気づくことだと思う。その一番肝心な点が石原知事には欠けていた。その結果、都民は123億円を失った。失政による損失は、為政者がぜいたくしたなどという問題とはけた違いの損失をもたらす。もちろん公金によるぜいたくは抑制しないといけないけれど。

 2012年4月に石原知事は、「尖閣諸島を東京都で買う」とアメリカで表明した。これなど新銀行東京以上に、地方自治体がやることではない。当時の民主党政権の外交、防衛政策を揺さぶろうという目的だったのだろう。さすがに都税を直接投入するとは言えず、「寄付金を募る」ことになった。14億円以上の寄付金が集まったが、あれはどうなったんだろうか。猪瀬副知事の発想らしいが、迷惑なものを残したものだ。後半からの石原都政は、国威発揚手段としての東京五輪民主党政権揺さぶりの手段としての尖閣買い上げ計画など、もう都民ではなく「国」にしか関心がなかったのだろう。

 最終的には、憲法改正、「国防軍」創設を目指し、だから意図して日中関係悪化を目指していたのだと思う。都議会で「私は日本国憲法は認めません」と言い放ったのが石原知事だった。改憲を目指すという政策を持ってもいいけど、「憲法を認めない」のなら、そもそも憲法で認められた地方自治の直接選挙に立候補すること自体がおかしい。そんな知事のもと、もうすでに巨額の損失を都民は受けているが、多分オリンピックを通してさらなる巨額の負担を強いられるだろう。
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鈴木都政に行きつく問題-都政と都知事を考える②

2016年06月21日 23時20分10秒 | 政治
 都政と都知事を考える2回目。東京都の歴史はほとんど「戦後日本」の時期に重なる。その間のもっとも重要な都知事はというと、間違いなく鈴木俊一知事(1910~2010)である。美濃部知事石原知事の方が(在任時には)有名だったかもしれない。あるいは64年の東京五輪時の東知事も大事だという人もいるだろう。しかし、鈴木知事は東時代の副知事だった。実務に詳しい鈴木副知事が事実上の知事だったとも言われる。「実務に詳しい」のも道理。もともと内務官僚、戦後の内務省分割後は自治官僚で、「東京都」制度を作った人とも言われる。また「地方自治法」や「地方税法」なども、鈴木氏が中央官僚として作り上げた。地方自治の実務に日本一詳しいのも当然だ。
(鈴木俊一都知事)
 革新系の美濃部知事時代は都を離れ、大阪万博事務総長首都高公団理事長を務めていた。美濃部引退後の1979年、自民、公明、民社、新自由クラブ推薦で立候補、満を持して知事に就任し4期務めた。しかし、1910年生まれだから、就任時に68歳。3期終了時には80歳だった。1991年当時、自民党は参議院で過半数を切っていて、公明党の「80歳定年制」に配慮して、自民党は鈴木知事を公認しなかった。代わりにNHKのニュースキャスターだった磯村尚徳を立てたが、鈴木は引退せずに立候補。「老人いじめ」のような仕打ちだと世論も支持して鈴木知事は4選された。磯村擁立を主導した自民党の小沢一郎幹事長は、選挙後に辞任した。

 当時を知っている人でも、忘れているのではないかと思い、ちょっと詳しく書いてみた。では、鈴木知事はそんなに人気があったのかと言うと、そうでもないだろう。前任の美濃部知事は、政府に対抗し(あるいは先駆けて)福祉優先、住民自治を推進した。ところが任期の最後のころは、オイルショック以後の低成長時代に重なり、都政に財政赤字を残して去った。その赤字を鈴木知事の2期目で解消できたのである。だけどそれは福祉の切り下げや職員給与の引き下げなどで成し遂げたわけである。よく言えば「堅実」だが、要するに「官僚主義」の時代だった。

 3期目、4期目となると、新都庁舎の建設をはじめとして、たくさんの「ハコもの」や開発を進め、鈴木知事も結局は財政赤字を残した。湾岸地区の開発を「臨海副都心」と名付けて進めたのも鈴木都政である。そこで「世界都市博」を行うことにして退任しわけだが、都市博は青島知事によって中止された。その後も「臨海副都心」の開発は、ずっと東京都政の課題であり、だからこそ「ベイエリア」で五輪を開くという計画が出てきたのだろうと僕は思っている。
(東京都庁舎)
 今の都庁舎を作ったということもあるが、やはり現在の都政の原点は鈴木都政だと僕は思う。(なお、移転前の都庁は、東京国際フォーラムがある有楽町にあった。)それまでの経歴から想像できるように、その都政運営は「官僚主義」の権化のような、都庁が決めたからそれに従えと言う感じが強かった。前半は美濃部都政の赤字をなくすという「至上目標」があったんだろうが、後半には抑えられる人がなくなった。美濃部都政の「アンチ」だから、都民の方ではなく「都庁内の官僚機構の都合が優先」という感じで、日本中の多くの保守系知事と同じ。だけど、東京都は中央政府の動向を先駆けて実行しようと思っている。中央直結の官僚主義というのが、鈴木都政で完成形を見た。

 長くなったので今回は鈴木時代に絞って、石原時代は次回に回すことにする。最後に「青島時代」に簡単に触れておきたい。当初の自公民の枠組みに加えて、最後は社会党も鈴木与党に加わっていたので、鈴木後は与野党相乗りで候補を選ぶことになった。(というか、95年当時は「自社さ」の村山政権だから、自社はともに国政与党だった。)そこで竹下政権から村山政権まで官房副長官を務めた石原信雄が擁立された。それに反発して参議院議員だった青島幸男が立候補したのである。「選挙運動を全くしない」というユニークなやり方で支持が広がり、なんと支持基盤もないまま当選してしまった。そして公約の世界都市博を中止した。そこでエネルギーのほとんどすべてを使い果たした感じだった。

 結局、都議会に基盤も持たず、おそらく都政に対するヴィジョンも熱情もなく、本人も都民も「政治や政党の現状に対する不満」だけで知事を決めてしまったのである。そこで「悪い人ではないけれど」という状況が続き、「官僚任せ」の政策が進められていった。鈴木時代に完成されていた都庁の官僚主義は、「詳しすぎる上司」が去った後の青島時代にこそ、むしろ好き勝手、やりたい放題だったような感じがする。確かに、次の石原慎太郎都政のような「イデオロギー」的な政策はなかった。だけど、「教員の働き方」に関していえば、青島時代に「タネ」が仕込まれていたものがほとんどである。「石原になって、東京の教育はおかしくなった」と左派系の人はよく言うのだが、僕の実感からすれば、鈴木時代、青島時代から少しづつ、「競争的教育政策」への道が開かれつつあったと思う。

 今回の舛添問題はイデオロギー的な問題ではなく、本人の政治資金や海外出張の「贅沢ぶり」への批判である。それも「説明不足」や「上から目線」、「官僚的答弁」などに反感が広がり、問題が大きくなった。そのことを考えると、いかにも「都庁的なできごと」のように思う。石原、猪瀬時代に原因があるというより、「鈴木都政」以来の都の体質が舛添知事に体現されていたように思う。また、何度か書いているように、東京五輪の経費膨張の理由である「ベイエリア」の問題も、鈴木時代の「臨海副都心開発」の後始末問題である。鈴木都政のマイナス面が今も東京都政を呪縛している。
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東京都政と都知事の問題を考える①

2016年06月20日 23時42分37秒 | 政治
 「都政」と「都知事」の問題を3回にわたって考える。自分はごく一部の期間を除き、半世紀ほども東京都民である。また、30年近く東京都職員(教育職)だった。中学勤務の時も、教育職員の給与は(区立学校だけど)、東京都が支払う。給与明細にある「給与支払者」は、採用時は鈴木俊一、その後青島幸男、最後が石原慎太郎だった。

 今回の舛添問題に関して、「王様のような都知事」とからかい気味に言われる。そう言われるだけの事実はあるんだろう。そうなる理由としてよく「3つ」のことが言われる。しかし、僕の思うに、もっとも重大な問題が抜け落ちているような気がする。まず「3つ」の問題を先に書くと、最初に挙げられるのは、地方政治は「大統領制」であるということだ。つまり、最高責任者(首長)を住民が直接選ぶ。もちろん同様に「地方議会」も選ばれ、相互にチェックすることになっている。だけど、地方政治の行政権を一手に握る首長の権力をチェックするのは大変である。

 もう一つは、東京が巨大都市であり、首都であるという事実である。人口も多いし、大企業の本社が集中して税収も多い。日本の中で、中央政府からの「交付税」に頼らず予算を組めるただ一つの地域である。なんでも財政規模はスウェーデン並みだというから、驚く。首都だから、政府中枢機能も集中し、外国大使館もあるし、皇居もある。警視庁の警官は「東京都職員」であり、都知事は首都機能の警備に大きな責任がある。もっとも、これはタテマエで、警察は都知事の指示で動くわけではない。だけど、都知事は自分をすごい大物だと思いやすいんだろう。

 そして、もう一つは「石原知事の存在」である。支持者は熱狂するし、反対派は嫌悪する。「トランプ」的存在である。大スターだった弟の名声も利用し、スター軍団の応援を得て当選した。当選後は国ともケンカし、反対派を蹴散らし、様々な話題をまきながら当選を4回重ねた。「実績がある」と言う人もいるが、僕には何が実績なのかさっぱりわからない。登庁回数なども少なく、自由気ままな都政運営を行いながら、なぜか批判が沸き上がらなかった。イデオロギー的には「極右」で、「暴言」も多かったから、嫌いな人は全く評価しない。「石原が悪かった」と言う人が僕の周りにもたくさんいるのだが、それは本当だろうか。「皇帝政治」という面では、石原都政の悪弊が受け継がれてしまった部分があると思う。

 以上のような問題も大きいけれど、さらに重大な問題がある。それは「東京都制度」である。2012年ロンドン五輪では、閉会式で五輪旗がロンドン市長からIOC会長へ、そしてリオデジャネイロ市長へと手渡された。リオデジャネイロ州知事ではない。当たり前である。オリンピックは都市が開催するものだから。しかし、東京には「東京市長」がいない。いないというか、いたけど無くされた。1943年、戦争のさなかである。戦時中のどさくさ紛れで、「東京都構想」が強行されたわけである。

 大阪では「大阪市」をなくして大阪府に統合し、「大阪都」を作ろうという「大阪都構想」が橋下徹大阪府知事によって提唱された。しかし、大阪市長が反対して事態が進まなくなったのを見て、橋下知事は辞任して大阪市長選挙に立候補して当選した。この経過をどう評価するかは様々だろうが、大阪府知事と大阪市長は「ライバル関係」というか、相互にけん制する存在なのである。大阪「同日選」の後は、同じ勢力(当時の「大阪維新の会」)になったから、「ライバル」というより「協力」関係、「車の両輪」のようになっているが、両者の存在が大きな意義を持っていることは同じである。

 つまり、知事にとって、地方議会や世論、マスコミなどの他に、同じ県の市町村長、中でも道府県庁所在地の市長は大きな「けん制勢力」なのである。特に「政令指定都市」の市長が同じ自治体にあれば、実力も人気も知事に匹敵するような存在感がある。知事に何かあれば、それに代わりうる重要な地位にあると言ってもいい。ところが1898年から1943年まで存在した東京市長は、今はいない。(ちなみに東京市長には、尾崎行雄後藤新平中村是公=元満鉄総裁で漱石の友人として有名、伊澤多喜男=内務官僚の総帥的存在で、劇作家飯沢匡の父、など近代日本史上の有名人物がいる。)戦前は任命制、のちに市会による互選で、市民の直接選挙ではなかったが、東京市長には閣僚級の重要人物が就任していたのである。

 東京市長が存在しないというのが、東京都知事が「王様化」する最大の要因だ。今では東京都制が当たり前になりすぎて、誰も改めて意識しない。だから、リオに旗を引き継ぎに行くのは都知事の仕事だと言われても、誰も疑問にすら思わない。旧東京市は23の「特別区」になっているが、人口が非常に大きいのに、権限は一般の市に及ばない。特別区民は800万以上もいるが、自分は「区」に所属するのか、「都」に所属するのか、はっきりと意識していない人が多いだろう。「基礎自治体」は一応「特別区」の方で、福祉や義務教育は区の仕事ということになっている。だけど、都の権限が強すぎて、住民も区を超えて仕事や娯楽に出かけているから、区民意識はそれほど強くない。しかし、東京都となると多摩地方の山岳地帯から、はるか南方の小笠原諸島まで含む。都庁も新宿にあるお城のような広大な建物で、都民意識も持ちにくい。この「都民意識の薄い住民」がたくさんいるから人気投票的な知事選挙になるし、当選すれば住民意識からかけ離れた「王様」になる。

 昔の都知事も同じだったのだろうか。最初の民選知事で3期、かつ戦前の官選時代の2期と加えて、通算5期務めた安井誠一郎。あるいは64年の東京五輪の時の知事、東龍太郎はどうなのだろうか。自分の記憶にはない時代の話だが、この時代もやはり一種の「王様」だったのではないかと思う。だけど、日本全体も貧しい時代で、中央直結で都市基盤整備を進める知事であれば、それで良かった。当時は中央政府の力が圧倒的で、誰も地方が(東京都といえど)政府に対抗できるなどとは考えもしなかった時代なんだと思う。「人気投票」だったのは、参議院の全国区の方で、いつも有名人が立候補していた。石原慎太郎も最初は参議院全国区に出馬したのである。(美濃部亮吉は知事後に、青島、舛添は知事前に参院議員だった。参議院議員だった都知事は4人もいる。)

 日本が高度成長をとげ、東京五輪も終わると、その後は「高度成長の影」も一番最初に東京に現れた。通勤電車は満員だし、物価はどんどん高くなる。福祉や医療の水準は低く、大気汚染、水質汚染、地盤沈下など公害問題が深刻化した。今は改善されている隅田川が、当時は本当に悪臭で耐え難かった。そこに「待った」を掛けたのが、1967年の都知事選における「革新知事美濃部亮吉の当選だった。革新自治体は、それ以前に社会党議員の飛鳥田一雄が横浜市長に当選していた。だが、全国に「革新自治体」を印象付けたのは、やはり美濃部知事ではないかと思う。特に、1971年には長期政権だった佐藤栄作内閣への不満を「ストップ・ザ・サトー」というスローガンで訴え、対立候補を大差で破った。地方選挙の課題ではないとか、この「ザ」は何だとか言われたが、とにかく「地方自治体」が中央政府に異議申し立てできるという意識は、このころから定着したのではないか。
(美濃部亮吉知事)
 だから、後の石原都政もそうだし、自民党が鈴木知事4選を高齢を理由に公認しなかったとき、あるいは鈴木4選後に与野党相乗りで官僚候補が決まりそうだったとき(結果的に青島幸男が立候補して当選した)にも「中央対抗意識」が発動されることになったのである。思想的、党派的には違いがあっても、今は皆「美濃部後」の都知事なんだと思う。特に石原都政は「国」を仮想敵化して対抗するようなパフォーマンスが多かった。小泉首相が「自民党をぶっ壊す」と主張して反対派を「抵抗勢力」と呼んだのと同じである。また橋下市長が「東京」を意識した発言を繰り返すのも、同じ構図なのだろうと思う。じゃあ、一体「石原都政」とは何だったのか。あるいはその前に4期務めた鈴木都政は何だったのか。その間の青島都政はどうだったのか。
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オリンピックはどうあるべきか

2016年06月19日 23時06分23秒 | 社会(世の中の出来事)
 東京都政東京五輪のことをしばらく書いていたので、そもそも都政や五輪をどう考えるべきか、自分の考えをマジメに書いておきたい。まずは「オリンピックのあり方」の問題。オリンピックは、世界最高のスポーツ選手が競い合うわけで、そのレベルの高い争いは見ていて非常に面白い。もうテレビではスポーツ中継ぐらいしか楽しめないので、今度のリオ五輪も楽しみではある。(「は」と限定を付けたのは、昼夜がちょうど逆の時差だから、さすがに生で見られるのは少ないだろうと思うから。)

 だけど、今のオリンピックは巨大化しすぎてしまった。そのため開催可能な都市が減ってしまった。2022年冬季五輪は北京とアルマトイ(カザフスタンの首都)の二つしかなかった。(2024年夏季五輪は、ローマ、パリ、ブダペスト、ロサンゼルスの4都市が立候補している。2020年には最終選考に残ったイスタンブール、マドリードの他、ローマ、バクー、ドーハが立候補していた。) 

 そのような「巨大化」は、プロ選手の参加を可能にし、競技数を多くしたことによる。64年の東京五輪にはなかったテニスやゴルフも、今は五輪種目である。どっちもプロ選手が出られないというんだったら、ほとんど競技としての魅力がなくなるに違いない。プロとかアマとか言っても、選手のほとんどは毎日トレーニングを仕事にしている人ばかりである。昔の「ソ連圏」では「ステートアマ」と呼ばれる、「国家お抱えの選手育成」を行っていた。日本でも企業に支えられた、「仕事はスポーツ」という選手が多い。軍や警察、あるいは体育大学などで、仕事と競技が一体化している人も多い。

 そういう意味で、五輪選手のほとんどは、昔も今も「実質的にはプロ」である。競技の質という意味でも、人々の期待という意味でも、いまさらプロを排除ということはできない。そうして各競技にプロも参加するとなると、テレビ放送のコンテンツとしての価値が高まる。だから放映権が高く売れる。オリンピック種目ではない競技でも、世界で注目を浴びスポーツ界で生き残っていくためには、ぜひオリンピック種目に選ばれテレビで世界に放映されたいと願う。そうして種目がどんどん増えていく。昔は女性がやるとは考えられていなかったマラソンやサッカー、レスリング、柔道、重量挙げなども、今は男女ともにやっている。それが当たり前になったし、近年の日本のメダルはこれら種目の女子が獲得したものが多い。しかし、女子競技の実施は、競技数が増えたというのと同じことである。

 それだけ競技が増えても、要するにテレビ放映権が高く売れればいいわけである。だけど、世界的な経済不況やインターネットの普及などで、オリンピック放送権が一時より高く売れなくなっているのではないだろうか。そうなると、巨大化、種目数増加は負担増になるだけだ。ちょっと調べてみると、64年東京五輪では、「20競技」だった。面倒だと思うが一応全部挙げておく。陸上、水泳、水球、体操、柔道、レスリング、自転車、バレーボール、バスケットボール、サッカー、ボクシング、ボート、セーリング、カヌー、フェンシング、重量挙げ、ホッケー、近代五種、馬術、射撃。以上のうち、女子種目が実施されたのは、陸上、水泳、体操、バレーボール、フェンシングのたった5種目。意外なほど少ない。

 2020年東京五輪では「28競技」が予定されている。そのうえ、さらに5種目も増やそうとしている。増えているのは以下の競技。アーチェリー、バドミントン、ゴルフ、ハンドボール、7人制ラグビー、卓球、テコンドー、テニス、トライアスロン。(なお、水球は昔は水泳と別の競技に分類していたが、今は水泳の中に入れる。)だけど、細かく言うと実はもっと多い。ビーチバレーはバレーボールの種目に含まれる。体操の中に、トランポリン新体操があり、水泳の中に飛込みと競泳とシンクロナイズドスイミングと水球がある。もちろん全部女子もある。(新体操とシンクロナイズドスイミングは、女子のみで男子がないが、独立競技ではないからいいのだろうか。)

 ちょっとここまでで長くなってしまったが、要するにこれだけの競技数をこなすだけの会場が必要だということである。オリンピックは時期を決めて各競技を「同時多発」で行うから、たくさんの会場が必要になる。さきごろバレーボールの世界最終予選が行われたが、その場所は東京体育館だった。ところが、本番では卓球がそこを使う。バレーボールは前は駒沢体育館で行ったが、今回は「東京ベイエリア」に「有明アリーナ」というのを新設することになっている。それは当初の計画で、「半径8キロ以内」に全施設がある「コンパクト五輪」を打ち出していたためである。だから、他にも水泳、体操、ホッケー、アーチェリーなどの会場は、これからベイエリアに作っていくのである。

 ところが、その「コンパクト五輪」はもう崩れている。ゴルフやセーリング、自転車のマウンテンバイクなどは当然だが、それ以外でもバスケはさいたまスーパーアリーナで行うし、フェンシング、テコンドー、レスリングは幕張メッセで行う。(あるいはパラリンピックのゴールボール、テコンドー、シッティングバレーボール、車いすフェンシングも同様に幕張メッセ。)予選リーグと決勝、あるいは個人と団体などを行うから、バレー、バスケ、バド、卓球、ボクシング、体操、フェンシング、レスリングなど屋内競技を行える会場が全部別々にいるわけである。屋外競技も同様。しかし、今後世界大会や国内大会などがあっても、ここまで「同時多発」ではない。だから、仮設で対応する競技もある。これだけ多数の会場を持つ、あるいは整備できる経済力を持つ都市は数少ないだろう。

 僕は前回に「いっそ返上しては」と書いた。それはもともとの開催計画をもとにして会場整備を行うなら、今後2兆円とか3兆円かかるというからである。それは負担できないと思う。だけど、もう4年前になるし、他の都市も手を上げにくいだろう。「やることの意義」もないわけではないだろう。だから、返上はせずにもっと穏当なやり方はないかと思うと、要するに「ベイエリア計画」を放棄すればいいのだと思う。もっとも、そこで考えられるのは、「東京五輪の真の目的」は何なのだろうということである。埋め立てたまま開発が進まない「ベイエリア地区の開発」を、オリンピックを名目にして国費を投入して整備しようという「都庁官僚」と「建設業界」の思惑が、2020年東京五輪なのかもしれない。そうだとすると、ベイエリア地区にいろいろと作ることは目的そのものだから、今さら放棄はできない。

 だけど、もうそんなことを言っている余裕はないだろう。「東京五輪」「都知事が中心」などと頑張りすぎず、「首都圏五輪」と考えれば、何も施設を新設することもない。大体、バレーボールは駒沢体育館が使えるのではないか。他の競技も神奈川、埼玉、千葉などの各県に立派な施設があるはずである。最初に世界に約束したものとずいぶん違うかもしれないが、新設する余裕がないんだからやむを得ないと交渉するしかない。組織委に対しても、IOCに対しても、タフ・ネゴシエイターとして臨める新知事を選んで、それを認めないなら返上しかなくなると言うべきだと思う。(ついでに言えば、国立競技場の工事も止めてしまい、横浜国際総合競技場(日産スタジアム)で開会式も行えばいい。五輪終了後の景気対策として、2021年から国立競技場を作り始めた方がいいのかもしれない。)

 今はプロ選手が多いということもあり、開会式にも出ず閉会式にも出ない選手が多くいる。また、開会式も巨大イベントになりすぎて、出席選手の負担になる規模になってしまった。そもそも、15日間程度の日程で開会式から閉会式まで、全競技を行うというのに無理がある。(というか、サッカーなどは開会式前に予選が開始される。一体、開会式とは何なのか。)全選手が一堂に集って、世界平和と友好の祭典を繰り広げるなどという理想は、もう存在する余地がない。どうせ無理なら、もう無理はしないで、30日ぐらいの「オリンピック月間」、あるいはもっと長くてもいいけど、そうした方がいいのではないか。それなら、バスケが終わったらバレーをやり、その後卓球を同じ会場でやるとかが可能になる。柔道、テコンドー、レスリング、フェンシングなども同じ場所でできる。

 そして、「都市連合」や「国家連合」が開催できるように変更する。それならば、世界でもっと開催できる場所が出てくるだろう。日本でも、福岡を中心に北九州地区で開催するとか、広島と岡山で共催するとかも可能性が出てくる。すでにサッカーのワールドカップは日韓で共催したし、ヨーロッパ選手権では前回はポーランドとウクライナで共催した、その前にもオランダとベルギー、スイスとオーストリアで共催した年がある。オリンピックも小国連合で開けるように変えていくべきだろう。そうやって「柔軟化」しないと、巨大となりすぎたオリンピックを開ける都市がなくなり、滅んでしまうのではないか。僕としては、むしろ「世界選手権の集中開催年」、2020年には各種競技が日本のどこかで世界選手権を開くことにするといったやり方に代わっていくのが、より望ましいのではないかと思う。が、まあ僕が言ってもどうしようもないだろう。でも、少なくとも2020年に関しては、「湾岸に新設する予定施設を近県に探す」というのは、常識にかなうと思うのだが。
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真面目に考えてみよう、「五輪返上」!

2016年06月17日 23時25分32秒 | 社会(世の中の出来事)
 東京五輪をめぐるゴタゴタが絶えない。なんでだろうか?と言う人もいるけど、僕に言わせれば「当たり前」だと思う。なぜなら、石原知事時代に「上から」強権的に決められた「五輪招致」だからである。都民の中から盛り上がってきた五輪招致ではなかった。だから、長いこと「東京の弱点は、地元の支持の低さ」だった。もう忘れている人も多いだろうが。招致可能性が高くなって、あるいは実際に五輪を開くことになって、「やる以上は盛り上げよう」という意識も出てきた。でも、やっぱり中心になっている人を見れば、「東京五輪は誰のものか」が判ると思う。

 例えば、2016年3月31日に、以下の人々が集って、五輪会場整備の費用負担を見直すことで合意している。その3人とは、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長、遠藤利明五輪担当相、東京都の舛添要一知事である。森氏はもちろん元首相の自民党重鎮で、2012年12月まで衆議院議員だった。舛添氏も2010年まで自民党参議院議員だったから、要するに東京五輪は自民党のオジサン(オジイサン?)が取り仕切っている世界なのである。それではゴタゴタするのも当然だし、「普通の人」は近づかない方がいい世界なのである。

 だけど、「五輪は都市が開催するもの」である。東京五輪招致を言い出した石原都知事を都民は選挙で選出した。(2006年8月に、2016年夏季五輪の日本候補として、東京が福岡を破り決定した。だから、その前から東京五輪構想が打ち出されていたわけである。2007年と2011年の2回の都知事選で、五輪招致は争点にならず石原知事が3選、4選された。)石原辞任後も、猪瀬、舛添と自民党が推薦する知事が当選した。「都民の盛り上がり」が今ひとつだったとはいえ、東京都民が五輪成功に責任があるのは間違いない

 五輪というものがあり、現実に世界で大きな意味を持っている。そのことは誰にも否定できないから、東京開催が決まった以上、「応分の協力」はやむを得ない。例えば、開会期間中にテロ警戒のため市民生活の利便性が多少制限されても、まあガマンするしかないだろう。それに、もう4年前である。リオ五輪の閉会式で五輪旗が渡されるわけで、事実上東京開催を中止する余地はない。それが常識的な考えだろう。だけど、そう考えるなら、五輪直前に知事選をやる日程を決めるとか、リオ五輪に出席する知事を今変えるとかいう選択をしていいのか。それなのに都議会与党であり、国政与党でもある自民、公明も不信任案を提出した。もはや一番先に書いた「3者合意」は崩れたと思う。都民は五輪費用の負担に関して、改めて「新しい判断」をしてもいいだろう。

 もともとの五輪費用は、7300億円とされていた。このうち、3000億円は民間資金で賄い、残りの4000億円は都で負担する。だけど、1千億円の積み立て金は既にあり、残りも毎年積み立てられるから、新たな負担なしで五輪を開催できるという、夢のようなおいしい話で、世界一コンパクトな大会と主張していた。それが開催が決まって、現実に準備が進むに連れて、どんどん費用が膨らんでいった。国立競技場のデザインやエンブレムの撤回などもあったけど、実はそれは小さな問題である。そういう問題もあったけど、総費用が2兆円とか3兆円とか言われている。どうなっているのか。

 いくら地方交付税不交付団体の東京都といえども、これは負担できる数字ではない。では、国で出せるか。東京五輪の経済効果はもっと上だという考えもあるようだが、経済成長を目指す安倍政権はさらなる負担を承知するか。自分が投票したわけではないが、石原知事が言い出したという経緯がある以上、僕も都が今後の負担増をまったく拒否するというのは、難しいだろうと思う。だけど、どのくらいなら、新たな負担をのんでもいいと思うか。今度の知事選の最大の争点になるはずだ。僕の思うには、4千億円の半額、2千億ぐらいが上限だと思うのだが、どうだろうか

 舛添知事の「公金意識の低さ」をあれほど批判した都民のことだから、もっと厳しいのかもしれない。そうすると、残りを国が出すのか。舛添知事は、五輪成功のためには、それこそ「ヘリクツ」を駆使して拠出するつもりだったようである。例えば、競技会場を新たに作るときにバリアフリー化する必要が(今は当然)あるわけだが、それは「福祉」と考えて、福祉予算から拠出するとか。その後も「都立施設」として都民の利用に使われるものは東京都の負担、仮設の施設で五輪後には撤去されるものは「組織委員会」というのが、一応の「流れ」らしい。理解はできる考え方だが、種目数も増えて「今後の利用が見込まれない施設」ばかり都が作らざるを得なくなるのではないかという懸念も強い。

 こうしてみると、都知事選で「新たな都民負担は極力少なくする」という知事が誕生すると、東京五輪はできない可能性が出てくる。猛暑の7月末に予定された五輪のことである。ここらでいっそ「返上」の最終可能性、ちょっと前までは「やるしかない」と思われていた東京五輪もやらない方がいいという可能性が出てきたと思う。いや、それはできないでしょ、やりましょうと言う人は、費用負担をどうするのか明確に答える責任がある。多額の都債を発行するとしても、後々で都税を増税する必要が出てきかねない。とにかく、新たに一兆円は無理である。耐震化や福祉、教育を犠牲にするしかなくなってしまう。今度の知事選はきちんと五輪費用負担を議論してほしいものだ。僕はやっぱり「いっそ返上しよう」と思うのだが。
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映画「ドグラマグラ」再見

2016年06月15日 23時25分36秒 |  〃  (旧作日本映画)
 舛添知事はさっさと辞めてしまった。まあ、誰しも自分がかわいいので、やむを得ないだろう。その問題は明日以後に触れたい。女優の中川梨絵白川由美の訃報も伝えられている。それもいずれまとめて書きたいと思う。新作映画も結構見ているけど、「レヴェナント」や「海よりもまだ深く」も、それだけですぐに記事を書くほどお勧めでもないなと思う。「64」は前編がとても良かったので、後編も見て書きたいと思っているけど、まだ見ていない。

 ところで、キネカ大森で「夢野久作没後80年」と銘打って、夢野久作原作の映画を2週間にわたって上映している。一週目の17日までが、「ドグラマグラ」と「ユメノ銀河」。18日から24日までが「ドグラマグラ」と「夢野久作の少女地獄」。何とまあ、夢野久作没年の記念企画なんてあるのか。「ユメノ銀河」(石井聡互監督、1997)だけ見ていないので、今週行くことにした。

 最初に「ユメノ銀河」を見て、モノクロの美しい画面に魅せられてしまった。「少女地獄」の中の「殺人リレー」の映画化。もっとも原作は読んでから何十年もたっていて、すっかり忘れている。石井監督は2010年に岳龍と改名し、最近も「蜜のあわれ」などを発表している。1997年の発表当時、それほど評判にならなかったように思う。調べてみたら、キネマ旬報の48位だった。(1位は「うなぎ」、2位は「もののけ姫」の年。)多分、イマドキ映画としては珍しいほどの「前衛」的なムードになっているのが受けなかったのだろう。60年代末の個人映画、たとえば金井勝の映画のような趣がある。

 バス車掌のトミ子は、別の町で車掌をしている友人が婚約者の運転手にひかれて死亡したことを知る。友人の手紙が死後に届き、殺されるかもしれないと書いてあった。その運転手・新高がトミ子の会社に就職してきて、トミ子と組むことになる。あえて新高に接近したものの、彼を愛するようになるトミ子。まさに「命を懸けた恋」の行方はどうなるか。蒸気機関車や洞窟など、古びた設定が心に残る。映像も古い感じで作られている。バス運転手役の浅野忠信が若いのが印象に残る。

 ところで、夢野久作(1889~1936)は、昭和戦前期に活躍した「異端の小説家」として知られる。福岡出身で、実父は杉山茂丸。右翼結社として有名な玄洋社の大物である。頭山満と並んで「政界の黒幕」として有名な国家主義者だった。子どもはインド緑化の父といわれる杉山龍丸。孫の杉山満丸氏は祖父の研究をしている評論家で、今回もキネカ大森でトークしている。というようなことは、60年代、70年代にはずいぶん重要な情報だったのだが、今ではどうでもいいかもしれない。でも当時は、父が右翼の巨頭だったということが、夢野久作を読むときの危険な魅力を増していた。

 60年代末期に、三一書房から夢野久作全集が出て、初めて全貌が知られるようになった。しかし、僕が読んだのはそれではなく、角川文庫から70年代後半に続々と出たときである。それらは乱歩とはまた違った怪しい魅力に満ちていた。特に「氷の涯」や「犬神博士」が僕は大好きだった。現代教養文庫(というのもあった。後に倒産)からも、小栗虫太郎、久生十蘭、橘外男などと並んで選集が出ていた。これらの人々が、いわば戦前の「異端」作家の人々と言える。そして、「ドグラマグラ」(1935)は急死する前年に出版された畢生の大作である。だけど、読んでも全然判らない。
(夢野久作)
 「ドグラマグラ」と並んで「黒死館殺人事件」(小栗虫太郎)、そして「虚無への供物」(中井英夫)を、よく日本のミステリー史上の「三大奇書」という。それに加えて、四大とか五大とかいうのもあるが、僕は一番訳判らないのが「ドグラマグラ」だと思う。「黒死館」は確かに奇書中の奇書だし、読みにくいけど、「探偵小説」としては判る気がする。「虚無への供物」は筋もわかるし、感覚も通じる。時代性も感じられて面白い。「ドグラマグラ」は何十年も前に一度読んだだけだが、正直判ったとは思えなかった。1988年に松本俊夫監督が映画化して、なるほどこういう話かと初めて判った気がした。

 いやあ、松本俊夫(1932~2017)が映画化するんだと当時は驚いたものだ。松本俊夫の名前も今では知らない人が多いかもしれない。劇映画というより、実験映画作家や映画理論家として知られた人物である。劇映画としては、ATGで撮った「薔薇の葬列」(1969、16歳のピーター主演の本格的ゲイ映画)や「修羅」(1971、南北の「盟三五大切」の映画化)で知られる。豊川海軍工廠の大空襲を描いた、というか秋吉久美子の初主演で知られた「16歳の戦争」(1973)という異色の戦争映画もある。この映画は3年間お蔵入りしたあげく、自主上映された。

 ということで、1988年作の「ドグラマグラ」。映画をめぐる情報ばかりを書いているが、要するに判ったようで判らないのである。今見ると、精神病院の医師である正木博士を桂枝雀がやっているのが、貴重というか「怪演」に圧倒される。ある意味で痛ましい。枝雀(しじゃく)は上方の爆笑落語家として知られたが、1999年に自殺を図り回復することなく亡くなった。重いうつ病を何度か患っていたという。若林博士役の室田日出男も2002年に64歳で亡くなった。東映のピラニア軍団の中心だったが、次第に他社やテレビで大役をやる主役級の俳優になった。ずいぶん見ているから懐かしい。美術を担当した木村威夫も亡くなったし、脚本を松本俊夫と共同で書いた大和屋竺(やまとや・あつし)も、早く1993年に亡くなった。見ていると、これらの人々をしのびながら見るという気持ちが強かった。
(映画「ドグラマグラ」の桂枝雀)
 中身を書いてないけど、僕にはうまく要約することができない。面白いし、ムードはあるが、内容をどうこういうような映画、あるいは小説ではないのかもしれない。
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いつも動物が隣に-小川洋子を読む⑤

2016年06月12日 22時51分15秒 | 本 (日本文学)
 小川洋子の小説には(エッセイにも)動物がよく登場する。小鳥や、コビトカバ謎の動物などが。動物が好きな人、特に犬が出てくる話を書く人は、それだけで信用できる。僕も昔から動物が好きで、考古学者や歴史学者になりたいと思う前は動物学者になりたかったぐらい。動物が出てくる小説も大好きでずいぶん読んでいる。「動物文学」というジャンルもあるけど、「純文学」にこれだけ動物が出てくるのは小川洋子だけじゃないだろうか

 4回目に岡ノ谷一夫氏との対談「言葉の誕生を科学する」(河出文庫)を紹介したが、その岡ノ谷氏が「作品を書くにあたってお世話になった」という3人の中に挙げられているのが「ことり」(2012、朝日文庫、芸術選奨文部科学大臣賞」)という小説。これは小川洋子の「動物文学」の今のところの頂点だと思う。「小鳥の言葉」を聞ける兄を持った弟を通し、人との交わりがうまくできない兄弟の生涯を語りつくした名品。鳥の言葉=「ポーポー語」をまず身に付けてしまう兄の造形は見事だが、一般的なカテゴリーに当てはめれば、やはり「発達障害」なのかなと思う。障害というか、「凸凹」というべきで、人語には適応できないが鳥語はマスターできるという設定である。

 人間社会に不適応な人物が、社会の片隅で寂しくひっそりとした人生を送るというような話は、かなり多くの文学に出てくる。むしろ「定番」的な設定である。だけど、多くの小説の場合は、芸術家気質が強すぎて他人と合わせられないとか、極端に内気で愛を打ち明けることができない、病を抱えながら世の片隅で生を全うするなどのような話が多い。小鳥の言葉だけしか判らないなんていう設定は奇想天外というしかない。だけど、それが実によく判るし、悲しみが伝わってくる。そして、兄はやがて亡くなり、弟は「小鳥の小父さん」と近所から呼ばれるようになる。そんな小父さんも周りに受け入れられず、誤解や迫害を受ける。人間社会にうまく溶け込めない悲しみがそくそくと伝わってくる。

 動物が大きな役割を担う小説としては、「ブラフマンの埋葬」(2004、講談社文庫、泉鏡花文学賞)もある。さきほど「謎の動物」と書いたのは、この小説に出てくる「ブラフマン」のこと。ブラフマンというのはインドのバラモン教にいう「宇宙の根本原理」のことだが、べつにそんなたいそうな話ではなくて、小説に出てくる動物に主人公がつけた名前に過ぎない。だけど、種類は書いてない。多分カワウソみたいな感じがするが、日本ではカワウソは絶滅しているから、そういうこともあって名前がないのかも。大体地名も人名もどこにも出てこないから、日本じゃないかもしれない。

 芸術家たちの創作活動を支援して仕事場を提供する「創作者の家」。主人公はその家の管理をしている人間である。そこに「ブラフマン」がやってきて、いろいろと巻き起こす騒動のあれこれをつづるひと夏の物語。動物の魅力とともに、エサはどうするとか、中には動物嫌いもいるとか、そういった話も出てくる。主人公は若い男で、だから若い女性も出てくる。固有名詞不在の物語だけど、中の世界は割合と普通に近いし、それほど長くないので、小川洋子作品の入門編としてもいい。(21世紀初頭に続けて書かれた「博士が愛した数式」「ブラフマンの埋葬」「ミーナの行進」はいずれも傑作で、読みやすい。この3つをまず読んでみるのがいいのではと思う。)小川洋子は2003年に南仏の文学祭に招かれていて、その際に発想された物語と解説の奥泉光が書いている。確かに(行ったことはないけど)「南仏」という感じもしないではない。だけど、まあ「どこともわからぬ物語」なんだと思う。

 「いつも彼らはどこかに」(2013、新潮文庫)という短編集もある。これは8編の短編すべてに「彼ら」、つまり動物が出てくる物語。その出方は様々で、ちょっとしか出てこない話もあるし、そもそも生きた動物ではない場合もある。冒頭の「帯同馬」は、スーパーで試食係(デモンストレーション・ガール)をしている女性の話。移動中に「パニック障害」を起こし、今は東京モノレールで行けるところしか仕事ができない。ある日、新聞で「帯同馬」という存在を知る。フランスに行くディープ・インパクトのストレス軽減のため同道する馬のことである。こういう人間の方も馬の方も、そんな仕事があったのかというような存在を取り上げて、見事に現代を切り取った短編。全部は紹介しないが、「目隠しされた小鷺」「チーター準備中」などが好きな話。この短編集を読んで語りあえば、お互いを分かり合えるかも。

 他にも、「最果てアーケード」の犬べべ、「やさしい訴え」の犬ドナ、「ミーナの行進」のコビトカバのポチ子など忘れがたい動物がいくらも思いつくが、やはりそれらはペットであり、脇役である。「ことり」の鳥たちや「ブラフマン」ほど大きな役割を持ってはいない。でも、物語に動物が出てくるとき、小川作品は思いが深くて、やさしい世界になる。心地よいだけでは文学にはならないが、登場人物の深い悲しみをただ書くだけでは悲惨になりかねないとき、動物たちが横にいるだけで読む側も救われる時がある。実際のペットもそうだし、小川洋子さんが飼っていた犬「ラブ」もまたそうだったとエッセイに出てくる。(その話はまた別に。)ところで「ラブ」はラブラドール・レトリバーだから。文鳥を飼ったら「ブンちゃん」と簡明な名付け方なんである。
  
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ハダカデバネズミの衝撃-小川洋子を読む④

2016年06月11日 23時51分34秒 | 本 (日本文学)
 小川洋子さんの小説について3回書いてきて、これからも数回続く。だけど、4回目は小説ではなくて、非常に面白い対談本を紹介。小説(特に純文学)を紹介しても、読まない人は読まないということを僕は知っているけど、一方「文学」読者の中には逆に科学や社会に関する本を読まない人もいる。どっちももったいないと思うが、特に今回紹介する小川洋子、岡ノ谷一夫「言葉の誕生を科学する」(河出文庫)はぜひとも読んでほしい本。今まで知らなかったことを後悔した。

 「人間が〝言葉”を生み出した謎に、科学はどこまで迫れるのか? 鳥のさえずり、クジラの鳴き声…言葉の原型をもとめて人類以前に遡り、小説家と科学者が、言語誕生の瞬間を探る!」という風に、文庫の裏側に書いてある。これで判ります? 僕は今一つ判らんという感じで、これを見ただけなら買わないと思う。だけど、読んでみるとものすごく面白い本で、ビックリするようなことがいっぱい出てくる。小さな発見から、壮大な発想まで盛りだくさんで、多くの人に読んでほしい本。
 
 小川洋子という人は、数学が出てくる小説もあるし、「科学の扉をノックする」(集英社文庫)というエッセイ(様々な研究者を訪ね歩く)もある。なんだか理数系に強い人なのかなあと思うかもしれないけど、早稲田大学第一文学部卒業。でも卒業後に岡山の医科大学の秘書室に勤務した経験があり、その経験が作品世界に反映しているのかもしれない。

 一方、対談相手の岡ノ谷一夫(1959~)の方こそ、慶応大学文学部卒業。その後、米国メリーランド大学で博士号を取得し、千葉大、理研を経て、現在東大教授の動物行動学者。そもそも「言葉の誕生」という発想が素晴らしい。僕は「文字の発生」という問題意識はあったけれど、人間が言葉を持つのは当たり前と考え、動物に遡って「言葉の誕生」を探ろうという考え方そのものが新鮮だった。そして、小鳥の歌声を研究して、そこに「文法」を見出した。

 それが「言語の歌起源説」である。そもそも「新しい音を学ぶ」ということが、人間以外では鳥と鯨ぐらいしかできない。うちの犬や猫がしゃべるという人もいるだろうが、それは飼い主のイントネーションに反応するのを過大評価しているだけ。オウムや九官鳥のように「こんにちは」とちゃんと発音することはできない。なるほど。スズメだって、ちゃんと教え込めば発音できるそうで、鳥はすごいんだとか。そして、「求愛」のためにオスは「歌の練習」に励む。本能で全部歌えるのではなく、自分で他の鳥や自分の歌声を聞いて「練習」するんだそうだ。それができる。そして、人間が聞いても美しい歌声になっていく。「美意識」が共通しているらしい。もちろん美意識はメスも共有しているから、「求愛」になるわけである。ところが、なんとオスの中には、自分の歌声に聞きほれて求愛行動を全然起こさない鳥(ジュウシマツ)も出てくるんだという。「芸術の起源」ではないかというけど…。

 という話もすごく面白いんだけど、もっとすごい、一種衝撃なのが「ハダカデバネズミ」の話。エチオピアやケニアに住む「デバネズミ」科の「ハダカデバネズミ属」の齧歯(げっし)類。名前の由来は、まさに名のとおり、「ハダカ」(毛がない)で、「出っ歯」。地下に住んでいる動物で、10匹以上290匹以内の大規模な社会を構成して生きている。そして、一匹の「女王」がいて、その他大勢が女王を支えているという。この女王も歌う。なんでという感じだが、その歌声を対談で披露している。形をみれば、「キモカワイイ」「グロカワイイ」といった言葉は彼らのためにあったのかと思ってしまう。
 
 2枚目の写真は、ハダカデバネズミの子どもが生まれた時に、「働きネズミ」たちが「肉布団」になっている様子。この動物を通して、社会の起源を探り、それが宗教の話につながっていく壮大さ。それも面白いが、ハダカデバネズミを調べてみると、この変てこなやつら、ものすごく重要で不思議な動物である。ネズミ類では異常に長寿で、女王(繁殖ネズミ」では、なんと28年生きた例もあるという。「老化に対する耐性」があるらしい。ウィキペディアには、環境が厳しいときに代謝を低下させる能力があり、酸化を防いでいるとある。また「がんに対する耐性」もある。がんにならないのである。がん細胞を防ぐ遺伝子が働いているらしいというのだが、すごい可能性を秘めた動物である。

 ところで、原著は2011年4月に出版された。そこには(72頁)に、「フェルミのパラドックス」という話が出てきて、「言語を持ってしまうと滅びる」という説が紹介されている。「言語を持ってしまうと、やがては原子力を使えるようになって、いずれ滅びる」。そして、岡ノ谷氏は「すべてを知って滅びるか」「すべてを知ったうえでいったん文明を逆戻しする」と言っている。これは「3・11」を予言してしまったかのような言葉である。2月に対談がまとまり、4月に出た本だが、岡ノ谷氏はこの二つの選択肢しか作らなかったことを後悔したという。文庫本あとがきによれば、どちらもできない。「知ることを求め続けながら、消費エネルギーの少ない、こぢんまりした社会に戻っていく」ことが道であると書かれている。

 小鳥の話から人類史全体を展望する哲学的な深みを持つ。しかも、対談だから読みやすい。小説家と学者という組み合わせが相乗効果を挙げている。ものすごく面白くて役に立つ本。理科や社会だけでなく、国語、英語、体育などの教師も読んでみてほしい。音楽やダンスに関わる人にも。人間は誰でも、(多少のうまい下手はあるとしても)音に対してリズムを取って「踊る」ようなことができる。そのことの意味も考えさせられる。実に深い本だ。
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消滅する「私」の物語-小川洋子を読む③

2016年06月09日 22時36分24秒 | 本 (日本文学)
 小川洋子の作品には、家族も友人もいない「孤独」な人物がよく出てくる。しかし、社会的な評価や成功を求めて挫折したのではなく、初めから社会的な関係が薄く、さらに数少ない知り合いとも縁を切って暮らしているような人が多い。そうやって「私」をめぐる社会関係が消滅していき、ついには「私」そのものも消滅してしまう。そんな話がたくさんあるのである。

 そんなもの、つまらないんじゃないかと思うかもしれないが、それが面白い。日本の人間関係はただでさえ鬱陶しいのに、さらにグローバル化だの、ソーシャル・ネットワークだの面倒な事態が進行している。FacebookやTwitterやLineとか…、人間はいかにたくさんの友人知人とつながっているかを確認し誇示しているかのような世の中である。情報機器の発達により、「世間」が解体されるのではなく、「デジタル世間」のようなものができているのかもしれない。

 だから、ホントなら自分の社会的関係をすべて断ち切って生きたいと思う人もいる。それができないとしても、パソコンもスマホもない南洋の島国のリゾートにでも行きたいと願う人はたくさんいるだろう。そんな「孤独」を求める現代人の心の渇きが、小川洋子作品の魅力を支えている。初期の傑作「薬指の標本」はフランスで映画化されたが(日本公開されたが未見)、小川洋子作品は世界で翻訳されて評判になっている。一部では村上春樹に次ぐノーベル文学賞候補と言う人までいる。小川作品が現代世界で必要とされているということだろう。

 さて、初期作品では今あげた「薬指の標本」(1994、新潮文庫)。人々の思い出の品を標本として保存する「標本室」で働く「わたし」。そこには様々な人々が「思い出」を持ってくる。「わたし」と標本技術師との奇妙で切ない愛、そしてついには…という「奇妙な愛の物語」であり、一種のホラー小説でもある「薬指の標本」だけど、愛の究極は「私の消滅」だという冷たい触感に身震いするような傑作である。好き嫌いは分かれるかもしれないが。

 「沈黙博物館」(2000、ちくま文庫)も似たような感触が残る作品。「標本室」と「博物館」というのも似ている。そういう「ハコもの」の「冷たい感じ」が小川作品に向いている。学校で言えば、放課後の理科室や音楽室といった場所がかもしだすイメージと似ているかもしれない。世間的には「孤独」であるかもしれないが、そこには「永遠」があるという意味では孤独ではない。この「沈黙博物館」では、博物館技師が老婆に雇われ、ある村にやってくるところから始まる。老婆が開きたい博物館というのは、村で死んでいったものの「形見」を展示するが、それは死者を最も象徴するようなものでなくてはならない。だから、死者の家族から譲り受けるようなものではない。自分で「盗み取る」ことで、永遠に死者たちが存在した証となるのである。

 その村では野球も行われているから、地名はどこにも出てこないけど、日本という感じ。鉄道で技師はやってくるし、迎えに来た少女(老婆の養子)は車に乗ってくる。少女とともに野球観戦や村祭りに行くし、村には警察もいる。だから現代社会の仕組みの中にあるはずなんだけど、もうすぐ子供が生まれる兄に送る手紙には、なぜか返事がまったく来ない。ここは一種の「異界」なのか。ここでは「私」が消滅はしないけれど、死者の記憶の中に留められてしまう。村の描写も美しいし、話も面白いけど、これも一種のホラーというか、怖い作品。これはぜひ日本で映像化してほしいな。舞台は北海道の旭川や帯広あたり。老婆は樹木希林、少女は二階堂ふみ、そして博物館技師は西島秀俊でどうか。
 
 そういう不思議世界の「消滅」物語では、僕が最高傑作と思う「猫を抱いて象と泳ぐ」(2009、文春文庫)も同様である。不思議な題名だが、「猫を抱いて」はその通りの意味、「象と泳ぐ」は「西洋将棋」=チェスの盤面を意味する。世界に同調できず、11歳で体の成長を止めた少年。まるで「ブリキの太鼓」のような設定だが、この小説ではもっと奇抜なシチュエーションになっていく。この少年がチェスを覚え素晴らしいチェス棋士になっていくのだが、その小さな身体、人と顔を合わせてチェスを打てない性格から、盤面の下で猫を抱きながら指すという特別なチェス選手となっていく。20世紀前半のロシア(のちフランスに帰化)の有名なチェスプレイヤー、アリョーヒン(アレヒン)が「盤上の詩人」と呼ばれたのに対し、この少年は「リトル・アリョーヒン」と呼ばれ「盤下の詩人」と呼ばれるようになっていく。

 しかも、もっとすごいことに、この「リトル・アリョーヒン」はついにはそのままでは人前に出ず、昔のヨーロッパで作られたチェスを打つ「からくり人形」の中に入ってチェスを打つようになるのである。その独特なプレイ方法から、公式戦に出ることは一度もなく、幻のチェスプレイヤーとして生きる「リトル・アリョーヒン」。学校にも行かず、どうやって生きていくのかと思うと、彼を必要とする人々が出てくるのである。そしてかつてのチェス選手たちが老いた後で暮らすために作られた施設、それが彼の居場所となる。山の中にあり、昔はホテルだったためロープウェイで下界とつながる場所。そこは映画の「グランド・ブダペスト・ホテル」や「グランド・フィナーレ」のようなホテルなのかもしれない。

 チェスという設定から、日本ではない場所のような感じがする物語である。実際、囲碁や将棋ならともかく、チェスをする人が日本でこれほど多いとは思えない。だけど、地名はどことも示されていない。そんなことを考える必要もないだろう。小川洋子はよほどチェスが好きなのかと思うと、ルールも知らなかったという。そして、しばらく後に書いたエッセイでは、ルールを忘れてしまったと言っている。つまり、チェスというのは、からくり人形や「リトル・アリョーヒン」といった物語を作る「装置」として必要なのであって、チェスを知らなくても読める。というか、競技としてのチェスはほとんど描写されない。「リトル・アリョーヒン」の孤独がひたひたと伝わってきて全身に染み渡るような気がする作品で、そのロマネスクな世界の感動は言葉に尽くせない。圧倒される物語。チェスという特技を極めながら、ついに名を残すことのなかった「リトル・アリョーヒン」の中に、「自己消滅」の究極的な姿が読み取れる。

 小説を読む楽しさ、充実感を与えてくれる物語は、まだまだあるのだが、とりあえず「自己消滅」という視角から三つの小説を取り上げた。文学を愛する人ならば、決して裏切られない傑作である。
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幸福な傑作「ミーナの行進」-小川洋子を読む②

2016年06月09日 00時12分33秒 | 本 (日本文学)
 小川洋子の最高傑作は、いろいろ考えもあろうかと思うが、今のところ僕は「猫を抱いて象と泳ぐ」(文春文庫)かなと思う。だけど、それより前に、なんとも素晴らしくステキな傑作があるので、それを最初に書いておきたい。2006年に刊行された「ミーナの行進」(中公文庫)である。第42回谷崎潤一郎賞を受けているが、歴代の谷崎賞の中でも賞の名前に一番ふさわしいかもしれない。

 人はなぜ作家になるのか。作家ごとに違うだろうが、それでも「幸せに浸りきっている」ような人は物語を必要としないだろうと思う。時代小説作家の藤沢周平は、病気や貧困を抱え仕事でも鬱屈していた時に小説を書き始めた。初期作品は登場人物が好き好んで自ら破滅への道をひた走るようなものが多く、作品世界が「暗い」と言われ続けた。作家として評価され、人気も出てきてからは、作品世界に広がりが出てきて、ユーモラスな描写も出てきたことで知られる。小川洋子も、生活自体は「不幸」とは言えないけれど、夫と子どもとペットがいても、それでも物語を求める心があったのだろう。

 だから、初期の作品は家族も友人もない主人公が多く、そういう人がさらに孤独を深めていき、ついには「自分」すら消滅させてしまうような作品が多い。それらの小説群も魅力的なのだが、21世紀になるとだんだんユーモラスで広がりを持った世界、読んだ人に幸せを残して終わるような作品も書かれるようになる。そんな中でも一番のお薦め、群を抜いて素晴らしくステキな小説が「ミーナの行進」である。とにかく面白い少女小説で、ワクワクさせられる。子供なりの「冒険小説」でもあるし、舞台となる兵庫県芦屋の描写も素晴らしい。そして、一種の「動物文学」という側面もあるのが素晴らしい。

 小川洋子は岡山出身だが、作中の少女「朋子」も岡山に住む。しかし、父が急死し、母が働くことになる。朋子が小6の年、母は洋裁の勉強を深めたく、一年間東京の学校へ行くことになった。その間、朋子は芦屋の大金持ちの家に嫁いだ叔母(母の妹)のところに住むことになった。親の反対を押して結婚したので、疎遠だった金持ちの家。初めて行ってなじめるか。そこには一つ年下で病弱な娘ミーナ(美奈子)が住んでいた。本が大好きなミーナとの一年間、それは案ずるまでもなく、素晴らしい日々になる。まず、住んでいる洋館が素晴らしい。その庭もすごい。昔は動物園もあり、今もコビトカバを飼っている。このコビトカバが大活躍するので、驚き。その場面を読んだ時には、思わず大笑いして拍手喝采してしまった。コビトカバが重要な役割を果たす小説なんて、世界に他にないと思う。

 二人の友情も面白く読めるのだが、同時に少しずつ「大人の世界」に踏み入れていく描写もうまい。歓迎してくれた叔父(叔母の夫で、家業の飲料メーカーの社長)は、なぜかすぐにいなくなり、誰もそのことを不思議に思わない。要するに「別宅がある」(愛人がいる)ということなんだろうとだんだんわかってきて、小さな心を痛めて「大冒険」をしてしまう。あるいは会社の飲料を届けてくれるお兄さんへの、少女のほのかな慕情。そして、病気で入院した時に燃え上がった男子バレーボールへの熱狂

 時は1972年だった。その年東海道新幹線が初めて岡山まで延伸した(山陽新幹線)。それに乗って朋子はやってくるわけである。そして、1972年と言えば、連合赤軍事件とあさま山荘事件である、ということはミーナと同年代と思われる小川洋子の作品にはさすがに出てこない。1972年と言えば、ミュンヘン五輪であり、金メダルを取った男子バレーである。猫田とか大古とか、松平監督とか。日本中が知っていた名前だが、ミーナも全然ボールを扱えないぐらい病弱なのに、バレー少女になってしまったのだ。ここが面白くて笑えて共感できる。あんなに弱っちいミーナがまさかスポーツ観戦にいかれちゃうとはねえ。だけど、多分日本中でそういう少女がいっぱいいたのである。そして、そのミュンヘン五輪はパレスチナゲリラのイスラエル選手団襲撃事件で暗転して終わることになった。

 そんな毎日が楽しくてたまらない日々にも終わりが来る。あれほど仲良くなったミーナとも、そうそう会えなくなる。小川洋子作品のことだから、どういう終わりになるのかドキドキして読むが、最後の最後に判ることもあるので、ここには書かないことにする。最初の方で、谷崎賞にふさわしい作品と書いたけれど、以上に書いたように、この作品は幸福であたたかな少女時代を扱っている。その意味では、「重い」作品が選ばれたことが多い谷崎賞の中では軽い感じもある。だが、谷崎「細雪」の舞台でもある芦屋、(ついでに言えば村上春樹の生地でもある)という重要な文学的トポス、芦屋をこれほど取り上げた小説は珍しい。その意味で、なるほどこれは谷崎賞だと思った。ちなみに小川洋子は岡山で結婚したのち、夫の転勤で2002年に芦屋に転居。愛犬「ラブ」と散歩した思い出のある町でもある。そして、僕の思うに、谷崎や村上春樹と同じぐらい、須賀敦子が生まれた町という意味が込められているかもしれない。地名が明記され、しかも上流階級が出てくるのは小川作品では珍しいが、「芦屋」という場所の力なんだと思う。幸せな気分になれるから、ぜひ読んでみて下さい。
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